道中日記 3-156 伊勢別街道 ( 津江戸橋追分 - 関宿東追分 ) 18.6km |
本日は津江戸橋追分から東海道関宿東追分までの伊勢別街道ウォークです、これでお伊勢参りの伊勢参宮旅は完結です。
江戸方面からの参宮者は東海道の日永の追分から伊勢参宮道に入り、京方面からの参宮者は東海道関宿の東追分から伊勢別街道に入りました。
この両追分に挟まれてしまった、東海道の石薬師宿、庄野宿、亀山宿は人通りが少なくはなはだ振るわない宿だったそうです。
本日の伊勢別街道ウォークの距離は18.6kmです、おそらく関宿まで食事は望めないでしょう、ホテルの朝食サービスをシッカリ頂きました。
ロールパン×3、バター、サラダ×2、コーンスープ、牛乳、野菜ジュース、Coffee、おまけにお握り×2、味噌汁です、これで戦ができます、戦闘モードOnです。
ホテルエコノ津駅前から江戸橋追分はスグです。
平成20年01月05日 AM7:53 津江戸橋追分出立 窪田宿まで4.2km |
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津江戸橋追分の黄色矢印は江戸方面からの伊勢参宮道です、 白色矢印は京方面からの伊勢別街道です。
この追分には安永六年(1777)建立の江戸橋常夜燈と並びに明治二十二年(1889)建立の道標「左高田本山道東京占とをりぬけ」があります。
往時、両方面からの参宮者はここで合流し、お参りを済ませた人達は江戸方面と京方面とに袂を分けました。
目を閉じるとこの追分を行き交う人々の姿が見える様な気がします、もしかすると自分のルーツがその中に居るかもしれません。
サア、それでは出立しましょう! |
津江戸橋追分 |
江戸橋踏切 |
Y字路分岐 |
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近鉄名古屋線江戸橋駅を左に見て、次いで右手のおぼろタオルを過ぎると、近鉄名古屋線を江戸橋第2号踏切にて横断し、スグのY字路を左(白色矢印)に進みます。
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踏切を渡ると大部田(おおへた)村で、そば切を商う茶屋がありました。
しばらく進み変則T字路を右折(白色矢印)します、関方面からは左折になります、この分岐点には電柱カーブミラーがあります。
先に進み左手の倉庫脇に入ると大乃己所(おおのこそ)神社が鎮座しています、見初大明神の御神体という獅子頭を祀っています。
伊勢國に悪疫が流行った時、一本の大ツバキから三十三体の獅子頭を作り、各所の神社に分け与え、舞ったところ悪疫は平癒しました。今に続くこの奉納獅子舞は津市指定無形文化財です。
並びの慈眼寺は大乃己所神社の別当寺です、本尊の十一面観音像は伝教大師の作といいます。 |
変則逆T字路 |
大乃己所神社 |
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先に進み志登茂川水系の五六川を五六橋にて渡ります。
先に進むと変則五差路になります、正面三叉路の中央を進みます、関方面からは正面のY字路を右に進みます。
次いで伊勢鉄道線の平野高架橋をくぐります。
道なりに進むと右手に臼井織布(うすいしょくふ)があります、幕板の商家と蔵を残しています。 |
五六橋 |
変則五差路 |
平野高架橋 |
臼井織布 |
江戸時代中期に創業し、一身田を中心に百軒ほどあった木綿屋のうちの最後の一軒です。
津は絹(伊勢紬)、麻(津もじ)、木綿(伊勢木綿)の産地です、とりわけ伊勢木綿は評判で撚りの弱い糸で織り、洗うに従って柔らかくなるのが特徴でした。
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左手の成願寺の参道口には電灯を乗せた永代常夜燈があります。
一身田小学校に沿って進むと変則五差路になります、右手三叉路の内左(黄色矢印)が旧道です、但しJR紀勢本線の敷設により通行不可です。
右手三叉路の中央(白色矢印)を迂回路とします、関方面からは正面のY字路を左に進みます。
迂回路を進み毛無川を桜橋にて渡ります、旧道側には例禊洲(れいけいず)橋が架橋されています、斎王が参宮する際に、毛無川の洲にて禊(みそぎ)を行ったところに由来しています。 |
成願寺 |
変則五差路 |
毛無川 |
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一本目の変則十字路を左折(白色矢印)します、右折(黄色矢印)すると真宗高田派本山専修寺(せんじゅじ)があります。
寛正六年(1465)の創建で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、伊勢を領した二代目津藩主藤堂高次から寺領三万坪の寄進を受け、今日の伽藍を造営しました。
専修寺は宗祖親鸞聖人により開山された古刹で、釘貫門(くぎぬきもん)と石橋は聖俗の境をなしています。
御影堂(みえいどう)には宗祖親鸞聖人像を安置し、祖師堂とも呼ばれます。
如来堂の礎石に人柱勘六の墓碑があります。 |
変則十字路分岐 |
専修寺 |
如来堂の造営に際しては地盤が軟弱な為、難工事でした、見かねた勘六老人が地固めの石突棒の下に飛び込み自ら人柱になりました。
如来堂の東妻に左甚五郎作の飛翔姿の鶴があります、夜になると飛び出し、境内の蓮池に餌を求めに行くといいます
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変則十字路に戻り、左折して進むと左手にJR紀勢本線一身田駅があります。
先に進みJR紀勢本線を一身田踏切にて横断します。
スグ先に逆Y字路があります、関方面からは左(白色矢印)が迂回路です、右(黄色矢印))が旧道です。
JR紀勢本線の敷設により分断された旧道はここに繋がっています、旧道はJR紀勢本線敷きまで通行できます、毛無川に架かる例禊洲橋があります。 |
一身田駅 |
一身田踏切 |
一身田旧道口 |
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旧道口先の右手に窪田常夜燈があります、文化十四年(1817)の建立で、高さは8.6mあり津市最大の常夜燈です。
近江商人が伊勢神宮に寄進するため、ここまで運んで来ましたがついに力尽き、窪田宿旅籠近江屋の協力を得てここに建立した常夜燈です。
ここは窪田宿の南口にあたり旅籠の近江屋、大和屋がありました、窪田宿に到着です!
窪田宿は旅籠が軒を連ね伊勢参宮者のみならず、名刹真宗高田派本山専修寺詣での人々で賑わいました。
先に進むと県道410号線に突き当たります、左折(白色矢印)します、関方面からは右折になります、この分岐点にはイナバ物置看板があります。 |
窪田常夜燈 |
T字路分岐 |
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右手に仲福寺があります、弘仁三年(812)弘法大師が伊勢神宮参詣の折に、金色に輝く大木に彫った十一面観音菩薩像が本尊です。
並びに真楽寺があります、境内に伊勢別街道との分岐点にあった延享二年(1745)建立の道標「向空也商人道」があります、小川の洗濯場の踏台にされていた道標を住職が寺に移設したものです。
大里窪田町出口交差点先の右手に六大院があります、永正十七年(1520)後柏原天皇より山号寺号を賜った勅願寺でしたが焼失、織田信長の弟信包(のぶかね)が再興し、文禄三年(1594)豊臣秀吉より寺領百石を拝領しました。 |
仲福寺 |
真楽寺 |
六大院 |
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先に進むと左手に史跡明治天皇窪田御小休所碑があります、窪田宿本陣跡です、国府家が勤め問屋、庄屋を兼ねました。
歴代の天皇で伊勢神宮を参拝した例はなく、明治天皇が初めてでした。歴代天皇は八咫鏡(やたのかがみ)に宿る天照大御神の霊を心底、恐れていたといいます。
向いには天台真盛宗自性山正福寺があります。
大里小学校入口交差点先の信号交差点を左に入ると石積神社が鎮座しています、織田信長の兵火によって灰燼に帰しました。 |
窪田宿本陣跡 |
正福寺 |
石積神社 |
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するとこの地には暴風雨が頻発し里人を苦しめました、これは石積の神の祟りといわれ、再び神霊を呼び戻し鎮座させると沈静化したといいます。
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右手の津大里簡易郵便局向かいの横道が汐見坂です、親鸞聖人がこの坂から一身田の地を望んだといいます。
先に進むと左手の大木の根方に青木地蔵尊が安置されています、豊里公民館に移設されていましたが再びここに安置されました、この辺りが窪田宿の東口です。
中の川を向冲橋で渡った先の右手に野崎地蔵堂があります、傍らの小堂は里人から行者様と呼ばれています。
ここからは街道をモクモクと歩きます。 |
汐見坂 |
青木地蔵尊 |
向冲橋 |
野崎地蔵堂 |
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右手の太陽光発電所のスグ先で県道10号線に合流(白線矢印)します、関方面からは信号交差点のY字路を左に進みます。
食肉センター先の信号交差点のY字路を右(白色矢印)に入ります、関方面からは県道10号線に合流します。
旧道に入ると左手に銭懸松があります、文政二年(1819)建立のぜに可け松碑があり、堂内には紐で吊るした銭を懸けた松が祀られています
昔、抜け参りがここまで来たが、地元の男に神宮迄はまだ二十日はかかると嘘をつかれ、諦めて傍らの松に賽銭を掛けて引き返しました。 |
大里睦合分岐 |
高野尾分岐 |
銭懸松堂 |
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男がこの銭を盗ろうとすると、銭が蛇に化けて襲いかかってきたといいます。
抜け参りは後に嘘をつかれたと知ると、翌年再び、ここまで来て銭を取り戻し、無事参宮を済ませ賽銭を捧げたところ、一貫の銭が千貫になるほどの富を得たといいます。
以来この松は銭懸松、銭掛松、千貫松と呼ばれ、参宮者はこのマツに銭を掛けて道中安全を祈願しました。
境内には文政五年(1822)建立の常夜燈、香興句碑「可布多(かけた)かと松に一声郭公(ほととぎす)」、何代目かの銭懸松があります。 |
銭懸松 |
常夜燈 |
香興句碑 |
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スグ先の右手小路奥に南無妙法蓮華経題目碑があります。
落ち着いた佇まいの旧道を進むと中町倶楽部の前に枡形があります。
中町橋を渡ると右手に豊久寺があります、境内に川端茅舎(ぼうしゃ)句碑「ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな」と香興句碑「かけたかと松に一聲ほととぎす」があります。
高野尾村は津藩領で立場があり茶屋、団子屋等が軒を連ねていました。 |
題目碑 |
豊久寺 |
川端茅舎句碑 |
香興句碑 |
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次いで右手に安楽寺があります、境内に延命地蔵尊が安置されています。
右手の地蔵祠を越すと花木屋があります、この地は三重サツキやヒラドツツジの栽培が盛んで、公園や庭園の植え込み樹として用いられ、県道沿いには温室や花木の畑が連なっています。
先で県道10号津関線に合流します、左手には田園が広がり鈴鹿山系が一望です。
豊久野はかつては原野で、都にもその名が知られていました。 |
安楽寺 |
地蔵尊 |
逆Y字路 |
豊久野 |
丹波國より豊受大御神を迎え外宮に遷座させる際、この野に行宮(あんぐう)を造り、休ませたところが地名の由来となっています、戦前までは豊久野の松並木がありました。
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伊勢自動車道高架をくぐります。
先に進み佐藤ライト工業先のY字路を左に進みます。
コメリ先の右手に仁王経があります、文化二年(1805)椋本宿東口に仁王経塔を据えた経塚が築かれました。
仁王経上下二巻の経文を一字一石に書き写し、塔の下に埋蔵し、宿内に侵入する悪疫、悪霊を封じました。
椋本宿北口の上の塔に対し下の塔と呼ばれました。
椋本宿に到着です! |
伊勢自動車道 |
Y字路分岐 |
仁王経塚 |
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椋本宿は「妓院客舎も数多く、多き旅人が此の駅に足を止むる」といわれ賑わいました。
宿内家数は二百七十三軒、宿内人口は千百六十人で宿並は西町、中町、新町で構成され、宿長は十一町十間(約1.2km)でした。
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宿並を進むと右手に地蔵堂があります、正徳五年(1715)造立の延命地蔵尊が安置されています、この地の人々の寿命が短いため延命地蔵尊を祀り、堂裏に講の田を設け、収穫した米で維持管理しました。
堂前には文政四年(1821)建立の手水鉢があります。
突当りの枡形の右手に旧旅籠角屋があります、「十六代の昔より連綿相続きて今日に至れる古き旅舎にして、客接待親切にして調理美味なれば、客人年々にいや増すといふ」といわれ評判が非常に良い旅籠でした(国登録有形文化財)。 |
延命地蔵尊 |
旅籠角屋 |
伊勢講札 |
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軒下には多数の伊勢講札が掲げられています。
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角屋の前を左折し、突当りを右折(白色矢印)します、椋本宿東の枡形です。
この右折の左手に自然石道標「左さんぐう道 右楠原」と明治四十三年(1910)建立の復元里程標「津市元標へ三里三拾三丁八間」「関町元標へ弐里五丁五拾壱間」があります。
枡形を右折(白色矢印)すると右手に椋本宿本陣跡の石組があります、駒越家が代々勤め、明治天皇参宮の際には行在所となりました。
スグ先左手の小路口に昭和八年(1933)建立の道標「霊樹大椋従是南二丁」があります。 |
東枡形 |
道標・里程標 |
椋本宿本陣跡 |
霊樹大椋道標 |
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この小路に踏み込むと先に椋本の地名由来になった樹齢千五百年以上の大ムク(国指定天然記念物)があります。
傍らに昭和四十八年(1973)建立の山口草堂(そうどう)句碑「己が空洞に落葉ささめく椋大樹」があります。
先に進むと右手に東日寺(とうにちじ)があります、本尊の薬師如来像は弘法大師作といいます、、朱塗りの鐘楼門は寛文八年(1668)の建立です、当寺は東海四十九薬師霊場、三重四国八十八箇所霊場第六十番札所です。
距離の短い椋本宿西の枡形があります。 |
椋本の大ムク |
東日寺 |
西枡形 |
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この枡形内に問屋場、高札場がありました。
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枡形を抜け、一本目を左に入ると椋本神社が鎮座しています、建永元年(1206)牛頭天王を勧請して鎮守とし、弘安元年(1278)社殿が造営されました。
三年に一度奉納される獅子舞の獅子頭は明治三年(1870)の台風で折れた霊樹大ムクの枝から作ったものです。
宿並を進むと右手に真宗高田派清涼山西性寺があります。
スグ先の突当りを右折すると右手に沃野豊穣礎碑があります。 |
椋本神社 |
西性寺 |
沃野豊穣礎碑 |
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左手には 仁王経があります、文化二年(1805)椋本宿北口に仁王経塔を据えた経塚が築かれました。
仁王経上下二巻の経文を一字一石に書き写し、塔の下に埋蔵し、宿内に侵入する悪疫、悪霊を封じ、椋本宿東口の下の塔に対し上の塔と呼ばれました。
並びに昭和九年(1934)建立の駒越翁顕彰碑があります。
背後の土手を上ると横山池が広がっています。
文久二年(1862)椋本宿本陣を勤める駒越五良八が私財を投じて着工し、慶応二年(1866)に竣工した人工池です。
安濃川上流より導水し、この辺り二百町歩の灌漑が可能になりました。 |
仁王経塚 |
横山池 |
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右手の田の中に石仏石塔群があります。
横山池を左に枡形状に回り込んだ先の左手に真宗高田派新立寺があります。
津藩領であった中縄村を進み、県道10号線を横断すると右手に木製標柱「安濃鉄道終点林駅跡地→」があります、安濃鉄道は大正四年(1915)に開通し、津市の新町駅と河芸郡明村の林駅間を結んでいましたが昭和十九年(1944)廃線となりました。
左手には安永五年(1776)建立の道標「御神燈 右さんぐう道 左り京道」があります。 |
石仏石塔群 |
新立寺 |
駅跡標柱 |
石燈籠道標 |
この石燈籠道標はこの先の蛭谷街道追分にあったものです。
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立場であった林村を進むと右手に地蔵祠があります、村名は明応年間(1492〜501)林越中守祐行(すけゆき)の居城があったところに由来します。
前川酒店先の十字路が蛭谷街道追分です、左折(白色矢印)します、右(黄色矢印)は楠平尾(くすびらお)、安知本を経由して白子に至ります。
追分には大正五年(1916)築で国登録有形文化財の旧明村役場庁舎があります、現在改装整備され公開されています。
明村(あきらむら)は明治二十二年(1889)町村制の施行により近隣六ケ村が合併して発足しました。 |
地蔵祠 |
蛭谷街道追分 |
旧明村役場庁舎 |
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旧道を進むとY字路先の右手斜面上に庚申堂があります、三猿が陽刻された青面金剛像が安置されています。
堂前には自然石碑「弘化四年(1847)十二月氏子中」があります。
先に進むと人家が無くなり、案外急な切通しの畑坂の下りになります。
畑坂を下り、突当りの県道10号線を右折します。
先に進み二級河川の中ノ川を新玉橋で渡ります、関方面から新玉橋を渡り、一本目を左折して畑坂の上り坂に入ります。 |
庚申堂 |
畑坂 |
県道10号線分岐 |
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津方面からは新玉橋渡詰めの信号交差点を左折(白色矢印)します、関方面からは右折になります。
わずかに進むと右手に伊勢別街道楠原宿大看板があります、楠原宿に到着です!
楠原宿は津藩領で「客舎、茶屋有」といわれ、寛延年間(1748〜51)の宿内家数は百五十四軒で宿内人口は五百六十三人と小宿でした。
関宿と椋本宿の間の宿的な色彩の濃い宿場で、両宿を補完する役割を担っていました。
宿並には連子格子の旧家を多数残しています。 |
新玉橋 |
県道10号線分岐 |
楠原宿南口 |
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枡形を抜けると右手の小路口に明(あきら)神社社標があります、踏み込むと文化十年(1813)建立の常夜燈があり、先に明神社が鎮座し、さよが池があります。
大雨の度に池の堤が決壊するので、人柱を立てることになり、参宮途中で親とはぐれた少女おさよが人身御供となりました。
すると雨が降らないのに大水が出たり、病人が出たりと災いが続いたため、これはおさよの祟りといわれ手厚く供養しました。
宿内の浄蓮寺にはさよが池の人柱になったおさよの供養塔があります。 |
宿並 |
枡形 |
明神社参道口 |
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楠原宿の宿並は名阪関社員寮サクラソウ前で県道10号津関線に合流します、関方面からは斜め右に入ります。
スグ先の右手に庚申塚があります、庚申堂には青面金剛像と三猿陽刻庚申塔が安置され、境内には地蔵立像二体と楠原宿浄蓮寺覚順和尚が開眼供養した馬頭観音像があります。
先に進むと左手に石山観音公園案内標識があります、踏み込むと明治三十四年(1901)建立の道標「石山観音道拾二丁」があります。
七堂伽藍であった浄蓮坊跡で四十余りの磨崖仏があります、本尊は観世音菩薩でした(県重要文化財)。 |
楠原宿西口 |
庚申塚 |
石山観音道 |
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先に進むと市境標識があります、津市から亀山市に入ります。
スグ先にY字路分岐があります、左は大阪・名古屋方面です、右の関方面に進みます。
次いで名阪国道高架のくぐり詰を右折(白線矢印)します、関方面からは県道10号線に合流します。
古厩村内の逆Y字路を左(白色矢印)に進みます、関方面からは右です、この分岐点にはカーブミラーがあります。 |
Y字路分岐 |
名阪高架下分岐 |
Y字路分岐 |
古厩村 |
古厩(ふるまや)村には連子格子の旧家を残しています。
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突当りの県道10号線手前の左手に鈴鹿駅(すずかのうまや)跡があります、御厩(おんまや)と呼ばれました。
大化の改新後、全国に駅制がひかれた際の駅(うまや)で、馬二十匹を常備し、駅舎、厩舎、井戸等の施設が備わっていました。
御厩の目印に植えられ御厩(うまや)の松がありましたが、松喰虫の被害に遭い昭和五十八年(1983)伐採されました。
併設されている覆屋内には御厩の松の根株が保存展示されています。
一角に式内大井神社遺跡碑があります、ここには駅の井戸とされる都追美井(つつみい)をご神体とする大井神社がありましたが、明治四十三年(1909)関宿の関神社に合祀されました。 |
鈴鹿駅跡(御厩) |
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御厩の向いの石造祠内に地蔵尊が三体安置されています。
県道10号線に合流すると、右手奥に都追美井の遺構があります、天照大御神を伊勢に移す際、この井戸水で神馬(しんめ)を洗ったといいます。
鈴鹿川を勧進橋で渡ります、鈴鹿川は鈴鹿山系の高畑山に源を発し、流末は伊勢湾に注ぎます。
鈴鹿川は暴川で橋は度々流され、その都度勧進の浄財で復旧されました。 |
地蔵尊 |
都追美井 |
勧進橋 |
鈴鹿川 |
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JR関西本線ガードをくぐります。
スグの国道1号線を東海道関宿東(旧東海道関宿追分)交差点にて横断します。
正面の右に緩やかにカーブする坂を上ると伊勢神宮一の鳥居が見えてきます。
式年遷宮の度に内宮宇治橋の神域側の鳥居が移設されます。
この鳥居をくぐると東海道関宿東追分に到着です! |
JR関西本線 |
最後の上り坂 |
神宮一の鳥居 |
関宿東追分 |
これにて二泊三日の伊勢路ウォークの完結です、やはり街道ウォークの醍醐味は到着した時の達成感と充実感に尽きます。
タップリ感動を味わった後は、食事を味わうことにしましょう、腹減った!
宿内の食事処山石です、幕末の建築で料亭でした、最高のシチュエーションです!!
東海道関宿名物の関宿弁当をオーダーしました、驚きの780円です!!!
何とお弁当は紫紺の風呂敷に包まれて出てきました、二段重で八品目、御飯、赤だし、そしてランチタイムはコーヒー付きです!!!!
味付けは濃すぎず、さりとて薄すぎず丁度良い塩梅です、お奨めです。
食事を堪能し、二泊三日の伊勢路ウォークもこの辺りが関の山車(やま)です。
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