道中日記 194 佐屋街道 ( 熱田追分 - 佐屋 ) 24.4km

 この度、山と渓谷社から

● 新版 ちゃんと歩ける東海道五十三次 西 見付宿~京三条大橋 +佐屋街道
   五街道ウォーク 八木牧夫著


が出版されました。

本書には
佐屋街道 熱田の追分~佐屋三里の渡し跡 間のマップが収録されています。

本マップには写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為に本HPでは写真を豊富にアップしました。

是非、出立なさる前に本マップと当HPを照らし合わせ、
佐屋街道ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。

徳川家康は慶長二十年(1615)、佐屋街道を進軍し、大坂夏の陣に勝利したところから佐屋街道は徳川吉祥の道といわれました。

佐屋街道は尾張藩初代藩主
徳川義直によって整備され、明和元年(1764)幕府道中奉行の管轄となりました。

それでは
徳川吉祥の道に繰出してみましょう!

 熱田追分出立 岩塚宿まで8.0km

 突当りのT字路が熱田追分です。

左(黄色矢印)が
東海道です、七里の渡し宮の渡し場に至ります、右(白色矢印)が佐屋街道(美濃路)です。

熱田追分正面の祠内に
ほうろく地蔵尊が安置されています。

三河の
焙烙売りが荷の平衡を取る重りとして地蔵尊を使用した後、海辺のあし原に放置しました。

里人がこの
地蔵尊を発見し、ねんごろに祀ったものです。
熱田の追分 ほうろく地蔵祠 ほうろく地蔵尊

 熱田追分の東北隅に寛政二年(1790)建立の熱田追分道標があります、道標の各面には次のように刻まれています。

東面「北 さやつしま道/同 みのち道」
西面「東 江戸かいとう/北 なこやきそ道」
北面「南 京いせ七里の渡し道/是より北あつた御本社貮丁道」

追分道標の傍らに
信長攻路桶狭間の戦い人生大逆転街道標識があります。

信長攻路は織田信長が
清洲城から桶狭間に至る道のりです。
熱田追分の東北角 旧東海道道標 信長攻路

 
織田信長の一代記が著された信長公記(しんちょうこうき)に「桶狭間の戦いでここから信長が東方に狼煙が上がるのを確認した」と記されています

 熱田追分手前の10階建てマンション並びの民家の庭内に宝暦八年(1758)建立の旧熱田追分道標があります。

旧道標には「南 北さやミのぢきそ道」「西 是よりきた あつた御本社二丁」と刻まれています。

元は
熱田追分にありましたが戦災で破損し、後に復元されここに移設されました。

それでは
熱田追分を出立しましょう!

街道はスグに
国道1号線に突き当たります(白色矢印)、中央分離帯には植栽があり横断不可です。
旧追分道標 旧熱田追分道標 国道1号線

 左折(黄色矢印)し熱田神宮南交差点の
熱田神宮南歩道橋にて迂回します。

 旧道に復帰し、わずかに進むと左手の多賀壽命殿標識がある蔵福寺の擁壁上に蔵福寺の銅鐘解説があります。

かつて蔵福寺にあった
一口の銅鐘は延宝四年(1676)二代目尾張藩主徳川光友の命により設置された時の鐘です、尾張藩鋳物師頭(いもじがしら)水野太郎左衛門の手によるものです。

この地は
宮の渡しを控え船の出入りが多く、航行の刻限を告げる必要がありました。

この
時の鐘は明治維新後も引き継がれ時を告げましたが、明治四十年(1907)廃止となりました。
熱田神宮南歩道橋 蔵福寺の銅鐘解説板 蔵福寺の銅鐘

 昭和二十年(1945)の戦災で、鐘楼は焼失しましたが、銅鐘は損傷を受けずに残り、現在は名古屋市博物館に保存されています。

宮の渡し公園にある時の鐘は昭和五十八年(1983)に建てられたモニュメントです。

浄土宗西山禅林派の宝亀山
蔵福寺の境内に踏み込むと正面に本殿があります、本尊は阿弥陀如来です。

蔵福寺本殿の左手に
多賀殿が鎮座しています、鎮守社の多賀寿命神と名古屋七福神の恵比寿が奉安されています。
宮の渡し公園 時の鐘 蔵福寺 多賀殿

 多賀殿は古くから
お多賀さんの名で親しまれる滋賀の多賀大社です。

 次いで右手のあつた蓬莱軒神宮店並びの石垣上に林桐葉宅跡解説があります。

林七左衛門は熱田の郷士で、貞享元年(1684)冬、野ざらし紀行の芭蕉を我が家に迎えて蕉門に入り、俳号を桐葉(とうよう)と称し尾張蕉風の開拓者となりました。

芭蕉は度々当家に立ち寄って名吟を残し
熱田三歌仙もここで巻かれました。

晩年は
元竹と号し書道に熱中し俳諧からは遠ざかりました、正徳二年(1712)死去、享年六十歳でした。
林桐葉宅跡 あつた蓬莱軒神宮店 ひつまぶし

 
あつた蓬莱軒は明治六年(1873)創業の名古屋名物鰻料理ひつまぶしの名店です。

あつた蓬莱軒本店は宮宿の
赤本陣南部家跡に位置しています。

 街道をわずかに進み熱田神宮(黄色矢印)の正門手前を左折(白色矢印)します、佐屋方面からは右折になります。

直進(白色矢印)し、突当りの
国道19号線を右折します、佐屋方面からは左折になります。

それでは
熱田神宮をお詣りしましょう(黄色矢印)!

正面の巨大な白木造りの
熱田神宮南門第一鳥居をくぐります。

熱田神宮には他に
東門西門があり、それぞれに第一鳥居があります、南門が正門です。
熱田神宮分岐 国道19号線分岐 南門第一鳥居

 神域に踏み込むと左手に熱田神宮摂社の上知我麻(かみちかま)神社が鎮座しています、元は熱田追分のほうろく地蔵の所に鎮座し源太夫(げんだゆう)と称しました。

上知我麻神社は戦後の復興事業のため、昭和二十四年(1949)
熱田神宮境内に遷座されました。

天保十五年(1844)刊の尾張名所図会には熱田追分に鎮座する
源太夫社追分道標高札場が描かれています。

上知我麻神社の祭神は
乎止與命(おとよのみこと)です。
上知我麻神社 源太夫社(上知我麻神社) 尾張名所図会

 乎止與命は古代の尾張の地を支配した
尾張国造(おわりのくにのみやつこ)です、娘の宮簀媛命(みやずひめのみこと)は日本武尊の妃となりました。

毎年一月五日は商売繁盛、家内安全、漁業豊漁を願う
初えびすで賑わい名古屋の正月の風物詩にもなっています、又知恵の文殊様として合格祈願の絵馬奉納など篤く信仰されています。

 上知我麻神社の並びに熱田神宮別宮の八劍宮(はっけんぐう)が鎮座しています、和銅元年(708)勅命により鍛えられた宝剣が創祀されています。

古来より武家の崇敬が篤く
織田信長は長篠出兵の際に社殿の修造を命じ、徳川家康は拝殿、回廊、築地を修造し、徳川五代将軍綱吉は本殿の造替を行いました。

参道に戻って先に進み
木造欄干の橋を渡ります、この橋の左に二十五丁橋があります。

板石が二十枚並んだ尾張最古の石橋です。
八劍宮 参道橋 二十五丁橋

 
西行法師がこの二十五丁橋に腰掛け、東西南北を見渡して「これ程涼しい此の宮をたれが熱田と名を付けた」といったといいます。

 参道をわずかに進むと右手に佐久間燈籠があります、高さ約8メートルで、江戸時代から日本三大燈籠(上野東照宮お化け燈籠、南禅寺佐久間燈籠)の一つとして知られています。

大坂夏の陣で活躍した
佐久間勝之は寛永七年(1630)海難に遭い、熱田神宮を祈念したところ加護によって救われたことに感謝して大燈籠を寄進しました。

左手の
西門の第一鳥居を過ぎて参道鳥居をくぐると左手に弘法大師のお手植えと伝わる樹齢千年の御神木大クスが繁っています、幹周7.7メートル、樹高20メートルです、この大クスにはが住んでおり、時より姿をみせるとのことです。
佐久間燈籠 参道鳥居 大クス

 更に進むと参道の左右に信長塀があります、永禄三年(1560)織田信長は桶狭間出陣の際、熱田神宮に戦勝を祈願し、見事大勝を収めると礼に信長塀を奉納しました。

信長塀は土と石灰を油で練り固めてを厚く積み重ねた築地塀(ついじべい)で、兵庫西宮神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つです。

鳥居をくぐると
本宮です、熱田神宮は景行天皇四十三年(357)の創建で、三種の神器の一つ日本武尊の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を御神体とする天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀っています。
信長塀 織田信長 本宮

 熱田神宮は
伊勢神宮に次ぐ国家鎮護の守護神として、今も昔も篤く崇敬をあつめています

 南門に戻って街道に復帰し、熱田神宮南歩道橋で国道19号線を横断し、西側の歩道を進みます。

スグのファミリーマートの駐車場隅に
岡部又右衛門家跡解説板があります、岡部又右衛門家は熱田の宮大工でした。

同家は
織田信長の安土城造営、豊臣秀吉の方広寺大仏殿造営、徳川家康の名古屋城築城のそれぞれに携わっています。

わずかに進むとコインパーキング前に
笠亭仙果(りゅうていせんか)出生地解説板があります、文化元年(1804)この地で生まれた戯作者狂歌師です。
岡部又右衛門家跡 笠亭仙果出生地 熱田神宮西門

 街道を進むと白鳥歩道橋の右手に
熱田神宮西門第一鳥居があります。

 先に進むと熊沢医院の横道口に道標「白鳥御陵 従是西二丁」があります。

しかし
白鳥御陵へはもう少し先から向います。

わずかに進むと左手に
誓願尼寺の山門があります、山門脇に右大将頼朝公誕生舊地碑があります。

ここは平安時代末期、
熱田大宮司藤原季範(すえのり)の別邸があったところです、季範の娘由良御前源義朝の正室となり、身籠って久安三年(1147)熱田の実家に戻り、この別邸で頼朝を生みました。

境内には
頼朝公産湯池産湯ノ井戸があります。
白鳥御陵口 白鳥御陵道標 誓願寺

 享禄二年(1529)日秀(にっしゅう)善光上人(日秀妙光尼)によって藤原氏別邸跡に西山浄土宗の妙光山誓願尼寺が創建されました。

誓願寺の山門と本堂に
葵紋があしらわれています、天文十六年(1547)六歳の竹千代(家康)は織田信秀(信長の父)の命により人質として熱田羽城(はじょう)加藤図書屋敷に二年間幽閉され、その間日秀善光上人が竹千代の教育係を勤めました。

天文十八年(1549)八歳になった
竹千代は解放され岡崎に戻りましたが、今度は今川氏の人質として駿府に向いました。
源頼朝生誕地碑 頼朝産湯池・井戸 葵紋

 旗屋町交差点を越し、左手のミニストップ先を左折して進むと正面に法持寺があります。

曹洞宗の白鳥山
法持寺は天長年間(824~834)弘法大師熱田神宮に参籠した折に日本武尊を敬い、延命地蔵菩薩像を自刻して小祠に安置したのが始まりです。

白鳥陵の
宝物を護持する寺であるところから当初宝持寺と称し、白鳥御陵を管理しました。

法持寺は天保十五年(1844)刊の
尾張名所図会に描かれています、南に熱田の海を見下ろし、西には御船蔵を望む景勝地でした。
法持寺 法持寺 尾張名所図会

 仁王門の右手に信長攻路標識があります。

信長は桶狭間の戦いに向かう際、日本武尊の御陵を守る寺であるところから、ここへも立ち寄り戦勝祈願したといわれています。

仁王門の左手に
北の湖 第五十五代横綱誕生の寺碑があり、境内の弘法堂下に三保ケ関部屋 土俵跡碑があります。

法持寺は
名古屋場所の際に美保ケ関部屋の宿舎となり、大関の北の湖は昭和四十九年場所で十三勝二敗の成績を挙げ、第五十五代横綱に昇進しました、史上最年少の二十一歳二ケ月でした。
信長攻路 北の湖 土俵の跡

 
北の湖は平成二十七年(2015)直腸がんによる多臓器不全のため死去、享年六十二歳でした。

 法持寺を右から回り込むと堀川沿いに白鳥古墳入口があります。

白鳥古墳は六世紀初期頃の築造と推定される、全長約74mの前方後円墳です(国史跡)。

古くからこの古墳は
日本武尊の御陵といわれています、伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなると白鳥となって熱田に飛来し、降り立ったところから白鳥御陵と名付けられました。

江戸時代は
法持寺が白鳥御陵を管理し、明治から戦前は熱田神宮が所管し、戦後は名古屋市の管理下に置かれました。
白鳥古墳入口 白鳥古墳前石段 白鳥古墳

 白鳥古墳前石段の左手に本居宣長歌碑「しきしまの やまとこひしみ 白とりの かけりいましし あとところこれ」があります、宣長が白鳥御陵を詣でた際に詠んだ歌です。

本居宣長は伊勢松阪の豪商小津家の出身で荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵平田篤胤(あつたね)と共に国学の四大人(しうし)の一人です。

それでは街道に戻りましょう、熱田区役所前歩道橋手前の歩道上に
熱田神宮第二神門址標石があります、ここに熱田神宮二ノ鳥居がありました、熱田神宮の周辺には八つの大鳥居があり八疆(きょう)の鳥居と呼ばれました。
本居宣長歌碑 本居宣長 第二神門阯

 わずかに進み、セブンイレブンの先を左折すると右手に断夫山(だんぷやま)古墳があります、東海地方最大の前方後円墳で、全長151m、前方部の幅116m、高さ16.2m、後円部は直径80m、高さ13mの規模を誇ります(国史跡)。

断夫山古墳は六世紀始めの頃、尾張南部に勢力を張った
尾張氏の娘宮簀媛(みやずひめ)の墓との伝説があります。

日本武尊は東征の帰途、尾張の地に立ち寄り尾張氏の娘宮簀媛を娶り、草薙剣を媛に預け伊吹山の荒ぶる神の退治に出かけ、荒ぶる神と戦い、ついに力尽き伊勢の能褒野で亡くなり、白鳥となって妻の元に飛来しました。

宮簀媛が預かった
草薙剣を奉斎鎮守したのが熱田神宮です。
断夫山古墳 鷲峯山 尾張名所図会

 
断夫山は熱田の浜を眼下に見渡す景勝地で常日頃の立ち入りは禁止されていましたが、例年三月三日だけは入山が許されました。

天保十五年(1844)刊の
尾張名所図会には「三月三日 鷲峯(ざんぶ)山より汐干(しおひ)を望む」と著されています。

熱田神宮では断夫山古墳を
陀武夫御墓と称し、古くは鷲峰(峯)団浮山段峰(峯)とも表記されました。

 街道に戻って先に進むと神宮公園前歩道橋の先、左手の10階建てマンションの並びに尼寺の登和山青大悲(せいだいひ)があります。

宝暦六年(1756)この地の
きの女が開いた如来経の本山です、その説法は御経様と呼ばれ、名古屋弁そのままで語られる特異なものです。

街道に面した
地蔵堂には等身大の鉄地蔵菩薩立像(愛知県文化財)が安置されています、像背面裾近くの銘文から室町時代の造立であることが判明しました。
青大悲寺 青大悲寺地蔵堂 鉄地蔵菩薩立像

 先の西高蔵交差点を右折し、旗屋交番手前を左折すると右手に高座結御子(たかくらむすびみこ)神社が鎮座しています、創祀は熱田神宮と同時期の古社です、祭神の高倉下命(たかくらじのみこと)は収穫した穀物の貯蔵を司る神です。

社伝によれば、
織田信長が本殿を造営し、蜂須賀氏が修造を加えたとあります。

境内社の
高座稲荷社木下藤吉郎(豊臣秀吉)が幼い頃に母の(なか、後の大政所)に手を引かれてお参りしたとのいい伝えから太閤出世稲荷と呼ばれています。
高座結御子神社鳥居 高座結御子神社 太閤出世稲荷

 高座結御子神社はたかくらさんと呼ばれ、子育て無病息災の守り神としても親しまれています。

例年六月一日の例祭には境内末社の
御井社(みいしゃ)の御神井(ごしんせい)で高座の井戸のぞき神事が行われます、幼児に井戸を覗かせると(かん)の虫封じに霊験あらたかといいます。

疳の虫とは乳児の
夜泣きかんしゃくひきつけなどは体内にいる疳の虫のせいといわれます。

それでは街道に戻りましょう、西高蔵交差点からは国道19号線の右(東)側を進みます、新尾頭二丁目交差点を越し、巨大な赤白の電波塔のNTT先を右折し、二本目を左折して先に進むと右手に
畑中地蔵大菩薩が祀られています。
御神井 畑中地蔵尊境内

 畑中地蔵尊は今を去ること数百年前に畑の中から出現した自然石の地蔵尊です。

霊験あらたかで戦時中、この辺りが
戦災に遭わなかったのはこの地蔵尊のご利益といわれています。

畑中地蔵尊の奥に元文三年(1738)魚屋
伝吉なる者が建立した七はしくやう(七橋供養)があります。

堀川が氾濫し、新橋(現尾頭橋)が流失し、里人が困窮していると旅のが自ら架橋と築堤の人柱となりました。
畑中地蔵尊祠 畑中地蔵尊 七橋供養塔

 この僧の霊を弔うために建立されたのが
七橋供養塔です、元は架け替えられた新橋の袂に安置されていました。

 街道に戻り、新尾頭歩道橋で国道を横断し左(西)側に移り、新尾頭交差点手前の車両進入禁止の細道に踏み込むと右手に臨済宗妙心寺派の富春山妙安寺があります、本尊の聖観音菩薩像宋銭を鋳潰して鋳造されたものです。

境内の
観音堂には熱田四観音の一つといわれる澤の観音が安置されています。

薬師堂脇には天明六年(1786)建立の
芭蕉時雨塚「此(この)うみに草鞋(わらんじ)すてん笠しぐれ」があります、貞享元年(1684)熱田の林桐葉宅で詠んだ句です。
妙安寺 薬師堂 芭蕉時雨塚

 「時雨(しぐれ)に濡れつつ侘しい旅を続けて来たが、ここの海に草鞋を捨て、時雨を凌いだ笠も捨てて、しばらくはこの家に旅の身を休めることにしよう」という意で、
桐葉の厚意に感謝を込めた句です。

 妙安寺は天保十五年(1844)刊の尾張名所図会澤の観音として描かれています。

かつては堀川沿いの
妙安寺は遠くに鈴鹿山系を望む景勝地で、名古屋三景(不二見原、大曽根の関貞寺)の一つでした。

街道に戻るとスグの歩道に
熱田神宮第一神門址標石があります。

この
一の鳥居は天保十五年(1844)刊の尾張名所図会に描かれています、高さ三丈五尺(11.6m)柱廻り一丈(3.3m)、檜造り丹塗(にぬり)の大鳥居でした。
澤の観音 尾張名所図会 第一神門址 一の鳥居 尾張名所図会

 わずかに進み新尾頭交差点を横断してから左に踏み込むと右手に住吉神社が鎮座しています。

参道階段の上り詰に
蕃塀(ばんぺい)が有ります、尾張の神社形式の一つである蕃塀とは拝殿の前にある短い塀社殿を直視できなくし、合わせて不浄なものの侵入を防ぐためともいわれますが、正確な目的は不明といいます。

住吉神社は享保九年(1724)摂津の海の守護神
住吉神社を勧請し、宝暦十二年(1762)大阪廻船問屋が社殿を造営、船頭の信仰が篤く大阪への廻船航路の守護神でした。
住吉神社蕃塀 住吉神社 三吟塚

 境内には享和三年(1803)建立の尾張が生んだ俳人の
青山圃暁(ほぎょう)、久村暁台(ぎょうたい)、井上士朗の句が一句ずつ刻まれた三吟塚があります。

・月と雪と大地のたらぬ今宵哉 圃暁
・この蘆原に川千鳥啼 暁台
・たのみある一木は松にあらはれて 士朗


 街道に戻って先に進み金山新橋南交差点を左折(白線矢印)します、佐屋方面からは右折になります、直進は美濃路及び木曽街道です。

この分岐点には文政四年(1821)
佐屋旅籠屋中が建立した三所堺道標と呼ばれる佐屋街道道標があります、佐屋街道美濃路及び木曽街道の追分です。

この道標は
戦災に見舞われ破損しましたが、その後修復されました、道標の各面には次のように刻まれています。
・「東 右 なこや 木曽 海道」
・「西 右 宮海道 左 なこや道」
・「南 左 さや海道 津しま道」

美濃路は名古屋、稲葉、起(おこし)を経て中山道垂井宿に至ります。
金山新橋南分岐 三所堺道標

 
木曽街道は上(うわ)街道、小牧街道、本街道とも呼ばれ、名古屋、味鋺(あじま)、小牧、楽田(がくでん)、善師野(ぜんじの)を経て中山道伏見宿に至ります。

 わずかに進み、右手の東鮓(あずますし)第八支店脇を右に踏み込み、右手の正木南公園を右折すると左手に浄土宗の国豊山元興寺があります、尾張元興寺跡です。

尾張の尾頭山
願興寺は尾張最古の寺で白鳳時代(645~710)奈良元興寺(がんごうじ)の分院として道場法師が創建しました。

尾頭とは、雷神から授かった道場法師の生誕時、霊蛇が首に巻き付きが並んで後ろに垂れていたという故事に由来しています。

長じて奈良元興寺の
童子(どうじ)となり、鐘楼堂に棲みつき、鐘撞きの小僧を喰う妖怪の(がごぜ)を退治した傑僧(けっそう)です。

道場法師は後に故郷に戻り尾頭山
元興寺を創建しました。
元興寺 道場法師の鬼退治

 正木南公園に戻り、更に先に進むと右手に尾頭塚があります、鎮西八郎と呼ばれた源為朝の墓と伝わっています。

古今無双の弓の名手として知られる為朝は
保元の乱の折、崇徳上皇方に属し奮戦するも、敗れて伊豆大島に配流となりました。

為朝は流人の身でありながら伊豆諸島を略取した為、伊豆大島を所領とする
工藤茂光に追討され自刃しました。

しかし実は生きながらえて
伊豆大島を脱出したとの伝説があります。
尾頭塚境内 尾頭塚 鎮西八郎源為朝

 伊豆大島を脱出し、兄義朝の舅にあたる熱田大宮司の
藤原季範を頼ってこの地に身を隠し、亡くなったというものです。

境内には
小社が祀られ、石塔手水鉢、安永四年(1775)建立の石燈籠があります。

 街道に戻り、堀川尾頭橋にて渡ります、掘川は庄内川から取水し、流末は伊勢湾に注いでいます。

慶長十五年(1610)
徳川家康の命による名古屋城築城の際に、堀川は福島正則によって城下と熱田湊を結ぶ資材運搬用の運河として開削され、名古屋城防衛外堀としての役目も果たしています。

尾頭橋は天保十四年(1843)の
佐屋路宿村大概帳によると高欄付きの板橋で長さ十七間(約30.9m)、幅三間(約5.5m)あり、尾張藩の普請橋でした。

尾頭橋は
堀川七橋の一つで、一番下流にあり伊勢湾の潮の影響を受ける感潮域に位置し、満潮時には逆流し、尾頭橋は度々流失し再架橋されたところから新橋と呼ばれました。
尾頭橋 堀川

 尾頭橋の両欄干には明治十一年(1878)発行の
名古屋并熱田全圖と往時の新橋を描いたレリーフがそれぞれ組み込まれています。

 名古屋高速4号東海線高架、次いでJR東海道新幹線高架をくぐると右手の真宗大谷派の唯然寺境内に津島街道一里塚碑があります、五女子(ごにょうし)の一里塚跡です。

東海道伝馬町の一里塚から一里、江戸日本橋より数えて九十里目です。

街道を進むと右手に
名古屋五女子郵便局があり、先に五女子交差点があります、八幡本通2西交差点を過ぎると左手に名古屋二女子郵便局があります。

この地の
長者七人娘の各嫁ぎ先に付けた村名で一女子村から七女子村がありました。
唯念寺 五女子の一里塚跡 名古屋五女子郵便局

 今は
二女子(ににょうし)、四女子(しにょし)、五女子(ごにょうし)が現存しています。

 わずかに進むと左手の中川福祉会館前に佐屋街道解説板佐屋街道碑があります。

佐屋街道は徳川三代将軍
家光の上洛の際に尾張藩によって整備され、後に幕府の道中奉行の管轄下に置かれ官道となりました。

幕末には
シーボルトや徳川十四代将軍家茂が通行しています。

先に進むと左手のファミリーマートに
明治天皇御駐蹕(ごちゅうひつ)之所碑があります、明治元年(1868)十二月十八日東京から京都へ還幸する際にここで休息しました。
佐屋街道解説 佐屋街道碑 明治天皇碑

 わずかに進み中川運河長良橋にて渡ります、中川運河は水運物流の軸として昭和初期に開削され、名古屋駅近くの笹島名古屋港を結んでいます。 

中川運河付近には
中川があり、名古屋城築城の際には石垣石の運搬水路となり、長良橋が架橋され、長さ八間(14.6m)、幅三間(約5.5m)で、尾張藩の普請橋でした。

長良町3交差点を左に入ると右手に真宗大谷派の亀齢山
万念寺があります、江戸時代の中頃は教専坊と呼ばれ、万念という坊さんが居ました。
長良橋 中川運河 万念寺

 ある時
万念が村人の飲料水になっている更池のそばを通ると池の中から「万念や、万念や」と呼ぶ声がしました。

村人に頼んで池の水を干すと底から
阿弥陀如来像が出現しました。

村には鎌倉時代に旅の僧が濁った更池の水を
飲料水にするために阿弥陀如来像を沈めたといういい伝えがありました。

村人は出現した阿弥陀如来像を
教専坊に安置し、以降この寺は万念寺と呼ばれるようになりました。

 街道を先に進むと左手の名古屋長良郵便局並びの奥に明治天皇御駐輦(ごちゅうれん)之所碑があります。

明治天皇は明治元年(1868)九月に東幸し、同年十二月に還幸、翌明治二年(1869)三月東幸と三度佐屋街道を通行しています、三度目の東幸の際にここで休息しました。

先に進み名古屋臨海高速鉄道高架、次いで名鉄名古屋本線高架をくぐると左手の一角に
若松が二本植樹されています、烏森(かすもり)の松並木跡です、烏森村には立場がありました。
明治天皇碑 明治天皇 烏森の松並木跡

 三所堺追分から岩塚宿間の
古渡村五女子村二女子村長良村烏森村は東海道宮宿の助郷村でした。

 わずかに進み右手の丸正不動産脇に踏み込むと正面に八幡社が鎮座しています。

殿の左脇に
柳街道の追分にあった安政元年(1854)建立の常夜燈道標「正一位秋葉山大権現」「左なごや道」が移設されています。

柳街道は
名古屋城下と佐屋街道の烏森村を結んでいました。

街道に戻って先に進み、右手の名古屋烏森郵便局脇に
柳街道道標がありました。

わずかに進み、一本目を左に踏み込みます。
柳街道道標 柳街道追分 願隆寺

 先に進むと右手に真宗高田派の紹光山願隆寺があります、万治三年(1660)の創建で伊勢一身田専修寺の末寺で、本尊の阿弥陀如来立像は恵信僧都の作といいます。

恵信僧都は平安時代中期の僧で
浄土教の祖と称され、法然親鸞に多大な影響を与えました。

更に進むと左手に
隠斎屋敷跡があります、SOEDAの表札を掲げています。

副田甚兵衛吉成豊臣秀吉の異父妹(いふまい)の朝日姫を妻としていました。

秀吉は臣従を渋る
徳川家康の懐柔に窮すると、吉成夫妻を無理矢理離縁させ、天正十四年(1586)朝日姫を家康の正室として嫁がせました。
恵信僧都 隠斎屋敷跡

 時に家康は四十五歳、朝日姫四十四歳でした、嫁いだ朝日姫は駿河御前と呼ばれました。

婚儀が済んでも家康が臣従を渋る為、秀吉は母の
大政所を岡崎の駿河御前を訪ねるという形で更に人質として送り和議が成立しました。

天正十八年(1590)
駿河御前は病に見舞われ死去、享年四十七歳でした。

吉成は見返りとしての五万石の加増を断り、烏森村に閑居し剃髪して隠斎と称しました。

隠斎邸の裏手に曹洞宗の
禅養寺があります。
朝日姫 大政所 禅養寺旧山門

 禅養寺の
旧山門隠斎屋敷の門でしたが平成二十四年(2012)建て替えられました。

 街道に戻り豊国通6交差点を横断します、この豊国通りを右に進むと豊国神社が鎮座しています、祭神は豊臣秀吉で生誕地です。

岩塚町四丁目交差点先の右手に
郵便ポストがあり、ポスト前に一里塚イラストが描かれた佐屋街道一里塚路面タイルがあります、岩塚の一里塚跡です。

熱田から二里、江戸日本橋より数えて九十一里目です。

岩塚の一里塚跡脇の敷地には文化十一年(1814)建立の
南無妙法蓮華経題目碑があります。
岩塚の一里塚跡 一里塚路面タイル 題目碑

 岩塚宿到着 万場宿まで1.2km

 岩塚の一里塚跡からわずかに進むと岩塚石橋交差点が現れます、この辺りが岩塚宿の東口です、岩塚宿に到着です!

岩塚宿は寛永十三年(1636)岩塚村を移住させて開設されました。

岩塚宿は庄内川対岸の
万場宿合宿で問屋業務は月のうち下半月を勤めました。

保十四年(1843)の
佐屋路宿村大概帳によると岩塚宿の宿内家屋は二百十二軒、うち本陣一、問屋一、旅籠七軒、宿内人口は千三十八人(男五百十二人、女五百二十六人)で宿長は四町九間(約452.7mでした。

宿並に踏み込むと左手に文化十一年(1814)建立の
念仏供養塔があります。
岩塚宿東口 念仏供養塔

 南無阿弥陀仏の
念仏を唱えれば人は等しく極楽往生できるという浄土宗の教えを深く信心した人々は念仏講を組み、講中は念仏供養塔を建立しました。

 宿並を進むと右手に連子格子の旧家があります、貴重な宿場遺構ですが解体中です。

スグ先の左手に
八幡社が鎮座しています、祭神は応神天皇で岩塚西の産土神です。

創建は明らかではありませんが元和三年(1617)に
再建されました。

境内の
クロガネモチは名古屋市保存植樹です。

八幡社の向い辺りに
御本陣瀧三郎がありました、建坪は百三坪でした。
連子格子の旧家 八幡社 クロガネモチ

 八幡社脇に踏み込むと右手に曹洞宗の見陽山光明(こうみょう)があります、本尊の地蔵菩薩像行基の作といいます。

妊婦がこの地蔵菩薩像に(さらし)を掛けて安産を祈願し、(いぬ)の日にこれをに巻くと霊験あらたかといいます。

更に進むと右手に真宗大谷派の紫雲山
遍慶寺(へんきょうじ)があります、山門前に岩塚城趾碑があります、寺域は岩塚城址でかつては堀跡を残していました

岩塚城は
尾張守護斯波(しば)の一族吉田重氏の築城に始まり、守氏元氏と代々の居城でした。

吉田元氏は斯波氏を滅ぼした織田信長に仕えました。
光明寺 岩塚城跡

 元氏は永禄十一年(1568)信長伊勢侵攻大河内城攻めで戦死し岩塚城は廃城となりました。 

遍慶寺の山門をくぐると左手に名古屋保存植樹の
イブキ、右手にクロガネモチがあります。

宿並に戻って先に進むと正面(白線矢印)が
万場の渡し場跡です、但し先は通行不可です。

それでは迂回しましょう、宿並左手の消火栓標識の向いを右折(黄色矢印)します。

この右角に半ば埋没した文久二年(1862)建立の
七所社社標があります。
遍慶寺のイブキ 万場の渡し跡方面 七所社道標

 この辺りに岩塚宿の
高札場がありました、佐屋方面からは左折になります。

 左折してわずかに進むと左手に昭和十三年(1938)建立の常夜燈が対であります。

奥に
表忠碑があります、明治三十七八年の役(日露戦争)に岩塚村から出征し、戦死した兵士の名が刻まれています。

スグの右手に
地蔵堂があります、赤子を抱えた石造地蔵菩薩立像が二体安置されています。

正面に
万場大橋高架があります、手前を左折(黄色矢印)して正面の階段を上り、万場大橋の橋上に出ます、万場大橋高架下をくぐると正面に七所社が鎮座しています。
表忠碑 地蔵堂 万場大橋高架分岐

 七所社の鳥居をくぐると石造の蕃塀が構えています、狛犬が三頭刻まれています。

回り込むと正面が
社殿です、七所社は熱田七社神の熱田神宮、八剱宮、大幸田(おおさきだ)神社、日割御子(ひさきみこ)神社、高座結御子神社、氷上姉子(ひかみあねご)神社、上知我麻神社の各祭神を祀っています。

社宝の
神鏡に元慶八年(884)の銘があるところからこの頃の創建と考えられています。

応永三十二年(1425)吉田家の祖岩塚城主
吉田守重が社殿を修造しました。
七所社蕃塀 七所社社殿 日本武尊腰掛岩

 社殿の右脇に
日本武尊腰掛岩があります、日本武尊が伊吹山の荒ぶる神の退治に向かう際、庄内川の舟渡しを待つ間に腰掛けたといいます。

 境内には円墳が三基あります、奈良時代初期の古墳と伝えられています。

埋葬者は不明ですが、当寺この辺りを支配していた人物と考えられます。

日本武尊腰掛岩の並びに
二号墳があります。

社殿の左手に
三号墳がありますが、明治四十年(1907)日露戦争の戦勝記念碑を建てるために破壊されました。

三号墳は社殿手前の右手にあります、墳上には
厳島神社が祀られています。
二号墳 三号墳 一号墳

 境内の日本武尊腰掛
と三つのの二字の組み合わせが岩塚の地名由来です。

 本殿の脇には樹齢千年近くの御神木のナギの木がありましたが昭和三十九年(1964)の伊勢湾台風で倒れ、が残されています。

幹の内側が朽ちて空洞となったところに中から
が生え、木下藤吉郎がこの竹を頂いて、の目釘に用いたところ武運に恵まれ出世したと伝わっています。

例年陰暦正月十七日に五穀豊穣、厄除け等を祈念して行われる
きねこさ祭尾張三大奇祭(尾張大国魂神社のはだか祭、熱田神宮の歩射神事)の一つです。

祭りは厄年の
男衆十二人が一本の笹竹を持って庄内川に入り、川の中程で笹竹を立てます。
御神木ナギの木 きねこさ祭

 一人が登り、竹の倒れた方向で
農作物の吉凶を占う七所社の神事です(名古屋市無形民俗文化財)。

 それでは迂回路に戻りましょう、万場大橋を再びくぐり、万場大橋に沿って進み(黄色矢印)階段で橋上に出ます。

庄内川の対岸が
万場宿です。

今は
庄内川万場大橋にて渡ります。

庄内川は美濃國恵那の夕立山に源を発し、流末は伊勢湾に注ぎます。

尾張藩の
地方古義に庄内川の川幅は「二百間(約364m)、内九十一間(165m)程川通」と著されています。
万場大橋迂回路階段 対岸の万場宿 庄内川

 万場の渡しは天保十五年(1844)刊の尾張名所図会に万場川舩渡として描かれています、川舟には人、荷物や馬を乗せ、昼夜を分かたず渡船することができました。

舟賃は平水時一文、中水時は三文、大水時は八文で、渡しの権利は万場宿が掌握していました。

渇水期には歩いての川越えが可能であっても
徒歩渡りは許されませんでした。

万場大橋の渡詰めを左折(黄色矢印)し、先のY字路を右に下ります。
万場川舩渡 尾張名所図会 万場大橋西詰分岐

 Y字路分岐右の土手下に秋葉神社が遷座されています。

元は万場宿東端に鎮座し、その下に
万場の渡し場がありました。

土手階段を下ると境内の右手に社殿と天保十三年(1842)建立の
秋葉大権現常夜燈があります。

左手には安永六年(1777)建立の火袋が木造の
秋葉山常夜燈、明治三十一年(1898)架橋の大橋親柱があります。
秋葉神社 秋葉大権現常夜燈 常夜燈・大橋親柱

 万場宿到着 神守宿まで7.5km

 Y字路の右を下り、突当りを道なりに右折します、この辺りが万場宿の東口です、万場宿に到着です!

突当りの左辺りが
万場の渡し場跡です。

万場宿は寛永十一年(1634)の宿開設です、岩塚宿合宿で問屋業務は月のうち上半月を勤めました。

天保十四年(1843)の
佐屋路宿村大概帳によると万場宿の宿内家数は百六十軒、うち本陣一、問屋一、旅籠十軒、宿内人口は六百七十二人で宿長は六町(約654.5m)でした。

宿並を進むと左手に
旧家があります、敷地庄内川の氾濫に備え、石積みで嵩上げされています。
万場宿東口 宿並の旧家

 先の右手に小社と文化十年(1813)建立の南無妙法蓮華経題目碑があります。

題目碑側面には
後五百歳中廣宣流布と刻まれています。

わずかに進むと右手の黒板造りの旧家辺りが
あめ屋本陣跡です、問屋を兼ね、建坪は百三十一坪でした。

スグの右手に真言宗の医王山
覚王院があります、天正十三年(1585)の中興で本尊はちちの観音と呼ばれる鎌倉時代造立の千手観音立像です。
題目碑・祠 万場宿本陣跡 覚王院

 この
観音のお告げにより、お乳の出ない母親がお参りをし、境内のちちの木の実を食べると、お乳が出るようになるといいます。

 覚王院の並びに國玉神社が鎮座しています、尾張國総鎮守神の尾張大國霊神社より勧請され、延喜式神名帳に記載されている古社です 

創建時は
大社でしたが打ち続く兵乱のために衰微しましたが、明応年中(1492~1501)に再興されました。

明治元年(1868)
八劔社が合祀され合殿となりました。

同年の明治天皇東幸の際、
勅使より奉幣を拝領しました。
國玉神社 枡形 高札場跡

 國玉神社の脇が
枡形になっています、枡形内に町内掲示板があります、この辺りに万場宿の高札場がありました。

 枡形の左手に光圓寺の巨大な変わり燈籠があります。

光圓寺は当初、天台宗で医王山瑠璃光院薬師寺と称しましたが、嘉禄元年(1225)一向宗に改宗し、臥龍山蓮華院光圓寺と改称されました、今は真宗大谷派です。

山門尾張の大うつけといわれた織田信長美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三が会見した尾張國中島郡冨田村(現愛知県一宮市)の聖徳寺(しょうとくじ)から移築したものです。

信長は道三の娘
濃姫を娶りました。
変わり燈籠 光圓寺山門 斉藤道三

 万場宿を後にしてしばらく進み、右手のGS先のY字路を右(白色矢印)に進みます。

万場交差点を横断し、名古屋高速5号万場線高架をくぐります、佐屋方面からは高架橋をくぐり、突当りの
T字路を左折します。

わずかに進むと右手に
浅間神社が鎮座しています、富士山本宮浅間大社から富士山を神格化した浅間大神木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)を勧請して創建されました。

境内社に
秋葉神社があります。
万場分岐 浅間神社 秋葉神社

 スグ先のY字路(白色矢印)を左に進みます、佐屋方面からは右折になります。 

道なりに進み
突当りを左折(白色矢印)します、佐屋方面からはY字路を右に進みます。

新川砂子橋にて渡ります、庄内川が天井川になったため、放水路として天明七年(1787)尾張藩が四十万両を投じて新川を開削し、流末を伊勢湾に落としました。

これにより庄内川の
沿岸二十八ケ村の水害が減少しました。
砂子村東分岐 砂子中割分岐 中川・砂子橋

 
新川橋(現砂子橋)は長さ四十六間(約83.6m)、幅三間余(約5.5m余り)で、佐屋街道中最大の橋でした。

 砂子橋を渡ると右手に十二所神社社標「村社 式外 十二所神社」があります。

式外(しきげ)とは延喜式神名帳編纂時に存在していたにもかかわらず延喜式神名帳に記載されていない神社のことです。

街道は道なりに右に曲がり、直進すると
変則十字路になります、左折(白色矢印)します、佐屋方面からは右折になります。

この分岐点には砂子村の
高札場跡標柱(白色□囲み)があります、砂子村は寛永十一年(1634)の佐屋街道開設当初は宿場でした。
十二所神社社標 砂子高越分岐 高札場跡

 二年後の寛永十三年(1636)
岩塚宿に差し替えられ、砂子村は立場となり、茶屋が三軒ありました。

 この変則十字路の右手(黄色矢印)には再建された地蔵堂があります、構造の一部には旧地蔵堂の名残りをとどめています。

地蔵堂には錫杖を持った
石造地蔵菩薩立像が安置されています。

更に進むと左手に真言宗智山派の
自性院があります、大宝二年(702)行基の創建で、本尊の木造薬師如来坐像行基の作といいます。

自性院は北野山
成願寺(じょうがんじ)という大寺院の一院でしたが、成願寺は度々災禍に見舞われ自性院のみが残りました。
地蔵堂 地蔵尊 自性院

 建久五年(1194)この地を支配した北条政子の父親で鎌倉幕府の初代執権であった北条時政が上洛の折り、成願寺に宿願成就を祈願し、翌年下向の際に、しばらく逗留し堂塔を再建し寺領を寄進しました

境内は
アジサイの名所として知られています。

自性院先の左手に
十二所神社が鎮座しています、大宝三年(703)に創建され、寛永三年(1626)に再建されました。

熊野十二所権現(三所権現、五所王子、四所明神)に七社大明神が合祀されています。
北条時政 十二所神社 題目碑

 街道に戻ってわずかに進むと右手に
題目碑があります、題目碑には「南無妙法蓮華経 宗祖立正大師 六百五十遠忌 報恩之塔」と刻まれています。

立正大師は日蓮宗の宗祖
日蓮聖人で、遠忌(おんき)とは五十年毎に行う宗祖の回忌法要のことです。

 先に進むと右手の高取鉄工の並びに地蔵堂があります、赤い前掛けと頭巾を纏った石造地蔵菩薩坐像が安置されています。

わずかに進むと右手に
稲荷社が鎮座しています、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀っています、五穀を司る食物の神であり商売繁盛の神です。

稲荷社脇の小路口に
道標跡従是馬嶋明眼院道標識があります。

ここにはここから北約1.3km先にある天台宗の醫王山
明眼院への道標がありました。
地蔵堂 地蔵尊 稲荷社 明眼院道

 この小路口に踏み込むと、約200m先の大治(おおはる)南小学校の校門脇に移設された従是馬嶋明眼院道道標があります。

明眼(みょうげん)は延暦二十一年(802)最澄の弟子聖円上人によって創建され、本尊の薬師如来坐像行基の作と伝わっています。

清眼(せいがん)僧都が延文二年(1357)戦乱によって荒廃していた当寺を再興したところ、薬師如来の霊夢により眼病治療の秘伝を授かり、眼科治療が開始されました。

日本最古の
眼科治療院として知られています。
明眼院道道標 馬島明眼院 尾張名所図会

 寛永九年(1632)御水尾天皇の三女の眼病を治療した功績により明眼院の院号を賜り、明和三年(1766)には桃園天皇の次女の眼病を治療したことで勅願寺となりました。

尾張藩からは三十六石の寺領を拝領しています。

全国から
眼病患者が訪れ、門前は門前町のように商家が軒を連ね、賑わいましたが明治新政府により僧侶の医療行為が禁止され、明治八年(1875)廃業しました。

天保十五年(1844)刊の
尾張名所図会には「馬島明眼院 冷泉為則卿 みな人をすくふめぐみに法の水ふかきちかひもかかるたふとさ」と著されています。

仁王門跡の
仁王像は大治町有形文化財指定です。
明眼院仁王像 七所社神社

 街道に戻り、稲屋交差点に覆い被さる名古屋第二環状自動車道高架をくぐります。

先に進むと左手に
七所社神社が鎮座しています、日本武尊等の七神を祀っています。

 七所社神社の向いに旧一里塚跡(佐屋街道)標柱があります、千音寺(せんのんじ)の一里塚跡です。

熱田から三里、江戸日本橋より九十二里目です。

往時はこの地に聖武天皇勅願寺の
行雲(ぎょううん)があり、別名千手観音寺と呼ばれ、この辺りには千手観音寺に由来する千音寺村がありました。

文政九年(1826)江戸参府に随行した
シーボルトは佐屋街道を下り、ここで経度の測定を行いました。

街道はここから先大きく右に曲がり、
狐海道東交差点を左折します、佐屋方面からは右折になります。
千音寺一里塚跡 シーボルト 狐海道東分岐

 
狐海道とは行き交う旅人の提灯の明かりが狐火のようであったところに由来しています。

 先に進むと西條(にしじょう)交差点に出ます、佐屋方面からはY字路になっています、右に進みます。

わずかに進むと右手に
八劍社が鎮座しています、武家の崇敬が篤かった熱田神宮別宮の八劍宮を勧請したものです。

福田川秋竹橋(旧福田川橋)にて渡ります、福田川橋は長さ十四間(約25.5m)、幅二間四尺(約4.8m)でした。

福田川の流末は
日光川に落合います、流れは大治あま市の境です。
八劔社 福田川 あま市

 秋竹橋の渡詰めに
あま市標識があります、あま市は平成二十二年(2010)海部郡(あまぐん)の七宝町(しっぽうちょう)、美和町、甚目寺町の合併により発足しました。

この地は戦国時代に活躍した武将の
豊臣秀次蜂須賀小六(正勝)、福島正則の出身地です。

 秋竹交差点を右に踏み込むと先の右手に藤島神社が鎮座しています、天武天皇四年(675)の創建で延喜式神名帳に記載されている古社です。

藤島神社は海上交通の守護神
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)を祀り、古来より安産の神としても崇敬をあつめています。

秋竹村は万場宿と神守宿の中間にあたり村内に立場があり茶屋が七軒ありました。

街道に戻り、
小切戸(おぎりど)秋竹西橋で渡ります、流末は蟹江川に落合います。
藤島神社蕃塀 藤島神社社殿 小切戸川

 あま市七宝庁舎北交差点を横断すると右角に七宝焼原産地道標があります。

明治二十八年(1895)の建立で「Shippoyaki Toshima 七宝焼原産地 寶(たから)村ノ内遠島 従是六町」と刻まれています、
七宝焼の買付に来た外国人向けに設置された道しるべです(あま市指定史跡)。

七宝焼は江戸時代末に服部村の梶常吉尾張七宝を創始し、近代七宝の祖といわれています。

後に遠島(とおしま)村の
林庄五郎が七宝焼の秘法を会得し、広く普及させました。
七宝焼原産地道標解説 七宝焼原産地道標 七宝焼

 
七宝焼とは金、銀、銅などの金属の上に釉薬(ゆうやく)を焼き付けたもので、明治時代に技術が飛躍的に進歩し、慶応三年(1867)に行われたパリ万国博覧会に出品され、好評を博し盛んに輸出されるようになりました。

 新下田橋東交差点を越し、左手焼肉ホルモン東郷の先からは左側(白色矢印)の県道下の歩道を進みます。

【修正のお願い】
新版ちゃんと歩ける東海道五十三次(西)佐屋街道
P171 
回転でらうま寿司焼肉ホルモン東郷に修正して下さい。

蟹江川を歩行者専用の弓掛橋にて渡ります。

蟹江川の流末は
日光川に落合います、かつてはヘラ釣りの名所でした。
弓掛橋東分岐 弓掛橋 蟹江川

 弓掛橋を渡り、一本目を左に踏み込み、スグの右手奥の民家の庭内に源義経弓掛の松と根方に伝説源義経弓掛松跡標石があります、現在のは五代目です。

源義経は兄頼朝の命により上洛の途次、この地で軍勢を休ませ、その際に弓を立掛けた松が弓掛松です。

義経がここから試みに
強弓を放つと矢が百町も飛び、矢が落ちた村は百町村と呼ばれ、矢落の社が創建されました。

百町の地名を今に残しています。
源義経弓掛の松 伝説源義経弓掛松跡標石 源義経

 ファミリーマート手前で歩道県道に合流(白色矢印)します、佐屋方面からは右側の歩道を進みます。

下田橋西交差点を越し、七宝病院前バス停を過ぎてしばらく進むと
津島市標識があります、あま市との境です。

この標識の左手に和食処
河満があります、頃合いです暖簾をくぐります。

マズは
生ビールです!

ありました
ひつまぶしランチです!!
弓掛橋西分岐 生ビール ひつまぶしランチ

 それも税込で1,650円です、尾張の地で
ひつまぶしとは最高です!!!

 神守宿到着 佐屋宿まで7.7km

 縄手道をしばらく歩き、神守町交差点を越すと右手に神守の一里塚北塚があります、寛文年間(1661~73)に築かれたと推定される佐屋街道中唯一現存する一里塚です(津島市史跡)。

北塚は東西7.3m、南北6.7m、高さ1.5mで、塚木はムクです。
南塚は長径5.5m、短径4m、高さ1.4mで、塚木はエノキでした。

熱田から四里、江戸日本橋より数えて九十三里目です。

この神守の一里塚辺りが神守(かもり)宿の
東口です、神守宿に到着です!

神守宿は万場宿と佐屋宿間が三里十八町(約13.7km)と長いため人馬の継立に難渋し、岩塚宿、万場宿、佐屋宿の請願により正保四年(1647)に新設されました。
神守の一里塚 神守の一里塚標柱

 天保十四年(1843)の
佐屋路宿村大概帳によると神守宿の宿内家屋は百八十四軒、うち本陣一、問屋二、旅籠十二軒、宿内人口は八百十二人(男四百四人、女四百八人)、宿長は七町五十一間(約856.4m)で宿並は下町、中町、上町で構成されました。

 天保十五年(1844)刊の尾張名所図会に神守宿は「佐屋街道の馬継なり。駅舎旅館のすこぶる壮麗にして、いと賑わえり」と著されています。

宿並の下町をわずかに進むと右手に浄土宗の
阿弥陀寺があります。

先に進むと神守町下町交差点手前の左手に豪壮な造りの
旧家があります。

神守町下町交差点
を右折(白色矢印)します、下町から中町に入ります、佐屋方面からは左折になります。
阿弥陀寺 豪壮な旧家 神守町下町分岐

 神守町下町交差点を右折すると右手に南町(下町)の尾張津島秋まつり山車蔵があります。

尾張津島秋まつりにはからくり人形を乗せた絢爛豪華な山車が神守の南町、中町、上町の三町から繰り出します(津島市文化財)。

南町車(くるま)の上段の大将人形は杖と軍扇(団扇)を持つ七福神の寿老人で、からくりは小唐子(こからこ)と大唐子が太鼓を打つ離れからくりです。

二本目を左に踏み込むと正面に神守山
養源寺があります、本尊は阿弥陀如来です。
南町山車蔵 南町車 養源寺

 元は
天台宗でしたが享禄四年(1531)浄土真宗大谷派に改宗しました。

経蔵は漆喰塗(ぬりごめ)造りの六角堂で唐破風の下に金の彫刻が施されています、この経蔵には釈迦如来像一切経が奉安されています。

 宿並に戻って先に進むと左手の津島市消防団神守分団の角に神守村道路元標があります。

神守分団の裏に
中町の尾張津島祭り山車蔵があります。

中町車の上段の大将人形は梅と鶴を愛でた中国宋代の詩人林和靖(りんなせい)です。

からくりは大唐子と小唐子が梅の木に逆立ちをして太鼓をならす
離れからくりです。
神守村道路元標 神守分団 中町山車蔵 中町車

 スグの左手に連子格子の旧家があります。

突当りの
T字路を左折(白色矢印)し上町を進みます、佐屋方面からは右折になります。

この分岐点の突当りに
神守の宿場跡標柱があります(白色□囲い)、この辺りが神守宿の本陣跡です、建坪は百三十七坪でした。

分岐点を右折(黄色矢印)すると左手に
上町山車蔵があります。
連子格子の旧家 上町分岐 神守の宿場跡 上町山車蔵

 上町車の大将人形は三国志の関羽で、からくりは三体の唐子で構成され、回転して舞います。

並びに文政三年(1820)建立の
吉祥寺六角地蔵堂があります、宝暦八年(1758)造立の延命地蔵菩薩が安置されています、佐屋街道を通行する旅人は立ち寄って道中の安全を祈願しました。

真言宗の
吉祥寺は憶感山と号し、憶感神社の別当寺でした、本尊は神守観音と呼ばれる聖観音です。

正面に
憶感(おっかん)神社が鎮座しています、延喜式神名帳に記載されている古社で、水難防止、雨乞いを守護する水神を祀っています。
上町車 吉祥寺地蔵堂 憶感神社蕃塀

 この地は
木曽川の水害に悩まされました、神守の地名は憶感神社の川守に由来しています。

鳥居をくぐると境内に
蕃塀があります、三間幅の木造銅板葺き連子窓型蕃塀です。

 憶感神社は当初北神守村に鎮座していましたが、正保四年(1647)集落を現在地に移転し神守宿が開設され、翌年の慶安元年(1648)現在地に遷座されました。

宿並に戻って上町を進むと右手に
穂歳(ほうとし)神社が鎮座しています、延喜式神名帳に記載されている古社で、雨乞いと豊作の守護神である大歳神(おおとしのかみ)を祀っています。

神守祭の山車は文化年間(1804~18)頃に始まったといわれ、三町の山車がそれぞれ憶感神社穂歳神社に奉納されました。

この神守祭の
山車は大豊作の年や特別な奉祝行事の年に限り、旧暦八月十六日に奉納されました。
このため
神守祭は不定期開催でした。
憶感神社社殿 穂歳神社

 昭和三十年(1955)神守村津島市の合併を機に、この貴重な文化遺産を後世に伝承し保存するために毎年十月の第一日曜日に行われる尾張津島秋まつりに神守の山車三台が繰り出すことになりました。

尾張津島秋まつりは江戸時代に
津島の地で行われていた七切、向島、今市場の祭りを、大正十五年(1926)に津島神社縣社から国幣小社に昇格したのを奉祝して合同で行うようになりました。

尾張津島秋まつりには神守の山車三台が加わり、計十六台の
山車が繰り出し、津島神社に車切(しゃぎり)とからくりが奉納されます、車切とは山車の前方を持ち上げ均衡を保ちながら、山車を何度も連続回転させる勇壮な技です。
尾張津島秋まつり 枡形

 穂歳神社の並びに
枡形の痕跡があります、ここが神守宿西口です。

 街道をしばらく進むと越津(こしづ)町交差点の先が逆Y字路になっています、佐屋方面からは左に進みます。

越津の地はあいち伝統野菜
越津ねぎの名産地です、江戸時代中期に越津で栽培が開始され、徳川幕府への献上品として扱われました。

関東を代表する下仁田ねぎや千住ねぎは
根深ネギと呼ばれ、主に白根の部分を食用とします。

これに対して関西を代表する九条ねぎは
葉ネギと呼ばれ、主に緑のの部分を食用とします。

越津ねぎは両ネギの中間的品種で、白根のいずれも軟らかく食用に適しています。
越津分岐 越津ネギ

 街道には趣がある長屋門があります。

下切(しもぎり)町を進み、
日光川日光橋にて渡ります、日光川は濃尾平野の北部に源を発し、流末は伊勢湾に注ぎます。

天保十五年(1844)刊の
尾張名所図会に日光川は「頗る大河にして、佐屋街道には大橋を架す、下流に百町(ひゃくちょう)、鹿伏兎(かぶと)、観音寺、大海用等の渡船あり」と著されています。

日光川には
往還橋と呼ばれる板橋が架橋されていました。
長屋門 日光川 常夜燈

 日光橋渡詰めの左手には常夜燈歌碑、陽刻の石造地蔵菩薩立像旧日光橋親柱があります。

旧日光橋は昭和九年(1934)に架橋された
5径間ゲルバー式鋼板桁橋でした。

この旧日光橋を撤去したところ、長さ約5m、直径約25cm、計310本の
松杭が基礎杭として使われていました。

横の階段で土手を下り、日光橋高架をくぐると(黄色矢印)、正面に
秋葉神社が鎮座しています。
旧日光橋親柱 日光橋高架 秋葉神社

 この辺りに日光新田村の
立場がありました。

 街道に戻って先に進むと、日光交差点手前の左手に日光寺がありましたが、今は廃寺となり個人住宅になっています。

跡地には真新しい
地蔵堂があります、錫杖を持った石造地蔵菩薩立像が安置されています。

先に進むと右手のトヨタカローラ愛知津島の並びに
獅子舞開祖市川柳助碑があります、市川柳助(龍介)は天保六年(1835)三河の生まれです。

獅子芝居は尾張、三河で神事の後の余興として始められました(愛知県無形民俗文化財)。
地蔵堂 地蔵尊 市川柳助碑

 明治初期に柳助は尾張の獅子芝居義太夫浄瑠璃などを取り入れ、各地を巡業して普及に務めました。

市川柳助碑の傍らに
諸鍬(もろくわ)神社社標があります、ここから約450m先に鎮座しています、延喜式神名帳に記載されている古社です。

祭神は
天諸羽命(あまのもろはのみこと)で、蚕桑(さんそう)の神として篤く信仰されています。

蚕桑とは
を育て、を飼うことです。
獅子芝居 諸鍬神社社標 諸鍬神社

 諸鍬神社の並びに真言宗智山派の千手寺があります、創建は不詳ですが天和二年(1682)に再興され、本尊の千手観音像行基の作と伝わっています、当寺は尾西弘法廿一大師第十三番霊場です。

街道に戻って先に進むと、津島市古川町歩道橋の手前が
逆Y字路になっています、佐屋方面からは左に進みます。

街道は
古川村から埋田(うめだ)に入ります、埋田の村名は元禄九年(1696)日光川の河川敷を「埋めて田」にしたところに由来しています。
千手寺 古川町分岐 埋田分岐①

 左手の
ケンタッキーフライドチキンを左折(白色矢印)し、1本目を右折(白色矢印)します、佐屋方面からは突当りのケンタッキーフライドチキンを左折し、突当りの県道を右折します、県道側の分岐点には津島市役所前バス停があります。

【修正のお願い】
新版ちゃんと歩ける東海道五十三次(西)佐屋街道
P174 
幸楽苑ケンタッキーフライドチキンに修正して下さい。 

旧道を進むと右手に
鳥居があり、奥に小社が鎮座しています。

境内に踏み込むと左手に
旧東海道追分 津島神社一ノ鳥居趾碑があります。

この津島神社一ノ鳥居跡はこの先の
常夜燈のところにあります。
埋田分岐② 大地主神社 一ノ鳥居跡碑

 境内の右手に明治天皇御小休記念椿碑があります、明治天皇埋田御小用所跡です(津島市史跡)、明治元年(1868)九月二十六日還幸の際にここで小用を足しました。

小用跡に
ツバキの枝を差しておいたところ根付いたので、これを祈念して明治十八年(1885)に大地主(おおとこぬし)神社が勧請されました。

旧道に戻って、わずかに進むと左手に天和二年(1682)建立、明和二年(1765)再建の
埋田の追分道標があります。
明治天皇碑 大地主神社 埋田追分道標

 道標には「左さやみち」「右つしま天王みち」「東あつた なごや道」と刻まれています。

佐屋街道津島街道(下街道)の追分です。

追分には
立場があり、大正時代までは松並木がありました。

天保十五年(1844)刊の
尾張名所図会立場茶屋松並木が描かれています。

左手の橋が佐屋街道です、橋詰めには
埋田追分道標、津島街道には追分常夜燈、丹塗りの津島神社一ノ鳥居が描かれています。
佐屋津島追分 尾張名所図会 追分常夜燈

 埋田追分からの佐屋街道は消滅しています、ここからは迂回路になります、そのまま直進します。

追分常夜燈の
牛頭天王常夜燈が対であります、右(北)は天保二年(1831)、左(南)は明和三年(1766)の建立です。

常夜燈先にあった
津島神社一ノ鳥居は昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風で倒壊し、根石のみが残されています、鳥居の上部は木造丹塗りでした。

スグの左手に
マルト旅館があります。
津島神社一ノ鳥居跡 マルト旅館 柳原分岐

 佐屋街道の貴重な宿泊施設です、素泊まり、朝食付、朝・夕食付が選べます 0567(26)3445

先の
十字路を左折(白色矢印)します、佐屋方面からは右折になります、この分岐点にはSUZUKI看板の東海自動車サービスがあります。

 この十字路を右折(黄色矢印)し東柳原交差点を左折し、先に進むと柳原町一丁目交差点先の右手に浄土宗西山派清光院があります。

境内に
津島一里塚跡標柱があります、津島街道の一里塚跡です、熱田から五里、江戸日本橋より数えて九十四里目です。

北塚の塚木は
赤松、南塚の塚木はでしたが昭和の初めに道路整備、耕地整理の為に取り払われました。

更に先に進み名鉄尾西線津島駅高架をくぐった先(津島一里塚跡から約1.5km)に
津島神社が鎮座しています、全国に点在する津島神社の総本社です。
清光院 津島の一里塚跡 津島神社

 欽明天皇元年(540)の創建で、疫病除け、授福の守護神である
牛頭天王信仰の中心社で、かつては津島牛頭天王社と称し津島の天王さまと呼ばれ親しまれていました。

伊勢参宮は津島神社と併せて参拝しないと片参りといわれ、今も昔も善男善女で賑わっています。

津島牛頭天王社の神霊は庶民のみならず、戦国時代の
武将大名からも篤く崇敬されました。

 豊臣秀吉は天正二十年(1592)に楼門を寄進しました、楼門は三間一戸、入母屋造檜皮葺き丹塗りで、維新前には楼上に仏像が安置され、境内にあった神宮寺山門でもありました(国重要文化財)。 

南門豊臣秀吉の病平癒を祈願して、秀頼の発眼により、清洲城主福島正則が建立した四脚門で切妻造檜皮葺です。

この
南門は昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風で倒壊し、復元の際、慶長三年(1598)に建立されたことが墨書銘から確認されました。

南門と拝殿の間に
蕃塀があります、尾張地方の神社には尾張造と呼ばれる社殿配置があります、南門、蕃塀、拝殿、祭文殿(さいもんでん)、回廊、釣殿(渡殿)、本殿を南北軸線上に一直線に並べ、拝殿は切妻造、蕃塀は透垣(すいがい)になっています。
楼門 南門・蕃塀

 織田信長は津島牛頭天王を氏神と仰いで社殿を造営しました(国重要文化財)。

織田家の家紋は当社の神紋と同じ木瓜(もっこう)です、瓜を輪切りにした断面や鳥の巣を模したものといわれ、子孫繁栄を祈る家紋です。

桃山式建築様式の伝統を残す優雅な
本殿は慶長十年(1605)の建立です、三間社流造檜皮葺で本殿全体は鮮やかな丹塗りです(国重要文化財)。

徳川家康の四男で清洲城主の
松平忠吉が病弱であることを憂えた妻女政子の方(井伊直政の娘)が健康を祈願して寄進したものです。
拝殿 織田家家紋 本殿

 東鳥居脇に御神木大イチョウがあります、御幣の付いた注連縄が張られています。

幹回り5.3m、樹高25m、推定樹齢
六百年で幹からは多数の(木根)が垂れています、これに触れると母乳の出が良くなるといいます(愛知県天然記念物)。

それでは佐屋街道に戻りましょう、先に進み橘町3交差点を越し、左手の
たやす腎クリニックの先を右折(白色矢印)します、佐屋方面からは左折になります。

1本目を左折(白色矢印)します。
御神木大イチョウ 愛宕分岐① 愛宕分岐②

 ここから
埋田追分からの佐屋街道の旧道が復活します、佐屋方面からは右折になります。

 旧道は愛宕神社に沿って進み、斜め右に進みます。

愛宕神社は
延喜式神名帳に記載されている古社天照皇大神宮愛宕大権現の二柱を祭神として祀っています。

愛宕神社は
火伏せ災難防除の守護神として信仰され、町内安全、家運隆昌の守護神として古くから人々に崇敬されています。

参道口には明治四十一年(1908)建立の
常夜燈と同四十年(1907)建立の石造鳥居があります。
愛宕神社 参道口 愛宕十王堂

 左手の常夜燈脇に愛宕十王堂があります、十王堂には冥土で亡者の罪業を裁く閻魔大王を筆頭とする十人の(判官)の像が安置されています。

生前に十王を崇めれば、死して後の罪を軽減してもらい
極楽往生できるという十王信仰です。

旧道に戻り、道なりに進み、途中
県道を斜め喰い違いに横断します。

カーブミラー先の
Y字路を右に進みます、この分岐点にはモダンな造りの2階建て住宅があります。

左手の横井商店先の横断歩道標識手前を左に踏み込むと、突当りの県道105号線の左手に
日置(へき)八幡宮、右に明通寺があります。
十王  日置八幡宮

 日置八幡宮は養和元年(1181)源頼朝によって創建された古社で、古くは若宮八幡宮と称しました。

頼朝はこの地の
日置荘園を京の若宮八幡宮に寄進し、その縁に寄り若宮八幡宮を勧請し、この地の産土神としました。

江戸時代は
流鏑馬(やぶさめ)神事が盛大に行われました。

社殿前には
龍虎が三頭陽刻された三間(約5.5m)幅の石造連子窓型蕃塀があります。

毎年旧暦の正月十五日に農作物の豊凶を占う
管粥(くだがゆ)神事が行われます、小豆と米の中に竹筒を入れて粥を炊き、竹筒の中に入った小豆や米粒の量によって豊凶を占います(愛西市指定文化財)。
蕃塀 日置八幡宮社殿

 神事後に
は参拝者に振る舞われます。

 日置八幡宮の社宝に建長四年(1252)銘の木造獅子頭があります、年紀銘のある獅子頭としては国内最古のものです(愛西市指定文化財)。

同じく社宝に明応二年(1493)銘の十一面観音菩薩像が陽刻された
懸仏(かけぼとけ)があります(愛西市指定文化財)。

日置八幡宮に隣接して真言宗智山派の
大聖院があります。

養和元年(1181)
源頼朝が若宮八幡宮を勧請した際に別当寺として光明院を創建しましたが、慶応四年(1868)明治新政府の神仏分離令により廃寺となりました。

明治三十年(1897)和歌山の
大聖院を移して再興されました。
日本最古の獅子頭 大聖院

 大聖院の先に法光山明通寺があります、創建は不詳ですが明応六年(1497)に再興され、その際に天台宗から真宗大谷派に改宗しました。

明通寺の寺宝に
葵紋の扇があります、初代尾張藩主徳川義直が鷹狩の際に立ち寄り、その時に義直から拝領したものです。

同じく寺宝に
親鸞聖人作という聖人の御本像蓮如上人筆という六字名号(南無阿弥陀佛)等があります。

安政年間(1854~60)
古今組(こきんぐみ)、新古今組を作曲した筝曲(そうきょく)家吉沢検校(けんぎょう)は当寺の生まれです。

検校とは室町時代以降、盲官の最高位の称号です。
明通寺 徳川義直

 旧道に戻ると右手に名鉄尾西線日比野駅があります。

【修正のお願い】
新版ちゃんと歩ける東海道五十三次(西)佐屋街道
P175 
日々野駅日比野駅に訂正して下さい。

旧道に戻り、先に進むと
T字路に突き当たります、右折(白線矢印)します、佐屋方面からは左折になります

この分岐点には
正栄(しょうえい)があります。
日置分岐 正栄 もち巾着

 
もち巾着(きんちゃく)の名店です、油揚げの中に餅や色々な具材を入れ、巾着状に干瓢等で縛り、おでんに良し、焼いて良しです。

 分岐点から先の旧道は消滅しています、迂回路として直進し名鉄尾西(びさい)線踏切を横断します。

わずかに進みカーブミラーと494表示電柱がある十字路を右に踏み込むと
由乃伎(ゆのぎ)神社が鎮座しています、延喜式神名帳に記載されている古社で、本殿は神明造檜皮葺です

境内の二ノ鳥居をくぐると二間(約3.6m)幅の
石造連子窓形蕃塀があります、蕃塀には「鯉の滝登り」と「「波間を飛ぶ千鳥」が陽刻されています。
名鉄尾西線踏切 由乃伎神社 社殿

 明治元年(1868)九月二十六日
明治天皇東幸の際に、勅使が参拝し玉串を奉納しました、以来例年同日に祭礼が行われるようになりました。

 街道に戻って、先に進み左手の474表示電柱を左折(白色矢印)します、佐屋方面からは右折になります、1本目を右折(白色矢印)すると旧道が復活します。

右手の中部電力佐屋変電所を過ぎると、突当りの県道458号線手前の右手に
佐屋海道址碑があります(愛西市指定文化財)。

傍らの解説板には「かつて東海道の脇往還として多くの往来がみられた佐屋路。往時の栄華を後世に語り継ぐため、昭和五十四年(1979)十一月に碑が建てられました。」と記されています。
五反田分岐① 五反田分岐② 佐屋海道址碑

 突当りの県道458号線を左折(白色矢印)します。

佐屋方面からは
佐屋街道址碑の手前を右折し、先に進み2本目の十字路を左折します。

街道を進み、一本目を右に踏み込むと右手に真宗大谷派の
信力寺があります、本尊は阿弥陀如来立像です。

昭和四十三年(1968)
火災により本堂が焼失し、近代的な鉄筋コンクリート造りに建て替えられました。
五反田分岐③ 信力寺 鈴木家住宅

 街道に戻ってしばらく進むと右手に
鈴木家住宅があります(国登録文化財)、は明治十二年(1879)、主屋は同二十三年(1890)の建築です。

鈴木家はこの地の
大地主で江戸時代末期に財を成し、当主鈴木仙太郎は明治十六年(1883)愛知県会議員就任以来、衆議院議員、県議会議長、佐屋村の村長を歴任しました。

 わずかに進むと右手に地蔵堂があります、産着を着た地蔵菩薩立像が安置されています。

スグ先の右手に真宗大谷派の芙蓉山
浄法寺があります、創建は不詳ですが天正十年(1582)に再建されました。

本尊は
阿弥陀如来で、寺宝に天正十年(1582)の裏書がある浄土真宗の本尊である阿弥陀如来を描いた方便法身(ほうべんほっしん)尊像があります。

鐘楼の
梵鐘は寛政九年(1797)佐屋村の庄屋浅野勘左衛門が寄進したものです。
地蔵堂 地蔵尊 浄法寺梵鐘

 次いで右手に天神社が鎮座しています、祭神はいわずと知れた学問の守護神菅原道真です。 

創建は不詳ですが、織田信長の家臣であった
鈴木清太夫が本能寺の変後、この地に移り住み慶長七年(1602)に天神社を再興し、代々崇敬社とし延宝七年(1679)に社殿を改築しました。

天神社の祭礼
須依(すえ)石採祭りは例年十月体育の日の前日に行われ、多数の提灯を掲げた石取祭車が繰り出し曳き廻されます。

わずかに進み、
須依交差点を左折すると左手の植栽の中に筆塚があります。
天神社 真野香邨筆塚 香邨画 着色山水之図

 日本画家の
真野香邨(まのこうそん)の生家跡です。

慶応二年(1866)佐屋で生まれた
(本名比佐太郎)は京都で南画を学び、水墨画に色彩を加えた山水画の名品を残しました。

 佐屋宿到着

 須依交差点を右折すると佐屋宿の東口です、佐屋宿に到着です! 
佐屋三里の渡し方面からは左折になります。

佐屋宿は寛永十一年(1634)佐屋村須賀村依田村を加宿とし、三ケ村をもって開設され、三里の渡しを控え大いに賑わい、佐屋街道四宿中最大の規模でした。

天保十四年(1843)の
佐屋路宿村大概帳によると佐屋宿の宿内家屋は二百九十軒、うち本陣二、脇本陣二、問屋二、旅籠三十一軒(大三、中十三、小十五)、宿内人口は千二百六十人(男六百十一人、女六百四十九人)で、宿長は三町三十間(約381.8m)でした。

須依(すえ)の地名は佐屋宿を構成した須賀村依田村の頭文字を組み合わせて命名されました。
佐屋宿東口 水鶏塚道標

 宿並を進むと横断歩道標識左の横道口に
水鶏塚道標「くひな塚 是より南へ一丁(約109.1m)」があります。

 この横道に踏み込むと、先の右手に享保二十年(1735)建碑の水鶏塚と呼ばれる芭蕉句碑「水鶏鳴と人乃云へばや佐屋泊り」があります。

元禄七年(1694)
芭蕉が江戸から故郷の伊賀へ帰る途中、佐屋の門人で佐屋御殿番役を勤める山田庄左衛門素覧亭(そらんてい)に逗留した際に詠んだ句です(佐屋町文化財)。

この
水鶏塚は芭蕉の没後四十年に素覧亭で座を共にした人達が建碑したものです。

この地は水辺に生息する
クイナが「クッ クッ」と鳴く風情の地と聞き、ならば泊まってみようという句です。
水鶏塚 松尾芭蕉 クイナ

 宿並に戻って先に進むと左手に中町の脇本陣跡があります、敷地は百六十七坪で、建坪は百十二坪でした。 

趣のある
を残し、庭内には手入れの行き届いた老マツがあります。

上町にあった
越川屋脇本陣は代々治郎兵衛を襲名し、敷地は二百四十二坪で、建坪は百七坪でしが位置は不明です。

加藤本陣は代々五左衛門を襲名し、宿年寄問屋を兼ね、敷地は三百六十五坪で、建坪は百八十一坪でしたが位置は不明です。

明治天皇は明治元年(1868)九月二十六日東幸の際に加藤本陣休息所とし、同年十二月十八日還幸の際は天候急変により急遽行在所とし、同二年(1869)三月十六日東幸の際に休息所としました。
脇本陣跡 加藤本陣門

 加藤本陣は弘化二年(1845)の築で、尾張藩から下賜されたものです、座敷は津島市片町の浄光寺へ、本陣門は愛西市西保町北川原の善定坊にそれぞれ移築されています。

 先に進むと右手の岩間家岩間本陣跡です、代々権右衛門を襲名し、敷地は五百三十四坪で、建坪は百二十六坪でした。

宿並を更に進むと左手の一角に
佐屋湊への道を示すさや舟場道道標「左り さや舟場道」があります。

さや舟場道道標後方のブロック塀の中に
きこくの生垣があります、往時ここにあった旅籠近江屋の生け垣で、天保十五年(1844)刊の尾張名所図会「佐屋駅湊口」に描かれています。

枳殻(きこく)はカラタチの別名で、中国原産のミカン科の落葉低木です。
岩間本陣跡 佐屋舟場道道標 きこくの生垣

 
果実の香りがよいところから庭木として鑑賞され、鋭い(とげ)があるところから外敵の侵入を防ぐ生垣に用いられました。

 宿並正面の信号交差点手前の右手に佐屋代官所址碑佐屋代官所碑があります。

寛永十一年(1634)徳川三代将軍
家光の上洛に際し、家康の九男尾張藩初代藩主徳川義直佐屋湊佐屋御殿を造営しました。

承応二年(1653)
船番所が置かれ、三里の渡しの取締りと運営を行いました。

元禄八年(1695)
佐屋奉行が置かれ、船番所はその支配下に置かれましたが、享保十一年(1726)佐屋奉行は廃止され、天明元年(1781)佐屋代官所が設置されました。
佐屋代官所址碑 佐屋代官所碑 三里之渡趾碑

 
佐屋代官所は海東海西郡中の百九ケ村七万四千石余を支配し、三里の渡しを監視しました。

信号交差点を左折すると、右手の公園内に
東海道佐屋路佐屋 三里之渡趾碑があります、ここから川舟で桑名の七里の渡し場へ渡りました。

 三里の渡し佐屋湊から川舟で佐屋川を下り木曽川を横断し、対岸の鰻江(うなぎえ)に入り、長島輪中を抜け、長良川揖斐川を横切り桑名の渡し場に至る、三里の舟旅でした。

佐屋湊には
渡舟が五十六艘あり、水主(かこ)八十二人が従事し、舟賃は乗合一人十七文で、四十五文の七里の渡しに比べ割安でした。

佐屋川平水時の川幅が七十間(約127.3m)、出水時の川幅はおよそ二百五十間(約454.5m)でした。

尾張名所図会に「川幅広く、水おびただしき事測りがたく、川中に梶島、油島等の島々あり。ここより桑名への船路三里余、常に大小の船往来絶ゆることなく、しんしんの高貴及び西国の諸侯方も、皆この川を通行し給ひて、あつた潟の七里の渡につづける船渡なり」と著されています。
佐屋驛渡口 尾張名所図会

 
佐屋川は江戸時代末期になると上流からの土砂が堆積し、浚渫(しゅんせつ)が間に合わず廃川となりました。

佐屋街道はここまでです!

三里之渡趾碑の前を直進し、新田交差点を左折した先が名鉄尾西線
佐屋駅です!!