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東海道さった峠からの富士 |
街道ウォーカーにとって「富士山」はアイドルです。
東海道筋から望む富士は雄大であり、甲州路から望む「裏富士」は風情に満ち、古今を問わず「富士山」は旅人のあこがれなのです。
この富士山の山頂の所有権を巡る裁判が確定し、平成16年
12月17日(金)譲与が行われたのです。
そもそもことの発端は昭和23年、静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社が国に対して山頂の国有境内地の譲与を申請したことに始まります。
その根拠とは、慶長十四年(1609)に徳川家康が八合目以上を浅間大社に寄進したことを示す古文書だったと言います。
これに対して、国は山頂を国有地とする決定を下しました。
浅間大社は昭和32年、国を相手取り、決定の取り消しを求めて提訴しました。
一審、二審で「八合目以上は浅間大社の御神体で、宗教活動に不可欠」と判断され、浅間大社側が勝訴、昭和49年に最高裁で確定しました。
それから30年後の平成16年12月17日、最高裁の判断に基づいて、八合目以上の土地約四百万uのうち、富士山測候所や登山道等を除く約三百八十五万uが浅間大社に譲与されたのです。
それにしても法的根拠が家康の寄進とは凄いですね。
家康は慶長五年(1600)関ケ原の合戦に勝利し、天下人となり江戸幕府の体制を確充する諸政策に着手しています。
翌、慶長六年(1601)伝馬制が施行され、東海道の整備が開始され、翌年中山道の整備に着手しています。
徳川家康は関ヶ原の合戦から五年後の慶長十年(1605)に将軍職を嫡子の秀忠に譲り、自らは駿府城(東海道)に居を移し「大御所政治」を展開しています。
この「大御所」時代に富士山頂を浅間大社に寄進したことになります。
街道を歩いていますと、それこそいたる所で「浅間神社」「熊野神社」「諏訪神社」「八幡神社」に出会います。
以前から、各神社の脈歴が気になっていました、そこで、チョットだけ調べてみました。
諏訪神社は全国1万3千数社といわれています、どうりで各街道でお目にかかりますネ。
諏訪神社の総本社は信濃国(長野県)下諏訪の諏訪大社です。
祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)です。
この二神は古事記に登場する神です。
諏訪大社は狩猟、農業の神から発展し、国家鎮護の守護神として崇敬をあつめました。
鎌倉幕府は社領を寄進し、武田信玄は社殿を造営・祭祀を復興し、徳川幕府は社領千五百石を奉献したと言います。
浅間神社は富士山の神である木花咲耶姫神(このはなさくやひめのかみ)を祭神としています。
全国に1,300数社があり、とりわけ関東に多いと言います、静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社を中核としています。
第7代孝霊天皇の時代に、富士山が大噴火し、一帯は荒廃してしまいました。
第11代垂仁天皇はこれを憂い、浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮めたのが起源とされています。
その後は噴火が治まり、神徳のおかげとして篤い崇敬を集めました。
江戸中期になると、富士講は盛んになり、富士山に行くことの出来ない人達は、陰暦6月1日の前後、江戸の浅草・駒込・高田など各地に分祀した富士権現社に参詣し、境内の富士塚に登って代参としたそうです。
熊野神社は和歌山の熊野三山から黒潮に乗って太平洋岸各地に広まり、全国3,000数社に上ると言います。
● 熊野本宮大社(本宮町)
● 熊野速玉神社(新宮市)
● 熊野那智大社(勝山町)
熊野三所権現の信仰の地として、宇多法皇の御世から上皇や女院などの参拝が百数十回にもおよび、その様子は"蟻の熊野詣"にたとえられるほど熊野へ参拝する人はあとをたたなかったと言われます。
今日も交通安全、大漁満足、家庭円満、夫婦和合、長寿の神として崇敬をあつめています。
八幡神社の祭神は八幡神で最初大分県宇佐市の宇佐神宮に顕現し、応神天皇であると言われています。
鎌倉幕府ができますと、源氏が八幡神を信仰していたことから武士階級に篤く信仰されるようになりました。
鶴岡八幡宮(鎌倉)は康平6年(1063)源頼義公が奥州を平定して鎌倉に戻り、源氏の氏神として由比ケ浜辺にお祀りしたのが始めです。
八幡神は国家鎮護の神として多くの人々の崇敬を集め、全国津々浦々にお祀りされました。
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