江戸期以前の中山道

往時のままの和田の峠道

 中山道は東海道に対して山道ゆえ東山道(とうさんどう)と呼ばれ、古代から中世にかけて京(都)と東国を結ぶ重要な官道でした。
 
 気候温暖な太平洋に面した
東海道ではあっても、道中には難所大井川、天竜川、富士川、六郷川等の渡河があり、いったん増水になると難渋を極めた為、古来東山道の利用度は高かったと言えます。

近世の中山道

 天下人となった徳川家康は慶長六年(1601)東海道の整備に着手し、翌年中山道の整備に着手しました。

 中山道は当初「
中仙道」と書かれましたが、後に「中山道」の字に統一されました。

奈良井宿

 中山道は江戸日本橋から京まで六十九次ですが、草津、大津宿を東海道の宿駅とすれば草津宿までの中山道は六十七次になります。

 東海道の河川等には架橋や徒歩、舟渡しが整備されましたが、川留めによる
日程の狂いは避けられませんでした。
 
 それに対して
中部山岳地帯を貫く中山道は難所も多く、冬は雪に見舞われ難渋を極める道中でしたが、川留めがないとろから日程が立て易く、多く利用されました。

 又、東海道にある今切れの渡し、七里の渡し等の船旅が中山道には無い為、
女性の道中にも多く利用されました。

 幕末の文久元年(1861)十月公武合体の政略の内、
皇女和宮降嫁の大通行はこの中山道を用いました、但しこれに先立ち和宮の諸道具は東海道にて江戸に輸送されました。

善光寺参り

 東海道に於ける伊勢参宮と同様に善光寺参り(善光寺街道参照)の参詣客で中山道は大いに賑わいました。
 
 善光寺の
本尊は仏教渡来時の仏像とあって善光寺に対する崇敬にはあついものがありました。

道 程

      1   2   3   4   5   6
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宿

日本橋 ─  
 橋
     
 和
  
 宮
  
 
  
 川
 
 巣
 
 谷
 
 
  
 庄
 
 町
   倉賀野  
 崎
   
 
  
 中
   松井田   
 本
  軽井沢    
 掛
 

  小田井    岩村田    塩名田   

   

  

   長久保   

   下諏訪   

  

 

  

   奈良井   

   宮ノ越   

  

  

  

   三留野    

  

  

   中津川   

  

   細久手   

  

  

  

  

  

   美江寺  

  

  

  

  

  

  

   鳥居本    

    愛知川   

  

  

宿間km   10

7
  8

6
  4

7
  6

1
  8

4
  3

6
  8

3
  15

6
  11

8
  11

0
  8

9
  6

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  8

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  3

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  9

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  8

8
  12

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  3

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  5

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  4

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  5

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  2

6
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  5

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  6

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  7

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  5

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  7

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  11

1
  16

5
  5

1
 
路名 武 州 路 上 州 路 信 濃 路 木 曽 路 美 濃 路 近 江 路
30km
行程
@ 30.1km A 35.9km B 31.7km C 32.6km D21.5km E 24.5km F 24.4km G H 29.1km I 28.8km J 28.1km K 20.6km L 32.3km M 30.9km N 32.6km O 29.7km P 32.2km Q 32.7km
40km
行程
@38.5km A 39.3km C 39.5km D 34.5km E 36.0km F 35.5km G 36.2km H 42.3km I 28.1km J 39.2km K 33.3km L 37.7km M 40.1km N 40.1km
50km
行程
@ 42.1km A46.7km B 50.3km C 48.7km D 47.2km E 46.2km F 48.7km G 50.6km H 50.0km I 43.3km J 46.5km
和宮降嫁 24 23  31.4km
浦和昼食
23.9km
鴻巣
22.8km
深谷昼食
S 28.5km
倉賀野昼食
R 21.8km
松井田昼食
Q16.6
軽井沢
P 23.2km
小田井昼食
O 21.8km
芦田昼食
N M21.5km
塩尻昼食
L20.2km
贄川昼食
K24.7km
福島昼食
J29.7km
須原昼食
I19.2km
妻籠昼食
H23.6km
大井昼食
G30.9km
御嵩昼食
F26.7
鵜沼
E20.3km
河渡昼食
D 18.6km
関ヶ原昼食
C 28.9km
鳥居本昼食
B27.6km
武佐昼食
A
大田南畝 M 19.3km L 46.7km K 38.4km J 34.7km I 43.5km H 40.7km G 41.7km F 44.3km E 40.6km D 30.6km C 39.3km B 38.9km A 40.0km @36.4
km
大津
新撰組 @ 30.1km A 20.3km B 38.4km C 41.5km D30.1km E 32.9km F 30km G 36.2km H 42.3km I 36.8km J 46.5km K 34.8km L 38.9km M 40.0km N36.4
km
大津

 皇女和宮降嫁 幕末尊王攘夷が高まり弱体化した幕府は「公武合体」の策として第十四代将軍徳川家茂と孝明天皇の皇女和宮との婚儀を推し
  進めました。
   文久元年(1861)十月二十日和宮一行は京を出立し草津宿から中山道に入り江戸に向かいました、行列は朝廷方数千人、幕府方一万五千人、
   人馬の継立は一日平均人足二万五千人、七百五十疋が動員された大通行でした。

 大田南畝(なんぽ)は幕臣であり狂歌、洒落本の作者でもあり、蜀山人とも称しました、赴任先の大阪からの帰路の行程です。

 後に新撰組となる試衛館一門の上洛行程(15泊16日) 幕末、幕府の攘夷実行を条件にした「皇女和宮降嫁」による「公武合体」
  策も功を奏せず、京の市中は尊王攘夷を標榜する倒幕派による天誅が横行、皇女和宮降嫁に関与した島田左近も斬殺されてしまい、京の治安
  は悪化の一途をたどっていた。
   その様な折、公武合体の実を上げる為に将軍家茂自らが上洛することになった、将軍の上洛は三代家光以来二百二十年振りの大業であった。
   幕府は出羽出身の清河八郎の献策による京の治安維持の露払いに徴募した浪士隊を派遣する案を採択、折から文久元年(1861)天然理心
  流四代目を襲名し試衛館の主となった近藤勇以下一門はこれに応募した。
   文久三年(1863)二月八日明六ツ(午前6時)小石川の伝通院に浪士二百三十余名が集合、浪士隊は七組に編成され五ツ半(午後9時)順次
  中山道に歩を進め、京に向った。
   道中、本庄宿にて先番宿割役の任にあたった近藤勇は手落ちにより芹沢鴨の組の宿泊手配を怠ってしまった、芹沢は激怒し野陣を張ると嘯(う
  そぶ)き宿街道で大篝火(かがりび)を焚き、これを諌めにきた宿場役人に危害を加える事件を起こしている(一説には下諏訪宿とも謂われている)。
   後の近藤勇一門と芹沢一派との確執を象徴させる事件とも言える。
   浪士組一行は二月二十三日入京し、近藤等は壬生村の八木源之丞方に草鞋を脱いだ、近藤一門はやがて「新撰組」を旗揚げし、この地で獅子
  奮迅の働きをする、だが次第に時代の波に晒され野の露と消え去ってしまった。

 宿間の距離は宿村大概帳の換算ではなく、宿内の主要交通機関等に設定したものです。

中山道は江戸日本橋から東海道草津宿まで
宿村大概帳  百二十九里十丁八間
実     測  520.3km

 京三条大橋まで百三十五里二十四丁八間(約533km)と東海道より41kmほど長くなっています。

フィールド

 山深い木曽路等は鉄道や主要道路から外れ開発の手が入らず、過疎が進みました。

 それ故、往時の建造物がそのまま残り往時の面影を残す遺構や宿並、峠道を残し、この上ない
ウォーキングフィールドとなっています。

 サア、魅惑的な「中山道ウォーク」に繰り出してみましょう、山と渓谷社より

●ちゃんと歩ける 中山道六十九次 (東) 江戸日本橋〜藪原宿 
  五街道ウォーク 八木牧夫 著

●ちゃんと歩ける 中山道六十九次 (西) 藪原宿〜京三条大橋 
  五街道ウォーク 八木牧夫 著

が出版されました、
中山道ウォークにお役立て下さい。

道中日記 「中山道ウォーキング」の記録です、ご覧下さい。