甲 斐 國 |
戦国時代甲斐の地で覇をとなえた武田氏は織田、徳川両軍の前にあえなく滅亡、信長亡き後は徳川家康が甲斐の地を領し治めました。
その後家康は秀吉により江戸に移封され、甲斐の地は秀吉の支配下となりました。
関ヶ原の合戦に勝利し、天下人となった家康は東海道、中山道そして甲州道中の整備に着手しました。
甲州道中は徳川幕府の生命線 |
家康はこの甲州街道を江戸幕府の生命線と考えていたと云われています。
一朝有事には江戸城の半蔵門を出ればそこは甲州道中であり、内藤新宿には百人組鉄砲隊、八王子宿には千人同心を配置してあり、これらの助けにより甲府城に入れます。
甲府に至れば富士川の舟運により駿府への連絡が可能であり、甲州道中は下諏訪宿で中山道に接続していました。
街道事情 |
台ケ原宿内の旧街道は「日本の道百選」の一つ |
甲州道中は徳川幕府にとっては戦略上重要な街道ではありましたが、参勤交代の大名は高島、高遠、飯田の三藩だけに限られていました。
唯一の大通行は「お茶壷道中」だけでした。
幕府に献上される「宇治の茶」は中山道を通り、下諏訪宿から甲州道中に入りました。
お茶壷道中は一日当たり人足約六百人、馬五十疋と疲弊していた各宿場にとっては負担を強いられるものでした。
この道中は将軍通行と同じ権威をもち、道中で行き合っ た大名は乗物のまま道の端に寄って控え、家臣は下乗、供の者は冠り ものを取り、土下座をして行列の通過を待ちました。
庶民は「茶壷に追われて戸をピシャン 抜けたらドンドコショ」と家に隠れたといいます。
このお茶壷道中は慶長十八年(1613)から慶応二年(1866)まで230年間続きました。
甲州街道の各宿場は振るはず、数宿が連合し月割りによって問屋業務を勤めていました。
しかし享保九年(1724)甲斐の地が再び幕府直轄地となってからは代官所が設置され、甲府城に勤める甲府勤番や幕府役人の通行が多くなりました。
身延参詣、甲斐善光寺参詣等の旅人でも賑わうようになったと謂われています。
行 程 |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宿 名 |
日本橋 | ─ | 内藤新宿 | ─ | 下高井戸 | ─ | 上高井戸 | ─ | 国 領 |
─ | 下布田 | ─ | 上布田 | ─ | 下石原 | ─ | 上石原 | ─ | 府 中 |
─ | 日 野 |
─ | 八王子 | ─ | 駒木野 | ─ | 小 仏 |
─ | 小 原 |
─ | 与 瀬 |
─ | 吉 野 |
─ | 関 野 |
─ | 上野原 | ─ | 鶴 川 |
─ | 野田尻 | ─ | 犬 目 |
─ | 下鳥沢 | ─ | 上鳥沢 | ─ | 猿 橋 |
─ | 駒 橋 |
─ | 大 月 |
─ | 下花咲 | ─ | 上花咲 | ─ | 下初狩 | ─ | 中初狩 | ─ | 白 野 |
─ | 阿弥陀海道 | ─ | 黒野田 | ─ | 駒 飼 |
─ | 鶴 瀬 |
─ | 勝 沼 |
─ | 栗 原 |
─ | 石 和 |
─ | 甲府柳町 | ─ | 韮 崎 |
─ | 台ケ原 | ─ | 教来石 | ─ | 蔦 木 |
─ | 金 沢 |
─ | 上諏訪 | ─ | 下諏訪 |
宿 間 km |
7 ・ 1 |
7 ・ 6 |
2 ・ 8 |
5 ・ 6 |
├ | ─ | 布 | 田 | 五 | ケ | 宿 | ─ | ┤ | 7 ・ 5 |
9 ・ 5 |
5 ・ 5 |
7 ・ 4 |
3 ・ 2 |
4 ・ 9 |
1 ・ 3 |
3 ・ 6 |
2 ・ 6 |
3 ・ 7 |
2 ・ 0 |
4 ・ 3 |
3 ・ 5 |
4 ・ 1 |
1 ・ 0 |
2 ・ 6 |
2 ・ 8 |
1 ・ 1 |
1 ・ 8 |
0 ・ 5 |
3 ・ 9 |
1 ・ 0 |
2 ・ 5 |
2 ・ 9 |
0 ・ 9 |
10 ・ 9 |
1 ・ 3 |
3 ・ 9 |
3 ・ 4 |
6 ・ 2 |
6 ・ 7 |
12 ・ 8 |
17 ・ 8 |
5 ・ 5 |
4 ・ 8 |
12 ・ 4 |
12 ・ 7 |
5 ・ 7 |
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國名 | ┠ | 武 蔵 國 | ╂ | 相 模 國 | ╂ | 甲 斐 國 | ╂ | 信 濃 國 | ┨ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
30km 行程 |
┠ | @ 30.6km | ╂ | A 30.5km | ╂ | B 28.7km | ╂ | C 29.6km | ╂ | D 33.0km | ╂ | E 28.1km | ╂ | F 30.8km | ┨ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
40km 行程 |
┠ | @ 40.1km | ╂ | A 32.2km | ╂ | B 34.0km | ╂ | C 33.3km | ╂ | D36.1km | ╂ | E 35.6km | ┨ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
50km 行程 |
┠ | @ 53.0kmkm | ╂ | A 53.3km | ╂ | B 46.1km | ╂ | C 58.9km | ┨ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
安藤広重 | ┠ | @ 45.6km | ╂ | A 33.0km | ╂ | B 28.6km | ╂ | C 32.4km | ┨ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
甲陽鎮撫 | ┠ | @ 23.5km | ╂ | A15km | ╂ | B 16.8km | ╂ | C 31.3km | ╂ | D 24.4km | ╂ | E5.2km | ┨ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
※ 宿間の距離は宿村大概帳の換算ではなく、ウォーキングの継立てがし易いように各宿場の主要交通機関等に設定してあります。 ※ 安藤(歌川)広重 天保十二年(1841)四月の行程です。 ※ 幕末、徳川慶喜は朝廷に「大政奉還」をして急遽江戸に戻り上野寛永寺に恭順しました。 総裁の勝海舟は過激な新撰組がこのまま江戸に留まるのは不都合と考え、近藤勇を大名格、土方歳三を若年寄格に取り立て、武器と金子を与え、甲府城死守を命じました。 一行は「甲陽鎮撫隊」と称し、内藤新宿の妓楼で出陣式の宴会を催し、慶応四年(1868)三月二日甲府に向け出立しました。 上石原は近藤の故郷であり、日野は土方の生誕の地、故郷に錦を飾った一行は行く先々で熱烈な歓迎を受け、進軍は遅々として進まなかったと云います。 しかし八王子の千人同心は軽輩の身とはいえ直参意識が強く、出世したとはいえ近藤一行を「多摩の百姓」と見下していたそうです。 この間乾(板垣)退助率いる東山道軍(官軍)は甲府城を奪取してしまいました。 甲陽鎮撫隊は柏尾に橋頭堡を築きこれを迎え討ちましたが、圧倒的な火力の前に剣で鳴らした新撰組は歯が立たず敗退してしまいました。 |
甲州道中は宿村大概帳によると江戸日本橋から下諏訪宿まで
宿村大概帳 五十三里二十四町
実 測 211.3km
フィールド |
白州町前沢付近より七里岩を望む 撮影:木藤 幸男 |
今日、日本橋から八王子宿間は都市化されてしまい、かえって歩きずらい道になってしまいました。
しかし高尾駅を過ぎ、浅川に架かる両界橋を渡った辺りから、一気に往時を彷彿する道筋になります。
街道には大旨原型を留めた小仏峠、笹子峠の難所(今日も)も控えています。
甲州道中を一言で言い表すとしたら「渓谷美」に尽きます、そのとどめは「七里岩」の景観につきます。
サア、「甲州街道」に繰り出してみましょうか、この度、山と渓谷社から
● ちゃんと歩ける 甲州街道 五街道ウォーク 八木牧夫著
が出版されました、甲州街道ウォークにご活用下さい。
「甲州街道ウォーキング」の記録です、マップと照らし合わせてお読み 下さい。 |