道中日記  8-149 日光壬生通り ( 喜沢追分 - 今市追分 ) 50.0km

 私の街道ウォークはデジカメ撮影、ストップウォッチの操作、万歩計のチェックそして絶えずマップの現在位置を確認しながらのウォークです。

街道遺構を見つけたらその位置をマップに落とす為です、ちょとでも目を離すと位置不明になってしまいます。

日光壬生通りは小山の喜沢追分から日光の今市追分までの50.0kmです。

以上の点を考慮しますと、通常は25km×2日が妥当でしょう、しかし二日掛けたのでは不経済です。

そして
街道ウォークは優れた有酸素運動です、タラタラ歩いたのでは健康効果は得られません、50kmぐらいビューと行きましょう。


 駅に到着すれば電車の進行方向から判断して出口方向はすぐに解ります、ところが駅構内にて小用を足したため逆に出てしまいました、よくやるんです、出立前からロスタイムです。

街道は早朝から
夏陽サンサンです。

 平成19年6月23日 AM6:42 小山宿出立 飯塚宿まで6.8km 

 小山駅から北約2.9kmに位置する、日光道中喜沢分岐点交差点が喜沢追分です。

日光道中は喜沢追分のY字路を右(黄色矢印)に進みます、左(白色矢印)が日光壬生通りです。

この喜沢追分には
立場茶屋があり、将軍日光社参の際は警護所が設置されました。

宇都宮を経由する日光道中に比べると一里十町(約5.0km)程近道で、庶民の日光参詣によく利用されました。

追分手前の左手には
馬力神があります。
喜沢追分 馬力神

 馬頭観音は馬の守護神であり、馬の勢いで悪霊を追い払うと信じられています。

ところが明治の世になると
神仏分離廃仏毀釈が叫ばれ、馬頭観音は生き残る為に神道系の馬力神勝善神(そうぜんしん)にと姿を変えました。

 喜沢追分の分岐点には左から天明五年(1785)建立の供養塔道標「左壬生道 右宇都宮道」、明治二十七年(1894)建立の馬頭観世音日清日露日支出征馬碑があります。

それでは喜沢追分を出立しましょう。

喜沢交差点を越し、県道18号線
小山壬生線を進むと、街道の両側は小山ゴルフクラブのゴルフコースになります。

左手のクラブハウスを過ぎると左手に
喜沢西の一里塚西塚が現存しています、向かいの東塚は一部崩れかけています(小山市史跡)。
追分の石塔群 喜沢西の一里塚

 日光道中の
小山の一里塚から一里、江戸日本橋より二十一里目です。

 先に進むと左手に赤マツが現れます、ゴルフ場内に桑57号墳があります、全長59mの帆立貝型古墳で五世紀後半の築造です。

古墳脇には
旧道痕跡があり、日光道中壬生通分間延絵図に描かれている成沢橋があります。

ゴルフ場を抜けると街道の両側は畑になります、信号交差点右手の覆屋内に新旧二体の
地蔵尊が安置されています、右手の東島田子育地蔵尊は享保十二年(1727)の造立です。
桑57号墳 東島田子育地蔵尊 石仏

 わずかに進むと左手に
石仏が四体並んでいます、三拝河岸村念仏講中による享保十九年(1734)建立の地蔵立像、同十五年(1730)造立の念仏百万遍地蔵立像如意輪観音十九夜塔等です。

 先の十字路を左に入ると三拝河岸問屋跡があります、田波家が勤め三拝河岸村の名主を兼ねました、問屋は集積された廻米を間々田の乙女河岸に廻送しました。

三拝河岸は田波家の裏手にありました、三拝の地名は河岸から日光山筑波山富士山の三山が拝めたところに由来しています。

街道に戻り十字路をそのまま右に入るとY字路の分岐点に
馬頭観音があります、嘉永四年(1851)の建立で三拝河岸と刻まれています。

日光道中壬生通分間延絵図にはこの分岐点の右は「新田宿江道法(のり)二廿丁」、左は「小金井宿江道法一里」と記載されています。

街道に戻って先に進むと左手に
大日山美術館があります。
三拝河岸問屋跡 馬頭観音

 古民家を移築し、郷土の版画家
小口一郎の作品等を展示しています。

 扶桑(ふそう)歩道橋交差点を左折し、鹿沼壬生方面に進みます、今市方面からは右折になります。

この分岐点の右手にある覆屋内に天保十二年(1841)建立の
馬頭観世音、安永四年(1775)造立の如意輪観音像、享保十三年(1728)建立の南無阿弥陀佛名号碑、元禄十六年(1703)造立の青面金剛像庚申塔が安置されています。

先に進み
姿川半田橋にて渡ります、姿川は鞍掛山栗谷沢(くりやさわ)に源を発し、流末は思川に落合います、流れは小山藩壬生藩の境をなし、(はや)、が名物でした。
石塔群 姿川 羽川西小前

 夏から秋は
徒歩渡り、冬から春は仮橋が架橋されました、橋上からは北に男体山谷川岳那須連山が望めます。

ここには
半田河岸があり、江戸との舟運がありました。

喜沢方面からは先の
羽川西小前交差点Y字路を右に進みます。

 AM8:05 飯塚宿着 壬生宿まで6.3km

 街道をしばらく歩くと右手の段上に七面堂が鎮座しています、日蓮宗法華経の守護神七面大明神を祀っています、この辺りが飯塚宿の南口です、飯塚宿に到着です!

飯塚宿は承応三年(1654)に宿駅となり、思川に飯塚河岸があり、日光東照宮修復の資材が陸揚げされ、三名の河岸附問屋が居ました。

天保十四年(1843)の
壬生通宿村大概帳によると飯塚宿の家数は六十五軒、うち本陣二、脇本陣一、問屋一、旅籠十一軒、人数は三百十人で、宿長は六町(約655m)でした。

七面堂の斜向いに
妙典寺があります、参道口に宝暦二年(1752)建立の南無妙法蓮華経法界題目碑があります。
七面堂 妙典寺

 境内には安永三年(1774)建立の
日蓮五百遠忌(おんき)南無日蓮大菩薩供養塔があります。

遠忌とは五十年毎に行う
宗祖の回忌法要のことです。

 宿並を進むと右手に桑の里元気うどんがあります、その斜向いに飯塚宿下本陣跡があります、宮本家が勤め、本陣門を残しています、門には下本陣宮本本陣の表札を掲げています。

先に進むと右手に手打そばよろずやがあります、向いが
飯塚宿上本陣跡です、谷田貝家が勤め、敷地を残しています。

スグ先の左手に
国指定琵琶塚摩利支天塚古墳案内標識があります、ここを右に踏み込むと摩利支天塚古墳があります、全長約120mの前方後円墳(国史跡)です、後円墳丘上には摩利支天社が鎮座しています。
下本陣跡 上本陣跡 摩利支天塚古墳

 街道に戻って先に進むと信号交差点の左手に台林寺(たいりんじ)があります、門前に文化五年(1808)と嘉永七年(1854)建立の十九夜塔と享保四年(1719)建立の南無阿弥陀佛名号碑六地蔵等があります。

墓地には飯塚河岸建設に尽力した壬生藩家老
九津見定利の墓があります。

台林寺の並びに
天満宮が鎮座しています、学問の神菅原道真を祭っています、明神鳥居は享保十八年(1733)の建立です。
台林寺 天満宮 石仏石塔群

 台林寺前の信号交差点を右に進んでみましょう、左手の墓地脇に
馬頭観音、元禄六年(1693)建立の念仏供養塔、享保五年(1720)建立の庚申塔、寛政十二年(1800)造立の青面金剛供養塔等があります。

 先に進むと左手に琵琶塚古墳があります、全長約123mで栃木県最大の前方後円墳(国史跡)です、墳丘上には熊野神社が鎮座しています。

右手には
国史跡摩利支天塚琵琶塚古墳資料館があります。

更に先に進むと左手に案内標識「小金井駅3.7km→」があります、ここを左に踏み込むと
紫式部の墓があります、はじめは姿川沿いに安置されていましたが、明治初期ここに移されました。

この辺りは
という地名であるところから、源氏物語の作者である紫式部の墓といわれるようになりました。

まだ先に
下野国分尼寺跡がありますが、街道に戻りましょう。
琵琶塚古墳 紫式部の墓

 街道に戻り長閑な田園風景の中を進むと、飯塚の一里塚が現れます、両塚が現存し、塚木は共にマツでした(小山市史跡)、江戸日本橋より二十二里、喜沢西からは一里目です。

天平の丘公園等入口標識を右に入ると左手一帯が
下野国分寺跡です、天平十三年(741)聖武天皇が国家鎮護のため各國に建立した寺院です。

跡地には七重塔、金堂、講堂等の
基壇が現存しています。

街道に戻ると右手に
甲塚(かぶとづか)古墳があります、帆立貝形の前方後円墳です。
飯塚の一里塚 下野国分寺跡

 左手の紫雲寺の境内には藤棚が組まれ、藤の名所になっています。

スグ先で
小山市から下野市に入ります。

歩いていると
ユウガオの実の収穫に遭遇しました!

正徳二年(1712)近江水口藩主
鳥居忠英(ただてる)が三万石で入封し壬生藩主となった 際に、東海道水口のユウガオの栽培を導入し、実を細く裂いて、乾燥させる干瓢(かんぴょう)作りを奨励しました。
紫雲寺 ユウガオの実 名残り杉 愛宕神社

 以来、干瓢は
壬生の特産となり、これが今に続いています。

この先、街道の所々に
杉並木の名残りがあります。

花見ケ岡交差点を直進しますが、右に進むと左手に
愛宕塚古墳があります、全長約78mの前方後円墳(国史跡)で、墳丘上には愛宕神社が鎮座しています。

 花見ケ岡交差点に戻り、今度は左に進むと右手に蓮華寺があります、境内に大蛇済度(さいど)之池跡蛇骨(じゃこつ)経塚があります。

夫と妾に嫉妬した妻が二人を咬み殺し、
大蛇となって里人を大いに苦しめました。

この地を通りかかった
親鸞上人が済度すると、大蛇は菩薩の姿となって往生し、空から蓮華(れんげ)の花が降ってきました、これが花見ケ岡の地名由来となりました。

下野市から栃木市に入り、更に下都賀郡壬生町に入ると、
黒川御成橋にて渡ります、黒川の流末は思川に落合います、夏は舟渡し、冬は仮橋が架橋されました。
蓮華寺 黒川 名残り杉

 御成橋を渡ると
名残り杉が出迎えてくれます。

 AM9:25 壬生宿着 楡木宿まで10.9km

 先に進むと左手に壬生の一里塚があります、西塚が現存しています(国史跡)、江戸日本橋より二十三里、喜沢西からは二里目です。

ここは壬生城下の南口にあたり、
壬生藩主はここで日光社参の将軍を見送りました、壬生宿に到着です!

壬生宿は
壬生城の城下町として発展し、黒川に五ケ所の河岸があり、江戸との舟運が盛んでした。

天保十四年(1843)の
壬生通宿村大概帳によると壬生宿の家数は四百二十九軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠十軒、人数は千八百七十人で、宿長は十九町二十九間(約2125m)でした。
壬生の一里塚 東武宇都宮線踏切 壬生町道路元標

 東武宇都宮線を
第46号踏切道にて横断すると、右手に壬生町道路元標があります。

 壬生交番前のY字路を右に進むと壬生駅入口交差点に出ます。

ここからの宿並は壬生藩医学の街
蘭学通りと命名され、電柱が取り払われています。

これは
蘭方医斎藤玄昌に因んでいます、玄昌は種痘を取り入れ、腑分けの解体正図を著しました。

宿並を進むと右手の松本内科の敷地奥に堂々とした
を残しています。

先に進むと左手に
増田輪業があります。
蘭学通り 松本家門 壬生宿本陣跡

 手前の砂利道奥に
壬生宿本陣門があります、松本庄兵衛が勤め、名主を兼ねました、建坪は約百二十五坪で、門構え玄関付でした。

残念ながらこの本陣門は消滅しました。


 役場入口交差点を左に入ると壬生城址があります、壬生城は代々壬生氏の居城でしたが、秀吉の小田原攻めに際し、北条方に組したため、壬生氏は滅亡しました。

正徳二年(1712)近江水口藩主
鳥居忠英(ただてる)が三万石で入封し、明治維新まで壬生藩鳥居家八代の居城となりました。

壬生城の東北隅に
精忠神社が鎮座しています、境内に畳塚があります。

鳥居家の祖で、徳川家康の重臣
鳥居元忠を祭神として祀っています。
壬生城二ノ丸表門 精忠神社 畳塚

 元忠は関ケ原合戦の前哨戦となった
伏見城の戦いで奮戦し、西軍の進攻をくい止め十分に時をかせぎ、落城の際に自害して果てました。

その忠節は
三河武士の鑑と称され、血染めの畳は忠義の証として江戸城伏見櫓に保管され、江戸城明け渡しの際、鳥居家に下げ渡され、境内に埋め畳塚が築かれました。

 宿並に戻ると左手に横に長い石崎家長屋門があります、 壬生藩御典医を勤めた石崎家の屋敷跡です(壬生町史跡)。

並びに
興光寺(こうこうじ)があります、慶安四年(1651)徳川三代将軍家光の日光遺送の際に通夜を行い、葵紋を拝領しました。

スグ先左手の手造りお惣菜おにぎりのパオ店の敷地脇に
脇本陣並びに通町問屋場跡標柱があります、松本半兵衛が勤め、問屋を兼ねました、建坪は約七十四坪でした。

先の右手にケーキハウスヒガノがあります。
石崎家長屋門 興光寺 脇本陣跡 玄昌旧宅跡

 敷地脇に
斎藤玄昌旧宅跡標石があります、壬生藩主鳥居家の御典医を勤めました。

 大師町南交差点を左折します。

上田街道入口交差点の先を左に入ると
常楽寺があります、山門前に象がいます、これは普賢菩薩が乗る象に由来しています。

墓所には
壬生家累代の墓鳥居家累代の墓があります、共に壬生町史跡です。

宿並に戻って進むと右手に
壬生寺があります、境内に慈覚大師円仁産湯井戸があります、円仁は壬生氏の子として生まれ、最澄に師事し、唐留学後は比叡山の天台座主となりました、本堂には円仁の木像が安置されています。
常楽寺 壬生寺 円仁産湯井戸

 宿並に戻って進みます、本丸1丁目交差点を越した先が斜め右にカーブします、この辺りが壬生宿の北口で日光口と呼ばれました。 

この辺りから
国道352号線左側の用水を挟んで歩道があります、旧道痕跡に近いです。

国道右手の田舎まんじゅうの増田屋のスグ先の左手に
名残り杉があります。

先に進むと民家の角に
馬力神が祀られています。

牛蒡(ごぼう)が名産であった下稲葉村先の北関東自動車高架をくぐります。
旧道痕跡 名残り杉 馬力神

 上稲葉交差点を越すと右手セブンイレブンの並びの田の中に金売り吉次の墓があります、吉次は平泉の藤原秀衡(ひでひら)に仕え、奥州の砂金を京で商いました。

吉次は
兄頼朝と不仲になり、平泉に逃れる義経の供をしましたが、この地で病に倒れ生涯を閉じました。

奥州道中の
皮籠(かわご)には盗賊団に殺されたという吉次三兄弟の墓吉次八幡があります。

元禄二年(1689)松尾芭蕉の
おくのほそ道に随行した曽良の日記には「ミブヨリ半道バカリ行テ吉次ガ塚右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」と記されています。

墓の奥に
金売り吉次観音堂があります、観音小堂内に吉次の守護仏馬頭観音が安置されています、堂脇には石祠が祀られています。
金売り吉次の墓 稲葉の一里塚

 先に進むと左手に
稲葉の一里塚があります、西塚が現存しています(壬生町史跡)、江戸日本橋より二十四里、喜沢西からは三里目です。

 先に進むと右手に鯉沼九八郎翁碑があります、稲葉村の出身で板垣退助の自由党に参加し、自由民権運動を弾圧した栃木県令の爆殺を図るも、暴発により左腕を失い、殺人未遂により投獄されました。

出所後は
栃木県議会議員を勤め、大正十三年(1924)死去、享年七十三歳でした。

右手の
稲葉不動尊入口標識をやり過ごすと、左手に小社鳥居大釜があります。

稲葉小学校を過ぎると右手民家の門口に
馬力神が祀られています。
鯉沼九八郎翁碑 不動尊寺標 小社 馬力神

 先の左手に円宗寺の参道口があります、慈覚大師円仁の開基で、日光門主の避寒の寺でした。

境内には
十九夜塔庚申塔、延宝八年(1680)建立の名号碑、樹齢六百年のケヤキ等があります。

参道途中の十字路を左に入り、道なりに進むと
市兵衛八幡が鎮座しています、元禄八年(1695)壬生藩領内で勃発した百姓一揆の首謀者神永市兵衛は死罪となり、義民として祭られています。

街道に戻って先に進むと左手に
梅林天満宮が鎮座しています、例大祭の日に拝殿正面の合格太鼓を五回叩けば入試合格間違いなしといいます。
円宗寺 市兵衛八幡 梅林天満宮

 街道を先に進むと右手に壬生町消防団第2分団第2部があり、並びにようこそ七ツ石の里へ解説があります。

信号交差点を越すと右手に
七ツ石伝承館があります、熊野神社の近くで七度鳴動すると三尺の丸石が出現したとか、布教中の日蓮上人一行七人が休息していると、空から大きな石が七ツに割れて落ち、「この七ツの石を見つけると願いごとが叶う」とのいい伝えがあります。

中華飯麺楽食房の
清華楼を過ぎると下都賀郡壬生町から鹿沼市に入ります。

北赤塚十字路交差点を越した先の右手に
馬力神が祀られています。

先に進むと左手に
名残り杉があり、後方に金刀比羅神社があります、覆屋内に小社が鎮座しています。
馬力神 金刀比羅神社

 北赤塚村を抜けると左手の田の中に判官塚古墳があります、全長約60mの前方後円墳で、源義経が冠を埋めたとか、塚穴に隠れ追っ手から逃れた等の伝説があります(鹿沼市指定史跡)。

右手には
磐裂根裂(いわさくねさく)神社が鎮座しています、開墾農耕の神で地元ではいわねさんと呼ばれ、親しまれています。境内には享保十八年(1733)建立の石鳥居、安政三年(1856)建立の狛犬、文久元年建立(1861)の庚申塔等があります。

先の切通し口の左手に
北赤塚の一里塚の西塚が現存しています、塚木はエノキです、江戸日本橋より二十五里、喜沢西からは四里目です。
判官塚古墳 磐裂根裂神社 北赤塚の一里塚

 一里塚の裏側には石仏石塔群があります、文化六年(1809)と安政六年(1859)建立の馬頭観音馬力神日露戦役徴馬紀念碑等があります。

一里塚と国道の間の
旧道痕跡を進むと左手に愛宕神社が鎮座しています、境内には寛政七年(1795)建立の白雲山碑、安政七年(1860)建立の猿田彦大神等があります。

旧道を進むとデイリー前に出ます、左手の横道口に
石裂山(おざくさん)道標「右くかおさく 左あハのをさくミち」があります、山岳修験霊場の石裂山に鎮座する久我石裂(くがおざく)と粟野石裂(あわのおざく)への道標です。
石仏石塔群 愛宕神社 石裂山道標

 この横道に踏み込むと、右手の墓地内の覆屋内に寛延三年(1750)北赤塚判官台女人講中が建立した
十九夜塔等があります。

 街道に戻って進むと杉並木の名残りがあります、スギの古木を約三十数本残しています。

左手の千趣会(せんしゅかい)商品センターを越し、鹿沼ソーラーファームの角を左折すると
磯山神社が鎮座しています、慶安元年(1648)徳川三代将軍家光より御朱印を拝領しました。

寛文二年(1662)建立の
本殿は栃木県文化財、境内の御神木のは樹齢五百年、夫婦杉は樹齢四百年で、共に鹿沼市天然記念物です。
杉並木 磯山神社本殿 御神木杉 夫婦杉

 街道に戻ると左手に南押原小学校、次いで南押原中学校があります、中学校の生徒さんは自転車で歩行者を追い越す時、挨拶を忘れません、気を付けてね!

東北自動車道ガードをくぐると、
楡木追分を示す交通標識が現れます、楡木追分近しです。

信号
追分交差点楡木追分です、日光例幣使道(黄色矢印)の終点であり起点です、この楡木追分の逆Y字路を右(黄色矢印)に進むと中山道倉賀野追分に至ります。

この分岐点には
追分道標があります。
楡木追分近し 楡木追分 追分道標

 貞享五年(1688)建立の
追分道標には「右中山道 左江戸道」と刻まれていますが、大分風化が進んでいます。

 PM12:03 楡木宿着 奈佐原宿まで1.5km

 楡木追分を越すと楡木宿に到着です!

地名は百姓家にあった一本の
ニレノキに由来します。

楡木宿は奈佐原宿と合宿で問屋業務は半月交代で勤め、日光例幣使道の追分を控え賑わいました。

天保十四年(1843)の
壬生通宿村大概帳によると楡木宿の家数は百二十八軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋二、旅籠十五軒、人数は五百十一人で、宿長は六町二間(約658m)でした。

宿並を進むと右手に
成就院があります、シダレアカシデの古木(栃木県天然記念物)で知られます。
楡木山成就院 シダレアカシデ

 境内には
十王堂や文化十年(1813)建立の十九夜塔等があります。

 昼飯前に24km潰しておけば午後の組立ては楽になります。

丁度良い頃合いです、宿並に手打蕎麦の
よし乃家があります、それでは暖簾をくぐりましょう。

望み通りのランチセットがあります、
穴子天丼&もりそばセットに決定です。

ビール実にうまい、ヒートアップした体にはこれしかない、グビグビ音を立てて喉を通過します!

そばも良い、つゆも丁度良い、天丼更に良いとどめのそば湯最高です!!
よし乃家 瓶ビール 穴子天丼&そばセット

 それじゃー、午後もビューッと行きましょう!!!


 PM12:54 奈佐原宿着 鹿沼宿まで4.2km

 街道を進むと右手の空地前に宝暦三年(1753)建立の光明真言供養塔、同六年(1756)建立の大乗妙典供養塔、天保三年(1832)建立の勝善神、弘化二年(1845)建立の馬頭観世音が並んでいます。

先に進むと右手にゆばの
たまのやがあります、向いの墓地前に十九夜塔如意輪観音像、享保三年(1718)造立の地蔵坐像等があります、この辺りが奈佐原宿の南口です、早くも到着です!

この地は黒川の
河岸から材木や竹を江戸に送り出し、麻の栽培が盛んでした。楡木宿と合宿で問屋業務は半月交代で勤めました。

天保十四年(1843)の
壬生通宿村大概帳によると奈佐原宿の家数は六十三軒、うち本陣一、問屋二、旅籠二十二軒、人数は三百三十人で、宿長は四町十六間(約165m)でした。
石仏石塔 石仏石塔

【奈佐原の一里塚】
奈佐原宿の南口辺りにあったともいいますが、位置は不明です、江戸日本橋より二十六里、喜沢西からは五里目です。


 宿並を進むと左手に奈佐原宿問屋場跡があります、萩原家が勤め、土手を残しています、当初、奈佐原宿には本陣が無いため、参勤の際は萩原家が勤めました。

次いで右手GSモービル脇の小路奥に
奈佐原文楽用具収蔵庫があります、三人遣いの人形浄瑠璃奈佐原文楽(国無形民俗文化財)の用具類の収納庫で、人形二十頭は栃木県有形民俗文化財です。

左手の創業明治二十一年(1888)郷土銘菓
文楽もなかの老舗山田屋本店の先を左に入ると奈佐原神社が鎮座しています。
問屋場跡 奈佐原文楽用具庫 奈佐原神社

 境内に正徳六年(1716)建立の
石燈籠、安政七年(1860)建立の石鳥居、天保五年(1834)建立の狛犬があります。

境内社の
小出神社は善政を敷いた幕府代官小出大助を祭ったものです、大助は助郷の強制徴用を禁じ、開墾を奨励し村を栄えさせました、村民はこの仁政に感謝し生祠(せいし)を建立し小出様として祭りました。

 宿並に戻りわずかに進むと左手に追分地蔵坐像が覆屋内に安置されています、左の横道が出流山(いずるさん)満願寺への出流道です。

街道を進み樅山駅前交差点を越し、左手の名残り杉の先に
生子(いきこ)神社入口標識があります、天文十八年(1549)氏子の一子が天然痘で亡くなりましたが、蘇生祈願を行うと、三日後に生き返ったといいます。

例大祭では
子供泣き相撲(国無形民俗文化財)が奉納されます。

すぐ先の左小路に宝暦十年(1760)建立の
笠付道標「いつる」があります、出流山満願寺へ五里の道標です。
追分地蔵 生子神社 笠付道標

 出流山満願寺は天平神護元年(765)日光を開いた勝道上人の開山で、本尊は弘法大師作の千手観音菩薩像です、奥之院には鍾乳石の十一面観音像があり、子授け、子育てにご利益があります。

 スグ先を右に入ると光明寺があります、本尊の木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代前期の仏師快慶の作といいます(栃木県文化財)、境内の覆屋内には宝永四年(1707)造立の石造地蔵坐像愛宕様として安置されています。

大門宿交差点には享保十五年(1730)建立の
道標「善光 岩舩 琴平 粟野」があります。

大門宿は中世、この地を支配した
大門氏の拠点で、宿場を形成していましたが、江戸時代になると立場になりました。

先に進むと
上殿バス停があります。
光明寺 大門宿交差点 道標

 
上との村の村名は黒川畔に鎮座する鎮守三日月神社神殿(かみとの)に由来してます。

 信号交差点を右折すると正面に猿田彦神社が鎮座しています、この分岐点にあった道標「○道」は撤去されています。

神社の並びには
十九夜供養搭馬力神馬頭観世音等があります。

街道に戻って進むと右手の押原神社入口バス停の手前
に勝善神が祀られています。

右手の高橋外科胃腸科脇に
押原(おしはら)神社社標があります、ここが参道口ですが実際は街道をそのまま進み、スーパーのヨークベニマル駐車場の手前を右折します。
猿田彦神社 勝善神 押原神社参道口

 押原神社は大同四年(809)押原宗丸が大和國三輪大神を勧請し、押原六十六郷の総鎮守としました。

天慶二年(939)承平の乱の折、
藤原秀郷が戦勝祈願し、平将門追討後に弓箭鏡剣を奉納しました。

本殿は享保元年(1716)建立の
一間社流造で総体に漆が塗られ要所には金箔や彩色が施されています、鹿沼市有形文化財(建造物)です。

境内に安政四年(1857)建立の
狛犬があります。

村井町交差点に
村井宝龍観音石標があります、覆屋内には馬頭観音像如意輪観音像石祠が安置されています。
押原神社 石造物

 PM1:15 鹿沼宿着 文挾宿まで9.6km

 新鹿沼駅前交差点が鹿沼宿の南口です、鹿沼宿に到着です!

宿内には二筋の通りがあり、問屋業務は一日〜二十日は
内町通り、二十一日〜月末は田町通りが勤めました。

天保十四年(1843)の
壬生通宿村大概帳によると鹿沼宿の家数は七百五十一軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋四、旅籠二十一軒、人数は二千八百四十四人で、宿長は田町通り六町(約655m)、内町通り十町十八間(約1124m)でした。

新鹿沼交差点Y字路の右が
田町通りです、江戸時代以前からの町並みです。

Y字路の左は
内町通りです、元和二年(1616)宿並が形成されました。

この分岐点が
鳥居跡です、源頼朝が日光山神領口に建立した遠鳥居跡です。
鳥居跡(とりいど)

 この鳥居跡には日光二荒山神社から勧請した
二荒山神社が鎮座しています。

 内町通りを進むと左手に雲龍寺があります、鎌倉時代の武将宇都宮頼綱の崇敬が篤かったといいます。

山門前には
山口安良(やすら) 鈴木石橋(せっきょう)先生菩提所碑があります、共に儒学者で山口安良は名主を勤め、鹿沼の歴史書押原推移録をまとめました。

鈴木石橋は
鹿沼宿本陣の当主です、昌平黌で学び、私塾麗沢之舎(りたくのや)を開き、蒲生君平等を教育しました。

石橋は私財を投じて飢饉に備え米を備蓄し、
天明の飢饉の際に窮民を救済しました。
雲龍寺 菩提所碑 鈴木石橋

 後に
宇都宮藩に招かれ藩儒となり、藩士の教育にも勤めました。

 下材木町交差点を越し、安楽亭を左に入ると薬王寺があります、弘長年間(1261〜4)の創建で、本尊は伝教大師作の薬師如来像です。

元和三年(1617)
家康の遺骸を日光山に改葬する際、霊柩が当寺に四日間逗留し、それらを記録した渡御之記が寺宝として残されています。

墓地には家光の
鎧塔(よろいとう)があります、家光の霊柩も逗留し、日光山大猷院(だいゆういん)と同じ鎧塔が建立されました。

宿並に戻って進むと、右手の鈴木内科が
鹿沼宿本陣跡です、鈴木家が勤めました。
薬王寺 家光鎧塔 鹿沼宿本陣跡

 鈴木本陣は例年四月十三日
日光例幣使の宿所となりました。

 石橋町交差点を越すと右手に大和屋があります、軒下に鹿沼屋台夢箒の看板を掲げています。

大和屋は創業宝永元年(1704)
鹿沼箒(ほうき)の老舗です、鹿沼箒は鹿沼の名産で宿並は箒屋千軒といわれました。

先に進むと左手に
仲町屋台展示収蔵庫があります、屋台は当初質素な造りでしたが、次第に過熱し彩色彫刻黒漆塗屋台となり、ついに幕府から華美禁止令が出されました。

それならばと
白木の透かし彫りが施された絢爛豪華な屋台を造り出しました。
大坂屋 仲町屋台収蔵庫 鹿沼白木屋台

 鹿沼郵便局の先を左に入ると今宮神社が鎮座しています、延暦元年(782)の創建です、天文三年(1535)壬生綱房が鹿沼城の築城と共に現在地に遷座させ、今宮権現と称し、鹿沼城の守護神としました。

壬生氏滅亡後は
鹿沼宿の氏神となり、徳川幕府から五十石の朱印地を拝領しました。

毎年十月の
例大祭には、各町内の絢爛豪華な彫刻屋台が繰り出します。

宿並に戻ると市役所前交差点になります、鹿沼市役所裏の御殿山公園が
鹿沼城跡です、この地を領した鹿沼氏宇都宮忠綱に攻め滅ぼされ、宇都宮氏配下の壬生綱重が鹿沼城を築き居城としました。

壬生氏五代目の
壬生義雄(よしたけ)は宇都宮氏から離反し、北条方に従属したため、秀吉の小田原攻めにより滅亡し、鹿沼城は廃城となりました。
今宮神社

 市役所前交差点先の左手に天満宮が鎮座しています、天文年間(1532〜55)の創建です、境内には祭神菅原道真所縁の梅の木が植栽されています。

手前には
厳島神社が鎮座しています、同じく天文年間(1532〜55)の創建で、女神の弁財天を祀っています。

参道には
天神町屋台収蔵庫があります。

宿並に戻って進むと、信号交差点手前の左手に
星宮神社が鎮座しています、戸張町の氏神です、古くから虚空蔵さんと呼ばれ親しまれています。

小さな
本殿は鹿沼市有形文化財(建造物)です。
天満宮 天神町屋台収蔵庫 星宮神社

 本殿は
一間社流造銅板瓦棒葺で、全体に四十五点もの装飾彫刻がはめ込まれています。

【鹿沼の一里塚】
鹿沼宿の
内町通りにあったともいいますが、位置は不明です、江戸日本橋より二十七里、喜沢西からは六里目です。

 横道を挟んで弁財天を祀る石祠が鳥居奥に鎮座しています。

信号交差点を越した左手に
松源寺があります、境内の地蔵堂には大谷石製の延命塩なめ地蔵立像が安置されています、このお地蔵さんにを供えて願掛けすると霊験あらたかといいます。

松源寺先二つ目の信号交差点が
逆Y字路になっています、左が田町通りです、この両通りの合流点が鹿沼宿の北口です。

御成橋西交差点を右折して、
御成橋にて黒川を渡ります、常は徒歩渡し、将軍日光社参の際は架橋されました、橋上からは日光連山男体山が望めます。
辨財天 塩なめ地蔵尊 御成橋

 黒川は鳴虫山南西麓に源を発し、流末は思川に落合います。

御成橋渡詰めの三叉路交差点を左に進みます、以前の交差点名は
御成橋東でした、今市方面からは右折して、御成橋を渡ります。

左手の段上に
下野成田不動尊があります、本尊の不動明王弘法大師坐像は大師が四十二歳の大厄の時、厄除け祈願に自刻したものといいます。

日光参詣の
諸大名旅人は道中安全を祈願しました。

ここから街道は緩やかな
上り坂になります。
黒川 三差路分岐 下野成田不動尊

 北中西交差点の先に杉並木の名残りがあります。 

街道脇にはこの地の特産
鹿沼土の露天掘りがあります、鹿沼土は火山灰の軽石で通気性、保水性が良く、サツキの育成には欠かせません。

街道の右手に
古賀志山が望めます、古賀志山(標高582.8m)、御岳山(546m)、赤岩岳(536m)が一体の山塊を成して見えるため、これらをまとめて古賀志山と呼ばれます。

古賀志山は日光の入口に位置し、山頂には
御嶽神社が鎮座し、堂々とした山容は北関東屈指の名山といわれ、日本百低山に選定されています。
名残り杉 鹿沼土 古賀志山

 平成橋東交差点を越して先に進むと左手に鹿沼市斎場入口があります、並びの旧きくやレストランの敷地内に富岡の一里塚の西塚が復元されているといいます、江戸日本橋より二十八里、喜沢西からは七里目です。

街道沿いには
遊歩道があります。

しばらく進むと左手に鹿沼こんにゃくの
中條商店があり、スグの正面が日光並木道の南口です、左に日光市標識があります、鹿沼市からいよいよ日光市に入ります。

右には慶安元年(1648)建立の
並木寄進碑があります、相模玉縄藩主松平正綱は寛永二年(1625)紀州熊野から杉苗二十万株余りを取り寄せました。
遊歩道 日光杉並木 並木寄進碑

 それから二十数年の歳月をかけ、日光道中日光壬生通り会津西街道に植栽し、家康の三十三回忌に日光東照宮に寄進しました。この寄進碑は日光神領の境にあるところから境石とも呼ばれました。

日光杉並木は日本で唯一
国特別史跡並びに国特別天然記念物の二重指定を受けました。

左手の日光市標識脇(黄色矢印)に
遊歩道があります。

松並木の街道に沿う遊歩道をしばらく進むと
小倉の一里塚があります、両塚が現存しますが、西塚は削られています、塚木のスギは後世に植樹されたものです、江戸日本橋より二十九里、喜沢西からは八里目です。
遊歩道口 小倉一里塚(西塚) 東塚

 日光杉並木沿いの遊歩道を歩きます。

そばの
野立庵案内標識を越すと街道側にJR日光線文挟駅入口の信号交差点があります、駅名の文挟は「挟」の字を用いています。

遊歩道が途切れると街道沿いの
歩道を進みます。

文挾交差点が
宇都宮道追分です、この分岐点には宝暦十二年(1762)建立の廻国念仏供養塔道標「右鹿沼 出流 岩舩 左大谷 田下 宇都宮 道」があります。

この信号名の
文挾は「挾」の字を用いています。
日光杉並木 宇都宮道追分 追分道標

 PM4:03 文鋏宿着 板橋宿まで4.2km

 先に進むと左手の覆屋内に延命地蔵坐像が安置されています、文挾宿の南口にあって悪霊の侵入を見張っています、文挾宿に到着です!

文挾宿は
日光東照宮の造営後に開設され、板橋宿合宿でした。

天保十四年(1843)の
壬生通宿村大概帳によると文挾宿の家数は三十軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠十四軒、人数は百五十六人で、宿長は三町十四間(約353m)でした。用水が乏しく度々火災に見舞われ、遺構は失われました。

左手の新装になった日光ろばたづけ本舗向かいの問屋挙c辺商店が
文挾宿問屋場跡です、田野部浅右衛門が勤めました。

スグ先左の田中宅が
文挾宿本陣跡です、田野部善左衛門が勤め名主を兼ね、屋号を中屋善左衛門と称しました。
延命地蔵尊 文挾宿問屋場跡

 文挾の宿並で途切れた杉並木が宿外れから復活します、この右手に二荒山神社が鎮座しています。

源頼朝が近隣六十六ケ村を日光三社(日光二荒山神社、本宮神社、滝尾神社)に寄進し、日光三社を勧請した内の一社といいます、本殿には徳川家の三葉葵紋の彫刻が施されているといいます、文挾宿の鎮守です。

参道脇には
文挾宿郷倉跡があります、栗材による堅固な造りになっています、日光市有形文化財(建造物)です。

元禄、天明、天保等の
大飢饉で、日光神領の村々では餓死者が続出しました、このため、村民は協同で郷倉を建て、飢饉に備え稗(ひえ)等の穀物を備蓄しました。
二荒山神社 文挾宿郷倉跡

 二荒山神社脇が枡形になっています。

車道を歩くと左手の脇道の分岐点に
馬力神が祀られています、次いで左手に大乗妙典日本廻国供養塔があります。

枡形の終了点の松本建設脇から合成樹脂製の
遊歩道が復活します。

先に進むと文久元年(1861)建立の
聖徳太子碑があります、聖徳太子は渡来の仏教を庇護し、布教に努めたところから仏教の父と呼ばれました。

並びに
岩見重蔵之碑があります。
合成樹脂の遊歩道 聖徳太子碑 恐怖の車道ウォーク

 
岩見重蔵は仇討ちで知られる岩見重太郎の兄で、石橋で病に倒れ、仇に出逢ったが返り討ちに遭いました。

 途切れ 々 にあった杉並木裏の
歩道もとうとう無くなってしまいました、車道を歩かなければなりません。

車道の
幅員(ふくいん)はおのずから杉並木の幅ですからたかが知れています。

車道の両側には
玉石積みが立ち上がっています、大型車同士のすれ違いはギリギリです、この道を車は結構なスピードで走り抜けて行きます、ここで車に接触されたらひとたまりもありません、危険要注意です!

 街道を進むと左手に廃業したレストラン例幣使があります、向いに三本石があります、慶応元年(1865)建立の小代(こしろ)板橋村明神村の境界石です。

三村の境界を取り決める話し合いがまとまらず、翌朝各村の
名主が村を出立し、落合った所を境界とすることにしました。ところが板橋村の名主は寝坊してしまい、二村の名主が自宅に来てしまった所がここだといいます。

並びの祠には文政八年(1825)造立の
如意輪観音像が安置されています、像には板橋下宿女人講中念仏供養塔と刻まれています。

そして
板橋の一里塚があります、東塚が現存しています。
三本石 十九夜念仏供養塔 板橋の一里塚

 江戸日本橋より三十里、喜沢西からは九里目です。


 PM5:04 板橋宿着 今市まで6.5km

 杉並木が途切れ、開けると板橋宿に到着です!

板橋宿は
文挾宿と合宿で、問屋業務は半月交代で勤めました。

天保十四年(1843)の
壬生通宿村大概帳によると板橋宿の家数は四十二軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠二十五軒、人数は二百二十二人で、宿長は三町半(約381m)でした。

宿並右手の
城山板橋城跡です、宇都宮氏一族の遊城坊(ゆうじょうぼう)綱清の築城です、宇都宮氏と敵対していた壬生綱房小田原北条氏に支援を求め、派遣された板橋将監親棟(ちかむね)が侵攻奪取し城主となりましたが、北条氏が滅びると徳川家康家臣の松平一生(かずなり)が入城しました。

宿並み右手の
田辺宅桝屋脇本陣跡です、問屋名主を兼ねました。
城山 桝屋脇本陣跡

 スグ先右手の農地が板橋宿本陣跡です、大貫家が勤めました。敷地の奥(白色□囲い)に本陣大貫家の薬師堂を残しています、堂には延享元年(1744)建立の鰐口(わにぐち)があります。

板橋交差点手前の右手が
永楽屋脇本陣跡です、屋号の永楽屋表札を掲げています。

板橋交差点を右に入ると左手の右が
栖克(すみよし)神社です、永正元年(1504)遊城坊綱清の創建です、石鳥居は享保二年(1717の建立です、境内には文化十年(1813)建立の白雲山碑があります。

左は
福生寺(ふくしょうじ)です。
板橋宿本陣跡 永楽屋脇本陣跡 福生寺 栖克神社

 福生寺は板橋将監親棟以降の歴代城主、慶長五年(1600)から元和三年(1617)まで板橋藩主であった初代松平一生、二代目成重親子の位牌を安置しています。

成重は
大坂夏の陣で武功を挙げ、三河西尾藩二万石に加増移封され、板橋藩は廃藩になりました。

境内に
本多正盛の墓があります、日光東照宮造営副奉行であった正盛は造営中に同僚の山城宮内(くない)と争論となり、揚句に刀の鞘で打ち据え、宮内は割腹しました。

正盛は東照宮竣工後の元和三年(1617)正盛の奥方の妹が嫁いでいる板橋藩主
松平成重の縁により板橋宿で自刃しました、享年四十一歳でした。
本多正盛の墓 宿外れの桝形 勝善神

 宿並に戻って先に進むと福生寺の先に宿外れの
枡形があります、左折すると枡形内の右手に大きな勝善神があります。

 先に進むと街道の右側が板橋、左側が明神になります。

二ツ目の信号交差点右が
奥州道です、森本に至ります。

スグ先右の横道脇に安政五年(1858)建立の
四国西国坂東巡拝供養塔庚申塔があります。

次第に
長坂の上り坂になり、街道の両側とも明神地内になります。

更に進むと右手に
地震坂解説があります、昭和二十四年(1949)十二月二十六日、鶏鳴山(けいめいざん)を震源地とする今市大地震により、杉並木街道がずれ落ちた箇所で、別名地すべり坂とも呼ばれています。

先で大きく左にカーブした先にY字路の
車道分岐点が現れます。
西國巡拝供養塔 地震坂

 街道は直進の右(白色矢印)を進みます、当然、杉並木の中です。

明神から
室瀬に入ると、正面に日光宇都宮道路高架が現れます、この辺りが難所の十石坂です、筑前福岡藩主黒田長政が日光東照宮に奉納する大石鳥居福岡から運んで来ましたが、あまりの急坂に難渋し、人足達に喰わした十石にも及んだといいます。

長政は
豊臣秀吉の軍師であった黒田官兵衛(如水)の嫡男です。

石田三成と対立し、徳川家康に組し関ケ原の合戦で戦功を挙げ、五十万石の知行を拝領、筑前福岡藩を立藩し、初代藩主となりました。

この恩顧に報いる為、長政は高さ約9.2mの
巨大石鳥居を十五分割にして福岡から搬送し、奉納しました。
車道分岐 十石坂

 この鳥居は
日本三大石鳥居(鎌倉鶴岡八幡宮、京都八坂神社)の一つです(国重要文化財)。

 日光宇都宮道路高架をくぐった先が十石坂の頂です、下りになると右手に観音堂の屋根がわずかに望めます。

観音堂への横道を過ぎると
室瀬の一里塚があります、両塚が現存し、塚上にはスギがそびえています、江戸日本橋より三十一里、喜沢西からは十里目です。

田川を越すと右手の横道口に昭和三年(1928)建立の
昭和御大典記念道標があります、正面には「向右 当村ヲ経テ森友ニ至」、右側面には「向右 鹿沼ニ至ル 左今市日光」と刻まれています。
室瀬の一里塚(東) 西塚 昭和御大典道標

 昭和御大典記念道標の裏手に土道の歩道があります、ホットします。

左側に街道を見下ろしながら進むと、再び
街道に合流します(白色矢印)。

目の前の
日光街道踏切にてJR日光線を横断します。

赤掘川を越すと
道と川百選例幣使杉並木街道標識があります。

街道を進むと日光街道との
今市追分を示す、交通標識が現れます、もう目の前です!
杉並木裏の歩道 歩道の終点 日光街道踏切

  PM6:31 今市追分到着

 右手に地蔵堂が現れます、安置されている追分地蔵尊は北関東一の大きさです、この地蔵尊は大谷川(だいやがわ)の洪水で流され、河原に埋もれていました、石工が単なる大石だと思い、(のみ)を打つと真っ赤な血が流れたといいます、背にはその時の鑿跡があります。

境内には寛政七年(1795)建立の
追分道標「右かぬま 左うつの宮」があります。

この追分地蔵尊の前で
日光壬生通り(白色矢印)は日光道中(黄色矢印)に突き当たります(白色矢印)、ここが今市追分です、これにて日光壬生通りウォークの完結です!
追分地蔵尊 今市追分

 追記、追分にコンビニがあります、酒類等の補給をしましょう、駅周辺では入手不可です。