五街道ウォークのすすめ


[
フィールドを求めて ]

東海道箱根路西坂 愛宕坂手前


 「
街道ウォーク」の素晴らしさは、いちにも二にも達成感につきます、たった一日の旅でも達成感という充実感が得られます。

 まして仲間と一緒の旅であればこの達成感が
共有できるわけです、さらに泊りでも入ろうものならなお更です。

 たまに仲間が集まり飲み会になると雪の箱根路、、二泊三日行程の東海道桑名〜京三条大橋間の旅、中山道和田峠の厳しさ、信州路の寒さ等と話題が尽きません。


  五街道と宿場

 今何故に五街道なのか、五街道とはそもそも東海道、中山道、甲州道中、奥羽道中、日光道中を指します。

 これらの街道はそれこそ太古から自然発生的にかたち造られてきましたが、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は天下人となりました。

 その基盤を確保する為に、翌、慶長六年(1601)
東海道の整備に着手、その翌年には中山道(当初、東海道に対して東山道と呼ばれた)と遂次整備に取り掛かりました。

 そうです平成13年(2001)、平成14年(2002)は各街道の
四百周年にあたるのです、きりがいいですね、これだけでも何か価値がありそうです。

 整備とは街道に
宿場を正式に設けたのです、無論、一里(三十六町、3.93km)毎の一里塚の設置、松並木の植栽、石畳の敷設等々も重要ですが、街道の整備の根幹は宿場の設置です。

   
御射山神戸の一里塚(甲州街道)
松並木 (東海道 三島−沼津) 石畳 (東海道 箱根西坂)

 宿場と聞くと旅館が一ヶ所に集まった所と思ってしまいます、決して間違いではありません。

 たしかに大名や公卿が宿泊する
本陣(ほんじん)、それに準じる脇本陣(わきほんじん)、公用ではない武士や庶民が宿泊する旅籠(はたご)、格安な木賃宿(きちんやど)等の宿泊施設が集中していました。

 ちなみに木賃宿とは旅人自身が食料を持ち込み薪代(木賃)を支払い自身で煮炊きをしたものです、我々が子供の頃修学旅行に米を持参したのも名残でしょうか。

   
奈良井宿の宿並 (中山道) 旧本陣石合家(中山道長久保宿)
追分宿高札場 (中山道)

 宿場の本来的機能を理解するには街道を鉄道とみたてれば簡単です、そう宿場はなのです、つまり情報の伝達業務物資の流通が最重要業務です、正にこれが家康の天下掌握の要だったのです。

 この業務を担当したのが問屋(といや)です、つまり問屋は隣の宿から送られて来た、書簡や荷を次宿の問屋に送り届ける業務を担当したのです、ですからこれを宿駅制度といいます。

   
問屋跡 (中山道小田井宿) 広重東海道藤枝宿 (人馬継立)

 つまり街道という鉄道をとおし、宿場という駅を設け、そこに貨車と郵便列車を通したのです、これはまさに今日の物流システムインターネットに相当するものです。

 各宿場の問屋はこれらの継立業務を一手に引き受けていたのです、そしてこれらの業務を遂行するために、各宿場に東海道では人足百人、馬百疋、中山道では人足五十人、馬五十疋、他の街道では人足二十五人、馬二十五疋の用意が義務づけられていました。

 不足の場合には、近郷の人馬を徴用しました、これが助郷です。

 問屋はこれらの手配をてきぱきとこなした訳です、広重の「東海道五十三次」の内、藤枝では
問屋場の継立風景を描いています。

 また
島崎藤村の小説「夜明け前」には問屋の業務や本陣の役割が仔細に描かれています、それもそのはずで藤村は中山道馬籠宿の本陣の子として生れました。

 宿場の根幹をなす問屋にはその地の実力者が任命され、本陣は有力者が勤めました。

 最近はあまり見ませんが、以前時代劇の中で、子供の馬子が「オイチャン乗っておくれよ、帰り馬だから安くすっからサ」のフレーズがあります。

 これは
問屋業務の一片を物語っています、つまり馬子の営業は次宿迄で戻りの業務は次宿の範囲なのです、ですから本来は空馬で戻らなければならないのです、よくよく考えれば今日のタクシーもその通りです、「帰り車だから安くしとくよ」変わりませんね。

  街道はフィールド

 そして幕府はこれらの主要五街道を各藩に任せず、直轄つまり国道扱いとし、国土交通省ならぬ道中奉行が直接支配したのです。

 参勤交代制度の導入、そして庶民の物見遊山の旅の普及により各宿場の宿泊設備が次第に充実していったわけです。

 この宿場(宿駅)が東海道では江戸と京の間に五十三箇所設けられました、ですから東海道五十三次なのです、ちなみに広重の「東海道五十三次」の絵は五十三枚ではなく、五十五枚です、つまり起点の日本橋、終着点の京三条大橋の二枚が含まれているからです。

 
中山道は六十九次、甲州街道は四十四次、奥羽街道は十次、日光街道は二十一次なのです。

日本国道路元標

 五街道の起点は全て江戸日本橋です、これは地名ではなく橋の日本橋そのものを指しています、今日も同様です、日本橋の中央には「日本国道路原標」が埋め込まれています、国道の全ての里程はここを起点にしています。

 各国道には一里塚ならぬ1キロ塚(ポスト)が設置され「日本橋から何km」反対側には「日本橋まで後何km」と表示されています、ちなみにこのポスト間1kmをジャスト10分で歩くと時速6km/hです。

各街道には海、山、川がバランスよく配置され、自然の美しさには事欠きません、そして街道及び街道周辺にはそれこそキラ星の如く歴史が光輝いています、それこそ魅力的で誘惑的です。

浪人塚(水戸天狗勢) 中山道和田峠 

 各街道はあまたの諸大名が参勤交代で通行し、皇女和宮の降嫁、シーボルト、水戸天狗党、新撰組の甲陽鎮撫隊等々が通行、その路程も残されています。

 それこそゆっくり旧所名跡を見学する旅もいいでしょう、しかしどうですか、若くて健康なうちは、そして若くありたい、健康でありたいと思ううちは、ビューッと行きませんか、どうせいつかは休憩を兼ねて旧所名跡めぐりをするのですから、それまではビューッと行きましょう、

五街道をフィールドにしてしまいましょう、そうです「駅伝」ならぬ「宿伝」です。

 山と渓谷社より当HPが書籍化されました。

● 建康が歩いてやってくる!五街道ウォークのすすめ 

  五街道ウォーク 八木牧夫著