たまに仲間が集まり飲み会になると雪の箱根路、、二泊三日行程の東海道桑名〜京三条大橋間の旅、中山道和田峠の厳しさ、信州路の寒さ等と話題が尽きません。
今何故に五街道なのか、五街道とはそもそも東海道、中山道、甲州道中、奥羽道中、日光道中を指します。 これらの街道はそれこそ太古から自然発生的にかたち造られてきましたが、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は天下人となりました。
宿場と聞くと旅館が一ヶ所に集まった所と思ってしまいます、決して間違いではありません。
宿場の本来的機能を理解するには街道を鉄道とみたてれば簡単です、そう宿場は駅なのです、つまり情報の伝達業務と物資の流通が最重要業務です、正にこれが家康の天下掌握の要だったのです。 この業務を担当したのが問屋(といや)です、つまり問屋は隣の宿から送られて来た、書簡や荷を次宿の問屋に送り届ける業務を担当したのです、ですからこれを宿駅制度といいます。
つまり街道という鉄道をとおし、宿場という駅を設け、そこに貨車と郵便列車を通したのです、これはまさに今日の物流システムとインターネットに相当するものです。 各宿場の問屋はこれらの継立業務を一手に引き受けていたのです、そしてこれらの業務を遂行するために、各宿場に東海道では人足百人、馬百疋、中山道では人足五十人、馬五十疋、他の街道では人足二十五人、馬二十五疋の用意が義務づけられていました。 不足の場合には、近郷の人馬を徴用しました、これが助郷です。 宿場の根幹をなす問屋にはその地の実力者が任命され、本陣は有力者が勤めました。 最近はあまり見ませんが、以前時代劇の中で、子供の馬子が「オイチャン乗っておくれよ、帰り馬だから安くすっからサ」のフレーズがあります。
そして幕府はこれらの主要五街道を各藩に任せず、直轄つまり国道扱いとし、国土交通省ならぬ道中奉行が直接支配したのです。 参勤交代制度の導入、そして庶民の物見遊山の旅の普及により各宿場の宿泊設備が次第に充実していったわけです。 この宿場(宿駅)が東海道では江戸と京の間に五十三箇所設けられました、ですから東海道五十三次なのです、ちなみに広重の「東海道五十三次」の絵は五十三枚ではなく、五十五枚です、つまり起点の日本橋、終着点の京三条大橋の二枚が含まれているからです。
五街道の起点は全て江戸日本橋です、これは地名ではなく橋の日本橋そのものを指しています、今日も同様です、日本橋の中央には「日本国道路原標」が埋め込まれています、国道の全ての里程はここを起点にしています。 各国道には一里塚ならぬ1キロ塚(ポスト)が設置され「日本橋から何km」反対側には「日本橋まで後何km」と表示されています、ちなみにこのポスト間1kmをジャスト10分で歩くと時速6km/hです。 各街道には海、山、川がバランスよく配置され、自然の美しさには事欠きません、そして街道及び街道周辺にはそれこそキラ星の如く歴史が光輝いています、それこそ魅力的で誘惑的です。
各街道はあまたの諸大名が参勤交代で通行し、皇女和宮の降嫁、シーボルト、水戸天狗党、新撰組の甲陽鎮撫隊等々が通行、その路程も残されています。 それこそゆっくり旧所名跡を見学する旅もいいでしょう、しかしどうですか、若くて健康なうちは、そして若くありたい、健康でありたいと思ううちは、ビューッと行きませんか、どうせいつかは休憩を兼ねて旧所名跡めぐりをするのですから、それまではビューッと行きましょう、 五街道をフィールドにしてしまいましょう、そうです「駅伝」ならぬ「宿伝」です。
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