● 「ちゃんと歩ける日光街道 奥州街道 五街道ウォーク・八木牧夫著」 が出版されました。 出版に際し、奥州道中全般を歩き直しました! 本マップに写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為にHPでは写真を豊富にアップしました。 是非、出立なさる前に本マップと当HPを照らし合わせ、奥州道中ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。 奥州街道は当初、奥州海道と呼ばれましたが、正徳六年(1761)幕府道中奉行は奥州道中と定めました。 それでは奥州道中に旅立ちましょう! 日本橋から宇都宮までを日光道中とすれば、奥州道中は宇都宮から青森の三厩に至る長大な街道です。 しかしながら道中奉行が管理した奥州道中は白河までです、距離はぐっと短くなり二十一里十八町十四間半(奥州道中宿村大概帳)となります。 実測距離は86.7kmです、二日行程にピッタリです! 今回の奥州道中ウォークは二往復目になります、この街道はなんといっても人情味の暖かいところが素晴らしいのです。
例によってチューハイをオーダーすると、香の物がお通しで出ます、東北圏に入ると俄然、漬物が美味くなります。 もう一杯です、すると「よかったらどうぞ」と揚げたてのかき揚げをサービスで出してくれました、天汁に大根おろしを入れて、大目の七味で有難く頂きました。 サア、メインのオーダーです、空腹の権化ですから、臆面も無くカレーライスに手打ちラーメンをオーダーしました。 すると盛の良いカレーライスがサッと出てきました、半分も頂くと腹具合がきつくなってきました、こりゃラーメンはダメだと思った瞬間、ご主人が「お客さんラーメンは無理でしょう」と声を掛けてくれました。 翌日は朝食無しの早立ちです、凍えるような寒さでした、佐久山宿に到着すると、宿外れの雑貨屋さんが開いていました、中に入るとカップ麺がありました、お店のお婆ちゃんにお湯をお願いしたら気持ちよく、お湯を注いでくれました。 図々しくお店のイスを借りてカップ麺をすすると、一気に空腹と寒さが癒されました、するとお婆ちゃんが「売れ残りですけど、よろしかったらどうぞ」とアンパンを二個すすめてくれました、今度は心が暖かくなりました。
この坂の上からは二荒山神社の杜や宇都宮城下が一望できたといいます。
突当りの宇都宮アート&スポーツ専門学校を左折します、白河方面からは右折になります。
実態は秀忠の若い側近と家康の旧臣本多正純との確執に他なりません、後に正純は改易となりました。 幕末、宇都宮藩は官軍に組みした為、土方歳三率いる旧幕府軍の攻撃により落城炎上しました。
社務所脇には与謝蕪村句碑「鶏(とり)は羽(は)に はつねをうつの 宮桂 宰鳥(さいちょう)」があります、与謝野蕪村(俳号宰鳥)は寛保三年(1743)の歳末に宇都宮の俳人佐藤露鳩の許を訪れて滞在し、翌年正月に最初の歳旦帖を編集発行しました。
分岐ポイントは正面のENEOSです。
堂内に安置されている鉄塔婆は正和元年(1312)第八代城主宇都宮貞綱が亡き母の供養に建立したものです(国重文)、上部には阿弥陀三尊が浮彫されています。
田川は古来より暴れ川で水害に悩まされました、昭和三十年(1955))頃までは夏になると水神に対する信仰から、人々が梵天をかつぎ裸で川に入り、もみ渡る梵天祭が行われました。
墓地に宇都宮貞綱、公綱の墓があります、第八代城主宇都宮貞綱は弘安四年(1281)元寇の際に、執権北条時宗の命により十六歳で総大将となり九州に出陣し戦功を挙げました、晩年は出家して興禅寺を創建しました。 公綱(きんつな)は貞綱の次男で第九代宇都宮城主でした、南北朝の動乱において楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とし東国武士の武勇を示すものとして名高いものでした。
建久元年(1190)源頼朝の命により伊沢家景が奥羽総奉行として任地に赴任する途中、同行した稚児が病のため、この坂で亡くなくなりました、以来、この坂は稚児坂と呼ばれるようになりました。
ここが白沢宿の起点です。
白沢車庫前バス停を過ぎると左手に真言宗智山派龍池山明星院があります、文明十八年(1486)の創建で、関東八十八カ所霊場第二十五番です、境内には白澤宿七福神の布袋尊(ほていそん)が祀られています。
見事な獅子、牡丹、昇り龍と降り龍が籠彫(かごぼり)され、脇障子や欄間は花鳥彫、十二枚の障子下部には干支の動物が彫刻されています。
ここには白澤宿七福神の福禄寿があります。 次いで押切新川を新川橋で渡ります、押切新川は西鬼怒川の分流です、渡詰めを左(黄色矢印)に進んでみましょう。
安政四年(1857)造の白木地彫刻屋台には菊の彫刻が施されています。
河岸は小江戸と呼ばれ、その繁盛振りは「入船千艘、出船千艘」といわれました。
並びの段j上には稲荷神社が祀られています。
醤油ラーメンの奥深いコクとうま味はキラキラ光る金賞ではなく、いぶし銀ものです!お奨めです!!
勝山城は氏家氏の築城にはじまり、宇都宮氏一族の芳賀氏の居城となりました、鬼怒川の崖を天然の要害とした崖端城(がけたんじょう)で那須氏との攻防を繰り返しました、慶長二年(1597)宇都宮氏の改易に伴い廃城となりました。
この向いに湯呑が供えられた石塔ないしは石仏がありますが判読不明です。
天保十四年(1843)の奥州道中宿村大概帳によると氏家宿の宿内家数は二百三十五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒で、宿内人口は八百七十九人(男四百四十九人、女四百三十人)でした。
氏家宿内には氏家の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十一里目です。
藤原定家の七周忌に定家の面影を写した地蔵尊が造立されました。
境内には一石六地蔵や文政二年(1819)建立の徳本名号碑「南無阿弥陀仏」等があります。
那須氏方の鮎瀬弥五郎実光が宇都宮尚綱を討取り勝利を収めました。 後に弥五郎はここに祠を建て、尚綱を供養する五輪塔を安置しました、以来、祠は弥五郎殿、早乙女坂は弥五郎坂と呼ばれるようになりました。 弥五郎伝説にはもう一説あります、松尾弥五郎は宇都宮尚綱の家臣で、主君の戦死を知ると単身敵陣に切り込み、討ち死にしたといます、宇都宮尚綱の子孫がこれを憐れみ供養したとの二説です、いずれにしても弥五郎繋がりです。
高塩背山(たかしおはいざん)は代々喜連川神社の神職を勤める家に生まれ、歌人を志し若山牧水と親交がありました。
街道は直進(白色矢印)しますが、左(黄色矢印)の新道を進むと河東碧梧桐句碑「阪を下りて左右に薮あり栗おつる」があります、碧梧桐(へきごとう)は正岡子規門下の秀才でした、この句は弥五郎坂を下り、荒川の清流を眼下に見る大桜の下で一休みした時に詠んだものです。 傍らには弥五郎坂開削の碑があります。
塩谷氏喜連川氏代々崇敬の社で喜連川ほか十五郷の総鎮守でした。
第十七代城主塩谷惟久(これひさ)は豊臣秀吉の小田原征伐の参陣に遅参したとして改易されました。 新たに入封した足利国朝(くにとも)が城主となりました、徳川の世になると旗本寄合格となったため、喜連川城は喜連川藩陣屋となりました。
高塩ヒロは明治三十八年(1905)野口雨情と結婚しましたが、大正四年(1915)協議離婚して実家に戻りました。
台町交差点の左手に台町集会所があります、敷地内に享保九年(1724)建立の追分道標「右奥州街道 左在郷道」があります。
これから進む旧道沿いには大規模な養豚場等があります、季節や風向きによっては強烈な臭気に難渋します、その場合は躊躇なく迂回路を進みましょう。
庭内に元は市境辺りにあった延享三年(1746)建立の馬頭観音像が移設されています。
右手の琵琶池ゴルフ倶楽部入口に庚申塔が三基祀られています、内一基には万延元年以来合碑と刻まれています。
播州赤穂大高家の長男大高源五は赤穂義士で本懐を遂げた後に切腹をして果てました、母は親戚筋の佐久山大高家に身を寄せ、大高源五の遺髪を当寺に分葬しました。
その尊像を安置するために孫八が御堂を建立したのが正浄寺の起源といいます。 境内には芭蕉句碑「花の陰 謡に似たる 旅寝哉」があります。
そして驚きなのがかき揚げてんぷら(100円)、そばがき揚げ(200円)、そばいなり(一皿2個 100円)です、味良し、料金良です!お薦めです!!
先に進むと左手に豪壮な長屋門があります。
享保四年(1719)の創建で、境内には宝篋印塔や石仏石塔群があります。
この地は天保十二年(1841)以来、加勢友助等によって開墾され、その鎮守として安政二年(1855)に勧請されました、境内には安政六年(1859)建立の石燈籠があります。 この八幡神社辺りに大田原の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十七里目です。
那須与一は幼い頃から弓が達者で居並ぶ兄達の前でその腕前を示し、父の資隆(すけたか)を驚嘆させたといいます。 次いで左手に日蓮宗正法寺(しょうぼうじ)があります、慶長九年(1604)初代大田原藩主大田原晴清夫人の発願により創建され、歴代藩主夫人の祈願寺でした。
金燈籠交差点が大田原宿の起点です、本日の奥州道中ウォークはここまでです! ついてます、西那須野駅行バス最終便6:32に間に合いました!! JR東北本線西那須野駅の売店が閉まっています、缶チューハイが無い、宇都宮駅まで我慢しましょう!!!
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