道中日記  6-147 奥州道中 ( 宇都宮 - 大田原 ) 44.1km

 この度、山と渓谷社から

● 「ちゃんと歩ける日光街道 奥州街道 五街道ウォーク・八木牧夫著」

が出版されました。

出版に際し、
奥州道中全般を歩き直しました!

本マップに写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為にHPでは写真を豊富にアップしました。

是非、出立なさる前に本マップ当HPを照らし合わせ、奥州道中ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。

奥州街道は当初、奥州海道と呼ばれましたが、正徳六年(1761)幕府道中奉行は奥州道中と定めました。

それでは
奥州道中に旅立ちましょう!

 日本橋から宇都宮までを
日光道中とすれば、奥州道中宇都宮から青森の三厩に至る長大な街道です。

しかしながら
道中奉行が管理した奥州道中白河までです、距離はぐっと短くなり二十一里十八町十四間半(奥州道中宿村大概帳)となります。

実測距離は86.7kmです、二日行程にピッタリです!

今回の奥州道中ウォークは二往復目になります、この街道はなんといっても人情味の暖かいところが素晴らしいのです。

 
大田原宿 東宝食堂
初めての奥州道中ウォークの際、大田原宿の甲州屋旅館に投宿し、夕食を宿内の東宝食堂で頂きました。

例によって
チューハイをオーダーすると、香の物がお通しで出ます、東北圏に入ると俄然、漬物が美味くなります。

もう一杯です、すると「よかったらどうぞ」と揚げたての
かき揚げをサービスで出してくれました、天汁に大根おろしを入れて、大目の七味で有難く頂きました。

サア、メインのオーダーです、
空腹の権化ですから、臆面も無くカレーライス手打ちラーメンをオーダーしました。

すると盛の良い
カレーライスがサッと出てきました、半分も頂くと腹具合がきつくなってきました、こりゃラーメンはダメだと思った瞬間、ご主人が「お客さんラーメンは無理でしょう」と声を掛けてくれました。

翌日は朝食無しの早立ちです、凍えるような寒さでした、
佐久山宿に到着すると、宿外れの雑貨屋さんが開いていました、中に入るとカップ麺がありました、お店のお婆ちゃんにお湯をお願いしたら気持ちよく、お湯を注いでくれました。

図々しくお店のイスを借りて
カップ麺をすすると、一気に空腹寒さが癒されました、するとお婆ちゃんが「売れ残りですけど、よろしかったらどうぞ」とアンパンを二個すすめてくれました、今度はが暖かくなりました。

 平成19年06月02日 AM7:56 宇都宮宿出立 白沢宿まで11.0km

 国道119号線大通り(白色矢印)と本郷町通り(清住町通り)(黄色矢印)の交差点が日光道中奥州道中追分です、この辺りは多くの人馬が交錯しました。

それでは
奥州道中ウォークの出立(白色矢印)です!

スグ先の左手第一生命の手前が
高札場跡です。

池上交差点をを越すと
朝日坂解説があります、この辺りは町屋が並び、商業の中心地として賑わった所です。

この坂は西が高く東へなだらかに傾斜し、坂の上には観音像を安置する
観音堂があり、この観音像に朝日が差したところから朝日観音と呼ばれ、この坂は朝日坂(旭坂)と呼ばれました。
日光奥州道中追分 高札場跡 朝日坂

 この坂の上からは
二荒山神社の杜や宇都宮城下が一望できたといいます。

 本町交差点を越し、釜川都橋で渡ります、旧池上橋で橋材は領主が負担し、維持管理は宿場が担いました、釜川は弁天沼に源を発し、流末は田川に落合います。

この先は城下町特有の曲道になります、名づけて
宇都宮城下五曲りです、この曲りは城下の防衛を担うと同時に、その分街並が長くなり、商家が長く連なり、繁栄に結びつきました。

それでは
五曲りに取り掛かりましょう、スグ先の野村證券の角を右折し、正面のオリオンアーケードに入ります。
都橋 @馬場通り分岐 アーケード Aオリオン通り分岐

 突当りの宇都宮アート&スポーツ専門学校を左折します、白河方面からは右折になります。


 アーケードのオリオン通りの一本目右(黄色矢印)の本丸西通りを進むと宇都宮城があります、康平六年(1063)藤原宗円(ふじわらのそうえん)が築城し、以降宇都宮氏を名乗りました、慶長二年(1597)第二十二代城主宇都宮国綱は秀吉の怒りに触れ、所領を没収され宇都宮家は断絶となりました。

徳川の世になると譜代の家臣が歴代
宇都宮藩主を勤め、将軍日光社参の際の宿城となりました。

元和八年(1622)に
宇都宮城釣天井事件が発生しました、二代将軍秀忠は日光社参の帰路、宇都宮城での宿泊を急遽取り止めてしまった、これは城内の湯殿釣天井が仕掛けられ、秀忠の圧死を計画した謀反があったとの伝説を生みました。
本丸西通り口 宇都宮城 清明台櫓

 実態は秀忠の若い側近と家康の旧臣
本多正純との確執に他なりません、後に正純は改易となりました。

幕末、
宇都宮藩は官軍に組みした為、土方歳三率いる旧幕府軍の攻撃により落城炎上しました。

 宿並に戻りオリオンアーケードを抜けると左の丘陵上に宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社が鎮座しています、創建は第十代崇神天皇の御代にさかのぼる古社です。

宇都宮の地名はこの二荒山神社が下野國一の宮であったり、奥州攻めの源氏勢が当社に戦勝を祈願をした討つの宮であったところに由来しています。

代々武将の崇敬を受け、
家康は社領千五百石を寄進し社殿を再建しましたが戊辰戦役で焼失し、明治十年(1877)明治新政府によって再建されました。
大鳥居 宇都宮二荒山神社 社殿 蕪村句碑

 社務所脇には
与謝蕪村句碑「鶏(とり)は羽(は)に はつねをうつの 宮桂 宰鳥(さいちょう)」があります、与謝野蕪村(俳号宰鳥)は寛保三年(1743)の歳末に宇都宮の俳人佐藤露鳩の許を訪れて滞在し、翌年正月に最初の歳旦帖を編集発行しました。

 宿並に戻り、そのまま抜けると右手に琴平神社が鎮座しています、江戸中期の創建です。

宿並は
曲師(まげし)を進みます、桧や杉板を曲げて櫃(ひつ)や桶を作る曲物師が多数居住していました。

次いで旧町名
日野町に入ります、慶長三年(1598)秀吉の命により蒲生秀行が宇都宮に移封となったとき、蒲生氏の出生地である近江國日野の商人を東勝寺(とうしょうじ)の跡地に住まわせたのが、町名の起こりです。

日野町は宿並に面して荒物屋、呉服屋、小間物屋などが軒を並べていました。

筑波銀行に突き当たります、左折(白色矢印)します。
琴平神社 日野町標識 今小路通り分岐

 今小路通りを進み、一本目右手のファミリーマート手前を右折し、大町通りに入ります。

スグ先右手のおしどり塚児童公園内に
おしどり塚があります、猟師が雄のおしどりを射止め、首を切り落とし胴体を持ち帰った、翌日同じ場所でうずくまっている雌のおしどりを撃つと翼の下に雄の首をしっかり抱きかかえていました、猟師は深く心を打たれ、これまでの殺生を悔い、石塔を建てて供養したといいます。

突当りの
上河原通りを左折します。
大町通り おしどり塚入口 おしどり塚 上河原通り分岐

 分岐ポイントは正面の
ENEOSです。

 スグ先の十字路を右折し、JR宇都宮駅方面に進むと左手に天台宗光明山宝蔵寺があります、本尊の普賢菩薩坐像は文和三年(1354)の造立です、鐘楼門のおよりの鐘は第八代城主宇都宮貞綱が寄進したものです。

十字路に戻って進み、スグ先を左折すると右手に日蓮宗
妙正寺があります、参道口の題目碑南無妙法蓮華経は嘉永四年(1851)の建立です。

並びに浄土宗芳宮山
清巌寺(せいがんじ)があります、本尊は阿弥陀如来で第五代城主宇都宮頼綱の創建です。
宝蔵寺 妙正寺 清巌寺 鉄塔婆

 堂内に安置されている
鉄塔婆は正和元年(1312)第八代城主宇都宮貞綱が亡き母の供養に建立したものです(国重文)、上部には阿弥陀三尊が浮彫されています。

 境内の梵鐘(銅鐘)は寛延四年(1751)の鋳造で音が美しいところから戦時中の供出を免れました。

墓地に第五代城主
宇都宮頼綱の墓があります、鎌倉幕府の幕臣だった頼綱(二十七歳)が承元二年(1208)政争に巻き込まれるのを避ける為に出家し、法然上人の門に入りました、頼綱は小倉百人一首の生みの親として知られています。

宿並に戻り
田川幸橋で渡ります、旧上河原橋で宇都宮宿の白河(北)です。

上河原橋は万治四年(1661)の架橋です、田川は日光七里に源を発し、流末は鬼怒川に落合います。
銅鐘 宇都宮頼綱墓 田川

 田川は古来より暴れ川で水害に悩まされました、昭和三十年(1955))頃までは夏になると水神に対する信仰から、人々が梵天をかつぎ裸で川に入り、もみ渡る梵天祭が行われました。

 大きな信号交差点を渡ると右手に旧篠原家住宅があります、篠原家は戦後まで醤油醸造業、肥料業を営みました、嘉永四年(1851)築の石蔵や明治二十八年(1895)築の店蔵は国指定重要文化財です。

並びに
博労町解説があります、この辺りに腕の良い伯楽(馬の獣医)が棲んでいたところから伯楽町と呼ばれ、それが博労町となりました。

先の今泉町交差点を左折すると、右手に臨済宗妙心寺派神護山
興禅寺があります、河北禅林と呼ばれます。
旧篠原家住宅 博労町標識 興禅寺 宇都宮城主墓

 墓地に
宇都宮貞綱公綱の墓があります、第八代城主宇都宮貞綱は弘安四年(1281)元寇の際に、執権北条時宗の命により十六歳で総大将となり九州に出陣し戦功を挙げました、晩年は出家して興禅寺を創建しました。

公綱(きんつな)は貞綱の次男で第九代宇都宮城主でした、南北朝の動乱において楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とし東国武士の武勇を示すものとして名高いものでした。

 街道に戻って進むと、右手に八坂神社が鎮座しています、康平六年(1063)宇都宮城の鬼門除けとして創建された神明社です。

伝統の豊作祈願の
神楽は宇都宮市無形文化財指定です。

JR東北新幹線高架をくぐって進むと右手に
烏山道追分があります、烏山道は那須氏の居城である烏山城に至ります。

今泉町から竹林(たけばやし)に入ります、竹林村には竹林の一里塚がありましたが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて二十八里目です。

竹林町交差点を越すと左手に堂々とした
長屋門があります、明治二十七年(1894)築の岩淵家屋敷門です。
八坂神社 烏山道追分 長屋門

 並びに真言宗智山派竹林山宝蓮寺があります、この北側に竹林村の立場がありました、心太(ところてん)が立場名物でした。

豊郷南小学校を過ぎて、コンビニ向いの信号交差点を右に進むと左手に
白山神社が鎮座しています、社殿の裏手は根来衆事件で斬首された根来衆の胴を埋葬した根来(胴)塚跡といわれています。

元和元年(1615)二代将軍
秀忠の日光社参に先立ち、警護の為に鉄砲組根来同心百人衆が宇都宮に派遣されました、宇都宮藩主本多正純は根来衆一行に城普請を命じましたが、「お役違い」と拒否した為全員が斬首されました、これが正に宇都宮釣天井事件の引き金になった事件ともいえます。
宝蓮寺 白山神社 根来塚跡

 先の岩曽交差点を右に進むと右手に空地があります、この一角に多数の石仏や地蔵尊、そして念佛供養塔等があります、ここが宇都宮藩刑場跡です、根来衆はここで斬首されました。

地蔵堂の中に享保八年(1723)造立の
首切り地蔵が安置されています、根来(首)に安置されたものです。

それでは街道に戻りましょう、
岩曽町から下川俣町、そして海道町に入ると右手ののざわ歯科クリニックの並びに昭和十五年(1940)建立の馬頭尊が祀られています。
宇都宮藩刑場跡 地蔵堂 首切り地蔵 馬頭尊

 海道町交差点を越すと左手に慶応二年(1866)建立の感恩報徳碑があります、、寛政十一年(1799)下川俣村で生まれた小林清次郎は安政五年(1858)海道新田村に水路を開き、自ら水田開拓に努め、村の発展に尽力しました、村民は豊栄神社を創建して小林清次郎翁を祭りました。

海道新田村地内には
海道新田の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より数えて二十九里目です。

先を右に入ると
白山神社が鎮座しています、海道新田村の鎮守です、海道小学校の敷地となった平野神社を合祀しています。

杉が混じる
桜並木を進むと下りの稚児坂になります。
感恩報徳碑 日吉神社 稚児坂

 建久元年(1190)
源頼朝の命により伊沢家景が奥羽総奉行として任地に赴任する途中、同行した稚児が病のため、この坂で亡くなくなりました、以来、この坂は稚児坂と呼ばれるようになりました。

 AM10:14 白沢宿着 氏家宿まで6.9km

 長島エンジニアリングを過ぎると左手に木製標識「ここから白澤宿内」があります、白沢宿に到着です!

慶長五年(1600)徳川方の上杉攻めの際、先陣を白沢村庄屋
宇加地家と上岡本村庄屋福田家が道案内をし、無事に鬼怒川を渡河させました、この功により両村が宿駅となり、宇加地家が本陣、福田家が脇本陣を拝命し、共に問屋を兼ねました。

天保十四年(1843)の
奥州道中宿村大概帳によると白沢宿宿内家数は七十一軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十三軒、宿内人口は三百六十九人(男百七十九人、女百九十人)で、鬼怒川の牛蒡(ごぼう)が宿場名物でした。

先の河内地域自治センター前バス停に
木製標識「白澤宿ここは江戸より三十里」があります。
白澤宿内標識 バス停 白澤宿標識

 信号交差点を過ぎると左手に大きな勝善神(そうぜんしん)が祀られています、神道系の馬頭観音です、明治新政府による廃仏毀釈の政策以降の傾向です。

次いで右手の擁壁上に
白沢地蔵堂があります、木造子育安産地蔵立像を安置しています、境内には五輪塔宝篋印塔等があります、伊沢家景の子をここに葬ったといいます、以来、九百年もの間、この地蔵堂は白沢南自治会(旧上岡本村)の人々によって手厚く守られてきました。

境内に白澤宿七福神の
寿老神が祀られています。

地蔵堂の先で街道は右に大きく曲がる
下り坂になります、この曲り具合が漢方の薬種を砕く薬研に似ているところから薬研(やげん)と呼ばれています。
勝善神 白沢地蔵堂 五輪塔&宝篋印塔

 薬研坂の左手に馬頭観世音が祀られています、慶長十四年(1609)白沢宿として町割ができる以前からここには街道の道しるべとしての夫婦の大きなエノキがあった由緒あるところであったといわれています。

次いで右手に江戸時代の
公衆便所跡があります、地中の構造は往時のものです、糞尿は田畑の肥料となりました。

並びに
丸太標識「とちぎのふるさと田園風景百選認定地 宇都宮市白沢町」があります。

先に進みT字路の
白沢宿交差点を左折(白色矢印)します、白沢宿南枡形です。
馬頭観音 公衆便所跡 公衆便所跡遺構 白沢宿起点

 ここが
白沢宿の起点です。

 宿内には用水が走り、落着いた宿並を残しています、宿内の各家屋には旧屋号が掲げられています。

右手の旧白澤病院は
旅籠高砂屋跡です、近江商人定宿の看板を残しています。

庭内に
明治天皇御休之所碑があります、明治十四年(1881)奥州北海道巡幸の際に、太田東一郎宅で休息しました。

先の左手に
住吉屋跡があります、一棟は明治二十八年(1895)、主屋は大正十四年(1925)の建築です。
用水堀 旅籠高砂屋跡 明治天皇碑 住吉屋跡

 住吉屋跡の並びが白髭神社の参道口です、社殿は参道階段を上った高台に鎮座しています、寛治年間(1087〜94)の創建で、白沢の鎮守です、境内には白澤宿七福神の大黒天が祀られています。

白髭神社参道口の並びの白沢駐在所が
番所跡です、見事な符号です。

番所跡の並びが
宇賀地本陣跡です、当家には秋田藩、大田原藩、盛岡藩の関札等を残しています。

ここからは宿並をしばらく進みます。
白髭神社 番所跡 宇賀地本陣跡 明星院

 白沢車庫前バス停を過ぎると左手に真言宗智山派龍池山
明星院があります、文明十八年(1486)の創建で、関東八十八カ所霊場第二十五番です、境内には白澤宿七福神の布袋尊(ほていそん)が祀られています。

 宿並はT字路に突き当たります、白沢宿の北枡形です、宿並は右折(白色矢印)します。

この突当りに
井上清吉商店があります、創業明治元年(1868)下野地酒澤姫の蔵元です、栃木県産の原料米を100%使用して造った大吟醸酒澤姫が毎年ロンドンで開催されている世界最大規模の酒類コンテスト、インターナショナル・ワイン・チャレンジ2010「SAKE」部門で金賞を受賞しました。

この北枡形を左折(黄色矢印)すると正面に
薬師堂があります、本陣宇加地家の持仏堂で、墓所には歴代の墓があります、境内には白澤宿七福神の毘沙門天が祀られています。
白沢宿北枡形 銘酒澤姫 薬師堂 宇賀地家墓所

枡形に戻ると經力稲荷大明神が鎮座しています。

九郷半川九郷半橋で渡ります、この川が九ケ郷半郷の田を潤したところに由来しています。

渡詰めの左手に
道祖神馬頭観音等が祀られています、そしてここには木製標識「白澤宿」がありましたが、今は見当たりません、ここが白沢宿の白河(北)口です。

渡詰めを右に入ると
北野神社須賀神社が鎮座しています、境内には白澤宿七福神の恵比寿が祀られています、境内奥の白沢山車庫には天保四年(1833)に造られた白沢甲部彫刻屋台(黒漆塗彩色彫刻屋台)が格納されています。
經力稲荷大明神 九郷半川 北野・須賀神社

 見事な
獅子牡丹昇り龍降り龍が籠彫(かごぼり)され、脇障子や欄間は花鳥彫、十二枚の障子下部には干支の動物が彫刻されています。

 街道を進み信号交差点を越えると街道の左右に田畑の景が広がる長閑な街道ウォークになります。

西鬼怒川西鬼怒川橋で渡ります、西鬼怒川は元和六年(1620)に開削された鬼怒川の分流で、流末は鬼怒川に落合います、、往時は鬼怒川本流に匹敵する流量があり舟渡しでした。

上流側には
男体山大真名子山(おおまなこさん)、赤薙山(あかなぎやま)が遥かに望めます。

先に進むと白沢バス停、開田之碑、そして奥に
白澤の一里塚址碑があります、かつては鬼怒川の河原にありましたが、度々の洪水で壊れてしまったといます、江戸日本橋より数えて三十里目です。
西鬼怒川 白澤の一里塚址 新川分岐

 ここには白澤宿七福神の
福禄寿があります。

次いで
押切新川新川橋で渡ります、押切新川は西鬼怒川の分流です、渡詰めを左(黄色矢印)に進んでみましょう。

 しばらく進むと右手の集落に大樹が聳えています、ここが三本杉跡です。

鬼怒川の洪水で勝山の
与作稲荷が三本杉の根元に流れ着きました、その後上阿久津の地に移されました、代わりの稲荷が今も祀られています。

街道に戻って進むと
鬼怒川の土手に突き当たります、この土手を登り、土手上の舗装路を左に進みます、この分岐点には標識「この先公園区域につき通り抜けできません」があります。

先に進み二本目を右に下ります。
三本杉跡 与作地蔵跡 鬼怒川土手道 鬼怒川川原口

 鬼怒川の川原に出ると舗装路から砂利道になります。

鬼怒川の川原は一面の石で埋めつくされています。

砂利道を進むと右手に
木製標識「鬼怒川の渡し跡」があります、春から秋にかけては舟渡し、冬の渇水期は仮橋でした。

砂利道は再び舗装路の土手道に合流します、白河方面からは斜め左の砂利道の下り坂に進みます。

突当りの堤下に
築堤紀念碑があります。
鬼怒川川原 鬼怒川の渡し跡 土手道復帰 築堤紀念碑

 鬼怒川阿久津大橋で渡ります、この阿久津大橋には歩道がありませんから通行には十分お気を付け下さい。

鬼怒川は日光の鬼怒沼(奥鬼怒)に源を発し、流末は利根川に落合います、流れが穏やかなところから絹川とも呼ばれますが、一旦増水すると川幅は八町(約800m)にも及ぶ鬼が怒る暴れ川でした。

鬼怒川は
宇都宮市さくら市の境です。

渡詰めを右折し土手道を進み、先で左手の畑の間の砂利道を進みます、この辺りが氏家側の
渡し場からの旧道に概ね合致します、先の突当りを左折します。

先に進むと左手に
山車庫があります。
阿久津大橋 鬼怒川 山車庫

 安政四年(1857)造の
白木地彫刻屋台には菊の彫刻が施されています。

 そのまま進むと阿久津大橋からの県道125号線に突き当たります、この分岐点には木製道標「←与作地蔵0.3K ここは上阿久津」があります、右折(白色矢印)します、白河方面からは左折になります。

この分岐点十字路を直進(黄色矢印)すると
船玉神社が鎮座しています、阿久津河岸の守護神で船魂を祀っています、船頭の信仰が篤く、豪奢な本殿に往時の繁栄がしのばれます、弘化二年(1845)建立の常夜燈には「左江戸道 右奥州道 此方河岸道」と刻まれています。

阿久津河岸は勝山城の廃城により禄を失った宇都宮氏の旧臣若目田氏がそれまでの河岸を発展させ、仙台、米沢、二本松、大田原諸藩や天領の廻米を江戸に送る舟運の一大拠点となりました。
渡し場旧道口 船玉神社 船玉神社本殿

 河岸は
小江戸と呼ばれ、その繁盛振りは「入船千艘、出船千艘」といわれました。

 船玉神社の右側を更に進み、先のY字路を左に入ると左手に浮島地蔵堂があります。

安置されている
浮島地蔵尊は元文四年(1739)の造立です、石像でありながらどのような洪水にも流されずに浮いて踏み止まり、人々を救済する霊力があります。

堂脇には
如意輪観音像十九夜塔等があります。

それでは今来た道を戻りましょう、阿久津大橋からの県道125号線を左に進みます。

突当りの
上阿久津交差点を左折(白色矢印)しますが、突当りの小路(黄色矢印)に入ってみましょう。
浮島地蔵尊 石仏群 上阿久津交差点

 Y字路左の土道を進むと与作稲荷神社が鎮座しています、三本杉に流れ着いた稲荷社がここに遷座しました。

村人、旅人、鬼怒川の船頭等が詣でると様々な霊験や奇瑞が起こり、稲荷信仰が盛んになり、門前には
稲荷町ができ参詣者で賑わい飲食遊興の地となりました。

街道に戻って進むと右手に
男女双体道祖神等があります。

さくら市上阿久津歩道橋手前の右手に
大日堂があります。
与作稲荷神社 男女双体道祖神 大日堂 稲荷神社

 並びの段j上には
稲荷神社が祀られています。

 さくら市上阿久津歩道橋を越すと右手の段上に高尾神社が鎮座しています、上阿久津の産土神です。

水神玉井護神を祀り、河岸衆の崇敬が篤かったといいます、延宝六年(1678)建立の総欅造りの社殿は明治三十九年(1906)に残念ながら焼失してしまいました。

案外急な逢坂を上り、勝山交差点を越すと右手に
勝山食堂があります。

奥州道中ウォークの楽しみの一つはここの
勝山ラーメンです、街道のドライブイン風の店構えから
リニューアルされていますが、味は相変わらず絶品そのものです。
高尾神社 勝山食堂 勝山ラーメン

 
醤油ラーメンの奥深いコクうま味はキラキラ光る金賞ではなく、いぶし銀ものです!お奨めです!!

 大古精機を過ぎると右手に将軍地蔵があります、源義家が奥州征伐に向かう途次、鬼怒川釜ケ渕の悪蛇に進路を阻まれました、そこで宗円法師が念じると将軍地蔵が現れ悪蛇を退散させました。

室町の頃、
日光山に修行に行った僧が修験者のそうめん責めに遭うと、将軍地蔵が現れてそうめんを平らげたところからそうめん地蔵とも呼ばれています。

次いで左手のさくら市ミュージアムに関東最大級の
木造不動明王坐像があります、氏家宿の光明寺の青銅不動明王の鋳型です(栃木県指定文化財)。

さくら市ミュージアムの奥が
勝山城址です、大手門橋を渡ると本丸跡があります。
将軍地蔵 木造不動明王坐像 勝山城址

 
勝山城は氏家氏の築城にはじまり、宇都宮氏一族の芳賀氏の居城となりました、鬼怒川の崖を天然の要害とした崖端城(がけたんじょう)で那須氏との攻防を繰り返しました、慶長二年(1597)宇都宮氏の改易に伴い廃城となりました。

 街道に戻りベイシア入口を右折(白色矢印)します、次いで突当りのベイシア手前をを左折します。

国道4号線上阿久津バイパスを横断した先の左手奥に
お伊勢の森があります、伊勢神宮を勧請したものです。

氏家の
宿役人は氏家以北三十七家の参勤大名公用役人等の送迎をここで行いました。

JR東北本線を旧奥州街道踏切で横断して進むと右手に
木製道標「←奥州街道道標石/お伊勢の森→」があります。
ベイシア入口分岐 お伊勢の森 旧奥州街道踏切 石塔

 この向いに
湯呑が供えられた石塔ないしは石仏がありますが判読不明です。

 AM11:50 氏家宿着 喜連川宿まで7.6km

 一本道の街道はT字路に突き当たります、T字路の右手は大谷道です、水戸に至ります。

ここにある
追分道標には「右江戸海道 左水戸かさま 下だて 下づま」と刻まれています、並びの馬頭観世音は天保九年(1838)の建立で幕府下野の名筆家で喜連川藩ゆかりの小山霞外(かがい)の書です、そして地蔵尊坐像があります。

ここは氏家宿の江戸口で
南木戸があり番所がありました、T字路を左折(白色矢印)します、氏家宿に到着です!

勝山城が廃城になると禄を失った旧臣平石佐渡守等三十六人衆が氏家宿の形成に尽力しました、氏家宿は阿久津河岸の集積地で宿内には諸藩の蔵が並び、会津中街道、会津西街道、原方街道の要衝を控え大いに賑わいました。
氏家宿江戸口 氏家宿街並

 天保十四年(1843)の
奥州道中宿村大概帳によると氏家宿宿内家数は二百三十五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒で、宿内人口は八百七十九人(男四百四十九人、女四百三十人)でした。

 宿並の一本目を右に入ると左手の古町公民館の並びに追善供養の石塔婆六基十九夜塔、天保九年(1838)建立の馬頭観世音等が並んでいます。

敷地内には
薬師如来を安置する古町薬師堂があります。

宿並に戻って進み、
氏家交差点を右折して進むと左手の老人介護施設いずみの裏に鶏権現が鎮座しています。

鶏権現の本源は
水分信仰で、清水の湧く所や水源地に祀られる水神です、「みくまり」と呼ばれ「みわたり」から「にわとり」となりの字があてられました。

小児の咳に霊験あらたかで、ご神体を借り受け、治ると衣類を着せて戻しました。
石造物群 薬師堂 鶏権現

 氏家宿内には
氏家の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十一里目です。

 流れに沿って戻り、更に進むと右手が自性院跡です、境内の観音堂には元禄十七年(1704)造立の千手観音立像が安置されています、五十里洪水の際には氏家新田まで流されましたが燦然と輝いていたといいます。

宿並に戻り黒須病院を過ぎると左手に平石歯科医院があります、ここが
御本陣平石六右衛門跡で氏家村の名主を兼ねました。

邸内には弥五郎坂にあった
領界石「従是西宇都宮領」が移設されています。

左手の旧烏山信用金庫氏家中央支店が
石井脇本陣跡です、代々孫兵衛を襲名しました。
観音堂 平石本陣跡 領界石 石井脇本陣跡

 向いの村上自動車商会が村上脇本陣跡です、村上保助が勤めました、氏家宿では一時期脇本陣の交代がありました。

氏家駅東入口交差点手前の左手に浄土宗
西導寺があります、建久二年(1191)氏家氏の始祖氏家公頼の創建で氏家氏の菩提寺です、天明四年(1784)に再建された本堂は市有形文化財指定です。

境内の西側に
蔦地蔵と呼ばれる石造地蔵菩薩坐像があります、定家地蔵とも呼ばれています。

鎌倉期に
宇都宮氏を中心に形成された宇都宮歌壇は京、鎌倉に次ぐ地方歌壇で、歌聖藤原定家と親交を結び、宇都宮頼綱の娘は長子為家に嫁いでいます。
村上脇本陣跡 西導寺 蔦地蔵

 
藤原定家の七周忌に定家の面影を写した地蔵尊が造立されました。

 氏家駅東入口交差点の先を右に入ると真言宗智山派光明寺があります、宝暦九年(1759)鋳造、高さ3mの青銅不動明王像が護摩堂背後の岩上に鎮座しています。

さくら市ミュージアムに保管されている
不動明王像を木型として鋳造されました。

先の
上町交差点を直進する筋が会津西街道です、会津の若松城下に至ります、会津西街道先のY字路右は会津中街道です、五十里湖の出現によって通行不能となった会津西街道の代替として整備された脇往還です。

宿並は
上町交差点を右折します、この辺りが氏家宿の北口です。

二本目の信号交差点の左が
原方街道です、白河に至ります、諸藩の廻米を阿久津河岸へ移送する搬入路でした。
光明寺 薬王寺

 二筋の五行川五行橋思案橋で渡ると左手に真言宗智山派薬王寺があります、応永三十一年(1424)の創建で本尊は金剛界大日如来です。

櫻野中交差点を越すと左手に櫻野村の
庄屋を勤めた村上家があります、棟木門には五十里湖決壊による洪水の水位が残されています。

天和三年(1683)
日光大地震で日光神領西川村の葛老山(かつろうざん)が崩壊し、男鹿川(おじかがわ)を堰き止め五十里湖(いかりこ)が出現しました。

これにより
会津西街道は遮断され、新たに会津中街道が開削されました。

四十年後の享保八年(1723)豪雨によりこの
五十里湖が決壊し、瞬く間に鬼怒川岸の村々を飲み込み未曽有の大災害となりました、死者は一万二千人余りに達したといいます。
村上家棟木門 五十里湖洪水跡

 次いで左手に瀧澤家住宅があります、瀧澤家は明治になって紡績等の事業で財をなした旧家です、明治期の当主であった瀧澤喜平治は貴族院議員などを歴任し、第四十一銀行の設立や那須野が原の開拓にも尽力した人物として知られています。

栃木県指定有形文化財建築物指定の
鐡竹堂(てっちくどう)は明治天皇の休息所になり、蔵屋敷には洋風の望楼を載せています、堂々たる長屋門はこの地では最大級のものです。

先に進むと左手に
櫻野八幡宮が鎮座しています櫻野村の鎮守です、本殿は総欅白木造りで見事な彫刻が施されています。
瀧澤家住宅 望楼 櫻野八幡宮

 桜野東町を進むと右手のとりせんの向いに二十六夜塔、弘化二年(1845)建立の二十三夜塔、明治三十七年(1904)建立の十九夜塔が並んでいます。

次いで左手に
十九夜塔と寛政七年(1795)建立の馬頭観音像が同じく並んでいます。

先に進むと桜野交差点にて街道は右からの
国道293号線に吸収され旧陸羽街道になります、白河方面からはY字路を右に進みます。

さくら市綜合公園入口交差点を越すと
旧並木村に入ります、往時は百三十五本の松並木でしたが、戦時中に松根油の搾取のために全て伐採されました。

次いで
旧狹間田(はさまだ)新田村に入ります、当初宇都宮藩領でしたが、下総佐倉藩領となり、その後幕府領となりました、村内の家数は二十三軒でした、熱田小学校近くの星宮神社は狹間田村の鎮守です。
石塔 石仏

 田中橋を渡ると右手の大谷石塀の坂本宅内に狹間田の一里塚南塚が現存しています。

塚上には小社が祀られています、
北塚は下松山村地内でしたが取り壊されました、江戸日本橋より三十二里目です。

松山交差点の左手には幕末に勧請された
琴平神社が鎮座しています。

交差点を右に進むと左手に廃仏毀釈で廃寺となった真言宗松久山医王院
庭蓮寺跡があります。
挟間田の一里塚 南塚 琴平神社 薬師堂

 境内には
一石六地蔵や文政二年(1819)建立の徳本名号碑「南無阿弥陀仏」等があります。

 松山交差点に戻って街道を進みます、谷中入口バス停を越すと左手に明暦二年(1656)に開削された市堀用水路があります。

この右手に
大黒天が二体祀られています、左手の古い大黒天の台石には明治時代の水準点の記号が刻まれています(標高158m)、当時この辺り一体は水田で不朽物がこの大黒天以外に見当たらなかったためです。

スグ正面の
Y字路を左に進みます、国道は右に反れて行きます、この分岐点には案内標識「←早乙女温泉」「←セブンハンドレッドクラブ」があります。

次第に
弥五郎坂の上りが強くなってきます、「江戸よりここまで平地也、これより山路に成る」といわれました。
新旧大黒天 明治時代の水準点 弥五郎坂南口

 左手の奥に大中小三基の勝善神があります。

次いで左手に
馬頭観音像と寛政五年(1793)建立の二十三夜供養塔が祀られています。

先の右手に
早乙女坂古戦場標識松尾弥五郎博恒墳墓碑があります、石段を上ると五輪塔を納めた弥五郎殿があります。

天文十八年(1549)
宇都宮尚綱軍那須氏喜連川塩谷軍がこの早乙女坂で激戦を繰りひろげました。
勝善神 石仏石塔 弥五郎殿 五輪塔

 那須氏方の鮎瀬弥五郎実光宇都宮尚綱を討取り勝利を収めました。

後に
弥五郎はここにを建て、尚綱を供養する五輪塔を安置しました、以来、祠は弥五郎殿、早乙女坂は弥五郎坂と呼ばれるようになりました。

弥五郎伝説にはもう一説あります、松尾弥五郎は宇都宮尚綱の家臣で、主君の戦死を知ると単身敵陣に切り込み、討ち死にしたといます、宇都宮尚綱の子孫がこれを憐れみ供養したとの二説です、いずれにしても弥五郎繋がりです。

 弥五郎坂を上ると右手に早乙女温泉があります、日帰り温泉です、かけ流しの高品質濃厚硫黄泉で糖尿病、皮膚病、神経痛、冷え性、うちみ、慢性消化器痛などによろしいようです。

更に上ると左手のセブンハンドレッドクラブ入口辺りが
弥五郎坂の頂上です。

下りになると右手に
奥州街道(古道)南口(白色矢印)があります、荒れてはいますが旧国道の舗装路を残しています。

旧道を進むと左手に
高塩背山の墓案内標識があります。
早乙女温泉 弥五郎坂頂上 奥州街道古道口 高塩背山墓案内

 
高塩背山(たかしおはいざん)は代々喜連川神社の神職を勤める家に生まれ、歌人を志し若山牧水と親交がありました。

 苔むした旧道を下ると右手に愛宕山神社が鎮座しています、元の羽黒山神社で地名の羽黒の由来となった神社です、境内には天保十年(1839)建立の御神燈があります。

羽黒村手前の右手段上に
庚申塔が四基並んでいます。

旧道は左からの車道に吸収されます、ここが
奥州街道(古道)の北口です、この分岐点には丸太道標「←桜並木/高塩背山の墓→」があります。
愛宕山神社 庚申塔群 奥州街道(古道)口 河東碧梧桐句碑

 街道は直進(白色矢印)しますが、左(黄色矢印)の新道を進むと
河東碧梧桐句碑「阪を下りて左右に薮あり栗おつる」があります、碧梧桐(へきごとう)は正岡子規門下の秀才でした、この句は弥五郎坂を下り、荒川の清流を眼下に見る大桜の下で一休みした時に詠んだものです。

傍らには
弥五郎坂開削の碑があります。

 羽黒村を抜けると視界は一気に開け、辺りに田園風景が広がります。 

左前方の小高い丘陵が
喜連川城址です、今はお丸山公園となりスカイタワーが聳えています。

県道180号蒲須坂(かますさか)喜連川線を横断すると、右手に
交通安全地蔵が祀られています、きれいな花が供えられています。

荒町の集落に入ると左手に自然石の
二十三夜塔があります、ここを入ると愛宕山神社が鎮座しています。
喜連川城址 交通安全地蔵 二十三夜塔 愛宕山神社

 街道はL字路に突き当たります、ここには樹齢百四十年の見事な枝垂れ桜が聳え、樹下には大小の勝善神が祀られています。

この桜は
河東碧梧桐の句に登場していますが、残念ながら伐採されています。

L字路右の縄手道をしばらく進むと
連城橋の袂に出ます、ここには寛延元年(1748)建立の追分道標「右江戸道/左下妻道」があります、左折して連城橋の歩道橋で荒川を渡ります。
枝垂れ桜 勝善神 道標 連城橋歩道橋

 PM2:00 喜連川宿着 佐久山宿まで11.7km

 荒川は高原(たかはら)山の主峰釈迦ケ岳(しゃかがだけ)に源を発し、流末は那珂川に落合います、荒川は古くは(きつね)と呼ばれました、狐川上流に狐の影を映す大木がありました、何度切り倒しても元の姿に戻ってしまう、ある夜「焼かれたら終わりだ」と大木が呟くのを聞いた者が焼き払ったところ二度と姿を現さなくなったといいます。

荒川を渡ると
喜連川宿に到着です!

喜連川宿は
喜連川藩の陣屋町として発展し、藩主の喜連川氏足利尊氏の流れを汲む古河公方の為、幕府はその格式を認め参勤を免除しました。

天保十四年(1843)の
奥州道中宿村大概帳によると喜連川宿宿内家数は二百九十軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒で、宿内人口は千百九十八人(男六百十一人、女五百八十七人)でした。
荒川

 宿並に入り喜連川温泉浴場案内に従って左の小路に入ると寒竹囲の家が連なっています、第六代藩主喜連川茂氏は傷みやすい板塀から、周辺に自生する寒竹(かんちく)の垣根を奨励しました。

宿並に戻り本町交差点左手の竹末本店前に
喜連川町道路元標があります。

一本目を左折して進むと右側に
御用堀が走っています、第十代藩主喜連川煕氏(ひろうじ)は天保十三年(1842)陣屋町を挟む荒川内川から取水する用水を開削し、生活用水、灌漑用水、防火用水として利用しました、今は鯉が放流されやすらぎの散歩道として整備されています。

喜連川藩は五千石の小藩で財政は困窮を極めました、そこで
喜連川煕氏養蚕を奨励したところ盛んになり、藩財政に潤いをもたらしました、 煕氏は領民の暮らしや教育にも熱心に取り組み、鍛冶ケ沢の開墾や藩校翰林館(かんりんかん)などを開校しました。
寒竹囲の家 御用堀

 御用堀の左手に喜連川神社の裏参道があります、参道階段口の社務所前に酒と旅をこよなく愛した若山牧水と代々喜連川神社の神職を勤める家に生まれた高塩背山の歌碑が並んでいます。

若山牧水歌碑(右)「時をおき 老樹(おいき)の雫(しずく) おつるごと しづけき酒は 朝にこそあれ」 

高塩背山歌碑(左)「かぜとよむ 桜若葉の あひだより 残れる花の ちるはさびしき」

参道階段を上ると
喜連川神社が鎮座しています、永禄六年(1563)塩谷第十五代兵部大輔源惟朝(これとも)が尾張国津島牛頭天王宮の分霊を勧請し創建したと伝えられています。
喜連川神社裏参道 歌碑 喜連川神社

 
塩谷氏喜連川氏代々崇敬の社で喜連川ほか十五郷の総鎮守でした。

 宿並に戻ると右手奥に臨済宗円覚寺派慈雲山龍光寺があります、足利尊氏の創建です。

境内には喜連川藩主足利家歴代御墓所があります。

この地を支配した
大蔵ケ崎城主塩谷氏秀吉の命により改易となり、跡目に足利国朝を据えました、二代目以降は喜連川を名乗りました。

米沢の
上杉侯は謙信以来の旧主古河公方の末裔とあって、ここを通る際は笠を取ったといいます。
龍光寺山門 龍光寺本堂 喜連川藩主墓所 喜連川歴代藩主墓

 宿並に戻ると右手のかぶらぎ時計店が旅籠山田屋徳平跡です。

並びの割烹寿司芳川屋が
喜連川脇本陣跡です、永井家が勤めました、裏には明治天皇御小休所碑があります。

左手の奥が
喜連川城大手門(復元)です、背後のお丸山公園が喜連川城址です。

壇ノ浦の戦いに功があった
塩谷五郎惟広(これひろ)は源頼朝からこの地を与えられ、文治二年(1186)大蔵ケ崎城(喜連川城)を築き居城としました、以来四百年間この地を支配しました。
旧旅籠 喜連川脇本陣跡 明治天皇碑 喜連川城大手門

 第十七代城主
塩谷惟久(これひさ)は豊臣秀吉の小田原征伐の参陣に遅参したとして改易されました。

新たに入封した
足利国朝(くにとも)が城主となりました、徳川の世になると旗本寄合格となったため、喜連川城は喜連川藩陣屋となりました。

 喜連川郵便局の向いを右に入ると真言宗智山派慈光寺があります、当寺には御坊権現の伝説があります。

喜連川藩初代藩主の
足利国朝(くにとも)は京の姫君との間に男子をもうけたが、文禄元年(1592)朝鮮出兵を前に安房國で病没しました、享年二十二歳でした、弟の喜連川頼氏が二代目藩主となりました。

生まれた男子は十二歳で出家し、十七歳で
延暦寺の座主となりました、自身の出自を知ると御坊ははるばる頼氏を訪ねました、すると頼氏は表向きは歓迎しましたが、御坊の宿所に火を放ち焼き殺しました。

その後喜連川の城中に不吉な出来事が続き御坊の祟りといわれ、
慈光寺の境内に祠を建て霊を弔いました、祠は当初、北西を向いて建てましたが、いつの間にか南東の方を向いてしまい、何度直しても南東を向くので「母君のいる京が恋しいのだろう」と向きを直すのをやめたといいます。
慈光寺山門 慈光寺

 宿並に戻って進むと右手に街の駅本陣カフェレストラン蔵ケ崎があります、ここが喜連川宿本陣跡です。

江戸中期には
郡司十左衛門斎藤仁右衛門等が本陣を勤めましたが、後期は上野太郎平本陣を勤め問屋を兼ねました、奥羽、越後、下野の三十七大名が参勤の際に投宿しました。

現建物は大正十五年(1926)築の旧喜連川警察署跡です、大正期の警察庁舎で現存するものは全国に数ケ所しかありません、敷地内には
自噴井戸があります。

次いで右手に和菓子処紙屋があります、明治十八年(1885)創業の銘菓落雁
樺山錦の老舗です、この菓子は大正天皇即位奉祝として献上されました。
喜連川宿本陣跡 自噴井戸 和菓子処紙屋

 信号交差点を越すと右手にささや呉服店があります、旧萬屋で創業二百五十年の呉服商です、広大な敷地に黒漆喰の蔵等を残しています。

次いで仲町交差点を越します、この辺りに
喜連川の一里塚があったといいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十三里目です。

時宗
東漸寺(とうぜんじ)の参道口前に枡形の痕跡を残しています。

宿並が右に大きく曲がると右手に
たかしお薬局が現れます、野口雨情の妻ヒロの実家です。
旧萬屋 枡形跡 たかしお薬局

 
高塩ヒロは明治三十八年(1905)野口雨情と結婚しましたが、大正四年(1915)協議離婚して実家に戻りました。

 先に進むと左手奥に浄土宗鎮西派松林山専念寺があります、境内に鉄造阿弥陀如来像を安置する阿弥陀堂があります。

鎌倉時代の弘安六年(1283)鋳造の善光寺式阿弥陀三尊の
鉄造中尊像(阿弥陀如来像)です、高さ約40cmの立像で火災に遭い脚部は焼失しています(栃木県文化財指定)。

台町交差点手前を右折(白色矢印)します、往時はここに
追分道標がありましたが、今は先(黄色矢印)の台町集会所に移設されています。
専念寺 阿弥陀堂 @台町枡形 追分道標

 台町交差点の左手に台町集会所があります、敷地内に享保九年(1724)建立の
追分道標「右奥州街道 左在郷道」があります。

 それでは台町の枡形を辿りましょう。

@
台町交差点の手前を右折します。
A突当りの
T字路を左折します。
B突当りの
内川土手道を左折します。
C右折して
内川金竜橋で渡ります。

白河方面からは渡詰めを左折します。

内川(うちかわ)は栃木県矢板市の八方ケ原に源を発し、流末は荒川に落合います。

常は
橋渡しでしたが、一旦橋が流失すると蓮台越しになりました。
AT字路分岐 B内川土手分岐 C金竜橋 内川

 内川を渡ると田町に入ります、田町バス停を過ぎると右手の民家の庭内に三段式自噴井戸があります。

先の右手段上に
金鶏山神社が鎮座しています、祭神は猿田彦命鶏権現ともいいます、喜連川神社に合祀されていますが、社殿を残しています。

金鶏山神社前のY字路を県道114号線から右に入ります、ここが
田町旧道の南口です。

旧道内の左手に昭和六十三年(1988)建立の
男女双体祝言道祖神があります。
三段式自噴井戸 金鶏山神社 田町旧道南口 男女双体道祖神

 田町旧道はスグ先で再び県道114号線に吸収されます、白河方面からは斜め左に入ります。

緩やかな上りの県道114号佐久山喜連川線を進むと、右手の 菖蒲沢公園入口手前に
馬頭尊があります、側面に「昭和十二年(1937)日支事変之為軍馬出征」と刻まれています、外地に出征した兵士は戻っても、徴用され出征した軍馬が戻ることはありませんでした。

緩やかな上り坂をグングン進むと左手に
JAしおのやが現れます、その先がY字路になっています、この分岐点には彼岸桜彼岸桜標石(黄色囲み)があります。

鶴ケ坂分岐です、旧道は左(白色矢印)に進みます、右(黄色矢印)の県道は迂回路になります。
田町旧道北口 馬頭尊 鶴ケ坂口分岐

 これから進む旧道沿いには大規模な
養豚場等があります、季節や風向きによっては強烈な臭気に難渋します、その場合は躊躇なく迂回路を進みましょう。

 ヤマギシズム生活那須実顕地手前を右折して砂利道に入ります。

先に進むと
Y字路が現れますが直進します、左は養豚場口です。

スグ先で
Y字路になります、右(黄色矢印)に進むと迂回路の県道114号佐久山喜連川線に出ます。

この
Y字路を左(白色矢印)に進みます、右手の日軽エムシーアルミと左手の東北軽金属の間を進みます。

土道の
鶴ケ坂旧道になります。
鶴ケ坂旧道南口 Y字路分岐 Y字路分岐 鶴ケ坂旧道

 土道をしばらく進むと右手にトラクター置場があります、ここを入ると鶴ケ坂旧道に沿って走るV字形沢道があります、これこそが古奥州道中といわれています。

トラクター置場の奥はこの沢道を埋めた状態になっています、渡ると雑木林の中に
南和田の一里塚があります、江戸日本橋より数えて三十四里目です。

この一里塚の近くに往時は茶屋があり、
楢木(ナラノキ)があるところから楢木茶屋と呼ばれました。

沢道は続いていますが倒木が多く、足元も悪く踏破はとても無理です、諦めて元の道に戻って進みます、旧道は
雑木林道となり下り坂になります。
南和田の一里塚 沢道 雑木林道

 雑木林を抜けると十字路に出ます、ここに馬頭観世音や慶応二年(1866)銘の飴屋六造墓石等があります。

更に雑木林を付けると舗装路に突き当たります、右折(白色矢印)し、突当りの県道114号佐久山喜連川線を左折(白色矢印)します。

スグ先の左手に
浅間神社の参道階段があります、御即位記念上江川村植林地碑があります。

白河方面からは先を右折します。
石塔群 鶴ケ坂旧道口 鶴ケ坂旧道北口 浅間神社参道

 南和田から下河戸に入ります、江川(河)の戸口にあたるところを河戸の地名由来としています、福原氏の領地で寛永三年(1626)上下河戸に分村しました。

下河戸駐在所を過ぎると右手の上江川郵便局の向いに豪壮な
長屋門があります。

スグ先の
曽根田交差点を右折(白色矢印)します。

わずかに進むと右手に
天皇御小休之際御膳水碑と近世の男女双体祝言道祖神が並んでいます。

江川宮下橋で渡ります、江川は喜連川丘陵に源を発し、この辺り一帯の田畑を潤し、流末は荒川に落合います、往時の川幅は五間で架橋されていました。
長屋門 曽根田分岐 明治天皇碑&道祖神

 次いで大沢用水合柄橋(ごうえばし)で渡ります。

先の右手に
源氏ボタルの里入口案内があります、源氏蛍の幼虫は平家蛍の成虫より体長は大きく、清冽な流れを好むといいます。

田園風景の中を進み、きつれがわ幼稚園を過ぎると右手の公園口に
史蹟明治天皇引田原御小休所阯碑があります。

公園の奥には
明治天皇御休輦之處碑があります、明治九年(1876)巡幸の際ここで休息しました、その際に供されたのが先程の御膳水です。
合柄橋 源氏ボタルの里 明治天皇碑 明治天皇碑

 街道をしばらく進むと左手に大谷石造りの蔵がある手塚宅があります、敷地内に下河戸(引田)の一里塚の西塚があります、江戸日本橋より数えて三十五里目です、戦時中に防空壕として利用したといいます。

先に進むと左手に
ほほえみ仏標識があり、石仏が三体並んでいます。

街道はいよいよ
さくら市から大田原市に入ります、市境標識があります。

街道を進むと右手に江戸時代後期創業の
武藤酒店があります。
下河戸の一里塚 ほほえみ仏 武藤酒店 馬頭観音

 庭内に元は市境辺りにあった延享三年(1746)建立の
馬頭観音像が移設されています。

 右手の段上に温泉神社が鎮座しています、文治三年(1187)那須湯本の温泉神社を勧請し、この地の鎮守としました。

時差式信号交差点手前の右手擁壁上に
高久家のツツジ群があります、与一の里名木選で推定樹齢二百年です。

時差式信号交差点には
追分道標「大田原 喜連川 片岡」があります。

この交差点から
県道114号線から県道48号大田原氏家線になります。
温泉神社 高久家のツツジ群 追分道標 庚申塔群

 右手の琵琶池ゴルフ倶楽部入口に
庚申塔が三基祀られています、内一基には万延元年以来合碑と刻まれています。

 旧高橋村に入ると右手に和郷碑があります、県営圃場整備事業完成記念碑です。

十字路を過ぎると右手の丘上に
木の股地蔵尊が鎮座しています、境内には五輪塔、享保十七年(1732)建立の石燈籠、享保十八年(1733)建立の石塔等があります。

観音坂とも呼ばれるつぶれ坂を上り、農産物直売所きらり佐久山前から斜め左の旧道に入ります。

この分岐点から右に伸びる筋は
福原道です、那須氏の居城福原城へ至ります。

旧道を進むと左手に
佐久山温泉きみのゆがあります、温泉&岩盤浴です、コテージには5名定員で宿泊可 です。
和郷碑 木の股地蔵尊 地蔵堂

 佐久山前坂交差点を越すと下り坂になります、右手の段上に山の神が鎮座しています、春になると里に降りてきて実りをもたらします。

境内には
雷神庚申供養塔が祀られています。

左手の観音堂の参道には多数の
石仏石塔が並んでいます。

観音堂は正保年間(1644〜48)福原城主那須資弥(すけみつ)の創建です、観音堂には慶応三年(1867)銘の鰐口が吊り下げられています。
佐久山前坂交差点 山の神 石仏石塔群 観音堂

 PM4:52 佐久山宿着 大田原宿まで6.9km

 街道に戻ると右手に虚空蔵尊堂への参道階段があります、中段には文化十二年(1815)建立の二十三夜塔があります、上り詰めると虚空蔵尊堂があります、虚空蔵尊は人々に知恵を授け、願いを叶えてくれる菩薩です。

この参道階段口辺りが佐久山宿の
江戸(南)番屋がありました、佐久山宿に到着です!

佐久山宿は旗本福原(ふくわら)氏五千石の陣屋町として発展しました。

天保十四年(1843)の
奥州道中宿村大概帳によると佐久山宿宿内家数は百二十一軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十七軒で、宿内人口は四百七十三人(男二百三十人、女二百四十三人)でした。
虚空蔵堂参道口 二十三夜塔 虚空蔵尊堂

 突当りのT字路を左折(白色矢印)します、佐久山宿の南枡形です、白河方面からはなまこ壁の土蔵を右折します。

スグ先で
県道48号線に合流(白色矢印)します。

用水大橋で渡ります、白河方面からは大橋先を斜め左に入ります。

大橋を渡ると左手に
運用膏の庵看板を掲げた八木澤家があります。

傷薬の
運用膏の老舗で、幕末戊辰戦役の際に評判を一気に高めました。
南枡形 宿内分岐 八木澤家 運用膏庵看板

 宿並を進むと左手に豊道春海(ぶんどうしゅんかい)翁生誕之地碑があります、翁は佐久山出身で明治から昭和にかけての書家で文化功労者に選ばれました、日本書道界の大家で大田原名誉市民第1号です。

宿並を進むと右手の大田原市消防団第五分団第二部前に
標石「旧奥州道中 佐久山宿 下町」があります。

並びの公衆便所の壁面に与一の里大田原と題して
那須与一扇の的が描かれています。

元暦二年(1185)源平合戦
屋島の戦いで源氏方の弓の名手那須与一が平家方の軍船に掲げられた扇の的を見事に射落とし勝利に導きました、源頼朝から褒賞として那須氏の総領(跡継ぎ)の地位と那須野の地が与えられました。
豊道春海碑 下町標石 那須与一画

 壁画の脇を右に入ると左手に大日堂があります、仁王系の木造不動明王像を安置しています、この不動明王像(彫刻)は大田原市指定文化財です。

境内には
出羽三山供養塔如意輪観音像十九夜塔庚申塔等があります。

大日堂の裏手に
大ケヤキがあります、与一の里おおたわら名木の佐久山のケヤキです、推定樹齢八百年で栃木県指定天然記念物県名木選です。

先のGS ENEOS手前を左に入ると左手に以前は
明治天皇佐久山行在所跡碑がありましたが、今は先の御殿山公園口に移設されています、明治九年(1876)巡幸の際、旧佐久山宿内に宿泊しました。
大日堂 大ケヤキ 明治天皇碑

 御殿山公園は佐久山城址です、文治三年(1187)那須与一の兄那須泰隆(やすたか)が佐久山城を築き佐久山氏を名乗りました、永禄六年(1563)同族の福原氏が那須氏を滅ぼし城主となりました、徳川の世になると佐久山城は旗本福原氏五千石の陣屋となり、幕末まで存続しました。

宿並に戻ってしばらく進みます、左手の大田原佐久山郵便局の手前に
村上英俊翁生誕之地碑があります、日本で初めてフランス語を修め、幕末から明治にかけて活躍した学者です、明治八年(1885)、日本にフランス学を創始した功績により、フランス大統領からジョン・ヌール・シュヴァリエ勲章が授与されました。

この村上英俊碑の敷地が
御本陣井上勘左衛門跡です、井上家が本陣を勤め問屋を兼ねました。
佐久山城址 村上英俊碑 佐久山宿本陣跡

 本陣跡の先を左に入ると曹洞宗月江山慈雲寺実相院があります、永享年間(1429〜41)福原氏の娘がこの地に尼寺を創建したのが始まりです。

本堂の南に
福原氏累代墓所があります、永禄十一年(1568)福原資孝(すけたか)は佐久山氏を追い落とし、居を福原から佐久山に移し、実相院を福原家累代の菩提所と定め、福原より歴代の墓を当寺に移葬しました。

山門は元禄年間(1688〜707)の創建で唐風建築を取り入れた四脚門で石屋根になっています。

高台には
大高家累代之墓所があります、佐久山大高家は代々佐久山藩士で藩医を勤めました。
実相寺 福原氏墓所 大高家累代之墓所

 
播州赤穂大高家の長男大高源五赤穂義士で本懐を遂げた後に切腹をして果てました、母は親戚筋の佐久山大高家に身を寄せ、大高源五の遺髪を当寺に分葬しました。

 宿並に戻って進むと右カーブの下り坂になります、ここが佐久山宿の北枡形で宿北口になります。

左(黄色矢印)に進むと左手に
島崎酒造があります、近江出身の島崎覚兵衛が天明元年(1781)に創業した銘酒友白髪の蔵元です。

枡形に戻って進むと左手に浄土真宗本願寺派
正浄寺があります、鎌倉時代の建保二年(1214)宗祖親鸞聖人が東北巡錫の折、箒川端の岩井孫八宅に一宿し、 礼に阿弥陀如来の尊像を与えました。
北枡形 島崎酒造 正浄寺 芭蕉句碑

 その尊像を安置するために孫八が
御堂を建立したのが正浄寺の起源といいます。

境内には
芭蕉句碑「花の陰 謡に似たる 旅寝哉」があります。

 正浄寺先の右手に蕎麦工房大正(おおまさ)があります。

個人住宅がそば店になっています、表には
があるだけで看板は敷地内にある、質素な店構えです。

ところがここの
蕎麦は絶品です、本格的でありながら、実にリーズナブルなのです。

冷たい
もりそば冷やしたぬきは共に600円、温かいひたしそばかけそばあんかけそばはいずれも600円です。
大正庵 大正庵看板 もりそば

 そして驚きなのが
かき揚げてんぷら(100円)、そばがき揚げ(200円)、そばいなり(一皿2個 100円)です、味良し、料金良です!お薦めです!!

 (ほうき)岩井橋で渡ります、上流には那須連山が一望です。

箒川は高原山に源を発し、流末は那珂川に落合います、当初、徒歩渡しでしたが、後に箒川土橋が架橋されました。

緩やかな上り坂を進むと左手の高橋医院看板の下に
桜観音と呼ばれる馬頭観世音と嘉永四年(1851)建立の馬頭観音像の計六基が並んでいます。

それではここから
滝沢の旧道トレースに取り掛かりましょう、桜観音向いの細道(白色矢印)に踏み込みます。
岩井橋 箒川 桜観音 滝沢旧道南口

 突当りのT字路を左折します、先に進み再び岩井橋からの県道48号大田原氏家線に合流します。

白河方面からは
滝沢バス停先を斜め左に入ります。

滝沢村は旗本福原氏領で、村内には廻米問屋があり諸藩廻米の駄送を取り扱いました、津出しは鬼怒川の阿久津河岸でした。

滝沢村地内に
滝沢の一里塚がありましたが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十六里目です。

滝沢から親園(ちかその)に入り、松原バス停を過ぎると左手に養福院があります、境内には愛宕大権現如意輪観音像等の石仏石塔群があります。
滝沢旧道内分岐 滝沢旧道北口 養福院

 養福院先の左手に案内標識「イトヨ生息地 0.6km」があります、踏み込んでみましょう(黄色矢印)。

清冽な流れの
谷田川に出合います、この流れに栃木県天然記念物のイトヨが生息しています、棘魚(とげうお)の一種で体長は4〜5cm、オスは小枝で巣をつくり、孵化すると幼魚を守って育てます。

街道に戻ると左手の谷田川の中島に
聖徳太子碑が祀られています、この流れの上流がイトヨの生息地です。
イトヨ生息地案内 イトヨ生息地 聖徳太子碑 長屋門

 先に進むと左手に豪壮な
長屋門があります。

 吉沢バス停を過ぎると左手の街道沿いに題目碑「南無妙法蓮華経」を納めた祠があります。

深川深川橋で渡ります、深川には国指定天然記念物ミヤコタナゴが生息しています。

親園交差点を越して進むと右手に
親園小学校があります、街道沿いの祠内には地蔵尊が安置されています、子供達の交通安全を見守っています。

先の左手に真言宗
薬王寺があります。
題目碑 深川 地蔵尊 薬王寺

 享保四年(1719)の創建で、境内には
宝篋印塔石仏石塔群があります。

 街道に戻ると右手に与一の里名木選国井宅の赤マツがあります、目通り周囲1.7m、樹高7m、推定樹齢約二百年です。

左手の小高商店の手前を左に入ると
磯家氏神様があります、残念ながら荒れるに任されています。

今度は小高商店の向いを右に入ると突当りに
陣屋跡標石があります、享和三年(1803)から二十年間この地は幕府領となり、代官山口鉄五郎高品(たかかず)がこの地を治めました。

街道に戻ると右手に
茅葺きの旧家があります。
赤マツ 磯家氏神様 陣屋跡 茅葺きの旧家

 加茂内川女神橋で渡ると左手に大田原警察署親園駐在所があります、その先に湯殿神社の参道口があります。

石造鳥居、次いで木造鳥居を抜けると
湯殿神社が鎮座しています、建久六年(1195)那須与一の勧請で八木沢村の鎮守です、対の石燈籠は文久元年(1861)の建立で湯殿山と刻まれています。

参道口の右手に
蒲蘆碑を納めたがあります、代官山口鉄五郎の善政を讃えた碑です。

碑には中国の
中庸(ちゅうよう)の一節「善政を行えば、水辺に生えている蒲(がま)や慮(あし)がたやすく繁茂するのと同じ」が刻まれています。
湯殿神社 蒲蘆碑堂 蒲蘆碑

 街道を進むと右手に蔵が連なる旧家があります、八木沢村の名主を代々勤めた国井宅です、当家の門は八木沢陣屋から移築したものです。

この門をくぐると左手に
町初碑(まちはじめのひ)があります、寛永四年(1627)奥州道中の整備に伴い、八木沢村が開かれ間の宿となりました。

往時は八木沢村から大田原宿間に那須野原で一番美しいといわれた
松並木がありましたが、戦時中に松根油搾取のために全て伐採されました。

親園から荻野目に入ります、荻ノ目村は大田原藩領で大田原宿の助郷村でした、中世那須氏の支配地で豪族荻野目氏の居館がありました。

百村(ももむら)筋違橋で渡ります、筋違とは川の流に対して斜めに架橋されているところに由来しています、ここからは百村川に沿った縄手道をしばらく進みます。
名主宅 町初碑

 荻野目新町バス停を過ぎると右手に日蓮宗護法寺があります、山門脇に文政九年(1826)建立の題目碑「南無妙法蓮華経 箒川出現 日蓮大菩薩」があります。

浅香四丁目に入るとしばらくお付合い願った
百村川は左に反れて行きます。

六本松バス停先の十字路を横断すると左手に
馬頭観音群があります、明治、大正、昭和建立の馬頭尊の中に文化四年(1807)建立の馬頭観世音があります、馬頭観音は馬の守護神であるとともに、馬の勢いの如く悪霊を追い払うと信じられています。

スグ先の右手に
八幡神社が鎮座しています。
護法寺 馬頭観音群 八幡神社

 この地は天保十二年(1841)以来、
加勢友助等によって開墾され、その鎮守として安政二年(1855)に勧請されました、境内には安政六年(1859)建立の石燈籠があります。

この八幡神社辺りに
大田原の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十七里目です。

 大田原宿着

 街道をグングン進み、左手の室井病院を過ぎると右手に標石「旧奥州道中 大田原宿 新田木戸跡」があります、向いに柵跡を残しています、大田原宿江戸口に到着です!

大田原宿は大田原藩一万二千石の城下町として発展し、
日光北街道黒羽道塩原道の要衝を控え賑わいました。

天保十四年(1843)の
奥州道中宿村大概帳によると大田原宿宿内家数は二百四十五軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠四十二軒で、宿内人口は千四百二十八人(男六百七十二人、女七百五十六人)でした。

宿並を進み、神明町交差点を右折します、左の筋は
日光北街道です、奥州諸大名の日光参詣道でした。
大田原宿江戸口 標石 柵跡

 鹿島川を渡ると左手に愛宕神社が鎮座しています、境内には文政十一年(1828)建立の大黒天等があります。

宿並に戻ると右手に浄土真宗東本願寺派
忍精寺があります、文政十一年(1828)第十一代大田原藩主大田原愛清(よしきよ)の開基です。

次いで左手に
薬師堂があります、寛政五年(1793)第九代大田原藩主大田原庸清(つねきよ)が大田原城の四方固めとしました、境内の七重塔や元禄七年(1694)建立の舎利塔は大田原市指定文化財です。
愛宕神社 忍精寺 薬師堂 舎利塔

 宿並の左手にある甲州屋旅館は廃業になっています、二度ほど宿泊しました。

この旧甲州屋旅館の脇に
標石「旧奥州道中 大田原宿 下町」があります。

右手のパインズを過ぎると
標識「本陣・問屋・高札場跡」があります、印南家本陣を勤め問屋を兼ねました、敷地九百八十坪、建坪三百八十一坪で奥州道中最大の規模を誇りました、本陣脇には高札場がありました。

左手の大田原信金前に弓を携えた
幸矢の与一像があります。
下町標石 本陣問屋高札場跡 幸矢の与一像 正法寺

 
那須与一は幼い頃から弓が達者で居並ぶ兄達の前でその腕前を示し、父の資隆(すけたか)を驚嘆させたといいます。

次いで左手に日蓮宗
正法寺(しょうぼうじ)があります、慶長九年(1604)初代大田原藩主大田原晴清夫人の発願により創建され、歴代藩主夫人の祈願寺でした。

 PM6:22 大田原宿起点着

 金燈籠交差点手前の左手に金燈籠ポケット公園があります、園内に金燈籠があります。

文政二年(1819)鋳造の
金燈籠(かなどうろう)は戦時中に供出され、現在のものは昭和五十四年(1979)に復元されたものです。

台石は往時のもので
江戸白川と刻まれ、金燈籠は塩原道との追分道標でした。

この台石には明治時代の
水準点記号が刻まれています。

園内の植込みの中に
標石「旧甲州道中 大田原宿 上町」があります。
金燈籠 台石道標 水準点 上町標石

 金燈籠交差点が大田原宿の起点です、本日の奥州道中ウォークはここまでです!

ついてます、西那須野駅行バス最終便6:32に間に合いました!!

JR東北本線西那須野駅の売店が閉まっています、缶チューハイが無い、宇都宮駅まで我慢しましょう!!!




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