今回の奥州道中ウォークの総距離は42.6kmです、単純に時速6km/hで割ると所要時間は7時間とチョットになります。 これにデジカメ撮影、食事等のロスタイムを3時間と見積りますと合計10時間を要します。 実際には奥州道中の後半は坂道もシッカリありますし、終点の女石追分に到着後、JR東北本線白河駅までの戻り時間も加味しなければなりません。 いずれにしてもいつも通りの始発電車でしょう。 電車の時刻はPCで簡単に検索できます、以前は分厚い時刻表が相手でした。 上記の組合せが始発ベースの検索結果です、ひとつ大きな問題があります。 それは上野駅の乗換え時間が2分しかありません、チョットでもまごついたらアウトです。 やはりここはアナログとしましょう、上野駅の案内係りに電話です、その結果、宇都宮行は6番線出発と判明しました、乗換え通路は承知済ですから迷はず6番線に滑り込めば良いのです、これで準備OKです。 出立前の計画自体が旅の序曲であり、楽しみでもあります。 全て予定通りに進み、定刻に大田原宿の起点に到着しました、天気は良好です、それではビューッと行きましょう。
九世紀前半この地に瀬尾家居館があり、鎮座する秋葉神社に天喜五年(1057)源義家が奥羽出征の際に戦勝を祈願し、豊臣秀吉は天正十八年(1590)奥州鎮定の際、この秋葉神社で那須資晴の子藤王丸を引見したと刻まれています。
すると沢庵和尚等が一斉に抗議に立ち上がりました、幕府は業を煮やし高僧達を奥羽の地に流罪としました、後水尾天皇は憤慨し三十三歳の若さで退位し、女帝を即位させました。
風化が進んでいますが如意輪観音像が陽刻されています、この辺りは首切り山と呼ばれ刑場跡ともいわれています。
野間十字路バス停先の左手に交通安全祈願観音像があります。
これによって出来上がった干沢(ひさわ)が地名の樋沢(ひさわ)の由来です。
清川地蔵尊は延宝七年(1679)の造立で宿口にあって悪霊の侵入を見張っています、里人からは子育て地蔵として篤く信仰されています。
山門脇の枝垂れ桜は推定樹齢二百六十年で、樹高約15m、目通り周囲約2.8m、枝張り東西約17m、幹は地上約2mの所で三本に分岐しています。
那珂川は那須岳山麓に源を発し、流末は太平洋の鹿島灘に注いでいます。
T字路を右に進み、突当りのY字路を右に入ると渡し場跡の石垣や石塔類があります、那珂川の渡し場が越堀宿の江戸(南)口です。
浄泉寺境内には戊辰戦役で受けた傷が元で当地で死去した土佐藩士有田文太郎の墓碑があります。
手前の石碑には「越堀宿坂本屋碑」と刻まれています、並びの石碑には「奥州街道 右これより江戸四十里 左これより白河宿七里」と刻まれています。
先から回り込むと墓地があり、高久家の墓所内に高久靄(たかくあいがい)の墓があります、杉渡土の出身で南画家谷文晁(たにぶんちょう)に学び渡辺崋山等と親交がありました。
幕末の志士清川八郎は日誌に「那珂川を越えると二十三坂、長い坂に耐えて歩き通し芦野に着く」と記しています、越堀より芦野間は二十三坂七曲りと呼ばれる難所でした
園内には馬頭観世音が二基安置されています。
寺子(てらご)村は黒羽藩領で、村内には立場があり高札場がありました。 村内を進むと左手に真言宗智山派普門院蓮乗院会三寺があります、元亀元年(1570)の創建です。 境内にははしか地蔵堂があります、麻疹が流行り大勢の子供が亡くなると、第十四代住職法印旺盛が百十一体の木造地蔵を彫り子供等の菩提を弔いました、この地蔵堂には四十八枚の天井絵が組み込まれています。
この先に旧寺子橋が架橋されていましたが、撤去され掛け替えとなりました。
元は余笹川の川中にあって、水位の目安になりました。
豊岡(旧蛇沢村)の愛宕神社と温泉神社を合祀しています、境内には明治十年(1877)と廿年(1887)建立の常夜燈があります。
スグ先の右手に芭蕉温泉ランド分譲地案内看板があります、ここを右(黄色矢印)に入ると左手に青面金剛像と元文三年(1738)建立の如意輪観音像があります、ここが温泉神社跡です、蛇沢村の鎮守でしたが今は石田坂の八雲神社に合祀されています。
右手の原眼科看板の先を斜め右の下り坂(白色矢印)に進みます。
この先は通行不能です、突当りの土手道を左折(白色矢印)します。
街道は左(白色矢印)に進みます、このT字路を右折(黄色矢印)すると左手に夫婦石神社があります。
足尾大神碑には草鞋や草履が架けられています、足の病に霊験あらたかといいます。 足尾山は筑波山や加波山と並んで古来より山岳信仰の霊山でした、平安時代に醍醐天皇がこの山に鎮座する足尾神社に祈願したところ足の病が完治したところから足の病に霊験あらたかと信仰をあつめました。
城内のコウヤマキは築城時に二の丸の東に植樹されたもので、樹高約24m、目通り約5m、推定樹齢五百年です(栃木県天然記念物)。
腹が減りました、朝食は午前4時でしたから、かれこれ9時間は経っています、生ビールを注ぎ込み、ラーメンと牛丼のセットを食し、先は長いですから早々に出立です!
村内を進むと左手に弘化三年(1846)建立の十九夜塔、大黒天、文化三年(1806)建立の二十三夜、出羽三山碑「羽黒山大神 月山大神 湯殿山大神」があります。
火の見ヤグラ脇の五輪塔は西の奈良川沿いの雨乞い場にあったものです。
寄居に入ると右手に天保十二年(1841)建立の湯殿山常夜燈があります。
左手の交通標識「国道294」に取り付けられた地名標識「那須町寄居」先を左折(白色矢印)します、この分岐点には木製道標「寄居大久保」があります。
この分岐点には木製道標「この先100M 明治天皇御小休所」があります。
この為陸奥、下野共に自らの側を玉津島明神を祀り、外側には住吉明神を祀っているといいます。
現存する小祠は弘化元年(1844)の建立です、境内には安永六年(1777)建立の芭蕉句碑「風流の はじめや奥の 田植え歌」があります。
元禄二年(1689)芭蕉と随行の曽良は境の明神参拝後、この清水に立ち寄り休息しました。 この辺りに境明神の一里塚があったといいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて四十五里目です。
酒井元之丞重寛の墓は白坂宿の観音寺にあります。
大平八郎は白坂町取締り役を勤めていました、会津藩士田辺軍次は戊辰戦役白河口の戦いで会津軍が敗れたのは大平八郎が官軍の道案内をした為であると信じ込み、この遺恨をはらすため、明治三年(1870)八月十一日白坂宿旅籠鶴屋にて大平八郎を斬殺し、自らもその場で屠腹して果てました、享年二十一歳でした。
街道を挟んだ向かいに廿三夜塔があります。 先に進むと左手に享保十八年(1733)造立の地蔵尊坐像があります、傍らには六地蔵石幢があります。
池の端に文化元年(1804)建立の馬頭観世音等が並んでいます。 コンビニがある信号交差点先の左手に寛政五年(1793)建立の題目碑「南無妙法蓮華経」があります、この地には泪橋、泪坂の地名があり皮籠刑場があったといいます。
旧道は左にカーブし再び国道(白色矢印)に合流します、白河方面からは右手のダイナムの向いを斜め左に入ります。
氷餅、漬わらび、杢目摺(もくめずり)色紙短冊、白川縮緬(ちりめん)、阿武隈川の埋木(うもれぎ)が宿名産でした。
容保は近藤勇率いる新選組に京の治安維持を託しました、新選組は京の地に血の雨を降らせる活躍をしました、しかしこれが結果的に討幕派の憎悪と嫌悪をかってしまったのです、会津は朝敵として官軍から徹底的に攻められ辛酸を舐めてしまいました。 後に西南の役が勃発すると元会津藩士等は自ら志願して抜刀隊を編成し、汚名を雪ぐ獅子奮迅の活躍をしたといいます。
官軍が会津城下に迫ると、頼母は再び恭順を主張した為に追放となりました。 頼母の家族は籠城の邪魔になると母、妹二人、妻、娘五人は自邸で自害しました、会津藩は女性だけでも二百三十三人が自ら命を絶っています。 戦後も生き抜いた頼母は「身をかくすことのできるかたつむりがうらやましい」と詠いました。
享和元年(1801)第十二代白河藩主松平定信が作庭した南湖(なんこ)公園です、定信は士民共楽の理念から園内に身分の差を越えて誰でも憩える茶室共楽亭を建てました。
次いで一番町に入ると中程の西側に白河の一里塚があったといいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて四十七里目です。
先の左手に松河屋建造物群があります、歴史的風致形成建造物指定です。 松河屋は明治創業の味噌醤油醸造店です、昭和四十年(1965)頃まで営業を行っていました、屋根まで漆喰で塗り込めた蔵は明治二十五年(1892)の建築です。
仙台藩主伊達政宗が徳川将軍家へ桜の苗木を献上する途中、白河城下で休息した際に住職がその内の一本を望み、現在の場所に植えたものです。
松井薬局は江戸時代末期の文久年間(1861〜64)に松井薬舗として創業し、明治十二年(1879)当地に移転し、二代目は薬種問屋の傍ら大正七年(1918)から同十一年まで白河町長を勤めました。
碑には理八を悼む歌「武士(もののふ)の 心の駒は いさめども 黄泉(こうせん)までとは すすめざりしを」が刻まれています。
酒好きの庄助の墓石は銚子の上に盃が乗っています、戒名は米汁呑了信士で、時世は「朝によし 昼に尚よし 晩によし 昼前飯後 その間もよし」 です。
白河城下六曲りの四つ目です。
蔵の裏には御膳水になった釣瓶井戸が残されています。
併せて病院に付属させた医学生教育機関の医術講議所も設置されました、近代病院経営と医術演習の草創期を担いました。
碑陰には白河口の戦いに出兵した官軍諸藩の旧藩主名、大山巌、川村純義、板垣退助等二十二名が発起人として氏名や爵位が列刻されています。
津島神社は三河に総本社があり、織田家の氏神でした。
渡り詰めの右手に水難供養塔が二基あります、左手は水害の翌年文化元年(1804)に建立された祐天(ゆうてん)上人名号碑「南無阿弥陀佛」です。
切通先のY字路右の車道が旧道痕跡です。 左手の擁壁の外れに近世の馬頭観音が多数祀られています。
十六ささげとは神出鬼没の戦い振りで活躍した棚倉藩の精神隊十六士を指しています。
幕府道中奉行管轄の奥州道中はこの女石追分までです、奥州道中の終点です、無事到着です! サア、今来た道をJR東北本線白河駅に向かって大返しです。 缶チューハイを買い求め車中の人になります、白河口の戦いでは奥羽越列藩同盟軍はそれこそ死にもの狂いで戦ったことでしょう、ここを突破されれば官軍の諸隊は直接各藩の城下に流れ込んできます、主君や家族を守る為の人柱でした。 そんなことに思い馳せながら、ボーッと車窓からの夜景を眺めているとウトウトとしてきました!!
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