道中日記  7-148 奥州道中 ( 大田原 - 白河 ) 42.6km

 今回の
奥州道中ウォークの総距離は42.6kmです、単純に時速6km/hで割ると所要時間は7時間とチョットになります。

これにデジカメ撮影、食事等のロスタイムを3時間と見積りますと合計10時間を要します。

実際には
奥州道中の後半は坂道もシッカリありますし、終点の女石追分に到着後、JR東北本線白河駅までの戻り時間も加味しなければなりません。

いずれにしてもいつも通りの
始発電車でしょう。

電車の
時刻はPCで簡単に検索できます、以前は分厚い時刻表が相手でした。


上記の組合せが始発ベースの検索結果です、ひとつ大きな問題があります。

それは上野駅の
乗換え時間が2分しかありません、チョットでもまごついたらアウトです。

やはりここは
アナログとしましょう、上野駅の案内係りに電話です、その結果、宇都宮行は6番線出発と判明しました、乗換え通路は承知済ですから迷はず6番線に滑り込めば良いのです、これで準備OKです。

出立前の計画自体が
旅の序曲であり、楽しみでもあります。

全て予定通りに進み、定刻に
大田原宿の起点に到着しました、天気は良好です、それではビューッと行きましょう。

 平成19年06月13日 AM8:04 大田原宿出立  鍋掛宿まで12.3km

 それでは大田原宿の起点である金燈籠交差点を出立しましょう!

左手に呉服店の
NASUYAがあります、太物古着店那須屋宇兵衛跡です、絹織物は呉服といい、綿や麻織物は太物といいました。

スグ先を左折します、この分岐点には
標識「ここは山の手2丁目1番」があります、ここからは枡形になります。

先のビジネスホテルみつやの手前を右折します、みつやは
旅籠上州屋跡です、この分岐点には標石「旧奥州道中 大田原宿 寺町」があります。
NASUYA 山の手分岐 寺町分岐 寺町標石

 直角の枡形を過ぎ、龍泉寺の手前を左に入ると曹洞宗大田山光真寺があります、天文十四年(1545)第十三代大田原資清(すけきよ)の創建です。

大田原資清が両親の菩提を弔うために、この地を霊域と定めて七堂伽藍を建立しました。

寺号は父の
法号明庵道光から「光」と、母の真芳妙観から「真」の字をとり光真と命名されました。

本堂の裏には第十三代
資清から第二十八代勝清までの墓所があります。
光真寺山門 光真禅寺 大田原資清 大田原氏歴代墓所

 宿並に戻ると左手に真言宗智山派龍頭山龍泉寺があります、往時は大田原城三の丸の下にありました、大田原氏の祈願寺でした。

宿並を進むと左手の高台に
大田原神社が鎮座しています、大同二年(807)の創建です、大田原の総鎮守で大田原氏歴代の崇敬をあつめました。

境内の
永代石燈籠は近江商人中井光武が奉納したものです、中井家は宿内に出店し、陸奥への足掛かりとしました。

境内の
夫婦杉は推定樹齢三百年です。
龍泉寺 大田原神社 永代常夜燈 夫婦杉

 宿並に戻ると国道461号線旧陸羽街道手前の左手に標石「旧奥州道中 大田原宿 大久保木戸跡」があります、ここが大田原宿白河(北)です。

突当りの国道を若干戻ると左手に
龍城公園入口があります、龍城公園は大田原城跡です。

第十二代
大俵胤清(たねきよ)は永承十五年(1518)黒羽大関氏との戦いに敗れ討死、二十四年後に第十三代大俵資清(すけきよ)が大関氏を破り再興を果しました。

天文十四年(1545)龍体山に
大田原城を築城し、姓を大俵から大田原と改称し、維新を迎えるまで存続しました。

大田原城は
蛇尾川を天然の要害とする平山城でした。
大久保木戸跡 大田原城址 大田原城之図

 街道に戻り蛇尾(さび)蛇尾橋で渡ります、橋が架橋されていましたが、橋が流失すると川越人足による徒歩渡しが行われ、天保三年(1832)以降は舟渡しになりました。

蛇尾川大佐飛(おおさび)山地に源を発し、流末は箒川に落合います、蛇尾とは下野の方言で斎日(さび)を意味し、祭日にはこの川で身を清めたとか、普段は水無川であったところから寂れた川と呼ばれ、一旦増水すると蛇の尾の様にうねる暴れ川であったところにに由来しています。

渡詰めを左折して
県道72号大田原芦野線を進みます、直線道は黒羽道です、黒羽藩大関氏の城下町に至ります。

中田原工業団地交差点を越し、左手の富士電機を過ぎると緩い上り坂になり左手の
瀬尾家の塀際に碑があります。
蛇尾川 渡詰め分岐 瀬尾家居館跡碑

 九世紀前半この地に
瀬尾家居館があり、鎮座する秋葉神社に天喜五年(1057)源義家が奥羽出征の際に戦勝を祈願し、豊臣秀吉は天正十八年(1590)奥州鎮定の際、この秋葉神社那須資晴の子藤王丸を引見したと刻まれています。

 瀬尾家の門柱脇に曽良句碑「かさねとは やえなでしこの ななるべし」があります、那須野で詠んだ句です。

左手の岩上商店は
生与一みその醸造元です、那須の風味です。

巻川二本松橋で渡ると左手のセブンイレブンの敷地の角に中田原の一里塚があります。

中田原村地内で
西塚を残しています、道路拡幅のため約1.5m後方に移設されています、江戸日本橋より数えて三十八里目です(市指定史跡)。
曽良句碑 与一みそ 巻川 中田原の一里塚

 中田原から上深田に入ると市野沢小入口交差点があります、この交差点は棚倉道追分です、棚倉道は磐城(いわき)國棚倉へ至ります。

追分に元禄七年(1694)建立の追分道標があります、正面には「南無阿弥陀仏」、側面には「右たなくら 左しらかわ」と刻まれています。

寛永六年(1629)
紫衣(しえ)事件で幕府の怒りをかった、僧沢庵宗彭(たくあんそうほう)と玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)が流罪となり、この追分から沢庵は奥州道中へ、玉室は棚倉道へと別れました。

紫衣事件とは、朝廷は古来より徳の高い僧や尼に対して紫衣(しえ)を下賜してきましたが、幕府は禁中並公家諸法度によりこれを禁じました。

しかし
後水尾天皇はこれを無視して、十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えました、すると幕府は勅許状の無効を宣言しました。
棚倉道追分 棚倉道追分道標

 すると沢庵和尚等が一斉に抗議に立ち上がりました、幕府は業を煮やし高僧達を奥羽の地に流罪としました、後水尾天皇は憤慨し三十三歳の若さで退位し、女帝を即位させました。

 交差点を越すと左手に墓地があります、ここが十王堂跡です、冥府で亡者の罪過を判定する十人の王を祀ったものです、境内跡には天和三年(1683)と元禄十六年(1703)造立の六地蔵石幢如意輪観音像十九夜塔等があります。

街道は
小滝に入ります、小滝村は当初大田原藩領でしたが、幕末は旗本久世氏の知行地となりました、大田原宿の助郷村でした。

市野沢交差点を越すと左手に
高野槙(こうやまき)が聳えています、樹高17m、推定樹齢四百年で奥州道中三槙の一つです、与一の里おおたわら名木小滝のコウヤマキで大田原市指定天然記念物です。

先の押ボタン式信号交差点手前の左手に
石仏があります。
十王堂跡 高野槇 如意輪観音像

 風化が進んでいますが
如意輪観音像が陽刻されています、この辺りは首切り山と呼ばれ刑場跡ともいわれています。

 市野沢バス停先の右手に枝垂れ桜の古木があります。

樹下に
弘法大師の碑「蓑に添う 市野沢辺の ほたる哉」があります、弘法大師がこの地を訪れた時の句と伝えられていますが、実際は江戸時代に詠まれたものです。

市野沢村は当初那須藩領でしたが寛永十九年(1642)以降は幕府領となりました。

鍋掛宿定助郷を勤めましたが、弘化二年(1845)困窮により免除となりました、年貢米の津出しは九里半離れた鬼怒川の阿久津河岸でした。

市野沢郵便局先の
相の川高野橋で渡ります、橋上からは西に那須連山が遥かに望めます。
枝垂れ桜 弘法大師の碑 相の川

 先に進むと左手の段上に麻疹地蔵堂があります、真言宗宝積院跡です、境内には馬頭観音十九夜塔、六地蔵石幢、安政三年(1856)建立の宝篋印塔等があります。

中古車販売の渡辺自販の並びに大正四年(1915)建立の
馬頭観世音があります。

先に進み
練貫交差点を横断します、この交差点を左に進むとJR東北本線那須塩原駅に至ります。

練貫(ねりぬき)は当初那須藩領でしたが寛永十九年(1642)以降は幕府領となりました、鍋掛宿の助郷村でした、練貫村地内に練貫の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十九里目です。
麻疹地蔵堂 石仏石塔 馬頭観音

 緩やかな上り坂を進むと左手に石塔群があります、宝暦六年(1756)建立の笠付永代常夜燈道標には「右奥州海道 左原方那須湯道」と刻まれています、那須湯本温泉那須七湯(しちゆ)の一つで、那須で最も古い温泉です。

十九夜塔青面金剛庚申塔の並びに標石「旧奥州道中 練貫」があります。

石塔群の左手奥の丘上に
愛宕神社が鎮座しています、元禄七年(1694)の創建です、境内には元禄十二年(1699)建立の石燈籠や元禄十年(1697)と文政二年(1819)造立の地蔵尊等があります。
石塔群 追分道標 練貫標石 愛宕神社

 六町歩入口バス停を過ぎると左手に明治天皇駐輦記念碑があります、明治九年(1876)東北巡幸の際、ここで休息しました。

先の十字路手前の左手に
木製道標「←コウヤマキ 3.6KM」があります、右は白鳥飛来地として知られる羽田沼に至ります。

十字路を横断すると
市境標識があります、大田原市から那須塩原市に入ります。

街道は
野間に入ります、野間村黒羽藩領で集落は東野間西野間に分村していました、両村とも鍋掛宿の助郷村でした。

芭蕉の
奥の細道に随行した曽良の日記に「馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス」との記述があります、那須湯本へ向かう際に、ここで借りた馬を返しました。
明治天皇碑 コウヤマキ道標 市境標識

 右手の大野養蜂園入口の左手に真新しい台石上に安置された石仏があります、馬頭観音像の様にも見えますが
風化が進んでいるため判別出来ません。

那須脳神経外科病院入口先の右手の砂利道口に
馬頭観音が二基祀られています、うち一基は文政四年(1821)建立の馬頭観世音です。

左手の黒磯消防団第2分団第4部隣の奥に神社が鎮座しています、
屋敷神かも知れません。

街道は
東野間に入ります。
風化した石仏 馬頭観音 神社 交通安全観音

 野間十字路バス停先の左手に
交通安全祈願観音像があります。

 樋沢(ひさわ)に入ると、左手の畑奥に
不動祠があります、明暦二年(1656)造立の寄木造りの不動明王像が安置されています、地元ではお不動様と呼ばれ親しまれています。

次いで左手の樋沢公民館敷地の奥に
樋沢神社が鎮座しています、旧八幡社です。

境内に
八幡太郎義家愛馬蹄跡石があります、陸奥平定に向かう源義家が小高い丘の上に鎮座する源氏の氏神である八幡社を見つけると、戦勝祈願にと馬で一気に駆け上がり、余りの勢いから岩に蹄跡(ひづめあと)が刻まれたといいます。
不動祠 樋沢不動明王 樋沢神社 蹄跡石

 蹄跡石の奥の巨岩は葛籠(つづら)に似ているところから義家が葛籠石と命名しました、並びには六地蔵石幢地蔵尊如意輪観音像等があります。

街道に戻って進むと右手に
標識「伝説の大うなぎ 樋沢の大沼」があります、砂利道(黄色矢印)をしばらく進むと樋沢の大沼があります。

延暦十六年(797)
坂上田村麻呂は蝦夷鎮圧に向かう途中、この地の住人から人を喰う大うなぎの窮状を訴えられると、田村麻呂は沼を掘り抜き干潟とし、二十尋もある大うなぎを退治しました。
葛籠石 石仏群 樋沢の大沼標識 樋沢の大沼

 これによって出来上がった
干沢(ひさわ)が地名の樋沢(ひさわ)の由来です。

 案外の坂を上ると左手に標識「←鍋掛の一里塚」があります、石段を上ると右手に鍋掛の一里塚があります。

元は
愛宕峠の頂上付近にありましたが道路改修により両塚とも消滅しました、元は約11mほど東にありましたが、北塚がここに復元されました、江戸日本橋より数えて四十里目です。

ここから更に石段を上ると
鍋掛神社が鎮座しています、寛文五年(1665)以前に勧請された旧愛宕神社です、昭和三十年(1955)温泉神社鶏鳥神社が合祀され、鍋掛神社と改称されました。
一里塚案内標識 鍋掛の一里塚 鍋掛神社参道 鍋掛神社

 AM10:51 鍋掛宿着 芦野宿まで8.7km

 鍋掛十文字バス停を過ぎると鍋掛交差点になります、この辺りが鍋掛宿の江戸(南)口です、鍋掛宿に到着です!

鍋掛宿は難所
那珂川を控え、対岸の越掘(こえぼり)宿と二宿で一宿の機能を果たしました、那珂川が川留になると大いに賑わいました。

鍋掛の地名は那珂川の川留により旅人が溢れ、住人が総出で鍋を掛け、炊き出しを行ったところに由来しています。

天保十四年(1843)の
奥州道中宿村大概帳によると鍋掛宿宿内家数は六十八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十三軒で、宿内人口は三百四十六人(男百六十人、女百八十六人)でした。

鍋掛交差点の手前に
コンビニがあります、交差点を左に進むとJR東北本線黒磯駅に至ります、交差点を越すと左手に清川地蔵尊が安置されています。
鍋掛宿江戸口 清川地蔵尊

 
清川地蔵尊は延宝七年(1679)の造立で宿口にあって悪霊の侵入を見張っています、里人からは子育て地蔵として篤く信仰されています。

 地蔵尊の並びには元禄十五年(1702)造立の青面金剛像庚申塔、元文二年(1737)建立の名号碑馬頭観世音等が祀られています。

宿並を進み鍋掛駐在所を過ぎると、左手のヤマザキショップの並びに
八坂神社が鎮座しています、境内に文化五年(1808)建立の芭蕉句碑「野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす」があります、元禄二年(1689)奥の細道紀行の際の句です。

左手の火の見ヤグラの脇を入ると真言宗智山派魔尼山(まにさん)蓮華院
正観寺があります、明応年間(1492〜1500)の創建です。

山門は鍋掛宿の本陣門を移築したものです。
境内の石仏石塔群 芭蕉句碑 正観寺山門&枝垂れ桜

 山門脇の枝垂れ桜は推定樹齢二百六十年で、樹高約15m、目通り周囲約2.8m、枝張り東西約17m、幹は地上約2mの所で三本に分岐しています。

 境内には戊辰戦役で戦死した官軍土佐藩士多田温兵衛の墓があります。

明治六年(1873)境内に鍋掛小学校の前身である
日新館が創立されました。

宿並を進み鍋掛公民館入口バス停先をそのまま直進(白色矢印)します、宿並からの県道72号線は左に反れて行きます。

緩やかな下り坂を進み、突当りを左折(白色矢印)します。

この突き辺りには
御仮屋跡標石があります、白河方面からは右折します。
土佐藩士墓 枡形南口 枡形 御仮屋跡

 突当りの県道72号線を右折(白色矢印)します。

直進(黄色矢印)すると鍋掛宿側の
那珂川渡し場口です、踏み込むと
安政六年(1859)建立の
馬頭観世音、文化三年(1806)建立の十九夜念仏供養塔、文化十一年(1804)建立の二十三夜塔等があります、残念ながらこの先は通行不可です。

那珂川には
土橋が架橋されていましたが、流失すると舟渡しになりました。

県道に戻り
昭明橋那珂川を渡ります。
渡し場口 渡し場口石仏石塔群 昭明橋 那珂川

 
那珂川那須岳山麓に源を発し、流末は太平洋の鹿島灘に注いでいます。

 AM10:56 越掘宿着

 昭和四十六年(1971)竣工の昭明橋を渡ると左手に昭明橋架橋記念碑昭明橋架設記念碑があります。

スグ先で
T字路に突き当たります、左右の通りが越堀(こえぼり)宿の宿並です、越堀宿に到着です!

寛永十二年(1635)参勤交代で江戸に向かう仙台藩の
伊達侯が那珂川の川留めに遭い、越堀に小屋を建てたのが宿の始まりです、その後正保三年(1646)正式に越掘宿が開設されました。

天保十四年(1843)の
奥州道中宿村大概帳によると越堀宿宿内家数は百十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十一軒で、宿内人口は五百六十九人(男二百八十三人、女二百八十六人)でした。
昭明橋記念碑 T字路分岐 渡し場跡石垣

 T字路を右に進み、突当りのY字路を右に入ると
渡し場跡石垣石塔類があります、那珂川の渡し場が越堀宿江戸(南)です。

 T字路に戻って宿並を進むと左手に仙台屋商店があります、ここが越堀宿問屋場跡です、問屋業務は大田原宿までの片継でした。

次いで左手の町田屋商店が
御本陣藤田平次跡です、建坪は百十七坪でした、当家が伊達侯の仮小屋を建てました。

先の右手に真言宗智山派
浄泉寺があります、境内に領界石「従此川中東黒羽領」があります、黒羽藩(一万八千石藩主大関氏)と天領との境界石です、越堀宿の渡し場にありましたが、大正七〜八年(1918〜19)頃に当寺に移されました。
越堀宿問屋場跡 越堀宿本陣跡 浄泉寺 領界石

 領界石の並びに明治天皇御駐輦之碑があります、明治九年(1876)東北巡幸の際に、旧本陣藤田光三郎宅で休息しました。

浄泉寺不動堂脇に
加茂神社参道口があります、杉林内の急な石段を上ると加茂神社が鎮座しています、正徳三年(1713)の創建です。

境内に
越堀の大杉があります、 かつてはこの辺り一帯は杉森でしたが昭和四十年(1965))に大杉二本を残して全て伐採されました、内一本は落雷により枯れてしまいました。
明治天皇碑 加茂神社参道口 加茂神社 越堀の大杉

  浄泉寺境内には戊辰戦役で受けた傷が元で当地で死去した土佐藩士
有田文太郎の墓碑があります。

 浄泉寺の先に枡形の痕跡を残しています、右手に此の地奥州街道越堀宿桝形の地碑があります、この辺りが越堀宿の白河(北)口です。

先の右手に昭和十三年(1938)建立の
征馬之碑、昭和六十一年(1986)建立の殉役軍馬之碑があります、戦時中に徴用された軍馬が外地に出征し、再び内地に戻ることはありませんでした、ここには地蔵尊や元文五年(1740)建立の廻国供養塔があります。

先の右手に
石碑が二基あります。
枡形跡 桝形の地碑 軍馬之碑 石塔二基

 手前の
石碑には「越堀宿坂本屋碑」と刻まれています、並びの石碑には「奥州街道 右これより江戸四十里 左これより白河宿七里」と刻まれています。

 越堀宿を後にするとY字路が現れます、左(黄色矢印)が湯街道です、那須湯本温泉へ六里の道のりです。

わずかに踏み込むと右手の民家内に
石橋供養塔があります、元文二年(1737)の建立で「奉供養石橋二世安楽」と刻まれています。

街道は緩やかな上り坂になります、右手の
防火水路施設記念碑を過ぎると人家は無くなります。

右に大きくカーブした先の左丘上に白い
高久靄高フ墓標柱が聳えています。
湯街道追分 石橋供養塔 高久靄黒謨W 高久靄黒

 先から回り込むと墓地があり、高久家の墓所内に
高久靄(たかくあいがい)の墓があります、杉渡土の出身で南画家谷文晁(たにぶんちょう)に学び渡辺崋山等と親交がありました。

 右手の杉渡土自治公民館の手前に伊勢大神宮遥拝碑があります、その背後には石祠石仏石塔があります。

杉渡土(すぎわたど)黒羽藩領で文化年間(1804〜18)の家数は九軒でした、杉渡戸とも書かれました。

杉渡土自治公民館向いの真新しい擁壁上に弘化二年(1845)建立の
馬頭観音像が祀られています。

街道は先で右に曲がります、ここに鉄製の祠が二棟あり、左手には
金刀比羅神社碑、右には小社が安置されています。
伊勢大神宮遥拝碑 馬頭観音 石塔と社

 先に進むと左手に農道新設記念碑があります、以前は手前の右手斜面にあったものです。

並びに安政二年(1855)建立の
馬頭観世音と明治廿四年(1891)建立の馬頭観音像が祀られています。

この辺りから
富士見峠の上り坂になります、間もなくすると標高295.5mの富士見峠の頂上に到着します。

往時は富士山が遥かに望めたともいいます、峠には
茶屋が二〜三軒あり、行き交う旅人の休息地でした。
農業記念碑 馬頭観音 富士見峠口 富士見峠

 幕末の志士
清川八郎は日誌に「那珂川を越えると二十三坂、長い坂に耐えて歩き通し芦野に着く」と記しています、越堀より芦野間は二十三坂七曲りと呼ばれる難所でした

 富士見峠を下ると正面に寺子(てらご)集落が望めます。

左手の寺子公民館脇の丘上に
温泉神社が鎮座しています、境内には大黒天像があり、麓には如意輪観音像青面金剛像が祀られています。

寺子交差点手前の右手に寺子一里塚公園があります、園内に
寺子の一里塚が復元されています、江戸日本橋より数えて四十一里目です。

両塚は寺子交差点の東西にありましたが道路改修にともない取り払われました。
寺子口 温泉神社 寺子の一里塚 馬頭観音

 園内には
馬頭観世音が二基安置されています。

 右手の馬頭観世音富士見峠の頂上に祀られていたものです、安永四年(1775)十二月寺子村を施主村として、寺子組ニ十五ケ村のうち十四ケ村が協力して建立したものです。

この
馬頭観世音里程道標を兼ねています、左側面には「日光山十六里 江戸四十一里 水戸二十二里 八溝山(やみぞさん)六里」、右側面には「湯殿山六十六里 仙台五十里 会津二十四里 那須湯元五里」と刻まれています。

寺子交差点の十字路を横断します、この地方では十字路を十文字といいます。

この十文字を横断すると
寺子村に入ります。
馬頭観音道標 会三寺はしか地蔵堂 はしか地蔵

 
寺子(てらご)黒羽藩領で、村内には立場があり高札場がありました。

村内を進むと左手に真言宗智山派普門院蓮乗院
会三寺があります、元亀元年(1570)の創建です。

境内には
はしか地蔵堂があります、麻疹が流行り大勢の子供が亡くなると、第十四代住職法印旺盛が百十一体の木造地蔵を彫り子供等の菩提を弔いました、この地蔵堂には四十八枚の天井絵が組み込まれています。

 余笹川(よささがわ)手前の右手に余笹川見晴し公園があります、園内に天皇陛下皇后陛下行幸啓記念碑があります。

寺子橋手前の左(黄色矢印)が
寺子旧道です、踏み込むと享保十二年(1727)造立の寺子地蔵尊が祠内に安置されています、享保の大飢饉による子供や老人の餓死者を供養したものです。

境内には文政十三年(1830)建立の
馬頭観世音、延享二年(1745)建立の念仏供養塔等があります。
行幸啓記念碑 寺子旧道口 寺子地蔵尊 石造物

 この先に
旧寺子橋が架橋されていましたが、撤去され掛け替えとなりました。

 それでは寺子橋余笹川を渡ります、余笹川は那須湯本の朝日岳に源を発し、流末は那珂川(なかがわ)に落合います。

往時は
笹川土橋が架橋されていました、流失すると川越人足による徒歩越しが行われました。

左手の渡詰めの階段を下って
土手道を進みます、右手(白色矢印)の白色ガードレールが石田坂旧道の復帰点です、この復帰点から先(黄色矢印)に更に進むと右手にだるま石があります。
余笹川 土手道口 石田坂旧道口 だるま石

 元は余笹川の川中にあって、
水位の目安になりました。

 それでは石田坂旧道復点に戻り、石田坂旧道を進みましょう、石田坂は間の宿立場がありました。

旧道の電柱に赤線で
最高水位が表示されています、「平成10年8月末(27日未明)豪雨」と記されています。

台風4号に刺激されて活性化した
前線の活動で豪雨となり、余笹川が氾濫しました、県内の死者5名、行方不明者2名の大災害になりました。

旧道を進むと左手の高台に
八雲神社が鎮座しています。
石田坂旧道 最高水位表示 八雲神社参道 八雲神社

 豊岡(旧蛇沢村)の
愛宕神社温泉神社を合祀しています、境内には明治十年(1877)と廿年(1887)建立の常夜燈があります。

 上り坂を進むと右手に多数の石造物が並んでいます。

文化四年(1807)建立の
馬頭観世音弁慶の足踏み石と呼ばれています、源義経と奥州平泉に落ち延びる折に、ここで一休みした後、弁慶が馬に乗る際に踏み潰した草鞋跡の窪みが下部に残されています、後にこの石を三つに切り分け、その一つがこの馬頭観世音になりました。

並びには
二十三夜塔地蔵坐像如意輪観音像青面金剛像庚申塔、べこ石の畜魂碑、そして裏面に余笹川氾濫の記録が刻まれた御影石碑「川と共に 繁り行く みのり豊に 心ゆたかに」が横一列に並んでいます。

これらの石造物の先で寺子橋からの
県道72号大田原芦野線に合流します、、白河方面からは斜め右に入ります。 
弁慶の足踏み石 石仏石碑群 石田坂旧道北口

 県道に合流するとスグ先がY字路になっています、左(白色矢印)に進みます、この分岐点の擁壁上に折損してしまった道標があります、那須モータースポーツランドへの道標と思えますが判別不明です。

街道の右手は
那須モータースポーツランドになります、時よりレーシングカーのカン高いエグゾーストノートが響いてきます、風向きによっては焼けたタイヤのゴム臭が漂ってきます。

上り坂をグングン進むと右手に
SUZUKI HOLSTEIN FARMがあります、那須塩原市生乳の産出額は全国で第四位です、第一位から三位までは全て北海道です、街道沿いには牛の餌の乾草詰めた大きな白い包が積まれています。

次いで左手に
農業構造改善事業記念碑があります。
折損道標 乳牛牧場 農業記念碑

 案外の坂を上り詰めると、下りになり豊岡交差点を越すと豊岡に入ります。

豊岡村黒羽藩領で往時は蛇沢村といいました、文化年間(1804〜18)の家数は九軒でした。

豊岡バス停向いの左手の石段を上ると墓の上方に石祠があります、中に
地蔵坐像が安置されています。

左手の拓伸運輸の並びに天保十三年(1842)建立の
馬頭観世音や天保十五年(1844)建立の二十三夜塔等があります。
地蔵尊 石塔群 温泉神社跡口 温泉神社跡

 スグ先の右手に芭蕉温泉ランド分譲地案内看板があります、ここを右(黄色矢印)に入ると左手に
青面金剛像と元文三年(1738)建立の如意輪観音像があります、ここが温泉神社跡です、蛇沢村の鎮守でしたが今は石田坂の八雲神社に合祀されています。

 街道に戻ると左手に愛宕神社跡があります、参道口に明治二十二年(1889)建立の愛宕神社と刻まれた対の御神燈があります、今は石田坂の八雲神社に合祀されています。

愛宕神社にちなむ
愛宕坂を上り詰め、下りになると左手に那須町標識が現れます、那須塩原市から那須郡那須町に入ります。

雑木林が途切れると右手の砂利道口に安政四年(1857)建立の
馬頭観世音が倒れています、何とか起してあげたいですね!
愛宕神社跡 那須町標識 馬頭観音 黒川端南口

 右手の
原眼科看板の先を斜め右の下り坂(白色矢印)に進みます。

 黒川集落に入ります、黒川村黒羽藩領で、黒川に沿うところから黒川端(ばた)とも呼ばれました。

旧道に入ると左手に
馬頭観音像、明治廿二年(1889)や大正五年(1916)建立の馬頭観世音が祀られています。

先の右手に
道標「右新田ヲ経テ黒羽ニ至 左芦野町ヲ経テ白河ニ至」があります。

傍らには
秋葉山碑があります、碑の窪みに秋葉山権現の御札を納めます。

下り坂を進むと
黒川に突き当たります。
馬頭観音 道標 秋葉山碑 黒川分岐

 この先は通行不能です、突当りの
土手道を左折(白色矢印)します。

 黒川橋にも赤線で最高水位が表示され、「平成10年8月末(27日未明)豪雨」と記されています、余笹川と同様にこの地にも未曽有の被害をもたらしました。

黒川黒川橋で渡ります、黒川は那須連山三本槍岳(やりだけ)の赤面山(あかづらやま)に源を発し、流末は余笹川に落合います。

黒川は
黒羽藩芦野知行地との境で、土橋は両者折半で管理維持されました、橋が流失する川越人足による徒歩渡しが行われました。

黒川橋渡詰めを右折し、左手の
擁壁に沿って進みます。

擁壁の切れ目を左(白色矢印)に回り込みます。
最高水位表示 黒川 夫婦石旧道南口

 夫婦石旧道に入ると左側には丘が続き、右手には田園風景が広がっています。

左手の丘上が雑木林になる手前に
土道の上り坂があります、ここを踏み込みます。

繁るに任された笹をかき分けて進むと
明治天皇夫婦石御野立所碑明治天皇駐蹕之處碑があります、ここは黒川の流れを眼下に望む景勝地でした、明治天皇は東北と北海道巡幸の際に、二度ここで休息しました。

夫婦石旧道を進むと先程分岐した
県道72号大田原芦野線に突き当たります。
土道口 明治天皇碑 明治天皇碑 夫婦石旧道北口

 街道は左(白色矢印)に進みます、この
T字路を右折(黄色矢印)すると左手に夫婦石神社があります。

 夫婦石神社は二つに割れた大きな夫婦石をご神体としています。

昔、盗賊に追われた
男女が岩の裂け目に身を隠すと、白蛇が二匹現れて岩を揺り動かすと、盗賊共は恐れおののいて逃げ去ってしまった、その後、この二つの岩が夜な夜な互いに寄り添うところから夫婦石と呼ばれるようになりました。

分岐点先の右手に
瑞穂農場芦野分場入口があります、白河方面からは先を斜め右に入ります。

街道を進むと左手の畑から雑木林に入ると
夫婦石の一里塚の両塚を残しています、江戸日本橋より数えて四十二目です(那須町史跡)。
夫婦石 夫婦石の一里塚(東) 西塚

 切通の下り坂を進むとY字路になります、赤い屋根の平屋住宅が分岐目標です、左(白色矢印)に回り込みます、白河方面からは県道に合流します。

下り坂を進むと右手に天保八年(1837)と明治廿二年(1889)建立の
馬頭観世音二基と生馬大神の一基が並んでいます。

更に下ると
Y字路が現れます、左(黄色矢印)は芦野温泉口です、この分岐点の右手に明治三年(1870)建立の足尾大神があります。
西坂旧道南口 馬頭観音群 芦野温泉口 足尾大神

 足尾大神碑には
草鞋草履が架けられています、足の病に霊験あらたかといいます。

足尾山は筑波山や加波山と並んで古来より山岳信仰の霊山でした、平安時代に醍醐天皇がこの山に鎮座する足尾神社に祈願したところ足の病が完治したところから足の病に霊験あらたかと信仰をあつめました。

 西坂旧道内の右側には沢山の馬頭観音石塔類が祀られています、興味が尽きません。

菖蒲川菖蒲橋で渡ります、菖蒲川は那珂川水系奈良川支流の一級河川です。

芦野の地名はこの菖蒲川奈良川の河畔に(あし)が茂っていたところに由来しています。

先で
県道72号大田原芦野線に合流します、白河方面からは松本自動車商会が分岐目標です。
馬頭観音 石塔群 菖蒲川 西坂旧道北口

 街道を進むと電波塔手前の十字路に木製道標「←健武山温泉神社 0.5km/0.7km 芦野氏旧墳墓→」があります。

この
木製道標は非常に不親切な代物といえます、この十字路を右に進んでも芦野氏旧墳墓はありません、そして左は芦野氏居館跡にすべきでしょう。

道標から左(黄色矢印)に入り、しばらく進むと左手に
芦野氏居館跡(那須町史跡)があります、鎌倉幕府の命により那須七騎の一人芦野氏がここに居館(きょかん)を構え、地頭としてこの地を支配しました。

十字路に戻ると
ほ場整備竣功記念碑があります、農地を含めた農業全般の改良整備記念碑です。
芦野氏居館跡口 芦野氏居館跡 ほ場整備竣功碑

 ここから後ろを振り返ると、菖蒲川沿いに崖が連ねています館山城址です。

応永年間(1394〜1427)
芦野氏が切り立った岩山上に館山城を築き、芦野氏居館から移り居城としました、城跡には土塁等を残しています。

県道を進み、
国道194号線を横断します。

先に進み
芦野橋奈良川を渡ります、奈良川は白坂に源を発し、流末は岩渕で合川に落合います、奈良川はこの地の灌漑や生活の用水でした。
館山城址 国道294号線 芦野橋 奈良川

 PM12:57 芦野宿着 白坂宿まで12.1km

 奈良川を芦野橋で渡ると芦野宿に到着です!

芦野氏は鎌倉時代初期からこの地を支配し、徳川の世になると三千石の旗本となりました、芦野氏は那須一族の血をひくため一万石以上の待遇を受け、参勤交代も行いました。

天保十四年(1843)の
奥州道中宿村大概帳によると芦野宿宿内家数は百六十八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒で、宿内人口は三百五十人(男百六十人、女百九十人)でした。

芦野川を渡ると左手に
川原町地蔵尊が祠の中に安置されています、享保十二年(1727)の造立で、左足を立てている半跏座(はんかざ)地蔵です、芦野宿の江戸口(南口)にあって、宿内に入り込む悪霊の侵入を見張っています。

宿並は突当りを左に進みます、芦野宿の
南枡形です。
地蔵祠 川原町地蔵尊

 宿並みには旧屋号を掲げた石燈籠が随所に設置されています。

枡形を抜けると
T字路に突き当たります、ここには丸太道標「←関東ふれあいの道→」があります、宿並は左折(白色矢印)です。

右(黄色矢印)に進んでみましょう、右手に
馬頭観世音伝馬大神等の大きな石塔が並んでいます。

左手の真言宗台明山明星院
三光寺日本三聖天(浅草待乳山、妻沼歓喜院)の一つで、聖天の守護寺です。
芦野宿燈籠 ふれあい道標 石塔群 三光寺

 聖天(しょうてん)を祀る殿堂の扁額聖天は文化八年(1811)松平定信(楽翁)の書です、境内の樹齢約二百年の黒松は扁額奉納記念に植樹されたもので、名を松平の、楽翁のをとり松翁と名づけられましたが枯れ死し、伐採されました。

先に進むと左手の奥に曹洞宗米沢山
最勝院があります、芦野氏の旧菩提寺です。

更に進むと左手に
芦野氏陣屋裏門があります、この門は旗本芦野氏の陣屋(現御殿山)の裏門として建立されたものです。

明治四年(1871)廃藩置県によって芦野氏の
陣屋が解体された際に移築されたものです。
松翁跡 最勝院 芦野氏陣屋裏門

 更に進むと国道294号線に突き当たります、この左手に芦野氏旧墳墓入口があります。

竹林の中を進むと中腹に
芦野氏旧墳墓があります、芦野氏の旧菩提寺最勝院の墓域です。

芦野氏初代の
芦野資方(すけかた)から第十八代資泰(すけやす)までの墓所といわれています、建中寺の墓所が第十九代資俊からの新墳墓というのに対して旧墳墓といいます。

それでは今来た道を戻りましょう、
丸太道標「←関東ふれあいの道→」先が芦野宿の宿並になります、左手に聖天まんじゅう伊豆屋があります、三光寺の縁日には花火大会が行われ賑わいます。
芦野氏旧墳墓口 芦野氏旧墳墓 伊豆屋

 宿並を進むと右手に奥州道中芦野宿碑があります、ここが問屋場跡です、戸村家が勤めました。

奥に
明治天皇行在所記念碑があります、明治九年(1876)巡幸の際に旧問屋の戸村謙橘宅が宿所になりました。

問屋場の向いにうなぎ料理の老舗
丁子屋があります、明治初期の創業です。

店脇に
安達家蔵座敷碑があります、旧旅籠丁子屋跡です、当家には八畳二間、床の間、違い棚の蔵座敷を当時の造り、そのままで残しています。
芦野宿碑 明治天皇碑 丁子屋 安達家蔵座敷

 宿並左手のほていや商店とめがね魚店の辺りが旅籠吉川屋跡芦野宿脇本陣でした、金沢家が勤め、建坪は八十九坪半でした。

先の変則十字路手前の右手に
延生山地蔵院参詣道寺標があります。

この十字路を越えると右手の
芦野郵便局(旧芦野町役場)が番所跡です。

郵便局前には
芦野町道路元標と大正五年(1916)建立の仲町道標「奥州街道 鍋掛ヲ経テ大田原ニ至ル、白坂ヲ経テ白河ニ至ル」「南ハ伊王野ヲ経テ黒羽ニ至ル、西ハ黒田原ヲ経テ小島ニ至ル、伊王野ヘ一里、黒田原一里十七町、小島九町」があります。
芦野宿脇本陣跡 番所跡 道標&道路元標

 十字路右の上り坂を進むと左手に平久江家(ひらくえけ)があります、上級武士に許された棟門(むねもん)です、平久江家は芦野氏の重臣で幕末には家老職を勤めました。

庭内には推定樹齢四百年、樹高18mの
枝垂れ桜(那須の名木)があります。

更に坂を上り、先を右折すると
那須市歴史資料館があります、この先を上り詰めると芦野氏陣屋跡です。

芦野氏は
御殿山に平山城の桜ケ城を築き、館山城から移り居城としました、徳川の世になると芦野氏は旗本となり桜ケ城は陣屋となりました、以降芦野氏は維新まで約二百六十年間存続しました。
平久江家門 芦野氏陣屋跡 コウヤマキ

 城内の
コウヤマキは築城時に二の丸の東に植樹されたもので、樹高約24m、目通り約5m、推定樹齢五百年です(栃木県天然記念物)。

 宿並に戻って進むと左手の那須屋と石の美術館ストーンプラザの辺りが臼居本陣跡です、建坪百五十三坪でした。

スグ先の
北枡形口の右手に延宝八年(1680)建立の庚申塔「奉造立金剛不測神宝塔二世安楽」と並びに大正六年(1917)建立の馬頭観世音があります。

向いを左(黄色矢印)に入り、奈良川を
中島橋で渡ると左手に宝暦十三年(1763)造立の如意輪観音像があります。

ここが
弥勒堂跡です、明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。
芦野宿本陣跡 庚申塔 中島橋 弥勒堂跡

 宿並に戻って進み、十字路を右に入ると曹洞宗保寧山最雄院建中寺があります、禅寺で芦野氏の菩提寺です。

本堂南の墓域には元禄五年(1692)没の第十九代
資俊(すけとし)から安政四年(1857)没の第二十七代資原(すけはら)までの墓があります、江戸期からの墓所で芦野氏新墳墓と呼ばれています。

十字路に戻りそのまま国道294号線に出ると左手の芦野物産センター内に
ラーメン店があります。
建中寺 芦野氏新墳墓 ラーメン&牛丼セット

 腹が減りました、朝食は午前4時でしたから、かれこれ9時間は経っています、生ビールを注ぎ込み、ラーメンと牛丼のセットを食し、先は長いですから早々に出立です!

 宿並に戻って進むと君嶋モータースの並びに享保二年(1717)造立の新町地蔵尊が鎮座しています、ここが芦野宿の白河(北)口です、宿内に入り込む悪霊の侵入を見張っています。

地蔵尊脇には文化十二年(1815)建立の
二十三夜塔、文化元年(1804)建立の三界萬霊塔大乗妙典供養塔が並んでいます。

奈良川高橋で渡ると国道294号線に突き当たります、奥州道中は右折(白色矢印)します、直進(黄色矢印)すると先に遊行柳があります。
新町地蔵尊 石塔群 高橋 遊行柳口

 この分岐点には木製道標「←白河の関跡 11.7KM/4.9KM 芦野宿を経て伊王野→」があります。

遊行柳口の左手には
遊行庵があります、初奥州道中ウオークの時はここで ソバお握りを食しました。

遊行柳口(黄色矢印)を入り、突当りを左折して進むと右手に
遊行柳標識「国指定名勝 町指定史跡 おくのほそ道の風景地 遊行柳」があります、ここを右折して進むと正面に遊行柳があります。

この柳は時宗の開祖
遊行(一遍)上人の使い古した柳の杖が根付き芽吹いたものといいます、朽ち木の柳清水流れる柳とも呼ばれています。
木製道標 遊行庵 遊行柳

 遊行柳の根方には西行歌碑蕪村句碑芭蕉句碑の三基が並んでいます。

西行歌碑
「道のべに 清水ながるゝ 柳かげ しばしとてこそ たちどまりつれ」

蕪村句碑
:昭和二十三年(1948)の建立
「柳散り 清水かれ石 ところどころ」

芭蕉句碑:寛政十一年(1799)四月の建立
「田一枚 植て立ち去る 柳かな」

芭蕉は奥の細道で「清水ながるゝの柳は、蘆野(あしの)の里にありて、田の畔(あぜ)に残る」と著しています。
西行歌碑 蕪村句碑 芭蕉句碑

 芭蕉は遊行柳の見学後、白河の古関に立ち寄り、白河で一泊しました。

遊行柳を抜けると
温泉神社の鳥居があります。

参道を進むと
鏡山の麓に上の宮温泉神社が鎮座しています、西方にある健武山湯泉神社に対して上の宮と呼ばれています、元禄四年(1691)建立の常夜燈芦野資俊が寄進したものです。

境内の
上ノ宮のイチョウは那須の名木選で高さ35m、目通り6.1m、推定樹齢四百年で当地域最大の巨樹です。

それでは街道に戻って先に進みましょう。
湯泉神社鳥居 大イチョウ 湯泉神社

 国道を進むと左手に甦る豊郷碑があります、峯岸から境の明神までは黒羽藩領で良質な米の産地でした。

碑の前から左の
草道を進みます。

左手に
岩倉右大臣歌碑「みちのくの 鄙(むら)の果てまで あきらけき 御代の日影を 仰かぬそなき」があります、明治天皇東北巡幸に随行した岩倉具視が詠んだ歌です。

ここから舗装路に合流して進むと火の見ヤグラが聳える
峯岸村に入ります、芦野宿の助郷村でした。
峯岸村南口 岩倉具視歌碑 峯岸村 石塔群

 村内を進むと左手に弘化三年(1846)建立の
十九夜塔大黒天、文化三年(1806)建立の二十三夜出羽三山碑「羽黒山大神 月山大神 湯殿山大神」があります。

 先の左手の山上に愛宕神社が鎮座しています、火伏せの守護神です、山上の祠には愛宕地蔵が安置されています、峯岸村の鎮守です。

スグ先、左手の石段を上ると牛の形をした
べこ石の碑があります、嘉永元年(1848)芦野宿の問屋を勤める戸村右内忠怒(ただひろ)の建碑です、儒教的精神を中心とした道徳を振興する文書十九段、約三千五百文字が刻まれています、この碑の下部には水準点記号が刻まれています。

村内を進むと右手に
案内標識「べこいしの碑→」があります、旧道はこの先(白色矢印)にも続いていますが、通り抜け不可です、案内標識を右折(黄色信号)します。
愛宕神社 べこ石の碑 峯岸北分岐

 突当りの国道を左折(白色矢印)し、
先を斜め左(白色矢印)に入ります。

旧道に入ると右手に文政十三年(1830)建立の
無縁塔があります。

先に進むと左手の段上に
峯岸館従軍之碑峯岸館従軍者之碑があります、戊辰戦役に黒羽藩は官軍として参戦しました、農民は峯岸館で洋式の軍事訓練を受け、各地に転戦し戦功を挙げました、これを顕彰したものです。

並びに
官修墳墓があります、戊辰戦役の官軍戦死者の墓地です。
峯岸村北口 峯岸館碑南口 無縁塔 峯岸館従軍之碑

 旧道は再び国道に合流します、白河方面からは斜め右に入ります。

国道左側の歩道を進むと左手の段上に弘化四年(1847)造立の
光明真言五百万遍地蔵坐像があります、傍らには安永二年(1773)建立の光明真言百万遍塔があります。

スグ先の横断歩道を横断して、斜め右の
旧道に入ります。

この分岐点には
木製道標「←白河の関跡 10.6KM/1.1KM 芦野(遊行柳)→」があります。
峯岸館碑北口 地蔵尊 板屋口 木製道標

 旧道に入ると国道の喧騒から解き放たれ長閑な街道ウォークになります。

奈良川下川原橋で渡って進むと、右手に馬頭観音像馬頭観世音等が四基並んでいます。

板屋に入ります、板屋村黒羽藩領で、山林が六分で田畑は四分程度でした、文化年間(1804〜18)の家数は十八軒でした。

右手の火の見ヤグラの裏手に
二十三夜塔があります。
下川原橋 馬頭観音 二十三夜塔 仲橋

 枝木沢仲橋で渡り、上り坂を進むと左手に諭農(ゆのう)の碑があります。

嘉永元年(1848)
べこ石の碑と同様に戸村右内忠怒が建碑したものです、農民を論す文章(病害虫の駆除法、飢饉の際の備蓄法等)約七千文字が刻まれています(那須町書跡)。

スグ先に切通があります、道路改修で掘り下げられ、両側の高台に
板屋の一里塚の両塚を残しています、江戸日本橋より数えて四十三目です。

切通を抜けると下り坂になります。
諭農の碑 板屋切通 板屋の一里塚(東) 西塚

 下り坂の左手に寛政八年(1796)建立の馬頭観世音や享保十六年(1731)建立の大乗妙典六十六部供養塔等が並んでいます。

次いで右手の墓地口に
光明真言百萬遍供養塔があります。

先の右手の斜面上に三基の
馬頭観世音と明治三十二年(1899)建立の生馬(いくま)大神があります。

なまこ壁の蔵を過ぎると右手の斜面に多数の
馬頭観世音馬頭尊が祀られています。
石塔 石塔 馬頭観音 馬頭観音群

 平坦になった街道をモクモクと進み、右に曲がると右手の奥に嘉永二年(1849)建立の馬頭観世音大黒天が祀られています。

この前の土道を奥に進むと
温泉神社が鎮座しています。

街道に戻り、先に進むと右手に
火の見ヤグラがあります、並びの民家の敷地内に御大典記念碑があります、大正四年(1915)大正天皇が訪れた記念碑です。

民家の奥に
湯泉神社の鳥居が望めます、ここが温泉神社の表参道なのでしょう。
石塔 湯泉神社 湯泉神社口 御大典記念碑

 街道は高瀬に入ります、高瀬村黒羽藩領で山林六分、田畑四分程度で畑より田の方が多くありました、用水は温泉川から取水しました。

街道の右手に真言宗医王山
高徳寺があります、創建は永禄十年(1567)とも寛永三年(1626)ともいわれています。

脇沢、高瀬、板屋、峯岸に檀家を持っています、現在は無住で、芦野
三光寺が兼帯しています。

境内の
地蔵尊座像は文政二年(1819)の造立で、地元では子育て地蔵尊として親しまれています。

高台の墓地には戊辰戦役で戦死した黒羽藩峯岸館兵
渡辺敬二郎の官修墳墓があります。
高徳寺 地蔵尊 官修墳墓

 高徳寺を後にすると右手の斜面に多数の馬頭観音が祀られています。

左手に広がる田園風景を見ながら街道を進みます、右手の
電波塔を過ぎた先を用水路に沿って斜め右(白色矢印)に入ります。

ここが
脇沢村の北口です、脇沢村は横岡村の枝村で家数は五軒でした。

右手の牛舎を過ぎると右手の墓地の斜面に夥しい数の
馬頭観音が祀られています。

先に進むと先程分岐した
旧道に合流します、白河方面からは斜め左に入ります。
馬頭観音群 脇沢村南口 馬頭観音群 脇沢村北口

 スグ先で板屋からの旧道国道294線に合流します。

この分岐点には
木製道標「←白河の関跡 8.1KM/3.6KM 芦野(遊行柳)→」があります、白河方面からは斜め左に入り、スグ先を更に左に入ります。

この分岐点の右手の段上に
脇沢の地蔵様と呼ばれる地蔵立像地蔵坐像があります、並びには文化三年(1806)建立の馬頭観世音、文久三年(1863)建立の念仏供養塔等があります。
国道合流 木製道標 脇沢の地蔵様 五輪塔

 火の見ヤグラ脇の
五輪塔は西の奈良川沿いの雨乞い場にあったものです。

 国道右側の歩道を進むと正面に石井石材の大燈籠が聳えています。

手前の三ケ村公民館前から斜め右(白色矢印)の
旧道に入ります、この旧道は大燈籠の先で国道に合流(白色矢印)します。

国道を進むと右手の雑木林に
石段があります、この石段を上ると朽ちた祠があり奉還宮八幡大神石造合掌地蔵尊立像が安置されています、地元では八幡様と呼んでいます。

国道は
切通になります、往時は観音坂と呼ばれる直登の急坂でした。
三ケ村旧道南 三ケ村旧道北 八幡様 観音坂

 切通先右手のカーブ標識白色パイプフェンスの間から右の草道に入ります、べこ石旧道です。

但し、この
べこ石旧道内には不整地がある為、通行する際はご注意ください。

旧道を進むと左手の田の中に
べこ石が横たわっています、牛に似た大岩です。

旧道を回り込み
電柱白色パイプフェンスの間から再び国道に合流します。

国道の右側を進むと人家が現れます、並びに
六地蔵石幢等があります。
べこ石旧道南口 べこ石 べこ石旧道北口 六地蔵石幢

 次いで右手に座り地蔵尊があります、明和八年(1771)の造立で間の宿寄居の江戸口に鎮座しています、傍らの如意輪観音像笠塔婆は明和九年(1772)の建立です。

国道の左手に
標識「←寄居」、道路標識「←豊原駅」があります、これらの標識に従って斜め左に入ります、寄居間の宿で旅籠もありました、下野國北端の休憩地として大いに賑わいました。

寄居は
陸奥との國境に近く、軍事的に重要な地で「武士達が寄り集まった」ところが地名の由来です。
座り地蔵尊 寄居標識 寄居南口 湯殿山常夜燈

 寄居に入ると右手に天保十二年(1841)建立の
湯殿山常夜燈があります。

 先の右手に真言宗智山派抜苦山補陀洛院與楽寺(よらくじ)があります、天文十五年(1546)の創建です。

参道階段前には延享二年(1745)造立の
地蔵尊が鎮座しています。

境内の
山桜那須の名木に指定されています、推定樹齢百五十年で、樹高20m、幹回り4.4mです。

墓地には官修墳墓の黒羽藩士
松本忠左衛門の墓があります、慶応四年(1868)九月五日会津若松河原町にて戦死しました、享年三十一歳でした。
地蔵坐像 與楽寺 山桜 黒羽藩士墓

 JR東北本線豊原駅への横道を過ぎると左手に松本家があります、問屋を勤め、寄居西組の名主を兼ね、本陣格の役割を果しました、遊行上人も宿泊しています。

並びが
大島家です、茶屋本陣を勤め、寄居町組の名主を兼ねました。

先に進むと左手に
丸太道標「関東ふれあいの道」があります、ここを右折(黄色矢印」)した先の山道は白河の関に至る旗宿道です、古代奥羽三関勿来(なこそ)、念珠(ねず)の一つです。

寄居旧道は
国道に再び合流します。
松本家 大島家 旗宿道 寄居北口

 国道を進むと左手の駐車場内に泉田の一里塚の西塚を残しています、塚木は榎でした、江戸日本橋より数えて四十四里目で、下野國最北端の一里塚です。

スグ先右手の
国道標識「会津若松93Km 白河12km」の手前、斜め右の上り坂が泉田旧道の南口です。

国道の直線化によって取り残された貴重な
旧道痕跡です、先で国道に合流します。

白河方面からは
交通標識「この先300mチェーン着脱場」先の斜め左の上り坂に入ります、ここが泉田旧道の北口です。
泉田の一里塚 泉田旧道南口 泉田旧道北口 大久保南口

 左手の
交通標識「国道294」に取り付けられた地名標識「那須町寄居」先を左折(白色矢印)します、この分岐点には木製道標「寄居大久保」があります。

 奈良川を渡り一本目を右折(白色矢印)します、直進(黄色矢印)は旧道痕跡ですが先に私有地がある為、右折します。

折角ですから往ける所まで行ってみましょう、先を右折(黄色矢印)します。

この分岐点には
馬頭観音群があります。

ここが大久保の南口です、
大久保村の家数は五軒でした、用水は奈良川より取水し、流末は三増川に落合いました。

村内を進むと砂利道から土道になります、この先は私有地になりますので戻ります。
大久保分岐 大久保村口 馬頭観音群 大久保村

 奈良川に沿う舗装路を進むと右手に石仏石塔群があります、道路改修にともなって集められました。

馬頭観世音馬頭大神、文久元年(1861)建立の足尾山石塔「従是江戸四十五里五丁」、文化元年(1804)建立の念佛供養塔地蔵立像、如意輪観音像二十三夜塔、明和九年(1772)建立の庚申塔が並んでいます。

先に進むと右手に
初花(はつはな)清水があります。

歌舞伎
「箱根権現躄(いざり)仇討」の主人公棚倉藩士飯沼勝五郎は兄を滝口上野に殺され、同じく上野を父の仇としていた初花と夫婦になった、仇を探しているうちに足を病んだ勝五郎はここに小屋を建て療養につとめました、初花は毎朝この清水で化粧を行いました。
石仏石塔群 初花清水 初花清水碑

 先に進むと国道に再び合流します。

この分岐点に
瓢石(ふくべいし)、馬頭観世音菩薩瓢石道標「勝五郎旧跡 初花清水従是二丁」があります、勝五郎は療養の傍ら、手慰みに山肌に瓢石を刻みました。

無事、本懐を遂げた二人の墓は東海道箱根路東坂の
鎖雲寺にあります。

奈良川戸坂橋で渡ります。

先を斜め右(白色矢印)に入ります、ここが山中南口です。
大久保北口 瓢石 奈良川 山中南口

 この分岐点には
木製道標「この先100M 明治天皇御小休所」があります。

 山中村は下野國最北端の集落で山林が四分、畑が六分で家数は八軒でした。

左手の擁壁上に旅の途中で亡くなった人を弔う
無縁供養塔や文久三年(1863)建立の馬頭観世音等が並んでいます。

右手の鈴木家の蔵前に
明治天皇山中御小休所碑があります、明治十四年(1881)山形秋田両県及び北海道巡幸の際、往復の二度当家にて休息しました。

先に進むと再び
国道に合流します、白河方面からは国道標識「←山中」に従って斜め左に入ります。
石塔群 鈴木家 明治天皇碑 山中北口

 国道を進むと右手に安政六年(1859)建立の大きな馬頭観世音が台石上に祀られています。

先の左手に
明神旧道の痕跡を残しています、国道の直線化によって取り残された貴重な遺跡です。

明神旧道北口の左手段上に享保十四年(1729)と延享三年(1746)造立の
地蔵尊坐像が二体安置されています、地元では明神の地蔵様と呼ばれています、並びには如意輪観音像十九夜塔光明真言三百萬遍供養塔が祀られています。
馬頭観音 明神旧道南口 明神旧道北口 明神の地蔵様

 先の左手奥に湯泉神社が鎮座しています。

次いで右手に
那須町モニュメントがあります、江戸方面には「お気をつけて!」、白河方面には「ようこそ那須へ」と記されています。

先の左手に
境の明神と呼ばれる玉津島神社が鎮座しています、天喜元年(1053)紀州和歌浦の玉津島神社より分霊勧請した峠神で寄居の総鎮守です。

玉津島明神(女神)と住吉明神(男神)は共に國境の神として祀られています、女神は内(國)を守り、男神は外(外敵)を防ぐという信仰に基づいています。
湯泉神社 那須町標識 境の明神 玉津島明神

 この為
陸奥下野共に自らの側を玉津島明神を祀り、外側には住吉明神を祀っているといいます。

 スグ先の左手に県境標識「美しき ふくしま ようこそ 福島県白河市」があります、栃木県から福島県に入ります。

向いの右手斜面上に
領界石「従是北白川領」があります、白河藩主松平定信の揮毫で、側面には「従是北白坂町境抗弐拾九丁四拾五間」と刻まれています。

下野國陸奥國の境です。

左手に
境の明神である住吉神社が鎮座しています、文禄四年(1595)白河を支配していた会津蒲生氏の創建です。
県境 國境 住吉明神 芭蕉句碑

 現存する
小祠は弘化元年(1844)の建立です、境内には安永六年(1777)建立の芭蕉句碑「風流の はじめや奥の 田植え歌」があります。

 街道を挟んで住吉神社の向いの段上に白河二所之関址碑があります、奥州道中のここと旗宿道の二ケ所に白河の関があったといいます。

ここには
関守であった石井七兵衛の子孫が営むお休所南部屋七兵衛がありました、八戸藩主南部直房が参勤の度に境の明神に詣でた後、この茶屋で名物の千台(せんだい)を賞味したところから南部屋と称しました。

緩やかな下り坂を進むと左手に
案内標識「←衣かえの清水」があります、ここから草道を下ると、国道下に衣かえの清水があります、衣が井とも呼ばれます、弘法大師がこの清水で身を清め衣替えをしたとか、大師が持っていた杖を刺すと清水が湧き出たともいいます、明神村用水で、奈良川の源です。
白河二所之関碑 衣がえの清水口 衣がえの清水

 元禄二年(1689)
芭蕉と随行の曽良は境の明神参拝後、この清水に立ち寄り休息しました。

この辺りに
境明神の一里塚があったといいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて四十五里目です。

 街道に戻って進むと右手に風化が進んだ馬頭観世音が祀られています。

緩やかな下りの街道を進むと左手の斜面に
山の神の鳥居があります、踏み込むと大正七年(1918)建立の石祠が祀られています。山の神は山に宿る神で春になると里に降りて来て、実りをもたらす有難い神様です!

人家を過ぎると左手に
石塔群があります、大乗妙典日本廻国供養塔馬頭観世音十九夜塔、慶応四年(1868)建立の大勢至菩薩、同年建立の題目碑「南無妙法蓮華経」等があります。
馬頭観音 街道風景 山の神 石塔群

 先に進むと左手の電柱脇に念佛供養塔があります、亨保十八年(1733)白坂町講中廿人が建立したものです。

スグ先を右(黄色矢印)に入ると右手に
標石「おくのほそ道」があります、ここは旗宿道の追分です、奥の細道紀行の芭蕉はここから白河の関跡を訪ねました。

旗宿道追分先の左手に
大垣藩士戦死之跡碑があります、慶応四年(1868)戊辰戦役白坂天王山の戦いで大垣藩士酒井元之丞重寛は奥羽越列藩同盟軍の襲撃を受け戦死しました、この碑は明治三十九年(1906)妹が建立したものです。
念佛供養塔 白河関口 おくのほそ道 大垣藩士戦死跡碑

 酒井元之丞重寛の墓は白坂宿の観音寺にあります。

 PM4:27 白坂宿着 白河女石追分まで9.5km

 先に進むと白坂宿に到着です!芦野宿と白河宿間が長い為、白坂宿が新設されました、「雨が降っても傘いらず」といわれ軒が連ねていました。

天保十四年(1843)の
奥州道中宿村大概帳によると白坂宿宿内家数は七十一軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十七軒で、宿内人口は二百八十九人(男百三十九人、女百五十人)でした。

宿並右手の旧家が
旅籠丁津屋跡です、蔵座敷を残しています。

左手が
御本陣問屋白坂周右衛門跡です、建坪百七十坪、門構玄関付で問屋庄屋を兼ねました、白坂家は天明六年(1786)幕府道中奉行の命により奥州道中十宿の駅路取締役を勤めました。

二軒先が
白坂宿脇本陣跡です、屋号岩井屋戸上(とがみ)家が勤め、町役人を兼ねました、建坪百二十八坪で玄関付でした。
旅籠丁津屋跡 白坂宿本陣跡

 宿並の右手にかめやの表札を掲げた門柱があります、このお宅が旅籠かめや弥五右衛門跡です。

白坂郵便局を過ぎると左手奥の高台に天台宗白坂山
観音寺があります、応永十五年(1408)の創建です、白坂宿本陣白坂家の菩提寺です。

境内右手の高台に
夕日堂と呼ばれる観音堂があります、この御堂の下に金売吉次が隠した埋蔵金があるとの伝説があります。

夕日堂の奥に
大平八郎の墓があります。
旅籠かめや跡 観音寺 夕日堂 大平八郎墓

 
大平八郎は白坂町取締り役を勤めていました、会津藩士田辺軍次は戊辰戦役白河口の戦いで会津軍が敗れたのは大平八郎が官軍の道案内をした為であると信じ込み、この遺恨をはらすため、明治三年(1870)八月十一日白坂宿旅籠鶴屋にて大平八郎を斬殺し、自らもその場で屠腹して果てました、享年二十一歳でした。

 白坂宿を後にして、上り坂の街道を進むと右手に大ケヤキが二本聳えています、この間に小社が祀られています。

先の右手に文久元年(1861)建立の
馬頭観世音大菩薩と昭和五十七年(1982)建立の牛頭観世音が祀られています。

名もない峠道を抜け、信号交差点を越すと
皮籠に入ります、皮籠(かわご)金売吉次砂金を入れた皮籠が地名の由来になっています、白坂宿の加宿立場がありました。

村内を進むと左手に
八幡神社があります、ここを左(黄色矢印)に入ると左手に金売吉次三兄弟の墓があります、宝篋印塔が三基並んでいます、中央が吉次の墓です、里人が三兄弟の死を憐れみここに葬り供養したものです、石囲いは元冶元年(1864)の建立です。
大ケヤキ 観世音 吉次八幡

 金売(かねうり)吉次は奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)に仕え、京と砂金の交易につとめました、承安四年(1174)吉次三兄弟一行はこの地で盗賊団に襲われ皆殺しとなりました。

後に
源義経は平泉に下る手引きをした吉次への恩から盗賊共を討ち果たし、吉次兄弟の霊を弔い八幡神社に合祀したところから吉次八幡と呼ばれました。

吉次八幡前の街道沿いには
馬頭観音像如意輪観音像十九夜塔、三猿が陽刻された享保十六年(1731)建立の庚申塔等があります。
金売吉次兄弟墓 石仏石塔 廿三夜塔 坐り地蔵尊

 街道を挟んだ向かいに
廿三夜塔があります。

先に進むと左手に享保十八年(1733)造立の
地蔵尊坐像があります、傍らには六地蔵石幢があります。

 街道を進むと左手に近世に建立された馬頭観世音が祀られています。

先に進むと左手の小路口に
名号碑南無阿弥陀佛」があります。

皮籠から一里段に入ります、一里段には皮籠の一里塚がありましたが位置は不明です、塚木はでした、江戸日本橋より数えて四十六里目です。

一里段の地名はこの皮籠の一里塚に由来しています。

左手に
一里段溜池があります。
馬頭観音 名号碑 石塔群 題目碑

 池の端に文化元年(1804)建立の
馬頭観世音等が並んでいます。

コンビニがある信号交差点先の左手に寛政五年(1793)建立の
題目碑「南無妙法蓮華経」があります、この地には泪橋泪坂の地名があり皮籠刑場があったといいます。

 往時、境の明神から白河間は松並木でした。

白河藩主
松平定信は街道沿いにマツを植栽し、村境には境木としてサクラ、そして水田の畔(あぜ)には越後よりタモノキを取り寄せて植えました、これらの並木は各村に管理維持させました。

しかし戦時中に
松根油搾取のため、松並木の全てが伐採されました。

左手の小丸山溜池脇にある
カーブミラーから斜め右(白色矢印)に入ります、小丸山旧道です。

旧道を進むと左手に明治三拾二年(1899)建立の
馬頭観世音「先祖代々供養塔」が祀られています。
小丸山旧道南口 馬頭観音 小丸山旧道北口

 旧道は左にカーブし再び
国道(白色矢印)に合流します、白河方面からは右手のダイナムの向いを斜め左に入ります。

 白河宿着

 信号交差点にて国道289号線を横断し、街道をしばらく進むとY字路に突き当たります、当初は直進(黄色矢印)する筋が白河口でしたが、寛永四年(1627)初代白河藩主丹羽長重はここに敵の侵入に備え防御の為の枡形(白色矢印)を設け土塁を築きました、ここが白河城下の江戸(南)口です、白河宿に到着です!

寛永四年(1627)家康は
大坂の陣で武功を挙げた丹羽長重を初代白河藩主に据えました、以降、白河宿は白河藩十万石の城下町として発展しました。

奥州の玄関口に位置する白河藩は伊達など、奥州の
外様大名に対する備えとされていたため、丹羽氏以降は親藩譜代大名が藩主を勤め、歴代藩主の中には老中首座となって寛政の改革を断行した松平定信が知られています。

天保十四年(1843)の
奥州道中宿村大概帳によると白河宿宿内家数は千二百八十五軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠三十五軒で宿内人口は五千九百五十九人(男三千四十一人、女二千九百十八人)でした、幕府道中奉行が管轄した奥州道中最後の宿場です。
白河宿江戸口

 
氷餅漬わらび杢目摺(もくめずり)色紙短冊、白川縮緬(ちりめん)、阿武隈川の埋木(うもれぎ)が宿名産でした。

 この白河城下江戸口の突当りが戊辰の役古戦場跡です、慶応四年(1868)官軍は白河を攻撃し、奥羽越列藩同盟軍は稲荷山防塁にて迎撃しましたが新式銃や近代的な大砲を装備した官軍には歯が立たず惨敗しました。

戦死墓があります、白河口の初戦だけで会津藩や仙台藩など、奥羽越列藩同盟側は約七百名が戦死しました、この戦死墓は会津藩戦死者を弔うために戦闘後まもなく地元新町の人々が建立したものです。

奥に明治十七年(1884)建立の
銷魂碑(しょうこんひ)があります、白河で戦死した会津藩士を供養する碑で三百四名の名が刻まれています、銷魂碑の三文字は旧会津藩主松平容保(かたもり)の揮毫によるものです。

それにしても
会津藩は貧乏クジを引かされてしまいました、幕末、京は攘夷派による天誅の嵐が吹き荒れていました、そんな最中会津藩主松平容保は幕府より京都守護職を命じられました。
戦死墓 銷魂碑

  容保は
近藤勇率いる新選組に京の治安維持を託しました、新選組は京の地に血の雨を降らせる活躍をしました、しかしこれが結果的に討幕派の憎悪と嫌悪をかってしまったのです、会津は朝敵として官軍から徹底的に攻められ辛酸を舐めてしまいました。

後に
西南の役が勃発すると元会津藩士等は自ら志願して抜刀隊を編成し、汚名を雪ぐ獅子奮迅の活躍をしたといいます。

 並びに大正十八年(1922)に建立された田邊軍次君之墓があります、元会津藩士の田邊軍次は戊辰戦役白河口の戦いで会津軍が敗れたのは白坂宿の大平八郎が官軍の道案内をした為であると信じ込み、この遺恨をはらすため、明治三年(1870)八月十一日白坂宿旅籠鶴屋にて大平八郎を斬殺し、自らも屠腹して果てました、享年二十一歳でした。

田邊軍次君之墓の前に小さな
墓石「操刀容儀居士」があります、軍次は白坂宿の観音寺に埋葬されました、この墓石は斬殺された大平八郎の子が建立したものです、二十七回忌の際、ここに改葬されました。

宿並を挟んだ向かいに
長州大垣藩戦死者六名墓があります、白河口の初戦で戦死した長州藩士三名と大垣藩士三名の墓です、当初は薩摩藩兵七名も埋葬され薩長大垣戦死十三名之墓と刻まれていましたが、薩摩藩が大正四年(1916)に小峰城東側の鎮護神山に戦死者を合葬したため、現在の姿になりました。
田邊軍次君之墓 長州大垣藩戦死墓

 宿並を進むと左手に奥羽越列藩同盟軍が防塁を築いた稲荷山への登り口があります、今は稲荷山公園になっています。

踏み込むと園内に
白河口戊辰之碑戊辰戦争白河口の戦い戦死者碑があります、戦死者碑の名盤には両軍戦死者約千人の名が刻まれています、白河口の戦いは三か月にわたる激戦でした。

園内には
西郷頼母歌碑「うらやまし 角をかくしつ 又のへつ 心のままに 身をもかくしつ」があります。

会津藩の家老を勤めた
西郷頼母(たのも)は藩の存続を守るため、藩論に逆らい非戦恭順を主張したところから腰抜臆病者と呼ばれました。
稲荷山 白河口戊辰之碑 西郷頼母歌碑

 官軍が会津城下に迫ると、
頼母は再び恭順を主張した為に追放となりました。

頼母の家族は籠城の邪魔になると
二人、五人は自邸で自害しました、会津藩は女性だけでも二百三十三人が自ら命を絶っています。

戦後も生き抜いた
頼母は「身をかくすことのできるかたつむりがうらやましい」と詠いました。

 宿並みに戻って左にカーブしながら進むと左手に権兵衛稲荷神社の参道階段口があります。

石段を上ると
狛狐があります、社殿は稲荷山の東に鎮座しています、嘉永三年(1850)に再建された入母屋造りの本殿の側壁には四季の農耕風景が浮き彫りされています。

小峰城三重櫓の復元には社叢の古杉が用いられましたが、いくつもの弾丸が食い込んでいたといいます。

宿並に戻って進むと信号交差点の
T字路に突き当たります、左折(白色矢印)します、女石追分方面からは右折します、この分岐点には九番町歯科クリニックがあります。

この分岐点を右に進むと
南湖(なんこ)公園があります。
参道階段 権兵衛稲荷神社 九番町分岐

 享和元年(1801)第十二代白河藩主
松平定信が作庭した南湖(なんこ)公園です、定信は士民共楽の理念から園内に身分の差を越えて誰でも憩える茶室共楽亭を建てました。

 九(く)番町を進み、一本目を右折すると先に八雲神社が鎮座しています、村の鎮守です。

鳥居は天明六年(1786)の建立です、鳥居脇には
聖徳太子碑があります。

九番町から七番町に入ると左手奥の
風神山の麓に金刀比羅神社が鎮座しています、本殿拝殿は文政十一年(1828)と天保五年(1834)の再建です、境内には寛政八年(1796)建立の石坂供養燈籠二十三夜供養塔如意輪観音像十九夜塔等があります。

三番町に入ると左手の奥に
西宮神社が鎮座しています、商売繁盛のゑびすを祭っています、境内には安政六年(1859)建立の十九夜供養塔等があります。
八雲神社 金刀比羅神社 西宮神社

 宿並に戻り谷津田川(やんたがわ)を南湖橋で渡ります、谷津田川は那須連山の赤面山(あかずらやま)に源を発し、流末は阿武隈川に落合います。

川沿いには江戸時代後半より昭和の初めまで精米をはじめとする
水車小屋が四十三軒連ねていました。

南湖橋を渡ると二番町に入ります、左手に
藤屋建造物群があります歴史風致形成建造物指定です。

藤屋は味噌、醤油の醸造店 として天保元年(1830)頃に初代藤田弥五兵衛によって創業されました。

藤屋手前の横道(黄色矢印)は
原街道です、氏家宿に至り、鬼怒川の阿久津河岸に通じていました、東北諸藩の廻米の搬入路でした、途中から那須湯本温泉へ通じていたところから那須湯本道とも呼ばれました。
谷津田川 藤屋

 次いで
一番町に入ると中程の西側に白河の一里塚があったといいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて四十七里目です。

 右手に奈良屋呉服店建造物群があります歴史風致形成建造物指定です。

奈良屋呉服店は明治十四年(1881)の創業です、江戸時代には油、砂糖を商っていました。

奈良屋の手前を右(黄色矢印)に入ると右手に
虚空蔵堂があります、慶長六年(1601)銘の鍍金装笈(ときんそうおい)を安置しています、(おい)とは諸国巡礼の行脚僧、修験者が本尊、仏具、経本などを入れて背負う箱です。

この笈全体に
金銅板(鍍金)を貼り付けたものが鍍金装笈です、安置されている鍍金装笈は装飾的な文様が彫られている貴重なものです。
奈良屋 虚空蔵堂 鍍金装笈

 宿並に戻り信号交差点を右折(白色矢印)します、この分岐点の右手にはセブンイレブンがあります、白河城下六曲り一つ目です。

左手の
山木屋は明治二十五年(1892)創業、銘菓黒あんまんじゅうの老舗です。

山木屋の脇(黄色矢印)に入ると高さ11mの天神山に
天神神社が鎮座しています、かつて存在した白河七天神の一つで、唯一現存する天神社です。

境内に
正岡子規句碑「夏木立 宮ありさうな ところかな」があります、子規は明治二十六年(1893)白河を訪れました。
白河城下六曲り 山木屋 天神神社 子規句碑

 天神町分岐点に戻ると左手に白河石を敷き詰めた月よみの庭があります、白河石は那須山二岐山の火砕流堆積物でクッション性に富み、内部に水を含み蒸散作用で足元が涼やかに感じられるといいます。

園内の
優陽の松は推定樹齢百年の赤松です、姿が鳥の飛翔に見えるところから雄飛の松とも呼ばれます。

宿並を進むと右手に
今井醤油店建造物群があります、歴史風致形成建造物指定です。

今井醤油店は江戸時代末頃の創業です、それ以前は魚屋、乾物屋を営み文政六年(1823)刊の天神町絵図には肴商売武兵衛、天保年間(1830〜44)刊の絵図には肴屋清吉と記載されています。
月よみの庭 今井醤油店 松河屋

 先の左手に
松河屋建造物群があります、歴史的風致形成建造物指定です。

松河屋は明治創業の味噌醤油醸造店です、昭和四十年(1965)頃まで営業を行っていました、屋根まで漆喰で塗り込めた蔵は明治二十五年(1892)の建築です。

 松河屋の向いの小路先をしばらく進むと妙徳寺墓地の向いに戦死供養塔があります。

戊辰戦役白河口の戦いで戦死した奥羽越列藩同盟軍の戦死者を供養するものです、明治二年(1869)の建立で、市内にある戊辰戦役の供養塔としては、最も小さいものの一つです。

先の左手に日蓮宗開会山
妙関寺があります、山門脇の南無日蓮大菩薩碑は元文四年(1618)の建立です。

境内に
乙姫桜(おとひめざくら)があります、推定樹齢四百年の紅枝垂れ桜です、美しい花が咲くところから乙姫桜と呼ばれています。
戦死供養塔 妙関寺 乙姫桜

 仙台藩主
伊達政宗が徳川将軍家へ桜の苗木を献上する途中、白河城下で休息した際に住職がその内の一本を望み、現在の場所に植えたものです。

 宿並に戻ると右手に仁平麹店建造物群があります、歴史風致形成建造物指定です、主屋は安政五年(1858)築で白河の伝統的町屋建築です。

仁平麹店(にへいこうじてん)は明治二十九年(1896)に麹屋として創業し、麹に加え味噌の醸造も行いましたが平成二十七年(2015)廃業しました。

仁平麹店の向いに
天神町屋台庫があります、嘉永五年(1853)に造られた屋台が収納されています、藩主の松平定信が主導した寛政の改革以来の倹約令により彫刻も白木のままです。

次いで左手に
松井薬局建造物群があります、歴史風致形成建造物指定です。
仁平麹店 天神町屋台庫 松井薬局

 
松井薬局は江戸時代末期の文久年間(1861〜64)に松井薬舗として創業し、明治十二年(1879)当地に移転し、二代目は薬種問屋の傍ら大正七年(1918)から同十一年まで白河町長を勤めました。

 突当りのT字路を左折し、一本目を右折します白河城下六曲り(白色矢印)の二つ目及び三つ目です。

この
枡形を右(黄色矢印)に進むと曹洞宗関川寺(かんせんじ)があります、中世に白河を本拠とした白河結城氏の菩提寺です。

銅鐘(どうしょう)は宝暦十一年(1761)の鋳造で、時の鐘でした。

境内に
戦死霊魂供養碑があります、棚倉藩士小池理八は白河口の戦いで足に重傷を負い、割腹して果てました。
白河城下六曲り 関川寺 銅鐘 戦死霊魂供養塔

 碑には理八を悼む歌「武士(もののふ)の 心の駒は いさめども 黄泉(こうせん)までとは すすめざりしを」が刻まれています。


 枡形に戻ると天神町から中町に入ります、城下町は通り五町と呼ばれ天神町、中町、本町、横町、田町で構成されました。

中でも
中町は小峰城の玄関口の大手があり、諸藩の使者を応接する屋敷や幕府、藩の御触れを掲示する高札場が置かれました。

宿並を進むと右手に
大谷家住宅があります、歴史風致形成建造物指定です、明治後期創業の味噌醸造店でした、二棟の蔵は創業当時のものです。

並びに
中町小路楽蔵(らくら)があります、敷地内には戊辰戦役白河口の戦いの史料を展示する白河戊辰見聞館(入館無料)があります。
中町解説 大谷家住宅 楽蔵

 JR東北本線白河駅への十字路を右折し、一本目を左折して進むと右手に臨済宗妙心寺派太白山天恩皇徳寺があります。

墓地に明治二年(1869)建立の
戦死人供養碑があります、慶応四年(1868)四月二十五日と五月一日の戦いで戦死した奥羽越列藩同盟軍の戦死者十一名を合葬しました。

並びに
新選組隊士菊池央(たのむ)の墓があります、元津軽藩士で慶応三年(1867)新選組が隊士を徴募した際に入隊しました、鳥羽伏見から始まった戊辰戦役を戦い抜き、会津入りし、白河口の戦いで戦死しました、享年二十二歳でした。

墓地の奥に
小原庄助(おはらしょうすけ)の墓があります、会津民謡会津磐梯山「小原庄助さんなんで身上つぶした朝寝朝酒朝湯が大好きでそれで身上つぶした」に唄われています。
戦死人供養碑 菊池央の墓 小原庄助の墓

 酒好きの庄助の墓石は
銚子の上にが乗っています、戒名は米汁呑了信士で、時世は「朝によし 昼に尚よし 晩によし 昼前飯後 その間もよし」 です。

 宿並に戻ると右手に久下田屋(くげたや)旅館があります、明治維新の精神的指導者であった吉田松陰が東北遊歴の際に逗留しました。

そして江戸城桜田門外で大老
井伊直弼を暗殺した実行部隊の指揮者だった水戸浪士関鉄之助は逃避行中に病気治療の為、当旅館に滞在しました。

先に進むと右手に
敷教舎(ふきょうしゃ)(解説板)があります、寛政十一年(1799)に白河藩主松平定信が設けた郷学所(ごうがくしょ)で「城下の庶商幼童の輩をして学問筆算教導の所」と位置づけられた庶民のための学舎でした。

突当りの
大栄歯科前を右折します。
久下田屋旅館 敷教舎跡 白河城下六曲り

 
白河城下六曲りの四つ目です。

 スグの突当りを左折します、白河城下六曲りの五つ目です、本町に入ります。

左手に
脇本陣柳屋「柳下源蔵」があります、代々柳下丹右衛門が勤めました。

この脇本陣には宇都宮戦線にて負傷した
土方歳三に代わって新選組隊長に任命された斎藤一以下百六名の隊士が宿営し、白河口の戦いに出陣しました。

敷地内には
明治天皇白河行在所附御膳水碑があります、明治十四年(1881)第二回東北北海道巡幸の際に宿所となりました、蔵座敷等は現在修復工事中です。
白河城下六曲り 脇本陣柳屋 明治天皇碑 脇本陣遺構

 蔵の裏には
御膳水になった釣瓶井戸が残されています。

 脇本陣柳屋の向いに白河宿本陣芳賀家跡(解説板)があります、代々芳賀(はが)源左衛門が勤め、門構玄関付で建坪百五十四坪でした。

明治九年(1876)明治天皇の第一回東北巡幸の際には
芳賀家が休息所となりました。

脇本陣柳屋の並びに
勧工場(かんこうば)建物跡(解説板)があります、明治十年(1878)脇本陣の敷地の一部に建てられた小槌屋商会跡
白河初の
勧工場と呼ばれた百貨店跡です。

次いで右手に
白河県立病院白河医術講義所跡(解説板及び標石)があります、明治四年(1871)旧本陣跡地に県立病院が開設されました。
白河宿本陣跡 勧工場建物跡 白河医術講義所 標石

 併せて病院に付属させた医学生教育機関の
医術講議所も設置されました、近代病院経営と医術演習の草創期を担いました。

 本町(もとまち)を進むと左手に大谷忠吉本店があります、創業明治十二年(1879)銘酒白陽登龍の蔵元です。

大谷忠一郎(ちゅういちろう)は萩原朔太郎に師事し、北方詩人などを主宰しました、萩原は度々当家を訪れ、この縁で忠一郎の妹美津子と昭和十三年(1938)に結婚しました。

大谷忠吉(ちゅうきち)本店脇の左手奥に曹洞宗亀岳山
長寿院があります、正徳元年(1711)の創建です。

白河口の戦い最大の激戦となった五月一日、当寺の住職は避難せずにいたため、
官軍は戦死者を当寺に埋葬しました。

山門を入って右手壇上に
白河役陣亡諸士碑があります、篆額損躬報国有栖川宮熾仁(たるひと)親王によるものです。
大谷忠吉本店 長寿院 白河役陣碑

 碑陰には白河口の戦いに出兵した官軍諸藩の
旧藩主名大山巌川村純義板垣退助等二十二名が発起人として氏名や爵位が列刻されています。

 境内に慶応戊辰殉国者墳墓があります、長州藩十八基三十名、土佐藩十八基十八名、大垣藩三基十三名、佐土原藩十九基十九名、舘林藩三基十二名の墓があります。

当初は
薩摩藩二十七名の墓もありましたが大正四年(1915)小峰城跡の鎮護神山にある薩兵合葬墓に改葬されました。

宿並みに戻ると本町外れの右手に明治十三年(1880)創業の
渋木茶舗があります、歴史風致形成建造物指定です、明治二十三年(1890)の建築で切妻平入りの店舗、その奥はかつては住居であった主屋、中庭の奥に座敷蔵という構成で、白河の伝統的な町屋建築です。

脇に
岩淵悦太郎生家跡(解説板)があります、悦太郎は明治三十八年(1905)本町で酒造業を営む岩淵屋に生まれ、現代日本語の国語学者となり日本方言地図岩波国語辞典国語史論集等を著しました。
慶応戊辰殉国者墳墓 岩淵悦太郎生家跡

 並びの十字路に嘉永二年(1849)建立の複製四辻道標があります。

道標の西面には「せんだい あいづ でハ(出羽) ゑちご(えちご)」、北面には「右 日光 江戸/左 たなくら いハき 水戸」と刻まれています。

この
四辻(よつじ)を左折(白色矢印)します、白河城下六曲り最後の六つ目です。 

横町に入り豪壮な蔵を見ながら進むと左手に
白河だるま店があります。 
白河城下六曲り 横町の蔵 だるま製作所 白河だるま

 初代白河藩主丹羽長重が城下の繁栄を図ってだるま作りの技術を習得させ旧正月十四日を縁日として大手門前にだるま市を張らせたのが始まりです。

白河だるまは松平定信に仕えた絵師谷文晁(ぶんちょう)の考案によるもので、だるま全体が縁起の良い松竹梅鶴亀の組み合わせで描かれています、まゆは、ひげは、あごひげは、びんひげは、顔の下にはの葉が描かれています。

白河だるま製作所脇の奥に浄土宗
専念寺があります、開山は慶長六年(1601)で、本尊は阿弥陀如来です。

JR中央本線を
陸羽街道架道橋でくぐると横町から田町に入ります、右手に津島神社が鎮座しています。
専念寺 陸羽街道架道橋 津島神社

 津島神社は
三河に総本社があり、織田家の氏神でした。

 津島神社先の信号交差点辺りに田町門があり、小峰城三之丸の北小路に通じていました。

この交差点を左に進むと
城山公園があります、園内に入ると史蹟小峰城址碑があり、復元された小峰城三重櫓(やぐら)が聳えています。

幕末の白河藩主
阿部正外(まさとう)は老中を勤めましたが、兵庫を無勅許で開港した責により罷免され、改易となり白河藩は消滅しました。

以降小峰城と白河藩は幕府直轄となり、大政奉還後は明治新政府の管理下に置かれました、戊辰戦役が勃発すると
会津藩が小峰城を占拠しましたが、白河口の戦いで落城し焼失しました。
城山公園入口 小峰城址碑 小峰城三重櫓

 宿並に戻ると田町の外れに往時は大木戸がありました、ここが白河城下及び白河宿北口です。

田町と阿武隈川の間には
河原町がありましたが、享和三年(1803)の洪水で流失しました、その後、新八軒茶屋が再開されました。

阿武隈川田町大橋で渡ります、阿武隈川は那須連山の旭岳に源を発し、流末は太平洋の鹿島灘に注いでいます、古くは(あふ)隈川、大隈川と呼ばれ、みちのくの歌枕になっています。

当初
徒歩渡しでしたが元禄二年(1689)に長さ三十四間余り、幅一丈ニ尺の大橋(板橋)が架橋されました、流失すると川越人足による徒歩渡しとなりました。
阿武隈川 那須連山 水難供養塔

  渡り詰めの右手に
水難供養塔が二基あります、左手は水害の翌年文化元年(1804)に建立された祐天(ゆうてん)上人名号碑「南無阿弥陀佛」です。

 田町大橋を渡ると向寺(むかいでら)に入ります、町並には家人屋敷足軽組屋敷が並んでいました。

左手の奥に臨済宗妙心寺派高岳山
聯芳寺(れんぽうじ)があります、白河結城二代目当主結城宗広の伯父広綱が娘の菩提を弔うために建立した寺です。

境内に樹齢二百年の
紅枝垂れ桜があります、かつては境内に六本の桜の木があり花は聯芳といわれました。

本堂の左手奥に明治二十一年(1878)建立の
福島藩十四人碑があります、慶応四年(1868)六月十二日隊長池田邦知等十四名の福島藩士は奥羽越列藩同盟軍と共に官軍に奪取された小峰城を攻撃しましたが、六反山で討ち死にしました。
聯芳寺 枝垂れ桜 福島藩十四人碑

 碑の並びに樹齢三百年の紅枝垂れ桜があり、段上に三柱神社が鎮座しています、聯芳寺の鎮守であった三宝荒神は神仏分離令により三柱神社と改称されました。

街道に戻って緩やかな上り坂を進み、右手の羅漢山霊園入口を右に入ると左手に
]姫(えなひめ)神社が鎮座しています、皆鶴姫(みなづるひめ)を祭っています。

源義経は金売吉次の手引きにより京を脱出し、平泉の藤原秀衡の元に向かうと、義経を恋い慕う皆鶴姫が後を追ってここまで来ましたが、病に倒れ命尽きてしまった、里人が憐れみ社を建て姫を祭りました。

傍らの
時雨(しぐれ)の楓は姫の悲愁で晴天でも時雨れると伝承されています。
三柱神社 ]姫神社口 ]姫神社

 里人が亡くなった皆鶴姫の懐にあった梅の実を社殿脇に蒔くと一つの花に八つの実がなる八房の梅となりました、今は八房の梅の若木が植えられています。

街道に戻り上り坂を進むと
切通になります、明治九年(1876)明治天皇巡幸の際に切り下げられました。

切通右手の階段を上ると二体の
地蔵尊立像があります、内一体は正徳五年(1715)の造立です、傍らの六十六部廻国供養塔は文政五年(1822)の建立です。
八房の梅 切通 旧道痕跡 馬頭観音群

 切通先のY字路右の車道が
旧道痕跡です。

左手の擁壁の外れに近世の
馬頭観音が多数祀られています。

 先に進むと左手の段上に仙臺(台)藩士戊辰戦歿之碑があります、明治二十三年(1890)旧仙台藩主伊達宗基(むねもと)が建立したものです。

傍らの
戦死供養塔は白河周辺で戦死した仙台藩士百五十名余を葬った墓で、明治二年(1869)の建碑です。

仙台藩士
細谷十太夫直英が率いる衝撃隊は黒装束をまとい夜戦を特異としたところから(からす)と呼ばれ、槍と刀を武器に夜襲を仕掛け、大いに恐れられ「細谷からすと十六ささげ無けりゃ官軍高枕」と唄われました。
仙台藩士戦役碑 仙台藩士戦歿碑 戦死供養塔 からす組隊旗

 
十六ささげとは神出鬼没の戦い振りで活躍した棚倉藩の精神隊十六士を指しています。

 PM6:38 女石追分着

 仙台藩士戊辰戦役碑向いのY字路が女石追分です、右は仙台松前道、左は会津街道です。

往時はこの追分に
道標「右ハ仙たい松前道/左ハ会津ゑちご道」がありましたが、今は不明です。

仙台松前道は奥州仙台、津軽半島の三厩(青森県)、更に蝦夷地の松前(北海道)に至り、奥州街道、奥州道中、奥海道、陸羽出羽往還とも呼ばれました。

会津街道は会津往還、白河街道、白河通り、東通りと呼ばれ、勢至堂(せいしどう)峠を越え、猪苗代湖の東を北行し、会津若松に至る、十七里余の道筋でした。
女石追分 白河駅 終点祝い

 幕府道中奉行管轄の
奥州道中はこの女石追分までです、奥州道中の終点です、無事到着です!

サア、今来た道をJR東北本線
白河駅に向かって大返しです。

缶チューハイを買い求め車中の人になります、
白河口の戦いでは奥羽越列藩同盟軍はそれこそ死にもの狂いで戦ったことでしょう、ここを突破されれば官軍の諸隊は直接各藩の城下に流れ込んできます、主君や家族を守る為の人柱でした。

そんなことに思い馳せながら、ボーッと車窓からの夜景を眺めているとウトウトとしてきました!!




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