是非、出立なさる前に本HPとマップを照らし合わせ、街道ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です、それでは出立しましょう。
これは1964年東京オリンピックに間に合わせる為、用地買収のいらない川をルートにしたためと云います。
南詰西は花の広場で高札場跡です、広重もシッカリ描いています、高札場のモニュメントは日本橋由来碑になっています。
広重はこの魚河岸で仕入れた魚屋を描いています。 北詰西は元禄の広場で日本国道路元標のレプリカがあります、本物は橋の中央に設置されています。 日本橋は昔も今も街道の起点です、サア、街道のキングである東海道検証の旅に出立です、日本橋中央の日本国道路元標サイドが出立点です。
秤座は江戸幕府の認可を受けて、全国の秤の量目の統一を図るため、秤の製造、検査、販売等の権利を独占した御用商人です。
広重は寛政九年(1797)八重洲河岸で生まれました、父は幕府定火消同心でした、十五歳で浮世絵師歌川豊広に入門し、天保四年(1833)保永堂より東海道五拾三次を出版し、好評を博しました。 京橋交差点を越すと1kmポストがあります、このポスト、この先何かと目安になります、進んできた距離、残り距離、平均速度、平均歩幅、疲れ具合等々です、我々はこの1kmポストを一キロ塚と呼び、重宝しています。
京橋は慶長八年(1603)日本橋と同年の架橋でした。
三越の屋上にはふくよかな銀座出世地蔵尊が安置されています、この地蔵尊は文久元年(1861)三十間堀で出土したものです。 銀座出世地蔵尊の縁日の賑わいは大変なもので、明治、大正、昭和初期にかけて夜店とともに銀座を代表する風俗であったと云います。
碑の傍らには銀座の柳二世が植栽されています。
伊勢の内外両宮の分霊を祀っています、境内にはめ組の喧嘩で知られた町火消しめ組が奉納した狛犬や五十貫余りの力石があります。
浜松(遠江国)出身の名主に由来しています。
両者の腹づもりは全く相反するものでしたが、欧米列強の進出に対して、国内戦による国力の疲弊を憂いたのかもしれません。
高輪郵便局を過ぎて、高輪大木戸跡交差点にて左側に進行方向をシフトしましょう。
ここには主君浅野内匠頭の墓の前に赤穂浪士四十七士の墓が並んでいます、境内には大石内蔵助像、主税の松、吉良上野介の首洗い井戸等があります。
幕末、当寺は英国公使館となった為、攘夷派の襲撃を受け、庫裏前の柱に刀痕を残しています。
遊女屋は吉原と双璧をなし、旅人のみならず「品川の客ににんべんのあるとなし」と云われました。 これは「イ(にんべん)」と「寺」の組合せを意味しています、両者を組み合わせれば「侍(武士)」になり、にんべんを取れば「寺(僧侶)」になります、つまり芝の僧侶と三田の薩摩藩士を指しています。
先に進むと、「従是南 品川宿」「従是南 御代官築山茂左衛門支配地」と記された傍示杭があります、品川宿江戸口です。
幕末、長州藩攘夷派の高杉晋作や久坂玄随はここで御殿山の英国公使館焼き討ちの密議をこらしています。
嘉永六年(1853)ペリー来航後、江戸防衛の為に御殿山下台場が築かれ、この台場に通じていました。 台場横町を進むと利田神社に突き当たります、境内には鯨塚があります。 寛政十年(1798)品川沖に迷い込んだ、体長九間一尺(約16.5m)の大鯨を漁師が捕獲したものです、江戸中の評判となり十一代将軍家斉も上覧しました。
ここには「品川宿 日本橋より「二里 川崎へ二里半」と刻まれた標石があります、とは云うものの正式な一里塚跡ではありません。 公園に沿って下ると民家の石垣があります、江戸時代の海岸石垣です、往時はここまで海が迫っていました、正に広重が描いた通りです。
先を右に入る小路が虚空蔵横町です、養願寺に通じる横町です、養願寺の本尊虚空蔵菩薩に由来しています。
明治元年(1868)明治天皇行幸の際に行在所(あんざいしょ)になりました。
宿並に戻り目黒川を品川橋で渡ります、北品川宿と南品川宿の境に当たるところから境橋とも呼ばれました。 渡詰左の城南信用金庫は百足屋(広瀬)治兵衛脇本陣跡です。
セブンイレブンを過ぎると右手の児童公園に樹齢約八十年の街道松があります、寄贈されたものです。 南品川一郵便局先の十字路を渡って左の製果実験社は問屋場・貫目改所跡です、貫目改所は街道往来の荷物の重量を検査する役所です、東海道では他に駿府、草津に設置されました。
宿並に遠州屋があります、明治元年(1868)創業で閻魔いなりを商っています、ゴマと一味が入った少しピリ辛のいなりです。 これは横の路地奥の長徳寺の閻魔にちなんでいます、焔魔堂には南品川の閻魔様と呼ばれる木造閻魔王坐像が祀られています。
池上通りを横断して進みます。 品川寺の向いのガーデンホーム南品川マンションが幕府御用宿釜屋跡です、本陣並みの格式を備えていました、鳥羽伏見の戦いに敗れた新撰組隊士達は品川に上陸後、しばらくここに滞在したと云います、解説板には新選組副長土方歳三の肖像写真が焼き付けられています。
その後、スイスのジュネーブの博物館で発見され昭和五年(1930)数奇な運命を辿った鐘は無事戻りました。
その中のひとり平蔵が財布を拾い、持主に返したが礼を受け取らなかった、仲間はこれを怒り、小屋から追出し凍死させてしまった。 これを知った財布の持主は平蔵の遺体を引き取り埋葬し、供養に地蔵を安置したものです。
文禄二年(1593)徳川家康の手によって再興されたた寺です。
立会川に架かる浜川橋を渡ります、鈴ヶ森の仕置場で処刑される罪人はこの橋で身内の者と涙の別れをしたところから涙橋とも呼ばれました。
ここには処刑者を供養する題目供養碑がたち、処刑台を残しています。 磔台の土台は四角にくり貫かれています、これは磔の角材を立てるためです、火炙台の土台は丸くくり貫かれています、これは燃えない鉄管を立てるためです、恐ろしいですね。 ケンペルは江戸参府紀行の中で仕置場の有様を「首を切り離した胴体を家畜の腐肉の中に打ち捨てられ、痩せた野犬が喰い散らかしている」と著しています。
磐井神社の向いは平和島競艇場です、レース開催時は辺りにボートのエンジン音が轟き渡ります。
美原は旧大森村の小字である北原、中原、南原を三原と呼び、いつしか美称化され美原になったと云います。 美原通りを進むと右手に美原不動尊があります、本尊は不動明王です、境内には生長地蔵菩薩が安置されています。
本来は直進(黄色矢印)ですが、一旦左に回り込み(白色矢印)、信号交差点にて産業道路を横断し、デニーズの前で国道15号線に合流します。
街道を進むと右手に貴舩神社があります、大森村のうち東海道に面した本宿の鎮守でした。 神社隣の敷地に小堂があります、堂内には寛文五年(1665)造立の延命地蔵尊と閻魔大王像が安置されています。
この踏切は箱根駅伝で有名でした、選手通過の際、電車の方を止めていました。
その後頼朝が社殿を造営し、家康は十八石の朱印地を寄進しています。 境内にあるユーモラスな表情をした狛犬は貞享二年(1685)六郷中町の有志が奉納したもので、区内最古の狛犬です。
落馬止め天神と呼ばれています、八代将軍徳川吉宗の乗馬が暴走した際に落馬を止めたと云います。 六郷橋の左側(東側)歩道で多摩川を渡ります、この左側が六郷の渡し跡です。
天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によれば宿内家数は五百四十一軒、うち本陣二、脇本陣ナシ、旅籠七十二軒で宿内人口は二千四百三十三人(男千八十人 女千三百五十三人)でした。 広重は川崎宿の舟渡し風景、そして川崎宿の舟会所を描いています。
明治の中頃、病害に強く甘い梨の新種が大師河原村で生まれ、発見者当麻辰二郎の屋号をとり、長十郎と命名されました。
本町交差点手前を右に入ると川崎稲荷社があります、八代将軍徳川吉宗が紀州から江戸入りの際、この稲荷社地で休息したと云います。
先に進むと右手に砂子の里資料館があります、川崎宿ゆかりの資料や浮世絵が展示されています。 砂子一丁目交差点手前右手が中の本陣跡です、惣兵衛本陣は佐藤、田中両本陣の間に位置することから、通称中の本陣と呼ばれたが、江戸後期に廃業となりました。
スグ先の左に旧橘樹郡役所跡記念碑があります、大正二年(1913)威風堂々とした郡役所が建てられました。 小土呂橋交差点を横断すると右手に小土呂橋親柱が残されています、宿並に交差して新川堀が流れ、小土呂橋が架けられていました。
元禄七年(1694)芭蕉は故郷伊賀上野に向う旅に江戸深川を出立しました、ここまで見送りに来た弟子達と別れを惜しんで、この句を詠んだと云います。 この年芭蕉は大坂で亡くなっています、それこそ最後の別れになってしまいました、享年五十一歳でした、芭蕉さんとはこの後大津でお会いしましょう。
街道は旧市場村に入ります、天文年間(1532〜54)の頃、海産物の市が開かれるようになったところから市場と呼ばれるようになりました。 鶴見村とともに米の粉で餡を包んだ米饅頭〔よねまんじゅう〕が名物で、享和三年(1803)の市場村明細帳には米饅頭屋が四十軒あったことが記されています。
歩道が無い街道沿いに宝暦四年(1754)建立の青面金剛像(庚申塔)が安置されています。 庚申堂横の奥に正一位下町稲荷があります。
街道からの参道は身禄道と呼ばれていました、これは境内に富士塚があり、富士信仰を広めた食行身禄(じきぎょうみろく)像が祀られているからです。 境内には移設された寺尾稲荷道道標や貝塚があります。
商店街を道なりに進み、国道15号第一京浜線を下野谷町入口交差点で横断し、生麦魚河岸通りに入ります。 旧道に入ってスグの鶴見線国道駅は圧巻です、古色蒼然とした雰囲気は異次元です、古(いにしえ)日活の映画撮影のロケ地として度々登場したそうです。 国道駅を過ぎると旧道沿いには魚河岸の店が軒を連ねています、幕府に魚貝類を献上する御菜八ケ村の一つでした。
事件後、イギリス艦隊は報復の為に鹿児島湾に進出し、薩英戦争の火蓋が切られたが、圧倒的な火力の差の前に薩摩藩は敗退してしまいました。 これにより薩摩藩は攘夷実行の不可を悟り、英国と手を結び、軍備の近代化を図りました、やがて同じ脛に傷を持つ長州藩と同盟を結び倒幕の機運は一気に燃え上がりました。 生麦事件発生現場の先を右に入ると御社母子神社(おしゃもじいなりじんじゃ)があります、咳の病に御利益があると伝わっています。
生ビール、グビグビ、そば汁にそば湯を入れて、これ又グビグビです、これで後半戦もOKです。
神奈川産業道路高架をくぐって進み、入江川を入江橋で渡ります、川の手前右手に庚申塔が二基祠に安置されています。 左は邪鬼が陽刻された青面金剛像、右は三猿が陽刻された青面金剛像です。
神奈川東通公園は長延寺跡です、この寺はオランダ領事館となりました、狂歌の一節に「沖の黒船歴史を変えてオランダ領事は長延寺」とうたわれました。
国道の手前を右に進むと高野山真言宗能満寺があります、正安元年(1299)内海新四朗光善というこの地の漁師が海中より拾い上げた高さ五寸(十五センチ)木造坐像の虚空蔵菩薩が本尊です。
道灌は仏を与える際に「海山をへだつ東のお国より、放つ光はここもかわらじ」と詠み、これが寺名の由来になっています。
滝の川公園先の神奈川地区センターには高札場が復元されています、かつては神奈川警察署の西側付近にあったと云います、 尚センター内には神奈川宿のジオラマ(模型)が陳列されています。
慶運寺は別名浦島寺とも呼ばれ浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったと云う観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっています、参道口の亀は竜宮伝来浦島観世音と刻まれた寺標を背負っています。
安政六年(1859)幕府の命により、勝海舟が設計し、伊豫松山藩が構築した海防砲台です、神奈川台場跡碑の後ろに石垣の一部を残しています。
大綱金刀比羅神社はかつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められていました、境内には大天狗の面や弁財天があります。
これは高島嘉右衛門が請負い埋め立てた結果です、これにより埋め立てた地区に高島町の地名を残しています。
上図の通りに大通り(環状1号線)に出て道なりに進みます、歩道には旧東海道プレートが埋め込まれています。
祭礼になると街道の両側には屋台の軒が連なります。
正面の相鉄線天王町駅のガード下をくぐります。
反則センタ−交差点の所に旧中橋跡解説があります、かつて今井川が宿場を横切り、中橋が架橋されていました。
幕府公用の荷物運搬(人馬継立)、書状の通信(継飛脚)等の業務を担っていました。
苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えを行いました。 茶屋町橋を渡ると目の前は保土ケ谷宿の西口です。
往時、宿を出ると境木辺りまで松並木であったと云います。
権太坂の由来には二説あります、旅人が路傍の老人に坂の名を問うたところ、耳の遠い老人は自分の名を聞かれたと思い権太と答えた為と云います。 もう一説は、権左衛門なる者が代官の命によりこの坂をひらいたところから権左坂(ごんざざか)と名付けられましたが、いつしか権太坂になったと云うものです。
権太坂は江戸を出立し、最初の難所でした、又、向かいの品濃坂は江戸に向う最後の難所でした。 この難所で行き倒れになった旅人を埋葬した所です、碑の右には天保九年(1838)建立の三界萬霊馬頭観音、左には宝永七年(1710)建立の青面金剛(庚申塔)が祀られています。
この坂はかつて切通で往時を彷彿とさせる風情があり、好きなポイントでした。 樹木が両側から覆いかぶさっていた為、国土地理院の地図には道路の記載が無いくらいでしたが右(北西)側の切通は造成されてしまいました。
歩道橋を左に下り、右の下り坂に入ります、 先を鍵の手状に坂を下ります、県道218号線高架をくぐり石渡酒店が現れたら正解です。
突当りを左折し、次いで一本目を右折すると突当りに護良親王首洗井戸があります、殺害された親王の首を侍者がこの井戸で洗い清め、王子神社本殿の位置に埋葬したと伝わっています。
突当りの元舞橋手前の十字路を右折し、舞岡川に沿って進みます。
本尊は寛永九年(1632)建立の不動尊です、境内には地蔵堂、日本舞踊芸道精進の扇塚等があります。
しかし降りるは縁起が悪いと、後刷り版では馬に乗る姿に描き直しています。
大磯に居を構えた吉田茂はこの開かずの踏切に業を煮やし、横浜新道をつくらせたと云います、それがゆえに横浜新道はワンマン道路と呼ばれています。 ここが戸塚宿の起点です、本日はここ迄です。
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