道中日記 4-157 東海道 ( 日本橋 - 戸塚 ) 43.2km

 この度、山と渓谷社から

● 新版 ちゃんと歩ける東海道五十三次 東 江戸日本橋〜見
   付宿 +姫街道 五街道ウォーク 八木牧夫著

● 新版 ちゃんと歩ける東海道五十三次 西 見付宿〜京三条
   大橋 +佐屋街道 五街道ウォーク 八木牧夫著

の2冊が再版されました。

再販に際し、東海道全般を歩き直しました、これで6往復達成です。

 やはり歩き直すと市町村合併による町名変更、そしてそれに伴ない信号名の変更、郵政民営化による簡易郵便局の廃止、ガソリンスタンドの廃業等々が顕著です。

意外な現象もあります、時と共に次々と失われた
街道遺構が復活しているのです、昨今のウォーキングブームが各市町村の重い腰を押し上げているのでしょうか。

本マップには
写真の掲載はありません、そこでマップと一体化させる為に本HPでは写真を豊富にアップします。

 是非、出立なさる前に本HPマップを照らし合わせ、街道ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です、それでは出立しましょう。

 日本橋の架橋は徳川家康が江戸幕府を開いた慶長八年(1603)です。

その後、火災等により十九回改築され、現在の日本橋は石造二連アーチの道路橋として明治四十四年(1911)に架橋されたものです。

広重は橋上に「お江戸日本橋七ツ立ち」の毛槍を立てた
大名行列を、そして橋詰の高札場(現花の広場)前に魚河岸で仕入れた魚をかつぐ魚屋を描いています。

現在の
日本橋上には首都高速道路高架が覆いかぶさっています。
東海道五拾三次之内 【日本橋】 朝之景 日本橋

 これは1964年東京オリンピックに間に合わせる為、用地買収のいらない川をルートにしたためと云います。

 現在の橋銘「日本橋」は皮肉にも徳川最後の将軍となった慶喜公の筆によるものです。

橋の青銅装飾の中央の
麒麟は東京の繁栄を、獅子は守護を表しています。

日本橋の東西南北の
橋詰には様々なモニュメントがあります。
日本橋橋銘 麒麟 日本橋橋詰 花の広場

 南詰西は花の広場で高札場跡です、広重もシッカリ描いています、高札場のモニュメントは
日本橋由来碑になっています。

 南詰東は滝の広場になっています、ここは晒し場跡で女犯の僧、密通の男女、心中未遂者等が晒されました。

今でも妖気なものが感じられます、広場の上には番所ならぬ交番があります、何やら因縁めいていますね、広場には
双十郎河岸碑があります。

北詰東は
乙姫広場になっています、ここには日本橋魚市場発祥の地碑があります。
隆盛を極めた魚河岸は、大正十二年(1923)の関東大震災後に現在の
築地に移転しました。
滝の広場 乙姫広場 元禄の広場

 広重はこの魚河岸で仕入れた魚屋を描いています。

北詰西は元禄の広場日本国道路元標のレプリカがあります、本物は橋の中央に設置されています。

日本橋は昔も今も街道の起点です、サア、街道のキングである東海道検証の旅に出立です、日本橋中央の日本国道路元標サイドが出立点です。

 平成20年02月22日 AM 6:53 日本橋出立 品川宿まで 7.4km

 サア、出立です、東海道踏破楽しみでワクワクします。

街道の左側を進みます、日本橋西川を過ぎて、コレド日本橋手前を左に入ると、公園前に
名水白木屋の井戸碑があります。

江戸時代の初め、この地は塩分を含んだ井戸で飲料には適さなかった為、白木屋二代目
大村彦太郎安全が私財を投じ清らかな井戸を掘り当てたものです。

この
白木名水は江戸詰の諸大名の茶の湯に用いられました、ちなみに将軍家の茶の湯は御茶の水です。

日本橋二丁目交差点を越して二本目、りそな銀行東京中央支店手前を左に入ると植栽の中に
秤座跡碑があります。
白木屋の井戸 秤座跡

 秤座は江戸幕府の認可を受けて、全国の秤の量目の統一を図るため、秤の製造、検査、販売等の権利を独占した御用商人です。

 日本橋三丁目交差点内の右手にヤンヨーステン像があります、慶長五年(1600)ウイリアムアダムスと共にリーフデ号で豊後に漂着し、その後徳川家康の信任を得て、この地に屋敷が与えられました。

八重洲の地名は彼の名前に由来しています、ヤンヨーステンが訛って耶楊子(やようす)と呼ばれ、これが後に八代洲(やよす)となり、八重洲(やえす)になったと云います。

ブリヂストン本社を越し、紳士服コナカの手前を左に入り、一本目の十字路を右折すると右手に
歌川広重住居跡解説があります。

広重は嘉永二年(1849)から死去するまでのおよそ十年間をここで過しました。
ヤンヨーステン像 広重住居跡 1kmポスト

  広重は寛政九年(1797)八重洲河岸で生まれました、父は幕府定火消同心でした、十五歳で浮世絵師
歌川豊広に入門し、天保四年(1833)保永堂より東海道五拾三次を出版し、好評を博しました。

京橋交差点を越すと1kmポストがあります、このポスト、この先何かと目安になります、進んできた距離、残り距離、平均速度、平均歩幅、疲れ具合等々です、我々はこの1kmポストを一キロ塚と呼び、重宝しています。

 東京高速道路の銀座京橋高架の手前右手に史跡江戸歌舞伎発祥之地碑があります、寛永元年(1624)中村勘三郎がこの地に中村座を創設しました、これが江戸歌舞伎の始まりです。

後ろには
京橋大根河岸青物市場蹟碑があります、京橋川河岸は大根を中心とした野菜の荷揚げ市場でした。

道路を挟んだ向かいの警察博物館前には
京橋と刻まれた親柱があります。

高架をくぐった右手の交番横には
きやうはしと刻まれた親柱があります。
江戸歌舞伎発祥之地 大根河岸青物市場 京橋跡 京橋跡

 京橋は慶長八年(1603)日本橋と同年の架橋でした。

 銀座京橋高架下左に煉瓦銀座之碑があります、明治五年(1872)銀座は全焼、以降煉瓦(れんが)造二階建の洋風建築となり、煉瓦通りと呼ばれました。

高架下を過ぎると
銀座通り口交差点になり、京橋から銀座に入ります、この先町名は銀座一丁目から銀座八丁目まで続きます。

銀座一丁目交差点を過ぎ、左側ティファニーの前に
銀座発祥の地碑があります、ここが銀座役所跡です。

慶長十七年(1612)徳川幕府はこの地に銀貨幣鋳造の
銀座役所を設置しました、町名は新両替町でしたが、以降銀座町と呼ばれるようになりました。
煉瓦銀座之碑 銀座役所跡 銀座出世地蔵尊

 三越の屋上にはふくよかな銀座出世地蔵尊が安置されています、この地蔵尊は文久元年(1861)三十間堀で出土したものです。

銀座出世地蔵尊の縁日の賑わいは大変なもので、明治、大正、昭和初期にかけて夜店とともに銀座を代表する風俗であったと云います。

 銀座八丁目交差点を左に入ると左側に芝口御門跡碑があります、芝口御門は宝永七年(1710)六代将軍家宣の時、新井白石の建議により朝鮮通信使の入府に備えて国威を顕示するために建設されたものです。

東京高速道路の銀座新橋高架をくぐると左に
新橋親柱があります、芝口御門には芝口橋が架かっていましたが、享保九年(1724)共に火災で焼失となりました。
新たに架橋されたところから
新橋と呼ばれました、しかし芝口御門は再建されませんでした。

隣りには
銀座柳の碑があります、碑には西条八十の詩と中山新平の楽譜が刻まれています。
芝口御門跡 新橋親柱 銀座柳の碑

 碑の傍らには銀座の柳二世が植栽されています。

 ゆりかもめ高架、次いでJRガードをくぐります。

ガード下には直線の歩道が
新設されています、以前は左にかなり迂回させられました、納得できず過去、何度も車道を歩きました、これで納得です!!

ガードを抜けると左手に真新しい
日比谷神社があります、新橋の鎮守です、虫歯虫封じに霊験あらたかと云います。

街道は
新橋から浜松町に入ります、大門交差点を右に入り、芝大門交差点を右に入ると芝大神宮があります。
JRガード 日比谷神社 芝大神宮

 伊勢の内外両宮の分霊を祀っています、境内にはめ組の喧嘩で知られた町火消しめ組が奉納した狛犬や五十貫余りの力石があります。

 芝大門交差点に戻り更に進むと、突当りが増上寺です。

増上寺は徳川将軍家の菩提寺です、境内の霊廟には二代目秀忠をはじめ六将軍や家茂に降嫁した皇女和宮の墓所があります。

神君家康公への崇敬篤かった三代将軍
家光は自ら望み日光東照宮に墓所を定め、他の将軍は上野寛永寺に埋葬されています。
ちなみに最後の将軍
慶喜の墓所は谷中霊園にあります。

大門交差点に戻り街道を進むと左手芝エクセレントビルの植栽の中に
M松町町名由来解説があります。
増上寺 徳川将軍家墓所 濱松町由来解説

 浜松
(遠江国)出身の名主に由来しています。

 浜松町二丁目交差点を過ぎ、首都高速高架下を流れる古川(金杉川)を金杉橋で渡ります。

4kmポストがあります、この辺りに江戸日本橋より数えて一里目の
金杉の一里塚があったと云いますが位置不明です。

渡り詰左に
金杉橋児童公園があります、水場とトイレがあります。

芝四丁目交差点で若干右に進路を変え、芝五丁目交差点を越すと左手に
江戸開城 西郷南州 勝海舟 會見之地碑があります、これは西郷吉之助の書です。
ここは
薩摩藩屋敷跡で、官軍参謀西郷隆盛と幕府陸軍総裁勝海舟江戸無血開城を取り決めた場所です。
金杉橋児童遊園 江戸開城會見地 西郷南洲・勝海舟

 両者の腹づもりは全く相反するものでしたが、欧米列強の進出に対して、国内戦による国力の疲弊を憂いたのかもしれません。

 JR田町駅を過ぎ、三田警察署前の札の辻歩道橋に上ります、東京タワー方面の分岐路は江戸城への筋です。
江戸時代初期、ここに高札場が設けられたところから
札の辻と呼ばれました。

街道右側に聳えるカラフルな三田ツインビル西館の敷地奥に
元和キリシタン遺跡(都旧跡)があります。

三代将軍家光は元和九年(1623)丘の中腹で五十名の
キリシタンを処刑しました。

次いで街道右側段上に
御田八幡神社があります、和銅二年(709)東国鎮護の神として祀られたものです。
札の辻歩道橋 キリシタン遺跡 御田八幡神社

 高輪郵便局を過ぎて、高輪大木戸跡交差点にて左側に進行方向をシフトしましょう。

 歩道正面に高輪大木戸跡の石垣が現れます、歩道はこれを迂回しています。

大木戸は江戸の南口にあたり、天保二年(1831)札の辻から
高札場が移されました。

伊能忠敬は日本全国の測量の基点を定める際、将軍のお膝元である日本橋では恐れ多いと、この大木戸を基点としたそうです。

泉岳寺交差点を右に進むと
泉岳寺があります、播州赤穂家の菩提寺です。
高輪大木戸跡 泉岳寺 赤穂義士の墓

  ここには主君浅野内匠頭の墓の前に赤穂浪士四十七士の墓が並んでいます、境内には大石内蔵助像主税の松吉良上野介の首洗い井戸等があります。

 街道の右側を進むと右手に高輪神社があります、明応年間(1492〜501)稲荷神社として創建され、昭和四年(1929)高輪神社と改称されました、境内には正徳太子を祀った太子堂があります。

高輪二丁目交差点の右手前に
高輪海岸の石垣石があります、江戸時代に海岸に築かれた安山岩の石垣です。

高輪歩道橋手前を右に入ると
東禅寺があります、臨済宗妙心寺派の別格本山で江戸四ケ寺の一つです。
高輪神社 高輪海岸の石垣石 東禅寺仁王門 刀痕

 幕末、当寺は英国公使館となった為、攘夷派の襲撃を受け、庫裏前の柱に刀痕を残しています。

 AM 8:27 品川宿着 川崎宿まで 12.6km

 JR品川駅が品川宿の起点です、これはアクセスや継立の利便性を考慮した為です。

広重は
宿口の左に品川沖を、そして右に宿並に迫る御殿山を描いています、今はこの御殿山も国道や鉄道の敷設で大きく削られ、そして宿並に迫る海岸も埋め立てによって大きく後退しています。

天保十四年(1843)の
東海道宿村大概帳によると品川宿は本陣一、脇本陣二、旅籠九十三軒、宿内人数は六千八百九十人(男三千二百七十二人 女三千六百十八人)でした。

品川宿は桜の名所
御殿山、紅葉の名所海晏寺、潮干狩りの袖ヶ浦等江戸近郊の行楽地として大いに賑わったと云います。
東海道五拾三次之内 【品川】 日之出 広重画

 遊女屋
吉原と双璧をなし、旅人のみならず「品川の客ににんべんのあるとなし」と云われました。

これは「
(にんべん)」と「」の組合せを意味しています、両者を組み合わせれば「(武士)」になり、にんべんを取れば「(僧侶)」になります、つまり芝の僧侶三田の薩摩藩士を指しています。

 起点のスグ先の右手に高山稲荷神社があります、京都伏見稲荷大社の分霊を祀っています。

先に進み八ツ山橋交差点を左折して
八ツ山橋を渡ります。

渡詰を右折します、この角には
旧八ツ山橋の親柱が保存されています。

先の横断歩道を左折して横断します。
高山稲荷神社 八ツ山橋 八ツ山橋親柱 横断歩道

 先に進むと、「従是南 品川宿」「従是南 御代官築山茂左衛門支配地」と記された傍示杭があります、品川宿江戸口です。

 京浜急行線品川第2踏切を渡り北品川本通り商店会に入ります。

北品川どうぶつ病院の角に
問答河岸跡碑があります、往時海側に下った所に品川沖で獲れた魚介類を扱う河岸がありました。

ここで三代将軍
家光と東海寺沢庵和尚が以下の禅問答をしたところから問答河岸と呼ばれるようになったと云います。

家光「海近くして東(遠)海寺とはこれいかに」
沢庵「大軍を指揮しても将(小)軍というが如し」

北品川郵便局を過ぎると、ファミリーマートの所が旅籠
土蔵相模跡です、建物の外壁が土蔵の様な海鼠(なまこ)壁であったことに由来しています。
傍示杭 問答河岸跡 土蔵相模跡

 幕末、長州藩攘夷派の高杉晋作久坂玄随はここで御殿山の英国公使館焼き討ちの密議をこらしています。

 マイバスケット先の右に入る筋が大横町です、御殿山に通じる道筋です。

御殿山には
参勤交代の諸大名送迎の御殿がありました。

御殿山には徳川八代将軍
吉宗の頃に桜が植えられ、名高い桜の名所となりました。

先で左に下る筋は
台場横町です。
大横町 台場横町 利田神社 鯨塚

 嘉永六年(1853)ペリー来航後、江戸防衛の為に
御殿山下台場が築かれ、この台場に通じていました。

台場横町を進むと
利田神社に突き当たります、境内には鯨塚があります。

寛政十年(1798)品川沖に迷い込んだ、体長九間一尺(約16.5m)の
大鯨を漁師が捕獲したものです、江戸中の評判となり十一代将軍家斉も上覧しました。

 次いで右に入る筋が黒門横町です、東海寺に通じる横町です、東海寺の大門が黒塗りであったところに由来しています。

品川宿は宿場内の整備を着々と進めています、宿の北口を整備し、お休み処を設け、通し番号を打った御影石の歴史石柱を随所に配しています、街道ウォーカーにとっては有難いですね。

お休み処の向いが
品海公園です。
黒門横町 品川宿お休み処 品海公園 海岸石垣

 ここには「品川宿 日本橋より「二里 川崎へ二里半」と刻まれた標石があります、とは云うものの正式な一里塚跡ではありません。

公園に沿って下ると民家の石垣があります、江戸時代の海岸石垣です、往時はここまで海が迫っていました、正に広重が描いた通りです。

 公園先を右に入ると浄土宗法禅寺があります、門前には品川小學校發祥之地碑があります。

境内には
流民叢塚碑があります、この碑は天保の大飢饉で亡くなった人達を祀る供養塔です。

更に
法禅寺板碑があります、石造の供養塔です、幕末の品川台場築造の際、御殿山の土取り場から出土したものです。

次いで左に入る小路が
溜屋横町です、法禅寺の前から海岸に出る横町です。
流民叢塚碑 法禅寺板碑 溜屋横町 虚空蔵横町

 先を右に入る小路が虚空蔵横町です、養願寺に通じる横町です、養願寺の本尊虚空蔵菩薩に由来しています。

 虚空蔵横町の向い、宿並に面して一心寺があります、台場築造に際し、国家安泰を祈念して建立されたと云います。

本尊は成田山分身の
不動明王です、そして寿老人(じゅろうじん)を祀っています、福禄寿と同じで東海七福神の一つです。

先で左に入る小路は
竹屋横町です、宿並から目黒川本流に至る横町です。

次いで左に
聖蹟公園が現れます、ここが品川宿本陣跡です。
一心寺 竹屋横町 聖蹟公園 本陣跡

 明治元年(1868)明治天皇行幸の際に行在所(あんざいしょ)になりました。

 山手通り東海道北品川交差点で横断します。

宿並を進むと左手に品川宿交流館
本宿お休み処があります。

品川橋の手前を目黒川に沿って右に入ると
荏原神社があります、品川宿の総鎮守です。

家康より神領五石の
朱印を寄進されていました、境内には明治天皇御東幸内待所奉安所碑があります。
荏原神社 明治天皇碑 目黒川 脇本陣跡

 宿並に戻り目黒川品川橋で渡ります、北品川宿南品川宿の境に当たるところから境橋とも呼ばれました。

渡詰左の城南信用金庫は
百足屋広瀬治兵衛脇本陣跡です。

 橋を渡って一本目を右に曲がると日蓮宗海徳寺があります。

参詣者に配る各種神仏の御影やお札を摺った
版木を二十枚を残しています(品川区指定有形民俗文化財」)。

境内には
軍艦千歳殉難者之碑があります、明治三十九年(1906)品川沖に停泊していた軍艦千歳への通船が突風の為に転覆、千歳の乗組員六十五名、見送人十五名が亡くなりました。
海徳寺 殉難者碑 品川宿の松 問屋場貫目改所

 セブンイレブンを過ぎると右手の児童公園に樹齢約八十年の街道松があります、寄贈されたものです。

南品川一郵便局先の十字路を渡って左の
製果実験社問屋場貫目改所跡です、貫目改所は街道往来の荷物の重量を検査する役所です、東海道では他に駿府草津に設置されました。

 東洋鍼灸院の所に三岳(みたけ)の表示があります、現在の南品川二丁目は三岳と呼ばれていました、これは三岳神社に由来しています。

隣りの児童公園にも寄贈された
街道松があります、ここには水場トイレがあります。

つじ接骨院手前右に天台宗
常行寺があります、山門脇には城南小學校創立之地碑があります。
三岳 街道松 学校跡碑 遠州屋 閻魔堂

 宿並に
遠州屋があります、明治元年(1868)創業で閻魔いなりを商っています、ゴマ一味が入った少しピリ辛のいなりです。

これは横の路地奥の
長徳寺閻魔にちなんでいます、焔魔堂には
南品川の閻魔様と呼ばれる木造閻魔王坐像が祀られています。

 右手奥に朱塗りの山門が見えます天妙国寺です、日蓮の直弟子天目上人の開基です、家康の江戸入府の際、当寺に宿泊し、その縁により寺領が与えられたと云います。

墓所には
お富与三郎、一刀流の開祖伊藤一刀斎、浪花節(浪曲)の名手桃中軒雲右衛門等の墓があります。

次いで右手奥に
諏訪神社があります、天妙国寺を開基した天目上人が生国信州の諏訪神社を勧請しものです。
天妙国寺 伊藤一刀斎墓 諏訪神社 幕府御用宿釜屋跡

 池上通りを横断して進みます。

品川寺の向いのガーデンホーム南品川マンションが
幕府御用宿釜屋跡です、本陣並みの格式を備えていました、
鳥羽伏見の戦いに敗れた新撰組隊士達は品川に上陸後、しばらくここに滞在したと云います、解説板には新選組副長土方歳三の肖像写真が焼き付けられています。

 釜屋跡の向いが品川寺(ほんせんじ)です、参道口左手に江戸六地蔵第一番が鎮座しています、宝永五年(1708)鋳造の青銅製です。

日本橋を起点とする諸街道の第一番目の宿に造立され、旅人の安全を祈っています。

山門脇の
大イチョウは幹回り5.35m、樹高25mで推定樹齢は約六百年です。

境内には
洋行帰りの鐘があります、幕末、パリ万国博覧会(1867)に出展されが、その後行方不明になってものです。
江戸六地蔵 大イチョウ 洋行帰りの鐘

 その後、スイスのジュネーブの博物館で発見され昭和五年(1930)数奇な運命を辿った鐘は無事戻りました。

 次いで右手に海雲寺千躰荒神があります、山と渓谷社マップは海晏寺になっています、海雲寺の間違いです。

山門を入って右手が本堂で本尊の
十一面観音像を安置しています。

左手が
千躰荒神堂です、品川の荒神さんとして知られ、の神で台所の神として親しまれています。

堂内に懸けられている
扁額は信徒の奉納によるもので、全部で二十七枚あります。

境内に
平蔵地蔵があります、昔、鈴ケ森刑場の番をしていた三人の乞食がいました。
千躰荒神堂奉納扁額 平蔵地蔵

  その中のひとり平蔵財布を拾い、持主に返したが礼を受け取らなかった、仲間はこれを怒り、小屋から追出し凍死させてしまった。

これを知った財布の持主は平蔵の遺体を引き取り埋葬し、供養に
地蔵を安置したものです。

 右手に紅葉の名所海晏寺への寺標が二基あります、背の高い方には贈太政大臣岩倉公御墓参拝道と刻まれ、背の低い方には鮫洲正観世音菩薩道と刻まれています。

海晏寺に向って進むと左手に
稲荷神社があります、伏見稲荷大明神を勧請したもので、商売繁盛が祈願されています。

国道15号線第一京浜を横断すると曹洞宗の
海晏寺があります。

建長三年(1251)に品川の漁師の網にかかった
の腹中から出た木造の聖観音像を祀ったのが始まりです。
海晏寺寺標 稲荷神社 海晏寺

 文禄二年(1593)徳川家康の手によって再興されたた寺です。

 都道420号線を横断すると東大井に入り、街道は鮫洲商店街通りとなります。

京浜急行線鮫洲駅方面に入ると
八幡神社があります、漁師町鮫洲の鎮守です、腹中から聖観音像が出た鮫の頭を祀っています。

右手の
たけのこせんべい大黒屋手前を右に入ると仲町稲荷神社があります、神社横の広場には坂本龍馬像があります。

ペリーが来航した嘉永六年(1853)
土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷警備の為、江戸詰めの藩士を動員しました、江戸で剣術修行中の龍馬もその中に加わっていました。
鮫洲八幡神社 坂本龍馬像 立会川

 立会川に架かる浜川橋を渡ります、鈴ヶ森の仕置場で処刑される罪人はこの橋で身内の者と涙の別れをしたところから涙橋とも呼ばれました。

 橋を渡ると南大井に入り、右手に天祖諏訪神社があります、旧大井村の鎮守です。

鈴ケ森中学校の向いに
濱川神社があります、天明年間(1781〜89)に修験者が厄神大権現(やくじん)として祀ったことに始まります。

国道と旧道が合流する地点に
鈴ヶ森刑場跡があります。
天祖神社 濱川神社 鈴ケ森刑場跡 磔台 火炙台

 
ここには処刑者を供養する題目供養碑がたち、処刑台を残しています。

磔台
の土台は四角にくり貫かれています、これは磔の角材を立てるためです、火炙台の土台は丸くくり貫かれています、これは燃えない鉄管を立てるためです、恐ろしいですね。

ケンペル江戸参府紀行の中で仕置場の有様を「首を切り離した胴体を家畜の腐肉の中に打ち捨てられ、痩せた野犬が喰い散らかしている」と著しています。

 街道は鈴ケ森刑場跡の先で首都高速道路下の交差点を渡り、国道15号第一京浜線に合流します、京方面からは斜め右に入ります。

京急本線大森海岸駅を過ぎると右手に
磐井神社があります、貞観元年(859)この神社を武蔵国の八幡社の総社に定められました。

別名
鈴ケ森八幡と呼ばれ、叩くと鈴の音がする鈴石(非公開)があり、これが鈴ケ森の地名由来になっています。

国道沿いに
磐井の井戸があります、霊水薬水と呼ばれ、心正しければ清水、心邪ならば塩水と云われました。
鈴ケ森口 磐井神社 磐井の井戸

 磐井神社の向いは平和島競艇場です、レース開催時は辺りにボートのエンジン音が轟き渡ります。

 平和島口交差点を過ぎたら、大森海岸交番左の三原通り(仲町商店会)に入ります、京方面からは国道に合流します。

大森スポーツセンターの前には
旧東海道標石があります、「美原通り 至六郷 至品川」と刻まれています。

美原は品川宿と川崎宿の中間に位置し
間の宿でした、海苔麦わら細工大森和中散が名物でした。
美原通り口 旧東海道標石 美原不動尊 生長地蔵菩薩

 美原は旧大森村の小字である北原中原南原三原と呼び、いつしか美称化され美原になったと云います。

美原通りを進むと右手に
美原不動尊があります、本尊は不動明王です、境内には生長地蔵菩薩が安置されています。

 都道318号環七通りを越すとミハラ南商店街になります。

内川に架かる内川橋を渡ると斜め左に入る筋があります、旧羽田村に通じる羽田道です、橋の袂には旅籠駿河屋があったところから、するがや通りとも呼ばれました。

羽田村源義朝が平清盛に敗れた平治の乱(1159〜60)の後、源氏の落武者七人が羽田浦に漂着し、村を開いたことを始まりとしています。

内川橋の先で旧道は国道15号第一京浜線から分岐した産業道路に突き当たります。
内川 するがや通り 大森警察署前

 本来は直進(黄色矢印)ですが、一旦左に回り込み(白色矢印)、信号交差点にて産業道路を横断し、デニーズの前で国道15号線に合流します。

 大森警察署はかつて大森村(町)役場でした、裏(産業道路側)に碑が二基あります。

左の碑は
丁丑之役戦死並従軍者記念碑です、大森村から西南の役に従軍した兵士の記念碑です。

右は同様に大森村から
日清戦争に従軍した兵士の記念碑です。
従軍兵士記念碑 貴舩神社 閻魔地蔵堂 閻魔大王像・地蔵尊

  街道を進むと右手に貴舩神社があります、大森村のうち東海道に面した本宿の鎮守でした。

神社隣の敷地に
小堂があります、堂内には寛文五年(1665)造立の延命地蔵尊閻魔大王像が安置されています。

 京浜急行線梅屋敷駅交差点を越すと、大森から蒲田に入ります。

新しくなった大田区立総合体育館の向いが
梅屋敷公園です、ここが梅屋敷跡です、道中薬和中散を商った山本家が屋敷内に多数の梅を植え開いた茶屋です、シーボルト将軍そして明治天皇(明治天皇行幸所鎌田梅屋敷碑)まで立寄っています。

呑川夫婦橋で渡ります、京急蒲田駅を過ぎると羽田空港線高架をくぐります、以前は京急蒲田(空)第一踏切国道15号線を分断していました。
梅屋敷跡 明治天皇碑 呑川 京急空港線高架

 この踏切は箱根駅伝で有名でした、選手通過の際、電車の方を止めていました。

 東六郷一丁目交差点を過ぎると右手に熊野神社があります、境内には力石があります、その昔近郷近在の若者達が祭礼の時に力比べをした石です。

東六郷三丁目交差点を過ぎると左手に
六郷神社があります、六郷一円の総鎮守です。

源頼義義家親子が天喜五年(1057)奥州征定に際し、この地の大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢を募り、岩清水八幡に武運長久を祈ったところ、前九年の役に勝利を納め、その分霊を勧請し創建されたものです。
熊野神社 力石 六郷神社 狛犬

  その後頼朝が社殿を造営し、家康は十八石の朱印地を寄進しています。

境内にあるユーモラスな表情をした
狛犬は貞享二年(1685)六郷中町の有志が奉納したもので、区内最古の狛犬です。

 六郷神社前から斜め左の旧道(細道)に入ります。

先の左手に日蓮宗
観乗寺があります、寛永元年(1624)の創建です、境内には枝垂れ桜があります。

旧道を進み土手手前の歩道橋(白色矢印)で
六郷橋上に出ます。

歩道橋先の突当りを右折して、六郷橋をくぐった先に
北野天神があります。
六郷神社前旧道 観乗寺 六郷橋口 北野天神

 落馬止め天神と呼ばれています、八代将軍徳川吉宗の乗馬が暴走した際に落馬を止めたと云います。

六郷橋の左側(東側)歩道で多摩川を渡ります、この左側が六郷の渡し跡です。

 AM 11:24 川崎宿着 神奈川宿まで 8.9km

 当初、六郷川(多摩川)には六郷大橋が架橋されていた為、江戸に近い川崎宿は通過客ばかりではなはだ振るわない宿でした。

元禄元年(1868)洪水により
大橋は流失、これを機に本陣問屋を勤める田中丘隅は道中奉行に舟渡を願い出たところ、江戸防衛上からも利があると許可されました。

これにより
川崎宿渡しを控えた宿として大いに賑わったと云います、これをもって田中休愚は川崎宿中興の祖と云われています
東海道五拾三次之内 【川崎】 六郷渡舟 六郷の渡し場跡

 天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によれば宿内家数は五百四十一軒、うち本陣二、脇本陣ナシ、旅籠七十二軒で宿内人口は二千四百三十三人(男千八十人 女千三百五十三人)でした。

広重は川崎宿の舟渡し風景、そして川崎宿の舟会所を描いています。

 今は六郷川(多摩川)を六郷橋で渡ります、六郷川は、多摩川の下流の別称で、多摩川が荏原六郷を流れる時にこの名となりました。

渡り詰の欄干には
渡舟のモニュメントが飾られています。

渡詰の袂には
明治天皇六郷渡御碑があり、舟橋のレリーフがはめ込まれています、明治元年(1868)東京行幸の際、二十三艘の舟を並べて船上に板を敷いた舟橋を架けました。

他に
厄除川崎大師燈籠長十郎梨のふるさと解説があります。
渡舟モニュメント 六郷渡碑 川崎大師燈籠 長十郎梨

 明治の中頃、病害に強く甘い梨の新種が大師河原村で生まれ、発見者当麻辰二郎の屋号をとり、長十郎と命名されました。

 橋横を進み最初の十字路を旧東海道標識に従って右折し、六郷橋をくぐります。

この十字路の左に
万年横丁・大師道標石があります、左に入ると真言宗の古刹川崎大師に至ります、沿道に果物を並べて売る農家が多かったと云います。

橋下を抜けると
旅籠街解説があります、この解説の向い辺りが、名物奈良茶飯で有名だった旅籠万年屋跡です、幕末アメリカ領事のハリスはここに宿泊しています。
六郷橋南側トレース 万年横丁 万年屋 川崎稲荷社

 本町交差点手前を右に入ると川崎稲荷社があります、八代将軍徳川
吉宗が紀州から江戸入りの際、この稲荷社地で休息したと云います。 


 本町交差点手前に稲荷横丁標石があります、川崎稲荷社前の横丁で馬の水飲み場がありました。

この辺りは新宿(しんじゅく)です、川崎宿は
砂子(いさご)、小土呂久根崎新宿の四町で構成されていました、宝暦十一年(1761)の大火小土呂から六郷渡し場までが全焼してしまい、宝暦以前の文献は見当たらないと云います。

宿並は
本町交差点を直進します、交差点の両側には旧東海道標石があります。
稲荷横丁 旧東海道標石 田中本陣跡 助郷会所跡

 本町一丁目交差点を越すと右手に田中本陣跡があります。

下の本陣と呼ばれました、幕末になると衰え、ハリス田中本陣の荒廃ぶりを見て、宿を万年屋に変えています。

左手の鍋屋横丁を越すと和菓子東照の所が
助郷会所跡です。

宿場に常備する
伝馬人足が不足する場合、近在農村より徴用された人馬(助郷)がここに集められました。

東照では旅籠万年屋の名物「奈良茶飯」を現代風にアレンジした「奈良茶飯風おこわ」が賞味できます、お奨めです!
東照の「奈良茶飯風おこわ」

 ホットモットの角を右に入ると浄土宗一行寺があります、川崎宿の整備が進む頃に開創し、閻魔信仰で大いに賑わい、また非常の際は、田中本陣の避難所にも当てられていました。

次いで右手に曹洞宗
宗三寺があります、中世の河崎庄において信仰を集めた勝福寺の後見とみられる宿内一の古刹です。

墓所奥に川崎宿貸座敷組合の建立した
遊女の供養碑があります。
一行寺 宗三寺遊女供養碑 砂子の里資料館 中の本陣跡

 先に進むと右手に
砂子の里資料館があります、川崎宿ゆかりの資料や浮世絵が展示されています。

砂子一丁目交差点手前右手が
中の本陣跡です、惣兵衛本陣は佐藤、田中両本陣の間に位置することから、通称中の本陣と呼ばれたが、江戸後期に廃業となりました。

 中の本陣の向いのセブンイレブンが問屋場跡です、伝馬人足、飛脚、本陣の休泊などの宿場業務を監督し、約三十名の問屋役人が昼夜交代で勤務し、その職務は繁忙を極めたと云います。

砂子交差点を横断すると左の川崎信用金庫本店の前に
佐藤惣之助生誕の地碑があります、ここが佐藤本陣跡上の本陣跡と呼ばれました、十四代将軍徳川家茂は上洛の際に宿泊しています。
問屋場跡 上の本陣跡 旧橘樹郡役所跡碑 小土呂橋跡

 スグ先の左に旧橘樹郡役所跡記念碑があります、大正二年(1913)威風堂々とした郡役所が建てられました。

小土呂橋交差点を横断すると右手に小土呂橋親柱が残されています、宿並に交差して新川堀が流れ、小土呂橋が架けられていました。

 繁華街の宿並を進み、ナイトパブプレステージの角を右に入ると浄土宗教安寺があります、梵鐘は江戸時代に鋳造されたものです。

信号交差点を横断すると右手のコインパ−キングに関札のモニュメントがあります、ここが
川崎宿京口(西口)です。

幕末になるとここに外人警護の為に
第一関門が設けられ、以下保土ケ谷宿まで十九ケ所の関門が設置されました。

川崎警察署東側入口交差点を横断すると日進町に入ります。

八丁畷駅手前に芭蕉句碑「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」があります。
教安寺 川崎宿京入口 芭蕉句碑

 元禄七年(1694)芭蕉は故郷伊賀上野に向う旅に江戸深川を出立しました、ここまで見送りに来た弟子達と別れを惜しんで、この句を詠んだと云います。

この年芭蕉は大坂で亡くなっています、それこそ最後の別れになってしまいました、享年五十一歳でした、芭蕉さんとはこの後大津でお会いしましょう。


 芭蕉句碑の先で旧道は京浜急行線敷設で消滅しています、 京急八丁縄手駅前の踏切を横断し、左折すると旧道に復帰します。

駅裏に
供養塔があります、この辺りでの道路工事の際、多数の人骨が発見されたといいます。

八丁畷とは長い直線道を意味しています、八丁は実際の長さではなく長さを強調し、畷(縄手)は縄をピーンと張った直線を意味しています。

八丁畷は松、杉、榎の並木道でしたが、今はカリンの並木道になっています、季節になるとたわわに実をつけます。
八丁畷踏切 慰霊塔 八丁畷

 街道は旧市場村に入ります、天文年間(1532〜54)の頃、海産物の市が開かれるようになったところから市場と呼ばれるようになりました。

鶴見村とともに米の粉で餡を包んだ米饅頭〔よねまんじゅう〕が名物で、享和三年(1803)の市場村明細帳には米饅頭屋が四十軒あったことが記されています。

 市場東中町に入ると熊野神社があります、徳川家康が江戸入りに際して武運長久を祈願しました。

社殿は立派なのですが、残念ながら境内は荒れた感じです。

市場西中町に入ると
市場村の一里塚があります、江戸日本橋より数えて五里目です、碑の裏には男女双体の道祖神塚上には稲荷社が祀られています。
熊野神社 市場村の一里塚 庚申堂 下町稲荷

 歩道が無い街道沿いに宝暦四年(1754)建立の青面金剛像(庚申塔)が安置されています。

庚申堂横の奥に
正一位下町稲荷があります。

 鶴見川手前の右手に真言宗智山派光明山金剛寺があります、玉川八十八ヶ所霊場第十一番・東国八十八ヶ所霊場第十番・東海三十三ヶ所観音霊場第九番の札所です。

暴れ川であった
鶴見川鶴見川橋で渡ると旧鶴見村に入ります。

往時、橋上からは
大山箱根連山が望める風光明媚な所で、茶屋があり賑わったと云います。

橋を渡ると左手に
鶴見橋関門旧跡があります、安政六年(1859)横浜開港とともに神奈川奉行所は外国人警護の為に関門を設け、厳しく取り締まりを行いました。
金剛寺 鶴見川橋 関門跡

 信号交差点の十字路を右に進む筋が寺尾稲荷道です、ここには寺尾稲荷道道標(複製)があります、「馬上安全」「従是廿五丁」と刻まれています。

寺尾稲荷社(現馬場稲荷社)は馬術上達馬上安全の祈願で知られ、江戸からの参拝者が多かったと云います。

鶴見駅東口入口交差点を横断した先の右手に
鶴見神社があります、旧鶴見村の鎮守です。

創建は千四百年前の推古天皇時代で、武州最古の神社です。
寺尾道道標 鶴見神社 富士塚 寺尾道道標

 街道からの参道は
身禄道と呼ばれていました、これは境内に富士塚があり、富士信仰を広めた食行身禄(じきぎょうみろく)像が祀られているからです。

境内には移設された
寺尾稲荷道道標貝塚があります。

 鶴見神社参道口のらーめん設楽茶屋の所が信楽茶屋跡です、鶴見村は立場で、その中でも最も大きな茶屋でした、竹の皮に包んだ梅干が名物であったと云います。

右手のファミリーマートが入るマンションが
名主佐久間家跡です、鶴見村の名主を勤め、屋敷には玄関式台を備えていました。

街道は鶴見駅前歩道橋下をくぐり、交差点を横断すると、
京急鶴見駅に突き当たります。

左折し、一本目
を右折してBELL ROAD商店街に入ります、この道筋が旧東海道です。
信楽茶屋 名主佐久間家跡 鶴見駅前歩道橋

 商店街に入ると、右のパン屋さんの角にサボテン茶屋跡碑があります、石碑には「旧東海道鶴見 覇王樹茶屋跡 みぎひだり つのを出して世の中を 見たるもおかし さぼてんの茶屋」と刻まれています。

力餅が名物の茶屋でしたが、主が長崎から持ち帰った
サボテンが大きく育ち有名になったと云います。

小路を挟んだ隣のマルハチは
鶴居堂(かっきょどう)跡です、咳の特効薬苦楽丸で知られた黒川四朗左衛門の屋敷跡です。

鶴居堂の名はある日、四羽の
丹頂鶴が屋敷の庭先に舞い降りてきたことに由来しています。
サボテン茶屋跡 鶴居堂 国道駅

 商店街を道なりに進み、
国道15号第一京浜線下野谷町入口交差点で横断し、生麦魚河岸通りに入ります。

旧道に入ってスグの
鶴見線国道駅は圧巻です、古色蒼然とした雰囲気は異次元です、古(いにしえ)日活の映画撮影のロケ地として度々登場したそうです。

国道駅を過ぎると
旧道沿いには魚河岸の店が軒を連ねています、幕府に魚貝類を献上する御菜八ケ村の一つでした。

 生麦の地名は二代将軍徳川秀忠の通行の際、ぬかるんでいた道に生麦を刈り取って敷いたところに由来しています、生麦村は間の宿でした。

河岸通りを進むと右手に
子育地蔵尊があり、横の参道奥には浄土宗慶岸寺があります。

先の
道念稲荷神社には蛇(じゃ)も蚊(か)もが伝わっています、悪疫が流行った時、で作った蛇体に悪霊を封じ込め海に流したことに始まります。
子育地蔵尊 慶岸寺 道念稲荷参道 道念稲荷神社

 河岸通りを進むと右手住宅のフェンスに生麦事件発生現場解説があります。

生麦事件は明治維新の起爆剤になった象徴的な事件と云われています。

リチャードソン一行は乗馬で川崎大師に向っていました、これは欧米式のピクニックです。

生麦村で
薩摩藩島津久光の行列と遭遇し、生麦事件発生現場の所で列を乱したとして薩摩藩士に斬りつけられ、一行は引き返し逃げましたが、リチャードソンは腸がはみ出る程の深手を負ったと云います。

示現流
の薩摩藩士に、例のチェーストの気合で斬られたら堪りません
生麦事件発生地 御社母子神社

 事件後、イギリス艦隊は報復の為に鹿児島湾に進出し、薩英戦争の火蓋が切られたが、圧倒的な火力の差の前に薩摩藩は敗退してしまいました。

これにより薩摩藩は
攘夷実行の不可を悟り、英国と手を結び、軍備の近代化を図りました、やがて同じ脛に傷を持つ長州藩と同盟を結び倒幕の機運は一気に燃え上がりました。

生麦事件発生現場の先を右に入ると御社母子神社(おしゃもじいなりじんじゃ)があります、咳の病に御利益があると伝わっています。

 サア、昼食にしましょう、先の信号交差点を右折するとめん処やじまがあります。

このお店はスピードが売り物です、オーダーを入れトイレで小用を済ませて戻るとテーブルには食事が出ています、街道ウォークには打って付けのお店です。

従って生ビールを3/4ほど飲み干してからオーダーを入れるのが
コツです、相変わらずセット物です、日頃セット物は食しませんが、街道ウォークは別腹です、体が要求します。
めん処やじま 生ビール カレーライス & 蕎麦セット

生ビール、グビグビ、そば汁にそば湯を入れて、これ又グビグビです、これで後半戦もOKです。

 県道6号東京大師横浜線を横断して、クリーニングみほた先を右に入ると神明社があります。

祭神は
天照大神です、ここも蛇も蚊も神事が行われます、境内の隅には三猿が陽刻された青面金剛像が安置されています。

キリンビール横浜工場に沿って進むと右手に
生麦事件碑があります、本来の位置は旧道(生麦魚河岸通り)と国道15号第一京浜線の合流点にありましたが、横浜環状北線建設工事の為現在地に仮設置されています。

この位置はリチャードソンがここまで逃れてきたが、ついに落馬し、追い付いた薩摩藩士がとどめを刺した所です。
神明社 青面金剛像 生麦事件碑

 旧道は生麦一丁目交差点で国道に合流します、京方面からは斜め右のキリンビール工場に沿う旧道に入ります。

国道に合流した先に
キリンビール工場の入口があります、明治三年(1870)米国人コープランドにより横浜山手に初めて醸造所が造られたところから横浜は日本のビール発祥の地と云われます。

ビール工場見学後におつまみ付きで造りたての
グラスビールが2杯試飲できます、但し要予約です(045−503−8250)。

JR線高架及び首都高速横浜環状北線高架をくぐった先の左手
伊澤造船所一里塚標識があります。
信号生麦一丁目 キリンビール横浜工場 東子安一里塚跡

 東子安の一里塚跡です、北塚は榎、南塚は松でした、江戸日本橋より数えて六里目です、標識は平成二十八年四月にNPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会によるものです。

次いで左手の
横浜石油企業横の奥に才兵衛稲荷が祀られています。

浄財の金を預かったが、子安の茶屋に立寄ったところ、金を紛失してしまい、僧は落胆の余り、海に身を投げ、自ら命を絶ってしまったと云います、その死体は何度沖へ運んでも茶店の裏へ流れ着いてしまい、不憫に思った村人がこの浜辺に稲荷社を建てて祀ったと云います。

この地では神前であるにもかかわらず
線香をあげる習慣があると云います。
東子安の一里塚跡 才兵衛稲荷

 スグ先の子安通り交差点を横断し、少し進み右手京急生麦4踏切を渡ると密厳山遍照院があります、境内には六地蔵や横浜市銘木古木指定タブノキがあります。

再び街道の左側に移り、子安ランプ入口交差点を越すと左手マンションの敷地に
西洋野菜栽培とトマトケチャップのふるさと解説があります。

安政六年(1859)横浜開港により
西洋野菜が流入し、慶応二年(1866)子安村の提春吉が西洋野菜の栽培を手掛け、明治二十七年(1894)地元の清水興助がトマトケチャップ製造会社清水屋を開業しました。
遍照院 タブノキ 西洋野菜碑 青面金剛像

 神奈川産業道路高架をくぐって進み、入江川を入江橋で渡ります、川の手前右手に庚申塔が二基祠に安置されています。

左は
邪鬼が陽刻された青面金剛像、右は三猿が陽刻された青面金剛像です。

 PM 1:57 神奈川宿着 保土ヶ谷宿まで 5.1km

 京浜子安駅を過ぎると、行列の出来る繁盛ラーメン店大勝軒があります、この角を右に曲がると神奈川通東公園があります。

この公園の角辺りは神奈川宿の
土居(桝形)です、街道を桝形状に屈曲させ、高さ2.5m程の土居が築かれ、その上に0.75mの竹矢来が組まれていました。

ここが神奈川宿の江戸方見付(東口)です、神奈川宿到着です。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によれば神奈川宿の宿内家数は千三百四十一軒、うち本陣二、脇本陣ナシ、旅籠五十八軒で宿内人口は五千七百九十三人でした。

安政六年(1859)日米修好通商条約の締結にともない、横浜村開港されると、神奈川宿内の寺院は諸外国の領事館にあてがわれました。
土居(桝形) 長延寺跡

 神奈川東通公園は長延寺跡です、この寺はオランダ領事館となりました、狂歌の一節に「沖の黒船歴史を変えてオランダ領事は長延寺」とうたわれました。

 国道はラーメン街道です。

出田町入口交差点を過ぎると右手に真宗大谷派
良泉寺があります、幕末、幕府より外国領事館指定の通達がありましたが、住職は本堂の屋根をはがし修理中との理由で断わったと云います、小気味良いですね「毛唐(けとう)に貸す本堂はねぇ」です。

良泉寺角から右に入り、京浜急行線高架をくぐると笠のぎ稲荷神社があります、「のぎ」は「禾」偏に「皇」と書きますがフォントにありません、この神社は霊験あらたかで社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるところから笠脱(ぬぎ)稲荷大明神とも呼ばれたと云います。
良泉寺 笠のぎ稲荷神社 能満寺

 国道の手前を右に進むと高野山真言宗能満寺があります、正安元年(1299)内海新四朗光善というこの地の漁師が海中より拾い上げた高さ五寸(十五センチ)木造坐像の虚空蔵菩薩が本尊です。

 能満寺の隣に神明宮があります、能満寺の草創と同じ正安元年(1299)の勧請です。

かつては
能満寺と同一境内地にあったが、神仏分離令で分かれています。

そのまま進むと神奈川小学校に突き当たります、左折して先を右に回り込みます、この角に
東海道分間延絵図の神奈川宿部分のレリーフがあります。

そのまま進むと真言宗智山派東光寺があります、この寺の本尊は太田道灌の守護仏でしたが、小机城攻略後、平尾内膳が賜り、この寺を創建しました。
神明宮 東海道分間延絵図 東光寺

 道灌は仏を与える際に「海山をへだつ東のお国より、放つ光はここもかわらじ」と詠み、これが寺名の由来になっています。

 神奈川二丁目交差点が神奈川宿の起点です、右(北西)側に京浜急行線仲木戸駅、少し先にJR東神奈川駅があります。

上無川は神奈川宿内を流れる小溝で、水量が少なく、水源が定かでないところからカミナシガワと呼ばれ、を略してカナガワとなったと云います。

折角ですから、神奈川宿内の
旧所名跡神社仏閣をご紹介しましょう。
神奈川宿起点 神奈川宿の旧所名跡神社仏閣

熊野神社は寛治元年(1087)権現山(現幸ケ谷山上)に創建され、正徳二年(1712)山上が崩壊した為、金蔵院の境内地に移転しました、神奈川郷の総鎮守です。

大きな一対の狛犬は嘉永年間(1848〜54)の建立、鶴見村の石工飯島吉六の作です、躍動感に満ちた力作です。

金蔵院は家康から十石の朱印地を許され、かつて家康の御手折があり、毎年一月、当院の住職がこの梅の一枝を携えて登城すのが慣わしであったと云います。
熊野神社の狛犬 金蔵院 高札場

 滝の川公園先の
神奈川地区センターには高札場が復元されています、かつては神奈川警察署の西側付近にあったと云います、 尚センター内には神奈川宿のジオラマ(模型)が陳列されています。

成仏寺は開港時、ヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士の宿舎になりました。

このお寺には浦島太郎伝説にちなむ涙石があります、
太郎はこの岩の上でさめざめと泣いたと云います。

成仏寺向かいの滝の川公園には明治天皇行在所之蹟碑があります。

滝の川沿いには亀がデザインされた
ポールが連なっています、これに従って進むと慶運寺に至ります、開港当初フランス領事館となりました。
成仏寺 明治天皇碑 亀甲ポール 慶運寺

 慶運寺は別名浦島寺とも呼ばれ浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったと云う観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっています、参道口の竜宮伝来浦島観世音と刻まれた寺標を背負っています。

 滝の川沿いに国道まで戻ると突当り左の小野モータース及びチーズケーキ屋辺りが神奈川町本陣跡です、代々石井源左衛門が勤めました。

滝の橋を渡り右折して、突当りを左に進むと日蓮宗
浄瀧寺があります、イギリス領事館になりました。

元に戻り国道手前を右に入ると曹洞宗
宗興寺があります、米国宣教師で医師のヘボン博士施療所跡です。
神奈川町本陣跡 滝の川 浄瀧寺 宗興寺

  宗興寺脇に大井戸があります、東海道の名井戸に数えられ、又、この井戸の水量の増減により翌日の天気が分かるところからお天気井戸とも呼ばれました。

幸ケ谷歩道橋を渡ると
ランドシティ横濱ポートサイドマンション辺りが青木町本陣跡です、代々鈴木源太左衛門が勤めました。

国道を江戸方面に戻り、
滝の橋を渡り、一本目オノトー薬局を右折し、突当りを左折すると神奈川台場跡があります。
神奈川の大井戸 青木町本陣跡 神奈川台場 神奈川台場

 安政六年(1859)幕府の命により、勝海舟が設計し、伊豫松山藩が構築した海防砲台です、神奈川台場跡碑の後ろに石垣の一部を残しています。

 国道に戻り、更に江戸方面に向かうと神奈川署交差点を過ぎて、一本目を右折すると宿場そば東があります、宿場そばはもり&かき揚げセットで650円です。

ちなみに青木町本陣跡前の
中央市場入口交差点を左折(南東)し500m行くと横浜市中央市場があります、お時間に余裕があればここでの食事は一興です。

向って右が
水産部です、この中のもみじやおまかせ定食はお刺身てんこ盛りにウニが一舟ついて1,000円です。
伊豆屋穴子天定食がお奨めです、お皿から穴子のテンプラがはみ出しています。

神奈川のご案内もこのぐらいにして
街道ウォークに戻りましょう、幸ケ谷歩道橋を渡り、国道の右側に復帰します、スグ先で宮前商店街に入ります。
宿場そば 宮前商店街

 旧道に入ると右手に洲崎大神があります、建久二年(1191)源頼朝が安房国一宮の安房神社を勧請したものです。

鳥居前が
神奈川湊でした例のリチャードソン一行横浜村から渡船に乗りこの湊に上陸しました、は馬子達が野毛山を越えて回してきました、一行はここから馬上の人となりました、この時はこの先の事件など夢想だにしなかったことでしょう。

先を右に入り坂を上ると
幸ケ谷公園です、桜の名所です。
往時は
熊野神社が鎮座していたところから権現山と呼ばれました、永正七年(1510)ここで上杉方北条方の合戦が行われ北条方が敗退しています。
洲崎大神 権現山合戦跡 幸ケ谷公園の桜

 次いで右手に真言宗智山派普門寺があります、洲崎大神の別当寺です、開港当時イギリス士官の宿舎となりました。

次の筋を右に入ると浄土真宗高田派
甚行寺があります、開港時フランス公使館となりました、関東大震災で倒壊、空襲で全焼し、本堂山門は鉄筋コンクリート造りになっています。

宮前商店街先の旧道は鉄道の敷設で消滅しています、青木橋交差点を信号に従って迂回します。

橋の上から斜め右(北)の台上に見えるお寺は本覚寺です
普門寺 甚行寺 本覚寺

 本覚寺は開港当時アメリカ領事館になりました、領事館時代に山門は白ペンキを塗られてしまったと云います、唐獅子の彫り物に痕跡を残しています。

これが日本で初めてペンキが塗られた純日本建築と云われ、これが縁で
全国塗装業者組合合同慰霊碑が山門のすぐ近くに建てられました。

生麦村で殺害された
リチャードソンの遺体はここ本覚寺に運び込まれました、検死の後、斬り跡を縫合したのはヘボン博士です。

境内に横浜市名木古木指定の
イチョウがあります、季節になると歩道側に銀杏の実を降らせます、辺り一面は強烈な香りに包まれます。
白ペイント跡 塗装業者慰霊碑 大イチョウ

 当時ここは開港場の横浜村迄の海が一望できる絶景ポイントでした、アメリカは開港の立役者だけに良いポジションを陣取っていますね。

それでは少し寄り道をしましょう、本覚寺の参道階段を下って右の上り坂を上ります、左手に空中寺院である浄土宗瑠璃光山
三宝寺があります。

本尊は
弘法大師作と伝わる薬師如来立像でしたが、空襲で焼失してしまいました。

坂を上り切ると
鉄道の開通と埋立解説があります、明治二年(1869)新橋横浜間の鉄道敷設に際し、高島嘉右衛門が請負い、青木町から野毛浦まで弓なりに延びる埋立を完成させました。
本覚寺からの景 三宝寺 鉄道の開通と埋立

 突当りのY字路右手に高島山公園があります、園内には望欣台の碑があります。

碑は
高島嘉右衛門を顕彰するものです、嘉右衛門は高島台に別邸を建て、港内の繁栄と事業の功績を望み、ひとり欣然として心を癒したいということから、望欣台(ぼうきんだい)と命名しました。

園内の外れに
弁玉歌碑があります、三宝寺の住職であった歌人弁玉(べんぎょく)の歌碑兼顕彰碑です、和歌を橘守部、岡部東平に学び、江戸末期から明治初期にかけて活躍した歌人です。

公園の横を先に進むと左手に
高島先生顕彰碑があります、高島嘉右衛門は高島易断の創始者でもあります。
望欣台の碑 弁玉歌碑 高島先生顕彰碑

 サア、街道に戻りましょう、青木橋を渡り、やまざき歯科の所から台町に入ります、振り返ると宮前商店街の通りの延長がここにつながっていたことが解かります。

旧道に入ると右手に
高島山トンネルが見えます、以前は街道上に東急東横線ガードが跨っていましたが、今は地下鉄化され、軌道跡は東横フラワー緑道になっています。

次いで
大綱金刀比羅神社の鳥居があります、鳥居前は神奈川の一里塚跡です、江戸日本橋より七里目です。
台町口 高島山トンネル 神奈川一里塚跡 大綱金刀比羅神社

 大綱金刀比羅神社はかつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められていました、境内には大天狗の面弁財天があります。

 十返舎一九東海道中膝栗毛の中で「たどり行くほどに金川(かながわ)の台に来る。ここは片側に茶屋軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟(かけはし)などわたして、浪うちぎはの景色(けいしょく)いたってよし。」と記述しています。

文久三年(1863)創業の
田中屋は画中の旅籠さくらやの後身です、明治七年(1874)暗殺された坂本龍馬の妻おりょうさんが勝海舟の紹介でここで働いていました、英語が話せ、月琴も弾くことが出来、外国人の接待に重宝されたと云います。

現在の台の下は
ビル群です。
東海道五拾三次之内 【神奈川】 臺之景 田中屋

 これは
高島嘉右衛門が請負い埋め立てた結果です、これにより埋め立てた地区に高島町の地名を残しています。

 台の坂を上ると右手に神奈川台関門跡碑があります、開港後外国人が何人も殺傷され、英国総領事オールコックを始めとする各国の領事達は幕府を激しく非難、そこで安政六年(1859)横浜周辺の主要地点に関門番所を設け、警備体制を強化しました。

碑には
袖ケ浦見晴所も刻まれています、右の歌碑には「思いきや 袖ヶ浦波 立ちかえり ここに旅寝を 重ねべしとは」と刻まれています。 

台を下り
上台橋を渡ります、川ではなく切通しの上に架橋されています、神奈川宿西端になります。
神奈川台関門跡 ベアト撮影 上台橋

 横浜美術学院を過ぎると重要な分岐点に到着です。

これまでは大通りに出ずに
勧行寺参道前に進みました。

千葉県千葉市の街道ウォーカーH.O氏のご指摘によりてく美の研究ノートを拝見したところ、旧ルートは
畦道であり、大通り(環状1号線)が旧東海道でした。
※ お手持ちのマップの修正をお願い致します
新ルート 新ルート トレース 旧東海道プレート

 上図の通りに
大通り(環状1号線)に出て道なりに進みます、歩道には旧東海道プレートが埋め込まれています。

 首都高速高架の手前右手に法華宗学陽山勧行寺があります、境内の墓所入口に文化四年(1807)没の天然理心流の開祖近藤内蔵助長裕の墓があります。

街道は浅間下交差点に突き当たります、この交差点には横断歩道がありません、交差点に架かる
歩道橋で横断します。
近藤先生之墓 新旧ルート比較 旧東海道(新ルート)トレース

 戸部警察署浅間町交番の前を通り、公衆トイレ横から公園を斜めに横断して旧道に合流します。

スグ先に
浅間神社鳥居が街道筋に面して立っています、本殿は急な階段を上った丘の上に鎮座しています。

創建は承歴四年(1080)で富士浅間神社の分霊を祀り、旧芝生村の鎮守でした。

ここには
富士の人穴が有ると云われました、
これは
横穴式古墳ですが富士山麓まで続いていると信じられていました。
旧道は公園を横切る 浅間神社 浅間神社社殿

 祭礼になると街道の両側には屋台の軒が連なります。

 旧道を進むと正面に商店街のアーチが見えます、その手前を右に入る筋が八王子街道です、この追分にはかつて大山道道標がありました。

ここが東海道との
芝生追分です、安政六年(1859)の横浜開港以降は八王子方面から横浜への絹が運ばれるようになり、絹の道とも呼ばれました。

追分をを過ぎると
松原商店街の喧騒が出迎えてくれます、 昼を過ぎると買物の人出が多くまともに歩けません、圧巻は中程の八百屋さんです、日除けテントの上に使用済のダンボール箱を積上げて行きます、夕方ともなると見事なオブジェと化します。

商店街を抜け
松原商店街入口交差点を横断します。
追分 追分標柱 松原商店街

 PM 3:12 保土ヶ谷宿着 戸塚宿まで9.2km

 左手ほうさい殿駐車場の所が江戸方見附跡です、ここには土塁(土居)が築かれていました、保土ケ谷宿に到着です。

 
保土ケ谷宿は程ケ谷、岩間、神戸(ごうと)、帷子(かたびら)の四町で構成されていました、八王子道金沢鎌倉道の追分を控え大いに賑わったと云います。

夕刻にもなると顔を真っ白に塗った
留女(とめおんな)が客の袖を引きました、この様を東海道中膝栗毛では「おとまりは よい程谷と とめ女 戸塚前(とっつかまえ)て はなさざりけり」と狂歌にしています。

天保十四年(1843)の
東海道宿村大概帳によると保土ケ谷宿の宿内家数は五百五十八軒、うち本陣一、脇本陣三、旅籠六十七軒(大七、中二十四、小三十六)で宿内人口は二千九百二十八人(男千三百七十四人 女千五百五十四人)、宿長は十九町(約2073m)でした。
江戸方見附跡

 右手に橘樹神社(たちばな)があります、文治二年(1186)当初牛頭天王社として創建されました、これが天王町の地名由来になっています。

境内には寛文九年(1669)建立の
青面金剛(庚申塔)、神田不動大山道道標を移設したもの、狛犬は嘉永五年(1852)の建立、石盥盤は延宝六年(1678)の建立、力石そして明治天皇東幸遺跡碑等があります。

帷子川帷子橋で渡ります。
橘樹神社 青面金剛 帷子橋 天王町駅ガード

 正面の相鉄線天王町駅のガード下をくぐります。

 ガードをくぐると天王町駅前公園があります、園内に旧帷子橋が復元されています。

ここが本来の
帷子川の流れがあった所です、その後河川改修の結果、流路が変更されました。

この辺りは片方が山で、片方が田畑であったため、
かたひらと呼ばれこれが帷子(かたびら)となりました。

帷子橋は板橋で高欄付き、長さ十五間(約27m)、幅三間(5.4m)で御普請所でした。

広重は宿並の手前にこのを描いています。
旧帷子橋跡 東海道五拾三次之内 【保土ヶ谷】 新町橋

 公園を斜めに横断して隣接する環状1号線を進みます、街道にはチョンマゲに裃(かみしも)姿の侍ポールが並んでいます。

大門通り交差点の向かいに超レトロなかき氷の村田屋さんがあります、夏の稼ぎで一年を暮らす良い男です!

右手に高野山真言宗普賢山
香象院があります、新四国東国第二十六番薬師如来です、参道には延命地蔵菩薩があります。

隣りの浄土宗
見光寺境内には保土ケ谷出身のコラムニスト青木雨彦の句碑「塗箸の 剥げて小芋の 煮ころがし」があります。
侍ポール かき氷屋さん 香象院 見光寺

 次いで歩行者信号交差点を右に入ると曹洞宗神戸山天徳院があります、本尊の地蔵菩薩は大きな厨子に安置され、胎内には運慶作の秘仏を蔵しています。

この地蔵は
餅きらい地蔵と呼ばれます、境内でを喰うと祟りがあると伝わっています。

左隣には日蓮宗妙栄山
大蓮寺があります、参道階段口に日蓮大聖人帷子の里御霊跡標識があります、日蓮が泊まった家屋を法華堂に改宗したのが寺の始まりと云います。

本堂前には徳川家康公の側室
おまんの方手植えの柘榴(ざくろ)があります、二代目です。
天徳院 大蓮寺 旧中橋跡

 反則センタ−交差点の所に
旧中橋跡解説があります、かつて今井川が宿場を横切り、中橋が架橋されていました。

 この交差点を右に入ると高野山真言宗医王山遍照院があります、本尊は木造薬師如来坐像で横浜市指定有形文化財です。

道なりに進み、
ドラッグストアいわい前Y字路を右の西口商店街に入ります。

右手コインパーキングの所が
助郷会所跡(標柱)です、保土ケ谷宿の助郷村は四十ケ村でした。

先の左手マンションの所が
問屋場跡(標識)です。
遍照院 西口商店街 助郷会所跡 問屋場跡

 幕府公用の荷物運搬(人馬継立)、書状の通信(継飛脚)等の業務を担っていました。


 帷子郵便局入口の所が高札場跡です、宝暦十三年(1763)に普請された保土ケ谷宿の高札場は幅二間半(約4.5m)高さ一丈(約3m)の規模でした。

保土ケ谷税務署先の十字路左に
金沢横町道標が四基並んでいます、金沢浦賀往還への追分です。

この追分は
追分横町と呼ばれ、金沢浦賀往還には円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地があるため、道標として四基が建立されました、文政七年(1824)の保土ケ谷宿には三十三軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門茶屋惣代でした。

東海道踏切を渡り、突き当たりの保土ケ谷1丁目本陣跡前交差点を右折します、、京方面からは左折になります。
高札場跡 金沢横町道標 分岐ポイント

 この突き当たりにあるのが苅部本陣跡です、本陣門を残しています。

保土ヶ谷宿の
本陣は小田原北条氏の家臣苅部(かりべ)豊前守康則の子孫が代々勤め、問屋名主を兼ねました。

生麦事件を起こした島津一行は当初神奈川宿泊まりの予定でしたが、欧米駐留軍の報復を恐れ保土ケ谷宿まで足をのばしました。

家臣等は
島津久光本陣に宿泊したように見せかけ、実は旅籠に隠しました、江戸口見附には篝火を焚き、臨戦態勢をとったと云います。

右折した右手コスモ横浜マンション前に
脇本陣大金子屋跡標柱があります、天保年間(1830〜44)の脇本陣大金子屋八郎右衛門の規模は建坪百十九坪(約393u)、間口七間(約12.7m)、奥行十七間(約30.9m) 室数十四、玄関付でした。
保土ヶ谷本陣門 脇本陣大金子屋

 次いで左手オーベル保土ケ谷マンション前に脇本陣藤屋跡標柱があります、天保年間(1830〜44)の脇本陣藤屋四郎兵衛の規模は建坪百十九坪(約393u)、間口六間半(約11.8m)、奥行十八間(約32.7m)、室数十四、玄関付でした。

オーベル保土ケ谷マンションの壁面には保土ケ谷宿の宿並が描かれた
レリーフが掲げられています。

左手保土ケ谷消防署の所に
脇本陣水屋跡標柱があります、天保年間(1830〜44)の脇本陣水屋与右衛門の規模は建坪百二十八坪(約423u)、間口八間(約14.5m)、奥行十六間(約29m)、室数十四、玄関門構付 でした。
脇本陣藤屋跡 宿並レリーフ 脇本陣水屋跡

 コンビニのポプラを過ぎると左手に旅籠本金子屋跡があります、現在の建物は明治ニ年(1869)の建築です、国道が拡幅される前は現在の母屋の前に大名門前庭がありました。

天保年間(1830〜44)の
旅籠本金子屋伝左衛門の規模は建坪七十九坪(約261u)、間口七間(約12.7m)、奥行十一間半(約20.9m)、室数十三でした。

左手モーターバイクのDUCATIの向い右手に
茶屋本陣跡標柱があります、

元治元年(1846)の
茶屋本陣九左衛門の規模は建坪六十三坪(約208u)、間口十間半(約19.1m)、奥行六間(約10.9m)、室数8、門構付 でした。
旅籠本金子屋跡 茶屋本陣跡 茶屋町橋

 苅部本陣
を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えを行いました。

茶屋町橋を渡ると目の前は保土ケ谷宿の西口です。

 街道の左側に移り、今井川に架かる瀬戸ケ谷中橋を過ぎると保土ヶ谷の一里塚跡にミニチュアな塚が復元されています、江戸日本橋より数えて八里目です。

隣りに
上方見附跡があり、土盛をした土塁の上に竹矢来が組まれた土居が復元されています、ここが保土ケ谷宿の京口(西口)です。

今井川に架かる仙人橋を渡ると対岸に
外川神社があります、羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請したもの、以来、小児の虫封じ航海安全にご利益ありと云われました。

先に進むと岩崎ガード歩道橋の所に外川神社にちなむ
出羽三山供養塔がありましたが、撤去されています。
一里塚&見附跡 外川神社 出羽供養塔

 往時、宿を出ると境木辺りまで松並木であったと云います。

 国道1号線の右側を歩きます、BAR BAR 山本先の保土ケ谷2丁目交差点から分岐して右の旧道に入ります、京方面からは国道に合流します。

旧道には歩道がありません、バス通りでもあり、案外交通量が多いですから、お気を付け下さい。

右手に
樹源寺があります、元は真言宗の医王寺でしたが兵火で焼失、寛永年間(1624〜44)保土ケ谷宿本陣の苅部吉重の奥方が日蓮宗に帰依し、日蓮宗総本山身延山久遠寺の末寺として開山しました。

左手元町橋バス停の所に
稲荷神社の小社があり、鳥居下に青面金剛(庚申塔)祀られています。
分岐ポイント 樹源寺 青面金剛像

 旧道を進むと元町ガード交差点に突き当たります、ここを左折します、京方面からは右折になります。

スグに
今井川元町橋で渡ります、この辺りに保土ケ谷宿が設立される以前に宿場がありました。

魚平先の
歴史の道標識に従って右折すると権太坂に入ります、京方面からは突当りを左折します。

坂を上り始めると左に小さな
稲荷神社があります、境内に旧東海道権太坂道路改修碑が設置されています。
分岐ポイント 元町橋 権太坂口 道路改修碑

 権太坂の由来には二説あります、旅人が路傍の老人に坂の名を問うたところ、耳の遠い老人は自分の名を聞かれたと思い権太と答えた為と云います。

もう一説は、権左衛門なる者が代官の命によりこの坂をひらいたところから権左坂(ごんざざか)と名付けられましたが、いつしか権太坂になったと云うものです。

 保土ヶ谷バイパスを権太坂陸橋で跨ぐと、光陵高校の所に権太坂碑があります。

この辺りまでを
一番坂と云い、境木までを二番坂と云いました、さしたる坂では有りませんが日本橋から歩き通した足には堪(こた)えます。

権太坂二番坂をグングン上ると境木中学校前の
T字路に突き当たります、旧道は右折(白矢印)します。

このT字路を左折(黄矢印)すると、およそ50mばかり先の所に
投込塚之跡碑があります。
権太坂 権太坂碑 境木分岐ポイント 投込塚之跡碑

 権太坂
は江戸を出立し、最初の難所でした、又、向かいの品濃坂は江戸に向う最後の難所でした。

この難所で行き倒れになった旅人を埋葬した所です、碑の右には天保九年(1838)建立の
三界萬霊馬頭観音、左には宝永七年(1710)建立の青面金剛(庚申塔)が祀られています。

 街道に戻ると、右手に立派な門構えの若林家があります、茶屋本陣並みの格式を備え、参勤交代の大名が休息しました。

ここは
権太坂焼餅坂品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観が素晴らしい境木立場牡丹餅が名物でした。

ここは
武蔵国相模国の国境にあり、大ケヤキが目印にされ境木と呼ばれ、これが地名の由来です。

若林家の隣に
境木延命地蔵尊があります、鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵を夢のお告げで江戸へ運ぼうとしたところ、ここで動かなくなったのでお堂を建てて安置したところ村は繁盛したと云います。
ここにあった安永九年(1789)鋳造の
は明治元年(1868)野毛山時の鐘に使用され関東大震災まで横浜市民に親しまれました。
立場茶屋若林家 境木延命地蔵尊

 地蔵尊前が五差路の境木地蔵尊前交差点になっています、寄り道してみましょう。

五差路左手前の下り坂に入り、一本目を右折してグングン下ると突当り左に
萩原代官屋敷跡萩原道場跡があります、萩原家は代々旗本杉浦氏の代官職として、この地に屋敷を構えました、幕末から明治初年の当主太郎行篤は嘉永四年(1851)直心影流の免許皆伝を得、ここに道場を開きました、萩原家所蔵の剣客名には天然理心流近藤勇の名が記されています。

五差路に戻り現代版道標
左旧東海道に従い、斜め左の焼餅坂を下ります、往時、坂には焼餅を商う茶屋がありました。
萩原代官屋敷跡 現代版道標 焼餅坂

 この坂はかつて切通で往時を彷彿とさせる風情があり、好きなポイントでした。

樹木が両側から覆いかぶさっていた為、
国土地理院の地図には道路の記載が無いくらいでしたが右(北西)側の切通は造成されてしまいました。

 焼餅坂を下り切り品平橋を渡ると上り坂になります、坂の中腹には品濃の一里塚があります、両塚とも原型をとどめています、風情満点です、江戸日本橋より数えて九里目です。

地元では
一里山と呼ばれていました、東の塚は平戸村内に、西の塚は品農村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていました。

十字路を過ぎると街道正面に東戸塚の高層マンションが現れます。

このマンションが右手になると跨線橋手前に
福寿観音があります、近世のものです。
品濃の一里塚(東) 品濃の一里塚(西) 福寿観音

街道の左(東)側に果樹園が現れたら、分岐ポイントが近いですからご注意下さい、旧東海道(品濃坂)案内の前を右折します、右手は斎藤宅です。

ここが
信濃坂上です、京方面からはこの難所を越えれば境木立場まであと一息でした。

道なりに信濃坂を下ります、お天気に恵まれればこの坂の正面に見事な
富士山が望めます。

車道は右に曲がりますが、正面の車止めのある
階段に入り、品濃坂歩道橋で環状2号線を跨ぎます、この歩道橋は
空中東海道です。
品濃坂旧道 旧東海道案内 信濃坂歩道橋

 歩道橋を左に下り、右の下り坂に入ります、

先を鍵の手状に坂を下ります、県道218号線高架をくぐり石渡酒店が現れたら正解です。


 酒店を過ぎ、小糸工業施設の先は川上川沿いの狭い歩道を歩きます、京方面からはY字路を右の小糸工業施設サイドに入ります。

品濃口バス停を過ぎて、
東戸塚入口交差点国道1号線を横断し、平戸永谷川沿いに進みます。

街道は一旦
国道1号線に出ますが、スグに真新しい赤関橋平戸永谷川を渡り左の旧道に入ります。

旧道は立体高架先で再度
国道1号線に合流します、この立体高架は京方面からの分岐ポイントです。
東戸塚駅入口 赤関橋分岐 合流ポイント

 柏尾小学校入口交差点を横断し、手打そば処やぶ忠手前を左に入ると右手に王子神社があります、祭神は護良親王(もりながしんのう)です。

親王の
が本殿の位置に埋葬されています、護良親王後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府追討に尽力し、足利尊氏暗殺を画策するも露見し、殺害されました。

街道に戻りファミリーマート先で斜め右に入ると右手に
大山不動堂があります、正徳三(1713)年建立の不動明王像が祀られています。

堂脇には
大山道道標があります、大山詣での東海道からの入口です。
王子神社 大山不動堂 大山道道標

 街道に戻ると左手の擁壁上に古木が聳えています、益田家のモチノキです、樹皮から鳥もちが取れるところからモチノキと云われます(かながわの名木100選)。

モチノキの先の
不動坂交差点三叉路になっています、左側の上り坂が旧道です。

街道に面し桜の古木が張り出し
奉祝の櫻碑があります。

旧道に入って一本目、コミュニティーストア手前を左折します。
モチノキ 不動坂旧道トレース 奉祝の櫻 護良親王首洗井戸

 突当りを左折し、次いで一本目を右折すると突当りに
護良親王首洗井戸があります、殺害された親王の首を侍者がこの井戸で洗い清め、王子神社本殿の位置に埋葬したと伝わっています。

 旧道を進むと右手に赤レンガの建物、次いで堂々とした斎藤家屋敷があります。

明治十年(1876)英国人
ウィリアム・カーティスがこの地でハム等の製造を開始したが、日本人には一切製造法は教えなかった。

明治十七年(1884)地震の際に工場が出火し、これを近隣住民が消火協力した恩義に応え、カーティスの妻
かねが奉公人時代に世話になった斎藤家の当主に製法を伝授したものです。

鎌倉ハムと命名され、赤レンガの建物は
日本のハム発祥地です。
鎌倉ハム発祥地 斎藤家 舞岡町分岐

 突当りの元舞橋手前の十字路を右折し、舞岡川に沿って進みます。

 突当りの舞岡入口交差点を左折し国道1号線に合流します、京方面からは右折し舞岡川沿いに進みます。

舞岡川五太夫橋で渡ると吉田町に入ります、

石巻五太夫
は小田原北条氏の家臣で豊臣秀吉の小田原攻めのとき北条方の使者でした。

北条氏滅亡後、謹慎していた
五太夫
、天正十八年(1590)江戸に入る徳川家康をこの辺りで出迎えたところから、五太夫橋の名が付いたと云います、家康より田中に百石の領地を拝領しています。

左手に真言宗の
宝蔵院があります、天文十六年(1547)の中興です。
舞岡入口分岐 五太夫橋 宝蔵院

 本尊
は寛永九年(1632)建立の不動尊です、境内には地蔵堂、日本舞踊芸道精進の扇塚等があります。

 PM 5:33 戸塚宿着

レストランフォルクスの前に江戸方見附跡碑があります、貴賓の送迎はここから行はれ、大名行列もこれより隊伍を整えたと云います。

戸塚宿
到着です!

戸塚宿の規模は天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると宿内家数は六百十三軒、うち本陣二、脇本陣三、旅籠七十五軒、宿内人数は二千九百六人(男千三百九十七人 女千五百九人)で宿並は戸塚、吉田、矢部の三町で構成され、宿場機能は戸塚町に集中していました、 宿長は二十町十九間(約2.2km)でした。

日本橋から旅程がちょうど一泊目にあたり、旅籠数が五十三次中、小田原宿に次ぐ規模であり、鎌倉江ノ島への参詣客もあり大いに賑わったと云います。

飯盛りも盛んで、十返舎一九は東海道中膝栗毛の中で「お泊りはよい程が谷と留め女、戸塚前て(とっ捕まえて)は放さざりけり」と洒落ています。
江戸方見附跡

 元町交差点の次の小路を左に入ると日蓮宗妙秀寺があります。

境内には広重にも描かれている、延宝二年(1674)建立の
左かまくら道道標が移設保管されています。

セブンイレブン先に
吉田一里塚跡標柱があります、江戸日本橋より十里目です。

吉田大橋の手前右手に
木之間稲荷があります、五穀豊穣を祈願し、江戸時代中期に創建されました。
妙秀寺 左かまくら道 吉田一里塚 木之間稲荷

 広重は吉田町と矢部町の境を流れる柏尾川に架かる吉田大橋を江戸方面から描いています。

橋の奥に宿並を、左手には茶屋を、そして橋手前から左川沿いに進む、鶴ヶ岡八幡宮への鎌倉道の道標
左り かまくら道(現在妙秀寺に移設保管されている)を描いています。

こめやの軒下には講中札が吊り下がっています、大山講の指定休憩所でした、米で作った餅菓子が名物でした。

この
初刷り版では旅人が馬から下りるところを描いています。
吉田大橋 東海道五拾三次之内 【戸塚】 元町別道

 しかし降りるは縁起が悪いと、後刷り版では馬に乗る姿に描き直しています。

 柏尾川(かしおがわ)は平戸永谷川(ひらどながやがわ)と阿久和川(あくわがわ)が落合柏尾川となり、下流で境川に吸収され流末は相模湾に注いでいます。

宿並の右に真宗本願寺派大島山
善了寺があります、本尊は木造阿弥陀如来立像です。

宿並は右に大きくカーブし戸塚駅東口入口交差点を越すと
東海道踏切NO30です。

東海道本線横須賀線が交互に運行するため開かずの踏切と云われます。
柏尾川 善了寺 東海道踏切

 大磯に居を構えた吉田茂はこの開かずの踏切に業を煮やし、横浜新道をつくらせたと云います、それがゆえに横浜新道はワンマン道路と呼ばれています。

ここが戸塚宿の
起点です、本日はここ迄です。

 戸塚宿からの家路は極近いです、それでもこの缶チューハイ、癖ですね。

これを飲まないと起点の宿場に到着した気になれません、この悪癖、治す気は毛頭ありません。

楽しい東海道ウォーク、次回は小田原宿迄です、乞うご期待。



次 戸塚 〜 小田原