私の最寄駅である東神奈川駅から京浜東北線に乗車し、お隣の横浜駅で東海道本線に乗り換えれば一つ目が戸塚駅です、楽で良いですね。 天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると戸塚宿の宿内家数は六百十三軒、うち本陣二、脇本陣三、旅籠七十五軒で、宿内人口は二千九百六人(男千三百九十七人 女千五百九人)、宿並は戸塚、吉田、矢部の三町で構成され、宿場機能は戸塚町に集中していました。 鎌倉や江ノ島への参詣客も多く、大いに賑わったと云います。 飯盛りも盛んで、十返舎一九は東海道中膝栗毛の中で「お泊りはよい程が谷と留め女、戸塚前て(とっ捕まえて)は放さざりけり」と洒落ています。 開かずの踏切が本日の出立点です、それでは参りましょう! 戸塚駅前一帯は再開発が行われ一変しています、 角の立ち食いソバ屋、タンメンの麺の太さが自慢の十八番さんが急に懐かしくなります。
芭蕉句碑と心中句碑の間の石段を上り詰めると於萬の方の火葬跡があります、遺骨は遺言により高野山に納められました。
明治天皇戸塚行在所趾碑があります、本陣は明治天皇の東下の際に行在所となりました。
八坂神社では毎年七月十四日の夏祭りにお札まきと呼ばれる神事が行われます、女装した男数十人が輪になって踊り、踊り終わると、正一位八坂神社御守護と刷られた五色の神札(しんさつ)を撒き散らします、人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼ります。 風流歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」とあります。
参道階段横には嘉永二年(1849)建碑の芭蕉句碑「鎌倉を 生きて出でけむ 初松魚(はつかつお)」があります。
この大坂を詠んだ川柳に「佐野の馬 戸塚の坂で 二度ころび」があります、これは謡曲鉢の木の主人公佐野源左衛門常世の馬のことで、イザ鎌倉と駆けつけますが、貧しくて痩せてしまった常世の馬が、大坂で二度も転んでしまったと云うものです。
この大坂では嘉永六年(1853)に仇討ちがありました、江戸品川宿で殺された父の仇を息子三兄弟がこの大坂で見事果しました。
街道を進むと戸塚区原宿町第二歩道橋が立ちふさがります、この歩道橋の右手に浄土宗の大運寺があります、慶長元年(1596)の創建です。 本堂には弘法大師作と伝わる石地蔵が安置されています。
昔々、諏訪神社の裏の池に大蛇が棲み、池に映る旅人の影を取って喰ったと云います、これが影取町の地名由来です。 そしてこの大蛇を鉄砲で射止めた猟師が住んでいた所が、この先の鉄砲宿です。 境内には横浜市名木古木指定のクスノキが聳えています。
遊行寺交差点先のイイジマ薬局の所を右折し、突当りのいとう歯科の前を左折します、これが藤沢宿の枡形です。
その後、渡世から足を洗い、仏門に入り、縁あって遊行寺の堂司(堂守)を勤め、勘助親子の菩提を弔ったと云います。
藤沢御殿は藤沢宿が整備される以前の慶長元年(1596)に将軍の休憩宿泊施設として設けられ、寛永十一年(1634)三代将軍家光の利用が最後でした。
宿内左手JAさがみ藤沢支店脇に入ると浄土真宗の永勝寺があります、山門をくぐると左手に旅籠小松屋源蔵が抱えた飯盛女の墓が三十九基あります、藤沢宿には旅籠が四十九軒あり、このうち飯盛女を抱えたのは二十七軒で、一軒に二人ずつ置かれていました。
社殿下には江ノ島弁財天道標があります「ゑのしま道、一切衆生、二世安楽」と刻まれています。 境内には芭蕉句碑「草臥(くたびれ)て 宿かる比(ころ)や 藤の花」があります。
鵠沼旧道はたこ焼風天の右に入り、突当りを左折し、再び県道43号線に合流し、引地川を引地橋で渡ります。
この地に榎の大木があり、多くの霊魂が集まっていました、昭和の初め東海道の拡張に伴い榎を伐採し、その身代わりとしてこの地蔵が安置されました。
街道は四ツ谷交差点に突当り、国道1号線に吸収されます。 交差点の斜め向いには緑青の葺いた祠が望めます。
帰りは江ノ島まで足をのばし精進落しと称して羽目を外しました、正に落語の大山詣りそのものの世界です。 街道に戻り、羽鳥交番前交差点を越すと松並木の名残りが現れます、ここが四ツ谷の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて十三里目です。
街道を歩きますと沢山の庚申塔、青面金剛像、庚申供養塔に出会います、これらは庚申信仰に基づくものです。 庶民は庚申の夜は徹夜で酒食歓談して過ごしたと云います、往時の暮らしは日の入とともに休み、日の出とともに起床する生活パターンです、庚申の夜の歓談は数少ない娯楽の一つだったのかも知れません。
境内には旧寛永寺石灯籠があります、寛永寺は徳川将軍家の菩提所です、竿石の銘は延宝九年(1681)と刻まれています、前年に亡くなった四代将軍徳川家綱の墓前に対馬守安藤重治(重博)が奉納したものです。
境内には四国八十八ケ所お砂踏みがあります。 更に先に進むと熊野神社があります、小和田村の鎮守です、参道口に神社では珍しい朱塗りの鐘楼があります。
牡丹餅立場には紀州徳川家が江戸屋敷と国元を直接結ぶ専用の飛脚中継所である七里役所が置かれていました。
左の石灯籠は同様に従五位下堀長門守藤原直寛が奉納したものです。
向って右から二番目は徳川四代将軍家綱の供養に延寛九年(1681)に大名から寄進されたものです。 一、三、四番目は徳川十代将軍家治の供養に天明六年(1786)に諸大名から寄進されたものです。
山岡鉄舟は幕臣でありながら、維新後は新政府に仕えています、東海道通行の際、国家の有りようを祈願したのでしょうか、興味がありますね。 南湖入口交差点を左に入ると高野山真言宗の金剛院があります、境内には大師堂があります。
下町屋自治会館奥に神明神社があります、往時、境内には清水があり陰陽師阿部清明が東下りの折、喉を潤したところから清明井戸と呼ばれました。 境内には厄神大権現と刻まれた石碑や、小祠に安置された男女双体道祖神などがあります。
今宿交差点を横断すると街道右手に日蓮宗の上国寺があります、永正十一年(1514)造立の木造日蓮坐像があります(茅ケ崎市指定重要文化財)。
丁髷塚はこの若者達十六名のちょんまげを埋めた所です。
江戸日本橋より数えて十五里目です、北塚の前には井戸が、南塚には川会所や川高札がありました。
父親は長持ちに入れられた娘の亡骸を馬入川の渡しで受け取り、宿内に葬りました、刑死人の例にならい、墓を作らずセンダンの木を植えて墓標とし、その際「もの言はぬ 晴れ着姿や 菫(すみれ)草」の一句を添えています。
八幡新宿は平塚宿の加宿となり、問屋場が新設され、西組問屋場と呼ばれ東組問屋場と十日交代で問屋業務を勤めました。
とは云うものの今日は余り白くありません、化粧ののりが悪かったのでしょうか、この化粧そば、冷たいのもあります。
大磯は平安末期に相模國の国府が置かれ、大磯宿は鎌倉時代からの宿駅であり、曽我物語のヒロイン虎御前の舞台として知られた宿場です。
宝暦十二年(1762)一月十九日の大火で大磯宿は焼失、その後遠州秋葉山から火伏の神秋葉大権現を勧請したものです。
これを知った虎御前は十九歳で尼となり、諸国を巡った後、この地に戻り延台寺に隠棲したと云います。
逆L字の旧道を進みさざれ石交差点で国道1号線に合流します。
スグ先の統監道バス停の所が上方見附跡です、大磯宿もここまでです。
Y字路を左に進み不動川を本郷橋で渡ります。
鳥居をくぐって進むと右手に真言宗の宝積寺があります、寛永八年(1631)銘の梵鐘は大磯町最古です、境内に聳えるカヤの大樹は樹齢三百年以上です。
二宮駅を過ぎ、吾妻山入口交差点先を斜め右に入ります、山西旧道です、分岐ポイントには旧東海道の名残り標識があります。
東前川交差点を越すと右手に史跡車坂の標柱があります、車坂は景勝地でした、解説にはこの車坂を詠んだ和歌三首が記されています。 「鳴神の 声もしきりに 車坂 とどろかしふる ゆふ立の空」 太田道灌 「浜辺なる 前川瀬を 逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも」 源実朝 「浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月」 北林禅尼(阿仏尼)
うまそうな自家製干物を商う鮮魚岩堀を過ぎると、西前川交差点の所に男女双体道祖神があります。
旧道と断定はできませんが、限りなく濃厚です、何か情報があれば教えて下さい。
江戸日本橋より数えて十九里目です。
右長楽寺参道口の向いに道祖神が安置されています。
本堂脇には五重塔の精巧なミニチュアがあります。 酒匂川手前の酒匂橋東側交差点を右に入ると酒匂川の渡し碑があります。
網一色村の鎮守です、境内の樹木は小田原市指定保存樹林です。
さんのう川を山王橋で渡ると、右手に山王神社があります。天正十八年(1590)小田原に着陣した徳川家康は日々参詣したと云います。 浜町歩道橋の手前を左に入り、一本目を右折し、次を左折すると正面に北條稲荷神社があります、境内には蛙石(かわずいし)があります。 元は小田原城内にありました、凶事が起こる前には鳴き出す石で、小田原城落城の際には盛んに鳴いたと云います。
山王原の一里塚です、江戸日本橋より数えて二十里目です。
次いで高梨町に入ります、ここには下の問屋場が置かれ、中宿の上の問屋場と十日交代で勤めました。
今回は大変稔りの多い街道ウォークになりました、各自治体の努力により一里塚の標識が多数新設されていました。 この一里塚は往時の旅人にとって重要なものでしたが、今日街道ウォーカーにとっても同じです。 しかし花水橋の平成の一里塚は本来の意味ではなく混乱を招くのみで意味が無いように思えます、勇み足ではないでしょうか。 各宿場の5点セット(本陣、脇本陣、問屋場、高札場、両見附)の標識及び解説は充実してきました、平塚宿の江戸見附の再現は素晴らしいです。 圧巻は長年の懸案であった大磯宿の照ケ崎海岸入口交差点裏の旧道が確認できたことです、これも解説板に明記されていました。 桜には少し早かったですが、杉花粉は満開でした。 帰りの車中は鼻をすすりながら、例の缶チューハイです。
|