道中日記 5-158 東海道 ( 戸塚 −小田原 ) 42.3km

 私の最寄駅である東神奈川駅から京浜東北線に乗車し、お隣の横浜駅で東海道本線に乗り換えれば一つ目が
戸塚駅です、楽で良いですね。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
戸塚宿の宿内家数は六百十三軒、うち本陣二、脇本陣三、旅籠七十五軒で、宿内人口は二千九百六人(男千三百九十七人 女千五百九人)、宿並は戸塚、吉田、矢部の三町で構成され、宿場機能は戸塚町に集中していました。

鎌倉江ノ島への参詣客も多く、大いに賑わったと云います。

飯盛りも盛んで、十返舎一九は東海道中膝栗毛の中で「お泊りはよい程が谷と留め女、戸塚前て(とっ捕まえて)は放さざりけり」と洒落ています。

開かずの踏切が本日の出立点です、それでは参りましょう!

戸塚駅前一帯は再開発が行われ一変しています、 角の立ち食いソバ屋、タンメンの麺の太さが自慢の十八番さんが急に懐かしくなります。

 平成20年03月27日 AM7:00 戸塚宿出立 藤沢宿まで8.0Km

 歩道橋をくぐって右手の上り坂を上ると右手に清源寺があります、寺紋は徳川家の三つ葉葵です。

徳川家康の側室であった
於萬の方は四十余歳で仕えを辞して、この地の岡津に閑居していました、家康が死去すると尼となり清源寺を創建しました。

境内に
芭蕉句碑「世の人の 見つけぬ花や 軒のくり」や心中句碑井にうかふ 番(つが)ひの果や 秋の蝶」があります、文久三年(1863)院内の井戸で心中がありました。
清源寺 芭蕉句碑 心中句碑 於萬の方火葬跡

 芭蕉句碑と心中句碑の間の石段を上り詰めると於萬の方の火葬跡があります、遺骨は遺言により高野山に納められました。

 バスセンター前交差点を越すと吉田町から戸塚町に入ります、宿場機能はこの戸塚町に集中していました。

右手のスルガ銀行の辺りが
内田本陣跡(標識)です、間口十八間(三十二・八m)奥行十四間(二十五・五m)で畳数は百五十二畳でした。

向いの元バスターミナルの辺りが
問屋場跡です。

先の右手に
脇本陣跡標識があります、戸塚宿には三軒の脇本陣がありました。

右手戸塚消防署手前が
澤邊本陣跡(標識)です、本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。
内田本陣跡 脇本陣跡 澤邉本陣跡

 明治天皇戸塚行在所趾碑があります、本陣は明治天皇の東下の際に行在所となりました。

 本陣の奥に戸塚宿の鎮守の一つ羽黒神社があります、弘治二年(1556)に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと云われています。

戸塚消防署前交差点を右に入ると
海蔵寺があります、貞冶二年(1363)の創建、澤邊河内守宣友が中興開基で、山門の龍の彫刻は左甚五郎作と云います。

次いで
八坂神社があります、境内には明治天皇東幸史蹟碑があります。
羽黒神社 海蔵院 八坂神社 明治天皇碑

 八坂神社では毎年七月十四日の夏祭りに
お札まきと呼ばれる神事が行われます、女装した男数十人が輪になって踊り、踊り終わると、正一位八坂神社御守護と刷られた五色の
神札(しんさつ)を撒き散らします、人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼ります。

風流歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」とあります。

 八坂神社前交差点を横断すると右手に宝永七年(1710)建立の鎌倉道道標があります、「これよ里 かまくら道」「南無阿弥陀佛」と刻まれています、この辺りに高札場跡がありました。

宿筋が右(西)に曲がると、スグに
冨塚八幡宮があります、社殿は段上に鎮座しています、戸塚の総鎮守です。

源頼義義家親子が奥州平定に下る途中、この地にて御神託を受け、その加護により戦功を立てる事ができたのに感謝をして造営された古社です。

社殿後方の古墳は
冨塚と称し、戸塚の地名由来になっています。
鎌倉道道標 冨塚八幡宮 芭蕉句碑

 参道階段横には嘉永二年(1849)建碑の芭蕉句碑「鎌倉を 生きて出でけむ 初松魚(はつかつお)」があります。

 冨塚八幡宮向いの戸塚町交差点を左に入ると秋葉神社が鎮座し、境内には諏訪社が祀られています。

下郷入口交差点を過ぎると左のサイゼリアの所が
上方見附跡です、思えば江戸方見附跡はフォクスルとファミレスつながりになっています。

横浜冨塚郵便局を過ぎると右手に
第六天神社があります、社の杜が無くなっています。

第六天神社を過ぎると上り坂になります、大坂です、大坂は一番大坂、二番大坂、白土坂の三坂から構成されています。
秋葉神社 上方見附跡 第六天神社

 この大坂
を詠んだ川柳に「佐野の馬 戸塚の坂で 二度ころび」があります、これは謡曲鉢の木の主人公佐野源左衛門常世の馬のことで、イザ鎌倉と駆けつけますが、貧しくて痩せてしまった常世の馬が、大坂で二度も転んでしまったと云うものです。

 第六天神社先の右手段上に坂木稲荷社が祀られています。

次いで右手に
石塔群があります、八基の内七基は庚申塔で、青面金剛像と三猿が陽刻されています。

右大坂台バス停の所には
馬頭観音があります、文政九年(1826)の建立です。

左に進路を変えるとCOCO’S手前の植栽の中に
大坂碑があります、新編相模国風土記稿によれば、一番坂登り一町余(百十m余)、二番坂登り三十間余(五十四m余)と著されています。
坂木稲荷社 石塔群 馬頭観音 大坂碑

 この大坂では嘉永六年(1853)に
仇討ちがありました、江戸品川宿で殺された父の仇を息子三兄弟がこの大坂で見事果しました。

 白土坂を登り詰めると左にあじさい公園があります、水場がありますのでシッカリ給水しましょう。

公園先で旧道は
国道1号線(横浜新道、別称ワンマン道路)に吸収されます、京方面からは汲沢町歩道橋が分岐ポイントになります。

国道1号線は
尾根道になります、雨に風が伴うと雨は足元から降ってきます。

少し進むとお約束の
東海道 お軽 勘平 戸塚山中道行の場碑があります、仮名手本忠臣蔵にちなむ碑です。「鎌倉を出てやうやうと、ここは戸塚の山中、石高(いしだか)道で足は痛みはせぬかや」と勘平が優しくお軽をいたわる名シーンです。
大坂分岐 尾根道 お軽甚平道行の碑

 吹上交差点を過ぎると左に原宿の一里塚跡標識があります、江戸日本橋より数えて十一里目です。

吹上の一里塚とも呼ばれました、塚木はでしたが、明治九年(1876)に里程標の杭をたてるとき、一里塚は不要となり取り払われました。

塚付近に茶屋があり、これが
原宿の地名由来となりました。

一里塚跡の向いに
浅間神社があります、旧原宿村の鎮守です。

参道口には三基の庚申塔が祀られ、社殿は横浜市名木古木指定の
シイが茂る参道奥に鎮座しています。
一里塚跡 浅間神社 大運寺

 街道を進むと戸塚区原宿町第二歩道橋が立ちふさがります、この歩道橋の右手に浄土宗の
大運寺があります、慶長元年(1596)の創建です。

本堂には
弘法大師作と伝わる石地蔵が安置されています。

 歩道橋左の袂には庚申信仰による青面金剛像があり、傍らには西國順礼供養塔があります。

原宿交差点を越し、グングン街道を進むと左手のファミリーマートの所に
名残の松があります、往時は松並木でした。

スグ先の戸塚区影取第一歩道橋の左袂にあった
馬頭観音道祖神は撤去されています。

※写真は撤去前の撮影です、影取町交差点を左折し、一本目を右折した先に
移設されています。
青面金剛&供養塔 名残り松 馬頭観音 道祖神

 歩道橋の右手には龍長院の入口を示す不動明王像があります、龍長院は室町時代に堅心和尚が開山した瀧長庵でした。

その後東俣野村領主
永井丹波守白元が鎮護国家の祈願所として辰岩和尚を迎えて堂宇を改築し龍長院と改めました、本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)です。

マクドナルドを過ぎると影取町第二歩道橋があり、お食事まるぶんさんの所から国道1号線の左側の道に入ります。

旧道に入ると
諏訪神社があり、ここには影取伝説があります。
不動明王像 諏訪神社 諏訪社のクスノキ

 昔々、諏訪神社の裏の池に
大蛇が棲み、池に映る旅人の影を取って喰ったと云います、これが影取町の地名由来です。

そしてこの大蛇を
鉄砲で射止めた猟師が住んでいた所が、この先の鉄砲宿です。

境内には横浜市名木古木指定の
クスノキが聳えています。

諏訪神社の先に茅葺門の旧家があります、良い感じですね。

街道は一旦下り、次いで上りになります、上り詰の先信号藤沢バイパス出口及び東俣野町歩道橋から斜め左の県道30号戸塚茅ヶ崎線に分岐します。

旧道に入ると
鉄砲宿です、歩道脇には男女双体の道祖神が祠に納まっています。

少し進むと右手に
旧東海道松並木跡碑があり、名残りの松が聳えています。
茅葺門 道祖神 松並木跡碑 名残り松

街道の両側が石垣になると急な下り坂になります、遊行寺坂です、別名道場坂とも呼ばれています。

急な下り坂は
歩幅を狭めましょう、大股ですと膝に負担がかかります。

坂を下ると街道の両側に
遊行坂の一里塚跡標識があります、塚木は榎でした、江戸日本橋より数えて十二里目です。

遊行寺坂が右に緩くカーブした先の左に
諏訪神社があります、建武ニ年(1335)遊行寺を創建した遊行四代呑海上人(どんかいしょうにん)が遊行寺の守護神として勧請したものです。
遊行寺坂 遊行坂の一里塚跡 諏訪神社

 AM8:50 藤沢宿着 平塚宿まで13.3km

 遊行寺の参道手前が藤沢宿の江戸方見附跡(東口)です、藤沢宿到着です。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
藤沢宿の宿内家数は九百十九軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠四十五軒で宿内人口は四千八十九人(男二千四十六人 女二千四十三人)でした。

藤沢宿は
遊行寺の門前町として発展し、江の島鎌倉大山などへの参詣や行楽客で賑わいました。

遊行寺は時宗の総本山、正式名は清浄光寺(しょうじょうこうじ)ですが、遊行上人にちなみ遊行寺と呼ばれます、宗祖は一遍上人、正中二年(1325)遊行四代呑海(どんかい)上人によって開かれ藤沢道場と呼ばれました。
見附跡 遊行寺 一遍上人

 街道沿いの東門から境内に入ると左手段上に藤沢敵御方供養塔があります、上杉禅秀の乱で戦死した敵御方(味方)を供養するため、応永二十五年(1418)に建立されたものです。

次いで右手小栗判官墓所入口石標に従って進むと左手に
六地蔵があります、酒井長門守忠重が萬治三年(1660)一月十五日に逆修の為に造立した六地蔵です。

逆修(ぎゃくしゅ)とは生きている間に自分の死後に対して冥福を祈る法要のことです。

六地蔵の隣の
五輪塔酒井忠重の墓です、下総市川に蟄居中に不慮の死を遂げました。
敵御方供養塔 六地蔵 五輪塔

 更に進むと享和三年(1803)建立の小栗堂があります、長生院と呼ばれ遊行寺の塔頭寺院です。

裏手に
小栗判官及び照手姫の墓があります、小栗判官は藤沢の盗賊宅で毒酒を盛られたが、照手姫に助けられ、九死に一生を得、照手姫を妻に迎えました。

小栗判官が亡くなると照手姫は髪を剃り
長生尼と名乗り判官の墓を守り、余生を長生院で過しました。

境内の
大イチョウは樹齢三百~七百年で樹高は十六メートルです、かつては樹高三十一メートルの大樹でしたが昭和五十七年八月の台風で上部が折損してしまいました。
小栗判官墓 照手姫墓 大イチョウ

 大イチョウの先に明治天皇御膳水井戸があります。

安政六年(1859)築の
中雀門(ちゅうじゃくもん)は遊行寺境内の中で最古の建築です、この門をくぐった先の菖蒲園の所に明治天皇行在所碑があります。

明治天皇は十数度遊行寺に宿泊したり休息をしています、明治十一年(1878)十一月八日の北陸巡幸の帰路には岩倉具視、大隈重信、井上馨、山岡鉄舟等五十名を伴っていました。

ここで一旦、東門から宿並に戻りましょう。
明治天皇御膳水 イイジマ薬局 いとう歯科

遊行寺交差点先のイイジマ薬局の所を右折し、突当りのいとう歯科の前を左折します、これが藤沢宿の枡形です。 

この突当りを右折すると右手に藤沢広小路解説があります、日本三大広小路(上野広小路、名古屋広小路)の一つです。

広小路は
火除地のことで、各地の重要な社寺等の門前に設けられました。

その先に
日本三黒門の一つである遊行寺の総門があります、公式寺名の清浄光寺と大書きされています。

黒門をくぐると左手に
板割浅太郎の墓があります、国定忠治の賭場が勘助の手引きで御用となりました。

忠治は子分の
浅太郎を疑った、浅太郎は身の潔白を証明するために伯父の勘助幼子を殺してしまった。
藤沢広小路跡 黒門 板割浅太郎墓

 その後、渡世から足を洗い、仏門に入り、縁あって遊行寺の堂司(堂守)を勤め、勘助親子の菩提を弔ったと云います。

 いとう歯科の前を左折し、境川を朱塗りの遊行寺橋で渡ります、往時は大鋸橋(だいぎりばし)と呼ばれ、高札場が設置されていました。

広重はこの
大鋸橋藤沢宿の宿並、そして背景に遊行寺を誇張して描いています。

橋手前の
鳥居は江の島弁財天への入口を示す第一鳥居です。

江島神社に祀られている弁財天は日本三大弁財天(安芸の宮島、近江の竹生島)のひとつで裸像であるところから参詣客が多く大層賑わいました。
遊行寺橋 東海道五拾参次之内 【藤澤】 遊行寺 広重画

 遊行寺橋を渡り、突当りを右折します、京方面からは左折して遊行寺橋を渡ります。

宿並を進み信号交差点を渡ると右手に重厚な
蔵造りの商家があります。

藤沢本町郵便局手前を左に入ると
笑宿庵跡(しょうしゅくあん)があります、医師小川天祐と子泰堂邸宅跡です、藤沢の古典的地誌を著わしました。

郵便局のスグ先右の
お茶みつはし園の所から右に入ると藤沢公民館があります、この辺りが藤沢御殿跡です。
遊行寺橋分岐 蔵造の旧家 笑宿庵跡 藤沢御殿跡

 藤沢御殿は藤沢宿が整備される以前の慶長元年(1596)に将軍の休憩宿泊施設として設けられ、寛永十一年(1634)三代将軍家光の利用が最後でした。 

 藤沢本町郵便局の隣にラーメンの小松屋があります、飯盛旅籠であった小松屋跡でしょうか。

ねじの大関さんの向かいに
蒔田本陣跡の標柱があります、蒔田源右衛門が勤めました。

当初、藤沢宿には
堀内本陣蒔田本陣の二軒がありましたが、堀内本陣は延享二年(1745)火災のため役を返上し、その後は蒔田本陣一軒となりました。

次いで左手藤沢消防本部の所に
藤沢宿坂戸町問屋場跡の標柱が立っています、杉山弥兵衛が勤めました。

藤沢宿には
大久保町坂戸町に各一軒の問屋場がありました。
小松屋 蒔田本陣跡 問屋場跡

 藤沢消防本部脇に入ると浄土宗の常光寺があります、境内には万治二年(1659)と寛文九年(1669)建立の庚申供養塔があり、カヤ大イチョウが聳えています。

向いの路地に入ると日蓮宗の
妙善寺があります、本陣を勤めた蒔田家の墓があります。

市民病院入口交差点を越して左の路地に入ると真言宗の
荘厳寺があります、本尊は不動明王です。
常光寺 妙善寺 荘厳寺 永勝寺

 宿内左手JAさがみ藤沢支店脇に入ると浄土真宗の永勝寺があります、山門をくぐると左手に旅籠小松屋源蔵が抱えた飯盛女の墓が三十九基あります、藤沢宿には旅籠が四十九軒あり、このうち飯盛女を抱えたのは二十七軒で、一軒に二人ずつ置かれていました。

 宿並の右側、白旗交差点手前の交番脇に入ると源義経首洗井戸があります、腰越の浜へ捨てられた義経の首が潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着し、これを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられています。

白旗交差点を右に入ると
白旗神社があります、義経公を祀っています。

義経の亡霊を恐れた頼朝が義経公を祭神として祀ったものです。
源義経首洗井戸 白旗神社 江ノ島弁財天道標 芭蕉句碑

 社殿下には
江ノ島弁財天道標があります「ゑのしま道、一切衆生、二世安楽」と刻まれています。

境内には
芭蕉句碑「草臥(くたびれ)て 宿かる比(ころ)や 藤の花」があります。

 白旗交差点から宿筋は県道43号藤沢厚木線に変わります。

小田急江ノ島線を
伊勢山橋で跨ぐと右手のかざり屋二階の戸袋に見事な銅板製風神雷神があしらわれています。

隣りの中華料理玉佳の所に
見附跡標柱があります、藤沢宿の上方見附跡(西口)です。

藤沢宿を出ると旧
鵠沼村に入ります、引地川の手前に旧道を残しています。
銅板製風神雷神 鵠沼旧道東 鵠沼旧道西 引地川

 鵠沼旧道はたこ焼風天の右に入り、突当りを左折し、再び県道43号線に合流し、引地川引地橋で渡ります。

 橋を渡ると羽鳥に入り右手に曹洞宗養命寺があります、本尊は国指定重要文化財の運慶作木造薬師如来像です、公開は十二年に一度の寅年に開帳されます。

先の左の段上に
おしゃれ地蔵があります、 「女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉(おしろい)を塗ってお礼をする。」と記されています。

道中の
女性の方、お願いをしてみたら如何でしょうか、このお地蔵さんは男女双体の道祖神です。

メルシャン藤沢工場の正門脇に
七面地蔵尊が安置されています、身代り地蔵です。
養命寺本尊 おしゃれ地蔵 七面地蔵尊

 この地に榎の大木があり、多くの霊魂が集まっていました、昭和の初め東海道の拡張に伴い榎を伐採し、その身代わりとしてこの地蔵が安置されました。

 羽鳥交差点を過ぎると街道は県道44号伊勢原藤沢線になります。

時間差信号機の交差点を過ぎると左手に御菓子処
丸寿があります、献上銘菓、神奈川県指定銘菓大庭城最中の老舗です。

大庭城はここから北方の引地川沿いにありました、この地を治めた大庭氏の居城でしたが、北条早雲によって落城し廃城となりました。

街道が右に大きくカーブすると右手の丘に
鳥居があります、狐が献納されていますから稲荷神社でしょうか。
大庭城最中 稲荷神社 四ツ谷交差点

 街道は四ツ谷交差点に突当り、
国道1号線に吸収されます。

交差点の斜め向いには緑青の葺いた
が望めます。

 四ツ谷交差点を横断すると右手に不動明王を乗せた延宝四年(1676)建立の大山道道標「是より右大山みち」が祠の中に安置されています。

道標横から細道に入ると天保十一年(1840)建立の
大山道一の鳥居があります。

江戸時代は江戸町人の
大山参詣が盛んでした、源頼朝が大山に抜身の小刀を奉納したことにちなみ、参詣者は木太刀を担いで行き納めました。

大山は
山岳信仰ですから女人禁制でした。
大山道道標 大山一の鳥居 名残り松 一里塚跡

 帰りは江ノ島まで足をのばし精進落しと称して羽目を外しました、正に落語の大山詣りそのものの世界です。

街道に戻り、羽鳥交番前交差点を越すと
松並木の名残りが現れます、ここが四ツ谷の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて十三里目です。

 二ツ家公民館前交差点の所に二ツ家稲荷神社があります、 この辺りは立場二軒の茶屋があり、大山詣での参詣者や江ノ島鎌倉の物見遊山の人々で賑わったと云います。

現在の二ツ谷の地名はこの二軒の茶屋(二ツ家)に由来しています。

境内には寛文十年(1670)建立の
庚申供養塔(藤沢市指定重要文化財)があります、供養塔には三猿が陽刻されています。

六十日に一度巡ってくる
庚申の日の夜を眠らずに過ごし、無病息災長寿を願う信仰です、これは「人の体内にいる三尸(さんし)の虫が庚申の夜、天に昇ってその人の罪過を天帝に告げる為、寿命を縮められる」とする中国の道教に由来しています。
二ツ家稲荷神社 庚申供養塔

 街道を歩きますと沢山の庚申塔青面金剛像庚申供養塔に出会います、これらは庚申信仰に基づくものです。

庶民は
庚申の夜は徹夜で酒食歓談して過ごしたと云います、往時の暮らしは日の入とともに休み、日の出とともに起床する生活パターンです、庚申の夜の歓談は数少ない娯楽の一つだったのかも知れません。

 大山街道入口交差点の所に西國巡(順)礼供養塔があります、「あふり山 わけいる道に しをり置 つゆのことのは しるしとぞなれ」と刻まれています。

西国三十三箇所観音菩薩巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪科が消滅し、極楽往生できると云われ、巡礼を達成すると記念に供養塔を建立しました。

供養塔の先で
藤沢市から茅ヶ崎市に入ります、赤松歩道橋を越すと右手に明治天皇御小休趾碑があります、明治元年(1868)東幸の際、ここで休息しました。

東小和田交差点を越して本宿町に入ると右手に浄土真宗本願寺派の
上正寺があります。
西國巡禮供養塔 明治天皇碑 上正寺

 境内には旧寛永寺石灯籠があります、寛永寺は徳川将軍家の菩提所です、竿石の銘は延宝九年(1681)と刻まれています、前年に亡くなった四代将軍
徳川家綱の墓前に対馬守安藤重治(重博)が奉納したものです。

 街道に戻り、左側のゴルフ工房左の路地に入ると南無地蔵菩薩立像が祠の中に安置されています。

街道に戻ると左に高野山真言宗の
千手院があります、本尊は十一面千手観世音菩薩です、境内にある十王堂閻魔は広く信仰されています。

小和田交差点手前を右に入ると左手に高野山真言宗山王山
廣徳寺があります。
南無地蔵菩薩 千手院十王堂 廣徳寺 熊野神社

 境内には四国八十八ケ所お砂踏みがあります。

更に先に進むと熊野神社があります、小和田村の鎮守です、参道口に神社では珍しい朱塗りの鐘楼があります。

 小桜町交差点を過ぎると右手に名残り松が一本現れます、この松の根方に旧道痕跡を残しています。

この
旧道はスグ先で国道1号線に吸収されます、楽しいですね、お試しください。

松林小学校入口交差点を過ぎ、菱沼歩道橋の手前右手に
牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)の跡解説があります。

藤沢宿と平塚宿の間には
四谷牡丹餅南湖八幡の立場がありました、牡丹餅立場はその名の通り牡丹餅が名物でした。
小桜町旧道東 小桜町旧道西 牡丹餅立場跡解説

  牡丹餅立場には紀州徳川家が江戸屋敷と国元を直接結ぶ専用の飛脚中継所である七里役所が置かれていました。

 街道は次第に松並木の体裁が整ってきます、茅ケ崎高等学校のフェンス沿いに東海道の松並木解説があります。

街道沿いの
黒松は幹回り二・二メートルで推定樹齢四百年と記されています。

市立病院入口交差点の次を右に入ると曹洞宗の
海前禅寺があります。

本堂前右手の石灯籠は徳川第九代将軍
家重菩提の為、宝暦十一年(1761)播磨国安志城主小笠原信濃守源長逵が奉納したものです。
松並木 松並木解説 海前禅寺

 左の石灯籠は同様に従五位下堀長門守藤原直寛が奉納したものです。

 茅ケ崎市本村一丁目歩道橋を右に入ると八王子神社があります、武士の崇敬が篤く、徳川将軍家より社領の寄進を受けています。

境内には
庚申塔道祖神があります。

相模線を跨ぐと一里塚交差点に出ます、交差点手前の左手に
茅ケ崎の一里塚があります、江戸日本橋より数えて十四里目です。

茅ケ崎駅前交差点を越えた右手の茅ケ崎市役所の敷地内に
寛永寺石燈籠が四基移設されています。
八王子神社 茅ケ崎の一里塚 寛永寺石灯籠

 向って右から二番目は徳川四代将軍家綱の供養に延寛九年(1681)に大名から寄進されたものです。

一、三、四番目は徳川十代将軍
家治の供養に天明六年(1786)に諸大名から寄進されたものです。

 茅ヶ崎警察署の隣は厄除茅ヶ崎大師の円蔵寺です、厄年の方はお立ち寄りください。

境内には
乃木希典像水師営のなつめの木二百三高地血染めの岩片等があります。

街道はスグに
十間坂に入ります、「ここからは右に富士、大山、箱根、左に江ノ島、鎌倉、六浦、金沢など見ゆるゆえ」十景坂とも呼ばれました。

街道筋の
第六天神社の祭神は天神七代の神々の内、第六代目の神で国土生成の大神です、社宝として山岡鉄舟寄進掛軸一幅があります。
円蔵寺 第六天神社 金剛院大師堂

 山岡鉄舟
は幕臣でありながら、維新後は新政府に仕えています、東海道通行の際、国家の有りようを祈願したのでしょうか、興味がありますね。

南湖入口交差点を左に入ると高野山真言宗の
金剛院があります、境内には大師堂があります。

  南湖1丁目交差点の先で街道は大きく右(北西)に曲がります、これにより富士山が左に見えるところから南湖の左富士と呼ばれ、吉原の左富士と共に名所になりました、南湖は間の宿として賑わったと云います。

千の川に架かる鳥井戸橋の渡り詰に南湖の左富士之碑があります。

碑の向かいには
鶴嶺八幡宮の赤い大鳥居が聳えています。

社殿は700m続く松並木の参道の先です、茅ヶ崎の
総社で古くから源氏の崇敬を受けました、慶安二年(1649)徳川三代将軍家光より七石の朱印を拝領しています。
南湖の左富士 南湖の左富士之碑 鶴嶺八幡宮鳥居

 八幡宮の大鳥居をくぐったスグ先、右手民家の敷地内に弁慶塚があります。

建久九年(1198)十二月二十七日相模川の
橋落成供養に参列した源頼朝は翌日帰途につき、八幡宮付近にさしかかった時、義経一族の亡霊が現れ、驚いた乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬し重傷を負ってしまった。

翌年、この傷がもとで死亡してしまった、後年里人達が相計り義経一族の霊を慰める為、ここに
弁慶塚を造ったと云います。

下町屋交差点先で街道は左(西)にカーブします、
左富士もここまでです。
弁慶塚 神明神社 道祖神

 下町屋自治会館奥に
神明神社があります、往時、境内には清水があり陰陽師阿部清明が東下りの折、喉を潤したところから清明井戸と呼ばれました。

境内には
厄神大権現と刻まれた石碑や、小祠に安置された男女双体道祖神などがあります。

 街道の左手に東海道名物でかまんがあります、六種類の饅頭があり、普通サイズから最大タテ32cmヨコ22cm(3,500円)まで揃っています。

スグ先の左に
国指定史跡旧相模川橋脚があります、往時はここが相模川の流れでした。

武蔵国稲毛(川崎)の領主
稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架けました。

関東大震災で突如水田が隆起し、旧橋脚が出現しました、この様が再現されています。

新湘南バイパスの高架が覆い被さる、小出川下町屋橋で渡ると今宿に入ります。
でかまん 旧相模川橋脚 日蓮坐像

 今宿交差点を横断すると街道右手に日蓮宗
の上国寺があります、永正十一年(1514)造立の木造日蓮坐像があります(茅ケ崎市指定重要文化財)。

 次いで日蓮宗の信隆寺があります、永禄七年(1564)造立の木像日蓮坐像があります(茅ケ崎市指定重要文化財)。

産業道路入口交差点を越した先の右手に
男女双体道祖神を納めた祠があります。

先にも道祖神を二基納めた祠があります、うち一基は
男女双体道祖神です。

相模川を越えて来る
悪霊を見張っているのでしょう。
信隆寺 道祖神 道祖神 相模川

 相模川馬入橋で渡ります、相模川は甲州猿橋の下を流れる桂川に源を発し、流末は相模湾に注いでいます。

相模川の河口付近は
馬入川と呼ばれます、頼朝が橋供養の渡り初めの際、馬が突如暴れ出し、頼朝を振り落とし、馬は落水し死亡しました。

以来
馬入川と呼ばれ、架橋は不吉とされ舟渡しとなりました、馬入の渡しは十二文でした。

馬入橋の渡り詰左に
陸軍架橋記念碑があります、関東大震災により馬入橋が倒壊、急遽陸軍の工兵大隊が復旧させました。

渡詰右のホテルサンライフガーデンの所に
明治天皇馬入御小休所趾碑があります、ここには石垣と呼ばれる豪商の屋敷があり、明治天皇は東海道通行の際、二度ここで休息をしました。
陸軍架橋碑 明治天皇碑

 工業団地入口交差点右手前に明治神宮献上銘菓ちょんまげ最中の弘栄堂があります。

次の馬入交差点右手のヘアーサロンエンジェル脇に入ると
丁髷塚(ちょんまげ)があります。

むかし相模国府祭(こうのまち)の日の夕暮れ、東海道を帰還途中の一之宮寒川神社平塚八幡宮の神輿をかつぐ若者同士がささいな事から喧嘩になり、馬入の若者達が一之宮の神輿を奪い取り、馬入川に投げ込んでしまった。

代官江川太郎左衛門は取り調べの結果、一之宮の神輿に乱暴をはたらいた馬入村の若者十六人打首の刑を下しました。

処刑の日、代官は若者達の丁髷(ちょんまげ)だけを切り落とし、打首に代えました、この処置に若者達はもちろん、村人達は涙にかきくれたといいます。
ちょんまげ最中 丁髷塚

 丁髷塚はこの若者達十六名のちょんまげを埋めた所です。


 馬入川に投げ込まれた一之宮の神輿は南湖の網元である孫七が漁の最中に発見し、寒川神社に届けたところ、毎年同神社の神輿が、そのお礼のため南湖の浜に赴き、(みそぎ)をするようになったと云います、これが今に続く浜降祭の起源です。

弘栄堂の裏に高野山真言宗の
蓮光寺があり、境内に持ち上げ地蔵があります、心のなかで願いごとを念じながら持ち上げ、軽く感じたら願いが叶う、重く感じたら叶わないと云うお地蔵さんです。

馬入交差点の左手に
東海道馬入一里塚跡碑があります。
浜降際 持ち上げ地蔵 馬入一里塚跡

 江戸日本橋より数えて十五里目です、北塚の前には
井戸が、南塚には川会所川高札がありました。

 平塚駅前交差点を右に進むと平塚八幡宮があります、相模国の八幡宮の総鎮守です。

源頼朝神馬を奉納し、妻北条政子の安産を祈願しています。

武田信玄北条氏康を攻める際、当社を陣所としたため、戦火に遭い焼失しましたが、徳川家康は自ら参拝し、社殿を再建しました。

街道に戻り、平塚駅前交差点から三本目
片野屋の所を左折、二本目の長崎屋の所を右折し、一本目を右折すると紅谷公園があります、園内にお菊塚があります。

平塚宿の役人
真壁源右衛門の娘、お菊が江戸の旗本青山主膳方で行儀見習い中、主人愛蔵の皿を破損し手打ちとなりました。
平塚八幡宮 お菊塚

 父親は長持ちに入れられた娘の亡骸を
馬入川の渡しで受け取り、宿内に葬りました、刑死人の例にならい、墓を作らずセンダンの木を植えて墓標とし、その際「もの言はぬ 晴れ着姿や 菫(すみれ)草」の一句を添えています。

 PM12:06 平塚宿着 大磯宿まで4.0km

 平塚駅前交差点がマップ上の平塚宿の起点です、しかし実際にはまだ平塚宿には入っていません。

街道の両側はアーケードの商店街(
湘南スターモール)になります、この通りが有名な七夕飾りのメインストリートになります。

商店街には平塚名物の
落花生店があります。

市民プラザ交差点の先に
江戸見附が再現されています、平塚宿到着です。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
平塚宿の宿内家数は四百四十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠五十四軒(大二、中二十九、小二十三)で宿内人口は二千百十四人、宿並は東から十八軒町、二十四軒町、東仲町、西仲町、柳町の五町で構成されていました。
落花生店 江戸見附跡

 市民センター横の見附台緑地内に平塚市保全樹木のクスノキがあります、その奥白塗りの木造建物は旧平塚小学校校社です。

宿並の右手茅沼酒店の所が
山本安兵衛脇本陣跡です。

宿並の左手魚㐂代の所が
東組問屋場跡です、西組問屋場と十日交代で問屋業務を勤めました。

次いで宿並右手山口屋茶舗の所が
高札場跡です、規模は長さ二間半(約五メートル)、横一間(約一・八メートル)、高さ一丈一尺(約三メートル)でした。
旧平塚小学校 脇本陣跡 東組問屋場跡 高札場跡

 宿並の右手神奈川銀行の所が本陣跡です、平塚宿本陣旧跡碑があります、代々加藤七郎兵衛が勤めました。

徳川十四代将軍
家茂は上洛に際して、ここで二度休息しています。

明治天皇は東京行幸と遷都に際して、ここで二度休息しています。

なまこ壁の
平塚市消防団第一分団の前で、宿並は斜め右に入ります。

この消防団の所が
問屋場跡です。
本陣跡 平塚市消防団第一分団前分岐 問屋場跡

 八幡新宿
は平塚宿の加宿となり、問屋場が新設され、西組問屋場と呼ばれ東組問屋場と十日交代で問屋業務を勤めました。

 それではここで寄り道をしましょう、消防団脇に入ると正面に法要寺があります、日蓮大聖人御一泊霊場です。

日蓮が宿泊した
平塚左衛門尉泰知宅を寺院にしたものです、山門前の寛保元年(1741)建立の七面大明神は日蓮宗の守護神です。

法要寺の左隣に
平塚があります、板東平氏の始祖真砂子が旅の途中、この地で亡くなりが築かれましたが、この塚が平だったところから平塚(たいらつか)と呼ばれ、これが地名の由来となりました。

先に
春日神社があります、平塚宿の鎮守です。
法要寺 平塚 春日神社

 春日神社から法要寺方面に戻り二本目を左に入ると、左に墓所があり、正面に鏡山お初の墓があります。

加賀見山旧錦絵という歌舞伎で活躍する鏡山お初のモデル、本名たつの墓であると伝えられています。

おたつは平塚宿の松田久兵衛の娘で荻野山中藩大久保長門守の江戸屋敷の中﨟(ちゅうろう岡本みつ女の許に奉公にあがっていました。

主人
みつ女が年寄沢野から侮辱を受け自害すると、ただちに、沢野を訪ねて、主が自害に用いた小脇差で仇を討ったという烈女です、後に賞せられて年寄りとなりました。

それでは消防団建物に戻り、宿並を進みましょう、正面には
高麗山が望めます、突当りを左折します。
鏡山お初の墓 八幡新宿分岐

 突当りの古花水橋交差点を横断すると京方見附跡があります、石垣傍示杭が復元されています、実際の傍示杭には自是(これより)江川太郎左衛門御代官所東海道平塚宿と書かれていました。

広重はこの
傍示杭を手前に、街道の先には花水橋、遠景に丸い高麗山、隠れるように冠雪した富士、そして右手には大山詣りで知られた大山を描いています。

大山の下に描かれた林は徳川家康が鷹狩の際に宿所とした
中原御殿を取り囲んでいた中原御林とも云われています。
京方見附跡 東海道五拾三次之内 【平塚】 縄手道 広重画

 相模貨物駅前交差点からは国道1号線の歩道ではなく、下の道を歩きます。

向いの階段を上がると松が植えられ
平成の一里塚があります、解説には「東海道の新しい道しるべとして、また、歩行者の休憩場所として、この地に整備されました」と記されています。

ここからの
高麗山は絶景です、唐、新羅に敗れた高句麗の王族高麗若光(こまのじゃっこう)らが移り住んだ所と云います。

の花びらが川面を覆ったと云う花水川(金目川)を花水橋で渡ります。
花水橋アプローチ 平成の一里塚 花水川&高麗山

 花水橋を渡ると旧高麗寺村に入ります、先の左に浄土真宗本願寺派の善福寺があります、虎御前曽我十郎との子祐若(すけわか)が世の無常を感じ出家し、後に親鸞の弟子となり了源という法名を賜り、この地に草庵をむすんだと云います。

本尊の
木造阿弥陀如来像は県重文、木造伝了源坐像は国重文です。

高麗交差点角には
茅葺き屋根の旧家があります、良い感じですね!

先に
高来(たかく)神社の鳥居があります、高句麗からの渡来人による創建と云われます。
善福寺 茅葺きの旧家 高来神社鳥居

高来神社は古来より高麗、大磯の鎮守です。

養老元年(717)神社内に僧行基が
高麗寺(こうらいじ)を創建し、神仏習合の聖地となりました、寛永十一年(1634)には東照権現(徳川家康)が勧請されました。

しかし明治の世になると神仏分離の政策により
高麗寺は廃寺となりました。

高来神社の隣に慶長十八年(1613)創建の
慶覚寺があります、高麗寺の末寺でした。

その関係から廃寺になった
高麗寺の寺宝が多数移設されています、代表的なものとしては木造地蔵菩薩坐像(神奈川県指定重要文化財)、木造仁王像(大磯町指定有形文化財)等があります。
高来神社 慶覚院

 神社先の右に虚空蔵堂があります、往時はここに下馬標が立っていました、参勤交代の殿様も駕篭から降りて東照権現の併祀された高麗寺に最敬礼をし、毛槍を下げて寺領内を静かに通り、領民の土下座はなかったと云います。

旧道は
化粧(けわい)坂交差点から斜め右に分岐します。

時計はジャスト1:00を指しています、分岐してスグの
そば処車屋さんに飛び込みました。

オーダーは
虎御前にちなむ名物化粧そばです、大根おろしを化粧の白粉(おしろい)に見立てています。
虚空蔵堂 車屋 化粧そば

 とは云うものの今日は余り白くありません、化粧ののりが悪かったのでしょうか、この化粧そば、冷たいのもあります。

 化粧坂を進むと左手に化粧井戸があります、大磯の白拍子(鎌倉時代の遊女)であった虎御前は、この井戸水で朝な夕な化粧をしたと云います。

虎御前は日本三大仇討ちの一つ
曾我兄弟の兄十郎と恋仲になりました。

井戸の先が
化粧坂の一里塚跡です、日本橋より十六里目です。

やがて街道は
東海道本線で分断されます。

突当たりの
車止のスロープを下り竹縄架道橋(地下道)で本線をくぐります、出口にも車止が設置されています。
化粧井戸 化粧坂の一里塚跡 竹縄架道橋

 PM1:39 大磯宿着 小田原宿まで17.0km

 東海道本線をくぐった先に姿の良い松があります、この辺りが江戸方見附跡です、大磯宿に到着です。

広重は夕暮れ時の
大磯宿江方戸見附宿並そして画面左に小余綾(こゆるぎ)の磯を描き、虎御前十郎の命日である五月二十八日に流す涙雨を降らせています。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
大磯宿の宿内家数は六百七十六軒、うち本陣三、脇本陣ナシ、問屋場二、旅籠六十六軒で宿内人口は三千五十六人(男千五百十七人 女千四百八十九人)でした。
化粧坂の松 東海道五拾三次之内 【大磯】 虎ケ雨 広重画

 大磯
は平安末期に相模國の国府が置かれ、大磯宿は鎌倉時代からの宿駅であり、曽我物語のヒロイン虎御前の舞台として知られた宿場です。

 宿並は干物を商う魚屋さんの先三沢橋東交差点を右折し、国道1号線に合流します。

ここを左に進むと右手に
日枝神社があります、境内には多数の青面金剛道祖神が集められています。

三澤橋を渡ると左に
神明神社があります、神明町の地名由来となり、神明町の氏神として信仰を集めています。

大磯駅入口交差点がマップの起点です。

スグ先の左に火防の神を祀る
穐(秋)葉神社があります。
日枝神社 神明神社 穐葉社

 宝暦十二年(1762)一月十九日の大火で大磯宿は焼失、その後遠州秋葉山から火伏の神秋葉大権現を勧請したものです。

 秋葉神社の奥に延台寺があります、山門前には虎御石と刻まれた碑があります。

虎御前は高麗山北麓に住む山下長者が虎池弁財天に願をかけて授かった子です、これが為と名づけられました。

この時、弁財天のお告げの印として
小さな石が枕元にありました、長者は邸内にお堂を建て虎御石と名づけて大切に祀ったところ、不思議なことにこの石は虎女の成長とともに大きくなっていったと云います。

虎女はいつしか曽我兄弟の兄の
十郎と恋仲になりました、ある時十郎が虎女の家で兄弟の仇工藤祐経に矢を射掛けられた時、虎御石は十郎の身代りになったと云います、虎御石にはこの時の矢傷を残しています。

建久四年(1193)
源頼朝が行った富士の裾野の巻狩の際に、曽我十郎祐成と五郎時到の兄弟は父の仇である工藤祐経を討ち取り、本懐を果すも兄弟は非業の死を遂げてしまった。
延台寺法虎庵

 これを知った
虎御前は十九歳でとなり、諸国を巡った後、この地に戻り延台寺に隠棲したと云います。

 穐葉神社交差点先の右中南信用金庫駐車場の所が北組問屋場跡です。

先のNTT大磯の所が
小島本陣跡です、隣のそば処古伊勢屋の前に解説があります。

明治元年(1868)十月九日東京に向かう
明治天皇はここに宿泊しています。

大磯消防署前交差点を右に入ると
地福寺があります、島崎藤村静子夫妻の墓があります。

宿並に戻ると中信用金庫本店の所が
尾上本陣跡です、建坪二百三十八坪でした。
北組問屋場跡 小島本陣跡 島崎藤村夫妻の墓 尾上本陣跡

 宿並の左汐彩のお宿大内館が石井本陣跡です、建坪二百三十五坪でした。

宿並右の
新杵菓子舗は銘菓虎子まんぢゅう西行まんぢゅうの老舗です。

照ケ崎海岸入口交差点の左に
大磯照ケ崎海水浴場碑があります。

初代軍医総監
松本順の尽力により、明治 十八年(1885)わが国最初の海水浴場として大磯海水浴場が照ケ先海岸に開設されました。
石井本陣跡 新杵 海水浴場碑 大磯旧道

交差点から国道1号線は大きく右(西)にカーブします、このカーブの裏に逆L字の旧道が残っています。

旧道
にはこのL字路はよくあることです、しかし車社会にとってははなはだ不便です、そこで内側にカーブをつけて解決しているのです。

旧道に入ると右に
南組問屋場跡があります。

国道と旧道の三角地に
新島襄先生終焉之地碑があります、米国に密航しキリスト教主義教育を受け、帰国後同志社大学創設に尽力しました。

新島襄はここにあった旅館
百足(むかで)で、明治二十三年(1890)亡くなりました。
大磯の旧道トレース 新島襄終焉之地碑

 逆L字の旧道を進み
さざれ石交差点で国道1号線に合流します。

 国道に合流した先の右手民家内に高札場跡標識があります。

次いで左に
湘南発祥之地碑があります、中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南と云い、大磯がこの地に似ているところから湘南と呼ばれるようになりました。

隣りが
鴫立庵(しぎたつあん)です、寛文四年(1664)小田原の崇雪がこの地に草庵を結び、元禄八年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付けました。

現在では、京都の
落柿舎(らくししゃ)・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つと云われます。
高札場跡 湘南発祥之地碑 鴫立庵

 宿並の右手奥に日蓮宗大乗山妙昌寺があります、境内には鬼子母尊神堂があります。

妙昌寺先の路地を右に入ると
島崎藤村邸があります、藤村は中山道馬籠宿の島崎本陣の子として生まれました。

後に
大磯の温暖なこの地をこよなく愛し邸を構えました、昭和十八年(1943)八月二十一日静子夫人が東方の門の原稿を朗読中頭痛を訴え急に倒れました。

翌日、
涼しい風だねという言葉を残して永眠しました、故郷馬籠の永昌寺には遺髪と爪を納めた墓があります。
妙昌寺 島崎藤村邸 上方見附跡

  スグ先の統監道バス停の所が上方見附跡です、大磯宿もここまでです。

 東海道松並木歩道橋を過ぎると、快適な松並木になります自動車道より高い歩道を進みます。

滄浪閣前交差点の右手前に
宇賀神社があります、西小磯の稲荷講の中心でした。

宇賀神社の向いに
伊藤公滄浪閣之舊蹟碑があります、長州藩出身で日本初代総理大臣をつとめた伊藤博文の邸跡です。

以前は
中国料理レストランでしたが、旧伊藤邸保存活用シニア邸宅プロジェクトによる老人ホームに転用との開発構想板が掲げられていました。
松並木 宇賀神社 伊藤博文邸

 次いで街道の左手に八坂神社があります、境内にはクスノキが聳えています。

小磯幼稚園入口交差点の右手前に
西國三十三所順禮講供養塔道祖神があります。

血洗川切通橋で渡ると左に屋根を頂いた先程と同種の道祖神があり、傍らに水神が祀られています。

先の
城山(じょうやま)公園前交差点を斜め右に入ります。
八坂神社 西國順礼供養塔 道祖神 城山公園前分岐

城山公園は小磯城址です、文明九年(1477)長尾景春が謀叛して山内上杉顕定を滅ぼそうとした時、景春の被官越後五郎四郎が篭城したが、太田道灌に攻められ落城となりました。

明治の世になると
三井財閥本家の別荘地となりました、 街道に面した公園には水場トイレがあります。

旧道の左国道沿いに浄土宗
西長院があります、本尊は行基作の石造地蔵菩薩立像身代わり地蔵と呼ばれています。

辻斬に遭った旅人の身代わりに斬られたと云います、両手足と両足首が欠損し、頸部と胸部に継ぎ目があります。
城山公園 身代わり地蔵 不動川

 Y字路を左に進み
不動川本郷橋で渡ります。

 街道左に真言宗国府山宝前院があります、境内には馬頭観音や樹齢百三十年を超す見事なイチョウクスがあります。

旧道が国道1号線に沿ってくると左手に
国府本郷の一里塚跡があります、実際の塚位置は200m程江戸寄りでした、江戸日本橋より数えて十七里目です。

旧道の左、大磯警察署の向いに
道祖神石造物があります。

街道の右手大磯ムスタングの向いに
男女双体道祖神地神社があります。
宝前院 一里塚跡 道祖神 男女双体道祖神

 旧道は国府新宿交差点で国道1号線に合流します、京方面からは左の旧道に入ります。

国府新宿交差点には
六社神社の六社をあらわした石があります、一宮寒川神社、二宮川勾神社、三宮比々多神社、四宮前鳥神社平塚八幡宮柳田大明神の六社です。

先の
六所神社鳥居の足元には道祖神が鎮座しています。
六社標石 六社神社鳥居 道祖神 宝積院

  鳥居をくぐって進むと右手に真言宗の宝積寺があります、寛永八年(1631)銘の
梵鐘は大磯町最古です、境内に聳えるカヤの大樹は樹齢三百年以上です。

 東海道本線ガードをくぐった先に六所神社があります、 国府に赴任した国司が府内六社月参りの手間を省くために六社を一ケ所に集めたものと云います、都合が良いですね。

こゆるぎハイツ入口交差点の手前右の
国府新宿福祉館の敷地内に道祖神が祀られています。

街道を進み
葛川塩海橋で渡ります、ここに塩海の名残り標識があります、二宮村では海水からの製塩が盛んに行われていました。
六所神社 道祖神 塩海の名残 山西旧道口

 二宮駅を過ぎ、吾妻山入口交差点先を斜め右に入ります、
山西旧道です、分岐ポイントには旧東海道の名残り標識があります。

 旧道に入ると右手に吾妻神社(あずまじんじゃ)の鳥居があります、社殿は吾妻山の山腹に鎮座しています。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の途次、三浦の走水から海路上総に渡ろうとすると、突如として海が大荒れとなりました。

妻の
弟橘媛命(オトタチバナヒメノミコト)は海神の怒りを鎮めるため、身を投じると海はたちまち穏やかになり、七日後にが海辺に流れつき、それを祀ったのがこの神社です。

次いで
ヤマニ醤油があります、手造り刺身しょうゆの蔵元です。

次いで左手に
梅澤橋標石があります。
吾妻神社鳥居 ヤマニ醤油 梅澤橋

 梅澤橋の向いの細道を右に入ると小沢観音堂があります、相模西国三十三箇所観音である十一面観世音菩薩を安置しています。

境内には弘仁二年(1845)建立の
地神社があります。

旧道に戻ると右手に真言宗
等覚院があります、梵鐘は寛永八年(1631)の造立で、二宮町最古です(二宮町重要文化財)。

境内の
フジは元和九年(1623)三代将軍家光上洛の際上覧し、寛文の頃仁和寺宮が関東下向の際めでて、藤巻寺の別号を与えたと云います。
小沢観音堂 等覚院の梵鐘 等覚院のフジ

 旧道は山西交差点で国道1号線に合流します。

この合流ポイントには
道祖神天社神等の石仏石塔があります。

国道をわずかに歩き、
押切坂上交差点から斜め左の旧道に入ります、この分岐ポイントには旧東海道の名残り標識があります。

旧道に入ると右手に
史蹟東海道一里塚の跡碑があります、二宮の一里塚跡です。

江戸日本橋より数えて十八里目です、右(北)塚には
ケヤキ、左(南)塚にはエノキが植えられていました。
石仏石塔群 押切坂旧道東口 一里塚跡

一里塚跡、先の川勾歩道橋で国道1号線を横断すると右手に茶屋薬師堂があります、寄木造の薬師如来坐像が安置されています(二宮町重要文化財)。

押切坂の頂に
松本本陣の跡があります、この地は大磯宿と小田原宿の中間に位置し間の宿梅沢の立場と呼ばれました。

ここは往時
相模湾が一望の景勝地でした、茶屋本陣松屋蔦屋釜成屋等が軒を連ね、南湖に次いで賑わった立場でした。

押切坂の下りになると右手に
稲荷神社、次いで男女双体道祖神があります。
茶屋薬師堂 茶屋本陣跡 稲荷神社 男女双体道祖神

押切坂を下り切ると国道1号線に合流します、京方面からはバイクショップオートセンタースギヤマの所から斜め右の押切坂の上り坂に入ります。

中村川押切橋で渡ると小田原に入ります、橘インター入口交差点を越すと右手に浅間神社があります。

宝永四年(1707)
富士山の大噴火による火山岩がこの地に落下し、これを納めています、境内には明和五年(1768)建立の庚申塔道祖神があります。

やがて街道の左手には
相模湾が望めるようになります、天気に恵まれれば三浦半島から真鶴越しに伊豆そして伊豆大島のパノラマが広がります。
押切旧道西口 浅間神社 史蹟車坂

 東前川交差点を越すと右手に
史跡車坂の標柱があります、車坂は景勝地でした、解説にはこの車坂を詠んだ和歌三首が記されています。

「鳴神の 声もしきりに 車坂 とどろかしふる ゆふ立の空」 
太田道灌
「浜辺なる 前川瀬を 逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも」 
源実朝
「浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月」 
北林禅尼阿仏尼) 

 街道左手の小田原警察署前羽駐在所を過ぎて、右手広沢工務店手前の路地に天保五年(1834)建立の大山道標があります。

道標には
従是大山道と刻まれ、不動明王を乗せています、背後には秋葉山常夜燈道祖神があります。

前羽小学校前交差点を越すと、右手の
滝沢建築工房の所に男女双体道祖神があります。

次いで右手
中宿公民館石塔があります、風化が進み判読不明です。
大山道道標 男女双体道祖神 石塔 男女双体道祖神

 うまそうな自家製干物を商う鮮魚岩堀を過ぎると、
西前川交差点の所に男女双体道祖神があります。

 街道は石井石材店の所で海岸に最接近します、ここから石段を下ると正面は相模灘です、目を右に転じると、これから向かう箱根連山が一望です。

のんき亭を過ぎ、左手の
武井内科医院の向いの上り坂に入ります、旧道痕跡です。

道なりに進み、下ると国府津駅前交差点に出ます、途中には
男女双体道祖神があります。
海岸 国府津旧道東口 男女双体道祖神 国府津旧道西口

 旧道と断定はできませんが、限りなく濃厚です、何か情報があれば教えて下さい。

 国府津駅前交差点先の左に親鸞聖人御庵室御勧堂碑があります、親鸞上人はここに草庵をむすび、七年間布教につとめました。

先の右手に真宗大谷派
真楽寺があります、元は天台宗でしたが、親鸞の教化で改宗し、真楽寺と命名されました、境内のボダイジュは親鸞上人手植えと云われています。

森戸川親木橋で渡り、先の小八幡3丁目交差点を越すと左に小八幡の一里塚跡解説があります。
親鸞旧跡 真楽寺 ボダイジュ 小八幡の一里塚跡

 江戸日本橋より数えて十九里目です。

 宮の前交差点の手前右の筋に入ると八幡神社があります、小八幡村の鎮守です。

鎮守の森は小田原市指定保存樹木です、境内には道祖神群があります。

宮の前交差点を右に入ると八幡山神明院
三寶寺があります、境内には六地蔵があり、飛び石に石臼が使用されています。

酒匂小学校の校庭には
クスの大樹が聳えています。
八幡神社 三寶寺 酒匂小のクスノキ 道祖神

 右長楽寺参道口の向いに道祖神が安置されています。

 街道を進み酒匂3丁目交差点手前右手に大見寺があります、墓所には小嶋家の墓石である宝篋印塔五輪塔があります。

小嶋家は鎌倉時代からの名家で、北条時代には酒匂郷の小代官を勤め、江戸時代になると名主組頭役を勤めました。

酒匂3丁目交差点を越すと右手に豪壮な門と黒板塀の旧家があります、
川辺本陣跡です、酒匂川の渡しを控え、川留めに備えた茶屋本陣でしょう。

旧本陣の向いに
不動尊があります、成田山不動明王小社です。
大見寺 旧川辺本陣跡 不動尊

 保健センター入口交差点を右に進むと、浄土宗の大経寺があります、境内には芭蕉句碑「人もみぬ 春の鏡や うらの梅」があります。

更に進むと
酒匂神社があります、大和朝廷から派遣された統治者が守護神として八幡社を祀ったのが最初です。

街道に戻りわずかに進むと右手に日蓮宗の
法船寺があります、文永十一年(1274)身延山に向かう日蓮は酒匂川の増水に遭い、ここの地蔵堂に一泊、以降日蓮宗に改宗したと云います。
芭蕉句碑 酒匂神社 法船寺五重塔 酒匂川の渡し碑

 本堂脇には
五重塔の精巧なミニチュアがあります。

酒匂川手前の酒匂橋東側交差点を右に入ると
酒匂川の渡し碑があります。

 古くは船渡しでしたが、延宝三年(1674)徒歩渡(かちわたり)となりました。

夏は川越人足による渡しが行われ、冬は仮橋が架けられました。

広重はこの酒匂川の渡し風景を小田原として取り上げています。


箱根山を背景にし、十六人の人足が駕篭ごと運ぶ
大高欄蓮台、人足四人が担ぐ平蓮台、人足一人が肩に担ぐ、それぞれの渡し風景が描かれています。
酒匂川 東海道五拾三次之内 小田原 【酒匂川】

  酒匂橋は右(北)側の歩道を通行します、こちら側が渡し場サイドだからです。

橋を渡り、
トヨタカローラ神奈川とローソン旧エッソ)の間の細道に入ります、突当たりの道筋が渡し場からの旧道です。

右に進むと
渡し場跡ですが、遺構も標識の設置もありませんが二宮金次郎表彰の地碑があります。

河原で小田原藩主
大久保忠真が江戸に向かう際に、領民十三名の表彰を行ない、その中に二宮金次郎がいたと碑に刻まれています。

旧道を戻ると右手に
網一色八幡神社があります。
網一色旧道口 二宮金次郎碑 網一色八幡神社

 網一色村の鎮守です、境内の樹木は小田原市指定保存樹林です。

 網一色八幡神社から道なりに進み、ビジネス高校前交差点国道1号線を横断して進みます。

突当りを右折する道筋が
東海道です、しかしここを直進し、突当りを右折し、更にその先を右折すると新田義貞公首塚があります。

建武の中興の桂石であった
新田義貞は北陸を転戦中、延元三年(1338)越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級が晒されました。

義貞の家臣は主君義貞の晒し首を奪い返して、義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るために東海道を下りました。

しかしここ
網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまい、そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられています。
新田義貞首塚 新田義貞墓

 旧道を進むと信号常剱寺入口で国道1号線に合流します。

スグ先の山王小学校入口交差点を左に入ると
上杉神社があります、関東管領平井城主上杉憲政の嫡男龍若丸(当時十一才又は十三才)は天文二十年(1551)平井城落城前、降伏の使いとして重臣六人と共に小田原の北条氏康のもとに出向いてきました。

しかし氏康は一行を一色の松原で磔に処してしまった、これを知った小田原町民は一行を哀れみ、
五輪塔を立てて祀り、供養しました、上杉神社の祠の中には一行の五輪塔が安置されています。
上杉神社 山王神社 北條稲荷蛙石

 さんのう川
山王橋で渡ると、右手に山王神社があります。天正十八年(1590)小田原に着陣した徳川家康は日々参詣したと云います。

浜町歩道橋の手前を左に入り、一本目を右折し、次を左折すると正面に北條稲荷神社があります、境内には蛙石(かわずいし)があります。

元は
小田原城内にありました、凶事が起こる前には鳴き出す石で、小田原城落城の際には盛んに鳴いたと云います。

 PM5:49 小田原宿着

 浜町歩道橋の所が江戸口見附跡です、歩道橋の右には標柱が立っています、小田原宿に到着です!

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
小田原宿の宿内家数は千五百四十二軒、うち本陣四、脇本陣四、旅籠九十五軒(大十七、中三十一、小四十七)で宿内人口は五千四百四人(男二千八百十二人 女二千五百九十二人)でした。

小田原は
城下町として栄えましたが、何といっても東海道最大の難所である箱根越えを控え大いに賑わいました。

歩道橋の左に
江戸口見付並一里塚址碑があります。
江戸口見附跡 大正初期の江戸口見附 一里塚跡

 山王原の一里塚です、江戸日本橋より数えて二十里目です。

 小田原宿の宿並は新宿町から始まります、東海道の付け替えの時に出来た新町です、藩主帰城時の出迎え場でした。

新宿交差点を左折すると、鍋町に入ります、鍋などを造る鋳物師の町でした。

一本目を右折します、名物の
蒲鉾を商う大店が軒を連ねています。

万町(よろっちょう)に入ります、七里役所という紀州藩の飛脚継立所がありました、江戸時代末期には旅籠が五軒程あり、小田原提灯作りの家もありました。
新宿町 鍋町 万町 高梨町

 次いで
高梨町に入ります、ここには下の問屋場が置かれ、中宿の上の問屋場と十日交代で勤めました。

 宮前町(みやのまえちょう)に入ると左手に高齢者向け賃貸住宅プラージュ古清水があります、ここが古清水脇本陣跡です、二階に資料館があります。

隣りが
清水金左衛門本陣跡です、敷地の奥に明治天皇宮ノ前行在所址碑があります。

清水家町年寄りも勤め、宿場全体の掌握を行っていました、隣りの古清水脇本陣は代々清水家のが勤めました。

本陣跡の先を右に入ると正面に
松原神社があります、小田原宿の総鎮守です、歴代城主の崇敬を受けました。
古清水脇本陣跡 清水本陣跡 松原神社

 宿並に戻ると左手に小田原宿なりわい交流館があります、お休み処になっています。

建物は小田原の典型的な商家の造りである
出桁造りで二階は出格子窓になっています。

交流館の前が
本町交差点です、ここがマップの起点です。

本日はここまでです!

だいぶ陽も長くなり
街道ウォークも楽になってきました。
なりわい交流館

 今回は
大変稔りの多い街道ウォークになりました、各自治体の努力により一里塚の標識が多数新設されていました。

この一里塚は往時の旅人にとって重要なものでしたが、今日
街道ウォーカーにとっても同じです。

しかし花水橋の
平成の一里塚は本来の意味ではなく混乱を招くのみで意味が無いように思えます、勇み足ではないでしょうか。

各宿場の
5点セット(本陣、脇本陣、問屋場、高札場、両見附)の標識及び解説は充実してきました、平塚宿江戸見附の再現は素晴らしいです。

圧巻は長年の懸案であった大磯宿の照ケ崎海岸入口交差点裏の
旧道が確認できたことです、これも解説板に明記されていました。

には少し早かったですが、杉花粉は満開でした。

帰りの車中は鼻をすすりながら、例の
缶チューハイです。



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