道中日記 3-168 東海道 ( 石部 - 京三条大橋 ) 40.4km

 ホテルを暗いうちにチェックアウトします。

JR草津線の始発AM5:36柘植(つげ)駅行きに乗車、車中にてコンビニで調達したサンドイッチと牛乳で朝食を摂ります。

10分で列車は
石部駅に滑り込みます。

東海道最終行程
三日目、そして最終日です、ハリキッテ参りましょう。

街道はまだ朝ぼらけの中です。

 平成21年03月19日 AM5:55 石部宿出立 草津宿(上道ルート)まで10.4km

 街道は西縄手と呼ばれ松並木でした、左手に石部宿燈籠公園があります、ここは目見改場(めみえあらためば)でした、京方面からの参勤交替の大名行列はここで衣服を改め、隊列を整えて、「下に〜下に〜」と宿場に入りました。

街道は
村井川第3号町道橋で渡ります、ここから直進する道筋は下道、ゴーシュー工場手前を左折して宮川五軒茶屋橋で渡る道筋は上道です。

初期の東海道は
野洲川沿いの下道でしたが、度々洪水に見舞われた為、天和三年(1683)上道が開削されました、しかしかなり遠回りな為、下道を通行する旅人が多く、度々近道禁止令が触れ出されたといいます。
目見改場 下道&上道 金山跡

 それでは
上道を進んでみましょう、右手の荒山は当初、が採掘されたため金山(かなやま)と呼ばれました、江戸後期には石灰(せっかい)が採掘されたため灰山(はいやま)と呼ばれるようになりました。

この
金山は頭が堅く、融通がきかない堅物(かたぶつ)を指す石部金吉の由来になっています。

 道なりに進むと児童公園の前に五軒茶屋の地蔵尊があります、上道の開設に伴い、石部宿から五軒の茶屋がこの地に移住しました。

新設された
国道1号線高架をくぐり、先のY字路を右に進み、名神高速道路栗東20ガードでくぐり、右折します。

名神高速道路に沿って進み、十字路を左折します、右手
栗東21ガードをくぐって来る筋が下道です、ここが両道の合流点です。

街道の右手には
三上山が望めます。
五軒茶屋の地蔵 Y字路分岐 下道合流 三上山

 
三上山(標高432m)は近江富士とも呼ばれます、俵藤太(藤原秀郷)は瀬田唐橋の上で瀬田川に棲む龍神から三上山の大百足(むかで)の退治を依頼され これを弓で首尾よく射止めたという伝説があります。

 街道は伊勢落村を進みます、古の伊勢参宮道であった伊勢大路が訛ったものです。

山本石材店先の左手に浄土真宗本願寺派辨天山
徳生寺があります、境内の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、鎌倉時代に密教系の塔として出現して以来、五輪塔とならんで盛んに造られました(栗東市指定文化財)。

民家を挟んだ左手小路に入ると
寿泉神社があります、天暦七年(953)日吉十禅師が勧請したものです、境内には六地蔵立像が陽刻された石幢があります。

伊勢落村内を進むと左手奥に浄土真宗本願寺派日向山
真教寺があります、延徳二年(1490)の開基で、本尊は慈覚大師作の阿弥陀如来像です。
徳生寺宝篋印塔 寿泉神社 真教寺

 左手の山麓に岩神神社が鎮座しています、天正六年(1578)日向山の山頂にあった霊石が豪雨の為、滑落、村人がこの霊石を祀ったのが始まりです。

左手の山麓に広がる田園を過ぎると右手に浄土真宗本願寺派楞厳山(りょうげんざん)
長徳寺があります、街道沿いに薬師如来堂があり、堂前に膳所藩領界石「従是東膳所領」があります。

街道の右手に
新善光寺道道標「是より一町餘」があります、傍らに案内標識新善光寺300m→があります、それでは右に進んでみましょう。
岩上神社 長徳寺薬師如来堂 領界石 新善光寺道道標

 新善光寺は平重盛の末裔小松宗定が平氏追善の為、信州善光寺に四十八度の参詣を重ね、満願の未明に善光寺如来が夢に現れ「江州一円の衆生済度のため、我を連れ帰れ」と告げた、これにより建長五年(1253)、当地に善光寺如来の分身を安置しました。

宿並に戻ると
六地蔵村に入り、突当りのY字路を左に進みます、京方面からはY字路を右に進みます。

右手
福生寺(ふくしょうじ)の地蔵堂には法界寺の本尊であった平安時代作のヒノキ一木造りの木造地蔵菩薩立像(国重要文化財)が安置されています、六地蔵の地名となった六体の地蔵尊の内の一体です。

左手
浄玖寺を過ぎると、右手に福生寺があります。
新善光寺 法界寺六地蔵 福生寺多層塔

 境内に
石造多層塔があります、鎌倉末期の作で、本来は九層であったといいます。

 街道が右に大きく曲がる左手に和中散本舗があります、道中薬和中散ぜざい(是斎)の本家です、慶長十六年(1611)徳川家康が野洲郡永原陣屋で腹痛を起こし、この薬を服用すると、たちどころに快癒したところから和中散と命名し、評判になりました(国指定史跡)。

六地蔵村には立場が置かれ、
梅木(うめのき)立場と呼ばれました、和中散本舗は茶屋本陣を勤め、小堀遠州作の庭があり、シーボルトも立ち寄っています(国指定名勝)。

仲間5人による第二回
東海道ウォークの際、縁台で休憩をしているとご当主の方から声を掛けられ、家屋内を見学させて頂きました、大きな木製の歯車が組み合わされた製薬機が実に見事でした。

向いは本家ぜざいの
大角弥右衛門の隠居所です(国重要文化財)、敷地内には薬師堂があります。
和中散本舗 大角家隠居所

 左手の分離帯の中に東海道一里塚跡碑があります、六地蔵の一里塚跡です、塚木はムクノキでした、江戸日本橋より数えて百十七里目です。

右手蒲田酒店の所に新設された
修斉学校跡巡査駐在所跡標石があります、先の左手には地蔵祠があります。

左手に風変わりな山門の
高念寺があります、小野村に入ると右手に光圓寺次いで西巌寺があります、参道口の街道沿いに肩かえの松があります、旅人がこの松の下で休憩し、荷物を担ぐ肩を入れ替えたといいます。
一里塚跡 地蔵祠 高念寺 肩かえの松

 街道は手原村に入ります、手原の地名は手孕(てはらみ)伝説に由来しています、旅行中の友人の妻を守る為に、夜毎腹の上にを乗せていたところ、が生まれたといいます。

手原一丁目交差点を越えた右手に
右東海道道標があります、但し、直進ですのでの字は埋められています。

名神高速道路高架をくぐると右手に
行者堂があります、文政三年(1820)の開基です、里内九兵衛なる者が大和國より役行者大尊像をお告げにより背負って持ち帰り小堂を建てたのが始まりといいいます。

旧家が並ぶ手原村内を進むと右手に
里内呉服店があります、明治五年(1872)の創業で国登録文化財です。
東海道道標 行者堂 里内呉服店

 隣りには手原醤油塩谷藤五郎があります、店脇に顕彰碑があります。

左手の
手原稲荷神社の赤い玉垣の街道沿いに明治天皇手原御小休所碑、そして境内に明治天皇御聖跡碑があります。

この稲荷神社は寛元三年(1245)領主の
馬渕広政が勧請したものです、以降、子孫は手原氏と称しました。

東海道名所記に「左の方に稲荷の祠あり、老松ありて傘の如しなり、
傘松の宮という」と著されています。
手原醤油 明治天皇碑 明治天皇碑 稲荷神社

 右手のJR草津線手原駅への十字路を越して進むと左手に猪飼時計店があります、旗本渡辺領代官猪飼邸跡です、遺構を残しています。

先に進むと東海道標石に
すずめ茶屋跡地と刻まれています、右の筋は琵琶湖東岸の支那湊へ通じていました。

この追分にあった
すずめ茶屋菜飯と豆腐の田楽が名物でした、屋号はがたくさん集まる木がここにあったところに由来しています。

県道55号上砥山上鈎線を越すと
(まがり)に入ります、左手上鈎池の街道沿いに九代将軍足利吉尚公鈎の陣所ゆかりの地碑があります、権威が失墜してしまった足利幕府の再興を図る為、第九代将軍吉尚(よしひさ)は
代官邸跡 すずめ茶屋跡 鈎の陣碑

文明十九年(1487)幕府に反抗する
六角高頼(ろっかくたかより)を討伐する為、この地に着陣するも、二十五歳の若さで病没となりました。

 上鈎東交差点を越し、天井川の葉山川葉山川橋で渡ると、左手に東海道標石があります、上鈎川辺と刻まれています、鈎村から川辺村に入ります。

川辺交差点を越すと左手に真宗大谷派養煙山
善性寺があります、善性寺第五世僧恵教は植物に詳しく、シーボルトが訪れました。

突当りのT字路を右折します、この分岐点には
道標正面「東海道 やせうま坂」、左面「金勝寺 こんぜ」、右面「中仙道 でみせ」があります、街道は川辺村から坊袋村に入ります。
東海道標石 善性寺 坊袋分岐 地蔵院

 右手に浄土宗延命山
地蔵院があります、境内に元禄年間(1688〜1704)に建立された八幡大菩薩天照皇大神宮春日大明神と刻まれた石碑があります、神仏混淆(しんぶつこんこう)の名残りです。

 街道は目川村に入ります、左に大きく曲がった先の右手に東海道一里塚跡碑があります、目川の一里塚跡です、塚木はムクノキでした、江戸日本橋より百十八里目です。

境内に樹齢三百五十年の大イチョウが聳える
専光寺を過ぎると右手に領界石「従是西膳所領」と田楽発祥の地碑があります。

目川立場の田楽茶屋
元伊勢屋跡です、亭主は岡野五左衛門でした、目川菜飯田楽が名物でした、目川立場には三軒の田楽茶屋がありました。
一里塚跡 田楽発祥の地 東海道五拾三次之内 【石部】 目川ノ里

 
広重は石部として目川立場の元伊勢屋を描いています。

菜飯は刻んだ青菜を入れて炊いた塩味の飯です、田楽は串に刺した豆腐に味噌を塗り、焼いたものです、菜飯田楽はここが発祥地といわれています。

 次いで右手に名代田楽茶屋古じま屋跡があります、亭主は小嶋屋寺田徳兵衛でした、当家の藤棚は明治初期に新善光寺へ奉納されました。

左手の真宗大谷派東護山
乗圓寺の本尊は阿弥陀如来です。

次いで右手に名代田楽茶屋
京伊勢屋跡があります、亭主は西岡忠兵衛でした。

街道が右に曲がると左手にほっこり庵があります、ここには
芭蕉も飲んだという銘酒菊の水があります。
古じま屋跡 乗圓寺 京伊勢屋跡 ほっこり庵

 JR東海道新幹線ガードをくぐった先の右手に領界石「従是東膳所領」があります。

この脇を右に入ると
弁財天が祀られています、上新屋敷の鎮守で、草津川の氾濫鎮護の守護神です。

岡村から小柿(おがき)に入ると右手に史蹟老牛馬養生所跡標石があります、老廃牛馬の打はぎ(屠殺)を見た、庄屋岸岡長右衛門が天保十二年(1830)ここに老牛馬が余生を静かに過ごせる養生所を設立しました。

先の右手に小柿村の
高札場跡標識があります、次いで大路井(おちのい)に入ります。
領界石 弁財天 老牛馬養生所 高札場跡

 栗東市から草津市に入ると、左手の土手道に入ります、分岐点には東海道草津宿へ道標があります。

土手道に入ると右手に
いろはモミジ碑があります、かつてはここに樹齢百五十年以上のモミジがあり、四季折々の美しさに旅人も足を止めたといいます。

土手道を進み
草津川草津川橋で渡ります、草津川は通常流れはなく砂川と呼ばれました、しかし大雨が降ると一気に水嵩が増し川留となりました。

江戸中期頃から土砂が堆積し、川床が年々高くなり
天井川となりました、平成十四年(2002)に治水事業として中流域から草津川放水路が開削され、このあたりの草津川は廃川になり、 旧草津川と呼ばれることになりました。
大路井分岐 いろはモミジ碑 草津川

 AM 8:47 草津宿着 大津宿まで 15.1km

 草津川を渡ると草津宿の江戸方(東)です、草津宿到着です!

右手に
高野地蔵尊があります、宿口にあって旅人の安全を見守っています。

向いには
火袋付石造道標があります、文化十三年(1816)の建立で竿には「右金勝寺(こんしょうじ)志がらき道」「左東海道いせ道」と刻まれています。

草津宿は
中山道との追分や琵琶湖舟運の矢橋湊への矢橋街道の追分を控え、交通の要衝として大いに賑わいました、正徳二年(1712)には人馬の荷の重さを検査する貫目改所が設置されました。

天保十四年(1843)の
東海道宿村大概帳によると草津宿の宿内家数は五百八十六軒、うち本陣二、脇本陣二、旅籠七十二軒、宿内人口は二千三百五十一人(男千百七十二人、女千百七十九人)で、宿長は十一町五十三間半(約1.3km)でした。
高野地蔵尊 火袋付石造道標

 江戸方口から緩い下り坂を進むと、宿並はT字路に突き当たります、ここが中山道追分です。

東海道は左折(白色矢印)します、中山道は突当りの上り階段(黄色矢印)です。

この追分の突当り手前の右手に
火袋付石造道標があります、文化十三年(1816)の建立で「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」と刻まれています。

突当りに縮小版の
高札場が復元されています、草津川の堤防が決壊する恐れがある場合は、立木神社に移動しました。

中山道の上り口には
延命地蔵尊が祀られています。
中山道追分 火袋付追分道標 高札場

 追分左手の草津市民センターの所に草津町道路元標があります。

左折すると明治二十四年(1871)郵便創業当時使用していた郵便ポストの
書状集箱(あつめばこ)が復元されています。

並びに
堯考(ぎょうこう)法師歌碑「近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何処(いづこ)ともなき」があります。

宿並を進むと右手に
草津宿本陣が現存しています(国指定史跡)。
道路元標 書状集箱 堯考法師歌碑 木屋本陣跡

 
田中七左衛門が代々勤め、材木商を兼ねていたところから木屋本陣と呼ばれました。

敷地千三百坪、建坪四百六十八坪、部屋数三十九室、総畳数は二百六十八畳半で、現存する
本陣遺構の中では最大級です、一般公開されています。

大福帳には赤穂藩主
浅野内匠頭の名があり、九日後には吉良上野介が宿泊しています、幕末にはシーボルト皇女和宮土方歳三等が宿泊しています。

 スグ先左手の吉川芳樹園が脇本陣藤屋与左衛門跡です、問屋庄屋を兼ねました。

次いで左手のべーカリー&カフェ脇本陣が
脇本陣仙台屋茂八跡です。

並びのお食事処はり治が
田中九蔵本陣跡です、店前の側溝上に草津宿本陣田中九蔵家跡と描かれた標識タイルが埋め込まれています、嘉永六年(1853)徳川第十三代将軍家定に嫁ぐ、薩摩の篤姫が宿泊しています。

東海道宿村大概帳によると東海道の本陣百十一軒中、
田中七左衛門本陣は二番目、田中九蔵本陣は七番目の規模を誇っていました。
藤屋脇本陣跡 仙台屋脇本陣跡 田中本陣跡

 平成十年(1998)一月六日、第一回東海道ウォークの際、
はり治で鍋焼きうどんを食しました、その時はここが田中九蔵本陣跡とは夢にも思いませんでした。

 並びのカフェトリコロールの隣り、旧中神医院跡地前の側溝の蓋に三度飛脚取次処跡標識タイルがあります、荒物屋九右衛門が勤めました。

江戸と京、大坂間の民間飛脚で、月に三度往復したところから三度飛脚と呼ばれました。

宿並を進むと左手に
草津宿街道交流館があります、草津宿の資料や模型が多数展示されています。

向いには浄土宗布薩山
常善寺があります、天平七年(735)創建の古刹です、本尊の木像阿弥陀如来両脇士像は国指定重要文化財です。
慶長五年(1600)関ケ原の合戦に勝利した
家康
三度飛脚取次処跡 草津宿街道交流館 常善寺

八幡から近江路を上り、当寺に宿陣しました。


 以前あったアーケードが撤去されています、左手に銘酒道灌の蔵元太田酒造があります、太田道灌の遠祖にあたります。

向いが
問屋場及び貫目改所跡です、側溝の蓋に標識タイルが埋め込まれています。

貫目改所は東海道の品川宿、府中宿の三ケ所に置かれ、人馬の荷の重さを検査しました。

太田家は代々
問屋場の総取締役を勤め、草津の政所(まんどころ)と呼ばれました。

宿並は立木神社前交差点に突き当たります、
政所 問屋場・貫目改所跡 立木神社交差点

 交差点手前の左手に
御旅館野村屋の庵看板を掲げた商人宿がありましたが、今は駐車場になっています、富山の売薬行商人の定宿でした。

 立木神社交差点を越え、伯母川立木橋(旧宮川土橋)で渡ると右手に立木(たちき)神社があります、祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が神護景雲元年(767)常陸國鹿島を発ってこの地に鎮座し、手に持っていた柿の杖を刺すと枝葉が繁茂したところから立木神社と称するようになりました、狛犬鹿になっています、草津宿矢倉村の氏神です。

境内に
中山道追分に当初あった延宝八年(1680)建立の追分道標「みぎハたうかいとういせミち」「ひだりは中せんたうをた加みち」が移設されています、滋賀県下最古の道標です。

境内の
ウラジロガシは推定樹齢三百年以上で滋賀県指定天然記念物です。
立木神社 追分道標 ウラジロガシ

 矢倉橋の手前に文化十四年(1817)黒門が設置されました、ここが草津宿の京方(西)です。

草津川に代わって、新たに開削された
新草津川矢倉橋で渡ります。

左手に浄土宗法照山
光傳寺があります、承平年間(931〜8)の創建で本尊の木像阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作で国重要文化財指定です。

街道を進むと右手に
古川酒造があります、江戸時代創業の銘酒天井川の蔵元です、濃醇旨口の酒だそうです!
黒門跡 新草津川 光傳寺 銘酒天井川

 信号交差点を過ぎると、瓢箪の製造販売元の瓢泉堂があります、店の前には道標が立っています。

寛政十年(1798)建立の
矢橋(やばせ)道追分道標「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」です、道標の手前を右(黄色矢印)に進む筋が矢橋道です、琵琶湖の矢橋湊に至ります。

矢橋湊は近江八景の一つ
矢橋帰帆として知られ、大津への舟渡しがあり、東海道より三里程短い為、人気がありました、しかし比叡おろしが強いと舟止めとなりました、旅人はここで瀬田唐橋か、矢橋湊かと思案したといいます。

瀬田へ廻ろか 矢橋へ出よか ここが思案の 姥ケ餅

武士(もののふ)の 矢橋の舟は 早くとも 急がば廻れ 瀬田の唐橋
乳母ケ餅屋跡 矢橋道追分道標

諺(ことわざ)の
急がば廻れの語源になった歌です。

 瓢泉堂は名物姥ケ餅を商う姥ケ茶屋跡です。

広重は草津として名物立場であった
姥ケ茶屋と画面の右手に矢橋道追分道標を描いています。

姥ケ餅は永禄十二年(1569)信長に滅ぼされた近江源氏六角義賢(よしかた)が死の間際に曾孫乳母に託しました、乳母は郷里の草津に連れて帰り、街道筋で餅を売り養育費に充てました、これがいつしか姥ケ餅として街道名物になりました。

姥の乳をかたどった黒い小さな
あんころ餅
東海道五拾三次之内 【草津】 名物立場 姥ケ餅

です、本店は国道1号線沿いに移転しています、草津駅でも購入できます。


 瓢泉堂先を右に入ると愛宕神社があります、矢倉村の火伏を担っています。

左手には
男女双体道祖神を安置する祠がありましたが、撤去されています。

左手に
稲荷神社があります、本殿は一間社流造りです。

矢倉南交差点にて国道1号線を横断します、
矢倉村から野地村に入ります。

野地は中世東山道の宿駅で源頼朝等が往来し賑わいましたが、草津宿が開設されると衰退の一途をたどりました。
愛宕神社 稲荷神社 野地六丁目トレース

 矢倉南交差点先は上図の通り、階段状に進みます、当然本来は直線でした。

突当りの上北池公園内に
野地一里塚跡碑があります、江戸日本橋より数えて百十九里目です。

公園を抜け、
かがやき通りを横断します、車の通行量が多い場合は右手の野地町交差点にて迂回します。

横断すると
東海道標識(→野地玉川石碑まで南東へ約八〇〇m)があります、ののみち保育園前の筋を進みます。

左手に浄土宗本誓山来迎院
教善寺があります、承応二年(1653)遠藤権兵衛なる者が剃髪し、僧侶となり建立した寺院です、近江湖南二十七名刹の二十一番札所です。
野地一里塚跡 教善寺 平清宗胴塚

 右手の民家の庭内に平清宗胴塚(五輪塔)があります、文治元年(1185)壇ノ浦の合戦源義経に敗れ、捕らわれの身となった平家総大将平宗盛と嫡男清宗は鎌倉に護送されたが、頼朝に追い返され、京に戻る途中この地で清宗が斬首され、宗盛は野洲篠原で斬首となりました、親子の首級は塩漬けにされ京に移送されました。

中山道の滋賀県野洲市大篠原にも親子の胴塚があり、ここには平家終焉の地碑があります。

 次いで左手に真宗大谷派玉川山浄泉寺があります、長禄四年(1460)本願寺蓮如上人に帰依した野路城主黒川駿河守宗次の創建です。

スグ先の左手奥に
新宮神社があります、奈良時代の高僧行基の創建で、野路寺鎮護社として天平二年(730)に創建されました、本殿は大永三年(1523)の建立で国重要文化財指定です。

先の右手に真宗大谷派白萩山
願林寺があります、山門は膳所城長屋門を移築したものです。
浄泉寺 新宮神社 願林寺 子守り地蔵

 右手に赤レンガの祠が街道に背を向けてあります、
旧道痕跡かも知れません、数体の地蔵尊が安置されています、子供を守る子守地蔵といわれ、永い間、村の人々の信仰を集めてきました。

 県道43号平野草津線を地下道でくぐります。

右手に
萩の玉川跡があります、玉のような清水が湧くところを由来としています、萩の名所であったところから萩の玉川と呼ばれました、日本六玉川の一つです。

 ・高野の玉川 紀伊-毒水 和歌山県高野山
 ・卯花の玉川 摂津-卯花 高槻市三筒牧
 ・井出の玉川 山城-山吹 京都府井出町
 ・野田の玉川 陸奥-千鳥 宮城県塩釜
 ・調布の玉川 武蔵-調布 東京都北多摩郡
 ・野路の玉川 近江-萩   滋賀県草津市

並びに祠があり、
地蔵尊が安置されています、この地には多数の地蔵尊が祀られ、大事にされています。
萩の玉川跡 地蔵尊 弁天池

 南笠東(みなみがさひがし)に入ると
弁天池があります、弁天島には琵琶湖の竹生島から勧請した弁財天を祀る弁財天神社があります、大盗賊日本左衛門がここに隠れたとの伝説があります。

狼川狼川橋で渡ります、往時は大亀川と呼ばれ、大亀川の渡しがありました。

 日本硬質硝子を過ぎると右手の大学生協学生会館花梨35の所に現代版火袋付木造道標があります、草津市から大津市に入ります。

街道を進むと左手に
新道標「名勝月輪大池南約一粁」があります。

スグ先の左手に曹洞宗普門山
月輪(げつりん)があります、文久三年(1863)の創建で、本尊は釈迦如来です。

参道口に
明治天皇御東遷御駐輦之所碑新田開発発祥之地碑があります、この辺りは大萱村と呼ばれました。
火袋付木造道標 月輪大池道標 月輪寺 明治天皇碑

 昔、この地に
大蛇が棲み付き、住民が逃げ出し、いつしか萱原(かやはら)になってしまったといいます、延宝四年(1676)開拓が行われ、大萱新田となり、明治七年(1874)月輪(つきのわ)となりました。

 スグ先に月輪池があります、この池に落ちる月が美しいといわれました、この地には月輪(つきのわ)殿九条兼実の荘園がありました。

池の前に
東海道立場跡標石があります、大萱新田村の立場跡です。

月輪から一里山に入り、長沢川一里山橋で渡ると、一里山二丁目北交差点の手前左手に一里塚趾碑があります、月輪池の一里塚跡です、塚木は松でした、江戸日本橋より数えて百二十里目です、地名の一里山は、この一里塚に由来しています。

一里山から大江に入り、大江四丁目交差点先を左に入ると児童遊園地があり、園内に野神社舊蹟碑があります。
月輪池 一里塚趾 野神社舊蹟碑

 平安時代前期の歌人
大江千里(おおえのちさと)の住居跡と伝わっています、大江村の地名由来になっています。

 大江東北自治会館先の信号交差点を左折します、電柱に旧東海道案内標識が取り付けられています。

この分岐点右(北)の瀬田小学校は
西行屋敷跡との伝承があります、諸国行脚を重ね、仏道修行と歌道に精進し、一時この大江の地に住いしたといいます。

街道に戻ると左手に
地蔵祠があります。

初田仏壇店の先を右折します、電柱に
旧東海道案内標識があります。

この分岐点を直進すると
近江国庁跡があります、奈良時代、全国六十八ケ国に設置された役所で、朝廷から派遣された国司が近江國を治めました。
大江分岐 地蔵祠 近江国衙跡碑

 近江国庁は前殿、後殿と東西の脇殿で構成され、門や築地を配し、東西二町(約216m)、南北三町(約324m)の規模でした。

近江国庁は日本で初めて、古代の地方政治の中心地である国庁の全容が明らかになった遺跡です。

 街道に戻り右折すると右手に浄土宗帰法山成就院浄光寺があります、寛文元年(1661)の創建で、本尊の木像阿弥陀如来立像は国重要文化財です。

おおむら内科クリニック先の突当りを左折します。

この分岐点の正面に
旧芦浦街道道標(黄色〇印)があります、琵琶湖東岸の芦浦観音への参詣道です。

右手に大きな
信楽焼の狸が立っています、信楽焼は滋賀県甲賀市信楽を中心につくられているb器(せっき)で日本六古窯(にほんろくこよう)のひとつです。

狸の並びに
地蔵祠があります。
浄光寺 大江三丁目南分岐 狸&地蔵祠

 信号交差点を越え、高橋川を赤い欄干の和田一号橋で渡ると左手の山腹に檜山神社が鎮座しています、建部神社の末社です、参道口には地蔵尊が安置されています。

街道は
神領(じんりょう)に入ります、地名は建部神社神料田(神領)があったところに由来しています。

街道を進み
石善の手前を左に入ります、この分岐点には標石「左旧東海道 右瀬田唐橋」があります。

突当りを右折します、左は近江一の
宮建部神社です、祭神は日本武尊です、当初神崎郡建部郷に創祀されたが、天武天皇四年(675)近江国府があった現在地に遷座されました。
檜山神社 神領分岐 建部神社

 永禄元年(1160)
源頼朝(十四歳)が伊豆へ配流される際に源氏再興を祈願し、見事に願いが叶ったところから武運来運の神として武家の信仰が篤かったといいます。

 街道に戻ると神領交差点の右(北)に瀬田名物たにし飴の老舗辻末製果舗があります、ニッキ味の黒糖手作り飴で形が田螺(たにし)に似ています。

街道の左(南)側を進むと滋賀銀行先に
愛宕神社碑があります、上部の小屋組内にお札を納めます、並びに地蔵祠が並んでいます。

唐橋東詰交差点手前の左に寛政十二年(1800)建立の
田上太神山(たなかみやま)不動寺道標があります、「是より二里半」と刻まれています、田上不動と呼ばれています。

交差点を渡ると
山崎茶酔句碑があります。
名物たにし飴 愛宕神社&地蔵 不動寺道標 山崎茶酔

「松風の 帆にはとどかず 夕霞」と刻まれています。


 句碑の傍らにある常夜燈脇から河原に下ると橋守地蔵尊が祠内に安置されています。

昭和五十一年(1976)唐橋の中央橋脚の撤去工事中、基礎の地下から出現した室町末期の
石仏です、四百年以上も川底で、唐橋を守り続けてきた地蔵尊です。

左手に浄土宗龍光山
雲住寺があります、応永十五年(1408)の創建です、瀬田唐橋守護寺で境内に藤原秀郷(俵藤太)に退治された大百足(むかで)を供養する百足供養堂があります。

正面に
勢田橋龍宮秀郷社があります、瀬田川の龍神藤原秀郷を祀っています。
橋守地蔵 雲住寺 勢田橋龍宮秀郷社

 瀬田の唐橋に
が横たわっていたが、俵藤太は臆することなく、龍の背を踏みつけて渡ってしまった、すると龍が
「私は瀬田川の龍神です、実は
三上山の百足に苦しめられ困っている、是非退治してほしいと」懇願、藤太は快諾した。

百足は三上山を七巻半する
大百足でした、二本の矢は次々に跳ね返された、そこで三本目には自分の唾を付けて射ると、矢はついに眉間に突き刺さり、見事大百足は退治されました。

 それでは瀬戸唐橋を渡りましょう、この橋は近江八景瀬田の夕照で知られ、吉田大橋矢作橋とともに東海道三大橋のひとつです。

古代から「唐橋を制する者は、天下を制す」といわれ、壬申の乱、承久の乱、建武の戦、源平合戦、応仁の乱の毎に戦場となり、焼失しています。

唐橋を渡った先で、京阪鉄道石山坂本線を
唐橋前踏切で渡ります。

左手の松喜屋の隣りに
蓮如上人休息所跡碑があります、「地主之守大神 方位之守大神 逆縁之縁切地蔵大菩薩」と刻まれています、上人はここにあった旅籠伏見屋で休息しました。
瀬田唐橋 蓮如上人休息所跡 鳥居川交差点

 街道は福井銀行先の
鳥居川交差点を右折し、北に向います。

 右折すると左手に明治天皇鳥居川御小休所碑があります、明治十一年(1878)旅籠松屋にて休息しました、黒門を残しています。

栄町を進み、
国道1号線高架をくぐり、京阪石山坂本線の松原踏切を越します。

JR東海道本線の
とうかい-80ガードをくぐった先の盛越川の手前辺りが粟津の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて百二十一里目です。

盛越川を渡ると左手に
今井兼平の墓標識があります、ここを左折(黄色矢印)し、道なりに500m程進むと、左手に今井兼平の墓があります、木曽義仲は平家を追討したものの、京を追われてしまった。
黒門 粟津の一里塚跡 今井兼平の墓

 
義仲は瀬田と宇治の戦いで頼朝に敗れ、ここ粟津で育ての親兼遠の子兼平に出会うが、義仲は粟津原の戦いで討死にし、これを知った兼平は口に刀を含んで馬から飛び降り自害してはてた、共に戦った巴御前は北国に落ち延びました。

 左手NEC工場に沿って進むと粟津の松並木跡があります、近江八景粟津の晴嵐と呼ばれる景勝地でした。

晴嵐交差点を右折すると
琵琶湖御殿浜に突き当たります、この辺りに膳所藩主本多俊次瓦ケ浜御殿を造営しました。

街道の突当りに
膳所城勢多口総門跡標石があります、膳所城下町の江戸方(西)口です、傍らに地蔵祠があります。

枡形を進むと京阪鉄道石山坂本線の
宮町踏切を渡ります。
粟津の松並木跡 総門跡 地蔵尊 地蔵祠

 左手にシッカリと造られた
地蔵祠に数体の地蔵尊が安置されています。

 右手に若宮八幡神社があります、白鳳四年(675)の創建で、当初は粟津の森八幡宮と称しました。

表門は膳所城本丸の犬走り門を移築したものです、高麗門(こうらいもん)形式の城門で、屋根の軒丸瓦に本多氏の立葵紋があしらわれています。

先を右折します、京方面からは突当りのT字路を左折します、電柱に
旧東海道案内標識が掲げられています。

左手に日蓮宗徳栄山
妙福寺があります、慶長年間(1596〜615)の創建
若宮八幡神社表門 若宮八幡神社 杉浦町分岐 妙福寺

で、本尊は大曼荼羅です、山門脇には南無妙法蓮華経髯文字
題目碑があります。

 京阪鉄道石山坂本線の瓦ケ浜踏切を渡ります。

左手に臨済宗
専光寺があります、寛政六年(1465)の創建で、本尊は阿弥陀如来です。

次いで左手に真宗仏光寺派膳所山
光源寺があります、康永二年(1343)の創建で本尊は阿弥陀如来です。

街道の左手奥に
篠津神社があります、表門は膳所城の北大手門を移築したものです、脇戸付高麗門で軒丸瓦には本多氏の(たち)葵紋が見られます。

古くは
牛頭天王と称し、膳所中庄の土産神で、宮家の尊崇が篤く、膳所城主の庇護を受けました。
専光寺 光源寺 篠津神社

 突当りの奥村歯科を左折します、ここに晴好雨竒亭址標石があります。

奥村菅次(すがじ)(1788〜1840)は膳所の名金工師で、金銀銅鉄器類をはじめ櫓時計、鉄砲等を製作しました。

頼山陽は度々来遊し、晴好雨竒亭(せいこううき)と名付け、額を揮毫して与えました、五十三歳で病没しました。

京阪鉄道石山坂本線
中ノ庄踏切手前の音羽軒を右折します。

本丸町に入ると、間口が狭く、奥に深い
@中庄分岐 晴好雨竒亭址 A中庄分岐 本丸町の旧家

造りの
旧家があります。

 右手の景澤寺を過ぎると、左手に真宗仏光寺派供養山大養寺があります、文応元年(1260)の創建です、山門は武家屋敷の長屋門を移築したもので、膳所六門(長屋門)のひとつです。

先の信号十字路が
膳所城中大手門跡です、金子工務店の植栽に標石があります。

ここを右折すると
膳所城跡公園です、入口の城門をくぐると、園内に膳所城址碑があります。

膳所城は慶長六年(1601)瀬田唐橋を守護する城として天下普請され、縄張りは藤堂高虎が行いました、戸田一西が初代城主として大津城より入封し、数度の譜代大名の入れ替え後、本多氏
大養寺 膳所城跡公園 膳所城址

が城主となり、膳所六万石として明治維新を迎えました。

白亜の城郭は「瀬田の唐橋唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)に謡われています。


 信号十字路を左折すると膳所神社があります、天智天皇が大津の宮に遷都した際、この地を御厨所と定め、後に食物を司る豊受(とようけ)大神が勧請されました。

表門膳所城本丸大手門を移築したものです(国重要文化財)。

南門は膳所城の城門を移築したものです、屋根の軒丸瓦には本多家の立葵紋があしらわれています。
膳所神社表門 膳所神社 膳所神社南門 膳所神社北門

 
北門は同様に膳所城の城門を移築したものです、屋根の軒丸瓦には橘紋があしらわれています。

 街道に戻って進むと左手に浄土宗梅香山縁心寺があります、元和三年(1617)膳所藩主本多康俊の創建です。

慶長七年(1602)
本多康俊が父忠次の追善のため三河國西尾に創建したもので、膳所藩への移封にともない寺も一緒に移ってきたものです。

本多氏の
菩提寺で、墓所には一族歴代の墓があります。

丸の内町から木下町に入ると左手に
和田神社があります、表門は膳所藩校遵義堂門を移築したものです。
縁心寺 本多俊次墓 和田神社 大イチョウ

 白鳳四年(675)の創建で、
本殿は一間社流造で国重要文化財です。

境内の
大イチョウは樹齢六百年です、関ケ原の合戦に敗れ、捕らわれの身となった石田三成が京へ護送される際、このイチョウに縛り付けられたといいます、その後三成は京の都を引き回された後、六条河原で斬首されました。

 突当りのY字路を左に進みます、この分岐点には和田神社標識があります。

右手の旧家に
ばったん床几があります、折り畳み式の縁台です。

突当りに真宗大谷派春台山
響忍寺があります、本尊は阿弥陀如来です、当寺は膳所藩家老村松屋敷跡です、山門の長屋門は膳所六門のひとつです。

響忍寺手前を右折し、左図の通りに進みます。
木下町分岐 ばったん床几 饗忍寺 木下町の旧道トレース

 相模川を越すと西の庄に入ります。

左手に
石坐(いわい)神社があります、天智天皇が琵琶湖の神を祭祀したことに始り、延喜式に近江国滋賀郡八社のひとつに数ぞえられた古社です。

本殿
は文永三年(1266)造で、平唐門と塀で囲まれた三間社流造(さんげんしゃながれづくり)檜皮葺です。

右手の臨済宗永源寺派武陵山
桃源禅寺は永禄十三年(1570)の創建です。

左手の真宗仏光寺派武陵山
法傳寺には天智天皇の御尊牌(位牌)を安置しています。
石坐神社 桃源禅寺 法傳寺

 先の枡形内に膳所城北総門跡標石があります、膳所城下町の京方(西)口です、大津口総門とも呼ばれました。

西の庄から馬場に入ると左手に真宗大谷派
福正寺があります、本尊は阿弥陀如来で、創建当時は天台宗でした。

先の左手に天台宗朝日山
義仲(ぎちゅう)があります、木曽義仲の愛妾巴御前が尼となり、ここに草庵を結び、義仲を供養したところから巴寺とも呼ばれました。

境内には
木曽義仲を供養する宝篋印塔巴御前の菩提を弔う巴地蔵堂があります。

木曽義仲の供養塔と並んで
松尾芭蕉の墓があります、元禄七年(1694)大坂で客死した芭蕉はこよなく義仲を敬愛
北総門跡 福正寺 義仲寺

し、死後は
義仲寺に葬るよう遺言しました、境内には芭蕉の門人又弦(ゆうげん)句碑「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」、芭蕉辞世の句「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」等があります。

※境内の拝観には入場料が必要です!


 打出浜に入り、大津警察署を越すと右手にそば処さかゑがあります、刻限は12:07丁度良し決定です。

今日も初夏のような陽気です、ビールが実にウマイ、本日のサービス定食和風ラーメンライスとも思いましたが
、そば定食(700円)にしました。

丁度良い時間でした、次々にお客が入って来ます、ウマカッター!!!

京阪鉄道石山坂本線の
石場踏切を横断します、スグ先の二本のY字路は全て左に進みます。
そば処さかゑ ビール&お通し そば定食 石場踏切

 石場には
石場の渡し場(湊)があり、対岸の矢橋湊間の舟旅の人で賑わいました、石場には多くの石工が住み、浜辺の石積に従事したところを地名由来としています。

 PM 12:46 大津宿着 京三条大橋まで 10.7km

 石場踏切を渡った辺りに大津の一里塚があったといいますが位置は不明です、江戸日本橋より百二十二里目です。

この一里塚辺りが
大津宿江戸方(東)といいます、大津宿到着です!

古来より大津は
古津と呼ばれ交通の重要な要衝でした。

天正十四年(1586)秀吉が
大津城を築き、城下町を形成しました、しかし関ケ原の合戦に際し、東軍に属した大津城主京極高次は西軍の毛利元康の猛攻を阻止したものの、城下町は焼失となりました。

徳川家康は慶長七年(1602)大津城を廃城にし、その資材で膳所城を築かせ、 大津を直轄地とし大津陣屋を置きました、 以降大津の町は宿場町となり、琵琶湖の舟運を利用した近江商人の町として栄え、東海道最大規模の宿場となりました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
大津宿の宿内家数は三千六百五十軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠七十一軒で、宿内人口は一万四千八百九十二人(男七千三百六人、女七千五百八十六人)でした。

 石場踏切を越し、一本目のY字路を左に進むと右手に趣のある旧商家があります。

次いで左手に真宗大谷派
福蔵寺があります、長禄元年(1457)の創建で、本尊は阿弥陀如来です。

左手小路に入ると
平野神社があります、蹴鞠の祖神という(せい)大明神を祀っています、古くから芸能の神として信仰を集めています。

二本目のY字路を左に進むと
松本1丁目に入ります。
大津宿の旧商家 福蔵寺 平野神社 成覚寺

 
地蔵尊が祀られた小さな流れの常世川(つねよがわ)を越え、十字路を渡ると右手に浄土宗正信山成覚寺があります、慶長三年(1598)の創建です。

 吾妻川(あずまがわ)を常盤橋で渡ると左手に浄土真宗本願寺派(お西)清源寺があります、文亀元年(1501)の創建です。

宿並の左手には
生水(しょうず)地蔵尊があります。

滋賀県庁を左に見て進み、中央大通りを横断すると、徳永洋品店の角に
此附近露國皇太子遭難之地碑があります、明治二十四年(1891)五月十一日来日中のロシア皇太子ニコライを警備の巡査が斬り付け軽傷を負わせ、大津事件と呼ばれました。

時の
政府はロシアを恐れ死刑を求めたが、司法は屈せず無期刑とし、司法権の独立を貫きました、時あたかも日露戦争開戦十三年前の出来事でした。
清源寺 地蔵尊 露皇太子遭難地

 宿並は京町一丁目交差点に出ます、ここに高札場があった所から札の辻と呼ばれました。

この辻を
左折(白矢印)し、西近江路に入ります、これが旧東海道の宿並です。

この辻を
直進(黄矢印)すると小関越です。

この辻から右(青矢印)に進むと
、広重が描いた大津湊です。

琵琶湖畔随一の湊です、ここには
北国湖畔の産物が上陸し、ここからは牛車京上方方面に輸送されました。
札の辻 木曽海道六拾九次之内 【大津】 広重画

 札の辻から東海道筋の安養寺辺りまでを八丁通りと呼び、本陣脇本陣をはじめ多くの旅籠が軒を連ねる大津宿の中心地でした。

滋賀労働局の所に
明治天皇聖跡碑があります、ここが大坂屋本陣跡です、大塚嘉右衛門が勤めました、他の肥前屋九左衛門本陣播磨屋市右衛門脇本陣の位置表示は残念ながらありません。

春日町交差点を越し、東海道本線逢坂山トンネル東口を眼下に見て進むと右手に
関蝉丸神社下社があります、参道口に音曲藝道祖神碑があります。

京阪鉄道京津(けいしん)線の踏切を越して
関蝉丸神社下社の境内に入ります。
明治天皇聖跡碑 京阪鉄道踏切 関蝉丸神社下社

 平安時代前期の貴族で文人の小野岑守(おののみねもり)が逢坂関の鎮守として弘仁十三(822)に関明神を創建したのが始まりで、その後平安中期の盲目の琵琶法師蝉丸が逢坂山に住み、死後、ここに合祀され関蝉丸神社となり、音曲芸道の祖として信仰を集めるようになりました。

境内に

蝉丸歌碑
「これやこの ゆくもかえるも わかれては 志るもしらぬも 逢坂の関 

紀貫之歌碑
「逢坂の 関の清水に 影見えて 今や引くらん 望月の駒」があります。

境内の左奥に
時雨燈籠があります、鎌倉時代の石燈籠で国重要文化財です。
蝉丸歌碑 紀貫之歌碑 時雨燈籠

 国道161号線の右(西)側を進み、京阪鉄道京津線の上関寺(かみせきでら)国道踏切を渡ると右手に安養寺があります。

参道口に
逢坂の由来を説明した標石があります、日本書紀によれば神功皇后(じんぐうこうごう)の将軍武内宿禰(たけうちのすくね)がこの坂で忍熊王(おしくまのみこ)に出逢ったという故事に由来しています。

参道石段を上ると浄土真宗逢坂山
安養寺があります、貞観四年(862)の創建で、本尊の阿弥陀如来坐像行基の作で国重要文化財です。

逢坂一丁目交差点の手前を右に入ると
旧逢坂山ずい道東口があります、明治十三年(1880)の竣工です。
逢坂標石 安養寺 旧逢坂山ずい道

 この
ずい道は外国人技師に頼らず日本人だけで完成させた、わが国最初の山岳ずい道です、ずい道口上部に掲げられた扁額楽成頼功三条実美の揮毫です、これは工事に関わった人々のって落成したという意味で、落成のの字は、落盤に通じるためにに置き換えたといいます。

大正十年(1921)まで
東海道線下り線として使用されました。

 逢坂一丁目交差点は左から国道1号線が合流します、切れ間のない通行量となります、この先右側には歩道がありません、左側にシフトしましょう。

名神高速道路の高架をくぐると、右手に
関蝉丸神社上社があります、下社と同様に逢坂関の鎮守として創建されました。

次いで右手に逢坂山
弘法大師堂があります。

並びに寛政六年(1794)建立の
逢坂常夜燈があります、逢坂は相坂、会坂、合坂とも書かれました。
関蝉丸神社上社 社殿 弘法大師堂 逢坂常夜燈

 絶え間なく車が流れる狭隘の国道1号線を進み、東海自然歩道逢坂山歩道橋をくぐった先の、信号交差点から斜め右の大谷村に入ります。

この分岐点に
逢坂山関址碑と寛政六年(1794)建立の逢坂常夜燈があります、平安京守護ために設置された三関(不破関、鈴鹿関、逢坂関)のひとつです、平安後期には形骸化しました。

旧道に入ると左手に明治五年(1872)創業の鰻と玉子の名店
かねよがあります、土用ともなると車が連なりガードマンが整理するほどの繁盛店です。
逢坂関 かねよ 蝉丸神社 蝉丸神社社殿

 右手の段上には大谷村の鎮守
蝉丸神社が鎮座しています、天慶九年(946)の創建で、蝉丸を祀っています。

蝉丸は盲目の琵琶法師と呼ばれ、音曲芸道の祖神として崇敬されました。

 先の左手に元祖走井餅本家碑があります、かつてここには、山から湧き出た清水を使った走井餅を商う大谷立場がありました。

碑の所を左に左に入ると京阪鉄道京津線
大谷駅です。
 
大谷茶屋の所から
大津町大谷歩道橋で京阪鉄道京津線、そして国道1号線を越えて左(北)側の歩道に移ります。

再び国道1号線の喧騒の中を進むと左手の旧家の前にに
車石と大八車の車輪、そして大津算盤の始祖片岡庄兵衛碑があります、この辺りで売られていた大津算盤(そろばん)は慶長十七年(1612)片岡庄兵衛が明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製作したもの
元祖走井餅 大津市大谷歩道橋 大津算盤始祖碑

です、庄兵衛は幕府御用達の
算盤師となりました、大津算盤は五つ玉が二個ありました。

 左手に月心寺があり、境内に走井(掘り抜き井戸)があります、大谷立場の西端です。

広重は画面の左下にこんこんと湧き出る
走井と名物走井餅を商う走井茶屋を描いています。

茶屋の前の街道には荷を満載した
牛車が連ねています、大津湊に陸揚された産物や米は牛車で大消費地である京方面にたゆまなく輸送されました。
月心寺 走井 東海道五拾三次之内 【大津】 走井茶屋

 月心寺の並びに道標「右一里丁 左大谷町」があります、この辺りに大谷の一里塚がありました、江戸日本橋より数えて百二十三里目です。

国道1号線の歩道をモクモクと歩き、名神高速道路高架をくぐったら、大津市追分町歩道橋の手前、
藤尾交番の左に入ります。

左手に
大日如来の祠があります。

次いで右手に本門仏立宗長松山
佛立寺があります、日蓮上人を宗祖とし、長松清風を開祖としています。
大谷の一里塚跡 追分町分岐 大日如来 佛立寺

 街道はいよいよ近江國(滋賀県)から山城國(京都府)に入ります。

先がY字路になっています、
伏見追分です、この分岐点には追分道標「みきハ京みち」「ひだりはふしミみち」「柳緑花紅(やなぎはみどりはなはくれない)」があります、右が東海道、左が伏見、大阪への伏見道です。

幕府は
大名が京に入ることを好まなかったため、参勤はこの伏見道を利用しました。

並びには明和三年(1766)建立の
蓮如上人道標があります、枚方の出口御坊光善寺の蓮如上人廟への道標です。

この追分には
ひげ茶屋九左衛門があったところから髭茶屋追分とも呼ばれました。
伏見道追分 追分道標

 右手に真宗大谷派法光山閑栖寺(かんせいじ)があります、山門は元文三年(1738)に修築された珍しい太鼓櫓楼門です。

山門前には轍(わだち)跡を立て置きにした
車石があります。

大津の
札の辻から京三条大橋までの約三里の間に、物資を輸送する牛馬車の通行を楽にするため、花崗岩に溝を刻んだ切石を敷きつめました。

文化二年(1802)心学者
脇坂義堂が発案し、近江商人中井源左衛門が私財を投じて敷設したものです。

この付近は
車道人馬道に分かれていて、京に向って右側に車石を敷き、左側は人や馬の通る道であったといいます。

車道は一列しかないため、午前と午後の交互通行でした。
閑栖寺 車石

 旧道は国道1号線で分断されています、横断歩道橋で国道1号線を跨ぎ、左に約50m進み、竹内医院の所から旧道に復帰します。

スグ先のスーパーフレスコ手前右手の横道が
小関越です、この分岐点には定飛脚が文政五年に建立した道標「三井寺観音道 小関越」があります。

私し何度もいいますが
街道マップに関しては使命感に燃えています、小関越決行です。

四宮駅から京阪電車に乗車します。
横木迂回路 小関越分岐 小関越道標 京阪電車

 大谷駅から先電車はジェットコースター並にカーブします、マニアには堪らないでしょう。

上栄町駅で下車し、京町一丁目交差点に復帰します。

 小関越 PM 2:18 出立 4.2km

 札の辻(京町一丁目交差点)に復帰します、白色矢印が逢坂越の東海道です、黄色矢印が小関越口です。

小関越は逢坂越の東海道を相撲の大関に見立て、小関と称した脇街道です、当時横綱はありませんでした。

小関越は難所の逢坂を避ける東海道の迂回路であり、
三井寺への参詣道でもありました。

この分岐の左手には
高札場があり、人馬会所がありました、今は大津市道路元標があります。

サア
小関越に踏み込んでみましょう、左手の浄土宗傳光院の参道口には西國八番長谷寺観音分身奉安處碑があります、突当りのT字路を左図の通り右折します。
小関越分岐 札の辻&元標 長等の枡形

 そして一本目を左折します、京方面からは突当りを右折し、一本目を左折します。


 緩やかな上り坂を進むと左手に地蔵祠があります。

先の食い違い十字路に二基の
道標が並んでいます、小さい道標には「左り三井寺 是より半丁」「右小関越 三条五条いまくま 京道」「右三井寺」と刻まれています、右(北)に進むと三井寺があります。

三井寺は天台寺門宗の総本山です、境内に天智天武持統の三天皇の産湯に用いられたとされる霊泉(井戸)があることから、御井(みい)の寺と称され、後に三井寺と通称されるようになりました、小関越はこの三井寺への参詣道でもありました。

背の
高い道標には「蓮如上人御舊跡 等正寺」「かたゝげんべゑのくび」と刻まれています、等正寺はこの先です。

左手には
小関天満宮の大鳥居があります。
地蔵祠 道標

 右手に天台真盛宗霊雲山新光寺があります、元は天台寺門宗でしたが、明応二年(1493)改宗しました、本尊は阿弥陀如来です。

向いに真宗大谷派別所山
等正寺があります、当寺には堅田(かただ)源兵衛の首が安置されています。

本願寺中興の祖
蓮如上人が寛政六年(1465)京都大谷の本願寺が焼き討ちされた際、宗祖親鸞の木像を三井寺に預けて北陸へ逃れました。

後に像の返却を求めたところ、
三井寺は「人間の生首と交換しよう」と難題をふっかけた、これを聞いた門徒宗の漁師堅田源兵衛は自らの首を刎ねさせ差し出したといいます。
新光寺 等正寺 六地蔵

 右手の墓地の並びには
六地蔵が祀られています。

 六地蔵を過ぎるとかなりタフな峠道になります、左手に地蔵尊が祀られています。

長等の里を過ぎると人家は無くなります、更に峠道を進むと、
小関峠地蔵を安置する喜一堂があります、道路拡張の際、発見された地蔵尊を祀っています、ここが小関峠頂上です!

地蔵の向には
小関峠の清水があります、マズは一献です。

地蔵先の分岐を斜め左に入ります。この分岐には
小関越案内があります。
地蔵祠 小関峠地蔵 小関峠の清水 小関峠の分岐

 小関峠の分岐からは下りになります、急坂をグングン下ります。

やがて右手に浄土真宗本願寺派如意山
普門寺が現れます、貞寛十五年(873)三井寺の支院藤尾寺として創建されました、本尊は阿弥陀如来です。

普門寺参道口の
西大津バイパス高架をくぐり、突当りを左折します、京方面からは鋭角なY字路になっています、普門寺の右に進みます。

この分岐点には
地蔵祠があります。
小関越西側峠道 普門寺 普門寺前分岐 地蔵祠

 京方面からはここから本格的な上り坂になります。


 左手の寂光寺先は左図の通りに、突当りを左折します。

京方面からは橋手前のY字路を右に進みます。

右手のローソン手前の左手に大津市
自然の道・歴史の道道標「←小関越・三井寺7km 京阪追分駅1km」があります。

徳丸稲荷大明神の所を右折し、眼下の東海道本線に沿う道を下ります、振り返ると東海道本線逢坂山トンネル西口が望めます。
藤尾分岐 歴史の道道標 徳丸稲荷分岐 地蔵祠

 左手に
(株)イキがあれば正解です、次いで左手に地蔵祠があります。

 藤尾小学校に沿って進み、正面の三叉路の中央を進みます。

右手の
用水路に沿って進み、左図の通り突当りのY字路を右に進みます。

京阪鉄道京津線の
藤尾道踏切を渡り、突当りを右に回り込みます。

左手の祠を越すと、T字路の
東海道に突き当たります、これにて小関越は終了です。
茶戸町分岐 横木分岐 小関越道標&常夜燈

 往路は
逢坂越、そして復路は小関越は如何でしょうか。

 PM 3:24 小関越終点着

 小関越口を過ぎると、横木から四ノ宮に入ります、横木の地名は秀吉東山大仏殿造立の際、街道に丸太を横たえて大石を転がして運搬したところに由来しています。

四ノ宮に入り、右手の京阪鉄道京津線
四宮駅を過ぎると右手に臨済宗南禅寺派徳林庵があります。

境内の
六角堂には山科地蔵が安置されています、この地蔵は平安時代初期の公家で文人の小野篁(おののたかむら)が桜の大木から六体の地蔵を造立した内の一体です、後白河天皇は京の出入り口六ケ所に一体づつ安置し、京へ入り込む悪霊封じとしました。

境内の奥に
人康(ひとやす)親王供養塔があります、第五十四代仁明天皇の第四子でしたが、高熱がもとで失明し、宮中
徳林庵六角堂 人康親王供養塔 六地蔵道標

 を追われ、山科の地に隠棲し
琵琶の名手となりました、傍らには同じ境遇であった蝉丸法師の供養塔があります。

境内の街道沿いに元禄十六年(1703)建立の
六地蔵道標「伏見六ぢぞう 南無地蔵」があります、山科六地蔵から伏見六地蔵への道を示しています。

 スグ先の右手に諸羽神社の鳥居があります、諸羽神社は貞観四年(862)の創建で、古くは四ノ宮と呼ばれ、この地の産土神として人々に敬愛されました。

山科駅前の右手ホテルブライトンシティ京都山科の植栽の中に
明治天皇御遺跡碑があります、奴茶屋跡です、茶屋の先祖に弓を得意とする片岡丑兵衛なる剛の者がいました、この辺りには兵乱に乗じ、旅人を悩ます盗賊が跋扈していました、見かねた丑兵衛は一味を成敗し、人家の無いこの地に茶屋を出し、弓矢を携え旅人を守護したといいます、奴茶屋の創業は室町時代の文安四年(1447)で京都でも最古級の料亭として知られています。

旧三条通りを進み、
安祥寺川大津畑橋で渡ると、先の左手に二体の地蔵尊を安置した祠があります。
諸羽神社鳥居 奴茶屋跡 地蔵祠

 右手の浄土宗西山禅林寺派当麻寺を過ぎると、左手に宝永四年(1707)建立の五条別れ道標「右ハ 三条通」「左ハ 五条橋 ひがしにし六条 大佛 今ぐま きよ水 道」があります。

ひがしにし六条は東本願寺、西本願寺、今ぐまは今熊野観音寺、大佛は方広寺の大仏、きよ水は清水寺です。

枡形の名残りを過ぎると虫籠窓のある旧家が街道筋に趣を添えています、向いには二体の地蔵尊を安置した祠があります。

先の
変則十字路の信号交差点を左図の通りに、右折し三条通に入ります。
五条別れ道標 地蔵祠 御陵(みささぎ)分岐

 京方面からは東海道本線ガードをくぐった先を左折します。


 東海道本線ガードをくぐった先の左に陵ケ岡みどりの径があり、入口に冠木門があります、この道筋は京阪鉄道京津線の軌道跡で、今は遊歩道になっていますが、東海道の旧道ではありません。お気を付け下さい!

向いに
天智天皇陵があります、第三十八代天智天皇陵墓の上円下方墳があります、天智天皇は大化の改新を断行し、古代天皇制を確立しました。

御陵入口の左手に
日時計があります、天智天皇が日本で初めて奈良の明日香に漏刻(ろうこく、水時計)を作り、
冠木門 天智天皇陵 日時計 日ノ岡旧道東口

時を告げたことにちなんだものです。

冠木門先の
理容志佐元駐車場)の所を左折し、日ノ岡旧道に入ります、江戸方面からは東海道最後の難所日ノ岡峠越えです。

 日ノ岡旧道に入り、日ノ岡峠への上りが始まる辺りに日ノ岡の一里塚がありましたが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて百二十四里目で、東海道最後の一里塚です。

日ノ岡峠を上ると左手に
亀の水不動尊があります、亀の口から清水が湧き出ています。

元文三年(1738)
木食正禅養阿上人が日ノ岡峠の改修工事に尽力し、三年の歳月をかけて完成させました。

ここは人足寄場として建てた
梅香庵跡です、ここで井戸を掘り当て、日ノ岡峠越えの旅人や牛馬の喉を潤しました。

並びの左手に二条講中が建てた
道標「明見道」、隣に道標「右かざんいなり(花山稲荷)道」が並んであります。
日ノ岡旧道 亀の水不動尊 道標

 左手の石段上に法華宗大乗寺があります、酔芙蓉(すいふよう)という花が群生する酔芙蓉の寺として有名です、花の見頃は九月中旬頃から約一ケ月間といいます。

酔芙蓉の傍らに
小倉百人一首第十五番
光孝天皇歌碑「君がため 春の野にいでて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ」

第二十八番
源宗于(むねゆき)朝臣歌碑「山里は 冬ぞさびしき まさりける 人目も草も かれぬと思えば」があります。

下りになると左手に
大日如来があります。
大乗寺 大日如来 地蔵祠 旧東海道標石

 
日ノ岡峠は京を出立した旅人にとって、最初の難所でした、京方面からの峠道には多数の地蔵尊が祀られ、旅人の道中安全を見守っています。

 日ノ岡峠越の旧道は旧東海道標石を右手に見て、最後の地蔵尊の先で三条通に合流します。

スグ先に
車石の轍の上に米俵を積んだ大八車のモニュメントがあります、解り易いですね。

京方面からはこの車石が
日ノ岡峠に入る分岐ポイントになります。

左手の擁壁に沿って、緩い坂を上ると、左手に低い丘があります、ここが
粟田口刑場跡です。
日ノ岡旧道西口 車石 名号碑 萬霊供養塔

 刑場跡地には
南無阿弥陀仏名号碑萬霊供養塔があります。

この
刑場では一万五千人の罪人が処刑されました、明治二年(1869)十二月二十九日大村益次郎(村田蔵六)を暗殺した五名がここで斬首されました、これが最後の処刑でした。

 九条山交差点を過ぎると右手に大きな地蔵尊を安置する祠があります、刑場に向う、夥しい数の罪人を見送ってきました。

下り坂になると左手の
京都市蹴上浄水場に沿って進みます、蹴上の地名は浄水場辺りにあった清水が蹴上げる程の水量があったとか、義経がこの清水を蹴上げられ、それらの者を斬り捨てたとか、刑場に向かうのを拒む罪人を蹴上げたところ等に由来しています。

右手には
安養寺及び日向大神宮の参道口があります。
地蔵尊 蹴上浄水場 参道口 蹴上分岐

 先の
蹴上交差点のY字路を左に進みます、東海道最後の分岐です。

 蹴上交差点を直進すると右手に南禅寺があります、臨済宗の総本山です、藤堂高虎が建立した三門石川五右衛門の「絶景かな絶景かな・・・・・」で知られています。

門前には名物
湯豆腐の名店が軒を連ねています。

街道に戻り、ウェスティン都ホテル京都を過ぎると右手路地に
地蔵尊があります。

次いで左手に
仏光寺本廟があります、境内の御廟(おたまや)は親鸞聖人の真骨を安置する堂です、真骨は足利尊氏寄進の舎利容器に納められ地下に埋葬されています。
南禅寺 地蔵祠 佛光寺本廟

 境内に
三条小鍛冶の古跡解説があります、三条宗近は平安時代中期の刀匠で、粟田口三条坊に住したところから三条小鍛冶とも呼ばれました、名刀子狐丸をはじめ幾多の刀剣を輩出しました、祇園祭長刀鉾(なぎなたほこ) の鉾頭の長刀は宗近が娘の疫病平癒に感謝し祇園社に奉納したものです、境内には刀剣を鋳るときに用いた井水がありました。

 右手京都三条広道郵便局脇に合槌稲荷明神があります、刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂です、名刀小狐丸は童に化けた狐が合槌(あいづち)を打って鍛えたものです。

左手
粟田神社の参道に入ると右手に粟田焼発祥之地碑があります、粟田焼は洛東粟田で生産された陶器です、寛永元年(1624)山上蹴上げに住む陶工三文字屋九右衛門が考案した銹絵(さびえ)染付陶器が始りです。

粟田神社は貞観十八年(876)の創建で、粟田口村の産土神です、粟田口に鎮座し、旅立ち守護道中安全の神として篤く信仰されました。
末社の
鍛冶神社は刀匠三条宗近を祀っています。
合槌稲荷明神 粟田焼発祥之地碑 粟田神社

 三条神宮道交差点を右に入ると、正面が平安神宮です、平安遷都千百年を記念して、明治二十八年(1895)遷都を行った第五十代桓武天皇を祭神として創建されました。

三条神宮道交差点に戻り、左に入ると
粟田口標石があります、粟田口は京七口のひとつで三条口とも呼ばれ、東海道中山道口でした。

三条通を進むと左手に
坂本龍馬お龍「結婚式場」跡標石があります、標石の側面には「此付近青蓮院塔頭(たっちゅう)金蔵寺(こんぞうじ)跡」と刻まれています。

元治元年(1864)六月
池田屋事件、七月禁門の変が起きた直後の八月初旬に坂本龍馬お龍はここにあった金蔵寺の本堂で内祝言(ないしゅうげん)を挙げました。
平安神宮 粟田口 竜馬お龍祝言地

 白川に架かる白川橋手前の左手に延宝六年(1678)建立の白川橋道標があります、京都に現存する最古の道標です。

正面「是よりひだり ち於んゐん ぎおん きよ水 みち」
右面「三条通白川橋」

ここから左に入って白川に沿って進むと、餅虎の所に弘化二年(1845)建立の
道標「東梅宮並 明智光秀墳」「あけちみつひて」があります、ここを左折すると左手に明智光秀の塚があります。

光秀は天正十年(1582)
本能寺の変後、山崎の戦いで秀吉に敗れ、近江坂本城へ逃れる途中、小栗栖(おぐるす)の竹藪で農民の竹槍に刺されて重傷を負い、
白川橋道標 明智光秀道標 明智光秀の塚

その場で自刃して果てました、家来が
光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられています。

餅寅では
光秀饅頭を商っています。

 東山三条交差点を越すと左手に大将軍神社があります、桓武天皇平安京を造営した際、大内裏鎮護のため四方四隅に祀られた大将軍神社の内の、東南隅のひとつです。

特に平安京東のこの地は、
三条口の要地にあたり邪霊の侵入を防ぐ意を以て重要視されてきました、境内には樹齢八百年という大イチョウが聳えています。

三条大橋手前の左手に、
御所に向って拝礼する高山彦九郎像があります、延享四年(1747)上野國新田郡細谷村に生まれる、まだ幕府の権力が強い時代に尊王思想を鼓吹し、幕藩体制を厳しく批判し、幕末勤王の志士達に多くの影響を与え、明治維新の先駆的な人物として知られています、寛政五年(1793)久留米にて志半ばで自刃して果てました。

辞世「朽ちはてて 身は土となり 墓なくも 心は国を 守らんものを」
大将軍神社 高山彦九郎像


 サア、いよいよ
三条大橋です、天正十八年(1590)豊臣秀吉の命により、増田長盛が奉行となり、それまでの橋を石柱の大橋に改修しました。

江戸時代は幕府直轄の
公儀橋として流失のたびごとに幕府の経費で架け替え、修復が行われました。

広重は
東山三十六峰を背景に鴨川に架かる三条大橋の賑わいを描いています。

東海道名所図会は「三条の橋は東国より平安城に至る喉口となり、貴賤の行く人
三条大橋 東海道五拾三次之内 【京師】 三條大橋

常に多くして皇州(みやこ)の繁花は此橋上に見えたり」と評しています。

現在の
三条大橋は昭和二十五年(1950)の架橋です。

 それでは西陽が当たり始めた鴨川三条大橋で渡ります、鴨川は北山の桟敷ケ岳に源を発し、流末は桂川に落合います。

左(南)側渡り詰の手前二本目の
擬宝珠池田屋騒動の際に付いたという刀傷があります。

三条大橋を渡ると、延べ12日間の
東海道ウォークは完結です!

東海道中膝栗毛の
弥次郎兵衛喜多八が出迎えてくれます!!
三条大橋 池田屋騒動刀傷 刀傷跡 弥次喜多像

 PM 5:11 京三条大橋着

 サア、打上げです、これ以上無いというお店を紹介します、三条大橋袂の京菜酒膳ふうです!!!

2階から
三条大橋が眼下です、江戸日本橋から歩き継いでやっと到着、これ以上のロケーションは無いでしょう、感無量です。

酎ハイのグラスの上には
弥次喜多が立っています。

こんな贅沢はありません、このお店3回目です、酎杯を2杯飲み、肴を含め締めて2,640円也です。
ビュー 食前酒&付出し 酎ハイ 揚出し豆腐 鴨と九条葱照焼

 お奨め中のお奨めです!!!!


 
 電車を乗り継いで京都駅に出ます。

東海道ウォークで初めて東海道新幹線を利用します、のぞみで新横浜駅まで所要時間2時間2分です。

車中で一杯です、つぎはどこだ!!そうだ
善光寺に行こう、今年は七年に一度のご開帳です。



前 関 〜 石部