それでは上道を進んでみましょう、右手の荒山は当初、銅が採掘されたため金山(かなやま)と呼ばれました、江戸後期には石灰(せっかい)が採掘されたため灰山(はいやま)と呼ばれるようになりました。 この金山は頭が堅く、融通がきかない堅物(かたぶつ)を指す石部金吉の由来になっています。
三上山(標高432m)は近江富士とも呼ばれます、俵藤太(藤原秀郷)は瀬田唐橋の上で瀬田川に棲む龍神から三上山の大百足(むかで)の退治を依頼され これを弓で首尾よく射止めたという伝説があります。
境内に石造多層塔があります、鎌倉末期の作で、本来は九層であったといいます。
文明十九年(1487)幕府に反抗する六角高頼(ろっかくたかより)を討伐する為、この地に着陣するも、二十五歳の若さで病没となりました。
右手に浄土宗延命山地蔵院があります、境内に元禄年間(1688〜1704)に建立された八幡大菩薩、天照皇大神宮、春日大明神と刻まれた石碑があります、神仏混淆(しんぶつこんこう)の名残りです。
広重は石部として目川立場の元伊勢屋を描いています。 菜飯は刻んだ青菜を入れて炊いた塩味の飯です、田楽は串に刺した豆腐に味噌を塗り、焼いたものです、菜飯田楽はここが発祥地といわれています。
田中七左衛門が代々勤め、材木商を兼ねていたところから木屋本陣と呼ばれました。 敷地千三百坪、建坪四百六十八坪、部屋数三十九室、総畳数は二百六十八畳半で、現存する本陣遺構の中では最大級です、一般公開されています。 大福帳には赤穂藩主浅野内匠頭の名があり、九日後には吉良上野介が宿泊しています、幕末にはシーボルト、皇女和宮、土方歳三等が宿泊しています。
平成十年(1998)一月六日、第一回東海道ウォークの際、はり治で鍋焼きうどんを食しました、その時はここが田中九蔵本陣跡とは夢にも思いませんでした。
八幡から近江路を上り、当寺に宿陣しました。
交差点手前の左手に御旅館野村屋の庵看板を掲げた商人宿がありましたが、今は駐車場になっています、富山の売薬行商人の定宿でした。
諺(ことわざ)の急がば廻れの語源になった歌です。
です、本店は国道1号線沿いに移転しています、草津駅でも購入できます。
右手の民家の庭内に平清宗胴塚(五輪塔)があります、文治元年(1185)壇ノ浦の合戦で源義経に敗れ、捕らわれの身となった平家総大将平宗盛と嫡男清宗は鎌倉に護送されたが、頼朝に追い返され、京に戻る途中この地で清宗が斬首され、宗盛は野洲篠原で斬首となりました、親子の首級は塩漬けにされ京に移送されました。 ※中山道の滋賀県野洲市大篠原にも親子の胴塚があり、ここには平家終焉の地碑があります。
右手に赤レンガの祠が街道に背を向けてあります、旧道痕跡かも知れません、数体の地蔵尊が安置されています、子供を守る子守地蔵といわれ、永い間、村の人々の信仰を集めてきました。
南笠東(みなみがさひがし)に入ると弁天池があります、弁天島には琵琶湖の竹生島から勧請した弁財天を祀る弁財天神社があります、大盗賊日本左衛門がここに隠れたとの伝説があります。 狼川を狼川橋で渡ります、往時は大亀川と呼ばれ、大亀川の渡しがありました。
昔、この地に大蛇が棲み付き、住民が逃げ出し、いつしか萱原(かやはら)になってしまったといいます、延宝四年(1676)開拓が行われ、大萱新田となり、明治七年(1874)月輪(つきのわ)村となりました。
平安時代前期の歌人大江千里(おおえのちさと)の住居跡と伝わっています、大江村の地名由来になっています。
近江国庁は前殿、後殿と東西の脇殿で構成され、門や築地を配し、東西二町(約216m)、南北三町(約324m)の規模でした。 近江国庁は日本で初めて、古代の地方政治の中心地である国庁の全容が明らかになった遺跡です。
永禄元年(1160)源頼朝(十四歳)が伊豆へ配流される際に源氏再興を祈願し、見事に願いが叶ったところから武運来運の神として武家の信仰が篤かったといいます。
「松風の 帆にはとどかず 夕霞」と刻まれています。
瀬田の唐橋に龍が横たわっていたが、俵藤太は臆することなく、龍の背を踏みつけて渡ってしまった、すると龍が 「私は瀬田川の龍神です、実は三上山の百足に苦しめられ困っている、是非退治してほしいと」懇願、藤太は快諾した。 百足は三上山を七巻半する大百足でした、二本の矢は次々に跳ね返された、そこで三本目には自分の唾を付けて射ると、矢はついに眉間に突き刺さり、見事大百足は退治されました。
街道は福井銀行先の鳥居川交差点を右折し、北に向います。
義仲は瀬田と宇治の戦いで頼朝に敗れ、ここ粟津で育ての親兼遠の子兼平に出会うが、義仲は粟津原の戦いで討死にし、これを知った兼平は口に刀を含んで馬から飛び降り自害してはてた、共に戦った巴御前は北国に落ち延びました。
左手にシッカリと造られた地蔵祠に数体の地蔵尊が安置されています。
で、本尊は大曼荼羅です、山門脇には南無妙法蓮華経髯文字題目碑があります。
造りの旧家があります。
が城主となり、膳所六万石として明治維新を迎えました。 白亜の城郭は「瀬田の唐橋唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)に謡われています。
北門は同様に膳所城の城門を移築したものです、屋根の軒丸瓦には橘紋があしらわれています。
白鳳四年(675)の創建で、本殿は一間社流造で国重要文化財です。 境内の大イチョウは樹齢六百年です、関ケ原の合戦に敗れ、捕らわれの身となった石田三成が京へ護送される際、このイチョウに縛り付けられたといいます、その後三成は京の都を引き回された後、六条河原で斬首されました。
し、死後は義仲寺に葬るよう遺言しました、境内には芭蕉の門人又弦(ゆうげん)句碑「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」、芭蕉辞世の句「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」等があります。 ※境内の拝観には入場料が必要です!
石場には石場の渡し場(湊)があり、対岸の矢橋湊間の舟旅の人で賑わいました、石場には多くの石工が住み、浜辺の石積に従事したところを地名由来としています。
地蔵尊が祀られた小さな流れの常世川(つねよがわ)を越え、十字路を渡ると右手に浄土宗正信山成覚寺があります、慶長三年(1598)の創建です。
このずい道は外国人技師に頼らず日本人だけで完成させた、わが国最初の山岳ずい道です、ずい道口上部に掲げられた扁額楽成頼功は三条実美の揮毫です、これは工事に関わった人々の功に頼って落成したという意味で、落成の落の字は、落盤に通じるために楽に置き換えたといいます。 大正十年(1921)まで東海道線下り線として使用されました。
右手の段上には大谷村の鎮守蝉丸神社が鎮座しています、天慶九年(946)の創建で、蝉丸を祀っています。 蝉丸は盲目の琵琶法師と呼ばれ、音曲芸道の祖神として崇敬されました。
です、庄兵衛は幕府御用達の算盤師となりました、大津算盤は五つ玉が二個ありました。
大谷駅から先電車はジェットコースター並にカーブします、マニアには堪らないでしょう。 上栄町駅で下車し、京町一丁目交差点に復帰します。
そして一本目を左折します、京方面からは突当りを右折し、一本目を左折します。
右手の墓地の並びには六地蔵が祀られています。
京方面からはここから本格的な上り坂になります。
左手に(株)イキがあれば正解です、次いで左手に地蔵祠があります。
往路は逢坂越、そして復路は小関越は如何でしょうか。
を追われ、山科の地に隠棲し琵琶の名手となりました、傍らには同じ境遇であった蝉丸法師の供養塔があります。 境内の街道沿いに元禄十六年(1703)建立の六地蔵道標「伏見六ぢぞう 南無地蔵」があります、山科六地蔵から伏見六地蔵への道を示しています。
京方面からは東海道本線ガードをくぐった先を左折します。
時を告げたことにちなんだものです。 冠木門先の理容志佐(元駐車場)の所を左折し、日ノ岡旧道に入ります、江戸方面からは東海道最後の難所日ノ岡峠越えです。
日ノ岡峠は京を出立した旅人にとって、最初の難所でした、京方面からの峠道には多数の地蔵尊が祀られ、旅人の道中安全を見守っています。
刑場跡地には南無阿弥陀仏名号碑と萬霊供養塔があります。 この刑場では一万五千人の罪人が処刑されました、明治二年(1869)十二月二十九日大村益次郎(村田蔵六)を暗殺した五名がここで斬首されました、これが最後の処刑でした。
先の蹴上交差点のY字路を左に進みます、東海道最後の分岐です。
境内に三条小鍛冶の古跡解説があります、三条宗近は平安時代中期の刀匠で、粟田口三条坊に住したところから三条小鍛冶とも呼ばれました、名刀子狐丸をはじめ幾多の刀剣を輩出しました、祇園祭の長刀鉾(なぎなたほこ) の鉾頭の長刀は宗近が娘の疫病平癒に感謝し祇園社に奉納したものです、境内には刀剣を鋳るときに用いた井水がありました。
その場で自刃して果てました、家来が光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられています。 餅寅では光秀饅頭を商っています。
常に多くして皇州(みやこ)の繁花は此橋上に見えたり」と評しています。 現在の三条大橋は昭和二十五年(1950)の架橋です。
お奨め中のお奨めです!!!!
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