道中日記 2-167 東海道 ( 関 - 石部 ) 42.2km

 宿泊は例によって
素泊りです、冷えたお茶を飲み、テレビで天気の確認をしながら明るくなるのを待ちます、大部明るくなってきました、それでは腰を上げましょう!

宿並に人の気配はありません、一人占めです、
伊藤本陣跡が本日の起点です、天気は上々、それでは出立しましょう!

 AM 6:11 関宿出立 坂下宿まで 6.4km

 伊藤本陣跡先の右手にひと際大きな造りの橋爪家があります、代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商を営み、江戸に出店を持ち、大阪の鴻池家と並び称せられる豪商でした。

江戸末期は
芸妓(げいぎ)の置屋として栄えました、街道に面して手摺付の二階妻入り建ですが、これは明治期の改築で、元は平入の屋根でした。

隣りの
辰巳屋は明治二十四年(1891)の建築です、石垣家は肥料商を始め、米穀の販売等を営みました。

続いて
旅人宿石垣屋があります、築百二十年の古民家ゲストハウスです、安価な料金で泊まれる素泊まり宿で、寝袋を持参しますと更に安価になります。
橋爪家 辰巳屋(石垣家) 旅人宿石垣屋

 隣りが旧旅籠玉屋(亀山市指定有形文化財)が資料館として公開されています、関宿を代表する大旅籠でした、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだ泊まるなら会津屋か」と謡われました。

スグ先の左手に庵看板を掲げた
関の戸があります、寛永年間(1624〜45)創業の銘菓関の戸の老舗深川屋です。

右手関郵便局の所が
高札場跡で、高札場が復元されています、郵便局の敷地は当初御茶屋御殿でした。
旧旅籠玉屋 関の戸 高札場 鈴鹿の山並

 関宿が設置されると亀山藩の
番所がここに設置されました。

宿並の正面に
鈴鹿の山並が、迫ってきました。

 左手に関名物の銘菓志ら玉の老舗白玉屋(三宅家)があります。

向いに天台真盛宗
福蔵寺があります、天正十一年(1583)織田信長の三男信孝の菩提寺として創建されました。

信孝の新墓があります、神戸城主となりましたが、父信長が死去すると自刃に追い込まれました。

裏門横に
仇討烈女関の小万の墓と碑があります、本懐を遂げた小万は三十六歳の若さで亡くなりました。
志ら玉屋 織田信孝墓 関の小万墓 福蔵寺裏門

 福蔵寺の
裏門は旅籠玉屋の向いにあった萩屋脇本陣から移築したものです。

 右手の川音は文久年間(1861〜64)の建築で、尾崎家は米屋でした、鈴鹿川の水で、米を撞く水車の音から屋号を川音と称しました。

宿並の正面に
地蔵院があります、本尊の地蔵菩薩は「振袖着せて奈良の大仏婿にとろ」といわれる美形です。

通り掛かった
一休禅師が開眼供養を頼まれると小便をひっかけてさっさと帰ってしまった。

驚いた檀家衆が供養をし直したが、祟ってしまった。

急遽、檀家衆は
一休禅師を桑名まで追いかけ、事情を話すと、着用していたを外して渡されました。
川音(尾崎家) 関地蔵院 関地蔵尊

 この
(ふんどし)を地蔵尊に掛けると、ピタリと祟りが止んだと云います、この褌は寺宝になっています。

 地蔵院の右手に会津屋があります、旧旅籠山田屋です、関の小万(こまん)は山田屋の養女となり、本懐を遂げた後も当家に留まり、享和三年(1803)三十六歳の若さで亡くなりました。

右手の
松葉屋火縄屋でした、火縄は関宿の特産物で、旅人の煙草の火種として人気がありました。

向いの
田中家は代々庄右衛門を襲名し、六代目は京に遊学し、有名文化人との親交がありました、建物は嘉永年間(1848〜54)の建築で、表戸はくぐり戸付大戸で典型的な素封家の構えです。
会津屋 松葉屋(田中家) 田中家 田中屋(田中家)

 先の左手の
田中屋は大正初期の建築で、関町で最も広荘な町屋の一つです、田中家は醤油醸造業を営んでいました。

 右手の真宗高田派誓正寺(せいしょうじ)の境内には正定院筆子中(塚)があります、誓正寺を再興した法瑞住職を師と仰ぐ、教え子達が慶応四年(1868)に建碑した筆塚です。

宿並の右手に真宗仏光寺派福生山
長徳寺があります。

宿並を進むと右手に関西山
観音院があります、当初は城山の西方にあって、関氏の祈願寺として栄えました、戦国末期の兵火で焼失しましたが、寛文年間(1661〜72)現在地に移転し、東海道関宿の守護仏となりました。

次いで右手に
南禅寺井口家があります。
誓正寺 観音院 南禅寺(井口家)

 
井口家は屋号を南禅寺と称し、関宿西追分にあって豆腐料理が名物の料亭でした。

 宿並はY字路になります、ここが西追分です、左(黄色矢印)は大和街道です、加太(かぶと)越えをして伊賀上野から奈良に至ります。

この追分には元禄十四年(1691)
谷口法悦が建立した南無妙法蓮華経題目碑道標「ひだりハいかやまとみち」があります。

この西追分は関宿の
京方口(西口)です。

東海道は追分の右(白色矢印)を進みます。

スグ先山川業務店の所が再び
Y字路になっています、現在の大和街道追分です、左(黄色矢印)は国道1号線の新所町交差点に出ます。
西追分 追分道標 @新所分岐

 
東海道は右(白色矢印)に進みます。

 道なりに進み、観音山テニスコート横を通過し、関ロッジからの下り坂のAT字路に突き当たります、左折します、スグ先の関ロッジゲートの所でB国道1号線に突き当たります、右折します。

京方面からは
関ロッジゲートを左折し、一本目を右折します。

コンビニサンクスがあります、
カップそば肉まん2ケの朝食です、暖まります。
※サンクスは廃業になりました。

市瀬交差点を越すと、右手の駐車場内に
転び石があります。
A新所分岐 B新所分岐 朝食 転び石

 名所図会にも描かれている
大石です、山の頂にあったが転がり落ちてきて、いつしか夜になると不気味な音を立て人々を恐れさせていました、通りかかった弘法大師が石の供養をしたところ静かになったと伝えられています。

その後、何度片付けても街道に転がり出てしまい、
鈴鹿川に落ちても自力でここに戻ったといいます。

 国道を進み、鈴鹿川の手前を斜め右に入ります、この分岐点には東海道坂下宿→案内標識があります。

鈴鹿川に沿って進み、
市瀬橋鈴鹿川を渡り、突当りのT字路を右折します、京方面からはカーブミラーこの先行き止まり標識を左折します。

右手の人家の外れに大正九年(1920)建立の
山燈籠があります。

国道1号線を斜めに横断し、山川運輸左の旧道に入ります、ここには東海道坂下宿↑案内標識があります。

旧道に入ると小橋の手前右手に小さな
地蔵祠があり、左手には「報思謝徳」と刻まれた山燈籠があります。
市瀬分岐 山燈籠 山燈籠&地蔵尊

 山燈籠の奥に浄土真宗本願寺派西願寺があります、旧市之瀬村の中央に位置しています。

市之瀬の村名は鈴鹿川の
石の瀬に由来しています、往時は立場でした、村は国道1号線の敷設で分断されてしまいました。

旧道は先で
国道1号線に吸収されます、京方面からは有限会社I.T.M看板先を斜め右に入ります。

横断歩道はありません、頃合いを見て、右側に移りましょう、歩道は右側にしかありません。

緩やかな上り坂をモクモクと進みます、左手
この先急カーブ走行注意標識の先を斜め右に入ります。
西願寺 国道1号線合流 筆捨山入り口

 右(黄色矢印)に入ると鈴鹿川を挟んだ対岸に標高289mの筆捨山が望めます、元は岩根山と呼ばれていました。

室町時代の絵師
狩野元信が、この山を描こうと筆をとり、翌日描き残した部分を続けようとしたところ、雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため、書き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたところから筆捨の名が付いたと伝わっています。

広重はこの
筆捨山の山容と、対岸の藤の茶屋を描いています、今の筆捨山は植生が変わり、樹木に覆われてしまい、中腹の一部に岩肌を残すのみです。
筆捨山 東海道五拾三次之内 【阪之下】 筆捨嶺

 
筆捨山を見た後は通り抜けが可能です。

 スグ先で街道は左にカーブしますが、正面に直線で入る細道があります、旧道痕跡です。

広重が描いた
藤の茶屋があった立場跡です、残念ながら通り抜け不可です。

右手眼下に
鈴鹿川渓谷を望む、国道の歩道を進むと右手に國道改良紀念碑があります。

次いで左手の人家手前の台上に
一里塚跡標石があります、坂下市之瀬の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて百七里目です。
筆捨立場跡 國道改良紀念碑 一里塚跡 楢の木分岐

 先を斜め右に入ります、この分岐点には
東海道案内標識があります。

 旧道に入ると旧楢木村です、旧市之瀬村の枝郷でした、村を抜けると 旧道は緩やかな上り坂で、快適なワインディングロードになります。

旧沓掛村に入ると幕板のある旧家を残しています、立場でした、地名の沓掛は厳しい山道に由来しています、傷んだ草鞋(沓)を木に掛け、道中の安全を祈ったことに由来しています。

右手の
超泉寺は真宗高田派です、坂下簡易郵便局先のY字路は右に進みます。

左に田畑が広がり、右手に山が迫る、長閑な山道を進み、Y字路を右に入ると左手に
鈴鹿馬子唄会館があります、鈴鹿馬子唄や坂下宿の資料を展示しています。
沓掛村 超泉寺 鈴鹿馬子唄会館

 旧道沿いには東海道五十三次の標柱が日本橋から順に立ち並んでいます。

右手に旧
坂下尋常高等小学校の木造校舎があります、国登録有形文化財です。

昭和十三年(1938)の築で、昭和五十四年(1979)廃校し、坂下公民館になり、現在は青少年のための宿泊研修施設
鈴鹿自然の家になっています。

旧道は下り坂になり、
三条大橋標柱の所で下道に合流します、京方面からはY字路になります、三条大橋標柱の所から斜め左の上り坂に入ります。

雑木林の中、緩やかな上りの
山道を進みます。
東海道五十三次標柱 尋常高等小学校 東海道五十三次標柱

 AM 7:55 坂下宿着 土山宿まで 9.9km

 河原谷橋を渡ると坂下宿に入ります、江戸方(東)口です、到着です!

坂下の地名は
鈴鹿峠坂下にあるところを由来としています。

坂下宿は当初、
片山神社下の谷間にありましたが、慶安三年(1650)の大洪水で壊滅し、現在地に移転し復興されました。

難所である
鈴鹿峠を控え、参勤交代の大名の宿泊も多く、賑わいました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると坂下宿の宿内家数は百五十三軒、うち本陣三、脇本陣一、旅籠四十八軒で、宿内人口は五百六十四人(男二百七十二人、女二百九十二人)でした。

宿並の正面に聳える山並みは
三子山です、東海道峠越えの二大難所、東の箱根二子山、西の鈴鹿には三子山といわれました。
河原谷橋 坂下宿

 宿並を進むと、坂下集会所の所が松屋本陣跡です、東海道名所図会に「此宿の本陣家広くして世に名高し(中略)海道第一の大家也」と著されています。

右手に
前田屋があります、関宿名物志ら玉はここで製造されています。

志ら玉はこし餡を米粉を原料にした薄い皮で、包んだ上から赤、青、黄色で色どり添えた餅菓子です、一個から賞味できます。

向いの茶畑が
大竹屋本陣跡です、鈴鹿馬子唄に「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」と唄われています。
松屋本陣跡 標石 前田屋 大竹屋本陣跡 標石

 中の橋の手前左手が梅屋本陣跡です、三軒目の本陣跡で、これにて松竹梅が完成しました、これは偶然なのか、意図的なのか、いずれにしても面白いですね!

右手が
法安寺です、永正二年(1505)に創建され、洪水で流失した後、承応二年(1653)現在地に再建されました、庫裏の玄関は松屋本陣の門を移築したもので、坂下に残る唯一の本陣建物の遺構です。

中の橋を渡ると右手に
小竹屋脇本陣跡があります、鈴鹿馬子唄に「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」と唄われています。
梅屋本陣跡 標石 法安寺 小竹屋脇本陣

 「大竹屋本陣では恐れ多い、せめて脇本陣の小竹屋に泊ってみたい」と唄ったものです。


 小橋を渡った先で、左に入る小路があります、電柱に消火栓の標識が取り付けてあります、ここから家並みが連なっています、旧道痕跡です、この旧道はスグに宿並に吸収されてしまいます。

右手に
石垣とその外れに地蔵祠が現れます、石垣は金蔵院跡です、当初はここに御殿があり、家康や秀忠の休息に利用されました。

金蔵院は仁寿年間(851〜4)の創建で、古町(旧宿場)にあって鈴鹿山護国寺とも呼ばれた古刹です、洪水に遭い現在地に移転し、明治に廃寺となりました。

地蔵祠に
身代り地蔵尊が安置されています、大名行列を横切った子供が手打ちになるところを身代わりなったお地蔵さんです。

この辺りが坂下宿の
京方(西)でした。
金蔵院跡 身代り地蔵尊

 街道をモクモクと歩くと右手に岩屋観音があります、万治年間(1658〜60)法安寺の実参和尚が岩窟に十一面観音を安置しました、昼なお暗い堂脇に清滝があるところから清滝観音とも呼ばれました。

この滝は
葛飾北斎諸国滝廻りにも描かれています。

岩屋観音先は
国道1号線右側の側道を進みます。

ここに
旧東海道鈴鹿峠1.5kmの道標があり、丸太階段がありますが、これは東海道自然歩道で、東海道の旧道ではありません。

国道1号線の側道口には
東海道鈴鹿峠(土山宿)←→坂下宿案内標識があります。
岩屋観音 東海自然歩道 国道1号線側道

 国道1号線の側道を進み、先のY字路を右に入ります、この分岐点には片山神社社標があります。

旧道は雑木林の中を進みます、この筋に当初
坂下宿がありました、慶安三年(1650)の大洪水で宿が壊滅、現在地に移転しました、以降、この地は古町と呼ばれました。

初めてここを歩いた時には、往時の
残骸の一部が散積していました、今はきれいに片付けられています。

突当りに
片山神社が現れます、延喜式神名帳に記載された古社です、鈴鹿峠を守護する鈴鹿大明神を祀り、坂下宿の氏神でした、平成十四年(2002)放火により社殿は焼失してしまった。
片山神社口 古町 片山神社

 片山神社鳥居手前を右折します、ここが実質上の鈴鹿峠登り口です、ここから「十八曲八町」の登り坂になります。

左手に
鈴鹿流薙刀術發生之地碑や享保二年(1717)建立の燈籠が二基並んでいます。

峠道の一部には苔むした
石畳を残しています。

ものの5分も登れば、正面に
国道1号線高架が覆い被さって来ます、高架下からコンクリート階段を上れば公園広場に出ます。
鈴鹿峠口 鈴鹿流薙刀碑 j国道1号線高架 公園広場

広場の奥に進み、
東海道鈴鹿峠案内標識に従って丸太階段を上ります。

 丸太の階段を上ると芭蕉句碑「ほっしんの 初(はじめ)こゆる 鈴鹿山」があります、貞享二年(1688)近江膳所にて門人乙州が江戸へ旅立つ際の、はなむけの一句です。

石段を上ると
馬の水のみ鉢が復元されています、かつては人馬のために水桶が置かれていました。

数分も上ると峠道は平になります、ここが
鈴鹿峠(標高378m)です。

伊勢
近江の國境、今は三重滋賀の県境です。
芭蕉句碑 石段の峠道 馬の水のみ鉢 鈴鹿峠

 峠には松葉屋、鉄屋、伊勢屋、井筒屋、堺屋、山崎屋の
茶屋が軒を連ね賑わったといいます、今もこれらの茶屋跡の石垣を残しています、甘酒が名物でした。

 街道は直進しますが、標識に従って左に入ると田村神社舊跡碑があります、鈴鹿峠の山賊を退治した坂上田村麻呂を祀っていました。

明治三十九年(1906)神社合祀令により
片山神社に合祀されました。

先に三重県指定天然記念物
鈴鹿山の鏡岩があります。

岩面の一部が青黒色の光沢を帯びていました、断層が生じる際に、強大な摩擦力によって研磨され、
のような光沢を帯びたものです。

山賊がこの岩を磨き、身を隠して、岩に映った旅人を襲ったという伝説から鬼の姿見とも呼ばれました。
田村神社舊跡 鈴鹿山の鏡岩 鏡岩

 残念ながら明治元年(1868)の
山火事で岩の輝きは失われてしまいました。

 雑木林の外れに境標石「界 右滋賀県近江の国 左三重県伊勢の国」「是より京まで十七里 是より江戸まで百九里」があります。

近江側には
茶畑が広がっています。

土道から舗装路に変わると右手に
万人講常夜燈が聳えています、金毘羅参りの講中が道中安全を祈願して建立したものです。

峠道は右手眼下に
国道1号線を望みながら下り、突当りのT字を右折し、先で国道1号線に合流します。
近江側の峠道 万人講常夜燈 国道1号線沿い 国道1号線合流

 京方面からは白いガードレールの
小橋と渡詰めの歴史の道江戸←土山→京大坂案内標識それと東海自然歩道道標です(下図参照)。

 右手の喫茶美香を過ぎたら、中央分離帯の切れ目を強行横断します、十分にお気を付け下さい。

通行量が多く、不安でしたら先の
横断地下道をご利用下さい。

左図の通り、山側の擁壁上の歩道に
旧道の名残りと思はれる道筋を残しています、途中にはが一本残っています。

国道1号線の歩道をモクモクと歩くと右手に埋もれた
鳥居山燈籠があります。

左手には廃業した
山賊茶屋があります。
山中の旧道痕跡 名残り松 鳥居と山燈籠

 山中交差点手前の左手に男女双体道祖神馬頭観音らしきものがあります。

山中交差点を越すと左手に
熊野神社社標鳥居があります、長い参道の奥に真新しくなった社殿があります、山中村の鎮守です、山中村は立場でした。

国土交通省スノーステーション先の左手に
山之神を祀る石祠があります。

左手の
十楽寺は浄土真宗清浄山で甲賀四十三番観音札所です。

文明十八年(1486)の創建で、本尊は日本最大級の
丈六阿弥陀如来坐像です。
男女双体道祖神 熊野神社 十楽寺

 先の左手熊谷板金工業駐車場の手前に山中城址碑があります、橘中務丞俊信は鎌倉時代の嘉禄二年(1226)鈴鹿峠の山賊を退治した功により、山中村地頭鈴鹿山盗賊追補使に任ぜられ山中氏と称し、ここに居城を構えました。

国道1号線の右側にシフトします、横断歩道はありません、お気を付け下さい。

西出橋を渡り、服部宅の所から斜め右に入り小田川橋を渡ります。

公園を横切ります、園内には
鈴鹿馬子唄碑東海道鈴鹿山中碑山燈籠があります。
山中城址 山中分岐 鈴鹿馬子唄碑 山中碑

 
鈴鹿馬子唄碑には「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」の歌詞が刻まれています。

 旧山中村に入ると右手に地蔵堂があります、堂前の献灯は嘉永六年(1853)の建立で、地蔵大菩薩と刻まれています。

巨大な
新名神高速道をくぐると、左に「第二名神」滋賀県起工の地碑があります、滋賀県下で、この地が最初に工事着工された記念碑です。

旧道は
国道1号線に突き当たります、右手に山中一里塚公園があります、山中の一里塚跡です本来の位置はやや南寄りにありました、江戸日本橋より数えて百九里目です。
地蔵堂 新名神高速 山中の一里塚跡 櫟野観音道道標

 園内には
櫟野(いちの)観音道(大原道)道標があります、「いちゐのくわんおん道」と刻まれています、櫟野村の櫟野寺(らくやじ)への参詣道道標です。

園内には
鈴鹿馬子唄之碑馬子と馬のモニュメントがあります。

 山中一里塚公園の所から国道1号線を横断した向に旧道痕跡を残しています。

但し、先で
通行不可になっています。

旧道にこだわる
街道ウォーカーさんは入ってみましょう。

斜め左(黄色矢印)の上り坂に入ります、途中から
草道になりますが、草竹セラミックに突当り通行不可になります。

わずかに戻り、石段を下り、国道1号線に迂回します。
山中旧道 山中旧道のトレース 迂回路

 国道1号線の歩道をモクモクと歩き、猪鼻交差点を右折します。

スグ先の
Y字路を右に進みます、右手に若宮神社社標があります、道なりに進み、一本目を左折します、ここが失われた山中旧道の復活ポイントです。

旧道を進むと、左手に
東海道猪鼻村碑があります、猪鼻の地名はこの地に鈴鹿山から下りてくるを除ける垣根があったところに由来しています。

猪鼻村は五十戸の集落で立場でした、草餅強飯が名物でした。
猪鼻旧道トレース 若宮神社社標 猪鼻村碑 浄福寺

 右手に臨済宗医王山
浄福寺があります、天正年間(1573〜91)の開基で、本尊は伝教大師最澄作の薬師如来坐像です。

 参道口に大高源吾句碑「いの花や 早稲のもまるゝ 山おろし」があります、赤穂浪士の一人で俳人(俳号子葉)であった源吾が旅の途中で詠んだ句です。

右手に
明治天皇聖蹟碑があります、旅籠中屋にて休息しました。

村外れの坂を上ると
国道1号線に合流します、ここには東海道猪鼻村碑があります、正面の擁壁が旧道痕跡ですが通行不可です。

この分岐点の向いの擁壁上には
金比羅神社が鎮座しています。
大高源吾句碑 明治天皇聖蹟碑 猪原村西口 金比羅神社

 国道1号線右側の歩道を進み、先を斜め右に下ります、この分岐点には蟹坂案内板があります。

この分岐点から国道1号線を挟んだ向かい側に
蟹塚案内板があります、国道横断に不安を感じる場合は先の蟹が坂交差点にて横断します。

細道を下り、案内板に従って右手の雑木林に入ると
蟹塚があります、平安時代蟹坂に大きな蟹が出没し、旅人を苦しめた、京の僧恵心(えしん)が往生要集を唱えると、蟹の甲羅は砕け散った、恵心は村人に蟹供養の石塔を建て、蟹の甲羅を模した(あめ)を作り、厄除けにするように言い残しました。

この
蟹塚が僧都が言い残した蟹供養の石塔です。
蟹が坂口 蟹塚 かにが坂飴

 旧道に戻り、坂を下ると右手に榎島神社があります、白川神社の末社です、白川神社御旅所標石があります。

境内の大きい祠は
鈴鹿山にはびこる山賊を退治した坂上田村麻呂を祀る田村社です、小さな祠は退治された山賊を祀る蟹社です、椎の木は御神木で樹齢約四百年です。

旧道に戻ると右手に
男女双体道祖神二体が路傍に祀られています、旧蟹が坂村口にあって、悪霊の侵入を見守る塞の神です。

蟹が坂村を抜け、ジーテクト滋賀工場の渡り廊下、そして高架橋をくぐった先の右手に
蟹坂古戦場跡標石があります、 天文十一年(1542)伊勢の北畠軍の侵攻に対して、この地の山中城主山中丹後守秀国軍はこれを撃退しました。
榎島神社 道祖神 蟹坂古戦場跡

 街道の左手に田園風景が広がる、長閑な畷道を進み、突当りの海道橋(旧田村橋)で田村川を渡ります。
田村川は鈴鹿山系の
宮指路岳(くしろだけ)山麓に源を発し、流末は野洲川に落合います。

広重は
田村川に架かる田村橋と左に田村神社の杜、そしてを描いています。

伊勢の海から吹き上げてくる風が、鈴鹿山を越えると雨になることが多く、「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」という馬子唄が生まれました、広重はこの春雨を描き込んでいます。
海道橋 東海道五拾三次之内 【土山】 春之雨

 田村橋は賃とり橋で、一般の旅人は三文、馬も一頭に付き三文が徴収されました。 

田村神社の杜を進むと右手に
高札場跡標石があります、高札場先の十字路を右折(黄色矢印)すると田村神社です、鳥居前の燈籠は安政三年(1867)の建立です。

田村神社は弘仁三年(812)創建の古社です、大和朝廷の命により征夷大将軍として蝦夷を平定した坂上田村麻呂を祀っています、北土山の鎮守です。

高札場先の
十字路を左折(白色矢印)すると、杉並木の田村神社参道が旧道です、杉並木の先に参道口の鳥居が望めます。
高札場跡 田村神社 旧道

 AM 10:46 土山宿着 水口宿まで 11.5km

 参道口鳥居をくぐると、国道1号線に突き当たります、甲賀市土山町北土山歩道橋にて国道を横断します。

右手が
道の駅あいの土山です、左手が土山名物のかにが坂飴店です。

街道は突当りの小公園を右折します、すると左手に
東海道土山宿碑があります、土山宿の江戸方(東)口です、土山宿に到着です!

土山の地名は中世、甲賀五十家の一つ
土山氏がこの地を治めたところを由来としています、難所鈴鹿峠を控え、大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
土山宿の宿内家数は百五十三軒、うち本陣三、脇本陣一、旅籠四十八軒、宿内人口は五百六十四人(男二百七十二人、女二百九十二人)で、宿長は二十二町五十五間(約2.5km)で北土山南土山で構成されていました。
田村神社参道口 土山宿碑

 宿内の家屋には旧屋号の札が掲げられています。

宿並を進むと左手に
があり、二体の地蔵尊が安置されています、傍らには真新しい道標「従是 右京都へ十五里 左江戸へ百十里」「東海道近江国土山宿生里野」があります。

並びに
上島鬼貫句碑「吹け波(ば)ふけ 櫛を買いたり 秋乃風」があります、上島鬼貫(うえじまおにつら)は東の芭蕉、西の鬼貫といわれました、貞享三年(1686)秋、鬼貫はここでお六櫛を買い求め、鈴鹿峠に向いました。

中山道薮原宿櫛職人が伊勢詣の帰路、病に罹り村人の世話になり、礼にお六櫛の技法を伝えたものといいます。

以来、
お六櫛は土山宿生里野村の名物になりました。
旧屋号札 地蔵祠&道標 鬼貫句碑

 宿並の右手に扇屋伝承文化館があります、本家櫛所の看板を掲げています、土山宿名物のお六櫛を商う商家でした。

続いて
があります、二体の地蔵尊が安置されています、白化粧されていますからお洒落地蔵かも知れません。

先の右手に
旅籠大槌屋跡標石があります、宿場特有の間口が狭く、奥行きの深い跡地を残しています。

次いで右手に
東海道一里塚跡標石があります、土山の一里塚跡です、塚木はでした、江戸日本橋より数えて百十里目です。
扇屋伝承文化館 地蔵祠 旅籠大槌屋跡 一里塚跡

 宿並の左手に旅籠寿し屋跡標石があります。

来見(くるみ)来見橋で渡ります、欄干には土山茶もみ唄の一節や東海道に関するレリーフが組み込まれています。

左手に
白山神社があります、南土山の鎮守です、本殿は文久三年(1863)の造営です、毎年七月末の土、日曜日に行われる土山祇園祭花傘神事は滋賀県選択無形民俗文化財です。

先の右手に
旅籠木屋跡があります。
旅籠寿し屋跡 来見橋 白山神社 旅籠木屋跡

 向いの大原医院は旅籠海老屋跡です。

スグ先の右手に御菓子司
正和堂があります、近江銘菓万人講もなかの老舗です。

海道橋(旧田村橋)の復活に尽力した、立役者の中のお一人です、20数年前に訪れた際、再架橋を熱く語っていました。

左手に
旅籠山本屋跡標石があります、その向いには旅籠簾屋跡標石があります。

左手の旧商家造りの大原製茶場は
油屋平蔵跡です、向いには旅籠江戸屋跡標石があります。
旅籠海老屋跡 正和堂 旅籠山本屋跡 旅籠江戸屋跡

 右手のさじや酒店手前に旅籠釣瓶屋跡旅籠大工屋跡旅籠柏屋跡の標石が三基並んでいます。

向いに
井筒屋跡標石があります、森白仙終焉の地と刻まれています、森鴎外の祖父白仙は石見國津和野藩亀井家の典医でした、文久元年(1861)参勤交代に随行し、ここで病のため息をひきとりました。

続いて
旅籠木綿屋跡標石があります、向いには旅籠平野屋跡標石があります。

明治三十三年(1900)
森鴎外が祖父白仙の墓参に訪れ、ここで一泊しました。
三軒の旅籠跡 旅籠井筒屋跡 旅籠木綿屋 旅籠平野屋跡

 隣りに旅籠万屋跡旅籠はた屋跡の二軒の標石があります。

向いに旧商家造の民芸茶房
うかい屋があります、甘味、蕎麦が堪能できます。

左手杉本屋製麺所の隣りが
二階屋本陣跡です、堤忠左衛門が勤めました、以前は脇本陣と表示されていました。

右手に
問屋場成道学校跡標石があります、明治の世になると問屋場は廃止され、成道学校が創立されました。

奥に
東海道伝馬館があります。
二軒の旅籠屋跡 二階屋本陣跡 問屋場跡 伝馬館

 
問屋場が復元され、多数の展示物があります。

 右手に問屋宅跡があります、堂々たる構えの遺構を残しています、松山家が屋号油屋佐平次と称し、問屋を勤めました。

次いで
本陣跡があります、重厚な構えの遺構を残しています、甲賀武士土山鹿之助の末裔、土山喜左衛門を初代として、代々土屋家が勤めました。

敷地内の
漢詩碑の奥に明治天皇聖蹟碑があります、明治元年(1868)行幸の際に、この本陣で明治天皇は十七歳の誕生日を迎え、第一回天長節が行われました、土山の住民に対しては、神酒(するめ)が下賜されました。

漢詩碑にはこの祝賀の様子が詠われています。
問屋宅跡 本陣跡 明治天皇聖蹟碑

 本陣の向いが旅籠俵屋跡、隣りが旅籠山形屋跡、右手が旅籠近江屋跡です、何れも標石があります。

左に土山公民館があります、
宿場のけごみ標柱があります、敷地内には林羅山漢詩碑があります、土山を詠っています。

左手に
旅籠山村屋跡標石があります、右手旅籠中嶋屋跡標石先の十字路を越すと、右手が大黒屋公園です。

大黒屋公園の宿並に沿って碑や標石が並んでいます、向って右手が
高桑闌更(らんこう)句碑「土山や 唄にもうたう はつしぐれ」です、闌更は享保十一年(1726)加賀國金沢に生まれ、薫風の復興に努め、与謝野蕪村等とともに俳諧中興に貢献しました。

次いで
大黒屋本陣跡標石があります、公園は本陣跡地です。
林羅山漢詩碑 大黒屋公園

 土山宿の豪商
大黒屋立岡家が勤め、控本陣でした、園内には明治天皇聖蹟碑があります。

大黒屋本陣跡標石と並んで
問屋場跡標石そして高札場跡標石があります。

 右手の旅籠古め屋跡を過ぎると、左手に陣屋跡標石があります、寛政十二年(1800)土山宿の大火災で類焼し、以降陣屋は信楽に移りました。

吉川大黒橋で渡ります、元は土橋でしたが大黒屋本陣を勤める立岡長兵衛石橋を架橋しました。

左手に臨済宗東福寺派
常明寺があります、墓地に森白仙供養塔があります。

旅籠井筒屋で亡くなった
白仙は当寺に葬られ、後に森鴎外が祖父の墓を改修しました。
陣屋跡 大黒橋 森白仙供養塔 芭蕉句碑

 昭和二十八年(1953)墓は津和野の
永明寺に移され、昭和六十三年(1988)鴎外の子孫により供養塔が建てられました。

境内には
芭蕉句碑「さみだれに 鳰(にお)のうき巣を 見にゆかん」があります。

 左手旅籠藤屋跡標石、右手旅籠常盤屋跡標石先の右手土山の地酒田村川を商うひのや酒店を過ぎると国道1号線に突き当たります。

交差点手前右手に
東海道土山宿標石、そして万人講常夜燈があります、ここが土山宿の京方(西)です。

南土山交差点を横断します、京方面からは斜め右に入ります。

右手の小路口に
道標が二基建っています、向って右の道標は文化四年(1807)の建立で「右 北国たが街道 ひの 八まんみち」と刻まれ、左の道標は天明八年(1788)の建立で「たかのよつぎかんおんみち」と刻まれ、ここから笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川宿
土山宿西口 南土山交差点分岐 御代参街道道標

手前の小幡までの十里余りの
脇往還です。

寛永十七年(1640)三代将軍家光の乳母
春日局が将軍の名代として多賀大社に参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣した際に、この往還は整備拡張されました。

朝廷は毎年伊勢神宮多賀大社名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、帰路土山宿から多賀大社に詣でる際に、この道が利用されたところから御代参街道と呼ばれました。

 御代参街道道標先から斜め右に入ると松尾川の渡しがあります。

松尾川(野洲川)迄の旧道がシッカリ残されています。

又、対岸の
旧道も同様に残され、更に確認してみると標石も充実しています。

これはトレースしない訳には行きません、これまでは
国道1号線の左側を迂回し、歌声橋を渡るルートをマップに表示しましたが、左図の通りに変更して下さい、従って国道1号線の白川橋が迂回路になります。
松尾川の渡しトレース

 御代参街道道標先を斜め右に入ります、この分岐点には歴史の道東海道江戸←土山宿→京案内標識があります、ここから松尾川の渡しトレースの開始です。

滝町を進みます、往時は町屋が軒を連ねていました。

二本目の十字路を越すと、人家はなくなり、渡し場に向って下りの
三年坂になります、右手に馬頭観音を安置する祠があります。

砂利道になり
松尾川(野洲川)に突き当たります、ここが松尾川の渡し場跡です。

常は
徒歩渡しで、水量が増すと舟渡しとなり、冬季には仮橋が架けられました。
松尾川の渡し口 馬頭観音 松尾川の渡し場

 野洲川の渡河は不可ですから、来た道を戻ります。

上図の通り、
大隅建設まで戻り、ここの十字路を右折します、この分岐点には歴史の道東海道江戸←土山宿→京案内標識があります。

この迂回路は
トラバースロードと呼ばれています、突当りの国道1号線を右折します、京方面からはエルビーの所を斜め左に入ります。

野洲川白川橋で渡ります、白川橋の歩道は右(北)側のみです。

橋上から野洲川を覗くと、かなり深い谷になっています、従って上流の
河岸段丘の低い箇所が渡し場になったことが容易に理解できます。

野洲川は往時松尾川と呼ばれました、御在所山に源を発し、流末は琵琶湖に注いでいます、これ以降東海道は野洲川に沿って進むことになります。
白川橋 野洲川

 白川橋を渡り、感応式信号機交差点を右折します、ここからの道筋は迂回路です。

茶畑外れの十字路が
松尾川の渡し口です、ここには鈴鹿馬子唄碑「坂はてるてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」があります。

ここから
渡し場までの下り坂は灰俵坂です。

ここの十字路を斜め左に入る道筋が
旧道です、旧道を進むと、左手の田の角に旅籠水口屋跡標石があります。

松尾川の渡しを控え、松尾村にあった
旅籠です、松尾村は立場で、甘酒芋掛け豆腐が名物で、麺類は道中二番といわれました、ちなみに一番は三河の(いも)川うどんです。
松尾川の渡し口 鈴鹿馬子唄碑 旅籠水口屋跡

 右手段上に秋葉神社が祀られています。

先を右に入ると右手の杜に
日雲神社が鎮座しています、参道口には甲可日雲宮(こうがのひくものみや)社標があります。

伊勢神宮の創建にあたり、垂仁天皇の皇女倭姫命(やまどひめのみこと)が訪れたと伝わっています。

先左手の杜が
垂水斎王頓宮跡です、天皇が即位すると名代として伊勢神宮に派遣される皇女を斎王(さいおう)といい、この斎王が宿泊する仮の宮を頓宮(とんぐう)といいました、五泊六日の群行(ぐんこう)でした。
秋葉神社 日雲神社 垂水斎王頓宮跡 頓宮址碑

 京を立ち、近江國では
勢多甲賀垂水に、伊勢國では鈴鹿一志に頓宮が設けられました。

旧道に戻って進むと、
シェルガソリンスタンドの所で国道1号線に突き当たります、国道を横断して向いの筋に入ります、ここに伊勢大路(別名阿須汲道)標石があります、斎王群行が通行した所から伊勢大路と呼ばれました。

突当りを右折します、これにて
松尾川の渡しトレースの終了です、京方面からはY字路を左に進みます、左手の家屋には東海道頓宮村たばこやの旧屋号札が掲げられています。

 感応式信号交差点の十字路を過ぎると、左手に瀧樹神社従是四丁社標があります、東参道口です。

瀧樹神社は水害から守る
水門(みなと)の守護神を祀っています、この地は野洲川田村川が落合い、洪水に悩まされました。

右手には
牛頭天王社が祀られています、前野村は瀧樹神社の前に開けた野原に由来しています。

瀧樹神社の表参道の先の右手に福慧山
地安禅寺があります。
瀧樹(たき)神社 牛頭天王社 瀧樹神社表参道 地安禅寺

 境内の
御影堂には林丘寺光子(りんきゅうじてるこ、御水尾法皇の第一皇女善明院)の意向により御水尾法皇の位牌が安置されています。

 地安寺山門手前の左手に林丘寺宮御植栽の茶があります、林丘寺光子が御影堂を建立する際に、植えた茶樹です。

収穫された茶は
京都音羽御所林丘寺宮へ献上されましたが、現在はこの一樹を残すのみです。

旧市場村に入ると左手に垂水頓宮御殿跡標石があります、垂仁天皇の皇女倭姫命(やまどひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神体を奉じて鎮座地を求め各地を巡行した際、この地に御殿が造営されました。

次いで左手に
諏訪神社があります、京の都に災いをもたらした八頭の巨鹿を退治した甲賀三郎兼家が故郷の諏訪大社の分霊を祀ったものと伝わっています。
林丘寺宮植栽の茶 頓宮御殿跡 諏訪神社

 次いで右手に浄土宗生徳山長泉寺があります、本尊は阿弥陀如来で、別に子安延命地蔵尊があります。

先の右手に
一里塚跡標石があります、市場の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて百十一里目です。

街道の左手に
茅葺き屋根紅殻塗りの旧家があります、大日川大日川橋で渡ると大野村に入ります。

橋袂に
大日川掘割標石があります、大日川は大雨が降ると氾濫し、市場村大野村は甚大な被害を蒙りました。
長泉寺 市場の一里塚跡 茅葺き旧家 大日川掘割

 そこで元禄十二年(1699)大日川の改修に着工し、四年の歳月をかけ総延長五百四間(約907m)の
掘割が築かれました。

 大日川を渡ると大野の旧東海道松並木が始まります。

左手には東の
東海道反野畷標石があります、松並木道は約四町(約400m)の畷道です、左側には茶畑が広がっています。

左手に西の
東海道反野畷標石があります、畷道はここまでです。

手前に
淀藩領界石「従是東淀領」があります、この地には淀藩の飛地がありました。

大野小学校の手前に大野村の鎮守
花枝(はなえ)神社の鳥居があります。
旧東海道松並木 反野畷(東) 淀藩領界石 花枝神社鳥居

 社殿は国道一号線を越えた先に鎮座しています、嘉祥三年(850)坂本日吉大社八王子社の分霊を勧請したものです。


 大野小学校先の左手に長圓寺寺標があり、前に旅籠松坂屋跡標石があります、大野村はかなり規模の大きな間の宿で、多数の旅籠がありました、名物は雉、鴨、鷺等の焼鳥玉井という銘柄の酒でした。

参道奥に浄土真宗明鏡山
長圓寺があります、元は禅宗でしたが天正七年(1579)に改宗しました。

左三軒家集会所脇に
地蔵堂があります、向いの大野公民館の街道沿いに眞風軒(しんぷうけん)漢詩碑があります。
旅籠松坂屋跡 長圓寺 地蔵堂 眞風軒漢詩碑

 大野村の
茶摘み風景を詠んだものです。

 JAこうか大野を過ぎると左手が旅籠丸屋跡、ミサ美容院先の右手が旅籠井筒屋跡、向いが旅籠篤居屋跡、左手が旅籠中屋跡、右手料理旅館ますやが旅籠枡屋跡、先の左手が旅籠日野屋跡、右手マルヨシ近江茶が旅籠森田屋跡、タバコ店先の右手が旅籠柏屋跡です。

次いで右手に
明治天皇聖蹟碑があります、旅籠小幡屋跡です、並びが旅籠金屋跡で、先の左手が旅籠田畑屋跡です。

間の宿での宿泊は禁止されていました、これだけ堂々と旅籠が軒を連ねているのは例外中の例外です、松尾川の渡しを控え、加宿扱いであったのでしょうか。

右手に赤甫亭みよしがあります、
三好赤甫(せきほ)旧跡です、俳諧を修行し、この地方の俳諧の基礎を築きました。
旅籠丸屋跡 明治天皇聖蹟碑 三好赤甫旧跡

 三好赤穗旧跡の並びにある大日如来を安置する祠の先で国道1号線に突き当たります。

大野交差点を土山町大野歩道橋で横断します。

交差点を横断し、右に入ると浄土宗布引山医王院
若王寺の山門脇に大杉があります、樹高22m、幹回り4.6mの巨樹です。

交差点先の
若王寺口バス停の所から斜め右に入ります、京方面からは正面の歩道橋で国道を横断します。
大日如来 大野交差点 若王寺の大杉 旅籠東屋跡

 旧道を進むと、右手大野歯科先の左手に茅葺き屋根の旧家があります、ここに
旅籠東屋跡標石があります、大野村の間の宿はここまで続いていました。

 県道183号線を跨ぐと、旧今宿村に入ります、焼酎が名産でした。

旧道を進むと左手に
東海道土山今宿碑と大きな山燈籠があり、向いに自然石に刻まれた地蔵尊があります、村境にあって旅人の安全を見守っています。

突当りの国道1号線を
大野西交差点にて横断し、斜め左の県道549号線に入ります。

甲賀市土山から
甲賀市水口に入ります。

ダンロップタイヤを回り込むように右手上り坂に入り、突当りの居酒屋仕事人を左折します、国道1号線の敷設で分断され、このようなクランク状の曲りが出来ました。
地蔵尊 大野西交差点 @今郷分岐

 上り坂右手の雑木林の中に経塚があるといいます、昔、この辺りに妖怪が出現し、里人を困らせました。

ここを通り掛かった
伝教大師最澄大般若経を唱えると、妖怪は消え失せてしまった、里人はこのを埋め、経塚を築きました。

坂を上り詰めると左手に
今在家の一里塚が復元されています、江戸日本橋より数えて百十二里目です。

今在家村は明治二十一年(1879)に小里村と合併し、今里となり、今郷(いまごう)になりました。

一里塚先を左折し、
下り坂に入ります、マップは直進になっています、修正して下さい。
経塚 今在家の一里塚 A今郷分岐

 坂の中腹左手に浄土宗権現山地蔵院浄土寺があります、延宝九年(1681)の再建で、本尊は阿弥陀如来です、甲賀西国八十八ケ所の第八十六番札所です。

境内には水口町の古木名木指定の
クスノキがあります、この材からは樟脳(しょうのう)が採種されます、同じく境内にはタブノキがあります。

正面に
野洲川を望みながら、坂を下り突当りの県道549号線を右折します、この分岐点には旧東海道標識があります。
浄土寺 クスノキ タブノキ B今郷分岐

 県道を進むと右手に円形の植栽があります、ここが旧マップの分岐点でした、直進に修正して下さい。

ここには今在家村の
高札場がありましたが、今は司馬遼太郎文学碑「街道をゆく」があります。

先を斜め右に入ります、ここには旧
東海道案内標識があります。

緩い上り坂の旧道を進み、十字路を越すと右手に浄土宗龍王山
宝善寺があり、左に回り込むと八坂神社があります。
旧マップ分岐点 C今郷分岐 宝善寺 八坂神社

 八坂神社脇から更に参道を上ると岩上不動明王堂があり、岩上不動尊が安置されています、この不動尊は岩神社上に祀られています、近江岩上講春の大祭には護摩供養が行われます。

旧道を下ると、再び
県道に吸収されます、京方面からは右手のカットスタジオ亜土里絵先を斜め左に入ります。

街道を進むと右手に
岩神社参道があります、参道口に岩神のいわれがあります、かつてこの地は野洲川に面して巨岩奇岩が多く、景勝の地として知られていました。
岩上不動明王堂 岩上不動尊 D今郷分岐 岩神社参道

 
岩神には社は無く岩を祀っていました、村人は子供が生まれると、この岩の前に子を抱いて立ち、旅人に頼んで子の名を付けてもらう習慣がありました。

 岩神社先を斜め右に入ります、分岐ポイントは東海道案内標識と住宅の壁面に取り付けられた時計です。

旧新庄村には綺麗な茶屋があり、善哉餅が名物でした。

新城バス停の所を右折すると
八幡神社があります、境内の観音堂には馬頭観音が祀られています、堂内には二百余りの素朴な小絵馬が奉納されています、貴重な民俗資料です。

境内の
スギは水口町の古木名木指定です。
@新城分岐 新城観音堂の小絵馬 スギ A新城分岐

 先の
Y字路は右に進みます、この分岐点には旧東海道案内標識があります。

 緩い上り坂を進むと、右手に東海道の松並木碑があります、松並木の合間からは古城山が望める景勝地でしたが、松並木は太平洋戦争時に松根油採取の為に伐採されてしまいました。

旧道が下りになると右手に
地蔵堂があります。

次いで左手に真言宗
大師寺があります、嘉永二年(1849)の開基で、本尊は弘法大師です。

秋葉北交差点にて国道307号近江グリーンロード線を横断し、山川山川橋で渡ります。

正面右手が
古城山です、天正十三年(1585)秀吉の家臣中村一氏水口岡山城を築きました。
杉並木碑 地蔵堂 古城山

 後の城主
長塚正家関ケ原の合戦で西軍に組みした為、落城となり廃城となりました、徳川の世になると古城山は水口藩の御用林となりました。

 PM 1:37 水口宿着 石部宿まで 14.4km

 街道はT字路に突き当たります、右手に東海道水口宿と刻まれた冠木門があります、東見附(江戸口)です、ここには枡形土居が廻らされ、木戸番所が置かれていました、水口宿に到着です!

寛永十一年(1634)三代将軍
家光上洛の際の居館として水口城が築かれました、天和二年(1682)水口藩が成立した、以降は城下町として整備されました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると、
水口宿の宿内家数は六百九十二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠四十一軒、宿内人口は二千六百九十二人(男千三百十四人、女千三百七十八人)で、宿長は東西二十二町六間(約2.4km)でした。

冠木門前のT字路を左折します、京方面からは右折です。
宿並を進み、国道307号線を
元町交差点の歩道橋にて横断します。
水口宿東見附跡 水口宿東口分岐

 国道を横断すると右手曳山蔵前に東海道五十次水口宿松原町標石があります。

宿並は右に大きく曲がり、右手日風寺駐車場を過ぎると、左手紅殻塗りの扉の旧家が
松葉屋脇本陣文右衛門跡です。

先の左手が
本陣跡です、鵜飼伝左衛門が代々勤めました、宿並には作坂町標石があります。

竹垣風の通路を奥に入ると
明治天皇聖蹟碑明治天皇行在所御旧跡碑があります、明治二年(1869)明治天皇の宿泊をもって、本陣の歴史を閉じました。
松原町標石 脇本陣跡 本陣跡 明治天皇聖蹟碑

 正面に高札場が縮小されて復元されています、正徳元年(1711)に設置され札の辻と呼ばれました。

水口宿の
宿並三筋に分かれていました、高札場の右筋が北通りです、左筋は中央通りです、それでは中央通りを進んでみましょう。

郵便ポストの先が
Y字路になっています、左の筋が南通りです、右の中央通りを進みましょう。

左BARBERたかはし先の右手に
旅籠町曳山蔵があります、水口の曳山は享保二十年(1735)に九基の曳山が巡幸し、その後一町毎に曳山が建造されるようになり、その数三十基余りに達したといいます、当地の曳山は二層露店式人形屋台です。
高札場 旅籠町曳山蔵 曳山人形屋台

 葛籠町から大池町に入ると、御菓子匠一味屋の向いに問屋場標石があります、江戸中期以来、ここ大池町南側に問屋場がありました。

宿並は直進(白色矢印)ですが、左折(黄色矢印)すると正面に浄土宗九品山
善福寺があります、慶長五年(1600)水口岡山城落城の際に、類焼しました。

元禄十年(1697)水口城主鳥居播磨守が再建し、本堂は水口岡山城天守の焼け残り材で建立されました。

本堂の
天井には長束正家の家臣が切腹した際の、血の手足跡があり、善福寺の血天井と呼ばれましたが、明治十一年(1878)に撤去されましたが、本堂廊下の天井板の一部に今も血の手形跡が残されています。
問屋場跡 善福寺 血天井

 宿並に戻って進むと、右手に曳山を模した時計台があります、曳山の模型が組み込まれています。

宿並は直進(白色矢印)しますが、右折(黄色矢印)すると
鴨長明發心所標石があります、方丈記を著した鴨長明は大岡寺に泊まり、世の無常を感じ、髪を剃ったといいます。

更に進むと古城山の麓に天台宗龍王山
大岡寺(だいこうじ)があります、天武十五年(686)行基が自刻の十一面千手観世音菩薩像を安置して、創建した古刹です、水口城主加藤氏祈願寺でした。
曳山時計台 鴨長明發心所 大岡寺 芭蕉句碑

 境内には
芭蕉句碑「命二つ 中に活きたる 桜かな」があります、この句に詠まれた桜は、大岡寺の桜として水口八景の一つに数えられています。

 水口本町郵便局先の二本目十字路の細道を右に入ると北通り沿いに浄土宗家松山大徳寺があります。

大徳寺と
徳川家康との縁は深く、開山の叡誉(えいよ)は家康の重臣本多平八郎の伯父であった関係から、家康は上洛の際の、宿所としました。

山号の
家松山は家康の家の字と松平の松の字に由来しています。

境内の
徳川家康公腰掛石は慶長五年(1600)関ケ原の合戦に出陣する際に、当寺に立寄り腰掛けたとされる石です。

五輪塔は
甲賀騒動義民の無縁塔です。
大徳寺山門 家康公腰掛石 五輪塔

  天保十三年(1842)幕府の
検地に反対した甲賀、野洲、栗田の農民一万余人が一揆を起こし抵抗しました、指導者十一名は江戸送りとなり処刑されました。

当寺の住職は
刑死者の霊を慰め、その冥福を祈る為、水口藩主の許しを得て五輪塔を建立しました。

 平町から米屋町を抜けると水口宿三筋の合流点に出ます、この合流点には曳山を模した水口のからくり時計があります、定時になると時計下の曳山の模型が回ります。

京方面からは時計台右の筋が
南通り、時計台左の筋が中央通り、その左が北通りです。

それでは
宿並を進みましょう、スグにいしばしと刻まれた石橋モニュメントがあります、往時は石橋が架橋されていました。

次いで近江鉄道本線を
東海踏切で渡ります、左手が水口石橋駅です、スグ先の右手に天王町の曳山蔵があります。
水口宿三筋の分岐合流点 石橋

 天王町の町名は町内にある八坂神社がもと牛頭天王社と呼ばれたところに由来しています。

湖東信用金庫の向を右折(白色矢印)します。

この分岐点は
水口城天王口跡です、ここは水口城の東端にあたり木戸が置かれました、直進(黄色矢印)すると城内に入る為、一般の通行は制限されました。

北町に入り、突当りの
花喜米穀店を左折します、京方面からは右折します。
天王町曳山蔵 水口城天王口跡 北町分岐 心光寺

 先の左手に浄土宗護念山
心光寺があります、延喜三年(903)菅原道真の菩提を弔うために、四男の淳茂(あつしげ)が創建したものです、一族の墓があります、水口には菅原道真の荘園がありました。

 宿並を進み十字路を横断します、この十字路を左折すると、先に水口城があります、それでは行ってみましょう。

三代将軍
家光の上洛に際し、寛永十一年(1634)作事奉行の小堀遠州に築かせた宿館(水口御茶屋)でした。

天和二年(1683)
加藤朋友(あきとも)が入封し、水口藩二万五千石の居城となりました。

水口城は湧水を利用した
薬研堀に水を満々とたたえていたところから碧水城(へきすいじょう)と呼ばれました。

戻る途中の右手に
藤栄(ふじさかえ)神社があります、文政十二年(1829)の創建で、水口藩主加藤家の祖である加藤嘉明(よしあき)を祀っています。
水口城 藤栄神社 領界石

 境内にある
藤栄神社と刻まれた社標は水口藩領界石「従此川中西水口領」を流用したものです。

 宿並の心光寺門前町を進み、突当りを左折します。

右手二十区公民館の所に
稲荷神社が祀られています。

先を右折します、この分岐点には
小坂町標石水口石があります、この力石は浮世絵師国芳が錦絵に描いています。

左手の20区遊園地に
北邸町(きたやしきちょう)標石福冨神社があります、ここは百間長屋跡です、郭内の武家地でした。
門前町分岐 稲荷神社 水口石分岐 百間長屋跡

 長い
棟割長屋に下級武士達が隣り合って住んでいました、防衛上から郭内側に玄関があり、東海道に面しての出入り口はありませんでした、東海道側には与力窓と呼ばれる高窓があり、ここからカゴを吊るして買い物をしたといいます。

 宿並の右手奥に浄土宗真徳寺があります、表門は水口城の郭内にあった家臣(蜷川氏)屋敷の長屋門を移築したものです。

宿並突当りの右手に
五十鈴神社があります、本殿は神明造りで、境内のヒノキは水口町の古木名木指定です。

境内西角に
一里塚標石があります、林口の一里塚跡です、江戸日本橋より百十三里目です。

本来ここより南にありましたが、水口城の郭内の整備にともない、
東海道が北
真徳寺表門 五十鈴神社 ヒノキ 林口の一里塚跡

 側に付け替えられ、五十鈴神社の境内に
一里塚が移されました。

一里塚前を左折します、京方面からは右折になります。


 先の十字路を右折(白色矢印)します、ここが水口宿西見附跡です、京方面からの直進(黄色矢印)道は水口城への郭内口です。

広重は水口宿西はずれの農家の
干瓢(かんぴょう)作りの景を描いています。

干瓢の栽培が盛んであった下野國の壬生城主であった加藤嘉矩(よしのり)が正徳二年(1712)水口藩に転封となり、壬生の干瓢作りをこの地に伝えました、これにより干瓢は水口宿の名物になりました。
水口宿西見附跡 東海道五拾三次之内 【水口】 名物干瓢

 街道を進むと左手に大正六年(1917)創業、山廃仕込みの銘酒美冨久の蔵元美冨久酒造があります。

銘酒
蔵の音(ね)は醗酵中のもろみに水口囃子(はやし)を聞かせて醸したお祭り専用の酒だそうです。

向いに
柏木神社参道鳥居があります、建久年間(1190〜99)源頼朝が上洛の際に、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請合祀し、若宮八幡宮と称し、水口城主の祈願所でした。

街道は直線の
北脇縄手です。
美冨久酒造 柏木神社鳥居 柏木神社 北脇縄手

 東海道の整備にともない曲りくねっていた旧伊勢大路を廃し、見通しの良い直進の縄手道になりました、街道の両側は土手になり松並木でした。

麦畑の広がる街道を進むと路傍に
石仏小社が祀られています。

北脇村は水口の北に位置しているところから北脇と呼ばれました、明治二十二年(1889)隣りの泉村等を合併して柏木村が設立されました。

柏木警察官駐在所の所には姿の良い
松並木があります。
石仏 石仏祠 小社 松並木

 柏木小学校そして水口北脇郵便局を過ぎると柏木公民館に半鐘ヤグラのモニュメントがあります、ヤグラには広重が描いた、干瓢作りの婦人達の立体模型が組み込まれています。

しばらく進むと
泉村に入ります、立場で白菊という銘酒が名物でした。

右手徳地酒店の所に
國寶延命地蔵尊泉福寺標石があります、天台宗宝珠山泉福寺は弘仁四年(813)伝教大師(最澄)の創建で地蔵菩薩坐像は国重要文化財です。

境内の
日吉神社は治安三年(1023)坂本日吉大社の勧請で、泉福寺の守護神でした。
半鐘櫓モニュメント 泉福寺 日吉神社

 境内には
カヤクスノキケヤキの大樹が聳えています。

 泉村はずれのY字路を左に進み、泉川舞込橋で渡ります。

渡った先の右手に
日吉神社御旅所石柱があります、祭礼の際に神輿が休息する場所です。

先の右手に
泉の一里塚が復元されています、元の位置はここよりやや野洲川寄りにありました、江戸日本橋より数えて百十四里目です。

右手の竹林を過ぎると
泉川河原屋敷橋で渡ります。
泉分岐 日吉社御旅所 泉の一里塚 河原屋敷橋

 街道は野洲川に突き当たります、正面(黄色矢印)が横田の渡し跡です、今はここを右折(白色矢印)し、迂回路を進みます。

野洲川は、この辺りでは横田川と呼ばれていました、三〜九月の間は四艘の舟による舟渡しで、十〜翌年二月の間は土橋が架橋されました。

横田渡常夜燈は文政五年(1822)万人講中が建立したもので、東海道中最大のものです(水口町指定文化財)。
横田の渡し跡 横田橋跡 金刀比羅宮

 明治二十四年(1891)
横田橋が架橋され、昭和二十七年(1952)下流側の現在地に移動しました。

金刀比羅宮は文政五年(1822)渡しの安全の為に村人が水上交通安全の守護神である金刀比羅宮を勧請したものです。

 それでは迂回路を進みましょう、県道535号線を進み、泉川原橋を渡り、泉西交差点にて国道1号線に合流します。

京方面からは泉西交差点先は
三差路になっています、右の野洲川沿いを進みます。

国道1号線沿いの歩道を進み、朝国交差点の
歩道橋を渡り、横田橋の右(西)側歩道を進みます、横田橋の左(東)側には歩道がありません。

京方面からは
横田橋渡り詰めの歩道橋を渡り、国道1号線右側の歩道を進みます。

横田橋渡り詰めの
歩行者階段を下ります。
歩道橋 横田橋ガード 三雲駅前分岐

 横田橋ガードをくぐって進むと
十字路になります、正面はJR草津線三雲駅です、東海道は右折(白色矢印)します。

左折(黄色矢印)すると
横田の渡し跡からの旧道痕跡で、横田常夜燈天保義民碑があります、それでは踏み込んでみましょう。

 JR草津線踏切の左手に横田の渡し対岸の常夜燈があります、安永八年(1779)東講中による建立です、元はここより約200m上流にありました。

JR草津線踏切を渡ると、天保義民の丘公園があり、丘の中腹に
天保義民之碑があります。

天保十三年(1842)幕府の過酷な
検地に対し、甲賀、野洲、栗田三郡三百余村の農民千二百余名が一揆を起こし、ついに検地十万日延を獲得しました。

しかし一揆を指導した者百余名が捕えられ、過酷な拷問を受け、うち首謀者十一名が
江戸送りとなりました、その後一人の帰郷者もいませんでした。

碑には江戸護送時に詠まれた
辞世「人のため 身はつみとがに 近江路と わかれていそぐ 死出の旅だち」が刻まれています。
横田渡常夜燈 天保義民之碑

 三雲駅前十字路に戻ると右手に微妙大師萬里小路藤房卿墓所碑があります、側面には妙感寺従是二十二丁と刻まれています。

藤房後醍醐天皇の側近で、元弘元年(1331)元弘の乱で鎌倉幕府討伐をはかり、捕らわれ下総國に流罪となりました、鎌倉幕府が滅亡すると出家し、妙感寺を開山しました。

次いで右手に
明治天皇聖蹟碑があります。

荒川橋を渡ると左手に三基の道標が並んでいます、手前が田川ふどう道道標、中央が寛政九年(1797)建立の妙感寺道標「萬里小路藤房卿古跡 雲照山妙感寺従是十四丁」、奥が立志神社道標です。
妙感寺道標 明治天皇聖蹟碑 三基の道標

 JR草津線を三雲踏切で横断します、右手には旧東海道道標「←石部宿場 水口宿場→」があります。

先の十字路の左手に
吉見神社社標、右手の地蔵祠には二体の地蔵尊が安置されています。

先で天井川の
大沙川(おおすながわ)隧道を抜けます、明治十七年(1884)の築造です、往時は直登でした。

堤上には樹齢七百五十年の
弘法杉が聳えています、弘法大師がここで昼食を摂り、使用した杉箸が根付いたものと
旧東海道道標 地蔵尊 大沙川隧道 弘法杉

いわれます、左利きの子が、この杉の箸を使用すると、右利きになると伝わっています。


 隧道先を左に入ると浄土宗吉祥山西往寺があります、境内に石造一石六地蔵菩薩(町指定文化財)があります、鎌倉時代は庶民信仰の中に六道思想が定着してくる頃で、盛んに六地蔵尊が造られました。

寺前を更に進むと
三雲城址があります、三雲典膳が築城、戦国期に落城し、廃城となりました。

三雲小学校を過ぎると右手に
山燈籠愛宕碑があります、愛宕碑表面の窪みに愛宕神社のお札を貼ります。

愛宕碑の向いに
夏見一里塚跡標識が路面に埋め込まれています、江戸日本橋より数えて百十五里目です。

夏見診療所辺りが
夏見立場跡です。
西往寺六地蔵 愛宕碑 夏見の一里塚跡

 ?立場は
夏見の里と呼ばれ、藤棚を備え、店先の清水で水車を回し、カラクリ人形を動かして旅人の目を楽しませました。

黒蜜をかけたトコロテンが名物で、この食べ方の発祥地といわれています。

 夏見村の西に天満宮があります、宝暦四年(1754)の創建、避雷の霊験あらたかで、夏見村の産土神です。

隧道手前の右手に昭和十年(1935)建立の
新田道道標があります。

天井川の
由良谷川由良谷川隧道でくぐります、明治十九年(1886)の築造です、往時は直登でした。

針村に入ります、甲賀武士の針和泉守がこの地に住んでいたところに由来しています。

右手針公民館の向いの浄土宗
西光寺は文亀元年(1501)の創建、次いで浄土真宗本願寺派西教寺は享徳十二年(1463)の創建で本尊は阿弥陀如来です。
天満宮 新田道道標 由良谷川隧道

 針村の西外れに北島酒造があります、文化二年(1805)の創業、銘酒御代栄(みよさかえ)の蔵元です。

家棟川家棟川橋で渡ります、かつては天井川で明治十九年(1886)築造の隧道がありましたが、昭和五十四年(1954)河川改修されました。

渡り詰めの右手に
奉両宮常夜燈があります、伊勢神宮の外宮、内宮の両宮を指しています。

平松村に入り、みよし酒店手前を左に入るとうつくし松自生地があります。
北島酒造 家棟川 奉両宮常夜燈 うつくし松

 緩い上り坂を0.9km進むと
天然記念物うつくし松群があります、地上から幹が多数に分かれたアカマツの変種で、約二百株が群生しています。

 平松村はうつくし松に由来しています。

柑子袋(こうじぶくろ)に入ると右手光林寺の向いに八嶋寺地蔵堂道標があります。

街道を進むと左手に
南無妙法蓮華経題目碑があります。

スグ先の左に
上葦穂(かしほ)神社があります、延喜式神名帳に記載された古社です、天智三年(664)の創建で白雉(はくち)大明神と呼ばれました。

落合川落合川橋で渡り、石部東交差点を越すと左手に地蔵尊が祀られています。
八嶋寺道標 題目碑 上葦穂神社 地蔵尊

 石部宿の東口にあって
旅人の道中安全を見守っています。

 PM 5:42 石部宿着

 目川屋手前の駐車場辺りが石部宿の東見附跡です、土塁が築かれていました、石部宿の江戸(東)口です、石部宿に到着です!

石部宿は「京立ち石部泊り」といわれ、京を旅立った旅人の一泊目にあたり、大いに賑わいました。

石部金吉の諺は宿外れの金山から起こったものです、これは多分に飯盛女を置かない、堅い宿場を揶揄(やゆ)した意味が込められています。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
石部宿の宿内家数は四百五十八軒、うち本陣二、旅籠三十二軒、宿内人口は千六百六人(男八百八人、女七百九十八人)で、宿長は東西四十五町三間(約4.9km)でした。

宿並に入ると左手に
吉姫神社があります、この神社は女神社で宿西の男神社である、吉御子神社と対の関係にあります。
石部宿東見附跡 吉姫神社

 塗籠造り連子格子紅殻塗りの旧家を残す、宿並を進むと左手に真宗大谷派西福寺があります、明応七年(1498)の開基で、本尊は阿弥陀如来です。

石部東から石部中央に入ると右手に
竹内酒造があります、明治五年(1872)創業、地酒香の泉の蔵元です。

比叡おろしと呼ばれる近江盆地の寒気で育まれた近江米を、鈴鹿山麓の伏流水で仕込んだ銘酒です。

石部中央交差点の手前左手の道の広場に
高札場跡説明板があります、約80cm程度の石垣上に設置されていました、元禄の頃はみのや橋の横にありました。

傍らに
石部城跡解説板があります。
西福寺 地酒香の泉 高札場跡

 ここより南へ約100mの辺りにあった
石部城は享禄年間(1528〜31)石部久綱が築城、元亀元年(1570)信長の家臣佐久間信盛に攻められ落城し、三年後の天正元年(1573)廃城となりました。

 石部中央交差点を渡った左手に常盤館跡解説板があります、ここから南約50mの所に回り舞台を備えた二階建ての大きな芝居小屋がありましたが、大正八年(1919)の火災で焼失しました。

右手が
問屋場跡です、木札があります。

先の右手BARBERタニグチが
三大寺本陣跡です、寛永五年(1628)より勤め、間口十八間半で、焼失再建を繰り返しました、幕府直轄の本陣でした。

いしべ宿驛先の左手に
明治天皇聖蹟碑があります、ここが小島本陣跡です。
常盤館跡 問屋場跡 三大寺本陣跡 小島本陣跡

 慶安三年(1650)に創建され、承応元年(1652)
膳所藩より本陣職を許されました、敷地二千八百四十五坪、建坪七百七十五坪でした。

 左手浄土宗真明寺の境内に芭蕉翁句碑「つつじいけて その陰に 干鱈(ひだら)さく女」があります、芭蕉が野ざらし紀行で石部宿を訪れた時に、詠んだ句です。

突当りに
田楽茶屋があります、広重が描いた目川の田楽茶屋を再現したものです。

宿並は
田楽茶屋の手前を右折(白色矢印)します、枡形です、田楽茶屋の左脇(黄色矢印)に入ると吉御(よしみこ)子神社があります。

吉御子神社は石部宿東外れの吉姫神社と対の男神社ですが、安産の守護神でもあります、本殿は慶応三年(1867)に京の上加茂神社旧本殿を移築したもので、国の重要文化財です。
芭蕉翁句碑 田楽茶屋 吉御子神社

 宿並に戻り枡形を進み、突当りのT字路を左折します、この分岐点には旧東海道標識があります。

先の右手に
石部一里塚跡解説板があります、北塚の塚木はエノキ、南塚の塚木はムクノキでした、江戸日本橋より数えて百十六里目です。

石部西交差点を越えた右手に
石部宿西の見附跡解説板があります、石部宿の西口です。

先の右手に
愛宕神社があります、宿口前にあって火伏を担っています。
枡形 石部一里塚跡 石部宿西見附跡 愛宕神社

 JR草津線
石部駅への分岐点が石部宿のマップ上の起点です、本日はここ迄です、無事到着です!

 「京立ち石部泊まり」といわれた、石部宿に残念ながら今日宿泊施設はありません。

そこでJR草津線にて
草津駅に移動します、二駅で草津駅に到着です。 

今宵の宿はビジネスホテル
HIBARI(077-562-0618、素泊り5,000円)です、草津駅に到着して予約の電話を入れました、シングルは満室で、ダブルの部屋がシングル料金でOKでした。

本日は昼食抜きの
街道ウォークになってしまいました、いい年をしてお腹ペコペコです、ホテルに向う途中の中華屋さんに突入です。
生ビール ギョーザ 辛味噌ラーメン お泊りセット

 
 生ビール餃子セット(500円)、そして辛味噌ラーメン(400円)の組み合わせです、辛い食べ物は大好きです、スープは一滴も残しません。

ホテルに到着すると風呂に入り、洗濯物を干し、ストレッチ、そしてテレビで明日の天気を確認します、天気は重畳(ちょうじょう)です、それじゃー一杯やっか。




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