宿泊は例によって素泊りです、冷えたお茶を飲み、テレビで天気の確認をしながら明るくなるのを待ちます、大部明るくなってきました、それでは腰を上げましょう! 宿並に人の気配はありません、一人占めです、伊藤本陣跡が本日の起点です、天気は上々、それでは出立しましょう!
関宿が設置されると亀山藩の番所がここに設置されました。 宿並の正面に鈴鹿の山並が、迫ってきました。
福蔵寺の裏門は旅籠玉屋の向いにあった萩屋脇本陣から移築したものです。
この褌(ふんどし)を地蔵尊に掛けると、ピタリと祟りが止んだと云います、この褌は寺宝になっています。
先の左手の田中屋は大正初期の建築で、関町で最も広荘な町屋の一つです、田中家は醤油醸造業を営んでいました。
井口家は屋号を南禅寺と称し、関宿西追分にあって豆腐料理が名物の料亭でした。
東海道は右(白色矢印)に進みます。
名所図会にも描かれている大石です、山の頂にあったが転がり落ちてきて、いつしか夜になると不気味な音を立て人々を恐れさせていました、通りかかった弘法大師が石の供養をしたところ静かになったと伝えられています。 その後、何度片付けても街道に転がり出てしまい、鈴鹿川に落ちても自力でここに戻ったといいます。
筆捨山を見た後は通り抜けが可能です。
先を斜め右に入ります、この分岐点には東海道案内標識があります。
「大竹屋本陣では恐れ多い、せめて脇本陣の小竹屋に泊ってみたい」と唄ったものです。
広場の奥に進み、東海道鈴鹿峠案内標識に従って丸太階段を上ります。
峠には松葉屋、鉄屋、伊勢屋、井筒屋、堺屋、山崎屋の茶屋が軒を連ね賑わったといいます、今もこれらの茶屋跡の石垣を残しています、甘酒が名物でした。
残念ながら明治元年(1868)の山火事で岩の輝きは失われてしまいました。
京方面からは白いガードレールの小橋と渡詰めの歴史の道江戸←土山→京大坂案内標識それと東海自然歩道道標です(下図参照)。
鈴鹿馬子唄碑には「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」の歌詞が刻まれています。
園内には櫟野(いちの)観音道(大原道)道標があります、「いちゐのくわんおん道」と刻まれています、櫟野村の櫟野寺(らくやじ)への参詣道道標です。 園内には鈴鹿馬子唄之碑や馬子と馬のモニュメントがあります。
右手に臨済宗医王山浄福寺があります、天正年間(1573〜91)の開基で、本尊は伝教大師最澄作の薬師如来坐像です。
問屋場が復元され、多数の展示物があります。
土山宿の豪商大黒屋立岡家が勤め、控本陣でした、園内には明治天皇聖蹟碑があります。 大黒屋本陣跡標石と並んで問屋場跡標石そして高札場跡標石があります。
昭和二十八年(1953)墓は津和野の永明寺に移され、昭和六十三年(1988)鴎外の子孫により供養塔が建てられました。 境内には芭蕉句碑「さみだれに 鳰(にお)のうき巣を 見にゆかん」があります。
手前の小幡までの十里余りの脇往還です。 寛永十七年(1640)三代将軍家光の乳母春日局が将軍の名代として多賀大社に参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣した際に、この往還は整備拡張されました。 朝廷は毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、帰路土山宿から多賀大社に詣でる際に、この道が利用されたところから御代参街道と呼ばれました。
京を立ち、近江國では勢多、甲賀、垂水に、伊勢國では鈴鹿、一志に頓宮が設けられました。 旧道に戻って進むと、シェルガソリンスタンドの所で国道1号線に突き当たります、国道を横断して向いの筋に入ります、ここに伊勢大路(別名阿須汲道)標石があります、斎王群行が通行した所から伊勢大路と呼ばれました。 突当りを右折します、これにて松尾川の渡しトレースの終了です、京方面からはY字路を左に進みます、左手の家屋には東海道頓宮村たばこやの旧屋号札が掲げられています。
境内の御影堂には林丘寺光子(りんきゅうじてるこ、御水尾法皇の第一皇女善明院)の意向により御水尾法皇の位牌が安置されています。
そこで元禄十二年(1699)大日川の改修に着工し、四年の歳月をかけ総延長五百四間(約907m)の掘割が築かれました。
社殿は国道一号線を越えた先に鎮座しています、嘉祥三年(850)坂本日吉大社八王子社の分霊を勧請したものです。
大野村の茶摘み風景を詠んだものです。
旧道を進むと、右手大野歯科先の左手に茅葺き屋根の旧家があります、ここに旅籠東屋跡標石があります、大野村の間の宿はここまで続いていました。
岩神には社は無く岩を祀っていました、村人は子供が生まれると、この岩の前に子を抱いて立ち、旅人に頼んで子の名を付けてもらう習慣がありました。
先のY字路は右に進みます、この分岐点には旧東海道案内標識があります。
後の城主長塚正家が関ケ原の合戦で西軍に組みした為、落城となり廃城となりました、徳川の世になると古城山は水口藩の御用林となりました。
境内には芭蕉句碑「命二つ 中に活きたる 桜かな」があります、この句に詠まれた桜は、大岡寺の桜として水口八景の一つに数えられています。
天保十三年(1842)幕府の検地に反対した甲賀、野洲、栗田の農民一万余人が一揆を起こし抵抗しました、指導者十一名は江戸送りとなり処刑されました。 当寺の住職は刑死者の霊を慰め、その冥福を祈る為、水口藩主の許しを得て五輪塔を建立しました。
先の左手に浄土宗護念山心光寺があります、延喜三年(903)菅原道真の菩提を弔うために、四男の淳茂(あつしげ)が創建したものです、一族の墓があります、水口には菅原道真の荘園がありました。
境内にある藤栄神社と刻まれた社標は水口藩領界石「従此川中西水口領」を流用したものです。
長い棟割長屋に下級武士達が隣り合って住んでいました、防衛上から郭内側に玄関があり、東海道に面しての出入り口はありませんでした、東海道側には与力窓と呼ばれる高窓があり、ここからカゴを吊るして買い物をしたといいます。
側に付け替えられ、五十鈴神社の境内に一里塚が移されました。 一里塚前を左折します、京方面からは右折になります。
境内にはカヤ、クスノキ、ケヤキの大樹が聳えています。
明治二十四年(1891)横田橋が架橋され、昭和二十七年(1952)下流側の現在地に移動しました。 金刀比羅宮は文政五年(1822)渡しの安全の為に村人が水上交通安全の守護神である金刀比羅宮を勧請したものです。
横田橋ガードをくぐって進むと十字路になります、正面はJR草津線三雲駅です、東海道は右折(白色矢印)します。 左折(黄色矢印)すると横田の渡し跡からの旧道痕跡で、横田常夜燈と天保義民碑があります、それでは踏み込んでみましょう。
いわれます、左利きの子が、この杉の箸を使用すると、右利きになると伝わっています。
?立場は夏見の里と呼ばれ、藤棚を備え、店先の清水で水車を回し、カラクリ人形を動かして旅人の目を楽しませました。 黒蜜をかけたトコロテンが名物で、この食べ方の発祥地といわれています。
緩い上り坂を0.9km進むと天然記念物うつくし松群があります、地上から幹が多数に分かれたアカマツの変種で、約二百株が群生しています。
石部宿の東口にあって旅人の道中安全を見守っています。
ここより南へ約100mの辺りにあった石部城は享禄年間(1528〜31)石部久綱が築城、元亀元年(1570)信長の家臣佐久間信盛に攻められ落城し、三年後の天正元年(1573)廃城となりました。
慶安三年(1650)に創建され、承応元年(1652)膳所藩より本陣職を許されました、敷地二千八百四十五坪、建坪七百七十五坪でした。
JR草津線石部駅への分岐点が石部宿のマップ上の起点です、本日はここ迄です、無事到着です!
生ビールと餃子セット(500円)、そして辛味噌ラーメン(400円)の組み合わせです、辛い食べ物は大好きです、スープは一滴も残しません。 ホテルに到着すると風呂に入り、洗濯物を干し、ストレッチ、そしてテレビで明日の天気を確認します、天気は重畳(ちょうじょう)です、それじゃー一杯やっか。
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