この度、山と渓谷社から「● ちゃんと歩ける伊勢参宮道・善光寺街道 五街道ウォーク 八木牧夫著」が出版されました。 善光寺街道(中山道分去れ〜善光寺)、善光寺西街道(中山道洗馬追分〜篠ノ井追分)が収録されています。 本マップには写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為に本HPでは写真を豊富にアップしました。 是非、出立なさる前に本マップと当HPを照らし合わせ、善光寺街道ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。 北国街道は中山道追分宿の分去れから分岐し、直江津で北陸道に合流します。 佐渡で産出した金の道であり、金沢藩を始めとして北陸諸藩の参勤交代の道でした。 この北国街道のうち善光寺までを善光寺街道と呼び、善光寺詣での老若男女で賑わいました。 善光寺の本尊一光三尊阿弥陀如来像はインドから朝鮮半島の百済を経て渡来した日本最古の仏像です。 念仏を唱え一心に祈る者を極楽浄土に導き、一貫して男女平等の救済を説くところから女性の参詣者が多いところが特徴でした。
【赤報隊】 幕末、赤報隊は東山道総督軍の先鋒として年貢半減を旗印に突き進みました。 ところが新政府は財政不足により年貢半減の実現が困難になると、赤報隊は偽官軍との汚名を着せ、隊長相楽総三以下幹部八名を下諏訪で斬首しました。 しかし昭和三年(1928)潔白が証明され正五位が追贈され、靖国神社に合祀されました。
三ツ谷旧道の東口です、この分岐点には御代田町工場団地標識があります。
集塊岩の奥から湧き出る源泉は硫化鉄や遊離炭酸を含んでいるため褐色に濁り、その色血の如しといわれました。
公爵二条基弘(もとひろ)による題額です。
並びに馬頭観音堂があります、堂前には馬頭観世音、弘法大師碑、馬の像等があります。
甲州道は佐久甲州街道とも呼ばれ、中山道岩村田宿を経て甲州小淵沢に至ります。 乙女川(涙川)を乙女橋で渡ると乙女村に入ります、酒好きな庄屋の下女おとめが酒が湧く泉を見つけたところに由来します。
真楽寺道標の並びに馬頭観世音と覆屋内に二体の地蔵尊が安置されています。
光岳寺の山門は小諸城の足柄門(高麗門)を移築したものです。
小諸城は城下町より低い地に位置するため穴城と呼ばれました。
枡形先の右手に旧脇本陣粂屋(くめや)があります、式台付の玄関や屋号看板を吊るすまねき屋根があります、現在は脇本陣の宿粂屋として宿泊可能になっています。
この交差点を左折すると小諸城址(懐古園)に至ります。
元は東山道の青木に鎮座していたところから青木諏訪神社と呼ばれました。 境内に文政六年(1823)建立の常夜燈や明治十二年(1879)小諸で生まれ大正昭和の俳壇で活躍した臼田亜浪(あろう)と門人の句碑があります。
碑の冒頭に「従六位南摩綱紀(なんまつなのり)篆額」と刻まれています。 先の右手に道祖神があり、奥に南無妙法蓮華経題目碑と宝暦十四年(1764)造立の馬頭観音像があります。
この分岐点には大きな故陸軍歩兵大尉土屋勝之助碑があります。
善光寺方面からは国道18号線に合流します。 旧道に入ると左手に天保十二年(1841)造立の馬頭観音像があります。 先に進むと左手に石祠が四社祀られています。
男女双体道祖神、牛馬観音経一千巻碑と長野県指定文化財刀匠山浦真雄(さねお)宅跡案内があります、上田藩お抱えの刀工で、弟の源清麿は卓越した名刀工でした。 滋野(しげの)郵便局の並びに北国街道牧家(ぼくや)一里塚跡碑があります、追分から五里、江戸日本橋より数えて四十四里目です、塚は明治維新を迎えると民間に払下げとなり取り払われました。
旧道を進むと右手に明治天皇牧家御小休所碑があります、明治十一年(1878)北陸巡幸の際、ここで休息しました。 牧家村は白酒が名物の立場でした。
参道口向かいの民家の植栽の中に文化十四年(1817)建立の芭蕉句碑「あかあかと日ハつれなくも秋の風」があります、元禄二年(1689)七月奥の細道で金沢から小松への道中に詠んだ句です。
海野バイパス高架をくぐり、しなの鉄道を第2北国街道踏切にて横断します。
先で下道に合流します、この分岐点には中北道標「海野宿1.6km→」があります、善光寺方面からはY字路を左に進みます。
壬戌(じんじゅつ)洪水は戌の満水(いぬのまんすい)とも呼ばれます、寛保二年(1742)八月、野分(台風)の大雨により千曲川と犀川流域で発生した大洪水で二千八百人以上の死者が出ました。
この神川旧道は神川橋の手前に出ます、神川(かんがわ)を神川橋にて渡ります。
千曲川の土手下を進みます、右手のあゆ料理のひばち屋手前の土手上には石祠水天宮と道祖神が祀られています。
道標には「上堀停留所入口 国分寺ヲ経テ上澤黒坪ニ至ル」と刻まれています。
科野大宮社は上田城の守護神でした、社叢は上田市指定天然記念物です。
決死の覚悟で戦うという意気込みに由来しています。
高市神社の向いに北国街道上田宿本陣問屋場跡標石があります、柳澤太郎兵衛が勤め、問屋を兼ねました。
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