道中日記 4-169 善光寺街道 ( 中山道分去れ - 上田 ) 31.4km


 この度、山と渓谷社から「● ちゃんと歩ける伊勢参宮道・善光寺街道 五街道ウォーク 八木牧夫著」が出版されました。

善光寺街道(中山道分去れ〜善光寺)、善光寺西街道(中山道洗馬追分〜篠ノ井追分)が収録されています。

本マップには写真の掲載はありません、そこで
本マップと一体化させる為に本HPでは写真を豊富にアップしました。

是非、出立なさる前に本マップと当HPを照らし合わせ、
善光寺街道ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。

北国街道は中山道追分宿の分去れから分岐し、直江津で北陸道に合流します。

佐渡で産出した
金の道であり、金沢藩を始めとして北陸諸藩の参勤交代の道でした。

この北国街道のうち善光寺までを
善光寺街道と呼び、善光寺詣での老若男女で賑わいました。

善光寺の本尊
一光三尊阿弥陀如来像はインドから朝鮮半島の百済を経て渡来した日本最古の仏像です。

念仏を唱え一心に祈る者を
極楽浄土に導き、一貫して男女平等の救済を説くところから女性の参詣者が多いところが特徴でした。


 電車のタイムスケジュールは東京駅長野新幹線始発に合わせたものです。

信濃追分駅から善光寺街道の起点分去れ迄は約2kmです。

途中
浅間山の山容が望めます、薄っすらと噴煙がたなびいています、天明三年(1783)の浅間山大噴火では中山道浅間三宿(軽井沢、沓掛、追分)は壊滅的な被害を蒙りました。

直近の平成21年2月2日の
噴火では関東平野一体に灰を降らせました。
分去れへのアプローチ 浅間山

 平成21年05月14日 AM8:18 中山道分去れ出立 小諸宿まで12.7km

 分去れの左が中山道(黄色矢印)、右が善光寺街道(白色矢印)です。

善光寺街道分去れには延宝七年(1679)建立の道標「右従是北国海道 左従是中仙道」、寛政元年(1789)建立の常夜燈「是より左伊勢」、安永六年(1777)造立の子育地蔵尊「さらしなは右みよしのは左にて月(月の名所更級)と花(桜の名所吉野)とを追分の宿」、同年建立の森羅亭万象歌碑「世の中はありのままにぞ霰(あられ)ふるかしましとだに心とめぬれば」等があります。

それでは出立しましょう!スグ先右手の
シャーロックホームズ像案内標識があるネットフェンスの間から広場に入ると南無妙法蓮華経題目碑、庚申塔二十三夜塔馬頭観音等の石仏石塔群があります、ここが追分原刑場跡です。

幕末、
赤報隊偽官軍事件の罪により分遣隊を率いていた桜井常五郎等三名が小諸藩に捕らえられ処刑されました。
分去れ 追分原刑場跡

【赤報隊】

 幕末、
赤報隊は東山道総督軍の先鋒として年貢半減を旗印に突き進みました。

ところが新政府は財政不足により
年貢半減の実現が困難になると、赤報隊は偽官軍との汚名を着せ、隊長相楽総三以下幹部八名を下諏訪で斬首しました。

しかし昭和三年(1928)潔白が証明され
正五位が追贈され、靖国神社に合祀されました。

 県道132号(−)追分・小諸線軽井沢町追分標識先のY字路を左に進みます。

旧道は先で
国道18号線に合流します、善光寺方面からは登坂車線終り標識の先を左に入ります。

廃業したドライブインの先に
町境標識があります、軽井沢町御代田町の境です、標識には「ここは標高929m」と表示されています。

先の
Y字路を左に入ります。
分去れ内分岐 分去れ西口 町境標識 三ツ谷東口

 三ツ谷旧道の東口です、この分岐点には
御代田町工場団地標識があります。

 旧道を進み、左手にコメリがある十字路を右折し、国道18号線の三ツ谷東交差点を横断、先の雀ケ谷交差点を右折し、しばらく進むと右手に馬瀬口の一里塚入口標柱があります。

踏み込むと
馬瀬口の一里塚の両塚が現存しています、塚の径は共に14mで、東塚は高さ3m、西塚は高さ3.5mです。

善光寺街道から分岐して、
塩野村への支道に築かれた一里塚で追分より一里、江戸日本橋より数えて四十里目です。

旧道に戻り御代田北小学校交差点を過ぎると、濁川濁川橋にて渡ります、濁川(にごりがわ)は浅間山南の石尊山(せきそんざん)に源を発し、流末は千曲川に落合います。
馬瀬口の一里塚 濁川

 集塊岩の奥から湧き出る源泉は
硫化鉄遊離炭酸を含んでいるため褐色に濁り、その色血の如しといわれました。

 いずれの方面からも先の三ツ谷西交差点を枡形状に横断します。

旧道を進むと右手の蔵脇に昭和二十二年(1947)造立の
子育弘法大師立像が台石上に安置されています。

先の右手に高山家の
長屋門があります、門前に明治天皇馬瀬口御小休所碑があります、明治十一年(1878)東海北陸巡幸の際、高山家で休息しました。

門脇には明治三十二年(1899)建立の
馬瀬口村駐輦(ちゅうれん)碑文があります。
三ツ谷西分岐 子育弘法大師 明治天皇碑 駐輦碑文

 公爵
二条基弘(もとひろ)による題額です。

 馬瀬口(ませぐち)は追分宿と小諸宿間が長いため、元和六年(1620)に開村され間の宿となりました。

街道に面し右手に
柵口(ませぐち)神社社標があります、鳥居前の常夜燈は大正八年(1919)の建立です、いにしえ浅間山麓に官牧があり、この地に牧の柵の木戸があったところから柵口と呼ばれました。

柵口神社は
浅間山の祭神である盤長姫命(いわながひめのみこと)を祀り、馬瀬口村の鎮守です。

次いで右手に
長泉寺があります、元和年間(1615〜24)の創建です、境内には大聖歓喜天堂があります、歓喜天は仏教の守護神です。
柵口神社社標 長泉寺 観音堂

 並びに
馬頭観音堂があります、堂前には馬頭観世音弘法大師碑馬の像等があります。

 スグ先の右手に筆塚があります、明治三十五年(1902)の建立です、碑には古越石泉先生筆塚文と刻まれています。

一本目を右に入ると左手に
白山神社が鎮座しています、白山比淘蜷_(しらやまひめのおおかみ)を祀っています。

先で
国道18号線に合流します、善光寺方面からはローソン手前のガードレールの切れ目から斜め左に入ります。

先の左手に
小諸市標識があります、北佐久郡御代田町との境です、標識には「ここは標高780m」と表示されています。

繰矢川(くりやがわ)の深い谷から十石坂を上ると段丘の平坦地になります。
筆塚 白山神社 馬瀬口西口

 平原(ひらはら)跨道橋にて上信越自動車道を渡り、平原東交差点先を斜め左に入ります、平原旧道東口です。

左手に
北国街道平原一里塚跡標柱があります、追分から二里、江戸日本橋より数えて四十一里目です。

並びに寛政五年(1793)造立の
馬頭観音像があります。

二本目を右に入ると
金山神社が鎮座しています、鍛冶の守護神金山彦神を祀っています。
平原跨道橋 平原旧道東口 平原の一里塚跡 金山神社

 平原村は間の宿でした。

先に進むと右手に
長龍寺があります、本堂に真田家紋六文銭を掲げています、松代藩主参勤の際の休息所でした。

スグの左手、十念寺跡参道口の左手に
南無阿弥陀佛名号碑があります、十念寺跡の宝庫には二十五菩薩来迎会(らいごうえ)に用いる仏面が収蔵されています(小諸市無形文化財)。

二十五菩薩来迎会とはあの世に行くときに二十五菩薩阿弥陀如来が極楽浄土へ導くという浄土宗の教えを表現した仏事です。

参道口の右には弘化二年(1845)建立の
一遍上人初開道場碑があります、上人は十念寺で道場開きの念仏踊りを行いました。
長龍寺 名号碑 一遍上人碑

 先に進むと右手に平原の松があります、参勤の加賀藩主前田公が賞賛した雲竜の黒松(小諸市保存樹木)です。

左手の火の見ヤグラを過ぎると右手に大正六年(1917)建立の
林先生記恩碑があります。

平原曲沢公園バス停前の
Y字路は左(白色矢印)に進みます。

先に進むと下り坂になり、左手高台の
ふなだ治療院を過ぎると、北川平原橋にて渡り、突当りを左折します、善光寺方面からは突当りを右折し平原橋を渡ります。
平原の松 林先生記恩碑 平原Y字路 平原橋分岐

 国道141号線ガードをくぐり(白色矢印)、先で国道18号線に合流します、善光寺方面からは平原交差点手前の斜め右の下り坂に入ります。

四ツ谷東交差点の
Y字路を左(白色矢印)の国道141号線に進みます。

左手の四ツ谷公民館の敷地内奥に明治三十三年(1900)建立の
芭蕉句碑「此あたり眼に見ゆるもの皆涼し」があります、貞亨五年(1688)笈の小文旅の句です。

敷地奥の右手には
観音不動堂があります。
国道ガード 四ツ谷東分岐 芭蕉句碑 観音不動堂

 街道に戻ると右手に柏木小右衛門生誕之地碑があります、柏木家は武田の家臣で柏木城主でした、武田家が滅亡すると帰農し、柏木小右衛門は御影用水を引き入れ御影新田八百三十石を開発しました。

四ツ谷交差点正面のY字路を左(白色矢印)に入ります、善光寺方面からは直進です。

曲り沢坂を下り、突当りを右折(白色矢印)します、善光寺方面からは左折になります。

この分岐点には
乙女道標「南無阿弥陀佛 右甲州道 左江戸海道」があります。
柏木生誕地碑 四ツ谷分岐 @乙女分岐 乙女道標

  甲州道は
佐久甲州街道とも呼ばれ、中山道岩村田宿を経て甲州小淵沢に至ります。

乙女川(涙川)を乙女橋で渡ると乙女村に入ります、酒好きな庄屋の下女おとめが酒が湧く泉を見つけたところに由来します。

 先で国道141号線に合流します、善光寺方面からは斜め右に入ります、この分岐点には信濃ガスがあります。

右手に
平和公園があります、園内に明治天皇御駐輦跡碑、殉国観音像小室節歌碑「こもろ出てみりゃ浅間の山に今朝も三筋の煙り立つ」があります、小諸は古くは小室と書かれました。

スグ先の唐松交差点の
三叉路は中央を進みます。

右の筋に
唐松の一里塚の両塚を残しています、加増の一里塚ともいいます、小諸藩主仙石越前守秀久が幕命により築いたものです。
A乙女分岐 平和公園 @唐松分岐

 東塚上には大勢至菩薩碑が祀られています、追分から三里、江戸日本橋より数えて四十二里目です。 

旧道が下り坂になると火の見ヤグラがあります、スグ先、左の道筋は
塩名田道です、中山道塩名田宿に通じています、小諸道とも呼ばれました。

旧道は上り坂になり、唐松の一里塚からの筋に合流します、善光寺方面からは斜め右に入ります、この分岐点には
横断標識カーブミラーがあります。

先の荒堀交差点の右脇に
真楽寺道標「浅間山別當真楽寺江従是一里拾丁 追分宿江出ぬけ半里近シ」があります、真楽寺は浅間山噴火鎮静の祈願寺です。
唐松の一里塚 A唐松分岐 石塔石仏

 真楽寺道標の並びに馬頭観世音と覆屋内に二体の地蔵尊が安置されています。

 AM11:24 小諸宿着 田中宿まで 8.7km

 スグ先の右手に大きなここは与良街北国街道標識があります、小諸宿に到着です!

小諸宿は
小諸藩牧野家一万五千石の城下町で東信濃随一の経済圏を形成していました、小諸藩は実収三万五千石といわれる裕藩でした。

先の右手に
北国街道与良館があります、江戸時代は漆器店であった松屋がお休み処になっています。

敷地奥に享保十一年(1726)二代目小諸藩主
牧野康周(やすちか)が築造した小諸藩銭蔵が移設されています、床下には石室(いしむろ)があり、平石の蓋をずらして開閉します(小諸市重要有形文化財)。
ここは与良街 北国街道与良館 小諸城銭蔵

 並びに俳聖高浜虚子旧棲の地虚子庵があります、戦時中ここに疎開し四年間を過ごしました。

スグ先の左手に
元庄屋小山家があります、白壁の土塀に薬医門を構えています。

小山家は
武田晴信(信玄)に臣従した小諸の名門郷士です、小諸藩主が時より訪れ、床の間には万一に備え藩主が身を隠す隠し扉があります。

次いで右手の渡辺作意商店の並びに
長勝寺の参道口があります、武田晴信(信玄)が川中島の合戦に赴く際、戦勝を祈願し、長松寺の寺号を長勝寺と改称しました、境内社に與良蛭子(よらえびす)神社があります。
高浜虚子 元庄屋小山家 長勝寺

 荒町与良町交差点を越し、荒町交差点を右に入ると右手に佛光寺があります、徳川家康に仕える呑龍上人が親の病気を治そうと国禁を犯し保護鳥のを殺し、親に血を飲ませた孝子源次兵衛を匿い、共に隠棲した草庵です、元和七年(1621)上人は徳川二代将軍秀忠から赦免されました。

宿並に戻ると右手に
全宗寺(ぜんそうじ)があります、境内に夜泣き地蔵の岩舟地蔵があります。

スグの左手に
庵看板を掲げたやす久(酢久商店)があります、創業延宝二年(1674)山吹味噌の老舗醸造元です、蔵元の小山家は小諸藩の御用商人を勤めました。
佛光寺 全宗寺 すや久

 すや久の向かいに海應(かいおう)があります、天文五年(1536)の創建で、曹洞宗の古刹です。

慶長五年(1600)
徳川秀忠は関ケ原に向かう際、真田昌幸に阻まれると、海應院の住職が間に入り和睦したが、関ケ原の合戦には間に合いませんでした。

八十二銀行先の右手に
宗心寺(そうしんじ)があります、境内に明和五年(1768)建立の寒念仏供養塔があります。

荒町一丁目交差点を越すと右手に
光岳寺(こうがくじ)があります、寛永元年(1624)大垣藩から移封した小諸藩主松平憲良(のりなが)が徳川家康の母お大の方(法名光岳)の菩提寺を大垣からここに移しました。
海應院 宗心寺 光岳寺

 光岳寺の山門は小諸城の足柄門(高麗門)を移築したものです。

 光岳寺の前を左折します、この分岐点には小諸町道路元標があります。

スグ先の右手に創業明暦三年(1657)の
旧旅籠つたや七左衛門跡があります。

現在の建物は大正年間(1912〜26)に
旧小諸銀行を模して建てられたものです、昭和三十三年(1958)道路拡幅工事により重厚な玄関は切除されました。

スグ先の右手に
旅籠つるやがあります、天和二年(1682)の創業です、 旅籠つるやの植栽の中に小諸宿碑があります。
荒町一分岐 道路元標 旧旅籠つたや 旅籠つるや

 スグ先の左手に大塚味噌醤油店があります、主屋は江戸時代後期、左の袖蔵は明治時代の建築です。

袖蔵には
鏝絵(こてえ)による味噌醤油の文字が描かれています。

先に進むと左手に江戸時代後期築の
脇本陣代(現そば七)があります、本陣と脇本陣だけでは賄いきれない時、臨時に脇本陣を勤めました。

右手の
庵看板富士美容室、次いでほんまち町屋館を過ぎると右手に書状集箱(しょじょうあつめばこ)があります、小諸郵便局発祥の地です、旅籠巴屋の小山六左衛門家に郵便取扱所が設置されました。
大塚味噌醤油店 脇本陣代 郵便局跡

 スグの本町(ほんまち)交差点手前から枡形(白色矢印)が始まります。

本町交差点を左折(黄色矢印)し、一本目右の坂を下ると左手に
小諸城大手門があります。

小諸城は
武田晴信(信玄)の築城に始まります。

豊臣秀吉が天下統一を果たすと仙石秀久が入城し、城の大改修と城下町の整備を行いました。

徳川の世になると仙石秀久の子
忠政は上田に移封となり、以降は代々徳川譜代大名が配されました。
@本町枡形 小諸城大手門

 
小諸城は城下町より低い地に位置するため穴城と呼ばれました。

 それでは本町枡形に戻りましょう。

@
本町交差点手前を右折(白色矢印)します、この分岐点には灯籠型道標があります、この先枡形の所々に配され、枡形の道案内をしてくれます。

A一本目を左折します、この分岐点には
そば蔵丁子庵があります、文化五年(1808)の創業で、建物は明治十八年(1885)築の黒漆喰土蔵造りです。

B丁子庵前の国道141号線を横断し
富士屋味噌醸造脇に入ります。

ここからは一本道を下ります。
枡形案内標識 A枡形 B国道横断

C突当りを左折します、善光寺方面からは右折になります、この分岐点には枡形案内標識北国街道横町(左白色□囲い)があります。

この突当りの小路に
養蓮寺参道標石(右白色□囲み)があります、養蓮寺は相撲力士雷電為右衛門家の菩提寺です、当寺には為右衛門が江戸から袂に入れて持ち帰ったという袂の鐘があります。

D先の
十字路を右折します、善光寺方面からは左折になります、この分岐点には枡形案内標識北国街道横町があります、これにて本町枡形のトレースは終了です。
C中町分岐 D横町分岐 小諸宿脇本陣跡

 枡形先の右手に
旧脇本陣粂屋(くめや)があります、式台付の玄関や屋号看板を吊るすまねき屋根があります、現在は脇本陣の宿粂屋として宿泊可能になっています。

 次いで右手に山謙酒造があります、創業貞享三年(1686)銘酒鈴蘭姫百合の蔵元です、幕末には問屋を勤めました。

続きに
旧小諸本陣があります、上田家が勤め問屋を兼ねました(国重要文化財)。

すぐ先の
しなの鉄道高架手前の十字路を左に進むと本陣の並びにあった本陣上田家主屋が移築復元されています、小諸市歴史資料館として公開されています。

しなの鉄道線の
第一北国街道高架をくぐり、懐古園入口交差点の十字路を直進します。
山謙酒造 小諸宿本陣跡 小諸宿本陣主屋

 この交差点を左折すると
小諸城址(懐古園)に至ります。

 街道に戻ると市町区公民館前のT字路を右折(白色矢印)します、善光寺方面からは左折になります、公民館の裏手には天王社稲荷社があります。

小諸城の要害河川である
中沢川を渡ります。

先に進むと左手のガードレールの手前に寛政二年(1790)造立の
馬頭観音像があります。

右手の
臼田亜浪生誕の地碑先の突当りに諏訪神社が鎮座しています。
市町分岐 中沢川 馬頭観音 諏訪神社

 元は東山道の
青木に鎮座していたところから青木諏訪神社と呼ばれました。

境内に文政六年(1823)建立の
常夜燈や明治十二年(1879)小諸で生まれ大正昭和の俳壇で活躍した臼田亜浪(あろう)と門人の句碑があります。

 先に大きな布引山観世音寺標があります、街道は右(白色矢印)に進みます、左(黄色矢印)は布引観音を安置する行基創建の名刹釈尊寺(しゃくそんじ)に至ります。

布引観音は天正二十年(1592)建立の懸崖造り観音堂内の宮殿(国重要文化財)に安置されています。

強欲で無信心の
老婆千曲川を晒していると、が現れ布を角に掛けて走り出しました、老婆はこれを追いかけ、ついに善光寺に着くと御仏の光を仰ぎ見て、改悛し信心に目覚めたといいます、この牛は観音の化身で、これが「牛に引かれて善光寺参り」の由来になりました。

スグ先の右手に
小林勝五郎碑があります。
布引山観世音寺標 小林勝五郎碑 道祖神

 碑の冒頭に「従六位南摩綱紀(なんまつなのり)篆額」と刻まれています。

先の右手に
道祖神があり、奥に南無妙法蓮華経題目碑と宝暦十四年(1764)造立の馬頭観音像があります。

 街道は芦原中学校前で県道に合流します、新町分岐です。

この分岐点には
中北道標(中部北陸自然歩道道標)「←1.0km懐古園/東町歌舞伎舞台(東部町)8.6km→」があります、善光寺方面からは右折し懐古園方面に進みます。

花川橋を渡ります、欄干には小諸馬子唄「こもろ出て見りゃ浅間の山に今朝も三すじの煙り立つ」や小諸城三の門レリーフが組み込まれています。

快晴の日には
富士がかすかに望めたという上りの富士見坂を進み、先で斜め右(白色矢印)の旧道に入ります、丙分岐です、この分岐点には中北道標「←1.4km懐古園/東町歌舞伎舞台(東部町)8.2km→」があります、善光寺方面からは左折になります。
@新町分岐 小諸馬子唄 A丙分岐

 県道高架をくぐると、左手に青木の一里塚があります、南塚の遺構を残しています、富士見坂の一里塚ともいいます、追分から四里、江戸日本橋より数えて四十三里目です。

しなの鉄道線を
第1北国街道踏切にて横断します。

次いで
芦原中学校入口交差点にて国道18号線を横断(白色矢印)します。

スグ先で突当りの
T字路を左折します、善光寺方面からは右折になります。
青木の一里塚 しなの鉄道踏切 国道横断 西原分岐

 この分岐点には大きな
故陸軍歩兵大尉土屋勝之助碑があります。

 先の十字路に菱野観音道標があります、結び観音で知られる隠し金山の秘湯菱野観音温泉への道しるべです。

十字路の右に
西光寺があります、小諸城の鬼門除けの寺として創建されました。

境内に
聖観音菩薩像を安置する観音堂、享保十年(1725)造立の聖観音菩薩像、文化六年(1809)造立の馬頭観音像等があります。

旧家を多数残す
西原村を進むとY字路が現れます、右に進みます、この分岐点には中北道標(白色□囲み)「←2.7km懐古園/東町歌舞伎舞台(東部町)6.9km→」があります。
菱野観音道標 西光寺 Y字路

 スグ先で国道18号線に合流します(白色矢印)、善光寺方面からは斜め左に入ります、この分岐点には中北道標「←2.8km懐古園/東町歌舞伎舞台(東部町)6.8km→」があります。

深沢深沢橋で渡ります、深沢の流末は千曲川に落合います、流れは佐久小県(ちいさがた)の郡境です。

カインズホーム先の
Y字路を斜め左(白色矢印)に入ります、この分岐点には中北道標「↑3.3km懐古園/東町歌舞伎舞台(東部町)6.3km→」があります。
宮原分岐 芝生田分岐 馬頭観音 石祠

 善光寺方面からは国道18号線に合流します。

旧道に入ると左手に天保十二年(1841)造立の
馬頭観音像があります。

先に進むと左手に
石祠が四社祀られています。

 わずかに進むと左手の電柱脇に道祖神が祀られています。

赤岩新田村に入ると、火の見ヤグラ先の右手に明治二十七年(1849)建立の田口傳吉翁筆塚があります。

大石沢川眼鏡橋にて渡ります、眼鏡橋は明治十六年(1883)架橋のアーチ状石橋で道路下に現存しています、地元の武田久乃助が私財を投げ打って竣工させた石橋です(東御市有形文化財)。

渡ると右手に
石塔群があります。
道祖神 筆塚 道祖神 牧家の一里塚跡

 男女双体道祖神牛馬観音経一千巻碑と長野県指定文化財刀匠山浦真雄(さねお)宅跡案内があります、上田藩お抱えの刀工で、弟の源清麿は卓越した名刀工でした。

滋野(しげの)郵便局の並びに
北国街道牧家(ぼくや)一里塚跡碑があります、追分から五里、江戸日本橋より数えて四十四里目です、塚は明治維新を迎えると民間に払下げとなり取り払われました。

 刻限は12:40です、空腹の極みです、残念ながら旧道に食堂はありません。

牧家の一里塚前の横道で国道18号線に出ると
会津喜多方ラーメンがあります、理想的です!

汗ばむ陽気になり、
生ビールの美味い時期になりました、それでは頂きます、感無量です!!

食事は
カツ丼半ラーメンのセット(890円)です、あいも変わらず代わり映えしませんね。

しかしこのコンビは
街道ウォークにとっては最強です!!!

太麺のちじれ麺は好みです、ウマイ・・・!!!!
会津喜多方 生ビール カツ丼セット

 サア午後の部に取り掛かりましょう。

牧家の一里塚跡先の十字路右手に
旧力士雷電之碑があります、江戸時代の大相撲力士雷電為右衛門は大石村の出身で、無類の強さを誇りました。

碑は文久元年(1861)
佐久間象山の撰文、揮毫により建立されましたが、勝負事に御利益があると削られ判読不明になってしまいました。

その為、碑の並びに明治二十八年(1895)
勝海舟山岡鉄舟によって新碑が建立されました。

碑の前には
中北道標「↑雷電生家0.8km」があります。
旧力士雷電之碑 新力士雷電之碑 明治天皇碑

 旧道を進むと右手に
明治天皇牧家御小休所碑があります、明治十一年(1878)北陸巡幸の際、ここで休息しました。

牧家村は
白酒が名物の立場でした。

 旧道をモクモクと進むと右手に豪壮な蔵造り長屋門があります。

長屋門に接する左の道筋は
望月道です、中山道望月宿に至ります。

右の道筋は
松代道です、松代の城下町に至ります。

所沢川加沢橋で渡ると左手に出桁造りの立場茶屋跡があります、遺構を残しています。

先の右手に
(あがた)諏訪神社があります、享保元年(1716)に遷座し、田中、常田、加沢三ケ村の産土神です、境内には享保九年(1724)の手水鉢があります。
蔵造り長屋門 縣諏訪神社 芭蕉句碑

 参道口向かいの民家の植栽の中に文化十四年(1817)建立の
芭蕉句碑「あかあかと日ハつれなくも秋の風」があります、元禄二年(1689)七月奥の細道で金沢から小松への道中に詠んだ句です。

 PM2:05 田中宿着 海野宿まで2.2km

 先に進むと旧道は消滅しています、車止めのポールが設置されています、ここを突っ切ります(白色矢印)。

正面の自転車進入禁止の丸太風階段を下り(白色矢印)、常田(ときだ)南交差点を横断すると
田中宿に到着です!

田中宿真田氏の庇護の下に設置され、海野宿合宿問屋業務は上十五日を勤めました。

田中宿は寛保二年(1742)
千曲川壬戌(じんじゅつ)洪水により壊滅し、復興に六十年を要し、慶応三年(1867)の大火で宿並は灰燼に帰しました。

宿並からは
電柱が取り払われ、スッキリとしています。
常田南旧道 田中宿東口 田中宿並

 宿並に入ると右手に長久寺があります、長久二年(1041)の創建です。

参道には寛政十一年(1799)建立の
馬頭観世音があり、参道階段脇には文政九年(1826)建立の芭蕉翁碑「裏おもてなきは柳のすがたかな」があります。

次いで右手に
従是法善寺寺標があります、日蓮宗で大営山と号し、天和元年(1681)の創建です。

ここに入り突当りの
Y字路を右に進むと北600m先に法善寺があります、左に進むと安政四年(1857)造立の剣持男女双体道祖神が祀られています、男神のと女神の衣の裾で男女の陰陽を表しています。
長久寺 法善寺寺標 剣持道祖神

 宿並に戻って先に進み、右手の末広商店脇に入り、一本目を左折すると薬師如来像を安置する薬師堂があります。

堂前に
田中の石造仁王像があります、左手の吽形(うんぎょう)は明和三年(1766)雷電の母が願をかけて奉納したものです、翌年雷電が授かりました。

右の寛政八年(1796)造立の
阿形(あぎょう)像は雷電が大関になった翌年、雷電の母が感謝の気持ちを込めて奉納したものです。

境内に
(いぬ)の満水塔があります、寛保二年(1742)戌の満水(壬戌洪水)の土石流で田中宿は一気に押し流され壊滅的な被害を蒙りました。
吽形仁王像 阿形仁王像 戌の満水塔

 宿並を横断し木村屋菓子舗脇に入り、Y字路を右に進むといいなり地蔵尊があります、応永十五年(1408)の造立で、首より上の病にご利益があります。

いぼ取りにもご利益があるところから
いぼとり地蔵尊とも呼ばれています。

宿並に戻って進むと右手の荒物商の
高木屋田中宿脇本陣跡です、田中宿脇本陣跡札を掲げています、高木家が勤めました。

一本目を右に入ると右手に
田中宿本陣跡があります、小田中新右衛門が勤め問屋を兼ねました、本陣門を残し、敷地内には明治天皇田中御小休所碑があります。
いいなり地蔵尊 田中宿脇本陣跡 田中宿本陣跡

 田中駅前交差点手前の右手に天明六年(1786)造立の勝軍(しょうぐん)地蔵があります、悪行や煩悩に打ち勝つという仏で、戦勝や危難救済にご利益があります。

交差点を越えた左手には
(あがた)村道路元標があります。

先に進むと左手の田中集会所の前に
筆塚があります。

東御市田中交差点を越すと、求女澤手前の右手間知ブロックの擁壁内に
道祖神が組み込まれています。
勝軍地蔵 道路元標 筆塚 道祖神

 求女澤求女橋で渡ると、右手の田中小学校前に海野宿案内標識「0.9km 遊歩道をお通りください」があります、しなの鉄道線沿いに遊歩道があります。

左手の
遊歩道東口(黄色矢印)の中澤自動車商会脇(白色□囲い)に馬頭観音像供養塔があります、旧道にこだわる人は直進(白色矢印)します。

旧道を進み
三分澤三分橋にて渡ると右手に柳哉(りゅうさい)句碑「痩せたまゝ遂に石間の草枯るゝ」があります、明治十四年(1881)この地に生まれ、俳号を第二世浮世庵柳哉と称しました。

海野バイパス高架手前に
遊歩道西口があります。
遊歩道入口 柳哉句碑 しなの鉄道踏切

 海野バイパス高架をくぐり、しなの鉄道を
第2北国街道踏切にて横断します。

 PM2:44 海野宿着 上田宿まで7.8km

 踏切を横断すると右手の公園内に馬頭観音万貫石海野宿碑があります、海野宿に到着です!

海野宿は寛永二年(1625)北国街道の開設に伴ない設置され、田中宿と合宿で問屋業務は月後半の十五日を勤めました。

宿振興のため寛政十年(1798)旅籠一軒につき二人の
飯盛女の抱えが許可されました。

宿並には
用水が流れ、卯建をあげ、長短二本ずつの格子を交互に組み合わせた海野格子の建物群を残し、重要伝統的建造物群保存地区日本の道100選に選定されています。
海野宿碑 海野宿並 海野格子

 宿口の右手に白鳥神社が鎮座しています、海野氏真田氏の氏神日本武尊を祀っています、境内には推定樹齢七百年の御神木のケヤキ鯨石の噴水等があります。

境内に
木曽義仲挙兵の地解説があります、木曽で平家追討の旗挙げをした木曽義仲はこの地を支配する海野氏の協力を得て千曲川の海野白鳥河原で挙兵しました。

平家物語や源平盛衰記にはこの挙兵を
白鳥河原の勢揃と著されています。

次いで右手に
旧地蔵寺跡があります、宿並沿いには大きな庚申塔馬頭観世音百萬遍供養塔、寛保元年(1741)建立の手水鉢が並んでいます。
白鳥神社 木曽義仲挙兵の地 石塔群

 地蔵寺は海野氏の家臣赤石藤治友信(なかだち)地蔵菩薩を小庵に安置したのが始まりです。

旧境内に入ると覆屋内に
媒地蔵尊が安置されています、加賀の前田候が参勤の折にお参りし、願を掛けるとに良縁が授かりました、以来、縁結び地蔵と呼ばれ篤く信仰をあつめています。

宿並を進むと右手に
海野宿歴史民俗資料館があります、寛政年間(1789〜1801)築の旧旅籠です、海野宿に関するもの、養蚕に関するもの等が展示されています。

資料館前には文化九年(1812)この旅籠に宿泊した
小林一茶句碑「夕過乃臼の谺(こだま)の寒哉」があります。
媒地蔵尊 海野宿資料館 一茶句碑

 堂々とした卯建を見ながら宿並を進むと右手のガラス工房橙隣の庭内に安永九年(1780)造立の馬頭観音像があります。

次いで右手に
海野宿本陣跡があります、本陣長屋門を残しています、代々藤田伝右衛門が勤め問屋を兼ねました。

隣りの大嶋屋の前に
馬の塩舐め石があります、伝馬に塩を盛って舐めさせました。

丸屋脇の小路口に
馬繋ぎ石があります、石に馬の手綱を縛り付ける穴が開いています。
馬頭観音 海野宿本陣跡 馬の塩舐め石 馬繋ぎ石

 スグ先左手の高札場跡に縮小高札場が復元されています。 

豪壮な気抜け屋根の旧家を見ながら先に進むと左手に
興善寺寺標「海野氏菩提寺 興善寺 是より北へ一粁」があります、海野氏本家の菩提寺です。

海野は豪族
海野氏の本拠地でしたが、天文十年(1541)武田信虎(信玄の父)、諏訪頼重村上義清の攻めにより海野氏宗家は滅亡しました。

滅亡した
海野棟綱の娘婿の幸隆が海野氏を継承し、父信虎を追放した武田晴信(信玄)に仕え、以降軍功を挙げ上田の地を拝領しました。

海野幸隆は上田に居を構え、海野から真田と改称しました。

幸隆
の子の昌幸上田城を築城し、この昌幸の子が信之幸村兄弟です。
高札場跡 興善寺寺標

 先に進むと左手に海野宿木製灯籠があり、西枡形の痕跡があります、ここが海野宿の西口です。

左手の鉄塔を過ぎると右手に
心光寺があります、真田昌幸によって上田の横町へ移された願行寺跡と推定されています。

成沢川西海野一号橋にて渡ります。

先に進むと右手に
住吉宮が鎮座しています、大坂住吉神社を勧請し鎮守としました。

参道口に
姫石(陰石)、殿石(陽石)があり、境内には宝永五年(1708)建立の御神燈があります。
心光寺 住吉宮 西海野分岐

 先で
下道に合流します、この分岐点には中北道標「海野宿1.6km→」があります、善光寺方面からはY字路を左に進みます。

 笠石川御堂澤橋にて渡ると左手に道祖神が祀られています。

ビジネスホテルアカマル前の電柱に
仁王堂案内標識があります、左折(白色矢印)すると大屋仁王尊を安置する仁王堂があります、千曲川を鎮護し壬戌洪水の犠牲者を供養しています。

仁王堂脇から千曲川が一望です、千曲川は甲武信ケ岳に源を発し犀川を吸収し、越後に入ると信濃川と名を変え、流末は日本海に注ぐ日本最長の大河です。
道祖神 仁王堂分岐 仁王像 千曲川

 壬戌
(じんじゅつ)洪水戌の満水(いぬのまんすい)とも呼ばれます、寛保二年(1742)八月、野分(台風)の大雨により千曲川犀川流域で発生した大洪水で二千八百人以上の死者が出ました。

 わずかに進むと左手の石組上に石祠稲荷社が二社祀られています。

国道152号線を横断すると左手に天保十三年(1842)創建の
大屋神社が鎮座しています、天照大御神熊野大権現を祀っています、大屋村の鎮守です。

社殿の軒下に
小舟がくくり付けられています、日露戦争勝利の立役者東郷平八郎伊東祐亨上村彦之丞の三将軍を千曲川簗漁場に案内した時に乗った舟です。

はらだ
内科クリニック前のY字路を左(白色矢印)に進みます、善光寺方面からはY字路を右に入ります。
稲荷社 大屋神社 大屋分岐

 わずかに進むと右手の台石上に注連縄が巻かれた道祖神が二基祀られています。

瀬沢川瀬沢橋にて渡った先で街道はしなの鉄道沿いになります、右手にTOTOKUが望めます。 

左手の鉄塔先の
2本支柱の電柱を左折(白色矢印)します、善光寺方面からは右折になります。

旧道を進むと右手旧家門の並びの2本支柱の電柱があるブロック塀の中に岩下ふるさと文化保存会が設置した
旧北國街道一里塚解説があります、岩下の一里塚跡です、追分から七里、江戸日本橋より数えて四十六里目です。
道祖神 岩下分岐 岩下一里塚跡

 先に進むと右手に幟旗用のポールがあります、このポール脇の小路に踏み込むと天神宮が鎮座しています、いわずと知れた学問の守護神菅原道真を祭っています、覆屋内の本殿は文政二年(1819)の造営です。

境内の二本の
ケヤキは樹齢千数百年といわれ、県内二番目の大木です(上田市天然記念物)、共に落雷の被害を受けています。

街道に戻ると左手の駐車場内に石碑が二基あります、左は明治天皇岩下御小休所跡碑です、明治十一年(1878)北陸東海巡幸の際に岩下村の尾崎惣作邸にて休息しました。

右は
仁和寺宮嘉彰(よしあき)親王御遺跡碑です、明治元年(1868)会津征伐越後口総督となり、会津藩制圧後、東京に戻る際に尾崎儀兵衛邸にて休息しました。
天神宮 明治天皇碑

 右手の岩下公民館の奥に伊波保(いわお)神社が鎮座しています、境内には明和三年(1766)建立の御神燈、文政十三年(1830)造立の男女双体道祖神、文久二年(1862)造立の覚明像等があります。

わずかに進むと 左手の千曲川の流れの中に
太鼓岩があります、岩に当たる流れの音が太鼓のように響くといいます。

吊り橋は伊勢湾台風の際に切り落とされました。

先に進むと左手に
旧北國街道案内標識があります、千曲川に沿う草道に入ります。
伊波保神社 太鼓岩 神川旧道

 この神川旧道は
神川橋の手前に出ます、神川(かんがわ)を神川橋にて渡ります。

 神川では神川合戦とも呼ばれる上田合戦が二度繰り広げられました。天正十三年(1585)第一次上田合戦は武田方であった真田昌幸徳川家康を撃退しました。

慶長五年(1600)
第二次上田合戦では西軍に組した真田昌幸幸村親子が関ケ原に出撃する徳川秀忠を撃退しました。

真田昌幸はいずれの合戦でも神川沿いに一の柵を構え、防禦線としました。

右手の神川小学校口に文政元年(1818)加賀の飛脚中が建立した
馬頭観世音があります、並びに道祖神と後方に神川村道路元標があります。
神川 馬頭観音 水天宮

千曲川の土手下を進みます、右手のあゆ料理のひばち屋手前の土手上には
石祠水天宮道祖神が祀られています。

 土手下の東屋を過ぎると一石陽刻三体地蔵尊が安置されています。

この向い側から斜め右の
下堀旧道に入ります(白色矢印)。

旧道を進むと右手に火防の守護神を祀る
愛宕社が鎮座しています、拝殿内には地蔵菩薩立像が安置されています。

スグ先の右手に
柳澤家本陣門があります、柳澤家は上田宿本陣を勤め問屋を兼ねました、維新後ここに越し、その際に移築した四脚門を残しています。
三体地蔵尊 下堀分岐 愛宕社 柳澤家本陣門

 旧道を道なりに進むと白壁の蔵先でJR北陸新幹線沿いの側道に合流(白色矢印)します。

わずかに進むと右手に
火の見ヤグラがあります、善光寺方面からは先を斜め左に入ります。

先に進み突当りを右折(白色矢印)します、善光寺方面からは
JR北陸新幹線跨線橋の手前を左折します。

後方にはJR北陸新幹線橋梁の
上田ハープ橋(全長270m)が望めます(白色□囲い)。

上堀交差点を越すと左手に慶応二年(1866)建立の髭文字
南無妙法蓮華経題目碑があります。
下堀分岐 上堀分岐 題目碑

 旧道を進むと右手に創業万延元年(1860)の山辺糀(こうじ)があります、創業時の屋号は堀糀屋です、創業以来、伝統的な糀造り、味噌造りの老舗です。

糀店からスグの右小路口に
信州国分寺道標があります。
天平十三年(741)
聖武天皇の詔で国家鎮護のため全国に建立された信州国分寺跡に至ります。

信濃国分寺跡は国史跡、本尊の薬師如来三重塔は国重要文化財です。

二本先の右小路口に昭和二年(1927)建立の
信濃國分寺道道標があります。
山辺糀店 信州国分寺道標 信州國分寺道標

 
道標には「上堀停留所入口 国分寺ヲ経テ上澤黒坪ニ至ル」と刻まれています。

 国道141号線を横断すると踏入村に入ります、国府の地に踏み入るところに由来しています。

用水路を越すと右手のカーブミラー外灯の足元に
馬頭観音(白色□囲い)があります。

わずかに進み一本目を右に入ると左手に
道祖神が祀られています。

旧道を進むと右手に
踏入村井戸があります、生活用水や旅人の喉を潤した古井戸です。

村内には
卯建をあげた旧家を残しています。
馬頭観音 道祖神 踏入村の井戸 卯建の旧家

 旧家先の一本目を左に下ると右手に道祖神が祀られています。

旧道に戻って先に進み 突当りを右折(白色矢印)します、
踏入の枡形です。

一本目を左折します、右手は
信州大学繊維学部です、上田は養蚕が盛んで蚕都(さんと)上田と呼ばれました。

先の突当りの
科野大宮社を左折し、即右折します、常田(ときだ)の枡形です。

科野大宮社は信濃國の推定総社です。
道祖神 踏入枡形 常田枡形 科野大宮社

 科野大宮社は
上田城の守護神でした、社叢は上田市指定天然記念物です。

 PM4:30 上田宿着

 上田宿は松平伊賀守五万八千石城下町として発展し、宿場町が形成されました。

産物の
上田縞(じま)、紬縞(つむぎしま)、白紬(しろつむぎ)を近郷より織出し、宿並には呉服店が軒を連ね、が月に十一度立ち、信濃では松本に次ぐ賑わいでした。

科野大宮社の鳥居脇に
常田(ときだ)解説があります、天正十一年(1583)真田昌幸が上田城を築き、上田城の防衛を担う城下囲八邑(がこいはちゆう)の一村として、屋敷年貢を免除し、常田村が開村しました。

先に進むと
常田毘沙門堂があります、境内に佐久間象山先生勉学之地碑があります、蘭学等を修めた活分(かつもん)禅師はここに私塾多聞庵(たもんあん)を開き、象山は松代から通い教えを受けました。
常田解説 常田毘沙門堂

 突当りを右折(白色矢印)します、善光寺方面からは左折になります、中央一丁目分岐です、この分岐点にはローソンがあります。

右手に
日輪寺があります、参道口には六地蔵が安置されています、立像が三体、坐像が三体です。

天文十四年(1545)真田家の祖である
海野小太郎幸義(ゆきよし)が海野に創建しました、寺号は開基者である海野幸義の法名日輪寺殿に因むものです、上田昌幸がこの地に移しました。

境内に
六文銭が刻まれた旧鬼瓦があります、真田の家紋で三途の川の渡し賃が六文でした。
中央一丁目分岐 日輪寺 六文銭旧鬼瓦

 決死の覚悟で戦うという意気込みに由来しています。

 日輪寺の並びに宗吽寺(そううんじ)があります、元和八年(1622)入封した上田藩主仙石氏、後の松平氏の祈願寺で参勤出立の吉日を占いました。

海野町・横町交差点を左折します、善光寺方面からは右折になります、横町は海野から移住した商人によって上田城下で最初に形成された町人町です。

先の右手に
高市神社が鎮座しています、市の守護神として勧請され、一と六の付く日に市が立ちました、裏手が森鴎外が宿泊した旅館上村館跡です。
宗吽寺 高市神社 旅館上村館跡 上田宿本陣跡

 高市神社の向いに
北国街道上田宿本陣問屋場跡標石があります、柳澤太郎兵衛が勤め、問屋を兼ねました。

 PM4:53 上田宿起点着

 中央2丁目海野町交差点が上田宿の起点です、順調に到着です!

「信州信濃の新蕎麦よりもわたしゃあなたのソバがいい」今宵の締めは
信州そばにしましょう、良いお店があります。

先祖は刀鍛治であったという
刀屋です、作家の池波正太郎がこよなく愛したという有名店です、私し二度目です。

まず
ビールをオーダーしました、実は私し普段は全くビールは好みません、街道ウォークの時だけです。
刀屋 到着祝い 常温 信州そば

 それは何よりも出てくるスピードと汗をかいた分だけ咽喉越し命だからです! 

お通しの
お新香が実に美味い!!次いで常温の日本酒です、美味い!!

ここでいよいよ
信州そばをオーダーします、ここのお店の真骨頂は正にここです。

【もりそば】
(小) 550円 (中) 600円
(普) 650円 (大) 850円

中盛をオーダーしました、これでも必要にして十分です、
太麺で薬味が充実しています、そしてそば湯、最高です!!!

今宵の泊りは
岩田屋別館(0268-22-0960 )です、素泊り3,500円です、納得でしょう!!!!
岩田屋別館




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