道中日記 5-170 善光寺街道 ( 上田 - 善光寺 ) 40.1km

 本日の総距離は40.1kmです、十分に余裕をもって出立しても大丈夫ですが、
街道ウォークは何が起きるか分かりません、早目に出立しましょう。

寒い、さすがに
信州の朝は寒い、ウインドブレーカーの襟を立てての善光寺ウォークの開始です、すぐに暖まるでしょう!

 平成21年5月15日 AM5:34 上田宿出立 坂城宿まで12.7km

 上田宿の起点中央2丁目交差点を西に進むと上田城があります、真田昌幸が天正十一年(1583)に築いた平城です。

関ケ原の合戦に際し、家名存続の為嫡男の
信幸は東軍に、父昌幸と次男幸村は西軍に組したが、東軍が勝利すると、親子は九度山に蟄居となり、信之(信幸)が上田城に入りました。

東虎口櫓門右手の石垣の中に高さ約2.5m、横3mの
真田石があります、昌幸が築城の際に柱石として据え付けた大石です

元和八年(1622)
信之松代へ移封となりました。
上田城東虎口櫓門 真田石 真田神社

 移封の際に、
信之が父の形見としてこの真田石を持っていこうとしたが、微動だにしなかったといいます。

城内の
真田神社真田親子を主祭神にし、仙石松平の歴代藩主を祭神としています。

 それでは起点の中央2丁目交差点に戻り出立です!

左手の長野銀行を過ぎると左手に
原町市神社が鎮座しています、五と十の付く日にが立ちました。

原町は
真田氏の居館があった原之郷より商人を移し、商人町を形成しました。

原町交差点の右手に
北国街道上田宿問屋跡標石があります、滝沢家が勤め、柳町、田町の世話役を兼ねました。

並びに
真田太平記館があります、池波正太郎(1923〜90)は名将真田昌幸、長男信幸(信之)、次男幸村父子の活躍を描いた真田太平記を著しました。
原町市神社 問屋場跡 真田太平記館

 先の中央3丁目交差点を左折します。

一本目を右折し、
柳町に入ります、この分岐点には旧北国街道標識があります。

柳町は柳の通りに旅籠や商家が軒を連ね、呉服屋は二十五軒ありました。

今も街並みに
卯建をあげた旧商家や連子格子海野格子の旧家を残しています。

町並の左手に
岡崎酒造があります、創業寛文五年(1665)銘酒亀齢(きれい)の蔵元です、菅平水系の地酒です。
中央3丁目分岐 柳町南口 岡崎酒造 柳町通り

 先に進むと右手に保命水があります、明治十四年(1881)新田にある海禅寺の境内に湧き出る清水を木管で引き、町人達の生活用水としました。

保命水の前を左折します、善光寺方面からは右折になります、この分岐点には
旧型ポストがあります。

蛭沢川緑橋で渡ると紺屋町に入ります。

真田昌幸は天正十一年(1583)上田城の築城後、真田氏と縁の深い
海野郷(現東御市)から、紺屋(染物屋)を移して紺屋町を形成しました。

宝永三年(1706)には
紺屋が十軒ありました。
保命水 柳町北口 緑橋

 右手に泉屋があります、文政九年(1826)紺屋町の大火後、上田藩が職人町再建のため海野宿より移転させた内の一軒です。

泉屋小泉弥重は上田藩士の裃(かみしも)用型付藍染工房を生業とし、天保九年(1838)米、大豆、小豆、塩等を扱う穀屋(こくや)を開業しました。

先に進むと右手に明治二十年(1887)創業の
和田龍酒造があります、銘酒和田龍の蔵元です。

スグ先の左手に
真田十勇士鎌原(かんばら)標識があります、上田城の防衛を担う城下囲八邑(がこいはちゆう)の一村として、屋敷年貢を免除し、鎌原村が開村されました。
紺屋町泉屋 和田龍 鎌原

 右手の上田新町郵便局先の左手に真田家紋六文銭を掲げた西脇(にしわき)会館があります。

西脇は上田城の防衛を担う城下囲八邑(村)の一村として、屋敷年貢を免除し、西脇村が開村されました。

先に進み右手の
五社神社を過ぎると左横道口に万延元年(1860)建立の北向観世音道道標があります、北向観音は10km余り先の別所温泉にあります。

北向観世音道に踏み込むと右手に
芳泉寺(ほうせんじ)があります、真田信之の菩提寺で山門には六文銭三つ葉葵の紋が掲げられています、本堂裏手の墓所には真田信之の正室小松姫の墓があります。
西脇 北向観世音道 小松姫の墓

 
小松姫本多忠勝の娘で徳川家康の養女として天正十七年(1589)真田信之に嫁つぎました。

小松姫は元和六年(1620)病気療養のため江戸真田藩邸から草津温泉に向かう途中、中山道の鴻巣で亡くなりました、享年四十八歳でした。

小松姫の死を知らされた信之は「我が家の灯りが消えたり」と嘆いたといいます。

 旧道に戻り、先の@突当りを右折します、上田城下西の枡形です。

矢出沢川高橋で渡ります、合戦の際は高橋を切り落とし矢出沢川を要害堀としました。

A渡詰めの
T字路を左折します、善光寺方面からは右折になります。

B先を右折します、善光寺方面からは左折になります、この分岐点には元禄五年(1692)建立の
道標「右せん加うし道」があります。
@上田西枡形 A上田西枡形 B枡形内道標 道標

 先に住むと右手の生塚自治会館の敷地沿いに真田十勇士生塚(うぶつか)標識があります、上田城の防衛を担う城下囲八邑の一村です。

敷地の奥に
延命地蔵菩薩半跏像を安置する生塚地蔵堂があります、真田昌幸が上田城築城後、山裾にあった堂屋敷付近の住民と地蔵堂を現在地へ移し、屋敷年貢を免除し生塚村を開村しました。

スグ先の
生塚交差点を左折し、国道18号線に合流します、善光寺方面からは右折になります。

先の
常盤城4丁目交差点の手前を右に入ります、善光寺方面からは国道18号線に合流します。
生塚 生塚分岐 常盤城分岐

 正福寺の参道口に流死含霊識千人塚があります、壬戌洪水で諏訪部の川原に流れ着いた死骸を正福寺に埋葬しました。

次いで
秋和杉並木古株があります、往時二百六十七本の杉並木がありました。

右手に
長昌寺があります、飛騨守小林長昌武田晴信(信玄)に追われ、この地で出家し小林堂を創建したのが始まりです。

大日如来像は長昌の守り本尊でした、境内には六地蔵坐像庚申塔、境内社に倉掛稲荷社があります。
正福寺 千人塚 秋和杉並木古株 長昌寺

 左手の秋和公会堂に道標北国街道があります、秋和村は上田城の西に位置し、上田城下囲八邑の一村でした。

先に進み
火の見ヤグラ手前のY字路を右に進みます、この分岐点には道標「右ねずみじく 信仰の道」があります。

木製道標「北国街道 杉原」先の十字路の右手に豊秋霧原埜(とよあききりはらの)神社常夜燈があり、並びに文政十二年(1829)と慶応四年(1868)の常夜燈があります。

社殿は正面の山腹に鎮座しています。
道標 秋和分岐 道標 常夜燈 猿田彦

 並びに
猿田彦大神碑があります。寛政十二年(1800)村人や旅人の道中安全を祈願して建立されました。

 先に進むと上田バイパスガード手前の右手に北国街道一里塚公園があります。

斜面に
陽刻地蔵立像が安置されています。

この地蔵尊を回り込むように踏み跡を上るとアスファルト舗装の
旧道痕跡があります。

この旧道痕に文久元年(1861)建立の
道しるべの碑「右北国街道 左さくば道」があります、さくば道は農道のことです。

この道標は
秋和の一里塚跡に位置しています、追分から九里、江戸日本橋より数えて四十八里目です。
地蔵尊 旧道痕跡 道しるべの碑

 段上の旧道痕跡から国道沿いのすき家を発見です!

牛丼チェーン店はスピードが命です、街道ウォークに好都合です!!

AM6:50直行です、オーダーは
とん汁朝食セット(340円)です!!!

丼ご飯、とん汁、生卵、焼き海苔、お新香のセットです、生卵は黄味と白味に分け、白味はゴックンです。

黄味をご飯にかけ、焼き海苔でくるみ
ノリ玉です、残ったご飯にとん汁をかけて猫飯です、品が悪くて申し訳ありません。

食後にお茶を頂いて、十分に暖まりました、それでは
旧道に復帰です。
すき家 朝食セット

 上田バイパスをくぐります。

くぐったスグ先を右折し、
V字路を左に進みます、この分岐点には木製標識「北国街道・信仰の道・大名行列の道・金の道」があります。

スグ先を左折し、小川をガードレール橋にて渡ります、この分岐点には
木製標識「北国街道・蚕種(さんしゅ)の里」があります。

JR北陸新幹線高架をくぐった先の右手に
慰霊碑があります。
上田バイパス 上田バイパスガード分岐 北陸新幹線 慰霊碑

 次いで右手に相撲年寄信濃石品吉之碑があります、手前の石段を上ると座摩(ざますり・ざま)神社が鎮座しています。

※ 
訂正のお願い ちゃんと歩ける伊勢参宮道 善光寺街道 座神社→座神社に訂正して下さい。

座摩神社は
保食神(うけもちのかみ)を食物養蚕の守護神として祀っています、上塩尻村は養蚕が盛んでした。

八十八夜の祭礼に
奉納相撲が行われました、相撲年寄はこの奉納相撲を取り仕切りました。

参道脇に安永六年(1777)建立の
芭蕉句碑「雪散るや穂屋の薄(すすき)の刈り残し」があります。
相撲年寄碑 芭蕉句碑

 上塩尻村立場で領内一の上田紬の生産地です、養蚕で財を成した気抜き屋根の旧家を多く残しています。

塩尻の地名は北の高田塩と南の倉賀野塩が落合うところを由来としています。

右手の
東福寺は天平十四年(742)行基上人の開基です、境内には享保十二年(1727)建立の善光寺四十八慶供養塔があります。

奥の
上塩尻神社の祭神は諏訪大明神です。

村内の右手に
小岩井紬工房があります。
上塩尻 東福寺 小岩井紬工房

 
手織り上田紬の織元です、当家は上塩尻村の庄屋を勤めました。

 上塩尻集会所先の右手赤い消火栓から斜め右の細道に入ります、善光寺方面からは左折になります。

踏み込むと右手の斜面に
男女双体道祖神が祀られています。

先で
国道18号線に合流します、善光寺方面からは小岩井紬工房看板手前を斜め左に入ります。

先を斜め右に入ります、
下塩尻東口です、この分岐点には交通標識「自転車および歩行者専用7−9」があります。
上塩尻旧道東口 道祖神 上塩尻旧道西口 下塩尻東口

 善光寺方面からは
国道18号線に合流します。

 下塩尻村は上塩尻村と同じく養蚕の産地でした。

左手の火の見ヤグラの前に
道祖神が祀られています。

村内を進むと
沓掛酒造があります、創業元禄年間(1688〜704)銘酒福無量の老舗蔵元です。

酒蔵前に
福無量碑「福寿海無量の生活を歓び、公私一如の理想を生く」があります、銘柄の福無量はこの観音経の一節から引用したものです。

先に進むと正面に
岩鼻(いわばな)の断崖が立ち塞がっています、千曲川対岸の半過岩鼻(はんがいわばな)とは陸続きでしたが、千曲川の浸食によって分断されました。
道祖神 福無量碑 岩鼻

 岩鼻を正面に見ながら進むと、旧道は国道18号線に合流します、善光寺方面からは斜め左に入ります、この分岐点には米原商事看板があります。

この分岐点横の岩鼻の直下に寛政十一年(1799)建立の
向井去来(きょらい)句碑「岩鼻や爰(ここ)にもひとり月の客」があります、去来は芭蕉の十高弟の一人でした。

上田市と(埴科郡)坂城町の境標識「ここは標高415m」を過ぎると岩鼻の直下になります。

千曲川に落ち込む断崖は岩鼻の険と呼ばれ、善光寺街道一の難所でした、加賀の前田公は岩鼻を越えると、国許に無事通過の飛脚を立てました。
下塩尻西口 岩鼻直下

 岩鼻を過ぎると用水をみやまえばしで渡り、斜め右の旧道に入ります、善光寺方面からは国道18号線に合流します。

旧道を進むと
山岡鉄舟の書による明治二十年(1887)建立の西澤翁筆塚があります、西澤仁兵衛は和漢に秀で多くの門弟を育て、佐久間象山とも交遊がありました。

筆塚の前を進み、
いちりつかばしを渡り、先でみやまえばしを渡り国道18号線に再び合流します。
くらかけばし 筆塚 みやまえばし

 善光寺方面からは斜め左に入ります、この分岐点には
みやまえばし標識があります。

 分岐点の右手に会地早雄(おおちはやお)神社が鎮座しています、境内に万葉防人歌碑「ちはやふる神の御坂に幣(ぬさ)奉り斎(いは)ふ命は母(おも)父がため」と芭蕉句碑「膝行(いざり)ふ便(びん)や姥捨の月」があります。

スグ先、左手の
新田(にった)醸造は創業安政二年(1855)信州白樺印みその老舗です。

ねずみ交差点の左手に
茶屋本陣跡があります、室賀家が勤めました。門前に明治天皇鼠宿御小休所碑があり、邸内には御膳水井戸があります、明治十一年(1878)北陸東海巡幸の際に休息所となりました。

鼠宿は元和八年(1622)松代藩主真田信之が設けた私宿です。
会地早雄神社 新田醸造 鼠宿茶屋本陣跡

 上田藩領との境にあたり
口留番所が設置されました。

鼠(ねずみ)とは古に
狼煙台があり寝ずに見張った不寝見(ねずみ)や日本武尊がここで野宿し、月がきれいで寝ずに見んといったところに由来しています。

 鼠橋通り交差点を右折し、一本目を右折すると先の右手に釈迦如来堂があります、安置されている鎌倉時代の桧寄木造り釈迦如来坐像は坂城町指定有形文化財です。

鼠橋交差点の先に
枡形の痕跡を残しています。

先の右手新地公民館前に
埴科郡南條村道路元標があり、敷地内には文化四年(1807)の石祠秋葉社があります。

新地は鼠宿より一年遅れて開村しました。
釈迦如来堂 秋葉社・道路元標 南条分岐 道祖神

 新地交差点先を斜め右に入ります、この分岐点には
中北道標「↓別所峠13.6km/村上義清公墓所3.3km→」があります。

右手の南条集会所の敷地内に
道祖神が祀られています。

 南条小学校の向には佐久間象山の書による嘉永二年(1849)建立の山極茂吉筆塚があります、和漢に秀で六百人余りの弟子がいました。

先に進むと左手に
地蔵堂があります、境内に筆塚開墾碑甲子塔、享保二年(1717)建立の石燈籠等があります。

谷川を渡ると左手に交通安全地蔵尊、右手に
竹留吉翁碑顕彰碑があります。

わずかに進むと右手に
道祖神往海玄古碑があります。
筆塚 地蔵堂 往海玄古碑 道祖神

 元和年間(1615〜24年)に諸国を遍歴した
玄古和尚が南条に庵を結び、たばこ栽培を始め、玄古たばこと呼ばれ名産品となりました。

 スグ先の右手に小滝家の門があります、この門は旧南条保育園の正門として地域の象徴として愛されてきました。

先の右手に鋼板葺き屋根の
鳥居があります、奥の段上に稲荷社が鎮座しています。

横断歩道橋にて県道91号線を跨いだ先の右手に
西念寺があります、参道口に徳本名号碑芭蕉句碑「身にしみて大根からし秋の風」があります、この地は辛味ねずみ大根が名産でした。

スグ先の左手に
火の見ヤグラがあります。
小滝家の門 稲荷社 芭蕉句碑 中之条分岐

 中之条交差点にて国道18号線に合流します、善光寺方面からは斜め左に入ります、この分岐点には中北道標「←別所峠15.1km/村上義清公墓所1.8km→」があります。

 わずかに進むと右手に陣屋郷宿(ごうやど)(文化の館)があります、村々より陣屋へ出頭した村役人庄屋を滞在させ訴訟の応談をした施設です。

向かいの小路に
天領中之条陣屋跡入口碑があります、江戸幕府の直轄地(天領)、佐久、小県、埴科、築摩、水内、高井の六郡を支配しました。

宝暦四年(1754)
坂木陣屋が中野へ移転し出張陣屋となり、明和八年(1771)中之条に仮陣屋が置かれ、安永八年(1779)に本陣屋となりました、跡地に陣屋井戸を残しています。

スグの左手に
中島仲重先生生誕之地碑があります。
文化の館 陣屋跡碑 中島先生碑

 南条小学校校長を勤め、大正十年(1921)同校の火災の際に
大正天皇の御真影(ごしんえい)を持ち出そうとしたが力尽き殉死しました、享年三十七歳でした。

 先の坂城中学入口交差点を右に入ると左手に中條神社が鎮座しています、明治四年(1871)陣屋が廃止になると敷地内に鎮座していた中之条陣屋稲荷社が遷座されました。

街道に戻って先に進み、斜め左の
旧道に入ります、この分岐点には万延元年(1860)建立の善光寺常夜燈があります。

善光寺常夜燈の手前に天明六年(1786)建立の
淵室庵隆禅筆塚があります。

常夜燈の後方には嘉永二年(1849)建立の
中島源蔵筆塚があります。

奥に明治十四年(1881)建立の
中島銀右衛門筆塚があります。
中條神社 四ツ屋旧道東口 善光寺常夜燈

 銀右衛門は
中之条陣屋の命により代官以下の役人の子弟や村の子に漢籍や詩歌を教えました。

 御堂川の渡詰めを右折し、国道18号線に合流します、直進する旧道は先で通行不能になっています。

善光寺方面からは
御堂川手前を右折し、一本目を左折し御堂川を渡ります。

四ツ屋交差点を斜め右に入ります、この分岐点には中北道標「←別所峠/こうがいの渡し碑→」があります。

向かいには
甘泉(かんせん)碑があります、名水として古くから知られ、参勤の前田侯は愛飲しました。

揮毫は中之条陣屋の代官男谷思孝の書です。
四ツ屋旧道西口 四ツ屋分岐 甘泉碑

 
男谷思孝(おたにひろたか)は幕臣で能書家であり、名奉行といわれました、思孝は勝海舟の伯父にあたります。

思孝は旗本
男谷平蔵忠恕(ただひろ)の長男です、勝海舟の父小吉は三男です。

 左手の冨山酒店先右手の横道口に明治二十五年(1892)建立の堂叡山道道標があります、大道山(だいどうさん)は御嶽講の霊場として開山され堂叡山と呼ばれました。

堂々とした
長屋門を右手に見て進み、入田川栄橋にて渡ると左手に石塔群があります、注連縄が巻かれた二十三夜塔道祖神、大正六年(1917)建立の庚申塔が並んでいます。

先に進むと左手に
水野源三沓掛仲子の詩碑と歌碑があります 二人は坂城町出身です、水野源三は脳性麻痺を患い、目の動きで表現したところから瞬きの詩人と呼ばれました。
堂叡山道道標 石塔群 詩碑と歌碑

沓掛仲子歌碑「千曲川 ちゞにくだくる 波のうへに うつらふ月の 影のすゞしさ」

水野源三詩碑「今日一日も新聞のにおいに朝を感じ 冷たい水のうまさに夏を感じ 風鈴の音の涼しさに夕ぐれを感じ かえるの声はっきりして夜を感じ 今日一日も終りぬ 一つの事一つの事に 神さまの恵みと愛を感じて」

並びに文化十二年(1815)建立の
筆塚があります。

 AM9:28 坂城宿着 上戸倉宿まで3.0km

 坂城宿に到着です! 坂木とも書かれました。

北国街道の宿場としては最も古く慶長八年(1603)に設置され、当初横町立町で構成されましたが、加賀藩高田藩の参勤を収容しきれず、立町の北に大門町新町が増設されました、宿並は五ケ所の枡形で構成されています。

田町十王堂辺りから横町までは
旅籠町と呼ばれ、飯盛を抱えた旅籠が軒を連ね賑わいました。

筆塚右手の
田町十王堂閻魔堂とも呼ばれ、毎年盆(八月十六日)に行われる田町の祭りは賑わいます。

十王堂の裏に
村上義清公墓所があります、葛尾(かつらお)城主村上義清武田晴信(信玄)に敗れ、上杉謙信を頼り越後へ落ち延び、病没しました。
田町十王堂 村上義清公墓所

 これが後の武田信玄と上杉謙信の
川中島の合戦の遠因になったともいいます。

 先の変則十字路を左折します(@枡形)、善光寺方面からは右折になります、この分岐点には小田切商店があります。

左折すると右手に
西宮神社が鎮座しています、境内に天保二年(1831)建立の秋葉山碑や元治元年(1864)建立の手水鉢等があります。

突当りの真澄前を右折(白色矢印、A枡形)します、左折(黄色矢印)すると坂城駅の向いに
坂木陣屋跡解説があります、元和四年(1618)千曲川東側十四ヶ村が幕府直轄領となり坂木五千石と称され、坂木村に陣屋が置かれました。

明和四年(1767)
横町の大火で陣屋は焼失し、中之条に移転しました。
@枡形 A枡形 坂木陣屋跡

 しなの鉄道線の坂城駅舎脇に歌碑句碑があります。

若山牧水歌碑
「春あさき山のふもとに畑をうつうら若き友となにをかたりし」

高山虚子句碑
「春雷や傘を借りたる野路の家」

宿並に戻って進むと右手に
坂城宿本陣跡があります、宮原家が勤め本陣門を残しています、寛政十一年(1799))火災により焼失し、脇本陣の中沢家が代わって勤め、天保四年(1833)宮原家が再建されました。

敷地内に
明治天皇御小休所碑があります。
坂城駅 坂城宿本陣跡 明治天皇碑

 スグ先の右手に名主を勤めた坂田家があります、漆喰壁に屋号さかたを掲げています。

宿並には
卯建をあげた旧家を残しています。

日名澤川
大橋で渡った先を左折(白色矢印)します(B枡形)、この分岐点には中北道標「←こうがいの渡し碑1.4km/↓村上義清公墓所0.9km」があります。

この枡形を直進し、二本目を右折すると
満泉寺(まんせんじ)があります、葛尾城主村上義清の館跡です。
名主坂田家 B枡形 満泉寺

 館は
武田晴信(信玄)の兵火で焼失し、義清と共に越後に逃れた子国清が後に海津城代になると村上氏代々の菩提寺として館跡に満泉寺を創建しました。

 宿並に戻ると右手に長谷川井戸があります、慶安四年(1651)代官長谷川安左衛門利次が立町、横町、新町の三ケ所に井戸を設けました。

先を道なりに左折します(C枡形)。

先の
変則十字路を右折します(D枡形)、この分岐点には嘉永六年(1853)建立の善光寺常夜燈があります、ここが坂城宿の北口です。

常夜燈脇には
中北道標「↑こうがいの渡し碑1.1km/↓村上義清公墓所1.2km」があります。
長谷川井戸 C枡形 D枡形 善光寺常夜燈

 先に進むと右手に産業道路1号線ゲートがあります。

ゲート口の右手に
道祖神が二基あり、やや入ると左手に聖徳太子碑があります。

ここが
横吹八丁の東口です。

この先は断崖が
千曲川に落ち込んでいる為、往時は中腹に横吹八丁がありました、横吹坂とも呼ばれ岩鼻と並ぶ難所でした、参勤の殿様も駕籠から降りて歩きました。
道祖神 聖徳太子碑 横吹八丁

 明治の世になると人々の往来が自由になり、馬車人力車が普及すると険しい山道の横吹八丁は余りにも不都合となり、明治九年(1876)千曲川沿いの横吹新道が開削され、横吹八丁は廃道になりました。

それでは
横吹新道を進みましょう、
擁壁上の道(白色矢印)は
横吹新道の痕跡です(通り抜け不可)。

下道を進みます、正面に見えるしなの鉄道線トンネル上の辺りが
横吹八丁です。
横吹新道の設計図 横吹新道口 安全地蔵尊

しなの鉄道線ガードをくぐると右手に
安全地蔵尊が安置されています。

 先で国道18号線に合流します、善光寺方面からは左折し、スグのY字路を左に進みます、この分岐点には中北道標「←村上義清公墓所1.7km/こうがいの渡し碑0.6km↓」があります。

国道を進むと右手から山裾が迫ってきます。

先に進むと刈谷原交差点手前の左手に刈谷原ミニパークがあります、園内に
史跡笄の渡笄橋完成記念碑があります、ここが(こうがい)の渡し跡です。

天文二十二年(1553)
武田晴信(信玄)の猛攻により葛尾城は落城し、落ち延びる城主村上義清奥方を船頭は身の危険を顧みず、千曲川の対岸に渡しました。
横吹分岐 横吹新道 笄の渡し跡

 奥方は
船頭に感謝し、礼として髪に刺していた(こうがい)を手渡しました、以来、この渡し場は笄の渡しと呼ぶようになりました。

 園内には道祖神、享和元年(1801)建立の馬頭観世音芭蕉句碑「いさよひもまたさらしなの郡(こおり)哉」、小林一茶句碑「よこ吹や猪首(いくび)に着なす蒲(がま)頭巾」等があります。

刈谷原交差点を越すと左手に文久三年(1863)建立の
筆塚があります。

右手の火の見ヤグラを過ぎると
泉徳寺があります、参道口に徳本南無阿弥陀佛名号碑等があります。

本堂の右手には文化八年(1811)
宮本虎杖(こじょう)句碑「夜桜や世に阿類(ある)ものの迎馬」があります、虎杖は寛保元年(1741)下戸倉生まれの俳人です。
石仏石塔群 筆塚 泉徳寺

 泉徳寺を後にしてしばらく進み、左手のセブンイレブンを過ぎると坂城町千曲市の境標識「ここは標高387m」があります。

この標識の根元に
舟つなぎ石標柱があります、標柱には「苅屋原の七不思議舟つなぎ石この先約10m 千曲川を挟んで力石へ行くには、渡し舟により行われ、この舟つなぎ石で乗り降りし、舟をつないだ。大水の際も舟つなぎ石につないでおけば流される心配はなかったという。現在は信越線の開通により石も渡船場もない。」 と記されています、ここが笄の渡し跡ともいいます。

しなの鉄道線の線路敷き内に
國道舗装記念碑があります、スグの岩崎街道踏切にてしなの鉄道線を横断します。
舟つなぎ石 國道舗装記念碑 しなの鉄道線踏切

 AM10:13 上戸倉宿着 下戸倉宿まで2.0km

 道なりに進むとY字路になります、左(白色矢印)に進みます、この分岐点には道祖神庚申塔が台石上に安置されています、上戸倉宿到着です!

上戸倉宿は小宿で下戸倉宿と合宿でした、問屋業務は月の内二十一日迄を下戸倉宿、以降を上戸倉宿が勤めました。

上戸倉宿は
丘陵に位置するため千曲川からの引水は不可能で、山間の貝喰沢(かいばみさわ)より引水し防火、日常用水としました。

磯部ミニ公園バス停の並びに
史蹟解説があります、ここが玉井本陣跡です、玉井家が勤め建坪五百六十坪でした。
上戸倉宿南口 道祖神 玉井本陣跡

 宿並を進むと右手に小出本陣跡があります、、幕末、玉井家より本陣職を譲り受けました、本陣門を残しています。

向かいが
上戸倉宿問屋場跡です、玉井家が勤め、を残しています。

問屋場の並びに
芝宮神社が鎮座しています。

突当りを左折(白色矢印)します、善光寺方面からは右折になります、分岐点には
消火栓があります。
小出本陣跡 上戸倉宿問屋場跡 芝宮神社 枡形

 宿並を進み、用水を渡ると左手に安永二年(1773)建立の道祖神、慶応三年(1867)建立の二十三夜塔が台石上に安置されています、この辺りが上戸倉宿の北口です。

スグ先でしなの鉄道線
を磯部踏切にて横断します。

磯部信号機の足元に判読不明の
石塔があります。

磯部交差点を渡り
千曲坂城消防本部前を斜め左に入ります。
石塔 しなの鉄道線踏切 石塔 磯部旧道南口

 スグのY字路を右に進みます、この分岐点には聖徳太子碑があります、聖徳太子は渡来の仏教を庇護し、布教につとめたところから仏教の父と呼ばれています。

道なりに進むと
国道18号線に合流します、善光寺方面からは斜め右に入ります、この分岐点には川香菜房があります。

先に進むと
戸倉上山田温泉入口があります、 慶応四年(1868)千曲川の漁師が河原で温泉を見つけ、明治二十六年(1893)下戸倉宿の名主坂井量之助戸倉温泉を開湯し、同三十六年(1903)上山田温泉が開湯しました。

善光寺詣りの精進落としの湯として親しまれ、泉質の良さから美肌の湯として知られる信濃屈指の温泉です。
旧道内Y字路 聖徳太子碑 磯部旧道北口

 AM10:43 下戸倉宿着 屋代宿まで5.1km

 戸倉交差点手前の左手戸倉上山田商工会前に埴科郡戸倉村道路元標があります、下戸倉宿に到着です!

下戸倉宿は
上戸倉宿合宿で問屋業務は月の内二十一日迄を勤め、宿並には旅籠が軒を連ね飯盛が盛んで賑わいました。

戸倉交差点を左に入ると右手に
水上布奈山(みずかみふなやま)神社が鎮座しています、諏訪大明神を勧請して鎮守としました。

境内に天保十年(1839)建立の
飯盛女の献燈籠があります(千曲市指定有形文化財)。
戸倉村道路元標 水上布奈山神社 飯盛女の献燈籠

 下戸倉宿の
飯盛女と旅籠屋主が奉納したもので、台座には飯盛女五十二名の名が刻まれています。

 水上布奈山神社の並びに宗安寺(そうあんじ)があります、境内には百万遍供養塔名号碑庚申塔三界萬霊塔等があります。

宿並に戻り戸倉交差点を越すと右手に
明治天皇行在所阯碑があります、柳沢本陣跡です、問屋を兼ね上の酒屋と呼ばれました。

戸倉駅入口交差点手前の左手に
坂井銘醸があります、創業慶長元年(1596)銘酒雲山の酒蔵で下の酒屋と呼ばれました。
宗安寺 柳沢本陣跡 坂井銘醸 宮本本陣跡

 戸倉駅入口交差点を越すと右手に柳沢家から本陣職を引き継いだ
宮本本陣跡があります、本陣名残りのクロマツは樹齢三百五十年(千曲市保存樹林)です、根方には小社句碑山燈籠等があります。

 宮本本陣跡のスグ先左手の路地口に明和元年(1764)建立の姥捨山道標「左 おはすて やハた 道」があります、月の名所姥捨山に至ります。

道標の裏面には
三界萬霊説法供養九千三百余
南無阿弥陀仏
と刻まれています。

今井交差点のスグ先を斜め右(白色矢印)に進みます、この分岐点の左手にはローソンがあります、善光寺方面からは国道18号線に合流します。

しなの鉄道線に沿って進むと、右手の水門脇に
百万遍供養塔があります。
姥捨道道標 今井分岐 百万遍供養塔

 先に進むと左手の火の見ヤグラの足元に明治十四年(1881)建立の信濃宮道標「信濃宮御古蹟迄二町」があります。

ここから東に入り、しなの鉄道線を越した先に宗良(むねよし・むねなが)親王所縁の
柏王(かしおう)神社が鎮座しています、後醍醐天皇の皇子宗良親王を相殿に祭っています、境内には信濃宮髻(もとどり)供養塔があります、宗良親王(信濃宮)がこの地で病に罹り、平癒祈願に髻を埋め塚を築きました。

元弘元年(1331)
宗良親王は鎌倉幕府討幕の元弘の変に連座し讃岐國に流罪となりました、その後鎌倉幕府が倒れると南北朝の対立が本格化し、親王は南朝方として越後、信濃と転戦し活躍しました。

街道を先に進むと左手に
南無阿弥陀佛名号碑二十三夜塔石祠道祖神が並んでいます、いずれにも注連縄が巻かれています。
信濃宮道標 石造物群

 しなの鉄道線の千曲駅を過ぎると、右手の上町集会所脇に青麻大神(あおそだいじん)碑と石祠が祀られています、青麻大神は中風除けの守護神といいます。

中風(中気)とは脳梗塞等による脳血管障害の後遺症である半身不随、手足のしびれや麻痺のことです。

スグ先の右手に
寂蒔水除土堤(じゃくまくみずよけどて)があります、元禄六年(1693)千曲川の氾濫から家屋や田畑を守るために築堤されました、堤上には二十三夜塔道祖神があります。
青麻大神 寂蒔水除土堤 石塔 姥捨山

 寂蒔村立場で茶屋には遠眼鏡が置かれ、旅人に姥捨山(冠着山)を眺めさせました、真田織の帯や打紐が立場名物でした。

 堤のスグ先の左手に芭蕉塚があります、松風塚ともいい「名月や児(ちご)達ならぶ堂乃掾(えん)」が刻まれています。

芭蕉塚の周囲には
庚申塔馬頭観音像地蔵尊石祠等が集められています。

先に進み左手の和田食品店を左に入ると右手に
天皇子(あまおうじ)神社が鎮座しています、境内の樹齢三百年以上のケヤキは千曲市指定天然記念物です。

左手の埴生小学校脇に明治二十五年(1892)建立の
宮阪喜昌翁之碑があります。
芭蕉句碑 石仏石塔群 天皇子神社 宮阪喜昌翁之碑

 宮阪喜昌は埴科郡の国文学者で
寺子屋師匠として多くの門弟を教育しました。

 AM11:50 矢代宿着 丹波島宿まで13.1km

 屋代駅前交差点が矢代宿の起点です、到着です!

矢代宿は慶長十六年(1611)に設置され宿長は八町(約873m)で、天保十三年(1842)の宿内規模は本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠三十九軒でした。

矢代宿は
矢代の渡し松代道追分を控え賑わいました。

まずは腹ごしらえとしましょう、 駅方面に入ると
庄やがあります、お座敷です、街道ウォーカーにとっては有り難いです、シューズから開放され、軽いストレッチも出来ます。

まずは例によって
生ビールです、あんなに寒かった朝から一転してTシャツでも汗ばむ陽気になりました。
庄 や 生ビール 日替わり御膳

 食事はかき揚げ、イカ大根の
日替わり御膳(ランチ)です、ご飯、味噌汁、お新香はお替り自由で600円です。

かき揚げはわさび塩で頂きます、美味い! ご飯、味噌汁、お新香を臆面も無くお替りしてしまいました。


 宿並に戻り、先に進むと屋代南高校バス停の先の左手にひと際大きな道祖神筆塚があります。

一本先を左に入ると
屋代小学校旧本館があります、明治二十一年(1888)築で昭和五十三年(1978)迄使用されました(千曲市指定有形文化財)。

宿並に戻り屋代本町バス停を過ぎると右手に
小川柳翠(りゅうすい)先生碑があります、文久二年(1862)屋代町生まれの南画家で、多くの作品を残し昭和四年(1929)没しました。

※ 
訂正のお願い ちゃんと歩ける伊勢参宮道 善光寺街道 小柳翠先生碑→小柳翠先生碑に訂正して下さい。
道祖神と筆塚 屋代小学校旧本館 小川柳翠先生碑

 わずかに進むと左手に生蓮寺(しょうれんじ)があります、境内には正徳二年(1712)鋳造の三つ葉葵紋青銅燈籠、徳川九代将軍家重供養に寄進された石灯籠徳本南無阿弥陀佛名号碑等があります。

宿並に戻ると左手に
藤屋旅館があります、旧旅籠ふぢや作治右衛門跡です。

宿並の突当りに
須須岐水(すすきみず)神社が鎮座しています、近隣十八ケ村に生活灌漑用水を供給していた屋代用水の守護神です

本殿は嘉永四年(1851)諏訪の名工二代目立川富昌の手による再建です。
生蓮寺 藤屋旅館 須須岐水神社

 須須岐水神社前の横町交差点を右折し、スグの同じく横町交差点を左折します、矢代宿の
枡形です。

 高見町交差点先の右手に北国街道信濃矢代宿脇本陣跡標石があります、柿崎平九郎が勤めました。

脇本陣跡の並びが
松代道追分(黄色矢印)です、松代へ二里余りです。

松代藩は元和八年(1622)真田信之(信幸)が上田から入封し、十万石の城下町を形成しました。

幕末、第八代目松代藩主
真田幸貫(ゆきつら)は老中となり、藩士佐久間象山の具申により海岸防備に寄与しました。

しかし象山は
吉田松陰の密航事件に関与したとして幕府より松代に蟄居を命じられ、後に一橋慶喜より召し出され開国論を説くと攘夷派から西洋かぶれと誹謗中傷され、暗殺されました。
脇本陣跡 松代道追分

 スグ先の右手に明治天皇御小休所趾碑があります、ここが矢代宿本陣跡です。

柿崎源左衛門が勤め問屋宿役人を兼ねました、跡地には道祖神小社、万延元年(1860)建立の石燈籠があります。

先の右手に
屋代寺があります、本堂に不動明王像を安置しています、境内には延命地蔵尊宝篋印塔、文政十三年(1830)建立の二十三夜塔等があります。

突当りの
屋代交差点を本来は横断(白色矢印)して右折なのですが、横断歩道がありません、従って交差点の手前を右折(黄色矢印)します。
本陣跡 屋代寺 屋代分岐

 先の長野自動車道高架手前の地下横断歩道(白色□囲い)にて迂回(黄色矢印)します。

一旦戻り
市道升の浦線に入ります、善光寺方面からは突当りの国道18号線を左折し、横断地下道にて国道18号線を横断します。

岡谷酸素先で
長野自動車道高架をくぐり、Y字路を左に進み、長野県パトロール先で突当りの千曲川土手道を右折します。

この分岐点の土手を越えた延長線が
矢代の渡し跡です、両岸から張った綱をたぐる繰舟(くりふね)による舟渡しでした。
市道升の浦線 土手道分岐 千曲川土手道

 土手道を進み
JR北陸新幹線高架をくぐります、善光寺方面からはJR北陸新幹線高架をくぐった先を斜め左に下ります。

 土手道を進み、しなの鉄道線を千曲堤防南踏切にて横断します。

先に進み
土手砂利道(白色矢印)に入ります。

千曲川を
篠ノ井橋(しののいばし)にて渡ります、明治五年(1872)十二艘の舟を並べた舟橋が架橋され、明治十八年(1885)木橋の篠ノ井橋が架橋されました。

千曲川は
甲武信ケ岳に源を発し、越後に入ると信濃川と名を変え、流末は日本海に注ぐ日本最長の大河です。
しなの鉄道踏切 篠ノ井橋南詰 篠ノ井橋 千曲川

 橋上からは
北アルプスの山容が望めます。

 篠ノ井橋の北詰から砂利の土手道を進みます。

先でしなの鉄道線を
千曲堤防北踏切にて横断します。

次いで
JR北陸新幹線高架をくぐります。

JR北陸新幹線高架先の
ヘアピンカーブをターンし旧道に復帰します。

ここが
矢代の渡しの延長線上になります、これにて千曲川の迂回路の完結です。
篠ノ井橋北詰 しなの鉄道踏切 千曲川土手道 ヘアピンターン

 この復帰点には軻良根古(からねこ)神社が鎮座しています、田畑を荒らす大鼠を退治した唐猫を祀っています。

境内に
明治天皇御召喚之處碑があります、宮司等が明治天皇を板に乗せて千曲川を渡りました。

旧道を進むと左手に
長野県更級農業高等学校発祥の地標石、次いで警察署・郡役所跡標石があります。

突当りのT字路が
篠ノ井追分です、左(黄色矢印)は善光寺西街道です。
旧道復帰 軻良根古神社 旧役所跡標識 篠ノ井追分

 篠ノ井追分は
善光寺西街道の起点です、松本を経て中山道洗馬の分去れに至ります。

 右(白色矢印)が善光寺街道です。

この分岐点には
篠ノ井追分宿跡碑があります、間の宿で矢代の渡し、善光寺西街道の追分を控え賑わいました。

先に進みしなの鉄道線を
第3北国街道踏切にて横断し、北陸新幹線高架をくぐります。

わずかに進むと右手の家屋脇に
南無妙法蓮華経題目碑があります。

東篠ノ井公民館先の左手に昭和三十五年(1960)建立の
舗装記念碑があります。
篠ノ井追分宿碑 しなの鉄道線 題目碑 舗装記念碑

 次いで左手に大乗妙典六十六部順禮百番供養塔があります。

わずかに進むと左手に
三世松陰斎一露翁碑があります。

突当りの
見六橋交差点を左折します、善光寺方面からは右折になります。

この分岐点には嘉永二年(1849)建立の手差しの
見六(みろく)道標「せんく王し道」があります。

岡田川見六橋にて渡ります。
巡礼供養塔 翁碑 見六橋分岐 見六道標

 二ツ目の見六橋交差点のY字路を左に進みます。

左手の火の見ヤグラの手前に慶長十年(1605)創建の
香福寺があります、境内には六地蔵南無阿弥陀佛名号碑庚申塔等があります。

スグの右手に明治四年(1871)建立の
筆塚があります。

先に進むと右手に
宮入源之助先生頌徳碑があります、碑の前には地蔵菩薩坐像が安置されています。
見六橋分岐 香福寺 筆塚 地蔵尊

 わずかに進むと左手に宝昌寺(ほうしょうじ)があります、本尊の甲冑薬師如来像は謡曲紅葉狩平惟茂(これもち)が戸隠山の鬼女を退治した後、残党の復讐を恐れる里人の為に、自分に模した薬師如来像を与えたものといいます。

松代藩の家老
鎌原氏が本堂再建に貢献したところから家紋であるが寺紋になっています。

突当りの
御幣川(おんべがわ)五差路の正面Y字路を右(白色矢印)に進みます。

このY字路の左手に寛政九年(1797)創建の
歯瘡醫殿(しそういでん)があります。
宝昌寺薬師堂 御幣川五差路分岐 歯瘡醫殿

 俗称
はくさんさん歯槽膿漏歯痛に霊験あらたかといいます。

 奥の幣川(みことがわ)神社は慶長年間(1596〜615)水田開墾中に出土した八幡宮と刻まれた黄金御幣(ごへい)を祀ったのが始まりです。

街道に戻って先に進むと御幣川区北公民館先に
Y字路があります、右に進みます、この分岐点には傳兵衛町開設記念碑があります。

記念碑先、突当りの
川出屋前を斜め右に進みます、善光寺方面からは正面三叉路の中央を進みます。
幣川神社 傳兵衛町開設 @布施高田分岐 A布施高田分岐

 スグ先の
十字路を左折(白色矢印)します、善光寺方面からは右折になります、この分岐点には和菓子つたやがあります。

 先の右手に覆屋があります、芝澤の秋葉神社天神さんの二社が祀られています、並びに蠶神(さんしん)碑があります。

先の芝沢交差点手前に万延元年(1860)建立の
庚申塔があります、裏面には布施高田村と刻まれています。

高田交差点を越すと右手に
薬師如来地蔵堂があります、室町時代造立の石造地蔵菩薩坐像石造薬師如来坐像(共に長野市文化財)が安置されています。
覆屋 庚申塔 薬師如来地蔵堂 井戸

 スグ先の左手に井戸があります、注連縄が張られ手動式ポンプが設置されています。

用水を越え、右手の鷹の羽紋を掲げた蔵を過ぎると左手に
旧原村役場跡標柱があります。

としだ内科先の左手電柱の足元に
御大典記念標石があります。

右手の火の見ヤグラ手前の気抜き屋根の旧家が
茶屋本陣跡です、裏手(黄色矢印)に回り込むと明治天皇原御小休所碑が二基あります。

原村は
間の宿でした。
旧原村役場跡 御大典記念 茶屋本陣跡 明治天皇碑

 火の見ヤグラの先を左に入ると 左手の奥に貞治六年(1367)創建の蓮香寺があります。

天文十二年(1543)造立の
木造子安荒神坐像は坂城の葛尾城主村上義清が奉納したもので安産に霊験あらたかといいます(国重要文化財)。

平成十年(1998)の
長野オリンピックではドイツのゲストハウスとなりました。

街道に戻り、向いを右に入ると
世茂井(よもい)神社が鎮座しています、推古天皇三十年(622)の創建です。

街道に戻ると左手に
明治天皇原御膳水碑があります。
蓮香寺 世茂井神社 御膳水碑

 北原西交差点を越し、長野市商工会川中島支所先を左に入ると北原延命大佛殿があります、寛政十二年(1800)阿弥陀堂を建立し、寛政四年(1792)造立の大仏を安置したのが始まりです、善光寺への参拝途次の祈願所として賑わいました。

今は寛政十二年(1800)造立の
阿弥陀如来坐像と寛政年間(1789〜1801)造立の子安地蔵菩薩坐像を安置しています。

街道に戻り、わずかに進むと北原仲町バス停の奥に
北原天満宮が鎮座しています、境内に明治五年(1872)建立の節婦おせん顕彰碑があります、明治四年(1871)農夫の妻せんが東京から来た祈祷師にいい寄られたが撥ねつけたため殺されました、政府は金一封を下賜し表彰しました。
北原延命地蔵堂 北原天満宮

 並びに文化十三年(1816)建立の
徳本南無阿弥陀佛名号碑、天保十年(1839)建立の三界萬霊塔、万延元年(1860)建立の庚申塔があります。

 川中島支所前交差点を越し、右手の河上薬品先の右小路口に御大典記念碑があります。

長野南バイパス高架手前の右手モトパーク・トラスト脇に
馬頭観世音があります、昭和十二年(1937)の建立で「支那事変昭和十二年十一月戦斃死(へいし)」と刻まれています。

荒屋交差点を越し、長野南バイパス高架をくぐった先の右手に
第拾三師団秋季演習記念碑があります。

先の左手に文化四年(1807)建立の
道祖神が祀られています。
御大典記念碑 馬頭観音 演習記念碑 道祖神

 橋場交差点を越すと、左手の唯念寺参道口に親鸞聖人御舊跡碑があります、傍らに昭和二十四年(1949)建立の道祖神があります。

唯念寺は嘉元三年(1305)親鸞の弟子和田新四郎義包(よしかね)の創建で本尊は阿弥陀如来です。

境内には弘化四年(1847)の
善光寺大地震で亡くなった玄海上人の墓や寛政十二年(1800)建立の常夜燈等があります。

川中島駅入口交差点先の左手に
新田共同井戸があります、明治十年代(1877〜86)に新田組二十三戸の共同井戸として掘削された釣瓶井戸です。
親鸞聖人舊跡碑 新田共同井戸 観音堂

 三本柳団地入口交差点を越し、しばらく進むと左手に
観音堂(浄生庵)があります、元禄年間(1688〜704)仏門に帰依した丹波島宿問屋柳島市郎左衛門の創建です、境内には徳本南無阿弥陀佛名号碑等があります。

 PM3:27 丹波島宿着 善光寺まで5.2km

 丹波島交差点が丹波島宿西口です、到着です!

当初、
松代道北国街道でしたが、矢代を経由する道筋が北国街道となり、慶長十六年(1611)丹波島宿が開設されました。

丹波島宿は
善光寺を目前にし犀川の渡しを控え賑わいました、宿並の東西には枡形があり、宿長は六町(654m)でした。

宿並に入ると
於佐加神社が鎮座しています、丹波島宿の鎮守で、境内には筆塚道祖神秋葉社があります。

於佐加神社の前が丹波島宿の
西枡形です。
丹波島宿西口 於佐加神社 丹波島宿西枡形

 宿並の家屋には旧屋号札が掲げられ、所々の屋根に様々な鍾馗様の飾り瓦を掲げ邪鬼を追い払っています。

宿並を進むと左手に
高札場があります、この高札場は松代藩四十一ケ所の一つです。

明治の世になると高札場は撤去されましたが、平成二十三年(2011)北国街道丹波島宿開設四百年を記念して、当時の場所に復元されました。

高札場の並びに
丹波島宿問屋場跡があります、柳島家が勤めました、門前には明治天皇丹波島御膳水碑があります。
鍾馗像 高札場 丹波島宿問屋場跡

 次いで左手に丹波島宿本陣跡があります、門前に明治天皇御小休所碑があります、柳島家が勤め代々太郎左衛門を襲名しました。

柳島家は
武田晴信(信玄)の家臣でした。

本陣跡向いの小路に入ると
丹生寺(たんしょうじ)があります、本尊の阿弥陀三尊立像は元禄年間(1688〜704)問屋の柳島市郎左衛門が寄進したものです。

宿並に戻って先に進むと右手に
旅籠和泉屋勘左衛門跡があります、旧屋号札いづみやを掲げています。
丹波島本陣跡 丹生寺 旅籠和泉屋跡

 次いで旅籠小松屋栄重郎跡があります、旧屋号札こまつやを掲げています。

旧屋号富田屋前が丹波島宿の
東枡形です、左折します、善光寺方面からは右折になります。

道なりに進み、突当りの
犀川(さいがわ)土手道を右折します、善光寺方面からは斜め左に下ります。

この分岐点には
丹波嶋の渡し碑があります、碑には小林一茶句「まっすぐにかすみたもうや善光寺」
十辺舎一九戯れ歌「大江山ならねと酒の鬼殺し売る家もある丹波島かな」が刻まれ、渡し風景のレリーフが組み込まれています。
旅籠小松屋跡 丹波島宿東枡形 丹波嶋の渡し碑

 犀川は急流のため、両岸から大綱を張り、これをたぐりながらの舟渡しでした。

土手道を進み
丹波島橋南詰交差点を左折して、丹波島橋を渡ります、善光寺方面からは丹波島橋南詰交差点を右折して犀川土手道を進みます。

丹波島橋の欄干には各時代の
レリーフが組み込まれています。
渡舟の時代:流れにより丹波島の渡し、市村の渡し、綱島の渡しがありました。
舟橋の時代:明治六年(1873)舟四十六艘を連ねた船橋が架橋されました。
木橋の時代:明治二十三年(1890)木橋が架橋されました。
鋼橋の時代:昭和七年(1932)架橋、平成五年(1993)現丹波島橋が架橋されました。

犀川は飛騨山脈の
槍ケ岳に源を発し、流末は千曲川に落合います。

本陣の
柳島家は毎年加賀前田侯に犀川で獲れた初鮭を献上しました。
犀川土手道 犀川

 丹波島橋北詰の西側には文政六年建立(1823)の永代常夜燈、東側には文政三年建立(1820)の永代常夜燈が配されています。

丹波島橋北詰交差点を斜め右に進みます、善光寺方面からは丹波島橋を渡ります。

先の
県道372号線の4車線には横断歩道がありません、国道側の荒木交差点にて迂回します。

街道に戻って進みます。
丹波島橋北詰 永代常夜燈 丹波島橋北詰分岐 馬頭観音

 用水を越すと右手の覆屋内に
馬頭観音立像が安置されています。

 ホクト文化ホール南交差点を直進(白色矢印)します、右折(黄色矢印)すると熊谷山佛導寺墓地内に姫塚があります、大ケヤキの根方に五輪塔が安置されています。

熊谷次郎直実は出家し善光寺で修道の身でした、母を亡くした娘玉鶴姫は父を訪ねる途中、川中島で病に倒れました。

すると
善光寺如来の導きにより臨終の間際、父との再会を果たすことができました。

街道に戻ると左手に
吹上地蔵堂があります、文政元年(1818)造立の延命地蔵尊が安置されています、安産、子育安穏、延命長寿にご利益があります。
姫塚分岐 姫塚 吹上地蔵堂

 街道に戻ると左手に蓮心寺があります、法然上人の弟子蓮心坊の創建です。

本尊の
阿弥陀如来風吹如来と呼ばれています、裾花川(そでばながわ)の上流から流された善光寺造営用の木材が犀川に流れ込もうとした時に、阿弥陀如来が現れ木材を風で吹き寄せ、流失を防いだといいます。

並びに
木留神社が鎮座しています、阿弥陀如来が吹き寄せた善光寺造営用の木材を陸揚げし、この神社に留め置きました、境内の大ケヤキは樹齢三百年です。

街道は
若里から中御所に入ります。
蓮心寺 木留神社 木留神社の大ケヤキ

 ホクト文化ホール西交差点を越して、二本目を左に入ると観音寺があります、本堂は文化十年(1813)の再建です。

本尊は建久八年(1197)源頼朝が善光寺参詣の折に、地元の領主漆田出羽ノ守元春に託した守護仏(もとどり)馬頭観音(六分五厘)、妻政子の念持仏厄除観音(一寸一分)、聖徳太子作の火防地蔵菩薩(五寸)です。

街道に戻り、向いの横道に入ると
八幡宮御所天満宮が鎮座しています、ここが領主漆田氏の中御所守護館跡です、源頼朝の善光寺詣での際に宿所となりました。
観音寺 八幡宮御所天満宮 跨線橋

 街道は
JR北陸新幹線・信越本線に突当ります、この先は鉄道の敷設で消滅し、通行不可です、 手前左手の跨線橋にてJR線を越えます。

 跨線橋を渡った先の変則Y字路を右(白線矢印)に進み、長野駅南交差点を横断します。

末広町交差点には
道標「至 善光寺」があり、善光寺燈籠が善光寺参道口まで連ねています。

末広町交差点より二ツ目の信号交差点の左手に自然石の
蛇塚があります、この石を移動するたびに災害が起こったといいます。

ここに樵(きこり)に切り殺された
朝日山の大蛇の見世物小屋がありました、この大蛇が祟ったため西光寺大蛇小蛇(おおにょうこにょう)の塚が建立されました。
変則Y字路 至善光寺 善光寺燈籠 蛇塚

 かるかや山前交差点を越すと右手に刈萱山西光寺があります。

正治元年(1199)
苅萱(かるかや)上人の創建です、境内には刈萱上人親子の墓と像があります、刈萱上人は正室と側室の確執に悩み高野山で出家、やがて子の石堂丸が訪ねて来たが、出家の身では何も出来ぬと父とは名乗らず、父は死んだといいました。やがて石堂丸は刈萱上人を慕い出家し弟子となり、二人は師弟として修行に励みました。

本尊の
親子地蔵は二人が各々彫った地蔵菩薩像です、今日まで篤く信仰されています。

境内には他に樵(きこり)に切り殺され祟った大蛇小蛇の
蛇塚、寛保三年(1743)信濃最古の芭蕉句碑「雪ちるや穂屋のすすきの刈残し」、一茶句碑「花の世は佛の身さえ親子哉」等があります。
西光寺 かるかや親子対面像

 元禄十四年(1701)徳川幕府は
善光寺本堂普請を松代藩に命じました 、普請に際し西光寺に奉行所が置かれ、宝永四年(1707)善光寺本堂落成後、善光寺仮堂が西光寺に寄贈され、本堂となりました。

以来、善光寺参詣の人々が必ず立寄る寺となりました。


 次いで裁松院があります、寺の北と南に川があるところから島の寮(しまんりょう)と呼ばれました

境内に
嶋の天神、戸隠から移した尾上出世不動尊があります。

問御所町交差点を越すと左手に
秋葉神社が鎮座しています、社殿脇に善光寺七井戸の一つ鶴目井戸の跡があります、秋葉神社を勧請した菊屋の酒造りに用いられました。

並びに
三尺坊福禄壽之碑があります。
裁松院 秋葉神社 鶴目井戸の跡 福禄壽之碑

 火災除けの
秋葉神社に祀られる三尺坊(天狗)は福(幸福)、禄(財産)、寿(長寿)の御神徳があるといわれ、福禄寿の化身とされています。

 境内奥に紫雲山十念寺があります、源頼朝の開基です、頼朝が善光寺参詣の折、にわかに紫雲がたなびき善光寺如来が現れ、念仏十遍を授かりました。

街道を挟んだ向かい側は
権堂町です、遊郭を形成し、遊女屋は水茶屋と呼ばれ、最盛期には三十四軒、遊女は二百三十八人いました、参詣の男衆は精進落としと称して繰り出し、大いに賑わいました。

後町交差点を越すと左手に
北野文芸座があります、この辺りは芝居小屋が軒を連ね、ここで舞台に立てない役者は佐渡回りとなり、これがドサ回りの語源になりました。

大門南交差点を越すと左手に
熊野神社があります。
十念寺観音堂 北野文芸座 熊野神社

 大門町の鎮守です、社殿の龍と天女の彫刻は左甚五郎の作といいます、社殿前には宝暦九年(1759)建立の庚申塔があります。

 PM4:57 善光寺仁王門着

 大門交差点を越すと善光寺表参道に入ります、参道口には萬延二年(1861)建立の永代常夜燈が左右対であります。

左手の善光寺郵便局が
善光寺宿脇本陣跡です、中澤家が勤め、五明館と称しました。

ついで右手の
御本陣藤屋旅館(国有形文化財)が善光寺宿本陣跡です、創業慶安元年(1648)御本陣ふぢや平五郎です、加賀百万石加賀藩主前田家の常宿でした。
善光寺宿並 善光寺表参道口 善光寺宿脇本陣跡 善光寺宿本陣跡

 善光寺宿は善光寺の門前町として発展し、町年寄の支配下にあった八町と大勧進及び大本願の支配下にあった両御所前の二町で構成されました。

戦国時代、
善光寺本尊武田信玄によって甲斐に移され、その後時の権力者に翻弄された善光寺本尊は約四十二年の流転を経て、ようやく信濃に戻りました。

この間、常に善光寺本尊に付き添って移動したのが
大本願であり、本尊不在で荒廃した善光寺を守り続けたのが大勧進でした。

善光寺交差点を越すと
永代常夜燈が左右対であります、 ここからの善光寺参道敷石は国史跡です、敷石を寄進した伊勢出身の商人大竹屋平兵衛は江戸で財を成したが、長男が放蕩で家へ寄り付かなかった、ある夜盗賊が入り、これを突き殺したところ我が子でした。

平兵衛は世の無情を感じ、
善光寺に来て諸人の難儀を救うためにこの敷石を寄進しました。
善光寺表参道

 サア、いいいよ目の前に定額山の扁額を掲げた仁王門が立ち塞がります、大正七年(1918)の再建です、仁王像村光雲の作です。

仁王門をくぐると
十字路になります、ここが善光寺街道の起点です、右の筋は北国街道で越後國直江津に至ります。

善光寺街道終点に到着です!一泊二日の善光寺街道ウォークもこれにて終了です、右手を軽く握り、小さな声でヤッターなんていってしまいます。

それでは御参りさせて頂きましょう、先の
山門(三門)は寛延三年(1750)建立の二層入母屋造りです。
善光寺仁王門 善光寺山門 善光寺本堂

 平成の大修理で創建当時の
サワラ板による栩葺(とちぶき)屋根が復元されました(国重要文化財)。

善光寺本堂は創建以来十一度の火災に見舞われ、その都度全国の信徒によって復興されてきました。

現在の
本堂は宝永四年(1707)の再建で国宝に指定されています。


 サア、長野駅まで大返しです、往路では仁王門を目指し鬼の形相でしたが、復路はお店を覗きながらの物見遊山ウォークです。

野沢菜とニラの
おやきで一杯と思いましたが、いずれのお店も満席です。

とうとう有り付けず長野駅に到着です、スグに
北陸新幹線に乗車し、車内打上げです。

久し振りの
善光寺街道ウォークでした、山河の美しさ、史跡の見ごたえ、旧道の風情、そして澄んだ空気、お奨め街道です。




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