本日の総距離は40.1kmです、十分に余裕をもって出立しても大丈夫ですが、街道ウォークは何が起きるか分かりません、早目に出立しましょう。 寒い、さすがに信州の朝は寒い、ウインドブレーカーの襟を立てての善光寺ウォークの開始です、すぐに暖まるでしょう!
移封の際に、信之が父の形見としてこの真田石を持っていこうとしたが、微動だにしなかったといいます。 城内の真田神社は真田親子を主祭神にし、仙石、松平の歴代藩主を祭神としています。
小松姫は本多忠勝の娘で徳川家康の養女として天正十七年(1589)真田信之に嫁つぎました。 小松姫は元和六年(1620)病気療養のため江戸真田藩邸から草津温泉に向かう途中、中山道の鴻巣で亡くなりました、享年四十八歳でした。 小松姫の死を知らされた信之は「我が家の灯りが消えたり」と嘆いたといいます。
並びに猿田彦大神碑があります。寛政十二年(1800)村人や旅人の道中安全を祈願して建立されました。
手織り上田紬の織元です、当家は上塩尻村の庄屋を勤めました。
善光寺方面からは国道18号線に合流します。
善光寺方面からは斜め左に入ります、この分岐点にはみやまえばし標識があります。
上田藩領との境にあたり口留番所が設置されました。 鼠(ねずみ)とは古に狼煙台があり寝ずに見張った不寝見(ねずみ)や日本武尊がここで野宿し、月がきれいで寝ずに見んといったところに由来しています。
新地交差点先を斜め右に入ります、この分岐点には中北道標「↓別所峠13.6km/村上義清公墓所3.3km→」があります。 右手の南条集会所の敷地内に道祖神が祀られています。
元和年間(1615〜24年)に諸国を遍歴した玄古和尚が南条に庵を結び、たばこ栽培を始め、玄古たばこと呼ばれ名産品となりました。
中之条交差点にて国道18号線に合流します、善光寺方面からは斜め左に入ります、この分岐点には中北道標「←別所峠15.1km/村上義清公墓所1.8km→」があります。
南条小学校校長を勤め、大正十年(1921)同校の火災の際に大正天皇の御真影(ごしんえい)を持ち出そうとしたが力尽き殉死しました、享年三十七歳でした。
銀右衛門は中之条陣屋の命により代官以下の役人の子弟や村の子に漢籍や詩歌を教えました。
男谷思孝(おたにひろたか)は幕臣で能書家であり、名奉行といわれました、思孝は勝海舟の伯父にあたります。 思孝は旗本男谷平蔵忠恕(ただひろ)の長男です、勝海舟の父小吉は三男です。
沓掛仲子歌碑「千曲川 ちゞにくだくる 波のうへに うつらふ月の 影のすゞしさ」 水野源三詩碑「今日一日も新聞のにおいに朝を感じ 冷たい水のうまさに夏を感じ 風鈴の音の涼しさに夕ぐれを感じ かえるの声はっきりして夜を感じ 今日一日も終りぬ 一つの事一つの事に 神さまの恵みと愛を感じて」 並びに文化十二年(1815)建立の筆塚があります。
これが後の武田信玄と上杉謙信の川中島の合戦の遠因になったともいいます。
館は武田晴信(信玄)の兵火で焼失し、義清と共に越後に逃れた子国清が後に海津城代になると村上氏代々の菩提寺として館跡に満泉寺を創建しました。
しなの鉄道線ガードをくぐると右手に安全地蔵尊が安置されています。
奥方は船頭に感謝し、礼として髪に刺していた笄(こうがい)を手渡しました、以来、この渡し場は笄の渡しと呼ぶようになりました。
下戸倉宿の飯盛女と旅籠屋主が奉納したもので、台座には飯盛女五十二名の名が刻まれています。
戸倉駅入口交差点を越すと右手に柳沢家から本陣職を引き継いだ宮本本陣跡があります、本陣名残りのクロマツは樹齢三百五十年(千曲市保存樹林)です、根方には小社、句碑、山燈籠等があります。
寂蒔村は立場で茶屋には遠眼鏡が置かれ、旅人に姥捨山(冠着山)を眺めさせました、真田織の帯や打紐が立場名物でした。
宮阪喜昌は埴科郡の国文学者で寺子屋師匠として多くの門弟を教育しました。
食事はかき揚げ、イカ大根の日替わり御膳(ランチ)です、ご飯、味噌汁、お新香はお替り自由で600円です。 かき揚げはわさび塩で頂きます、美味い! ご飯、味噌汁、お新香を臆面も無くお替りしてしまいました。
須須岐水神社前の横町交差点を右折し、スグの同じく横町交差点を左折します、矢代宿の枡形です。
土手道を進みJR北陸新幹線高架をくぐります、善光寺方面からはJR北陸新幹線高架をくぐった先を斜め左に下ります。
橋上からは北アルプスの山容が望めます。
篠ノ井追分は善光寺西街道の起点です、松本を経て中山道洗馬の分去れに至ります。
俗称はくさんさんは歯槽膿漏や歯痛に霊験あらたかといいます。
スグ先の十字路を左折(白色矢印)します、善光寺方面からは右折になります、この分岐点には和菓子つたやがあります。
並びに文化十三年(1816)建立の徳本南無阿弥陀佛名号碑、天保十年(1839)建立の三界萬霊塔、万延元年(1860)建立の庚申塔があります。
三本柳団地入口交差点を越し、しばらく進むと左手に観音堂(浄生庵)があります、元禄年間(1688〜704)仏門に帰依した丹波島宿問屋柳島市郎左衛門の創建です、境内には徳本南無阿弥陀佛名号碑等があります。
用水を越すと右手の覆屋内に馬頭観音立像が安置されています。
街道はJR北陸新幹線・信越本線に突当ります、この先は鉄道の敷設で消滅し、通行不可です、 手前左手の跨線橋にてJR線を越えます。
元禄十四年(1701)徳川幕府は善光寺本堂普請を松代藩に命じました 、普請に際し西光寺に奉行所が置かれ、宝永四年(1707)善光寺本堂落成後、善光寺仮堂が西光寺に寄贈され、本堂となりました。 以来、善光寺参詣の人々が必ず立寄る寺となりました。
火災除けの秋葉神社に祀られる三尺坊(天狗)は福(幸福)、禄(財産)、寿(長寿)の御神徳があるといわれ、福禄寿の化身とされています。
大門町の鎮守です、社殿の龍と天女の彫刻は左甚五郎の作といいます、社殿前には宝暦九年(1759)建立の庚申塔があります。
平成の大修理で創建当時のサワラ板による栩葺(とちぶき)屋根が復元されました(国重要文化財)。 善光寺本堂は創建以来十一度の火災に見舞われ、その都度全国の信徒によって復興されてきました。 現在の本堂は宝永四年(1707)の再建で国宝に指定されています。
|