道中日記 6-171 善光寺西街道 ( 篠ノ井追分 - 西条大橋 ) 24.1km

 京方面からの善光寺詣での参詣人は
中山道洗馬追分から善光寺西街道(北国西脇往還、北国西街道)に入りました。

この
善光寺西街道は松本の城下町を通過し、篠ノ井追分善光寺街道(北国脇往還、北国街道)に合流します。

総距離は十五里三十二町(実測 64.7km)です、道中にはタフで楽しい峠が四つもあります。

今回は
篠ノ井追分から洗馬追分に向けて、一泊二日の善光寺西街道の旅です。


JR篠ノ井線
篠ノ井駅からは北陸新幹線に沿う、道筋をたどれば篠ノ井追分に到着出来ます。

それでは真夏日の
お盆ウォークの開始です。

 平成21年08月16日 AM8:58 篠ノ井追分出立 稲荷山宿まで4.1km

 篠ノ井追分の分岐点には北国街道篠ノ井追分宿跡碑があります、間の宿でした。

黄色矢印は
善光寺街道善光寺に至ります、白色矢印は篠ノ井追分を起点とする善光寺西街道中山道洗馬追分に至ります。

それでは洗馬追分を目指して出立です!

塩崎郵便局を過ぎた先の右手に
塩崎一里塚跡解説があります、北塚は五間三尺(約10m)四方、南塚は四間(約7.5m)四方でした、洗馬より十六里目です。

先に進むと左手に
姫宮神社が鎮座しています。
篠ノ井追分 塩崎の一里塚跡 姫宮神社

 参道口に火の見ヤグラがあり、境内には
二十三夜塔や二鶏が陽刻された石祠庚申塔等があります。

 山崎北バス停先で長野自動車道高架をくぐり、聖川聖徳橋にて渡ります。

右手の山崎公民館敷地内の火の見ヤグラの足元に
秋葉社が祀られています。

先に進むと左手に
浄信寺があります、参道口に文化十三年(1816)建立の徳本南無阿弥陀佛名号碑や文化五年(1808)建立の常夜燈六地蔵があります。

脇を流れる
浄信寺川はエビやしじみ貝などが棲み蛍が舞い、夏には子供達の水泳や魚獲りの水遊び場でしたが暗渠化されました。
長野自動車道 聖徳橋 秋葉社 浄信寺

 次いで右手に天満宮碑があります、嘉永五年(1852)の建立で法然堂八世源説筆子中と刻まれています。

先の右手に
高祖上人法然上人御舊跡碑があります、親鸞上人は越後から東国への布教旅の途次この地で師法然上人の往生を知り、一庵を結び報恩の経を読誦(どくじゅ)しました。

御舊跡碑の奥に
康楽寺があります、開基の西仏坊(さいぶつぼう)は海野氏第十三代幸親の次男海野幸長です、木曽義仲の軍師として転戦し、後に親鸞上人の弟子となり平家物語を著し、当寺で死去しました、享年九十七歳でした。
天満宮碑 御舊跡碑 康楽寺 西仏坊

 街道に戻ると右手に堂々とした土蔵と旧家があります、清水家旗本松平氏知行地の大庄屋を勤めました。

左手の塩崎小学校入口に
更級郡塩崎村道路元標があります。

塩崎小学校は
塩崎陣屋跡です。

享保十五年(1730)二代目上田藩主
松平忠愛(ただざね)は弟忠容(ただやす)に更級郡内の飛領地一万石のうち四ケ村(塩崎村、今井村、上氷飽(かみひがの)村、中氷飽村の一部)五千石を分知しました。

これにより忠容は幕府の
旗本寄合席となり、安永三年(1774)塩崎に陣屋が設置され明治まで継続しました。
大庄屋跡 道路元標 塩崎小学校

 次いで天用寺があります、譜代松平旧領主位牌所です、参道口には徳本南無阿弥陀佛名号碑があります。

上町南十字路を右折します、洗馬方面からは左折になります、この分岐点には消火栓32があります。

スグ先を左折します、洗馬方面からは右折になります、分岐点の右手には寛政十一年(1799)建立の
常夜燈、 左手には日本三所長谷観世音菩薩寺標があります 、信濃長谷寺信州さらしな長谷観音です。
天用寺 上町南分岐 常夜燈分岐

 日本三所とは奈良、鎌倉の
長谷寺観音のことです。

 塩崎上町を抜けると田園風景が広がります。

左手の八幡屋産業を越し、同じく左手の宮崎電気を過ぎると突き当たりの
逆Y字路を右折します、この分岐点には道標「左せんこうじ道 右東京並屋代道」があります、洗馬方面からはY字路を左に進みます。

稲荷山荒町交差点を横断し、右手の宮崎木工前の逆T字路を左折(白色矢印)します。
田園風景 荒町逆Y字路分岐 道標 荒町逆T字路分岐

 洗馬方面からは突当りの
T字路を右折します。

 AM9:51 稲荷山宿着 麻績宿まで12.7km

 稲荷山宿に到着です!

上杉景勝が築城の縄張りを行っていると白い狐が現れ、これを吉兆としこの地を稲荷山と称しました。

稲荷山宿は
稲荷山城の城下町として開け、文久二年(1862)の記録によると宿内家数は四百三十六軒で宿内人口は千六百二十五人でした、ひと月に市が九回立ち、商取引の町として大いに栄えました。

宿並を進むと右手に
稲荷山宿蔵し館があります、生糸輸出の先駆者カネヤマ松源製糸の松林邸が公開されています。

蔵し館脇の奥に
長雲寺があります、正徳五年(1715)京仁和寺の末寺となりました、本尊の木造愛染明王像は国重要文化財です。
蔵し館 長雲寺

 わずかに進むと左手に旧呉服商山丹があります、県下屈指の呉服反物商として繁栄し、明治十年(1877)頃築の町内一の耐火建物を残しています。

蔵脇の
水路は中町と荒町の境で稲荷山城の掘跡といわれています。

先の稲荷山郵便局前の十字路は飯山に至る
谷街道の起点です、ここには史跡谷街道稲荷山起点標柱があります。

谷街道起点十字路を右折(白色矢印)し道なりに進みます、洗馬方面からは左折になります。

この十字路を直進(黄色矢印)すると左手に
稲荷山宿本陣跡遺構があります。
旧呉服商山丹 谷街道起点 起点標柱

 稲荷山宿本陣は松木家が勤め問屋を兼ねました。

漆黒の
冠木門を残しています、元の門は稲荷山城本丸裏門でしたが弘化四年(1847)の善光寺地震による火災で焼失しました。

当本陣には文化十一年(1814)幕府御用測量方の
伊能忠敬が宿泊しています。

更に進み十字路を左折すると右手に
稲荷山城址碑があります、天正十年(1582)上杉景勝は深志(松本)の小笠原貞慶(さだよし)に備え平城の稲荷山城を築城しました。

稲荷山城は元和元年(1615)一国一城令により廃城となりました。

谷街道起点十字路に戻り、スグの
小公園を左に回り込みます。
稲荷山宿本陣跡 稲荷山城址

 稲荷山交差点を越すと左手に極楽寺があります、稲荷山城の鬼門除けの寺でした。

参道口に
蛇枕石(じゃまくらいし)があります、信濃の民話によると篠山の雨池で大蛇が昼寝の時ににしていた石といいます。

日照りで困ると里人はこの石に縄をかけて雨乞いをすると必ずおしめりがあったといいます。

ある干ばつの年あまり動かし過ぎたため大蛇が怒り大雨となり
かに澤荏澤が大洪水となり、小坂元町の家や畑を押し流し蛇枕石がここに流れ着いたといいます。
蛇枕石 極楽寺

 上八日町バス停を越すと左手に土蔵造りなまこ壁の建物があります、稲荷山銀行発祥の地です。

並びに
石造地蔵坐像を安置する覆屋があります、蟹沢川を転がって来た地蔵尊を享保三年(1718)ここに安置したといいます。

覆屋前には
更級郡稲荷山町道路元標があります。

覆屋前から向かいの横道に踏み込むと右手に
二十三夜塔道祖神があります。
地蔵堂 道路元標 二十三夜塔

 正面に治田神社下宮一之鳥居があります、稲荷山の氏神です、鳥居前の縣社延喜式内治田神社社標は元帥伯爵東郷平八郎の揮毫です。

覆屋前に戻り、すぐの
治田町(はるたまち)交差点を右折します、洗馬方面からは左折になります。

この分岐点には明治十年(1877)建立の
道標「右西京街道 左八幡宮道」があります、武水別(たけみずわけ)神社八幡宮を示しています。

ここからは大きくうねる街道をモクモクと歩き、更埴(こうしょく)
西中学校を越し、左手の集合住宅グランドール伊勢宮前から斜め左に入ります。
治田神社鳥居 治田町分岐点 道標 一里山旧道東口

 それでは一里山旧道のトレースに取り掛かりましょう、道なりに進み正面の国道ガードをくぐります。

ガードをくぐったスグ先右手の
石段を上り、一旦国道を左に進み一本目を左折し、突当りを右折して佐野川沿いに進みます、この分岐点には火の見ヤグラがあります。

赤白車止めパイプフェンスを越えると国道403号西京街道線に合流します。

洗馬方面からは
赤白車止めパイプフェンスから佐野川沿いに進み、突当りを左折し、突当りの国道右折し、一本目の石段を下り、ガードをくぐり正面のY字路を左に進み、先で街道に合流します。
ガード 石段 一里山旧道西口

 国道を進むと長坂建設先の右手に史跡稲荷山一里塚標柱があります、稲荷山の一里塚跡です、洗馬より十五里目です。

先の左手に
善光寺街道標柱「是より桑原宿/東へ善光寺まで四里半/西へ京まで九十二里」があります、桑原(くわばら)宿に到着です!この宿口には石祠道祖神馬頭観音が祀られています。

宿並を進むと右手に
治田神社上宮一之鳥居があります、天文年間(1532~55)に諏訪大社を勧請し、延喜式神名帳に記載された古社で更級郡の総社です。
一里塚跡 桑原宿東口 治田神社上宮 浄光庵

 宿並を進むと右手に
浄光庵があります、元禄三年(1690)火災により廃寺となりましたが明和二年(1765)梅峰和尚が現在地の地蔵堂に居住し再興しました。

 桑原バス停先左手の伴月楼(ばんげつろう)記念館は安政三年(1856)の築です、当主の関家は松代藩の産物会所役人を勤め、佐久間象山は当家から江戸行きの路銀を借用しました。

伴月楼記念館の斜め向かいの庭園は
桑原本陣跡です、柳沢家が勤めました、稲荷山宿が上田藩領の為、松代藩は松代藩領の桑原を私宿とし本陣を置きました。

宿並を進むと左手に
天満宮があります、恵心僧都(えしんそうず)作の菅原道真像が祀られています。

この地を支配した
桑原氏の守護神です、境内には筆塚道祖神があります。
伴月楼記念館 桑原本陣跡 天満宮

 天満宮前を左折し、突当りを右折(白色矢印)します、この突当りに番所がありました、桑原宿西口です、洗馬方面からは天満宮前を右折します。

【桑原伝説】
桑原に
雷神が落ち、通りかかった領主桑原左近将監が捕らえました。すると雷神は「今後桑原には決して雷を落としません」と侘びたので放免しました。以来雷鳴が轟くと「クワバラ クワバラ」と唱えると雷が落ちないといわれました。

先の右手に寛政九年(1797)建立の
庚申塔があります。

佐野川和田橋で渡ると左手に昭和三十九年(1961)建立の道祖神が祀られています。
桑原宿西口 庚申塔 道祖神

 上り坂になり、再び国道403号線に合流(白色矢印)します、洗馬方面からはY字路を右に進みます、この分岐点には善光寺道標識と中原バス停があります。

国道を進むと左手に
長野銘醸があります、創業元禄二年(1689)銘酒姨捨正宗の蔵元です。

蔵元の
和田家は松代藩より名字帯刀を許された名家です、前庭の七曲の松は嘉永二年(1849)刊の豊田庸園(ようえん)の著で、図版は小田切春江による善光寺道名所図会に描かれている名木です。

長野銘醸先の
Y字路を右(白色矢印)に入ります、この分岐点には中原踏切下バス停があります。
①中原分岐点 長野銘醸 ②中原分岐点

 JR篠ノ井線を第5西街道踏切にて横断すると、スグ先の左手奥に開眼寺があります。

本堂は元禄四年(1691)の建立、境内のスギサワラは樹齢三百五十年で千曲市指定保存樹木です。

開眼寺前バス停先の
Y字路を左(白色矢印)に進みます、ここが猿ケ番場峠北口です、この分岐点には消火栓善光寺道案内標識「猿ケ番場峠 3.6km・のぞき 1.8km」があります

峠道を上ると右手に
一本杉があります。
第5西街道踏切 開眼寺 猿ケ番場峠北口 一本杉道標

 一本杉の根方には
道標「右山みち 左いせみち」があります。

 スグ先に中原無人墓地があります、文政十一年(1828)岩見國の住人弥七が善光寺詣での途中、この地で行き倒れになりました。

開眼寺住職と中原の人々が
弥七の亡骸をここに手厚く葬りました。

和田商会フェンス沿いで舗装路に合流(白色矢印)します、洗馬方面からはY字路を右に下ります、この分岐点には善光寺道標識があります。

右手に深い緑色の池水を湛えた
梨窪池があります。
無人墓地 Y字路分岐 梨窪池 廻國供養塔

 梨窪池の向かいには
廻国供養塔があります、寛政九年(1797)の建立で天下泰平国土安全と刻まれています。

 峠道をしばらく上るとくつ打ち場があります、くつうち場碑と解説があります。

ここで峠越えの
馬の草鞋を履き替えさせました、かつては岩上に文久二年(1862)の馬頭観音が安置されていましたが持ち去られてしまったといいます。

舗装路を上ると右手に
のぞき解説(白色□囲み)があります、ここには大井の茶屋があり、遠眼鏡(とおめがね)を据え付け、銭を取って旅人に善光寺本堂を覗かせました。

のぞき解説脇から
土道の上り坂に入ります、洗馬方面からは目の前の舗装路に合流し、下ります。
くつ打ち場 峠道 のぞき旧道口

 土道の上り坂に入ると明治廿八年(1895)と同三十二年(1899)の馬頭観世音が安置されています(白色□囲み)。

上り詰めの
舗装路を斜めに横断(白色矢印)します。

向いの
土道を上ります(白色矢印)。

火打石の一里塚があります、東塚が現存し、西塚は林道敷設の際に取り払われました、洗馬より十四里目です。

一里塚脇を進みます(白色矢印)。
馬頭観音 舗装路横断 旧道口 火打石の一里塚

 一里塚先で舗装路に合流(白色矢印)します。

上り坂を進むと
松崎茶屋跡があります、松代藩猿ケ番場峠が難所であるため、扶持として一千坪の土地を与え茶屋を設置させました、大正十年(1921)迄営まれ石垣井戸跡を残しています。

姥捨近道標識道標を過ぎると右手に
火打石茶屋跡があります、東屋旧御憩休本陣火打石碑があります。

最盛期には茶屋が九軒あり、中でも
名月屋寅蔵六文銭を掲げ茶屋本陣を勤めました。
一里塚口 松崎茶屋井戸跡 火打石茶屋跡 芭蕉句碑

 火打石茶屋は座敷内に
火打石を取り込み、旅人は小石で叩き火花に打ち興じました。

並びに
芭蕉句碑「をばすてはこれからゆくかかむこどり」があります。

 次いで右手に御即位記念林標石があります。

先の左手には緑色の池水を湛えた
猿飛池があります。

右にカーブした先に
馬塚跡標石があります、 麻績村八幡村との境界争いになった時、 水不足に悩む麻績村は一夜にして馬塚を築き、聖湖の領有を主張しました。

境界を示す
馬塚とは馬の背分かれに由来しています。

この
馬塚は林道敷設の際に取り壊されました。

先の右手、土道の
念仏石旧道の上り坂に入ります、この分岐点には善光寺道道標「↑念仏石/馬塚→」があります。
御即位記念林 猿飛池 馬塚跡 念仏石旧道北口

 急坂を上ると念仏石があります、南無阿弥陀佛の名号が刻まれていましたが磨滅しています、夜になると(しょう)の音と念仏を唱える読経が聞えたといいます。

念仏石旧道には
善光寺道道標が配置されています。

旧道は再び
舗装路に合流(灰色矢印)します、この分岐点には遊歩道(北国西街道)道標「←猿が馬場峠(聖湖)/念仏石・馬塚・中原→」があります。
念仏石 善光寺道道標 念仏石旧道南口 国道403線合流

 舗装路は
駐車場を抜け、ガードレールの切れ目から国道403号線に合流(白色矢印)します。

 スグ先に猿ケ馬場峠村境石碑案内の善光寺道地図標識があります、ここが猿ケ番場峠の北口です、土道の上り坂に踏み込みます。

土道の上り詰めが
猿ケ馬場峠(標高964m)の頂上です。

猿ケ馬場峠は
松本藩(のち幕府領)と松代藩の境で、今は東筑摩郡千曲市の境です。

峠頂上には明治二十八年(1895)の
村境石「従是北更級郡八幡村」があります。
猿ケ番場峠北口 領界石 開鑿記念碑 聖湖

 村境石の後方に
北国西街道開鑿(かいさく)記念碑があります。

碑の脇からは眼下に馬場の池、夜ケ池とも呼ばれた
聖湖が一望です。

 草道を下ると再び国道403号線に合流します、この分岐点には善光寺道入口道標と国道に標識「国道403 千曲市八幡」があります。

聖湖に沿って国道を進むと
村営レストラン聖レイクサイド館があります、時計は12:50を差しています、決定です!

窓からは
聖湖が一望です、ボート遊びを楽しむ家族がいっぱいです。

峠祝いの
生ビールが乾いた咽喉に沁み通ります!!
猿ケ番場峠南口 村営レストラン 峠祝い 信州ポーク

 食事は
信州ポークヒレカツ定食(1000円)です、夏野菜サラダが添えられボリュームたっぷりです!!!

信州ポークの肉質は柔らかく、自然の甘味があります、最高です!!!!

 サア、午後の部のスタートです。

村営レストラン前の
十字路を左折し、聖湖沿いに進みます。

突当りの
T字路を右折します、洗馬方面からは聖湖堤沿いに左折します。

一本目の
土道を左折(白色矢印)します、聖湖旧道北口です、洗馬方面からは突当りの車道を右折します。

土道を下り突当りの国道403号線を左折します、
聖湖旧道南口です。
聖湖十字路 聖湖T字路 聖湖旧道北口 聖湖旧道南口

 洗馬方面からは右手の
擁壁の間から土道の上り坂に踏み込みます。

 国道403号線を横断し、ガードレールの切れ目から下りの土道に入ります、お仙茶屋旧道北口です。

この分岐には
中北道標「「↑聖湖0.2km/↓立峠19.6km松本市四賀支所23.1km」と史跡お仙の茶屋跡入口解説があります、ここから約200m下るとお仙の茶屋跡があります。

土道を下ると
排水溝コンクリート小橋があり
、先が
Y字路になっています、右に進みます。

旧道の土道沿いにはこの先三十数基の
句碑が並んでいます。
お仙茶屋旧道北口 Y字路分岐 句碑群

 土道を下るとお仙の茶屋跡があります、この茶屋にはお仙という美しい娘がいて評判でした。

茶屋跡には
南無阿弥陀佛名号碑、馬頭観音像等があり、一杯清水とも呼ばれる弘法清水を残し、芭蕉句碑「さざれ蟹足這いのぼる清水哉」があります。

【お仙伝説】
茶屋の
お仙はある時峠で行き倒れになった若侍を助け、介抱しているうちにいつしか二人は恋仲になりました。

元気になった若侍は「必ず戻る」といい残して旅に出ましたが、木曽山中で山賊に殺され、
亡霊となってお仙にその事を告げて去りました。
お仙の茶屋跡 弘法清水 芭蕉句碑

 お仙はこの亡霊の後を追い、翌朝峠道でお仙の遺体が見つかりました。

番場節に「峠ナア 恋しや清水の茶屋で 店にゃお仙が待っている」と唄われています。

 お仙の茶屋跡から土道を下ると国道403号線に突き当たります、このお仙茶屋旧道の南口には弘法清水標識と善光寺街道標柱があります。

国道を横断し再び土道に入ります、この
馬水飲場旧道北口には弘法清水バス停中北道標「↑聖湖0.8km/↓立峠19.0km松本市四賀支所22.5km」があります。

土道をグングン下ると右手に
馬の水飲み場跡があります。
お仙茶屋旧道南口 馬水飲場旧道北口 馬の水飲み場跡 馬水飲場旧道南口

 
水舟があり、今も清水が湧いています。

土道を下ると
国道403号線に突き当たります。

 国道を横断し、再び土道を下ります、この石仏群旧道北口には中北道標「↑聖湖1.1km/↓立峠18.7km松本市四賀支所22.2km」があります。

土道を下ると段上に
如意輪観音像馬頭観音像無縫塔等があります。

先に進むと
逆Y字路があります、洗馬方面からは左(白色矢印)に進みます。

旧道は突当りの
国道403号線を右折します、洗馬方面からは左折し、砂利道に入ります。
石仏群旧道北口 石仏群 逆Y字路 石仏群旧道南口

 この分岐点には
中北道標「←聖湖11.2km/↓松本市四賀支所22.1km」があります。

 国道を進むと市野坂バス停があります。

次いで右手に
南無妙法蓮華経題目碑と明治二十六年(1893)建立の讀誦普門品(どくじゅふもんぼん)六百巻供養塔があります、この先を斜め左の下り坂に入ります(白色矢印)。

坂を下り、突当りの
T字路を右折(白色矢印)します、この分岐点には善光寺街道標識があります。

スグ先に
古原バス停があります、洗馬方面からは斜め左の上り坂に入ります。
題目碑 古原旧道北口 古原旧道南口 古原バス停

 先に進むと右手に市野川神社の木造鳥居があります、元慶四年(880)猿ケ馬場嶺に諏訪大社を勧請し、後この地に遷座されました。

鳥居脇(白色□囲み)に
高札場跡標柱があります、市野川間の宿で難所猿ケ馬場峠を控え旅籠が五軒ありました。

先に進むと左手に
市野川一里塚跡碑があります、洗馬より十三里目です。

横道を挟んで左斜面上に髭文字
南無妙法蓮華経題目碑があります。
市野川神社 高札場跡 市野川の一里塚跡 題目碑

 集乳所バス停先を斜め左の下り坂に入ります、ここが宮川旧道の北口です。

先の
変則T字路は左図の通りにトレースします、洗馬方面からも同様に突当りを右折し、宮川を渡り一本目を左折します。

宮川の渡詰めの右手に
市野川番所がありましたが麻績村に移転しました。

宮川旧道を進むと右手の擁壁上に
馬頭観音像馬頭観世音が並んで祀られています。
宮川旧道北口 変則T字路 宮川の旧道トレース 馬頭観音


 馬頭観音先を道なりにしばらく進むと①Y字路が現れます、左に進みます、右は国道に合流します、この分岐点には善光寺街道木製道標があります。

スグ先の
変則十字路を横断し、②Y字路を左に進みます、右は国道に合流します。

細道を進み、
変則十字路を横断し、③Y字路を左に進みます、右は国道に合流します。

いずれの分岐も国道に合流する
横道を横断し、国道下を沿うように進みます。

洗馬方面からも同様です。
①国道口の旧道 ②国道口の旧道 ③国道口の旧道

 4番目の国道口の善光寺街道木製道標を過ぎて、更に下ると人家前の異形のマツ前に大きな善光寺街道木製道標(白色□囲い)があります。

スグ先にに異形の
十字路があります、ここを右折し用水路に沿った土道を進みます。

洗馬方面からは舗装路の十字路を左折し、マツ前を進みます。

左手には田園風景が広がります。
①マツ前分岐 ②マツ前分岐 ③マツ前分岐 用水路沿いの旧道

 しばらく旧道を進むと十字路に出ます、ここが宮川旧道の南口です。

この分岐点には
善光寺街道道標(白色□囲み)があり、奥には文政十二年(1829)建立の西国秩父四国坂東巡拝供養塔(白色□囲み)があります。

分岐点の
十字路を横断し、道なりに進みます。

筑北中学校を過ぎると
T字路に突き当たります、ここを右折(白色矢印)します、洗馬方面からは左折になります。
宮川旧道南口 十字路横断 麻績分岐 道標

 この分岐点には
標柱「道標跡 右うゑ田道 左せんこう寺道」があります。

 PM3:16 麻績宿着 青柳宿まで4.6km

 右手一本目の海善寺参道口に麻績番所跡標柱があります、市野川から移転した松本藩口留番所で女人改めと物資の出入りを厳しく取り締まりました。

麻績宿に到着です!飛鳥時代に高麗から渡来した人々がこの地に住み着き、栽培した麻を績(つむぐ)様子が地名になったといいます。

麻績は戦国時代麻績服部氏の麻績城の城下町として開け、後に松本藩領となりました。

慶長十八年(1613)松本藩主
小笠原秀政によって善光寺西街道が開削され、翌年に伝馬役が定められると正式に麻績宿となりました。

嘉永年間(1848~54)の麻績宿の
宿内家数は二百四十軒、うち本陣一、問屋二、旅籠二十九軒、宿長は東西六町三十五間(約718m)で善光寺西街道最大の難所猿ケ馬場峠を控え大いに賑わいました。
麻績番所跡

 海善寺には麻績城主服部氏供養塔があります、この地は武田領でしたが武田氏が滅ぶと上杉の配下服部清正が麻績城主となりましたが、徳川に組したため上杉景勝に攻められ、磔になりました。

宿並を進み本町交差点を越すと左手の民家の玄関前に
馬つなぎ石があります。

先の左手に
高札場跡標柱があります。

スグの右手に
上問屋標柱があります、月の内前半は上問屋の岩渕家、後半は下問屋葦澤家が勤めました。
海善寺 麻績城主供養塔 旧大和屋

 先の右手のポスト脇に
麻績村道路元標があります。

並びに造り酒屋であった
大和屋があります。

 JR篠ノ井線聖高原駅口を越すと右手に中橋本陣跡遺構を残しています、代々臼井忠兵衛が勤め、一時松本藩麻績組の大庄屋を兼ねました。

向かいが
旅籠花屋跡です、門脇に更級紀行の芭蕉句碑「ひょろひょろとなお露けしやをみなへし」「身にしみて大根からし秋の風」があります。

先の右手に
麻績城跡入口標柱と麻績城址案内板があります、麻績城は山城で服部清信の築城にはじまります。

その後、
武田晴信(信玄)が侵攻し臣従した青柳城主青柳清長が麻績氏を名乗り麻績城主となり、武田氏滅亡後は服部清正が入城し、この地を支配しました。
中橋本陣跡 芭蕉句碑 麻績城跡入口

 しかし
上杉景勝の攻めにより落城し、廃城となりました。

 先の右手に瀬戸屋本陣跡遺構があります、宿並に面しうす井の庵看板を掲げています、瀬戸屋は大旅籠で代々臼井孫右衛門を世襲し、幕末には本陣を勤めました。

並びが
法善寺の参道口で石仏石塔があります、武田晴信(信玄)は川中島合戦の折、戦勝を祈願し寺領を寄進しました。

宿並が左に曲がると右手に
麻績宿碑があります、麻績宿の南口です。

先に進み、斜め左の下り坂に入ります、
一口坂です。
瀬戸屋本陣跡 法善寺参道口 麻績宿碑 一口坂北口

 この分岐点には
中北道標「←法善寺0.4km聖湖6.3km/↓立峠13.5km松本市四賀支所17.0km」があります。

 一口坂に入ると右手に明治二十七年(1894)建立の冠着宮(かむりきぐう)遥拝所碑があります、傍らには馬頭観音が多数あります。

ここからは
姥捨山が一望です、正式名は冠着山(かむりきやま)といい、山頂に冠着神社が鎮座しています、月の名所で知られます。

【姥捨山伝説
口減らしの為、老婆を背負って山道を登ると、道すがら小枝を折っている、問うと「お前が帰るときに迷わないように」と答えた、息子は母心に打たれ連れ戻った。

スグ先の左手に
ガッタリ解説とガッタリ標柱があります、木曽義仲愛馬が長旅の疲れからガッタリと膝を折ったといいます。

木曽義仲と愛馬に関するエピソードは多いいですね、
中山道には多く登場します。
姨捨山 ガッタリ

 一口坂を下ると麻績神社の参道口に安永九年(1780)建立の常夜燈があります。

芹沢川を渡ると十字路の右手に道祖神男女双体道祖神があります。

先に進むと右手の斜面に文久三年(1863)建立の
如意輪観音像や天明六年(1786)建立の庚申塔等があります。

次いで左手に宝永五年(1708)建立の
西国坂東秩父百番廻國巡拝塔があります。
麻績神社 道祖神 石仏石塔群 廻國巡拝塔

 先に進むと左手に駒が石があります、木曽義仲軍の勢いは強く、軍馬の通り過ぎた後、路上の石にはの跡が残ったといいます。

わずかに進むと右手に寛政五年(1793)造立の
馬頭観音像があり、スグ先の左手に標柱「道標跡 右山道 左善光寺道」があります。

一口坂を下り切ると
国道403号線に合流します、この分岐点には中北道標「↑聖湖 7.7km/↓松本市四賀支所 15.6km」があります。

並びに
一口坂標柱と解説板があります。
駒が石 馬頭観音 道標跡 一口坂南口

 麻績合戦に向う
木曽義仲の疲弊した愛馬がこの坂を登り、笹を一口食べると元気を取り戻したといいます。

 国道を進むと右手の段上に稲荷社が鎮座しています。

稲荷社の石段脇に
下井堀一里塚跡碑があります、一口坂の一里塚ともいいます、洗馬より十二里目です。

右手の橋場バス停の所に
郷倉跡標柱があります、飢饉に備え穀物を備蓄しました。並びに高札場跡標柱と協志学校跡(南麻績学校)標柱があります。

左手の野口方面標識の所に石祠の
市神筆塚如意輪観音像地蔵尊があります。
下井堀の一里塚跡 郷倉跡 高札場跡 市神

 下井堀高札場辺りで
が立ちました。

 先に進むと右手の擁壁の切れ目の電柱奥に道祖神が祀られています。

隣接する
滝沢宅脇から斜め右の下井堀旧道に入ります、旧道口の左手には句碑があります。

旧道に踏み込むと右手の斜面に
成田山碑があります。

次いで右手に
二十三夜塔嫁の泣石があります、嫁入り行列がここまで来ると嫁入りを嫌がる娘がこの石にしがみ付き泣き続け、ついに息絶えたといいます。

以来、嫁入り行列はここを通らず、
農道に迂回したといいます。
下井堀旧道北口 成田山碑 嫁の泣石

 嫁の泣石の先で国道403号線に一旦合流します、洗馬方面からは斜め左に入ります、この分岐点には下井堀バス停横断歩道路面標識があります。

スグ先で再び斜め右の
旧道に入ります、洗馬方面からは一旦国道に合流します。

半円を描いて進み、スグ先で再び
国道403号線に合流します、この分岐点には善光寺街道標柱(白色□囲み)があります。

洗馬方面からは斜め左の
旧道に入ります。
国道合流 旧道復帰口 下井堀旧道南口

 国道を進むと右手に道祖神男女双体道祖神、奥に馬頭観音地蔵尊大乗妙典六十六部供養塔等があります。

先にも
道祖神があります。

女渕砂原方面標識の所に左折を示した
中北道標(白色□囲み)がありますが直進(白色矢印)します。

一本目を左折(白色矢印)します、洗馬方面からは突当りの国道を右折になります、この分岐点には
標柱「道標跡 右ハさくは道 左ハいせ道」があります。
石仏石塔群 道祖神 直進路 いせ道旧道北口

 旧道を進み突当りを右折します、この分岐点には麻績村旧道解説板があります、洗馬方面からはY字路を左に進みます。

先でJR篠ノ井線を
第4西街道踏切にて横断します。

麻績川麻績大橋で渡り、突当りを右折(白色矢印)します、この分岐点には砂原地区標識があります。

女渕標識先の左手に
馬頭観音群があり、中に日支事変出征馬があります。
いせ道旧道南口 第4西街道踏切 麻績大橋分岐 馬頭観音群

 街道沿いには男女双体道祖神が祀られ、次いで八十八ケ所廻国供養塔があります。

赤松林を抜けると
長野自動車道麻績36ガードでくぐります。

スグ先の
小切通しを抜けます、大切通しと同時期に開削され、文化六年(1809)の改修で一尺(約30cm)切り下げられました。

周囲には掘削した岩石で造立した
観音像百体が勧請されています。
街道風景 道祖神 長野自動車道ガード 小切通し

 次いで大切通しを抜けます、天正八年(1580)青柳頼長により切り開かれました。

元禄十一年(1698)には「長さ十三間五尺(約25.2m)、横八尺五寸(約2.6m)、高一丈(約3m)」、その後享保元年(1716)、明和六年(1769)、文化六年(1809)と三回にわたって切り下げが行われました。

岩上方には
普請記録馬頭観音が刻まれ、周辺には掘削した岩石で造立した百体観音が安置されています。

善光寺道名所図会には「是れ依て旅人并(とも)に牛馬の往来聊(いささか)も煩はしき事なく野を越え山を越して麻績宿に至る」と記されています。

大切通し小切通しは共に善光寺街道随一の名所でした。
大切通し北側 大切通し南側

 PM4:12 青柳宿着 西条大橋まで2.7km

 旧屋号越後屋前を右折します、青柳宿に到着です!

青柳は戦国時代、青柳氏の城下町として開け、青柳宿は二代目松本藩主石川康長によって整備されました。

青柳宿は三方を山で囲まれた坂の宿場で建物は石垣上に建てられ、宿長は五町二十八間(約596m)で宿内家数は八十九軒でした。

宿並の家屋には
旧屋号札が掲げられています。

宿の北東に慶応元年(1865)京伏見稲荷より勧請した
里坊稲荷神社が鎮座しています。

青柳に
火事がないのはお稲荷さんのお使いのが雪の深い日でも昼夜三回見回りするためといわれ、この狐に危害を与えないよう、今でもを飼わないといいます。
越後屋前分岐 旧屋号札

 宿並を進むと左手に共同井戸であったかじまやの井戸があります。

突当りの
角屋前を右折します。

わずかに進むと左手に
青柳本陣跡があります、堂々とした遺構を残しています、領主青柳氏の子孫青柳八郎右衛門が勤め問屋を兼ねました。

宿並の左側には
石組用水路があります、青柳の屋敷は敷地が狭く、急斜面のため石垣の上に建てられた家が多く、その石垣の下を水路が通っているのは他の宿場には見られない際立った特徴
です。
かじまやの井戸 青柳宿本陣跡 石組用水路

 宿並の後方(東)三画形の山容は城山(標高905m)です、山頂に中世青柳氏累代の青柳城がありました、慶長年間(1596~615)に廃城となりました。

青柳城は難攻不落の要害で大小八つの
城郭と七条の空堀で構成され、今も石垣空堀跡を残しています。

宿並の右手に
市の神があります。

更に下ると左手の消火栓の奥に共同井戸であった
桜清水があります、ここには南無妙法蓮華経題目碑が安置されています。
城山 市の神 桜清水 石塔群

 並びの墓地前には文政三年(1820)建立の
南無阿弥陀佛名号碑二十三夜塔、文久元年(1861)建立の大日如来馬頭観世音等が並んでいます。

 先に進むと昭和町青柳町の境標識があります、この辺りが青柳宿の西口です。

突当りのY字路を左(白色矢印)に進みます、右(黄色矢印)はJR篠ノ井線
坂北駅です。

分岐点には
中北道標「←松本四賀支所11.2km/青柳0.5km聖湖12.1km→」があります。

筑北小学校グランドの向いに
腰の神が祀られています、白い布を巻き付けて祈願すると腰痛にご利益があるといいます。

先に進むと左手に
庚申塔道祖神があります。
坂北駅前分岐 腰の神 道祖神

 傍らには獅子の
狛犬があります。

 街道が2車線になると左手に明治三十三年(1900)築の旧坂北村役場が筑北村考古資料館になっています。

敷地の街道脇には
縣道西街道標石があります。

向いの駐車場奥に
一里塚跡標柱があります、青柳の一里塚跡です、洗馬より十一里目です。

わずかに進むと左手に 「
高く水き信州」に由来する山清(さんせい)酒造があります、麻績川の伏流水仕込みです。
筑北村考古資料館 縣道西街道 青柳一里塚跡 山清酒造

 創業寛文五年(1665))銘酒
山清の老舗蔵元です、残念ながら廃業しました。

 右手の真新しい蔵を越すと、左手の赤マツの根方に甲子供養塔と享和元年(1801)造立の馬頭観音像があります。

左手の中村地区標識を過ぎるとJR篠ノ井線を
第3西街道踏切にて横断します。

スグ先の
逆Y字路を左(白色矢印)に進みます、洗馬方面からはY字路を右に進みます、この分岐点には中北道標「←立峠6.6km/青柳1.6km聖湖13.2km→」(白色□囲い)があります。

先の右手に張り出した
マツがあります。
馬頭観音 第3西街道踏切 逆Y字路 街道風景

 わずかに進むと左手のマツの根方に麻績組合高等小学校坂北分教場跡標柱と擁壁下に昭和二年(1927)建立の縣道西街道標石があります。

次いで右手の火の見ヤグラの足元に
道祖神が祀られています。

先の刈谷沢標識がある十字路を左に入ると
刈谷沢神明宮鳥居があります、社殿は四阿屋(あずまや)山麓に鎮座しています。

鳥居前には安政五年(1858)建立の
常夜燈が対であります。
分教場跡 道祖神 刈谷沢神明宮鳥居 馬頭観音

 陽が傾いた中をモクモクと歩くと左手の横道口に
馬頭観世音があります。

 PM5:20 西条大橋着

西條大橋終点 西条温泉とくら 到着祝い

 日帰り入浴施設
田屋温泉柊(ひいらぎ)の湯のスグ先を右折し、東条川に架かる西條大橋の渡詰めが本日の終点です!

今宵の泊は
西条温泉とくら(素泊り6,800円 0263-66-2114)です、西条大橋からスグです。

隣には大きなショッピングセンターがあり、酒&肴の調達に好都合です。

信州は空気が澄んでいるせいか、かえって日差しが強烈です、ウェアーも体も塩漬け状態です。

温泉にユックリつかり、そして洗濯です。

洗物は乾燥機に入れ、その間一杯です。

陽が沈むと空気はひんやりとしてきます、快適だなー。





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