道中日記 7-172 善光寺西街道 ( 西条大橋 - 洗馬分去れ ) 40.6km

 昨夜は熟睡です、いや爆睡です、街道ウォークに不眠症なんて有り得ません。

本日の総距離は40.6kmです、途中
三つの峠を越すタフな街道ウォークになります。

早立ちです、朝食は前日に仕入れて置いた
カップきつねうどん太巻きです。

テレビのスイッチを入れ、
天気の確認をします、上々です。

うどんの汁を全部飲み干し、タップリ給水し、宿を後にします、空気はひんやりして快適です。

 平成21年08月17日 AM4:59 西条大橋出立 会田宿まで8.2km

 それでは西條大橋の渡詰めを出立しましょう!

わずかに進むと、右手に天保十年(1839)建立の
常夜燈石祠稲荷社があります。

左手の火の見ヤグラの先に
釣瓶井戸跡があります。

先に進むと右手に
茶屋本陣跡があります、遺構を残しています。

西条(にしじょう)は戦国時代この地を支配した青柳氏の支城である
西条城が築城されたことに始まります、徳川の世になると西条村は間の宿となり南に難所中の峠立峠を控え賑わいました。
西條大橋 石祠・常夜燈 茶屋本陣跡

 スグ先の左手に観音寺があります、堂々とした仁王門の手前に西条村高札場跡標柱があります。

観音寺の本尊は
馬頭観音です、馬の寺として篤く信仰されました。

観音寺には幸運を招く
絵馬があります、絵馬には千頭の馬の中に一頭だけ牛が描かれています、この牛を見つけた者は幸せになれるといいます、但し、この牛の在りかを他言するとご利益が無くなるといいます。

境内に
西条学校成章学校標柱があります。

村内を進むと左手に
本城村民俗資料館があります。
高札場跡 観音寺 本城村民俗資料館

 先の左手西条郵便局前に本城村役場跡碑があります、明治二十二年(1889)東条村、西条村、乱橋村、大沢新田村が合併し本城村が発足しました。

平成十七年(2005)更に本城村は坂井村、坂北村と合併し
筑北村となりました。

信号交差点を越えると左手に日本ウェルネス筑北高校があります、元は
本城小・中学校がありました。

スグ先で国道403号線に合流(白色矢印)します、洗馬方面からは
Y字路を右に進みます、分岐点にはGSシェルがあります。

わずかに進むと右手の斜面に
題目碑があります。
本城村役場跡 西条分岐 題目碑

 スグ先の右手に西條神社の参道階段口があります、社殿は山上に鎮座し、境内には地蔵堂があります。

左手の池を過ぎると、右手に
皿吊るし道祖神があります、崖をくり抜いた中に男女双体道祖神が祀られています。

皿吊るしはこの地の小字名です、武田晴信(信玄)の軍師山本勘助がこの道祖神に目の快癒を願掛けしたといいます。

スグ先の右手崖下に三体の馬頭観音が台石上に安置されています。
西條神社 皿吊るし道祖神 馬頭観音

 左は
三面六臂馬頭観音像、中央は安政二年(1855)建立の馬頭観世音、右は文化十二年(1815)造立の馬頭観音像です。

 この馬頭観音群の先を左折します、この分岐点の向い側には中北道標「←立峠4.2km/青柳4.0km聖湖15.6km↓」があります。

洗馬方面からは突当りの
国道403線を右折します。

きご沢に沿って進み、きご沢橋梁にてJR篠ノ井線をくぐります。

きご沢橋梁をくぐった先を右にヘアピン状にUターンします、洗馬方面からは左にUターンです。
きご沢旧道口 きご沢旧道 きご沢橋梁 JR篠ノ井線迂回路

 この分岐点には
中北道標「←立峠3.9km/青柳4.3km聖湖15.9km→」があります。

 先を今度は左にヘアピン状にUターンします、ここが中の峠口です、洗馬方面からは右にUターンです。

この分岐点には
中北道標「←立峠3.9km/青柳4.3km聖湖15.9km→」があります。

ガードレールの舗装路を上ると
消火栓があり、人家を過ぎると左手斜面に石祠が二社祀られています。

曲がりくねった舗装路を上ると右手に
野口炭鉱事務所跡標柱があります、年間七千トンの石炭を採掘し、西条駅に搬送しました。

次いで左手に
山伏塚標柱があります。
中の峠口 石祠 野口炭鉱跡 山伏塚

 左手の人家の手前に村指定史跡中の峠一里塚標柱があります、中の峠の一里塚跡です、洗馬より十里目です。

集落を過ぎると左手に
旧道があります、斜め左に入ります、洗馬方面からは突当りを右折します、この分岐点には中北道標「↑立峠2.9km/↓聖湖16.9km」と善光寺街道北国西街道碑があります。

スグの上り詰めの
舗装路を左折します、洗馬方面からは右折になります。 この分岐点には中北道標「←立峠2.9km/↓聖湖16.9km」があります。
一里塚跡 @中の峠旧道 A中の峠旧道 馬頭観音

 峠道が右に大きく曲がるところの左手に明治時代建立の
馬頭観世音があります。

 先の左手に水溜りがあり、馬の水のみ場標柱があります、ここには馬頭観世音が二基あります、内一基は明治十年(1877)の建立です。

人家のスグ先にマツが聳えています
中の峠に到着です!

中の峠には
題目碑物種太郎塚等があります、ものぐさ者であったが都で出世したといいます。

わずかに進み車庫先の
電柱の手前から急な土道を下ります(白色矢印)。
馬の水場 中の峠 物種太郎塚 中の峠下り口

 洗馬方面からは上り詰を右にUターンします。


 土道を回り込むと綿の実道祖神が二体祀られています、綿の実を握り合う大小の男女双体道祖神です、この地は綿栽培が盛んでした。

洗馬方面からは綿の実道祖神裏の土道を上ります。

綿の実道祖神から土道を下り、
擁壁ネットフェンスの切れ目から舗装路に合流します、この中の峠上り口には綿の実道祖神案内標識があります。

先に進み
別所川を渡ります。
綿の実道祖神 綿の実道祖神 中の峠上り口 別所川

 県道303号会田西条停線を横断します、この十字路には中北道標「←聖湖17.9km/立峠1.9km→」があります。

乱橋村に入ります、会田宿青柳宿の中間に位置する間の宿でした、乱橋は弥陀の橋が転訛したものです。

村内に入ってスグの右手に
旅籠大黒屋跡があります、正岡子規が宿泊しました。

先に進み 左手の門とマツを残す旧家は
旅籠古久屋跡です。

先の右手に
高札場跡標柱があります。
旧旅籠大黒屋 旧旅籠古久屋 乱橋高札場跡 頌徳碑

 スグの左手旧家の軒下には安政五年(1858)建立の
頌徳碑があります。

 先に進むとY字路になります、手前の左手には善光寺街道乱橋宿標柱があります。

正面の
Y字路を右(白色矢印)に進みます、洗馬方面からは直進になります。

この分岐点には
乱橋バス停(白色□囲み)、本城消防団の消防ホース干し場の足元に中北道標「↑立峠1.7km/↓聖湖18.1km」(白色□囲み)があります。

別所川を渡ると
乱橋上町に入ります、右手の上町公民館裏の薬師堂境内には十王堂跡標柱や百番観世音供養塔等があります。
乱橋宿 乱橋分岐 別所川 薬師堂

 緩やかな上り坂を進むとY字路になります、乱橋上町分岐です、篠ノ井方面からは右(白色矢印)に進み、洗馬方面からは直進になります。

この分岐点の右手の台石上には
男女双体道祖神庚申塔があり、左手には馬頭観世音、先に中北道標「↑立峠1.3km/↓聖湖18.5km」があります。

上り坂を進むと左手に
筆塚三面六臂馬頭観音像があります。

正面が
立峠の北口です。
乱橋上町分岐 道祖神 馬頭観音 筆塚

 スグ先の舗装路を横断して立峠の土道(白色矢印)に入ります、この分岐点には中北道標「↑立峠1.1km/↓聖湖18.7km」があります(白色□囲み)。

それでは難所
立峠に取り掛かりましょう!

土道をシッカリ踏みしめて上ると
舗装路に合流します、洗馬方面からは土道に入ります、 この分岐点には中北道標「↑立峠1.8km/聖湖18.8km↓」があります。

舗装路を進むと右手に
芭蕉の小径解説板があります、更科紀行の芭蕉姥捨山観月のため麻績に向いました。

並びに
案内標識「立峠石畳 立峠茶屋 唐鳥屋城跡」があります。
立峠北口 舗装路分岐 石畳分岐

ここから右手の
石畳道に入ります(白色矢印)。洗馬方面からは突当りの舗装路を左折します。

 石畳の峠道を上ると立峠石畳解説板があります。

将軍が変わるたびに
巡見使の通行があり、その都度村人が刈り出され峠の道普請が行われました。

村人は
石畳を敷設し、その苦役から解放されました。

峠道の所々に
立峠芭蕉の小径標識が配されています。

石畳から土道に変わると右手に
古峠(ふるとうげ)標識があります、古代の東山道ともいいます。

奥に踏み込むと
地蔵原標柱があり、陽刻の地蔵立像が安置されています。
石畳 地蔵尊 馬頭観音

 峠道の右手には苔むした
馬頭観音像が人馬を見守っています。

 ひと踏ん張りすると立峠に到着です!

立峠茶屋跡標柱があります、柱石等が残されています、立峠の頂上からは聖山方面の眺望が開け、四軒の茶屋がありました、中でもみたらしやが一番大きかったといいます。

唐鳥屋(からとや)城跡案内標識があります、寛正年中(1460〜66)に海野氏の一族藤沢帯刀が築城したが、天文年間(1532〜55)小笠原氏の攻めで落城しました。

下り口には
中北道標「←聖湖 19.8km/四賀村役場 3.5km→」があります。 
立峠頂上 立峠茶屋跡 唐鳥屋城跡 立峠下り口

 立峠の急な下り坂には距離標柱が設置されています。

峠までもう少し標柱から始まります。

峠まで三〇〇m標柱、次いで峠まで五〇〇m標柱を過ぎると、峠道にロープが張り廻らされています、これを頼りにして急坂を下ります。

立峠まで一〇〇〇m標柱が現れます、ここからわずかに下り、石段を更に下ると舗装路に突き当たります、ここが立峠の南口です、右折(白色矢印)します。

この分岐点には
中北道標「←四賀村役場2.9km/立峠0.6km↑」と立峠登り口標柱があります。
立峠南坂 距離標識 立峠南口

 立峠登り口の向いに善光寺街道中最大の文化十四年(1817)造立の三面六臂馬頭観音像(松本市指定重要文化財)があります、この馬頭観音像は立峠登り口に背を向けています。

傍らには
馬頭観世音が多数あります。

舗装路を下り、右にカーブすると左手に
自然探勝道経由虚空蔵山(こくぞうさん)登山口標柱があります、虚空蔵山は古来より霊験あらたかな信仰の山です、会田小次郎の山城があったところから会田富士とも呼ばれました。

次いで左手に
うつつの清水解説があります、弘法大師が掘り当てた虚空蔵山麓の名水です、ここは立峠の登り口にあたり茶屋がありました。
馬頭観音 虚空蔵山登山口 岩井堂一里塚跡

 ここは岩井堂の一里塚跡です、洗馬より九里目です。

松の根方には天保十年(1839)建立の
馬頭観世音があります。

下方に
水溜め石があります、大正時代にうつつの清水の源泉から竹筒で、この水溜め石まで引水し、更に竹筒で岩井堂観音堂まで導水していました。

舗装路をわずかに下ると左手に
岩井堂沢標柱があります、ここから草道の中の車の轍を辿ると砂防ダムの敷設で消滅した旧道の一部をトレースできます。

旧道は
砂防ダムの前を通過し、再び舗装路に合流(白色矢印)します。
馬頭観音 水溜め石 砂防ダム前旧道

 わずかに下ると右手に岩井堂観音登口標柱があります、岩井堂観音への北参道口です(黄色矢印)。

観音堂には
木造千手観音坐像が安置されています(松本市重要文化財)、善光寺街道筋の信濃三十三観音霊場二十番札所で善光寺詣での旅人で賑わいました。

境内には
百体観音石仏磨崖仏等が多数あります。

先に進むと再び舗装路に合流します、右手に
道標があります。
観音堂北口 岩井堂観音堂 磨崖仏 観音堂南口

 洗馬方面からは
道標「左善光寺近道 弘法大師霊場」先を斜め左に入ります、岩井堂観音への南参道口です。

 岩井堂観音への南参道口から3本目を斜め右の集落に入ります、岩井堂旧道です、この分岐点には消火栓ホース格納箱があります。

弧を描いて集落を抜けると街道に合流します、わずかに進むと右手に
男女双体道祖神が路傍に祀られています、洗馬方面からはスグ先斜め左の岩井堂旧道に入ります。

街道を下り左手の半鐘ヤグラの先を左折し、先を左に入ると
無量寺があります、開祖は弘法大師です。

本堂に
武田菱を掲げています、天正二年(1574)武田信玄の五男五郎盛信が父の菩提を弔うために再興し、真言宗から曹洞宗に改宗しました。
道祖神 半鐘ヤグラ 無量寺

 本堂、庫裏、鐘楼堂、宝物殿、土蔵、衆寮の六棟が国登録有形文化財です。


 街道に戻ると無量寺参道口に弘法堂があります。

並びの石塔の中に
弘法大師袈裟掛松跡碑や嘉永二年(1849)建立の芭蕉句碑「身丹志み亭(みにしみて)大根からし秋乃(の)風」(松本市指定重要文化財)等があります。

次いで右手に
中北道標「←四賀村役場1.5km/立峠2.0km→」があり、上方に御嶽総社鳥居があります。

街道をグングン下ると左手奥に文政十年(1827)築の茅葺き入母屋造りの
松澤家長屋門(松本市指定重要文化財)があります、天保二年(1849)から明治初期まで寺子屋を開き剣法を指南しました。
芭蕉句碑 御嶽総社鳥居 松澤家長屋門

 先に進むと左手の廣田寺参道口に念佛供養塔名号碑があります、廣田寺はこの地を支配した会田氏の菩提寺です、楼門本堂には真田家紋六文銭を掲げています。

本尊の
阿弥陀如来像(室町時代造立)と木造十八羅漢像、山門周辺の石造物群は松本市指定文化財です。

街道をわずかに下ると右手の真新しい覆屋内に嘉永二年(1849)造立の
馬頭観音像が安置されています、覆屋脇には馬頭観世音があります。

住宅の並びに真新しい
覆屋があります。
廣田寺口 馬頭観音 道祖神

 
男女双体道祖神と二基の道祖神が祀られています、会田宿北口の守護神です。

 AM8:55 会田宿着 刈谷原宿まで4.6km

 スグ先に安政二年(1855)建立の善光寺常夜燈(松本市指定重要文化財)が左右対であります、ここが会田宿の北口です会田宿に到着です!

会田宿は慶長十九年(1614)松本藩主
小笠原秀政によって整備され、宿並は立町新町中町本町の四町で構成され、東西に枡形を設けました。

文久三年(1863)の記録によると
会田宿宿内家数は百十七軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠十四軒、宿長は七町四十四間(約844m)でした。

会田宿は越後の糸魚川への
大町道の追分、南に刈谷原峠、北に立峠の難所を控え大いに賑わいました。

ここから突当りの
西枡形までは本町で坂道に宿並が構成されています。
善光寺常夜燈 会田の宿並

 本町からは電柱が取り払われすっきとした景観になっています、この宿並を進むと白壁に旧屋号札を掲げた若松屋柏屋梅屋竹屋鶴屋等が連なっています。

左手の火の見ヤグラの足元に
津島牛頭天王碑常夜燈があります。

この向かいが
上の問屋跡です、堀内家が勤め、江戸時代後期には本陣も兼ねました。

西枡形手前の右手に大正十一年建立の
御大典記念碑があります、下部には善光寺道と刻まれています。
若松屋 津島神社碑 上の問屋跡 御大典碑

 突当りのT字路を左折します、会田宿の西枡形です、ここから中町になります、右は越後の糸魚川に至る大町道です。

この分岐点の右手には上部が欠けた
道標「・・光寺道 京いせ道」、左手には丸型ポスト角屋前バス停があります。

宿並を進み
岩井堂川会田橋で渡ると左手の旧屋号みつわ前に會田宿本陣之跡碑があります、横内家が勤めました。

わずかに進むと左手に
大坂屋、隣に萬屋と軒を連ねています。
西枡形 道標 会田宿本陣跡 大坂屋

 会田宿交差点を右折します、会田宿東枡形です、中町から立町に入ります。

この分岐点には
道標「右いせ道 左・(ぜ)んかうし道」と中北道標「←立峠/四賀村役場→」があります。

十字路の正面は
新町です、左手にはこの地に自生し、枯れ死した樹齢三百五十年超の千本松切株と幹に彫刻された男女双体道祖神があります。

立町を進むと右手に
旧旅籠信濃屋があります、なまこ壁漆喰塗り込め造りです。
東枡形 道標 千本松 信濃屋

 会田宿は天保年間(1830〜43)〜安政年間(1855〜60)に七度の
大火に見舞われ、防火建築の漆喰塗り込め造りの建物が軒を連ねるようになりました。

 スグ先の右手に釣瓶井戸があります。

立町を進み
会田川会田大橋にて渡ります、信濃川水系の会田川の流末は犀川に落合います。

スグの左手に多数の
道祖神馬頭観音が並んでいます、これらの石仏石塔群は会田宿の南口にあって、悪霊の侵入を見張っています。

スグの
穴沢川を渡り先に進むと右手に松本市役所四賀支所があります、街道の中北道標には四賀村役場と表示されています。
共同井戸 会田川 石仏石塔群

 四賀支所の向いに善光寺街道會田宿解説板があります、
小県(ちいさがた)の
海野幸継(ゆきつぐ)は中信地方に進出し、次男の会田小次郎がこの地を支配しました。

会田小次郎は天正九年(1581)信濃深志城主小笠原貞慶によって滅ぼされました。

信号交差点先の
変則Y字路を右に進みます。

ショッピングセンターやなぎやを過ぎると、一気に長閑な街道風景になります。

アカマツ林を過ぎると左手に
水神や嘉永二年(1849)建立の大乗妙典日本廻國塔が祀られています。
會田宿解説板 水神 廻国供養塔

 わずかに進むと右手に黒姫龍神雲清龍神を祀る小社があります。

スグ先左手の段上に
浄雲寺があります、本尊の木造阿弥陀如来立像は江戸時代前半の造立で松本市重要文化財です。

楼門手前の参道には
南無阿弥陀佛名号碑、法華千部供養塔等があります。

保福寺川保福寺橋で渡ると、街道は県道302号矢室明科線に突き当たります、右折し、スグ先を左にUターンして板場旧道に入ります。
小社 浄雲寺 @板場分岐 A板場分岐

 この分岐点には
中北道標「←刈谷原峠4.8km 美鈴湖13.9km/四賀村役場1.1km↓」があります。

 旧道に入ると左手に善光寺道道標があります、表面が剥落し「・・光寺道」のみを残しています。

洗馬方面からはスグ先で合流した県道を右にUターンし、スグに左折(白色矢印)します。

県道より高い板場旧道を進むと倉庫脇に板場講中安全と刻まれた
石祠二十三夜塔善光寺三十三度供養塔馬頭観音像があります。

先に進むと左手の電柱脇に
板場一里塚跡標柱があります、洗馬より八里目です。

次いで左手の用水脇に
道祖神が祀られています。
善光寺道道標 二十三夜塔 板場一里塚跡 道祖神

 下りになった先で旧道は県道302号線に合流します、洗馬方面からは沢屋バス停の手前を斜め左に入ります。

長閑な
県道302号矢室明科線を進むと、右手に四賀ワイナリーがあります、四賀村産のブドウにこだわったワインの醸造元です。

鉄塔脇の油坂バス停の後方に
道祖神と元治元年(1864)建立の庚申塔があります。

反町農協前バス停向いの横道に踏み込むと鉄製の覆屋内に
庚申塔と嘉永年間(1848〜53)建立の道祖神が安置されています。
板場旧道南口 庚申塔・道祖神 庚申塔・道祖神

 次の右手横道に踏み込むと正面の擁壁上に庚申塔馬頭観世音道祖神が安置されています。

街道に戻るとスグの右手擁壁上に
馬頭観世音陽刻地蔵尊、天保三年(1832)造立の馬頭観音像が安置されています。

圃場整備竣工記念碑先を右折します、洗馬方面からは突当りの県道302号線を左折します。

この分岐点には
大門バス停中北道標「↑刈谷原峠2.7km/四賀村役場3.2km→」があります。

上り坂を進むと右手に
洞光寺があります、参道口には南無阿弥陀佛名号碑があります。
庚申塔 馬頭観音 大門分岐

 当寺には兜石があります、木曽義仲会田麻績の戦いに際し、この石に兜を置いて戦勝祈願し、平家方との初戦に勝利しました。

鷹巣根(刈谷原)城主
太田弥助(太田道灌の一族)の墓があります、天文二十一年(1552)武田晴信(信玄)の攻めにより落城し戦死しました。

洞光寺参道口先の右手に
神饌幣帛料供進神社神明社社標があります、社殿は山間に鎮座しています。

先に進むと段上に
横山不動尊があります。

横山不動尊前で
国道143線を横断します。
洞光寺参道口 横山不動尊 国道横断

 この横断点には
筆塚中北道標「←刈谷原峠2.2km/四賀村役場3.7km→」、公園前バス停があります。

 AM10:13 刈谷原宿着 岡田宿まで5.5km

 国道を横断すると左手に道祖神があります、刈谷原宿北口の守護神です、刈谷原宿に到着です!

刈谷原宿は「三町(約327m)程相対して巷をなす」といわれ小宿でした。

宿並は弘化二年(1845)の
大火で全焼、後に復興し、幕末には家数七十軒となり、栗の強飯(こわめし)が宿場名物でした。

左手の白壁とマツが聳える屋敷は
刈谷原宿脇本陣跡です、中澤家が勤め下問屋を兼ねました。

スグ先の右手には
刈谷原町玉成学校跡標柱があります。
道祖神 刈谷原の宿並 刈谷原宿脇本陣跡

 上り坂を進むと峠茶屋があります、通所介護施設宅老所です。

峠茶屋の先に
Y字路があります、左(白色矢印)に進みます、右(黄色矢印)は旧道痕跡です。

谷地に踏み込むと刈谷原峠からの
旧道痕跡に元禄二年(1689)造立の青面金剛像庚申塔(松本市指定重要文化財)、道祖神馬頭観世音菩薩があります。

ここが
刈谷原宿の南口でした、但しこの先は通行不能です。
峠茶屋 旧道痕跡口 刈谷原宿旧南口 刈谷原峠口

 現在の街道を進むと
T字路に突き当たります、右折(白色矢印)します、洗馬方面からは左折になります。

この分岐点には左から
刈谷原峠解説、中北道標「↓四賀村役場4.4km/刈谷原峠1.5km→」、昭和七年(1932)建立の馬頭観世音があります。

 一本目の横道(黄色矢印)が旧刈谷原宿南口に通じていました。

旧道口には
通り抜けできません標識があります、踏み込むと砂防ダムの設置で旧道は消滅しています。

現在の街道を進み、左の
横道に入ります、洗馬方面からは突当りを右折します、ここが刈谷原峠北口です、中北道標「↑刈谷原峠1.5km/←四賀村役場4.4km」があります。

先に
金網ゲートがあります。
旧道痕跡口 砂防ダム 刈谷原峠北口 金網ゲート

 害獣侵入防止用の金網ゲートです、手動で開閉できます。

眼下には旧道筋に設置された
砂防ダムが一望です。

 峠道は舗装路から土道に変わります。

左手に
刈谷原峠一里塚跡標柱があります、洗馬より七里目です。

ヘアピンカーブを2ケ所通過すると右手の台石上に嘉永六年(1853)造立の馬頭観音像が安置されています。

次の2ケ所の
ヘアピンカーブを通過すると斜面に三体の馬頭観音像が安置されています。

難所の
刈谷原峠を越える人馬の安全を見守っています。
峠道 一里塚跡 馬頭観音像 馬頭観音像三体

 馬頭観音像三体の並びにわずかな地蔵清水跡があり、地蔵立像陽刻地蔵立像の二体安置されています。

ここから急坂を登り切ると
刈谷原峠の頂上(標高920m)に到着です!

峠には
ベンチ刈谷原峠標石、刈谷原峠解説、中北道標「←四賀村役場5.9km/浅間温泉5.1km→」があります。

刈谷原峠刈谷原から登り二十町(約2.2km)、岡田へ下り三十町(約3.3km)といわれる急坂で仇坂と呼ばれました。
地蔵清水跡 地蔵清水 刈谷原峠 刈谷原峠頂上

 峠には三軒の茶屋がありました、石垣井戸跡を残しています。

峠を
浅間温泉方面に下ると右手に馬頭観音群があります。

峠道は急峻で過酷なため死んだ馬が多く、飼い主は馬の供養や無病息災を祈願して
馬頭観音を祀りました。

大きなヘアピンカーブを下ると右手に
橋跡があります、峠道を横切る川があり、橋が架けられていましたが、今は暗渠になっています。
茶屋跡 馬頭観音群 橋跡 馬頭観音

 傍らに慶応二年(1866)建立の
馬頭観世音が祀られています。

 わずかに下ると右手に商人石(あきんどいし)解説があります、商人がここで追剥に殺され、怨念が石に乗り移ったといわれる拳大の石の群れがあり、景気が良いと道の上に、悪いと道の下にあったといいます。

この辺りの急坂には
石畳が敷設されていましたが、昭和三十年代(1955〜64)に地下ケーブルを埋設する際に、破壊されました。

しばらく下ると右手に
念仏供養塔があります、寛政九年(1797)建立の南無阿弥陀佛名号碑です、往時は供養塔の向かいに茶屋が一軒ありました。

左手の
峠の池を過ぎると右手に石切場跡解説があります。
商人石 念仏供養塔 石切場跡

 二代目松本藩主
石川康長松本城太鼓門の石垣石をここから切り出しました。

巨石を運ぶ
人足が苦情を訴えると康長は自らその者の首を刎ねたといいます。

 害獣侵入防止金網ゲートを過ぎた先に馬飼峠追分があります、洗馬方面からはY字路を右に進みます、左は馬飼峠方面です。

この分岐点には
中北道標「↑刈谷原峠1.4km/←馬飼峠」があります。

追分先の左手に折損した文政十二年(1829)建立の
信濃百番供養塔(白色□囲み)の下部の供養塔があります。

先の左手に明和四年(1767)建立の
大乗妙典六十六部日本廻國供養塔があります。
馬飼峠追分 信濃百番供養塔 廻國供養塔 信濃百番供養塔

 左手民家脇の電柱の足元に先ほどの折損した文政十二年(1829)建立の信濃百番供養塔上部の信濃百があります。

左手の
じゅんさいを湛えたような門屋原の池の向いの斜面に頌徳碑馬頭観音、百八十八番供養塔大日如来等があります。

左手の田を見ながら進むと右手に大きな
道祖神が祀られています、 傍らには道標「右むら道 左松本道」、堂田遺跡解説「縄文、平安時代の複合遺跡」、問屋跡解説「岡田宿開設以前の問屋場跡で所家が勤め問屋原と呼ばれた」があります。
信濃百番供養塔 門屋原の池 石仏石塔群 道祖神

 長かった峠道も終了し、街道はフラットになり、国道254号線を地下道でくぐります。

スグの左手に
塩辛遺跡解説があります、かつてはこの辺を塩辛といい、縄文時代の竪穴住居跡、古墳時代の掘立柱建物跡、遺物等が多数出土しています。

右手の豪壮な黒門を過ぎると右手に明治、大正、昭和の
馬頭観音一里塚中と刻まれた道祖神等があります。

スグ先の右手に
善光寺街道岡田伊深一里塚跡標柱があります。
地下横断道 塩辛遺跡 石仏石塔群 伊深一里塚跡

 塚木は
エノキマツでした、洗馬より六里目です。

 長閑な街道をしばらく歩くと右手の公園が蓮台場跡です、享保六年(12721)造立の聖徳地蔵尊石仏石塔群があります。

ここは旅人の無縁墓地で
棺桶を乗せる台が蓮の花の形をしていたところから蓮台(れんだい)と呼ばれました。

突当りの
枡形道標番所跡があります。

分去れ道標「右江戸海道 左せんく王うし道」があります、保福寺道は保福寺峠を越えて上田に至る、松本藩主の参勤路で江戸街道とも呼ばれました。
蓮台場 枡形 道標と番所解説 分去れ道標

 この枡形には
岡田口留番所がありました、享保十一年(1726)岡田宿は幕府領松本藩領の境となり、口留番所が設置されました。

 PM12:04 岡田宿着 松本宿まで5.4km

 枡形を抜けると岡田宿に到着です!

卯建をあげた旧家の並びに
江戸街道 善光寺街道 分岐点岡田宿跡標柱と岡田宿解説があります。

岡田宿は刈谷原宿と松本宿間が長く、難所刈谷原峠を控えているため、松本藩が近在の農家を集めて新設した宿場で、宿長は南北三町四十間(約400m)でした。

岡田宿は堅苦しい城下町の
松本宿を避けた参勤の諸大名や善光寺詣での旅人で賑わいました。

宿並を進むと右手に
岡田宿問屋兼本陣跡標柱があります、所七左衛門が勤め問屋を兼ねました。
卯建をあげた旧家 岡田宿跡 本陣問屋跡

 当家には
看板「御本陣問屋七左衛門上田道荷物御廻処」を残しています。

 本陣跡標柱の並びに道祖神があります、この地では子供の無病息災を願う三九郎と呼ばれる道祖神祭りが行われます。

仲町バス停の先に
地蔵堂があります、享保六年(1721)善光寺詣でや旅人の道中安全を祈願して建立されました、この辺りが岡田宿の南口南木戸がありました。

地蔵堂の先を左に入ると
稲荷大明神白山大権現を祀る合祀社があります。

街道を先に進むと右手の岡田出張所バス停の奥に
岡田村役場趾碑があります。
道祖神 地蔵堂 合祀社 岡田村役場跡

 岡田村は昭和二十九年(1954)昭和の大合併で松本市に編入されました。

 スグの右手に岡田神社旧参道口があります、左右に大ケヤキ(松本市天然記念物)が聳え、享和三年(1803)建立の常夜燈式内岡田神社社標鳥居があります、岡田の地は旱魃が多いため五穀の神である保食神(うけもちのかみ)を祀りました。

先に進むと左手の岡田小学校の向いに
筆塚があります、松本藩士大澤政一の長男政恒は明治二十二年(1889)岡田学校に赴任し、後に校長となり大正五年(1916)に退職しました。

なまこ壁の長屋門先の十字路の左が
浅間温泉道の追分です、天慶二年(939)土豪の犬飼半左衛門が発見し、犬飼の湯とも呼ばれました。
岡田神社 筆塚 なまこ壁長屋門

 浅間温泉は「尋常(よのつね)と異なり、臭気なく清潔にして飯を炊き、茶を煮るに風味美しく」といわれ、慶長の頃(1596〜615)松本城主別邸が建てられ、松本の奥座敷と呼ばれました。

 右手の田近石材店の向いに男女双体道祖神があります。

レストハウスアンジェリカの前で
国道143号西街道線を斜めに横断します。

先に進むと
逆Y字路があります、洗馬方面からはY字路を左に進みます。

この分岐点のリサイクルショップRB前には
庚申塔があります。
道祖神 逆Y字路 庚申塔 公園

 この逆Y字路の左に
信州大学教育学部附属幼稚園があります、次いで右手の公園の向いに信州大学教育学部附属松本小学校、そして信州大学教育学部附属松本中学校と連なっています。

 PM1:54 松本宿着 村井宿まで6.7km

 萩町交差点を越すと右手に安原の一里塚跡解説があります、洗馬より五里目です、ここは松本城下の北口木戸番所があり、一里塚は木戸の左右にありました、松本宿に到着です!

松本宿松本城の城下町として発展し、宿並には商家が軒を連ね、千国街道野麦街道の要衝を控え大いに賑わいました。

宿並を進み萩町バス停先を左に踏み込むと右手に
安原十王堂跡があります、松本城を整備した石川数正は城下町の南、東、北口に十王堂を配し、町民の安全と町内の鎮護を祈願しました、この十王堂は明治初年の廃仏棄釈で廃寺になりました。

向かいが
天白神社です、石川数正が岡崎から勧請し、松本城の丑虎(東北)の鬼門鎮護社としました。
安原の一里塚跡 十王堂跡 天白神社

 松本北深志郵便局先の十字路を左折(白色矢印)します、洗馬方面からは右折になります、この分岐点には町人町であった安原町標石(白色□囲い)があります。 

一本目を左に踏み込むと廃仏毀釈で廃寺となった摂取院跡に
世育て稲荷大明神が祀られています。

宿並に戻り、先の
十字路を右折(白色矢印)します、洗馬方面からは左折になります、この分岐点にはセブンイレブンがあります。
安原分岐 世育て稲荷大明神 宝栄寺前分岐 宝栄寺

 この十字路を直進すると
宝栄寺があります、松本城鬼門の鎮護寺でした。

 右手の和泉町標石、次いで左手の観音小路標石を横目で見ながら進みます。

松本城東郵便局先の上馬出しバス停脇に
東町標石があります、東町には木賃宿旅籠が軒を連ねていました。

なまこ壁の
万年屋は天保三年(1832)創業の信州味噌の老舗蔵元です、当家には捨堀の土塁跡を残しています、石川数正の子康長は幕府の許しを得ずに松本城の土塁を築き改易の一因となりました。

城東二丁目交差点を越すと左手に
作左衛門小路標石があり、右手に二ツ井戸小路標石があります、この小路には冷水井戸が二ケ所ありました。
東町標石 捨堀の土塁跡 ヒカリヤ

 松本大手郵便局の先に
ヒカリヤがあります、明治二十年(1887)築で国登録有形文化財です。

 先で女鳥羽川(めとばがわ)を大橋にて渡ります(白色矢印)、女鳥羽川は三才山峠に源を発し、流末は田川に落合います、江戸時代の初期には女堂田川と呼ばれました。

大橋手前を右(黄色矢印)に入ると右手に
鎮神社が鎮座しています、松本城主石川数正が女鳥羽川の氾濫鎮護神としました。

宿並に戻り大橋を渡り、二本目を右折します、この分岐点には大きな
中町標石があります。
大橋 鎮神社 中町通り 旧商家

 洗馬方面からは左折になります。

中町通りからは電柱が撤去され、すっきりした街並になまこ壁商家造りの旧家が軒を連ねています。

 峠を三つも越し、例によって空腹の権化です、中町通りの蔵西庵に突入です。

峠祝いの
生ビールが咽喉に溶け込んで行きます、もう一杯・・・我慢しましょう、食事は野菜テンプラ信州そばのセットです。

・・・・うぅーんアンダーパワー、
松本ラーメンにすればよかった。

中町通りの突当りを左折(白色矢印)します、洗馬方面からは右折になります、この分岐点には
道標「右せん光寺道 左大町街道」があります。
蔵西庵 峠祝い 野菜天せいろ 中町通り西口

 この突当りを右に進むと松本城です、別名深志城(ふかしじょう)とも烏城(からすじょう)とも呼ばれ、天守は国宝、城跡は国史跡に指定されています。

戦国時代の永正年間(1504〜21)信濃守護
小笠原氏深志城を築城したのが始まりです、天文十九年(1550)甲斐の武田晴信(信玄)の攻めにより深志城は落城し、小笠原長時は追放されました。

天正十八年(1590)
豊臣秀吉の命により、石川数正が入城しました。

石川数正は
徳川家康の重臣で、家康の嫡男信康の後見人でしたが、天正七年(1579)織田信長の命により信康が自刃すると、数正は家康に不信を抱き、天正十三年(1585)家康を裏切り、一族を連れて大坂へ出奔し豊臣秀吉に臣従しました。

松本城に入城した数正は
天守を始め城郭城下町の整備を行いました。
大町街道道標 松本城

 初代松本藩主となった
数正は文禄二年(1593)名護屋在陣中病没しました、享年六十一歳でした。

子の
康長は父の意志を継ぎ城普請を更に進めましたが、徳川の世になると数正に煮え湯を飲まされた家康は康長を改易し豊後佐伯に配流しました、寛永十九年(1642)康長は配所で失意のうちに死去しました、享年八十九歳でした。

 宿並に戻る際、女鳥羽川の手前を左に踏み込むと左手に四柱(よはしら)神社が鎮座しています、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、天照大神(あまてらすおおかみ)の四神を祀っています。

「願いごと結びの神」として篤く信仰されています。

境内に明治二十年(1887)建立の
芭蕉句碑「何の木の花ともしらすにほひかな」があります、貞享五年(1688)伊勢神宮外宮参拝の折の句です。

宿並みに戻ると、中央二丁目交差点手前の右手に
牛つなぎ石があります、 この地を支配した武田晴信(信玄)は今川北条方に太平洋岸の南塩の道筋を封じられ困窮しました、 これを知った上杉謙信は敵ではあるが日本海岸の北塩を武田晴信(信玄)に送りました。
四柱神社 牛つなぎ石

 この塩を運んだ牛をつないだ石です、これが「敵に塩を送る」の語源になりました。


 交差点を渡ると道標「左野麦街道 右せん光寺道」があります、能登の寒鰤(かんぶり)が野麦峠を越えて松本に入りました。

深志二丁目交差点手前左手の松本郵便局前に
本町標石があります、本町には各種の問屋が軒を連ね、商工の中心でした。

深志二丁目交差点の次の信号交差点を渡った右手の松本信用金庫前に
松本郵便局発祥の地碑飛脚ブロンズ像書状集箱があります、明治五年(1872)松本郵便役所倉科七郎宅に設けられ、初代の松本郵便役所取扱人(局長)となりました。

ここが
松本宿本陣跡です、倉科家本陣問屋勤め本町の大名主を兼ね、町役人筆頭として城下町を差配しました、屋敷の間口は二十七間(約49m)あり、町人地随一を誇る大構でした。
野麦街道道標 松本宿本陣跡 旧袖留橋

 わずかに進むと左手の松本ツーリストホテル脇に
緑橋があります、古くは袖留橋と呼ばれました。

元和元年(1615)松本城主
小笠原秀政が大坂夏の陣に伴う次男忠政(十八歳)の袖に乳母がすがり付いて離さなかったといいます。

ここには松本藩の
高札場がありました。

 スグ先右手の相野田医院前に博労町標石があります、博労町は松本城下の南口に位置し、本町とは袖留橋を境とし、古くは貢馬を集め置いたところで馬町馬喰町と呼ばれましたが元禄六年(1693)博労町に改められました。

境橋交差点手前の左手小路に踏み込むと
十王堂跡があります、城下町の南、東、北口に十王堂が配されました、跡地には北向地蔵尊等があります。

薄川(すすきがわ)を栄橋で渡ります、境橋とも呼ばれ、松本宿の南口で木戸番所がありました。

薄川美ケ原に源を発し、流末は田川に落合います、松本城の要害河川でした。
博労町 十王堂跡 栄橋

 栄橋を渡ると左手に昭和九年(1934)建立の道祖神が祀られています。

南新町バス停先を左に入ると
逢新(おうしん)神社が鎮座しています、参道口脇に赤地蔵を安置する祠、六地蔵馬頭観音等があり、境内社に秋葉神社があります。

街道に戻り
城見橋を渡ります、北に松本城が望めました、出川(いでがわ)刑場の手前にある所からガックリ橋とも呼ばれました。

スグ先の右手から田川の土手道を進むと、左手に
貞享義民刑場之址碑名号碑題目碑があります。
逢新神社 城見橋 出川刑場跡

 ここが
出川刑場跡です、貞享(じょうきょう)騒動の首謀者等がここで処刑されました。

貞享三年(1686)は不作の年でしたが松本藩は年貢の引き上げを行いました。

すると中萱(なかがや)村の元庄屋
多田加助等一万人の百姓等が松本城下に押し寄せ、年貢減免等を求める五か条の訴状を提出し、藩主水野忠直は参勤のため不在でしたが、事態を重く見た城代家老は年貢減免を約しました。

参勤から戻った藩主は年貢減免を反故にし、騒動の首謀者等を捕縛し
加助等八名を、二十名を斬首に処しました。

 田川豊田橋にて渡ります、田川は塩尻峠に源を発し、流末は奈良井川に落合います。

先の柳橋南交差点脇に
一里塚標柱があります、出川の一里塚跡です、信楽の一里塚ともいいます、洗馬より四里目です。

並びに寛政十二年(1800)建立の
南無阿弥陀佛名号碑、天保十三年(1842)建立の念仏供養塔があります。

松本出川郵便局の並びに
中田家住宅があります、当家は出川組名主を勤めました、は長野県名勝、邸宅は松本市重要文化財で破風飾りには鶴亀の彫刻が施されています。
豊田橋 出川の一里塚跡 中田家住宅

 庭内に明治天皇信楽御小休所碑があります、北国巡幸の際に当家で休息しました。

先の左手に
信楽村役場跡標柱があります、近隣七ケ村が合併し信楽村が発足し、明治五年から十四年(1872〜8181)迄設置されました。

出川町交差点先の右手
出川公民館前に出川町高札場跡標柱があります、標柱には盛業学校跡地が併記されています。

出川公民館の奥に
大慈堂があります、堂内には厄除十一面観世音菩薩立像大日如来坐像地蔵菩薩像が安置されています。
明治天皇碑 信楽村役場跡 高札場跡 観音堂

 参道口には
六地蔵が祀られ、 境内には徳本南無阿弥陀佛名号碑、三界萬霊塔、元禄十五年(1702)建立の大悲観世音菩薩碑、明和六年(1769)建立の観音講供養塔等があります。

 スグ先の右手に寺子屋跡標柱があります。

並柳口バス停先の左手に
石仏石塔群があります、青面金剛像庚申塔馬頭観世音道祖神、天保十五年(1844)建立の南無妙法蓮華経題目碑等が並んでいます。

わずかに進むと右手に
出川差矢場(さしやば)跡地標柱があります、西へ62m入った所に通矢(とうしや)の弓道場がありました。

並びに二年味噌の
丸正醸造があります、創業明治二十八年(1895)味噌醤油醸造の老舗です。
寺子屋跡 石仏石塔群 出川差矢場跡 丸正醸造

 先の左手に多賀神社が鎮座しています、滋賀県犬上郡多賀町の多賀大社の分霊を祀っています、拝殿の扁額には多賀大明神諏訪大明神と併記されています。

南出川バス停先に
逆Y字路があります、洗馬方面からは右に進みます、この分岐点には草間ガラス総合センターがあります。

寿橋西交差点からは田川の土手下道を進みます、先に進むと左手の土手上に
道祖神蚕玉神社碑が祀られています、共に新茶屋中と刻まれています。

平田交差点は洗馬方面からはY字路になっています、右に進みます、左手のリユースショップ脇に筆塚があります。
多賀神社 道祖神 平田分岐

 先に進み平田南交差点手前の左手長野日野自動車脇のネットフェンス前に道祖神があります。

右手の松本南郵便局先左手のマツダオートザムの隅に
庚申塔道祖神があります。

JR篠ノ井線平田駅口を過ぎ、村井下町北交差点を越した左手のファミリーマート沿いに昭和二十四年(1949)建立の
一里塚跡碑があります、村井の一里塚跡で洗馬から三里目です。

塚木は
マツでしたが明治四十年(1987)頃に一里塚は取り壊されました。

並びに文化十年(1813)建立の
芭蕉句碑「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」があります、貞享元年(1684)芭蕉が東海道箱根西坂富士見平から時雨れて富士が望めなかったことを揶揄し、皮肉った句です。
村井の一里塚跡

 PM3:36 村井宿着 郷原宿まで5.2km

 村井下町交差点を斜め右に入ると、村井宿に到着です!

村井宿は慶長十七年(1612)に善光寺西街道の宿駅となり、本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠二十軒で、宿長は五町九間(約562m)でした。

宿並は明治二十年(1887)と同二十七年(1894)に大火に見舞われ灰塵に帰しました。

左手の
中嶋先生筆塚を過ぎるとY字路になります、宿並は左に進みます。

このY字路を右に進むと右手の墓地脇に
ブリ(鰤)場跡標柱があります、明治の中頃までここでブリ市が立ちました。
村井下町分岐 筆塚 ブリ(鰤)場跡

 富山湾で獲れた
ブリは一旦塩漬けにされ飛騨の高山に運び、更に塩漬けにされ、歩荷(ぽっか)に背負われて野麦峠を越え、松本方面に出回りました。

 宿並に戻ってY字路を左に進むと右手に冠木門があります、村井宿本陣跡です、中村家が勤め下問屋を兼ねました、問屋業務は脇本陣と半月交代で勤めました。

冠木門には
笹の誉看板を掲げています、今は大和屋酒店を営み、銘酒笹の誉の蔵元です。

向かいには
明治天皇村井御小休所碑があります、明治十三年(1880)北国巡幸の際、松本を発ち中村家で休息し木曽へと向いました。

中村家脇の横道に踏み込むと正面に
常照寺があります、天正年間(1573〜92)の開山で本尊は阿弥陀如来です、境内には六地蔵賽の河原地蔵子育地蔵等があります。
村井宿本陣跡 明治天皇碑 常照寺

 次いで左手が村井宿脇本陣跡です、山村家が勤め上問屋を兼ねました。

当家の裏手には端正な彫刻が施された文政二年(1819)建立の屋敷神の
稲荷社があります(松本市重要文化財)。

宿並を進むと右手の神明宮の手前に
村井番所跡標柱があります、村井は松本藩天領の境にあり口留番所が設置されました、天領が松本藩預かりになると番所は中山道の本山宿に移設されました。

神明宮伊勢両宮を祀っています、村井の産土神です。
村井宿脇本陣跡 山村家稲荷社 番所跡 神明宮

 境内には村井番所跡から移設された高札場があります。

スグ先の左手に
村井学校跡解説があります、枝垂れ桜を残しています、明治五年(1872)筑摩県第一小学校が開校しました。

先に進むと左手の村井町商工親和会と表示された街路灯の足元に 「牛馬の霊に捧げる」と刻まれた
牛馬観世音があります。

スグ先で
下石田交差点になります。
村井宿高札場 村井学校跡 牛馬観音 下石田分岐

 
国道19号線に合流します、洗馬方面からは下石田交差点を斜め左に入ります。

 長野自動車道高架をくぐり、吉田北交差点を吉田横断地下道でくぐります。

吉田南交差点を横断し、ホテルルートイン塩尻北インター先を斜め右に入ります、
広丘吉田旧道の北口です。

この分岐点には
吉祥看板があります。

セブンイレブンの裏を通り、セブンイレブンの駐車場を横切り、えびの子大橋交差点から分岐した車道に合流します。

第1西街道踏切を横断します。
吉田横断地下道 @広丘旧道北口 A広丘吉田旧道 B広丘旧道南口

 洗馬方面からはJR篠ノ井線を第1西街道踏切にて横断し、セブンイレブン駐車場を横切り、セブンイレブンの店舗裏から旧道に復帰します。

先に進むと右手に
広丘小学校があります、校庭に短歌と生きる碑やトチイチョウの大樹があります。

わずかに進むと右手の塩羊かん雲居鶴の駐車場脇に
廣丘村道路元標があります。

並びに
塩尻短歌館案内標識があります、右に入ると旧家を利用した短歌館があります、島木赤彦太田水穂若山牧水等の資料を展示公開しています、塩尻は多くの歌人が生まれ集ったとろから短歌の里と呼ばれています。
第1西街道踏切 廣丘村道路元標 塩尻短歌館

 街道に戻ると右手に赤彦下宿跡牛屋があります、 広丘小学校の校長を勤めた際、この牛屋に下宿しました。

島木赤彦
は明治九年(1876)旧諏訪藩士の四男として生まれ、伊藤左千夫に師事したアララギ派の歌人です。

次いで左手に
明治天皇広丘御小休所碑があります、本棟造り冠木門の平林家にて休息しました。

広丘郵便局を過ぎると左手奥に
山ノ神社が鎮座しています。

先の信号交差点の左手に明治二年(1869)建立の
道標「左東京 いな すわ道」「右京 いせ きそ道」があります、斜め左は伊奈諏訪道塩尻に通じています。
牛屋跡 明治天皇碑 東京道分去れ

 この交差点を右に入ると津島社山神社が鎮座しています、原新田の鎮守です。

参道口脇に道祖神、男女双体道祖神が祀られ、境内には
青面金剛像庚申塔大日如来養蠶(ようさん)守護神秋葉神社等があります。

並びの児童公園内に
一里塚跡碑があります、原新田の一里塚跡です、塚は跡碑前の筑摩野精器南工場棟の敷地内にありました、洗馬より二里目です。

街道を進むと
本棟造りの旧家が多数あります、信州の松本平、木曽谷、伊奈谷にかけて分布する威風堂々とした大型住宅形式です。
津島社山神社 本棟造り雀返し 堅石三社

 勾配の緩やかな
切妻屋根の上に雀返し(雀踊り)と呼ばれる棟飾りを掲げた建築様式です。

堅石(かたいし)上町バス停のスグ先を右に踏み込むと
堅石三社が鎮座しています、社標に神饌幣帛(しんせんへいはく)供進神社と刻まれています、明治から終戦に至るまで勅令に基づき県知事から歳費等が供された神社です。

境内には阿吽の
狛犬道祖神石祠、天保十五年(1844)造立の男女双体帯代(おびしろ)道祖神があります。

 PM4:50 郷原宿着 洗馬追分まで5.0km

 堅石を過ぎると街道の左手に郷福寺(きょうふくじ)があります、ここが郷原(ごうばら)宿の北口です、郷原宿に到着です!

郷原宿は慶長十九年(1614)松本藩主小笠原秀政が奈良井川の東岸にあった郷原村を移して宿駅としました。

宿長は
郷福寺から郷原宿標柱迄の三町三十二間(約385m)で、宿並には奈良井川から引水した用水が流れていました。

文政四年(1821)と安政五年(1858)の
大火で宿並は灰燼に帰し、以降に建てられた本棟造りの家屋を残しています。

郷福寺の
本堂は安政五年(1858)の大火後の再建で本尊は大日如来です、山門前には薬師瑠璃光如来像を安置する薬師堂があります。
郷福寺 郷福寺薬師堂

 参道の左手には高札場が復元されています。

右手には
古井戸明治天皇御膳水碑があります、明治十三年(1880)六月二十五日明治天皇巡幸の際、本堂に玉座を設け休息所としました、現在も当時のままに保存されています。

この巡幸には宮内大書記官
山岡鉄太郎(鉄舟)、太政大臣三条実美、参議伊藤博文外四百名を越える人員が随行しました。

本堂の右手には安永四年(1775)建立の
芭蕉句碑「野を横に馬ひきむ計(け)よ郭公(ほとゝぎす)」があります、奥の細道で詠まれた句です。
復元高札場 明治天皇御膳水碑 芭蕉句碑

 宿並を進むと 右手に下問屋跡があります、本棟造りの家屋に旧屋号札下問屋を掲げています、赤羽家が勤めました、問屋業務は上問屋と半月交代で勤めました。

並びに
古井戸があります、この地は水位が低いため深井戸でした、井戸は郷福寺、御茶屋付近、下問屋付近の三ケ所にありました、これらの井戸は共同で使用され管理維持費は頼母子講無尽講によって捻出しました。

スグ先の左手に豪壮な門と白壁塀をめぐらせた旧家が
上問屋を勤めた赤羽家です、敷地内の郷原簡易郵便局には旧屋号札問屋を掲げています。
下問屋跡 古井戸 上問屋跡

 上問屋跡の白壁塀の前に郷原宿碑があります、この辺りに高札場がありました。

向かいが
郷原宿本陣跡です、旧屋号札山城屋を掲げています、御本陣山城屋太郎右衛門跡です、赤羽家が勤め松本藩塩尻組の大庄屋を兼ねました。

元治元年(1864)松代藩士
佐久間象山が上京する際に宿泊した記録を残しています。

安政五年(1858)年の
大火後、再建の家々の間口は五〜六間、奥行四十間と定められ、家屋前には庭を設けた町割りとなりました。
高札場跡 郷原宿本陣跡 郷原宿南口

 宿並を進むと右手に火の見ヤグラがあり、足元に
善光寺街道郷原宿標柱があります、ここが郷原宿の南口です。

 郷原宿南口から二本目を右に踏み込むと神饌幣帛料供進指定神社の諏訪社稲荷社が鎮座しています、郷原の産土神です、境内には道祖神や戦勝記念に奉納された明治三十七八年戦役(日露戦争)の砲弾等があります。

先に進むと信号交差点に
郷原宿大看板があります、この先は一本道で極々単調な道筋になります。

中部電力中信変電所手前の左手に慶応四年(1868)建立の
馬頭観世音があります。

郷原工業団地交差点を越え、しばらく進むと左手に
善光寺道一里塚跡標石があります、太田の一里塚跡です、洗馬より一里目です、洗馬分去れは間近です!
諏訪社稲荷社 馬頭観音 一里塚跡

 街道脇に果樹園が現れます、明治二十三年(1890)ブドウの栽培が開始され、近年ワインの醸造が盛んになりました。

この地は標高約700mで晴天日数が多く、夜温が低く酸を維持できる等、
ブドウにとって正に理想の土地でした。

中原交差点手前の左手にある消火栓横に
自然石道標「左善光寺道 右諏訪」があります。

中原交差点を越すと、右手のシオハラ時計店の並びに
道祖神が祀られています。
ブドウ 道標 道祖神 石仏石塔

 モクモクと歩くと伊勢町バス停先の右手に
石仏石塔があります、馬頭観音像、文化八年(1811)建立の南無阿弥陀佛名号碑、明和三年(1766)建立の道標を兼ねた観音供養塔「右善光寺」があります。

 PM5:55 洗馬分去れ着

 先に進むと突如、左手に常夜燈が現れます、安政四年(1857)建立の天照皇大神宮常夜燈です。

常夜燈前の横道が
旧中山道(黄色矢印)です、無事洗馬分去れに到着です!

この洗馬分去れにあった
分去れ道標「「右中山道 左北国往還善光寺道」は昭和七年(1932)洗馬の大火後、この先に新道が敷設され、その新洗馬分去れに移設されました。

素晴らしい街道ウォークが堪能できました、それこそ山あり谷ありの街道旅、最高です!!
洗馬分去れ 分去れ常夜燈 分去れ道標




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