道中日記 8-173 中山道 ( 日本橋 - 桶川 ) 42.7km


 この度、
山と渓谷社より

●ちゃんと歩ける 中山道六十九次 (東)江戸日本橋〜藪原宿 
  五街道ウォーク 八木牧夫 著

●ちゃんと歩ける 中山道六十九次 (西)藪原宿〜京三条大橋 
  五街道ウォーク 八木牧夫 著

が出版されました。


出版に際し、中山道全般を歩き直しました、これで4往復達成です。

本マップに写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為に、HPでは写真を豊富にアップしました。

是非、出立なさる前に
本マップHPを照らし合わせ、中山道ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。


 中山道は当初、東のの道と書いた東海道に対して、東のの道と書いて東山道(とうさんどう)と呼ばれました、その後中仙道となりましたが、正徳六年(1761)、幕府道中奉行は名称を中山道と定めました。

中山道は中部山岳地帯を貫くタフな街道ですが、東海道の川留め(川止め)によるリスクが無いため、日程が立て易く、大いに利用されました。

トマトカレー
 一般庶民にとっては善光寺参りの物見遊山旅のルートでした。

幕末には
皇女和宮降嫁の大通行があり、野心に燃える試衛館(後の新撰組)の若者達はこの道で京を目指しました。

サア、中山道検証の旅に出立しましょう。


例によって、松屋さんで
早朝カレーです。

今朝はトマトカレーにしました、スパイスが効いています、効き過ぎて薬膳風です、この味嫌いじゃありません。



木曽街道続ノ壱 日本橋 雪之曙 英泉画 日本橋

 
栄泉は北西方向から眺めた日本橋を手前に、そして遠景に雪の曙を描いています。

日本橋川の北岸には
魚河岸があり、漆喰塗の荷蔵が軒を連ねています。

橋上には天秤棒で
寒鰤(かんぶり)を担ぐ魚屋の姿も描かれています。

この
魚河岸は関東大震災以後、築地に移転しました。

橋の袂には
日本橋魚市場発祥の地碑があります。

日の出はAM5時30分、日本橋はまだ薄暗いです。

 平成21年09月27日 AM 5:47 日本橋出立 板橋宿まで 10.8km

 日本橋及び橋詰周辺の解説はHP東海道を歩くをご覧下さい。

日本橋の中央に埋め込まれた日本国道路元標のサイドが中山道ウォークの起点です、それでは出立しましょう。

中山道は
国道4号線中央通りを北に進みます。

左手の三越が
越後屋跡です、延宝元年(1673)伊勢商人の三井高利が呉服店越後屋を開業しました。

店頭販売の
店先(たなさき)売り、現金取
日本橋詰 日本国道路元標 越後屋跡

引の
現金掛け値なしが評判となり、一躍大店(おおだな)となりました。

その後、
三井家越後屋の頭文字をとり、三越となりました。

 三越向いの日本橋北詰交差点に元文二年(1737)創業、鰹節、乾物の老舗八木長本店があります。

ここを右(黄色矢印)に入ると、先の左手に
史蹟三浦按針屋敷跡碑があります、英人ウイリアムアダムスは慶長五年(1600)難破し、豊後に漂着しました。

アダムス徳川家康に迎えられ江戸に入り、外交通商顧問となり、日英貿易等に貢献しました、ここに屋敷が与えられ三浦按針(あんじん)と称しました。

次の交差点、鰹節
大和屋の手前を右に入ると、先の左手佃煮屋日本橋鮒佐の所に芭蕉句碑「発句也 松尾桃青 宿の春」があります、ここが芭蕉の住居跡です、寛文十二年(1672)二十九歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出
八木長本店 三浦按針屋敷跡 芭蕉住居跡

て、ここの借家で八年間暮らしました、芭蕉は当時
桃青(とうせい)と称しました。

 街道に戻り、室町二丁目交差点左の江戸桜通りに入ると、先の右手に日本銀行があります、ここが金座跡です。

文禄四年(1595)
徳川家康が京都の金匠後藤光次を江戸に招いて小判鋳造を始めました、以降後藤家は金座役人を世襲しました。

道路を挟んで向いには
貨幣博物館があります。

街道に戻って進むと、
室町三丁目南交差点があります、ここが日光道中追分です、日光道中はここを右折します。

奥州道中宇都宮で日光道中から分岐します。
江戸桜通り 金座跡 日光道中追分

 室町三丁目交差点手前の左手に十軒店(じっけんだな)解説があります、江戸時代の初め、桃の節句、端午の節句に人形を売る店(たな)が十軒あったところに由来しています。

江戸時代の中期以降は
人形店が軒を並べ、雛市(ひないち)が立ち、大いに賑わいました。

室町三丁目交差点右のJR新日本橋駅入口の所に
長崎屋跡解説があります、ここには長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸参府時における定宿でした。

随行したオランダ人の中には
ケンペルツンベルクシーボルト等がいたため、蘭学者や蘭方医が
十軒店跡 長崎屋跡解説 長崎屋跡

長崎屋を訪れ、文化交流の場となりました。


 室町三丁目交差点次の右手小路が鐘つき新道です、小路口には石町(こくちょう)時の鐘鐘撞堂(かねつきどう)解説があります。

時の鐘は石町に設置され、時刻を江戸市民に知らせました、徳川家康が江戸入府の際に伴った辻源七鐘つき役に任命され、代々その役を世襲しました。

本通りから鐘撞堂にいたる小路は
鐘つき新道と呼ばれ、近くに長崎屋があるところから、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」と唄われました、ここにあった宝永八年(1711)に鋳造された時の鐘(東京都指定文化財)は、小伝馬町の十思公園に移設されています。

並びに
夜半亭与謝蕪村居住地跡解説があります、夜半
鐘つき新道 石町時の鐘 蕪村居住地跡

は元文二年(1737)俳諧師早野巴人(はじん)が石町鐘撞堂のほとりに結んだ庵です、若き与謝蕪村(よさぶそん)は内弟子としてここに居住しました。

 室町四丁目交差点の左手に本銀(ほんしろがね)通り解説があります、銀細工職人が多数居住してところを地名由来としています。

スグ先の左手ホンマゴルフの脇に
今川橋跡碑があります、街道を挟んだ向かいの岩手銀行脇にも今川橋のあとモニュメント碑があります。

今川橋は天和年間(1681〜83)に神田堀(神田八丁堀・龍閑川)に架橋されました、橋名は名主今川氏の尽力により架けられところに由来しています、日本橋を出立して初めて渡る橋でした。
本銀通り 今川橋跡 今川橋のあと碑 今川橋

 JR神田駅ガード手前の右手に鍛冶町解説があります、地名はこの辺りに幕府御用を勤める鍛冶方棟梁だった高井伊織(いおり)の屋敷があり、鍛冶職人が多数住んでいたところに由来しています。

須田町一丁目先の
Y字路は左に進みます、須田町交差点を左に入ると、先の左手に神田青果市場發祥之地碑があります、御用市場として駒込、千手と並び江戸三大市場として栄えました。

街道はJR中央本線の赤レンガ高架に突き当たります、左に進みます、この街道筋に
御成道解説があります。

この場所は江戸城外郭門の一つ筋違御門のあった所で、江戸城から
上野寛永寺に通じる将軍の御成道でした。
鍛冶町 神田青果跡碑 御成道

 御成道解説から左に入ると東京都選定歴史的建造物があります、甘味処竹むら、手打ちそば神田まつや、あんこう鍋いせ源、鳥すきやきぼたん、そして江戸三大蕎麦(砂場、更科)の一つ藪蕎麦(神田やぶそば)があります。

神田郵便局前交差点を右折し、JR中央本線昌平橋ガードをくぐり、神田川昌平橋で渡ります。

昌平橋は寛永年間(1624〜44)に架橋されました、一口橋(芋洗橋)、相生橋と呼ばれましたが、元禄四年(1691)徳川綱吉が湯島に聖堂を建立した際、孔子誕生の地昌平郷にちなんで昌平橋と改名されました。

昌平橋を渡ると
神田旅籠町に入ります、中山道、日光
神田やぶそば 神田郵便局前 神田川

御成道を控え、旅籠が軒を連ねていました。

 神田明神下交差点を左折し、国道17号線(本郷通り)を進みます。

スグ先左手の築地塀が
湯島聖堂です、儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄三年(1690)湯島聖堂を創建し、大成殿孔子を祀り、自ら論語の講釈を行いました。

寛政九年(1797)徳川十一代将軍
家斉は湯島聖堂の敷地を拡げ、ここに昌平坂学問所を併設しました、以後明治維新に至るまで、官立大学の役割を果しました。
神田明神下 湯島聖堂 孔子像 大成殿

 湯島聖堂の向いが神田明神です、天平二年(730)の創建で平将門を祀っています。

江戸城の
鬼門の守護神で、江戸総鎮守でした。

江戸三大祭(山王祭、深川祭)の一つ神田祭の神輿は江戸城内に入り将軍が上覧しました。

社殿右脇に
国學發祥之地碑があります、荷田春満(かだのあずままろ)が門人の神田明神神主宅に国学の教場を開きました。
神田明神随神門 神田明神社殿 国学発祥之地 銭形平次碑

 並びに
銭形平次碑があります、平次の住いは、明神下の元の台所町という設定になっています。

 神田明神参道口の青銅鳥居脇に弘化三年(1846)創業、名物明神甘酒の老舗天野屋があります。

地下6mの
天然土室(つちむろ)で熟成させた甘酒は「富士山に 肩を並べる 甘酒屋」と詠われました。

江戸方面からは
甘酒屋富久無線の間に入り、突当りのファミリーマートを左折し、次いで突当りを右折し本郷通りに復帰します。

京方面からは
お茶の水はりきゅう専門学校手前を左折し、一本目を右
天野屋 明神甘酒 明神旧道東 明神旧道西

折し、
甘酒屋の所で本郷通りに合流します。

 左手の東京医科歯科大学辺りに桜の馬場がありました、馬場の左右に桜もみじの大木がありました、御茶ノ水馬場とも呼ばれました。

サッカーミュージアム入口交差点先の右手が
樹木谷坂です、徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯は木々が繁っていたところから樹木谷といわれ、訛って地獄谷とも呼ばれました。

緩やかな上り坂を進むと、本郷三丁目交差点の手前左手に
かねやすがあります、享保年間(1716〜36)兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出し評判となりました。

後に、芝神明前の
兼康との間に元祖争いが生じ
桜の馬場跡 樹木谷坂 かねやす

た際、時の町奉行
大岡越前守は本郷は仮名でかねやす、芝は漢字で兼康、と粋な裁決を下しました。

享保十五年(1730)江戸に大火があり、防火上から時の町奉行
大岡越前守は本郷三丁目から江戸城にかけての家屋は塗屋(ぬりや)・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦葺きとしました、これにより「本郷も かねやすまでは 江戸の内」と詠われました。

 本郷三丁目交差点手前の右手に寛永三年(1626)創業、羊羹の老舗藤むらがありす、夏目漱石三四郎や森鴎外(がん)にも登場する名店ですが、現在は休業中です。

本郷三丁目交差点を横断し、右に進むと左手に
富士神社があります、この辺りは往時本富士町でした。

更に進むと左手に臨済宗妙心寺派天澤山
麟祥院(りんしょういん)があります、春日局の菩提寺です。

墓地には
春日局の墓があります。
藤むら 富士神社 麟祥院 春日局墓

 徳川三代将軍
家光の乳母であった春日局の墓は無縫塔(むほうとう)で四方に穴が貫通した特異な形をしています、これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉(よみ)から見通せる墓を作ってほしい」という春日局の遺言によるものといいます。  

 本郷三丁目交差点に戻り、左手一本目を左(黄色矢印)に入ると本郷薬師があります、寛文十年(1670)の創建です、府内に奇病(マラリヤ)が蔓延したところ、この薬師に祈願すると治まったといいます。

薬師堂の右脇(黄色矢印)を進み、一本目を右折すると右手に
十一面観世音菩薩が安置されています、この地は藤堂高虎が再建した天台宗真光寺跡地です。

元に戻り一本目を左に入ると右手に
櫻木神社があります。
本郷薬師参道口 本郷薬師 十一面観音 櫻木神社

 文明年間(1469〜87)
太田道灌による江戸城築城の際、京北野天満宮より勧請し、城内に創建されました。

元禄三年(1690)徳川五代将軍
綱吉真光寺境内に遷座させました。

 本郷通りを進むと右手に別れの橋跡・見送り坂と見返り坂解説があります、ここには加賀前田家上屋敷から小川が流れ、架橋されていました。

この橋の所で
江戸払い(所払い)の罪人が追放されたところから別れ橋と呼ばれました。

橋手前の坂で親類縁者が罪人を涙で見送ったところから
見送り坂と呼ばれ、橋先は追放された罪人が振り返りながら去ったところから見返り坂と呼ばれました。

見返り坂を進むと右手に東京大学の
赤門があります、東京大学の敷地は加賀藩上屋敷跡です。

赤門(御守殿門)は徳川十一代将軍家斉の娘溶(やす)姫が前田家に輿入れする際に、建立された朱塗りの門(重要文化財)です。
別れの橋跡 加賀藩前田家赤門

 東京大学校内に入ると上野英(ひで)三郎博士とハチ公像があります。

秋田犬の
ハチは秋田県大館市に生まれ、東京帝国大学農学部の上野英三郎博士が大切に育てました、学生達は教授の飼い犬を呼び捨てにすることをはばかり、ハチ公と呼びました。

一年半が過ぎた大正十四年(1925)五月二十一日、
博士は大学構内で急死してしまった、それからハチは死ぬまでの十年間、朝夕に渋谷駅に通い、博士の姿を探し求めました。

校内の奥に前田家の庭園
育徳園があります、当時江戸諸侯の庭園中第一と称せられました。

池の形が心という字をかたどっており、
心字池と呼ばれました、夏目漱石の小説三四郎以来、三四郎池の名で親しまれてきました。
上野博士とハチ 三四郎池

 赤門の向かいに浄土宗法真寺があります、往時は閻魔詣で賑わいました。

参道口に
樋口一葉ゆかりの桜木の宿解説があります、境内の東隣に樋口一葉の家があり、四〜九歳の五年間過ごしました、一葉は桜木の家と呼び懐かしんだといいます。

先の左手奥に曹洞宗
喜福寺があります、墓地に久保田万太郎の墓がありますが、拝観には許可が必要です。

東大正門前交差点を過ぎると左手に
棚澤書店があります、明治三十八年(19
法真寺 喜福寺 棚澤書店 東大農学部

05)建築の商家造りで登録有形文化財です。

本郷弥生交差点を越すと右手は
東京大学農学部です、敷地は水戸藩中屋敷跡です。

校内に
朱舜水先生終焉之地碑があります、儒学者の朱舜水(しゅしゅんすい)は明から亡命し、水戸藩に招かれてこの地で生涯を過ごしました。

 東京大学農学部前の信号交差点が本郷追分です、森川宿追分とも呼ばれました。

この地には
中山道を警備した先手組頭森川金右衛門の屋敷があり、立場があったところから森川宿と呼ばれました。

中山道は左折(白色矢印)します、直進(黄色矢印)は日光御成道(岩槻街道)です、将軍の日光社参の御成道です、将軍は岩槻城で一泊し、翌日幸手で日光道中に合流しました。

この追分にある
高崎屋は宝暦年間(1751〜64)の創業で、今に続く酒店です、両替商を兼ね現金安売りで繁昌した老舗大店(おおだな)です。
本郷追分 高崎屋 追分一里塚跡

 高崎屋の所に
追分一里塚跡解説があります、塚木はでしたが、度々の災害と道路の拡張によって一里塚は消滅しました、江戸日本橋より数えて一里目です。

 本郷税務署先の誠之小学校前交差点を左に入ると、誠之(せいし)小学校があります、ここが福山藩江戸藩校誠之館(せいしかん)です。

文政元年(1818)に
文武場を設け、中庸「誠ハ天ノ道ナリ、之ヲ誠ニスルハ人ノ道ナリ」から誠之館と称えました。

街道は
白山一丁目交差点を直進(白色矢印)しますが、左折(黄色矢印)して浄心寺坂を下ってみましょう、この坂はお七坂とも呼ばれました。

案外の急坂を下ると、右手に天台宗南縁山正徳院
圓乗寺があります、天正九年(1581)に密蔵院として創建されました。
誠之館跡 浄心寺坂 八百屋お七地蔵堂

 参道口に八百屋お七地蔵尊があり、境内には八百屋お七の墓があります。

駒込片町の大店であった八百屋の娘
お七は天和の大火(1682)で家が焼け、菩提寺の円乗寺に避難しました、そこで寺の小姓山田吉三郎(佐兵衛)と恋仲となりました。

再建された家に戻ってからも吉三郎に会いたい一心で、家が火事になれば再び会えると、
放火をしてしまった。

火付けの大罪で捕らえられたお七は、天和三年(1684)鈴ケ森で火あぶりの刑に処せられた、数えで十六歳でした、三基の墓石の内、中央が
お七地蔵尊 圓乗寺 八百屋お七墓

往時からのもので、左右は後に建立された
供養塔です。

 それでは折角ですから、二ケ所に寄り道してみましょう、お七坂を更に下り、旧白山通りの白山下交差点を横断し、Y字路を右に進むと右手奥に白山神社があります。 

天暦年間(947〜57)に
加賀一宮白山神社を勧請したもので、歴代徳川将軍家の信仰が篤かったといいます、交通安全に霊験あらたかです、それでは二礼二拍手一礼です!

お七坂を更に進み、白山通りを横断すると、左手に日蓮宗信弘山
本念寺があります、墓地に太田南畝(なんぽ)の墓があります。

南畝は幕府の能吏であり、洒脱な狂歌家で号を
白山神社 本念寺 太田南畝墓

蜀山人(しょくさんじん)と称しました、享和二年(1802)大阪での銅座詰任を終え、中山道を経由して江戸に戻りました、この時の模様を著したのが壬戌紀行(じんじゅつきこう)です、これから何かとお世話になりますので、お参りしておきましょう、合掌!

墓石には
南畝太田先生之墓と刻まれています、辞世「生き過ぎて 七十五年くいつぶし 限り知らぬ天地の恩」。

 お七坂を戻り中山道に復帰します、スグ先の右手に曹洞宗金龍山大圓寺があります。

この
大圓寺は天和二年(1683)の天和の大火(てんなのたいか)の火元といわれています、この大火による死者は三千五百余名でした、八百屋お七がこの大火で焼け出されたところからお七火事とも呼ばれます。

山門をくぐると正面に
ほうろく地蔵尊が安置されています、 ほうろく地蔵は火あぶりの刑に処せられた八百屋お七を供養する地蔵尊です。

お七の
罪業(ざいごう)を救うために熱した焙烙(ほうろく 素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けています。

後にこの地蔵尊は頭痛、眼病、耳、鼻の病など
首から上の病に霊験あらたかとして知られるようになりました。
地蔵堂 ほうろく地蔵尊

 境内外の墓地に入り、中央の通路を進むと右手に斎藤緑雨(りょくう)の墓があります、明治時代の小説家で森鴎外幸田露伴と共にめざまし草の匿名文芸批評執筆者の一人で、樋口一葉のたけくらべを絶賛しました、墓碑銘は幸田露伴の書です。

中央通路を進むと
延命地蔵尊があります、更に奥に進むと高島秋帆(しゅうはん)の墓があります、国指定史跡です。

秋帆は幕末の
砲術家です、欧米列強の進出を危惧し、幕府に洋式砲術の採用を建議し、天保十二年(1841)武州徳丸ケ原(板橋区高島平辺り)で日本初の洋式砲術演習を行いました、その後、洋夷かぶれといわれ、投獄幽閉されたが、ペリー来航により赦免されました。
斎藤緑雨の墓 延命地蔵尊 高島秋帆

 白山上交差点先の左手に日本初の男女共学を実施した東洋大学があります。

千石駅前交差点からそれまで片側一車線から三車線になります、京方面からはY字路を左に進みます。

先に進み左手の
大鳥商店街に入ってみましょう、往時は稲荷横丁と呼ばれていました、少し進むと右手に子育稲荷神社があり、奥に巣鴨大鳥神社があります、元治元年(1864)に酉の市が立ち、今日まで続いています。

中山道の左側を進むと、ローソンの向いに
徳川慶喜巣鴨屋敷跡地碑があります、徳川最後の将軍慶喜(よしのぶ)は大政奉還後、静岡で三十二年間謹慎し、復権後の明治三十年(1897)六十一歳の時、この地に居を構えました、
東洋大学 稲荷大鳥神社 慶喜屋敷碑

邸内に
梅林があったためケイキ(慶喜)さんの梅屋敷と呼ばれ親しまれました。

その後、すぐ脇を鉄道が通ることが決まると、その騒音を嫌って小日向第六天町に引っ越しました、ここに住んだのは明治三十四年(1901)までの四年間でした。


 JR山手線を巣鴨橋で渡ると、渡詰めの左手に染井吉野碑があります。

江戸末期に
染井村(東京都豊島区駒込)の植木職人達がエドヒガンオオシマザクラを交配させたソメイヨシノを全国に広めました。

先の左手に真言宗豊山派
真性寺があります、境内には江戸六地蔵の一つ、正徳四年(1714)造立の銅像地蔵菩薩像があります、江戸の六口に街道守護として安置されました。

境内の左手には寛政五年(1793)
芭蕉百年忌に建立された芭蕉句碑「白露も こぼれぬ萩の うねりかな」があります。
染井吉野碑 江戸六地蔵 芭蕉句碑

 中山道は真性寺前からおばあちゃんの原宿といわれる巣鴨地蔵通商店街に入ります。

巣鴨地蔵通りに入ると右手に明治二十四年(1891)下谷から移った曹洞宗萬頂山
高岩寺があります。

本尊は
とげぬき地蔵と呼ばれる秘仏です、地蔵の姿絵を飲むなり、患部に貼ればトゲが抜けたように痛みが取れるといいます。

境内には
洗い観音があります、自身の患部と同じ個所を洗い清める
巣鴨地蔵通り 高岩寺 とげぬき地蔵尊 洗い観音

とご利益ありといいます。


 通りにはときわ食堂が二店あります、現代版名物店です、ここのアジフライは絶品です、お奨めします!

庚申塚交差点手前の右手に
庚申塚があります。

当初、ここにあった文亀二年(1502)建立の
庚申塔明暦の大火(1657)で損傷した為、ここに埋めて塚を築き、その上に猿田彦大神庚申堂を建て、同年建立の庚申塔を安置しました。

庚申信仰とは十干(じゅっかん)、
ときわ食堂 ミックスフライ 三猿 庚申塚

十二支の組み合わせによって六十日に一度巡ってくる庚申の日を庚申待ちといい、仏教では帝釈天や青面金剛、神道では猿田彦を祀り一夜を明かす行事です、これは人間の体内にいる三尸(さんし)の虫が寝てしまうと天帝にその人間の悪業を告げてしまうからです、ちなみに六十年に一度庚申年が巡ってくるのが還暦です。

 庚申塚辺りは立場で賑わい、藤の花で知られました、小林一茶は「藤棚に 寝て見てもまた お江戸かな」と詠みました。

都営荒川線庚申塚踏切で渡ると、左手が庚申塚駅です、都営荒川線は東京都内に残る唯一の路面電車です。

先の左手
清浄野菜店の角に延命地蔵尊標石があります、ここを左(黄色矢印)に入ると左手に延命地蔵尊があります。

この
延命地蔵尊は文政年間(1818〜30)の造立で、中山道で行き倒れになった人馬の霊を供養しています。
都営荒川線 延命地蔵尊標石 延命地蔵尊 徳本名号碑

他に
徳本名号碑題目碑地蔵像庚申塔馬頭観世音文字塔があります。

 先に進むと右手に野菜の種を商う商家を残しています、この通りには名産の滝野川牛蒡人参練馬大根等の種苗を扱う商家が軒を連ねタネ屋街道と呼ばれました。

掘割交差点を左に入ると、左手に
千川上水調節池跡解説があります、元禄九年(1696)玉川上水より分水し、ここに溜池を造り、砂やごみ等を沈殿させました、掘割の地名はこの上水に由来しています。

滝野川郵便局手前の右手に
亀の子束子(たわし)西尾商店があります
種苗商 千川上水調節池跡 亀の子束子 馬頭観音

、明治四十年(1907)の創業で、
亀の子束子の元祖です!

先に進むと、左手のコインパーキングの裏手に
馬頭観世音文字塔を安置するがあります。

 セブンイレブン先の信号交差点辺りに平尾の一里塚があったといいますが、位置は不明です、江戸日本橋より二里目です。

この信号交差点を左に入ると、左手に新選組局長
近藤勇の墓があります。

天然理心流試衛館の
近藤勇以下一門は中山道を上り、京で新選組を旗揚げし、獅子奮迅の働きをしました。

しかし幕府方は
戊辰の戦に敗れ、近藤勇は江戸に戻り、一旦は大名並みに取り立てられましたが、下総流山で官軍に捕らわれ、平尾の一里塚辺りで斬首となり、胴体はここに埋葬され、首級は塩漬けにされ、京に運ばれ三条河原に晒されました。
近藤勇墓案内 近藤勇墓 永倉新八墓

 JR埼京線仲仙道踏切を渡ります。

先に進むと
首都高速に突き当たります、左に進みます、京方面からは平尾交番手前を右に入ります。

江戸方面からは
板橋郵便局前交差点を横断し、グラッチェガーデンズ前に入ります、京方面からは板橋郵便局前交差点を横断し、左に進みます。

グラッチェガーデンズ手前を右(黄色矢印)に入ると、右手に浄土宗丹船山薬王樹院
東光寺があります、境内に宇喜多秀家の墓があります。
仲仙道踏切 首都高速 旧道復帰 宇喜多秀家墓

 
秀家関ケ原の合戦で西軍に組みした為、八丈島に流罪となりました、明治新政府がこれを赦免し、ここに戻りました。

 AM 8:18 板橋宿着 蕨宿まで 9.1km

 右手の観明寺参道口に寛文元年(1661)造立の青面金剛像庚申塔があります、都内最古で板橋区有形文化財です。

英泉は画面左端に
従是板橋宿と記された傍示杭と中央にこの庚申塔を描いています、ここが板橋宿の江戸口(東口)です、板橋宿に到着です!

板橋宿は
飯盛りが盛んでしたが「江戸の四口に娼家あり品川を一、内藤新宿を二、千手を三、板橋を四」と評され、出迎えが「板橋と聞いて迎えが二人減り」と揶揄されました。
庚申塔 木曽街道 板橋之驛 英泉画

 天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると板橋宿宿内家数は五百七十三軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠五十四軒で、宿内人口は二千四百四十八人(男千五十三人 女千三百九十五人)でした。

宿長は十五町四十九間(約1.7km)、宿並は上宿、仲宿、平尾宿の三宿で構成されました。

 真言宗豊山派如意山観明寺の参道に入ると赤門があります、加賀屋敷内通用門でした。 

境内の
稲荷神社加賀屋敷内三稲荷の内の一社でした。

明治新政府により赦免された、八丈島の
宇喜多一族七十一名はここにあった、加賀藩江戸屋敷内に住宅が与えられました。

宿並に戻り、右手の花の湯脇の路地に入ると
板橋宿平尾町脇本陣跡碑があります、豊田家が勤め代々市右衛門を世襲し、名主を兼ねました。

近藤勇は処刑までの間、ここに幽閉されていました。
赤門 稲荷神社 脇本陣跡

 ファミリーマート向いの白い建物辺りが新藤楼跡です、明治十七年(1884)の大火で上宿、仲宿が焼失したため、平尾宿に遊郭が形成されました、その中でも新藤楼は最大の規模を誇っていました。

向いを右に入ると、左手に
板橋地域センターがあります、館内には貴重な宿場資料が展示されています、絶好の休憩ポイントです。

旧中山道仲宿交差点を渡ると右手に
中山道板橋宿標石があります、「日本橋二里半」「蕨宿二里十
新藤楼跡 板橋地域センター 中山道板橋宿碑 遍照院跡

町」と刻まれています、
平尾宿から中宿に入ります。

赤レンガ蔵造りの旧商家を過ぎると、右手に
遍照院跡があります、境内には多数の馬頭観音があります、かつて境内は幕府公用の伝馬である囲馬、公文書伝達用の立馬普通継立馬等の馬繋ぎ場でした。

 スーパーライフ手前の右手に板橋宿本陣跡碑があります、飯田新左衛門を代々世襲し、問屋役を兼ねました、建坪は九十七坪でした。

向いの石神医院が
水村玄洞宅跡です、蘭学者高野長英は開国を説き、安政の大獄で小伝馬町牢屋敷に投獄されました、弘化元年(1844)牢屋敷の火災で脱走し、門人の医師玄洞宅で一時匿われていました。

並びに菓匠
新月堂があります、店前に中山道中標石標柱「距 日本橋二里二十五町三十二間」があります。
本陣跡 水村玄洞宅跡 中山道中 文殊院

 スーパーライフ先を右に入ると、左手に真言宗豊山派幡場山
大聖寺があります、文殊菩薩が本尊であるところから文殊院と呼ばれています、本陣飯田家の菩提寺です。

 遍照院の墓地には遊女の墓があります、遊郭盛元の墓碑には遊女の名が刻まれています。

うなぎ仲宿を左に入ると正面に
板橋宿中宿脇本陣名主飯田総本家碑があります、飯田宇兵衛が勤め名主を兼ねました、幕末には本陣として機能し、明治天皇巡幸の際、行在所になりました。

宿並を進むと左手に
下総屋があります、この辺りが自身番所跡です、宿の自警団で町奉行の監督下にありました。

スグ先に中宿ゲートがあります、右手の
遊女の墓 脇本陣跡 自身番所跡 問屋場跡

橋本屋酒店辺りが問屋場跡です、板橋信濃守の子孫板橋左衛門上宿脇本陣を勤め問屋を兼ねました、正徳二年(1712)隣接して貫目改所が設置されました、荷の重さを制限し人馬の負担軽減を図りました、中山道では追分宿洗馬宿に設置されました。

 先に進むと石神井川に架かる板橋に到着します、ここが板橋宿の起点です。

橋の袂には「距日本橋二里二十五町三十三間」と書かれた
標柱が立っています、この標柱は板橋地域センター内に掲示されている古写真にも写っています。

板橋の地名はこの橋に由来しています、往時は長さ九間(約16.2m)、幅三間(5.4m)木造太鼓橋でした、寛政十年(1798)と天保年間(1830〜44)の二度改修が行われました。

石神井川は小平の花小金井に源を発し、流末は隅田川に落合います、護岸は桜並木になっています、板橋を渡ると仲宿から上宿に入ります。
板橋 旧板橋

 右手の板橋本町交番脇に中山道板橋宿上宿碑「これより南約830メートル平尾宿、これより南約250メートル仲宿」があります。

スグ先の右手に三代目の
縁切榎があります、男女の縁を切りたい時はこのの樹皮を煎じて相手に飲ませるとその願いが成就するといいます、榎の奥には榎大六天神が祀られています。

大変貴重な
初代縁切榎の樹皮が板橋地域センター内に展示保存されています、是非、ご覧下さい!

文久元年(1861)十一月十四日 二十三日目、
皇女和宮通行に際しては、縁切榎を菰(こも)で覆い、更に西側を大きくコの字に迂回し、板橋宿仲宿飯田脇本陣に行程最後
板橋宿碑 三代目縁切榎 初代縁切榎

の宿泊をしました。

翌日は江戸に到着し、九段清水徳川屋敷に入り、翌月の師走十一日
江戸城大奥に入りました。

 環状7号線高架をくぐると、本町から清水町に入ります。

板橋清水郵便局を過ぎると、
清水町交番先で旧道は国道17号線に合流します、京方面からは斜め左に入ります。

板橋蓮沼郵便局先の村田石材店手前を右折(黄色矢印)すると左手に
氷川神社があります。

慶長年間(1596〜1615)の創建で、
蓮沼村の鎮守です、現在の浮間舟渡駅の西にあった蓮沼村は享保年間(1716〜36)に荒川の氾濫により被害を受
環状7号線 国道17号線合流 氷川神社分岐 氷川神社

け、高台にある現在地に移転しました、その際に
氷川神社南蔵院とともに遷座しました。

 街道に戻ると右手に真言宗智山派寶勝山南蔵院があります、本尊は十一面観世音菩薩です。

享保七年(1772)徳川八代将軍
吉宗が戸田川(荒川)で鷹狩りを行った際、当寺は御膳所になりました。

国道の左側に移り、セブンイレブン脇を左に入ると左手に三猿が陽刻された
庚申塔があります、文久三年(1863)武州豊島郡蓮沼村中の建立で、富士大山新井薬師への道標を兼ねています。

再び国道の右側を進むと、右手に
斎藤商店
南蔵院 庚申塔 斎藤商店

あります、明治二十二年(1889)ケヤキを主に扱う原木商として創業した
材木店(登録文化財)です。

 並びに志村の一里塚の両塚を残しています、江戸日本橋より数えて三里目です。

昭和八年(1933)から行われた新中山道の敷設の際に、
一里塚の周囲に土砂の流出を防ぐ石積みが行われました、塚木の榎は三代目です。

都内で現存する
一里塚は北区西ケ原と志村の二ケ所だけで、国史跡、板橋区史跡です。

先に進み、志村坂上交差点から斜め左の
みずほ銀行坂上交番の間に進みます。

京方面からは国道17号線に合流します。
志村の一里塚(北) 志村の一里塚(南) 志村坂上分岐

 旧道に入ると右手に青面金剛像庚申塔があります、ブロック塀で囲まれていますので、見逃してしまいます、お気を付け下さい。

次いで左手に
大山道標が二基あります、内一基は寛政四年(1792)建立の道標「是より大山道并(ならび)にねりま川こへ(川越)みち」、もう一基は万延元年(1860)建立の庚申塔「是より富士山大山道」です。

スグ先の左手に
清水坂標石があります、ここから日本橋を出立し最初の難所といわれた急な下り坂になります。
青面金剛像 大山道標 清水坂標石 馬頭観音

並びに大正五年(1916)建立の
馬頭観世音文字塔があります。

 清水坂は途中から左に大きくカーブします、ここからは中山道で唯一富士山が右手に見える右富士の名所でした。

左手に同じく
清水坂標石(黄色丸囲み)があります、ここを右折(白色矢印)します。

回り込むと左手に板橋区保存樹木の
スダジイがあります、この辺りが志村間の宿で、志村名主屋敷や立場茶屋があり、戸田の渡しが増水で川留めになると控えの場所となりました。

都営三田線を
新志村第1架道橋でくぐります。

上り坂を上り詰めると
国道17号線に突き当たりま
清水坂分岐 スダジイ 志村坂分岐

す、左折(白色矢印)します、京方面からは中古車屋の先を斜め右の下り坂に入ります。


 突当りの国道17号線を右折(黄色矢印)し、左側を進むと薬師の泉公園があります、ここは曹洞宗大善寺跡です。

徳川八代将軍
吉宗が鷹狩の際に立寄り境内に湧き出す清水を誉め、寺の本尊である薬師如来を清水薬師と命名しました。

国道17号線を戻ると志村3丁目歩道橋交差点になります、この歩道橋手前のY字路を右(黄色矢印)に進むと右手の祠内に安永四年(1775)造立の
地蔵尊が安置されています。
薬師の泉公園 薬師の泉 志村3丁目歩道橋 地蔵尊

 
志村3丁目交差点(白色矢印)を横断歩道で横断します。

 横断したら右折し、一本目を左折し東坂下旧道に復帰します。

この分岐点には自販機が並ぶ
三清酒店があります。

弓なりに東坂下旧道を進むと、
国道17号線に合流します、京方面から志村坂下交差点先を斜め左に入ります、ピュアホームズが分岐ポイントです。

国道17号線の左側を進むと、セブンイレブン手前の餃子ラーメンキタボシ店脇の祠の中に
馬頭観世音菩薩文字塔が安置されています。
東坂下旧道東口 東坂下旧道西口 キタボシ 馬頭観音

 新河岸川(しんがしがわ)を志村橋で渡ります。

川越藩主
松平信綱が河川改修を行い、川越江戸を結ぶ舟運を開きました、沿岸には新たに川越五河岸をはじめとした河岸が新たに造られたところから、新河岸川と呼ばれるようになりました。

流末は
墨田川に落合います。

志村橋渡詰めを右折し
舟渡(ふなど)旧道に入ります、一本目を左折します。

突当りを左折し、先を回り込みます。
新河岸川 舟渡旧道東口 舟渡旧道分岐@ 舟渡旧道分岐A

 パチンコガーデンの並びに舟渡の板碑(いたび)があります、文明九年(1477)建立等の板碑が十基保存されています。

板碑は親の供養や自分の後生供養を目的として造られた石製卒塔婆のことです、最近まで子供の麻疹平癒に霊験ありと信じられていました、この辺り一帯は一面の野原でサクラソウの名所でした。

板碑からは一本道を進みます、倉庫街を抜けると荒川の土手に突き当たります、右から迂回し、階段で戸田橋に出ます。

荒川(戸田川)を渡ると東京都から埼玉県に入ります、往時、戸田川の川幅は五十五間(約100m)、出
舟渡の板碑 舟渡旧道西口 荒川

水時は一里(約4km)にも広がったといいます。


 戸田川(荒川)は甲斐國(山梨県)、武蔵國(埼玉県)、信濃國(長野県)の三國が跨る甲武信ケ岳(こぶしがたけ)に源を発し、秩父山地の水を集め、流末は江戸湾に注いでいます。

江戸防衛上
戸田川に架橋されることはなく、舟渡しでした。

英泉は
蕨宿としてこの戸田の渡し風景を描いています、志村村から戸田村に向う渡し舟を中央に、そして対岸の戸田村の渡し場には葭簀張(よしずばり)の船頭小屋を描いています、舟には旅人に混じって馬子と馬が乗っています。

戸田川が一旦増水すると
舟止めとなり、旅人は川上の岩淵(日光御成道)か、川下の千住(日光道中)に迂回しました。

安永元年(1772)には
戸田河岸場が置かれましたが、明治八年
木曽街道 蕨之驛 戸田川渡場 英泉画

(1875)
戸田橋が架橋されると、戸田の渡しは廃止となりました。

 戸田橋の渡詰めを右折(白色矢印)し、荒川通りを進みます、但しこの通りには歩道がありません、狭い上に交通量が多く注意が必要です。

危険を感じるようでしたら一つ先の
階段を下ります、先で合流できます。

荒川通りを進むと左手に
中山道戸田渡船場跡碑があります、渡しの権利は戸田村にあり、蕨宿側の渡し口には渡船を取り仕切る川会所が置かれ、組頭(渡船場の支配人)一人、船頭八人、小揚げ人足三十一人が常駐していました。

渡し場には馬船、平田船、伝馬船、小伝馬船等十三艘が常備され、渡し賃は
六文でした。
荒川通りルート 階段下ルート 戸田渡船場跡碑

 渡船場跡から先に進み戸田橋(東)交差点をヘアピン状にUターンすると右手に水神宮(すいじんぐう)があります、川岸の鎮守です。

祭礼に飾られる
獅子頭(ししがしら)は戸田市指定文化財です。

先に進み
河内重運の手前を右折(白色矢印)します、ここが渡船場からの旧道復帰点です、そしてここには旧中山道標識があります。

階段下ルートはここに出てきます、ここを左折(白色矢印)しますが、直
戸田橋(東)迂回路 水神社 獅子頭 川岸旧道東口

進(黄色矢印)すると左手に
水神宮があり、先の戸田橋(東)交差点をヘアピン状にUターンすると歩道があり、先の右手に中山道戸田渡船場跡碑があります。

 旧道に入り、一本目を右折すると地蔵堂があります、参道口には享保十六年(1731)造立の青面金剛像庚申塔があります。

地蔵堂は戸田市内最古の建築物で、中山道分間延絵図にも記載されています。

旧道の左手には川岸ミニパークがあります、園内には
歴史の道中山道解説があります、この旧道筋には茶屋が軒を連ねていました。

川岸旧道は
菖蒲川に突き当たります
庚申塔 地蔵堂 川岸ミニパーク 菖蒲川迂回路

、ここには現在、橋がありませんので、右折(黄色矢印)し
川岸橋で迂回します。

 川岸橋を渡り一本目を左折します、突当り筋が川岸旧道(白色矢印)です、右折します。

先に進むと小さな
枡形があります。

川岸旧道は
さつき通りのT字路に突き当たります、この先は通行不可ですから左折します。

京方面からは
魚久の手前を右折して、川岸2丁目東通りに入ります。

さつき通りを進み、突当りの
国道17号線を右折します、京方面からはローソ
川岸旧道分岐 枡形 川岸旧道迂回路 川岸旧道西口

ンの手前を左折して
さつき通りに入ります。

川岸三丁目交差点先の左手につつじ幼稚園があります、この辺りに上戸田の一里塚があったといいますが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて四里目です。

つつじ幼稚園の園内奥に貞享二年(1685)造立の
青面金剛像庚申塔があります。

その先
本町一丁目交差点から斜め右に旧道は延びていましたが消滅しています。

本町一丁目交差点を右折し、一本目を左折して旧道の
下前公団通りを進みます、この分岐点にあった、東京ミツカンドコモに変っています。
庚申塔 下前旧道東口 下前旧道東分岐 下前旧道西分岐

 戸田市消防署東部分署を過ぎると、変則五差路に突き当たります、下戸田ミニパーク前を進みます、園内には
歴史のみち中山道解説があります。

 下前旧道は国道17号線に突き当たります、右折します、京方面からの左折ポイントはアーバンコート戸田公園マンションです。

左手に真言宗智山派大悲山
光明寺があります、南北朝時代足利将軍の一門桃井氏の居城跡といわれています。

下戸田二丁目(南)交差点先右手の武内家の敷地内に
武内家文書標柱(戸田市指定有形文化財歴史資料)があります、武内家は下戸田村の年寄役、名主を勤めました。
下前旧道西口 光明寺 武内家文書 御堂

 中山道
戸田の渡しに関する文書等を豊富に残しています。

左手のファミレスバーミヤンの並びに瀟洒な
御堂があります、堂前には対の献灯があります。

 AM 10:34 蕨宿着 浦和宿まで 4.7km

 蕨警察署入口交差点辺りで戸田市から蕨市に入ります、 の地名は藁(わら)が燃えるさまの藁火(わらび)に由来しています。

スグ先の
GSシェルの手前を斜め右に入ります、ここには中山道蕨宿碑があります、旧道に入ると下木戸のモニュメントがあります、蕨宿に到着です!

蕨宿は慶長十七年(1612)の開設、江戸に近い為、素通りの旅人が多かったが、戸田の渡しを控え、一旦川留めになると大いに賑わい、浦和宿と同様にウナギが名物でした。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると、宿内家数は四百三十軒、うち本陣二、脇本陣一、問屋場一、旅籠二十三軒、宿内人口は二千二百二十三人(男千百三十八人 
蕨宿分岐 蕨宿碑 下木戸跡

女千八十五人)で
宿長は十町(約1.1km)でした。

 宿並に入ると右手の旧家に中仙道蕨宿景観建築物中仙道まちづくり協議会の札が掲示されています。

信号交差点を右折し、一本目を左折すると、先の左手に
玄番稲荷が鎮座しています、扁額には二匹の狐が戯れる姿が陽刻されています。

宿並に戻ると左手に
蕨市歴史民俗資料館分館があります、分館は明治時代に織物の買継商であった家屋をそのまま利用しています。

信号交差点手前の右手に
蕨町道路
景観建築物 玄番稲荷 民俗資料館分館 蕨町道路元標

元標があります。

 信号交差点を越えた、左手に慶長九年(1604)創業の老舗うなぎ今井があります、この鰻店には蒸さない直焼があるそうです、そそられますね!

この信号交差点が蕨宿の
起点です、右に進むと左手に真言律宗甘露山長泉院があります、宝暦八年(1758)の創建で、檀家をもたない祈願寺です。

本堂の屋上にある梵鐘は
時の鐘でした、この鐘には(にゅう)がないところからいぼなし鐘と呼ばれ、戦時中の供出を免れた名鐘で蕨市指定文化財です。

更に約1km先に進むとJR東北本線
蕨駅です。

宿並に戻ると左手の岡田厚生堂薬局が
岡田新蔵脇本陣跡
うなぎ今井 長泉院 脇本陣跡

です。


 並びに蕨市立歴史民俗資料館があります(入館料無料)。

館内には復元された
高札や寛政四年(1792)造立の青面金剛像庚申塔があり、精巧な蕨宿の宿並模型があります。

本陣
上段の間商家旅籠等が復元され、展示されています。

資料館の並びに
蕨本陣モニュメントがあります、蕨城主渋川公の家臣岡田正信の子孫岡田加兵衛が勤め、問屋名主を兼ね
歴史民俗資料館 蕨宿模型 旅籠風景 本陣跡

西の本陣と呼ばれました、皇女和宮明治天皇の休息所となりました。

向いには
東の本陣と呼ばれる塚越本陣がありましたが、遺構は残されていません。

 中山道蕨宿本陣跡交差点を右折した先の右手に和楽備神社があります、渋川氏が蕨城の守護神として八幡社を勧請したものです。

明治四十四年(1911)蕨内にあった十八の鎮守社を合祀した際に
和楽備(わらび)神社と改称し、蕨市の総鎮守となりました。

和楽備神社に隣接する公園が
蕨城址です、足利氏一門の渋川氏の居城で、戦国時代には小田原北条氏と関東管領上杉氏に翻弄され、ついに廃城となりました、家康が江戸入すると一時鷹場御殿として使用されました。

宿並に戻ると右手に
中仙道武州蕨宿標石中仙道蕨宿まちづくり憲章を掲げた高札があります。
和楽備神社 蕨城址 蕨宿碑

 右手に鈴木薬局があります、重厚な蔵造りの旧商家の構えを残しています。

次いで右手に
萬寿屋があります、天保年間(1830〜44)創業の茶屋で当初団子を商っていましたが、明治二十年(1887)煎餅屋になりました、店内の萬寿屋茶房では煎茶セットが賞味できます、休憩に絶好です!

萬寿屋左手の
地蔵の小径(しょうけい)を進むと正面に真言宗智山派金亀山極楽寺三学院があります、関東七ケ寺の一つで、関東十一壇林の一つとして新義真言宗僧侶の教育機関でした。

天正十九年(1591)
家康より御朱印二十石を受領し、歴代将軍から庇護されました。
鈴木薬局 萬寿屋 三学院

 参道口に梵字馬頭観音塔があります、寛政十二年(1800)蕨宿の馬持講中が建立したものです。

境内の建屋前には元禄十四年(1701)建立の
常夜燈があります。

建屋内には
地蔵群があります、手前が目疾(めやみ)地蔵です、万治元年(1658)の造立で、地蔵の目に味噌を塗ると、目の病に霊験あらたかといいます。

次いで寛文〜元禄年間(1661〜1704)にかけて造立された
六地蔵があります、地蔵菩薩が六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)に分身し、人々を救済します。

奥の
子育地蔵は元禄七年(1694)の造立で、蕨市最大の
馬頭観音 常夜燈 地蔵尊群

地蔵尊です。


 三学院の門前に戻り、右に進むと左手に徳丸家のはね橋があります、飯盛女助郷、明治になると紡績女工が逃げ出さないように、夜になると用水路の板橋を跳ね上げました。

宿並に戻ると左手に
中山道ふれあい広場があります、からくり時計大名行列のレリーフ等があります。

並びの蕨警察署北町交番の所に
下木戸のモニュメントがあります、蕨宿の京口(西口)です、ここに
徳丸家のはね橋 ふれあい広場 上木戸跡 錦町三丁目交差点

中山道蕨宿碑があります。

錦町三丁目交差点にて国道17号線を横断(白色矢印)します。


 交差点を右折(黄色矢印)すると左手に観音堂があります、人々を常に見ていて救いの声(せい)があれば瞬く間に救済するという(しょう)観世音菩薩を安置しています。

それでは街道を進みましょう、左手の
大黒屋の所で街道は右に大きく曲がります、蕨錦町郵便局の手前を右に入ると左手に春日神社があります。

享保年間(1716〜26)に造立された
法華経の守護神である木造三十番神立(じんりつ)を祀っています、蕨市指定文化財です。

街道に戻ると右手に日蓮宗長久山
宝蔵寺があります、本尊は一塔両尊像日蓮上人像です。
聖観音 春日神社 宝蔵寺

境内の
筆子塚は寺子屋に通っていた門下生達が師を讃えた頌徳碑です。

 錦町五丁目交差点を越すと右手に中山道蕨宿一六橋標柱があります、この橋は見沼用水の分流である、一六用水に架橋されていました、 この一六橋は長さ五尺(約150cm)、幅五尺の石橋でした。

一六(いちろく)の名は、この辺りで一と六の付く日に市が開かれたところに由来しています。

次いで左手に
中山道蕨宿一番地標柱があります、ここには境橋が架橋されていました、蕨宿辻村の境を流れる見沼用水の分流笹目用水に寛政九年(1797)長さ一間半(約2.7m)幅二間半(約4.5m)の石橋が架橋されました、今は蕨市さいたま市の境です。

辻に入ると正面に
東京外環自動車の高架が現れます、
一六橋 境橋 辻の一里塚跡

この手前の右手に
旧中山道一里塚の跡碑があります、辻の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて五里目です。

 一里塚跡碑の並びに弁財天があります、往時、この辺りは湿地帯で通行に難渋した為、水難除けに祀られました。

東京外環自動車道の高架をくぐります。

街道を進み、左手の中村商店の向いを右折し、一本目を左に入ると瀟洒な
吉祥院があります、境内には宝篋印塔、六地蔵、享保十一年(1726)造立の地蔵尊等があります。

次いで中村商店先を左に入ると
熊野神社があります、木曽名所図会に「辻村に熊野権現のやしろあり」と著され、里人からおくまんさま と尊称され、辻の鎮守様と敬愛されました。
弁財天 東京外環自動車道 吉祥院地蔵尊 熊野神社

 街道はT字路に突き当たります、右折します、京方面からは六辻交差点を越し、一本目を左折します。

このT字路を左折(黄色矢印)すると左手に
萬蔵寺があります、本尊は延命地蔵菩薩行基の作といいます、墓地には慶応四年(1868)戊辰の役で会津若松で亡くなった者の墓があります。

六辻交差点手前の左手六辻交番の所に
六辻村道路元標があります。

六辻歩道橋の袂に
床上げ稲荷が祀
辻分岐 戊辰の役墓 六辻村道路元標 床上げ稲荷

られています、無病息災に霊験あらたかです。


 宝暦六年(1756)出版の岐蘇路安見絵図(きそじあんけんえず)の浦和宿には「夏晴れたる時は浅間山見ゆる」とあり、文化二年(1805)の木曽路名所図会には「空晴れたるときは、ここよりも浅間山見ゆる」と著されています。

そこで英泉も
浦和宿として、噴煙をたなびかせる浅間山を画面左に、右手には名物の焼米を商う立場茶屋を、そして先には鴻沼(こうぬま)代用水に架かる高台橋を描いています。

そして画面の手前には馬子が曳く馬の後ろで、
馬糞を拾う子供の姿が描かれています、たい肥か乾燥させて燃料にするのでしょう、滑稽ですね!

この辺りは
浦和台地と呼ばれ、その地層は浅間山の火山灰が堆積し、風化したものです。
支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望 英泉画

 六辻交差点にて国道17号線を渡ると根岸に入ります、ツルヤ交通先の変則三叉路は田辺医院の左に進みます。

街道は上り坂になります、南浦和小学校歩道橋下の左手に
焼米坂標石があります。

この坂には名物
焼米を商う立場がありました、焼米は籾(もみ)のままの米を焼き、それを挽いて籾殻(もみがら)を取り除いたもので腹持ちが良かったといいます。

根岸から白幡に入ります、藤原秀郷はここに平将門追討の陣を張り、源氏の白旗を立てました。

白幡から岸町に入ると、左手に
関元屋があります、
根岸の変則三叉路 焼米坂 関元屋

大正五年(1916)頃の建築です、店前の
お助け井戸関東大震災東京大空襲で逃げ延びた人達の喉を癒しました。

 次いで右手に調(つき)神社があります、開化天皇三年(156)の創建で、延喜式神名帳に記載された古社です。

調(つき)は租庸調の調(みつぎ)物を意味し、武蔵国の調はここに集積され、この神社には調物の搬入搬出の邪魔になる鳥居がありません。

調(つき)は月信仰に結びつき、狛犬や手水はウサギになっています。

境内の江戸寄りの街道沿い
日蓮上人駒つなぎの欅碑があります、日蓮が佐渡に流される途次、難産の妊婦を祈っ
狛ウサギ 調神社社殿 手水 日蓮駒繋ぎ欅

たところ、男の子を無事出産、以来
安産のご利益として篤く信仰されました、このケヤキは枯れ、切株を残しています。

 AM 11:39 浦和宿着 大宮宿まで 6.1km

 左手のうなぎ満寿家先の信号交差点を越すと、左手に中山道浦和宿碑があります、浦和宿に到着です!

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると浦和宿宿内家数は二百七十三軒、うち本陣一、脇本陣三、旅籠十五、問屋場一、高札場一、自身番所一軒で、宿内人口は千二百三十人でした。

宿長は十町四十二間(約1.2km)で、下宿(高砂)、中宿(仲町)、上宿(常盤)で構成され、天領でした。

浦和駅西口交差点を越すと、左手のさくら草通り口に
浦和町道路元標があります、北足立郡浦和町は明治二十二年(1889)に誕生し、昭和九年(1934)浦和市となりました。
中山道浦和宿碑 道路元標 復元道路元標

 野村証券先の左手門前通りに入ると、真言宗豊山派寶珠山玉蔵院があります、弘仁十一年(820)弘法大師の創建で、伽藍は元禄十二年(1699)の災禍後に再建されたものです、家康から寺領十石が寄進されました。

境内の
地蔵堂は安永九年(1780)の建立で浦和市指定有形文化財(建造物)です。

堂内には平安末期造の
木造地蔵菩薩像が安置されています、堂前には元禄九年(1696)と正徳六年(1716)造立の地蔵があります。

並びの埼玉会館に
明治天皇行在所記念之碑があります、明治十一年(1878)巡幸の際、
玉蔵院 玉蔵院地蔵堂 明治天皇行在所碑

ここにあった埼玉県師範学校の校舎が
行在所になりました。

 宿並を進むと右手に山崎屋があります、創業百六十年の老舗うなぎ蒲焼店です、弘化年間(1844〜47)刊の浦和宿絵図山崎屋平五郎蒲焼商と描かれています。

浦和一帯は沼地が多く
うなぎが豊富に獲れました、現在の蒲焼は江戸時代末期からで、それまではぶつ切りでした。

仲町交差点手前の左手に
中山道浦和宿碑があります。

仲町交差点を越し、左手一本目を左折すると左手の仲町公園内に
明治天皇行
山崎屋 浦和宿碑 本陣口 星野本陣跡

在所阯碑があります、ここが星野本陣跡です、星野家は問屋名主を兼ね、敷地は二百二十二坪でした、星野権兵衛は天正十八年(1590)豊臣勢の岩槻攻めの際、道案内を勤め、この功により苗字帯刀が許されました。

皇女和宮は星野本陣にて昼食を摂りました、宿場では総出で、赤飯の炊き出しを行いました。

明治元年(1868)及び三年(1871)の
明治天皇の大宮氷川神社行幸に際して、星野家が行在所となりました。

 先の市場通りを左に入ると、正面に常盤公園があります、鷹狩場御殿跡です、慶長十六年(1611)迄は将軍の鷹狩場御殿がありました。

市場通り口に野菜を商う
市場の女性像があります。

スグ先の左手に
慈恵稲荷神社があります、参道口に天正十八年(1590)建立の二七市場碑御免毎月二七市場定杭と石造の市神があります。

秀吉の家臣
浅野長政が民心安定の為に、二と七の付く日に六斎市を開
鷹狩場御殿跡 市場の女性像 慈恵稲荷神社 市場定杭

かせました、
十返舎一九はその賑わいを「代ものを 積重ねしは 商人の おもてうらわの 宿の賑い」と詠んでいます、この市は昭和の初めまで続きました。

 並びの左手に真言宗豊山派成就院があります、境内には弘法大師堂、六地蔵石幢、延命地蔵尊、南無頭痛除観世音菩薩塔等が有ります。

国道463号線
高架をくぐった先で、JR東北本線浦和橋で渡ります、 この辺りに浦和の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より数えて六里目です。

浦和橋の渡詰めの右手に
笹岡稲荷があります、左が笹岡大稲荷神社、右が笹岡小稲荷神社です。
成就院 浦和橋 笹岡大稲荷社 笹岡小稲荷社

笹が生い茂る岡に祀られたところを社名の由来としています、大小の
稲荷社は夫婦ともいいます。

 市立北浦和図書館前交差点を過ぎると左手に浄土宗廓信寺があります、参道口に紅赤(べにあか)の発祥地解説があります。

明治三十一年(1898)農家で作った薄紅色の
八ツ房(やつふさ)が突然変異した紅赤(通称金時)が発見され、関東一円に普及し、サツマイモの女王とうたわれました、廓信寺はこの発見者の菩提寺でした。

仁王門をくぐると、山門の右手に
観音寺縁故者供養塔があります、廃寺となった観音寺の墓石がここに移設さ
紅赤発祥地解説 廓信寺仁王門 観音寺縁故供養 河西祐之助墓

れています、右端が
一本杉の仇討ちで討たれた河西祐之助の墓石です。

 家康の譜代の重臣であった高力清長は岩槻城主となり、家人中村吉照を浦和の代官に任じました。

代官
吉照は主君清長の死後、その厚恩に報い、廓信寺を創建しました、寺号のは主君の戒名の一字、は代官の戒名の一字をとったものです。

本尊は主君が徳川家康より拝領した元禄十四年(1701)造立の木造阿弥陀如来坐像です。

本堂前の建屋内には元享四年(1
廓信寺 本尊 板石塔婆 小泉蘭斎墓碑

324)建立の
板石塔婆(浦和市指定有形文化財歴史資料)と江戸時代後期の浦和宿の儒者小泉蘭斎(らんさい)の墓碑(浦和市指定有形文化財歴史資料)が保存されています。

 晴れた日は富士が望めたという旧針かへ村(針ケ谷)に入ると、大原陸橋(東)交差点の左手に正徳四年(1714)造立の青面金剛像庚申塔があります、邪鬼、三猿が陽刻されています。

先の左手に
一本杉碑があります、文久四年(1864)正月、ここで一本杉の仇討ちがありました。

千葉周作の門弟
宮本佐内は同門の河西祐之助の腕前を嫉妬し、徒党を組み勝負を挑むが討たれてしまった。

佐内の子
鹿太郎はここで父の仇を討ちました。

その際、河西は身構えたまま微動だにせず、討たせるに任せたといいます、これを最後に
仇討ちは禁止となりました。
庚申塔 一本杉の仇討ち跡 一本杉碑

 与野駅東口交差点の中央分離帯に大ケヤキが聳えていました、浦和と大宮の中間にあるところから半里塚と呼ばれていました。

しかし平成二十二年(2010)伐採されてしまいました、 伐採されたケヤキの
輪切り与野駅構内に展示されています。

この辺りは
六国見と呼ばれ六ケ国(武蔵、相模、甲斐、下野、上野、信濃)の峰が望め、立場がありました。

上木崎交差点を過ぎ北袋町に入ると
半里塚 伐採後 ケヤキ ケヤキ並木

街道の両側は
ケヤキ並木になります、昭和四十二年(1967)埼玉国体開催の記念植樹です。

 三菱マテリアルを過ぎると右側の歩道上にお女郎地蔵火の玉不動尊の二体を安置している祠があります。

右側が天保五年(1834)造立の
お女郎地蔵です、美しい旅籠の女郎が材木屋の若旦那と恋仲になったが、ある悪漢が横恋慕し、悪漢は旅籠に火をつけると脅したので、進退窮まった女郎はついに高台橋から身投げをしてしまった、哀れに思った里人が地蔵を造立し、供養しました。

数々の悪行を重ねた
悪漢は寛政元年(1789))高台橋傍らの下原刑場で処刑されました。

左は寛政十二年(1800)造立の
火の玉不動尊です、ふわふわと飛び回り、人騒がせな火の玉を斬ってみると不動明王であったといいます。
お女郎地蔵 火の玉不動尊

 祠の右(東)側には鴻沼(こうぬま、高沼)用水が暗渠(高沼遊歩道)になり、向(西)側には流れと高台(たかだい)の赤レンガ積みを残しています。

鴻沼用水は八代将軍
吉宗が享保十三年(1728)に開削し、与野方面の低地への灌漑用水としました。

高台橋の辺りには浦和陣屋が設けた
下原刑場がありました。

JR京浜東北線
さいたま新都心駅を過ぎると、右手に氷川神社一の鳥居があります、当初は参道(黄色矢印)が古中仙道でしたが、寛永五年((1628)関東郡代伊那忠次は氷川神社の神域を通行するのは不敬と、一の鳥居前から直進(白色矢印)する新道を開設しました。

一の鳥居を過ぎた辺りに
大宮の一里塚があったともいいますが、存在、位置共に不明です、江戸日本橋より数えて七里目です。
鴻沼用水・高台橋 氷川神社一の鳥居

 PM 1:46 大宮宿着 上尾宿まで8.4km

 吉敷(きしき)町交差点が大宮宿の江戸口です、大宮宿に到着です!

大宮宿は
氷川神社の門前町として発達しました、大宮の地名は氷川神社の雅号の大宮に由来します。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると大宮宿宿内家数は三百十九軒、うち本陣一、脇本陣九、問屋場四、旅籠二十五軒、宿内人口は千五百八人(男六百七十九人 女八百二十九人)で、宿長は九町三十間(約1.04km)で、宿並は宮町、大門町、仲町、下町、吉敷町の五町で構成されました。

吉敷町交差点の右側を渡ると小さな
安藤橋碑があります、宿口に東西に流れる排水路があり、長さ七尺(約2.1m)、幅一間四尺(約3m)の石橋が架かっていました。

安永四年(1775)大宮宿の八十五軒を焼失した
大火の際、勘定奉行で道中
吉敷町交差点 安藤橋碑

奉行を兼ねていたた
安藤弾正惟要(これとし)は被災者に幕府の御用米御用金を施しました、しかし幕府の許可取らずに独断であった為、その責を問われ切腹となりました、宿人はその徳を慕い橋名としました。

 左手には加賀藩前田家屋敷門があります、江戸上屋敷の門を明治になって移築したものです。

次いで右手の路地奥に三体の
子育地蔵があり、並びに塩地蔵があります。

浪人が幼い二人の娘を連れて旅をしていたが、この地で病に倒れてしまった。

嘆く娘達の夢枕に
地蔵菩薩が現れ、その時のお告げに従い、塩断ちをして地蔵に祈ると願いは叶い、父は無事平癒しました。

以来、塩を供えて願を掛けるようになりました。
加賀藩前田家屋敷門 子育地蔵尊 塩地蔵

 下町に入ると、左手の松亀センタービル辺りが脇本陣跡です。

次いで右手の第四銀行大宮支店脇の路地に入ると
旧跡涙橋碑があります、正式名は中の橋でした、下原刑場で処刑される罪人と親類縁者が涙で別れた所から涙橋と呼ばれました。

仲町に入ると、右手の仲町川鍋ビル辺りが
高札場跡で、その右手が栗原脇本陣跡です。

先を右に入ると
倉屋敷稲荷神社があります、元は岩槻城の出城であった
脇本陣跡 旧跡涙橋碑 高札場跡 倉屋敷稲荷神社

寿能城(じゅのうじょう)の倉屋敷に鎮座していたものです。

 左手の高島屋が紀州鷹場本陣跡です、寿能城家老北澤宮内の子孫、北澤次郎左衛門家が勤めました。

紀州鷹場本陣は大宮宿の草分けでした、同家は紀州候の鳥見役を勤めました。

高島屋の屋上には北澤家の屋敷神であった
北澤稲荷を残しています。

大門町に入ると左手のキムラヤベーカリ−辺りが
臼倉脇本陣跡です、宿開設当初から文政年間(1818〜30)まで臼倉新右衛門が勤めました。

先の左手岩井ビル辺りが
山崎脇本陣跡です、臼倉脇本陣の後を引き継ぎ山崎喜左衛門が勤めました。
紀州鷹場本陣跡 北澤稲荷 臼倉脇本陣跡

 宮町に入り大栄橋交差点を越すと、左手に阿弥陀堂があります、脇本陣三軒を勤めた栗原家の持仏堂です。

栗原氏は甲斐武田の旧家臣です、阿弥陀堂には栗原内記と夫人の木像が安置されています、堂前には延命子育地蔵尊が祀られています。

大栄交差点一本先を右に入ると曹洞宗総持寺直系大宮山
東光寺があります、平安時代末期、武蔵坊弁慶の師匠、京鞍馬寺の東光坊祐慶(ゆうけい)が黒塚の鬼婆を法力をもって退治し、鬼婆に殺された人々を供養するために庵を結んだのが始りです、本尊は祐慶の護身仏であった一寸八分の金銅薬師如来像です。
栗原家持仏堂 東光寺 北澤楽天墓

 墓地には
北澤楽天の墓があります、楽天は明治九年(1876)紀州鷹場本陣を勤める北澤家の四男として生まれ、後世、日本近代漫画の先駆者として活躍しました。

 宮町と土手町の境が大宮宿の京口です。

街道の左手に
シイノキが二本あります、土手町の椎の木と呼ばれ街道の目印でした。

スグ先の信号交差点の右が氷川神社の
裏参道通り(黄色矢印)で、古中仙道の西口です、この分岐点には氷川神社社標「官幣大社氷川神社 是ヨリ八丁」があります。

日本武尊が東征の折に、戦勝祈願をした古社で、その後、聖武天皇(724〜49年)のとき武蔵國一の宮と定められました。

治承四年(1180)
源頼朝は社殿を再建し、社領
椎の木 裏参道通り口 氷川神社

三千貫を寄進し、
徳川家は社領三千石を寄進しました。

明治元年(1868)明治天皇は東京遷都に際し、当社を
武蔵国の総鎮守と定めました。

 街道に戻りJR東北本線・東武野田線を第2仲仙道ガードでくぐります。

大宮警察署交差点を越すと
東大成に入ります。

郵便局北交差点を越したCOCO'Sの敷地内に安政七年(1860)建立の
道標「大山 御嶽山 よの 引又(ひきまた) かわ越道」があります、大山は阿夫利神社、御嶽山は青梅の御嶽山への信仰の道を示しています。

マルエツの向いに入り、二本目を右 折すると小さな
八百姫祠があります
第2仲仙道ガード 安政七年の道標 八百姫祠 八百姫大明神

、嘉永七年(1854)建立の
八百姫大明神碑が安置されています、人魚の肉を食して八百歳まで生きたとされる八百比丘尼(やおびくに)が居住した所といいます。

 東大成小学校入口交差点を左に入ると、左手に石上(いそのかみ)神社があります、疱瘡の神として人々の信仰が篤く、戦前までは露店が出る程の賑わいを見せたといいます。

街道に戻ると、北原ビルの前に天保三年(1832)造立の
供養塔があります、「此方 せいふ四り半 きさい五り半」と刻まれ、菖蒲(せいふ)、騎西(きさい)方面への道標を兼ねています。

次いで安永六年(1777)造立の
南無三界萬霊塔があります、願主は大成村で道標を兼ねています。
石上神社 供養塔 南無三界萬霊塔 馬頭観音

 警察学校入口交差点を過ぎると、右手かっぱ寿司の所に享和二年(1802)下鴨野宮村が造立した
馬頭観音像があります。

 右手ミズノの向いに元禄十年(1697)造立の青面金剛像庚申塔があります、耳と眼の病にご利益があり、お願いする時は団子を供えたといいます。

英泉は
大宮宿として、この庚申塔青面金剛文字塔として画面の左端に描いています。

画面右の土手は
土手村です、次いで街道は大成村に入ります。

満開の桜の遠景に富士山、その手前に秩父山地の武甲山(ぶこうさん)を描き、庚申塔の前には農作業を終え、家路を急ぐ爺さんと可愛い孫娘を添えています。
東大成の庚申塔 木曽街道 大宮宿 富士遠景 英泉画

 東北上越新幹線高架をくぐり、東大成町交差点を横断し、先の宮原村大成村の境の手前辺りに東大成の一里塚があったといいますが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて八里目です。

県道164号鴻巣桶川さいたま線を進みます。

宮原村に入り、左手サイゼリアの先に宝暦九年(1759)建立の
橋供養塔があります。

宮原駅入口交差点を越し、右手の大宮宮原郵便局の並びの天神橋バス停の所に
天神橋跡があります、天神橋と刻まれた欄干を残しています。

この石橋は
中山道分間延絵図に記載されています。
新幹線高架 橋供養塔 天神橋跡

 向いには学問の神菅原道真を祀る天満宮があります。

この辺りは加茂村の
立場で、島屋福島屋二軒の茶屋があり、島屋は加賀藩前田家の休憩所でした。

左手の天神橋バス停の所に元禄三年(1690)造立の
青面金剛像庚申塔があります、この庚申塔は塀の間に祀られています、お見逃しなく!

先の右手に
加茂神社があります、京の上賀茂神社を勧請したもので、旧加茂宮村の鎮守です。

参勤交代の折、加賀堀丹波守の妻女が
産気づき、当社に祈願すると陣痛が治まり、国許で玉の如き男子を出生したところから安産の神と親しまれています。
天満宮 庚申塔 加茂神社

 英泉は上尾宿として加茂神社と加茂宮村の立場風景を描いています。

文化七年(1810)幕府が編纂した
新編武蔵風土記稿には「加茂社、加茂宮村の鎮守にして社辺に古杉数株あり、土地のさま旧社に見ゆれども勧請の年代祥(つまびら)かならず」と著されています。

画面手前では刈り取った稲の
脱穀作業を行っています、実際には、この様な作業は街道上では行いませんが、五穀豊穣の神を祀る、京の上賀茂神社豊作を掛け合わせた構図なのかもしれません。

右手の幟
加茂明神に混ざって版元名保永堂と版名竹之内板の幟があります、これは絵師一流の洒落です。
木曽街道 上尾宿 加茂之社 英泉画

 新大宮バイパスをくぐると、右手のJAさいたま宮原支店の敷地内に宮原村道路元標があります。

向いには明治十九年(1886)と昭和三年(1928)建立の
馬頭観世音文字塔が二基祀られています。

この馬頭観音の脇に入り、一本目を右折すると
金山権現社があります、鍛冶師の守護神ですが、槌の遣り取りから夫婦和合の神ともいいます。

境内には修復された文化十一年(1814)建立の
御神燈があります。
新大宮バイパス 宮原村道路元標 馬頭観音 金山権現社

 街道に戻ると右手の明治六年(1873)開校の宮原小学校の校庭に樹齢百二十年のセンダンが聳えています、五〜六月にかけて淡紫色の五弁花をつけ、十月には果実が成熟します(さいたま市指定天然記念物)。

スグ先の信号交差点左の筋が川越に至る、
川越道です。

吉野町交差点を越すと右手に
南方(みなかた)神社があります、吉野村の鎮守です。

五街道中細見独案内諏訪社として記載され、地元ではお諏訪さまと呼ばれ、親しまれています、境内の手水鉢は文政十三年(1830)の建立です。
センダン 南方神社 河村屋

 つつじが丘公園(西)交差点を越すと左手に
河村屋があります、創業文化文政年間(1804〜29)吟醸粕漬の老舗です。

 さいたま市から上尾市栄町に入ります、から転化したものです。

左手に陽刻された
石造不動尊を安置した不動堂があります、堂の前には魂霊神が祀られています。

スグ先の左手に寛政十二年(1800)武州足立郡馬喰新田講中貮拾人が造立した
不動尊道標があります、「是より秋葉へ壱里十二丁 ひご方へ壱里八丁 川越へ三里」と刻まれています。

先の右手に
中山道標識があります、以降要所々に設置されています。
不動堂 不動尊 不動尊道標 中山道標識

 PM 3:42 上尾宿着 桶川宿まで3.6km

 上尾陸橋交差点を越すと愛宕町に入ります、左手に愛宕神社があります、明治初年に神仏分離令により他所より遷座しました、参道口には享保十七年(1732)造立の青面金剛像庚申塔が祠内に安置されています。

右手はら内科クリニック手前の横道に
原市新道標識があります、岩城へ通じていました、この辺りが上尾宿の江戸口です、上尾宿に到着です!

上尾宿は川越、岩槻への追分を控え、近郷の遊興地で飯盛旅籠が多く、二と七の日に市が立ち、江戸日本橋を七つ立ちした旅人の一泊目にあたり大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば上尾宿宿内家数は百八十二軒、うち本陣一、脇本陣三、問屋場
庚申塔 愛宕神社 原市新道

一、高札場一、旅籠四十一軒で、
宿内人口は七百九十三人(男三百七十二人 女四百二十一人)でした。

宿長は十町十間(約1.1km)でした、安政七年(1860)には宿並のほとんどを焼失する大火に見舞われています。

 宿並に入ると右手のはら内科クリニック辺りに上尾の一里塚があったともいいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて九里目です。

向いが川越への
川越道です。

仲町に入り上尾小学校入口交差点先の右手カネコ陶器の隣りが井上脇本陣跡です、井上五郎右衛門が代々勤めました、駐車場奥に脇本陣建物の鬼瓦をブロック塀の上に飾っています。

次いで左手の埼玉りそな銀行辺りが
細井脇本陣跡です、細井弥一郎が代々
上尾の一里塚跡 井上脇本陣跡 細井脇本陣跡 白石脇本陣跡

勤めました。

右手の藤村病院辺りが
白石脇本陣跡です、白石長左衛門が代々勤めました。

 藤村病院の隣りで、氷川鍬神社の向いのサンクス辺りが林本陣跡です、林八郎右衛門が代々勤め、紀州徳川家の鷹場鳥見役を兼ねました。

氷川鍬神社は寛永九年(1632)の創建で上尾宿の総鎮守です、五穀を司る農耕神として小さな鍬二丁を祀っています。

境内には線刻された
聖徳太子像碑上尾郷二賢堂碑記があります、天明八年(1788)雲室(うんしつ)上人朱子公菅原道真の二賢
本陣跡 氷川鍬神社 聖徳太子像碑 上尾郷二賢堂跡碑

人を祀って開いた
学舎二賢堂(じけんどう)です。

 上町に入ると右手奥に真言宗智山派日乗山秀善寺遍照院があります、応永元年(1394)の創建で、本尊は大聖(だいしょう)不動明王です。

墓地に薄幸の
孝女お玉の墓があります、遊女であったお玉は前田侯の参勤通行の際、小姓に見染められ江戸行となりましたが悪い病をうつされ二年で上尾に戻され、二十五歳で亡くなりました、遊女屋の主は憐れみ篤く弔いました。

図書館西交差点手前の右手に上尾上町講中が延享二年(1745)に造立した
青面金剛像庚申塔があります。
遍照院 孝女お玉の墓 庚申塔 酒蔵文楽

 先の
酒蔵文楽は明治二十七年(1894)創業の銘酒文楽の蔵元です。

 宿並を進むと緑丘地下横断道交差点手前の右手に高札場を模した上尾宿解説中山道上尾宿彩の国平成の道標があります、この辺りが上尾宿京口です。

解説の屋根には火事除けの
鍾馗(しょうき)をのせています、安政七年(1860)の大火後は宿並の商家はこぞって鍾馗を屋根に掲げたといいます。

北上尾駅を過ぎると、久保西交差点手前の右手に
武州紅花の仲買で財を成した黒板塀の豪商須田家があります。

この辺りの紅花は
桶川臙脂(えんじ)と呼ばれ、山形最上の紅花に次ぐ生産地でした、桶川の農家七五郎なる者が江戸小間物問屋柳屋から種を仕入れ、栽培したのが始まりといいます。
上尾宿京口 鍾馗 豪商須田家

 町谷バス停先を左に入り、突当りを右折すると諏訪雷電社があります、元禄十五年(1702)の勧請で村の鎮守です、この辺りは落雷の多発地帯でした。

ウエルシア先の右手に明和六年(1769)建立の
庚申供養塔があります。

桶川市に入ると左手に桶川宿並標柱があります。

次いで右手柿の木屋の前に
諏訪雷電神社 庚申供養塔 桶川宿並標柱 地蔵尊

地蔵尊を安置した祠があります。

 PM 4:33 桶川宿着

 先に進むと信号交差点手前の右手に旧跡木戸址碑があります、ここが桶川宿の江戸口(東口)です、桶川宿に到着です!

桶川宿紅花の産地として繁盛し、紅花は京に送られました、の栽培も盛んで武州藍と呼ばれ江戸に送られました。

宿内家数は紅花の商い高とともに増えてゆき、寛永十二年(1635)の宿開設時は五十八軒、寛政十二年(1800)には二百四十七軒、そして天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳による三百四十七軒に急増しています、うち本陣一、脇本陣二、旅籠三十六軒、宿内人口は千四百四十四人(男七百十七人 女七百二十七人)で、宿長は九町半(約1km)でした。

宿並を進むと左手に
武村旅館があります、嘉永五年(1852)築の旅篭紙屋半次郎跡で往時の間取りを今に残しています、明治天皇巡幸の供をした山岡鉄舟が宿泊しました(国登録有形文化財)。
旧跡木戸址 武村旅館

 次いで左手に中山道ふれあい館があります、高齢者いこいの家ですが、トイレが借用出来ます。

左に入ると浄土宗清水山報恩院
浄念寺があります、仁王門は元禄十四年(1701)の再建です、仁王像は明和五年(1768)の開眼で、侵入しようとする法敵から仏法を守護しています。

寛保元年(1741)鋳造の
梵鐘時の鐘で、ご詠歌に「浄念寺 鐘の響きや法(のり)の音 子安の誓い深き桶川」と詠われた名鐘でしたが、戦時中に供出されてしまいました。

浄念寺は室町時代後期の天文十五年(1546)の創建です。
中山道ふれあい館 浄念寺仁王門 浄念寺

 境内の中を見て回りましょう、太子堂には伝来の仏教を保護し、布教に勤め仏教の父とも呼ばれる聖徳太子を祀っています。

並びの
不動堂には元禄(1688〜1704)の頃、畑から掘り出された不動明王像を安置しています、桶川不動尊と呼ばれ信仰を集めています。

徳本名号碑は文政元年(1818)の建立です。

板石塔婆群があり、中央の大きな板石塔婆は貞冶七年(1368)建立で、
太子堂&不動堂 徳本名号碑 板石塔婆 狩野法眼伊白碑

浄念寺の礎となった朗海上人を供養するものです。

絵師狩野法眼伊白の碑があります、狩野派の絵師伊白は諸国行脚の旅に出て、嘉永年間(1848〜54)頃に桶川宿に居を定め、元治元年(1864)この地で生涯を終え、浄念寺に埋葬されました。

 宿並に戻ると桶川名物べに花まんじゅうを商うべにっこ店があります。

べに花の色素を練り込んだ小麦まんじゅうです、繊細な味わいが絶妙です!

すぐ先が
桶川駅前交差点です、ここが桶川宿の起点です。

刻限はPM4:33です、次宿の
鴻巣宿までは8.3km、十分踏破可能な距離ですが、間もなく陽が落ちてしまいます。

今回は検証の旅です、ここまでとしましょう、咽喉も渇いたことだし。
べにっこ べに花まんじゅう 桶川駅前交差点 到着祝い




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