この度、山と渓谷社より ●ちゃんと歩ける 中山道六十九次 (東)江戸日本橋〜藪原宿 五街道ウォーク 八木牧夫 著 ●ちゃんと歩ける 中山道六十九次 (西)藪原宿〜京三条大橋 五街道ウォーク 八木牧夫 著 が出版されました。 出版に際し、中山道全般を歩き直しました、これで4往復達成です。 本マップに写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為に、HPでは写真を豊富にアップしました。 是非、出立なさる前に本マップとHPを照らし合わせ、中山道ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。 中山道は当初、東の海の道と書いた東海道に対して、東の山の道と書いて東山道(とうさんどう)と呼ばれました、その後中仙道となりましたが、正徳六年(1761)、幕府道中奉行は名称を中山道と定めました。 中山道は中部山岳地帯を貫くタフな街道ですが、東海道の川留め(川止め)によるリスクが無いため、日程が立て易く、大いに利用されました。
幕末には皇女和宮降嫁の大通行があり、野心に燃える試衛館(後の新撰組)の若者達はこの道で京を目指しました。 サア、中山道検証の旅に出立しましょう。 例によって、松屋さんで早朝カレーです。 今朝はトマトカレーにしました、スパイスが効いています、効き過ぎて薬膳風です、この味嫌いじゃありません。
栄泉は北西方向から眺めた日本橋を手前に、そして遠景に雪の曙を描いています。 日本橋川の北岸には魚河岸があり、漆喰塗の荷蔵が軒を連ねています。 橋上には天秤棒で寒鰤(かんぶり)を担ぐ魚屋の姿も描かれています。 この魚河岸は関東大震災以後、築地に移転しました。 橋の袂には日本橋魚市場発祥の地碑があります。 日の出はAM5時30分、日本橋はまだ薄暗いです。
引の現金掛け値なしが評判となり、一躍大店(おおだな)となりました。 その後、三井家と越後屋の頭文字をとり、三越となりました。
て、ここの借家で八年間暮らしました、芭蕉は当時桃青(とうせい)と称しました。
長崎屋を訪れ、文化交流の場となりました。
亭は元文二年(1737)俳諧師早野巴人(はじん)が石町鐘撞堂のほとりに結んだ庵です、若き与謝蕪村(よさぶそん)は内弟子としてここに居住しました。
御成道を控え、旅籠が軒を連ねていました。
並びに銭形平次碑があります、平次の住いは、明神下の元の台所町という設定になっています。
折し、甘酒屋の所で本郷通りに合流します。
た際、時の町奉行大岡越前守は本郷は仮名でかねやす、芝は漢字で兼康、と粋な裁決を下しました。 享保十五年(1730)江戸に大火があり、防火上から時の町奉行大岡越前守は本郷三丁目から江戸城にかけての家屋は塗屋(ぬりや)・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦葺きとしました、これにより「本郷も かねやすまでは 江戸の内」と詠われました。
徳川三代将軍家光の乳母であった春日局の墓は無縫塔(むほうとう)で四方に穴が貫通した特異な形をしています、これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉(よみ)から見通せる墓を作ってほしい」という春日局の遺言によるものといいます。
文明年間(1469〜87)太田道灌による江戸城築城の際、京北野天満宮より勧請し、城内に創建されました。 元禄三年(1690)徳川五代将軍綱吉が真光寺境内に遷座させました。
05)建築の商家造りで登録有形文化財です。 本郷弥生交差点を越すと右手は東京大学農学部です、敷地は水戸藩中屋敷跡です。 校内に朱舜水先生終焉之地碑があります、儒学者の朱舜水(しゅしゅんすい)は明から亡命し、水戸藩に招かれてこの地で生涯を過ごしました。
高崎屋の所に追分一里塚跡解説があります、塚木は榎でしたが、度々の災害と道路の拡張によって一里塚は消滅しました、江戸日本橋より数えて一里目です。
往時からのもので、左右は後に建立された供養塔です。
蜀山人(しょくさんじん)と称しました、享和二年(1802)大阪での銅座詰任を終え、中山道を経由して江戸に戻りました、この時の模様を著したのが壬戌紀行(じんじゅつきこう)です、これから何かとお世話になりますので、お参りしておきましょう、合掌! 墓石には南畝太田先生之墓と刻まれています、辞世「生き過ぎて 七十五年くいつぶし 限り知らぬ天地の恩」。
邸内に梅林があったためケイキ(慶喜)さんの梅屋敷と呼ばれ親しまれました。 その後、すぐ脇を鉄道が通ることが決まると、その騒音を嫌って小日向第六天町に引っ越しました、ここに住んだのは明治三十四年(1901)までの四年間でした。
とご利益ありといいます。
十二支の組み合わせによって六十日に一度巡ってくる庚申の日を庚申待ちといい、仏教では帝釈天や青面金剛、神道では猿田彦を祀り一夜を明かす行事です、これは人間の体内にいる三尸(さんし)の虫が寝てしまうと天帝にその人間の悪業を告げてしまうからです、ちなみに六十年に一度庚申年が巡ってくるのが還暦です。
他に徳本名号碑、題目碑、地蔵像庚申塔、馬頭観世音文字塔があります。
、明治四十年(1907)の創業で、亀の子束子の元祖です! 先に進むと、左手のコインパーキングの裏手に馬頭観世音文字塔を安置する祠があります。
秀家は関ケ原の合戦で西軍に組みした為、八丈島に流罪となりました、明治新政府がこれを赦免し、ここに戻りました。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると板橋宿の宿内家数は五百七十三軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠五十四軒で、宿内人口は二千四百四十八人(男千五十三人 女千三百九十五人)でした。 宿長は十五町四十九間(約1.7km)、宿並は上宿、仲宿、平尾宿の三宿で構成されました。
町」と刻まれています、平尾宿から中宿に入ります。 赤レンガ蔵造りの旧商家を過ぎると、右手に遍照院跡があります、境内には多数の馬頭観音があります、かつて境内は幕府公用の伝馬である囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬等の馬繋ぎ場でした。
スーパーライフ先を右に入ると、左手に真言宗豊山派幡場山大聖寺があります、文殊菩薩が本尊であるところから文殊院と呼ばれています、本陣飯田家の菩提寺です。
橋本屋酒店辺りが問屋場跡です、板橋信濃守の子孫板橋左衛門が上宿脇本陣を勤め問屋を兼ねました、正徳二年(1712)隣接して貫目改所が設置されました、荷の重さを制限し人馬の負担軽減を図りました、中山道では追分宿と洗馬宿に設置されました。
の宿泊をしました。 翌日は江戸に到着し、九段清水徳川屋敷に入り、翌月の師走十一日江戸城大奥に入りました。
け、高台にある現在地に移転しました、その際に氷川神社は南蔵院とともに遷座しました。
あります、明治二十二年(1889)ケヤキを主に扱う原木商として創業した材木店(登録文化財)です。
並びに大正五年(1916)建立の馬頭観世音文字塔があります。
す、左折(白色矢印)します、京方面からは中古車屋の先を斜め右の下り坂に入ります。
志村3丁目交差点(白色矢印)を横断歩道で横断します。
水時は一里(約4km)にも広がったといいます。
(1875)戸田橋が架橋されると、戸田の渡しは廃止となりました。
進(黄色矢印)すると左手に水神宮があり、先の戸田橋(東)交差点をヘアピン状にUターンすると歩道があり、先の右手に中山道戸田渡船場跡碑があります。
、ここには現在、橋がありませんので、右折(黄色矢印)し川岸橋で迂回します。
ンの手前を左折してさつき通りに入ります。
戸田市消防署東部分署を過ぎると、変則五差路に突き当たります、下戸田ミニパーク前を進みます、園内には歴史のみち中山道解説があります。
中山道戸田の渡しに関する文書等を豊富に残しています。 左手のファミレスバーミヤンの並びに瀟洒な御堂があります、堂前には対の献灯があります。
女千八十五人)で宿長は十町(約1.1km)でした。
元標があります。
です。
西の本陣と呼ばれました、皇女和宮や明治天皇の休息所となりました。 向いには東の本陣と呼ばれる塚越本陣がありましたが、遺構は残されていません。
地蔵尊です。
は中山道蕨宿碑があります。 錦町三丁目交差点にて国道17号線を横断(白色矢印)します。
境内の筆子塚は寺子屋に通っていた門下生達が師を讃えた頌徳碑です。
この手前の右手に旧中山道一里塚の跡碑があります、辻の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて五里目です。
られています、無病息災に霊験あらたかです。
大正五年(1916)頃の建築です、店前のお助け井戸は関東大震災や東京大空襲で逃げ延びた人達の喉を癒しました。
たところ、男の子を無事出産、以来安産のご利益として篤く信仰されました、このケヤキは枯れ、切株を残しています。
ここにあった埼玉県師範学校の校舎が行在所になりました。
在所阯碑があります、ここが星野本陣跡です、星野家は問屋と名主を兼ね、敷地は二百二十二坪でした、星野権兵衛は天正十八年(1590)豊臣勢の岩槻攻めの際、道案内を勤め、この功により苗字帯刀が許されました。 皇女和宮は星野本陣にて昼食を摂りました、宿場では総出で、赤飯の炊き出しを行いました。 明治元年(1868)及び三年(1871)の明治天皇の大宮氷川神社行幸に際して、星野家が行在所となりました。
かせました、十返舎一九はその賑わいを「代ものを 積重ねしは 商人の おもてうらわの 宿の賑い」と詠んでいます、この市は昭和の初めまで続きました。
笹が生い茂る岡に祀られたところを社名の由来としています、大小の稲荷社は夫婦ともいいます。
れています、右端が一本杉の仇討ちで討たれた河西祐之助の墓石です。
324)建立の板石塔婆(浦和市指定有形文化財歴史資料)と江戸時代後期の浦和宿の儒者小泉蘭斎(らんさい)の墓碑(浦和市指定有形文化財歴史資料)が保存されています。
街道の両側はケヤキ並木になります、昭和四十二年(1967)埼玉国体開催の記念植樹です。
奉行を兼ねていたた安藤弾正惟要(これとし)は被災者に幕府の御用米と御用金を施しました、しかし幕府の許可取らずに独断であった為、その責を問われ切腹となりました、宿人はその徳を慕い橋名としました。
寿能城(じゅのうじょう)の倉屋敷に鎮座していたものです。
墓地には北澤楽天の墓があります、楽天は明治九年(1876)紀州鷹場本陣を勤める北澤家の四男として生まれ、後世、日本近代漫画の先駆者として活躍しました。
三千貫を寄進し、徳川家は社領三千石を寄進しました。 明治元年(1868)明治天皇は東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守と定めました。
、嘉永七年(1854)建立の八百姫大明神碑が安置されています、人魚の肉を食して八百歳まで生きたとされる八百比丘尼(やおびくに)が居住した所といいます。
警察学校入口交差点を過ぎると、右手かっぱ寿司の所に享和二年(1802)下鴨野宮村が造立した馬頭観音像があります。
つつじが丘公園(西)交差点を越すと左手に河村屋があります、創業文化文政年間(1804〜29)吟醸粕漬の老舗です。
一、高札場一、旅籠四十一軒で、宿内人口は七百九十三人(男三百七十二人 女四百二十一人)でした。 宿長は十町十間(約1.1km)でした、安政七年(1860)には宿並のほとんどを焼失する大火に見舞われています。
勤めました。 右手の藤村病院辺りが白石脇本陣跡です、白石長左衛門が代々勤めました。
人を祀って開いた学舎二賢堂(じけんどう)跡です。
先の酒蔵文楽は明治二十七年(1894)創業の銘酒文楽の蔵元です。
地蔵尊を安置した祠があります。
浄念寺の礎となった朗海上人を供養するものです。 絵師狩野法眼伊白の碑があります、狩野派の絵師伊白は諸国行脚の旅に出て、嘉永年間(1848〜54)頃に桶川宿に居を定め、元治元年(1864)この地で生涯を終え、浄念寺に埋葬されました。
|