道中日記 9−174 中山道 ( 桶川 −本庄 ) 46.8km

 
 
街道はある意味生き物です、絶えず変化しています。

私の
街道ウォークは刻々と変化する街道筋の検証旅です、街道マップを扱っている責任上、マップの精度向上と変化によるアップデートは至上命令だと思っています。

街道筋で何かを見つけると、
立ち止まると共にストップウォッチを止め、メモをとり、デジカメ撮影します、寄り道する場合は歩数計をストップさせます。
歩き始める時は、歩数計をセットし、ストップウォッチをONにします。

これら一連の
記録は自分自身の検証でもあります、ですから何往復もするのです。

街道に出陣する日はあくまで
天気優先です、写真の色が違います。


 

 今朝も例により、
早朝カレーです、半熟卵をトッピングしました、豪華ですね、しかし今回のカレーは異様に塩ぽい、体に悪そうな塩分過多です、考え物です。

電車タイムは
始発体制です。


 平成21年10月21日 AM6:04 桶川宿出立 鴻巣宿まで 8.3km

 右手の島村ビル脇に入ると穀物問屋木嶋屋総本家島村家が天保七年(1836)に建てた木造三階建の土蔵(国有形文化財)があります、天保の大飢饉の救済の為に建てたところからお助け蔵と呼ばれています。

宿並に戻ると、並びに御茶處
島村老茶舗があります、嘉永七年(1854)創業の老舗です。

次いで左手に
旧旅籠(国登録有形文化財)があります、古久屋吉右衛門の棟札を残しています。
お助け蔵 島村老茶舗 旧旅籠 蔵造りの商家

 向いの
蔵造りの商家(矢部家住宅)は明治期の建築です、紅花の穀物問屋でした、屋号の木半は主の名木嶋屋半七に因んでいます。

 右手のいけだ花店脇が府川本陣跡です、上段の間、次の間、湯殿等を残しています。

皇女和宮は十一月十三日(二十二日目)府川本陣に宿泊しました。

本陣門脇に
明治天皇桶川行在所碑があります、明治十一年(1878)北陸行幸の際、行在所(宿所)となりました。

次いで左手に
中山道宿場館があります。

その先に
桶川宿碑があります、「左 上尾宿三十四町」「右 鴻巣宿一里三十町」と刻まれています。
府川本陣跡 明治天皇碑 中山道宿場館 桶川宿碑

 東和銀行手前の信号交差点を右に入り、少し進むと右手に稲荷神社があります、嘉禄年間(1225~27)の創建で、桶川郷の惣鎮守でした。

本殿は文化十四年(1817)幕府御用大工立川小兵衛によるものです。

社殿前の
石燈籠一対は安政四年(1857)紅花商人二十四名が寄進したもので、繁栄振りを今に伝えています。

境内の
大盤石(だいばんじゃく)は重さ610kgで、江戸の力士三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたといいます。
稲荷神社 石燈籠 大盤石 ケヤキ稲荷

 境内外れの
大ケヤキの樹洞には稲荷社が祀られています、珍しいですね。

 宿並に戻ると左手東和銀行前に市神社の跡標柱があります、毎月五と十の付く日に五十(ごとう)の市が立ち大いに賑わいました。

市神社はこの市の守護神でした、明治九年(1876)交通の妨げとなったため稲荷神社に移設され、八雲神社として祀られました。

スグ先の左手に弘治三年(1557)創建の曹洞宗龍谷山
大雲寺があります、本陣を勤めた府川家の菩提寺で墓地には歴代の墓があります。

境内には正徳三年(1713)造立の
女郎買い地蔵があります、この地蔵は夜な夜な女郎買
市神社跡 大雲寺 女郎買い地蔵

いに出た為、背中に
(かすがい)が打ち込まれ鎖で繋がれていました、これは若い修行僧への戒めといいます。

 桶川市北一丁目歩道橋の橋脚に一里塚跡解説があります、塚木はで、その根元には石造妙見菩薩が祀られていました、江戸日本橋より数えて十里目です、明治九年(1876)取り壊されました。

先の右手うどん今福屋の前に
木戸址碑があります、上木戸跡で、桶川宿の京(西)口です、皇女和宮通行に際し、木戸は建て直されました。

桶川市役所入口交点手前の右手に
中山道桶川宿碑があります。

桶川市役所交差点手前を左折すると、桶川小学
校内に天保七年(1836)建立の
松山以奈(い
桶川の一里塚跡 木戸址 桶川宿碑 松山以奈り道

な)
り道道標があります、招福除災の神として信仰を集めた東松山の箭弓(やきゅう)稲荷神社への道標です。

 桶川宿を出ると県道164号鴻巣桶川さいたま線の一本道をモクモクと歩きます。

桶川市から北本市に入ります、二ツ家交差点から右の筋は天神道です、貞観十一年(869)創建の古社加納天神への道です。

とんかつ彦家手前の左小路口に
道標がありますが、風化が進んでいる為、判読不能です。

本宿交差点を越すと、左手に
中山道北本宿碑があります、北本は慶長九
道標 中山道北本宿碑 観音堂 子安観音菩薩

年(1604)宿駅が
鴻巣に移転する迄は宿場でした、以後は本宿と呼ばれ立場となり、間の宿として賑わいました。

宮脇書店先の左手に
観音堂があります、子安観世音菩薩像を安置しています。

 右手に真言宗智山派寶塔山稲荷院多聞寺(たもんじ)があります、万治四年(1661)の創建で、本尊は毘沙門天立像です。

境内の
ムクロジは根回り7.5m、樹高27mで推定樹齢二百年(県指定天然記念物)です、実の種は羽根つきの黒玉になります。

境内の
青面金剛像庚申塔は文化十二年(1815)本宿村の人々が造立したものです。

隣りに
一級社天神社があります、寛
多聞寺 ムクロジ 庚申塔 天神社

文二年(1662)名主岡野家が京の
北野天満宮を勧請したものです。

 多聞寺先に江戸時代初期の古中仙道を残していますが、マズは中山道を進んでみましょう。

北本3丁目交差点を過ぎると、右手に浄土宗久運山
勝林寺(しょうりんじ)があります、寛永元年(1624)関東郡代伊那忠次の三男日譽上人の創建です。

次いで左手に
富士塚に建立された東間(あずま)浅間神社があります、この富士塚は江戸時代後期に隆盛した富士講以前の古い富士信仰による築造です。

サア、それでは
古中仙道にトライしましょう、北本駅前交差点に戻ります。

北本駅方面に進み、一本目
埼玉りそな銀行脇を右に
勝林寺 東間浅間神社 古中仙道東口

入ります、ここが
古中仙道の東口です。

 東間踏切を渡り、JR高崎線に沿って進むと、左手に原馬室(はらまむろ)の一里塚西塚を残しています、東塚は明治十六年(1883)高崎線の敷設により取り壊されました、江戸日本橋より数えて十一里目です。

塚上には
稲荷の小祠が祀られ、史蹟一里塚碑(埼玉県指定史跡)があります。

中山道の付替えが行われても
一里塚は新設されませんでした、おそらくは見渡せる範囲内であったからでしょう。

先の左手ブロック塀の中に明治三年(1870)建立の
馬頭観世音文字塔が安置されて
原馬室の一里塚 史蹟一里塚 馬頭観音 馬頭線刻

います、よく見ると頭部にユニークな
馬頭が線刻されています。

 桶川宿は大宮台地の中で最も高所に位置し、気候風土がの栽培に適しており、中山道麦と呼ばれ評判でした。

英泉は
桶川宿として北に広がる廣原の中の農家を描いています、軒先では蓆(むしろ)の上で農婦が名産の麦の穂を扱(こ)いでいます、亭主は囲炉裏で煙管(きせる)の煙草に火を付けています、一服です!

振分荷物を肩に掛けた
旅人が農婦に道を尋ねているのでしょうか、鴻巣方向を指差しています。

街道には
馬子が横乗りした帰り馬が、鴻巣に向かっています。

空に舞う
達が農婦の扱いだ、麦の穂を狙っています、いかにも長閑な雰囲気を醸し出しています。
岐阻街道 桶川宿 廣原之景 英泉画

 JR高崎線に沿う古中仙道を進むと、T字路に突当ります、この先は消滅していますので右折し、JR高崎線の第二中仙道踏切を横断します。

先の
押ボタン信号交差点を左折し、中山道に合流します、京方面からは珈琲館北本店が分岐ポイントです。

深井二丁目交差点右の筋は
天神道です、貞観十一年(869)創建の古社加納天神への道です。

交差点を渡ると
北本市から鴻巣市に入ります、左手に鴻巣加宿上谷新田碑があり
第二中仙道踏切 古中仙道西口 上谷新田碑 金剛院

ます、
人形町に入ります。

右手奥に真言宗智山派高位山
金剛院があります、文明三年(1471)の創建で、本尊は大日如来像です。

 墓地にお首さまがあります、眉目秀麗なる婦人が、身勝手な業を深く懺悔し、「首から上の病ならば私が必ず直さん」との誓願をたて、首を吊りました、以来、霊験あらたかといいます。

同じく
お耳さまがあります、当山第四世住職良壽(りょうじゅ)は耳の病にご利益があるといいます。

街道に戻ると右手に
八幡神社があります、文禄元年(1582)金剛院の境内に創建されました。

境内社に
浅間神社があります。
お首さま お耳さま 八幡神社 浅間神社

 街道脇には雛人形店が軒を連ねています、左手にひなの里鴻巣市産業観光館があり、名産の雛人形が展示されています。

天正年間(1573~92)に京伏見の
人形師がこの地に住みつき影土人形を作ったことが始りといいます。

雛人形作りが盛んになったのは江戸中期で、着付けは関東一といわれ、鴻巣の雛市は江戸十軒店、越谷と並んで関東三大雛市といわれました。
ひなの里 鴻巣市産業観光館 ひな人形 鷲屋製麺所

 右手に安政年間(1854~60)創業の
鷲屋製麺所があります、現代版鴻巣名物は麺の幅が5cmを超える川幅うどんです、鴻巣宿内ではこうのす川幅グルメとして賞味できます。

 AM8:00 鴻巣宿着 熊谷宿まで15.6km

 本町(南)交差点を超えると本町に入り、左手に是よりこうのす宿碑があります、ここが鴻巣宿の江戸(東)口です、鴻巣宿に到着です!

鴻巣の地名は国府の洲高洲そして鴻の宮(鴻神社)の鵠鳥(こうのとり)伝説に由来しています。

慶長七年(1602)
北本村にあった宿場をこの地に移し鴻巣宿としました、松山街道日光裏街道の追分を控え、宿内の上市場、仲市場、下市場の三ヶ所で毎月四と九の日に交代で市が立ち大いに賑わいました、天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると鴻巣宿宿内家数は五百六十六軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠五十八軒、宿内人口は二千二百七十四人(男千百三十二人 女千百四十二人)で宿長は十七町(約1.9km)でした。
鴻巣宿碑 勝願寺惣門 三つ葉葵紋

 宿並を進むと左手奥に浄土宗天照山良忠院
勝願寺(しょうがんじ)があります、徳川家康は鷹狩りの際、度々当寺を訪れ、時の上人の学識に深く感銘し、三つ葉葵の使用を許しました。

壇林(現在の大学等)として隆盛し、寛文年間(1661~73)には関東十八壇林の一つとなりました。

 惣門をくぐると右手に牧野家累代の墓があります、寛文八年(1668)丹後國田辺城主として約二百年続き、明治維新を迎えました。

牧野康成家康の命により、当寺の檀那となった為、歴代の墓がここにあります。

仁王門は大正九年(1920)の再建で、仁王像は秩父三峰神社より寄贈されたものです。

境内に享保十四年(1729)造立の
地蔵尊があります、熊谷堤の権八
牧野家累代墓 仁王門 権八地蔵 芭蕉句碑

地蔵と同種のものといいます。

墓地の入口に
芭蕉忌千句塚があります、辞世の句「けふはかり 人も年よれ 初時雨」が刻まれています。

 本堂の左手に墓碑が並んでいます、手前が信州小諸城主仙石秀久の墓です、慶長十九年(1614)出府の帰途発病し、この地で没しました。

中央の右が
真田信重の墓です、信重は真田信之(幸村の兄で信州松代藩の祖)の三男で慶安元年(1648)鴻巣で没しました、左は信重夫人の墓です。

奥が
真田小松姫の墓です、小松姫は本多忠勝の娘で、家康の養女となり、真田信之に嫁ぎました、小松姫は元和六年(1620)病いの療養のため江戸から草津に向かう途中、この地で亡くなりました。

墓地の奥には
伊奈忠次忠治の墓があります、忠次(ただつぐ)は家康より関東郡代に任じられ、江戸幕府
墓碑群 伊奈忠次・忠治墓 横田柳几墓

財政の基礎を定めました、忠次の次男
忠治(ただはる)は関東郡代を嗣ぎ、勘定奉行を兼ねました。

墓地の脇に
横田柳几(りゅうき)の墓があります、鴻巣の俳人で、天明七年(1787)境内に芭蕉忌千句塚を建立しました。

 宿並に戻ると、本町交差点手前の左手に鴻巣名物奈良漬本舗があります、江戸時代から続く老舗です。

往時この辺りは
用水路に石橋が架かっていたところから石橋町と呼ばれました。

宿並を進み、左手の大黒屋種苗店先を左に入り、少し進むと右手に
東照宮入口標石があります、小路を入ると石祠の東照宮が祀られています。

文禄二年(1593)
家康が鷹狩の際の休泊所をここに建て、秀忠家光が使用しました、敷地は一町四反歩(1.4ha)でした。
奈良漬本舗 東照宮入口 東照宮石祠 東照宮絵図

 宝永七年(1630)以降は使用されず、明暦三年(1657)の
江戸大火後は一部を解体し江戸城に運び、復興に用いられました、元禄四年(1691)御殿跡地に東照宮を祀り、以来除地としました。

 宿並に戻って進むと、左手の歩道上に鴻巣本陣跡標石があります、この手前を左に入ると本陣敷地内に祀られていた、猿田彦大神が残されています。

鴻巣本陣は
野口家が勤めました、皇女和宮は野口本陣で昼食を摂りました。

本陣跡地は現在仲町会館の敷地になっています。

魚常辺りが
脇本陣跡といいます。

鴻巣駅入口交差点が鴻巣宿の起点です、ここには
中山道鴻巣宿解説中山道鴻巣宿標
本陣跡 庚申塔 脇本陣跡 鴻巣宿碑

があります、標柱には「熊谷宿まで四里六町(十六.四粁)」「桶川宿まで一里三十町(七.二粁)」と刻まれています。

 宿並を進むと右手奥に真言宗慈雲山医王院法要寺があります、長禄元年(1457)の創建で、本尊の大日如来行基作と伝えられています。

山門や本堂の瓦には
加賀藩前田家梅鉢紋があしらわれています。

慶安年間(1648~52)
前田侯が参勤の折、宿所であった勝願寺に入る際、門前下馬の定めを見落として騎乗のまま山門に入ったため、宿泊を拒否されました。

急遽、
法要寺に宿泊を懇願し、以来加賀藩前田家の宿所となり、梅鉢紋の使用が許されました。

境内に一対の
狛犬があります、台座には市神街と刻ま
法要寺 梅鉢紋 狛犬

れています、宿並に市の守護神である市神社(いちがみしゃ)が祀られていましたが、明治三年(1870)の大風により倒壊し、狛犬がここに移設されました。

薬師堂前に寛政二年(1790)造立の
青面金剛像庚申塔があります、元は市神社の社前にあったもので鴻巣市指定有形民俗資料です。

墓地に
彰義隊士関弥太郎の墓があります、弥太郎は徳川直参の旗本で、彰義隊士として上野寛永寺、五稜郭で官軍と戦い、明治九年(1876)頃より鴻巣に居住し、名を岡安喜平次と改め、長唄の師匠として余生を送りました。

宿並を進むと左手に明治初期に建てられた
商家(田沼家) があります、この辺りに問屋場があったといいます。
庚申塔 岡安喜平次の墓 田沼家

 本町から本宮町に入ると右手に、地名の由来になった(こう)神社があります、鴻巣宿の総鎮守です。

その昔、ここに
木の神といわれる大樹があって、人々はお供えをして木の神のを避けていました。

ある時、
コウノトリがこの大樹に巣を作り卵を生むと、大蛇がが現れ、卵を飲み込もうとしたがコウノトリが攻撃し、大蛇を突き殺しました。

それ以来、
木の神が人々を害することがなくなったので、里人はこの木のそばに社を祀り、この社を鴻の宮と呼び、この地を鴻巣というようになりました。

社殿の手前左手の
石祠がこのこうのとり伝説の伝わる旧鴻
鴻神社 旧鴻の宮 明治天皇碑

の宮の社です。

参道口には
史蹟明治天皇鴻巣町御晝(昼)食所阯碑があります。

 先に進むと右手に日蓮宗池元院(ちげんいん)があります、境内に鬼子母尊神堂蘭渓堂碑があります。

蘭渓堂如水は幼少期から学問や書に優れ、文政十三年(1830)十五歳で読み書き道場を開設し、以降四十五年に渡り書道教育に尽力しました。

池元院前の加美(かみ)交差点が
Y字路になっています、斜め左に進みます。

この分岐点には
分岐標石「中山道 こうのす」があります、標石には「熊谷宿へ三里三十二町(約十五粁) 京三条大橋へ百
池元院鬼子母尊堂 蘭渓堂碑 加美分岐 分岐標識

二十三里六町(約四百八十四粁)」「桶川宿へ二里四町(約八粁) 江戸日本橋へ十二里十八町(約四十九粁)」と刻まれています。


 県道365号線に入り、JR高崎線を第三中仙道踏切で横断すると箕田(みだ)に入ります。

箕田には
箕田の一里塚がありましたが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて十二里目です。

そば処
滝乃屋の所から左に入る道筋は糠田(ぬかた)河岸(荒川の渡し)を経て松山へ至る、松山道です。

右手に
白山神社があります、境内には元禄二年(1689)造立の地蔵尊百萬遍供養塔石祠等があります。
第三中仙道踏切 松山道追分 白山神社 石仏石塔群

 宮前原自治会集会所手前を左に入ると右手に曹洞宗永林寺があります、寛永十一年(1634)の創建で本尊は不動明王です、境内には六地蔵があります。

次いで左手に真言宗豊山派聖山不動院
光徳寺があります、、天長二年(825)創建の古刹で、本尊は不動明王です、徳川将軍家より寺領五石の御朱印状を拝領しました。

右手に
箕田観音堂があります、往時は吹張山平等院と呼ばれていました、羅生門の鬼退治で知られた源頼光四天王の一人、渡辺綱が永延元年(987)に開基、本尊は源経基が戦いの際に兜の中に頂いていた一寸八分の馬頭観音です。
永林寺 光徳寺 箕田観音堂

 宮登神社入口バス停先を左に入り、先に進むと右手に宮登(みやと)神社があります、村の鎮守です、光徳寺を創建した高野僧源楽の徳を称え聖権現として祀っています。

本殿裏には
宮登古墳(鴻巣市指定史跡)があります、箕田古墳群の中の一基で、直径20m、高さ2m程の円墳です。

宮前交差点を越すと右手に真言宗豊山派白在山龍称院
龍昌寺があります、永長二年(1097)の創建で、徳川将軍家から寺領五石の御朱印状を拝領し、末寺三十六ケ寺を擁していました。

所蔵
の朱印状十一通絹本着色両界曼荼羅二幅
宮登神社 宮登古墳 龍昌寺

は鴻巣市指定文化財です。


 箕田小学校先左手の横道に地蔵が陽刻された道標があります、右面「左こうのす 右くまがや」左面「まつ山二リ半 ひきへ四リ半」と刻まれています。

次いで右手奥に曹洞宗曹傳山
宝持寺があります、渡辺綱(わたなべのつな)が父と祖父の菩題を弔うために創建しました、徳川将軍家より寺領五石の御朱印状を拝領しました。

並びに
氷川八幡神社があります、渡辺綱が、永延二年(988)八幡宮を勧請して創建したものです。

境内に宝暦九年(1759)建立の
箕田碑
地蔵道標 宝持寺 氷川八幡神社 箕田碑

あります、
源経基(つねもと、清和源氏の祖)の徳と、箕田源氏の活躍、この地が武蔵武士の本源地であったことが刻まれています。

 押ボタン信号交差点を越すと、左手に馬頭観世音文字塔が祀られています。

先のみだ治療院の手前を右に入ると、左手に真言宗豊山派若林山
満願寺があります、源氏所縁の古刹で、天正十九年(1591)寺領五石の御朱印状を拝領しています。

先の十字路、小杉建具店の所を右に入ると、左手に
箕田二号墳があります、直径23m、高さ2.7mの円墳です、墳頂には氷川神社が祀られています。
馬頭観音 満願寺 氷川神社 武蔵水路

 
武蔵水路中宿橋で渡ります、武蔵水路は首都圏用水を確保するために利根川から荒川に引き入れた全長14.5kmの用水路で昭和四十年(1965)竣工です。

 先の左手に石塔群があります、何れも風化が進み、判読不明です。

箕田追分交差点が
箕田追分です、右(黄色矢印)が館林行田道です、三ツ木、川面を経て(おし)や館林(上州)城下へ至ります、中山道は直進(白色矢印)です。

追分の左手には
地蔵堂があり、堂前には庚申塔があります。

追分の右手には
中山道標石中山道文間延絵図蓑田源氏ゆかりの地解説、馬頭観世音文字塔があります。
石塔群 箕田追分 地蔵堂 箕田解説

 この追分には立場茶屋富士屋があり賑わいました。

 先に進むと左手のアパート前のブロック塀の間に享保十二年(1727)と正徳四年(1714)建立の石塔が二基並んでいます。

苗木バス停の所に、正徳二年(1712)造立の
青面金剛像庚申塔岡象女之神(みずはめのかみ)が祀られています、灌漑用水や井戸の守護神です。

先に進むと、左手のキグナスの手前を右に入ると
西光寺の参道に寛延元年(1748)造立の青面金剛像庚申塔が祠内に安置されています。
石塔 庚申塔&石塔 庚申塔 田園風景

江戸日本橋より歩きつないで、初めての
田園風景が広がります。

 介護老人保健施設秋桜を過ぎて、交差点を渡ると左手に標石「ここは中山道前砂村」があります、標石には「江戸より十五里余、池田英泉の鴻巣・吹上富士はこのあたりで描かれた」と刻まれています。

英泉は蛇行する街道、植樹された、街道の両側には麦畑、そして遠景に冠雪した富士山を描いています。

画面の手前には
虚無僧が描かれています、虚無僧とは深編笠を被り、尺八を吹きながら托鉢し、諸国を行脚しながら修行しました。

そして天秤を担ぐ
旅商人、振分け荷物の旅人
前砂村標石 岐岨街道 鴻巣 吹上富士遠望 英泉画

を描いています。


 交差点を左に進むと右手に曹洞宗随流山龍昌寺があります、寛永二年(1625)の創建で、関東郡代伊那備前守忠次が開基旦那です。

本堂脇には死者の成仏や自らの死後の極楽往生を願って造られた多数の
板碑が保存されています。

街道を進むと左手に
史跡一里塚標柱があります前砂の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて十四里目です。

右手スズキ自動車の手前を左に入ると、右手に
氷川神社があります。
龍昌寺 板碑群 前砂一里塚跡 氷川神社

前砂村の鎮守です、当社の祭神は
白色を嫌うため氏子内には白壁は無く、白い鶏はいなかったといいます。

 右手スズキ自動車先の左手に入ると観音堂があります、墓地には名主を勤めた江原家歴代の墓があります。

街道に戻って進むと右手に
名主を勤めた江原家があります、庭内に鴻巣市指定文化財解説があります。

文化年間(1810年頃)幕府によって作成された
中山道分間延絵図によれば、前砂村の高札場は村の中程北側にありました。

同家にはこの
高札が十二枚残されています。

植栽の中に安永九年(1780)領主
阿部正敏
観音堂 名主江原家 高札 忍領界石標

建立した
忍領界石標「従是西忍領」が保存されています、隣接する中井村との境界南側に建てられていたものです。

 スグ先前砂交差点のY字路を右吹上駅方面に進みます。

この分岐点には
標石「中山道こうのすふきあげ」があります、標石の各面には「熊谷宿へ二里二十二町(約十粁) 京三条大橋へ百二十一里三十二町(約四百七十九粁)」「桶川宿へ三里十四町(約十三粁) 江戸日本橋へ十三里二十八町(約五十四粁)」と刻まれています。

県道365号鎌塚鴻巣線をモクモクと歩き、JR高崎線を
第四中仙道踏切で横断し、左折してJR高崎線に沿って進みます。

この分岐点には
標石「中山道間の宿吹上」が
前砂分岐 中山道標石 第四中仙道踏切 中山道標石

あります、標石の各面には「熊谷宿へ二里六町(約八.六粁) 京三条大橋へ百二十里十町(約四七二.七粁)」「鴻巣宿へ二里二町(約八.二粁) 江戸日本橋へ十五里二十二町(約六十二.四粁)」と刻まれています。


 スグ先がY字路になっています、右に進みます。

この分岐点には
眼病に霊験あらたかな妙徳地蔵尊が祠内に安置されています。

十七歳の娘が眼病を患い、夢枕に立った亡き母のお告げにより、
六十六部になって旅立った。

すると四年後の
満願の日に全快となり、喜び家路を急ぐが途中で盗賊に襲われ命を落としてしまった。

無念さに娘は
大蛇となって近隣の人々を苦しめ怨みを晴らしていたが、ついには法華経に出会い、得道成仏し、妙徳地蔵尊として後世に仕えることを約したといいいます。
妙徳地蔵分岐 妙徳地蔵 筑波分岐

 先で
県道307号福田鴻巣線に合流します、京方面からはNTT赤白アンテナの手前を右に入ります。

 街道を進むと右手の奥に浄土宗吹上山寶光院勝龍寺があります、慶長年間(1596~615)に徳川家康より寺領八石の御朱印状を拝領し、山門の屋根瓦には三つ葉葵紋があしらわれています、当寺は時の鐘を撞きました。

吹上駅前交差点を過ぎ、酒亭香川の看板の所を右に入ると、左手に
明治天皇御駐輦址碑があります、林茶屋本陣跡です、明治十一年(1878)明治天皇は北陸東海巡幸の際、三条実美を伴いここで休息しました。

街道に戻ると左手に明治三十七年(1904)建立の
軍馬頭尊があります、軍馬として
勝龍寺 三つ葉葵紋 明治天皇碑 軍馬頭尊

徴用された愛馬の供養塔です。


 吹上本町交差点を左折します、この分岐点には標石「中山道間の宿吹上」があります。

吹上本町交差点を右折する道筋は
忍道です、日光東照宮を警護する八王子千人同心の通行道でもありました。

吹上鴻巣宿熊谷宿間が四里六町(約16km)と長かった為、間の宿として発展し、参勤の諸大名八王子千人同心等で賑わいました。

吹上は
(おし)のさし足袋の名産地でした、これは正徳年間(1711~16)時の領主阿部豊後守が家臣の内職として奨励したのが始まりです、そして荒川の鰻榎戸の目薬が名物でした、吹上の地名は晩秋から春先にかけての空っ風(北風)が砂塵を吹き上げる様を由来としています。

右手の煎屋には手焼きせんべいの
まめたびがあります。
吹上本町分岐 煎屋まめたび

 右手に真言宗豊山派瑠璃光山東曜寺があります、境内の外れに文政二年(1819)建立の馬頭観世音文字塔があり、奥に宝暦年間(1751~63)造立のいぼ地蔵尊があります、毎年八月二十四日に地蔵講例大祭が行われます。

次いで右手に
吹上神社があります、日枝神社(山王社)を勧請して吹上の鎮守としました、明治時代に稲荷神社氷川神社を合祀して吹上神社となりました、当社は暴れ神輿で知られています。

吹上本町局先の左手に
中山道間の宿標石と吹上間の宿解説があります。
馬頭観音 いぼ地蔵 吹上神社 中山道間の宿標石

 標石「中山道間の宿」の所から跨線橋でJR高崎線を越えます、橋上からは高崎線の敷設で失われた旧道位置が確認できます。

先に進むと右手に天明六年(1786)建立の
猿田彦大神碑があります、神道の庚申塔です。

スグ先の鴻巣市消防団第15分団の所に
標石「中山道榎戸村」があります、「熊谷宿まで二里(約七.九粁)」「鴻巣宿まで二里十五町(約九.六粁)」と刻まれています。

ここは旧
榎戸(えのきど)の上方で、村は中山道に面して東西五丁、南北六丁余の小村でした、ここを右(黄色矢印)入ってみましょう。
旧道消滅個所 猿田彦大神 榎戸堰口 中山道榎戸村

 左手に吹上、大芦(おおあし)村から糠田(ぬかた)村に至る八ケ村へ田用水を供給した元荒川の榎戸堰があります、風光明媚な所として知られました。

街道に戻ると左手の用水口に
元荒川起点標石があります。

街道を進むと
荒川の土手に突き当たります、この左手に白井権八にちなむ荊原(ばらはら)の権八延命地蔵尊があります。

元禄十一年(1698)の造立で、
久下の熊谷堤下と鴻巣宿の勝願寺に同種のも
榎戸堰 榎戸公園 元荒川起点 荊原権八地蔵堂

のがあります。


 歌舞伎の鈴ケ森に登場する白井権八が路銀に困窮し、地蔵の前で上州絹商人を殺害し、金子三百両を奪った、これを見ていた地蔵に「他言するな」と口封じをしたところ地蔵が「わしは言はぬがぬしも言うな」と答えたところから権八物言い地蔵とも呼ばれました。

権八はその後捕えられ、延宝八年(1680)
鈴ケ森の刑場で磔になりました。

堤道を進むと、
熊谷市に入ります、先のY字路を右に進み、大曲集落に入ります。

右手に
大曲の八幡さまと呼ばれる八幡社
権八延命地蔵尊 大曲集落東口 八幡社 庚申塔

があります、境内に正徳五年(1715)造立の
青面金剛像庚申塔や寛文六年(1666)建立の庚申塔があります。

 大曲集落中程の右手に安永八年(1779)建立の馬頭観世音菩薩文字塔が祀られています。

集落の外れから
熊谷堤上に出ます、京方面からは車止めポール手前のY字路を左に下り大曲集落方面に進みます。

土手道の左手には
荒川の河川敷の景が広がります。

熊谷堤(熊谷八丁堤)は天正二年(1574)針形城主北条氏邦(うじくに)が荒川の氾濫に備えて堤を築き、江戸時代には忍藩が修築を行いました。

往時は
桜並木が有名で久下の長土手とも呼ばれ景勝地でしたが、物騒な所ともいわれました、馬子唄に「久下の長土手 深谷の並木 さぞや寒かろ淋しかろ」と唄われました。
馬頭観音 大曲集落西口 荒川河川敷

 今は快適な堤上の土手道を進みます、左手の荒川の河川敷とはいうものの流れは望めません。

右手堤下のマンションが近づくと、
Y字路が現れます、右(白色矢印)が概ね旧道筋ですが、左(黄色矢印)の土手道をそのまま直進すると決壊の碑があります、それでは折角ですから直進してみましょう。

土手道を進むと右手に一本の植樹が現れます、ここに
決壊の跡碑があります。

昭和二十二年(1947)九月の
カスリーン台風で、この地点の堤が決壊し、洪水は埼玉県北部の村々を襲うとともに、利根川の決壊した濁流と合流し、付近一帯に甚大な被害を与え、多くの人命を奪いました。
堤上分岐 一本の植樹 決壊の跡碑

 決壊の跡碑先を進み、右下の中腹道へ下る踏み跡を探しながら進みます。

右手の堤下に
正一位稲荷神社があります、ここが久下の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて十五里目です。

傍らに天保十二年(1841)建立の
馬頭観世音文字塔があります。

堤の中腹道をモクモクと進みます、しばらく進むと、堤の下道になり、正面に
久下新川村が現れます、すると左手に明治四十五年(1912)建立の久下堤碑があります、修堤記録輪型の碑です。
久下の一里塚跡 稲荷社 馬頭観音 久下堤碑

 村内に入ると右手に久下神社があります、久下新川村の鎮守です。

この地を領した
久下直光が勧請し、元は熊久伊奈利社と称しましたが、明治時代に二十数社を合祀して久下神社となりました、境内の御神燈は嘉永四年(1851)の建立です。

次いで右手に豪壮な
旧家があります、久下は鎌倉時代は久下権守直光の領地で、江戸時代になると忍藩領となりました。

この地は荒川の氾濫で悩まされたが、川筋の改修が行われ、江戸との
舟運が発達し、物資の集散地として栄え、明治になると養蚕で繁栄しました。
久下神社 久下新川村の旧家 瑠璃殿

 先の右手奥に
瑠璃殿があります、境内には千部供養塔、元禄七年(1694)造立の地蔵尊等、多数の石仏石塔があります。

 街道は県道257号冑山熊谷線の高架をくぐります。

しばらく進むと、右手の空地に
奉納成田山と刻まれた石柱が二本立っています、成田不動跡です。

上久下バス停を過ぎると右手民家の門扉脇に
道標があります。

門扉右手に
燈籠道標「ここは久下上宿 右吹上宿 左熊谷宿」があります。

左手に
此の街道旧中山道碑があります、碑には屋号大鍛冶屋と刻まれています。
県道高架 成田山 燈籠道標 旧中山道碑

 スグ先のY字路を左に進むと、右手に久下権八公園があります。

園内に明治十二年(1879)建立の
熊谷堤碑があります、、伊藤博文による篆額で、明治八~十二年(1875~79)にかけて修堤した記録が記されています。

碑の傍らには寛政八年(1796)建立の
賽神(さいのかみ、道祖神)道標「右熊谷道 左松山道」があります、松山道は久下の渡しを示しています。

公園の向いには久下の
権八地蔵堂があります。
久下分岐 熊谷堤碑 塞神道標 久下権八地蔵堂

 堂内には元禄十一年(1698)造立の権八地蔵尊が安置されています、荊原の権八地蔵尊と同種のものです。

いずれの
権八地蔵熊谷堤の両サイドに安置されています、これは多分に熊谷堤は物だから「気を付けなさい」という、里人のやさしさだったのでしょう。

街道は熊谷堤の上りになります、右手に水害の守護神である
九頭龍社(石祠)が祀られています。

次いで右手に
久下の渡し 冠水橋跡碑があります、ここには荒川の舟渡しがありました。
権八地蔵尊 九頭龍社 久下の渡し跡碑 冠水橋

 昭和三十年(1955)
渡し跡に木造の久下橋(冠水橋)が架橋されました、この橋は一車線であったため、車は対岸を確かめ、お互いに譲り合いながら阿吽(あうん)の呼吸で橋を渡ったところから思いやり橋とも呼ばれました。

 久下の渡し跡碑先で熊谷堤上の土手道に合流します、京方面からは突当りの車止めポール手前から斜め左に下ります。

土手道を進み、突当りの
車止めポール手前から斜め右に下ります、京方面からは熊谷堤上の土手道に合流します。

下り切ると右手民家の塀内に
みかりや跡解説があります、忍藩の殿様鷹狩の際、ここで休息したところから御狩屋(みかりや)と呼ばれました。

しがらきごぼう久下柚餅子(ゆべし)、鮎うるかが名物の茶屋でした。
久下熊谷堤東 久下熊谷堤西 みかりや跡

 英泉は熊谷宿として画面右手奥に蛇行する荒川の八丁堤を、そして画面左手に立場久下村のみかりや茶屋を描いています。

店先には
あんころうんとん(うどん)と描かれた看板があります。

床几には上半身裸の
馬子が煙管をくわえています、後ろのは飼葉桶に頭を入れて秣(まぐさ)を喰っています。

画面の右手には
権八地蔵を描き、傍らの道標には「左 深谷二里廿町」「右 おしぎょうだ道」と記されています。

以上、三組のそれぞれの位置関係は距離的に離れていますが、それらを圧縮して、一つの画面に収めています。
岐阻道中 熊谷宿 八丁堤ノ景 英泉画

 森田住宅設備機器の所で左からの筋に合流します、京方面からは重要なY字路分岐です、右に進みます。

左手に曹洞宗梅龍山
東竹院があります、建久二年(1191)久下直光の開基で、墓地には久下権守直光次郎重光の墓があります。

寺紋は久下氏の紋一番文字です、これは頼朝挙兵の際、一番に馳せ参じた功により賜った家紋です。

境内にある
だるまいしは寛文年間(1661~72)忍城主が達磨大師に似た岩
久下熊久分岐 東竹院 久下直光重光墓 だるまいし

を秩父から筏で城中に運ぶ途中、川に落としたものです、度重なる
荒川の洪水により行方不明になっていたが大正十四年(1925)当院の前で偶然に発見されました。

 熊久公園入口バス停を過ぎると、元荒川熊久(ゆうきゅう)で渡ります。

この辺りが
久下直光熊谷直実との所領争いの境界でした、橋名は両名の一字をとったものです、この辺りは東下りの左富士で知られました。

元荒川は寛永六年(1629)関東郡代伊奈忠治によって、現在の荒川入間川に付け替えられるまでは荒川の本流でした。

元荒川の清冽な流れには天然記念物ムサシトミヨが生息しています。

熊久橋から先は左図の通りに進みます、先の信号交差
元荒川 久下佐谷田分岐 交通安全地蔵

点には
交通安全地蔵尊が祀られています。

 日蓮正宗佛説寺を過ぎると、先の右手曙公園内に八丁の一里塚解説があります、江戸日本橋より数えて十六里目です、園内には遷宮記念碑があります。

先の右手四階建アトリエⅡマンションの角を右折し、秩父鉄道を
持田No.25踏切で横断し、上越新幹線高架をくぐり、JR高崎線を第六中仙道踏切で横断します。

歩車分離信号交差点を左折すると熊谷駅前に
熊谷次郎直実像があります、永冶元年(1141)熊谷寺の本堂辺りにあった熊谷館で生まれる、若くして勇猛をうたわれ、寿永三年(1184)一の谷の合戦平敦盛を討取るも世の無常を悟り、建久三年(1192)には久下直光との所領争いに敗れ、ついに出家し、京に上り法然の弟子となりました。
八丁の一里塚跡 踏切 熊谷次郎直実像

元久二年(1205)
熊谷に戻り、館跡にを結び、建永二年(1207)亡くなりました。

 AM11:40 熊谷宿着 深谷宿まで 11.9km

 街道は突当りの銀座一丁目交差点を左折し、国道17号線に合流します。

薄緑色の
筑波歩道橋が熊谷宿の起点です、熊谷宿に到着です!

ここを左に入るとJR高崎線の
熊谷駅です。

熊谷宿は忍藩領で陣屋が置かれました、秩父街道の追分や荒川の舟運を控え大いに賑わったが、飯盛は近隣助郷村の強い反対で置かれませんでした。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると、熊谷宿宿内家数は千七百十五軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠四十二軒で宿内人口は三千二百六十三人(男千七百六人、女千五百五十七人)でした。

宿並は明治十七年(1884)の大火、そして昭和二十年(1945)八月十四日終戦前夜の大空襲で灰燼に帰しました。
銀座一丁目 筑波交差点

 熊谷市役所入口交差点先の右奥に旧県社高城神社があります、武蔵國大里郡の総鎮守で延喜式に記載されている古社です。

天正十八年(1590)社殿は
石田三成の忍城攻めの兵火で焼失し、現在の社殿は寛文十一年(1671)忍城主阿部忠秋が再建したものです。

境内には
紺屋が奉納した天保十二年(1841)建立の青銅製常夜燈や樹齢八百年のケヤキの大樹があります。

境内の左手には
熊谷酉の市起原碑があります、明治三十九年(1906)以来酉の市が立
高城神社 青銅鳥居 酉の市起原碑 大ケヤキ

ちました。


 宿並に戻り左側を進むと、市営駐車場入口交差点の手前に札の辻跡標石があります、高札場跡です。

高札は高さが一丈一尺(約2.3m)、横幅が六尺四寸(約2m)の大きさで、十四枚が市指定文化財として残されています。

本町一丁目交差点を右に入り、一本目を右折すると左手に
千形(ちかた)神社があります、永治年間(1141~42)この付近に猛熊(もうゆう)が往来し、里人を悩ました、熊谷次郎直実の父直貞がこの猛熊を退治し、血が流れた所に祀ったのが千形神社です、当初血形神社と呼ばれました。

千形神社に隣接する駐車場一帯は
忍藩陣屋跡です。

ここに
明治天皇行在所跡碑があります、明治十一年(1878)
札の辻跡 千形神社 忍藩陣屋跡

北陸東海巡幸の際、竹井家に休泊しました。

 宿並の左側に戻ると、足利銀行の向いに本陣跡標石があります、竹井家が勤めました、敷地千六百坪、建坪七百坪、部屋数四十七室を有する、屈指の規模を誇る本陣でしたが、明治の大火と、終戦前夜の空襲で失われました。

皇女和宮
二十一目の宿泊所でした。

鎌倉町交差点を左折し、一本目を右に入ると名勝
星渓園(せいけいえん)があります、竹井本陣最後の当主竹井澹如(たんじょ)が建てた別邸で、池は玉の池と呼ばれ、星川の源流になっています。
本陣跡 星渓園玉の池 天柱石 袖振石

 園内には
天柱石(角柱)と袖振石があります、加藤清正が朝鮮半島から持ち帰り、豊臣秀吉に献上し、後に忍城主松平忠吉が譲り受け、竹井家が保管していたものです。

 鎌倉町交差点を渡ると、右手(黄色丸囲み)に熊谷市道路元標があります。

ここを右(黄色矢印)に入ると、浄土宗蓮生山
熊谷(ゆうこく)ガあります、熊谷直実は出家し、蓮生と号しここに庵を結びました、この草庵跡幡随意(ばんずいい)上人が伽藍を建立したのが始まりです、墓地には直実の墓といわれる宝篋印塔があります、家康は深く帰依し朱印三十石を寄進しています。

八木橋デパートの
東口から入り、
八木橋デパート前 熊谷市道路元標 熊谷寺 旧中山道跡碑

西口に抜ける館内通路が旧中山道跡です、東口の左手に旧中山道跡碑があります。

 東口を出るとここにも旧中山道跡碑があります。

目の前の押しボタン信号交差点を横断し、
一番街アーチをくぐり、スグ先のY字路を右に進みます。

刻限は正午良い感じの
一番食堂があります、雰囲気満点です、中に入ると酩酊したご老人一人がすでに座敷で寝ています、もう一人のお年寄は酎ハイを傾けています、正に地域密着型のお店です。

すっかり秋めいては来ましたが、ビューッと歩くと薄っすらと汗をかきます、
冷えたビールの咽喉越しは別格です!オーダーはタンメンです、野菜が盛り沢山であっさり味です、イケます!!但し細麺です、やはりタンメンは太麺が良いですね。
旧中山道碑 一番食堂 潤い タンメン

 お店を出る頃には、
酎ハイのお年寄りも座敷で寝ていました。

 サア午後の部のスタートです、この筋は熊谷寺の門前町を形成し、旅籠が軒を連ねていました。

旧道を進むと左手に明暦二年(1656)創建の臨済宗妙心寺派雪渓山
松巌寺があります、熊谷空襲によって、山門の一部を残して、すべてが焼失しました。

右手の
八坂神社を過ぎると、旧道は石原(南)交差点国道17号線に合流します。

京方面からは斜め左に入ります。
松厳寺 八坂神社 石原(南)分岐 石原一丁目歩橋

街道の左側を進み、石原一丁目歩道橋の手前を左(黄色信号)に入ると
かめのみち公園があります。

 園内に秩父道道標が三基移設されています、元は秩父街道の入口にあったものです、往時は秩父札所の観音信仰は盛んでした。

奥は明和三年(1766)建立
ちゝぶ道 志まぶへ十リ、中央は安政五年(1858)建立秩父観音順禮道 一ばん四万領寺へたいらみち十一里、手前は弘化四年(1847)建立寳登山道(ほどさんみち) 是ヨリ八里十五丁と各々刻まれています。

熊谷警察署前交差点そして石原北交差点を過ぎると、
梅林堂(和菓子店)の所から斜め左に入ります、京方面からは国道17号線に合流します。

旧道に入ると右手に
新島の一里塚(北塚)を残し
秩父道道標 新島分岐 新島の一里塚

ています、塚木は樹齢三百年の
ケヤキで熊谷市指定文化財史跡です、江戸日本橋より数えて十七里目です。

 新島の一里塚の向いに魔多利神(またりしん)石塔が祀られています、明治廿五年(1892)の建立、天台宗の阿弥陀経及び念仏の守護神です。

先に進むと右手に
大雷(だいらい)神社社標があります、文禄年間(1592~96)にこの地を開拓した新島右近が村の鎮守として創建したものです。

向いには安永九年(1780)建立の忍藩十万石の
領界石「従是南忍領」(埼玉県指定文化財史跡)があります。

右手のコミヤ自動車を過ぎると、左手に
魔多利神石塔 大雷神社社標 忍領石標 新照寺

浄土宗松原院浄観山
新照寺があります、境内に多数の石仏石塔があります。

 宮塚古墳通りを横断し、先のY字路右に進んで玉井堰幹線用水路(柿沼堀)を跨ぎます。

次いで
玉井堰幹線用水路(代堀)を跨ぎます。

左手の埼玉県大里農林振興センター先で旧道は
国道17号線に突き当たります。

久保島歩道橋で国道17号線を跨ぎます。

先を斜め右の県道264号原郷熊谷
柿沼堀 代堀 国道17号線横断 久保島旧道東口

線に入ります、右手に
千島内科クリニックがあれば正解です。

 細い用水に架かる筋違橋を渡ります、ここは玉川窪川越場跡です。

安政二年(1855)刊の
五街道細見独案内に「満水のときは往来を人足で渡す」と著されています。

次いで右手に
不動明王を安置する不動堂があります、大日如来の化身で、人間の持つ欲望や迷いを断ち切ってくれます。

玉井(南)交差点手前の左手に
観音菩薩を納めた観音堂があります、衆生の苦しみから救ってくれます。
玉川窪川越場跡 不動尊 観音堂 観世音菩薩

 熊谷バイパスを玉井(南)交差点に架かる玉井歩道橋で渡ります。

右手に広がる田園の奥に
社の杜があります、それでは行ってみましょう。

石造鳥居があり、丘上に
浅間神社が祀られています、この丘は富士塚なのかもしれません。

旧道に戻って進み、押ボタン信号交差点先の上ノ茶屋集会所脇に
子育て地蔵尊が祀られています。

この辺りは熊谷宿と深谷宿の中間にあ
社の杜 浅間神社 地蔵祠 子育て地蔵尊

たり
茶屋がありました。

 左手の手打そばうどんの庄屋先の押ボタン信号交差点を越すと右手に観音堂があります。

観音堂には
観世音菩薩立像が安置されています。

堂脇の祠内には三体の
地蔵尊が安置されています。

街道沿いには台座に玉井邑(むら)と刻まれた
庚申塔や正徳三年(1713)造立の青面金剛像庚申塔が並んででいます。
観音堂 観音菩薩像 地蔵尊 庚申塔

 先に進み奈良堰幹線用水路市右衛門橋で渡ります、往時この辺りは荒川の水利権をめぐって争いが絶えませんでした、そこで奈良井村の吉田市右衛門が私財を投じて、用水路の整備を行いました、農民は感謝し、名を橋名としました。

ベルク先の信号交差点を左に進むとJR高崎線の
籠原駅です、交差点を越すと左手に明治天皇御小休所跡碑があります、ここは籠原立場志がらき茶屋本陣がありました。

次いで右手に
地蔵堂があります、小さな地蔵坐像が安置されています。

街道は熊谷市から深谷市の
東方(ひがしがた)に入り
市右衛門橋 明治天皇碑 地蔵堂

ます、
日本武尊が東征の折、この地で「東の方は何れに当たるや」と尋ねたことが地名の由来になっています。

 ヘアーサロンサイトウを過ぎると、右手のブロック塀に囲まれた中に文化四年(1807)建立の馬頭観世音文字塔等が三基祀られています。

スグ先の左手には
東方の一里塚を残しています、塚木はケヤキで、江戸日本橋より数えて十八里目です。

先の右手に寄進された赤鳥居が居並ぶ
鬼林稲荷神社があります。

次いで右手の千村接骨院の向いに
青面金剛像庚申塔が二体祀られています。
馬頭観音 東方の一里塚 鬼林稲荷神社 庚申塔

 武野屋商店先の右手に道標「右なかぜみち」があります、舟運で賑わった利根川沿いの中瀬河岸への道標です。

東方町二丁目交差点を渡り、JA幡羅支店を過ぎると、右手に
熊野大神社鳥居があります、それでは踏み込んでみましょう。

天正年間(1573~92)この地に
庁鼻和(こばなわ)を構えた、深谷上杉氏の家臣秋元景朝長朝親子が碓氷峠の熊野神社を勧請したもので庁鼻和城の守護神でした。

街道は
イチョウ並木になります、安政年間(1854~59)には四百本の並木道で、
道標 熊野大神社鳥居 熊野大神社 深谷並木

深谷並木と呼ばれました。

 左手の並木製菓の向いを右に入ると、左手の台上に御嶽(みたけ)神社が祀られています。

ヤナセ自動車を過ぎると、左手に
木曽御嶽山遥拝所があります、街道沿いには常夜燈があり、境内には一心行者記念碑や石造物が多数あります。

次いで右手に
愛宕神社があります、往時は八町八反の社叢を有していました、境内に昭和十二年(1937)建立の芭蕉句碑「冬枯れや 世は一色の 風のおと」があります。
御嶽神社 御嶽山遥拝所 愛宕神社 芭蕉句碑

 幡羅(はら)中学校前の信号交差点を左に入り、先を左に回り込むと臨済宗南禅寺派国済寺があります。

康応二年(1390)
深谷上杉氏の祖、第六代関東管領上杉憲英(のりふさ)の創建です。

黒門三門本堂が直線的に配置され、本堂裏には応永十一年(1404)に没した憲英の墓や上杉氏歴代の墓があります。

寺の裏手は憲英が築いた
庁鼻
国済寺黒門 国済寺三門 国済寺本堂 上杉家歴代墓

(こばなわ)城跡で、築山土塁を残しています。

天正十八年(1590)
徳川家康より寺領三十石の朱印状を下付されました。

 幡羅中学校前には深谷並木の名残り松があります。

並びの常盤小学校の向いに
水村五十周年記念碑があります。

原郷交差点手前の左手に
みかへり乃松碑があります、深谷宿に泊まった旅人が江戸に向かって旅立つ朝、この松の所で振り返って前夜にちぎりを交わした遊女と別れを惜しんだといいます。

この
みかへり松は平成十八年(2006)二月枯死により伐採されました、今は二代目が植栽されています。
名残り松 水村五十周年碑 みかへり乃松 原郷交差点

  国道17号線を
原郷(はらごう)交差点で斜めに横断します。

 PM2:57 深谷宿着 本庄宿まで11.0km

 信号交差点を越すと、右手に旧深谷宿常夜燈があります、ここが深谷宿の江戸(東)口です、深谷宿に到着です!

宿内には五と十の付く日に
が立ち、舟運の中瀬河岸を控え、商人町として発展し、江戸を出立した旅人の二日目の宿泊地にもあたり大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると、深谷宿の宿内家数は五百二十五軒、うち本陣一、脇本陣四、旅籠八十軒で、宿内人口は千九百二十八人でした。

英泉は深谷宿内の
飯盛風景を描いていま
深谷宿江戸口 岐阻街道 深谷之驛 英泉画

す、八十軒の
旅籠はそれぞれ二~三人の飯盛を抱え、宿内人口千九百二十八人のうち、男は八百九十五人、それに対して女は千三十三人でした。

 宿並に入ると右手に堂々とした和洋折衷造りの大谷邸があります、江戸時代からの豪商で、昭和の大恐慌時に失業者救済の為に建てものです。

次いで左手に
だいまさがあります、往時から続く商家です。

先の信号交差点を右に入ると、浄土宗稲荷山
東源寺があります、山門前に明和五年(1768)建立の菊図坊(きくとぼう)祖英塚「死ぬ事を 知って死ぬ日や としのくれ」があります、加賀國出身の俳人で仲町の杉田脇本陣に滞在し、宿内の人々に俳句を指
和洋折衷の旧家 だいまさ 菊図坊祖栄英塚 稲荷神社

導しました。

ファミリーマート手前を左に入り、一本目を左折すると
稲荷神社があります、長源寺の山号や稲荷町の由来です。

 唐沢川手前の左手に行人橋石碑があります、明治三十一年(1898)北爪義勝の書、江戸期は唐沢川が度々氾濫し橋が流されました、行人という僧が托鉢をしてこの石橋を架けたと刻まれています。

唐沢川行人橋で渡ります、深谷の地名は唐沢川の深い谷に由来しています。

本住町交差点を右に入り、一本目を右折すると左手に新義真言宗延楽山神霊坊福寿院
金胎寺があります、家康の甥である松平康直の開基です。

反転し、先程の通りを越すと右手に浄土
行人橋石碑 唐沢川 福寿院金胎寺 浄安寺

宗大翁山三高院
浄安寺があります、家康は岩槻城攻めに功のあった甥の松平源七郎康直に深谷城一万石を与えました、康直は当寺を創建するも文禄二年(1593)二十五歳で没しました、当寺にはがあります。

 通りに戻り、更に直進し、国道17号線を城址公園入口交差点で横断した先の右手に深谷城址があります。

国済寺にあった
庁鼻和(こばなわ)の上杉氏五代目房顕(ふさあき)は古河公方勢との戦に備えて、より堅固な深谷城を築城しました。

その後
北条方に組みした為、豊臣秀吉の小田原攻めの前に降伏し開城となりました、徳川家康が関東に入府すると、徳川一族や譜代家臣の居城となりましたが、寛永十一年(1634)廃城となりました。

宿並に戻ると右手に
きん藤(とう)旅館があります、脇本陣跡です、創業者の藤平(とうべい)が近江出身であった為、屋号を近藤(きんとう)としました、裏に明治天皇深谷御
深谷城址 脇本陣跡 明治天皇碑

小休所阯碑があります。

 きん藤旅館の向いにレンガ卯建の旧商家があります。

仲町交差点を左に進むとJR高崎線の
深谷駅です、駅前に渋沢栄一像があります、天保十一年(1840)血洗島の農家に生まれ、尊皇攘夷に奔走し、後に一橋家に仕え、慶応三年(1867)徳川慶喜の名代として徳川昭武に随行して渡欧しました、明治元年(1868)に帰国し、大隈重信の勧めで大蔵省に入るも、大久保利通と対立して辞職、以後は実業界で活躍しました。

深谷には明治二十年(1887)郷土の英雄
渋沢栄一等が設立した、日本で最初の機械式煉瓦製造工場がありました、利根川の氾濫によって生じた堆積土が煉瓦に適していました、又深谷は江戸時代にはが名産であり、この技術が煉瓦造りに活かされました。
レンガ卯建商家 渋沢栄一像 深谷駅

 この
レンガは東京駅、迎賓館、東京博物館、日本銀行旧館、法務省旧館そして深谷の駅舎等に使用されました。

 宿並に戻ると左手にレンガ造りの和菓子店伊勢屋があります。

次いで右手に嘉永元年(1848)創業、銘酒
東白菊の蔵元藤橋藤三郎商店があります、レンガ造りの煙突が聳えています。

深谷交差点を越すと右手に
飯島印刷所があります、飯島本陣跡です、宝暦二年(1753)より本陣を勤め、上段の間、次の間、入側(いりかわ)を残しています。

皇女和宮は飯島本陣にて昼食を摂
伊勢屋 東白菊 本陣跡 七ツ梅

りました。

次いで右手に三百年続いた銘酒
七ツ梅の元蔵元があります、レンガ造りの煙突を残しています。

 田所町に入ると左手に文久三年(1863)創業、銘酒菊泉の蔵元滝澤酒造があります、やはりレンガ造りの煙突が聳えています。

宿並は
枡形になります、この枡形内の左手に吞龍院があります、境内に子守地蔵が祠内に安置されています、昭和六年(1931)九月二十一日、埼玉県大里郡寄居町付近を震源地とする西埼玉地震で犠牲になった子供達を供養しています。

向いに天保十一年(1840)建立の
深谷宿常夜燈があります、ここが深谷宿の京(西)口です。

富士講の人々が寄進したもので、高さ約4mは中山道筋最大級です。
菊泉 吞龍院子守地蔵 深谷宿常夜燈

 深谷宿を出て、押ボタン信号交差点を右に入ると左手に天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)があります、嘉永年間(1848~54)の創建で、火伏の神として勧請されました。

街道に戻り、先を左に入り、JR高崎線を
清心寺前踏切で横断すると、正面に浄土宗石流山八幡院清心寺があります、天文十八年(1549)の創建です。

境内に
岡部六弥太が建立した平忠度供養塔があります。

六弥太は一の谷の合戦で平清盛の弟忠度(ただのり)を討ち取り、その菩提を弔う為に、領内で一番景色の好いここに五輪塔を建てました、これにより六弥太は武勇と情を合わせ持つもののふとして、武士の鑑といわれました。
天手長男神社 清心寺 平忠度墓

 街道に戻って進むと、右手に萱場稲荷神社があります、境内には水天宮水神宮が祀られています、萱場は岡部六弥太の所領でした。

宿根交差点国道17号線を斜めに横断します。

旧道に入ると
瀧宮(たきのみや)神社があります、宿根村の総鎮守です。

明応五年(1496)大旱魃の時、領主加賀野守
源香丹がこの地を掘ったところ、滝の如く水が湧き出ました、この神徳に感謝して社殿が建立されました。
萱場稲荷神社 宿根旧道東口 瀧宮神社 池跡

 往時は宿根村から日光山中禅寺が望めたといいます。

宿根旧道は先で
国道17号線に吸収されます、京方面からはGS出光の斜め左に入ります。

スグ先の岡部(南)交差点一本先の右手が曹洞宗良告山
正明寺です、本尊は岡部六弥太の守本尊である厄除け薬師如来です、参道口には馬頭尊等の石仏石塔が多数あります。

次いで右手に正一位稲荷大神の扁額を掲げる
石造鳥居があり、奥に社殿
宿根旧道西口 正明寺参道 正明寺 稲荷神社

が祀られています。


 火の見ヤグラを越すと右手に曹洞宗玉鳳山源勝院があります、山門前には明治天皇御休憩蹟碑があります。

徳川家康に仕えた
阿部信勝は武田軍との戦で功を挙げ、岡部藩二万石が与えられ、源勝院を菩提寺としました。

墓所には二代目
信盛から十三代目信寶(のぶたか)まで十二基の屋根付位牌形墓碑が世代順に並んでいます。

初代
信勝は関ケ原合戦の前に、家康に従い大阪城に詰めていた際に、亡くなり大阪の鳳林寺に葬られました。
明治天皇碑 源勝寺 阿部氏歴代の墓

 岡部(北)交差点手前の左手に史跡高島秋帆幽囚地入口標石があります、この交差点を左に入り、三本目を右折して進むと、左手に高島秋帆幽囚の地碑があります、ここが岡部藩陣屋跡です、岡部藩には城が無く、陣屋を構えました。

高島秋帆は幕末の砲術家で、天保十二年(1841)幕命により徳丸ケ原(東京都板橋区)にて西洋砲術の演習を行ったところ、幕府の守旧派の反目をかい、追放となり岡部藩預かりとなり、三年間幽閉されました、嘉永六年(1853)ペリーが来航すると、幕府は近代兵学の必要性から急遽秋帆を赦免し、砲術方教授としました。

街道に戻り、岡部(北)交差点を越すと、右手奥に
岡部神社があります、往時は聖天宮と称し、本殿には歓喜天像を祀っています、岡部六弥太忠澄の祈願所、そして岡部藩主歴代の崇敬篤く、同じく祈願所でした、明治十二年(1879)岡部神社と改称されました。
秋帆幽囚標石 秋帆幽囚地碑 岡部神社

 岡部交差点を越した先、左手民家内に地蔵尊と天保三年(1832)建立の馬頭尊が安置されています。

次いで右手に曹洞宗
普済寺があります、岡部六弥太忠澄が栄朝禅師を招いて開山しました、栄朝は栄西を師事し禅宗を広く布教しました。

参道口に武州榛名郡岡部と刻まれた
領界石や境内に平忠度歌碑「ゆきくれて 木のしたかげを やどとせば 花やこよいの 主ならまし」があります、一の谷の戦いで六弥太が平家武者を討ち取ると、(えびら)の
地蔵尊&馬頭尊 岡部藩領界石 普済寺 平忠度歌碑

中に、この一首があり、
薩摩守忠度としたためてありました。

※後世、謎かけに
「キセルと掛けて、薩摩守と解く、その心は忠度(タダ乗り)」と揶揄されました。

 普済寺交差点を右折して進むと、左手に岡部六弥太忠澄之墓があります。

建屋の中に
五輪塔が三基並んでいます、中央が六弥太忠澄、左が夫人玉の井、右が父行忠の墓です、六弥太の墓石を煎じて飲むと、子のない夫人には子が、乳の出ない母は乳が出るとの迷信があり、現存する五輪塔は削られて変形しています。

岡部六弥太忠澄は武蔵七党の一つ猪俣党の出身で、源義家の家人として保元平治の乱で活躍し、熊谷次郎直実等と共に源氏十七騎の一人として勇名を馳せました。

源義家が
平清盛に敗れると郷里の岡部に戻ったが、治承四年(1180)源頼朝が挙兵すると出陣し、木曽義仲を追
岡部六弥太墓所 六弥太家族墓 六弥太墓

討し、寿永三年(1184)
一の谷の戦いで、平氏の名将平忠度(ただのり)を討ち取りました。

 普済寺(北)交差点を過ぎると、右手に寶登山神社があります、埼玉県秩父郡長瀞町の宝登山(ほどさん)の麓にある神社で秩父三社のひとつ、火災除、盗難除、諸難除の守護神です。

先の右手の民家の敷地内に大きな木製の
漬物桶が地面に埋め込まれています。

街道沿いには多数の
漬物業者があります、岡部は大根の特産地で「関東一の漬物名産地」といわれています。

次いで左手の防火水そう標識の所に
馬頭観世音文字塔があります、傍らの石塔には愛馬風張之墓と刻まれています。
寶登山神社 漬物桶 馬頭観音

 先を国道17号線から分岐して、斜め右の旧道に入ります。

右手の杜には
石祠が祀られています。

次いで左手に
雲雀塚と呼ばれる芭蕉句碑「原中や 物にもつかず なく雲雀(ひばり)」があります、この辺りは岡部の原と呼ばれ殺風景な原野でした。

先の右に
耕地整理紀念碑があります。

岡村には塚木が岡の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より数えて二十里目です。
岡旧道東口 社の杜 雲雀塚 耕地整理紀念碑

 先の右手に島護産泰(しまもりさんたい)神社があります、榛沢郡の総鎮守で利根川氾濫鎮護の神です、そして安産の神でもあります、底の抜けた柄杓が奉納されています、皇女和宮は降嫁の際に参拝しています。

参道口には岡部藩領岡下村の
高札場がありました。

先の変則十字路を斜め右に下ると、左手に
中宿歴史公園があります、ここは中宿古代倉庫群跡(埼玉県指定史跡)です。
島護産泰神社 底の抜けた柄杓 古代倉庫群跡 古代倉庫群

 奈良時代に武蔵國二十一郡の一つ榛澤郡の
所役がありました、年貢を一時保管した校倉造りの倉庫が復元されています。

 変則十字路に戻って進みましょう、一本目を左に入ると、臨済宗南禅寺派南桂山全昌寺(ぜんしょうじ)があります、天正十五年(1587)の創建です。

高島秋帆が幽囚されていた
岡部藩陣屋長屋門が移築されています。

火の見ヤグラを過ぎると右手に
浅間大神(あさまのおおかみ)が祀られています。

次いで左手に
中山道お休み処の幟を掲げるふれあいの店まるやがあります、この手前を左に下ると、左手に黒田藩岡村陣屋畧景碑があります。
全昌寺 浅間大神 まるや 黒田藩陣屋跡

 更に下ると国道17号線に突き当たります、左手に岡廼宮神社(おかのみやじんじゃ)があります。

聖天宮で社殿には精巧な彫刻が施されています、室町時代から水難除けと豊作を祈願して奉納する獅子舞神事が行われています。

まるや前の
変則Y字路を左に進みます、この分岐点には馬頭尊と平成二十三年(2011)建碑中山道古道についてがあります。

二本目を右折します、ここには
標識「百
岡廼宮神社 岡村Y字路 馬頭尊 岡村分岐

庚申100m➡中山道」があります。

 この分岐点には村社寅稲荷神社社標があります、背面に大鳥居建立之跡と刻まれています。

一丁ばかりの急な
豊見坂を下ると左手に百庚申があります、幕末の万延元年(1860)庚申の年に建立された庚申塔群です、この年は黒船の渡来や桜田門外の変があり世情騒然としていました。

台上には
八坂社が祀られています。

豊見坂は
深谷バイパスに突き当たります(白色矢印)、右(黄色矢印)に迂
寅稲荷社社標 百庚申 岡(西)迂回路 岡(西)交差点

回します。

岡(西)交差点で
深谷バイパスを横断します、京方面からは岡(西)交差点を横断し、左から回り込んで豊見坂に合流します。

 田園風景が広がる長閑な道を進みます、この筋は中山道で唯一赤城山が左に見える左赤城の名所でした。

正面に
滝岡橋が現れます、左手には稲垣一等卒殉烈紀念碑が聳えています。

滝岡橋の手前を左折(白色矢印)した先に
小山川の渡しがありました、当初は徒歩渡しでしたが、後には架橋されました。

今は直進(白色矢印)し、
小山川滝岡橋で迂回します。

小山川は家康の命により伊奈忠次が利根川の
堀田旧道トレース 滝岡橋南詰 小山川

支流である
烏川から流れを引き入れ備前堀の開削を行いました。

 滝岡橋は昭和三年(1928)竣工の鋼製八連橋で国登録有形文化財です。

渡詰めを左折して土
手道を進みます、この分岐点にはたきおか水辺公園案内標識があります。

先に進むと土手から下る道があります、ここが旧渡し場からの旧道口で、ここから
旧道が復活します。

旧道を進むと左手に宝暦八年(1758)建立の
二十二夜塔があります、旧道の証明です。
滝岡橋  滝岡橋北詰迂回路 堀田旧道東口 二十二夜塔

 旧道は滝岡橋からの道に吸収されます、京方面からは荻野商店の所から斜め右の旧道に入ります。

先に進むと右手の電柱の根元に明治三十二年(1988)建立の
庚申塔が祀られています。

集落を抜け、田園風景の中を進むと
Y字路になります、標識「この先通り抜けできません」がある左に進みます、右は近世の新道です。

再び
Y字路が現れます、右(白色矢印)が旧道です、左(黄色矢印)は
堀田旧道西口 庚申塔 牧西旧道東口 旧道迂回路

この先遮断された旧道の
迂回路です、しかし旧道がしっかり残されている以上、迂回する必要はありません。

 旧道は県道45号本庄妻沼線のフェンスで遮断されています、しかし心配御無用です、右手の牧西(東)交差点にて横断できます。

旧道を進むと左手に
無縁供養塔があります、嘉永五年(1852)の建立です。

旧道は突当りを左折します、京方面からは
標識「この先通り抜けできません」を斜め右に入ります。

この分岐点の右手電柱の裏に元文年間(1736~41)建立の
三界供養塔、明治三年(1870)建立の庚申塔があり
旧道の遮断 無縁供養塔 牧西旧道西口 石塔

ます。


 藤田小学校向いのイチョウの根方に天明三年(1783)建立の馬頭観世音文字塔男女双体道祖神等が並んでいます。

藤田小学校前交差点先の左手に牧西(もくさい)村の鎮守
八幡大神社があります、建久六年(1195)児玉党一族の牧西四朗広末が鎌倉八幡宮を勧請したものです、文明三年(1471)五十子(いかっこ)合戦の兵火で焼失、慶長十七年(1612)依田氏(後に宮崎と改姓)が再建し、代々神主を勤めました、奉納される神楽金鑽神楽(かなさらかぐら)宮崎組は本庄市指定文化財です。

向いの参道奥に真言宗豊山派
宝珠寺(ほうしゅじ)があります、文明九年(1477)の五十子合戦で焼
石仏石塔群 八幡大神社 宝珠寺

失しましたが再建され、慶安二年(1649)
家光より御朱印石高十石を拝領しています、寛政二年(1790)の火災で焼失し、現在の本堂は文政二年(1819)の再建です。

五十子合戦は古河公方足利利成と関東菅領上杉一族の戦いです、この合戦は長禄三年(1459)から文明九年(1477)にかけて行われました。

 藤田郵便局の向いに堂々とした長屋門があります、白壁の一部が剥がれているのが残念です。

牧西交差点を越した先の右手に
子育地蔵尊立像が祠内に安置されています、傍らには賽ノ神碑庚申塔青面金剛像等が並んでいます。

先に進むと右手にも
長屋門があります。

街道が大きく左にカーブすると、直進する道筋があります、沼田、
長屋門 子育地蔵尊 長屋門 傍示堂

伊香保への
五料道です。

この追分に位置する傍示堂集落センターの奥に
傍示堂があります、傍らには古峯神社が祀られています、傍示堂は国境に建立されるもので、かつてはここが武蔵(武州)と上野(上州)の國境でした、その後神流川が國境になりました。

 元小山川新泉橋で渡ります、元小山川は児玉郡上里町の神保原に源を発し、流末は牧西で小山川に落合います。

新泉橋辺りに
傍示堂の一里塚があったといいますが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて二十一里目です。

国道17号線を日の出四丁目歩道橋で跨ぎます。

右手の石材店を過ぎると右手に昭和十四年(1939)建立の
三界萬霊塔があります。

緩やかな上り坂の
御堂(みと)を進むと、左手の段上に文化元年(1804)建立の庚申塔や宝暦十三年
元小山川 三界萬霊塔 石仏石塔

(1763)建立の
馬頭観音像があります。

 PM5:26 本庄宿着

 大正院の不動堂に由来する不動坂二番坂を上り詰めると中山道交差点に出ます、この辺りが本庄宿の江戸(東)口です、本庄宿に到着です!

本庄宿は利根川の舟運や交通の要衝を控え、二と七の付く日に六斎市が立ち大いに賑わいました、飯盛が盛んで、助郷に出た若者が村に帰らなくなり、度々取締が願い出されました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大慨帳によれば、本庄宿の宿内家数は千二百十二軒、うち本陣二、脇本陣二、旅籠七十軒で、宿内人口は四千五百五十四人(男二千二百六十四人、女二千二百九十人)でした、この人口数は中山道の宿中では最大でした。

宿内を進むと左手に真言宗智山派
大正院(だいしょういん)があります、 天正十一年(1583)の開山で、本尊は大日如来です、薬師堂は旧本堂
大正院薬師堂 成田山不動堂

です、
不動堂には不動剣が安置されています。

 押ボタン信号交差点を越して、一本目を右に入ると浄土宗要行山先救院円心寺(えんしんじ)があります、天正年間(1573~92)の創建で、本尊は阿弥陀如来です、朱塗りの山門は天明年間(1781~89)の建立で本庄市指定文化財です。

円心寺の左脇を進み、突当りの通りを右に進むと、左手に
城山稲荷神社があります、ここが本庄城趾です、城山稲荷神社は弘治二年(1556)本庄城の守護神として勧請されました、社殿前のケヤキは築城の際に、献木されたもので埼玉県指定天然記念物です。

本庄城は弘治二年(1556)この地の本庄実忠(さねただ)が築城し、永禄十年(1567)北条氏邦(うじくに)に敗退し小田原北条氏の配下となりました、それが為、天正
円心寺 本庄城趾 城山稲荷神社

十八年(1590)秀吉の小田原攻めの際、攻められあえなく落城となりました。

家康の関東移封後は、信濃松尾城の
小笠原信嶺(のぶみね)が城主となも、慶長十七年(1612)子の信之は古河に転封となり、廃城となりました。

 本庄駅入口交差点に到着です、本日はここ迄です。

次回は
武州路から上州路に入ります、何とか雪になる前に峠を越えなければなりません。

今宵はハイボールです、私の好きなお酒に順位をあえて付けると1位はバーボン 2位泡盛(古酒) 3位焼酎(各種) 4位日本酒 5位ウィスキー 6位ビールです。

全く不得意なのが
ワインです。
終点 終点祝い



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