街道はある意味生き物です、絶えず変化しています。 私の街道ウォークは刻々と変化する街道筋の検証旅です、街道マップを扱っている責任上、マップの精度向上と変化によるアップデートは至上命令だと思っています。 街道筋で何かを見つけると、立ち止まると共にストップウォッチを止め、メモをとり、デジカメ撮影します、寄り道する場合は歩数計をストップさせます。 歩き始める時は、歩数計をセットし、ストップウォッチをONにします。 これら一連の記録は自分自身の検証でもあります、ですから何往復もするのです。 街道に出陣する日はあくまで天気優先です、写真の色が違います。 今朝も例により、早朝カレーです、半熟卵をトッピングしました、豪華ですね、しかし今回のカレーは異様に塩ぽい、体に悪そうな塩分過多です、考え物です。 電車タイムは始発体制です。
向いの蔵造りの商家(矢部家住宅)は明治期の建築です、紅花の穀物問屋でした、屋号の木半は主の名木嶋屋半七に因んでいます。
境内外れの大ケヤキの樹洞には稲荷社が祀られています、珍しいですね。
いに出た為、背中に鎹(かすがい)が打ち込まれ鎖で繋がれていました、これは若い修行僧への戒めといいます。
な)り道道標があります、招福除災の神として信仰を集めた東松山の箭弓(やきゅう)稲荷神社への道標です。
年(1604)宿駅が鴻巣に移転する迄は宿場でした、以後は本宿と呼ばれ立場となり、間の宿として賑わいました。 宮脇書店先の左手に観音堂があります、子安観世音菩薩像を安置しています。
文二年(1662)名主岡野家が京の北野天満宮を勧請したものです。
入ります、ここが古中仙道の東口です。
います、よく見ると頭部にユニークな馬頭が線刻されています。
ます、人形町に入ります。 右手奥に真言宗智山派高位山金剛院があります、文明三年(1471)の創建で、本尊は大日如来像です。
右手に安政年間(1854~60)創業の鷲屋製麺所があります、現代版鴻巣名物は麺の幅が5cmを超える川幅うどんです、鴻巣宿内ではこうのす川幅グルメとして賞味できます。
宿並を進むと左手奥に浄土宗天照山良忠院勝願寺(しょうがんじ)があります、徳川家康は鷹狩りの際、度々当寺を訪れ、時の上人の学識に深く感銘し、三つ葉葵の使用を許しました。 壇林(現在の大学等)として隆盛し、寛文年間(1661~73)には関東十八壇林の一つとなりました。
地蔵と同種のものといいます。 墓地の入口に芭蕉忌千句塚があります、辞世の句「けふはかり 人も年よれ 初時雨」が刻まれています。
財政の基礎を定めました、忠次の次男忠治(ただはる)は関東郡代を嗣ぎ、勘定奉行を兼ねました。 墓地の脇に横田柳几(りゅうき)の墓があります、鴻巣の俳人で、天明七年(1787)境内に芭蕉忌千句塚を建立しました。
宝永七年(1630)以降は使用されず、明暦三年(1657)の江戸大火後は一部を解体し江戸城に運び、復興に用いられました、元禄四年(1691)御殿跡地に東照宮を祀り、以来除地としました。
柱があります、標柱には「熊谷宿まで四里六町(十六.四粁)」「桶川宿まで一里三十町(七.二粁)」と刻まれています。
の宮の社です。 参道口には史蹟明治天皇鴻巣町御晝(昼)食所阯碑があります。
二十三里六町(約四百八十四粁)」「桶川宿へ二里四町(約八粁) 江戸日本橋へ十二里十八町(約四十九粁)」と刻まれています。
は鴻巣市指定文化財です。
あります、源経基(つねもと、清和源氏の祖)の徳と、箕田源氏の活躍、この地が武蔵武士の本源地であったことが刻まれています。
武蔵水路を中宿橋で渡ります、武蔵水路は首都圏用水を確保するために利根川から荒川に引き入れた全長14.5kmの用水路で昭和四十年(1965)竣工です。
この追分には立場茶屋富士屋があり賑わいました。
江戸日本橋より歩きつないで、初めての田園風景が広がります。
を描いています。
前砂村の鎮守です、当社の祭神は白色を嫌うため氏子内には白壁は無く、白い鶏はいなかったといいます。
建立した忍領界石標「従是西忍領」が保存されています、隣接する中井村との境界南側に建てられていたものです。
あります、標石の各面には「熊谷宿へ二里六町(約八.六粁) 京三条大橋へ百二十里十町(約四七二.七粁)」「鴻巣宿へ二里二町(約八.二粁) 江戸日本橋へ十五里二十二町(約六十二.四粁)」と刻まれています。
先で県道307号福田鴻巣線に合流します、京方面からはNTT赤白アンテナの手前を右に入ります。
徴用された愛馬の供養塔です。
のがあります。
があります、境内に正徳五年(1715)造立の青面金剛像庚申塔や寛文六年(1666)建立の庚申塔があります。
先の右手奥に瑠璃殿があります、境内には千部供養塔、元禄七年(1694)造立の地蔵尊等、多数の石仏石塔があります。
昭和三十年(1955)渡し跡に木造の久下橋(冠水橋)が架橋されました、この橋は一車線であったため、車は対岸を確かめ、お互いに譲り合いながら阿吽(あうん)の呼吸で橋を渡ったところから思いやり橋とも呼ばれました。
を秩父から筏で城中に運ぶ途中、川に落としたものです、度重なる荒川の洪水により行方不明になっていたが大正十四年(1925)当院の前で偶然に発見されました。
点には交通安全地蔵尊が祀られています。
元久二年(1205)熊谷に戻り、館跡に庵を結び、建永二年(1207)亡くなりました。
ちました。
北陸東海巡幸の際、竹井家に休泊しました。
園内には天柱石(角柱)と袖振石があります、加藤清正が朝鮮半島から持ち帰り、豊臣秀吉に献上し、後に忍城主松平忠吉が譲り受け、竹井家が保管していたものです。
西口に抜ける館内通路が旧中山道跡です、東口の左手に旧中山道跡碑があります。
お店を出る頃には、酎ハイのお年寄りも座敷で寝ていました。
街道の左側を進み、石原一丁目歩道橋の手前を左(黄色信号)に入るとかめのみち公園があります。
ています、塚木は樹齢三百年のケヤキで熊谷市指定文化財史跡です、江戸日本橋より数えて十七里目です。
浄土宗松原院浄観山新照寺があります、境内に多数の石仏石塔があります。
線に入ります、右手に千島内科クリニックがあれば正解です。
たり茶屋がありました。
ます、日本武尊が東征の折、この地で「東の方は何れに当たるや」と尋ねたことが地名の由来になっています。
深谷並木と呼ばれました。
和(こばなわ)城跡で、築山と土塁を残しています。 天正十八年(1590)徳川家康より寺領三十石の朱印状を下付されました。
国道17号線を原郷(はらごう)交差点で斜めに横断します。
す、八十軒の旅籠はそれぞれ二~三人の飯盛を抱え、宿内人口千九百二十八人のうち、男は八百九十五人、それに対して女は千三十三人でした。
導しました。 ファミリーマート手前を左に入り、一本目を左折すると稲荷神社があります、長源寺の山号や稲荷町の由来です。
宗大翁山三高院浄安寺があります、家康は岩槻城攻めに功のあった甥の松平源七郎康直に深谷城一万石を与えました、康直は当寺を創建するも文禄二年(1593)二十五歳で没しました、当寺には墓があります。
小休所阯碑があります。
このレンガは東京駅、迎賓館、東京博物館、日本銀行旧館、法務省旧館そして深谷の駅舎等に使用されました。
りました。 次いで右手に三百年続いた銘酒七ツ梅の元蔵元があります、レンガ造りの煙突を残しています。
が祀られています。
中に、この一首があり、薩摩守忠度としたためてありました。 ※後世、謎かけに「キセルと掛けて、薩摩守と解く、その心は忠度(タダ乗り)」と揶揄されました。
討し、寿永三年(1184)一の谷の戦いで、平氏の名将平忠度(ただのり)を討ち取りました。
奈良時代に武蔵國二十一郡の一つ榛澤郡の所役がありました、年貢を一時保管した校倉造りの倉庫が復元されています。
庚申100m➡中山道」があります。
回します。 岡(西)交差点で深谷バイパスを横断します、京方面からは岡(西)交差点を横断し、左から回り込んで豊見坂に合流します。
支流である烏川から流れを引き入れ備前堀の開削を行いました。
この先遮断された旧道の迂回路です、しかし旧道がしっかり残されている以上、迂回する必要はありません。
ます。
失しましたが再建され、慶安二年(1649)家光より御朱印石高十石を拝領しています、寛政二年(1790)の火災で焼失し、現在の本堂は文政二年(1819)の再建です。 五十子合戦は古河公方足利利成と関東菅領上杉一族の戦いです、この合戦は長禄三年(1459)から文明九年(1477)にかけて行われました。
伊香保への五料道です。 この追分に位置する傍示堂集落センターの奥に傍示堂があります、傍らには古峯神社が祀られています、傍示堂は国境に建立されるもので、かつてはここが武蔵(武州)と上野(上州)の國境でした、その後神流川が國境になりました。
(1763)建立の馬頭観音像があります。
です、不動堂には不動剣が安置されています。
十八年(1590)秀吉の小田原攻めの際、攻められあえなく落城となりました。 家康の関東移封後は、信濃松尾城の小笠原信嶺(のぶみね)が城主となも、慶長十七年(1612)子の信之は古河に転封となり、廃城となりました。
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