道中日記 5-192 中山道 ( 鏡神社 - 草津追分 ) 14.9km

朝食
 洗濯物をたたみ、愛用のショルダーバッグに納めます。

デジカメメディアバッテリーのチェックを行います。

テレビのスイッチを入れ、
天気の確認をします、お陰さまで三日連続の晴天に恵まれそうです。

夜が大分、白んできました、時計の針は5:10を指しています、それでは
出立しましょう

朝方は大分涼しくなりました、両手をポケットに入れて宿を後にします。

昨夜、寝酒を入手したコンビニで
カップうどん握り飯で腹を満たします。

暖かいペットボトルの
お茶を飲みながら、起点の鏡神社に向かいます。

 平成24年09月27日 AM6:07 鏡神社出立 守山宿まで9.4km

 陽が出ました、それでは鏡神社を出立しましょう!

竜王町歩道橋を越すと右手に
愛宕大神碑と村境の道祖神が並んで祀られています。

次いで右手に
源義経元服池があります、池の奥には九郎判官源義経元服之池碑があります。

鞍馬寺を脱け出した
牛若丸は鏡宿の沢弥伝館に投宿しました、すると平氏の追手が稚児姿牛若丸を捜していると聞き、ならばと元服を決意しました。

そこで鏡宿の烏帽子屋
五郎大夫に源氏の左折れの烏帽子を仕立てさせ、鏡池の石清水を使って前髪を落とし、己の姿を池の水に映したといいます。
鏡神社 愛宕大神&道祖神 源義経元服之池

 鏡神社は義経が元服に使用した
源義経元服の盥(たらい)を所蔵しています。

 元服池の向いに旅篭桃花屋跡標識があります、鏡宿の西外れです。

スグ先を斜め左に入ります、
出町旧道東口です、蒲生郡竜王町から野洲市に入ります。

この
旧出町村の東口には道祖神が祀られています、この道祖神は村口にあって悪霊の侵入を見張っています。

旧道を進むと左手の奥に公爵近衛文麿書の
明治天皇聖跡碑があります、明治十一年(1878)北陸巡幸の帰途ここで休息しました。
旅篭桃花屋跡 出町旧道東口 道祖神 明治天皇碑

 次いで左手に愛宕大神碑があります。

旧道を進むと左手の祠内に
道祖神が祀られています、旧出町村の西口です。

GS跡を過ぎると
KANSAI TRADINGに突き当たります、街道は右(白色矢印)の国道8号線の歩道に進みます、左(黄色矢印)の土道を進むと平宗盛胴塚があります。

平家最後の総大将
平宗盛は清盛の三男です、壇ノ浦の合戦に敗れ、宗盛清宗親子は捕らわれ、源義経に護送され、鎌倉に向かいました。
愛宕大神碑 道祖神 平宗盛胴塚口 平宗盛終焉之地

 しかし兄の
頼朝は勝手に朝廷から官位を受けた義経に鎌倉の地を踏ませませんでした。

父子は
頼朝の引見後、再び京に護送される途中、頼朝の命により、ここで斬首されました、義経は父子の情を想い、二人の胴を一緒に埋葬しました、ゆえにここは平家終焉の地といわれます、宗盛は享年三十九歳、清宗十七歳でした、父子の首は京の六条河原に晒されました。

 元に戻り国道8号線左(南)側の歩道を歩きます。

左下に埋立地があります、
首洗い池跡です、平宗盛父子を洗った池跡です。

続いてある池は、あまりにも
平宗盛父子が哀れと思い、蛙が泣かなくなったところから蛙不鳴池(かわずなかずいけ)と呼ばれています。

大篠原北交差点からは国道右(北)側の歩道に移ります。

光善寺川光善寺川橋で渡ると下り坂になります、光善寺川は大篠原の山地に源を発し、流末は日野川に落合います。

右手の土手下に
大篠原の一里塚跡(標識)があります。
蛙不鳴池 大篠原の一里塚跡 一里塚解説

 戦前までは大きな松が一本残されていました、江戸日本橋より数えて百二十六里目です。


 街道左手の東池にはハスの葉が群生しています、何故かこの地には多くの池が散在しています。

東池を過ぎると左手に浄土宗東方山
浄勝寺があります、文禄三年(1594)の開基です、本堂は街道に背を向けています。

浄勝寺前交差点から斜め右の大篠原旧道に入ります、ここが旧大篠原村の東口です。

大篠原村は東山道時代は宿駅として栄えましたが、鎌倉時代になると宿駅は鏡村に移りました。

江戸時代になると大篠原村は
立場となり旅人や近江商人の往来で賑わいました。
東池 浄勝寺 浄勝寺前交差点

 村内を進むと左手に大笹原神社社標があります、それでは立ち寄ってみましょう。

社標を左折(黄色矢印)して、国道8号線を横断し、しばらく進み光善寺川を渡ると正面に大笹原(おおかさはら)神社が鎮座しています。

寛和二年(986)
越知諸実なる者が社領を寄進し社殿を造営したと伝えられています。

現在の
本殿は室町時代の応永二十一年(1414)岩倉城主馬淵定信が再建したもので、三間四方に一間の向拝を付けた入母屋造り桧皮葺きです、とくに彫刻が優美で東山文化の粋といわれています(国宝)。
大笹原神社口 大笹原神社本殿 篠原神社本殿

 左手の
篠原神社本殿は応永三十二年(1425)建立の一間社隅木入り春日造りです(国重要文化財)。

篠原神社は
餅の宮とも呼ばれ鏡餅の神が祭られています、この辺りは鏡餅発祥の地といわれ、篠原餅は立場名物でした。

 大笹原神社本殿の右手に寄倍(よるべ)の池があります、水深が深い底なし沼です。

その昔、この辺りが
干ばつに見舞われ、二基の神輿を沈めて祈願したところ、いかな日照りが続いても池の水は涸れることなく絶えず満水になったといいます。

大篠原旧道に戻って進むと左手に
道祖神が安置された祠があります、大篠原村境の寒神です。

大篠原旧道は
国道8号線に合流 します、京方面からは大篠原西池前交差点先を斜め左に入ります。

街道の左手には
西池の景が広がっています、大篠原最大の用水池です。
寄倍の池 道祖神 西池

 西池は雄略天皇の御代(413年頃)近江國に四十八ケ所の池を掘らせた時の一つといわれています、現在も田畑の灌漑用水として機能しています。

この西池の長い堤は
篠原堤と呼ばれました、往時、この辺りは一面の野原で物騒でした。

国道8号線をモクモクと進むと左手に浄土真宗本願寺派
正蓮寺(しょうれんじ)があります、明応年間(1492~1501)の中興で、本尊は阿弥陀如来です。

参道口には
石仏石塔が多数集められています。

正蓮寺のスグ先
右手の高谷石材の所から斜め右の小堤旧道に入ります、京方面からは国道に合流します。
篠原堤 正蓮寺 小堤旧道東口

 用水を渡り、紅殻塗りの塀を横目で見ながら緩い上り坂を進むと家棟(やのむね)手前の右手に寛政六年(1794)建立の金毘羅大権現常夜燈、そして愛宕山大神山灯籠が並んでいます。

家棟川家棟川新橋で渡ります、淀川水系の家棟川の流末は琵琶湖に注いでいます、家棟川上流の山は風化の進んだ花崗岩質の地質性状なため、出水時には大量の土砂が流れ出し、家棟川は河床が周辺地盤より高い天井川を形成していました。

往時、ここを通行する旅人は一旦堤防に上がり、川を渡り、再び堤防下に下りるという大変な苦労をしていました、大正六年(1917)
天井川の下に家棟隧道が開削されました。

その後平成七年(1995)より整備が進められ、川床を最大10m掘り下げ、平成十九年(2007)
平地河川化が完了しました。
愛宕大神&常夜燈 家棟川

 家棟川新橋を渡ると右手奥に村社篠原神社があります、藤原秀郷の二男田原二郎千時が平将門平定の軍功により、栗田野洲二郡を賜った際に、社殿を建立したものといいます、本殿は一間社流造りです。

篠原神社の参道口を過ぎると
旧辻村に入ります、右手の祠内に地蔵尊が安置されています、村名はこの地が野洲郡から甲賀郡に出る辻であったところに由来しています。

信号交差点を越し、辻町自治会館先の右手に
子安地蔵堂があります、 元は比叡山天台系嘉祥寺に安置されていた地蔵菩薩像です、平安時代末期(十二世紀)造立の極彩色等身大の半跏趺坐(はんかふざ)で秘仏です。
篠原神社 辻村の地蔵尊 子安地蔵堂

 安産祈願子安地蔵として近隣の信仰篤く、毎年一月と八月の縁日(地蔵盆)に開扉されます、遠方からも多くの参拝者が訪れます。

境内には
石仏石塔群水子地蔵尊群が安置されています。 

子安地蔵堂の向いに
愛宕山大神碑があります、石碑の正面が四角形に彫り込まれています、ここに愛宕山の火迺要慎(ひのようじん)のお札を納めます、辻村火伏を担ってきました。

JR東海道新幹線に最接近すると、左手一帯が
桜生(さくらばさま)史跡公園です、園内には国史跡大岩山古墳群の内、六世紀を中心とする三古墳があります、これらの古墳は発掘調査整備が行われ公開されています。
石仏石塔群 愛宕山大神 JR東海道新幹線

 JR東海道新幹線高架に沿って進むと左手に史蹟甲山古墳があります、スロープを上り詰めると甲山古墳の石室内が公開されています。

甲山古墳は標高110mの丘陵先端に造られた六世紀前半の円墳で、直径約30m、高さ10mの規模をもち、内部には西に開口する横穴式石室があります。

石室の床には玉石が敷き詰められ、中央に熊本県宇土半島の凝灰岩で造られた
家形石棺を安置しています。

発掘調査によって
装身具鉄製の武具馬具等が出土しています。
史蹟甲山古墳 甲山古墳石室口 家形石棺

 JR東海道新幹線高架から離れるように進むと左手の桜生自治会館の二階部分に銅鐸のモニュメントが飾られています、桜生は銅鐸の里と呼ばれています。

大岩山古墳群からは明治十四年(1881)に国内最大の高さ134.7cmの大型銅鐸をはじめ合計十四基の銅鐸が発見され、昭和三十七年(1962)にはJR東海道新幹線建設工事現場から新たに十基の銅鐸が出土するなどこの辺りはわが国有数の銅鐸出土地として知られています。

中の池川を越えると右手に地蔵堂があります、傍らには石塔があります。

次いで右手に
本藍染紺九(こんく)があります。
銅鐸の里桜生 地蔵堂&石塔 本藍染紺九

 建物脇に藍染用の
が逆さで並べてあります、この辺りは藍染が盛んでした。

ここ
森家は明治三年(1870)に創業し、紺九の屋号で今日まで本藍染の伝統を守り続けています、三代目は人間国宝でした。

 先の十字路手前の左手に中之池地蔵堂があります、堂内の祠内に中之池地蔵尊が安置されています。

この十字路を左に進むと国道8号線沿いに
食事処があります。

街道を進むと左手に
稲荷神社社標と大きな山燈籠が左右にあり、奥に石造鳥居があります、社殿は国道8号線を越えた先に鎮座しています。

壬申の乱で野洲川原で戦死した人々の供養と国家鎮護を祈願し、天暦二年(948)伏見稲荷を勧請したものです、本殿は一間社流造りで小篠原村の氏神です。

次いで右手に
小篠原村庄屋苗村邸跡碑があります。
中之池地蔵尊 稲荷神社 小篠原村庄屋跡

 先の右手に浄土真宗本願寺派霊松山養専寺があります、文明九年(1477)の開基で、本尊は阿弥陀如来です、境内には大イチョウが聳えています。

次いで右手に慶長年間(1596~1615)創業の茅葺き屋根の
暁酒造があります、銘酒暁の蔵元です。

JR東海道新幹線高架をくぐり、即左折します。

県道150号線を横断して車両進入禁止道に進みます。
養専寺 暁酒造 新幹線下分岐 変則十字路

 スグ先のヘアーギャラリーの辺りに小篠原の一里塚があったともいいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて百二十七里目です。

街道は信号五差路に出ます、右手の野洲小学校の前に
外和木の標(そとわぎのしるべ)があります、朝鮮人街道との追分の地名が小篠原字外和木でした。

並びに
常夜燈風道標があります、中山道野洲と刻まれ、「守山宿← →武佐宿」のプレートが組み込まれています。

先の逆Y字路が
朝鮮人街道追分です。
小篠原一里塚跡 外和木の標 常夜燈風道標 朝鮮人街道追分

 
朝鮮人街道(黄色矢印)は近江八幡~安土~彦根を経て鳥居本で再び中山道に合流します。

この追分にあった享保四年(1719)建立の
追分道標は、この先の蓮照寺の境内に移設されています。

 小篠原から行畑(ゆきはた)に入ると、 信号交差点手前の左手にふれあい広場があります、覆い屋の中に二体の石造地蔵立像が安置されています、左の大きい地像尊は阿弥陀如来像です、背の低い像が背くらべ地蔵です、共に鎌倉期の造立で野洲町指定文化財です。

親達が「我が子もこの背の低い地蔵さんくらいになれば一人前」と背くらべさせるようになり、いつしか
背くらべ地蔵と呼ばれるようになりました。

街道は十字路を直進しますが、左折すると左手に
行事神社が鎮座しています、 神亀元年(724))御上神社の神託を受けた三上宿禰(すくね)が勧請したところから、三上別宮とも称されました、本殿は一間社流造りで中畑行合(現在の行畑)二ケ村の総鎮守です。

鳥居をくぐると
勧請縄と呼ばれる独特な注連縄が吊り下がっています、魔除けといわれています。
背くらべ地蔵 行事神社

 交差点を渡ると行畑商店街となり、左手に茅葺き屋根の浄土宗佛牙山唯心寺があります、延暦二十四年(805)の開基です、山門前に釋尊身御舎利碑があります。

唯心寺先の突当り
丸万を枡形状に進むと、右手に浄土真宗本願寺派清流山蓮照寺があります、寛永元年(1624)の開基で、本尊は阿弥陀如来です。

境内に
道標領界石が移設されています。

朝鮮人街道追分道標「左 八まんみち」「右 中山道」
領界石「従是北淀藩領」
錦織寺道標「左 錦織寺四十五町」
錦織寺(きんしょくじ)は約5km北の中主町木部(ちょうずちょうきべ)にある浄土真宗木辺派(きべは)の本山です。
唯心寺 枡形 道標&領界石

 スグ先の左手に八幡神社があります、永承五年(1050)の勧請です、本殿は一間社流造りです。

永承年中(1046~53)
源頼義は勅宣により奥州の安倍貞任(あべのさだとう)を追討するため、軍勢を率いて野洲河原に出陣すると、佐々木源太夫章経(あきつね)が四百余騎を率いて加勢に現れました、頼義はこの加勢を氏神石清水八幡宮の神慮と喜び、後にこの地の小祠に八幡宮を祀りました。

行畑から野洲に入ると左手に浄土真宗本願寺派醴泉山(らいせんざん)顕了寺があります、永享九年(1437)の開基で、本尊は阿弥陀如来です。

野洲東町バス停を越すと左手に
宇野勝酒造があります。
八幡神社 顕了寺 宇野勝酒造

 銘酒
玉の春の蔵元です。

 先の右手の住宅前に石仏五輪塔が並んでいます、道祖神でしょう、村口に置かれ悪霊の侵入を防ぐ塞神です。

次いで
JR東海道本線ガードをくぐります。

緩い上り坂を進むと右手に黄檗宗(おうばくしゅう)百足山(むかでざん)
十輪院があります、明暦三年(1657)の開基で、本尊は地蔵菩薩です。

往時、日が暮れると
野洲川を渡る旅人の為に、境内の天明五年(1785)建立の常夜燈に火を灯していました、この為八石八斗が除地でした。
道祖神 東海道本線ガード 十輪院 芭蕉句碑

 本堂脇に
芭蕉句碑「野洲川や 身ハ安からぬ さらしうす」があります。

野洲晒(さらし)は麻布を白くさらす工程に布晒があります、冬の川の中に据えた臼に布を入れ、杵で突く作業で過酷な重労働でした、

 十輪院の向かいには夥しい数の石仏石塔が集められ整然と安置されています。 

野洲川野洲川橋で渡ります、野洲川は鈴鹿山系の御在所山に源を発し、流末は琵琶湖に注いでいます、近江太郎と呼ばれる暴れ川でした。

野洲川はその昔、河口に八つの洲があり
八洲川と呼ばれ、これが転じて野洲川となりました。

通常は
仮橋、増水時は舟渡し、朝鮮通信使通行の際は仮土橋が架橋されました。

橋上の左後方に
三上山(432m)が望めます、その山容から近江富士とも呼ばれています。
石仏石塔群 野洲川 三上山

 紫式部は「打ち出でて 三上の山を 詠(よまれ)れば 雪こそなけれ 富士のあけぼの」と詠んでいます。

又、
三上山は平将門を討取った俵藤太(藤原秀郷)のムカデ退治で知られ、百足山とも呼ばれました。

 野洲橋を渡ると守山市吉身(よしみ)に入ります、旧吉身村は守山宿加宿でした。

街道を進むと右手に
馬路石邊(うまじいそべ)神社社標があります、それでは立ち寄ってみましょう(黄色矢印)。

参道を進むと
馬路石邊神社があります、 延喜式神名帳に記載された古社です、白鳳三年(663)の創祀で、馬道郷を拠点とする古代の豪族石辺君氏を氏神として祭っています。

三間社流造りの
本殿は文久元年(1862)の建立です。

社名の
馬路はこの地に宿駅が置かれていたことに由来しています。
式内馬路石邊神社 神門 本殿

 それでは街道に戻りましょう、吉身村には松並木があり、両側には水田が広がっていました。

吉身小学校南交差点手前の左手に
益須(やす)寺跡解説(黄色囲み)があります、益須寺は交差点の東側約100m辺りにありました。

日本書紀に「奈良の都から僧二人を遣わして、近江國益須郡の醴泉(れいせん)を飲ませた」ことや「醴(こさけ)の泉が近江の益須郡の都賀山から湧き、病人が益須寺に宿泊して治療した」、「泉の水が病気に効果があったので水田四町、布六十端を寺に献上した」の記述があります。

益須寺は日本最初の病気療養施設といわれています。
吉身小学校南交差点 益須寺跡解説 吉身高札場跡

 スグ先の
伊勢戸川手前の左手が吉身高札場跡(標識)です。

 AM9:20 守山宿着 草津追分まで5.5km

 伊勢戸川手前の右手に吉身解説があります、吉身は古くは吉水郷(よしみずごう)と呼ばれ、豊かな森林ときれいな水に恵まれた天下の景勝地でした、元暦元年(1184)に刊行された近江国注進(ちゅうしん)風土記には近江国景勝地八十個所の一つとしてこの地が記されています。

伊勢戸川は野洲川の伏流水で宿場の防火用水でした、近年ゲンジボタルが復活しています、この伊勢戸川は吉身加宿守山本宿の境を流れています、渡ると守山宿到着です!

比叡山
延暦寺の鬼門にあたる東方を守護するために、この地に東門院が建立され「比叡山を守る寺」から守山寺と名付けられ、守山の語源となりました。

守山宿は京を立った東下りの旅人の最初の宿泊地で「京立ち守山泊まり」といわれ賑わいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、守山宿宿内家数は四百十五軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠三十軒、宿内人口は千七百人(男八百三十七人 女八百六十三人)で宮津藩領宿並は本町、西町、仲町、東町で構成され、宿長は十一町五十三間(約1.3km)でした。
吉身(吉水郷)解説

 宿並に入ると左に寺標があります、各面に「帆柱観世音 慈眼寺」「本はし羅可んせおん」「薬師如来」と刻まれています、慈眼寺は延暦ニ十三年(804)の創建で、本尊は帆柱観音と呼ばれる十一面観世音菩薩です。

伝教大師(最澄)が唐からの帰途日本海で、大時化に遭遇すると突然観世音菩薩が現れ、風波を鎮め危難から救ったといいます、大師は折れた帆柱で三尺三寸の観音像を自ら彫り、弘仁元年(810)ここに安置しました、海運関係者の信仰がつとに篤いといいます。

元亀二年(1571)
織田信長の兵火で本堂は焼失しました、その際村人は本尊を地中に埋めて守ったといいます、現在の本堂は里人が中心になって平成二十一年(2009)に再建したものです。
宿並 慈眼寺寺標 慈眼寺

 宿並に戻って進むと左手の奥に浄土真宗本願寺派最聞山(さいぶんざん)願立(がんりゅう)があります、慶安元年(1648)の開基で、本尊は阿弥陀如来です。

次いで右手に真宗大谷派稲岡山
明覚(みょうかく)があります、建徳三年(1372)の開基で、本尊は阿弥陀如来です。

吉身西交差点先に
枡形の痕跡を残しています。

枡形左手の西藤小児科脇に
道標「すぐいしべ道」「高野郷新善光寺道二十五町」があります。
願立寺 明覚寺 枡形跡 新善光寺道標

 東海道の
石部に通じています。

この石部道の途中に
平重盛(清盛の嫡男)の一族高野宗定が善光寺如来の分身を授かり、創建した新善光寺があります、信州の善光寺と同じ御利益があるところから善男善女で賑わったといいます。

 次いで左手に宇野本家酒造跡があります、銘酒栄爵の蔵元宇野本家です、女性スキャンダル問題で六十九日で退陣した第七十五代総理大臣宇野宗佑の実家です。

平成二十二年(2010)守山市が宇野家を譲り受け
守山宿町屋うの家として公開されています。

スグ先の右手に
守山天満宮が鎮座しています、当初は天徳三年(959)東門院の境内に鎮座されました、祭神の神像菅原道真肖像と寛平六年(894)に公自ら刻んだ木像彫刻です。

鳥居前に
稲妻型屋敷割りの道解説があります、宿並に面する家屋は一戸毎に段違いの屋敷割になっています、宿場の治安維持のための工夫といいます。
宇野本家酒造跡 守山天満宮 稲妻型道解説

 天満宮に沿って横道を進むと左手に薬師堂があります、境内に源内塚があります。

平治元年(1159)
源義朝は平氏一門が熊野詣に出た隙に挙兵しましたが、舞い戻った平氏に敗れ、、十三歳の源頼朝は京から東国へ敗走する途中、野路(草津市)の辺りから馬上で居眠りをし、父義朝一行からはぐれて、たった一騎で守山に落ち延びてきました。

その時、守山に居た
源内兵衛真弘(さねひろ)が落人の頼朝の首を獲ろうと襲いかかりましたが、頼朝は髭切りと呼ばれる名刀で源内を一刀両断にしました。

村人達は源内を哀れんで埋葬し、
源内塚を築きました、、塚前の丸石は願い事に霊験あらたかな伺い石です。
薬師堂 源内塚 名刀髭切り

 宿並に戻ると左手に本陣推定地標石があります、小宮山九右衛門本陣跡で、問屋を兼ねました、建坪は百七十坪で門構玄関付でした、幕末には皇女和宮が二日目の夜を過ごしました。

宇野衛門本陣は東町にあり、建坪百九十七坪で門構玄関付でした。
小宮山脇本陣は西町にあり、建坪六十八坪で門構無しでした。

並びに
井戸跡があります、防火井戸として活躍しました。

ここには以前
甲屋之址碑がありました、ここには中世東山道時代に旅籠甲屋があり、謡曲望月に登場しますが、これは架空の創作とのことから本陣推定地に変更されました。

謡曲望月は元信濃の武士であった旅籠甲屋の主の所へ、旧主の妻子が宿を求めてきました、そこへ偶然に仇の望月が泊り合わせました。
本陣推定地 中山道文化交流館

 主は妻子に助勢して仇を討たせて恩返しをしたという物語です。

並びに
中山道街道文化交流館があります、旅人や市民のふれあいの場として利用されています。

 先でT字路に突き当たります、木浜(このはま)道追分です、宿並は左(白色矢印)です、右(黄色矢印)が木浜道です。

この分岐点の右手前(黄色囲み)に延享元年(1744)建立の
追分道標「右 中山道 并(ならびに) 美濃路」「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」があります。

錦織寺(きんしょくじ)は浄土真宗木部派本山で人々の信仰を集めてきました。

こ乃者満ミち(このはまみち)は琵琶湖の津として賑わっていた木浜湊へ通じる道筋です。

追分道標の並びに
守山宿高札場がありました、向(黄色囲み)いには市神が祀られています。
木浜道追分 追分道標 市神

 追分を左に進むと右手に天台宗比叡山東門院守山寺があります、延暦七年(788)伝教大師最澄比叡山延暦寺を創建する際、東西南北の鬼門に当たる場所に門を構えました、ここが東の門にあたります。

延暦十三年(794)比叡山の
根本中堂開闢(かいびゃく)供養が行われた時、桓武天皇が当寺に行幸し「比叡山を守る寺であるから比叡山東門院守山寺と名号し、地名も守山と名付けた」といいます。

仁王門は東門院最古の建立です、仁王像坂上田村麻呂が東征の際、戦勝祈願し、見事勝利を収めたところから門出仁王と呼ばれています。

本尊の
十一面観世音菩薩は火災で焼失しました。
東門院仁王門 本堂 不動堂

 
不動堂には興郷大師の作といわれる不動明王坐像(国重要文化財)が安置されています。

 東門院は朝鮮通信使の宿舎となりました。

境内の
石造五重塔(中央)は鎌倉時代の建立で国重要文化財です、左手の石造宝塔、右手の石造宝篋印塔は共に国重要美術品指定です。

並びの
イチョウは醒井宿の了徳寺にもあったお葉付き銀杏です。

門前脇に
明治天皇聖蹟碑があります、巡幸の際、東門院は休憩所となりました。

次いで右手に
門前茶屋かたたやがあります、旅籠堅田屋跡です。
石造五重塔 イチョウ 明治天皇碑 門前茶屋かたたや

 守山銀座交差点を直進します、左折すると先にJR東海道本線
守山駅があります。

 守山銀座交差点を越し、境川(吉川)を土橋で渡ります。

往時の
土橋は長さ二十間(約26m)、幅二間(約3.6m)で瀬田の唐橋の古材を使用して架け替えられる公儀御普請橋でした。

広重は
守山として、遠景に三上山、中心に守山の宿並、手前に吉川そして全体に春爛漫のを描いています。

実際には、
吉川(境川、守山川)は宿並に交差して流れており、宿並に沿って流れていませんから、この構図は広重一流のデフォルメといえます。
境川(吉川) 木曽海道六拾九次之内 守山 広重画

 境川(吉川)は旧野洲郡守山本宿と旧栗田郡今宿村の境で、守山宿(西)です。

境川(吉川)を土橋で渡ると、守山宿の加宿である今宿村に入ります。

右に延久三年(1071)創建の
樹下(じゅげ)神社が鎮座しています、祭神は稲田姫命(くしなだひめ)で、先の大宝神社は本社に当たります。

境内には天保二年(1831)に
伊勢屋佐七が寄進した常夜燈(守山市有形文化財)があります、竿石には大神宮金毘羅大権現、台石には天下泰平宿内安全と刻まれています。

元は
土橋の袂に境川の舟運や、土橋を渡り中山道を往来する人びとの安全を祈願して建立されたが、河川の氾濫などにより崩壊したため、明治初期に境内に移設されました。
樹下神社 大神宮常夜燈

 続いて右手に真宗興正派広大山超勝寺があります、延徳元年(1489)の開基で、本尊は阿弥陀如来です。

今宿の町並には重厚な
白壁連子格子の旧商家を残しています。

先の左手に日蓮宗具足山
本像寺があります、応長元年(1311)の開基で、本尊は十界曼荼羅です。

境内の築山にある貞治六年(1367)と墓地にある大永四年(1524)建立の
南無妙法蓮華経題目碑は共に守山市文化財指定です。
超勝寺 今宿の町並 本像寺 専徳寺

 今宿交差点を横断すると左手に真宗大谷派湖東山
専徳寺があります、慶長三年(1598)の開基で、本尊は阿弥陀如来です。

 県道2号線を進むと左手に今宿の一里塚があります、滋賀県内で現存する唯一の一里塚です。

規模は小さくなっていますが
南塚を残しています(滋賀県指定史跡)、塚木のエノキは二代目です、江戸日本橋より数えて百二十八里目です。

焔魔堂町交差点を越すと左手に
住蓮房母公墓標石があります、市村家の敷地内に墓があります。

朝子は我が子が捕えられた悲しみで盲目となり、一目逢いたいと京から馬淵を目指しました、ところがこの地まで来ると、すでに首を打たれたと聞き、最早この世に生きながらえる望みなしといい、当地焔魔堂村の尼ケ池に入水しました。
今宿の一里塚 住蓮房母墓案内 住蓮房母公墓

 母公の法名は
住然といいます、市村家は住蓮房の首を打ったを所蔵していましたが、延宝五年(1677)大宝神社に奉納しました。

 県道145号線の十字路手前の左手に浄土真宗本願寺派一心山徳栄寺があります、永正元年(1504)の開基で、本尊は阿弥陀如来です。

十字路を越すと右手に浄土宗鎮西派五道山
十王寺があります、小野篁(たかむら)の開基です、小野篁は平安時代前期の官人、学者、歌人で遣隋使で知られた小野妹子の子孫です。

門前に
閻魔法王小野篁御作と刻まれた標石があります、 境内の閻魔堂小野篁が造った閻魔像が安置されています。

五道とは人間が修行の結果善悪の行いによって行き着く五つの場所をあらわしています。
徳栄寺 十王寺 小野篁

 その途中には十の関所があり十人のがいます、これを十王といい、そのひとりが閻魔大王です。

篁は夜毎井戸を通って
地獄に降り、閻魔大王の元で裁きの補佐をしたという伝説があります。

この閻魔堂は
閻魔堂村(現、焔魔堂町)の地名由来になっています。

十王寺の向いに
諏訪神社が鎮座しています。

諏訪神社の街道沿いに
領界石「従是南淀藩領」があります、元は今宿村閻魔堂村の境にあったものです、閻魔堂村は山城淀藩領でした。
諏訪神社 領界石 道祖神

 先の用水を越えると左手に閻魔堂村境の
男女双体道祖神が祀られています。

 焔魔堂町と二町町境の右手に古高俊太郎先生誕生地碑があります、この路地を右(黄色矢印)に進むと、俊太郎の誕生地旧古高村があります、地内の福寿寺古高俊太郎顕彰碑古高家一族の墓があります。

幕末の尊王攘夷派の志士
古高俊太郎は元治元年(1864)密告により新選組に捕縛され、過酷な拷問を受け、ある計画を自白しました。

それは風の強い日を狙って
御所に火を放ち、混乱に乗じて天皇長州に連れ去る計画でした、そして池田屋でその密議が行われるというものでした。

これが有名な
池田屋事件の発端です、優秀な志士が多数斬殺され、これにより維新が一年遅れたといわれます。
古高誕生地へ 古高誕生地碑 古高俊太郎顕彰碑

 
俊太郎六角獄舎に収容されましたが、禁門の変による兵火が獄舎に迫ると、逃亡の恐れありとして斬首されました、享年三十六歳でした。

明治二十四年(1891)その功績を称え、朝廷から
正五位が追贈されました。

 古高俊太郎先生誕生地碑先の右手に二町村境の道祖神が祀られています。

二町バス停の所を右に入ると浄土真宗本願寺派光耀山
教願寺があります。、永正十四年(1517)の開基で、本尊は阿弥陀如来です。

並びに
市杵姫神社(いちきひめじんじゃ)が鎮座しています、承応三年(1654)大宝神社の境内社から分祀されました。

左手の浜中医院を過ぎると
守山市二町町から栗東市綣(へそ)に入ります。

綣はお腹のヘソではなく、糸を丸めるの意です。
道祖神 教願寺 市杵姫神社

はた織機にかけるために、縒りあわせた麻糸のことをへそといいます

 左手の用水路に沿って進み、脇の鳥居をくぐって大宝公園に入って進むと左手に芭蕉句碑「へそむらの まだ麦青し 春のくれ」があります、元禄三年(1690)綣村の立場で詠んだ句です。

「この辺りの麦はまだ青い、寒かったのだろうか、もうまもなく春も暮れようとしているのに」の意です。

先から参道を左に進むと
大宝(だいほう)神社が鎮座しています、大宝元年(701))の創建、祭神は素戔嗚尊で、この地の産土神です。

当社は近江守護職
佐々木氏、そして足利将軍徳川家の庇護を受け隆盛を極めた神社です、本殿は三間社流造りで弘安元年(1278)の再建です。
芭蕉句碑 大宝神社四脚門 大宝神社本殿

 境内にあった
木造狛犬は重要文化財指定です、今は京都国立博物館に保管されています。

 街道を挟んだ向かいに時宗大宝山佛眼寺があります、元は天台宗神宮寺でした、応永十九年(1412)の中興で、本尊は阿弥陀如来です。

参道口に
地蔵堂があります、綿被(わたかぶ)り地蔵が安置されています、寒中に川の中を流れてきた地蔵を拾い上げ「さぞ寒かっただろう」と頭から綿を被せて祀ったといいます。

綣交差点を過ぎると左手に浄土真宗本願寺派
本覚寺があります、永正十二年(1515)の開基で、本尊は阿弥陀如来です、参道口に蓮如上人御旧跡碑があります、上人は本願寺中興の祖といわれます。

大宝小学校を過ぎると
栗東駅西口交差点があります。
佛眼寺地蔵堂 本覚寺 中の井川

 左折すると正面がJR東海道本線
栗東駅です。

中の井川百々川(どうどうがわ)で渡ります、中の井川は野洲川から取水し、流末は葉山川に落合います。

 花園交差点にて琵琶湖に通じる浜街道(県道31号線)を横断します。

綣を抜けると、左手市川原バス停の所に
八幡宮が鎮座しています、堂々とした石造鳥居に比べると本殿はいかにも小振りです。

次いで右手に
稲荷神社があります、拝殿の中には太鼓が吊り下がっています。

県道笠川バス停先でいよいよ
草津市に入ります、葉山川葉山川橋で渡ります、流末は琵琶湖に注いでいます。

流域に
落ち葉が山のように積る所があり、葉山と呼ばれ、これが川名の由来になっています。
八幡宮 稲荷神社 葉山川

 葉山川橋交差点先はJR東海道本線JR草津線の敷設で旧道は分断されています。

県道の左側歩道を進むと、
JR草津線高架下になります。

スグ先で歩道は終了します、左を見ると背の低い
渋川隧道があります、この隧道でJR東海道本線及びJR草津線をくぐり抜けます。

隧道を抜けると即右折し、 JR草津線に沿った、グレーチング敷きの細い
側道を進みます。
①渋川分岐 ②渋川隧道 ③渋川分岐 ④渋川旧道痕跡

 以降、
JR線に沿って進みます。

 線路沿いの細道を進むと旧渋川村に入ります、往時はこの辺りに梅木和中散を商う出店があり、賑わったといいますが、今はその痕跡もありません。

県道2号線高架をくぐると左手に
伊砂砂(いささ)神社があります、本殿は一間社流造り檜皮葺きで応仁二年(1468)の建立です(国重要文化財)。

平安の昔に疫病平癒の為に
大将軍を祭り、渋川大将軍社と称し、渋川村の産土神でした。

明治二年(1869)に祭神五神の内、
石長比売命(いわながひめ)、寒川比古命(さむかわひこ)、寒川比売命(さむかわひめ)の三神の頭文字をとっていささ(伊砂砂)神社と改称されました。
変則Y字路 県道2号線高架 伊砂砂神社

 当社には伝統芸能
古式花踊りが伝わっています、応仁三年(1469)旱魃のため、村人が雨乞いの祈願を行ったところ、御神助により雨が降り、幸い豊作になりました、このため神前に御礼の踊りを奉納して祝ったのが始まりといいます。

 街道に沿う伊砂砂神社の平積石垣は自然石の珍しい平積みで錬倉時代の作と伝えられています。

伊佐々川伊佐々川橋で渡ります、この川は伊砂砂神社参拝者が体を清め、手を洗い、口をそそいだ御手洗川(みたらしがわ)でした。

スグ先の左手に真宗仏光寺派一心山
仏乗寺があります、明応八年(1499)の開基です。

信号交差点を越えると右手に真宗大谷派秀月山
行圓寺があります。
平積石垣 伊佐々川 佛乗寺 行圓寺

 明応二年(1493)の開基で、本尊は
阿弥陀如来です。

 並びの奥に真宗興正派大放山光明寺があります、貞永元年(1232)天台宗の道場として創建されましが蓮如上人の教化により浄土真宗に改宗しました。

先の左手の家屋内に
地蔵大菩薩を安置した祠が祀られています。

大路交差点を越すと正面に
きたなかアーケードが現れます。

手前の交差点左手の中央分離帯に手作りの
一里塚跡標識があります、草津の一里塚跡です。
光明寺 地蔵大菩薩 草津の一里塚跡 一里塚跡標識

 
大路井の一里塚とも呼びます、塚木はエノキでした、江戸日本橋より数えて百二十九里目です、そして中山道最後の一里塚です。

 きたなかアーケードを進み、途中を左折すると左手に浄土宗三光山覚善寺があります、元は天台宗でしたが、元亀元年(1570)改宗しました。

門前に明治十九年(1866)建立の
道標「右東海道 左中仙道」が移設されています、同年草津川隧道が開通すると東海道中山道追分が覚善寺南西角に移りました。

更に先に進むと、左手に貞観五年(863)創建の
小汐井(おしおい)神社が鎮座しています、中山道第一の宮として旅人からも篤い信仰を受けました。
きたなかアーケード 覚善寺 小汐井神社 草津川隧道分岐

 近隣の氏子からは
安産の神としても篤く信仰されています。

アーケード道に戻って進むと正面に
草津川隧道が口を開けていますが、くぐりません。

草津川は往時から天井川でした、通行の人々は土手を上り、草津川を越えました。

 それでは草津川の川越に取り掛かりましょう、草津川隧道の東口手前を右折(白線矢印)します。

緩い上り坂の右手に草津川の川越しの安全を見守ってきた
地蔵尊が祀られています。

先の
Y字路を左に進みます。

上り坂は
土手道に出ます、ここに架かる橋は渡らず、土手道をUターン(白色矢印)します。

土手道を進み途中から右の
砂利道(白色矢印)を下って河川敷の中央に進みます。
地蔵尊 Y字路 土手道 河川敷へ

 天井川の草津川は平成十四年(2002)廃川となりました、河川敷は現在草津川跡地公園になっています。

往時の
草津川は通常、水量が少ない為、仮橋が架けられていました。

広重は
草津追分として、この仮橋を画面の手前に描いています。

廃川になった草津川の中央にこの
仮橋が復元されています。

広重は画面の中央に
追分常夜燈草津宿の宿並、そして比叡の山並を描いています。
復元された仮橋 木曽海道六拾九次之内 草津追分 広重画

 仮橋を渡り、対岸の砂利の上り坂(白色矢印)を進み、土手道に合流します。

途中に
草津川渡し解説があります、「通常水なしで、徒歩渡し。水嵩により、三~三十二文の橋銭を払っていた。当時は少し東側で渡っていた。」と記されています。

土手道をわずかに進み、右手の
階段(白色矢印)を下ります。

階段を下り切ると突当りが
草津追分です、左手が草津川隧道西口です、ここが中山道の終点です!
対岸の上り坂 土手道 階段 草津追分

 追分の突当りに火袋付石造道標(黄色囲み)があります、文化十三年(1816)の建立で「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」と刻まれています。

手前の左手に
延命地蔵尊(黄色囲み)があります、正に追分地蔵尊です。

並びに縮小版の
高札場が復元されています、草津川の堤防が決壊する恐れがある場合は、立木神社に移動しました。

黄色矢印が
東海道です、中山道はここまでです、これより京三条大橋までは東海道に譲ります!
火袋付道標 延命地蔵尊 高札場 草津追分全景

 AM11:18 草津追分着

名物姥が餅 祝い酒
 これにて二泊三日の街道ウォーク、そして中山道ウォークの終了です。

まだ
昼飯前です、こんなに早く終了した街道ウォークは初めてです、こんなこともあるでしょう。

それでは撤収です、JR東海道本線
草津駅に直行です。

偶然にも駅構内の売店で草津宿名物の姥が餅(うばがもち)の試食にありつけました、有難いですね!

信長に滅ぼされた佐々木氏の忘れ形見の幼子を託された
乳母が餅を売って育てたという故事があります、お乳をあらわしている小さなあんころ餅です。

中山道踏破にご褒美を頂きました、感謝します!!

例のモノを仕入れて、乗車です、いつも車窓からの景色は夜景ですが、今日の景色は晴天です!!!




前 高宮 ~ 鏡神社