洗濯物はシッカリ乾燥しています!! テレビを付け、天気を確認します、上々です!!! 朝食はホテル近くのなか卯です、納豆朝食です。 私は混ぜた納豆をご飯の上に掛けません、ご飯の方を納豆の器に入れます、これで残りご飯に納豆の香りが移りません。 生卵は黄身と白身に分け、無論黄身はご飯の上に掛け、白身はゴックンです、これにて準備OKです。 頃合いです、それでは二日目に取り掛かりましょう。
多賀大社の祭神は伊勢の天照大神の親神にあたるところから「お伊勢に参らばお多賀に参れ、お伊勢はお多賀の子でござる」と謡われ、延命長寿の神として崇敬をあつめました。 秀吉は母大政所の延命を祈願し、春日局は徳川二代将軍秀忠の病気平癒を祈願し、多賀信仰が盛んになり「伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀さんへは月詣り」と大層賑わいました。
戦国時代、高宮城主高宮宗光は浅井長政に組みし小谷城に籠城するも、天正元年(1573)織田信長の攻めで戦死、子の宗久は小谷城を脱出して一旦高宮城に戻り、城に火を放って高宮一族は離散しました。
昭和五十二年(1977)むちん橋の橋脚改修工事の際、脚下から二体の地蔵尊が発掘されました。 近隣の人々と工事関係者は、これこそ江戸時代の天保三年(1832)最初に架橋されたむちん橋の礎の地蔵尊に違いないと信じ、八坂地蔵尊の御託宣を得て橋畔を永住の地とし、堂を建立しむちん橋地蔵尊と名付けて祀りました。
婦人等が背負っている藁包は高宮布になる麻の原料です、正に「高宮布 背おうて渡る 無賃橋」です。
家臣の葛籠作りが葛籠村の村名の由来です。
旧あまご出村に入ると、左手に日枝神社が鎮座しています、対の常夜燈の奥に明神系台輪鳥居があります、本殿は小さな造りです、村の鎮守です。 出町にはケヤキ並木を残しています。
その通りに矢を射ると阿自岐神社の東の地面に突き刺さり、その矢を抜くと清水が湧き出したといいます、この清水を矢池と名付け、矢を放った大木を矢射り木と呼ばれ、それが訛ってやりこになったといいます。
これは豊郷町石畑にあったものをここに保存したものです。
左手に石部神社があります、式内石部神社社標があり、対の常夜燈の奥に石造神明鳥居があり、参道には石灯籠が並んでいます、本殿は一間社流造りです、延喜式に記載されている古社です、石を扱う石作部(いしつくりべ)に由来しています。
田中新左衛門旧本宅です、田源の屋号で呉服、蚊帳、麻織物を商った近江商人の豪商です、建物は文化庁登録有形文化財です、現在は湖魚季節料理の近江商人亭三角屋中宿店になっています。
養老年中(717〜23)の創建です、聖徳太子がこの地で物部守屋との戦いに際し、身の安全を祈願し、神託により当社に身を潜めて難を免れたといいます。
不飲川は源流にある不飲池(野間津池)で、藤原秀郷が平将門の首を京へ持ち帰る際に、将門の首を洗ったところ血で濁り、川の水が飲めなくなったところに由来します。 この不飲川には彦根との舟運がありました。
愛知川を挟んで対岸の常夜燈と対になっています、この間が愛知川の渡し場跡であり、無賃橋の架橋跡です。
画面左手の遠景に西国三十三所のうち三十二番目の札所観音正寺(かんのんしょうじ)がある観音寺山、無賃橋袂の標柱には「むちんはし はし銭いらす」と記され、橋上には天秤を担ぐ近江商人を描いています。
スグ先の旧中仙道ぽけっとぱーく内に明治五年(1872)建立の大神宮常夜燈があります、この手前を右(白色矢印)に進みます。
伊勢への御代参街道です。 五個荘北町屋町に入り、北町屋バス停先の信号交差点を右(黄色矢印)に進むと、近江商人屋敷が建ち並ぶ五個荘金堂があります、それでは立ち寄ってみましょう。
しかし敗戦と共に終焉を迎えました、邸宅には隆盛を極めた往時の三中井を偲ぶことができます。
遺跡からは役人(郡司)が使用した土器や硯、庁屋(ちょうおく)の布目瓦等が出土しています。
八風街道は近江八幡に通じています。 左折すると右手に大神宮常夜燈があります、台石には村中安全と刻まれています。
境内には賀茂真淵、本居宣長の歌碑があります。 本居宣長 「夜半ならば 老蘇の森の 郭公(かっこう) 今もなかまし 忍び音のころ」 加茂真淵 「身のよそに いつまでか見ん 東路の 老蘇の森に ふれる白雪」
境内に轟地蔵堂があります、小幡人形による千体仏が安置されています、安産に御利益ありといいます。
本殿は一間社流造りです、寛政三年(1791)の暴風雨で本殿は破損し、同年再建されました、西老蘇村の鎮守です。
脇本陣は奥村三郎右衛門が勤め、建坪六十四坪、門構玄関付でした。 敷地内には馬頭観世音文字塔や愛宕大神碑があります。
向いが創業四百年を誇った旅籠中村屋跡です、現業で頑張っていましたが、平成二十三年(2011)一月十日漏電が原因で全焼しました、残念です!
十字路を越えた左手は松平周防守陣屋跡です、武佐の地は川越藩松平家の飛び領地でした。
聖徳太子が妃(きさき)と共に老蘇の森を仮宮とした時、俄に妃が産気付き難産に陥った、そこでひたすら仏を祈ると千手観音の遣いの童子が現れ安産に導きました。 童子が去った方角に八尺の香木があり、その根元に五色に輝く霊石がありました、この香木で千手観音を刻み本尊とし、霊石の上に本堂を建立したのが武佐寺の始まりです。
近江鉄道八日市線を武佐踏切で横断します、長光寺町から西宿町に入ります。
左手TCMを過ぎると上田町に入ります、六枚橋交差点を左折します、六枚橋は寛永二十年(1643)時の領主が架けた橋が六枚の板橋であったところに由来しています、上田町から千僧供町(せんぞくちょう)に入ります。
これを知った上皇は怒りのあまり、二人の坊を死罪とし、法然上人は四国の讃岐に、親鸞は越後に流罪としました、これを承元の法難といいます。
本殿は元亀二年(1571)織田信長の兵火で焼失し、現在の総丹塗り(にぬり)桧皮葺きの本殿は文禄五年(1596)に再建されたものです(国指定重要文化財)。 参道口に高札所跡標石があります、真淵村の高札場跡です。
渡し場跡には解説と山燈籠があります。
善光寺川は鏡山に源を発し、流末は日野川に落合います。
並びが新羅三郎義光の後裔である林惣右衛門則之が勤めた本陣跡です、紀州候(紀伊徳川家)の定宿でした、皇女和宮も当本陣にて休息しています。
宿並を進むと右手に頭部が欠けた愛宕山碑があります。
本日はここ迄です、まだ明るいですがこの先に進んでも宿泊施設はありません。 今宵の宿は西川のビジネスホテルまつもとです、ここからは国道8号線をひたすら戻ります。 西横関まで戻るとラーメン店バリバリジョニーがあります、夕食としましょう、ギョーザに生ビールとしました。 この組み合わせはベストです! 次いで黒ビールです、コクがあってうまいですね、今夕はこれで十分です!! ラーメン店の隣りにコンビニがあります、ここで寝酒を調達します。
更に国道8号線を戻ると、西川に入り、積水樹脂の隣にビジネスホテルまつもと(0748-58-1535)があります。 トラックドライバーの定宿でしょうか、それなりのホテルです、素泊まり3,000円です。 風呂はまだ沸いていないとの事、シャワーで十分です、例によって洗濯です。 部屋に戻って、軽くストレッチを行い、テレビのスイッチを入れ天気予報を確認し、缶の栓をプシューッと抜きます、旅だナー!!!
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