道中日記 4-191 中山道 ( 高宮 - 鏡神社 ) 25.8km

なか卯
 例によってスッキリ目覚めました!

洗濯物はシッカリ乾燥しています!!

テレビを付け、天気を確認します、上々です!!!

朝食はホテル近くの
なか卯です、納豆朝食です。

私は混ぜた
納豆ご飯の上に掛けません、ご飯の方を納豆の器に入れます、これで残りご飯に納豆の香りが移りません。

生卵黄身白身に分け、無論黄身はご飯の上に掛け、白身はゴックンです、これにて準備OKです。

頃合いです、それでは二日目に取り掛かりましょう。

 平成24年09月26日 AM6:11 高宮宿出立 愛知川宿まで8.0km

 高宮町大北交差点の木之本分身地蔵尊が継立ポイントです、それでは二日目の出立です。

宿並の左手に
布惣跡(ぬのそう、現、座・楽庵)があります、高宮布(たかみやぬの)の問屋跡です。

高宮布は高宮の周辺で産出された麻布のことで高宮細美(さいみ)とも近江上布(じょうふ)とも呼ばれました、高宮布は風通しが良く、夏の着物に適し、室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重され、江戸時代になると毎年彦根藩によって幕府に献上されました。

高宮布の生産は江戸時代になると増々盛んになり、布惣では七つの蔵が高宮布の集荷で一杯になり、これが年に十二回繰り返され、近江商人によって全国展開し、近江商人の主力商品でした、布惣跡には現在五つの蔵が残っており、当時の高宮嶋(たかみやじま)の看板も現存しています。
木之本分身地蔵尊 布惣跡

 布惣跡の向いに高宮神社があります、高宮宿の氏神で、縁結び、夫婦和合、開運厄除けの神です、明治三年(1870)の大水害で、多くの旧記が流され沿革は殆ど判っていません、拝殿と本殿の間に正徳三年(1713)の建立と思われる古い石灯篭を残しています。

高宮神社の春期例大祭は高宮の太鼓祭として知られ、毎年四月に行われます、高宮十七町より一町が神輿、八町が太鼓、全町が(かね)を繰り出します、なかでも胴回り6メートルの大太鼓は圧巻です。


随神門横の
笠砂園に嘉永三年(1850)建立の芭蕉句碑「をりをりに 伊吹を見てや 冬籠」があります。

この句は芭蕉四十八歳の時、伊吹山麓にあった大垣藩士で門人であった
宮崎千用(せんよう)宅に立ち寄った時に詠んだ句です、 ここで冬を迎える為、雪囲いを立て、風除けを作って冬籠り(ふゆごもり)をしました。
高宮神社随神門 芭蕉句碑

 参道の左(西)側の長い塀と白壁の蔵がある豪壮な旧家は元庄屋屋敷です。

宿並の右に
馬場提灯店があります、中山道高宮宿と描かれた提灯を店先に掲げています。

高宮鳥居前交差点の左に
多賀大社一の鳥居が聳えています、多賀大社はここから南東約3.7kmの地に鎮座しています、多賀大社は平安時代に編纂された延喜式に記載された古社です。

この一の鳥居は寛永十二年(1635)建立の
石造明神鳥居です、多賀大社社殿が元和元年(1615)火災で焼失し、寛永年間(1624〜45)に再建され、その際に建立されたものといえます。
庄屋屋敷 馬場提灯店 多賀大社鳥居

 多賀大社の祭神は伊勢の
天照大神の親神にあたるところから「お伊勢に参らばお多賀に参れ、お伊勢はお多賀の子でござる」と謡われ、延命長寿の神として崇敬をあつめました。

秀吉は母大政所の延命を祈願し、春日局は徳川二代将軍秀忠の病気平癒を祈願し、多賀信仰が盛んになり「伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀さんへは月詣り」と大層賑わいました。

 鳥居脇に道標「是より多賀道三十丁」があり、鳥居をくぐった右手には常夜燈があります、常夜燈の背には石階段が設置されています、往時は対であったといいます。

ここには
尚白句碑「みちばたに 多賀の鳥居の 寒さかな」があります、尚白(しょうはく)は芭蕉の弟子です。

そのまま参道を進むと右手に臨済宗永源寺派祥雲山
徳性寺(とくしょうじ)があります、寛文元年(1661)の開基で本尊は釈迦如来です、鐘楼の土台部分は黒い鎧式板塀で囲んだ珍しい造りになっています。

徳性寺並びの高宮小学校一帯が
高宮城址です、校庭の隅に高宮城跡標石があります、江南の六角氏頼の三男信高を祖とする高宮氏の居城跡です。
多賀大社常夜燈 徳性寺鐘楼 高宮城跡

 戦国時代、高宮城主
高宮宗光浅井長政に組みし小谷城に籠城するも、天正元年(1573)織田信長の攻めで戦死、子の宗久は小谷城を脱出して一旦高宮城に戻り、城に火を放って高宮一族は離散しました。

 宿並に戻る途中に高宮寺(こうぐうじ)があります、奈良時代に行基大僧正婆羅門(ばらもん)僧正が伽藍を建立して称賛院(しょうさんいん)と号したのが始まりです。

その後、天正元年(1299)頃、
他阿真教(たあしんきょう)により時宗に改められ、一遍上人の弟子とされる切阿上人が初代住持(住職)となり高宮寺が開基されました。

境内の
千命堂(せんみょうどう)には第四代彦根藩主井伊直興(なおおき)が寄進した石像延命地蔵菩薩像と開山以来伝わる千手十一面観音像が安置されています、そして墓所には高宮氏歴代の墓があります。
高宮寺 千命堂 高宮氏歴代墓

 宿並に戻ると右手の小林家住宅前に俳聖芭蕉翁旧跡紙子塚碑があります、貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は粗末な扱いを受け、自分が横になっている姿の絵を描いてこの句「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」をしたためました。

紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は芭蕉と知ると新しい紙子羽織を贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて紙子塚と命名しました。

先に進むと右手に
脇本陣跡があります、門構玄関付きで、間口約14m、建坪約244uでした、門前には高札場がありました。

慶長十三年(1608)からは
問屋を兼ねました。
小林家 紙子塚 塩谷脇本陣跡

 スグ先の左手に本陣跡があります、表門が残されています、門構玄関付で、間口約27m、建坪約396uで、式台を構え、次座敷、次の間、奥書院、上段の間と連続した間取りでした。

向いに浄土真宗本願寺派三光山
円照寺があります、明応七年(1498)高宮氏の家臣北川九兵衛が剃髪して仏門に入り、仏堂を建立したのが始まりです。

境内に
家康腰懸石があります、慶長十九年(1614)大阪冬の陣に向かう、家康は駿府を出立し、佐和山から永原に向かう途中、ここで休息しました。

元文五年(1740)の火災で
本堂は焼失しましたが、その後、九年の歳月を費やし再建されました。
本陣跡 円照寺 家康腰掛石

 山門前に明治天皇行在所聖跡碑があります、明治十一年(1878)北陸東海巡幸の際、当寺が宿所となりました。

境内に二代目の
止鑾松(しらんのまつ)があります、明治天皇の宿泊に際し、松の大木が邪魔して乗り物が通れない為、伐採を命じられましたが、和尚はこれに抵抗したところ、明治帝は自ら歩いたといいます、以来(天皇の乗り物)をめた所から止鑾松と呼ばれるようになりました。

宿並を進み
犬上川無賃橋(現高宮橋)で渡ります、橋手前の右手に天保三年(1832)建立のむちん橋碑があります、碑には「むちんはし」「無賃橋」と刻まれています。

碑の奥に
むちん橋地蔵尊が安置されています、傍らにむちん橋地蔵尊由来記があります。
止鑾松 むちんはし むちん橋地蔵

 昭和五十二年(1977)
むちん橋の橋脚改修工事の際、脚下から二体の地蔵尊が発掘されました。

近隣の人々と工事関係者は、これこそ江戸時代の天保三年(1832)最初に架橋された
むちん橋の礎の地蔵尊に違いないと信じ、八坂地蔵尊の御託宣を得て橋畔を永住の地とし、堂を建立しむちん橋地蔵尊と名付けて祀りました。

 天保の初め、彦根藩はこの地の富豪藤野四郎兵衛小林吟右衛門馬場利左衛門等に架橋を命じました、彼等は一般の人々から浄財を募り、天保三年(1832)に竣工させ、渡り賃を取らなかったところからむちん橋と呼ばれました。

広重は
高宮として、松並木を左右に配置し、西から見た渇水期の犬上川、そして橋脚だけのむちん橋を中央に描いています。

その先には
常夜燈が立ち、高宮宿の宿並みが続き、遠景に伊吹山を描いています。

画面の手前に二人の婦人を描いています。
無賃橋(現高宮橋) 木曽海道六拾九次之内 高宮 広重画

 婦人等が背負っている藁包は
高宮布になる麻の原料です、正に「高宮布 背おうて渡る 無賃橋」です。

 犬上川は鈴鹿山系に源を発する北谷川(きたやがわ)と南谷川が落合い犬上川となり、流末は琵琶湖に注いでいます。

無賃橋歩道橋の渡詰めに高宮宿側と同種の
むちん橋碑と太い丸太標柱高宮宿があります、高宮宿の京(西)口です。

車道側の渡詰めには
牛頭天王道標石があります。

先で
四の井川新安田橋で渡ると高宮から旧法士村(ほうぜむら)に入ります、左手に法土一里塚跡標石があります、江戸日本橋より数えて百二十里目です。
犬上川 高宮宿碑 牛頭天王道 法士一里塚跡

 先に進むと左手の浄土真宗本願寺派妙行寺前に道標「是よりたがミチ」があります。

敷地内に入ると法土町自治会館の並びに
法土町地蔵堂があります。

更に奥に進むと
八幡神社が祀られています。

荒神山通りを法土町交差点で横断して進むと長閑な
楓並木になります、旧葛籠村に入ると右手につづらマップが掲示されています、葛籠町内の旧所名跡がイラストで描かれています、葛籠村藤細工、葛籠、行李、団扇(うちわ)が名産の立場でした。
多賀道道標 法土町地蔵堂 八幡神社 楓並木

 村内を進むと右手に真言宗豊山派延命山月通寺があります、別名柏原地蔵とも呼ばれており、本堂中央には行基菩薩の彫造と伝えられる地蔵菩薩が安置されています。

山門前に
不許酒肉五幸入門内と刻まれた石標が立っています、これは延命山地福寺といわれ禅寺であった頃の名残りを今に伝えるものです。

山門は左右に本柱と控柱をそれぞれ一組ずつ配し,屋根は切妻破風造りとなっている薬医門と呼ばれる形式の一種で平成10年10月に葛籠町有志一同の山門修復事業により修復されました。

スグ先右手の小屋組みの中に
(うぶ)の宮井戸があり、足利氏降誕之霊地と刻まれた手水鉢があります。
月通寺 禅寺石標 産の宮手水鉢

 ここから竹林の中の参道を進むと(うぶ)の宮が祀られています。

南北朝争乱の頃
足利尊氏の子義詮(よしあきら)が文和四年(1355)後光厳(ごこうごん)天皇を奉じて西江州で戦い、湖北を経て大垣を平定し、翌五年京へ帰ることになりました。

その時義詮に同行した
妻妾が産気づき、ここで男子を出産しました、付け人として家臣九名がこの地に残り、保護したが君子は幼くして亡くなりました。

生母は悲しみのあまり髪を下ろして
醒悟(せいご)と称して尼となりこの地に一庵(松寺)を結んで幼君の後生を弔いました。

ここに土着した家臣九名は
藤蔓(ふじづる)でつくった葛籠(つづら)を生業とするようになり、松寺の北方に一社を祀ったのがこの宮です、以来産の宮と呼ばれ安産祈願に参詣する人が絶えなかったといいます。
参道 産の宮

 家臣の葛籠作りが
葛籠村の村名の由来です。

 スグ先の左手に真宗大谷派甑谷山(そうやざん)還相寺があります、本尊は阿弥陀如来です。

向いには浄土宗摂取山
了法寺があります大正元年(1912)の開基です。

次いで右手の高崎医院の並びに
堂の川地蔵尊が祀られています。

スグ先の左小路に入ると
鹿嶋神社が鎮座しています、武甕槌神(たけみかづち)を祭神とする神社です、この神は武神であるところから武家の崇敬を篤く受けました。
還相寺 了法寺 堂の川地蔵尊 鹿嶋神社

 葛籠村の外れから街道は松並木になり田園風景が広がります。

左手に
彦根市モニュメントがあります、三本の石柱の上に麻を背負った婦人、菅笠を被った旅人、そして近江商人の像が乗っています。

彦根市から出る側には
またおいでやす、入る側にはおいでやす彦根市と刻まれています。

右手の大東電材の向いに
中山道葛籠町標石があり、出町交差点を横断すると左手に中山道出町標石があります。
名残り松 おいでやす 日枝神社 街道ケヤキ

 
旧あまご出村に入ると、左手に日枝神社が鎮座しています、対の常夜燈の奥に明神系台輪鳥居があります、本殿は小さな造りです、村の鎮守です。

出町には
ケヤキ並木を残しています。

 四十九院交差点の右手に縣社阿自岐神社社標次いで対の常夜燈道標「是従本屋社六丁」、そして鳥居があります、鳥居は現在改修工事中です、ここから右(西)に約780m進むと阿自岐神社が鎮座しています。

応神天皇の時代にこの地を開発した
百済の渡来人阿自岐(あじき)が祖神を祀ったものです、三間社流造りの本殿は文政二年(1819)の建立です。

犬上川の伏流水が湧き出る
池泉多島式阿自岐庭園は阿自岐氏の邸跡で日本最古の名園といいます。

この辺りの地名の
安食(あじき)は神社名の阿自岐に由来しています、安食とは食物に恵まれ安住できる地を意味しています。
阿自岐神社口 阿自岐神社 阿自岐庭園

 左手四十九院公民館先を左に入ると先人を偲ぶ館があります、豊郷に生まれ全国で活躍した八人の傑人の業績や生い立ち、成功への道程を紹介しています。

建物は二代目
薩摩治兵衛が寄付したフランス、パリの日本館をモチーフにしたものです、建物前には近江商人日仏貿易の祖薩摩治兵衛の碑があります。

[ 八人の八傑 ]
藤野喜兵衛 : あけぼの印の缶詰、その偉業が知られています。
薩摩冶兵衛 : 母や郷里の人々を生涯支え続けました。
伊藤忠兵衛 : 現在の伊藤忠商事や丸紅の創始者です。
伊藤長兵衛 : 医療施設の乏しかった豊郷に財団法人豊郷病院を設立しました。
北川 嘉平 : 全国の産業組合の模範とされ厚生社創設を支えました。
碓居 龍太 : 医学研究に生涯を捧げました。
古川鉄治郎 : 巨額の私財を投じて最新設備が整った豊郷小学校を落成させました。
村岸 峯吉 : 地下水利用の灌漑を完成させました。
先人を偲ぶ館

 先人を偲ぶ館の向いの左手に真宗大谷派兜率山(とうりつざん)四十九院照光坊唯念寺があります。

四十九院とは行基が天平三年(731)この地に四十九の寺院を建てたことに由来しています。

唯念寺はその四十九番目です、行基作の阿弥陀如来像弥勒菩薩像が本尊として安置されています、書院前の枯山水庭園は行基作と伝わっています。

向い真宗大谷派瑞光山
恵林寺です。

街道に戻って進むと左手に
春日神社が鎮座しています、行基が四十九院の創建時に伽藍鎮護の守護神として祀ったものです。
唯念寺 恵林寺 春日神社

 四十九院から石畑に入ると左手に豊郷小学校旧校舎群があります、昭和十二年(1937)丸紅専務古川鉄次郎の寄付よって建てられた、鉄筋造りの小学校で、東洋一といわれました。

鉄次郎伊藤忠兵衛の元で丁稚奉公からの叩き上げで、忠兵衛の右腕となって活躍しました、身の回りは質素で通し、公共の福祉には大金を惜しまなかったところから、近江商人の鑑といわれました。

ウイリアム メレルヴォーリズ設計の旧校舎は建て替えか保存かで揉めてマスコミを賑わさせた小学校です、今は複合施設となって保存されています。

豊郷小学校の向いに
やりこの郷碑があります、碑には弓矢があしらわれています、昔、この地が干ばつに見舞われると、村人は阿自岐神社に雨乞いを祈願しました、すると「安食の南にある大木の上から矢を放てば、矢の落ちたところから水が湧く」とお告げがありました。
豊郷小学校旧校舎 やりこの郷

 その通りに矢を射ると阿自岐神社の東の地面に突き刺さり、その矢を抜くと
清水が湧き出したといいます、この清水を矢池と名付け、矢を放った大木を矢射り木と呼ばれ、それが訛ってやりこになったといいます。

 豊郷小学校前交差点を越すと左手に中山道一里塚の郷石畑碑があり、一里塚が縮小されて復元されています、石畑の一里塚跡です、江戸日本橋より百二十一里目です。

並びに
石畑(間の宿)碑があります、石畑は高宮宿と愛知川宿の中間に位置し、間の宿として発展し、立場茶屋がありました。

石畑の地は文治元年(1185)屋島の合戦で弓の名手として名を馳せた那須与一の次男石畠民武大輔宗信那須城を築き、この地を支配しました。

一里塚の奥に
八幡宮が鎮座しています、宗信が延応元年(1230)男山八幡宮を勧請したものです。
一里塚の碑 復元一里塚 八幡宮

 八幡神社の奥に浄土真宗本願寺派引誓山(こうせんざん)称名寺(しょうみょうじ)があります、正嘉二年(1258)那須与一の次男宗信が創建しました。

先に進むと彦根警察署豊郷警察官駐在所と岩田種苗花園の間の居宅介護支援センターの辺りに、本来の
石畑の一里塚がありました、塚木は松で、塚上からは琵琶湖が望めたといいます。

スグ先の右手に大村歯科医院があり、その手前を左に入ると
犬上の君屋敷跡(豊郷駅前公園)があります。

犬上君御田鍬(いぬかみのきみみたすき)は遣隋使遣唐使を歴任し、後の犬上君白麻呂(しろまろ)は高句麗に派遣され、対外交渉の分野で活躍しました。
称名寺 一里塚本来位置 犬上の君屋敷跡

 くれない公園手前を左に進むと犬上神社があります、祭神は犬上の君の始祖稲神(いねがみ)といわれています。

この地は
百済から入植した帰化人が開いた土地です、その王は農耕を振興したところから稲神(いねがみ)と呼ばれ、これが転化して犬上になったといいます。

伝説によると
犬上の君飼い犬が激しく君に吠えかかり、これに怒った君が犬の首を刎ねると、首は宙を飛び、松の木の上で君を狙っていた大蛇の喉を喰い破りました、君は哀れに思い、胴を埋葬し、頭を持ち帰り、犬頭明神ととし犬上神社に祀りました。

くれなゐ園は丸紅の創始者伊藤忠兵衛の功績を讃え、昭和十年(1935)に造られた公園です、公園中央には肖像がはめ込まれた伊藤忠兵衛翁碑があります、近江麻布の行商から身を起し、伊藤忠商事丸紅を創設しました。
犬上神社 伊藤忠兵衛翁碑

 隣が伊藤長兵衛家屋敷跡です、五代目長兵衛紅長で商品の仕入に携わり、全国への行商は弟の初代伊藤忠兵衛が受け持ちました。

若林長次郎は十六歳でこの伊藤長兵衛商店に丁稚奉公入りし、二十二歳で六代目伊藤長兵衛(初代伊藤忠兵衛の兄)の養子となり、長兵衛の次女と結婚し、七代目伊藤長兵衛を襲名しました。

長兵衛は
伊藤忠商事を合併し、丸紅商店を設立して初代社長に就任しました、後に私財と自宅敷地の大部分を寄付して豊郷病院を開設しました。

隣が
伊藤忠兵衛屋敷跡です、今は伊藤忠兵衛記念館になっています、伊藤忠商事、丸紅の創始者初代伊藤忠兵衛が暮らし、二代目忠兵衛の生家です。

明治三十六年(1903)初代が他界すると、
八重夫人は十七歳の次男を二代目忠兵衛に指名するも、役職に就かせず丁稚扱いで一から叩き上げました。
伊藤長兵衛屋敷跡 伊藤忠兵衛屋敷跡

 街道を進むと右手の奥に天雅彦神社(あめわかひこじんじゃ)があります、天応元年(781)の創建でこの地の総鎮守です。

戦国時代、
佐々木京極氏の家臣でこの地を支配した高野瀬氏の信仰が篤く、この地を通る武将は天稚大明神に神饌を供し、勝運を祈願したといいます。

今も勝運の強い神として受験生や選挙の候補者に崇拝され、又、厄除け商売繁盛の神として霊験あらたかといわれています。

参道口の左手に造り酒屋
西澤藤平商店があります、銘酒出世誉の蔵元です、一般に、滋賀の地酒は旨味のある酒と評され、ふくよかで奥行きのある味わいの酒が多く、それでいて後味がすっきりし、切れ味が良いといいます、これは素晴らしいですね!

候補者は
天雅彦神社に祈願し、銘酒出世誉を呑めば当選確実です!
天雅彦神社 銘酒出世誉

 高野瀬からに入ると、ニシキ会館の前に金田池碑があり、井戸のモニュメントがあります。

ここより北50mに
金田池と呼ばれる湧水があり、田の用水や旅人達の喉を潤してきました、これを模したものです。

下枝(しもえだ)に入り、日枝郵便局を過ぎると右手に又十屋敷があります、豪商藤野喜兵衛屋敷跡です、江戸末期より蝦夷と内地との間を北前船で交易し、財を成した近江商人です。

明治の世になると我国初の
鮭缶の製造を始め、後のアケボノ缶詰に受け継がれています。

尚、ここには
標石「中山道一里塚跡址」があります。
金田池碑 又十屋敷 一里塚跡址

これは豊郷町石畑にあったものをここに保存したものです。


 先の右手に千樹寺があります、門前に江州音頭発祥地碑伝統芸能扇踊り日傘踊り中山道千枝の郷碑があります。

臨済宗永源寺派日吉山
千樹寺は行基創建四十九院の一寺で、観音堂とも呼ばれています。

信長の兵火に遭い寺は焼失しましたが、天正十四年(1586)
藤野喜兵衛の先祖、藤野太郎右衛門が再建しました。

この
落慶法要で時の住職が境内に人形をたくさん並べ、お経に音頭の節をつけて唱い、手振り、足振り拍子を揃え踊り出したのが江州音頭の始まりです。

これが毎年八月十七日の
観音盆の伝統芸能絵日傘踊り扇踊りとして今に伝わっています。
千樹寺 江州音頭碑 扇日傘踊り

 宇曽川歌詰橋で渡ります、宇曽川は鈴鹿山系の泰川山押立山に源を発し、湖東平野を潤し、岩倉川を吸収して、流末は琵琶湖に注いでいます。

この川は古くから水量が豊富で
舟運が盛んであったところから運槽川(うんそうかわ)と呼ばれていましたが、いつの日か転訛しうそ川と呼ばれるようになりました。

歌詰橋はかつて十数本の長い
丸太を土台にして、その上に土を盛った土橋でした。

歌詰橋平将門に由来しています、天慶三年(940)平将門藤原秀郷によって東国で討ち取られ首級をあげられ、京まで運ばれました。

この橋まで来ると、
将門の首が桶から転げ落ち、目を見開いて秀郷に襲いかかってきました、秀郷はとっさに歌を詠んでほしいと頼むと、首は歌に詰まって橋上に落ちました。

これ以来、村人はこの橋を
歌詰橋と呼ぶようになったといいます。
歌詰橋

 橋を渡ると豊郷町上枝から愛荘(あいしょう)町石橋に入ります。

スグ先の左手に浄土真宗本願寺派
普門院があります、本堂裏に将門首塚があります、実際には山塚古墳円墳とiいいます。

愛荘町消防団石橋班消防器具庫の隣に
地蔵堂があります。

先に進むと街道の左手に浄土真宗本願寺派甘露山
正光寺があります。

次いで
石橋から沓掛に入ります。
将門首塚 地蔵堂 正光寺 石部神社

 左手に
石部神社があります、式内石部神社社標があり、対の常夜燈の奥に石造神明鳥居があり、参道には石灯籠が並んでいます、本殿は一間社流造りです、延喜式に記載されている古社です、石を扱う石作部(いしつくりべ)に由来しています。

 沓掛交差点を越すとY字路になります、沓掛の三叉路です、街道は右(白色矢印)に進みます。

この三叉路に
旗神豊満(とよみつ)大社道標があります、豊満神社は近江鉄道愛知川駅の南に鎮座しています、地元では旗神さんと呼ばれ親しまれています。

神功皇后(じんぐうこうごう)の軍旗を祀る、軍旗の守護神です、境内の竹を切って旗竿にすると戦に勝つといわれ、源頼朝をはじめ多くの武将が崇拝しました。

沓掛中宿の境を流れる小川を左(西)に入ると井上神社が鎮座しています、ここには豊富で清浄な湧水があり、この清水を神に供え村人の飲料としたので、この井の上に一社を創建し、菅原道真公を勧請して産土神としました。
沓掛Y字路 旗神豊満大社 井上神社本殿

 愛知川小学校を過ぎると右手に河脇神社の台輪鳥居が聳えています、本殿は一間社流造りです。

河脇大明神と称し、愛知川筋の上に御河辺神社、中は当社、下には川桁神社の三社が祀られています。

先に進むと
中山道愛知川宿ゲートが街道ウォーカーを出迎えてくれます。

ゲートをくぐると左手に
地蔵堂があります、宿口で旅人を見守っています。

次いで左手に
近江商人亭があります。
河脇神社 愛知川宿ゲート 地蔵堂 田中新左衛門旧宅

 田中新左衛門旧本宅です、田源の屋号で呉服、蚊帳、麻織物を商った近江商人の豪商です、建物は文化庁登録有形文化財です、現在は湖魚季節料理の近江商人亭三角屋中宿店になっています。

 AM9:13 愛知川宿着 武佐宿まで11.1km

 先に進むと右手に郡分延命地蔵堂があります、地蔵堂脇には多数の地蔵道祖神が集められています、地蔵堂脇を流れる中の橋川中宿堺町の境であり、神崎郡愛知郡の境です、これが郡分(ぐんわけ)地蔵の由来です。 

郡分地蔵堂前に
愛知川宿北入口標石があります、愛知川宿に到着です!

愛知川は恵智川、越知川、愛智川とも書かれ、地名は宿の西外(はず)れを流れる愛知川に由来しています。

愛知川は中世東山道時代からの宿駅で、近江麻布の生産及び集散地として栄え、東海道土山宿への御代参街道を控え、大いに賑わった宿でした。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると愛知川宿宿内家数は百九十九軒、うち本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠二十八軒、宿内人口は九百二十九人(男四百七十一人、女四百五十八人)で宿長は五町三十四間(約607m)でした。
郡分延命地蔵堂 北入口標石

 郡分地蔵堂の並びに慶応元年(1865))創業の銘菓処しろ平老舗(しろへいろうほ)があります。

宿並を進み、信号交差点にて県道214号線を横断すると、左手に
ポケットパークがあります。

園内には
むちん橋由来広重画恵智川レリーフ、明治四年(1871)郵便事業創業時に使われた書状集箱(しょじょうあつめばこ、黒ポスト)が再現されています、この書状集箱は現役です。

ここから
泉町になります、右手に真宗大谷派負別山宝満寺があります、昔は豊満寺といわれ豊満神社別当寺とされ、江戸時代には愛知郡内他に二十五寺の末寺をもつ大寺院でした。
しろ平老舗 ポケットパーク 宝満寺

 宝満寺には親鸞手植えの紅梅や直筆の掛け軸があります。

当寺は本願寺中興の祖といわれる
蓮如上人御影道中の定宿として知られています、御影道中とは蓮如上人没後、北陸での教化の苦労とその徳を偲んで、京都東本願寺吉崎御坊(現福井県あわら市、吉崎別院)間を徒歩で往復する行事です。

毎年五月七日の晩に愛知川宿の家々は提灯を掲げ
、御影道中の一行を迎えます、宝暦二年(1752)から継続しています。

宿並に戻ると右手の
日本生命愛知川営業部の辺りが西沢本陣跡です、建坪百四十二坪で門構玄関付でした、皇女和宮三日目の宿所となりました。

源町を進むと右手に
八幡神社があります。
親鸞手植紅梅 西沢本陣跡 八幡神社

 養老年中(717〜23)の創建です、
聖徳太子がこの地で物部守屋との戦いに際し、身の安全を祈願し、神託により当社に身を潜めて難を免れたといいます。

 八幡神社の参道口左手の常夜燈横に高札場標石があります、ここが愛知川宿の高札場跡です。

八幡神社参道口左の
紅殻塗りの旧家辺りが藤屋脇本陣跡です、建坪百三十一坪で門構玄関付でした。

次いで右手の時計メガネ宝石のタカダの向いに
問屋跡標石があります、ここに問屋場がありました。

次いで左手の
マルマタ商店は文政十一年(1828))創業の赤かぶら漬けの老舗です、食してみたいですね。
高札場跡 藤屋脇本陣跡 問屋場跡 赤かぶら漬け店

 御幸町の左手に割烹旅館竹平楼があります、 宝暦八年(1758)創業の元旅籠竹の子屋です、建物は文化庁登録有形文化財で、今は鯉のあめ煮の名店です。

四代目
平八の時に竹の子屋の屋号から「竹」と平八から「平」をとり竹平楼と改称しました。

並びに
明治天皇御聖蹟碑があります、明治十一年(1978)明治天皇北陸東山道巡幸の際、この竹平楼で休息しました。

この巡幸には侍従長の
岩倉具視大隈重信井上馨山岡鉄舟等が随行していました。

不飲川(のまずがわ)を不飲川橋で渡ります。
割烹旅館竹平楼 明治天皇御聖蹟碑 不飲川

 不飲川
は源流にある不飲池(野間津池)で、藤原秀郷平将門の首を京へ持ち帰る際に、将門の首を洗ったところ血で濁り、川の水が飲めなくなったところに由来します。

この不飲川には
彦根との舟運がありました。

 不飲川橋を渡ると中山道愛知川宿ゲートがあります、この辺りが愛知川宿(南)です。

街道は
不飲橋交差点にて国道8号線に合流します、京方面からは斜め右の中山道愛知川宿ゲート口に入ります。

スグ先の右手駐車場の奥に
一里塚跡標石があります、愛知川の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて百二十二里目です。

御幸橋の手前、左の
祇園神社前の道に進みます(白色矢印)、この筋が旧道痕跡です。

旧道を進むと突当りの左に弘化三年(1846)地元有志によって建立された
睨み灯籠があります。
一里塚跡 祇園神社前旧道 睨み灯籠

 
愛知川を挟んで対岸の常夜燈と対になっています、この間が愛知川の渡し場跡であり、無賃橋の架橋跡です。

 左手の祇園神社は天保九年(1838)無賃橋橋神(守護神)として勧請されました。

毎年七月中旬の
祇園納涼祭りでは湯立神楽が行われ、明治初期より近江鉄道と東海道新幹線の間の愛知川河川敷にて勇壮な手筒花火が奉納されます。

愛知川は近江一の大河で、鈴鹿山系に源を発し、流末は琵琶湖に注ぎます。

この愛知川は別名
人取川とも呼ばれ、出水の度に多くの人命を奪ってきました。

現在の
御幸橋は明治天皇巡幸に際し、馬車を通すために板橋が新設されたところから御幸橋と命名されました。
祇園神社 手筒花火 愛知川

 文政十二年(1829)愛知川宿の成宮弥治右衛門忠喜(ただよし)が四人の同志とともに、彦根藩に架橋を申し出て、天保二年(1831))に竣工しました。

この橋は
渡り賃を取らないところから無賃橋(むちんばし)と呼ばれました。

成宮家には
西園寺藤原実丈(さねたけ)の歌「旅人の あわれみかけて むちんばし ふかき心を 流す衛知川(えちがわ)」が家宝として残されています。

広重は
恵智川(愛知川)として、この無賃橋を画面中央に描いています。
御幸橋 木曽海道六十九次之内 恵智川 広重画

 画面左手の遠景に西国三十三所のうち三十二番目の札所
観音正寺(かんのんしょうじ)がある観音寺山、無賃橋袂の標柱には「むちんはし はし銭いらす」と記され、橋上には天秤を担ぐ近江商人を描いています。

 五代目の御幸橋(みゆきばし)を渡ると五個荘(ごかしょう)に入ります、渡り詰めの簗瀬北交差点を左折します。

先の
近江鉄道本線愛知川南踏切にて横断(白色矢印)します。

先に進むと右手に文政八年(1825)建立の
大神宮常夜燈があります、愛知川対岸との睨み灯籠です。

ここを右折すると、
旧道が復活します。

一本目を右折すると、左手に
秋葉山永代常夜燈があります。
簗瀬北交差点 愛知川南踏切 睨み灯籠分岐 秋葉山常夜燈

 旧道を進むと左手に愛宕神社の小社があります、いわずと知れた火防の神です。

次いで右手に
東嶺(とうれい)禅師御誕生地碑があります、享保六年(1721)ここで誕生し、九歳で出家、駿河の白隠禅師の元で修行し、臨済宗中興の祖となり、寛政四年(1792)七十二歳で没しました。

家電を商う前田谿潤堂の前を左に入ると
草分け地蔵があります、残念ながら由緒は解りません。

更に奥に進むと左手に
厳島神社があります、安芸の厳島神社を勧請したものです。
愛宕神社 東嶺禅師誕生地 草分け地蔵 厳島神社

 厳島神社の境内に芭蕉句碑「八九間(はっくけん) 空で雨降る 柳かな」があります、元禄七年(1694)芭蕉五十一歳の時の句です、春雨が止んだのに、八九間もある柳から雨滴が落ちてくる様を詠んでいます。

後方に芭蕉句碑を建碑した
市河公風句碑「果寿美かと 思ふほどなり 初霞」があります。

旧道に戻ると
小幡(おばた)人形を飾っているお宅があります、 旧小畑村には小幡人形窯元がありました、この小幡人形は小幡でことも呼ばれる土人形です。

細居家が代々継承してきました、当初は京都伏見の人形を真似ていましたが、いつしか独特な色使いとなり旅人の土産として人気がありました。
芭蕉句碑 市河公風句碑 小幡人形

 近江鉄道本線を小幡踏切で横断します。

小幡新町バス停を過ぎると右手に浄土宗法皇山
善住寺があります、延文二年(1357)の創建で、参道口に聖徳太子御旧跡碑があります、太子所縁のお寺です。

次いで右手に
小幡神社御旅所があります、御旅所とは祭礼の際に御神体を乗せた神輿が休憩または宿泊する場所です、境内の奥には山王神社が祀られています。

スグ先の右手に浄土宗小幡山
長寶寺があります、元禄年間(1688〜704)の創建で、本尊は阿弥陀三尊です。
小幡踏切 善住寺 小幡社御旅所 長寶寺

 長宝寺先の小幡バス停前の左にY字路があります、このY字路を左を進むと近江鉄道本線五個荘駅です、Y字路右(黄色矢印)の筋が御代参街道です。

この
追分には享保三年(171)建立の道標「右 京みち 左 いせ ひの 八日市みち」があります、八日市を経て東海道土山宿に至り、伊勢に通じています。

この街道は
伊勢神宮多賀大社を結び、天皇の名代として公家が代参を行うのに使われた処から御代参街道と呼ばれました、又、近江商人の行商に使われた処から市場通りとも呼ばれました。

寛永十七年(1640)
春日局は二代将軍秀忠の病気平癒祈願の為、伊勢神宮ら多賀大社へと通行しました。
御代参街道追分 追分道標 小幡分岐

 スグ先の
旧中仙道ぽけっとぱーく内に明治五年(1872)建立の大神宮常夜燈があります、この手前を右(白色矢印)に進みます。

 右折すると右手に臨済宗妙心寺派慈光山正眼寺(しょうがんじ)があります、建武年間(1334〜36)の創建で本尊は聖観音菩薩です。

当寺には国指定重要美術品の
安南国書(あんなんこくしょ)と呼ばれる御朱印状が残されています、これは近江商人安南(ベトナム)と朱印船交易をした証だといいます、流石商魂逞しいですね。

大同川砥心橋で渡り、突き当たりを左折します、五個荘小幡から宮荘町に入ります、京方面からは五個荘郵便局先を右折して砥心橋大同川を渡ります。

五個荘竜田町を進むと右手の東近江市役所支所の前に
名残の松があります。
正眼寺 砥心橋 名残の松

 ここから先の街道筋には趣のある旧家や紅殻塗りの塀を数多く残しています。 

右手に堂々とした
地蔵堂があります。

スグ先の左手にポケットパークがあります、園内には幕府が文化三年(1806)に作成した
中仙道分間延絵図の中の五個荘部分が掲げられています。

五個荘三俣町に入ると右手に松居家住宅があります、大正十四年(1925)に竣工した木造二階建で、外装はモルタル仕上げになっています。

昭和三十九年(1964)まで
五個荘郵便局として使用されました(国有形文化財)。
地蔵堂 中山道分間延絵図 旧五個荘郵便局

 旧郵便局の向いに西澤梵鐘鋳造所があります、門前には鐘が置かれています、当家は九代三百年に渡り、代々梵鐘鋳造を家業としてきました。

梵鐘の
鋳型造りに、野洲の粘土や琵琶湖の砂が適しているといいます。

次いで左手に
若宮神社があります、祭神は仁徳天皇です。

左手松本木材店先の左小路に天保十五年(1844)建立の
常夜燈があります、道標を兼ね「右京道 左いせ ひの 八日市」と刻まれています。
西澤梵鐘鋳造所 若宮神社 常夜燈 近江商人所縁へ

 伊勢への御代参街道です。

五個荘北町屋町に入り、北町屋バス停先の信号交差点を右(黄色矢印)に進むと、近江商人屋敷が建ち並ぶ五個荘金堂があります、それでは立ち寄ってみましょう。

 近江商人屋敷が並ぶ五個荘金堂町は重要伝統的建造物群保存地区に選定され、往時の原風景を色濃く残しています。

五個荘商人を代表する
外村宇兵衛家は東京、横浜、京都、福井などに支店を有し、呉服木綿類の販売を中心に商圏を広げ、明治時代には全国長者番付に名を連ねる近江を代表する豪商の地位を築きました。

中江家は明治三十八年(1905)三中井(みなかい)商店を発足し、朝鮮、中国に二十余の百貨店を展開しました。
近江商人屋敷 近江商人本宅群 旧外村宇兵衛家 中江家

 しかし敗戦と共に終焉を迎えました、邸宅には隆盛を極めた往時の
三中井を偲ぶことができます。

 それでは街道に戻りましょう。

信号交差点を越すと左手のポケットパーク内に
明治天皇北町屋御小休所碑があります。

明治十一年(1878)北陸東海巡行の際、向いの
市田家で休息しました。

邸内には元帥伯爵
東郷平八郎謹書による明治天皇御聖蹟碑があります。

次いで右手に真宗仏光寺派慈照山
蓮光寺があります、元は天台宗でしたが天和五年(1685)改宗しました。
明治天皇碑 市田家 明治天皇碑 蓮光寺

 先の右手に市田庄兵衛家本宅があります、建物は明治初期の建築です、当家は江戸時代から呉服繊維商として京都、大阪で活躍しました。

奥に細長い
京町家風の建築様式です、平成十三年(2001)に北町屋町が屋敷を購入し、保存、活用しています(市指定文化財)。

街道の右手に
大郡神社(おおこうりじんじゃ)の鳥居があります、北町屋の鎮守です、社殿は国道8号線を越えた先に鎮座しています。

神社を中心とした東西南北400m程は奈良、平安時代に
近江國に置かれた神崎郡役所(郡衙 ぐんが)の大郡遺跡です。
市田庄兵衛家本宅 大郡神社鳥居 大郡神社社殿

 
遺跡からは役人(郡司)が使用した土器や硯、庁屋(ちょうおく)の布目瓦等が出土しています。

 信号交差点にて県道209号線を横断すると右手に茅葺き屋根の旧片山家住宅があります、大名、武家、公家等が休憩した茶屋本陣跡です、ういろうが名物でした。

角の
金毘羅常夜燈は天保八年(1837)の建立です。

五個荘山本郵便局を過ぎると右手に
小社があります、村境の道祖神かもしれません、次いで左手に若宮八幡宮があります。

スグ先の町小路バス停右の小路口に享和三年(1803)建立の
観音正寺道標「三十二番かんのん正寺」があります、繖山(きぬがささん)観音正寺への道標です、西国三十二番札所の観音正寺聖徳太子の建立と伝わる古刹で、万事吉祥の縁結びの祈祷道場です。
茶屋本陣跡 小社 観音正寺道標

 街道を進むと、左手の日本寝具通信販売辺りに石塚の一里塚があったといいますが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて百二十三里目です。

わずかに残された
松並木先の右手にてんびんの里モニュメントがあります、台石「てんびんの里 旧中仙道」の上に道中合羽を着て天秤棒を担ぐ近江商人像が乗っています。

五個荘は近江商人の発祥の地です、てんびん棒一本から豪商にまで立身出世した立志伝がたくさん残されています。

近江商人は行商に出て、つらい状況になるとてんびん千両とつぶやきながら耐えたといいます。

街道はてんびんの里モニュメントの先で
国道8号線に合流します、京方面からは国道8号線から分岐して斜め右に入ります。
石塚の一里塚跡 近江商人像

 合流先の感応式信号機交差点を右折(白色矢印)し、一本目を左折(白色矢印)します、ここから国道8号線の敷設で分断された旧道が復活します。

右手に
清水鼻の名水があります、今も旅人の喉を潤しています。

この名水は
湖東三名水の一つです、他の二つは醒井宿の居醒の清水そして彦根の十王水です。

清水鼻は
立場で、雛あられ風の焼米はぜが名物でした、大いに賑わい立場女郎が居たといいます。
国道分岐 清水鼻分岐 清水鼻の名水 清水鼻の名水碑

 先を右に入ると日枝神社の石段があります、本殿は一間社流造りで、清水鼻村の鎮守です。

右手の真宗大谷派菩提樹山
浄敬寺(じょうけいじ)は天文五年(1536)の開基で、本尊は阿弥陀如来です。

浄敬寺を過ぎると
五個荘清水鼻町から安土町石寺に入ります、ここから北西の位置に織田信長が築いた安土城祉があります。

フードショップタケヤスを左折します、直進する道筋は八幡道(八風街道)です。
日枝神社 浄敬寺 安土町石寺分岐 大神宮常夜燈

 八風街道は
近江八幡に通じています。

左折すると右手に
大神宮常夜燈があります、台石には村中安全と刻まれています。

 大神宮常夜燈の並びに愛宕大神碑が祀られています、清水鼻立場を火災から守ってきた火防の神です。

奥に
地蔵堂があります、立場に出入りする旅人の安全を見守ってきました。

続いて街道筋には興味深い建物があります、よく見ると一棟の建物の屋根が
茅葺き瓦葺きが混在になっています、ハーフ&ハーフです、しかも紅殻塗りです。

緩い坂を下ると旧道は
国道8号線に合流します、京方面からはカーメインテナンス小林前を斜め左に入ります。
愛宕大神碑 地蔵堂 ハーフ&ハーフ 国道8号線合流

 東海道新幹線ガードをくぐって歩道を進み、東老蘇1号橋地下道にて国道8号線を横断します、この分岐点には道標「中山道 東老蘇 武佐宿へ一里」と看板「安産守護 交通安全祈願 史跡老蘇の森鎮座 鎌宮奥石神社」があります。

街道の右手一帯は国史跡の
老蘇の森(おいそのもり)です、光霊天皇(七代天皇)の頃、この地一帯が裂け、水が湧いて、とても人は住めませんでした。

石辺大連(いそべおおむらじ)なる者が神の助けを得て、この地にを植えたところ、たちまち大森林になったといいます。

石辺大連は森の主となり、百数十歳まで生きながらえたところから
老蘇と称され、この森は老蘇の森と呼ばれました。
東老蘇分岐 東老蘇道標 老蘇の森

 この森の中に奥石神社(おいそじんじゃ)が鎮座しています、延喜式神名帳に記載された古社です。

奥石神社は石辺大連が社壇を築き、 祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀り、繖山(きぬがさやま)が御神体です。

繖山は
観音正寺()かんのんしょうじがある処から観音寺山とも呼ばれました、戦国時代には観音寺山に六角氏観音寺城がありました、この城はわが国最大の山城といわれましたが、永禄十一年(1568)信長の前に、たった一日で落城となりました。

三間社流造り桧皮葺きの
本殿は天正九年(1581)織田信長が寄進し、柴田勝家が普請奉行を勤めました(国指定重要文化財)。

鳥居
は天明四年(1784)領主の旗本根来新右衛門が寄進したものです。
奥石神社鳥居 奥石神社社殿

 境内には
賀茂真淵本居宣長の歌碑があります。

本居宣長 「夜半ならば 老蘇の森の 郭公(かっこう) 今もなかまし 忍び音のころ」
加茂真淵 「身のよそに いつまでか見ん 東路の 老蘇の森に ふれる白雪」

 東老蘇公民組合前に標石「←陣屋小路」があります、向いの陣屋小路(黄色矢印)を進むと根来陣屋跡碑があります。

根来衆(ねごろしゅう)は戦国時代鉄砲で武装した僧兵の集団で、紀伊國の根来寺に属していました、根来衆は秀吉に敵対し、根来寺は焼打ちに遭っています。

後に
根来衆は家康の家臣となり、戦功を立て、三千四百五十石の大旗本ととなり、東西老蘇(六百九十九石)が領地(知行地)となり、根来陣屋が設置され、代官所が置かれました。

先の左手に浄土宗老蘇山
福生寺があります、天正十六年(1588)の開基で、本尊は鎌倉中期作の木造阿弥陀三尊像です、本堂根来陣屋書院を移築したものといいます。
陣屋小路 根来陣屋跡 轟地蔵堂

 境内に
轟地蔵堂があります、小幡人形による千体仏が安置されています、安産に御利益ありといいます。

 先に進み轟川轟橋で渡ります、往時轟川の川幅は狭く三枚の石によって架橋されていました、この橋石は奥石神社公園に保存されています。

轟橋手前の右手に
轟地蔵跡標石があります、中山道分間延絵図には、この場所に描かれています、明治以後橋改修時の際に福生寺に移されました。

標石の所に
愛宕山常夜燈、渡詰めの左手には文化十一年(1814)建立の金毘羅大権現常夜燈があります。

橋を渡ると左手に
杉原医院があります、医院の庭園は縁苔園(りょくたいえん)と称し滋賀県指定文化財名勝です、勝元宗益[通称鈍穴(どんけつ)]が幕末に作庭した回遊式の枯山水庭園です。
轟橋 杉原氏庭園 緑苔園

 安土老蘇郵便局を越すと右手に小祠が祀られています、太いしめ縄が飾られています、傍らの木札には「風雨災励 五穀豊穣」と記されています。

信号交差点手前の右手に
新設道標があります、正面「中山道 大連寺橋」右面「内野道 右観音正寺 左十三仏」左面「内野道 右八日市 左安土」と刻まれています。

先の左手広場に
御神燈があり、並びに奥石神社御旅所標石があります、奥石神社の祭礼の際、神輿を仮に鎮座しておく場所です。

次いで右手に
鎌若宮神社が鎮座しています。
小祠 新設道標 御旅所 鎌若宮神社

 
本殿は一間社流造りです、寛政三年(1791)の暴風雨で本殿は破損し、同年再建されました、西老蘇村の鎮守です。

 先の右手に浄土宗円通山東光寺があります、秀吉の祐筆であった建部伝内の寓居跡です。

元は清水鼻にあり
六角氏ゆかりの寺でしたが、観音寺城が落城するとこの地に移つりました。

境内の
伝内堂には元禄八年(1695)造立銘の建部伝内の木造が安置されています。

当初、
伝内は近江の六角承偵(ろっかくよしかた)に仕え、主家が没落すると浪人となり、後に豊臣秀吉に仕え、天正十八年(1590)六十九歳で没しています。

街道を進むと右手に
小社が祀られています、道祖神かもしれません。
東光寺 伝内堂 小社

 小社先の亀川交差点を越すと安土町西老蘇から西生来(にししょうらい)に入ります、西生来東バス停先の左小路に入ると観音堂があります。

先に進むと右手の小さな流れの畔に
泡子延命地蔵尊御遺跡 大根不洗い川碑があります、醒井宿の西行水泡子塚と同様な話が伝わっています。

茶屋の娘が旅の僧に一目惚れし、僧が飲み残した茶を飲んだところ、妊娠し男の子を出産しました、三年の時が経ち、子を抱いて川で大根を洗っていると、旅僧が再び現れて「嗚呼不思議なるかな、この子の泣き声が、お経を読んでいるように聞こえる」という、娘が振り向いて旅僧を眺めると、三年前に恋をした僧でした、娘が仔細を話すと、僧が男の子にフッと息を吹きかけたとたん、泡となり消えてしまった。

僧は「西方の
あら井の池の中に尊き地蔵あり、この子のためにお堂を建て安置せよ」といって立ち去った、その地蔵尊があった所です。
観音堂 泡子地蔵跡

 先に進むと左手の奥に真宗大谷派安養山西願寺があります、元は天台宗でしたが、貞和四年(1348)改宗しました。

西生来中バス停を過ぎると右手の
西福寺山門脇に地蔵堂があります。

この
地蔵堂は泡子の僧が「泡と消えた子のために、あら井の延命地蔵尊をお堂を建て安置せよ」との告げにより建立された地蔵堂です、堂内には泡子延命地蔵尊が安置されています、西生来の地名の由来でもあります。

浄土宗圓明山
西福寺は天正五年(1577)の開基です。
西願寺 泡子延命地蔵堂 西福寺

 泡子延命地蔵堂の向いに道標「不動明王道 是より二丁」があります。

この筋を左(南)におよそ200m入ると
不動明王が祀られています。

先に進むと左手に
MIKIYA、ついで右手に暮らしの衣料三喜屋があります。

この三喜屋の脇に
西生来一里塚跡標石があります、江戸日本橋より数えて百二十四里目です。

西生来西バス停を越して、
蛇沢川(いさがわ)を渡ると武佐宿は目の前です。
不動明王道道標 西生来の一里塚跡 一里塚跡標石 蛇砂川

 PM12:35 武佐宿着 鏡神社まで6.7km

 牟佐神社手前の右手に武佐宿大門跡標識があります、武佐宿江戸(東)です、武佐宿に到着です!

武佐宿は近くに
近江商人の町である近江八幡があり、物資の往来が盛んに行われ、伊勢に通じる八風街道の追分を控え、塩や海産物の往来で賑わいました。

武佐は
牟佐身狭とも書かかれましたが、江戸時代になると武佐に統一されました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると武佐宿宿内家数は百八十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十三軒、宿内人口は五百三十七人(男二百七十二人 女二百六十五人)で宿並は八町二十四間(約873m)でした。

宿並に入ると右手に
牟佐神社が鎮座しています、武佐宿の氏神です、又、牟佐神社は市神大明神とも呼ばれ、境内に盛大な市が立ちました、境内の大ケヤキは樹齢三百年以上です、武佐神社参道口の左手が東の高札場跡です。
武佐宿大門跡 牟佐神社鳥居

 左手の武佐小学校を過ぎると右手に白壁に連子格子の平尾家宿役人跡があります、宿場の伝馬人足取締り役人を勤め庄屋を兼ねました。

足利義満も口にしたと伝わる井戸椿井や古文書等を今に残しています。

向い側の浄土真宗本願寺派太子山
広済寺の参道口に明治天皇御聖蹟碑があります、明治十一年(1878)明治天皇巡幸の際、行在所となりました。

広済寺は推古天皇二年(694)聖徳太子による創建です、元は天台宗でしたが嘉禎元年(1235)改宗しました。

次いで右手の武佐町会館が
脇本陣跡です。
平尾家役人宅 広済寺 奥村脇本陣跡

 脇本陣は
奥村三郎右衛門が勤め、建坪六十四坪、門構玄関付でした。

敷地内には馬頭観世音文字塔愛宕大神碑があります。

 次いで左手に旧八幡警察所武佐分署庁舎(文化庁登録有形文化財)があります、明治十九年(1866)に建てられた木造二階建ての洋館です。

並びの
魚友楼は明治初期創業の割烹料理屋です。

武佐町交差点手前の右手に新設された
武佐宿常夜燈モニュメント武佐宿解説があります。

解説には像の絵が描かれています、 享保十三年(1728)安南国(ベトナム)より徳川第八代将軍
吉宗に献上されたは武佐宿に宿泊し、この先東海道に出て、途中姫街道を経由して江戸に到着しました。

刻限は12:43です、腹が減りました!
旧警察庁舎 魚友楼 武佐宿燈籠

 残念ながら武佐宿の宿並に食堂はありません、この先に進んでもしばらくは望めません、武佐町交差点を右折し、国道8号線に出ると右手に近江八幡友定食堂があります、直行です!

この食堂は
お惣菜がズラーッと並んでいます、好きなものを選んでお盆に乗せ、最後に清算です、この手早さは街道ウォーカーにとっては恰好です、断然お奨めです!!

鯖味噌煮揚出し豆腐ご飯豚汁そして缶のエビスビールにしました、揚出し豆腐と鯖味噌煮を肴にしてビールを流し込み、次いでご飯に豚汁を掛け、七味唐辛子をタップリ降って、更に流し込みです、最高です!!!

それでは午後の部に取り掛かりましょう、武佐町交差点に戻って、国道421号線
八風街道を横断します、この八風街道は近世の新設です、往時の八風街道はまだ先です。
友定食堂 組合せ自由定食

 武佐町交差点を渡ると左手にいっぷく処綿屋があります、平成二十六年(2014)に開館された休憩所です、御茶が頂け、トイレがあります。

並びに
大橋家役人宅があります、大橋家は米、油等を商い、十五代目金左衛門伝馬所取締役を勤めました。

切妻造り桟瓦葺平入で、虫籠窓、出格子の建物は宿内最古です。

右手の武佐郵便局が
伝馬所(問屋場)です、書状集箱(しょじょうあつめばこ)が復元されています。
いっぷく処綿屋 大橋家役人宅 伝馬所跡 旅籠中村屋跡

 向いが創業四百年を誇った
旅籠中村屋跡です、現業で頑張っていましたが、平成二十三年(2011)一月十日漏電が原因で全焼しました、残念です!

 武佐郵便局の並びが武佐宿本陣跡です、代々下川七左衛門が勤め、建坪二百六十二坪、門構玄関付で、本陣門土蔵を残しています、皇女和宮は下川本陣で昼食を摂りました。

本陣先の十字路の手前左に文政四年(1821)建立の
八風街道道標「いせ みな口 ひの 八日市 道」があります、八日市、鈴鹿山系の八風峠を越えて伊勢に至ります。

十字路を越えると右手に
安土浄厳院道道標があります安土道追分です、浄厳院は天正五年(1577)織田信長が伊賀と近江の浄土宗総本山として再興した寺院です。
下川本陣跡 八風街道道標 安土道道標 松平周防守陣屋跡

 十字路を越えた左手は
松平周防守陣屋跡です、武佐の地は川越藩松平家の飛び領地でした。

 陣屋跡の並びに愛宕山常夜燈愛宕山碑があります。

先に進むと左手に
道標「武佐寺長光 従是三丁」があります、ここを左折し、近江鉄道八日市線を越し、左に進むと高野山真言宗補陀洛山長光寺があります。

推古天皇時代(592〜628)
聖徳太子が建立した四十九院の一つで武佐寺と呼ばれました、本尊は聖徳太子の手による千手子安観世音菩薩で、今も安産の仏様として親しまれています、秘仏で五十年に一度の御開帳です。
愛宕山 武佐寺分岐 武佐寺道標 長光寺

 聖徳太子(きさき)と共に老蘇の森を仮宮とした時、俄に妃が産気付き難産に陥った、そこでひたすら仏を祈ると千手観音の遣いの童子が現れ安産に導きました。

童子が去った方角に八尺の
香木があり、その根元に五色に輝く霊石がありました、この香木で千手観音を刻み本尊とし、霊石の上に本堂を建立したのが武佐寺の始まりです。

 境内に樹齢六百年のハナノキ(花の木)があります、武佐寺建立時に聖徳太子が手植えしたと伝わる伝説の木です。

宿並に戻って進むと右手に
愛宕山常夜燈愛宕山碑があります、ここには西の高札場がありました。

突当りの近江鉄道八日市線を右折します、
枡形です、この辺りが近江宿西見付跡です。

左手の
武佐駅を越して、突当りのT字路を左折します。
ハナノキ 愛宕山 枡形 武佐踏切

 
近江鉄道八日市線武佐踏切で横断します、長光寺町から西宿町に入ります。

 右手の奥に若宮神社が鎮座しています、寛弘八年(1011)の創建です、本殿は一間社流造 りで西宿村の鎮守です。

隣が広大な空き地になっています、ここが
伊庭貞剛(いばていごう)邸跡です、 屋敷は中山道沿いに長屋門を構え、広大な屋敷でしたが、近年解体され、街道に面して(くすのき)の巨木を残すのみです。

伊庭家
近江守護佐々木家の流れを汲む名家です、貞剛は弘化四年(1847)ここで生まれ、尊王攘夷に奔走し、維新後は裁判所判事を経て、住友財閥に入社し、明治二十七年(1894)四国の別子銅山精錬所に於ける、亜硫酸ガスによる煙害問題の解決に尽力し、住友家中興の祖といわれました。

貞剛は五十八歳になると事業の進歩発展に最も害するものは「青年の過失ではなくて、老人の跋扈(ばっこ)だ」といって、サッサと引退してしまった、大正十五年(1926)に没しました、享年八十歳でした。
若宮神社 伊庭貞剛邸跡

 先に進むと右手に小さな献燈があり、並びに鎮火霊璽(ちんかれいじ)があります、火伏の愛宕信仰です。

突当りを右折し、スグの
西宿町交差点を左折して国号8号線を進みます、京方面からは西宿町交差点を右折し、一本目を左折します。

左手に
瓶割山(長光寺山)が望めます、山頂が瓶割山城跡です、古くは長光寺城と呼ばれました、元亀元年(1570)信長は朝倉攻めに際し、家臣の柴田勝家長光寺城に布陣しました、朝倉と同盟を結んだ六角承偵(よしかた)によって水を絶たれ、あえなく籠城となりました、すると勝家は残っていた水瓶を割って、自ら退路を断ち、背水の陣で出撃し、見事に勝利を納めました、以来、勝家は瓶割り柴田と呼ばれました。
鎮火霊璽 瓶割山 六枚橋交差点

 左手TCMを過ぎると
上田町に入ります、六枚橋交差点を左折します、六枚橋は寛永二十年(1643)時の領主が架けた橋が六枚の板橋であったところに由来しています、上田町から千僧供町(せんぞくちょう)に入ります。

 街道は一本目を右折(白色矢印)します、この右折ポイントには南無妙法蓮華経題目碑があります。

ここを直進(黄色矢印)すると右手の田の中に円墳の
住蓮坊古墳があります、塚上には住蓮坊安楽坊の墓があります。

住蓮坊安楽坊は共に浄土宗開祖の法然上人の弟子でした、建永元年(1206)後鳥羽上皇が熊野詣の留守中に、上皇の寵愛を受けていた女官の松虫(十九歳)と鈴虫(十七歳)の姉妹が、念仏法会に参加し、二人の坊に深く帰依し、出家して剃髪してしまった。
千僧供町分岐 題目碑 住蓮坊古墳 住蓮坊安楽坊墓

 これを知った上皇は怒りのあまり、
二人の坊を死罪とし、法然上人は四国の讃岐に、親鸞は越後に流罪としました、これを承元の法難といいます。

 更に県道71号線を進むと左手に曹洞宗大岩山冷泉禅寺があります、本尊の十一面千手観音をはじめ、仏像七体が国の重要文化財に指定されています。

千僧供の地名は、その昔この寺に千人の僧を集めて悪疫退散の祈祷を行ったところに由来しています。

街道に戻り
題目碑を右折すると、右手の富永歯科医院の前に道祖神があります。

次いで左手の六枚橋バス停の手前に
道標「住蓮房 安楽房 御墓 是より三丁」があります、住蓮坊古墳への道標です。
冷泉寺 道祖神 御墓道 御墓道道標

 右手の焼肉味楽亭の手前に公園があり、園内に涸れてしまった住蓮坊首洗い池があり、傍らに住蓮房首洗池碑があります、住蓮坊はこの池のほとりで斬首され、その首を洗った池です。

住蓮坊辞世「極楽に 生まれむことの うれしさに 身をば佛に まかすなりけり」

安楽坊は京の鴨川六条河原で斬首されました。 

安楽坊辞世「今はただ 云う言の葉も なかりけり 南無阿弥陀仏の み名のほかには」

松虫鈴虫の姉妹は両坊の処刑を知ると東山鹿ケ谷で自害して果てました。

法然上人は四年後赦免になると、京に戻り住蓮山安楽寺を建立し、両坊の墓と姉妹の供養塔を立て、菩提を弔いました。
住蓮房首洗池碑 住蓮坊首洗い池

 旧道は再び国道8号線に合流します、この左手の筋にも先程と同じ道標「住蓮坊 安楽房 御墓」があります。

白鳥川千僧供橋で渡ります、白鳥川(しらとりがわ)は滋賀県湖東地方を流れ、流末は琵琶湖に注いでいます。

橋を渡ると左手に
寺標「具足山妙感寺 従是八町」があります、道標には南無妙法蓮華経の題目が刻まれています。

妙感寺は永仁四年(1296)真言宗の寺院として建立されましたが、日蓮上人の教化により日蓮宗に改宗しました。
千僧供町北分岐 御墓道道標 千僧供橋 妙感寺道標

 更に奥には高野世継観音道道標があります、世継観世音菩薩は臨済宗永源寺派大本山永源寺の本尊です。

近江守護職
佐々木氏頼の子満高は子宝に恵まれず、この観音に毎夜一心に祈願したところ、世継が授かったといいます、以来世継観音と呼ばれるようになりました。

白鳥川を渡ると
馬淵町に入ります、街道左手の旧家は母屋も門も茅葺き屋根です、残念ながら大部朽ちています。

信号交差点右手の
八幡社源義家が奥州遠征の途次、愛馬が熱病を患い、この地で水を飲ませるとたちまち平癒したところから、ここに応神天皇の霊を勧請し、武運長久を祈願しました、後に、この地の守護職で馬淵氏と称した佐々木広綱社殿を建立しました。
世継観音道 旧家 八幡社

 
本殿は元亀二年(1571)織田信長の兵火で焼失し、現在の総丹塗り(にぬり)桧皮葺きの本殿は文禄五年(1596)に再建されたものです(国指定重要文化財)。

参道口に
高札所跡標石があります、真淵村の高札場跡です。

 八幡宮前の馬淵町交差点を斜め右に入ります、京方面からは国道8号線に合流します。

旧馬淵村には
茅葺き屋根の旧家を残しています。

左手には
地蔵堂があります。

旧馬淵村を抜けると一面の田園になり、東横関町に入ります、東横関交差点を越すと
旧東横関村に入ります。

中山道分間延絵図には東横関村口に南北二基の
一里塚が描かれています。

東横関の一里塚ですが、正確な位置は不明です、江戸日本橋より数えて百二十五里目です。
馬淵町分岐 茅葺き屋根 地蔵堂

 東横関村は立場横関川の渡しを控え、大いに賑わいました。

室町時代にはこの辺りに
関所があり、これが地名の由来になっています。

村内には浄土宗福照山
宝養寺があります、文永五年(1268)の開基で、天文元年(1532)の再建です。

村外れの
Y字路は左の上り坂を進みます、右に進むと春日神社があります、村の鎮守です。

上り坂は
日野川(旧横関川)の土手に突き当たります、ここが横関川の渡し場跡です。
宝養寺 村外れY字路 横関川の渡し場跡

 渡し場跡には
解説山燈籠があります。

 広重武佐としてこの横関川の渡し風景を描いています。

文化三年(1806)作成の
中山道分間延絵図には「平常渡し場、小水之節ハ舟二艘ツナギ合セ舟橋トシテ往来ヲ通ス」と記されています。

広重はこの
舟橋を忠実に描いています、舟二艘を縦に繋ぎ、両舷に杭を打ち舟を固定し、舟の上には渡し板を敷いています。

明治の世になると渡し場跡に架橋されましたが、その後国道8号線が敷設され、
横関橋が架橋され、この橋は廃止されました。
横関川の渡し場跡 木曽海道六十九次之内 武佐 広重画

 それでは土手道を左に迂回します、一旦国道8号線に出て、横関橋日野川(旧横関川)を渡ります。

日野川は鈴鹿山系の綿向山(わたむきやま、標高1110m)に源を発し、近江八幡と野洲の境を流れ、流末は琵琶湖に注いでいます。

橋を渡ると
近江八幡市横関町から蒲生郡竜王町西横関に入ります。

渡り詰右手の
土手道に入ります、この土手道口には車止めが設置されています。

旧西横関村の手前辺りが対岸の
横関川の渡し場跡です、旧道が復活し、旧西横関村に入ります。
横関橋 日野川(旧横関川) 対岸の迂回路口

 西横関村に入ると右手奥に若宮神社が鎮座しています、本殿は一間社流造で旧西横関村の鎮守です。

向いには浄土宗石流山
浄泉寺があります、本尊は無量寿仏です。

寺伝によると元は
天台宗でしたが、明暦元年(1655)浄土宗に改宗しました。

紅殻塗りの旧家が並ぶ村内を進むと 左手の奥に真宗仏光寺派
光圓寺があります、万延二年(1861)の再建で、本尊は阿弥陀如来です。

Y字路が二ケ所続きますが、いずれも左に進みます、西横関村を抜けるとガードレール橋を渡ります。
若宮神社 浄泉寺 光圓寺

 小さな流れの護岸上に小さな五輪塔が八基並んでいます、前垂れが掛けられています、村境の道祖神でしょう。

旧道を進むと
西横関交差点にて国道8号線に合流します、京方面からは西横関交差点を横断し、斜め左の細道に入ります。

西横関交差点を横断すると左手の猫田呉服店前に
道標「是よりいせみち みなくち道」があります、東海道水口を経て伊勢に至る水口道です。

善光寺川善光寺橋で渡ります。
道祖神 西横関分岐 水口道道標 善光寺川

 善光寺川は
鏡山に源を発し、流末は日野川に落合います。

 善光寺川を渡ると西横関からに入ります。

先を斜め左の
鏡旧道に入ります、分岐ポイントは日本ペイントビルです。

旧道を進むと右手に
道祖神が祀られています、旧鏡村に入ります。

旧鏡村は中世東山道時代の宿駅でした、江戸時代になると武佐宿と守山宿間が三里半(実測16.1km)と長い為、間の宿として賑わい鏡宿と呼ばれました。

道祖神の並びに平成二十年十二月鏡の里保存会が設置した
標識「江戸時代鏡の里 旅篭亀屋跡」があります、以降この標識が随所に設置されています。
鏡旧道東口 道祖神&旅篭跡 旅篭京屋跡

 村内を進むと右手の山本新聞舗の所に旅篭富田屋跡標識があります。

次いで右手の鏡東草の根ハウスの敷地内に
石仏群が祀られています。

旧道は国道8号線の
鏡口交差点に出ます、この合流点には愛宕山常夜燈愛宕大神、そして案内標識「↑鏡神社 義経元服池 0.7km」があります。

京方面からは斜め右に進みます。

鏡口交差点を横断すると右手に
旅篭吉田屋跡標識があります。
旅篭富田屋跡 石仏群 愛宕山 旅篭吉田屋跡

 次いで右手に天台真盛宗月鏡山真照寺があります、鏡神社の神官で万葉集女流歌人額田王(ぬかたのおおきみ)を育てた鏡王(かがみのおお)が葬られています、鏡王壬申の乱で天武天皇側につき戦死しました。

並びの
旅篭枡屋跡標識を過ぎると左手に真宗仏光寺派鏡向山大願寺があります、本尊は阿弥陀如来です。

参道口に
徳化学校跡標識があります、学校制度ができ明治八年(1875)大願寺徳化学校が開かれ 鏡村、横関村の子供が教育を受けれるようになった、明治十一年(1878)鏡神社の東隣に専用の校舎を新築し移転しました。
真照寺 旅篭枡屋跡 大願寺 徳化学校跡

 大願寺の向いに愛宕碑があります、窪みの中に愛宕大神の札が祀られています。

次いで右手に
鏡郵便取扱所跡標識があります、明治七年(1874)に設立され、同十九年(1866)鏡郵便局と改称され、同四十三年(1910)に廃止されました。

わずかに進むと右手の奥に
源義経宿泊の館跡碑があります。

承安四年(1174)鞍馬寺を脱出した
牛若丸(源義経)は金売りの吉次に伴われて、その夜のうちに鏡宿に入り、駅長(うまやのおさ)を勤める沢弥伝の館に宿泊しました。
愛宕大神 鏡郵便取扱所跡 源義経宿泊館跡 本陣跡

 並びが
新羅三郎義光の後裔である林惣右衛門則之が勤めた本陣跡です、紀州候(紀伊徳川家)の定宿でした、皇女和宮も当本陣にて休息しています。

 本陣跡標識の並びに駐在所跡標識があります、明治十四年(1881)本陣跡に鏡分署が設置され、その後鏡交番所武佐警察署下鏡巡査駐在所と改称され、昭和三十年(1955)頃まで使用されました。

本陣跡の向いに
脇本陣跡標識があります、白井弥惣兵衛が勤めました。

本来、宿場以外の宿泊施設は御法度でしたが、間の宿の鏡は堂々と旅人を宿泊させたため
守山宿武佐宿から道中奉行へ異議の申立が行われていました。

先の右手に
旅篭加賀屋跡標識があります。
駐在所跡 脇本陣跡 加賀屋跡 愛宕山碑

 宿並を進むと右手に頭部が欠けた
愛宕山碑があります。

 同じ敷地の隅に石仏石塔が祀られています。

右手の公園に
徳化学校跡標石があります、大願寺に開かれた徳化学校は明治十一年(1878)ここに移転しました、後に鏡小学校となりました。

次いで右手に
鏡神社があります、参道口に源義経烏帽子掛けの松があります。

承安四年(1174)三月三日 鏡の宿で元服した
牛若丸は、この松に烏帽子を掛け、鏡神社へ参拝し源九郎義経と名乗りをあげ、源氏の再興と武運長久を祈願しました。

この松は明治六年(1873)十月三日の
台風により折損したため幹の部分を残して保存されています。
石仏石塔 徳化学校跡 烏帽子掛けの松

 石段を上ると朱塗りの鳥居があります、扁額の上に唐破風の屋根を持つ珍しい造りで、さらに笠木は瓦葺きになっています。

日本書紀によると朝鮮半島の
新羅(しらぎ)から渡来技術(陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師)を伝えた新羅国の王子天日槍尊(あめのひぼこのみこと)を主祭神として祀っています。

天日槍が持参した神宝の日鏡をこの地に納めたところをの地名由来としています。

現在の
本殿は室町時代に再建された三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)で屋根はこけら葺きの貴重な建築様式は国の重要文化財です。
鏡神社鳥居 拝殿 本殿

 PM4:12 鏡神社着

バリバリジョニー 餃子&生ビール 黒ビール

 本日はここ迄です、まだ明るいですがこの先に進んでも宿泊施設はありません。

今宵の宿は西川の
ビジネスホテルまつもとです、ここからは国道8号線をひたすら戻ります。

西横関まで戻るとラーメン店
バリバリジョニーがあります、夕食としましょう、ギョーザ生ビールとしました。

この組み合わせはベストです!

次いで
黒ビールです、コクがあってうまいですね、今夕はこれで十分です!!

ラーメン店の隣りにコンビニがあります、ここで
寝酒を調達します。
ビジネスホテルまつもと 寝酒

更に国道8号線を戻ると、西川に入り、積水樹脂の隣に
ビジネスホテルまつもと(0748-58-1535)があります。

トラックドライバーの定宿でしょうか、それなりのホテルです、素泊まり3,000円です。

風呂はまだ沸いていないとの事、シャワーで十分です、例によって洗濯です。

部屋に戻って、軽くストレッチを行い、テレビのスイッチを入れ天気予報を確認し、缶の栓をプシューッと抜きます、旅だナー!!!






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