道中日記 193 姫街道 ( 浜松 - 三方原追分 ) 6.9km

 

この度、
山と渓谷社から

● 新版 ちゃんと歩ける東海道五十三次 西 見付宿~京三条大橋 +佐屋街道
   五街道ウォーク 八木牧夫著


が出版されました。

本書に
姫街道 浜松~三方原追分が収録されています。

本マップには写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為に本HPでは写真を豊富にアップしました。

是非、出立なさる前に本マップと当HPを照らし合わせ、
姫街道ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。

 明和元年(1764)
姫街道(本坂通)が幕府道中奉行の管轄になると、浜松宿から三方原追分間が本道となりました。

それまでの見付宿から市野宿を経由して三方原追分に至る姫街道は脇往還となりました。

それでは幕府道中奉行が定めた浜松宿から三方原追分迄の
姫街道を歩いてみましょう。

 浜松出立 三方原追分まで6.9km

 東海道浜松宿の連尺交差点の京三条大橋寄りに明治五年(1872)創業の谷島屋があります。

建物の植込みの中に
高札場跡標石があります、ここが明和元年(1764)幕府道中奉行の管轄となった姫街道(本坂通)の起点です。

歩道側に
高札場跡解説「この付近の車道中程に柵で囲い、柱を立て高札を掲げた高札場がありました。城下・宿場の人々に法令や犯罪人の罪状などを周知させるために書かれた木札を、高札とか制札といいます。」があります。
谷島屋 谷島屋書店碑 高札場跡標石

 高札場跡標石の並びに御影石の
谷島屋書店碑があります、島崎藤村の揮毫です。

この碑は太平洋戦争の空襲によって破壊され、昭和四十七年(1972)
島崎藤村生誕百年谷島屋創業百年を記念して、残された写真から復刻したものです。

それでは出立しましょう!


 スグ先の連尺交差点を左折(白色矢印)します、三方原追分方面からは右折になります、この分岐点には姫街道(本坂通り)標識があります。

連尺交差点を直進(黄色矢印)すると
浜松城大手門跡があり、左手に浜松城があります。

徳川家康は
武田信玄の侵攻に備え、元亀元年(1570)三方原台地の東南端に浜松城を築き居城とし、岡崎城は嫡男信康に譲りました。

家康は浜松城時代に正室の
築山御前と嫡男信康が今川方に内通しているとの嫌疑をかけられ、織田信長の命により死に追いやりました。
連尺分岐 浜松城 徳川家康像

 更に信玄との
三方ケ原の戦いには大敗するという、家康にとっては辛酸を舐めた浜松城でした。

徳川の世になると、藩政二百六十年の間に二十五代の
譜代大名が城主となり、、在城中に幕府の要職に就いた者が多く老中五人、大坂城代二人、京都所司代二人、寺社奉行四人を輩出し、浜松城は出世城と呼ばれました。

 街道に戻り紺屋町交差点を直進(白線矢印)します、左折(黄色信号)すると右手に真宗大谷派の蓮華寺があります、家康の家臣鳥居四郎左衛門忠広の菩提寺です。

忠広は武勇に優れ
姉川の戦いでは徳川軍の先鋒を勤めましたが、三方ケ原の戦いで戦死しました。

奥方は夫の菩提を弔うために剃髪し
蓮華院妙光禅尼と号し、庵を結んだのが蓮花寺の始まりです。

本堂前の植栽の中に
芭蕉句碑「八九間(はっくけん)そらて雨降る柳哉」があります、元禄七年(1694)芭蕉五十一歳のときの句です。
紺屋町交差点 蓮華寺 芭蕉句碑

 「春の雨が止んだのに八、九間もある
からは雫となった雨がしたたっている」情景を詠んだものです。

 街道に戻り、上り坂を進むと右手の正福寺石垣前に曳馬坂(ひくまざか)標柱があります。

石畳の坂で、坂名は三方原方面の
曳馬野に通じる馬車があったところに由来しています。

石垣上の
正福寺は半僧坊浜松別院で、浜松七福神の福禄寿尊天を祀っています。

参道階段脇には明治十七年(1884)建立の
奥山半僧坊里程石「奥山半僧坊大権現従是五里十六町」があります。

向かいに都市開発事業により旭町から移転した日蓮宗の妙遠山
法雲寺があります。
曳馬坂 正福寺 法雲寺

 幕末、ここには浜松藩第二十二代藩主
水野忠邦が設けた藩校経誼館(けいぎかん)、浜松藩第二十四代藩主井上正春が設けた藩校克明館(こくめいかん)がありました。

 曳馬坂をグングン上り、高町交差点を右折(白色矢印)し舘山寺方面に進みます。

高町交差点を直進(黄色矢印)し、一本目を左折(黄色矢印)します、この分岐点には
秋葉神社入口電柱標識があります。

踏み込むと右手に
神明神社が鎮座しています、祭神は天照大御神豊受大御神です。

創立年代は不詳ですが和銅元年(708)六月十五日再建の
棟札を残しています。

境内には安政二年(1855)建立の
常夜燈、安政六年(1859)建立の手水鉢があります。
高町分岐 秋葉神社口 神明神社

 神明神社の先に進むと浜松秋葉神社が鎮座しています、徳川家康が犬居の秋葉神社を勧請し、浜松城裏鬼門の守護神としました。

参道口等に歴代浜松藩主が奉納した
秋葉山常夜燈があります。

境内に
奥平信昌屋邸跡標石があります、信昌はこの地に邸を構え、武田方に属していましたが、家康の長女亀姫を正室に迎え、家康の家臣となり長篠の戦いで功を挙げ、上野小幡(おばた)藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主になりました。

武田信玄に一目置く家康は
武田勝頼の遺臣の多くを家臣として召し抱えました。
浜松秋葉神社 秋葉山常夜燈 奥平信昌邸趾

 召し抱えられた武田家遺臣が家康への忠誠を誓った
起請文(きしょうもん)が当社に奉納されました。

家康はなかでも当時最強といわれた武田の
騎馬軍団を、若干二十三歳の井伊直政に与え、直政は武田軍の象徴だった赤備え(あかぞなえ)を継承し、井伊の赤備えが誕生しました。

 それでは高町交差点を右折しましょう、この分岐点には姫街道(本坂通り)標識があります。

坂を上ると右手に
浜松城天守閣が遠望出来ます。

右手に高町屋台置場があります、この辺り一帯は
侍屋敷跡です、浜松藩士の武家屋敷が建ち並んでいました。

先に進むと公園前交番北交差点手前の右手に
鹿谷(しかたに)緑地があります、名残番所跡です、浜松城下の北口で北番所とも呼ばれました。
浜松城遠望 侍屋敷跡 名残番所跡

 名残番所跡先の公園前交番北交差点にて、右からの県道を吸収します、三方原追分方面からは交差点のY字路を右に進みます。

浜松鹿谷郵便局前交差点を越すと右手に文久二年(1862)建立の
秋葉山常夜燈があります。

右手の佐鳴予備校を過ぎると左手に
三社神社が鎮座しています、天照大御神天児屋根命(あめのこやねのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)の三神を祀っています。

延暦十四年(795)
坂上田村麻呂が岩田海の難を除くため三神を勧請し、里人がこれを請けてこの地の氏神としました。
鹿谷分岐 秋葉山常夜燈 三社神社

 延元二年(1337)
宗良(むねよし・むねなが)親王が井伊城に入城する際に参拝すると、里人が粟飯を親王に献上した事に感謝し社殿を造営しました。

 三社神社は元亀三年(1572)三方ケ原の戦いの兵火で全焼、寛文八年(1668)第八代浜松藩主太田資宗が社殿を造営し、以来、代々の浜松藩主の祈願所として庇護されました。

参道口に
庄内道道標「右 三方原半僧坊 左 庄内道」があります、神社脇の筋(黄色矢印)が庄内道(舘山寺街道)です。

庄内道は佐鳴湖(さなるこ)畔の敷知郡富塚村(現浜松市富塚町)を経て、弘法大師創建の古刹舘山寺に通じています。

街道をわずかに進むと
浜松北高東交差点になります。
庄内道道標 庄内道 浜松北高東分岐

 浜松北高東交差点を横断し
Y字路を左に進みます、三方原追分方面からは浜松北高東交差点を横断します。

 旧道を右に半円を描いて進むと、国号側に夏目次郎左衛門吉信旌忠碑(せいちゅうひ)があります、昭和十年(1935)の建碑で徳川宗家第十六代当主家達(いえさと)による揮毫です。

夏目吉信(よしのぶ)は家康譜代の家臣でしたが永禄六年(1563)三河一向一揆の際、叛いて敵対し捕らわれの身となり処刑されるところを、家康の寛大な処置により助命され、帰参が許されました。

吉信はこの恩義に報いるため
三方ケ原の戦いで敗走する家康の身代わりになり「われこそは家康なり」といって、犀ケ崖付近で奮戦し討ち死にしました。
夏目次郎左衛門旌忠碑 半僧坊里程石 布橋分岐

 夏目次郎左衛門吉信旌忠碑の並びに明治三十七年(1904)建立の
半僧坊里程石「奥山半僧坊大権現へ五里」があります。

里程石の先で旧道は国道に再び合流(白色矢印)します、右(黄色矢印)に迂回すると国道の反対側に
犀ケ崖(さいががげ)古戦場跡があります。

 犀ケ崖古戦場跡内に本多肥後守忠真顕彰碑があります、この碑は本多忠真の忠義を称えて、第十七代本多子爵により明治二十四年(1891)に建碑され、題字表忠彰義之碑は徳川宗家第十六代当主家達の揮毫です。

本多忠真(ただざね)は徳川草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将で、槍の名手として知られていました。

本多忠真は
三方ケ原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍の殿(しんがり)を買って出て、退路の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後へは一歩も引かぬ」といって、追走する武田勢の中に刀一本で斬り込み討死にしました、享年三十九歳でした。

忠真の子
菊丸は父の命により家康を援護し、浜松城に無事退却しましたが、父の最期を前にして友が次々と死んでゆく様を見た菊丸は世の無常を感じ、父の遺骸を三河に葬った後に出家しました。
犀ケ崖古戦場跡 本多肥後守忠真顕彰碑

 古戦場跡内の左手に三方原古戰場犀ケ崖碑があり、並びに史蹟犀ケ崖碑があります。

奥に
犀ケ崖があります、往時の犀ケ崖は東西約2km、幅約50m、両岸は絶壁で深さは約40mであったと伝えられています。

武田信玄に大敗し
浜松城に逃げ戻った家康は全ての城門を開いて篝火を炊き、湯漬けを食し、一眠りすると、心の余裕を取り戻した家康は態勢を整えせめて一矢報いんと、犀ケ崖で夜営中の武田軍に夜襲をかけました。

不意を突かれた
武田軍は狼狽し、地理不案内なためこの犀ケ崖に落ち多くの人馬を失いました。
三方原古戦場史跡碑 史蹟犀ケ崖碑 犀ケ崖

 古戦場跡内の右手に浜松市犀ケ崖資料館があります、 この資料館は宗円堂(そうえんどう)跡に立地しています、宗円堂は徳川武田両軍戦死者の霊を祀り、その慰霊のために創始されたという遠州大念仏の道場でした。

資料館内には
遠州大念仏資料や精巧な三方ケ原の戦い敗走模様の模型が展示されています、家康の回りを三河譜代の家臣らが囲み、武田軍の追撃から命を賭して守っています。

古戦場跡内に
徳川家達公お手植え楠があります。

家達は田安徳川家七代当主で、最後の将軍慶喜が隠居すると徳川宗家十六代当主となりました。
浜松市犀ケ崖資料館 敗走模型 徳川家達手植え楠

 古戦場跡内の左端に大島蓼太(りょうた)句碑「岩角に兜くだけて椿かな」があります、大島蓼太は元文五年(1740)俳人雪中庵二世桜井吏登(りとう)の門人となり俳諧を学びました。 

延享四年(1747)
雪中庵を継承し、三世となり芭蕉への回帰を唱えて、三千余人の門人を有しました。

犀ケ崖資料館の並びに
ねずみ小僧次郎吉供養塔があります、供養塔には戒名の「天保二年八月十八日 教覚蓮善居士」が刻まれています。

次郎吉は義賊として伝説化された盗賊で天保二年(1831)捕縛され、八月十八日市中引き回しのうえ小塚原刑場で処刑されました、享年三十八歳でした。
大島蓼太句碑 鼠小僧次郎吉供養塔 常夜燈

 犀ケ崖古戦場跡を出て、犀ケ崖を越すと右手に明治四十五年(1912)建立の
常夜燈があります、台石には町内安全と刻まれています。

 右手に浜松布橋郵便局があります、三方原追分方面からは斜め右の旧道に入ります。

布橋の地名は徳川方が犀ケ崖に布の橋を架け、武田軍を欺き谷に落したという伝説に由来しています。

追分と呼ばれる城北交差点を越した先、右手のルーテル浜松教会前の名残り松は伐採されました、この辺りは松並木でした。

ついで右手の古橋竹林店辺りが
和地山です、和地村の入会山でした。

街道を挟んだ向かいが
国立静岡大学です。
名残り松跡 和地山 静岡大学

 ここからは街道をしばらくモクモクと歩きます、和地山から住吉町、次いで和合町に入ると、右手の北部交番先の左手に銭取バス停があります、唯一旧地名の銭取を残しています。 

並びに
銭取まんじゅう跡標柱があります。

三方ケ原の戦いに惨敗した家康は浜松城への敗走途中、空腹に耐えかねて茶屋に立ち寄り、小豆餅を頬張っていると武田軍が迫り、家康は慌てて銭を払わずに逃げ出すと、茶屋の老婆は「食い逃げは許さん」と追いかけ餅代のを取ったといいます。

これが
銭取の地名になり、茶屋があった辺りを小豆餅と呼ぶようになりました。
銭取 銭取まんじゅう跡 徳川家康顰像

 三方ケ原の戦いに敗れた
家康は命からがら浜松城に逃げ帰り、恐怖の余り、馬上で失禁し、脱糞をしていたといいます。

家康は憔悴し、恐怖に歪む、おのれの
(しかみ)の姿を絵師に描かせ、生涯この絵を座右に置き、自らの戒めにしたといいます。

 ここからは再び街道をモクモクと歩きます、泉町から幸町に入り段子(だんず)段子川橋にて渡ります、段子川は三方原丘陵に源を発し、流末は佐鳴(さなる)に注ぎます。

葵町に入ると右手に
小豆餅銭取本舗お菓子司あおいがあります、葵紋を掲げ家康が食したという小豆餅を商っています。

徳川家康公が食したという
小豆餅は黒蜜を練り込んだ粒餡を浜松産の遠州名物モロコシを使用した生地で包み、きな粉をまぶした餅菓子です。
段子川 小豆餅銭取本舗 小豆餅

 先に進み葵町東バス停先の信号交差点を左折(黄色矢印)し、一本目を右折すると左手に葵東公民館があります。

公民館の敷地に踏み込むと右手に
萬霊供養塔があります、三方原台地に鎮まる三界の万霊を慰霊し冥福を祈っています。

公民館の敷地奥に
葵東照宮が鎮座しています、三方原追分に鎮座していた家康を祭る権現様は昭和四十三年(1968)三方原(みかたばら)神社に合祀されました。

その後、葵町住民の要望により昭和四十九年(1974)現在地に
葵東照宮が創建されました。
葵東照宮口 萬霊供養塔 葵東照宮

 そして三方原神社より御神体が葵東照宮に遷座されました。

 葵東照宮の並びに秋葉神社が鎮座しています。

街道に戻って先に進むと三方原追分手前の右手メガワールド大看板の足元に
権現様跡標柱があります。

明治維新を迎え禄を失った
浜松藩士幕臣がこの地に入植し、農耕に従事しました。

明治三年(1870)入植者達は三方原追分地内に
を建立し、東照宮大権現を祭りました。

昭和四十三年(1968)交番と消防署が建設されることになり境内地を浜松市に提供し、御神体は
三方原神社に合祀され、社殿、鳥居、手水鉢は葵西の萩の原神社に移設されました。
秋葉神社 権現様跡 三方原追分道標

 権現跡標柱の並びに夢舞台東海道道標
三方原追分があります、目の前が元追分交差点です。

 元追分交差点が三方原追分です、見付を東口として市野宿を経由した姫街道脇往還(市野道)との追分です。

白色矢印が浜松からの
姫街道です、正面のY字路を松並木がある左に進みます、市野宿を経由した姫街道脇往還は黄色矢印です。

この三方原追分には明治三十七年(1904)建立の大きな
半僧坊里程石「奥山半僧坊大権現へ三里廿九丁」と慶応四年(1868)建立の小さな追分道標「右みやこだ 中かなさし 左きが道」があります、三方原追分は追分三筋とも呼ばれました、姫街道は左のきが道を進みます。
浜松方面から望む 三方原追分道標 御油方面から望む

 本日はここまでです、これにて
姫街道の踏破完結です!



姫街道 見付 ~ 気賀