この度、山と渓谷社から ● 新版 ちゃんと歩ける東海道五十三次 西 見付宿~京三条大橋 +佐屋街道 五街道ウォーク 八木牧夫著 が出版されました。 本書に姫街道 浜松~三方原追分が収録されています。 本マップには写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為に本HPでは写真を豊富にアップしました。 是非、出立なさる前に本マップと当HPを照らし合わせ、姫街道ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。 明和元年(1764)姫街道(本坂通)が幕府道中奉行の管轄になると、浜松宿から三方原追分間が本道となりました。 それまでの見付宿から市野宿を経由して三方原追分に至る姫街道は脇往還となりました。 それでは幕府道中奉行が定めた浜松宿から三方原追分迄の姫街道を歩いてみましょう。
高札場跡標石の並びに御影石の谷島屋書店碑があります、島崎藤村の揮毫です。 この碑は太平洋戦争の空襲によって破壊され、昭和四十七年(1972)島崎藤村生誕百年と谷島屋創業百年を記念して、残された写真から復刻したものです。 それでは出立しましょう!
更に信玄との三方ケ原の戦いには大敗するという、家康にとっては辛酸を舐めた浜松城でした。 徳川の世になると、藩政二百六十年の間に二十五代の譜代大名が城主となり、、在城中に幕府の要職に就いた者が多く老中五人、大坂城代二人、京都所司代二人、寺社奉行四人を輩出し、浜松城は出世城と呼ばれました。
「春の雨が止んだのに八、九間もある柳からは雫となった雨がしたたっている」情景を詠んだものです。
幕末、ここには浜松藩第二十二代藩主水野忠邦が設けた藩校経誼館(けいぎかん)、浜松藩第二十四代藩主井上正春が設けた藩校克明館(こくめいかん)がありました。
召し抱えられた武田家遺臣が家康への忠誠を誓った起請文(きしょうもん)が当社に奉納されました。 家康はなかでも当時最強といわれた武田の騎馬軍団を、若干二十三歳の井伊直政に与え、直政は武田軍の象徴だった赤備え(あかぞなえ)を継承し、井伊の赤備えが誕生しました。
延元二年(1337)宗良(むねよし・むねなが)親王が井伊城に入城する際に参拝すると、里人が粟飯を親王に献上した事に感謝し社殿を造営しました。
浜松北高東交差点を横断しY字路を左に進みます、三方原追分方面からは浜松北高東交差点を横断します。
夏目次郎左衛門吉信旌忠碑の並びに明治三十七年(1904)建立の半僧坊里程石「奥山半僧坊大権現へ五里」があります。 里程石の先で旧道は国道に再び合流(白色矢印)します、右(黄色矢印)に迂回すると国道の反対側に犀ケ崖(さいががげ)古戦場跡があります。
犀ケ崖古戦場跡を出て、犀ケ崖を越すと右手に明治四十五年(1912)建立の常夜燈があります、台石には町内安全と刻まれています。
三方ケ原の戦いに敗れた家康は命からがら浜松城に逃げ帰り、恐怖の余り、馬上で失禁し、脱糞をしていたといいます。 家康は憔悴し、恐怖に歪む、おのれの顰(しかみ)の姿を絵師に描かせ、生涯この絵を座右に置き、自らの戒めにしたといいます。
そして三方原神社より御神体が葵東照宮に遷座されました。
権現跡標柱の並びに夢舞台東海道道標三方原追分があります、目の前が元追分交差点です。
本日はここまでです、これにて姫街道の踏破完結です!
|