道中日記  11-152 姫街道 ( 見付追分 - 気賀 ) 25.8km


 この度、山と渓谷社から「● 新版ちゃんと歩ける東海道五十三次 (東) 江戸日本橋〜見付宿 +姫街道 五街道ウォーク 八木牧夫著」が出版されました。

本マップには写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為にHPでは写真を豊富にアップしました。

是非、出立なさる前に姫街道マップ当HPを照らし合わせ、姫街道ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。


 姫街道
は東海道見付宿から浜名湖の北岸を迂回し、再び東海道の御油宿に至る十五里余り(実測 60.5km)の道のりです。

見付宿迄のアクセス時間を考慮しますと
二日行程が妥当でしょう。

気賀宿ないし三ケ日宿まで歩を進めて
日帰りも十分可能ですが、再度のアクセス時間や交通費を考えるとここは宿泊ウォークの方が合理的です!


 4時間余りの電車旅です、車中で2リットルのペットボトルの水を飲み干し、ストレッチそしてマップの確認等を行います。

磐田駅から
見付追分までは離れています、東海道の道筋を北に向います。

旧東海道の県道56号線は
ジュビロロードと命名されています。

府八幡を過ぎると東海道の旧道がありますが、今回は直進です。

加茂川交差点を過ぎると
見付追分に到着です、少し雲ってはいますが絶好な街道ウォーク日和です、それでは張り切って参りましょう、出立です!


 平成19年11月03日 AM9:12 見付追分出立 市野宿まで10.7km

 加茂川交差点一本先の信号交差点の左手に以前はあんざい理容店がありましたが、今は山本電設に変っています。

山本電設脇に
木製案内標識「遠州見付宿 これより姫街道 三州御油宿まで」があります、ここが見付追分で、姫街道の東口です!

以前、この姫街道追分の右にはその名もズバリの精肉店
入口屋がありました。

それでは出立しましょう、
加茂川河原橋にて渡り、スグ先の Y字路を右(白色矢印)に進みます。
姫街道見付追分 常夜燈分岐

 この分岐点には元治二年(1865)建立の
秋葉山常夜燈があります。

 街道は三筋の合流点に出ます、御油方面からは三筋を左に進みます。

そのまま進むと
かぶと塚公園の石垣手前に、わずかではありますが旧道痕跡があります。

かぶと塚公園内に
兜塚古墳があります、墳名は直径80m、高さ8mの円型古墳が兜を伏せた形に似ているとか、西上する武田軍を迎え撃つ徳川軍との戦いで、徳川方の本多平八郎忠勝がこの塚の松に兜を掛けたといういい伝えに由来しています。

この辺りには戦前から戦時中にかけて
中部129部隊基地があり、公園は旧陸軍情報聯隊跡です。
三筋の合流 旧道痕跡 兜塚古墳

 戦時中、
兜塚古墳は防空壕として利用されたため、原形は壊れています。

 かぶと塚公園前を進むと磐田警察署の手前が桝形状になっています、御油方面からは安楽亭の手前を左折し、スグに右折します。

見付方面からは一旦、
県道413号線に合流します。

磐田警察署先の
磐田市一言歩道橋の階段下から斜め右(白色矢印)に入ります、再び旧道が復活します。

先に進むと右手に
秋葉山常夜燈を納めた鞘堂(さやどう)があります、これは常夜燈を刀にみたて、これを納めているところから鞘堂と呼ばれています。

この鞘堂辺りが
一言坂の立場跡です。
枡形状分岐 一言歩道橋分岐 鞘堂(常夜燈)

 先に進むと変則段違いY字路があります、左(白色矢印)に進み一言坂を下ります。 

スグに
Y字路に突き当たります、旧道は右折です。

御油方面からはY字路を左に進みます。

右折(白色矢印)すると右手に
琴平神社跡への参道石段があります、天明二年(1782)建立の琴平神社祠は旧郷社に移転合祀されました。

参道石段の並びに
史跡案内標識「↓一言坂石碑/かぶと塚→」があります、一言坂分岐を左(黄色矢印)に進むと一言坂石碑があります。
変則Y字路 一言坂分岐 琴平神社跡

 一言坂分岐を左折(黄色矢印)すると、突当りの県道の右手に一言坂の戦跡碑と東海道と歴史の道解説があります。

元亀三年(1572)袋井の
三箇野川の戦い武田軍に敗れた徳川軍は浜松城を目指して敗走しましたが、一言坂で追い付かれ、再び激戦となりました、これが一言坂の戦いです。

この時に敗走する徳川軍を救ったのが家康の重臣
本多平八郎忠勝でした。殿(しんがり)を勤めた平八郎はとんぼ切りといわれる大槍を振るい一人奮戦し、枯れ草に火をかけて煙幕を張り、見事に主君家康を退却させました。

武田軍はこの時の平八郎の武勇を讃え「家康に過ぎたるものが二つある、
唐の頭(兜)に本多平八」と称賛しています。
一言坂の戦跡 本多平八郎忠勝

 家康は天竜川を渡り、無事浜松城に撤退し、
籠城戦を覚悟しましたが、武田信玄に巧みに誘い出され、三方ケ原の戦いで再び大敗を喫しました。

 祝川を渡り、突当りのT字路を右折(白色矢印)します、御油方面からは右手のすずや酒店手前を左折します。

右に豊田野球場を見て、先に進み変則六差路の信号交差点を左折し、
寺谷用水を跨ぎ、斜め右に入ります。

寺谷用水は家康の命により伊奈家次が計画し、豊田の平野重定が開削しました。

天竜川から引水した農業用水で、二万石の収穫をもたらしました。
一言分岐 変則六差路分岐 @豊田分岐

 先に進み@
十字路を左折(白色矢印)します、御油方面からは右折になります。

 突当りのAT字路を左折(白色矢印)し、B一本目を右折(白色矢印)します。

御油方面からは突当りのBT字路を左折し、A一本目を右折します。

スグの右手奥に
知恩斎があります、山門はこの地を領した旗本皆川歌之助陣屋門を移築したものです。

山門手前の左手に
観音堂があります、一言坂から移された一言観音像が安置されています。

一言坂の戦に敗れた徳川家康が、一生に一度だけ願いが叶えられるという、この観音に戦勝の一言を祈願したといわれています。
A豊田分岐 B豊田分岐 知恩斎・一言観音

 私は次回までとっておきました。


 一言観音を後にし、突当りのCT字路を右折し、D一本目を左折します。

御油方面からは突当りのDT字路を右折し、C一本目を左折すると左手に一言観音があります。

先に進み
芳増(ぼうそう)豊田四号橋にて渡ります、芳増川の両岸は桜並木になっています。

一言から弥藤太島に入ります、熊岡弥藤太夫が天竜川の中洲に来住し、この地を開拓し、旗本堀三左衛門の知行地となり、鈴木家庄屋を勤めました。
C豊田分岐 D豊田分岐 芳僧川 豊田交番分岐

 先に進み突当りの
T字路を右折(白色矢印)します、御油方面からは左折になります、この分岐点には豊田交番があります。

 国道1号線磐田バイパス高架をくぐり、先の信号交差点の十字路を左折します、御油方面からは右折になります、この分岐点には磐田市新造形創造館があります。

一本目を右折します、この分岐点には
池田近道(姫街道)標識があります、御油方面からは左折になります。

道なりに進むと左手に大正十年(1921)建立の
秋葉神社御神燈があります。

先の左手に上新屋ポケットパークがあります、園内に
謡曲熊野第四場(逢瀬の場)碑があります。
@上新屋分岐 秋葉神社御神燈 上新屋ポケットパーク

 
池田には長者が紀州の熊野権現に祈願して授かった、美しくてやさしい熊野(ゆや)という娘がいました。

 熊野は見付の国府に赴任した平宗盛(平清盛三男)に見初められ、結ばれた二人は国府で暮らしました。

上新屋(かみあらや)ポケットパーク先の旧道は消滅しています、それでは
迂回路を進みましょう。

上新屋ポケットパーク前を道なりに進み、
用水路に架かる@川原口橋手前を右折します。

一本目を左折して
用水路に架かるA東池田橋を渡ります。

道なりに進み信号交差点を横断し、突当りのB
T字路を右折します、この分岐点には豊田保育園があります、御油方面からは左折になります。
@川原口橋分岐 A東池田橋分岐 B池田分岐

 池田は古より天竜川の渡船場集落として賑わいました。

先に進むと右手に
妙法寺があります、応永年間(1394〜1428)の創建で、可睡斎末寺です、当寺には半場(はんじょう)善右衛門の墓があります。

一言坂の戦に敗れ敗走する
家康天竜川の渡河に難渋していると、船頭方の善右衛門が船頭衆を集め、西岸に無事、渡しました。

家康が「ここは何処だ」と善右衛門に問うと「半場と申します」と答えると「これからは半場の姓を名乗れ」といわれました。

池田に戻ると
善右衛門は武田軍の追撃を阻むためを隠しました。

この功により家康から
天竜川渡船の権利を賜りました。
妙法寺 A池田分岐

 以降、半場善右衛門の
子孫は明治維新まで渡船方名主を勤めました。

先に進み突当りのA
T字路を左折(白色矢印)します、この分岐点には案内標識「←池田の渡し」(白色□囲い)があります、御油方面からは右折になります。

 スグの右手に行興(ぎょうこう)があります、墓所には熊野(ゆや)とそのの墓があり、境内には熊野が手植えをしたという熊野の長フジ(国指定天然記念物)があります。

やがて
熊野平宗盛は京に上り、仲睦まじく暮らしていましたが、熊野の元に母が病に伏したとの知らせが届きました。

熊野は帰郷したいと宗盛に懇願するも、宗盛は熊野を愛するあまり放しがたく、聞き入れませんでした。

宗盛は慰みに熊野を清水寺の桜の宴に伴うと、熊野は「いかにせん都の春も惜しけれどなれし東の花や散るらん」」と詠み、この歌に心を打たれた宗盛は別離を決意しました。
行興寺 熊野の長フジ

 帰郷した
熊野は必死になって母を看病しましたが、その甲斐なく亡くなりました。

宗盛は
壇ノ浦の合戦に敗れ、源義経に捕らえられ、近江で処刑されました。

一人残された
熊野は尼となり、三十三歳の若さで生涯を閉じました。

 先に進むと右手に寛政九年(1797)建立の秋葉山常夜燈があります。

常夜燈の向いには
池田の渡し歴史風景館があります、池田渡船の歴史資料が展示されています。

街道正面の天竜川土手手前の右手に
池田橋の跡碑があります。

明治十六年(1883)幅2.72m、長さ765mの
木橋が架橋され、渡賃は大人三銭、小人二銭でしたが、昭和八年(1933)に取り壊されました。
秋葉山常夜燈 池田橋の跡碑 池田橋

 往時の天竜川は中洲を挟んで二筋の流れがありました、東寄りの大天竜川の常水川幅は二十五間(約45.5m)で池田村持でした。

西側の
小天竜川の常水川幅は百余間(約182m)で対岸の船越村持でした。

池田の渡船場は水位に応じて三ケ所ありました。

突当りの天竜川土手道下に
家康の天竜池田渡船の許可書解説があります、ここが上之渡跡です、天竜川の水位が最も高い時の渡場でした。

ここからは天竜川の
土手道を歩きます。
渡船場跡(上之渡) 天竜川土手道 渡船場跡(下之渡)

 土手道には歩道がありませんからご注意下さい。

左手の
天白神社の辺りが中之渡跡です、水位が中程度の時の渡場でした。

更に進むと左手に
天竜川渡船場跡碑があります、ここが最も水量が少ない時に使用された下之渡跡です。

 天竜川の土手道を掛塚橋方面に直進し、新天竜川橋天竜川橋の@ガードをくぐります。

先に進むと土手道に合流します、この
合流点をAUターンし天竜川橋方面に戻ります。

一本目のB
天竜川橋東詰を横断します、この天竜川橋には歩道がありません。

新天竜川橋が架橋されるまで、何度も歩きましたが
橋幅が狭く、危険な思いをしました。

突当りの
新天竜川橋東詰を左折し、新天竜川橋のC歩道を歩きます。
@ガード AUターン B天竜川橋 C新天竜川橋

 天竜川諏訪湖に源を発し、流末は遠州灘に注いでいます、暴れ天竜と呼ばれる暴れ川でした。

新天竜川橋の
西詰めを左折し、天竜川西交差点にて天竜川橋を横断し、土手道を進みます。

ここから先は
東海道編(袋井-新居)をご参照下さい。

天竜川の治水事業に尽力した
金原明善生家を過ぎると右手に安間起点解説があります。
天竜川 新天竜川橋西詰 安間起点 一里塚跡

 
東海道(黄色矢印)と姫街道(本坂通)の追分です。

東海道(黄色矢印)を京方面にわずかに進むと右手に
安間一里塚標識があります、安間の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて六十四里目で、姫街道一里塚の起点です。

 安間起点から姫街道を進み安新町交差点を直進します、右折すると左手に普伝院があります、境内に元は姫街道沿いにあった千体の木彫仏を安置する千体堂があります。

千体仏は
三方ケ原の戦いで戦死した徳川武田両軍兵士を供養するため、村人の浄財で造立されました。

安新歩道橋交差点を横断すると右手に
了願公園があります、安間家屋敷跡です。

安間了願がこの地を開拓し、代々七郎左衛門を襲名し、安間新田村の名主を勤めました。

先の右手渡瀬宅敷地の角に
道標があります。
千体堂 安間家屋敷跡 道標

 嘉永元年(1848)建立の道標には「右笠井 秋葉山 左市野 気賀 金指」と刻まれています。

今はフェンスで覆われています。

訂正のお願い ちゃんと歩ける東海道五十三次 東編姫街道 安間了→安間了に訂正して下さい。

 先に進み、一旦県道に合流し、松小池川柏木橋にて渡り、柏木橋交差点のY字路を左に進みます。

この分岐点にあったサークルKは
ファミリーマートに変っています。

下石田中交差点から二本目の左手に
半僧坊里程石「半僧坊道 五里廿六町」があります。

半僧坊(はんそうぼう)】
無文元選(むもんげんせん)禅師が元(中国)からの帰途、嵐に遭うと眼光鋭い大男が現れ危難を救いました。禅師は「汝、半ば僧に似たる所あり」といい半僧坊と名付け、方広寺の守護に任じました。
県道合流 柏木橋分岐 半僧坊里程石

 明治十四年(1881)
方広寺大火に見舞われたが半僧坊真殿のみが焼け残り、以来災難除けの評判が全国に広まりました。

この先にも
半僧坊里程石「半僧坊道 五里廿五丁」がありましたが、失われています。

 先に進むと左手に大正十二年(1923)建立の秋葉常夜燈があり、奥に長泉庵があります。

本堂に
馬頭観音が安置されています、近隣住民の信仰が篤く、二月の初午(はつうま)の日には馬を曳いて参詣する人々で賑わいました。

姫街道を往来する
旅人は道中の安全を祈願しました。

境内には嘉永五年(1852)建立の
手水鉢があります。

信号下石田北交差点の一本先を右に入ると、
八幡宮の境内にある下石田町公民館の裏手に明治十六年(1883)建立の池田道追分道標「右奥山半僧坊 気賀 金指道」「左池田橋新道 見付中泉近道」が移設されています、この道標は池田道追分に建てられていました。
秋葉常夜燈 池田道道標

 街道に戻り先に進むと信号交差点があります、右(黄色矢印)の筋が池田橋新道です。 

天竜川に
池田橋が架橋されると、池田橋西岸から姫街道に通じる新道が開削され、この追分口の右手に池田道追分道標が設置されました。

追分の先、一本目を右に入ると左手の
庚申堂脇に天保十五年(1844)頃に下石田の俳人小池古心によって建立された芭蕉句碑「草臥て(くたびれて)宿かるころや藤の花」や移設された半僧坊里程石「五里弐拾町」があります。

安間川手前の左手に
小祠があります。
池田道追分 芭蕉句碑 小祠

 
大日如来うすさま(げんぺいの石神様)が安置されています。

近くを流れる
げんぺい川で洗濯をしたり、汚れ物を流していたところ、村内に怪我や病の者が続出しました。村人が川の底から石神様を拾い上げ、丁寧に祀ると災いはおさまりました。

 AM11:33 市野宿着 気賀宿まで15.1km

 安間川新大橋にて渡ります、安間川は浜松市東区豊町付近に源を発し、流末は天竜川に落合います。

一本目の
Y字路を右に進むと、スグの変則四差路が市野宿東口東枡形です、市野宿に到着です!

姫街道は明和元年(1764)道中奉行の管轄になり、その際浜松から三方原追分間が本道と定められ、以降人馬の通行量は激減し、市野宿は衰退しました。

この変則四差路の左手に明治十八年(1885)建立の
道標「奥山半僧坊道 右 金さし 平口ふどう 左 きが 金さし」があります、ここが笠井道の起点です。
新大橋 Y字路分岐 半僧坊道標

 厄除けの
身代わり不動で知られる平口(ひらくち)不動寺に通じていました。

 宿並を進むと右手に姫街道丸太標柱があります、この標柱の足元に明治十八年(1885)建立の半僧坊里程石「奥山半僧坊 五里十四町」があります。

並びが
市野宿本陣跡です、遺構は火災により焼失しました、代々斎藤家が勤め、当家は古文書類や関札等を残しています。

市野町交差点を越すと、右手に
市野宿解説があります、市野宿の名残りは東宿中宿新丁の小字名と東西の枡形です。

突当り手前の右手に
半僧坊道標があります。
半僧坊道標 市野宿本陣跡 市野宿解説 半僧坊道標

 現在は
清水宅の庭内にあります、道標には「半僧坊五里十一丁 左平口不動道」と刻まれています。

 宿並の突当りを左折します、西枡形の南口です、この西枡形が市野宿の西口です。

西枡形を左折し、斜め右に入り、右手の
マンションフロイデ前を進み、突当りを右折します(白色矢印)、御油方面からは熊野神社先を左折します。

右手の
熊野神社は往時熊野三社大権現と称しました。

境内続きの
正福寺は明治の廃仏毀釈により廃寺となりました。
市野宿西枡形南口 西枡形北口 熊野神社 宝篋印塔

 正福寺の旧境内には延享三年(1746)建立の
宝篋印塔があります、宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めています、高さは約4mあり、遠江最大の宝篋印塔です。

 境内の街道沿いに宝暦十年(1760)建立の秋葉山常夜燈を納めた鞘堂があります。

熊野神社を後にすると、街道は
八丁とうもと呼ばれる直線道になります。

とうもとは水の張られた田面のことで、この田の中の八丁縄手を意味しています。

与進北小南交差点を越し、左手のファミリーマート先の
Y字路を右に進みます。

しかしここを曲がらずに
直進する道筋があります、先でL字状右折して再び県道に合流します。
鞘堂 八丁とうも 旧道痕跡

 
L字路では車社会に対応できない為、カーブを増設したのだと思います、断定は出来ませんが旧道痕跡と思われます。

 先に進むと右手に長福寺が有ります、参道口には新旧の六地蔵が安置されています。

長福寺は延宝四年(1676)の創建で、二代目の
北堂和尚はこの地に木綿の栽培を普及させた功績で知られています。

スグの左手に
史蹟一里塚碑があります、小池の一里塚跡です、安間より一里、江戸日本橋より六十五里目です、この地には一里山の小字名を残しています。

道なりに進み小池町交差点を横断します。
長福寺 小池の一里塚跡 五差路分岐点

 先の信号交差点五差路正面の
Y字路を左(白色矢印)に進みます。

 右手に臨済宗方広寺派の大養院があります、門前に秋葉山常夜燈を納めた重厚な造りの鞘堂があります、昭和の代になって復元されたものです。

貉川(むじながわ)を江原橋にて渡ります、流末は馬込川に落合います。

江原橋の渡詰め辺りから斜め右方向に
旧道がありましたが、消滅しました。

それでは
迂回路を進みましょう、直進し、二本目の十字路を右折します。
秋葉鞘堂 江原橋 十字路分岐

 この分岐点の手前には
交通標識「この先100m通り抜けできません右左折願います」があります。

 迂回路を進むと自動車学校前駅脇に出ます、突当りを左折します(白色矢印)、失われた旧道がこの辺りから復活します。

遠州鉄道線を自動車学校前2号踏切にて横断します、御油方面からは踏切を横断し、一本目を右折します。

踏切のスグ先右手の県道261号線標識の足元に
半僧坊里程石「四里廿六丁」があります。

有玉南町東交差点を横断し、一本目の右手横道手前に
丸太標識「姫街道/旧秋葉街道」があります。
旧道復活点 自動車学校前駅 半僧坊里程石 旧秋葉道標識

 街道の向いには天明六年(1786)建立の道標「左 あきはみち」があります、ここが姫街道旧秋葉街道の交差点でした。

馬込大橋北交差点を越し、二本目の左手電柱の裏側に明治十九年(1886)建立の
半僧坊里程石「四里廿壱丁」があります。

信号交差点を越し、一本目の左小路口に明治十九年(1886)建立の
半僧坊里程石「四里廿丁」があります。

この小路を越すと、左手に
馬乗り場跡丸太標柱、次いで姫街道丸太標柱があります。
秋葉道道標 半僧坊里程石 半僧坊道標 馬乗り場跡

 先に進むと五枚橋手前左手のカーブミラーの足元に明治十九年(1886)建立の半僧坊里程石「四里十九町」と陽刻地蔵立像があります。

ここの斜め左(白色矢印)が
旧道です、突当りの馬込川五枚橋が架橋されていました、五枚橋は馬込川の川中に設置した飛び石の上に、五枚の板を並べた仮橋でした。

それでは元に戻り、迂回路(黄色矢印)を進み、現在の
五枚橋にて馬込川を渡ります、馬込川は浜名用水に源を発し、流末は遠州灘に注ぎます。

五枚橋交差点を左折(白色矢印)します。
五枚橋旧道東口 馬込川 五枚橋迂回路分岐

 一本目を右折します、白色破線は五枚橋跡からの旧道です。 

先に進むと次第に上り坂になります、突当りの
石段を上り、県道261号線を横断し、正面の宇藤坂に入ります。

宇藤坂は
浜名平野から三方原丘陵への急坂です、杉浦国頭(くにあきら)の曳馬拾遺(えいばしゅうい)に「本坂の大路にして、有玉の村より三方か原に登る坂をいふなり」と著されています。

宇藤坂上り口の左に
食堂が見えます。
五枚橋旧道西口 石段 宇藤坂

 時計を見れば12:30です、頃合いです、直行です、お食事処治助です。

まずは
生ビールです、良いね泡がクリーミーです!

私、普段は決して昼食時にお
は飲みません、街道ウォークの時だけです。

食事は
カツ丼うどんのセットです、これにサラダと香の物が付いています!!
治 助 生ビール カツ丼&うどんセット

 私、普段昼食に
セット物は食しません、街道ウォークの時だけです。

ビューッと歩くと、
咽喉が渇きます、が減ります、が要求します、これも街道ウォークの醍醐味の重要なポイントです、ご馳走さまでした!!!

 それでは午後の部に取り掛かりましょう、宇藤坂口に戻って坂を上り、一本目を右に入ると、正面のホテルフェアリー脇に俊光霊社があります。

霊社前の木柱には
旧俊光(としみつ)将軍社と記されています、坂上田村麻呂の子俊光武勇の守護神として祀られていましたが、明治四十年(1907)有玉神社に合祀されました。

有玉伝説
美女に化けた
赤大蛇坂上田村麻麿と契りを結び、子を宿しました。赤大蛇の姿に戻って子を産むところを田村麻呂に見られると生まれた子を託し、川の底に戻ってしまった。

子は成人し
俊光将軍となり、父子共々朝廷より東征の命を受け、二人がこの地まで来ると磐田の海は大荒れとなりました。そこで俊光将軍は母親(赤大蛇)から授かった潮干の珠(しおひるのたま)を海に投げ入れると、潮が引き広い平野となり、無事進軍できました。有玉南町に鎮座する有玉神社はこの珠(たま)を祀っています。
俊光霊社

 旧道に戻って先に進むと有玉西町欠下平公会堂先の右手に秋葉鞘堂があります。

先に進むと豊隆団地交差点手前の右手に天保三年(1832)建立の
道標「右きが かなさし 左庄内道」があります、かつてはここが姫街道庄内道の追分でした。

この道標は遠江の姫街道に残る
最古の道標です。

突当りの
豊隆団地交差点を右折(白色矢印)し、県道261号磐田細江線に合流します。

御油方面からは交差点の手前を左折します。
秋葉鞘堂 最古の道標 豊隆団地交差点分岐

 二重坂を上ると三方原台地になります。

一里塚橋交差点を越した先の左手に
追分の一里塚南塚が現存しています、安間より二里、江戸日本橋より数えて六十六里目です。

先に進みX(エックス)状交差の
三方原追分(元追分交差点)を左(右側白線矢印)に進みます、前方に松並木が確認できます。

左側の白線矢印は
浜松宿からの姫街道です。

姫街道は明和元年(1764)道中奉行の管轄になると、浜松から三方原追分間が本道となりました。
追分の一里塚 三方原追分 追分道標

姫街道 浜松 〜 三方原追分

 これ以降、見付から三方原追分間は姫街道脇往還となりました。

この追分には
道標が二基あります、大きな道標は明治三十七年(1904)の建立で「奥山半僧坊大権現へ三里廿九丁」、小さな道標は慶応四年(1868)の建立で「右みやこだ 中かなさし 左きが道」と刻まれています、正面Y字路の右は金指街道で金指、奥山半僧坊、鳳来寺に至ります、かつては都田道もここから分岐していました。

故にこの三方原追分は
追分三筋とも呼ばれました。

 三方原追分を越すと街道の左側に松並木(浜松市指定史跡)が現れます、往時は宇藤坂から前山辺りまで松並木が続いていました。

右側の
松並木は焼失した三方原小学校校舎の再建費用捻出のため昭和二十七年(1952)に伐採されました。

東名高速道路姫街道橋にて跨ぎ、先に進み伊佐地川荻野原橋にて渡ると右手奥に三方原(みかたばら)神社が鎮座しています。

廃藩置県により禄を失った
旧幕臣達がこの地に入植し、大正十一年(1922)浜松城内に祀られていた東照宮を遷座させました、東照宮の扁額は旧幕臣勝海舟の揮毫です。

境内に
扶持米倉庫跡があります、困窮する旧幕臣に一人一日五合当てが支給されました。
松並木 三方原神社

 三方原神社の裏手に士族屋敷跡標石と解説があります、三方原には約八百戸の士族が入植しましたが、土質が赤土のため作物は育たず、ほとんどが離散しました。

街道に戻り、三方原西交差点先の右手姫街道車庫バス停脇に
姫街道標石があります。

遠州鉄道三方原営業所隣りの駐車場に
気賀門跡標石があります、気賀林(きがりん)は気賀の出身で、三方原開拓掛となり困窮士族の入植に尽力し、明治七年(1874)百町歩の茶園(百里園)を開墾し、製茶を開始しました。

屋敷の
長屋門は昭和五十八年(1983)に解体され、門扉は袋井の油山寺豊拝門に移築されています。
士族屋敷跡 姫街道標石 気賀門跡

 葵町交差点を越すと右手に三方原救貧院跡標石と解説があります、明治十年(1877)気賀林が困窮した士族の救済施設を設立しました。

建物は間口八間、奥行き三間半の
木造平屋建て瓦葺きで、四家族ほどを収容し、米麦、味噌、醤油、薪炭等を支給し救済しました。

先の左手に
権七商店があり、並びに権七(ごんひち)丸太標柱と解説があります、三方原追分から権七店までは人家がなく寂しい街道でした。

明治十年(1877)に創業した
権七店は近隣の人々の寄合所であり、馬方の休憩所でした。
三方原救貧院 権七商店 権七店

 権七交差点を越し、花川郵便局を左に見て進み、大山交差点を越し、右手のミニストップを過ぎると大山の一里塚があります。

南塚は原型をとどめています、北塚は復元されたものです、天保十四年(1843)の本坂通宿村大概帳によると南塚の塚木は、北塚には塚木はありませんでした。

安間より三里、江戸日本橋より数えて六十七里目です。

南塚の祠内に自然石の
馬頭観世音菩薩が安置されています、往き倒れになった人馬の霊を供養しています。

街道には
松並木が三方原追分から続いています。
東大山の一里塚 南塚 馬頭観音

 奥大谷バス停を越すと長らくお付合いを願った松並木は終了します。 

街道が下り坂になり、右に電波塔がある横道に入ると左手に
江川永脩屋敷跡標石と解説があります。

幕府陸軍鎮撫頭取を勤めた江川永脩(えいしゅう)は明治三年(1870)この地に入植し、茶園や水田の開拓に尽力しましたが、成功せず立ち去りました。

大谷川大谷橋にて渡ります、通常は飛び石で川を渡り、大通行の際は仮土橋が架橋されました。

右に大きくカーブした先の右手に
擁壁階段があります、弘法大師堂跡です。
江川永脩屋敷跡 大谷川 弘法大師堂跡

 江戸時代末期、この地の
船越五郎兵衛なる者が弘法大師を篤く信仰し、ここに大師堂を建立し、更に浜松宿と気賀宿の間には茶屋が少ないため、無料の接待所を設けました。

跡地には
石仏等を残しています。

 時差式信号交差点を過ぎ、横断歩道標識を越すと、左手に曲がり松松島十湖句碑があります。

ここには樹形が龍のように捻じれた樹齢約五百年の
曲がり松がありましたが枯れたため、昭和四十八年(1973)に伐採されました、現在の松は三代目です。

村役人はここで気賀の
領主参勤大名の送迎を行いました。

並びに引佐麁玉(あらたま)郡長を勤めた俳人
松島十湖句碑「別るるはまた逢うはしよ月の友」があります、郡長を退職した十湖が帰郷する際、見送りの人々とここで別れました。
曲がり松・十湖句碑 老ケ谷旧道口

 
松島十湖(じっこ)は明治、大正時代に芭蕉の再来といわれ、全国に多くの門弟を持った俳界の師でした。

細江湖東郵便局を左に見て進み、湖東西バス停先の
Y字路を車止めのパイプフェンス脇から左(白線矢印)に入ります、ここが老ケ谷(おいがや)の旧道口です。

 旧道を進み、信号交差点を越すと左手の瓦葺の覆屋内に老ヶ谷六地蔵が安置されています、背後の竹薮に刑場があり、正徳二年(1712)刑死者の霊を弔うために祀られました。

並びに夢舞台
姫街道六地蔵道標「←浜松宿二里三十四町/気賀宿二十五町→」があります。

左手の鉄塔を過ぎると左手奥に
山神社が鎮座しています、境内には御神木のスギがあり、境内社に愛宕神社があります。

先の
Y字路を右に進みます、この分岐点には文化八年(1811)建立の秋葉山常夜燈があります。
老ケ谷六地蔵 夢舞台道標 秋葉山常夜燈分岐

 先に進むと左手に千日堂があります、寛文十一年(1671)気賀近藤家下屋敷にあった観音像を移し、宝永年間(1704〜11)に阿弥陀如来像を安置し、千日念仏が行われました。

境内には近藤家下屋敷にあった
如意輪観音像や宝永二年(1705)建立の南無阿弥陀仏名号碑があります。

先に進み
Y字路を左に進みます、この分岐点には長坂改築記念碑があります。

スグの左手に
一里塚標石があります。
千日堂 長坂改築記念碑分岐 老ケ谷一里塚跡

 
老ケ谷の一里塚跡です、塚木は両塚共マツ、西塚は気賀村地内、東塚は中下刑部村地内で、安間より四里、江戸日本橋より数えて六十八里目です。

一里塚の近くには
富士見茶屋がありました。

 正面の姫様道中貯水塔の右に進み、幅員一間(約1.8m)程の長坂を旧新屋村(あらやむら)まで下ります。

長坂を下り始めると右手に
服部小平太最期の地碑があります。織田信長の家臣であった服部小平太は永禄三年(1560)桶狭間の戦いで、今川義元を討ち取った功労者です。

信長亡き後、
服部小平太(中保次)は徳川家康の家臣となり、この地が徳川の支配下になると領主に任じられました。

この地は
今川領であった為、小平太に恨みを抱く者が多く、天正十五年(1587)単身での巡視中に、この長坂で何者かに暗殺されました。

※今川義元を討取った
服部小平太と同中保次は別人との説もあります。
姫様道中貯水塔 小平太最期の地

 鬱蒼とした長坂の土道を下り@舗装路を横断します。

A向かいの
車止めから再び長坂を下ります。

次いで
車止めを越し、突当りを左折します。

この突当りには弘化四年(1847)の
棟木を残す秋葉鞘堂があります、堂内の常夜燈は失われています。

わずかに下りB
下道(白色矢印)に合流します、御油方面からは鞘堂がある斜め右の上り坂に入ります。
@舗装路横断 A鞘堂前分岐 鞘堂 B下道合流

 下道の合流点を右(黄色矢印)に進むと、右手の9区地区コミュニティ防災センター脇に案内標識「服部中保次の墓→」があります。

墓はセンター裏の斜面にあります、墓石には
祥栄院殿湖雲浄鑑大居士と刻まれています。

旧道に戻って進むと左手に
宗安寺(そうあんじ)があります、服部小平太中保次(なかやすつぐ)の供養寺でしたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となりました、旧境内には宝永三年(1706)造立の地蔵立像があります。

旧道は
県道261号線に突き当たります。
服部小平太の墓 宗安寺跡 県道横断

 県道を
横断(白色矢印)します。

 旧道を先に進むと左手に金山神社の鳥居が見えます、ここが刑部(おさかべ)城跡です、金山神社は刑部城の二の丸に鎮座していました。

今川義元亡き後、今川方の内山党が三方を都田川で囲まれた要害のこの地に刑部城を築きましたが、永禄十一年(1568)家康の猛攻の前にあえなく落城し、天正年間(1573〜92)廃城となりました。

刑部城が落城した際、城主の美しい
が敵の手にかかって辱めを受けることを恐れ、往時あった大池に身を沈め、金襴(きんらん)の蛇に化身したといいます。

刑部川大橋で渡り、左折し刑部川に沿って進みます。
刑部城址 大橋南詰 大橋北詰

 三方ケ原の戦いに勝利した
武田信玄は刑部城で越年し、再び侵攻を開始しましたが、間もなく病に倒れ、撤退を決断しましたが信濃伊那郡駒場にて病没しました、享年五十三歳でした。

生涯で最も惨めな敗北を味わった三十二歳の家康は胸をなでおろし、溜飲を下げたことでしょう!

 それでは、なるべく旧道に則した道筋を辿ってみましょう。

大橋を左折した延長線上が
旧道ですが、消滅しています。

一本目の@
十字路を右折します、この分岐点には中部電力があります。

二本先のA
変則十字路を左折します、ここから旧道が復活します。

突当りが落合川の
渡船場跡です、この突当りを左折します。
@十字路 A変則十字路 落合川渡船場跡 落合橋南詰

 
落合川に沿って進み、突当りの石段を上り落合橋上に出ます。

 落合川落合橋にて渡ります、右は(とび)ノ巣山に源を発する都田川です、左は井伊谷川です、この二川が合流し、落合川と名を変え、流末は浜名湖に注ぎます。

落合川は
浜松藩領気賀近藤家旗本領の境をなし、気賀関所の要害河川のため、架橋されず舟渡しでした。

常は
舟一艘で渡し、大通行の際には近隣の村々から舟を調達しました。

落合橋北詰の右手に
宝生(ほうしょう)地蔵尊が祠内に安置されています。
落合川 宝生地蔵尊

 陽刻地蔵尊の
光背(こうはい)には「右はままつへ三里半 左秋葉山宮口へ二里 二俣へ四里」と刻まれ道標を兼ねています。

この
地蔵尊はいつの頃か落合川に沈み、再びこの地に戻り、人々の安全を守り富を生み出したといいます。

 PM3:27 気賀宿着 

 天竜浜名湖鉄道線高架をくぐると、気賀四ツ角交差点手前の細江町ポケットパークに夢舞台姫街道気賀宿道標「←浜松宿三里二十三町/三ケ日宿二里二十七町→」があります。

気賀四ツ角交差点が
気賀関所東門跡です、気賀宿に到着です!

時計の針はPM3:30を差しています、ここが思案のしどころです、
三ケ日宿まではおおよそ3時間は掛かるでしょう。

行程の後半は真っ暗になってしまいます、通常の
街道ウォークであれば躊躇せず出立ですが、デジカメ撮影を考えると不可です。

実は予定通りです、今宵の泊まりは
三ケ日です、気賀の国民宿舎奥浜名湖は素泊り不可にてパスです。
夢舞台道標 気賀関所東門跡

 天竜浜名湖鉄道は単線のディーゼルカーで、三ケ日駅まで18分の旅です。

車窓には
奥浜名湖そして猪鼻湖の夕景が広がります。

三ケ日の宿並に酒の
日野屋があります。

「ここは何時まで開いています」
すると女主人が「8:30までやってます」
「この近くにお奨めの居酒屋はありませんか」
「スグ先の
こうちゃんが良いよ!」
「後で又寄ります」
天竜浜名湖鉄道 日野屋 萬屋旅館

 三ケ日宿の
萬屋旅館は平日休日に係わらず素泊り3,800円です。

旅籠の女将が「
三ケ日のミカンここに置いておきますから、お好きなだけ召し上がって下さい」とすすめてくれました。

宿賃を支払い、明朝は勝手に出立する旨を伝えます。


こうちゃん 焼酎緑茶割り 〆さば さんまの塩焼き

 サア、
こうちゃんです、路地の奥に店を構えています。

焼酎の緑茶割りです、女将が作ってくれます、焼酎がグラスの中で陽炎の様に揺らいでいます、濃いい、ウマイ、酒飲みは氷ばかり多く薄い焼酎だと機嫌が悪くなってしまいます。

しめ鯖は酢でしめるのではなく、塩でしめて酢で洗うといいますが、絵に描いた様な
しめ鯖です、そして焼酎のお替り、サンマの塩焼き、締めに赤だし味噌汁を頂いて計1,800円です。

 日野屋で寝酒の仕込みです。

「こうちゃん良い店でしたョ!」
「お客さん、三ケ日は何の用で」
「姫街道を歩いてます」
「マァー、それじゃー隣の
資料館見て行くー」

日野屋は代々
酒造業を営み、その如才のなさから金融業等を合わせて営みました。

主は
俳句を趣味とする粋人だったそうで、俳句の木版句集を残しています。

これら
一級品の資料を展示しています。
金銭出入帳 俳句の版木と句集


 私し、
温泉には全く興味がありません、温泉に入ってユックリしたいなんて思った事はありません、所謂(からす)の行水です。

しかし
街道ウォークの風呂だけは別格です、首までしっかり浸かり「フーッ」なんていいます、疲れが「スーッ」と抜けます。

ストレッチを行い、ワールドカップ女子バレー日本VS韓国戦を肴に
寝酒です、いずれが勝利したかは記憶にありません。






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