この度、山と渓谷社から「● 新版ちゃんと歩ける東海道五十三次 (東) 江戸日本橋〜見付宿 +姫街道 五街道ウォーク 八木牧夫著」が出版されました。 本マップには写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為にHPでは写真を豊富にアップしました。 是非、出立なさる前に姫街道マップと当HPを照らし合わせ、姫街道ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。 姫街道は東海道見付宿から浜名湖の北岸を迂回し、再び東海道の御油宿に至る十五里余り(実測 60.5km)の道のりです。 見付宿迄のアクセス時間を考慮しますと二日行程が妥当でしょう。 気賀宿ないし三ケ日宿まで歩を進めて日帰りも十分可能ですが、再度のアクセス時間や交通費を考えるとここは宿泊ウォークの方が合理的です! 磐田駅から見付追分までは離れています、東海道の道筋を北に向います。 旧東海道の県道56号線はジュビロロードと命名されています。 府八幡を過ぎると東海道の旧道がありますが、今回は直進です。 加茂川交差点を過ぎると見付追分に到着です、少し雲ってはいますが絶好な街道ウォーク日和です、それでは張り切って参りましょう、出立です!
この分岐点には元治二年(1865)建立の秋葉山常夜燈があります。
戦時中、兜塚古墳は防空壕として利用されたため、原形は壊れています。
家康は天竜川を渡り、無事浜松城に撤退し、籠城戦を覚悟しましたが、武田信玄に巧みに誘い出され、三方ケ原の戦いで再び大敗を喫しました。
先に進み@十字路を左折(白色矢印)します、御油方面からは右折になります。
私は次回までとっておきました。
先に進み突当りのT字路を右折(白色矢印)します、御油方面からは左折になります、この分岐点には豊田交番があります。
池田には長者が紀州の熊野権現に祈願して授かった、美しくてやさしい熊野(ゆや)という娘がいました。
以降、半場善右衛門の子孫は明治維新まで渡船方名主を勤めました。 先に進み突当りのAT字路を左折(白色矢印)します、この分岐点には案内標識「←池田の渡し」(白色□囲い)があります、御油方面からは右折になります。
帰郷した熊野は必死になって母を看病しましたが、その甲斐なく亡くなりました。 宗盛は壇ノ浦の合戦に敗れ、源義経に捕らえられ、近江で処刑されました。 一人残された熊野は尼となり、三十三歳の若さで生涯を閉じました。
土手道には歩道がありませんからご注意下さい。 左手の天白神社の辺りが中之渡跡です、水位が中程度の時の渡場でした。 更に進むと左手に天竜川渡船場跡碑があります、ここが最も水量が少ない時に使用された下之渡跡です。
東海道(黄色矢印)と姫街道(本坂通)の追分です。 東海道(黄色矢印)を京方面にわずかに進むと右手に安間一里塚標識があります、安間の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて六十四里目で、姫街道一里塚の起点です。
嘉永元年(1848)建立の道標には「右笠井 秋葉山 左市野 気賀 金指」と刻まれています。 今はフェンスで覆われています。 ※ 訂正のお願い ちゃんと歩ける東海道五十三次 東編姫街道 安間了源→安間了願に訂正して下さい。
明治十四年(1881)方広寺は大火に見舞われたが半僧坊真殿のみが焼け残り、以来災難除けの評判が全国に広まりました。 この先にも半僧坊里程石「半僧坊道 五里廿五丁」がありましたが、失われています。
大日如来とうすさま(げんぺいの石神様)が安置されています。 近くを流れるげんぺい川で洗濯をしたり、汚れ物を流していたところ、村内に怪我や病の者が続出しました。村人が川の底から石神様を拾い上げ、丁寧に祀ると災いはおさまりました。
厄除けの身代わり不動で知られる平口(ひらくち)不動寺に通じていました。
現在は清水宅の庭内にあります、道標には「半僧坊五里十一丁 左平口不動道」と刻まれています。
正福寺の旧境内には延享三年(1746)建立の宝篋印塔があります、宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めています、高さは約4mあり、遠江最大の宝篋印塔です。
L字路では車社会に対応できない為、カーブを増設したのだと思います、断定は出来ませんが旧道痕跡と思われます。
先の信号交差点五差路正面のY字路を左(白色矢印)に進みます。
この分岐点の手前には交通標識「この先100m通り抜けできません右左折願います」があります。
私、普段昼食にセット物は食しません、街道ウォークの時だけです。 ビューッと歩くと、咽喉が渇きます、腹が減ります、体が要求します、これも街道ウォークの醍醐味の重要なポイントです、ご馳走さまでした!!!
姫街道 浜松 〜 三方原追分 これ以降、見付から三方原追分間は姫街道脇往還となりました。 この追分には道標が二基あります、大きな道標は明治三十七年(1904)の建立で「奥山半僧坊大権現へ三里廿九丁」、小さな道標は慶応四年(1868)の建立で「右みやこだ 中かなさし 左きが道」と刻まれています、正面Y字路の右は金指街道で金指、奥山半僧坊、鳳来寺に至ります、かつては都田道もここから分岐していました。 故にこの三方原追分は追分三筋とも呼ばれました。
江戸時代末期、この地の船越五郎兵衛なる者が弘法大師を篤く信仰し、ここに大師堂を建立し、更に浜松宿と気賀宿の間には茶屋が少ないため、無料の接待所を設けました。 跡地には石仏等を残しています。
松島十湖(じっこ)は明治、大正時代に芭蕉の再来といわれ、全国に多くの門弟を持った俳界の師でした。 細江湖東郵便局を左に見て進み、湖東西バス停先のY字路を車止めのパイプフェンス脇から左(白線矢印)に入ります、ここが老ケ谷(おいがや)の旧道口です。
老ケ谷の一里塚跡です、塚木は両塚共マツ、西塚は気賀村地内、東塚は中下刑部村地内で、安間より四里、江戸日本橋より数えて六十八里目です。 一里塚の近くには富士見茶屋がありました。
県道を横断(白色矢印)します。
三方ケ原の戦いに勝利した武田信玄は刑部城で越年し、再び侵攻を開始しましたが、間もなく病に倒れ、撤退を決断しましたが信濃伊那郡駒場にて病没しました、享年五十三歳でした。 生涯で最も惨めな敗北を味わった三十二歳の家康は胸をなでおろし、溜飲を下げたことでしょう!
落合川に沿って進み、突当りの石段を上り落合橋上に出ます。
陽刻地蔵尊の光背(こうはい)には「右はままつへ三里半 左秋葉山宮口へ二里 二俣へ四里」と刻まれ道標を兼ねています。 この地蔵尊はいつの頃か落合川に沈み、再びこの地に戻り、人々の安全を守り富を生み出したといいます。
三ケ日宿の萬屋旅館は平日休日に係わらず素泊り3,800円です。 旅籠の女将が「三ケ日のミカンここに置いておきますから、お好きなだけ召し上がって下さい」とすすめてくれました。 宿賃を支払い、明朝は勝手に出立する旨を伝えます。
サア、こうちゃんです、路地の奥に店を構えています。 焼酎の緑茶割りです、女将が作ってくれます、焼酎がグラスの中で陽炎の様に揺らいでいます、濃いい、ウマイ、酒飲みは氷ばかり多く薄い焼酎だと機嫌が悪くなってしまいます。 しめ鯖は酢でしめるのではなく、塩でしめて酢で洗うといいますが、絵に描いた様なしめ鯖です、そして焼酎のお替り、サンマの塩焼き、締めに赤だし味噌汁を頂いて計1,800円です。
私し、温泉には全く興味がありません、温泉に入ってユックリしたいなんて思った事はありません、所謂烏(からす)の行水です。 しかし街道ウォークの風呂だけは別格です、首までしっかり浸かり「フーッ」なんていいます、疲れが「スーッ」と抜けます。 ストレッチを行い、ワールドカップ女子バレー日本VS韓国戦を肴に寝酒です、いずれが勝利したかは記憶にありません。
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