日光道中二十一次

徳川家康の死

 徳川家康は関ヶ原の合戦から五年後の慶長十年(1605)に将軍職を嫡子の秀忠に譲り、自らは駿府城(東海道)に居を移し「大御所政治」を展開しました。

家康は元和二年(1616)の正月、田中(東海道藤枝)に趣味の
鷹狩りに出かけました。

この時、家康は好物の甘鯛(興津鯛)の
天麩羅を食べ過ぎ体調を崩してしまいました。

これが元で三ヵ月後の四月十七日波乱の生涯を閉じました、
享年七十五歳でした。

死の前日、家康は重臣達を枕辺に集め「西国のかたは(西国諸大名)心もとなく思へば、我像をば西向に立置べし」との
遺言を残しました。

家康の亡骸は遺言の通りその日の夜駿府城から
久能山に移され、埋葬されました。

死後、家康は朝廷より「
東照大権現」の神名を賜り、久能山は東照大権現を祭神とする「久能山東照宮」となりました。

一周忌の際亡骸は
日光に移されました。
 
一説によりますと「久能山東照宮」が西国へのけん制とすれば「
日光東照宮」は伊達家への睨みとも云われています。

奥州道中と日光道中

 家康が当初、「五街道」の整備に着手した時の奥州道中は江戸日本橋から宇都宮宿を経由して白河に至る道筋を指しました。

 そして
日光道中はこの奥州道中の宇都宮宿から鉢石宿間の道筋が日光道中とされました。

 元和三年(1617)日光東照宮が完成しますと、日本橋と鉢石間は日光道中となり、宇都宮と白河間が奥州道中と
逆転しました。

日光道中の賑わい

 日光道中を通行する参勤交代の大名は陸奥、出羽、松前の三十二家、黒羽、大田原、喜連川等下野北部の大名と多くを数えました。

 
日光参詣は庶民にも許され日光道中は江戸時代を通して賑わいを見せたと云います。

日光御成街道

 日光に社参(参詣)する将軍は日光道中の一部は通行しませんでした。

 本郷追分、赤羽、王子、岩淵を経由して城下町岩槻で宿泊、翌日幸手から日光道中に合流し鉢石に向かいました。

 この間の道筋を「日光御成街道」と呼びます。

行 程

                        10   11   12   13   14   15   16   17   18   19   20   21
宿





 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 


 


 

 

 

 

 

宿間
km
  

 

  

  11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  10

 

 

 

 
國名 武 蔵 國 下総國 下 野 國
30km
行程
@ 25.5km A 32.5km B 30.2km C 23.8km D 35.7km
40km
行程
@ 37.0km A 37.9km B 37.1km C 35.7km
50km
行程
@ 49.2km A 55.0km B 43.5km

距離
147.7km
 徳次郎宿は下徳次郎、中徳次郎、上徳次郎の三宿で一宿を構成していました。
 実測値は国土地理院発行の1/25,000地図からトレースした距離です、尚宿間の距離の起点は各宿内の交通機関等に設定してあります。

神 橋
 日光道中の行程は江戸日本橋から鉢石宿の日光東照宮入口の神橋迄です。

宿村大概帳  三十六里三町二間

実     測  147.7km

朱塗りの神橋は寛永十三年(1636)日光東照宮大造替の折り架橋されました、 それ以前は「山菅の蛇橋(やますげのじゃばし)」と呼ばれました。

奈良時代末、男体山(二荒山)を目指す
勝道上人は華厳の滝から流れ来る大谷川の激流に行く手を阻まれてしまいました、 上人が一心に祈ると対岸に青と赤二匹のが現れ橋となりました、 滑りやすい蛇の背中に山菅を敷いて無事対岸に渡ったと云います。

フィールド

日光杉並木

 日光道中も他の諸街道と同様に旧所名跡にことかきません。

だいぶ都市化された旧街道を歩き通し、今市宿まで来ますと、
日光杉並木に出迎えられます。

荘厳とした杉並木の街道を歩いていますと、日光東照宮の
神域に入ったせいか何かピーンと張り詰めたような空気が感じられます。

「日光街道ウォーキング」の
醍醐味(スペクタクル)は正にここに尽きます。

日光街道に出立してみましょうか。


この度、山と渓谷社から

● ちゃんと歩ける 日光街道 奥州街道 五街道ウォーク 八木牧夫著

が出版しました、日光街道ウォークにご活用下さい。

道中日記 「日光街道ウォーク」の記録です、マップと照らし合わせてお読み下さい。