日光御成道は、徳川歴代将軍が祖家康を祀った「日光東照宮」への社参(参詣)の際、「おなり」になった道筋です。 家康の忌日である四月十七日に執り行われる祭礼には、将軍自らが参詣するか、大名や高家を名代として参詣させるのが慣例になっていました。
江戸日本橋を起点に、本郷追分(東大農学部前)で中山道と分岐し、岩淵宿、川口宿、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を経て、幸手宿の南方で五街道の一つ日光道中と合流するまでの道筋が日光御成道です。 又、江戸〜岩槻間の道筋は、岩槻藩の参勤交代の順路となっているところから「岩槻街道」とも呼ばれていました。 将軍が千手〜幸手間の日光街道を利用しなかったのは、社参の際、往復とも御成街道にある「岩槻城」を宿舎とした為と言われています。 北関東の要衝として、徳川譜代の重臣を配した岩槻城は警護上、重要であったからでしょう。
通例、将軍一行は四月十三日に江戸城大手門を出立、神田橋を渡り、筋違橋から中山道に入り、本郷追分から日光御成道(岩槻街道)に入りました。 王子に到ると金輪寺で休息、一時金輪寺が荒廃した時期は飛鳥山の上に仮休所が設けられました。 荒川は通常、「舟渡し」でしたが、 将軍日光社参の際は幅三間(約5.4m)長さ六五間(約117m)の板橋が架橋されました。 岩槻城主は錫杖寺で将軍を一旦出迎え、挨拶後、先に引き上げ、城での出迎えに備えました。 将軍はこの錫杖寺で昼餉を摂りました。 その後、将軍は膝子村の光徳寺で休息したのち、岩槻城に入りここを宿所としました。 翌日は幸手宿手前で、日光道中に合流し、幸手宿の聖福寺で休息し、以降は日光道中を通行し、古河城(二泊目)、宇都宮城(三泊目)、そして東照宮に至りました。 帰路は一部、日光壬生街道を通行しました。
将軍通行の際、町屋では主人や男共は軒下に土下座し、女子供は店先に座ってお辞儀をするのが決りでした。 これが庶民にとっては甚だ、窮屈極まりない、そこで表戸を閉めて貸家の札を貼り、出かけてしまった者もいたと言います。 旧岡泉村に入ると隼人堀川に架かる往還橋を渡ります、この流れの上流には義理橋が架橋されています。
将軍自らの日光社参は莫大な費用がかかる為、財政上の都合からその回数は限られていました。 ● 二代秀忠は将軍の時に3回、大御所になって1回 ● 三代家光は世子の時に1回、将軍になって9回 ● 四代家綱は世子の時に1回、将軍になって1回 ↓ 80年間の空白 ● 八代将軍吉宗が1回 ● 十代将軍家治が1回 ● 十二代将軍家慶が1回、これが最後でした。 この最後の将軍社参から24年後、徳川幕府は崩壊しました。
この「日光御成道」は本郷追分から幸手追分までの12里30町(実測47.5km)。 サア、将軍家ゆかりの旧跡を訪ねる「日光御成道ウォーク」に出かけましょう。 日光御成道マップ刊行しました、ご利用下さい。
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