古代の奥州道中 |
奥州道中は陸奥(みちのく)を貫き現在の青森に至る日本一長い街道です。
古代、陸奥(むつ)は「道の奥(おく)の國」と呼ばれ、今の青森、岩手、宮城、福島を包括する広さでした。
つまり陸奥とは陸の奥の國であり、そこに至る街道は東山道(後の中山道)より、さらに奥の道だったのです。
「白河以北ひと山百文」と云われました。
五街道の制定 |
徳川家康は慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に勝利し、天下人となり「五街道」の整備に順次着手し、奥州道中は慶長七年(1602)から取り掛かりました。
但し、五街道に制定された奥州道中は青森迄ではなく、下野國白河迄です。
五街道は幕府の道中奉行(現在の国道であり道中奉行は正に国土交通省です)が直接、管轄した街道なのです。
日光道中(黄色) 甲州道中(オレンジ色) 追分 |
従って、白河以北の街道は仙台藩、南部藩が管轄、整備した奥州道中なのです。
江戸時代、日本全国を測量して歩いた伊能忠敬はこの管轄の違う諸国を踏破したのですから、それこそ多くの苦労があったに違いありません。
家康の死後,その亡骸が日光に移されてからは江戸日本橋から宇都宮間は「日光道中」と呼ばれるようになりました。
奥州道中は日本橋から宇都宮迄は日光道中を踏襲します。
宇都宮から白河間を奥州道中と呼ぶようになりました。
戊辰戦争 |
白河口 戦死墓 |
幕末の慶応四年(1868)、西国雄藩は尊王攘夷を旗印に倒幕の兵を挙げ「戊辰戦争」が始まりました。
時の将軍徳川慶喜は大政を朝廷に奉還し、江戸城を無血開城、自身は上野寛永寺に恭順しました。
この時代の大きな流れに乗り切れなかった、東北諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成し、官軍に対抗しました。
官軍は奥州道中を北上し朝敵(賊軍)となった奥羽諸列藩と激しい戦闘と繰り返し、次々に平定しました。
奥州道中には「戊辰戦役の碑」が多数見ることができます。
行 程 |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | ||||||||||||
宿 名 |
宇 都 宮 |
─ | 白 沢 |
─ | 氏 家 |
─ | 喜 連 川 |
─ | 佐 久 山 |
─ | 大 田 原 |
─ | 鍋 掛 |
─ | 越 堀 |
─ |
芦 野 |
─ | 白 坂 |
─ | 白 河 |
宿 間 km |
11 ・ 0 |
6 ・ 9 |
7 ・ 6 |
11 ・ 7 |
6 ・ 9 |
12 ・ 3 |
→ | 8 ・ 7 |
12 ・ 1 |
9 ・ 5 |
|||||||||||
総 距離 |
┠ | 86.7km | ┨ | ||||||||||||||||||
30km 行程 |
┠ | @ 25.5km | ╂ | A 30.9km | ╂ | B 30.3km | ┨ | ||||||||||||||
40km 行程 |
┠ | @ 44.1km | ╂ | A 42.6km | ┨ |
奥州道中十次は宇都宮から白河迄
宿村大概帳 二十一里十八町十四間半
実 測 86.7km(縮尺地図をトレースした数値です)
サア人情深い奥州街道、どの様な行程で歩きましょうか。
この度、山と渓谷社から
● ちゃんと歩ける 日光街道 奥州街道 五街道ウォーク 八木牧夫著
が出版されました。
「奥州街道ウォーク」にご活用下さい。
「奥州道中ウォーキング」の記録です、マップと照らし合わせてお読み下さい。 |