善光寺は一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、創建千四百年の古刹です。
本尊は「生身(しょうしん)の阿弥陀如来」欽明天皇十三年(552)百済の聖明王から送られた三尊仏。
折りしも 中臣・物部両氏と蘇我氏との間で信仰を巡る争いになり この仏像は難波の堀江に投げ込まれてしまいました
推古天皇十年(642)信濃国伊奈郡麻績(おみ)の本田善光(よしみつ)が水中から光を発している三尊仏を発見し、故郷に持ち帰えり安置したことを始まりとしています。
戦国時代、本尊は武田信玄により甲府に移され、その後時の権力者によって岐阜や浜松、京等と6回も処々転々とするも43年後の慶長三年(1598)善光寺に戻りました。
家康は寺領千両を善光寺に与え厚く擁護しました。
善光寺は阿弥陀信仰の聖地であり極楽往生を願う人々にとって一生に一度は参りたい寺としてその名を馳せました。
そして善光寺は「女人救済」を唱えたため、女性の信仰が厚く、参詣者の半数を占めていたと言います。
女性達は縁故のものを募って参詣講を組織しました。
「一生に一度は善光寺詣り」と云われ、街道は物見遊山の男女の参詣客で賑わいました。
男供は参詣後「精進おとし」と称して権藤町の遊郭に繰り出しました、相変わらずですネ。
この言葉を聞きますと、牛が引く荷車に乗って、のどかに善光寺参りをする光景を想像してしまいます。
ところがこれには全く違う伝説があるのです。
小諸の西に布引観音が鎮座しています、ある時、信仰心がなく強欲な老婆が千曲川に織布を晒していると、観音が牛に化身し、その布を角に引っかけて走り去りました。
老婆はその牛を追い、気が付けば善光寺にたどり付いていました。
そこで姿を消した牛の代わりに お堂に現れた観音が不信心を諭し、それ以後、老婆は改悛 し、情け深い人間として長生きしたと言います。
弘化四年三月二十四日(1847年5月8日)折りから善光寺は七年に一度の善光寺如来ご開帳の最中でした。
諸国津々浦々から参拝の善男善女が集まり、その人数は七千人とも一万人とも謂われ旅籠は満杯状況でした。
夜、四ツ時頃(午後十時頃)大地震が発生、家屋は倒壊しやがて火の海となり参拝客の生存者は一割前後と謂われています。
寺は本堂、三門、経堂、鐘楼を残し焼失してしまいました。
周辺では山崩れが多発し多くの人々を埋め尽くしてしまいました。
中でも虚空蔵山(岩倉山)の崩壊は最大であり、土砂は犀川を堰き止めてしまいました。
二十日後この堰は決壊し、大洪水が発生、日本災害史上稀な二次災害をもたらしました。
松代藩主真田幸貫はこの震災を絵師の青木雪卿に描かせました。
これらの絵は長野市松代「真田宝物館」に所蔵されています。
現在、国の重要文化財である「三門」は約四十年に一度行われる屋根の葺き替え工事中です、平成19年12月お披露目予定だそうです。
屋根は椹(さわら)の木の板を重ねた栩葺(とらぶき)が復元されています。
葺き替えは檜の皮を用います、木曽の国有林から調達とのことです。
二層の屋根からなる三門は寛延三年(1750)の建立、 悟りを開くまでに通らなければならない三つの門を表してます。
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東、中山道と善光寺街道の追分 |
江戸方面からは中山道追分宿外れの「分去れ」から善光寺街道に入ります。
小諸や上田の城下町を通過し、千曲川や犀川の大河を渡り善光寺にいたる道筋です。
京方面からは同じく中山道洗馬宿から善光寺西街道に入りました。
善光寺西街道は松本の城下町を通過し、篠ノ井の追分で善光寺街道に合流します。
東山道(江戸期に中山道と改称)自体この善光寺参りと共に発展したと謂われています。
サア、善光寺参りに出かけてみましょうか。
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行
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72.4km |
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@31.1km |
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A41.3km |
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@23.1km |
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A23.1km |
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B26.2km |
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善光寺街道の行程は中山道追分宿「分去れ」から善光寺仁王門迄です。
宿村大概帳 十八里参十町
実 測 72.4km
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64.8km |
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@32.3km |
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@21.4km |
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A21.1km |
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B22.3km |
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善光寺西街道の行程は篠ノ井追分から中山道洗馬宿追分迄です。
宿村大概帳 十五里十二町
実 測 64.8km
善光寺街道は千曲川沿いの道筋です、千曲川に覆い被(かぶ)さる断崖等の景観はスペクタクルそのものです。
海野宿は中山道馬籠宿や東海道関宿と同様に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、用水堀を残した宿並を今日に伝えています。
善光寺西街道には我々街道ウォーカーのアイドルである「峠」が四つもあります。
「善光寺街道ウォーク」は魅力満載です、サアどの様な行程で歩きましょうか。
この度、山と渓谷社から「● ちゃんと歩ける伊勢参宮道・善光寺街道 五街道ウォーク 八木牧夫著」が出版されました。
善光寺街道ウォークにご活用下されば幸です。
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善光寺街道ウォークの記録です、マップと照らし合わせてお読み下さい。 |
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