道中日記 2-139 日光御成道 ( 本郷追分 - 東川口 ) 20.1km |
日光御成道は歴代徳川将軍が神君家康公の命日(四月十七日)に、日光東照宮を社参する際に通行した街道です。
将軍は参勤の諸大名のように、各宿場の本陣に宿泊するわけには参りません、警護の整った城を宿所としました。
日光道中には古河まで城がありません、そこで岩槻城が控える岩槻街道が御成道となりました。
日光御成道は幸手で日光道中に合流します、将軍は古河城そして宇都宮城に宿泊し日光東照宮に入りました。
帰路は一時期宇都宮城に泊まらず、今市追分から日光壬生通りに入り壬生城を宿城としました。
歴代将軍の日光社参は十九回行われました。
しかしこの慣例に終止符を打った立役者の一人が薩摩の西郷隆盛です。
これも何かの縁と、メンバーは上野駅に集合し、上野山にお参りです。
南州翁の傍らには賊軍となった幕臣彰義隊の墓もあります、縁の塊です。
不忍池を回り込み一路、日光御成道の起点本郷追分に向かいます。
平成17年07月18日 AM9:08 本郷追分出立 岩淵宿まで9.4km |
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東京大学農学部前の信号交差点が本郷追分です、最寄り駅は東京メトロ南北線東大前駅です。
中山道は左折(黄色矢印)します、日光御成道は直進(白色矢印)です、それでは出立です!
本郷追分は森川宿追分とも呼ばれました、 ここには中山道を警備した先手組頭森川金右衛門の屋敷があり、立場があったところから森川宿と呼ばれました。
この本郷追分の左手にある高崎屋は宝暦年間(1751〜63)創業で今に続く酒屋です、酒、味噌、醤油の問屋で両替商を兼ね「現金安売り」で繁昌した老舗大店(おおだな)です、現在の建物は明治七年(1874)の建築です。 |
本郷追分 |
高崎屋 |
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高崎屋の脇に追分一里塚跡解説があります、塚木は榎でした、この一里塚は度々の災害と道路の拡張によって消滅しました。
江戸日本橋より数えて一里目です、そして日光御成道の一里塚の起点です。
本郷追分の右手の東京大学農学部は水戸藩中屋敷跡です、校内に朱舜水先生終焉之地碑があります。
朱舜水(しゅしゅんすい)は明から亡命した儒学者で寛文五年(1665)水戸徳川家二代藩主光圀(みつくに)に招かれ、独自の古学による古今の儀礼を伝授し、水戸学思想に大きな影響を与えました。 |
追分の一里塚跡 |
水戸藩中屋敷跡 |
朱舜水終焉碑 |
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わずかに進むと左手に岩槻街道標識があります、日光社参の将軍は岩槻城を宿城とし、翌日幸手追分で日光道中に合流しました、日光御成道のうち、岩槻迄を岩槻街道とも呼びます。
次いで左手に近代的な造りに変貌した真宗大谷派の興龍山西善寺(さいぜんじ)があります、元和二年(1616)の創建です。
墓地の左手奥に近藤重蔵の墓があります、幕臣の重蔵は江戸時代後期の北方探検家で四度樺太、千島、利尻を視察し、択捉(えとろふ)島に大日本恵土呂府の碑を建てました。
文政十二年(1829)死去、享年五十九歳でした。 |
岩槻街道 |
西善寺 |
近藤重蔵の墓 |
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西善寺の向いに日蓮宗の覚性山浩妙寺(こうみょうじ)があります、寛永五年(1628)の創建です。
下総高岡藩初代藩主で、江戸幕府大目付を勤めた井上政重の正室浩妙院(太田重正の娘)が父母の菩提を弔うために、太田家の屋敷内に持仏堂を建てたのが始まりです。
境内の七面堂には日蓮宗法華経の守護神で火防守護でもある七面大明神を祀っています。
西善寺の並びに浄土宗の親禄山龍池院正行寺(しょうぎょうじ)があります、慶長九年(1604)の創建です、境内の地蔵堂にはとうがらし地蔵が安置されています。 |
浩妙寺七面堂 |
正行寺地蔵堂 |
とうがらし地蔵 |
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元禄十五年(1702)造立のとうがらし地蔵は咳の病に霊験あらたかなことで知られています。
この地蔵尊を造立した僧がとうがらし酒を好んだところから、唐がらしを供えて諸願成就を願うようになりました。
往時、この辺りは植木屋が多かったところから小苗木(こなえぎ)縄手と呼ばれ、いつしか転訛しうなぎ縄手と呼ばれるようになりました。
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わずかに進み向丘一丁目交差点を右折し、根津裏門坂を下ると右手に根津神社が鎮座しています、根津権現とも称されました。
日本武尊が千駄木の地に創祀し、文明年間(1469〜87)太田道灌が社殿を奉建しました。
宝永二年(1705)徳川五代将軍綱吉は兄綱重の子綱豊(徳川六代将軍家宣)を養嗣子(ようしし)に定めると、この地にあった甲府藩邸で綱豊が生まれたところから根津神社を産土神としました。
翌年、権現造りの本殿、幣殿、拝殿、銅燈籠、唐門、西門、透塀(すきべい)、楼門を造営しました(いずれも国重要文化財です)。 |
根津神社楼門 |
根津神社唐門 |
根津神社社殿 |
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根津神社はツツジの名所としても知られ、約百種、三千株のツツジが例年四月上旬頃から見ごろを迎え、つつじまつりが開催されます。
街道に戻り、わずかに進むと右手に浄土宗の湯オ山常光院浄心寺があります、元和二年(1616)の創建です。
江戸三十三観音霊場十番札所で札所本尊の十一面観世音菩薩像は子育て桜観音と呼ばれています。
参道口には巨大な布袋立像が安置されています、七福神の福徳開運の守護神です。 |
根津神社境内のツツジ |
浄心寺布袋像 |
浄心寺 |
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浄心寺の並びに日蓮宗の高耀山長元寺があります、寛永四年(1627)の創建です。
五代目加賀藩主前田吉徳の母随玄院が開基し、加賀藩前田家の江戸の菩提寺としました。
わずかに進み歩車分離式交差点を右に入ると左手に真宗大谷派の一向山専西寺(せんさいじ)があります、承元元年(1207)の創建です。
開山の専西坊は源義家の末裔です、親鸞聖人に師事し、鎌倉雪ノ下で一向山専西坊と称する草庵を結んだのが始まりです。 |
長元寺 |
専西寺 |
十方寺 |
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街道に戻ると右手に浄土宗の浄土山正覚院十方寺(じっぽうじ)があります、元和元年(1615)根津の地に開山されましたが寛文二年(1662)現在地に移転しました。
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先に進むと駒本小学校前交差点の左手に浄土宗の地久山仙寿院天栄寺(てんえいじ)があります、元和三年(1617)僧天輪によって開山されました。
天輪は俗名を多門主膳重吉といい、大坂の陣で徳川方として功を挙げ、江戸に出ると戦のない世の中を仏教の教えによって築くため出家し当寺を創建しました。
天栄寺の参道口に史蹟文化財駒込土物店(つちものだな)跡碑と江戸三大青物市場遺跡碑があります。
元和年間(1615〜1624)近郊の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、天栄寺境内のさいかちの木の下で毎朝休むのが通例でした、すると附近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが起りといいます。 |
天栄寺 |
駒込土物店跡 |
青物市場跡 |
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大根、人参、牛蒡(ごぼう)など土のついたままの野菜である土物が取り引きされ土物店といわれました、後に駒込青物市場へと発展しました。
駒込青物市場は神田、千住と共に江戸三大青物市場の一つで幕府の御用市場でした。
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駒本小学校前交差点を右に入り、右手の駒本小学校の並びに曹洞宗の金峰山高林寺があります、慶長元年(1596)当初神田の地に創建され、境内に湧く清泉を将軍に「お茶用の水」として献上したところがお茶の水の地名由来になっています。
明暦三年(1657)の明暦の大火(振袖火事)で焼失し、現在地に移転しました。
墓地の中央に江戸末期の蘭学者で医者の緒方洪庵の墓(文京区指定史跡)があります。
洪庵は備中の生まれで大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保九年(1838)大坂で適塾を開き大村益次郎、福沢諭吉等を輩出しました。 |
高林寺 |
緒方洪庵の墓標識 |
緒方洪庵の墓 |
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後に幕府の奥医師として招かれ、翌年の文久三年(1863)に病没しました、享年五十四歳でした。
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街道に戻り、先に進むと左手に浄土宗の東光山見生院定泉寺(じょうせんじ)があります、元和七年(1621)旗本蜂屋善遠が本郷弓町の太田道灌の矢場跡の土地を幕府から拝領し創建しました。
明暦三年(1657)の明暦の大火(振袖火事)後に現在地に移転しました。
江戸三十三観音第九番札所で、札所本尊は十一面観音菩薩です。
境内口左手の地蔵堂に夢現(むげん)地蔵菩薩立像が安置されています。 |
定泉寺 |
地蔵堂 |
夢現地蔵菩薩 |
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貞享二年(1685)檀信徒であった根津に住む村井家当主が、夢のお告げを得て床下より地蔵菩薩像を掘りあて、これを定泉寺に奉納しました。
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わずかに進むと左手に天台宗の大聖山東朝院南谷寺(なんこくじ)があります、元和元年(1616)比叡山の南谷にいた僧による開基です。
境内の不動堂に安置されている目赤不動尊は関東三十六不動第十三番札所本尊で江戸五色不動(目白、目黒、目黄、目青)の一つです。
目赤不動尊はもと動坂にあったが寛永年間(1624〜44)徳川三代将軍家光が鷹狩りの途中立寄り目黒、目白に対して目赤不動尊と命名し、寺を現在地に移しました。
不動明王は大日如来に仕え悪をこらしめる使者で剣を持ち、怒りに燃えた形相をしています。 |
南谷寺 |
目赤不動堂 |
目赤不動尊 |
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続いて曹洞宗の繁栄山福寿院養昌寺(ようしょうじ)があります、墓地に半井桃水(なからいとうすい)の墓があります。
桃水は万延元年(1860)対馬に生まれ、共立学舎で学び、新聞小説作家として活躍し、樋口一葉の師として、また一葉の思慕の人としても知られています。
先に進むと右手に曹洞宗の諏訪山吉祥寺(きちじょうじ)があります、長禄二年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から吉祥の金印を発見し、城内に堂宇を設け、吉祥寺と称したのが始まりです、山門は享和二年(1802)の再建です。 |
養昌寺 |
半井桃水の墓 |
吉祥寺山門 |
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明暦三年(1657)の明暦の大火(振袖火事)後に現在地に七堂伽藍を造営し移転しました。
吉祥寺には栴檀林(せんだんりん)という曹洞宗の学問所があり常時千人の学僧がいました。
山門をくぐって進むと左手に茗荷稲荷が鎮座しています、痔病の根治に霊験あらたかで、茗荷を断って心願しました。
次いで左手にお七吉三郎比翼塚があります、駒込片町の大店であった八百屋の娘お七は天和の大火(1682)で焼け出され、菩提寺の円乗寺に避難すると、寺小姓の山田吉三郎と恋仲になりました。 |
吉祥寺 |
茗荷稲荷 |
比翼塚 |
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再建された家に戻ってからも吉三郎に会いたさ一心で、家が火事なれば再会できると盲信し、放火をしてしまった。
火付けの大罪で捕らえられたお七は、天和三年(1684)鈴ケ森の刑場で火あぶりの刑に処せられ、刑場の露と消えました、数えで十六歳でした。
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比翼塚の並びに享保七年(1722)造立の青銅釈迦如来坐像が安置されています、神田鍛冶町鑄物師河合兵部永田喜右衛門の手によるものです。
更に進むと左手に二宮尊徳の墓碑があります、江戸末期の農政家で小田原藩領下野國桜町の荒廃を復興し、天保十三年(1842)幕府普請役格となり、日光神領の復興に尽力しました。
安政三年(1856)下野國今市の報徳役所で病没しました、享年七十歳でした。
比翼塚から右の墓地に入ると奥に榎本武揚の墓があります、天保七年(1836)江戸で生まれ、幕臣でオランダ留学後海軍副総裁となりました。 |
釈迦如来坐像 |
二宮尊徳の墓碑 |
榎本武揚の墓 |
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戊辰戦争では幕府海軍を率いて凾館五稜郭で政府軍に抵抗したものの、明治新政府に招かれ要職を歴任し、子爵となり明治四十一年(1908)腎臓病で死去しました、享年七十三歳でした。
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街道に戻って、先に進み文京九中入口交差点を越し、左手の天然寺を横目で見て富士神社入口交差点を右折すると左手に駒込富士神社が鎮座しています。
元は本郷村に鎮座していましたが、寛永六年(1629)加賀藩前田侯が上屋敷をこの地に賜ると、現在地の前方後円墳上に遷座しました。
富士神社は氏子を持たず富士講組織で成り立ち、山嶽信仰として近世中期頃から江戸市民の間に富士講が盛んになりました。
境内の御神木のカヤは樹高約20mで文京区保護樹木です。 |
駒込富士神社 |
駒込富士神社社殿 |
御神木のカヤ |
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初夢で知られる「一富士二鷹三茄子」は、近くに鷹匠屋敷があり、駒込茄子の名産地であったところに由来しています。
川柳に縁起物として「駒込は一富士二鷹三茄子」と詠まれています。
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富士神社入口交差点の左手に曹洞宗の見海山江岸寺(こうがんじ)があります、慶長元年(1596)鳥居忠政の開基で、鳥居家の江戸の菩提寺です。
参道口には地蔵立像が安置されています。
墓地には鳥居忠政の供養塔があります、忠政の父元忠は関ケ原合戦の前哨戦となった伏見城の戦いで奮戦し、西軍の進攻をくい止め十分に時をかせぎ、討ち死にしました。
その忠節は三河武士の鑑と称され、血染めの畳は忠義の証として江戸城伏見櫓に保管されました。 |
江岸寺地蔵尊 |
江岸寺 |
鳥居忠政供養塔 |
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上富士前交差点を越すと左手のファミリーマート前に六義園案内標識があります、ここを左に入ると右手に六義園(りくぎえん)があります。
徳川五代将軍綱吉の寵臣柳沢吉保(大老格の側用人)の下屋敷跡です。
元禄八年(1695)加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領し、吉保が七年の歳月をかけて完成させた回遊式築山泉水庭園(国指定特別名勝)は小石川後楽園と共に江戸二大庭園の一つです。
元禄四年(1691)将軍綱吉が柳沢邸へ初お成りし、以降お成りは五十八回にも及び、周辺の民家は役人の詰所となりました。 |
六義園入口 |
六義園 |
六義園庭園 |
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元禄十四年(1701)三月、芸州赤穂藩主浅野内匠頭は殿中松の廊下にて吉良上野介に刃傷に及び即日切腹を命ぜられ、浅野家は所領の播州赤穂を没収の上改易となりましたが、上野介には咎めはありませんでした。
翌年十二月、この仕置きに反発した赤穂浪士四十七名は本所吉良邸に討ち入り、上野介を討ち果たし、見事本懐を遂げ、後に全員切腹に処せられました。
これらの裁きの全てはこのコンビのコラボレーションです。
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六義園を後にして先に進み、JR山手線、JR湘南新宿ラインを駒込橋にて跨ぎます。
渡詰めの左手に大國神社(だいこくじんじゃ)が鎮座しています、祭神は大己貴命(大國主命)で天明三年(1783)の創建です。
徳川家斉が将軍職に就く前に当社に参詣し、後に第十一代将軍となったところから出世大黒とも称されました。
又、幕末の町火消の頭(侠客)であった新門辰五郎の崇敬も篤かったといいます。
右手に東京メトロ南北線駒込駅北口があります。 |
駒込橋 |
大國神社 |
旧駒込橋 |
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この北口前に大正十二年(1923)に架橋された旧駒込橋の欄干が移設されています、現在の駒込橋は平成三年(1991)の架橋です。
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街道が斜め右に曲がる手前の右手に駒込妙義坂子育地蔵尊があります、 寛文八年(1668)駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵堂を建て子育地蔵尊を安置しました。
以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれ、二十四日の縁日には露店が出て、賑わいました。
向かいに妙義神社参道近道入口標柱があります、踏み込む(黄色矢印)と妙義神社が鎮座しています。
日本武尊が東征の折に陣を構えたところで、白雉二年(651)社が建てられ、 白鳥社と称したといいます、豊島区最古の神社です。 |
子育地蔵尊 |
妙義神社参道近道 |
妙義神社 |
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妙義神社の境内に太田道灌霊社が祀られています、太田道灌が三度の戦の前に妙義神社に戦勝を祈願し、いずれの戦にも勝利したところから妙義神社は戦勝の宮とも呼ばれました。
太田道灌霊社脇に寛永十九年(1642)建立の庚申塔があります、昭和四十年(1965)妙義神社の復興工事が行われた際に境内から出土しました。
街道に戻り霜降橋交差点、次いで信号交差点を越すと左手の滝野川小学校バス停の手前にことぶき地蔵堂跡解説があります。
昭和二十八年(1958)無量寺の子育て地蔵尊を遷座させ、交通安全地蔵としました。 |
太田道灌霊社 |
庚申塔 |
旧ことぶき地蔵尊 |
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平成二十七年(2015)役目を果たし、無量寺の門前に再び遷座されました。
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左手の旧古賀庭園の石垣に沿う上り坂が大炊介(おおいのすけ)坂です、この地に中世の武将保坂大炊介の邸がありました。
坂の上の平塚神社にちなんで宮坂とも、又樹木に覆われていたので暗闇坂とも呼ばれました。
西ケ原交差点が逆Y字路になっています、幸手方面からは右に進みます。
西ケ原交差点を道なりに左(白色矢印)に回り込むと左手に旧古賀庭園(国指定名勝)があります、陸奥宗光の別宅でしたが、次男潤吉(じゅんきち)が古川財閥創始者古河市兵衛の養子(古河家二代目当主)になると、古河家の邸となりました。 |
大炊介坂 |
西ケ原分岐 |
旧古賀邸 |
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平塚神社前交差点の手前を左に踏み込むと真言宗の仏宝山西光院無量寺があります、行基の開山です。
元は長福寺と称しましたが、徳川九代将軍家重の幼名長福丸と同じため、遠慮し無量寺と改称しました。
当寺は江戸六阿弥陀三番で、彼岸は一日で六ケ寺を巡る人々で賑わい「六つに出て六つに帰る六阿弥陀」と詠われました。
街道に戻り平塚神社前交差点を右に入ると右手に真言宗豊山派平塚山安楽院城官寺があります、本尊は阿弥陀如来です。 |
無量寺 |
城官寺山門 |
城官寺 |
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徳川三代将軍家光が病で倒れると、近習の針医山川城官貞久が平塚明神に日夜治癒を祈願すると家光の病は平癒しました、寛永十一年(1634)貞久は私財を投じて平塚神社を再建し、城官寺を別当寺として再興しました。
当寺には徳川家の侍医を勤めた多紀桂山(たきけいざん)一族の墓があります。
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一旦城官寺への右折点に戻り、更に進むと左手に平塚神社が鎮座しています、源義家が奥州征伐の凱旋途中、この地の領主豊島近義より手厚いもてなしを受け、礼に鎧一領を下賜しました。
近義は拝領した鎧を埋め平塚を築き城館の鎮守としました、更に社殿を建立し義家、義綱、義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀りました。
街道に戻って、先に進むと東京メトロ南北線西ケ原駅の先に西ケ原の一里塚の両塚を残しています(国史跡)、江戸日本橋より数えて二里、本郷追分からは一里目です。 |
平塚神社 |
西ケ原の一里塚南塚 |
北塚 |
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大正の世になると西ケ原の一里塚は東京市電の軌道延長路線上に位置するため撤去が決定しましたが、飛鳥山に居を構える渋沢栄一等が反対活動に尽力し、保存されました。
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西ケ原の一里塚の北塚脇に一の鳥居があります、踏み込むと七社神社が鎮座しています、応神天皇等七神を祀っています、西ケ原村の鎮守です。
元は無量寺の境内(現在の古河庭園内)に鎮座していましたが、明治初年の神仏分離により現在地へ遷座しました。
街道に戻って進むと一里塚交差点先の右手に六石坂碑があります、東京府村誌に「長さ二十四間 広さ三間 元と坂上に租六石を納る水田あり故に云ふ」と著されています。
付近には鷹狩に来た将軍の休み場としての御立場(おたちば)がありました。 |
七社神社 |
七社神社社殿 |
六石坂 |
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右手一帯が飛鳥山です、徳川八代将軍吉宗の命により桜が植樹され桜の名所となりました。
桜の名所としては上野山が有名でしたが、将軍家のお膝元では恐れ多いと、江戸庶民は飛鳥山に繰り出し、大いにハメを外したといいます。
飛鳥山公園の南側一帯は渋沢栄一の邸跡です、明治三十四年(1901)から昭和六年(1931)に亡くなるまでの三十年余りをこの邸で過しました。
飛鳥山を右に回り込むように進むと飛鳥大坂碑があります、東京府村誌に「飛鳥山坂、本村(滝野川村)にあり飛鳥橋の方に下る長さ一町十二間三尺、広さ三間、坂勢急なり」と記されています。 |
飛鳥山 |
旧渋沢家飛鳥山邸 |
飛鳥大坂 |
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今はきわめて緩やかな勾配ですが、往時は難所で、荷車の後を押して手間賃を稼ぐ者がいました。
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音羽橋交差点を左に見て飛鳥山に沿って右に回り込みます。
左手のJR線高架に沿う細道が旧道(白色矢印)ですが、明治通りの横断は不可です。
JR線ガードを一旦くぐり、王子駅前歩道橋にて迂回します。
Uターンして戻り、JR線ガードを再びくぐり、右手のJR線高架沿いの細道(白色矢印)に入ります。
森下商店街通りが旧道です。 |
音羽橋分岐 |
旧道口 |
迂回路 |
旧道復帰 |
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スグの音無川は石神井川の旧流路です、石神井川は小平市の東部に源を発し、流末は隅田川に落合います。
旧道は直進しますが、音無川の渡詰め一本先を左に踏み込むと左手に厚焼き玉子で有名な扇屋があります、慶安元年(1648)創業の料理屋で、落語王子の狐に登場する老舗です。
メス狐が美女に化けるのを見た男が化かされた振りをして、美女と扇屋にあがり、飲めや喰えやの大騒ぎ。
狐が酔い潰れると、男は勘定をせずにとっとと帰ってしまう、酔いからさめた狐は正体がバレて袋叩きにあってしまった。
翌日、狐の祟りを恐れた男は遊んでいる子狐に「昨夜は悪いことをした、謝っといてくれ」とぼた餅を渡す。 |
音無川 |
扇屋 |
すると子狐は母狐に「食べてもいいかい」と聞くと、母狐は「いけないよ、馬の糞かもしれない」。
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更に進むと音無川が親水公園になっています、往時から春の桜、夏の青楓と滝浴び、秋の紅葉など四季の行楽の名所、景勝の地でした。
木造の音無橋向いの擁壁に沿う石段を上ると王子神社のイチョウがあります、高さ23.2m、幹囲5.2mで推定樹齢六百年です(東京都天然記念物)。
更に上ると王子神社が鎮座しています、元亨二年(1322)領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を勧請し、これが王子の地名由来になりました。
徳川家康は天正十九年(1591)朱印地二百石を寄進し、将軍家祈願所と定めました、以来王子権現と呼ばれ江戸名所となりました。 |
音無親水公園 |
大イチョウ |
王子神社 |
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境内には太田道灌雨宿りの椎(シイ)と呼ばれる御神木がありましたが戦災で焼失しました。
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旧道に戻って先に進み、信号交差点を左折し(白色矢印)、一本目を右折します。
この分岐点には三本杉橋親柱(白色□囲み)があります、上郷用水に架橋されていました。
この分岐点を直進(黄色矢印)してみましょう。
先に進むと左手に王子稲荷神社が鎮座しています、関八州の稲荷惣社です。
徳川二代将軍秀忠が宥養上人を招き金輪寺を王子稲荷神社、王子神社の別当寺と定めると広く知られるようになりました。 |
王子大坂下分岐 |
三本杉橋跡 |
王子稲荷神社 |
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社殿は段上に鎮座しています。
大晦日の夜、関東一円の狐が詣でました。
この様子を歌川広重は名所江戸百景に王子装束ゑの木大晦日の狐火として描いています、毎年、大晦日の夜、社の東にある古榎の下に集まった狐達はここで装束を整えて王子稲荷社に詣でました。
近郷の農家は狐がともす狐火の数で、新年の収穫の豊凶を占いました。
天保十一年(1840)に奉納された額面着色鬼女図は国認定重要美術品です。 |
王子稲荷神社 |
王子装束ゑの木 |
額面着色鬼女図 |
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王子稲荷神社の並びに真言宗霊雲寺派の王子山金輪寺(きんりんじ)があります。
平安時代の康平年間(1058〜 65)源義家が前九年の役で勝利を納め、凱旋した折に甲冑を奉納し、敵方の安倍氏の冥福を祈る祈願所を創建したのが始まりです。
その後、荒廃しましたが徳川二代将軍秀忠の命で再興され、王子神社、王子稲荷神社の別当寺となり、歴代将軍の御膳所(休息所)を勤める格式ある寺院となりました。
明治時代の神仏分離令により廃寺となりましたが、明治三十六年(1903)再興されました。
墓地に王子村の名主を勤めた畑野孫八の墓があります。 |
金輪寺 |
名主畑野孫八墓 |
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次いで左手に名主の滝公園があります、安政年間(1854〜60)王子村の名主畑野孫八が自邸に滝を開き、一般に開放したのが始まりです。
園内は回遊式の庭園となっており、男滝(おだき)、女滝(めだき)、独鈷の滝(どっこのたき)、湧玉の滝(ゆうぎょくのたき)で構成されています。
それでは旧道に戻りましょう、王子稲荷神社脇の上り坂は王子稲荷の坂です、この坂を上ると日光御成道の王子大坂の上り詰に落合います。
更に進むと姥ケ橋を経て、蓮沼村で中山道に落合います、中山道方面からの王子稲荷神社への参詣道でした。 |
名主の滝公園 |
男滝 |
王子稲荷の坂 |
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信号交差点まで戻り一本目を右折(白色矢印)します、この分岐点の左手には王子子育地蔵尊(白色□囲い)が安置されています。
戦災で火を浴びた為、像の表面が剥離し、造立年等は不明です。
子育商売繁昌の地蔵尊として信仰され、毎月四の日の縁日には参拝する者が夥しく、露店が出るほどに賑わいました。
坂を上ると右手に王子大坂標柱があります、上り口に子育地蔵があるところから地蔵坂とも呼ばれ、坂の地形が海鳥の善知鳥(うとう)の嘴のようなところからうとう坂の名もあります。 |
王子大坂分岐 |
王子子育地蔵尊 |
王子大坂 |
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王子大坂を上り、左手のたねや榎本徳次郎商店脇にあった名残り杉は伐採され切株を残しています、一本目右の下り坂は王子稲荷の坂です、ここを下っても王子稲荷神社、金輪寺、名主の滝に行けます。
スグ先で都道455号線に合流します(白色矢印)、幸手方面からは王子本町二丁目交差点先を斜め左に入ります。
先の中十条一丁目歩道橋のY字路を右(白色矢印)に入り、十条台小学校前を進みます。
先に進むと右手の小林畳店の敷地内に昭和甲戌(きのえいぬ)年建立の庚申塔があります。 |
王子大坂上分岐 |
中十条一丁目分岐 |
庚申塔 |
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街道の左側が拡幅されています、左手の黒松が真言宗智山派の十條山東光院地福寺です、康平年間(1058〜65)の創建です。
将軍の日光社参に際しては休息所を勤め、寛政年間(1789〜800)に寺領十二石の御朱印を拝領しました。
門前の六地蔵の内、左端の地蔵尊は鎌倉街道の地蔵様と呼ばれ、台座には三猿が施された庚申地蔵で王子三地蔵の一つです。
境内に太閤千代しだれがあります、豊臣秀吉が催した醍醐の花見の桜を現代の組織培養技術で甦らせたものです。 |
地福寺 |
鎌倉街道の地蔵様 |
太閤千代しだれ |
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中十条二丁目交差点を越し、 中十条二丁目歩道橋をくぐると左手に十条富士塚がありましたが取り崩されています。
塚上に富士浅間大神が鎮座し、毎年七月一日の富士山の山開きの日は賑わいました。
右手の中十条公園内には富士講と富士塚の解説があります。
中十条公園脇に踏み込むと真言宗の隆照山桂徳院真光寺があります。
境内の六角堂には撫(な)で仏と呼ばれるおびんずる様を安置しています。 |
十条富士神社跡 |
旧十条冨士神社 |
真光寺 |
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おびんずる様の身体を触って、その手で自分を撫でると除病平癒の功徳があるといいます。
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先に進むと右手に真言宗智山派の無量山西音寺(さいおんじ)があります、文明二年(1470)の創建で、この先に鎮座する八雲神社の別当寺です。
門前の右手に宝暦二年(1752)造立の六地蔵石幢(せきどう)、左手に宝篋印塔と寛政九年(1797)造立の子育地蔵尊立像があります。
江戸幕府昌平坂学問所が編纂した新編武蔵風土記稿に「樹下ヨリ東ノ方ヲ望メハ近郷ノ田園ヲ見ワタシ又遠クハ筑波日光ノ山々ヲ望ミテ最佳景ト云ヘシ。」と著されています。
徳川三代将軍家光は日光社参の際に、当寺で休息し、これらの景色を眺めたといいます。 |
西音寺 |
六地蔵石幢 |
子育地蔵尊 |
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わずかに進むと環七通りとの北区中十条三丁目交差点手前の左手に八雲神社が鎮座しています、寛政八年(1796)の創建です。
牛頭天王、建速須佐之男命(たけはやすなのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社で、総本社は京の八坂神社です。
境内にはかつて樹齢三百年の老杉があり、天王の一本杉と呼ばれていました。
境内の隅には三猿が陽刻された天明四年(1784)建立の庚申塔道標があります、「是より左いたばし道」と刻まれています。 |
八雲神社 |
八雲神社境内 |
庚申塔 |
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先に進み緩やかな坂を下ると左手の北区立八幡山児童公園前に清水坂標識があります。
十条の台地から稲村の低地に下る坂で、十条の長坂と呼ばれ、切通しの崖から絶えず清水が湧き出ていたところから清水坂とも呼ばれました。
JR埼京線を赤羽線(3)王子道ガードでくぐると稲付(いなつけ)村に入ります、化政期には家数が八十八軒で、地内に稲付の一里塚がありましたが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて三里、本郷追分からは二里目です。
街道は信号交差点を直進します。 |
清水坂 |
JR埼京線高架 |
法真寺題目碑 |
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この信号交差点を左に入ると左手に法真寺の南無妙法蓮華経題目碑があります。
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更に先に進むと右手の段上に香取神社が鎮座しています、稲付村の鎮守です。
本殿は徳川三代将軍家光の霊夢により、慶安三年(1650)上野東照宮の内陣を移築したもので、通行の大名は下馬をしました。
境内には稲付村の力石が七石あります、村内の力自慢の若者達が力くらべをしました。
街道に戻って先に進むと、左手の赤羽西交番脇の横道が真正寺坂です、踏み込むと左手に明和六年(1769)造立の青面金剛像道標「これよりいたばしみち」があります、中山道の板橋宿に通じています。 |
香取神社 |
力石 |
青面金剛像道標 |
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坂の途中に真正寺(廃寺)があるところから、通行する人は縁起を担いでしんしょう昇るといって勇んで上りました。
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街道に戻り、一本目を左に踏み込むと右手に稲付の餅搗唄解説があります、餅を搗(つ)く時の作業唄で、今に唄い継がれています(東京都北区指定無形民俗文化財)。
正面に真言宗智山派の妙覚山普門院があります、山門は石門に楼閣を構えています。
普門院は徳治二年(1307)の創建で、慶安二年(1649)徳川将軍家より寺領十四石二斗の朱印状を拝領しました。
街道に戻り、信号交差点先の一本目を左に入ると曹洞宗の自得山静勝寺(じょうしょうじ)があります、永正元年(1504)の創建です。 |
稲付の餅搗唄 |
普門院 |
稲付城址 |
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石段脇に稲付城跡碑があります、静勝寺一帯は戦国時代に太田道灌が築城した稲付城跡です(東京都指定文化財旧跡)。
道灌の死後、孫の資高(すけたか)は後北条氏に仕え、後北条氏滅亡後は、江戸入府した徳川家康の命により廃城となりました。
静勝寺は太田道灌の師雲綱(うんこう)和尚が城の一角に道灌を弔う堂を建立したところにはじまり、太田氏の菩提寺です。
境内の道灌堂の厨子内には元禄八年(1695)造立の木造太田道灌坐像が安置されています(東京都北区有形文化財歴史資料)。 |
静勝寺山門 |
静勝寺 |
道灌堂 |
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街道に戻って先に進み、パルロード歩道橋をくぐり、Y字路の信号交差点を右に進み、突当りの城北信用金庫前の信号交差点を右折(白色矢印)します、幸手方面からは左折になります。
スグの赤羽ガードをくぐります。
赤羽ガードのくぐり詰めを左折(白色矢印)します、幸手方面からは右折になります。
スグのホテルテトラ前のY字路を右(白色矢印)に進みます。 |
赤羽駅前分岐 |
赤羽ガード |
赤羽ガード分岐 |
テトラ前分岐 |
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突当りの宝幢院前を右折(白色矢印)します、幸手方面からは左折になります。
宝幢院の門前に元文五年(1740)建立の道標「東 川口善光寺道 日光岩付道」「西 西国冨士道板橋道」「南 江戸道」があります、宝幢院前は日光御成道と板橋道の分岐点でした。
板橋道は西国へと向かう中山道や八王子から富士山北麓の登山口へと向う冨士道に通じていました。
真言宗智山派医王山宝幢院は寛政二年(1461)の創建で、本尊は薬師如来像です。 |
宝幢院前分岐 |
宝幢院前の道標 |
宝幢院 |
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かつては浮間村西野にありましたが、荒川の氾濫による洪水を避けて赤羽に移転しました。
慶安二年(1649)徳川三代将軍家光より赤羽根村内に十石余の年貢、課役免除の朱印を拝領しました。
境内に庚申塔が二基あります、左が北区内最古の寛永十六年(1639)建立の阿弥陀如来線刻庚申塔です。
板碑型の石塔正面に阿弥陀如来立像と二猿が線刻され、山王廿一社と刻まれています。
庚申信仰と山王信仰の結びつきを表しています。
他には六地蔵、馬頭観音、出羽三山供養塔等があります。 |
庚申塔 |
阿弥陀如来線刻庚申塔 |
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赤羽交差点を越すと岩淵宿に到着です!
岩淵宿は川口の渡しを控え賑わいました、川口宿と合宿で問屋業務は月の内十六日から晦日迄を勤めました。
天保十四年(1843)の日光御成道宿村大概帳によると家数は二百二十九軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠三軒、人数は千二百五十一人で、宿長は三町三十一間(約384m)でした。
赤羽交差点を越した左手に仙甚橋の親柱を残しています、明治時代後期までここに流れがありましたが、暗渠になりました。
赤羽交差点を越した右手に真言宗智山派の薬王山大満寺があります、本尊の薬師瑠璃光如来像は行基の作といいます。 |
仙甚橋跡 |
大満寺 |
鎌倉時代初期作と伝わる不動明王像は岩淵不動尊として親しまれています。
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先の右手には浄土宗の天王山正光寺(しょうこうじ)があります、鎌倉時代に創建され、慶長七年(1602)に中興されました。
観音堂に安置されている正観音像は源頼朝の守本尊といわれ行基の作です。
宿並に戻ると右手に小山商店があります、小山酒造の酒を扱っていました。
小山(こやま)酒造は都内に唯一残る造り酒屋で、銘酒丸眞正宗の蔵元でしたが平成三十年(2018)廃業しました。 |
正光寺 |
薬師堂 |
小山商店 |
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小山酒店(廃業)並びの植栽の中に史蹟岩槻街道岩渕宿問屋場阯之碑があります。
明治十一年(1878)に小山酒造を創業した小山新七が昭和四十一年(1966)に建碑したものです。
一本目を右に入ると八雲神社が鎮座しています、岩淵宿の鎮守で、正光寺が別当寺でした。
勝海舟が川口の渡しが川留の間に描いた大幟旗(おおのぼりばた)を所蔵しています。
宿並に戻り新荒川大橋にて新河岸川、荒川を渡ります。 |
問屋場跡 |
八雲神社 |
新河岸川 |
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新河岸川は川越藩主松平信綱が河川改修し、江戸と川越を結ぶ舟運を開き、五河岸を造りました。
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次いで荒川を渡ります、荒川は甲武信ケ岳に源を発し、流末は江戸湾に注ぎます。
流れは東京都と埼玉県の境です。
川口の渡しの権利は川口宿が掌握し、常は舟渡し、将軍日光社参の際は幅三間(約5.4m)長さ六十五間(約118m)の板橋が架橋されました。
対岸の左手に真言宗智山派の平等山川口善光寺が望めます、建久八年(1197)信濃善光寺阿弥陀三尊の模造仏を本尊として創建されました、慶安二年(1649)徳川三代将軍家光より寺領十石の御朱印を拝領しました。 |
新荒川大橋 |
荒川 |
川口善光寺 |
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信濃の善光寺と同じ御利益があるとされ、江戸庶民は手軽に善光寺詣ができると大いに賑わいました。
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新荒川大橋の渡詰めを左折し、土手道を進み、スグの土手階段を下ると、川口宿に到着です!
川口の地名は荒川の河口に位置するところに由来しています、川口宿は対岸の岩淵宿と合宿で、問屋業務は月の内朔日から十五日迄を勤め、鍋釜類の鋳物業が盛んでした。
天保十四年(1843)の日光御成道宿村大概帳によると家数は二百九十五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十軒、人数は千四百六人で、宿長は十三町五十七間(約1522m)でした。
川口宿南口の左手に鎌倉橋の碑があります、船戸が原を流れていた小川に架橋されていました。 |
大橋渡詰め分岐 |
川口宿南口 |
鎌倉橋の碑 |
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ここには鎌倉と奥州を結ぶ鎌倉街道中道があり、治承四年(1180)源頼朝が挙兵すると、弟の義経は奥州平泉より馳せ参じ、この地で兵を改めました。
宿並を進むと右手に浜田接骨院があります、明治四十年(1907)の建築です。
スグ先左の砂利道に踏み込むと右手に川口宿本陣門が残されています、永瀬文左衛門が勤め、問屋、名主を兼ねました。
宿並に戻って先に進むと右手に中西日進堂薬局があります、大正時代の建築です。 |
浜田接骨院 |
川口宿本陣跡 |
中西日進堂薬局 |
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宿並はロータリーに突き当たります、ロータリー内は川口宿ミニパークになっています。
園内には日光御成道と川口宿解説と明治二十年(1887)頃の川口町概略地図が掲げられています。
足元には鍋屋の井碑があります、ここは浦和水脈の上にあたり吹き上げ井戸がありました。
大正十二年(1923)この地下水に目を付けたユニオンビール(後のサッポロビール)が進出しましたが、やがて水勢が衰えました。
歩道沿いには川口町道路元標があります。 |
川口宿北口ロータリー |
鍋屋の井 |
川口町道路元標 |
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ロータリーの右(白色矢印)が日光御成道です、左(黄色矢印)は川口神社方面です、幸手方面からは福田屋洋品店脇が川口宿北口です。
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川口神社方面に向かうと右手に旧芝崎平七邸があります、明治六年(1873)川口市最初の小学校である川口小学校が旧柴崎平七邸の離れに開校し、平七は私財を投じて学校運営に尽力しました。
現在の本町小学校の前身となりました。
先に進むと右手に川口神社が鎮座しています、川口の総鎮守です。
境内に金山神社が鎮座しています、祭神の金山彦命は鉱業、鍛冶の神で、川口で盛んな鋳物の守護神です。 |
旧芝崎平七邸 |
川口神社門 |
川口神社社殿 |
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川口宿北口に戻り、本町ロータリー歩道橋の左側(白色矢印)を進み国道122号線に合流します。
幸手方面からはY字路になります、本町ロータリー歩道橋の右側に進みます。
一本目を左折し、スグに左折すると先の右手に御成街道碑があり、並びに真言宗智山派の宝珠山地蔵院錫杖寺(しゃくじょうじ)があります、天平十二年(740)行基が地蔵菩薩像を刻み、これを本尊として草庵を結んだのが始まりです。
末寺五十三ケ寺を有する大寺院です。 |
本町ロータリー分岐 |
御成街道碑 |
錫杖寺 |
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日光社参の将軍は錫杖寺の御座所で昼餉を摂るのが習わしで、当寺には御成門があり、寺紋に葵紋が許されていました。
岩槻城主は錫杖寺で将軍を一旦出迎え、挨拶後、先に引き上げ、岩槻城での出迎えに備えました。
錫杖寺正面の十字路の左手に凱旋橋跡があります、日露戦争出征兵士の凱旋を祝し、架橋されました。
街道に戻って先に進み、芝川を上の橋にて渡ります、芝川は享保十三年(1728)見沼溜井の干拓に際し、開削されました。 |
徳川葵紋 |
凱旋橋跡 |
芝川 |
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芝川土橋が架橋され、袂に倉田河岸がありました。
芝川を渡ると元郷村に入ります。
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川口元郷一郵便局を過ぎ、信号交差点を越すと、左手に日光御成街道一里塚碑があります、元郷の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて四里、本郷追分からは三里目です。
並びに古峯(ふるみね)神社碑があります。
元郷村から十二月田(しわすだ)村に入ります、昔十二月晦日(みそか)に狐が来て杉の葉を植えたという言い伝えに由来しています、村内には稲荷社があります。
右手に旧田中家住宅(国重要文化財)があります、大正十二年(1923)築の三階建洋館と昭和十年(1935)増築の和館です。
田中家は代々徳兵衛を襲名し、麦麹味噌醸造業と材木商で財を成しました。 |
元郷の一里塚跡 |
旧田中家住宅 |
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末広交差点を過ぎると左手の薬林寺参道口に元禄十五年(1702)造立の青面金剛像庚申塔と不動堂があります。
真言宗智山派の瑠璃山薬林寺は室町時代の創建です。
天文八年(1539)建立の薬師堂に安置されている薬師如来像は岡の薬師と呼ばれ、川口三薬師(安行慈林の慈林薬師、領家光音寺の動木堂薬師)の一つです。
次いで樋爪(ひのつめ)村に入ります。 |
薬林寺庚申塔 |
薬林寺 |
岡の薬師 |
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樋爪村の村名は隣村の十二月田村の十二月晦日(しわすみそか)の前日にあたる二十九日(ひのつめ)に由来しています、この辺りは低地で蓮根、慈姑(くわい)を産しました。
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ドコモの並びの信号交差点を左に入ると朝日氷川神社が鎮座しています、天正年中(1573〜92)の創建で、樋爪村、十二月田村、前田村、二軒在家村の鎮守です、薬林寺が別当寺でした。
本殿は一間社流造りです。
社殿裏に御神木の大イチョウがあります、幹から根の一種である気根が多数垂れ下がっているところから乳銀杏と呼ばれています。
この気根と呼ばれるコブに触れると子授け、安産、母乳の出に霊験あらたかです。 |
朝日氷川神社 |
大イチョウ |
気根 |
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街道に戻り左手の川口朝日二郵便局を過ぎ、右手の木曽路、次いで左手のGS ENEOS先の信号交差点を左に踏み込むとスグの右手に小祠があります、小社と青面金剛像を安置しています。
街道に戻って先に進み 南鳩ケ谷駅交差点を右に入って先に進むと、左手に真言宗智山派の光照山無量寿院実正寺(じっしょうじ)があります、本尊は阿弥陀如来像です。
何度修復しても左手が欠けてしまうという手かけ地蔵は弘法大師の作と伝承されています。 |
小祠 |
青面金剛像庚申塔 |
実正寺 |
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境内の松の根方に寛文五年(1665)造立の阿弥陀庚申塔があります、阿弥陀如来像、三猿、二鶏が陽刻されています(川口市有形民俗文化財)。
街道に戻って先に進み、新芝川を鳩ケ谷大橋にて渡ります、新芝川は芝川の分流で、流末は荒川に落合います。
左手の東京電力鳩ケ谷変電所門の脇に昭和三年(1928)鳩ケ谷八景に選定された松原晴嵐碑があります。
この辺りは松原が見事な地でしたが、国道122号線の拡幅や土地開発で失われました。 |
阿弥陀庚申塔 |
新芝川 |
松原晴嵐碑 |
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鳩ケ谷変電所前交差点の十字路を横断し、スグの二つ目の鳩ケ谷変電所前交差点の三叉路を右(白色矢印)に進みます。
ここにあった鳩ケ谷三ツ和歩道橋は撤去されました。
この辺りは小渕村です、この地には鵜が棲息していたところから鵜渕と呼ばれ、これがいつしか小渕に転訛しました。
三ツ和T字路交差点を越し、往還の辻に由来する辻村に入ると、鳩ケ谷庁舎(西)交差点左手の中央分離帯に鳩ケ谷宿碑があります。
平成二十二年(2010)三月の建碑で「ここから北 日光御成道→ 鳩ケ谷宿」と刻まれています、しかし鳩ケ谷宿南口はマダ先です。 |
鳩ケ谷変電所前分岐 |
鳩ケ谷宿碑 |
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鳩ケ谷宿碑先の右手に紀伊殿鷹場定杭(さだめくい)跡解説があります、南の辻村や小淵村までは徳川将軍家、鳩ケ谷宿から北は御三家の紀伊徳川家の鷹場に指定されていました。
この境を示す鷹場定杭は七寸(21cm)角、高さは一丈三尺(3.9m)で、杭の周囲には囲いが施されていました。
街道を挟んだ向かいには宿村境標識「←辻村/鳩ケ谷宿→」があります。
先の押ボタン信号交差点の右は千住道です、日光道中の千住宿に至ります。 |
紀伊殿鷹場定杭跡 |
辻村・鳩ケ谷宿境 |
千住道分岐 |
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千住道口の吉田燃料店脇にとんぼ橋石材が保存されています(川口市指定有形文化財)。
延宝五年(1677)見沼代用水の分水平柳領用水堀に架橋されていたとんぼ橋の石材です。
昭和橋交差点を越し、見沼代用水東縁(ひがしべり)を吹上橋にて渡ります。
見沼代用水東縁は享保十三年(1728)の開削で、利根川から引水し、十六ケ村の田を潤し、流末は毛長川に落合います、吹上橋は長さ五間(約9.1m)でした。 |
とんぼ橋跡 |
吹上橋 |
昭和初期吹上橋付近 |
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吹上橋の渡詰めが鳩ケ谷宿の南口です、鳩ケ谷宿に到着です!
慶長五年(1600)徳川家康は会津上杉景勝攻めの折、鳩ケ谷に宿営し、日光道中の小山宿で石田三成挙兵の知らせを受けました。
鳩ケ谷宿は三八市が立ち物資の集散地として大いに賑わい、宿並には米穀問屋や織物中継商が軒を連ねていました。
天保十四年(1843)の日光御成道宿村大概帳によると鳩ケ谷宿の家数は二百十七軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠十六軒、人数は九百六人で、宿長は四町二十間(約473m)でした。 |
吹上橋からの上宿の宿並 |
中宿の宿並 |
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吹上橋の渡詰めの両側に一里塚跡標柱があります、鳩ケ谷の一里塚跡です。
江戸日本橋より数えて五里、本郷追分から四里目です、両塚とも塚木は榎でした。
一本目の左(黄色矢印)が宮道です、氷川神社の参道口です。
宿並を進むと左手に御成坂公園があります。
園内には日光社参行列を描いた壁画タイルや大きなからくり時計があります、毎日10時、12時、15時、17時、19時になると作動し、よう様な人形達による演出が繰りひろげられます。 |
東塚跡 |
西塚跡 |
宮道口 |
御成坂公園 |
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本町一・氷川神社交差点手前の右手藤屋洋品店が鳩ケ谷宿本陣跡です、藤屋脇に本陣・問屋跡解説があります。
本陣職は代々舟戸家が勤め、問屋、名主を兼ねました。
敷地は三百十六坪、建坪は七十三坪でした、本陣建物は川口市里の真光寺に移築され、本堂になっています。
本町一・氷川神社交差点を左に踏み込むと氷川神社が鎮座しています、応永元年(1394)の創建で鳩ケ谷の総鎮守です、御神木の大ケヤキは樹齢四百年です。 |
本陣跡 |
本陣模型・本陣間取図 |
氷川神社 |
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慶長五年(1600)徳川家康は上杉征伐出陣の折、境内で休息しました。
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宿並に戻るとスグの左手に十一屋北西商店があります、店舗と蔵は登録有形文化財(建造物)です。
明治二十七年(1894)北西亀吉によって創業された北西酒造の銘酒文楽を商っています。
向かいの竹屋前と向い(白色□囲い)の法律事務所前に市場杭跡標柱があります、宿並に四本あった三八市の市場杭は市開催の出店範囲を示しています。
本町二丁目交差点を渡った右手に川口市郷土資料館があります。 |
北西商店 |
市場杭跡 |
川口市郷土資料館 |
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川口市の歴史と文化を分かりやすく紹介しています。
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右手の鳩ケ谷商工会の並びに高札場跡解説板があります、鳩ケ谷宿高札場跡です、明治維新直後の慶応四年(1868)太政官布告の高札を三枚残しています。
これを最後に高札場は廃止されました。
宿並を進むと右手の鳩ケ谷本町二丁目バス停の所に市神社(いちがみしゃ)が鎮座しています、三八市の守護神です(川口市有形民俗文化財)。
享保十六年(1731)市が開かれ、以降毎月三と八がつく日に市が開かれたところから三八市と呼ばれた六斎市です。 |
高札場跡 |
市神社 |
法性寺山門 |
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先に進み左手の埼玉りそな銀行脇の信号交差点を左に入ると、先の右手に曹洞宗の龍王山法性寺があります、文明八年(1476)太田道灌の創建で、山門は足利時代末期の建立です。
当寺は徳川家康より寺領十石の朱印状を拝領しました。
法性寺の森はスタジイ、クスノキ、シラカシ、アカシデ等で構成され、川口市の法性寺保全緑地に指定されています。
家康の家臣阿部正次は関ケ原の合戦で戦功を挙げ、一万石を拝領して鳩ケ谷藩を立藩しました。
正次は大坂の陣でも武功を挙げ、三万石に加増され元和三年(1617)上総大多喜藩に転封となり、その際に鳩ケ谷藩は廃藩となり幕府領となりました、法性寺辺りに陣屋が設置されました。 |
法性寺 |
法性寺保全緑地 |
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宿並に戻るとスグの左手に小谷三志(さんし)旧宅跡解説板があります、明和二年(1765)越ケ谷宿で生まれた三志は宿の問屋役人を勤めました。
傍ら富士講を見直して不二道を興し、富士山の神の元では男女や士農工商は平等で、社会平和に奉仕しなければならないと説きました。
次いで右手に豪壮な蔵のある旧家があります、この辺りが鳩ケ谷宿の北口です。
先に進み桜町五丁目交差点を右折するとY字路になっています。 |
小谷三志旧宅跡 |
鳩ケ谷宿北口 |
越谷道 |
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左(黄色矢印)が越谷道です。
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この越谷道の分岐点には文政五年(1822)建立の道標があります、正面に「四國八十八箇所五十九番 地蔵院」、右面には「従是 右こしかや道 二里」と刻まれています。
安行を経て日光道中の越ケ谷宿に至ります。
この分岐点を右に踏み込むと真言宗智山派の箱崎山地蔵院があります、聖武天皇の代神亀元年〜天平二十一年(724〜49)の創建です、本尊の地蔵菩薩像は行基の作です。
数多くの末寺を擁する中本寺格の寺院でした。
当寺は足立観音霊場二十九番札所です。 |
越谷道道標 |
地蔵院山門 |
地蔵院 |
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境内の覆屋内に正徳元年(1711)造立の良縁地蔵尊が安置されています、霊験あらたかで良縁なら結び、悪縁なら断ち切ってくれます。
山門脇には正徳六年(1716)造立の青面金剛像庚申塔があります。
街道に戻って先に進むと、浦寺村に入ります、柿渋の赤山渋が名産でした、防水、防湿、防腐効果が高く、広範囲に用いられました。
新井宿駅(西)交差点を越えた先の右手に子日(ねのひ)神社が鎮座しています。 |
良縁地蔵尊 |
青面金剛像庚申塔 |
子日神社 |
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子日神社は元禄年間(1688〜1704)以前に新井宿村から街道を境にして分村した東新井宿村の鎮守です。
当社は近在の人々からも腰から下の病、特に足の神として信仰され、病気平癒の願掛けに草鞋(わらじ)を社殿の格子に下げるのが習わしでした。
東新井宿村の家数は二十五軒でした。
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並びに真言宗豊山派の戎光山多宝院があります、子日神社の別当寺です。
別当寺とは 神社の祭神が仏の権現であるとされた神仏習合の時代に、神社を管理するために置かれた寺のことで、神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、神社で最も権力があったのは別当で、宮司はその下に置かれました。
参道口の不動堂には文化四年(1807)造立の不動明王坐像が安置されています。
境内の石仏石塔群の中に文政三年(1820)建立の庚申塔道標があります、「南はとがや」「北大門道」「東千住道」と刻まれています。 |
多宝院不動堂 |
不動明王像 |
庚申塔 |
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千住道は真乗院の手前を右に入る赤山街道千住道で日光道中の千住宿に至ります。
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街道を挟んだ向い側に氷川神社が鎮座しています、新井宿村から分村した西新井宿村の鎮守です。
当社と向いの子日神社の鳥居脇には高札場がありました。
並びに真言宗豊山派青龍山無量寿院法蔵寺があります、氷川神社の別当寺です。
当寺には永正十五年(1518)銘の二十一仏庚申待供養板碑があります、神仏習合時代の庚申信仰で神道の神の本来の姿が仏であることを意味しています(川口市指定有形文化財・非公開)。 |
氷川神社 |
宝蔵寺 |
板碑 |
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西新井宿村の家数は五十一軒でした。
それでは先に進みましょう、新井宿交差点を越し、首都高速川口線高架をくぐり、西新井宿交差点を横断します。
北新井宿バス停を過ぎると左手の段上の祠内に姥神塔(うばかみとう)が安置されています、姥慈愛の守護神です。
ここは西新井宿村と石神村の境で塞神を兼ねています。
石神村の家数は六十七軒で、村内に立場がありました。 |
首都高川口線高架 |
姥神塔 |
赤山城址口 |
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先に進み東京外環自動車道高架をくぐります(白色矢印)。
手前を右(黄色矢印)に入ると、約1km先に赤山城跡があります。
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道なりに進むと赤山城祉碑があります、伊奈氏の陣屋跡です。
伊奈氏は信濃國伊奈郡の出身で、三河の徳川家に仕えました。
伊奈氏は家康の江戸入府に同行し、鴻巣、小室一万石を拝領し、熊蔵忠次以降十二代に渡って関東郡代職を勤め、関八州の幕領を管理しました。
三代忠治は赤山領として幕府より七千石を賜り、寛永六年(1629)赤山の地に赤山城を築き、陣屋と居城とし、寛政四年(1792)の改易まで約百七十年間引き継がれました。 |
赤山城跡 |
赤山城祉碑 |
赤山城土橋跡 |
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赤山城址碑の先を左に回り込むと、赤山城本丸と出丸を分ける堀に架橋された土橋が復元されています。
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街道に戻り、東京外環自動車道高架をくぐると右手に真言宗智山派の長久山真乗院があります、正面にカヤが聳えています。
享保十三年(1728)徳川第八代将軍吉宗日光社参の際に小休所になりました。
境内のコウヤマキの主幹は欠けていますが、樹高18m、目通り4.5m、根回り7.8mで樹齢八百年です(川口市指定天然記念物)。
コウヤマキの裏手の覆屋内に七体の地蔵菩薩像、青面金剛像庚申塔、三面六臂馬頭観音像が安置されています、右端の元文二年(1737)造立の地蔵菩薩立像は道標を兼ねています。 |
真乗院 |
コウヤマキ |
地蔵菩薩道標 |
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地蔵菩薩立像の台石の正面に「南江戸ほんごう道」、左面「北いわつき道」、右面「東江戸あさ草道」と刻まれています、日光御成道と赤山街道千住道の追分道標です。
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押しボタン信号交差点を越した先の右手に祠が二屋あり、段上の覆屋内には聖徳太子立像が安置されています。
先の新町交差点を右折して進むと左手に真言宗智山派の妙延寺があります、寛政年間(1789〜801)行き倒れの女性の供養に女郎仏として祀ったのが始まりです。
この行き倒れの女性は若く、余りにも美しく可憐で、身分不明であったところから女郎ではといわれました。
この女郎仏は下の病に霊験あらたかといいます。 |
聖徳太子象 |
妙延寺 |
奉納絵馬 |
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街道沿いは江戸時代から連綿と続く植木、苗木の産地です、今も園芸屋が所々にあります。
川口市道幹線50号線を越すと右手にセブンイレブン、次いで左手にローソンが現われたら右手に一里塚ポケットパークがあります。
戸塚の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて六里、本郷追分からは五里目です。
東塚は戸塚村地内、西塚は北原村地内にありました。
戸塚村の家数は百八十軒、北原村の家数は六十九軒で、村内には立場がありました。 |
一里塚ポケットパーク |
戸塚の一里塚跡 |
馬頭観音像 |
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園内の右隅に宝暦八年(1758)造立の三面六臂馬頭観音像があります。
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先に進むと左手にウエルシアがある戸塚支所西交差点を直進します。
この交差点を右折して進むと右手に日蓮宗の正立山本行寺があります、永正二年(1505)太田資正に仕えた小宮山弾正左衛門の家臣嶋根左近によって創建されました。
当寺はもみぢ寺とも呼ばれました、境内に樹齢千年の大山紅葉がありました。
本堂脇に芭蕉句碑「たふとかるなみだや染めて散る紅葉」があります、元禄二年(1689)芭蕉が当寺を訪れて吟じた句です。 |
本行寺 |
芭蕉句碑 |
大山紅葉跡 |
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この大山紅葉は昭和六年(1931)国天然記念物に指定されましたが、昭和二十年(1945)の空襲で被災し枯れました。
現在の山紅葉は昭和二十六年(1951)に植樹されたものです。
街道に戻り、強烈な西陽を半身に受けて進むとJR武蔵野線に落合います、本日はここまでです!
眼下のJR武蔵野線に沿って右に進むと東川口駅があります。
日光御成道ウォーク前半の終焉です!!
日光御成道の前半は武蔵野台地を縦断する、案外タフな街道です。
起伏に富んだ街道はウォーキングの醍醐味を否応無に味あわせてくれます。
街道ウォークをたっぷり味わった後は冷えたビールを味わいましょう!
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