道中日記 3-140 日光御成道 ( 東川口 - 幸手追分 ) 27.5km

 
東神奈川駅からJR京浜東北線に乗車し、南浦和駅でJR武蔵野線に乗換え、東川口駅で下車です。

徳川歴代将軍の日光社参御成道の後半です、我々もトレースしてみましょう。


天気は上々です!

 平成17年11月30日 AM8:16 東川口出立 大門宿まで1.9km

 JR武蔵野線の跨線橋が本日の出発点です、それでは出立しましょう!

跨線橋先の信号交差点を左に踏み込むと右手に
身代り不動尊立像があります。

身代り不動尊は正しくは
大日大聖身代り不動明王といいます、悪を倒し、人々を煩悩から救い出します。

身代り不動尊の並びには
地蔵菩薩立像があり、境内には六地蔵青面金剛像庚申塔等があります。

それでは街道に戻りましょう。
JR武蔵野線跨線橋 身代り不動尊 不動祠 不動明王像

 わずかに進むと左手の共同住宅の並びに
不動祠があります、石造不動明王坐像が安置されています。

 わずかに進むと右手に火の見ヤグラがあります、諏訪大明神の境内に立っています。

諏訪大明神は
戸塚村一本組の鎮守です。

明治十二年(1879)村人が日光東照宮の参拝記念に奉納した
日光東照宮参拝図絵馬は川口市指定有形民俗文化財です。

この地は高台の尾根筋で
景勝地でした。

安永五年(1776)徳川十代将軍
家治(いえはる)と天保十四年(1843)徳川十二代将軍家慶(いえよし)はここにあった別当寺の延寿院(廃寺)にて休息しました。
火の見ヤグラ 諏訪神社 諏訪神社社殿

 先に進み、信号交差点の変則十字路を横断し、東川口一郵便局を過ぎると信号交差点があります、斜め右(黄色矢印)の下り坂が貝塚に由来する貝殻坂です。

この貝殻坂は
岩槻宿下道の南口で、初期の日光御成道でした。

宇都宮城釣天井事件に遭遇した徳川二代将軍秀忠はこの岩槻宿下道に釣上新田があり、このの字を嫌い御成道を付け替えたといいます。

元和八年(1622)徳川二代将軍
秀忠は日光社参の帰路、宇都宮城での宿泊を急遽取り止めました。

宇都宮藩主で江戸幕府年寄の
本多正純が城内の湯殿釣天井を仕掛け、秀忠の圧死を計画した謀反との伝説を生みました。
貝殻坂口 貝殻坂

 実態は秀忠の若い
側近と家康の旧臣本多正純との世代交代による確執に他なりません、本多正純は流罪となり、本多家は改易になりました。

 AM8:43 大門宿着 岩槻宿まで10.5km

 街道は大門小学校入口交差点の変則T字路に突き当たります、左折(白線矢印)し国道463号線に合流します。

幸手方面からは右折し、スグの
Y字路を左(白色矢印)に進みます、このT字路辺りが大門宿の東口です、到着です!

大門の地名は
大門神社に由来します、大門宿は岩槻藩領でしたが、元禄十年(1697)日光御成道の宿駅になると幕府領となりました。

大門宿では毎月八の付く日に
六斎市が立ち、大いに賑わいました。
本郷方面から 幸手方面から 飾り馬

 天保十四年(1843)の
日光御成道宿村大概帳によると大門宿の家数は百八十軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠六軒、人数は八百九十六人で、宿長は七町二十三間(約805m)でした。

 宿並を右に曲がると右手に朱塗りの鳥居があります、参道を進むと大門神社が鎮座しています、大門町の鎮守です。

かつては熊野十二所権現に由来し、
十二所権現神社と称しました。

境内社の
愛宕神社は大門宿の大火後、元禄年中(1688〜1704)に火防の神である愛宕社が勧請され鎮座しました。

愛宕社拝殿向拝の
釘付けの竜は名人左甚五郎の作といいます、この竜は夜毎脱け出し、田畑を荒らし回るので、釘付けにすると収まったといいます。
大門神社 愛宕神社 左甚五郎作の竜

 明治の世になると
大門神社と改称し、神仏分離により別当寺の華蔵寺は廃寺となりました。

 宿並を進むと、左手の美園郵便局先の右手に大門宿本陣表門があります。

元禄七年(1694)建立の茅葺寄棟造りの
長屋門番所がありました、間口16.31m、奥行4.58mで文政七年(1824)に修理されました(埼玉県指定史跡)。 

大門宿本陣は
会田家が勤め、問屋名主、紀州家鷹場の鳥見役を兼ねました。

日光社参の
将軍岩槻城に宿城すると、供奉する幕臣が大門宿に分宿しました。

安永五年(1776)徳川十代将軍
家治の社参では、本陣に伊予松山藩主の松平定静(さだきよ)が宿泊しました。
大門宿本陣表門 表門標柱

 信号交差点を越すと左手に大門宿脇本陣表門があります。

安永五年(1776)の徳川十代将軍
家治の日光社参にあわせて建立されました。

この表門は茅葺寄棟造りで、立隠れ(門構えが半間引込む)、くぐり戸のある
長屋門で、間口16.0m、奥行き4.6mです(さいたま市指定有形文化財)。

安永五年(1776)徳川十代将軍
家治の日光社参では、殿(しんがり)を勤めた姫路藩主酒井忠以(ただざね)が宿泊しました。

帰路には、磐城平藩主
安藤信茂が当脇本陣で休息しました。

尚、当時の記録には
西御本陣西本陣などと記されています。
大門宿脇本陣表門

 宿並を進み、大門(上)交差点の先、宿外れの右手に真言宗智山派の慈眼山大興寺(だいこうじ)があります、永禄二年(1559)の創建です。

天正十九年(1591)
徳川家康より寺領三十石を拝領し、葵紋を掲げています。

山門をくぐると
六地蔵、宝永七年(1710)造立の青面金剛像庚申塔、文政四年(1821)建立の徳本南無阿弥陀佛名号碑等があります。

墓地には大門宿本陣を勤めた、
会田家歴代の墓があります。
大興寺山門 大興寺本堂 徳川葵紋 徳本名号碑

 大興寺に沿う道筋(白色矢印)が旧道です。

しかしこの旧道は先で
東北自動車道の敷設により消滅し、通行不可です。

大興寺前の
大門北交差点(黄色矢印)の西浦陸橋にて東北自動車道を跨ぎます。

東北自動車道の側道を横断し、ホテルGRASSINO沿いに進みます、道筋が左にカーブする辺りから
旧道が復活します。
迂回路 西浦陸橋 東北自動車道 側道横断

 鶴巻陸橋(西)交差点を越すと玄蕃新田村に入ります、当村は綾瀬川流域の新田を開発しました。

玄蕃新田村は旗本
加藤氏の知行地でした。

次の押ボタン信号交差点左の脇道口に
庚申塔祠があります、享保五年(1720)造立の笠付青面金剛像庚申塔が安置されています。

街道を先に進むと左手に浦和大学入口案内標識があります、この辺りに
玄蕃新田の一里塚があったといいますが、位置は不明です。

江戸日本橋より数えて七里、本郷追分からは六里目です。
庚申塔祠 青面金剛像 玄蕃新田の一里塚跡

 先に進むと左手の武蔵野造園向いのブロック塀の前に石仏石塔群があります、右から庚申供養塔、文化二年(1805)造立の青面金剛像庚申塔、天明四年(1784)造立の馬頭観音像です。

先に進むと
大崎村に入ります、化政期の家数は七十一軒でした。

右手のセブンイレブン浦和南部領店の駐車場奥に
馬頭観音群があります、安永七年(1778)造立の馬頭観音像と三基の馬頭観世音塔が安置されています。

わずかに進むと右手に
消防団施設があります。
石仏石塔群 馬頭観音群 青面金剛像

 消防団施設前の押ボタン信号交差点を右に踏み込むと左手に
辻村原山庚申塔と呼ばれる安永六年(1777)造立の笠付青面金剛像庚申塔があります。

 押ボタン信号交差点に戻り、左に踏み込むと約800m先の右手に曹洞宗の大崎山国昌寺があります、天正年間(1573〜92)の創建です。

山門に
菊花紋が掲げられています、二代目住職の文龍は能書家で後陽成後水尾天皇から三度も召され、宮中で書を指南しました。

山門の欄間には
左甚五郎作のが施されています、棺が門をくぐると遺体が喰われて軽くなるといわれ開かずの門になっています(さいたま市指定有形文化財)。
国昌寺 国昌寺山門 左甚五郎作の竜 板石塔婆

 境内には鎌倉時代建立の
阿弥陀一尊種子板石塔婆があります(さいたま市指定有形文化財)。

 国昌寺から更に進み、見沼代用水路東縁国昌寺橋にて渡ります。

渡詰めの右手に
見沼龍神伝説解説板があります、徳川八代将軍吉宗の命により、井沢弥惣兵衛為永は見沼を干拓し、利根川から代用水を引く開削を行いました。

ある夜、夢の中に
見沼の龍神が現れ「新しい棲家を探す間、九十九日間開削工事を止めてもらえないか」と懇願しました。

為永は気にも留めず開削を進めると、災が続き一向に開削ははかどらず、そのうちに為永も病の床についてしまった。
国昌寺橋 見沼代用水路東縁 見沼龍神伝説

 一説によると
国昌寺の山門に施された左甚五郎作のを釘付けにすると災いは納まったといいます。

 戻る際に国昌寺先の信号交差点の十字路を左折し、先の十字路を右折すると左手に真言宗智山派の阿日山総持院があります、天正五年(1577)の創建です。

鐘楼門をくぐると境内には約650株のボタンが植えられ
ボタン寺と呼ばれています。

更に先に進むと
鷲神社が鎮座しています、平安時代、八幡太郎義家を助けんと弟新羅三郎義光が奥州に下向する途次、この地で奇瑞を感じ鷲明神を勧請しました、辻村の鎮守です。

毎年、
南部領辻獅子舞が奉納されます。
総持院 境内のボタン 鷲神社 南部辻領獅子舞

 この
獅子舞は奥州に下向する際に、兵士の士気を鼓舞するために舞ったものです(さいたま市指定無形民俗文化財)。

獅子舞に用いる
獅子頭衣裳道具類はさいたま市指定有形民俗文化財です。

化政期の
辻村は家数七十軒で、大門宿の助郷を勤めました。

 街道に戻って先に進むと右手に成田不動尊があります。

野田小学校を過ぎると右手に
正八幡宮が鎮座しています、代山城の守護神で代山村の鎮守です。

化政期の代山村の家数は三十軒で、
高札場が二ケ所ありました。

わずかに進むと左手の
氷川神社の参道口に安永二年(1773)造立の青面金剛像庚申塔があります。

氷川神社は
上野田村の鎮守です。
成田不動尊 正八幡宮 青面金剛像 氷川神社

 境内社に
稲荷社琴平社疱瘡社があります。

 浦和代山郵便局の手前を左に入ると曹洞宗の桃谷山照光寺があります、承応年間(1652〜55)の創建で氷川神社の別当寺でした。

更に進むと右手に茅葺寄棟造りの
深井家長屋門があります、弘化元年(1844)の建立です(市指定有形文化財)。

深井家は上野田村天領分の
名主を勤めました、化政期の上野田村の家数は三十六軒でした。

街道に戻って、先に進み
天久保坂を下ります。
照光寺 深井家長屋門 さぎ山記念公園

 この辺りは
植木の苗木を江戸界隈に供給する産地でした、今でも街道筋には植木商が多数あります。

左手に
さぎ山記念公園があります、往時は野田の鷺山と呼ばれました。

紀州徳川家御囲鷺として保護され、国の特別天然記念物に指定されましたが、サギの飛来が途絶え解除されました。

 上野田交差点を越すと、右手の覆屋内に地蔵立像と文化二年(1805)建立の供養塔「為諸病悉除(しょびょうしつじょ)村中安全」が安置されています。 

先に進み横断歩道標識を右に踏み込むとY字路の中央に明和五年(1768)建立の
青面金剛像庚申塔があります。

このY字路を右に進むと、左手に
天神宮が鎮座しています、祭神は菅原道真です。

境内には文化十三年(1816)奉納の
手水鉢があります。
地蔵尊 青面金剛像 天神宮 手水鉢

 街道に戻って先に進むと染谷村から膝子村に入ります、村名は農婦が産み落とした赤子の姿が奇形で膝の様であったところに由来しています、化政期の膝子村の家数は九十三軒でした。

セブンイレブン先の右手に
頌徳碑があります。

グングン進むと右手に曹洞宗の江長山
光徳寺があります、文禄四年(1595)の創建で、片柳の萬年寺の末寺です。

徳川三代将軍
家光より十三石の寺領を拝領し、その朱印状を残しています、当寺は日光社参将軍の休息所を勤めました。

天保十四年(1843)徳川十二代将軍
家慶の日光社参に際し、家慶は当寺での休息後、岩槻城下手前の綾瀬川まで歩き、大橋を渡ったのち駕籠に乗り岩槻城へ入城しました。
頌徳碑 光徳寺

 尚、日光社参は
家慶を最後に再び行われることはなく、二十五年後に江戸幕府は瓦解しました。

 先に進むと右手に膝子の一里塚の東塚が現存しています、塚木のエノキは二代目です、江戸日本橋より数えて八里、本郷追分から七里目です(さいたま市指定史跡)。 

塚には安永二年(1773)造立の
弘法大師坐像一石六地蔵石塔が祀られています。

大師像の
台座には「奉納 秩父坂東四国西国供養」と刻まれています。

先に進み膝子交差点を右折し、二本目を右に踏み込むと左手に
膝子八幡神社が鎮座しています、永正六年(1509)満蔵寺を開山した法印によって創建され、膝子村の鎮守でした。
膝子の一里塚 石仏 膝子八幡神社

 参道口に御神木の大ケヤキがあります、推定樹齢三百年です。

並びに弘化四年(1847)建立の
庚申塔道標「向明けん(妙見) いわつき道 左南部十王道」があります、三猿が陽刻され、庚申祭と刻まれています。

膝子交差点に戻って進むと、左手に
筆塚があります、弘化元年(1844)生まれの絵師森田久蔵の筆塚です、日本美術協会に所属し、大正八年(1919)逝去、享年七十七歳でした。

筆塚の背後の流れは
見沼代用水東縁です、享保十三年(1728)利根川から灌漑用水として引水し、流末は毛長川に落合います。
大ケヤキ 庚申塔道標 筆塚

 わずかに進むと膝子バス停先の左手のコンテナ置場に元禄十年(1697)造立の青面金剛像庚申塔があります。

庚申塔の奥に
膝子塚があります、農婦が産み落とし、姿が奇形で膝の様な赤子を埋葬し、塚を築きました。

先に進み埼玉県立大宮東高等学校案内標識がある信号交差点を右折すると、左手の銅板葺き木造鳥居の奥に
第六天神社が鎮座しています。
庚申塔 膝子塚 第六天神社鳥居 第六天神社社殿

 仏道修行を妨げる
第六天魔王を祀っていましたが、神仏分離により第六天神社となりました。

 更に進み、一本目を右に踏み込むと真言宗智山派の八幡山明星院満蔵寺があります、本尊は不動明王です。

永正六年(1509)の創建で
膝子八幡神社の別当寺でした。

山門脇には
道標「江戸へ近道」があります。

境内にはさいたま市指定文化財の嘉暦四年(1329)建立の
板石塔婆があります、彫りが深く、整った美しさを保っています。
満蔵寺 道標 板石塔婆 円空仏

 当寺に安置していた
円空仏(阿弥陀像)は埼玉県立博物館へ寄託されています(さいたま市指定文化財)。

 街道に戻り、七里中学校入口の信号交差点のY字路を右(白色矢印)に進みます。

七里(ななさと)の地名は蓮沼、大谷、東宮下、東門前、新堤、風渡野(ふっとの)、膝子の七ケ村が統合した際に命名されました。

先の歩車分離信号交差点を右に進み、二本目を右に踏み込むと
東宮下八幡神社が鎮座しています、宝暦七年(1757)の勧請で祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと)で、宮下村の鎮守です。
七里分岐 宮下八幡宮鳥居 宮下八幡宮 青面金剛像

 境内には
不動明王像、安永六年(1777)造立の笠付青面金剛像庚申塔があります。

 街道に戻って先に進むと、七里第二団地バス停先の左手に地蔵祠があります、陽刻地蔵尊立像が安置され、祠脇には馬頭観世音塔があります。

しばらく進むと左手の特別養護老人ホーム
見沼さくらの杜前のY字路を右(白色矢印)に進みます。

この分岐点の右手に正徳三年(1713)建立の
道標「江戸道 岩槻道 慈恩寺道 原市道 川口善光寺道」があります。

街道は
宮ケ谷塔村に入ります。
地蔵尊 馬頭観音 東宮下分岐 道標

 
宮ケ谷塔(みやがやとう)は徳川二代将軍秀忠の乳母であった大姥局(おおうばのつぼね)の旗本岡部家の知行地でしたが、安永元年(1772)八代目岡部徳五郎が酩酊の挙句、抜刀狼藉に及び知行没収となりました。

 深作川古簀子橋(ふるすのこはし)にて渡ります、深作川の流末は綾瀬川に落合います。

スグの
新簀子橋交差点を横断します。

突当りの
大橋交差点を右折(白線矢印)し、綾瀬川大橋にて渡ります、綾瀬川には河岸があり岩槻と江戸を結ぶ舟運がありました。

徳川十二代将軍
家慶光徳寺で休息した後、この大橋まで歩いたところから御成橋と呼ばれました。
深作川 大橋 綾瀬川 馬坂西分岐

 セブンイレブン先の
信号交差点を左折(白色矢印)します、この分岐点にあった人形の秀月はなくなりました。

  それでは馬坂のトレースに取り掛かりましょう、東武野田線を第42号踏切道にて横断します。

踏切の先が右に大きく
カーブしています、このU字状の道筋が馬蹄に似ているところから馬坂といわれ、の丸くなった背の様なところから姥坂とも呼ばれました。

馬坂の屈曲は岩槻城防衛の枡形的役目を果たしていました。

屈曲の先は東武野田線、東北自動車道の敷設により、失われました。
東武野田線踏切 馬坂 岩槻高架橋 跨線橋階段

 東北自動車の岩槻高架をくぐり、左手の
跨線橋階段を上ります。

 跨線橋にて東武野田線を跨ぎます。

跨線橋階段を下り、東北自動車道の側道に沿って進み、先の
Y字路を左(白色矢印)に進みます。 

この分岐から
馬坂が復活します。

わずかに進むと右手のブロック塀に沿う横道口に
琴平神社裏参道標柱があります。

踏み込むと
金刀比羅神社が鎮座しています。
東武野田線 迂回路分岐 裏参道口 琴平神社

 覆屋内に
金刀比羅宮が祀られています、毎年二月十日境内でだるま市が立ちます。

 戻ると、信号交差点に突き当たります、左折(白色矢印)します。

幸手方面からは
わらべ人形像前の信号交差点を右折し、スグのY字路を左に進みます。

わずかに進むと右手に
久伊豆(ひさいず)神社が鎮座しています、祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)で、加倉村の鎮守です。

境内には元禄十五年(1702)と享保十三年(1728)造立の
笠付青面金剛像庚申塔があります。
馬坂東分岐 わらべ人形像 久伊豆神社 青面金剛像

 次いで左手に浄土宗の仏眼山浄国寺があります、天正十五年(1587)岩槻城主太田氏房(うじふさ)の創建です。

同十九年(1591)
徳川家康から寺領五十石の寄進を拝領しました。

元和九年(1623)
阿部正次が岩槻藩主となると、阿部家の菩提寺となりました。

本堂の左脇に
岩槻藩主阿部家の墓があります、右の五輪塔が岩槻初代藩主阿部正次(まさつぐ)の墓、中央の五輪塔が三代藩主定高の墓、左は定高に殉じた家臣小倉與兵衛正光の墓です。
浄国寺山門 浄国寺本堂 岩槻藩主阿部家の墓

 正寿院は松平定勝の娘で二代岩槻藩主阿部重次の後室となり、三代藩主定高、四代藩主正春の生母です。

浄国寺の本堂には葵紋が掲げられています。

父の定勝は
徳川家康の異父弟で、母は家康の生母於大の方です、従って正寿院は於大の方の孫娘で家康の姪にあたります。

街道に戻ると右手に曹洞宗の加倉山
洞雲寺があります、天文元年(1532)岩槻城主太田資頼(すけより)の創建です。

宝永年間の
大火本堂は焼失しました。
正寿院供養塔 洞雲寺 人形歴史館

 白壁塀の辺りに唯一、類焼を免れた
山門が残されていましたが撤去されました。

押ボタン信号交差点を越すと、左手に
人形歴史館があります、寛永十三年(1636)日光東照宮造営に従事した伏見の人形師が岩槻に定住し、人形作りを始めました。

現在、
人形歴史館は撤去され、更地になっています。

 PM12:07 岩槻宿着 幸手追分まで 15.1km

 児童センター入口交差点辺りが岩槻城下西口です、交差点を越すと左手に加倉口跡標識があります、岩槻宿に到着です!

加倉口には
木戸番所があり、市宿町の住人が交代で木戸番を勤めました、木戸を通過すると宿内は市宿通りになります。

岩槻宿岩槻城の城下町として発展し、六斎市が立ち、元荒川の新曲輪河岸と綾瀬川の妙見河岸に舟運があり大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
日光御成道宿村大概帳によると岩槻宿の家数は七百七十八軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠十軒、人数は三千三百七十八人で、宿長は十七町十間(約1873m)でした、問屋業務は毎月一日〜十八日迄は市宿町、十九日〜月末迄は久保宿町が勤めました。
岩槻宿南口 加倉口跡

 右手の佛壇佛具店の東山東雲堂脇に踏み込むと真言宗智山派の安養山阿弥陀院西光寺があります。

本尊の
阿弥陀如来坐像行基の作と伝わります(埼玉県指定有形文化財)。

境内には
六地蔵、享保五年(1720)造立の六地蔵石幢、三猿が陽刻された享保六年(1721)建立の奉供養青面金剛庚申塔、延宝五年(1677)造立の地蔵菩薩立像等があります。

宿並に戻り、左手の市宿通り上宿灯籠型標石の左手に
八雲神社が鎮座しています。
西光寺 六地蔵石幢 八雲神社

 永禄三年(1560)六斎市の守護神として創建され、江戸時代は牛頭天王社と称し、明治の世になると八雲神社と改称されました。

毎月一と六のつく日にが立ち、周辺特産の岩槻木綿、牛蒡、葱、名物素麺、足袋等が商われ、大いに賑わいました

本殿の壁面には見事な彫刻が施されています。

社殿前には文政十年(1827)に奉納された四拾五貫の
力石、境内には享保十一年(1726)奉納の手洗場石があります。
社殿 本殿 手洗場石

 八雲神社の向いにさいたま市岩槻郷土資料館があります、昭和五年(1930)築の旧岩槻警察署庁舎を利用し、昭和五十七年(1982)に岩槻郷土資料館として開館しました。

常設展示は
岩槻のあゆみ大昔のくらしくらしの道具の三つの主題で構成されています、みどころは岩槻城の資料です。

岩槻郷土資料館前に
市宿町標石があります、岩槻宿は岩槻城下九町で構成され、宿の機能は市宿町久保宿町が担い、他の七町は両町の定助郷を勤め脇宿七ケ町と呼ばれました。
岩槻郷土資料館 展示の駕 市宿町

 
市宿町は加倉口から久保宿町間で、町名は町内で開かれたに由来しています。

 スグ先の左手に築百三十年の志水邸があります、染物業を営んでいました。

道路拡幅工事に伴い、平成十七年(2005)移築(曳屋)して改修保存されました(さいたま市景観賞受賞)。

宿並を進むと左手の八百屋安兵衛の脇に
日光御成道岩槻藩高札場が縮小復元されています。

次いで右手に
田中屋本店があります、創業嘉永年間(1848〜54)岩槻銘菓栗最中の老舗です、旧町屋建築の建物は築約百六十年です。
志水邸 高札場跡 田中屋本店

 スグ先の押ボタン式信号交差点を左に踏み込むと曹洞宗の大平山芳林寺(ほうりんじ)があります。

山門をくぐると右手に
太田道灌公像があります、道灌は扇谷上杉定正の家宰(かさい)として仕え、長禄元年(1457)江戸城岩槻城川越城を築き、各地の乱を平定しました。

道灌像の前には
六地蔵があり、並びに道標「右 日光御成街道」があります。

境内の御影石芳林寺由緒脇に
里程標「白鶴城本丸 半里」があります。
芳林寺 太田道灌騎乗像 道標 里程標

 この里程標の左面には「江戸日本橋 九里」、右面には「京三条大橋 百四十二里」と刻まれています。


 里程標の後方に太田氏資(うじすけ)があります、天文十一年(1542)岩槻城主太田資正の嫡男として誕生しました。

資正(すけまさ)は扇谷上杉家旗下として反小田原北条氏でした、永禄七年(1564)氏資は父を追放し、岩槻城主となり北条氏康の娘を娶り、小田原北条氏に属しました。

墓地に入ると
地蔵尊があります、右から寛政九年(1797)造立の六地蔵石幢、中央は元文三年(1738)造立の地蔵尊坐像、左は延宝五年(1677)造立の地蔵尊立像です。
太田氏資像 地蔵尊 太田氏資宝篋印塔

 墓地には
太田氏資宝篋印塔があります(さいたま市指定文化財史跡)、永禄十年(1567)三船山合戦で小田原北条軍の殿軍を勤め戦死しました、享年二十五歳でした。

 太田氏資宝篋印塔覆屋脇に太田道灌五輪塔があります、戒名の「香月院殿春苑道灌大居士尊位」が刻まれています。

道灌の威徳を恐れた山内、扇谷の両上杉氏により「謀反の企てあり」として、文明十八年(1486)相模伊勢原の主君上杉定正の館で暗殺されました、享年五十五歳でした。

道灌の養子
太田資家(岩槻城主)が道灌の遺骨遺髪をもらい受け、当寺に埋葬しました。

五輪塔の並びに
芳林妙春尼無縫塔があります、芳林妙春尼は太田資正の正室で嫡男氏資の母公です。

永禄十年(1567)逝去すると、戒名を
陽光院殿芳林妙春大姉と号したため、氏資は寺号を芳林寺と改めました。
太田道灌五輪塔 芳林妙春尼無縫塔

 天正十八年(1590)徳川家康の関東入国に伴なった重臣の高力(こうりき)清長岩槻城主に封ぜられると、当寺が荒廃しているのを嘆き、大修理を加え復興させました。

墓地には
高力正長宝篋印塔があります、正長は清長の嫡男で、家康に仕え長篠、長久手の戦いに参陣し、慶長四年(1599)に没し当寺に葬られました、享年四十二歳でした。

それでは宿並に戻りましょう、わずかに進むと右手に築百七十年の
藤宮製菓(中野邸)があります、天保時代に中屋酒店を開業しました。

スグ先の右手に埼玉縣信用金庫があります。
高力正長宝篋印塔 藤宮製菓(中野邸) 岩槻宿本陣跡

 歩道側に
岩槻宿本陣趾灯籠型標石があります、標石の下部に「是り先200m左側」と記されています。

 岩槻駅入口交差点手前の左手に領界石「従是南岩槻領」がありましたが、埼玉県立歴史と民俗の博物館に移設されました。

岩槻駅入口交差点から一本目の信号交差点を右に入り、一本目を左折すると
裏小路標石があります、岩槻城内侍屋敷の路名です。

裏小路標石の奥に
岩槻藩遷喬(せんきょう)があります(埼玉県指定文化財史跡)、寛政十一年(1799)に岩槻藩の儒学者児玉南柯(なんか)が開いた私塾です。

この私塾は後に
藩校となり遷喬館と称し、藩士の子弟等の教育にあたり、「岩槻に過ぎたるものが二つある、児玉南柯と時の鐘」と詠われました。
岩槻領杭 裏小路 岩槻藩遷喬館

 遷喬館脇を枡形状に進むと八幡神社があり、参道口に天神小路標石があります、岩槻城内侍屋敷の路名です。

通りに面して鎮座する
天神社が路名の由来です、通りの中程を南に折れると林道口門を経て大構外に出ます。

参道口の右手に明治四年(1871)創業の
鈴木酒造があります、銘酒大手門瑞薫の蔵元です。

宿並に戻ると
旧商家があります、 この辺りが市宿町久保宿町の境で、木戸が設置されていました。
八幡神社 天神小路 鈴木酒造 旧商家

 スグ先の左手に細田医院があります、この辺りが埼玉縣信用金庫岩槻支店から200mの位置になります岩槻宿本陣跡です、代々斎藤斧次郎が勤めました。

本陣の左隣が
岩槻宿脇本陣跡です、代々中島徳右衛門が勤めました。

武蔵野銀行先を左に入ると浄土宗の実相山
願生寺(がんしょうじ)があります、延文二年(1357)の創建です、本堂は茅葺き屋根でしたが建て替えられました。

墓地に
阿弥陀三尊図像月待供養板碑(さいたま市指定有形文化財)があります。
岩槻宿本陣跡 願生寺 月待供養板碑

 月待供養
とは二十三日などの月齢の夜に講中が集い、飲食を共にする民間信仰で、月宮殿におわす月天子を拝み、無病息災を願う宗教行事です。

 宿並に戻ると、信号交差点右手の亀屋薬局前に久保宿町標石があります、窪宿町とも書かれました。

岩槻藩初代藩主
高力清長は慶長六年(1601)城下の街造りに取り掛かり、その後阿部氏に引き継がれ岩槻十九町が完成しました。

久保宿町は
市宿町から渋江町に至る町で、上、中、下宿、大工町、旦過町で構成され、大工町には岩槻城の増改築を担う大工職人が居住していました。

次の押ボタン式信号交差点手前の左小路が
大工町通りです、踏み込むと高台に愛宕神社が鎮座しています。

この高台は岩槻城下町の
大構(おおがまえ)です。
久保宿町 愛宕神社鳥居 愛宕神社社殿

 この
大構は天正年間(1573〜92)小田原後北条氏豊臣政権との緊張が高まると、岩槻城主太田氏房は防御力を強化する為、城下町側に土塁を築き、外側には堀を巡らせ、その長さは約8kmにも及びました。

 宿並に戻ると、右手の岩槻市役所跡のにぎわい交流館岩槻前に日光御成道一里塚跡標石があります、岩槻の一里塚跡です。

江戸日本橋より数えて九里、本郷追分からは八里目です。

同一敷地内のさいたま市岩槻人形博物館前に
太田道灌公之像があります、道灌は武勇を誇り各地の乱を平定し、又和歌にも優れ、文武両道の名将として知れ渡り、道灌の活躍により主家扇谷上杉家の勢力は大きく拡大しました。

この道灌の才能を恐れた当主
上杉定正は謀反の疑いがあるとして、道灌を屋敷に招き、だまし討ちにより殺害しました。

道灌を失った
扇谷上杉家はやがて衰退し、代わりに台頭してきた北条早雲に滅ぼされました。
岩槻一里塚跡 太田道灌像 青面金剛像

 旧岩槻市役所の向いに曹洞宗の雲居山大龍寺があります、寛永二年(1625)徳川三代将軍家光の御守役であった岩槻藩主青山伯耆守(ほうきのかみ)忠俊の創建です。

参道口に
六地蔵と享保十年(1725)造立の青面金剛像庚申塔があります。

墓地には岩槻の人形作りの元祖
橋本重兵衛の墓があります、化政期、久保宿に居住する人形師橋本重兵衛が裃雛(かみしもびな)を考案しました。

渋江交差点を左折(白線矢印)します。
大龍寺 橋本重兵衛の墓 渋江分岐

 この渋江交差点を右(黄色矢印)に踏み込むと左手に時の鐘があります。

寛文十一年(1671)岩槻藩第二代藩主
阿部重次の次男阿部正春が渋江口に時の鐘を設置し、享保五年(1720)岩槻藩第三代藩主永井直陳(なおのぶ)が改鋳しました(さいたま市指定有形文化財)。 

美しい鐘の音(ね)は江戸にまで響いたといわれ「岩槻に過ぎたるものが二つある、児玉南柯と時の鐘」と詠われました、並びに
大イチョウがあります。

先に進むと左手に
広小路渋江小路標石があります、渋江小路より岩槻城大手門に至る道で、小路には岩槻藩領の支配をつかさどる岩槻会所がありました。
時の鐘 大イチョウ 広小路標石

 それでは岩槻城跡に向かいましょう。

広小路標石手前を左折(黄色矢印)します。

一本目の信号交差点を越すと、右手に
大手口碑があります。

更に進むと右手の電柱とカーブミラー前のネットフェンスに
岩槻城大手門跡表示板が掲げられていましたが、失われています。

小路は一旦県道2号線に突当り、右折しスグの
城址公園入口交差点を右折します。

右手の岩槻消防署前に
三ノ丸碑があります。
広小路分岐 大手口 三ノ丸 岩槻城址公園

 しばらく進み、坂を下ると左手に岩槻城址公園があります、公園一帯は
岩槻城跡です。

 岩槻城は太田道灌の築城に始まります、水堀を廻らした城郭は浮城白鶴城とも呼ばれました。

天正十八年(1590)
徳川家康江戸入府に伴ない、高力(こうりき)清長が二万石で入城し、以降岩槻城は江戸北方の守りとして代々譜代大名が入城し、日光社参将軍の宿城となりました。

園内には
岩槻城城門があります、寄棟造瓦葺の長屋門形式で黒門と呼ばれました(岩槻市指定文化財)。

先に
岩槻城裏門があります。
岩槻城見取図 岩槻城城門 岩槻城裏門

 明和七年(1770)岩槻藩主
大岡氏の家臣武藤弥太夫らを奉行として修造され、文政六年(1823)に板谷官治らを奉行として修理されました(岩槻市指定文化財)。

 岩槻城城門と裏門の間に人形塚があります、塚上の像は男雛女雛が寄り添って「人」の文字をあらわしています。

岩槻の人形作りの起源は日光東照宮造営の頃とされ、
人形塚は人形作りに心血を注いだ先達の霊を慰め、人形達の冥福を祈るために築かれました。

宿並に戻り、渋江交差点を左折し、わずかに進むと右手に浄土宗の快楽山
浄安寺があります。

参道口に
渋江町標石があります、岩槻城下九町の一つで、渋江口と田中町の間に位置します。

この付近は中世には
渋江郷と呼ばれました。
人形塚 人形像 渋江町標石

 浄安寺の山門(高麗門)は槍返しの門と呼ばれています、元は岩槻城下の田中口木戸門でした。

日光社参の行列がこの門に差し掛かると、
を立てたままでは門につかえて通れません、供侍は「不届きである」として取り壊そうとしました。

すると見送りに来ていた頑固者の城主
永井直陳(なおのぶ)は「せっかく今ある屋根を壊すことはない、槍を倒して通りなさい」と供頭に言うと、供頭は「槍を倒すことは将軍の威光にかかわる」と譲りませんが、直陳が頑として応じず、やむなく行列は槍を倒して通過しました、破壊を免れた門は浄安寺に移設されました。

浄安寺には多数の市指定文化財があります、
円空仏二躯、鎌倉時代作の木造阿弥陀如来立像児玉南柯著の版木二件です。
槍返しの門 浄安寺本堂

 墓地には岩槻城主高力清長の墓があります、高力氏は武蔵武士熊谷直実の後裔と伝え、清長は父祖以来徳川氏に従い武功を挙げ、また清廉潔白の士であったため、家康の信任が厚かった。

天正十八年(1590)
家康の関東入国の際には、江戸城防衛の重要拠点とされる岩槻城主に封じられました。

清長の没年に関しては不明ですが、享年七十九歳でした。

並びに
徳松丸竹の局の墓及び供養塔があります、徳松丸は徳川家康の六男松平忠輝と側室竹の局の子です、忠輝は粗暴の振舞いが多く、家康の勘気に触れ改易、蟄居を命じられ、母子は岩槻城主阿部重次に預けられました(さいたま市指定文化財)。
高力清長の墓 児玉南柯墓所 児玉南柯の墓

 南柯児玉先生墓所には
児玉南柯の墓があります(さいたま市指定文化財)、延享三年(1746)甲府で生まれ、十一歳で岩槻藩士児玉親繁の養子となり、十六歳で岩槻藩主大岡忠喜の小姓を勤め、江戸藩邸に詰め、昌平黌で学びました。

南柯は優れた
儒者であり、藩の要職を歴任し四十三歳で職を辞し、遷喬館を創設し、藩士の子弟らの教育にあたりました。

文政十三年(1830)病没しました、享年八十五歳でした。


 宿並に戻り、東武野田線高架をくぐり、ベルクを越してわずかに進むと右手に久伊豆神社社標があります。

ここを右(黄色矢印)に踏み込み、道なりに進み、十字路を右に約580m進むと左手に
久伊豆神社が鎮座しています、岩槻の総鎮守です。

太田道灌岩槻城の守護神として鎮座させ、徳川家康は江戸城の鬼門除けとして祈願しました。

本殿脇にはツバキ科に属する
大サカキがあります。
久伊豆神社社標 久伊豆神社 大サカキ

 この
大サカキは目通り1m50cm、高さ13mに達するもので、埼玉県でも最大級です(埼玉県指定天然記念物)

 宿並の久伊豆神社社標に戻ると、並びのさいたま市消防団岩槻第2分団倉庫脇に田中町標石があります。

岩槻城下九町の一つです、渋江町の北側にあり、町の北端には城下町の北口があり、田中口と呼ばれました。

先に進むと信号交差点の
変則十字路があります、ここが田中口跡です、岩槻城下の北口です。

ここには
番所高札場、そして槍返しの門と呼ばれた木戸門がありました。

先に進むと左手に
龍門寺があります。
田中町標石 田中口跡 出口町標石

 参道口の左手に
出口町標石があります、岩槻城大構の外の町で、田中口より元荒川田中橋までです。

 曹洞宗の玉峯山龍門寺は天文十九年(1550))小田原後北条氏の重臣佐枝若狭守が自らの館内に開創したのが始まりで、山号の玉峯山もこの若狭守の法号に因んでいます。

宝暦六年(1756)入封した岩槻藩主
大岡忠光は龍門寺を菩提寺と定めました。

薬医門形式の
山門は解体修理の際に、東側の破風登裏甲上面に寛政十年(1798)の墨書銘が発見されました。

墓地の入口には元禄十二年(1699)造立の
笠付青面金剛像庚申塔があります。
龍門寺山門 龍門寺本堂 青面金剛像

 墓地に踏み込むと通路の右手に山縣大弐先生ゆかりの地碑があります。

大弐は宝暦四年(1754)以来岩槻藩主
大岡忠光に仕え、よく輔弼(ほひつ)の役も果たし、同十年(1760)忠光が病歿すると当山寺宝の忠光行状記を著しました。

わずかに進むと右手に
後藤富哉(とみちか)の墓があります、父は岩槻藩士で、富哉は教師でありながら自由民権運動に身を投じた信念の人です。

先に進むと左手に
岩槻藩士丸山家の墓があります、初代丸山龍八は勝浦藩主であった大岡忠光に仕え、岩槻藩に入封の際に付き従いました。
山縣大弐碑 後藤富哉の墓 岩槻藩士丸山家の墓

 幕末、
丸山吉正皇女和宮の江戸下向にあたって警備責任者を勤め、その娘婿はシーボルトと親交があり、丸山家は明治時代以降は医師の家系となりました。

 墓地通路の突当りに岩槻藩主大岡忠光の墓があります(さいたま市指定史跡)、忠光は徳川九代将軍家重の側用人、若年寄を勤めました。

大岡家は三河以来の
徳川家の譜代の幕臣で、忠光は三百石の旗本でしたが、享保九年(1724)家重の小姓となりました。

家重は生来虚弱の上、障害により言語が不明瞭でしたが、忠光のみが唯一聞き分けられ異例の出世を遂げました。

宝暦元年(1751)
勝浦藩一万石に封じられ、同四年(1754)若年寄に昇進しました。
岩槻藩主大岡忠光の墓 徳川家重 徳川家重・大岡忠光

 五千石が加増され、同六年(1756)側用人に就任し、更に五千石が加増され、二万石を得て岩槻藩主に封じられました。

忠光は奢ることなく寛大な性格で、遠縁で同じく旗本から大名へと出世した
大岡越前守忠相(ただすけ)に身のあり方などを聞いていたといいます、宝暦十年(1760)死去、享年四十八歳でした、岩槻藩主大岡家は明治維新まで八代続きました。

龍門寺前を右に曲がり、 人間総合科学大学岩槻キャンパス先の信号交差点が
Y字路になっています、右が粕壁道、左が日光御成道です。
龍門寺大岡忠光像 龍門寺前 道標・地蔵尊立像

 この分岐点には元禄八年(1695)建立の
庚申塔道標「是より左ぢおんじ道 是より右かすかべみち」があり、覆屋内には地蔵尊立像が安置されています。

 信号交差点先の右手関根家の板塀角に明治廿三年(1890)建立の馬頭観世音塔があります。

先に進み
元荒川慈恩寺橋にて渡ります、元荒川は荒川の本流で、流末は中川に落合います、岩槻城の要害河川でした。

往時の元荒川は大きく蛇行し、
中洲があり田中板橋小橋板橋が架橋されていました。

大正時代の河川改修により流れは一筋になり
慈恩寺橋が架橋されました。

岩槻藩領の辻村には
新曲輪河岸元荒川河岸があり、年貢米の津出が行われました。
関根家板塀 馬頭観音 元荒川

 慈恩寺橋渡詰め左手の覆屋内に昭和三年(1928)建立の猿田彦大神道標「北 幸手町ニ至ル 東大戸ニ至る 南 岩槻町ニ至ル」が安置されています。

猿田彦大神は道や旅人の神として信仰されています。

横断歩道標識を過ぎると右手に
馬頭観世音塔があります、昭和の建立です。

岩槻工業団地入口交差点渡詰めの右手に
石橋供養塔があります、天明元年(1781)架橋の赤坂石橋を供養したものです。
猿田彦大神 馬頭観音 石橋供養塔 名残り松

 わずかに進むと右手に
名残り松があります。

 名残り松を越すと、左手にポパイラーメンがあります、刻限は12:50、頃合です。

生ビール(399円)の後は牛スジ丼半ラーメンのセット(819円)です。

牛スジ丼は初めての経験です、濃厚な牛の旨味が口中にひろがります、こりゃ牛丼よりウマイ、やみ付きです!

向かいの中国家庭料理味道脇に踏み込み、Y字路を左に進むと正面の高台に
諏訪神社が鎮座しています、天和二年(1682)慈恩寺村から分村した表慈恩寺村の産土神です。
ポパイラーメン 牛すじ丼&ラーメン 諏訪神社

 境内に神饌幣帛(しんせんへいはく)供進神社碑があります、明治から終戦に至るまで勅令に基づき県知事から歳費等が供された神社です。

境内社に熊野神社、日枝神社、天神宮、天満宮、牛頭天王、愛宕社、招魂社があります。

街道に戻り、わずかに進むと右手に
道標「是より右慈恩寺道」があります、ここが慈恩寺への南口(黄色矢印)です。

道なりに進むと約1.3km先にあります、途中には
表慈恩寺公民館があります。
神饌幣帛供進神社 慈恩寺口 慈恩寺道標

 公民館の敷地内に
青面金剛像庚申塔が三体、庚申塔が一基、馬頭観音像が一体、馬頭観世音塔一基あります。

 天台宗の華林山最上院慈恩寺は天長元年(824)慈覚大師の開山です。

徳川家康から寺領百石を拝領し、家康の位牌を安置し、岩槻藩より御供物料として二十八石四斗九升一合を拝領しました。

盛時には十三万五千坪の境内と、塔中六十六ケ坊を有する大寺でしたが、数次の災厄で灰燼に帰し、現在に至っています。

現在の
本堂は天保十四年(1843)の建立で、境内には天正十七年(1589)岩槻城主北条氏房の家臣が寄進した南蛮鉄灯籠(さいたま市指定文化財)があります。
慈恩寺山門 慈恩寺本堂 南蛮鉄灯籠

 街道に戻って先に進みましょう。

天和二年(1682)慈恩寺村から分村した
表慈恩寺村の家数は六十二軒でした。

二つ目の信号交差点を越えた右手に
地蔵堂があります、堂内には元文五年(1740)造立の陽刻地蔵尊立像が安置されています。

堂前には明治三十五年(1902)建立の
馬頭観世音塔があります。

先に進むと
上野村に入ります、化政期の家数は四十五軒でした。
地蔵堂 陽刻地蔵尊立像 馬頭観音

 上野村の津出は日光道中沿いの
権現堂河岸でした。

 街道をしばらく進み、押ボタン信号交差点を越し、右手のGS出光看板の向いを左(黄色矢印)に踏み込むと正面に真言宗智山派の医眼山宝生院があります。

参道口の左手に石仏石塔があります、右から貞享二年(1685)造立の
笠付青面金剛像庚申塔、享和三年(1803)建立の庚申塔、天和三年(1683)建立の笠付三猿庚申供養塔、万延二年(1861)建立の安産地蔵尊塔があります。 

向かいの祠内には寛文五年(1665)造立の
地蔵尊立像が安置され、並びに文政二年(1819)造立の六地蔵尊があります。
宝生院口 石仏石塔群 地蔵尊立像

 宝生院を右に回り込むと、正面の高台に鷲宮(わしのみや)神社が鎮座しています。

延暦大同(782〜810)の頃、この地に居を構えた郷士の
関根家は岩槻城主太田氏に仕え、天正十八年(1590)豊臣秀吉の北条攻めに際しては岩槻城に馳せ参じました。

鷲宮神社は
関根家の鬼門に守護神として祀られ、宝生院が別当寺でした。

街道に戻り、しばらく進み慈恩寺入口交差点を越すと右手のブロック塀の凹内に宝暦五年(1755)建立の
三猿奉造立青面金剛供養塔道標があります。
鷲宮神社 鷲宮神社本殿 庚申塔道標

 
庚申塔の右面には「是より志おんじミち」、左面には「此方よしみミチ」と刻まれています。

ここが
慈恩寺北口です、慈恩寺へ1.2kmです。

 先に進み左手のアリーナ隣のハバジッド日本入口の右に石塔が二基あります。

文化九年(1812)建立の
庚申塔道標「さって三り いわつき一り」と文化十四年(1817)建立の西國百ケ所供養塔です。

右手の鋼板フェンスの凹内に
相野原の一里塚の東塚が縮小復元されています。

向かいには道路の拡幅工事で掘削された
西塚の断面を残しています。

江戸日本橋より数えて十里、本郷追分からは九里目です。
庚申塔道標・供養塔 相野原の一里塚跡 相野原の一里塚

 左手の相野原の一里塚並びの墓地前に享保七年(1722)造立の陽刻地蔵尊立像があります。

左手のコメリの前から
杉並木が始まります、日光御成道唯一の杉並木です。

現在は二十数本を残すのみです。

コメリの並びに
日枝神社が鎮座しています、相野原村の鎮守です、化政期の相野原村の家数は十軒でした。

境内に万延二年(1861)奉納の
御神燈があります。
地蔵尊 杉並木 日枝神社

 杉並木を進み、右手のそば天ぷらの仁屋の手前を右折(黄色矢印)し、先の突当りを左折して進むと左手に和泉三社が鎮座しています。

第十六代
仁徳天皇、第十七代履中(りちゅう)天皇、第十八代反正(はんぜい)天皇の三柱を祭っています。

境内には宝永五年(1708)の
力石や宝暦九年(1759)建立の稲荷社があります。

街道に戻って先に進むと右手の祠内に明和八年(1771)建立の
青面金剛庚申塔が安置されています。
和泉三社分岐 和泉三社 青面金剛庚申塔

 下部に
三猿が陽刻され、上部に青面金剛の文字が刻まれています。

 街道は鹿室(かなむろ)に入ります、化政期の家数は六十軒で、年貢米の津出は日光道中の権現堂河岸でした。

右手のセブンイレブンを越した先の左手に曹洞宗の龍澤山
宝国寺があります。

参道口の手前に
お不動さまの祠があります、石造不動明王像が安置されています。

境内の
子育安産延命地蔵尊は宝国寺西側の沼から出現したもので、初詣、嫁入り、産前産後、子共の祝いの祈願に欠かせないお地蔵様として、親しまれています。
お不動さま 宝国寺 延命地蔵尊

 将軍日光社参の際は門外の畑地に
仮御茶屋を設け休息所としました、ここからの富士の眺望は絶景で、富士見台と呼ばれていました。

明治六年(1873)宝国寺に
鹿室学校が開校し、当時の生徒数は男子六十七人、女子三人で、現在の慈恩寺小学校発祥の地です。

 宝国寺を後にして先に進むと、鹿室交差点を越した左手の祠内にお玉さまと呼ばれる明和八年(1771)造立の猿田彦大神(青面金剛像)が安置されています。

祠内には多数の
お玉が奉納されています。

子供が
百日咳に罹ると、奉納されているお玉(柄杓)を借り、これで子供に味噌汁を飲ませ、治ると倍にして返します、これは「お玉は汁の実(身)をすくう(救う)」に由来しています。

街道を進み、左手のGSシェルを過ぎると右手に
名残り杉が聳えています。
お玉さま祠 お玉さま 名残り杉

 スグ先、左手の民家の庭内に平成二十二年(2010)建立の庚申塔があります。

先に進むと
白岡市標識があります、さいたま市との境です。

岡泉村に入ります、化政期の家数は六十軒でした。

往時は岡泉から上野田間の約一里に杉を中心とした五百五十二本の
並木がありました。

ここからしばらく進むと岡泉交差点に出ます、右折(黄色矢印)すると
安楽寺があります。
庚申塔 市境標識 安楽寺口

 真言宗智山派の朝日山遍照院安楽寺は山城國(現京都府)の醍醐報恩院の末寺で、本尊は不動明王です。

当寺には白岡市内に現存する三体の
円空仏の内の一つである円空作菩薩形坐像を安置しています(白岡市指定文化財)。

庫裏の南にある
薬師堂の厨子内に安置されている木造薬師如来坐像弘法大師の作と伝えられています。

薬師如意坐像の胎内には「応仁二年(1468)再興修理」との
墨書が残されています(白岡市指定文化財)。
安楽寺 薬師堂 薬師如来坐像

 街道に戻り、、隼人堀川往還橋にて渡ります、隼人堀川は隼人なる者が農業用水として開削しました。

隼人堀川は
栢間(かやま)に源を発し、流末は大落古利根川に落合います。

往還橋の上流に
義理橋があります、岡泉の村役人は日光社参の将軍を村境で出迎え、その後裏道を駆け抜けて先回りし、義理橋を渡り村境で将軍を見送り、義理を果たしました。

村役人が
羽織袴で裏道を駆ける姿を想像すると悲しくも、ユーモラスな気がしますね。
往還橋 義理橋 最勝寺

 彦兵衛交差点先の左手に曹洞宗の
最勝寺があります、彦兵衛新田を開発した彦兵衛の墓があるといいます。

境内には三猿が陽刻された文化十四年(1817)建立の
庚申塔、享和元年(1801)建立の庚申塔、寛永八年(1631)建立の普門品供養塔等があります。

 スグ先、左手の墓地脇の土道に踏み込むと鋼板葺き木造鳥居があり、右手の段上に安永三年(1774)創建の浅間神社が鎮座しています、彦兵衛新田村の鎮守です。

化政期の彦兵衛新田村の家数は十四軒で
一橋家領でした。

境内には天保二年(1831)寄進の
手水鉢があります。

更に進み、土道から舗装路を進み、突当りのT字路を左折すると右手に曹洞宗の金界山
大徳寺があります、新田義貞は鎌倉攻めの際、当寺に戦勝祈願をしました。
浅間神社 手水鉢 大徳寺大日堂

 境内の大日堂には大日如来坐像が安置されています(白岡市指定文化財)。

新田軍の出陣後、北条方の敗残兵が寺に火を掛け
伽藍は灰燼に帰しました。

この時、村人は猛火の中から大日如来の
頭部両手を持ち出し、寺裏の沼に投げ入れ、後日これを引き上げ仮堂に安置しました。

街道に戻り、先に進むと
下野田村に入ります、化政期の家数は六十五軒で、延享四年(1747)岩槻藩領から一橋家領となり、村内には同家の鷹場がありました。
大日如来坐像 名残り杉 正伝寺口

 下野田交差点を越し、先に進むと右手に名残り杉があります。

スグの
姫宮落川手前を左折(黄色矢印)します、ここが正伝寺(しょうでんじ)です。

 姫宮落川に沿って進み、十字路を左折すると右手に曹洞宗の聖徳山正伝寺があります、岩槻城主太田氏房の開基です。

墓地の
関山堂内に関山様(かいざんさま)が安置されています、開山様とは中興開山の大長益善のことで、亡くなる時に「婦人の病は私を信仰すれば必ず治る」と言い残しました。

以来、関山様は
婦人の病に霊験あらたかで、小絵馬を奉納する女達で賑わいました。

街道に戻り、
姫宮落川(おとしがわ)を野田橋にて渡ります、姫宮落川は笠原用水から分水し、流末は大落古利根川に落合います。
関山堂 奉納絵馬 姫宮落川

 野田橋の渡詰め左手の祠内に、嘉永四年(1851)造立の不動明王像が安置されています、不動明王は大日如来に仕え、火焔で汚れを焼き清め人々を守ります。

東武動物公園入口交差点の先に
下野田の一里塚があります、両塚を残しています(埼玉県指定史跡)、江戸日本橋より数えて十一里、本郷追分からは十里目です。

江戸日本橋を起点にした諸街道の
一里塚は慶長九年(1604)徳川家康秀忠に命じ、大久保長安を総督として、幕領は代官に、私領は領主に命じて築かせました、塚木は根張りの良いが一般的でした。
不動明王像 下野田の一里塚(西) 下野田の一里塚(東)

 下野田の一里塚を後にすると上野田村に入ります、上野田村は延享四年(1747)岩槻藩領から一橋家領となり、村内には同家の鷹場がありました。

右手のヤマト運輸の並びに桜の古木があり、根方に享和三年(1803)造立の
陽刻六地蔵尊立像が並んでいます。

上野田交差点手前の左手の覆屋内に貞享三年(1686)造立の
青面金剛像道標「是よりふじ海道原市へ二里」があります、 ふじ街道は原市(現上尾市原町)を経由して大山阿夫利神社へ至ります。
六地蔵 石塔・石燈籠 青面金剛像道標

 青面金剛像道標の右脇に
石燈籠、左脇に安永九年(1780)建立の東日本廻国供養塔があります。

 西粂原交差点手前の右手、コンビニ跡の街道沿いに錫杖を持った陽刻地蔵尊坐像があります。

西粂原交差点を越した先の左手に
西粂原鷲宮神社が鎮座しています、久米原村の鎮守です、天保十四年(1843)徳川十二代将軍家慶は宝国寺からここまで歩き、当社で軽食を摂りました。

境内には右から元文五年(1740)造立の
青面金剛像庚申塔、文化三年(1806)建立の庚申供養塔伊勢神宮参拝記念碑があります。

化政期の
久米原村の家数は百五十軒でした。
地蔵尊坐像 西粂原鷲宮神社 石仏石塔

 西粂原村は延享四年(1747)
岩槻藩領から一橋家領となり、村内には同家の鷹場がありました。

 この地は江戸開幕以来、徳川将軍家の御膝元であり、軍事上、そして江戸という大消費地を支える穀倉地帯としても重要視され、幕府直轄領(天領)、御三卿(徳川家直系の田安、一橋、清水家)の領地や旗本知行地が多数ありました。 

左手のとんかつのぶんどの先右手の白色パイプフェンスの切れ目に
僊元宮碑があります、ここに鎮座していた神社を他所に遷座させた跡です。

先に進むと、国納橋手前の左手に
青面金剛像庚申塔血神馬頭観世音塔が並んでいます、血神は地神(ぢじん)で田畑の守護神です。

備前堀川国納橋にて渡ります。
僊元宮碑 石仏石塔 国納橋

 備前堀川は
伊奈備前守忠次が幕命で開削し、流末は大落古利根川に落合います、国納橋は土橋でした。

 国納交差点を越し、東武伊勢崎線手前を右に踏み込むと左手に雷電神社が鎮座しています、国納村の鎮守です。

創立等の由緒は不詳ですが、拝殿に掲げられている
には延享四年(1747)とあります。

街道に戻り、
東武伊勢崎線を第163号踏切道にて横断します。

一本目を左に踏み込むと
和戸浅間神社が鎮座しています、 毎年六月三十日は赤子の健やかな成長を願い、親子で富士塚に登り、赤子の額に判(はん)を頂く、初山(はつやま)神事で賑わいます。
雷電神社 東武伊勢崎線踏切 和戸浅間神社

 和戸村は寛永元年(1624)国納村から分村し、化政期の家数は百軒で旗本水野氏の知行地でした。

和戸交差点手前の左手ブロック塀の凹内に
三猿が陽刻された天保十三年(1842)建立の庚申塔があります。

和戸交差点を横断し、左手のファミリーマートの裏を左折し、先に進むと正面に真言宗智山派の岩舟山
正方院があります、寛仁元年(1017)の創建です。

室町時代作の
十一面観音立像は二十五年に一度御開帳の秘仏です。
庚申塔 西方院十一面観音立像 阿弥陀如来像道標

 参道口には享保十七年(1732)建立の
阿弥陀如来像道標「左いわつき道 右くき、きさい わしのみや道」があります。

 備前前堀川和戸小橋にて渡ります、備前前堀川は伊奈備前守忠次によって農業用排水路として開削され、流末は大落古利根川に落合います。

スグ先で
大落古利根川和戸橋にて渡ります。

利根川
は河川改修により河口は江戸湾から太平洋に変更され、元の流路は(ふる)利根川として残りました。

和戸橋の右手が
備前前堀川の落合いです。

大落古利根川を渡ると、埼玉県
南埼玉郡宮代町から埼玉県北葛飾郡杉戸町に入ります。
備前前堀川 大落古利根川 古利根川治水碑

 和戸橋渡詰めの左手に昭和九年(1934)建立の
大落古利根川治水碑があります、大落(おおおとし)とは農業排水を落とす幹線排水路のことです。

 和戸橋交差点を越した右手のブロック塀の凹の中に宝暦七年(1757)建立の参姑神庚申塔道標「右すぎと道 下高野村 左さつてみち」があります。

参姑神(さんこしん)とは庚申の夜に体内から抜け出し、天帝にその人の財悪を告げる三尸(さんし)の虫を青姑(せいこ)、白姑(はくこ)、血姑(けつこ)といいます。 

和戸橋交差点を右折し、スグのY字路左に進み、突当りのT字路を右に進むと、右手に真言宗豊山派の龍燈山
永福寺があります、天平勝宝五年(753)行基菩薩の開山です。

当寺は
高野大せがき寺とも呼ばれます。
参姑神 高野大せがき寺 永福寺

 施餓鬼とは
餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養する法会です、永福寺では因幡池にどじょうを放って供養するところからどじょう施餓鬼として知られています。

永福寺の並びに
西行法師見返りの松(杉戸町指定史跡)がありましたが、失われました。

西行が旅の途中、下高野で病に倒れると、村人から手厚い看護を受け、病が癒えると村人達に礼をいい、療養中に愛でたを振り返り、振り返り再び旅立ちました。

 街道に戻り先に進み、押ボタン信号交差点を越した先の右手に下高野一里塚東塚が現存しています(埼玉県指定史跡)。

塚木の
大マツは落雷により枯れ、若マツが植えられました、江戸日本橋より数えて十二里、本郷追分からは十一里目です。

押ボタン信号交差点を二ケ所を越し、八幡神社交差点の左手に
八幡神社が鎮座しています、下高野村の鎮守です。

境内に石仏石塔群があります、右から
地蔵尊立像馬頭観世音塔青面金剛像庚申塔、文化十二年(1815)建立の庚申塔です。
下高野の一里塚 八幡神社 石仏石塔群

 元禄七年(1694)造立の
青面金剛像庚申塔は道標を兼ねており、左側面に「右江戸かい道」、右側面には「左いわつきかい道」と刻まれています。

 下高野村は日光道中杉戸宿の助郷を勤めました。

次の信号交差点手前の右手に
天神社が鎮座しています、中世に幸手を支配した一色氏の家臣が幸手城下の裏町天神神社を勧請したものです。

スグの左手に
名残り松があります、かつては松並木でしたが今はこの二本を残すのみです。

先に進むと左手の千明社の手前に
幸手市標識があります、北葛飾郡杉戸町との境です。

先で
圏央道高架をくぐります。
天神社 名残り松 圏央道高架

 化政期の上高野村の家数は二百十七軒で日光道中幸手宿助郷を勤めました。

圏央道先の信号交差点手前の左手に文化十四年(1817)建立の
馬頭観世音菩薩道標があります(幸手市史跡)。

右面に「西 く記(久喜) 志ようぶ(菖蒲) かず(加須)道」、左面には「右 日光 左 いわつき 道」と刻まれています。

信号交差点を渡ると、左手に
葛西用水竣功記念碑があります、葛西用水は見沼代用水(埼玉県)、明治用水(愛知県)とともに日本三大農業用水の一つです。
馬頭観音道標 左いわつき 右日光 葛西用水記念碑

 街道が右にカーブすると左手に正徳二年(1712)造立の青面金剛像があります。

この庚申塔の後方に
琵琶溜井(びわためい)があります。

万治三年(1660)関東郡代
伊奈忠克が、利根川の水を幸手領に導くため、古利根川を整備し貯水池としました、その形状が弦楽器の琵琶に似ているところに由来しています。

貯水した水は
圦桶(いりひ)という水門から葛西用水、中郷用水、南側用水に分水されたところから、土地の人は琵琶溜井を樋の上と呼びました。
琵琶溜井口 青面金剛像庚申塔 琵琶溜井

 PM4:28 幸手追分に到着

 突当りの信号交差点が幸手追分です、日光御成道(白色矢印)は右からの日光道中(黄色矢印)に落合います。

この幸手追分の右手には
日光道中・日光御成道合流点解説があります。

幸手追分の左手にあったスーパー
ベルクは廃業になりました。

往路の日光社参の
将軍は幸手宿に入ると聖福寺で休息し、以降は日光道中を踏襲し、古河城宇都宮城を宿城とし、日光東照宮に詣でました。
幸手追分 幸手追分解説 ベルク廃業

 日光御成道の前半は
武蔵野台地を貫く坂の連続でタフな道筋でした。

しかし中盤以降街道はフラットになり、長閑な
街道ウォークが堪能できます。

それでは
幸手宿で打上げです!


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