東神奈川駅からJR京浜東北線に乗車し、南浦和駅でJR武蔵野線に乗換え、東川口駅で下車です。 徳川歴代将軍の日光社参御成道の後半です、我々もトレースしてみましょう。 天気は上々です!
わずかに進むと左手の共同住宅の並びに不動祠があります、石造不動明王坐像が安置されています。
実態は秀忠の若い側近と家康の旧臣本多正純との世代交代による確執に他なりません、本多正純は流罪となり、本多家は改易になりました。
天保十四年(1843)の日光御成道宿村大概帳によると大門宿の家数は百八十軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠六軒、人数は八百九十六人で、宿長は七町二十三間(約805m)でした。
明治の世になると大門神社と改称し、神仏分離により別当寺の華蔵寺は廃寺となりました。
消防団施設前の押ボタン信号交差点を右に踏み込むと左手に辻村原山庚申塔と呼ばれる安永六年(1777)造立の笠付青面金剛像庚申塔があります。
境内には鎌倉時代建立の阿弥陀一尊種子板石塔婆があります(さいたま市指定有形文化財)。
一説によると国昌寺の山門に施された左甚五郎作の竜を釘付けにすると災いは納まったといいます。
この獅子舞は奥州に下向する際に、兵士の士気を鼓舞するために舞ったものです(さいたま市指定無形民俗文化財)。 獅子舞に用いる獅子頭、衣裳、道具類はさいたま市指定有形民俗文化財です。 化政期の辻村は家数七十軒で、大門宿の助郷を勤めました。
境内社に稲荷社、琴平社、疱瘡社があります。
この辺りは植木の苗木を江戸界隈に供給する産地でした、今でも街道筋には植木商が多数あります。 左手にさぎ山記念公園があります、往時は野田の鷺山と呼ばれました。 紀州徳川家御囲鷺として保護され、国の特別天然記念物に指定されましたが、サギの飛来が途絶え解除されました。
尚、日光社参は家慶を最後に再び行われることはなく、二十五年後に江戸幕府は瓦解しました。
仏道修行を妨げる第六天魔王を祀っていましたが、神仏分離により第六天神社となりました。
当寺に安置していた円空仏(阿弥陀像)は埼玉県立博物館へ寄託されています(さいたま市指定文化財)。
境内には不動明王像、安永六年(1777)造立の笠付青面金剛像庚申塔があります。
宮ケ谷塔(みやがやとう)村は徳川二代将軍秀忠の乳母であった大姥局(おおうばのつぼね)の旗本岡部家の知行地でしたが、安永元年(1772)八代目岡部徳五郎が酩酊の挙句、抜刀狼藉に及び知行没収となりました。
セブンイレブン先の信号交差点を左折(白色矢印)します、この分岐点にあった人形の秀月はなくなりました。
東北自動車の岩槻高架をくぐり、左手の跨線橋階段を上ります。
覆屋内に金刀比羅宮が祀られています、毎年二月十日境内でだるま市が立ちます。
白壁塀の辺りに唯一、類焼を免れた山門が残されていましたが撤去されました。 押ボタン信号交差点を越すと、左手に人形歴史館があります、寛永十三年(1636)日光東照宮造営に従事した伏見の人形師が岩槻に定住し、人形作りを始めました。 現在、人形歴史館は撤去され、更地になっています。
市宿町は加倉口から久保宿町間で、町名は町内で開かれた市に由来しています。
この里程標の左面には「江戸日本橋 九里」、右面には「京三条大橋 百四十二里」と刻まれています。
墓地には太田氏資宝篋印塔があります(さいたま市指定文化財史跡)、永禄十年(1567)三船山合戦で小田原北条軍の殿軍を勤め戦死しました、享年二十五歳でした。
歩道側に岩槻宿本陣趾灯籠型標石があります、標石の下部に「是り先200m左側」と記されています。
月待供養とは二十三日などの月齢の夜に講中が集い、飲食を共にする民間信仰で、月宮殿におわす月天子を拝み、無病息災を願う宗教行事です。
この大構は天正年間(1573〜92)小田原後北条氏と豊臣政権との緊張が高まると、岩槻城主太田氏房は防御力を強化する為、城下町側に土塁を築き、外側には堀を巡らせ、その長さは約8kmにも及びました。
しばらく進み、坂を下ると左手に岩槻城址公園があります、公園一帯は岩槻城跡です。
明和七年(1770)岩槻藩主大岡氏の家臣武藤弥太夫らを奉行として修造され、文政六年(1823)に板谷官治らを奉行として修理されました(岩槻市指定文化財)。
南柯児玉先生墓所には児玉南柯の墓があります(さいたま市指定文化財)、延享三年(1746)甲府で生まれ、十一歳で岩槻藩士児玉親繁の養子となり、十六歳で岩槻藩主大岡忠喜の小姓を勤め、江戸藩邸に詰め、昌平黌で学びました。 南柯は優れた儒者であり、藩の要職を歴任し四十三歳で職を辞し、遷喬館を創設し、藩士の子弟らの教育にあたりました。 文政十三年(1830)病没しました、享年八十五歳でした。
この大サカキは目通り1m50cm、高さ13mに達するもので、埼玉県でも最大級です(埼玉県指定天然記念物)
参道口の左手に出口町標石があります、岩槻城大構の外の町で、田中口より元荒川田中橋までです。
幕末、丸山吉正は皇女和宮の江戸下向にあたって警備責任者を勤め、その娘婿はシーボルトと親交があり、丸山家は明治時代以降は医師の家系となりました。
この分岐点には元禄八年(1695)建立の庚申塔道標「是より左ぢおんじ道 是より右かすかべみち」があり、覆屋内には地蔵尊立像が安置されています。
わずかに進むと右手に名残り松があります。
公民館の敷地内に青面金剛像庚申塔が三体、庚申塔が一基、馬頭観音像が一体、馬頭観世音塔一基あります。
上野村の津出は日光道中沿いの権現堂河岸でした。
庚申塔の右面には「是より志おんじミち」、左面には「此方よしみミチ」と刻まれています。 ここが慈恩寺北口です、慈恩寺へ1.2kmです。
下部に三猿が陽刻され、上部に青面金剛の文字が刻まれています。
将軍日光社参の際は門外の畑地に仮御茶屋を設け休息所としました、ここからの富士の眺望は絶景で、富士見台と呼ばれていました。 明治六年(1873)宝国寺に鹿室学校が開校し、当時の生徒数は男子六十七人、女子三人で、現在の慈恩寺小学校発祥の地です。
彦兵衛交差点先の左手に曹洞宗の最勝寺があります、彦兵衛新田を開発した彦兵衛の墓があるといいます。 境内には三猿が陽刻された文化十四年(1817)建立の庚申塔、享和元年(1801)建立の庚申塔、寛永八年(1631)建立の普門品供養塔等があります。
下野田交差点を越し、先に進むと右手に名残り杉があります。 スグの姫宮落川手前を左折(黄色矢印)します、ここが正伝寺(しょうでんじ)口です。
青面金剛像道標の右脇に石燈籠、左脇に安永九年(1780)建立の東日本廻国供養塔があります。
西粂原村は延享四年(1747)岩槻藩領から一橋家領となり、村内には同家の鷹場がありました。
備前堀川は伊奈備前守忠次が幕命で開削し、流末は大落古利根川に落合います、国納橋は土橋でした。
参道口には享保十七年(1732)建立の阿弥陀如来像道標「左いわつき道 右くき、きさい わしのみや道」があります。
和戸橋渡詰めの左手に昭和九年(1934)建立の大落古利根川治水碑があります、大落(おおおとし)とは農業排水を落とす幹線排水路のことです。
施餓鬼とは餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養する法会です、永福寺では因幡池にどじょうを放って供養するところからどじょう施餓鬼として知られています。 永福寺の並びに西行法師見返りの松(杉戸町指定史跡)がありましたが、失われました。 西行が旅の途中、下高野で病に倒れると、村人から手厚い看護を受け、病が癒えると村人達に礼をいい、療養中に愛でた松を振り返り、振り返り再び旅立ちました。
元禄七年(1694)造立の青面金剛像庚申塔は道標を兼ねており、左側面に「右江戸かい道」、右側面には「左いわつきかい道」と刻まれています。
日光御成道の前半は武蔵野台地を貫く坂の連続でタフな道筋でした。 しかし中盤以降街道はフラットになり、長閑な街道ウォークが堪能できます。 それでは幸手宿で打上げです!
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