正月の三日湘南新宿ライン、AM6:31大船駅で一人、横浜駅で一人、新川崎駅で一人、大崎駅で一人、そして渋谷駅で一人が乗車、5人の男達が集結した。 電車は定刻通り宇都宮駅に到着した。 男達は知っていた今日は強行軍になる。 総距離は約36km、単純に時速6kmで割っても正味6時間、しかし街道の全般は緩やかではあるが上り坂の連続である。 しかも出立時間は遅く、日暮れは早い、男達は無言で出立した。
天保三年(1832)武州三峰山(火防の神)の分身を祀ったのが始まりです。
境内には日限地蔵尊があります、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩です。 宝勝寺の参道口辺りに宇都宮の一里塚があったともいいますが位置は不明です、塚木は杉でした、江戸日本橋より数えて二十七里目です。
尊皇攘夷を説き、後世に大きな影響を与え、業半ばにして病に倒れ、文化十年(1813)江戸で生涯を閉じました、享年四十六歳でした。
戸祭村の地名は土を祀る土祭が転訛して戸祭となりました、宇都宮藩領で年貢米の津出しは鬼怒川の石井河岸でした。
地蔵堂裏の妙吉塚は直径約12m、高さ約3mで塚上には宝篋印塔が安置されています。
釜川を弁天橋で渡ります、釜川は弁天沼に源を発し、流末は田川に落合います、釜川流域の地形が侵食によって釜のような形をしているところに由来しています。
奥州に落ち延びた義経を追う静御前の桜の杖が根付いたものと伝わっています。
そして左が六地蔵石憧です、これらが安置されています
見目(けんもく)家宅の裏庭に傍示杭「従是(此)西日光山御領」があります、元は徳次郎宿と下石那田村の境にありましたが、官軍の戊辰戦役日光山攻めに際して徳川家所縁の地であるとの誤解を避ける為に名主を勤めた当家がここに隠しました。
残念ながらこの店にはランチセットがありません、単品オーダーです、 ウーン物足らないイマイチ。
大沢宿を後にすると右手に八坂神社が鎮座しています、境内には文政五年(1822)建立の御神燈があり、鳥居前には二本の杉の根元が癒着した二又杉の切株があります。
幕府の老中が日光参詣の帰途、鬼怒川上流の景勝地籠岩(かごいわ)の遊覧を望んだところに由来しています。
山伏千手院跡の先を左に入ると水無高竃(たかおがみ)神社が鎮座しています、水無村の鎮守で雨乞いの神を祀っています、境内の御神燈は明治四十五年(1912)の建立です。
男体山は山岳信仰の聖地で日光二荒山神社の奥宮が祀られています。
日光杉並木植栽以前の杉並木です。 更に進むと左手に桜杉があります、根元から1.5m上の割れ目に山桜が寄生し成長したものです。
こばやし歯科医院の向いに和尚塚があります、行き倒れの僧を葬った塚といわれています、戊辰戦役今市の戦いで戦死した旧幕府軍の首級が今市宿下木戸に晒され、里人が密かにここに埋葬しました。
報徳二宮神社は明治三十一年(1898)二宮尊徳を祭神として創建されました。 社殿の裏には二宮尊徳の墓があります。
それでは宿並に戻りましょう、小倉町交番の並びに渡邉佐平商店があります、創業天保十三年(1842)銘酒日光誉の蔵元です、仕込みには日光山麓の名水を用いています。
ここにあった木柱道標は哀れにも倒れています、この木柱道標には「旧会津西街道相之道通り 日光市(神橋)まで8キロ(2里)会津若松市まで12キロ(28里)と記されています。 浄泉寺と玄樹院の間に会津西街道(会津古道)があり間の道と呼ばれ、いつしか転訛して相之道となりました。
文久二年(1862)二宮尊徳の子弥太郎が創建しましたが、戊辰戦役で焼失し、子の金之丞によって再建されました、そばを献上して祈願すると夜泣きに霊験あらたかといいます。
六斎市の守護神で、元は今市宿中央の水路に鎮座していましたが、明治十八年(1885)ここに遷座されました。
園内に重連水車があります、今市の名産であった杉線香の生産の動力源として利用されました。
この辺りは戊辰戦役の激戦地で、杉の幹に官軍が放った砲弾が当たって破裂した痕跡を残しています。
生岡(いきおか)神社は七里村の鎮守です、神事の強飯式(ごうはんしき)は日光市指定文化財、境内には推定樹齢五百年のスギや三百年のエゾエノキがあります。 七里村は生岡から神橋までの六町を一里として七里あるところに由来しています、麻の七里頭巾が名物でした。
しかし水戸藩内で保守派による尊王攘夷派の排斥が始まると、一行は筑波山へと引き返しました。
鉢石方面からは東和町交差点左の杉並木道に入ります。 国道119号線を進むと、再び杉並木になり、相生町交差点を越し、東武日光駅前交差点で日光杉並木街道は終了します。
JR日光線の日光駅前脇には享和二年(1802)男体山、出羽三山の講中が建立した日光型常夜燈があります。
本堂脇には戊辰戦役で戦死した芸州藩士の墓があります。
日光山輪王寺御用で寺紋章の鎹山(かすがいやま)を掲げています。
風化が進み彫が浅くなったため、碑の拓本を1.5倍に拡大したものです。
当寺は寛永四年(1627)天海大僧正から鉢石山無量寿院観音寺の三号を賜って天台宗に改宗し、日光山輪王寺の直末(じきまつ)となりました。
凍り付いた男たちは日光道中完歩の感慨にひたっているどころではありませ、今来た道を猿(ましら)の如く下ってゆきます。 開いている居酒屋さんに飛び込みます、煮えたぎるような熱燗、次に焼酎のお湯割り、そして湯波ちゃんこ鍋です。 凍り付いていた男たちは次第に溶け出して、次は何処だ何処だと騒がしくなります。 新年会も兼ねています、本年もよろしくお願い致します。
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