道中日記  1-141 日光道中 ( 宇都宮 - 日光鉢石 ) 35.7km

 正月の三日
湘南新宿ライン、AM6:31大船駅で一人、横浜駅で一人、新川崎駅で一人、大崎駅で一人、そして渋谷駅で一人が乗車、5人の男達が集結した。

電車は定刻通り
宇都宮駅に到着した。

男達は知っていた今日は
強行軍になる。

総距離は約36km、単純に時速6kmで割っても正味
6時間、しかし街道の全般は緩やかではあるが上り坂の連続である。

しかも出立時間は遅く、日暮れは早い、男達は無言で
出立した。

 平成18年01月03日 AM9:15 宇都宮宿出立 徳次郎宿まで10.4km 

 奥州道中追分が出立点です!

幕末官軍は宇都宮藩を屈服させると、兵力を二手に分け、一方は
奥州道中を進軍し、東北諸藩の鎮圧に向い、もう一方は大鳥圭介が率いる旧幕府が立て籠もる日光山の制圧に向かいました。

それでは日光道中である
本郷町通りに入ります、すると右手に蔵造りの旧商家(株式会社上野)があります、油を商い副産物の油粕を肥料として農家に販売していました。

わずかに進むと左手に
三峯神社八坂神社が鎮座しています。
奥州道中追分 旧商家 三峯神社

 天保三年(1832)
武州三峰山(火防の神)の分身を祀ったのが始まりです。

 先を右に入ると真言宗智山派摩尼山延命院があります、康平六年(1063)宇都宮氏の初代当主である藤原宗円の開基です。

本尊の
木造延命地蔵菩薩立像は大仏師定朝の作です、安置している地蔵堂は享保年間(1716~35)の建立で市内最古の木造建築物です。

山門前には
蒲生君平先生少年時代修学の寺碑があります、君平は明和五年(1768)新石町で生まれ、六歳の時、自宅から近い、ここ延命院の住職良快から読み書きの手ほどきを受けました。

宿並に戻ると左手に時宗
宝勝寺があります、七代城主宇都宮景綱の創建です。
蒲生君平碑 延命院地蔵堂 宝勝院

 境内には
日限地蔵尊があります、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩です。

宝勝寺の参道口辺りに
宇都宮の一里塚があったともいいますが位置は不明です、塚木はでした、江戸日本橋より数えて二十七里目です。

 スグ先の信号交差点辺りが宇都宮宿日光(北)です。

この交差点の右手に
琴平神社が鎮座しています、四国金毘羅山の分霊を祀っています、境内には清住不動尊があります。

並びに曹洞宗松峰山
桂林寺があります、応永三年(1396)十二代城主宇都宮道綱の創建です、当寺は戊辰戦役の際、官軍の大垣藩と長州藩の官舎となり、会津藩の奇襲を受け灰燼に帰し、その後再建されました。

墓所には
蒲生君平の墓があります、近畿地方などの陵墓の研究書である山陵志を著しました。
琴平神社 桂林寺 蒲生君平墓

 
尊皇攘夷を説き、後世に大きな影響を与え、業半ばにして病に倒れ、文化十年(1813)江戸で生涯を閉じました、享年四十六歳でした。

 街道に戻り清住町通りを進むと右手に土蔵造りの旧商家があります。

次いで道筋に
鍵の手(枡形)の痕跡を残しています。

先に進むと、押ボタン式歩車分離信号の左手に
勝善神(そうぜんしん)が祀られています、神道の牛馬の守護神で仏教系の馬頭観音にあたります。

松原3丁目交差点を直進し、国道119号線日光街道に合流します、松原から中戸祭町に入ります。
土蔵造りの旧商家 鍵の手 勝善神の碑

 
戸祭村の地名は土を祀る土祭が転訛して戸祭となりました、宇都宮藩領で年貢米の津出しは鬼怒川の石井河岸でした。

 国道を進み栃木医療センター前交差点を左に入ると栃木医療センターの敷地内に宝の木があります、学名は猿の手柏(コノテカシワ)で、推定樹齢四百五十年以上です。

明治五年(1872)土地区制が施行され、この辺りの集落が併合され、この老木の
宝の木の名称に因んでこの地区を宝木(たからぎ)と称しました。

明治四十年(1907)宝木地区は
宇都宮第十四師団の駐屯地となり、ここ栃木医療センターは師団司令部となり、その庭木として移植され現在に至っています。

国道に戻って進み、時差式信号を越し、中戸祭バス停を左に入ると
柿塚神社が鎮座しています、境内の神輿庫には石橋町無形文化財神輿師作の精巧な神輿が収蔵されています。
宝の木 柿塚神社

 上戸祭町交差点を過ぎると左手の上戸祭公民館の敷地内奥に薬師如来を安置する薬師堂があります。

堂脇には文政五年(1822)建立の
如意輪観音像十九夜供養塔等の石仏石塔群があります。

次いで一本目を左に入ると右手に
高尾神社が鎮座しています、境内には至徳四年(1387)建立の聖金剛佛子妙言貞禅碑や地蔵堂には妙吉安産子育高地蔵尊が安置されています。
薬師堂 高尾神社 妙吉地蔵尊 高塚

 地蔵堂裏の
妙吉塚は直径約12m、高さ約3mで塚上には宝篋印塔が安置されています。

 宇都宮環状線を宮環上戸祭町交差点にて横断するとサクラの古木並木になります。 

その後、次第に
ヒノキが混じる並木となります。

上戸祭四丁目バス停を過ぎると文星芸術大学の手前に
上戸祭の一里塚があります、両塚を残しています。

昭和五十八年(1983)に修復整備され、
西塚にはヒノキが植栽されています、江戸日本橋より数えて二十八里目です。
桜並木 雑木並木 上戸祭の一里塚 西塚

 
釜川弁天橋で渡ります、釜川は弁天沼に源を発し、流末は田川に落合います、釜川流域の地形が侵食によって釜のような形をしているところに由来しています。

 宇都宮野沢郵便局を過ぎると左手に真言宗智山派宝珠山玉塔院光明寺があります、文禄二年(1593)の創建で薬師堂に安置されている野沢桜本薬師は里人から篤く信仰されています、将軍日光社参の際は境内に御茶屋が設けられました。

野沢村は宇都宮宿と徳次郎宿の中間に位置する間の宿で光明寺前に立場がありました。

光明寺向いの新聞店前から斜め右に入り、二本目を右折し、次いで一本目を右折、先を斜め左に進み、十字路を過ぎると左手の亀田家の庭内に
静桜(しずかざくら)の古木があります、一枝に八重一重の花が咲き、兜のような珍しい花も咲くといいます、根方には五輪塔が祀られています。
光明寺 静桜 五輪塔

 奥州に落ち延びた
義経を追う静御前桜の杖が根付いたものと伝わっています。

 街道に戻って進みましょう、左手の松本医院先を左に入り、突当りを右に進むと六所神社が鎮座しています、藤岡新田村の総鎮守です。

藤岡新田村は
上州藤岡の者がこの地で新田開発を行ったところを由来としています、、境内や並びには宝篋印塔、一石六地蔵、弘化四年(1847)建立の如意輪観音像十九夜供養塔等が多数あります。

街道に戻ると
下金井町に入ります、下金井村は当初宇都宮藩領で嘉永三年(1850)より幕府領となりました、徳次郎宿の助郷村で、年貢米の津出しは約三里余離れた鬼怒川の石井河岸でした、嘉永五年(1852)二宮尊徳が村内の低台地にスビ、ヒノキを植栽し二宮林と呼ばれました、二宮尊徳は日光神領八十九ケ村の復興に尽力しました。
六所神社 二宮尊徳

 街道に戻って進むと東北自動車高架の手前に高谷林(こうやばやし)の一里塚の両塚があります。

東塚は昭和五十八年(1983)に補修され塚木は西塚は原型を残し塚木はです、江戸日本橋より数えて二十九里目です。

東北自動車高架をくぐると右手の高台に宇都宮市水道今市水系の
第六接合井があります。

大正四年(1915)建設の
水道施設今市浄水場からの浄水を約25km、標高差約240mの戸祭配水場までの送水管にかかる水圧を調整しています、六角形の赤レンガと大谷石造りの上屋(うわや)は登録有形文化財指定です。
高谷林の一里塚 西塚 第六接合井

 PM12:03 徳次郎宿着 大沢宿まで9.6km

 山王団地入口交差点を越すと左手の囲いの中に大谷道道標があります、この道標には大谷道下徳次郎と刻まれています、かつてはここから大谷観音への道がありましたが廃道になりました。

富屋小学校前辺りが
下徳次郎宿の江戸(南)口です、徳次郎宿に到着です!

徳次郎(とくじら)宿は下、中、上の三宿で一宿とし、問屋は各宿にあり、月のうち上十日は中徳次郎宿、中十日は上徳次郎宿、下十日は下徳次郎宿が勤めました。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると宿内家数は百六十八軒、うち本陣二、仮本陣一、脇本陣三、仮脇本陣一、旅籠七十二軒で、宿内人口は六百五十三人(男三百三十九人、女三百十四人)でした。

徳次郎の地名の起こりは宝亀九年(778)
日光二荒山より智賀津明神(徳次郎明神)を勧請した際、日光山の久次郎(くじら)に対して外なるところから外久次郎(そとくじら)と称し、いつしか転化して徳次郎(とくじら)となりました。
大谷道道標

 予告信号灯の手前を左に入ると、右手に赤岡神社が鎮座しています、社殿脇には下町屋台庫があります。

押ボタン式信号の手前左手に荒廃が進んだ
山門があります、宝暦元年(1751)の建立です。

参道を進むと
薬師堂があります。

境内の覆屋内には右から
三面六臂馬頭観音像、台石に「右山道 左氏家 白沢道」と刻まれ道標を兼ねています、中央は文久三年(1863)建立の如意輪観音像十九夜塔です、
赤岡神社 薬師堂山門 薬師堂 石仏石塔

 そして左が
六地蔵石憧です、これらが安置されています

 宿並向いのお食事処瀬戸内海の所に標識「徳次郎城跡→300m」があります、それでは踏み込んでみましょう、道なりに進むと左手に鳥居があり、ここから約50m進むと徳次郎城址です、外堀内堀本丸等の標識が立木に表示され、土塁堀跡等を残しています。

徳次郎城
は後北条氏と手を結び宇都宮氏侵攻を企てる日光山僧兵の動きを封じるために二十二代城主宇都宮国綱の家臣新田徳次郎昌言が築いた平城です、宇都宮氏の滅亡にともない廃城となりました。

宿並に戻って進むと
徳次郎交差点手前の左横道に田中道道標があります、この道標には「神社入口道約五丁田中道」と刻まれています、神明神社への道標です、それでは田中道に踏み込んでみましょう。
徳次郎城口 徳次郎城址 田中道道標

 国道293号線を横断すると右手に痣地蔵尊が祀られています、土中から掘り出された地蔵尊で(あざ)や(いぼ)に霊験あらたかです。

それでは宿並に戻って進みましょう、徳次郎交差点の表記は
Tokujiroになっています。

晃陽中前歩道橋をくぐり、右手の日光高原たまり漬店を過ぎると
智賀都(ちかつ)神社参道口の左右に長寿の夫婦欅が聳えています、推定樹齢約七百年で栃木県指定天然記念物です。

智賀都神社は宝亀九年(778)日光二荒山神社の分霊を勧請し千勝森(ちかつのもり)に祀りました、徳次郎六ケ郷の鎮守です。
痣地蔵尊 長寿の夫婦ケヤキ 智賀都神社

 宿並に戻ると中央分離帯に徳次郎六本杉が復元されています。

先に進むと右手に
宇都宮市大網町入口標石があります、並びに案内標識「にのみやぜき公園 350m→」があります、踏み込んで一本目を右に進むと二宮堰があります。

二宮堰は
二宮尊徳による設計で、村人の協力を得て安政六年(1859)に完成しました、田川に堰を築き水位を上げて取水し、徳次郎、宝木を経て宇都宮まで灌漑用水を引き宝木用水と呼ばれました、親水公園の北にこの取水口があります。

二宮尊徳は天明七年(1787)相州小田原の農家に生まれ、長じて小田原藩の家老服部家の財政を再建させ、武士に取り立てられた、天保十三年(1842)幕府に召し抱えられ普請役格となり、弘化元年(1844)幕命により疲弊した日光神領八十九ケ村の復興に尽力しました。
徳次郎六本杉 二宮堰入口

 街道は徳次郎から石那田に入ります。

船生(ふにゅう)街道入口交差点を越すと右手に石那田の一里塚があります、北塚を残しています、六本木の一里塚とも呼ばれます、江戸日本橋より数えて三十里目です。

街道を挟んで向かいに
日光街道植樹記念碑があります、昭和二十六年(1951)と翌年に山桜千八百本、二百本、ツツジ千五百本が街道筋に植樹されました。

スグ先左手の段上の覆屋内に天保十一年(1840)建立の
如意輪観音像十九夜塔が安置されています、傍らには馬頭観音像等があります。
石那田の一里塚 植樹記念碑 十九夜塔

 先に進むと右手に標柱「二宮尊徳先生遺跡 石那田堰 100米」があります、それでは踏み込んでみましょう。

スグの十字路右手に大谷石製の祠があります、中には
如意輪観音像十九夜塔地蔵尊が安置されています。

突当りの田川手前を右に進むと右手に
石那田堰跡があります、嘉永五年(1852)二宮尊徳の指導で堰が築かれ、上中下徳次郎、西根、田中、門前に用水を引きました、一角に二宮金次郎像や石祠、記念碑等があります。

十字路に戻り右に進むと右手に
見目宅があります。
大谷石製祠 石那田堰跡 傍示杭

 見目(けんもく)家宅の裏庭に
傍示杭「従是(此)西日光山御領」があります、元は徳次郎宿と下石那田村の境にありましたが、官軍の戊辰戦役日光山攻めに際して徳川家所縁の地であるとの誤解を避ける為に名主を勤めた当家がここに隠しました。

 街道を進むと右手に第五接合井があります、この接合井は標高が約30m下がるごとに六ケ所に設置されました。

先に進むと右手の段上に
石祠や神道系の馬頭観音である馬力神が祀られています。

猪倉街道入口交差点を横断します、
猪倉(いのくら)を経由して日光壬生道に至ります。

田川田川大橋で渡ります、田川は日光七里に源を発し、流末は鬼怒川に落合います、上流は石那田川と呼ばれました、田川大橋は石灘の大橋」と呼ばれ、長さ八間、幅二間半でした。

石那田石灘と呼ばれ石が多く田畑の耕作に難渋しました、二宮尊徳の指導で田川に堰が築かれると徳次郎村との水争いが解消されました。
第五接合井 石祠&馬力神

 田川大橋を渡ると左手に石那田八坂神社御仮屋が鎮座しています、天王祭は夏の厄病退散祈願で、七月下旬に一週間かけて行われます。

祭典は
八坂神社本殿から御神体を神輿に乗せて、ここ御仮屋に移す下遷宮(げせんぐう)から始まり、一週間御仮屋に遷座し、最終日に神輿の帰還とともに六台の彫刻屋台が本殿に繰り込む上遷宮(じょうせんぐう)で締めくくりとなります。

先に進むと右手の段上に
金勢(こんせい)が鎮座しています、祠内に男石が安置されています、傍らには金勢大明神と刻まれた文化七年(1810)建立の石灯籠や嘉永五年(1852)建立の道陸人(どうりくじん)と呼ばれる道祖神があります。
八坂神社 天王祭彫刻屋台 金勢様

 石那田バス停を過ぎると左手に石仏石塔があります、中央は台石に三猿が刻まれた青面金剛像庚申塔です。

ここを左に入り日光宇都宮線高架をくぐって進むと
石那田八坂神社本殿が鎮座しています、石那田村の鎮守です。

明暦元年(1655)村に疫病が大流行したため、山城國の
八坂神社から分霊を願い受けて鎮座させ祭礼を行ったところ疫病が平癒しました、天王祭猿田彦(天狗の神)が先役となって行われます。

街道に戻って進むと
海老王子バス停があります、王子の地名は熊野九十九王子に由来しています、杉並木の植栽に際して、杉苗が熊野から運ばれ、熊野の杉職人がこの地に滞在しました、この人々が地元の日本ザリガニを故郷の伊勢海老にちなんで海老と呼びこれが地名の由来となりました。
石仏石塔 石那田八坂神社本殿

 原石那田バス停を過ぎると左手に案内標識「エドヒガン」があります、ここを左に入ると宇都宮市指定天然記念物の石那田のエドヒガンがあります、推定樹齢五百五十年、樹高19mで例年三月末頃に開花します。

松本バス停を過ぎると左手の段上に赤い布をまとった
お願い地蔵が祠内に安置されています、享保十五年(1730)の造立です。

自身の体の悪い所と地蔵の同じところに赤い布を付け、お願いすると御利益があるところから
お願い地蔵と呼ばれています。

地蔵尊の前には三個の
丸石があります、願をかけて内一個を持ち上げ、軽ければ願いが叶うというところから占い地蔵とも呼ばれています。

祠の並びには
十九夜念仏供養塔廿三夜供養塔庚申供養塔等が祀られています。
石那田のエドヒガン お願い地蔵

 上小池バス停を過ぎると右手に新渡(にわたり)神社が鎮座しています、御神体は石造不動尊です、参道口には文化七年(1810)建立の御神燈があります、上小池村の鎮守でしょう。

次いで左手に
上小池の一里塚があります、南塚の痕跡を残しています、塚木は松でした、江戸日本橋より数えて三十一里目です。

上小池村は徳次郎宿と大沢宿の中間に位置する間の宿立場がありました。

わずかに進むと左手に国土交通省国土地理院
水準点があります、この奥の民家の庭内に首の欠けた地蔵尊如意輪観音像十九夜塔があります。
新渡神社 上小池の一里塚 石仏

 スグ先で宇都宮市から日光市に入ります、この市境標識左手の民家口に馬力神が祀られています。

次いで右手の
第四接合井の手前に宝永七年(1710)建立の奉納大乗妙典日本六十六部供養塔があります、六十六部達成記念碑です。

先に進むと左手に
馬頭観世音が斜面に祀られています。

山口バス停を過ぎると右手に
そば処栗山があります冷えた体にはカレーうどんでしょう。
馬力神 六十六部供養塔 馬頭観音 カレーうどん

 残念ながらこの店にはランチセットがありません、単品オーダーです、 ウーン物足らない
イマイチ

 街道に戻って進むと、青少年スポーツセンター入口バス停手前の右手に地蔵尊、石燈籠、石祠等があります、弥勒堂跡ともいわれます。

山口交差点先の
Y字路を右(白色矢印)に入ります、分岐ポイントはホテルセシールです。

旧道に入ると左手に
杉並木寄進碑があります、徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた武州川越藩主松平正綱が寛永二年(1625)から約二十年の歳月をかけ、街道沿いに杉並木を植栽し、家康三十三回忌に東照宮に寄進しました、碑は日光神領との境界にあるところから境石と呼ばれました、傍らに特別史跡・特別天然記念記念物日光杉並木街道碑と解説板があります。
弥勒堂跡 大沢分岐 杉並木寄進碑

 PM2:05 大沢宿着 今市宿まで7.3km

 日光神領に入ると、何故か空気がピーンと張り詰めています、日光道中ウォークのクライマックスは正にここからです。

杉並木街道は舗装路になっていますが、それ以外は往時のままの原風景そのもです。

杉並木を進むと
大沢交差点に出ます、ここが大沢宿の江戸(南)口です、大沢宿に到着です!大沢宿は元和三年(1617)家康の日光東照宮遷座に伴い宿駅となりました、宿並は度重なる大火に見舞われ灰燼に帰しました。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると大沢宿宿内家数は四十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠四十一軒、宿内人口は二百七十八人(男百二十五人、女百五十三人)で、宿長は四町四間でした。

この地に
源頼朝が狩に訪れると、広大な荒地だったところから四人の従者に開拓を命じました、頼朝のこの恩に因みこの地は恩沢と呼ばれ、転訛して大沢となりました。
日光杉並木街道

 宿並に入ると右手に王子神社が鎮座しています、正治二年(1200)の創建で祭神は源頼朝で、大沢宿の鎮守です、境内には元禄十二年(1699)建立の御神燈や推定樹齢二百四十年の大イチョウがあります。

左手の大沢小学校は
竜蔵寺跡です、寛文三年(1663)四代将軍家綱以降、大沢御殿に代わって将軍休息所となりました。

先の左手に杉並木植栽以前からあった
古杉が数本あります、ここに大沢宿の北木戸がありました、戊辰戦役で大沢の斎藤縫蔵と板橋の由五郎が旧幕府軍の間諜を働いたとして斬首され木戸に首級が晒されました。
王子神社 大沢の古杉 八坂神社

 大沢宿を後にすると右手に
八坂神社が鎮座しています、境内には文政五年(1822)建立の御神燈があり、鳥居前には二本の杉の根元が癒着した二又杉の切株があります。

 次いで左手に大沢の四本杉があります、四本の杉が四角形に植栽されています、これは互いに倒木を防ぐ植樹法です。

先の左手に
交通安全地蔵が祀られています。

大室入口交差点を右に入って進むと左手に
御殿開田之碑があります、ここに大沢御殿がありました、三代将軍家光が造営し、寛永四年(1627)から同十七年(1640)にかけて家光の日光社参の際に装束を改める衣帯所として利用されました、四代将軍家綱以降は竜蔵寺となりました、跡地には土塁跡が残されています。

大沢御殿跡前の道筋は
御老中街道です、文政元年(1818)農民達が開削しました。
大沢の四本杉 交通安全地蔵 大沢御殿跡

 幕府の
老中が日光参詣の帰途、鬼怒川上流の景勝地籠岩(かごいわ)の遊覧を望んだところに由来しています。

 街道に戻って進むと右手の杉並木の間から第三接合井が垣間見えます、六ケ所残っている接合井のうち唯一機能しています。

次いで
水無の一里塚があります、両塚を残しています、特別史跡・特別天然記念物です。

西塚前には
標柱「御成街道 水無一里塚」が立ち、東塚前には解説板があります、共に塚木はスギでした、江戸日本橋より数えて三十二里目です。

水無(みずなし)の名主清兵衛宅に梨の古木があり、この実が甘く水気が多いところから水梨と呼ばれ、いつしか水無に転訛しました。
第三接合井 水無の一里塚(西塚) 東塚

 杉並木が一旦途切れると左手に延命地蔵尊が祀られています、境内には六地蔵石幢十九夜塔、享保十五年(1730)建立の念仏供養塔等があります。

上水無バス停を過ぎると杉並木が復活し、右手に
墓地があります、山伏千手院跡です、日光山の里山伏として東照宮渡御祭の行列に共をしました、如意輪観音像十九夜塔男女双体道祖神等の石仏石塔があります。

快適な杉並木道を進みます。
延命地蔵尊 山伏千手院跡 日光杉並木街道 水無高竃神社

 山伏千手院跡の先を左に入ると
水無高竃(たかおがみ)神社が鎮座しています、水無村の鎮守で雨乞いの神を祀っています、境内の御神燈は明治四十五年(1912)の建立です。

 杉並木に戻って進むと左手に大正四年(1915)建立の馬頭観世音が祀られています。

先に進むとENEOSの手前から未舗装路の
杉並木になります、原風景そのものの世界にワープします。

先に進むと右手の杉並木越しに第二接合井が望めます。

やがて杉並木が途切れると再び
国道119号線に吸収されます、日光方面からは下森友バス停先から左の松並木の旧道に入ります。
馬頭観音 未舗装路杉並木 第二接合井 森友南口

 旧森友村に入ります、大沢宿と今市宿の中間に位置する間の宿立場がありました。

地名は
源義経の重臣森高哉(たかや)従僕にこの地の開拓を命じ、自ら監督指揮し開墾をとも(友)に行ったところを地名由来としています。

下森友交差点の右は
奥州道、左は鹿沼道で日光例幣使道板橋宿へ一里半、鹿沼宿へ四里半の脇往還です。

交差点を越すと右手に浄土宗
来迎寺があります、永正十四年(1517)の創建で本尊は阿弥陀如来です、参道には如意輪観音像十九夜塔が四基並んでいます、うち一基は享保二十一年(1736)の建立です。

右手の中古車販売店手前の民家の庭内に
日光型常夜燈があります、寛政九年(1797)の建立で男體山(なんたいさん)と刻まれています。
来迎寺 男體山常夜燈

 
男体山は山岳信仰の聖地で日光二荒山神社奥宮が祀られています。

 森友交差点の右は会津道です、大桑村へ一里半の脇往還です。

この会津道に踏み込むと右手に
瀧尾神社が鎮座しています、大正五年(1916)の創建で、社殿には縁結び子宝の大注連縄が掛けられ、境内には三春の瀧桜と呼ばれる枝垂れ桜があります。

森友交差点に戻り、Y字路右手の
杉並木道に入ります。

先に進むと右手に
古杉が十本ほど並んでいます。
瀧尾神社 杉並木 古杉 桜杉

 日光杉並木植栽以前の
杉並木です。

更に進むと左手に
桜杉があります、根元から1.5m上の割れ目に山桜が寄生し成長したものです。

 先に進むと七本桜の一里塚があります、両塚を残しています、右手の北塚大杉の根元に広い空洞があるところから並木ホテルと呼ばれています、北塚は特別史跡、塚木のは特別天然記念物です、南塚も原型をとどめています、江戸日本橋より数えて三十三里目です。

スグ先に
第一接合井があります。

七本桜交差点を越し、東武日光線ガードをくぐって進むと左手に
和尚塚があります、残念ながら国道側に回らないと確認できません。
七本桜の一里塚 南塚 第一接合井 和尚塚

 こばやし歯科医院の向いに
和尚塚があります、行き倒れのを葬った塚といわれています、戊辰戦役今市の戦いで戦死した旧幕府軍の首級今市宿下木戸に晒され、里人が密かにここに埋葬しました。

 小倉歩道橋交差点を越して進むと日光杉並木街道は左手からの国道119号線に吸収されます。

この左手に
追分地蔵堂があります、日光道中日光例幣使道の追分に祀られているところから追分地蔵と呼ばれています。

丸彫坐像の石地蔵として東日本有数もので、造立年代は不明ですが、八代将軍
吉宗の日光社参の折には現在地に祀られていたといいます。

この
地蔵尊大谷川(だいやがわ)の洪水で流され河原に埋もれていました、石工が単なる大石だと思い、ノミを打ったところ真っ赤な血が流れたといいます、背にはこのノミ跡を残しています。
今市東口 追分地蔵堂 追分地蔵尊

 PM4:06 今市宿着 鉢石宿日光橋まで8.5km

 追分地蔵堂の左(黄色矢印)からは日光例幣使街道が合流してきます、日光例幣使は毎年、徳川家康の命日に朝廷から派遣され金の御幣を東照宮に奉献しました、一行は中山道倉賀野宿から日光例幣使道に入り、今市で日光道中に合流しました。

追分の小倉町交差点辺りが今市宿の江戸(東)口で
木戸がありました、今市宿に到着です!

今市宿は
日光例幣使道(壬生道)、会津西街道の追分を控え、一と六の付く日に六斎市が立ち大いに賑わいました、八代将軍吉宗が奨励した朝鮮人参杉線香が名産でした。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると今市宿の宿内家数は二百三十六軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒で、宿内人口は千百二十二人(男六百九人、女五百十三人)でした。

宿長は七町二十一間でした、今市宿は慶応四年(1868)戊辰戦役の兵火に見舞われ、宿並の大半は灰燼に帰しました。
日光例幣使道

 日光例幣使道杉並木最後の杉は枝の切り口に別種の杉が寄生しているところから追分の変り杉と呼ばれています。

宿並に入り信号交差点を右に進むと
玄樹院大乗寺の墓地口に首の欠けた蔵助地蔵があります、弘治三年(1557)蔵助なる者の造立で今市最古の地蔵尊です。

宿並に戻る途中を右に進むと
報徳二宮神社が鎮座しています、二宮尊徳は明治二十四年(1891)従四位が追贈されました。
追分の変り杉 蔵助地蔵 報徳二宮神社 二宮尊徳墓

 
報徳二宮神社は明治三十一年(1898)二宮尊徳を祭神として創建されました。

社殿の裏には
二宮尊徳の墓があります。

 更に先に進むと浄土宗星顕山光明院如来寺があります、文明年間(1469~86)の創建です。

境内の地蔵堂には
車止め地蔵が安置されています、北条政子木造地蔵菩薩立像を日光山に奉納させたところ、この地で車が動かなくなり、やむなく一宇を建立して安置したとの伝承があります。

寛永九年(1632)東照宮造営の際、三代将軍
家光はここに御殿を建て滞在しました。

二宮尊徳の葬儀は当寺で執り行われました。

門前には
戊辰役戦死者供養塔があります、官軍、旧幕府軍を分け隔てなく供養しています。
如来寺 戊辰役供養塔 銘酒日光誉蔵元

 それでは宿並に戻りましょう、小倉町交番の並びに
渡邉佐平商店があります、創業天保十三年(1842)銘酒日光誉の蔵元です、仕込みには日光山麓の名水を用いています。

 かましん前にいまいちの水があります、飲用可能です、それでは頂いてみましょう、うまいです!決してイマイチではありません!!

並びの鹿沼相互信用金庫辺りが
高橋本陣跡です、残念ながら標識解説等はありません。

先の左手の日野為商店前に
今市町道路元標があります。

道路元標向いの筋(黄色矢印)が
会津西街道です、会津若松まで二十八里です。
いまいちの水 道路元標 会津西街道 折れた木柱道標

 ここにあった
木柱道標は哀れにも倒れています、この木柱道標には「旧会津西街道相之道通り 日光市(神橋)まで8キロ(2里)会津若松市まで12キロ(28里)と記されています。

浄泉寺玄樹院の間に会津西街道(会津古道)があり間の道と呼ばれ、いつしか転訛して相之道となりました。

 春日町交差点の左右が近世の会津西街道です。

次いで右手に
今市宿市緑(いちえん)ひろばがあります、隅に今市宿碑があります、碑には二宮尊徳終焉の地と刻まれています、敷地内には明治天皇御小休之蹟碑があります、ここが今市宿脇本陣跡です、建坪は六十七坪でした。

先の右手に浄土宗
浄泉寺があります、上町の薬師さまと呼ばれ目の病にご利益があります。

三代将軍
家光移葬の際に棺が安置されました。

境内に
そば喰稲荷が鎮座しています。
今市宿脇本陣跡 浄泉寺 そうめん稲荷

 文久二年(1862)二宮尊徳の子
弥太郎が創建しましたが、戊辰戦役で焼失し、子の金之丞によって再建されました、そばを献上して祈願すると夜泣きに霊験あらたかといいます。

 宿並を進み今市小前歩道橋を左に進むと日光市歴史民俗資料館二宮尊徳記念館があります、残念ながら改修工事中でした。

ここが二宮尊徳の
報徳役所跡です、尊徳は幕命により日光神領の農政指導にあたり、安政三年(1856)ここで亡くなりました、享年七十歳でした。

宿並に戻ると
瀧尾神社が鎮座しています、今市総鎮守です

天応二年(782)
勝道上人が日光二荒山(男体山)上に二荒山大神を祀ると同時に創建されました。

境内に
市神神社が鎮座しています。
報徳役所跡 瀧尾神社 市神神社

 
六斎市の守護神で、元は今市宿中央の水路に鎮座していましたが、明治十八年(1885)ここに遷座されました。

 瀧尾神社辺りが今市宿の上木戸跡です。

Y字路右(白色矢印)の松並木街道に進みます、この分岐点には
愛宕神社碑(黄色囲み)があります、碑の窪み内に愛宕神社の札を祀ります。

松並木に入ると右手に
杉並木公園があります、園内に朝鮮通信使今市客館跡碑があります。

寛永十三年(1636)幕府は一万両の費用をかけて
朝鮮通信使の宿泊用の館を建てました。

朝鮮通信使は室町時代の正長元年(1428)に初来日し、その後十二回来日しました、うち三回はここに宿泊し、日光東照宮の参拝を行いました。
今市宿下木戸跡 朝鮮通信使館跡 重連水車

 園内に
重連水車があります、今市の名産であった杉線香の生産の動力源として利用されました。

 杉並木街道に戻って進むと右手に高龗(たかお)神社が鎮座しています、神護景雲元年(767)の創建で瀬川村の総鎮守です、上瀬川村寒念佛供養所でした。

瀬川村は元は瀬尾村といいました、慶長年間(1596~1615)大谷川の洪水で川の瀬が二つに分かれ、瀬尾瀬川に分村しました。

先の右手の墓地には
地蔵尊や寛保三年(1743)建立の十九夜供養塔等があります。

次いで
瀬川の一里塚の両塚を残しています、(右)には解説板があり、(左)には標柱があります、江戸日本橋より三十四目です。
高龗神社 石仏群 瀬川の一里塚

 杉並木が途切れると右手の杉並木公園内に移築古民家が二棟あります。

旧江連(えずれ)家住宅は天保元年(1830)の建築で、南小倉村の世襲名主江連家の住宅でした。

もう一軒は慶応元年(1865)
二宮尊徳の日光神領農村復興に伴って建築された報徳仕法農家住宅です、今は報徳庵となりそば、うどんが賞味できます。

一旦国道119号線に出てコンビニ脇を進むと右手に天台宗泉龍山實教院
月蔵寺があります、江戸末期に彦根藩主井伊家日光参詣の際の本陣(宿坊)となりました、井伊直弼も三度宿泊しています、当寺には井伊家の家紋丸に橘が付いた衣装箱が残されています。
旧江連家住宅 報徳庵 月蔵寺

 街道に戻ると野口の松並木になります、この先生岡まで人家はなく荒野でした、この野の入口に当たるところから野口となりました。

松並木口の左手奥に
大日如来があります、境内には十九夜塔庚申塔寒念仏供養塔等があります。

次いで右手に
七本杉跡があります、七本の杉の根幹が癒着し一株になった杉です、老朽化により伐採され切株を残しています。

先に進むと
砲弾打込杉があります。
野口の杉並木 大日如来 七本杉跡 砲弾打込杉

 この辺りは
戊辰戦役の激戦地で、杉の幹に官軍が放った砲弾が当たって破裂した痕跡を残しています。

 大鳥圭介率いる旧幕府軍は圧倒的な兵力を誇る官軍の猛攻に遭い、日光山に退却しました。

先に進むと右手に大正三年(1914)建立の
代々馬力神が祀られています。

前に車止めがある
十字路があります、この辺りが旧幕府軍陣地跡です。

激戦の翌日官軍のもとに日光山の僧侶二名が訪れ、官軍軍監
谷干城(たてき/かんじょう)に面会し「日光は険難の地ゆえ、もしここで戦になれば多くの犠牲者を出し、神廟東照宮も焼失してしまう」と止戦を懇請しました、官軍総督の板垣退助はもっともと停戦を決断しました。

その後
大鳥圭介は会津へ転戦し、仙台で榎本武揚と合流して蝦夷地に渡り、箱館戦争で奮戦するも五稜郭で降伏しました、東京に護送され投獄されるも、明治五年(1872)特赦により出獄し、新政府に出仕しました。
代々馬力神 十字路

 先に進むと右手に龍蔵寺跡薬師堂があります、当初寛文六年(1666)円空作の木像閻魔王坐像が安置されていました、境内の石釣鐘は明和五年(1768)の建立で、重みで竜頭(りゅうず)が壊れ以来放置されてきました。

先の右手に東武日光線ガードがあります、この筋が
日光古道です、大谷川沿いを通行し七里村筋違橋の脇に通じていましたが大谷川の洪水により壊滅し、現在の街道が新たに開削されました、この古道口には多数の馬頭観音等が祀られています。
薬師堂 石釣鐘 日光古道 古道口の石塔群

 先に進むと杉並木道は国道119線に吸収されます。 

左手に寛政三年(1791)建立の
日光型常夜燈があります、生岡山王と刻まれています。

次いで右手の墓地には
宇都宮の戦いで戦死した旧幕府軍大草保助広田銊太郎の墓があります。

押ボタン式交差点の左手に
生岡神社の参道口があります、但しJR日光線によって通行不可です、今は先のJR日光線ガードをくぐります。
野口杉並木西口 日光型常夜燈 戊辰戦役隊士墓 生岡大日堂社標

 
生岡(いきおか)神社は七里村の鎮守です、神事の強飯式(ごうはんしき)は日光市指定文化財、境内には推定樹齢五百年のスギや三百年のエゾエノキがあります。

七里村は
生岡から神橋までの六町を一里として七里あるところに由来しています、麻の七里頭巾が名物でした。

 生岡神社参道口からわずかに進むと右手に並木太郎と呼ばれる大杉が聳えています、杉並木の中で一番大きく、かつ美しいといわれ、この木一本で二十坪の家が三軒建つといいます。

先に進むと右手に
銀杏杉があります、根張りが銀杏の葉の形をしているところに由来しています、根張りの良さから人生杉とも呼ばれます。

次いで左手の民家前に
大砲止め杉伐採跡があります、元治元年(1864)筑波山で挙兵した水戸天狗勢は日光東照宮参詣を名目に占拠を図り、攘夷の実行に踏み切る予定でした、この情報を得た日光奉行小倉正義は杉を切り倒して街道を塞ぎ大砲止めとしました。
並木太郎 銀杏杉 大砲止め杉伐採跡

 しかし
水戸藩内で保守派による尊王攘夷派の排斥が始まると、一行は筑波山へと引き返しました。

 次いで左手に明治天皇七里御小休所碑が有ります、明治九年(1876)東北巡幸の帰途に休息所となった四方垂木の旧家を残しています。

並びの
日光杉並木街道標識「普通地域/保護地域」から奥に進み、わずかな流れの明神川を小さな石橋で渡ると尾立岩があります。

二荒山神話の霊地です、日光山のご神体が宇都宮へ遷るときに大蛇となってこの岩上で尾を立てたといいます、岩の麓には庚申塔如意輪観音像十九夜塔、元禄十四年(1701)造立の地蔵尊等があります。

七里バス停先の
宝殿交差点は三差路になっています、中央を進みます。

この
宝殿交差点辺りに日光道中最後の七里の一里塚があったともいいますが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十五里目です。
明治天皇碑 尾立岩

 志度淵川手前の左手に麻疹地蔵が祠内に安置されています、この地蔵尊に願を掛け、筋違橋の橋下(はしか)をくぐると麻疹(はしか)が軽くすむといわれました。

志度淵川筋違橋で渡ります、橋名は川筋に対して筋違(斜め)に架橋されているところに由来しています。

志度淵川は
七里村鉢石村の境にあたり、ここに改所が設けられ、参詣者の国許等の取り調べが行われました。

橋を渡った先を斜め左の
宝殿杉並木道に入ります、鉢石方面からは国道に合流します。
麻疹地蔵 志度淵川&筋違橋 宝殿杉並木東口

 左手に異人石があります、明治時代に杉並木をこよなく愛した外国人が石屋に頼んでここにあった石にイスを彫ってもらい毎日鑑賞したといいます。

突当りの
国道を左折し、JR日光線ガードをくぐり、右の東和杉並木に入ります。

東和の杉並木西口には
馬力神馬頭観音勝善神等が祀られています。

杉並木は一旦途切れます。
異人石 宝殿杉並木西口 東和杉並木東口 東和杉並木西口

 鉢石方面からは東和町交差点左の
杉並木道に入ります。

国道119号線を進むと、再び
杉並木になり、相生町交差点を越し、東武日光駅前交差点で日光杉並木街道は終了します。

 鉢石宿着

 東武日光駅前広場の街道沿いに日光山志碑があります、絵図内に「日光入口の町にて、木戸門を設く。古は此あたり松ばらにて有りといふ。」と記されています。

ここには
木戸門があり、番屋高札場がありました、参詣人の居住地を訊問しました、鉢石宿に到着です!

鉢石宿は日光道中最後の宿場です、元和三年(1617)家康日光東照宮に祭り、日光参詣が盛んになると門前町として発展し栄えました。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると鉢石宿宿内家数は二百二十七軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠十九軒で、宿内人口は九百八十五人(男五百十六人、女四百六十九人)でした。
木戸門跡 日光山志 日光型常夜燈

 JR日光線の日光駅前脇には享和二年(1802)男体山、出羽三山の講中が建立した
日光型常夜燈があります。

 日光駅からは男体山が一望です、日光二荒山神社は日光開山の祖といわれる勝道上人が天応二年(782)二荒山(男体山)頂上に二荒山大神を祀り、奥宮を建立したのがはじまりです。

二荒山(ふたらさん)を二荒(にこう)と呼び、いつしかにっこうとなり、弘法大師日光の字を当てたといいます。

宿並には電柱がなく、スッキリした景観になっています、右手の日光消防署を越すと右手に天台宗
龍蔵寺があります、建保元年(1213)鎌倉幕府に謀反を企てたと誤解され執権北条政子によって斬首された源頼朝の忠臣畠山重忠の霊を弔うために末子の重慶(ちょうけい)が庵を建てたのが始まりです。
男体山 龍蔵寺 芸州藩士墓

 本堂脇には戊辰戦役で戦死した
芸州藩士の墓があります。

 龍蔵寺の本堂脇をそのまま抜けると道路を挟んで稲荷神社が鎮座しています、稲荷町の鎮守です、鎌倉時代の建保六年(1218)京都御所鎮護の稲荷神を勧請し御所稲荷と称しました。

境内には
西行戻石があります、西行が奥州平泉からの帰りに、石の上にいる童に「どこに行く」と問うと「冬萌きて夏枯れ草を刈りに行く(麦刈りのこと)」と童が見事な歌で答えたことに驚き、この場で男体山を遥拝し、この地での歌くらべは無理だと悟り引き返しといいます。

傍らには
西行法師歌碑「ながむながむ 散りなむことを きみも思え くろ髪山に 花さきにけり」 があります。
稲荷神社 西行戻石 西行法師歌碑

 御幸町交差点から再び電柱が現われてしまいます、残念です!

右手の元祖ゆばそば
魚要御宮御菓子屋本陣兼帯跡です、入江家が勤め家伝の蒸菓子麩和餅は日光御宮御用達でした。

向いに
日光市郷土センターがあります、日光の歴史や特産品が紹介されています。

下鉢石町に入ると右手に創業天明七年(1787)練羊羹の老舗
綿半(わたはん)があります。
入江本陣跡 郷土センター 綿半 寺紋鎹山

 日光山輪王寺御用で寺紋章の
鎹山(かすがいやま)を掲げています。

 先の右手に名物日光湯波の老舗ふじやがあります、日光山輪王寺御用で同じく寺紋章の鎹山を掲げています。

次いで右手のゆば料理のさん・フィールドの奥に蔵があります、ここが
高野本陣跡です、高野家は日光山本坊納戸役を勤めました。

庭内の覆屋内には
高野道文が江戸末期に建碑した芭蕉句碑「あらたふと 木の下闇も 日の光」があります、手前の芭蕉句碑は新設されたものです。
ふじや 高野本陣跡 芭蕉句碑 芭蕉真蹟句碑

 風化が進み彫が浅くなったため、碑の拓本を1.5倍に拡大したものです。


 中鉢石町に入ると右手に日本生命があります、ここを右に下ると鉢石があります、勝道上人がこの石に托鉢用の鉢を置いて休息したといいます、これが鉢石の地名由来になりました。

次いで左手の高台に
観音寺があります、弘仁十一年(820)弘法大師空海の開基です。

石段を上ると観音寺発祥の地で、
空海自刻の千手観音像を安置する観音堂があります、境内からは鉢石の宿並が一望です。
鉢石口 鉢石 千住観音堂 鉢石の宿並

 当寺は寛永四年(1627)
天海大僧正から鉢石山無量寿院観音寺の三号を賜って天台宗に改宗し、日光山輪王寺の直末(じきまつ)となりました。

 いよいよ日光山に近づくと右手の広場に盤裂(いわさく)霊水があります、千二百余年前日光開山の祖勝道上人がここに清水を発見し、以来修験者が神仏に供える霊水と伝えられています、この清水は男体山系の湧水で、日本でも最もおいしい水として定評があります。

広場には
天海大僧正(慈眼大師)銅像があります、天海上人は比叡山で天台宗の奥義を極め、家康に仕え日光山の貫主となり、家康亡き後は遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移し東照宮の創建に尽くし、寛永二十年(1643)に大往生を遂げました、享年百八歳でした。

向いの日光金谷ホテルの坂道に
板垣退助像があります、総督府参謀の板垣は日光廟に立て籠もった大鳥圭介等の旧幕府軍を説得し、日光山内を兵火から守りました。
盤裂霊水 天海大僧正像 板垣退助像

 大谷川手前の左手広場の奥に赤鳥居があります。

この赤鳥居の手前に
下乗石があります、将軍もここで駕籠から降り、徒歩で日光山内に入りました。

天保十四年(1843)第十二代将軍
家慶(いえよし)が最後の日光社参でした、幕府の権威回復の為に実施されたこの社参は約十四万に及ぶ大行列で、人馬調達や助郷の負担は関東一円に及んだといいます。

赤鳥居をくぐった先に
神橋が架橋されています、寛永十三年(1636)の架橋で、神事将軍社参勅使例幣使等の参詣のみに使用されました。

勝道上人大谷川の激流に行く手を阻まれました。
神橋渡り口 下乗石 神橋

 そこで護摩を焚いて神仏の加護を祈ると、雲の中から深沙大王(じんじゃだいおう)が現れて、二匹の蛇を放ちました。 

この二匹の蛇はみるみる
大蛇となり橋となりました、滑る背に山菅を敷いて渡ったところから山菅の蛇橋(やますげのじゃばし)」と呼ばれました、後に神橋が架橋されました、現在の神橋は明治三十七(1904)に架橋されたものです。

我々は眼の前の
日光橋大谷川を渡ります、大谷川(だいやがわ)は中禅寺湖に源を発し、華厳滝を経て、流末は鬼怒川に落合います。

日光橋の渡詰めが
日光道中の終点(起点)です!

無事、到着です!!
日光橋 日光道中終点

 PM6:01 鉢石宿日光橋着

雪の宿並 湯波ちゃんこ鍋
 あっという間に日が暮れ、とうとう雪が降ってきました。

凍り付いた男たちは日光道中完歩の感慨にひたっているどころではありませ、今来た道を猿(ましら)の如く下ってゆきます。

開いている居酒屋さんに飛び込みます、煮えたぎるような
熱燗、次に焼酎のお湯割り、そして湯波ちゃんこ鍋です。

凍り付いていた男たちは次第に溶け出して、次は何処だ何処だと騒がしくなります。

新年会も兼ねています、本年もよろしくお願い致します。




前 間々田 ~ 宇都宮