道中日記 1-138 日光道中 ( 間々田 - 宇都宮 ) 36.7km |
大変便利な電車ができました、JR湘南新宿ラインがそれです、大船駅から宇都宮駅まで一本で繋がれています。
5人の男達は各々の駅から乗り込み、間々田駅に集結です。
サア、日光道中ウォークの最終回、そして寒冷地ウォークの旅立ちです。
装備は「最新ウォーキングアイテム編」の通り、アウターはアシックスの3層上下、アンダーはモンベルのEXP、足元はナイキのゴアテックスシューズ、デイパックにはポンチョを忍ばせています。
平成17年02月11日 AM8:47 間々田宿出立 小山宿まで7.3km |
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間々田駅入口交差点が間々田宿の起点です、しかしここから宿並に入らず、更に直進し突当りを右折し、一本目を左折すると正面に乙女不動原瓦窯跡があります。
炎の広場内に窯や工房が復元されています(国指定史跡)、ここで焼かれた瓦は下野薬師堂、下野國国分寺に用いられました。
乙女不動原瓦窯跡の右手に泉龍寺があります、真言宗豊山派御瀧山明王院泉龍寺不動坊と号します。
この地で疫病が流行り、本尊の不動尊に祈ると清らかな泉が湧き出し、病がたちまち平癒したところから泉龍と称するようになりました、朱塗りの鐘楼門は享保五年(1720)の建立です。 |
乙女不動原瓦窯跡 |
泉龍寺 |
乙女不動尊 |
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境内には芭蕉句碑「川上と この川下や 月の友」があります。
それでは宿並に戻りましょう、先に進むと右手に明治末期築の小川家住宅(国有形登録文化財)があります、屋号を車屋と称し、肥料業を営んでいました、敷地内には小山市役所車屋美術館が併設されています。
小山市消防署間々田分署を過ぎると右手に逢乃榎(あいのえのき)碑があります、江戸と日光の中間点にあたるところから間の榎と呼ばれ、いつしか逢の榎となり、縁結びの木として信仰を集めるようになりました。
神君家康の命日に朝廷から派遣される例幣使の一行は中山道を通行し、倉賀野から日光例幣使街道に入り、楡木から壬生道を進み、今市で日光道中に合流しました。 |
芭蕉句碑 |
小川家住宅 |
逢乃榎 |
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例幣使一向の帰路は日光道中で江戸に出ました、この際、この榎を道中の目安にしたといいます、しかしこのご一行さんは必ずしも評判は良くありませんでした、詳しくは日光例幣使街道をご参照下さい。
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先の右手段上に琴平神社が鎮座しています、乙女河岸の河川交通安全を願って創建されました、境内には文化十年(1813)建立の手水石があります。
この辺りが間々田宿の江戸(南)口ともいわれます。
小山市間々田歩道橋を越すと左手にさやま酒店があります、家屋の内部は商家造りの間取りで、箪笥階段等を残しています。
さやま酒店の隣りが曹洞宗天恵山龍昌寺です、本尊は寝起(ねおこし)不動と呼ばれています。
不動尊を背負って旅に出た僧が衰弱のあまり寝込むと「この地こそ我が済度化縁の地」と僧を寝起したといいます。 |
琴平神社 |
さやま酒店 |
龍昌寺 |
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慶安四年(1651)徳川三代将軍家光の亡骸を日光に移葬する際、境内に御霊屋(おたまや)を設営し安置所としました、当寺は御朱印七石を拝領しました。
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歴代将軍で日光に埋葬されたのはおじいちゃん子の家光だけです、他の将軍は上野寛永寺か芝増上寺です、そして最後の将軍慶喜はひとり谷中霊園です。
宿並に戻ると左手に間々田ひも店があります、 組紐で刀の下げ緒や甲冑に用いられました、今は帯紐や羽織紐として珍重されています、栃木県無形文化財です。
間々田交差点を越すと左手の駐車場が間々田宿問屋場跡(解説板)です、上原家が代々勤め、名主を兼ねました。
右手の小山間々田三郵便局向いのクリハラ電気が間々田宿本陣跡(解説板)です、代々青木家が勤め建坪は百五十七坪で、本陣前には高札場がありました、明治天皇巡幸の際には休息所となりました。 |
間々田ひも |
間々田宿問屋場跡 |
間々田宿本陣跡 |
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間々田四丁目交差点の左手が間々田八幡宮の参道口です、社殿はかなり先に鎮座しています、間々田の鎮守です。
奈良時代の天平年間(729~49)の創建で藤原秀郷、源頼朝等の武将が戦勝を祈願し、江戸時代には日光例幣使が例年参拝しました。
社殿は江戸時代後期の享和年間(1801~4)に焼失し、現在の社殿は嘉永四年(1851)日光東照宮大修理を手掛けた宮大工によるものです。
境内の夫婦杉は樹齢二百五十年です。 |
間々田八幡宮 |
夫婦杉 |
瓢箪池 |
芭蕉句碑 |
瓢箪池畔には嘉永六年(1853)建立の芭蕉句碑「古池や 蛙飛び込む 水の音」があります。
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先の左手に真言宗豊山派浄光院があります、、本尊は阿弥陀如来です、十一面観世音菩薩を安置する観音堂脇には宝永元年(1704)建立の青面金剛像庚申塔や文政七年(1824)建立の十九夜塔等があります。
宿並を挟んで向かいに浄土真宗本願寺派亀井山福所院行泉寺があります、この辺りが間々田宿の日光口(北口)で土塁と矢来柵がありました。
右手の間々田郵便局の向いに御菓子司蛸屋があります、この辺りに間々田の一里塚があったといいます。 |
浄光院 |
観音堂&石塔群 |
行泉寺 |
蛸屋 |
しかし正確な位置は不明です、塚木はスギで江戸日本橋より数えて十九里目です。
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千駄塚交差点を越すと左手に栃木県指定史蹟千駄塚古墳標石と村社浅間神社社標があります。
踏み込むと左手の覆屋内に青面金剛像庚申塔と天保十五年(1844)建立の六臂馬頭観音像が安置されています。
正面が千駄塚古墳です、直径約70m、高さ約10mの円墳で、塚上には千駄村の鎮守浅間神社が祀られています。
先に進むと左手に長屋門があります。
粟宮(南)交差点を横断します。 |
石仏石塔 |
千駄塚古墳 |
長屋門 |
西堀酒造 |
横断すると左手に西堀酒造があります、明治五年(1872)創業、銘酒若盛、門外不出、奥座敷の蔵元です、酒蔵は国登録有形文化財指定です。
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西堀酒造の並びに大橋訥庵・巻子旧居跡があります、幕末の尊攘思想家訥庵(とつあん)が婿入りした大橋家旧居跡です。
訥庵は公武合体に反対し坂下門外の変への関与を疑われ、江戸伝馬町牢屋敷に投獄され、出獄後の文久二年(1862)病没しました、四十七歳でした。
先の左手大橋農場直売所を左に入ります、粟宮の旧道痕跡です、旧道筋には立場がありました、突当りを右折して国道4号線に復帰します、日光方面からは秩父プラスチックを右折します。 |
大橋訥庵旧居跡 |
粟宮旧道南口 |
粟宮旧道北口 |
安房神社 |
粟宮交差点手前の左手奥に安房神社が鎮座しています、式内社で粟宮村の鎮守です、天慶二年(939)藤原秀郷が平将門討伐に際し戦勝を祈願し守護神としました、小山氏や古河公方の信仰が篤かったといいます、境内のモミの群落は小山市天然記念物です。
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国道4号線は粟宮交差点から左に反れて行きます、街道は直進し県道265号粟宮喜沢線を進みます。
日光方面からはあくまでも直進です。
信号交差点を越すと粟宮から神鳥谷に入ります、この地に鷺城という出城がありました、鷺は神鳥(しとと)と呼ばれ、この辺りの谷と合わせて神鳥谷(しととのや)となりました。
街道を進むと右手に豪壮な長屋門があります。
スグ先の信号交差点を越すと左手に小山市指定保存樹木であった大ムクノキが聳えていましたが、残念ながら伐採され切株が残るのみです。 |
粟宮交差点 |
長屋門 |
ムクノキ |
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正面の国道50号線の高架を神鳥谷(東)交差点にてくぐって進むと左手に天満宮が鎮座しています。
稲荷社と雷電社が合祀されています、石鳥居は享和三年(1803)の建立です、境内には宝篋印塔や嘉永三年(1850)建立の十九夜塔があります。
この天満宮辺りが小山宿の江戸口(南口)で土塁や矢来柵がありました、小山宿に到着です!
小山は壬生通り、結城道、佐野道が集中する要衝で大いに賑わいました。
天保十四年(1843)の日光道中宿村大概帳によると小山宿の宿内家数は四百二十三軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠七十四軒、宿内人口は千三百九十二人(男六百三十六人、女七百五十六人)で、宿長は十二町十三間(1.3km)でした。 |
国道50号線高架 |
天満宮 |
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宿並を進むと左手に永島銅鉄店があります、この辺りに小山の一里塚があったともいいますが、正確な位置は不明です、塚木はスギでした、江戸日本橋より数えて二十里目です。
スグ先の信号交差点を左折すると、先の右手に新義真言宗持宝寺があります、弓削道鏡根本開基寺です。
元は小山城の南(御殿跡辺り)にあり、小山家の祈願寺でした、本多正純が祇園城を改修した際に現在地に移転しました。
当寺は享保十三年(1728)徳川八代将軍吉宗日光社参の際に休息所となりました。
境内に寛政四年(1792)に鋳造された梵鐘があります、銘文中に孝謙天皇の名がある為、戦時中の供出を免れました。 |
小山の一里塚跡 |
持宝寺 |
梵鐘 |
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宿並に戻ると電柱が取り払われスッキリした町並になっています。
宿並を進むと左手に須賀神社の参道口があります、ここには嘉永七年(1854)建立の常夜燈があります。
朱塗りの燈籠が並ぶ参道を進むと須賀神社が鎮座しています、平将門の乱を平定した小山氏の祖藤原秀郷が天慶三年(940)京八坂神社(祇園社)を勧請し小山城の鎮守としました。
本多正純が慶長六年(1601)現在地に遷座させ小山六十六郷の総鎮守となりました。
三成との決戦を決意した家康は当社に戦勝祈願しました。 |
小山宿の町並 |
須賀神社常夜燈 |
須賀神社 |
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関ケ原の合戦に勝利した家康は当社に五十一石の社地を寄進しました。
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境内に七ツ石(夜泣き石)があります、小山城が落城すると、城内にあった七ツの庭石が接収され結城城内に移設されました。
しかし夜中になるとこの七ツ石は哀れげに泣いたところから、結城の城主は当社に奉納したところ泣かなくなったといいます。
並びに日蓮宗法頂山妙建寺があります、本堂は享保二年(1717)の再建で、格天井には百人一首が描かれています。
更に先に進むと左手の小山市役所の敷地内に史跡小山評定跡標石と小山評定跡由来碑があります。 |
七ツ石 |
妙建寺 |
小山評定跡 |
標石&由来碑 |
家康は会津の上杉景勝を討つべく小山に着陣すると石田三成挙兵の知らせを受けました、急遽軍議(小山評定)を開くと、三成打倒に評議一決となり大返しとなりました。
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宿並に戻る途中に時宗秀郷山称名院現聲寺があります、天慶年間(940年頃)下野国主田原藤太秀郷の開基で、当初法相宗でした。
永仁五年(1297)下野守小山小四郎朝政が再興し、時宗に改宗し念仏道場(小山道場)となり、遊行(一遍)上人が四度立寄っています。
宿並に戻り、信号交差点の十字路を直進すると正面に浄土宗常光寺があります、応長元年(1311年)に念仏堂として創建されました。
境内の台石上に寛延元年(1748)鋳造の青銅阿弥陀如来像が安置されていましたが、東日本大震災で損傷し六角堂内に移設されています。 |
現聲寺 |
常光寺 |
阿弥陀如来像跡 |
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この青銅阿弥陀如来像の台座には戊辰戦役小山の戦いで被弾した痕跡を残しています。
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宿並に戻ると左手に小山宿脇本陣跡があります、唐破風の玄関を残しています、脇本陣前には高札場がありました。
玄関前には明治天皇小山行在所碑と自然石の明治天皇御駐蹕之碑があります、明治八年(1875)明治天皇の奥州巡行の際に宿所となりました。
次いで右手のきもののあまのや辺りが控本陣跡です、本陣、脇本陣の控えでした、標識等はありません。
次いで常陽銀行辺りが問屋場跡です、標識等はありません。 |
小山宿脇本陣跡 |
明治天皇碑 |
小山宿控本陣跡 |
小山宿問屋場跡 |
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先の右手に小山市まちの駅思季彩館があります、旧八百忠の商家を利用した観光交流センターです。
駅前上町交差点先を右に入ると時宗光照寺があります、日限地蔵尊があり、墓所には戊辰戦役で戦死した官軍笠間藩士墓があります。
宿並に戻ると左手に元須賀神社参道口があります、この辺りが小山宿の日光(北)口でした。
奥に元須賀神社が鎮座しています、須賀神社はここに祀られていました。 |
思季彩館 |
光照寺 |
元須賀神社参道口 |
元須賀神社 |
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左手のGS出光手前を左に進むと正面に小山城(祇園城)址があります、小山城は藤原秀郷の築城にはじまり、秀郷を祖とする小山氏の居城でした、 天正三年(1575)北条氏の攻勢に敗れ落城し小山氏は滅亡しました、その後北条氏は豊臣秀吉の小田原攻めにより終焉を迎えました。
徳川の世になると譜代の本多正純が城主となり城下を整備しまたが、元和五年(1619)に宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となりました。
本郷町に入ると左手に天台宗徳王山妙楽院興法寺(こうぼうじ)があります、嘉祥二年(849)創建の古刹で本尊は阿弥陀三尊です、元は小山城内にあり小山氏代々の祈願寺でした。
境内の地蔵尊には戊辰戦役小山の戦いの被弾痕があります。 |
興法寺 |
被弾地蔵尊 |
愛宕神社 |
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街道挟んだ向かいに愛宕神社が鎮座しています。貞応二年(1223)小山城主小山朝政が鬼門守護のために山城國の愛宕神社を勧請したものです、この地の鎮守でした。
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境内の狛犬は天明五年(1785)の建立で小山市内最古の狛犬です。
街道に戻ると左手に元禄十一年(1698)創業の御菓子司蛸屋總本店があります、仙台藩主伊達政宗から魚屋は魚屋らしくなく、菓子屋は菓子屋らしくない屋号を命じられ、蛸屋と称したといいます。
街道はJR両毛線を第一奥州街道踏切で渡ります、両毛線は栃木の小山から群馬の前橋を結んでいます、いにしえ上野國を上毛野國(かみつけのくに)と呼び、同様に下野國を下毛野國(しもつけのくに)と呼んだところを由来としています。 |
狛犬 |
蛸屋總本店 |
JR両毛線踏切 |
薬師堂 |
喜沢南交差点を越え左手の田中歯科医院の右脇に入ると薬師堂があります、境内には道標を兼ねた念仏供養地蔵尊があります、享保三年(1718)の造立で「右江奥州海道」「左江日光海道」と刻まれています、かつては喜沢追分にあった追分道標です。
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右手の静林幼稚園手前の信号交差点の左が日枝神社の参道口です。
砂利道の参道に踏み込むと樹齢四百年以上の大ケヤキが三本聳えています、日枝神社のご神木です。
国道4号線を越すと日枝神社が鎮座しています、この地には小山城北の守り木沢(喜沢)砦がありましたが、天正十八年(1590)小山城が滅びると砦跡に日枝神社が遷座しました。
社殿脇の土塁上に天保六年(1835)建立の男體山碑があります。 |
日枝神社のケヤキ |
鳥居 |
日枝神社 |
男體山道標 |
碑面には「左日光 右奥州」と刻まれています、かつては喜沢追分にあった追分道標です。
この喜沢追分には立場茶屋がありました、将軍日光社参の際には追分に警護所が設置されました。
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街道に戻って進むと喜沢分岐点交差点が喜沢追分です、日光道中は直進(白色矢印)です、斜め左(黄色矢印)が日光壬生道です。
日光壬生道は楡木で日光例幣使街道を吸収して今市で日光道中に再び合流します、宇都宮を経由する日光道中に比べると一里十町(約5.0km)程近道で、庶民の日光参詣によく利用されました、歴代将軍の日光社参の帰路(復路)はこの日光壬生道を通行しました。
追分の左手には明治三十七年(1904)建立の馬力神(しん)があります、神道における馬頭観音です。
追分の中央には石塔が三基祀られています。 |
喜沢追分 |
馬力神 |
石塔群 |
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左から順に天明五年(1785)建立の供養塔道標「左壬生道 右宇都宮道」、明治二十七年(1894)建立の馬頭観世音、そして日清日露日支出征馬碑があります。
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喜沢分岐点交差点を直進し、スグのY字路を右(白色矢印)に進みます。
この分岐点左の御菓子司蛸屋は十割蕎麦きはるに変わっています、右手は日星ライナー駐車場です。
旧道を進むと左手の雑木林の中に喜沢の一里塚が現存しています、向いには東塚の痕跡を残しています、江戸日本橋より数えて二十一里目です。
旧道をグングン進むとJR東北新幹線高架下に出ます、ここからは高架下の側道を進みます。 |
喜沢旧道北分岐 |
喜沢の一里塚(西) |
東塚 |
喜沢旧道内南分岐 |
日光方面からの分岐ポイントはつのだドライクリーニング店です、斜め右に進みます。
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喜沢から羽川に入り、側道を進み左手の公園を過ぎたら、側道から斜め左の緩い上り坂に入ります、右手に菅沼接骨院があれば正解です。
先に進むと国道4号線に合流します、この辺りが新田宿の江戸(南)口です、新田宿に到着です!
新田(しんでん)宿は日光道中で最も小さな宿でしたが、日光山、赤城山、大平山の眺望が最も良い景勝地といわれました。
天保十四年(1843)の日光道中宿村大概帳によると新田宿の宿内家数は五十九軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十一軒で、宿内人口は二百四十四人(男百二十七人、女百十七人)でした。 |
羽川旧道内北 |
新田宿江戸口 |
板戸屋 |
下の兵庫屋 |
宿並を進むと左手の民家のフェンスに奥州道中大町新田宿板戸屋や下の兵庫屋と記された旧屋号札が掲げられています。
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信号交差点を越すと左手に四脚門があります、ここが青木家が勤めた新田宿本陣跡です、建坪は八十三坪でした。
先に進むと左手に幕府代官陣屋跡標識と吉田神社跡標石があります。
ここを左折すると先の右手に羽川薬師堂があります、薬師瑠璃光如来像を安置しています。
境内の覆屋には文政十三年(1830)建立の十九夜塔と安政四年(1857)建立の雨引観音が安置されています。 |
新田宿本陣跡 |
吉田神社跡標石 |
羽川薬師堂 |
石塔 |
この薬師堂の南に幕府代官陣屋がありました、 新田は小山藩領からはじまり、元和五年(1619)宇都宮藩領、元和八年(1622)古賀藩領、そして貞享二年(1685)からは天領になりました。
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宿並に戻ると右手に橿原神社の石造神明鳥居があります、参道には朱塗り燈籠が並んでいます。
この地の氏神は星宮神社(境内社)でしたが、明治五年(1872)九州の宮崎神社を勧請し、橿原神社と改称し九ケ村の総鎮守になりました。
明治三十九年(1906)東北線の蒸気機関車からの飛び火で社殿が焼失し、後に再建されました。
宿並を進み銅市金属工業先を左折(白色矢印)します。 |
橿(かし)原神社 |
星宮神社 |
羽川旧道口南 |
①羽川旧道 |
羽川旧道は一本目を右折(白色矢印)します、この辺りが新田宿の日光(北)口です。
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この分岐点を直進すると右手に石仏石塔群があります。
寛政十二年(1800)建立の馬頭観世音には「左おざく道」、宝暦二年(1752)建立の六十六部供養塔には「左おざく こくふんじ」と刻まれ道標を兼ねています、栃木県鹿沼市石裂(おざく)を指しています。
※ 羽川旧道が復活しました!
旧道に戻りましょう、①旧道に入ると、先に②車両進入禁止の車止めがありますが、歩行者は通行可能です。
先に進むと右手に県営羽川住宅があります、ここも③直進します,
以前は先に通行不能ケ所があったので、ここを右折して迂回しました。 |
石仏石塔群 |
②車止め |
③県営羽川住宅 |
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直進して進むと以前は④の先は通行不能でしたが、開通し、全通となりました。
日光方面からは本気屋源天先のY字路を左の車両進入禁止道に入ります。
旧道を進むと小山用水親水公園があります、はじめてここを通行した時は案外川幅が広い用水が流れ、架橋されていましたが、今は暗渠になり、公園になっています。
旧道は正面が畑のT字路に突き当たります、先を見通すと小金井の一里塚につながっていますが、通行不可です、右折(白色矢印)します。 |
④旧道復活 |
小山用水親水公園 |
旧道消滅 |
国道合流 |
突当りの国道4号線を左折(白色矢印)します。
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国道を進むと左手に小金井の一里塚を対で残しています、往時の道幅を知る重要な史跡で国指定史跡です、江戸日本橋より数えて二十二里目です。
しかし残念なのは畑で通行不可になっているところです、ここは是非、国、県、市が地権者と話し合い、旧道を復活するという、粋なはからいをしてほしいものです。
スグ先の信号交差点辺りが小金井宿の江戸(南)口です、到着です!
延宝九年(1681)宿の西にあった金井村を移住させて宿駅としました。
天保十四年(1843)の日光道中宿村大概帳によると小金井宿の宿内家数は百六十五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠四十三軒で宿内人口は七百六十七人(男三百七十四人、女三百九十三人)でした。 |
小金井の一里塚 |
小金井の一里塚 |
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頃合いも丁度良しです、この先しばらく食堂はありません、それでは街道飯としましょう、小金井宿の竹葉亭の暖簾をくぐります。
もりそばと天丼のセットで何と670円です、それも驚くことに十割そばです、腰があり、香り、喉ごしこの上なしです、十分に満足でした!
それでは午後の部に取り掛かりましょう、宿並を進むと右手に御菓子司橘屋があります、ここが領主陣屋跡です。
この地は当初壬生藩領でしたが、後に下総佐倉藩領となり出張陣屋が置かれました、当家には代官を勤めた大槻氏の位牌を残しています。 |
竹葉亭 |
天丼セット |
領主陣跡屋 |
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宿並の左手に真言宗智山派慈眼寺(じげんじ)があります、建久七年(1196)新田義兼が祈願寺として創建した真言宗の古刹です、本尊は勢至菩薩です。
徳川三代将軍家光より御朱印二十石を拝領し、境内には御成御殿(御座所)があり、日光社参の将軍はここで昼食を摂りました。
宿並を挟んで向かいの児童公園内に俳諧の句碑があります、文化四年(1807)旅籠蔵田屋(大越家)の屋敷内に建碑されたもので、小金井宿の俳人十二人の発句が刻まれています。
次いで左手に金井神社が鎮座しています、小金井宿の鎮守です、本殿は一間社三方入母屋造りです。 |
慈眼寺 |
俳諧の句碑 |
金井神社 |
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この本殿の壁面には壮麗な彫刻が施されています。
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宿並を進むと左手に小金井宿本陣跡があります、本陣門(四脚門)を残しています、大越家が勤め建坪は百四十坪余でした。
宿並を挟んで向かいに土蔵造りの旧商家があります、幕末の建築で、屋号を網屋と称し、呉服商を営んでいました。
先の右手にも旧商家を残しています、幕末の建築で、屋号は橘屋でした。
小金井北交差点を右に入ると日蓮宗珠栄山蓮行寺があります、元徳元年(1329)の創建です。 |
小金井宿本陣跡 |
旧商家 |
旧商家 |
蓮行寺 |
足利尊氏の古文書を所蔵しています、宇都宮藩主は当寺に控え、日光社参の将軍を出迎えました。
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宿並を進むと右手奥に薬師堂があります、本尊は行基作と伝わる木造薬師如来立像でしたが、今は慈眼寺に保管されています、境内には天保十年(1839)建立の十九夜塔等があります。
この辺りが小金井宿の日光(北)口です。
街道を進むと左手にそうとめ皮膚科クリニック看板があります、江戸方面からは手前を左(白色矢印)に入ります。
三本目の電柱から右(白色矢印)の生垣に沿った土道が旧道ですが、先で通行不可のため国道を迂回(黄色矢印)します。 |
薬師堂 |
笹原旧道分岐 |
笹原旧道南口 |
笹原旧道迂回路 |
あえて旧道を進むと下野市新庁舎の建設により通行不可です、右手(黄色矢印)のパチンコスロットイレブンの駐車場を抜けて国道に迂回します、但しあくまでも私有地ですのでご注意下さい。
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国道を進み栃木日産を左折(黄色矢印)します、旧道復帰への分岐です、京方面からは国道を右折します。
一本目を右折(黄色矢印)します、奥が下野市新庁舎です、白色矢印は旧道です、ここから笹原旧道に復帰します。
一本目の十字路を左折(黄色矢印)すると、先の右手に笹原子育地蔵があります、覆屋内には六地蔵が安置されています、境内には十九夜塔や安永五年(1776)建立の三界萬霊塔があります。 |
国道迂回路 |
旧道復帰点 |
旧道内十字路 |
笹原子育地蔵 |
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それでは十字路に戻りましょう、この辺りは万治二年(1659)壬生藩主三浦氏の命によって開発された新田で立場がありました。
笹原新田村の年貢米の津出しは思川の半田河岸でした。
次の十字路を左折して、突当りを右折すると正面に稲荷神社が鎮座しています、万治二年(1659)の創建です、笹原新田を開発した人々が京都伏見稲荷を勧請したもので藤森稲荷大明神と呼ばれました、この辺りは稲荷殿林と呼ばれ、松林の中の神秘的な小高い台地でした。
旧道に戻って進むと一帯は田園になります、天明八年(1788)幕府巡検使に同行した古川古松軒は「小金井の辺りより街道の左右に樹木繁りて、日影はいうに及ばず、雨も洩らぬように見えたり、桧、榎、松、杉の大木蒼々と茂り合いて間あいだに田畑これありよき道なり」といっています、今は田畑が広がり日光連山や筑波山が眺望できる長閑な街道になっています。 |
稲荷神社 |
街道風景 |
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しばらく快適な旧道が続きます、といいたいのですが寒冷です!
男体おろし(二荒おろし)と呼ばれる冷たく、乾燥した北風が遮るものも無く吹きつけ、時より土塵を巻き上げます。
やがて旧道は雑木林のT字路に突き当たります、この先は通行不可です、右折(白色矢印)します。
突当りの国道4号線を左折します、日光方面からは右折です、分岐ポイントはGSシェル石油そしてレストラン倉井です。
国道を進むと左手の日本ニューホランド裏の雑木林の中に下石橋の一里塚が残されているといいますが位置は不明です、両塚共下石橋村地内で塚木は杉でした、江戸日本橋より数えて二十三里目です。 |
旧道消滅 |
国道合流 |
一里塚跡 |
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下石橋交差点左の丸大食品関東工場の正門脇に巨大な慈母観音像が安置されいています。
次いで右手に黒豚とんかつ合掌があります、並びに豪壮な長屋門と旧家があります、名主か庄屋だったのでしょうか気になります。
先に進むと左手に墓地が続きます、この外れに宝永七年(1710)と享保三年(1718)造立の地蔵菩薩立像や延享四年(1747)建立の如意輪観音像等の石仏群が国道側に背を向けて祀られています。 |
慈母観音 |
長屋門 |
背を向ける石仏 |
石仏群 |
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実は石仏群が向いている前が旧道なのです、先程の雑木林のT字路で消滅した旧道はここに通じていました。
石仏群の向いに星宮神社社標があります、踏み込むと星宮神社が鎮座しています、宝冶二年(1248)の創建で、下石橋村の総鎮守です。
下石橋村は当初幕府領でしたが、文政年間(1804~30)からは壬生藩と下総佐倉藩の相給地(あいきゅうち)となり、石橋宿の助郷村でした。
参道口の倉庫には神輿が所蔵されています。
街道に戻り国道352号線高架をくぐります。 |
星宮神社 |
神輿 |
下石橋北交差点 |
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本町交差点を越し、下野市石橋歩道橋をくぐると左手に愛宕神社が鎮座しています、この辺りが石橋宿の江戸(南)口です、石橋宿に到着です!
石橋の地名は池上明神前の石橋に由来しています、石橋宿は幕府領で代官北条雄之助が支配しました。
天保十四年(1843)の日光道中宿村大概帳によると宿内家数は七十九軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十軒、宿内人口は四百十四人(男百九十二人、女二百二十二人)で干瓢、瓢箪細工が名産でした。
愛宕神社は徳川三代将軍家光より朱印状を拝領し、石橋宿の鎮守でした、元は下石橋愛宕塚古墳上に鎮座していましたが大正二年(1913)に遷座しました。 |
石橋愛宕神社参道 |
石橋愛宕神社社殿 |
二十三夜塔 |
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参道脇には弘化四年(1847)建立の二十三夜塔、正徳三年(1713)建立の庚申塔、慶応二年(1866)建立の二十六夜塔等があります。
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宿並を進むと右手に伊沢写真館があります、ここが石橋宿脇本陣跡です、伊沢家が勤め、代々八右衛門を襲名しました、建坪は百四十八坪でした。
伊沢家の祖は宇都宮氏の家臣でしたが、慶長二年(1597)宇都宮氏の滅亡と共に没落しこの地に土着しました。
先に進むと左手の駐車場脇に三面六臂馬頭観音像と石祠が祀られています。
次いで右手に伊澤茶舗があります、ここが石橋宿本陣跡です、伊沢家が勤め代々新右衛門を襲名し名主を兼ねました、建坪は百四十八坪でした。
伊沢家の祖は脇本陣と同様です。 |
石橋宿脇本陣跡 |
馬頭観音 |
石橋宿本陣跡 |
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石橋交差点が石橋宿の起点です、交差点を右折(黄色矢印)すると正面がJR東北本線石橋駅です。
交差点先の右手に新義真言宗石橋山開雲寺があります、当寺は将軍日光社参の際に御殿所となりました。
慶長九年(1604)幕府から寺領七石を拝領し、葵紋の使用が許され、土塀には城郭様式で銃眼や矢狭間(やざま)があります。
仁王門前には明治天皇御駐輦之處碑があります。 |
石橋宿起点 |
開雲寺 |
銃眼・矢狭間 |
明治天皇碑 |
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石橋郵便局を過ぎると石橋から文教に入ります、新合交差点を過ぎると右手のブロック塀の中に如意輪観音像十九夜塔や馬頭観音等が四基並んでいます残念ながらいずれも風化が大部進んでいます。
通古山(とおりこやま)バス停を過ぎると左手に小堂があります、木造薬師如来立像と木造十二神将像が安置されています、元は宝泉院境内にあった薬師堂ともいわれています。
先の下古山交差点辺りに下古山の一里塚があったともいいますが位置は不明です、左右の塚共下古山村地内で塚木は松、桧、榎でした、江戸日本橋より数えて二十四里目です。
下古山(しもこやま)村は日光東照宮造営後に開かれた村で石橋宿の助郷村でした、年貢米の津出しは約一里半離れた思川の壬生河岸でした。 |
石仏石塔 |
小堂 |
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下古山交差点を越した先で下野市下古山から河内郡上三川町に入ります。
右手の日本引越センターを越すと左手に旧道痕跡を残しています、残念ながら通り抜けは出来ません。
先に進むと右手の奥に鞘堂があります、堂内には鞘堂地蔵尊が安置されています。
康暦二年(1380)の小山宇都宮の戦い(茂原合戦)で小山義政が宇都宮基綱を打ち破りました、村人が戦死者の鞘を拾い集め、ここに埋葬し堂を建て、戦死者供養の石造地蔵を安置しました。
八代将軍吉宗の日光社参の際に休息所となりました。 |
旧道痕跡 |
鞘堂 |
鞘堂地蔵尊 |
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次いで左手に星宮神社が鎮座しています、人々の背負う星々(一生)を守護しています、境内には多数の石祠があります、鞘堂新田村の鎮守です、鞘堂新田村は日光東照宮の造営後に開かれた村で石橋宿の助郷村でした。
右手のパチンコスロットイクサムの駐車場脇の横道が結城道追分です、結城道は結城、境、関宿を経て杉戸と粕壁の間に出るところから日光東街道とも呼ばれました、この追分には一軒の茶屋がありました。
北関東自動車高架をくぐって進むと栃木県下野市古山から宇都宮市茂原に入ります。
茂原観音入口バス停を過ぎると右手に茂原正観音道道標があります、下野三十三観音霊場第二十番札所への道です。 |
星宮神社 |
結城道追分 |
茂原正観音道 |
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観音堂には木造聖観世音菩薩立像が安置され、雀宮宿の繁栄を描いた絵馬が多数奉納されています。
次いで右手の茂原児童公園内に明治三十四年(1901)建立の題目碑「南無妙法蓮華経」があります。
国道4号線を進むと茂原・自衛隊前交差点の左手に陸上自衛隊宇都宮駐屯地入口ゲートがあります、駐屯地内には防衛資料館があります。
次いで左手にうつのみや病院があります、敷地内には見事な松並木があります。
末広から高砂町に入り、宇都宮市高砂町歩道橋をくぐった先の左手にビジネスホテルパルがあります。 |
題目碑 |
宇都宮駐屯地 |
うつのみや病院 |
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国道4号線を進み安塚街道入口交差点を横断します、この辺りが雀宮宿の江戸(南)口で、木戸と土塁がありました、雀宮宿に到着です!
日光道中の整備に伴い、雀宮村が開かれ宿駅となりました。
天保十四年(1843)の日光道中宿村大概帳によると雀宮宿の宿内家数は七十二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十八軒で、宿内人口は二百六十八人(男百三十八人、女百三十人)と小宿でした。
宿長は五町二十間(580m)で、日光方面から上町、中町、下町で構成され、短冊形の地割りを今に残しています。
宿並を進むと左手奥に天台宗正光寺があります、正徳五年(1715)の開基で、本尊は高さ二尺五寸の阿弥陀如来像です、境内には地蔵尊と牛頭天王社が祀られています。 |
正光寺 |
境内の地蔵尊 |
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次いで左手の酒やまやの敷地隅に雀宮本陣跡碑があります、御本陣小倉半右衛門跡です、碑の裏面には「江戸時代(1809年)より現存した門は埼玉県に創立された学校法人国際学院日本文化研修館「敦照殿」の門に寄贈 平成十年八月吉日 小倉家十四代当主・小倉敦」と刻まれています。
小倉半右衛門が本陣を勤め名主、年寄を兼ね、敷地は間口十五間、奥行き十五間で建坪は百十五坪でした、小倉家は宇都宮氏の家臣として二万石を領したが宇都宮氏が没落するとこの地に土着しました。
雀宮駅前交差点の手前の右手が雀宮宿脇本陣跡です、門構えや式台等を残しています、芦谷家が勤め名主、問屋を兼ね、建坪は九十四坪余でした。 |
雀宮宿本陣跡 |
雀宮宿脇本陣跡 |
H17/02/11撮影 |
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明治十四年(1881)明治天皇奥州巡幸の際に休息所となりました。
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雀宮駅前交差点が雀宮宿の起点です。
サカヤ園芸先の右手に祠があります、中に安政五年(1858)建立の馬頭観音と大正十一年(1922)建立の生駒神や勝善神が安置されています。
並びに雀宮神社が鎮座しています、長徳三年(997)八幡太朗義家によって創建されました、雀宮村の鎮守です、正徳三年(1713)東山天皇より金文字で雀宮と書かれた勅額(ちょくがく)が下賜され、この額が社頭にあるため日光社参の将軍や諸大名は参詣を常としました。
百人一首の歌人藤原実方(さねかた)が陸奥守として任地に赴任すると、妻の綾女が夫の元へと向いましたが、この地で病死しました、夫も任地で死亡しましたが、夫の霊魂が雀となって飛来し、綾女塚の上まで来て息絶えたといいます、里人が憐れみ塚上に二人を祭り雀宮神社と称しました、これが地名の雀宮の由来でもあります。 |
馬頭観音 |
雀宮神社 |
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街道に戻り東京から100kmのポスト先、とりでん向いの上御田入口バス停を左折(白色矢印)し、一本目を右折します。
ここからの一本道が雀宮旧道です、国道の敷設により取り残された貴重な旧道です。
細い旧道を進むと雀宮から宮の内に入り、紳士服のコナカの手前で旧道は終了します、枡形状(白線矢印)に進み国道4号線に合流します。
日光方面からはコナカ先を右折です。 |
雀宮旧道南口 |
雀宮旧道 |
雀宮旧道終了点 |
雀宮旧道北口 |
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街道を進むと宮の内から上横田町に入ります、旧上横田村は東には筑波山、益子山、茂木山が遥かに望め、西に鍋山、出流山、大平山が遠望できる景勝の地でした。
右手のセブンイレブンの向いに寿鶴(すず)薬師堂があります、堂内には地蔵尊や如意輪観音像等が安置されています、この辺りが上横田村と台新田村の境でした。
台新田村は当初、横田新田村と呼ばれましたが、高台に位置しているところから台新田村と改称されました、雀宮宿の助郷村でした。
先に進むと右手に菅原神社が鎮座しています、学問の神菅原道真を祭る天神社です、この辺りは台新田村立場跡で高札場がありました、領内の名主や町年寄は当社にて宇都宮藩主参勤の送迎を行い、将軍社参の際は境内に仮の御茶屋が設けられました。 |
寿鶴薬師堂 |
菅原神社 |
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街道が右手のJR東北本線に最接近すると一里交差点になります、この辺りに江曽島の一里塚がありましたが、東北線敷設で取り壊されました、西塚は桧、東塚は杉でした、江戸日本橋より数えて二十六里目です。
左手の栃木日産から先は電柱が取り払われスッキリとした景観になります、川田入口交差点を越すと左手に大エノキが聳えています、根方には小さな鳥居と石祠が祀られています。
西原交差点を直進し、左手のスバルを越し、眼鏡橋でJR日光線を跨ぐと正面が不動前交差点です、斜め左(白色矢印)に進みます。
この分岐点に不動堂が祀られています。 |
江曽島の一里塚跡 |
大エノキ |
不動堂 |
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不動堂には宇都宮朝綱(ともつな)が造立した不動明王が安置されています。
傍らの昭和三年(1928)建立の道標には「正面東京ニ至ル 右奥州街道及日光街道 左裁判所前ニ至ル」と刻まれています。
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不動前通りを進み、東武宇都宮線ガードをくぐります、この辺りが宇都宮宿の江戸口(南口)で木戸、土塁、番所があり、明六つから暮六つまで通行が許されました、宇都宮宿に到着です!
宇都宮は二荒山神社の門前町として栄え、地名は下野國一の宮や奥州攻めの源氏勢が戦勝祈願をした討つの宮を地名の由来としています、その後宇都宮藩の城下町となり城主本多正純が整備に努め、主要街道の要衝、そして鬼怒川の舟運によって江戸と結ばれ、日光道中随一の賑わいでした。
天保十四年(1843)の日光道中宿村大概帳によると宇都宮宿の宿内家数は千二百十九軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠四十二軒で宿内人口は六千四百五十七人でした。 |
宇都宮宿江戸口 |
蒲生君平勅旌碑 |
蒲生君平像 |
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ガードをくぐると右手に蒲生君平勅旌碑(ちょくせいひ)があります、高山彦九郎、林子平と並ぶ寛政三奇人のひとりです、明和五年(1768)宇都宮で生まれ、尊皇家で明治になって遺功が追賞されました。
三奇人はいずれも強烈な勤皇家で、高山彦九郎にいたっては東海道三条大橋東詰にて、土下座して御所を遥拝しています。
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先を左に入ると新町のケヤキがかつて聳えていました、宇都宮宿江戸口の目印で推定樹齢八百年でしたが、平成二十五年(2013)台風18号で半倒壊し、その後伐採されました、切株を残しています。
信号交差点を越し、一本目を左に入ると曹洞宗西原山台陽寺(たいようじ)があります、慶長十年(1605)宇都宮藩主奥平家昌の創建です、山門前に子安地蔵尊が祀られています、宇都宮藩主戸田氏の守り地蔵尊でした。
台陽寺の墓所には戊辰戦役で戦死した宇都宮藩士の官修墳墓があります。 |
新町のケヤキ跡 |
子安地蔵尊 |
宇都宮藩士墓 |
一向寺旧地蔵寺 |
宿並を進むと一向寺旧地蔵寺参道標石があります、この先宿並の左(西)側には寺院が連なっています、これらは宇都宮城の外郭をなし、外敵に対する防御を担っていました。
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先の信号交差点を越すと左手に熱木(ねぎ)不動尊があります、康平二年(1059)初代下野国司宇都宮宗円が奥州征伐の戦勝を祈願して彫った不動尊を祀っています、この不動尊は宇都宮城乾の守護仏でした。
次いで右手の赤松の所に歌橋番所跡標識があります、この辺りに住いした者の歌が万葉集に載ったのが地名の由来です、ここには宇都宮城の木戸口があり番所が置かれました。
蓬莱大黒通りを進むと左手に時宗清照山一向寺があります。 |
熱木不動尊 |
歌橋番所跡 |
一向寺 |
汗かき阿弥陀 |
安置されている応永十二年(1405)に宇都宮十二代城主満綱が造立した銅造阿弥陀如来坐像(国重文)は汗かき阿弥陀と呼ばれます、世の中に異変が起こる前になると汗をかいたといいます、五十里湖(いかりこ)洪水や関東大震災、そして宇都宮大空襲の前日にも汗をかいたといいます。
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宿並に戻ると信号交差点の右手に天満宮が鎮座しています、学問の神である菅原道真を祀っています、宇都宮城西の守護神でした。
この信号交差点を左に進むと右手に臨済禅宗妙心寺派松嶺山報恩寺があります、寛永十六年(1639)宇都宮藩主奥平家昌の正室による開山で、茅葺きの山門は創建当時のものです。
境内には戊辰戦役で戦死した薩摩藩士の薩藩戦死者墓や、長州、大垣藩士の戦死烈士之墓があります、この先の六道の辻は戊辰戦役の激戦地でした。 |
天満宮 |
報恩寺 |
薩藩戦死者墓 |
戦死烈士之墓 |
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宿並に戻り材木町通りを進み、右手の宇都宮西一郵便局を右(黄色信号)に入ると左手に材木町木戸跡標識があります、武家屋敷に通じる木戸があり、武士が城内に通う朝晩だけ開門され、日中は閉門されていたところから不明門(あかずのもん)と呼ばれました。
宿並は裁判所前交差点に突き当たります、右折(白色矢印)します。
一本目の信号交差点を右に入ると左手に大イチョウが聳えています、上野本陣跡です。 |
材木町木戸口 |
材木町木戸跡 |
材木町分岐 |
上野本陣跡 |
上野家が勤め建坪百九十一坪余で門構え玄関付で、問屋を兼ね貫目改所が置かれました、大イチョウは庭木でした。
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交差点に戻ると左(白線矢印)が日光道中です、直進(黄色矢印)は奥州道中です。
この追分には標識「日光街道と奥州街道の追分」があります、標識には「江戸からの街道は、ここで日光街道と奥州街道に分かれました。北へ向かう清住町通りが日光街道、東に向かう大通りが奥州街道にあたり、多くの人馬でにぎわった場所でした。」と記されています。
追分の日光道中口には本郷町通り標識があります。
本日の日光道中ウォークはここまでです! |
奥州道中追分 |
追分標識 |
追分絵図 |
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サア、打上げです、地ビールと宇都宮餃子を堪能しましょう。
二荒山神社参道階段の袂、以前食した餃子会館に直行です、ところが無くなっています。
急遽、里人に尋ねると、向かいのラパーク長崎屋地下の来らっせがお奨めとのこと、決定です!
地ビールは餃子浪漫です、コクが深いです、うまい!!
餃子のオーダーは各名店5種類×2人前です、いずれも菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)です!!!
それでは乾杯、お疲れ様!!!!
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