道中日記  2-143 甲州道中 ( 日本橋 - 日野 ) 40.1km

 この度、山と渓谷社から

● 「ちゃんと歩ける甲州街道 甲州道中四十四次 五街道ウォーク・八木牧夫著」

が出版されました。

出版に際し、
甲州道中全般を歩き直しました、これで6往復達成となりました!

本マップに
写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為にHPでは写真を豊富にアップしました。

是非、出立なさる前に
本マップ当HPを照らし合わせ、甲州道中ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。

甲州街道は当初、甲州海道と呼ばれましたが、正徳六年(1761)幕府道中奉行は甲州道中と定めました。

 家康は
甲州道中を生命線と考えていました、江戸城に危難が及んだ際、服部半蔵の手引きで、江戸城半蔵門から甲州道中に脱出し、内藤新宿からは百人組鉄砲隊に守られ、八王子で千人同心を従え、甲府城に入り、富士川の舟運で一気に駿府に舞い戻る主要路としました。

それでは
甲州道中ウォークの旅立ちです!!

 平成19年02月03日 AM 7:30 日本橋出立 内藤新宿迄 8.7km

 日本橋及び橋詰周辺の解説は東海道を歩くHPをご覧下さい。

日本橋の中央に埋め込まれた日本国道路元標のサイドが甲州道中ウォークの起点です、橋上の人通りはまだまばらです、それでは出立しましょう。

東海道と同じく南に向かいますが、甲州道中はスグ先の日本橋交差点を右折して、永代通りに入ります、東海道は直進です。

下諏訪方面からは甲州道中最後の左折となります。
日本橋詰 日本国道路元標 日本橋交差点

 八重洲一丁目交差点を右折し、一本目を左折すると左手に西河岸地蔵があります、日限地蔵として日本橋芸者衆や地元の信仰が篤かったといいます。

次いで呉服橋交差点を右に入ると左手に
一石(いちこく)橋親柱があります、橋の北詰には幕府金座御用後藤庄三郎屋敷があり、南詰に呉服所後藤縫殿助屋敷がありました、五斗(後藤)と五斗(後藤)を足すと一石(いっこく)となるところが橋名の由来です、洒落ていますね(中央区民文化財)。

親柱の傍らに安政四年(1857)建立の
一石橋迷子しらせ石標があります、往時この辺りから日本橋にかけては盛り場で迷子が多かったといいます(東京都指定有形文化財)。
西河岸地蔵 一石橋親柱 迷子しらせ石標

 
石標の正面「満(迷)よい子の志るべ」 、右側「志(知)らする方」 、左側「たづぬる方」と刻まれ、両上部に窪みがあります。

探す人は「尋ね人の特徴を書いた紙」を左の窪みに、見つけた人は「特徴を書いた紙」を右の窪みに貼り付け、知らせました。


 道中に戻ると左手の消火栓の所に呉服橋跡解説板があります、ここには外堀があり、江戸城の外郭門に呉服橋が架橋されていました。

門外に呉服所
後藤縫殿助屋敷があり、当初は後藤橋と呼ばれました。

街道は左折して
東京駅日本橋口から駅構内に入ります。

構内に沿った大丸側の通用門口に御影石の
北町奉行所跡碑があります、天保十一年(1840)から三年間、遠山景元「遠山の金(金四郎)
呉服橋跡 東京駅日本橋口 北町奉行所跡 東京駅一番街

さん」が奉行を勤めました。

江戸方面からは右折して、
東京駅一番街に入り、東京駅丸の内北口に出ます。

 赤レンガ造りの東京駅丸の内口駅舎は 明治四十一年(1908)三月に着工し、大正三年(1914)十二月に竣工し、開業となりました。

駅舎は平成十五年(2003)国重要文化財に指定され、近年保存復元工事が行われました。

大名小路を進みます、この小路には親藩譜代大名の藩邸が二十四家連なっていました。

右手の日本工業倶楽部会館は
伝奏屋敷跡です、勅使の饗応が行われました、ここは赤穂藩主浅野内匠頭吉良上野介の対立の場となりました。

道中は江戸城の
和田倉橋に突き当たります。
東京駅丸の内 伝奏屋敷跡 和田倉橋

 橋を渡ると
和田倉門があり、二万石から三万石の譜代大名が警備を勤めました。

江戸方面からは
和田倉橋の手前を左折します、下諏訪方面からは右折となります。

 濠沿いの歩道を歩きます、馬場先門交差点を越して、しばらく歩くと左手に第一生命があります、ここは連合国軍が設置したGHQ跡です。

太平洋戦争終戦後ここに
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれ、占領政策を日本政府に施行させました、建物内には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの執務室を残しています。

江戸方面からは
日比谷交差点を日比谷濠に沿って右折します、交差点を渡った右手が日比谷公園です。

園内には江戸城外郭城門の一つ、、
日比谷御門の石垣を残しています、ここが日比谷見附跡です、高麗門、枡形、渡櫓、番所がありました。
濠沿いの道中 GHQ跡 日比谷見附跡

 園内の心字池は内濠跡で、石垣の西側はでした。

園内に
仙台藩祖伊達政宗終焉の地解説があります、ここには仙台藩外桜田上屋敷がありました、正宗は江戸参勤の折、寛永十三年(1636)五月、ここで七十年の生涯を閉じました。

園内には
鍋島毛利南部の江戸藩邸がありました。

桜田門交差点手前左手の法務省に
米沢藩上杉家江戸藩邸跡碑があります、関ケ原の戦いの後、上杉景勝は出羽米沢三十万石に移封されました。

慶長八年(1603)ここに建てられた上杉家の江戸屋敷は
桜田屋敷と呼ばれました。
心字池 伊達正宗終焉の地 米沢藩上杉家邸跡

 桜田門交差点の右手奥に桜田門があります、正式には外桜田門といいます、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました、古くはこの辺りを桜田郷(さくらだごう)と呼んでいたところに由来しています、現在の門は大正十二年(1923)の関東大震災で破損し、復元されたものです。

万延元年(1860)三月三日の朝、門外で
安政の大獄を断行した大老井伊直弼水戸浪士等に暗殺された桜田門外の変跡です、当日の朝はで、供の者達は柄袋を締めていた為、応戦が遅れたといいます。

司馬遼太郎は小説幕末のあとがきの中で、暗殺は歴史の奇形的産物であるが桜田門外の変だけは歴史を躍進させたといっています。

桜田門の向かいは
桜の代紋(警視庁)です、警視庁の辺りは豊後杵築藩松平家、人事院は安芸広島藩浅野家、そして外務省は筑前福岡藩黒田家の江戸藩邸跡です。
桜田門 警視庁

 濠側から国会前交差点を渡った右手は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でしたが、二代目忠広(ただひろ)の時に改易され、屋敷も没収されました。

その後、近江彦根藩主
井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷として明治維新を迎えました。

井伊家上屋敷の表門外西側に 江戸の名水櫻の井がありました、清正が掘り当てたといいます、三連式釣瓶井戸で一度に桶三杯の水が汲め、旅人の喉を潤しました。

大老
井伊直弼はこの門から江戸城に向い、桜田門外で暗殺されました。

濠沿いに戻って進むと右手の堤下に
柳の井があります。
井伊家邸跡 櫻の井 柳の井

 井戸枠と柳が一本あります、櫻の井と同じく
江戸の名水でした、井戸の名は西行の歌「道のべに 清水流るる 柳陰 しばしとてこそ 立ちどまりつれ」に由来しています。

 濠沿いから三宅坂交差点を横断すると、小公園があり、園内に渡辺崋山誕生地解説があります。

崋山は寛政五年(1793)ここにあった
三河田原藩上屋敷の長屋で生まれました、天保三年(1842)藩の年寄役末席となり海防掛を兼務すると、田原藩は軍備の近代化が最も進んだ藩となりました、しかし天保十年(1839)幕府の鎖国政策を批判した蛮社の獄で蟄居となり自刃して果てました。

地名の
三宅坂は三河田原藩主三宅氏に由来しています。

濠沿いを進むと国立劇場の向いの右手に特別史跡
江戸城跡碑があります長禄元年(1457)太田道灌江戸城を築城、天正十八年(1590)北条氏が滅ぶと徳川家康が入城し、大規模な修築を行い、三代将軍家光の時にほぼ完成しまた、しかし天守閣は明暦三年(1657)の振袖大火で焼失し、以後再建されませんでした。
渡辺崋山誕生地 江戸城跡碑

 国立劇場辺りに
隼(はやぶさ)町の一里塚があったともいいますが、存在及び位置共に不明です、江戸日本橋より一里目です。

 濠沿いを進むと右手に半蔵門があります、門名は門外に伊賀忍者の棟梁旗本服部半蔵伊賀組屋敷があったところに由来しています。

家康は江戸城に危機が迫った場合、服部半蔵の手引きで半蔵門から城外に脱出し、甲州道中に逃れる江戸城の突破口としました。

半蔵門から四谷門に至る道中の北側は
番町と呼ばれ、甲州道中を警護する番方(ばんがた)の住いが連なっていました。

半蔵門交差点を左折し麹町に入ります、町名はこの界隈には入り組んだ小路が多かったとか、(こうじ)を扱う店が多かったところに由来しています、往時はあらゆる業種の店(たな)が軒を連ね、麹町に行けば、何でも間に合うといわれた一大商店街でした。 

麹町一丁目交差点を左折すると
太田姫稲荷神社があります。
半蔵門 太田姫稲荷神社

 
駿河台太田姫稲荷神社の分社です、太田道灌の娘が天然痘を患い、京の一口(いもあらい)稲荷に祈願すると霊験により無事平癒、道灌は感謝し城内に勧請したのが始まりです。

 太田姫稲荷からそのまま進み、三本目を右折すると平河天満宮があります、文明十年(1478)太田道灌が江戸城内に江戸守護神として勧請したものです、家康は本丸修築の際、現在地に遷座させました、徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家、井伊家等の祈願所でした。

天満宮の裏を抜けて、突当りのT字路を右折し、一本目を左折すると麹町スタジオの向いの白い建物の壁面に
麹町貝坂高野長英大観堂學塾跡碑が埋め込まれています、天保元年(1830)高野長英が蘭学塾をここに開設しまた。

麹町四丁目交差点を左折し、紀尾井町交差点を右折して進むと
大久保公哀悼碑があります。

平河天満宮

高野長英塾跡碑 大久保利通碑

 明治十一年(1878)五月十四日朝、参議兼内務卿
大久保利通は馬車で赤坂御所へ出仕する途中、紀尾井坂で不平士族島田一郎等六名に暗殺されました。

 麹町六丁目交差点先を右に入ると浄土宗常栄山心法寺があります、慶長二年(1597)の創建で、開基は徳川家康です。

境内には
塩地蔵尊があります、お地蔵さんの体に自身の患部と同じ個所に塩を塗ると病に御利益があります。

境内にある
青面金剛像が陽刻された庚申塔は宝暦二年(1752)の建立です。

墓地には下野皆川藩主
松平家

心法寺

塩地蔵尊 庚申塔 下野皆川藩主墓

三代の墓があります、皆川藩一万五千石の大名でしたが、三代目
重利が寛文五年(1665)幼くして没したため断絶となりました。

 左手の上智大学は尾張徳川家中屋敷跡です、ホテルニューオオタニは彦根藩井伊家中屋敷跡、旧赤坂プリンスホテルは紀伊家中屋敷跡です、この一帯は三家の頭文字をとり紀尾井町と呼ばれました。

四谷駅前交差点を右折し、一本目を左折すると右手に
四谷見附跡の石垣があります、寛永十三年(1636)城門石垣が築造され、寛永16年高麗門(こうらいもん)が設置されました、江戸城西口の城門で、外麹町口四谷口門山手御門とも呼ばれました。

四谷見附橋を渡ります、大正二年(1913)竣工、都内最古の陸橋です。

四谷見附北交差点手前の左手に
歌碑があります。
上智大学 四谷見附跡

福羽美静歌碑


 
福羽美静(ふくばびせい)が建立した桜の記念植樹碑で、自身の和歌「たれもみな このこころにて ここかしこ にしきをそへて さかえさせばや」が刻まれています、美静は元津和野藩士で子爵、貴族院議員でした、明治二十九年(1896)四ツ谷駅から堀端まで桜の植樹を行ないました。

四谷の地名は
四方に谷があったとか、この辺りに四軒の家屋があったところに由来しています。

 四谷見附北交差点を左折し、スグ先の四谷見附交差点を右折します、コの字状に進んだことになります。

道中左手の
若葉町須賀町には多数の寺社が集中し、寺町を構成しています、それでは寺社巡りをしてみましょう。

浄土宗専称山
西念寺(さいねんじ)には服部半蔵の墓と家康の長男岡崎三郎信康の供養塔があります、服部半蔵は家康十六将のひとりで鬼の半蔵と呼ばれ伊賀忍者の頭領でした。

家康の長男
岡崎三郎信康は天正七年(1579)武田勝頼と内通しているとの嫌疑を着せられ信長の命により切腹となりました、その際、半蔵は家康より介錯を命じられが、さすがに主君の子の首は打てなかったといいます。

後に半蔵は
出家し、ここに庵を結び西念と号し、信康の菩提を弔いました。
服部半蔵墓 岡崎信康供養塔

 曹洞宗勝興寺(しょうこうじ)には七代目山田浅右衛門の墓があります、代々首切り役を世襲し、公儀御試御用として将軍家に納める刀剣を罪人の屍で試し切りを行いました。

須賀神社は往時四谷牛頭天王社と称し、四谷十八ケ町の鎮守でした、毎年六月に行われる天王祭りは江戸五大祭りのひとつです。

真言宗豊山派独鈷山
愛染院愛染尊は秘仏で、住職すら見ることは許されていません。

墓地には
内藤新宿の開設に尽力した高松喜六の墓があります、高松家は代々本陣問屋を勤め、名主を兼ねました。
山田浅右衛門墓 須賀神社 高松喜六墓

 同じく墓地には盲目の国学者塙保己一(はなわ ほきいち)の墓があります、七歳で失明、志を立て、賀茂真淵の門を叩き、国学を学び群書類従を著しました、三重苦のヘレンケラーの手本であったといいます。

ある夜、
保己一が講義をしていると風が吹きローソクの火が消え、弟子達が慌てふためいていると、保己一が「目あきとは不自由なものじゃ」といったといいます。

東福院には豆腐地蔵があります、毎晩豆腐を買いに来る坊さんがいました、代金は必ず葉っぱでした、これは狸か狐の悪戯と思い、手を切ったところ、血痕は地蔵の所まで続いていたといいます。

臨済宗瑞渓山
祥山寺には忍者地蔵があります。
塙保己一墓 豆腐地蔵 忍者地蔵

 かつてこの辺りは
伊賀者が住み伊賀町と呼ばれていました、祥山寺は伊賀衆の菩提寺で、忍者地蔵は伊賀組忍者供養塔です。

 道中に戻り津之守坂入口交差点先を右に入ると金丸稲荷神社があります、この地は尾張藩の支藩美濃高須藩松平家上屋敷跡で稲荷社は屋敷神でした。

道中に戻り一本先を左に入ると右手に
於岩稲荷田宮神社があります、東海道四谷怪談の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祀っています。

この
於岩稲荷は四谷左門町の御手先組同心田宮家の邸内にあった社です。

向いの
陽雲寺は於岩像を安置しています、今は悪縁を切り、良縁を結ぶお岩様といいます。
金丸稲荷神社 於岩稲荷田宮神社 陽雲寺

 道中に戻り四谷四丁目東交差点を左に入ると曹洞宗四谷山長善寺があります、天正三年(1575)甲陽軍鑑を著した甲斐國武田氏の家臣高坂弾正昌信の居所に結ばれた草庵が始まりです。

徳川二代将軍
秀忠が鷹狩りの折に、立ち寄ったところ寺の周囲に笹が繁っていたところから、笹寺と命名しました。

寺宝の
めのう観音像赤めのうから彫られた高さ4.9cmの観世音菩薩像で台座には笹寺に因む笹が陽刻されています。

この
観音像は徳川二代将軍秀忠の念持仏で、秀忠の死後、夫人崇源院(すうげんいん)から賜ったものと伝わっています。

寛永元年(1624)初代横綱
明石志賀之助が境内で六日間の相撲興行を行い、これが江戸の勧進相撲の初めといいます。
長善寺(笹寺) めのう観音像

 AM 9:10 内藤新宿着 下高井戸宿まで 6.9km

 四谷四丁目交差点を渡ると四谷大木戸跡です、左手には四谷大木戸跡碑があります、元和二年(1616)ここに大木戸が設置されました、江戸城下町への西口であり、内藤新宿の東口でした、内藤新宿に到着です!

当初、
江戸日本橋の次宿は高井戸でした、しかしその距離は四里と長い為、人馬の継立てに難渋、そこで浅草の名主であった高松喜兵衛(喜六)等の請願により元禄十二年(1699)新宿が開設されました、内藤氏下屋敷の一部を割いて新宿が成立したので内藤新宿と命名されました。
青梅街道の追分を控えると共に、「江戸の四口に各娼家あり、品川を第一とし、内藤新宿を第二とす」といわれ、大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると内藤新宿宿内家数は六百九十八軒、うち本陣一、脇本陣なし、問屋一、旅籠二十四軒(大十二、小十二)で、宿内人口は二千三百七十七人(男千百七十二人、女千二百五人)でした。
四谷大木戸跡 四谷大木戸跡碑

 四谷大木戸跡碑の並びに水道碑記(すいどうのいしぶみのき)・玉川上水水番所跡碑があります。 

玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠(かいきょ)で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋木樋といった水道管を地中に埋設して通水しました、余った水は内藤家下屋敷に供給されました。


水番所には、
水番人が一名置かれ、水門を調節して水量を管理したり、ごみの除去等を行い水質の保持に勤めました。

左手の
新宿御苑内藤家下屋敷跡です、天正十八年(1590)家康秀吉の命により関東に国替えとなり、江戸入府に際し、譜代の家臣内藤清成は鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣を勤め、防備と警戒にあたりました、これが百人組鉄砲隊の始まりとなりました、この功により広大な屋敷地を拝領し、後に内藤氏は信州高遠藩主となりました。

玉川上水碑 新宿御苑

 右手の四谷消防署新宿御苑出張所手前に秋葉神社があります、このコンビネーションは最強です、境内には虚空蔵子守狛犬があります。

新宿一丁目西交差点の一本先を右に入ると浄土宗
太宗寺(たいそうじ)があります、境内に入ると右手に銅造地蔵菩薩座像があります。

正徳二年(1712)
江戸六地蔵の三番目として造立されました。

境内の右手に
閻魔堂があります、安置されている閻魔(えんま)は文化十一年(1814)の造立です、内藤新宿のお閻魔さまと呼ばれ、庶民の信仰を集めました。
秋葉神社 銅造地蔵菩薩座像 閻魔像

 閻魔堂には明治三年(1870)造立の奪衣婆(だつえば)も安置されています、奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り、罪の軽重を計ったとされています。

この衣服をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神としてしょうづかのばさあんと呼ばれ篤く信仰されました。

境内の左手には
不動堂があります、額の上に銀製の三日月を頂いているところから、三日月不動と呼ばれる不動明王像を安置しています。

この像は高野山
薬王院に奉納するため甲州道中を運搬中、休息のため、太宗寺境内に立寄っ

奪衣婆像 三日月不動像 塩かけ地蔵尊

 
たところ、盤石の如く動かなくなったため、ここに安置されました。

不動堂脇には
塩かけ地蔵尊が祠内に安置されています、いぼおでき等にご利益があります、この塩をもらって帰り患部に塩を擦り込むと治るといいます、そして治ったらお礼に塩を倍にして奉納します。 

 太宗寺は信州高遠藩主内藤家菩提寺です、墓地には内藤正勝の墓(宝篋印塔)があります、内藤家五代目正勝以降歴代の墓がありましたが今は三基に改葬されています。

太宗寺を後にして、更に北に進むと浄土宗
正受院があります、境内に入ると右手に奪衣婆(だつえば)を安置する堂があります。

奪衣婆像は頭から肩にかけて綿を被っているところから
綿のおばばと呼ばれ、咳止めに霊験あらたかで、礼に綿を奉納します。

宝永八年(1711)造立の
梵鐘は戦時中、供出されましたが、戦後米国のアイオワで発見
内藤家墓 正受院の奪衣婆像 梵鐘

 
され、昭和三十七年(1962)正受院に返還され、以降平和の鐘と呼ばれました。

 並びの浄土宗成覚寺(じょうかくじ)の境内に寛政十二年(1800)造立の旭地蔵があります、内藤新宿の遊女と遊客の心中者達を供養したもので、夜泣地蔵とも呼ばれました。

成覚寺は内藤新宿の
飯盛女達の投げ込み寺でした。

境内に
子供合埋碑(こどもごうまいひ)があります、江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていました)達を弔うため、万延元年(1860)十一月に旅籠屋中が建立したもので、惣墓(そうぼ)と呼ばれる共同墓地の一角に建てられた墓じるしでした。

維新以降、飯盛旅籠は遊女屋となり遊郭を形成しました、後に成覚寺の西側一帯は
赤線地帯となりました。
しかし昭和三十三年(1958)
売春防止法の施行により、その姿を消しました。
旭地蔵 子供合埋碑

 宿並に戻ると新宿三丁目交差点手前の左手に追分だんご本舗があります、往時は青梅街道の追分を控え、追分だんごを商う茶屋が軒を連ねていました。

新宿三丁目交差点が
青梅街道追分です、歩道上には追分道標があります。

交差点直進が
青梅街道です、青梅、大菩薩峠を経由して、酒折村で再び甲州道中に合流します、甲州裏街道とも呼ばれ、道程で甲州道中より二里程短い為、庶民の旅に利用されました。

この
追分が内藤新宿の西口です、この界隈に追分の一里塚があったともいいますが、存在及び位置共に不明です、江戸日本橋より数えて二里目です。

街道は
新宿三丁目交差点を左折して明治通りに入り、スグ先の新宿四丁目交差点を右折します。
追分団子 追分道標

 新宿四丁目交差点を直進すると左手に曹洞宗護本山天龍寺があります、山門や本堂の門扉に徳川家の三つ葉葵紋があしらわれています、江戸城の裏鬼門鎮護の寺でした。

境内の
梵鐘は明和四年(1767)鋳造で、江戸三名鐘(上野寛永寺、市谷八幡宮)の一つで時の鐘でした、別名追い出しの鐘と呼ばれ、飯盛旅籠に泊まり込んだ遊客(役人)に早めの時を告げました、粋ですね!

ちなみに小伝馬町の
時の鐘は、処刑のある日は刻限を遅らせて時を告げたところから情けの鐘と呼ばれました。

新宿四丁目交差点先の
Y字路の歩道は左手の国道
天龍寺 時の鐘 新宿駅南口手前

 沿いに進みます。


 新宿駅南口前を通過した先は枡形になっています、それではトレースしてみましょう、西新宿一丁目交差点を右折し、一本目を左折します、先の信号交差点を左折し、再び国道20号線に合流します。

街道右手の
新宿新都心(副都心)と呼ばれる、高層ビル群辺りは淀橋浄水場跡です、明治十九年(1886)コレラの大流行により外国の技術を導入して浄水場を建設しました。

左手には旧代々木村、旧角筈村境の
天満宮があります、境内には樹齢三百年の箒銀杏(ほうきいちょう)があります、箒を逆さに立てたように見えます。

道中上には首都高速4号新宿線が覆い被さって来
新宿新都心 天満宮&箒銀杏 諦聴寺

ます、すると左手に真宗大谷派聖徳山諦聴寺(ていちょうじ)があります、萬冶元年(1658)四谷に創建され、嘉永三年(1850)現在地に移りました、本堂には渋谷区最古といわれる十六歳時の木像聖徳太子立像(孝養像)が安置されています。

 並びに浄土真宗東本願寺派湯嶋山安養院正春寺(しょうしゅんじ)があります、慶長十九年(1614)の創建で、徳川二代将軍秀忠の乳母初台の局の菩提寺です、これが初台の地名の由来となりました。

右手の新国立劇場を過ぎ、渋谷消防署代々木出張所の一本先を右に入ると左手に東郷平八郎筆の
旗洗池跡碑があります、後三年の役(1083〜87)後、八幡太朗義家が上洛の折にこの池で源氏の白旗を洗い、傍らの松に掛けて乾かしたと伝わっています、これが幡ヶ谷の地名の由来となりました。

進行方向左の歩道に移って進むと、幡ケ谷歩
正春寺 旗洗池跡碑 子育地蔵尊

道橋の袂に近代的な
地蔵堂があります、貞享三年(1686)造立の子育地蔵尊立像が安置されています、篤く信仰されました、堂内には青面金剛像庚申塔南無妙法蓮華経題目碑があります。

 そのまま進むと笹塚交差点手前の左手に近代的な三角形の地蔵堂があります、牛窪地蔵尊が安置されています。

ここは
刑場跡で、牛裂きの刑が執行されたところでした、地形が窪地であったところから牛窪と呼ばれました。

この地に
疫病が流行ると、刑死者の祟りといわれ、正徳元年(1711)地蔵が造立されました。

地蔵堂の前には文化三年(1806)新町商人達が建立した
道供養碑があります、往時は内藤新宿を出ると、辺りは一面の茅原でした。
牛窪地蔵尊 道供養碑 酒呑地蔵

 笹塚交差点を右に入ると右手に浄土宗法界山
清岸寺(せいがんじ)があります、境内に宝永五年(1708)造立の酒呑地蔵があります、働き者の青年が三十一歳になって初めてを馳走になったところ、酔って川に落ち溺死してしまった、青年は夢枕に現れ、酒に苦しむ人を助けるために地蔵を造ってほしいと願いました。

 街道の右側を進むと笹塚交番の向いに笹塚跡解説があります、ここが笹塚の一里塚跡です、両塚共幡ケ谷村地内笹塚で塚木は榎でした、一里塚は笹に覆われていたため笹塚と呼ばれ、これが地名の由来となりました、江戸日本橋より数えて三里目です。

先に進み渋谷笹塚郵便局の手前を右に入ると右手に
庚申堂があります、堂内には元禄十三年(1700)建立の青面金剛像庚申塔が安置されています。

庚申信仰は六十日毎に巡り来る庚申の夜、眠り込んだ人の体内から三尸(さんし)と呼ばれる虫が天に昇り、天帝にその人の罪過を告げ、罰が下ると信じられていました、人々は一晩中寝ずに夜明けを待ちました、これは唯一の娯楽でもありました。

大原交差点の手前が
三郡橋跡です、標識等はありません、往時ここ
笹塚の一里塚跡 庚申塔

に川があり、この川に架かる橋は
豊島郡(現渋谷区)、多摩郡(現杉並区)、荏原郡(現世田谷区)の三郡の境でした。

 大原交差点先の左手に小さな流れがあります、ここが代田橋跡です、玉川上水に架橋されていました。

江戸の水不足を補うために徳川四代将軍
家綱の命により玉川兄弟が多摩川から四谷大木戸まで上水を引き入れました。

代田橋駅前歩道橋の手前を左に入り、京王線踏切手前を右に進むと
大原稲荷神社があります、この地の鎮守で、世田谷で唯一酉の市が立ちます、参道口には北向子育地蔵尊が祀られています。

街道の右側に移動して進と、松原交差点先、右手二本目の路地奥に
和泉地蔵尊が祀られています。
代田橋跡 大原稲荷神社 和泉地蔵尊

 明治大学和泉校舎及び本願寺派築地別院和田掘廟所一帯は江戸幕府の鉄砲弾薬等を貯蔵する塩硝蔵(えんしょうぐら)でした。

明治維新の際、塩硝蔵は
官軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩との戦いに使用され、その威力を発揮したといわれます。

後に
陸軍省火薬庫になり、これがため昭和二十年(1945)五月空襲により一帯は焦土と化しました。

浄土真宗本願寺派
築地本願寺和田堀廟所は関東大震災後、築地本願寺別院として創建されました、墓地には樋口一葉、海音寺潮五郎 、服部良一、古賀政男等の墓があります。
塩硝蔵地跡 本願寺和田堀廟所 玉川上水跡

 玉川上水跡の杉並区立玉川上水永泉寺緑地を右に見ながら進みます。

道中は直進しますが、松原二丁目交差点を右に入ると江戸市中から移ってきた
寺院が連なっています。

それでは折角ですから順次立ち寄ってみましょう、浄土真宗本願寺派三宝山
真教寺は宗祖親鸞上人が八十歳の時に自作したと伝わる親鸞坐像を所蔵しています。

真宗大谷派光栄山
託法寺(たくほうじ)は寛永十一年(1634)の創建で、本尊は阿弥陀如来立像です。

浄土真宗本願寺派本光山
善照寺の本尊は阿弥陀如来立像です。
真教寺 託法寺 善照寺

 浄土真宗本願寺派柳水山浄見寺には江戸時代の狂歌師中井菫堂(とうどう)の墓があります。

浄土真宗本願寺派寂静山潮音閣
法照寺の墓地には荒事を能くした歌舞伎立役の初代市川団蔵や囃子方で鼓の名手といわれた寶山左衛門(たからさんざえもん)の墓があります。

浄土宗
栖岸院は寛永十六年(1639)老中阿部対馬守重信の子重長が中興開基し菩提寺としました、住職が将軍に単独で拝謁できる独札の寺格でした。

観音堂に安置する
聖観世音菩薩火伏観音と呼ばれ、鎌倉時代後期作の端正な仏像で杉並区指定文化財です。
浄見寺 法照寺 栖岸院

境内の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は番町皿屋敷で名高いお菊の墓と伝わっています。

曹洞宗天長山
永昌寺の本尊は釈迦如来坐像 です、門前と境内に四基の庚申塔と二体の地蔵尊(塔)が祀られています。

曹洞宗嶺玉山
龍泉寺は明治四十二年(1909)四ツ谷南寺町から当地へ移ってきました、当時この付近は門前を流れる玉川上水に、春はが清流に映え、六月にはホタルが飛び交う杉並でも指折りの名勝地でした。

境内の
北向地蔵は、熱病などの難病に、霊験あらたかと篤い信仰をあつめていました。
お菊の墓 永昌寺石仏石塔群 龍泉寺北向地蔵

 AM 10:50 下高井戸宿着 上高井戸宿まで 1.6km

 永福一丁目の寺院巡りを終了し、甲州道中に戻ると下高井戸駅入口交差点です、下高井戸宿に到着です!

当初、
高井戸宿は甲州道中の一番目の宿場でしたが、後に内藤新宿が設置されると次第に素通りされる宿場になってしまいました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると下高井戸宿宿内家数は百八十三軒、うち本陣一、問屋一、旅籠三軒(大一、中一、小一)で、宿内人口は八百九十人(男四百三十九人、女四百五十一人)でした、上高井戸宿とは合宿(あいじゅく)で問屋業務は月のうち上十五日を勤めました。

宿並を進むと右手に
竹清堂があります、明治四十年(1907)創業の竹細工店です、二階には竹細工の像を飾っています。
竹清堂 覚蔵寺

 
桜上水駅北交差点先の右手に日蓮宗清月山覚蔵寺があります、日蓮聖人直刻の鬼子母神像が安置されています、日蓮が鎌倉の龍ノ口で危うく処刑されかかった時、老女から胡麻のぼた餅を供養され、礼として与えたものです。

 並びに日蓮系叡昌山(そう)源寺があります、境内の不動堂はかつて高台にあったため高井堂と呼ばれ、高井戸の地名の由来となりました。

宗源寺の隣りが
冨吉屋源蔵本陣跡高札場があり、向いが問屋場で、篠崎弥惣次が勤め名主を兼ねたといいますが標識等はありません。

鎌倉街道入口交差点を過ぎると
甲州道中一里塚跡解説があります、下高井戸の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて四里目です。

西新宿から頭上を覆ってきた
首都高速4号新宿線は右に反れて行きます、やっと開放的になった国道20号線を進みます。
宗源寺不動堂 下高井戸一里塚 山谷稲荷

 
上北沢歩道橋先を左に入ると山谷稲荷があります、慶長十九年(1614)の創建で境内には力石があります。

 AM 11:29 上高井戸宿着 国領宿まで 6.1km

 上北沢四丁目交差点を越すと上高井戸宿に入ります、上高井戸宿到着です!

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると上高井戸宿宿内家数は百六十八軒、うち本陣一、問屋一、旅籠二軒(大一、小一)で、宿内人口は七百八十七人(男四百十五人、女三百七十二人)でした、下高井戸宿とは合宿(あいじゅく)で問屋業務は月十六日から月末までを勤めました。

環八通り高架手前の右手辺りが
武蔵屋本陣跡です、代々並木伊兵衛が勤め、問屋場細淵三左衛門が勤めましたが、共に標識等はありません。

環八通りの
高井戸陸橋をくぐった先にY字路があります、国道20号線から分かれて斜め左に入ります。
環八通り高架 上高井戸分岐

 旧道に入ると右手に井之頭辨財天道道標があります、「是ヨリ一里半」と刻まれています、井の頭公園の池畔にある弁財天は関東源氏の祖源経基(つねもと)の創建で、延暦八年(789)伝教大師作の天女神を祀っています。

次いで左手に曹洞宗萬年山
長泉寺(ちょうせんじ)があります、慶安元年(1648)の創建、墓地には上高井戸宿武蔵屋本陣を勤めた並木家の墓があります、観音堂に奉納されている板絵着色西国巡礼図は杉並区指定有形民俗文化財です。

左手のCHITOSE HOTEL脇に
大橋場跡があります、復元親柱「武州千歳村大橋場の跡」があります、烏山用水に架橋されていました、傍らに明和
井之頭弁天道 長泉寺観音堂 大橋場跡

八年(1771)に地頭名主を勤めた下山家が造立した下山地蔵があります、身代わり地蔵とも出世地蔵とも呼ばれています、並びの青面金剛像庚申塔は元禄十三年(1700)の建立です。

 右手のヒラカタ表具店の所に烏山小学校移転跡碑があります。

烏山(からすやま)は間の宿下宿中宿上宿で構成されていました、中宿に入ると右手に南烏山りんれい広場があります、ここにせたがや百景標石があります、標石には「昔の街道筋を偲ばせる風景は残っていないが、この道筋そのものが街道だったことを忘れるわけにはいきません」と記されています。

烏山総合支所交差点を過ぎると右手の路地脇に
石仏石塔群があり、首の欠けた地蔵尊等があります。
烏山小学校 せたがや百景 石仏石塔群 里程標

 給田町交差点を過ぎると右手植栽の中に
里程標があります、明治三年(1870)建立の新一里塚です、「内藤新宿より三里」と刻まれています。

 給田三丁目交差点先を左に入ると給田千手観音堂があります、徳川家所縁の尼寺跡で、境内に宝永四年(1707)建立の宝篋陀羅尼経之塔(ほうきょうだらにきょうのとう)があります。

仙川(せんがわ)に架かる大川橋を渡り、仙川三差路交差点にて国道20号線に合流します、下諏訪方面からは斜め右に入ります。

右手に天台宗大慈山
昌翁寺(しょうおうじ)があります、仙川領主
給田観音堂 仙川 仙川三差路分岐 昌翁寺

飯高主水貞正が創建し菩提寺としました。

貞正は
今川義元の家臣でしたが、家康に仕え戦功により旗本となり下仙川村の地が与えられました、境内には正保二年(1645)建立の宝篋印塔や宝永三年(1706)建立の五輪塔等があります。

 仙川駅入口交差点のセブンイレブン前に市旧跡仙川一里塚跡碑があります、両塚共下仙川村地内で塚木は有りませんでした、江戸日本橋より数えて五里目です。

左手のキューピーマヨネーズ工場を過ぎ、仙川二丁目交差点を越すと、斜め右に入る
瀧坂旧道が残されています。

旧道口には
標石「瀧坂旧道 馬宿川口屋」があります、一旦雨になるとのように流れる急坂の難所でした、ここには馬宿川口屋がありました。

下り坂に入ると左手に現世での救済にご
仙川の一里塚跡 瀧坂旧道東口 標石 薬師如来坐像

 
利益のある薬師如来坐像が祀られています、傍らには首の欠けた地蔵菩薩立像があります。

 瀧坂旧道はライオンズガーデンつつじケ丘マンションの所で国道20号線に合流します、下諏訪方面からは斜め左の下り坂に入ります。

この分岐から国道を挟んだ向かい側のコンクリート製の祠内に
地蔵尊や寛政十二年(1800)建立の青面金剛像庚申塔が安置されています。

滝坂交差点を越すと右手に
金子のイチョウがあります(調布市天然記念物)、寛延元年(1748)伏見稲荷を勧請した際に、一対のイチョウを社前に植栽したものです、この辺りは旧金子村で武蔵七党のひとり金子氏の出身地で、金子瓜(真桑瓜)の名産地でした。

つつじケ丘交番前交差点を越すと右手に
朱塗り山門
地蔵&庚申塔 金子のイチョウ 金龍寺

の曹洞宗大雲山金龍寺があります、建永元年(1206)栄西禅師の開基です、慶安二年(1649)徳川三代将軍家光が鷹狩りの際に、当寺で休息しました。

境内には
大閻魔像、貞享元年(1684)建立の青面金剛像庚申塔復元高札場等があります。

菊野台交番を過ぎると右手に
妙円地蔵があります、金子村に嫁いできた女性が盲目となり出家し、寿量妙円尼と号しました。

文化二年(1805)浄財をもとに
地蔵菩薩像を造立し、文化十四年(1817)念仏を唱えながら往生したといいます。
大閻魔像 復元高札場 妙円地蔵

 柴崎駅交差点手前の右手に地蔵尊が安置されています、風化が進んでいますが、花が供えられ大事にされています。

調布市菊野台歩道橋先二本目を左に入ると
金剛夜叉明王が祠内に安置されています。

金剛夜叉明王
(こんごうやしゃみょうおう)は人間界仏界を隔てる天界に位置する明王の中でも特に中心的役割を担う五代明王の一人で、不浄や煩悩を吹き払います。

古くから敵を打ち破る
戦勝祈願の仏として、広く武士達に信仰されてきました。
地蔵尊 金剛夜叉明王

 PM 12:52 国領宿(布田五ケ宿)着 府中宿まで 7.6km

 野川馬橋(まばし)で渡ると布田五ケ宿国領宿に到着です!

布田五ケ宿は
国領宿下布田宿上布田宿下石原宿上石原宿の五宿で構成された合宿でした、江戸日本橋から五里三十二町余り(約23.5km)と近く、間の宿的色彩が濃く、本陣脇本陣は無く、旅籠九軒と小宿でした。

幕末、布田五ケ宿は幕府の
長州征伐に際して、軍資金五千両の拠出を課せられたが支払えず、代わりに商魂たくましく遊女屋三十軒、遊女百人の許可を得て、その運上金の年賦納としました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると、国領宿宿内家数は六十一軒で、うち旅籠一軒、宿内人口は三百八人(男百六十九人、女百三十九人)で、宿長は三町(約327m)でした、問屋業務は月の内、二十五日から晦日(みそか)迄を勤めました。

国領の地名は古代国衙(こくが)直轄地であったことに由来しています。
野川

 旧甲州街道入口交差点を直進します、国道20号線は右に反れて行きます。

国領駅入口交差点を左に入ると
稲荷神社があります、昇福稲荷大明神が祀られています。

国領駅前郵便局の所から
宿並は右に大きく曲がります。

左手の祠内に寛政十年(1798)建立の
青面金剛像庚申塔が安置されています、花が供えられ、大事にされています。
旧甲州街道入口 稲荷神社 庚申祠 庚申塔

 右手の家根松瓦店先右の路地に入ると谷戸(やと)稲荷神社があります、名主を勤めた谷戸家に祀られていた稲荷社です、境内の祠には正徳五年(1715)建立の青面金剛像庚申塔地蔵尊が安置されています。

宿並に
そば処若松屋があります、カツ丼&そばランチセットがあります、これは最強コンビです、即決です!
厨房からジュワーッとカツを揚げる音がします、良いね直前揚げです!!
衣がカリッとしていて実にうまい!これで
710円です、ご馳走さま!!!
谷戸稲荷神社 若松屋 カツ丼&そばランチセット

 宿並の左手に浄土真宗本願寺派本誓山圓福寺があります、当初鎌倉の切通に創建され、武田信玄が中興開基しました、参道口の六地蔵は天明五年(1785)の造立です。

圓福寺先を右に入ると国道20号線沿いに
國領神社があります、元は第六天社と称し、古代多摩川の畔にありました。

境内の
千年乃藤はご神木で樹齢五百年、ちょうふ八景のひとつで、ゴールデンウイーク辺りが見頃です。

この藤は幾歳月を経て、今日もよく延び茂るので、延命、子孫繁栄、商売繁盛、万物繁盛に通じ、フジの字は
不二無事に通じ、災厄を防ぎ守るご神木として敬
圓福寺六地蔵 國領神社 千年乃藤

い崇められています。


 宿並に戻ると右手に真言宗豊山派医王山長楽院常性寺があります、本堂は薬師堂で本尊の薬師如来座像を安置しています。

常性寺は鎌倉時代、多摩川沿いに創建され、慶長年間(1596〜615)に当地へ移り、祐仙法印が成田山新勝寺より成田不動尊を勧請し、以来調布のお不動さんと呼ばれ親しまれてきました。

境内の
地蔵堂には一願(いちがん)地蔵尊が安置されています、一つだけ願いを叶えてくれるといいます。
常性寺本堂 成田不動堂 地蔵堂 馬頭観音

 境内の
馬頭観音は文政七年(1824)の建立で小橋(現馬橋から西450m)の馬捨て場にあったものです。

 常性寺境内の敷石碑は明治十一年(1878)布田五ケ宿の女郎屋が敷石を寄進した記念碑です。

布田駅前交差点を境に
下布田宿に入ります、天保十四年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると下布田宿宿内家数は九十五軒、うち旅籠三軒、宿内人口は四百二十九人(男二百十八人、女二百十一人)で、宿長は二町(約218m)でした、問屋業務は月の内、十九日から二十四日迄を勤めました。

宿並を進むと左手に日蓮宗惺誉山
蓮慶寺があります、徳川三代将軍家光より御朱印地を賜り、以来歴代将軍の菩提を弔う御朱印寺として
敷石碑 蓮慶寺赤門 日蓮聖人坐像

赤門と住職の乗駕(じょうが)が許されました、山門には葵の紋があしらわれています。

本尊の
木像日蓮聖人坐像は天文十九年(1550)の造立で調布市指定有形文化財(彫刻)です。

 蓮慶寺先の十字路を境に上布田宿に入ります、天保十四年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると上布田宿宿内家数は六十八軒、うち旅籠一軒、宿内人口は三百十四人(男百五十三人、女百六十一人)で、宿長は八町(約870m)でした、問屋業務は月の内、十三日から十八日迄を勤めました。

右手24Hパーキングの所に
近藤勇と新選組ゆかりの人(上布田)解説があります、伊藤玄朴[げんぼく、寛政十二年(1800)〜明治四年(1871)]は蘭方医でシーボルトの弟子でした、のちに幕府奥医師となりました、近藤周助の養子になってのち病にかかり、病状が次第に悪化して上石原に帰ったことがありました、玄朴が上布田宿に来たときに診断し、投薬したところ本復し事無きを得たといいます。

調布駅北口交差点の手前右の小路が
布多天神社参道口です、ここに近藤勇と新選組ゆかりの道(布田天神社参道)解説があります、かつてこの参道
伊東玄朴解説 布田天神社参道

には
の並木があり、江戸の地まで聞こえた名所でした、毎月二十五日の縁日は二百年程前から開かれ、暮のはことに賑やかで、世田谷のぼろ市と並び称されたといいます。

天神社の境内にある
日露戦争記念碑には近藤勇の孫久太郎の名が刻まれていると記されています。

 布多天神社は国道20号線を越えた先に鎮座しています、延長五年(927)の 創建で延喜式神名帳に記載された古社です、布田五ケ宿の総鎮守で五宿天神とも呼ばれました。

平安時代初期、この地の長者が
布多天神のお告げにより木綿織りを習得し、この布を多摩川に晒し、朝廷に貢物(調)として献上したところ、天皇はこの布を調布(てづくり)と命名しました、以来この地は調布の里と呼ばれました。

境内の
狛犬は寛政八年(1796)の繁栄と商売繁盛を祈願して建立されたものです。

宿並の右手えの木駐車場の所に
市旧跡小島一里
布田天神社 狛犬 小島一里塚跡

塚跡碑があります、塚木は推定樹齢二百年のでした、江戸日本橋より数えて六里目です。

 下石原一丁目交差点を境に下石原宿に入ります、天保十四年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると、下石原宿宿内家数は九十一軒で旅籠なし、宿内人口は四百四十八人(男二百十九人、女二百二十九人)で、宿長は七町(約763m)でした、問屋業務は月の内、七日より十二日迄を勤めました。

漢方薬大門堂薬局の手前を右に進み、国道20号線を横断すると
八幡神社があります、旧下石原の鎮守です、、江戸初期の獅子頭三体は社宝です、昔悪疫が流行った時、この獅子頭を被って村中を舞い歩き、悪病を追い払ったと伝えられています、社前には大地を守る堅牢地神(けんろうじしん)があります。

宿並みに戻ると左手に天台宗神向山花光院
常演寺
八幡神社 堅牢地神 常演寺地蔵

あります、本尊は
阿弥陀如来立像です、門前には地蔵祠と嘉永三年(1850)建立の常夜燈があります。

 鍛冶師の守護神である金山彦神社の先左手に臨済宗建長寺派金剛山源正寺があります、太田道灌の弟資忠(すけただ)の子孫太田対馬守盛久の創建です。

参道口の祠内には
六地蔵庚申塔等が安置され、並びの大乗妙典日本廻国供養塔は天明三年(1783)の建立です。

源正寺の西側小路を境に
上石原宿に入ります。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると、上石原宿宿内家数は七十三軒で、うち旅籠四軒、宿内人口は四百十一人(男二百十人、女百二百一人)で、問屋業務は月の内、一日から六日迄を勤めました。

源正寺先の時差式信号交差点にて
都道229号線に合流します、下諏訪
源正寺 時差式信号交差点

方面からはY字路を斜め右に入ります。


  西調布駅入口交差点右手の駐車場のネットフェンスに近藤勇と甲陽鎮撫隊解説と近藤勇と新選組ゆかりの地(上石原宿名主中村家)解説があり、向いの天台宗長谷山西光寺の境内には近藤勇坐像があります。

近藤勇は上石原村で生まれました、幕末、試衛館の一門を引き連れ上京し、新選組を組織し、獅子奮迅の活躍をするも、鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に戻りました。

徳川慶喜は上野寛永寺に恭順、幕府総裁勝海舟は官軍との間で江戸城無血開城を模索する中、過激分子の新選組が府内にいるのではまとまる話もまとまらないと一計を案じました。

近藤勇を大名格の若年寄土方歳三を旗本格の寄合席に取立て、軍資金と武器を与え甲府城の死守を命じました、一党は甲陽鎮撫隊を組織し江戸を勇躍出立しました。
近藤勇所縁の地 近藤勇像

 
近藤勇は大名並みの長棒引戸の駕篭、土方歳三はフランス軍服にブーツ姿で故郷に錦を飾りました、正に絶頂そのもです、上石原はその出世姿を一目見ようと大騒ぎとなりました、近藤は従兄弟の隊士宮川新吉(京の天満屋で討ち死)の実家に立寄り五十両の香典を手向け、西光寺門前の名主中村勘六宅で歓待を受けた後、出立しました。

 中央自動車道高架をくぐった先の飛田給駅入口交差点を甲州道中は直進(白色矢印)しますが、右折(黄色矢印)すると約2.5km先に近藤勇生家跡があります。

近藤勇は天保五年(1834)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)として生まれました、豪農であり、篤農家であった久次郎は屋敷の向いに天然理心流道場撥雲舘を開いていました。

天然理心流は小技よりも気迫を重んじ、いかなる相手にも動じない極意必勝の実践を大事にする流儀でした。

三代目
近藤周助は月に二〜三回招かれて
飛田給駅入口 近藤勇生家跡 近藤勇生家

撥雲舘(はつうんかん)に通っていました、そこでの度胸と技量を見込み嘉永二年(1849)十六歳の時近藤家の養子に向い入れ、後二十八歳で四代目を襲名しました。

 甲州道中の飛田給駅入口交差点に戻ります、飛田給(とびたきゅう)の地名は古代武蔵野の荒野を往来する旅人の飢えや病を救う施設非田給(ひでんきゅう)があったところに由来しています。

交差点先の左手に
飛田給薬師堂があり、境内に行人塚(ぎょうにんずか)があります。

仙台藩典医であった
松前意仙(いせん)は薬師如来に帰依礼拝の心篤く、諸国遍歴の末に貞享三年(1686)ここに足をとどめ、自ら石造瑠璃光薬師如来立像を彫り上げ、自ら墓穴を掘り、村人に「鉦のやんだときは、わが命のつきたときである・・・」といい残し、墓穴に入り、元禄十五年(1702)一月十二日に入定しました。

死後村人によって塚が築かれ
行人塚と呼び、薬師堂には意仙が彫った石造瑠璃光薬師如来立像を安置しました。
飛田給薬師堂 行人塚

 飛田給薬師堂前を直進(白色矢印)が甲州道中です、左折(黄色矢印)し、一本目を右折する筋は貞享年間(1684〜88)以前の甲州古道です。

この
古道を進むと 西武多摩川線の踏切で一部迂回しますが、東府中駅の先で甲州道中に合流します。

甲州道中を進み、調布市から府中市に入ると右手に
常夜燈があります、嘉永五年(1852)の建立で、竿石には秋葉山大権現諏訪大明神稲荷大明神と刻まれています。

白糸台を進むと右手に天台宗神明山金剛寺
観音院があります、山門前には享保三年(1718)建立の庚申塔、宝永七年(1710)造立の地蔵尊、文政四年
甲州古道 常夜燈 観音院

(1821)建立の
馬頭観音等があります。

 観音院に隣接して神明神社があります、参道口には嘉永六年(1853)建立の秋葉山常夜燈下染屋地名由来碑があります、調布(てづくりぬの)を染めた所で、幕末には三十七戸の集落でした。

目の前の車返団地入口交差点を左に入り、甲州古道を横断し、京王線をくぐった先を右に進むと浄土宗八幡山
本願寺があります。

源頼朝の命により藤原秀衡(ひでひら)の持仏薬師如来を奥州から鎌倉に移送中当地で野営をしたところ、夢告げにより、この地に草庵を結び如来像を安置し、荷車を返しました、これが車返の地名由来となりました。
神明社 本願寺 庚申塔道標

 道中に戻る際、今度は
甲州古道を進んでみましょう、西部多摩川線を迂回して進むと府中第四小学校の所に嘉永六年(1853)建立の庚申塔道標があり、「東 品川道 西 府中道 上 車返村」と刻まれています。

 並びに品川道標石があります、甲州古道の途中から東海道品川宿に通じる筋があり、品川道と呼ばれました、別名筏道(いかだみち)とも呼ばれました、多摩川上流から江戸に筏を運び終えた筏人足達が多数往来しました。

ここから甲州道中に戻ると、不動尊前交差点の祠に
交安(交通安全)観世音菩薩が安置されています。

左手には
染屋不動尊があります、本尊の金銅製阿弥陀如来立像は国重文です、新田義貞が鎌倉を攻めた際の陣中の守護仏でした。

上染屋村は調布(てづくりぬの)を染めた所で、幕末には五十三戸の集落でした。
品川道標石 交安観世音菩薩 染屋不動尊

 関田商店看板先を左に入ると甲州古道沿いに史蹟一里塚碑があります、甲州古道の一里塚で、常久(つねひさ)の一里塚跡です、塚木は松と杉でした、江戸日本橋より七里目です。

甲州道中に戻ると右手に
常久八幡神社があります、常久村の鎮守でした。

常久村の村名は名主の名に由来します、幕末には三十七戸の集落でした。

東府中駅東交差点先の
Y字路は左に進みます、左手の東府中駅前で甲州古道が合流します。
常久一里塚跡 常久八幡神社 東府中分岐 京王線

 京王線を
東府中2号踏切で渡ります。

 左手の八幡町第2公園に八幡宿碑があります、 八幡宿は國府八幡宮の周囲の村落でしたが、甲州道中が開設されると街道筋に移りました。

スグ先に
武蔵國府八幡宮社標があり、参道には鳥居があります、社殿は京王競馬線踏切を渡った先にあります。

武蔵國府八幡宮は聖武天皇(724〜49)の時代、一国一社の八幡宮として創建されたものです。

八幡宿交差点を左折して競馬場正門通りを進むと左手に
普門寺があります、多摩新四国八十八箇所第二十二番で、本尊の薬師如来目の薬師様と親しまれ、九月の縁日には参拝客で賑わいます。
八幡宿碑 武蔵國府八幡宮 普門寺

 PM 3:27 府中宿着  日野宿まで 9.5km

 八幡宿交差点を越すと右手の新宿公園に新宿標石があります、府中宿に到着です!

府中宿は生糸を扱う商家が軒を連ね、鎌倉街道を控え大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると府中宿宿内家数は四百三十軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋三、旅籠二十九軒(大十二、中十、小七)、宿内人口は二千七百六十二人(男千三百八十六人 女千三百七十六人)で、府中宿は番場(宮西町)、本町新宿(宮町)の三町で構成されました。

大国魂神社東交差点を越えた右手に
明治天皇行在所跡碑があります、ここが柏屋脇本陣跡です、田中
新宿標石 明治天皇行在所跡 柏屋脇本陣跡

 三四郎家が勤めました。


 宿並の左手に大國魂神社があります、武蔵國総社で武蔵國の鎮守でした、徳川幕府の崇敬が篤く、武蔵國最大の五百石を寄進されています。

大國魂神社の例大祭
くらやみ祭は関東三大祭のひとつ、毎年五月三日から四日間行われ、五日夕の御輿渡御(みこしとぎょ)では八基の御輿が暗がりの街を練り歩き、六日朝の御輿還御(みこしかんぎょ)では全ての御輿が神社参道に揃います。

甲陽鎮撫隊は府中宿の妓楼に宿陣し、宿内の大國魂神社に戦勝を祈願し、額を奉納しました、しかし後に甲陽鎮撫隊が惨敗してしまうと、当社は官軍の手前奉納額を密かに処分したといいます。

一行は
酒宴を張り、進軍は遅々として進みませんでした。
大國魂神社ご神木 大國魂神社

 宿並を挟んで大國魂神社の向いにけやき並木馬場寄進碑があり、北に並木が連なっています。

ケヤキ並木は康平五年(1062)源頼義義家父子が奥州安倍一族を平定し、戦勝の礼に苗木千本を大國魂神社に寄進したものです、並木周囲の馬場は慶長年間(1596〜1615)に徳川家康が寄進したものです。

並びに
万葉歌碑「武蔵野の 草は諸向き かもかくも 君がまにまに 吾は寄りにしを」があります、「草が風に傾くように、私は貴方にひたすら心を寄せたのに」の意です。

宿並を進むと左手に
神戸(ごうど)があります、
欅並木馬場寄進碑 万葉歌碑 神戸碑

神戸は
番場宿に属する集落でした。

 府中市役所前交差点を渡ると左手に高札場が現存しています、甲州道中鎌倉街道が交差する所から札の辻と呼ばれました。

向いの
中久本店は万延元年(1860)創業の旧蔵元です、隣地が問屋場でした。

右手の番場公園に
番場宿碑があります、百三軒の家屋が宿並に軒を連ねていました。

右手に時宗
東福寺があります、一遍上人の開山です、上人は南無阿弥陀
高札場 中久本店 番場宿碑 長福寺

と唱えれば誰でも成仏できると説きました。

 信号交差点左の下川原緑道鹿島坂碑があります、大國魂神社例大祭の国造代奉幣式(こくぞうだいほうへいしき)を司る鹿島田家がこの地にあったところに由来しました。

次の信号交差点の左手に曹洞宗龍門山
高安寺があります、藤原秀郷の館跡に足利尊氏が鎮護国家の安国寺として再建しました。

墓地の奥に
秀郷稲荷があります、、稲荷社脇を下ると弁慶硯の井戸があります、鎌倉入りを許さ
鹿島坂碑 高安寺仁王門 秀郷稲荷 弁慶硯の井

れなかった
源義経の為に、弁慶がこの井戸水で赦免祈願大般若経をしたためました。

 右手に片町碑があります、地名は南側に名刹高安寺があり、町が北側の片方だけに発達したところに由来しています。

左手高安寺の塀際に
弁慶坂碑があります、この坂は高安寺に伝わる弁慶伝説に由来しています

先の右手に
弁慶橋標石と明治四年(1871)建立の石橋供養塔があります、野川に架橋されていました。

小路を挟んだ向かいに
棒屋の坂碑があります、坂を下りきった所の家が通称棒屋と呼ばれていたところに由来しています。
片町碑 弁慶坂碑 弁慶橋標石 棒屋の坂碑

 京王線を府中5号踏切で横断します、左手の分倍河原駅の広場に新田義貞公之像があります。

上野國の豪族であった
新田義貞は、後醍醐天皇の命により元弘の乱に参戦し、鎌倉街道を南下、元弘三年(1333)分倍河原の戦いで鎌倉幕府第十四代執権北条高時の弟北条泰家(やすいえ)を大将とする十万の軍勢を撃破し相模國に入り、挙兵からわずか二週間で鎌倉幕府を滅ぼしました。

道中に戻り、美好町三丁目西交差点を過ぎると左手に
内藤家冠木門があります、この門は府中宿矢島本陣の表門を移築したもの
京王線踏切 新田義貞像 本陣門

です、
内藤家は旧本宿村の名主を勤めました。

 本宿町交差点はいずれの方面からも直進します。

本宿交番前交差点を左に入ったNEC府中工場内に
本宿の一里塚を残しています、甲州古道の一里塚です、江戸日本橋より八里目です。

甲州古道は府中宿から、ここを通って青柳下へ出て、多摩川を渡り、日野万願寺に続いていました。

道中に戻ると本宿交番脇に寛政四年(1792)本宿村講中が建立した
秋葉大権現常夜燈があります、本宿村(ほんしゅくむら)は台地に位置し、水に乏しく人々は度重なる火災に苦しみました。

右手の本宿山車収納庫の前に
本宿碑があります、
本宿の一里塚 秋葉常夜燈 本宿碑

甲州古道の
宿場でした。

 本宿碑の並びに熊野神社があります、本宿村の鎮守です、本殿及び拝殿共に、江戸時代中期から幕末に於ける神社建築の造形を良く現わしている、貴重な建築物です(府中市指定文化財 有形文化財)。

熊野神社の裏手に
国史跡武蔵府中熊野神社古墳があります、国内最大最古の上円下方墳です。

JR南武線を西府橋で跨ぐと、先で
府中市から国立市谷保に入ります、国立インター入口交差点を過ぎると右手に獅子宿碑があります。

天暦元年(947)
村上天皇より獅子三基が下賜され、谷保天満宮に獅子舞が奉納されました、その際、佐藤家が稽古場となりました。
熊野神社 熊野神社古墳 獅子宿碑

 谷保の地名は、この地は多くの(やつ)を保っているところからやつほと呼ばれ、後に転訛してやぼとなりました。

谷保交差点を渡ると右手に
薬医門の旧家があります、本田家は下谷保村の名主で、幕府の馬医者を勤めました、門は乗馬のままくぐれる造りになっています。

先の右手に文久三年(1863)建立の
秋葉山常夜燈があります、ジョートミと呼ばれる回覧板が各戸に廻り、毎夕交代で火を灯しました。

甲州街道国立市谷保歩道橋にて左側に移って進むとドリーミー国立ホールの所に
関家かなどこ跡解説があります、関家は鋳物三家(矢澤、森窪)のひとつ、江戸三
薬医門の旧家 秋葉山常夜燈 関家かなどこ跡

名鐘のひとつ
天竜寺の梵鐘は当家が鋳造したものです。

 左手に谷保天満宮があります、湯島天神、亀戸天神と並び関東三天神のひとつです、菅原道真が大宰府に流罪となると、三男の道武はこの地に配流となりました。

道真の死後、父の像を彫りこれを祀ったのが
天満宮の始まりです、しかしこの像の出来が良くないところから野暮(谷保)の語源になってしまいました。

道中を進むと左手ブロック塀の中に
遠藤由晴と谷保案内解説があります、谷保生まれの遠藤由晴(よしはる)は谷保村の様子や人倫の道を七五調で綴った谷保案内を著し、寺子屋の教科書となりました。
谷保天満宮 遠藤由晴と谷保案内 潤澤学舎跡

 国立1小前歩道橋先の右手に
潤澤学舎(じゅんたくがくしゃ)解説があります、明治五年(1872)学制に基づく学舎が杉田吉左衛門宅に開校されました、当初は児童数三十名前後でした、その後谷保小学校となりました。

 スグ先の民家の門柱脇に真新しい馬頭観世音が祀られています。

国立みどり農協前交差点の手前右手に臨済宗建長寺派宝林山
永福寺があります、寛文年間(1661〜73)の創建で、脇仏の木造阿弥陀如来座像は鎌倉時代作の古仏です。

国立みどり農協前交差点を渡り、進行方向左側の歩道を進むと
南養寺の参道口に寛政六年(1794)建立の常夜燈があります、上谷保村にあったもので、竿石には秋葉大権現天満宮榛名大権現と刻まれています。
傍らの
千手観音供養塔は享和二年(1802)の建立です。
馬頭観世音 永福寺 常夜燈

 臨済宗建長寺派谷保山南養寺の本尊は釈迦如来坐像です。

本堂は文化元年(1804)築、大悲殿は享保三年(1718)築、総門は安永九年(1780)築、鐘楼は天明八年(1788)築で、梵鐘は安永六年(1777)関家が鋳造したものです、境内の庭園は小堀遠州流の枯山水様式です。

矢川を右手の矢川橋で渡ると袂に五智如来があります、 仏教でいう五の智(大円鏡智、妙観察智、平等性智、成所作智、法界体性智)を備えた仏で、大日如来の別名ともいわれます。
南養寺 南養寺梵鐘 五智如来堂 五智如来

 谷保から青柳に入り青柳交差点を過ぎると左手に青柳地蔵堂があります、江戸時代前期造立の木像地蔵尊が安置されています。

地蔵堂脇を進むと
青柳稲荷神社があります、旧青柳村旧石田村の鎮守です。

道中に戻ると、くにたち中央図書館分室の前に寛政十一年(1799)青柳村中が建立した
常夜燈があります、竿石には秋葉大権現正一位稲荷大明神榛名大権現と刻まれています。
青柳地蔵堂 青柳稲荷神社 常夜燈 馬頭観世音

 傍らには嘉永二年(1849)建立の
馬頭観世音があります。

 道中は青柳から石田に入って進むと、府中市から立川市錦町に入ります。

やがて日野橋交差点の
五差路に出ます、正面Y字路右の奥多摩街道線に入ります、下諏訪方面からは正面の都道256号に進みます。

Y字路正面の
Sakura Eastを左に進みます、ここには旧甲州街道標識があります。

右手の
歴史と文化の散歩道解説先の錦町下水処理場前交差点を横断すると正面のY字路左手が日野の渡し場跡です、ここには日野の渡し場標石日野の渡し碑歌碑「多摩川の 渡し跡なる わが住まひ 河童ども招ひて 酒酌まむかな」があ
日野橋交差点 錦町分岐 日野の渡し場

り、向いには大小の
馬頭観音があります。

 甲州古道当初の多摩川の渡し場は三屋〜石田村間の石田の渡しでした。

慶安年間(1648〜51)上流側の青柳村〜万願寺間の万
願寺の渡しが開設されました。

しかし低地のため度々洪水に見舞われ、貞享元年(1684)上流側に
日野の渡しが新設されました。

三月から十月迄は
舟渡しで大小二艘の平底船が使用され、冬は土橋が架橋されました、文政七年(1824)以降は一年中舟渡しとなりました。

大正十五年(1926)
日野橋の架橋で渡し場は終焉を迎えました。
日野の渡し碑 歌碑 馬頭観音

 渡し場跡のY字路を右に進み、多摩川の土手道に出ます。

土手道を進み立川と日野を結ぶ
立日(たっぴ)の左(東)側を渡ります、頭上には多摩都市モノレールが滑るように走って行きます、橋上からはいつもの通り美しい富士が望めます。

多摩川は山梨、埼玉の県境に位置する笠取山の水干(みずひ)に源を発し、下流で六郷川と名を変え、流末は江戸湾に注いでいます。
土手階段 立日橋 多摩川 日野の渡し風景

 立日橋の渡り詰め左の土手道に
日野渡船場跡標識があります、渡し賃は人と馬とは別に徴収され、武士、僧侶、宿の人々は無賃でした。

 立日橋先の立日橋南交差点を右に進み、スポーツ公園前交差点を直進します。

ここを左折して、多摩モノレールの下を進み、中央自動車道高架をくぐると左手に
万願寺の一里塚があります、甲州古道の一里塚です、江戸日本橋より数えて九里目です。

更に進むと新選組副長
土方歳三生家があり、真言宗愛宕山地蔵院石田寺(せきでんじ)にはがあります。
万願寺の一里塚 土方歳三の生家 石田寺 土方歳三の墓

 
土方歳三は天保六年(1835)武蔵國多摩郡石田村で十人兄弟の末っ子として生まれました、土方家はお大尽(だいじん)と呼ばれる豪農でした、武士に対する憧れの強い少年でした。

新選組では局長
近藤勇の右腕として数々の御用改めで武名を顕し、また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と呼ばれ、剣豪揃いの隊士達に恐れられました。

明治二年(1869)戊辰戦争最後の戦場となった
函館五稜郭攻防戦で、馬上で指揮をとっていたところ、腹部に銃弾を受け、戦死しました、享年三十五歳でした。

 PM 5:34 日野宿着

 道中に戻って進むと左手に東の地蔵があります、享和九年(1809)の造立で福地蔵ともいわれました、祠前には文化八年(1811)建立の馬頭観世音菩薩があります、ここが日野宿の東口です、日野宿到着です!

日野宿は慶長十年(1605)八王子宿を整備した
大久保長安によって開設され、日野の渡しを管理しました、多摩川のが名物で、将軍家に献上されました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると日野宿宿内家数は四百二十三軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠二十軒(大五、中八、小七)で、宿内人口は千五百五十六人(男七百九十六人、女七百六十人)でした。

突当りの
新奥多摩街道入口交差点を右折します。
東の地蔵 日野分岐

 川崎街道入口交差点を越えると、左手に高幡不動道標があります、道標は明治十七年(1884)の建立です、高幡不動尊金剛寺は関東三大不動(新勝寺、總願寺)のひとつです、新選組副長土方歳三の菩提寺でした。

右手の
日野宿交流館日野宿の歴史と文化を紹介しています。

向いに
日野宿本陣があります、隣の上佐藤家と交代で名主を勤め、正徳六年(1716)脇本陣と定められ、幕末に本陣となりました。

敷地面積は約七百坪で、文久三年(1863)築の本陣建物は都内に現存する唯一の
本陣遺構です。
高幡不動道標 日野宿交流館 下佐藤家本陣門

 門脇に天然理心流佐藤道場跡碑があります、当主の佐藤彦五郎は天然理心流の近藤周助に師事し、佐藤道場を開き、近藤勇が出稽古に来ていました。

甲陽鎮撫隊は日野宿で昼餉を摂りました、土方歳三はこの地の生まれ、その晴れ姿を一目見ようと多くの人が集まり、盛大な歓迎を受けました、近藤は鷹揚に応対しましたが、土方は実に無愛想であったといいます、それは官軍の侵攻が思いのほか迅速であることをここで初めて知った為ともいいます。

彦五郎は近藤を慕う若者達による春日隊を編成し、兵糧方として甲陽鎮撫隊に従軍しました。
下佐藤家本陣跡 佐藤道場跡碑 明治天皇碑

 並びに
明治天皇日野御小休所趾及建物附御膳水碑があります。

 右手の日野図書館前に甲州街道日野宿問屋場高札場跡碑があります、問屋業務は毎月前半は下佐藤家、後半は上佐藤家が勤めました、問屋場前には高札場がありました。

左手に紅殻塗りの門があります、
上佐藤家本陣跡です、正徳六年(1716)本陣と定められ、佐藤隼人家が勤めました、嘉永二年(1849)の大火で焼失しました。

日野本町二丁目交差点先を左に入ると浄土宗三鷲山
大昌寺があります、墓地に下佐藤家の墓があります、墓誌に佐藤家十二代彦五郎明治三十五年(1902)七十六
問屋場高札場跡碑 上佐藤家本陣跡 下佐藤家の墓

才、隣に妻明治十年(1877)ノブ四十七才と刻まれています、
ノブ土方歳三の実姉でした。

 日野市役所入口交差点の右手GS Shellの左隅に石造金子橋擬宝珠親柱があります、多摩川から引き入れた用水が宿並を横切っていました。

左手
八坂神社の本殿は寛政十二年(1800)の再建です、当社には天然理心流近藤周助(勇の養父)の門人が奉納した額があります。

八坂神社の向いを斜め右に入り、突当りを左折して日野駅前東交差点を横断します、
旧道痕跡です、下諏訪方面からは日野駅前東交差点を横断し、一本目を右折します。
金子橋跡 八坂神社 @日野本町分岐 A日野本町分岐

 日野駅東交差点先の左に臨済宗建長寺派如意山宝泉禅寺があります、本尊は釈迦如来、脇侍に文殊菩薩普賢菩薩があります、、六脚ヒノキ造りの山門は嘉永六年(1853)の建立です。

墓地には新選組副長助勤六番隊組長
井上源三郎顕彰碑があります。

源三郎は日野宿の八王子千人同心世話役の三男として生まれ、近藤勇の兄弟子でした、文武両道に秀で、人物温厚であったといいます。

慶応四年(1868)
鳥羽伏見の戦いが勃発すると、源三郎は淀千両松の戦いで官軍の銃弾を腹部に受け戦死し、享年四十歳でした。
宝泉寺 井上源三郎の墓 井上源三郎の碑

 宝泉寺先を更に進むと右手段上に飯綱大権現が鎮座しています、飯綱(いずな)権現は天狗形で白狐に乗った姿であらわされ、武家の信仰が篤く、戦勝の守護神でした。

並びの坂下地蔵堂には正徳三年(1713)造立の
坂下地蔵と呼ばれる銅像地蔵菩薩坐像が安置されています。

西の地蔵とも呼ばれ、ここが日野宿の西口です。

地蔵堂先の道中は
中央本線の敷設で通行不可です、日野駅東交差点に戻り、左折してJR中央本線ガードをくぐり日野駅前に出ます、本日はここまでです、無事到着です!
飯綱大権現 坂下地蔵堂 西の地蔵

 PM 5:54 日野宿終点 

日野宿白木屋 酎ハイ 石狩鍋

石に夕方になると冷え込みます、今宵は鍋だー・・・

新撰組の良識人
源さんが眠る宝泉寺はす前の白木屋が今夕の打上げ会場です。

大ジョッキの焼酎ハイに丸ごと1個の
グレープフルーツを擦って入れます、スッキリした咽喉越しです。

石狩鍋
にバターが四切れ入っていました、案外いけます。

最後は雑炊、何やら香りはリゾットです。

次回は
小仏峠です、久しぶりの峠道が楽しみです。



次 日野 〜 上野原