● 「ちゃんと歩ける甲州街道 甲州道中四十四次 五街道ウォーク・八木牧夫著」 が出版されました。 出版に際し、甲州道中全般を歩き直しました、これで6往復達成となりました! 本マップに写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為にHPでは写真を豊富にアップしました。 是非、出立なさる前に本マップと当HPを照らし合わせ、甲州道中ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。 甲州街道は当初、甲州海道と呼ばれましたが、正徳六年(1761)幕府道中奉行は甲州道中と定めました。 家康は甲州道中を生命線と考えていました、江戸城に危難が及んだ際、服部半蔵の手引きで、江戸城半蔵門から甲州道中に脱出し、内藤新宿からは百人組鉄砲隊に守られ、八王子で千人同心を従え、甲府城に入り、富士川の舟運で一気に駿府に舞い戻る主要路としました。 それでは甲州道中ウォークの旅立ちです!!
石標の正面「満(迷)よい子の志るべ」 、右側「志(知)らする方」 、左側「たづぬる方」と刻まれ、両上部に窪みがあります。 探す人は「尋ね人の特徴を書いた紙」を左の窪みに、見つけた人は「特徴を書いた紙」を右の窪みに貼り付け、知らせました。
さん」が奉行を勤めました。 江戸方面からは右折して、東京駅一番街に入り、東京駅丸の内北口に出ます。
橋を渡ると和田倉門があり、二万石から三万石の譜代大名が警備を勤めました。 江戸方面からは和田倉橋の手前を左折します、下諏訪方面からは右折となります。
井戸枠と柳が一本あります、櫻の井と同じく江戸の名水でした、井戸の名は西行の歌「道のべに 清水流るる 柳陰 しばしとてこそ 立ちどまりつれ」に由来しています。
国立劇場辺りに隼(はやぶさ)町の一里塚があったともいいますが、存在及び位置共に不明です、江戸日本橋より一里目です。
駿河台太田姫稲荷神社の分社です、太田道灌の娘が天然痘を患い、京の一口(いもあらい)稲荷に祈願すると霊験により無事平癒、道灌は感謝し城内に勧請したのが始まりです。
明治十一年(1878)五月十四日朝、参議兼内務卿大久保利通は馬車で赤坂御所へ出仕する途中、紀尾井坂で不平士族島田一郎等六名に暗殺されました。
三代の墓があります、皆川藩一万五千石の大名でしたが、三代目重利が寛文五年(1665)幼くして没したため断絶となりました。
福羽美静(ふくばびせい)が建立した桜の記念植樹碑で、自身の和歌「たれもみな このこころにて ここかしこ にしきをそへて さかえさせばや」が刻まれています、美静は元津和野藩士で子爵、貴族院議員でした、明治二十九年(1896)四ツ谷駅から堀端まで桜の植樹を行ないました。 四谷の地名は四方に谷があったとか、この辺りに四軒の家屋があったところに由来しています。
かつてこの辺りは伊賀者が住み伊賀町と呼ばれていました、祥山寺は伊賀衆の菩提寺で、忍者地蔵は伊賀組忍者供養塔です。
たところ、盤石の如く動かなくなったため、ここに安置されました。 不動堂脇には塩かけ地蔵尊が祠内に安置されています、いぼ、おでき等にご利益があります、この塩をもらって帰り患部に塩を擦り込むと治るといいます、そして治ったらお礼に塩を倍にして奉納します。
され、昭和三十七年(1962)正受院に返還され、以降平和の鐘と呼ばれました。
沿いに進みます。
ます、すると左手に真宗大谷派聖徳山諦聴寺(ていちょうじ)があります、萬冶元年(1658)四谷に創建され、嘉永三年(1850)現在地に移りました、本堂には渋谷区最古といわれる十六歳時の木像聖徳太子立像(孝養像)が安置されています。
道橋の袂に近代的な地蔵堂があります、貞享三年(1686)造立の子育地蔵尊立像が安置されています、篤く信仰されました、堂内には青面金剛像庚申塔や南無妙法蓮華経題目碑があります。
笹塚交差点を右に入ると右手に浄土宗法界山清岸寺(せいがんじ)があります、境内に宝永五年(1708)造立の酒呑地蔵があります、働き者の青年が三十一歳になって初めて酒を馳走になったところ、酔って川に落ち溺死してしまった、青年は夢枕に現れ、酒に苦しむ人を助けるために地蔵を造ってほしいと願いました。
に川があり、この川に架かる橋は豊島郡(現渋谷区)、多摩郡(現杉並区)、荏原郡(現世田谷区)の三郡の境でした。
桜上水駅北交差点先の右手に日蓮宗清月山覚蔵寺があります、日蓮聖人直刻の鬼子母神像が安置されています、日蓮が鎌倉の龍ノ口で危うく処刑されかかった時、老女から胡麻のぼた餅を供養され、礼として与えたものです。
上北沢歩道橋先を左に入ると山谷稲荷があります、慶長十九年(1614)の創建で境内には力石があります。
八年(1771)に地頭名主を勤めた下山家が造立した下山地蔵があります、身代わり地蔵とも出世地蔵とも呼ばれています、並びの青面金剛像庚申塔は元禄十三年(1700)の建立です。
給田町交差点を過ぎると右手植栽の中に里程標があります、明治三年(1870)建立の新一里塚です、「内藤新宿より三里」と刻まれています。
飯高主水貞正が創建し菩提寺としました。 貞正は今川義元の家臣でしたが、家康に仕え戦功により旗本となり下仙川村の地が与えられました、境内には正保二年(1645)建立の宝篋印塔や宝永三年(1706)建立の五輪塔等があります。
利益のある薬師如来坐像が祀られています、傍らには首の欠けた地蔵菩薩立像があります。
い崇められています。
境内の馬頭観音は文政七年(1824)の建立で小橋(現馬橋から西450m)の馬捨て場にあったものです。
赤門と住職の乗駕(じょうが)が許されました、山門には葵の紋があしらわれています。 本尊の木像日蓮聖人坐像は天文十九年(1550)の造立で調布市指定有形文化財(彫刻)です。
には梅の並木があり、江戸の地まで聞こえた名所でした、毎月二十五日の縁日は二百年程前から開かれ、暮の市はことに賑やかで、世田谷のぼろ市と並び称されたといいます。 天神社の境内にある日露戦争記念碑には近藤勇の孫久太郎の名が刻まれていると記されています。
塚跡碑があります、塚木は推定樹齢二百年の榎でした、江戸日本橋より数えて六里目です。
あります、本尊は阿弥陀如来立像です、門前には地蔵祠と嘉永三年(1850)建立の常夜燈があります。
方面からはY字路を斜め右に入ります。
近藤勇は大名並みの長棒引戸の駕篭、土方歳三はフランス軍服にブーツ姿で故郷に錦を飾りました、正に絶頂そのもです、上石原はその出世姿を一目見ようと大騒ぎとなりました、近藤は従兄弟の隊士宮川新吉(京の天満屋で討ち死)の実家に立寄り五十両の香典を手向け、西光寺門前の名主中村勘六宅で歓待を受けた後、出立しました。
撥雲舘(はつうんかん)に通っていました、そこで勇の度胸と技量を見込み嘉永二年(1849)十六歳の時近藤家の養子に向い入れ、後二十八歳で四代目を襲名しました。
(1821)建立の馬頭観音等があります。
道中に戻る際、今度は甲州古道を進んでみましょう、西部多摩川線を迂回して進むと府中第四小学校の所に嘉永六年(1853)建立の庚申塔道標があり、「東 品川道 西 府中道 上 車返村」と刻まれています。
京王線を東府中2号踏切で渡ります。
三四郎家が勤めました。
神戸は番場宿に属する集落でした。
仏と唱えれば誰でも成仏できると説きました。
れなかった源義経の為に、弁慶がこの井戸水で赦免祈願と大般若経をしたためました。
です、内藤家は旧本宿村の名主を勤めました。
甲州古道の宿場でした。
名鐘のひとつ天竜寺の梵鐘は当家が鋳造したものです。
国立1小前歩道橋先の右手に潤澤学舎(じゅんたくがくしゃ)跡解説があります、明治五年(1872)学制に基づく学舎が杉田吉左衛門宅に開校されました、当初は児童数三十名前後でした、その後谷保小学校となりました。
傍らには嘉永二年(1849)建立の馬頭観世音があります。
り、向いには大小の馬頭観音があります。
立日橋の渡り詰め左の土手道に日野渡船場跡標識があります、渡し賃は人と馬とは別に徴収され、武士、僧侶、宿の人々は無賃でした。
土方歳三は天保六年(1835)武蔵國多摩郡石田村で十人兄弟の末っ子として生まれました、土方家はお大尽(だいじん)と呼ばれる豪農でした、武士に対する憧れの強い少年でした。 新選組では局長近藤勇の右腕として数々の御用改めで武名を顕し、また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と呼ばれ、剣豪揃いの隊士達に恐れられました。 明治二年(1869)戊辰戦争最後の戦場となった函館五稜郭攻防戦で、馬上で指揮をとっていたところ、腹部に銃弾を受け、戦死しました、享年三十五歳でした。
並びに明治天皇日野御小休所趾及建物附御膳水碑があります。
才、隣に妻明治十年(1877)ノブ四十七才と刻まれています、ノブは土方歳三の実姉でした。
流石に夕方になると冷え込みます、今宵は鍋だー・・・ 新撰組の良識人源さんが眠る宝泉寺はす前の白木屋が今夕の打上げ会場です。 大ジョッキの焼酎ハイに丸ごと1個のグレープフルーツを擦って入れます、スッキリした咽喉越しです。 石狩鍋にバターが四切れ入っていました、案外いけます。 最後は雑炊、何やら香りはリゾットです。 次回は小仏峠です、久しぶりの峠道が楽しみです。
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