道中日記  3-144 甲州道中 ( 日野 - 上野原 ) 32.2km

 昨今、旧諸街道の調査が各地で行なわれ、旧道が復活しています、うれしい限りです。

特に甲州道中の
藤野を中心に旧道が復活、整備されていると聞き及んでいます。

今回は一日でも早く検証したい衝動に駆られ、思い立つがままに旅立った為、
一人道中です。

サア、題して
検証と花粉症ウォークです。

 平成19年02月24日 AM 6:30 日野宿出立 八王子宿まで 5.5km

 JR中央本線日野駅を出立します!

江戸方面からはJR中央本線ガードをくぐり、左折し中央本線沿いの
大坂上通りの上り坂を進みます、下諏訪方面からは日野駅手前の右手ガードをくぐります。

左手の日野駅西駐車場辺りが旧道の復活点です、仙路越に
坂下地蔵堂が望めます、ネットフェンスにはここにあった旧踏切の古写真が掲げられています。

右手の消火栓の所に
庚申塔馬頭観音供養塔等があります。

Y字路を右に進み、中央自動車道高架をくぐり、大坂上中学校先の
日野大坂上交差点で都道256号線に
大坂上通り 石塔群 日野大坂上分岐

合流します、下諏訪方面からは斜め右に入ります。


 日野台三丁目交差点を過ぎると、右手の日野自動車工場の敷地内に上人塚があります、日野用水を開削した佐藤隼人(はやと)を称え、業績をしたためた連署を埋納したところから請人塚とも呼ばれました。

佐藤隼人は美濃の斉藤道三の家臣でしたが、道三が子の義龍に討たれると、日野の地に帰農し、日野宿本陣上佐藤家の祖となりました。

多摩平北交差点を過ぎると、日野自動車工場の西外れに
日野台一里塚跡解説があります、実際の位置は解説板より西90mの所にありました、両塚共日野宿地内で、塚木は雑木でした、江戸日本橋より数えて十里目です。
上人塚 日野台一里塚跡 富士塚

 日野台交差点を過ぎると左手のコニカミノルタ工場内に
富士塚があります、但し古墳ともいいます。

 日野台五丁目西交差点を過ぎると日野台から高倉町に入り、右手に高倉稲荷神社があります、享保三年(1718)の創建で高倉新田の鎮守です。

この地は
高倉原と呼ばれる荒野でしたが、新田開発が行われました。

JR八高線を跨ぐと大和田町に入ります、石川入口交差点を過ぎると右手台上に
日枝神社があります、慶安二年(1649)徳川家光より御朱印社領五石を賜り、山王さまと呼ばれ大和田村の人々に崇敬されました。

並びに新義真言宗栄慶山
東光寺があります
高倉稲荷神社 日枝神社 東光寺

本尊は薬師如来立像で、参道口には
三界萬霊塔青面金剛像庚申塔があります。

 八王子バイパス高架をくぐった先を斜め左の大和田旧道に入ります、下諏訪方面からは国道20号線に合流します。

左手の大和田町中央町会々館脇に
石仏石塔群があります、馬頭観音道祖神、安政五年(1858)建立の道標「江戸むら大和田道」等があります。

スグ先で
富士見橋を渡ります。

旧道は大和田橋北詰交差点に突き当たります、左折し
大和田橋を渡ります、下諏訪方面からは国道20号線から分岐し斜め右の大和田旧道に入ります。
大和田町分岐(東) 石仏石塔群 大和田町分岐(西)

 八王子は太平洋戦争終戦十三日前の昭和二十年(1945)八月二日未明に米空軍のB29爆撃機の空襲を受け、四百五十名が亡くなり、旧市街地の約八割が焼失しました、多くの市民は大和田橋の下に避難し難を逃れました、大和田橋の歩道上には焼夷弾の着弾位置十七ケ所が色タイル等で示されています。

浅川は陣馬山や堂所山に源を発し、流末は多摩川に落合います、が名物で将軍家に献上されました、四月から九月までは徒歩渡り、十月から三月までは架橋されました。

大和田橋の渡り詰めを右折し、
北大通りを進みます、下諏訪方面からは左折になります。
焼夷弾着弾位置 浅川 大和田橋南詰分岐

 市立第五中学校歩道橋先の市立五中交差点を斜め左に入ります。

右手の竹の鼻公園内に
史蹟一里塚趾碑があります、新町竹の鼻の一里塚跡です、塚木の大榎は明治三十年(1897)の八王子大火で焼失しました、江戸日本橋より数えて十一里目です。

並びの
永福稲荷神社はこの地の鎮守です、境内には八光山権五郎像があります、ご当地出身の力士で宝暦六年(1756)永福稲荷神社を再建し、落慶の日に相撲を奉納しました。

社殿の右手には
芭蕉句碑「蝶の飛ぶ ばかり
市立五中分岐 一里塚跡碑 力士像 芭蕉句碑

野中の 日かげ哉」があります。

 社殿の裏手には享保八年(1723)建立の青面(しょうめん)金剛像庚申塔等があります。

突当りの4階建てマンション前を左折します、
新町の枡形です。

八王子駅入口東交差点を右折(白色矢印)します、左折(黄色矢印)すると右手に
子安神社があります。

古来より安産祈願の際、
底抜け柄杓(ひしゃく)を奉納する習わしがあります、徳川将軍家より朱印地六石の寄進を拝領しました。
庚申塔 新町枡形 八王子駅入口東 子安神社

 AM 7:47 八王子宿着 駒木野宿まで 7.4km

 右手に市守大鳥神社があります、神社前が八王子宿の東口で、ここには木戸がありました、八王子宿に到着です!

八王子城北条氏照の居城でしたが、天正十八年(1590)秀吉の家臣前田利家の攻めにより落城となり、後に領主となった家康大久保長安に新たな街造りを命じました。

宿並は東から
横山宿八日市宿八幡宿で構成され、総称して八王子宿と呼ばれました、四の日は横山宿、八の日は八日市宿で六斎市が立ち大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると八王子宿宿内家数は千五百四十八軒、うち本陣二、脇本陣三、問屋二、旅籠三十四軒(大十、中十七、小七)で、宿内人口は六千二十六人(男三千百十二人、女二千九百十四人)でした。
市守大鳥神社 市守大鳥神社社殿

 宿口の
市守大鳥神社は市の守護神として創建され横山市守稲荷と呼ばれました、明治時代中期に大鳥神社が合祀され、毎年十一月の酉の日に大鷲(おおとり)が行われ、今も酉の市が立ち賑わいます。

 横山町交差点を右に入ると真言宗智山派龍華山大義寺(だいぎじ)があります、境内に松原庵星布(せいふ)の墓があります、享保十七年横山宿で生まれた女流俳人です。

星布は永福稲荷の芭蕉句碑を建立しました、墓標には星布句「咲花(さくはな)も ちれるも阿字(あじ)の 自在哉」が刻まれています。

八王子横山町郵便局の辺りには
横山宿の本陣、脇本陣、問屋場があり、八王子宿の中心でした。

横山町郵便局前交差点を右に入ると左手に
八幡八雲神社があります、八幡神社は中世に多摩丘陵一帯から相模に勢力を張った横山氏(武蔵七党のひとつ)の居館跡で、八幡神社は横山党の守護神でした、後に八王子城の守護神であった八雲神社を合祀し、八王子総鎮守となりました。
松原庵星布の墓 八幡八雲神社

 夢美術館東交差点を右に入ると左手に禅東院があり、境内にとうがらし地蔵」があります、飢饉の際に、特産の唐辛子を内藤新宿の問屋に卸し、飢饉から救われて以来、祈願の際に唐辛子を供えるようになりました。

宿並に戻ると右手に
甲州道中八日市宿碑があります、八日町交差点から八幡町交差点の間が八日市宿でした、八日市宿には新野本陣山上脇本陣がありました。

八幡町交差点を左に入り、JR中央本線を越えた左手の時宗
念仏院時の鐘があります、元禄十二年(1699)八日市宿の名主新野与右衛門が発願主になり、千人同心等の寄付で梵鐘
とうがらし地蔵 八日市宿碑 時の鐘

が寄進されました、昭和初期まで明け六つ(午前六時)と暮れ六つ(午後六時)の時を告げました。


 本郷横丁東交差点を左に入ると右手に産千代(うぶちよ)稲荷神社があります、境内に史蹟大久保岩見守長安陣屋跡碑があります、長安は幕府の代官頭として八王子宿を開設し、八王子同心を組織しました、稲荷社は陣屋内社でした。

宿並に戻り、本郷横丁交差点を過ぎると右手の
なの花ちびっこ広場の奥に笠間稲荷神社があります、八木宿の鎮守でした、元はここにあった宗徳寺の境内社でしたが、同寺は川口に移転しました。

宿並を挟んだ向かいの
こんにゃく寒天の製造販売の中野屋商店は明治期の創業です。
大久保長安陣屋跡 笠間稲荷神社 中野屋商店

 道中は追分町交差点を左折(白色矢印)します、直進(黄色矢印)すると左手に八王子千人同心屋敷跡記念碑があります、碑の辺りには千人同心の頭や幹部の屋敷や邸宅がありました、平同心は八王子周辺で半士半農の生活を送りました。

家康は江戸城防衛の要として、武田の旧家臣を召抱えここに
千人同心を配置しました、この千人同心は軽輩ながら直参意識が強く、大名並みに取り立てられ甲陽鎮撫隊を率いる近藤勇等を多摩の百姓と見下し、応待は冷淡で非協力的であったといいます。

追分交差点の追分交番の所に文化八年(1811)建立の
追分道標「左甲州道中高尾小道」「右あんげ道」があります、空襲で折れ不明な部分は復元してあります。
追分分岐 千人同心屋敷跡碑 追分道標

 
あんげ道(黄色矢印)は陣馬街道のことで、かつては武州安下に通じていました。

 宿並は千人町に入ります、千人同心の拝領屋敷が軒を連ねていました。

右手の日蓮宗松栄山
了法寺は延徳元年(1489)の創建で墓地には千人同心の墓があります。

左手の千人町一丁目バス亭先を左に入ると曹洞禅宗
興岳寺(こうがくじ)があります、墓地には千人同心頭石坂弥次右衛門義礼(よしたか)の墓があります、戊辰戦争の際に、義礼は千人同心を率いて日光東照宮の守備にあたったが、官軍と戦わずに引き渡し、日光東照宮を戦火から守りました、しかし官軍と一戦も交えない責を問われ、切腹して果てました。

右手の山梨中央銀行の所に
馬場横丁標石がありま
了法寺 石坂弥次右衛門墓 馬場横丁

す、
千人同心が幕府より拝領した馬場が宗格院の北にありました。

 馬場横丁に入ると左手に曹洞禅宗良价山宗格院(そうかくいん)があります、境内に大久保長安浅川の氾濫を防ぐために築いた岩見土手の一部や千人隊事蹟碑があります。

墓所には千人同心頭
松本斗機蔵(ときぞう)の墓があります、昌平黌に学び、天保八年(1837)水戸藩主徳川斉昭に上書を献じ、日本開港を主張ししました。

宿並に戻って進み、千人町外れの長房団地入口交差点を右折します、
散田の枡形跡です、ここが八王子宿の西口です。

正面に
道標「右高尾山道 麓マデ一里半」「左真
宗格院 散田の枡形 道路改修碑

覺寺道 真覺寺マデ八丁」があります、並びに
道路改修碑があります、改修前の旧甲州道中の道筋が刻まれています。

この碑によると
道標の裏が旧道です、突当りを左折します。

 旧道を進むと中央義塾の所で国道20号線に合流します、下諏訪方面からは斜め左に入ります。

国道を挟んだ向かいに曹洞宗祥雲山
長安寺があります、屋根の大棟に葵の紋があしらわれています。

大久保長安との関係が考えられますが、定かではありません、長安は没後、不正蓄財の嫌疑により一族は処罰され、長安は罪人となりました。

並木町交差点を過ぎると、左手の八王子市役所横山事務所内に
オオツクバネガシ(八王子市天然記念物)があります、甲州道中分間延絵図に描かれている浅間宮の御神木です。

この甲州道中分間延絵図には浅間宮の東に
一里塚が描かれています、散田の一里塚です、両塚共散田村地内で塚木はでしたが位置は不明
長安寺 オオツクバネガシ

です、江戸日本橋より数えて十二里目です。


 高尾駅まで続く七百六十八本のイチョウ並木は昭和二年(1927)多摩御陵造営の記念に植樹されたものです。

高尾警察署を過ぎて、多摩御陵(ごりょう)入口交差点手前の右手に
武蔵陵墓地参道道標があります、武蔵御陵は昭和天皇の陵墓です。

交差点を渡ると右手に
多摩御陵参道道標があります、多摩御陵は大正天皇の陵墓です。

スグ先の多摩御陵西交差点を斜め右の
東浅川旧道に入ります。
イチョウ並木 武蔵陵墓地参道 多摩御陵参道 東浅川旧道分岐

 この分岐点には手作り風の木製
旧甲州道中道標があります。

 旧道を進み、左手の共同住宅ルミナス脇を入ると山王社があり、並びに松姫所縁の子育地蔵尊があります。

松姫武田信玄の六女で武田家滅亡後八王子に移り、三人の娘を育てました、松姫は千人同心達の心の支えでした。

まちなみ歩道武蔵陵墓地口標識の右手に安永元年(1772)造立
の石地蔵が祀られています、地蔵尊脇の小路は八王子城に通じていました。

旧道筋には
黒板塀の旧家があります、この塀際には用水が滔々と流れています。
子育地蔵尊 石地蔵尊 松と黒塀の旧家

 旧道は県道47号線町田街道の中央分離帯の不粋なフェンスで分断され、通行不可です、左手の国道20号線側の町田街道入口交差点にて迂回します、私ですか無論強行・・です。

旧道に復帰した先で再び国道20号線に合流します、国道を挟んだ向かいに天正元年(1573)八王子城主
北条陸奥守氏照が再建した熊野神社があります。

境内に
縁結びの木と呼ばれるケヤキカシの根元が一緒になって成長した相生木があります、この木の根元に自分の名前と思いを寄せる人の名を書いた小石二つを置くと、願
遮断された旧道 東浅川旧道西口 熊野神社

いが叶うといいます。


 熊野神社を後にして国道20号線に戻り熊野橋を渡ります。

高尾山登山のメッカともいえるJR中央本線
高尾駅を左に見て進みます。

JR中央本線ガード手前の左手に
地蔵尊が祀られています。

ガード下で
南浅川両界橋で渡ります、常の川幅は二間(約3.6m)でしたが、一旦出水すると十間(約18m)にもなりました。

スグ先の
西浅川交差点を右折します。
中央本線ガード 地蔵尊 南浅川 西浅川分岐

 西浅川交差点の所にコンビニの
ポプラがあります、ここから小仏峠を越え、与瀬まで食料品店はありません、ここでの調達をお奨めします。

 AM 9:40 駒木野宿着  小仏宿まで 3.2km

 都道516号浅川相模湖線を進みます、高尾警察署西浅川駐在所を越すと西浅川町から裏高尾町に入ります、小仏〜高尾駅間を往復する京王バス以外、車両の通行は左程なく、快適な街道ウォークが堪能できます。

左手の駒木野病院の西外れに新旧の
地蔵尊が祀られています、先の左手に駒木野橋跡碑があります、碑には旧橋名板が組み込まれています、駒木野宿に到着です!

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると駒木野宿宿内家数は七十三軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋三、旅籠十二軒で、宿内人口は三百五十五人(男百七十八人、女百七十七人)でした、小仏宿と合宿で問屋業務は月のうち十六日から晦日迄を勤めました。

駒木野の一里塚は駒木野宿村地内にあり片塚で、塚木は有りませんでしが、位置は不明です、江戸日本橋より十三里目です。
地蔵尊群 駒木野橋跡碑

右手に史蹟小佛関阯碑があります、甲州道中の重要な関所として幕府道中奉行の支配下に置かれ、
「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。

関所の
開門は明け六つ(午前六時)から暮れ六つ(午後六時)までとし、江戸方からの旅人は太鼓橋の旧駒木野橋を渡り、木戸から関所内に入り、手形を手形石に並べ、手付石に手を付いて待ち、許されると西の御門から関所を出ました。

並びに
尾崎行雄筆による先賢彰徳
小佛関阯碑 手形石&手付石 先賢彰徳碑 駒木野宿碑

があります、幕末尊皇攘夷に身を投じ、討幕に功績を残した関守落合直亮を顕彰したものです。

宿並沿いには
甲州街道駒木野宿碑があります。

 先に進むと緩い下り坂になります、左手に青面金剛像庚申塔南無阿弥陀仏題目碑地蔵尊等石仏石塔が並んでいます。

この並びにに
甲州街道念珠坂碑があります、昔この辺りにがいて、暗くなると人を襲っていました、ある時、老婆を襲うと、持っていた念珠の紐が切れ数珠玉が飛び散り、鬼はこれに足をとられ、坂下まで滑って大穴に落ちてしまった、以後鬼は現れなくなったといいます。

緩い上り坂を進むと右手に
みどり幼児園があります、旧市立浅川小学校上長房分校跡です。

左手の荒井バス停奥の祠に、
地蔵尊と宝永三
石仏石塔群 念珠坂碑 地蔵尊&庚申塔

年(1706)建立の
青面金剛像庚申塔が安置されています。

 左手の蛇滝口バス停先の左手に旅籠ふじや新兵衛跡があります、軒下には講札が掲げられています、蛇瀧信仰講中の宿泊所でした。

建物脇に高尾山中腹にある蛇瀧への
道標「上行講 是より蛇瀧まで八丁」があります。

道中を挟んだ向かいの蛇滝口バス停脇を右に入り、Y字路を右に進むと
猪の鼻トンネル列車銃撃事件供養塔慰霊の碑があります。

昭和二十年(1945)太平洋戦争末期の八月五日中央線
湯の花(猪の鼻)トンネル付近で列車が米軍機に銃撃され、疎開に向かう学童等五十二名以上が死亡しました。
旅籠ふじや新兵衛跡 蛇瀧道標 慰霊の碑&供養塔

 中央自動車道高架下をくぐると道中は道なり(白色矢印)に進みますが、左手(黄色矢印)に蛇瀧口があります。

蛇瀧口の左手に享和三年(1803)建立の
道標「是より高尾山道」、そして右手には蛇瀧水行道場入口標柱があります。

ここから山道を約800m登ると
蛇瀧があります、それでは踏み込んでみましょう。

小仏川を渡った先の右手に
千代田稲荷大神が鎮座しています、略縁起によると太田道灌千代田城(江戸城)築城に際し、守護神として城内に勧請したのが始りです。
蛇瀧口 高尾山道道標 千代田稲荷大神

 後に徳川家康紅葉山に遷座させ、明治維新の際に信仰篤き女官(滝山)がこの地に奉還したといいます。

千代田稲荷大神を過ぎると、本格的な
山道になります、高尾山蛇瀧水行道場標石が現れ、山道には馬頭観音地蔵尊が祀られています。

山道を上り詰めると
高尾山修験道蛇瀧水行道場があります、境内の奥に一筋の滝があります、これが蛇瀧です。

高尾山を中興した
俊源大徳なる僧が水行(みずぎょう)に適した滝を山中で探していたところ、猟師が白蛇を殺そうとしているところに出会った、僧は金子(きんす)を渡し命を助けると、白蛇は崖を登り詰めると一条のになったといいます、これが蛇瀧伝説です。
高尾山道 蛇瀧水行道場 蛇瀧

 それでは道中に戻りましょう、左の湯の花梅林をめでながら進みます、頭上には中央自動車道高架が渦巻いています。

右手に
するさし豆腐の峰尾豆腐店があります、ここはおからドーナツが名物です。

応永十八年(1411)鎌倉公方
足利持氏に滅ぼされた、南朝方の重鎮下野國の小山隆政(おやまたかまさ)の子孫がこの地に逃れ定住し峰尾氏と称しました。

先の右手に曹洞宗白雲山
常林寺があります、土着した峰尾氏の開基です、境内には二十三夜塔庚申塔板碑等があります。
おからドーナツ 常林寺 小山神社

次いで右手に
小山神社があります、小山氏を祀っています、境内に嶺尾平右衛門が寄進した安政四年(1857)建立の石灯籠があります。

 AM 10:30 小仏宿着 小原宿まで 4.9km

 小仏川に沿って進みます、小仏川は小仏の谷間に源を発し、木下沢川、案内川を吸収し、流末は浅川に落合います。

左手の眼下にフライフィッシングの浅川国際マス釣場を見て進み、
木下沢(こげさわ)を渡ると、道中は左にカーブし、回り込むと現代の道標「左 日影沢 高尾山」「右 小仏峠 景信山」があります。

赤レンガ造りのJR中央本線ガードをくぐると
小仏宿に入ります、小仏宿は難所小仏峠を控え賑わいました、小仏川の山女魚(やまめ)が名物でした。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると小仏宿宿内家数は五十八軒、うち本陣、脇本陣共に無く、問屋一、旅籠十一軒で、宿内人口は二百五十二人(男百十六人、女百三十六人)でした。
現代道標 JR中央本線ガード

 
駒木野宿合宿で問屋業務は朔日から十五日は八王子宿小原宿へ継立、十六日から晦日は駒木野宿へのみ継立てました。

 宿並右手の路地奥に稲荷社が祀られています。

あおき苑辺りは
三度屋跡です、月に三度、江戸と甲府間を往来した甲府三度飛脚の定宿でした。

次いで擁壁の上に
明治天皇御小休所碑があります、旅籠屋鈴木藤右衛門跡で名主を兼ねました。

小仏宿を後にして進み、右手の高尾変電所を過ぎると右手に
小仏バス停があります、京王バスの終点です、たくさんのハイカーがここで乗降します。
稲荷社 明治天皇碑 小仏バス停 浅川神社

上り坂を進み、左手のガードレールの切れ目に架かる小橋を渡ると
浅川神社があります、境内の湧水が浅川の水源となっています、水の神として崇敬されています。

 次いで臨済宗南禅寺派小佛山寶珠寺があります、本尊は恵心僧都源信作と伝わる木造釈迦如来像です、小仏断食道場として知られました。

参道口に弘化四年(1847)建立の
馬頭観世音菩薩文字塔があります、台石には小佛宿と刻まれています。

参道階段脇の
小仏のカゴノキは都天然記念物です。

寶珠寺は小仏宿旅籠
三度屋青木家の菩提寺です、境内には甲府三度飛脚達が奉納した常夜燈があります。
馬頭観音 カゴノキ 寶珠寺 常夜燈

 道中は逆S字のヘアピンカーブになります、往時は直登でした、見上げるような急傾斜です、もしかすると小仏峠最大の難所であったのかもしれません。

逆S字カーブを回り切ると右手に
景信山(かげのぶやま)登山口があります、景信山には北条氏照の重臣横地景信の出城がありました。

ここから後ろを振り返ると
新宿新都心の高層ビル群が遥かに望めます。

右手に
駐車場が現れます、その先に車止めがあります、舗装路はここ迄です、 この辺りに小仏峠の一里塚があったといいますが位置は不明です、片塚で塚木はエノキでした、江戸日本橋より数えて十四里目です。
景信山登山口 新宿新都心 小仏峠口駐車場

 車止めを越えると土道になります、ここが小仏峠東登り口です。

車止め先の
Y字路は左に進みます、右は景信山への登山道です、お気をつけ下さい。

峠道は
九十九折(つづらおり)の急坂です、登りの峠道は歩幅を極端に狭め、足裏全体で着地します、そして呼吸は例のヒーヒーフーフーです。

甲陽鎮撫隊は雪の峠道を大砲二門を引き上げています、しかし難所小仏峠も、20分もすれば頂上に到着です!
小仏峠登り口 峠道 小仏峠頂上案内

 小仏峠に到着すると、関東ふれあいの道道標が出迎えてくれます、江戸方面からは変則Y字路になっています、左の小仏城山高尾山方面に進みます、下諏訪方面からは高尾駅小仏バス停方面に下ります。

小仏は
行基がこの峠に一寺を建て、一寸八分の小さな仏像を安置したことが地名の由来となりました。

戦国時代に
北条氏照が小仏関所を設け富士見関所と呼ばれましたが、天正八年(1480)駒木野に移されました。

小仏峠は
武蔵國相模國の境で、今は東京都、神奈川県の境です。

朽ち果てた
青木茶屋跡があります、初めてここに来た時は盛業中で、ビールを賞味しました、 江戸時代には旅籠が五軒あり、飯盛もいて大いに賑わったといいます。
道標 青木茶屋跡

茶屋跡を越すと峠の広場になっています。

ここには
三条実美歌碑「来てみれば こかひはた織 いとまなし 甲斐のたび路の 野のべやまのべ」があります、この和歌は三条実美高尾山薬王院に詣でた際に、当時盛んであった養蚕の様子を詠んだものです。

隣りには
峠の地蔵があります、難所小仏峠を往来する旅人の道中安全を見守っています。

並びに
明治天皇小佛峠御小休所趾及御野立所碑があります、明治十三年(1880)の山梨巡幸の際、ここで休息しました。
三条実美歌碑 峠の地蔵 明治天皇碑 高尾山道標

 先に進むと寛政七年(1795)建立の
高尾山道標があります。

峠の広場には
テーブルベンチがあり休憩できます。

 それでは腰を上げましょう、先は変則Y字路になっています、左は小仏城山高尾山方面です、道中は右の下り坂です。

ここには
甲州道中標柱があります、以前は旧甲州街道標柱でした、見識が高いですね!

グングン下ると上空が開け、
鉄塔が聳える平坦地に出ます、ここが中峠茶屋跡です。

快適な峠道も30分ほどで
小仏峠西口に到着します。
小仏峠下り口 甲州道中標柱 中峠茶屋跡 峠道

 土道の峠道は緩いコンクリート階段になり、舗装路に合流し、更に下ります。

ここが下諏訪方面からの
小仏峠西登り口です、甲州道中標柱東海自然歩道道標「←小仏峠1.8km →底沢バス停1.7km 相模湖駅3.7km」があります。

下り切ると舗装路の
下道に合流します、この合流点をヘアピン状に右に回り込みます。

この
底沢分岐の峠側には東海自然歩道道標「←小仏峠1.8km」、甲州古道道標底沢があり、ガードレール側には東海自然歩道道標「→底沢バス停1.7km 相模湖駅3.7km」、標柱「甲州道中の迂
小仏峠西口 底沢分岐 中央自動車道高架

回路は右折」があります。

左右にくねる旧道を進み、
中央自動車道高架をくぐります。

 旧道はT字路に突き当たります、美女谷分岐です、道中は左折(白色矢印)します。

この分岐点には
東海自然歩道道標「←底沢バス停1.0km 相模湖駅3.0km ↓小仏峠2.5km」、甲州道中美女谷標柱があります。

この分岐を右折(黄色矢印)すると550mの所に
照手姫の水鏡七ツ淵があります、歌舞伎や浄瑠璃で知られた小栗判官の照手姫は美女谷の生まれです、美女谷川上流の七ツ淵の水鏡で黒髪を梳(す)く姿はまばゆいばかりの美しさであったといいます。

吉原の
紺屋高尾(こうやたかお)の出生地でもあります、今は明治初期にできた美女谷温泉があります。

美女谷川美女谷橋で渡り、次い中央自動車道高架をくぐります。
美女谷分岐 中央自動車道高架

 右手中央自動車道橋脚手前の大石の上に明治十六年(1883)建立の馬頭観世音文字塔が祀られています。

並びに
甲州古道板橋標柱があります。

JR中央本線に沿って下ると、JR中央本線
長久保架道橋(ガード)の手前に小原宿一里塚下標柱があります。

本来の
旧道馬頭観音の辺りから中央自動車道高架下を抜け、樋谷路沢を渡って小原宿本陣脇に通じていました。

この道筋に
小原の一里塚が有りましたが、中央自動車道の敷設で旧道と共に消滅しました、江戸日本橋より数えて十五里目です。
馬頭観音 板橋標柱 小原宿一里塚下

 従って馬頭観音から小原宿間迂回路扱いになります、それでは先に進めましょう。

JR中央本線
長久保架道橋(ガード)をくぐり、突当りのT字路を右折します、下諏訪方面からは左折してガードをくぐります。

この分岐点には
鋼板道標「←小仏峠へ ↓相模湖駅へ 底沢バス停300m」があります。

底沢に沿って下ると国道20号線に突き当たります、ここを右折します、下諏訪方面からは底沢橋の手前を左折します。

この分岐点には
鋼板道標「←相模湖駅2.0km
長久保架道橋 底沢橋分岐 小原の郷

↑小仏峠3.5km」や
美女谷温泉この先1km看板があります。

国道20号線を進むと右手に重厚な造りの
小原の郷があります、小原宿本陣に保管されていた古文書や資料、周辺地域の貴重な出土品等の展示などを行っています(042-684-5858)。

 PM 12:35 小原宿着  与瀬宿まで 1.3km

 国道の左手に標柱「甲州街道小原宿これより二町半」があります、宿長は二町半(約270m)でした、ここが小原宿の東口です、小原宿に到着です!

小原宿本陣前には
高札場が復元されています。

小原(おばら)は尾原とも書かれました、「嶺(小仏峠)の尾さきにて くだりはてたるところの すこしひらけたるところ」を地名由来としています。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると小原宿宿内家数は六十一軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠七軒(中二、小五)、宿内人口は二百七十五人(男百五十一人、女百二十四人)で、小仏宿とは合宿で、問屋業務は与瀬宿を越えて吉野宿まで継立て、与瀬宿からは当宿を越えて小仏宿まで継立てる片継でした。

明治二十八年(1895)の
大火本陣を含む四軒を残し、他全てが灰燼に帰
小原宿東口 高札場

してしまいました。


 宿並右手の小原宿本陣は神奈川県内の東海道、甲州道中にあった二十六軒の本陣の内唯一現存する本陣遺構です。

瓦屋根の豪壮な
門構え、入母屋造りの本陣建物、十三室の部屋などが往時のまま残され、県の重要文化財に指定され、無料で一般公開されています。

本陣を営んだ
清水家の祖先は後北条氏の家臣清水隼人介で、北条氏減亡後、当地に土着し、その子孫が代々本陣を勤め、問屋庄屋を兼ねました。

小原交差点先左手の旧家が
旅籠小松屋跡
小原宿本陣門 小原宿清水本陣跡 旅籠小松屋跡

です、
ひかえ宿小松勇右衛門で本陣、脇本陣の控えでした。

 宿並を進むと右手に文政二年(1819)建立の南無阿弥陀佛名号碑があります。

スグ先の左手に
甲州道中小手沢標柱があります、ここから左のスロープを下ります、小手沢旧道です。

広場を抜け向いの旧道に合流します。

旧道を進み、
国道20号線を横
断し、向いの上り坂に入ります
、ここには
甲州道中平野標柱
名号碑 小手沢旧道(東) 小手沢旧道(西) 平野旧道口(東)

があります。


 ここからの旧道は高巻道です、深い沢を越す為に沢を上り詰め、浅くなった所で沢を越します。

中央高速道の奥に
旧道の痕跡をハッキリ残しています、いつの日かトレースしてみましょう、楽しみです。

道なりに進み左手の塚本水道を回り込むと、右手の段上に真新しい
が二棟並んでいます。

向って右の祠には木製の
小社が安置され、左手の祠には天明七
二棟の祠 小社 地蔵尊 石仏石塔群

年(1787)建立の
地蔵尊が安置されています。

祠先を左に回り込んで旧道を下ると、右手の擁壁上に
石仏石塔群があります、馬頭観音題目碑、享和三年(1803)建立の大道長安信士墓等が並んでいます。

 PM 12:59 与瀬宿着  吉野宿まで 3.6km

 切通しの旧道を下ると右手側がガードレールになります、ガードレールの切れ目から右手の石段に入り下ります、この坂がえんどう坂です、この分岐点には甲州道中えんどう坂標柱があります。 

坂を下り切って道なりに進むと、甲州街道相模湖町与瀬
歩道橋の所で国道20号線に突き当たります、ここを右折します、歩道橋下には甲州道中与瀬宿標柱があります、与瀬宿に到着です!

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると与瀬宿宿内家数は百十四軒、うち本陣一、脇本陣ナシ、問屋一、旅籠六軒(中四、小二)で、宿内人口は五百六十六人(男二百八十一人、女二百八十五人)でした。

小原宿合宿で、小原宿は小仏宿からの荷を与瀬宿を通り越して吉野宿に送り、吉野宿からの荷は小原宿を越して小仏宿に送る、
えんどう坂石段 与瀬宿東口

の問屋業務を行いました。

相模川の
が名物でしたが、広重は値が高く不味いと酷評しています。

  刻限はPM1:00、空腹の極です、相模湖駅前交差点次の左路地奥にある中華料理喜楽亭にて昼食です、3度目の入店です。

このお店、
タンメンをオーダーしても中華鍋とお玉による野菜を炒めるリズミカルな音が全くしません、シーンとしています、作っているのかどうか心配になった頃に出てきます、さっぱり味タンメンです。

相模湖郵便局を過ぎ、セブンイレブン手前の右手段上に
明治天皇與瀬御小休所阯碑があります、ここが与瀬宿坂本本陣跡です、敷地築山を残しています、往時は建坪百十一坪の威容を誇りました。
野菜たっぷりタンメン 明治天皇碑 与瀬分岐

 慶応四年(1868)三月三日
甲陽鎮撫隊与瀬宿に宿陣しました、官軍が下諏訪に進出した報せが入り、翌朝は七ツ立(午前四時)と決定されました、一夜明けると雪になり行軍は難渋を極めました。

明治天皇碑の先を右折します、この分岐点には
慈眼寺入口立看があります、実はこの立看は甲州古道与瀬宿標柱にくくり付けられています、これは如何なものでしょうか。

 旧道に入ると右手の中央自動車道越しに天正年間(1573〜92)創建の高野山真言宗金峰山慈眼寺があります、明治五年(1872年)の神仏分離まで与瀬蔵王大権現の別当寺でした、幼児の虫封じの寺として広く知られました。

左隣りが
與瀬神社です、昔は相模川北岸にあったが、天和二年(1682)現在地に遷座しました、大和吉野山の蔵王権現を勧請した古社で、与瀬の権現様と呼ばれ、与瀬宿の鎮守でした。

ここから後ろを振り返ると
相模湖の眺望が広がっています、相模湖は昭和二十二年
慈眼寺 與瀬神社 相模湖

(1947)
相模ダムの完成によって出来上がった人造湖です、それ以前の相模川は急峻な渓谷でした。

 旧道を進むと中央自動車道擁壁に突き当たります、この先の旧道は中央道の敷設で消滅しました。

石段を下ると国道20号線に合流します。

中央自動車道高架をくぐった先、ラーメンセンター相模湖店手前から右の
砂利道に入ります。

但し、
貝沢越えが不可の場合はヘアピンカーブを進み、ラーメンセンター相模湖店先のY字路右の上り坂に入ります、貝沢越えの迂回路です。

砂利道を進むと左手に
貝沢橋口(白色矢印)があります、ここには風化してしまった標柱があります、砂利道を更に直進(黄色矢印)する筋が旧道です。
中央自動車道 貝沢旧道入口 貝沢橋口

 折角ですから、旧道を進んでみましょう。


 旧道を進むと今熊大権現道標「従是今熊山(いまぐまさん)」があります、訊ね人遺失物探しに霊験あらたかな今熊神社への道標です。

道標手前を右ヘアピンカーブした先に甲州道中の
旧道を、中央自動車道迄残しています。

貝沢橋口に戻り、急な丸太階段を下り、貝沢貝沢橋で渡り、対岸の斜面を上り、左に進みます。

過去、幸いにも
甲州古道プロジェクトによる貝沢橋復活の工事に遭遇し、
今熊大権現道標 甲州道中 甲州道中 貝沢橋

大変うれしいことに、工事責任者から
通行人第1号と告げられました。

 貝沢に沿って、雑木林の中、枯葉を踏みしめながら下ります。

正面の間知ブロック擁壁の手前を右折し石段を上ると、左手に
与瀬宿一里塚標柱があります。

与瀬の一里塚跡です、与瀬宿地内で片塚、塚木はモチノキでした、江戸日本橋より十六里目です。

旧道を下ると
下道に合流します、ここには甲州道中横道標柱があります、この下道はラーメンセンターからの貝沢越えの迂回路です。
貝沢旧道 貝沢分岐 与瀬一里塚跡 横道分岐

 左手に中央自動車道や相模湖を眺めながら道中を進むと、右手に石仏石塔群があります、庚申塔廿三夜塔地蔵尊等が並び、畑の中腹には朱塗りの献燈があり秋葉神社鳥居があります。

玉石擁壁を過ぎると、右手斜面に首の欠けた
地蔵尊と頭部が欠けた石塔があります。

下り坂進み、丸一産業先で沢を渡り、
Y字路を右に進むと右手に廿三夜塔名号碑等があり、段上の小社脇には馬頭観音等があります。
石仏石塔群 石仏石塔 石仏石塔と小社 馬頭観音

道中は上り坂になり、カーブミラーの手前左手の玉石石垣の上に
馬頭観世音文字塔があります。

 スグ先右手の県立陣馬相模湖自由公園の上り階段口脇に甲州道中橋沢標柱があります。

下り坂を進み、左手の自動車板金塗装の
BODY SHOP FAMILY AUTOを左に回り込み、Y字路左の下り坂に入ります。

この分岐点には
甲州古道子の入標柱があります。

急坂を下り
中央自動車道
橋沢 子の入分岐 天奈橋跨道橋 椚戸旧道赤坂分岐

天奈橋で跨ぎます。

急な下り坂をグングン進むと、右手に
甲州古道赤坂標柱や藤野町地区自治会連合会掲示板があります、ここから斜め右の草道に入ります、ここが椚戸(くぐど)旧道赤坂口です、それでは旧道を正確にトレースしてみましょう。

 草道を下り、突当りのネットフェンスを左折します。

ネットフェンスに沿って進みます、眼下はJR中央本線トンネルです。

草道から舗装路になると
下道に突き当たります、左折します、ここには甲州古道椚戸標柱があります。

緩い上り坂を進むと左手に高野山真言宗御嶽山
観福寺があります、本尊は千手観世音菩薩で津久井三十三ケ所観音霊場第二十一番札所です。
ネットフェンス分岐 椚戸分岐 観福寺 桜野分岐

 観福寺先の
突当りを右折します、この分岐点には甲州古道桜野標柱があります。

 下り坂を進み、右手の緑色の金網ごみ箱の間から舗装された細道を下ります、この分岐点には甲州古道矢部標柱があります。

急坂を下り
下川橋を渡り、先を上り詰めると上道に合流します、この分岐点には甲州古道椚戸標柱があります。

ここが
椚戸旧道下諏訪口です、これにて椚戸旧道トレースの終了です。

道中を進むと右手の玉石擁壁上
矢部分岐 下川橋 椚戸旧道口
石仏石塔群

南無阿弥陀仏名号碑蚕影山(こかげさん)廿三夜塔馬頭観音等が並んでいます。

 PM 2:48 吉野宿着  関野宿まで 2.6km

 下り坂を進むと、Y字路になります、左に進みます。

眼下の中央自動車道の相模湖インター入口を
小舟橋で跨ぎ、先で国道20号線に合流します。

この合流点の手前に
吉野宿高札場標柱(黄色丸)があります、ここが吉野宿の東口です、吉野宿に到着です!

吉野宿桂川(相模川)の畔にあるところから桂の里と呼ばれました。

天保十四年(1943)の
甲州道中宿村大概帳によると吉野宿宿内家数は百四軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠三軒(大一、中二)で、宿内人口は五百二十七人(男二百四十七人、女二百八十人)でした。
Y字路分岐 吉野宿高札場 吉野宿分岐

 宿並は明治二十九年(1896)の大火で灰燼に帰してしまいました。

下諏訪方面からはセブンイレブン先を左折して、上り坂に入ります、正面が
吉野宿高札場標柱です。

 宿並を進むと右手に外壁が剥落した聖蹟碑があります、ここが吉野本陣跡です。

吉野家承久の乱(1221)の時、朝廷方に従い、宇治勢田で北条義時を討ったが、戦いに敗れ、この地に逃れ定住しました、徳川の世になると吉野宿の本陣を勤め、問屋名主を兼ねました。

本陣は木造五階建ての威容を誇りました、明治十三年(1880)明治天皇行幸の際は行在所となりました、しかし本陣遺構は明治二十九年(1896)暮の大火で焼失し、今は土蔵を残すのみです。

宿並を挟んだ向かいが大火後に再建された
旅館ふ じや跡で、今は藤野町郷土資料館になっています。
吉野宿本陣蔵 聖蹟碑 旅館ふじや跡

 当主の
大房家組頭を勤めました。

 吉野郵便局前交差点の手前左手に庚申塔石祠を納めた祠があります。

交差点を右に入ると
吉野神社があります、吉野家が先祖の吉野重信を祭神として創建しました、吉野宿の鎮守でした。

吉野橋辺りが吉野宿の西口です、吉野橋手前の左袂に廿三夜塔百万遍供養塔があり、傍らには小猿橋解説があります。
庚申塔&石祠 吉野神社 廿三夜塔&百万遍 沢井川

 当初、吉野橋の下流側に
小猿橋が架橋されていました、大月の猿橋と構造も工法も同じでしたが、規模が少し小さいところから小猿橋と呼ばれました。

 吉野橋沢井川を渡り、サテラ原田電気の所から斜め右の小渕旧道に入ります。

旧道に入ると右手の祠内に
馬頭観音像が安置されています。

GS ENEOSの所で小渕旧道は国道20号線に合流します。

歩道のない国道脇を歩き、小渕駐在所を過ぎると、左手に推定樹齢三百年の
エノキが聳えています、関野の一里塚です、関野宿村地内で片塚でした、江戸日本橋より
小渕旧道東口 馬頭観音 小渕旧道西口 関野の一里塚

十七里目です。

 藤野駅前交差点先左手の下り階段に入ります、ここから藤野旧道のトレースが始まります、この分岐点には最高速度40km駐車禁止交通標識があります。

石段を下り、
段違い状に進みます。

向いの山に巨大な
手紙のオブジェがあります、地元の造形作家高橋政行氏の作品緑のラブレターです。

道なりにグングン進むと旧道は
架設道になり、その先からは快適な土道になります。
藤野旧道東口 ラブレター 架設道 土道

 PM 3:45 関野宿着  上野原宿まで 3.7km

 土道をしばらく進むと、JR中央本線沿いになり、青色の跨線橋で中央本線を跨ぎます。

跨線橋の渡り詰めから正面の
空地を抜けて、突当りの国道20号線を左折します、本来は渡り詰めを右折し、砂利道をたどって国道に出ます、関野宿到着です!

関野宿甲斐國との國境を控え要衝として重要視されました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると関野宿宿内家数は百三十軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠三軒(小三)で、宿内人口は六百三十五人(男三百二十三人、女三百十二人)でした。

宿並は明治二十二年(1889)と、その後二度の大火で灰燼に帰してしまいました。
JR中央本線跨線橋 国道20号線合流

 スグ先の横断歩道を渡ると、江戸方面に背を向けた関野本陣跡解説があります、関野本陣は延宝二年(1674)に設けられ中村家が勤めました。

スグ先の右手に曹洞宗龍渕山
増珠寺があります、参道階段脇には天明元年(1781)関野宿講中が建立した庚申塔と文政十二年(1829)追手風喜太郎が建立した安昌久全信士(追手風小太郎)があります。

力士
追手風喜太郎は寛政11年(1799)ここ関野に生まれ、叔父の力士追手風小太郎に弟子入りし、大関まで昇進し、引退後も相撲界の発展に寄与しました、追手風喜太郎は敬神崇祖の念に篤く、増珠寺に五具足燭台などを寄贈しています。
関野宿本陣跡 増珠寺 庚申塔&追手風碑

 藤野町小渕歩道橋先を斜め右の関野旧道に入ります、この分岐点には甲州古道坂の上標柱があります。

先の
Y字路を斜め左の下り坂に進みます、この分岐点には甲州古道御留坂標柱があります。

竹藪が繁る旧道を下り、
国道20号線に合流します、この分岐点には甲州古道標柱があります。

国道左側の
歩道を進み、左右にカーブしながら下ります。
関野旧道東口 関野旧道分岐 関野旧道西口 名倉入口分岐

 
名倉入口交差点を斜め左の下り坂に進みます、この分岐点には甲州古道下小渕下標柱があります。

 下り坂を進み境沢境沢橋で渡ります。

境沢(旧境川)は相模甲斐國境です、今は神奈川山梨県境です、境沢橋(旧境橋)は國境に架かる、長さ五間(約9m)の土橋でした。

上り坂を進むと
県道520号線に突き当たります、ヘアピン状に右折します、左は白い境川橋です。

街道は
葛篭折りの急な上り坂になります、ヘアピンカーブを過ぎると相模川の眺望が広がります。

この辺りに
茶屋があり、「あれに見えるは諏訪の関 夜泣き桜におぼろ月 女子(おなご)にきびしいこの関は だれがつけたか女坂」と謡われました。
境沢橋 境沢 県道520号線

 三つ目のヘアピンカーブを過ぎると、右手擁壁上に諏訪関跡碑があります、甲斐國の東口にあたり、武田氏が設置した甲斐二十四関のひとつです、徳川の世になると境川番所境川口留番所とも呼ばれました、明治四年(1871)に廃止されました。

しばらく進むと右手に曹洞宗護国山
慈眼寺があります、慶長七年(1602)の開山です、境内に右手を右耳に当てた愚痴聞地蔵尊があります。

次いで右手に日蓮宗上原山
船守寺(ふなもりじ)があります、境内に船守り弥三郎碑があります。

当地出身の
弥三郎は伊豆國伊東で漁師となりました、日蓮聖人を満潮になると沈んでしまうまな板岩
諏訪関跡 愚痴聞地蔵尊 船守寺

の流罪から救い出しました。

昭和三十年(1955)静岡県伊東市
蓮慶寺から弥三郎の遺骨が分骨され故郷に戻りました。

 並びに諏訪神社があります、この地を支配した古郡(ふるごうり)諏訪神社を勧請したところから古郡神社とも呼ばれました。

境内に
芭蕉句碑「稲妻に悟らぬ人の尊さよ」があります。

道中を進むと、左手の竹林の手前に近世の
馬頭観世音文字塔があります。

油屋の表札を掲げた旧家を過ぎると右手に旧甲州街道碑
諏訪神社 芭蕉句碑 馬頭観音 旧甲州街道碑

あります、碑には「あいさつをかわす思いやりの道、昔をしのぶ思いでの道」と刻まれています。


 諏訪橋で中央自動車道を跨ぐと右手に疱瘡神社があります、万治四年(1661)越前國湯尾(ゆのお)から疱瘡の神を勧請し創建されました。

疱瘡(ほうそう、天然痘)は鬼神の仕業(しわざ)と恐れられ、三月と十二月の祭礼は参詣者で賑わいました。

神社の裏手に一里塚の
片塚を残しています、塚場の一里塚です、塚木はモミの木でした、江戸日本橋より数えて十八里目
諏訪橋跨道橋 疱瘡神社鳥居 疱瘡神社 塚場の一里塚

です。

 PM 4:44 上野原宿着

 旧道は上野原郵便局を過ぎると新町交差点にて右からの国道20号線に合流します、下諏訪方面からはY字路右の県道520号線に入ります。

交差点の右手には
浅間神社があります、この辺りが上野原宿の東口です、上野原宿に到着です!

この地は「四方崖高く、この崖の上の曠野である」ところから
上の原となりました。

上野原宿は
郡内織(絹織物)の中心地であり、一と六の日にが立ち大いに賑わい、酒まんじゅうが名物でした。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると上野原宿宿内家数は百五十九軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋二、旅籠二
新町交差点 浅間神社

十軒(大五、中七、小八)、
宿内人口は七百八十四人(男三百八十六人、女三百九十八人)で、宿並は明治と大正の大火で灰燼に帰してしまいました。


 
新町二丁目交差点上野原宿の起点です、時間的にはまだ先に進めますが、主要交通機関から遠ざかってしまいます、本日はここ迄としましょう。

宿並直線(白色矢印)です、JR中央本線上野原駅は交差点を左折(黄色矢印)します。

上野原駅までここからグングン下ります、上野原宿は相模川の河岸段丘の上にあることが、いやがうえにも痛感させられます。

実り多き
街道ウォークでした、それでは乾杯!
新町二丁目交差点



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