昨今、旧諸街道の調査が各地で行なわれ、旧道が復活しています、うれしい限りです。 特に甲州道中の藤野を中心に旧道が復活、整備されていると聞き及んでいます。 今回は一日でも早く検証したい衝動に駆られ、思い立つがままに旅立った為、一人道中です。 サア、題して検証と花粉症ウォークです。
合流します、下諏訪方面からは斜め右に入ります。
日野台交差点を過ぎると左手のコニカミノルタ工場内に富士塚があります、但し古墳ともいいます。
本尊は薬師如来立像で、参道口には三界萬霊塔や青面金剛像庚申塔があります。
野中の 日かげ哉」があります。
宿口の市守大鳥神社は市の守護神として創建され横山市守稲荷と呼ばれました、明治時代中期に大鳥神社が合祀され、毎年十一月の酉の日に大鷲(おおとり)祭が行われ、今も酉の市が立ち賑わいます。
が寄進されました、昭和初期まで明け六つ(午前六時)と暮れ六つ(午後六時)の時を告げました。
あんげ道(黄色矢印)は陣馬街道のことで、かつては武州安下に通じていました。
す、 千人同心が幕府より拝領した馬場が宗格院の北にありました。
覺寺道 真覺寺マデ八丁」があります、並びに道路改修碑があります、改修前の旧甲州道中の道筋が刻まれています。 この碑によると道標の裏が旧道です、突当りを左折します。
です、江戸日本橋より数えて十二里目です。
この分岐点には手作り風の木製旧甲州道中道標があります。
いが叶うといいます。
西浅川交差点の所にコンビニのポプラがあります、ここから小仏峠を越え、与瀬まで食料品店はありません、ここでの調達をお奨めします。
碑があります、幕末尊皇攘夷に身を投じ、討幕に功績を残した関守落合直亮を顕彰したものです。 宿並沿いには甲州街道駒木野宿碑があります。
年(1706)建立の青面金剛像庚申塔が安置されています。
次いで右手に小山神社があります、小山氏を祀っています、境内に嶺尾平右衛門が寄進した安政四年(1857)建立の石灯籠があります。
駒木野宿と合宿で問屋業務は朔日から十五日は八王子宿と小原宿へ継立、十六日から晦日は駒木野宿へのみ継立てました。
上り坂を進み、左手のガードレールの切れ目に架かる小橋を渡ると浅川神社があります、境内の湧水が浅川の水源となっています、水の神として崇敬されています。
先に進むと寛政七年(1795)建立の高尾山道標があります。 峠の広場にはテーブルやベンチがあり休憩できます。
回路は右折」があります。 左右にくねる旧道を進み、中央自動車道高架をくぐります。
↑小仏峠3.5km」や美女谷温泉この先1km看板があります。 国道20号線を進むと右手に重厚な造りの小原の郷があります、小原宿本陣に保管されていた古文書や資料、周辺地域の貴重な出土品等の展示などを行っています(042-684-5858)。
してしまいました。
です、ひかえ宿小松勇右衛門で本陣、脇本陣の控えでした。
があります。
年(1787)建立の地蔵尊が安置されています。 祠先を左に回り込んで旧道を下ると、右手の擁壁上に石仏石塔群があります、馬頭観音、題目碑、享和三年(1803)建立の大道長安信士墓等が並んでいます。
継の問屋業務を行いました。 相模川の鮎が名物でしたが、広重は値が高く不味いと酷評しています。
慶応四年(1868)三月三日甲陽鎮撫隊は与瀬宿に宿陣しました、官軍が下諏訪に進出した報せが入り、翌朝は七ツ立(午前四時)と決定されました、一夜明けると雪になり行軍は難渋を極めました。 明治天皇碑の先を右折します、この分岐点には慈眼寺入口立看があります、実はこの立看は甲州古道与瀬宿標柱にくくり付けられています、これは如何なものでしょうか。
(1947)相模ダムの完成によって出来上がった人造湖です、それ以前の相模川は急峻な渓谷でした。
折角ですから、旧道を進んでみましょう。
大変うれしいことに、工事責任者から通行人第1号と告げられました。
道中は上り坂になり、カーブミラーの手前左手の玉石石垣の上に馬頭観世音文字塔があります。
天奈橋で跨ぎます。 急な下り坂をグングン進むと、右手に甲州古道赤坂標柱や藤野町地区自治会連合会掲示板があります、ここから斜め右の草道に入ります、ここが椚戸(くぐど)旧道の赤坂口です、それでは旧道を正確にトレースしてみましょう。
観福寺先の突当りを右折します、この分岐点には甲州古道桜野標柱があります。
に南無阿弥陀仏名号碑、蚕影山(こかげさん)碑、廿三夜塔、馬頭観音等が並んでいます。
宿並は明治二十九年(1896)の大火で灰燼に帰してしまいました。 下諏訪方面からはセブンイレブン先を左折して、上り坂に入ります、正面が吉野宿高札場標柱です。
当主の大房家は組頭を勤めました。
当初、吉野橋の下流側に小猿橋が架橋されていました、大月の猿橋と構造も工法も同じでしたが、規模が少し小さいところから小猿橋と呼ばれました。
十七里目です。
名倉入口交差点を斜め左の下り坂に進みます、この分岐点には甲州古道下小渕下標柱があります。
の流罪から救い出しました。 昭和三十年(1955)静岡県伊東市蓮慶寺から弥三郎の遺骨が分骨され故郷に戻りました。
あります、碑には「あいさつをかわす思いやりの道、昔をしのぶ思いでの道」と刻まれています。
です。
十軒(大五、中七、小八)、宿内人口は七百八十四人(男三百八十六人、女三百九十八人)で、宿並は明治と大正の大火で灰燼に帰してしまいました。
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