平成19年(2007)7月は天候不順、雨の日が多く日照不足が取りざたされる程でした。 ところが8月に入ると一転冷夏の予想を覆し、連日の猛暑酷暑の連続です、中山道の熊谷では40℃超の記録を樹立しました。 9月に入っても猛暑酷暑は衰える兆しも見えません。 陽炎の立つ頃の街道ウォークも一興です、今回は日光例幣使道ウォークです。 今回の道筋には山や坂は有りません、ビューッと行きましょう。 車中で2リットルの水を飲み干し、そして入念にストレッチを行います。
安置されていた阿弥陀如来像は倉賀野宿の九品寺に保存されています。 中山道では遠慮気味であった例幣使御一行は、日光例幣使道に入ると一気に増長したといいます、我々は謙虚に進みましょう、それでは出立です!
墳丘上には上州綿貫不動尊が祀られています。
渡詰めに梟首場(きょうしゅば)がありました、岩鼻陣屋で処刑された罪人の首が晒されました(標識等なし)。
宿並を進むと左手に稲荷神社が鎮座しています、元禄年間(1688〜1704)から続く、毎年二月十一日の春祭りに奉納される獅子舞は玉村町重要無形民俗文化財です。 並びに萬福寺があります、玉村の地名由来になっている龍の玉を納めた黒塗りの二重箱が伝わっていますが、見ると失明するといわれ、まだ誰も見たことがないといいます。 参道口には石仏道標「右はおゝ田道 左は高崎道」があります。
忠治は二ケ月後、大戸処刑場にて磔の刑に処されました、享年四十一歳でした。
店前には玉村町道路元標があります。
黄色矢印方向に常楽寺があります、参道口に大正二年(1913)建立の道標「利根川渡船 玉村町小泉道 烏川渡船 神保原本庄町道 至常楽寺」があります。
五料橋上からは上毛三山と呼ばれる妙義山、榛名山、赤城山が遠望できます。
先に進み、柴町交差点から県道142号線の宿並を進むと右手に柴宿本陣跡があります、関根甚左衛門が勤め、門構えと老松を残しています(伊勢崎市史跡)、例幣使は利根川を渡河すると関根本陣で休息するのが慣例でした。 門脇には大正時代建立の手差し道標「北今井 伊勢崎道」「名和村役場 小学校道」があります。
慶長六年(1601)関ケ原の戦いで功を挙げると、美濃岩村藩二万石に加増移封となり、那波城は廃城となりました。
以来、橋下(はしか)をくぐると麻疹が治るとの俗信が生まれました。
この右手に菅原神社が鎮座しています、鎌倉時代新田氏に属した小此木彦次郎盛光がこの地を領し、天満宮を祀ったのが始まりです。
広瀬川を武士橋にて渡ります、広瀬川は渋川で利根川から分流し、流末は再び利根川に落合います、灌漑用水路として整備され、舟運がありました。
社会体育館入口交差点先の左手に右旧例幣使道標柱があります、斜め右(白色矢印)の境萩原旧道に入ります。
道標は文久元年(1861)の建立で、正面に「日光木崎太田道」、左面に「五料高さき道」、右面に「いせさき 満やむし(前橋)道」と刻まれています。
次いで左手のぐんまみらい信用組合に飯島本陣跡標柱があります、飯島家が文政十二年(1829)まで勤め、その後織間家が本陣職を引き継ぎました。
伊勢崎藩主の参勤路であり、生糸の搬送路でした。
明治十九年(1886)の生まれ、高浜虚子に師事しホトトギスの編纂に従事し、枯野を創刊しました。 先に進むと右手に落語家第五代古今亭今輔生家標柱があります、銘仙織元藤本屋の三男として生まれ、お婆さん落語が評判で、お婆さんの今輔と呼ばれました。
国定忠治の子分三ツ木文蔵は桐屋で無銭飲食をし、揚句に狼藉を働いた、そこに通りかかった境宿の縄張りを狙う島村伊三郎に打ちのめされました。 これに激怒した忠治は伊三郎を滅多切りにしたうえ、簀巻きにして利根川に放り込みました、これが為「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を斬る」といわれました。 この事件により大戸の関所を破って逃亡し、凶状持ちとなりました。
早川は奥沢付近に源を発し、流末は利根川に落合います。
宿並を進むと左手に山崎酒造があります、創業明治八年(1875)銘酒日本誉の蔵元です。
貴先神社の別当寺でした、山門前には馬頭観世音、庚申塔、二十二夜塔等があります。
元は新田木崎町にありましたが明治二十五年(1892)蓮蔵寺、円通寺と合併し現在地に移転しました。 東国花の寺百ケ寺札所で、境内は彼岸花が満開です。
楡木方面からは右折になります、この分岐点にはNPO法人コスモスがあります。
街道に戻って進むと右手に庚申塔があります。 ここからは街道をモクモクと歩きます、聖川を聖橋にて渡り、藤阿久(ふじあぐ)交差点を越え、蛇川を椿森橋にて渡り、東武桐生線太田中央通り線架道橋をくぐれば間もなく太田宿です。
呑龍(どんりゅう)上人は、この地では多くの赤子が間引かれていることを嘆き悲しみ、寺領三百石を費やし、これらの子を引き取り七歳まで弟子として育てたところから、人々から子育て呑龍と慕われました。
わずかに進むと左手の旧ホテル古久三(こくさぶ)は旅籠こく屋跡です、旅籠屋こくや三郎次は文化十年(1813)の創業でした。 太田駅入口交差点先の左手にSUBARU(旧富士重工業)があります、前身の中島飛行機は戦時中、隼、鍾馗、疾風、呑龍等の名機を輩出しました。
この地では機織機(はたおりき)の外枠が鳥居の形をしているとこから鳥居と呼び、正月中は機を織らないといいます。
福居は八木宿、佐野は天明宿を示しています。
矢場川を新宿橋にて渡ります、矢場川は八幡林に源を発し、流末は渡良瀬川に落合います、矢場川は渡良瀬川の本流でした。 往時は矢場川土橋が架橋され、橋の中央が上野國と下野國の境でした。 新宿橋渡詰めの左手に國境標識 「東 下野国 日光まで二十里六丁」「西 上野国 倉賀野まで十一里十八丁」があります。
帰宅のラッシュアワーで渋滞する県道128号線佐野太田線を横目で見ながら、モクモクと歩きます。
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