道中日記  9-150 日光例幣使道 (倉賀野追分 - 八木) 42.1km

 
平成19年(2007)7月は天候不順、雨の日が多く日照不足が取りざたされる程でした。

ところが8月に入ると一転冷夏の予想を覆し、連日の
猛暑酷暑の連続です、中山道の熊谷では40℃超の記録を樹立しました。

9月に入っても猛暑酷暑は衰える兆しも見えません。

陽炎の立つ頃の街道ウォークも一興です、今回は日光例幣使道ウォークです。

今回の道筋には山や坂は有りません、ビューッと行きましょう。


車中で2リットルのを飲み干し、そして入念にストレッチを行います。

 平成19年09月22日 AM7:00 倉賀野追分出立 玉村宿まで6.3km 

 下町交差点が倉賀野追分です、追分の右(黄色矢印)は中山道、左(白色矢印)が日光例幣使道です。 

倉賀野追分には享和二年(1802)建立の
追分道標「従是右江戸道 左日光道」と文化十一年(1814)建立の追分常夜燈「日光道 中山道」があります。

この
常夜燈は五料宿の旅籠高砂屋文之助が若い頃の放蕩の罪滅ぼしに建立したもので、台石には浄財を寄付した歌舞伎役者の松本幸四郎市川團十郎や力士の雷電柏戸等の名が刻まれています。

追分には
閻魔堂があります(建て直されました)、往時は阿弥陀堂でした。
倉賀野追分 追分道標・常夜燈 閻魔堂

 安置されていた
阿弥陀如来像は倉賀野宿の九品寺に保存されています。

中山道では遠慮気味であった例幣使御一行は、日光例幣使道に入ると一気に増長したといいます、我々は謙虚に進みましょう、それでは出立です!

 先に進みJR高崎線を玉村街道踏切にて横断します。

街道の要所々には
例幣使街道標識が設置されています。

次いで
金属工業団地交差点を横断し、(かす)白銀(しろがね)にて渡ります、綿貫町南交差点を横断し、直進します、しかし延長線上は日本原子力研究開発機構の敷地となり旧道は消滅し、通行不可です。

一本目を左折します、この分岐点には
道標が二基あります、明治三十五年(1902)建立の道標「北 まへはし三里 いわはな二丁 南 ふじおか二里 西 倉賀野十八丁 東 たまむら十八丁」です。
JR高崎線踏切 例幣使街道標識 綿貫旧道

 もう一基は大正十年(1921)建立の道標「玉村町十八町 伊勢崎三里 倉賀野町十八町 高崎市二里 前橋市三里 岩鼻二町 藤岡二里 新町一里」です、北方面は前橋道、南方面は藤岡道です。

先で県道13号線に合流します、この分岐点には
例幣使街道標識があります、楡木方面からは斜め左に入ります。

先の
綿貫町交差点を右折します、楡木方面からは左折になります。

綿貫団地南バス停先の左手に
不動山(ふどうやま)古墳があります、全長94mの前方後円墳で、舟形石棺が現存しています(高崎市史跡)。
道標 不動山古墳

 墳丘上には上州綿貫不動尊が祀られています。

 右手の日本原子力研究開発機構は岩鼻陸軍火薬製造所跡です、東京の板橋に陸軍火薬製造所がありましたが増産が急務となり、明治十五年(1882)烏川井野川の舟運の便が良いこの地に移設されました。

これが為に戦時中一帯は
空襲に見舞われました。

井野川鎌倉橋にて渡り、渡詰めを右折(白色矢印)して土手道を進み、一本目を左折(白色矢印)して旧道に復帰します。

この復帰点には
例幣使街道標識があります。

井野川は
榛名山に源を発し、流末は烏川に落合います、常は徒歩渡し、出水時は舟渡し、冬は土橋が架橋されました。

井野川の対岸には
旧鎌倉橋橋脚の痕跡を残しています。
井野川旧道東口 井野川旧道復帰

 道なりに進み県道142号線に合流(白色矢印)します、この分岐点には例幣使街道標識があります。

この分岐点を右(黄色矢印)に入ると
円福寺があります。

この地にあった
円光寺長福寺は戦国時代の兵火により焼失し、慶安四年(1651)に両寺は合併し、各々の寺号の一字を取って円福寺としました。

建久四年(1193)
源頼朝が浅間山麓での巻き狩りからの帰途に病を患い長福寺で療養し、若宮八幡を祈念すると平癒したとされています。

これにより山号は
八幡山になり、院号は頼朝院(らいちょういん)となりました。
井野川旧道西口分岐 円福寺

 街道に戻って進み、八幡原町(やはたばらまち)交差点を越すと、左手に観音堂があります、聖観世音菩薩立像を安置し、境内の覆屋には梅乃木十一面観世音菩薩像を安置しています。

幕末、江戸幕府の軍艦奉行、海軍奉行を勤めた
小栗上野介の命により官軍方の高崎藩に不戦の弁明に赴き斬首となった養嗣子小栗又一家臣三人が埋葬されました。

後に
小栗上野介は官軍に捕縛され、翌朝、取調べもないまま水沼の烏川河原に引き出され、家臣三名と共に斬首されました、享年四十二歳でした。

関越自動車道ガードをくぐり、
滝川大橋にて渡ります、滝川は関東郡代伊奈忠次(ただつぐ)が開削した用水路です、群馬郡那波(なわ)の境でした、今は高崎市佐波郡の境です。
観音菩薩像 滝川

 渡詰めに
梟首場(きょうしゅば)がありました、岩鼻陣屋で処刑された罪人の首が晒されました(標識等なし)。

 AM8:21 玉村宿着 五料宿まで5.0km

 先の左手に三国街道がありましたが、今は失われています(標識等なし)、前橋を経て三国峠を越え越後に通じていました。この辺りが玉村宿の西口です、玉村宿に到着です!

慶長十年(1605)関東郡代
伊那備前守忠次滝川を開削して新田を開発し、新田村を開村し、正保三年(1646)日光例幣使の派遣が決定すると新田村が玉村宿となりました。

天保十四年(1843)の
例幣使道宿村大概帳によると玉村宿の家数は二百七十軒、うち本陣一、問屋二、旅籠三十六軒(大九、中十二、小十五)、人数は千三十二人で、宿長は東西二十町十九間余(約2216m)でした。

玉村宿は
飯盛が盛んで田植唄に「玉村の女郎と寝て何もろた、ひぜん(疥癬)とかさ(梅毒)と文もろた」と唄われています。

宿並の大部分は慶応四年(1868)の大火で灰燼に帰しました。
稲荷神社

 宿並を進むと左手に稲荷神社が鎮座しています、元禄年間(1688〜1704)から続く、毎年二月十一日の春祭りに奉納される獅子舞は玉村町重要無形民俗文化財です。

並びに
萬福寺があります、玉村の地名由来になっている龍の玉を納めた黒塗りの二重箱が伝わっていますが、見ると失明するといわれ、まだ誰も見たことがないといいます。

参道口には
石仏道標「右はおゝ田道 左は高崎道」があります。

 宿並を進むと右手に福嶋屋があります、創業明治四十五年(1912)上州銘菓玉村太郎の老舗です。

先の左手に
上の問屋跡があります、井田家が勤め名主を兼ねました、現存の建物は文政十年(1827)以前の建築で、慶応四年(1868)の大火を免れた玉村町最古の建物です(国登録有形文化財)。

井田家は宝永二年(1705)屋号を泉屋と称し、井田酒造を創業し、銘酒不盡泉(ふじいずみ)の蔵元でもありました。

スグ先の十字路を右に入ると、
称念寺の境内に家鴨(あひる)があります、江戸送りのヤクザの親分国定忠治に目明かしが中風(脳血管障害の後遺症)に効くという、家鴨の生血を飲ませました。
上の問屋跡 家鴨塚

 
忠治は二ケ月後、大戸処刑場にて磔の刑に処されました、享年四十一歳でした。

 十字路に戻ると正面が玉村八幡宮です、建久六年(1195)源頼朝鶴岡八幡宮の分霊を角渕(つのぶち)に鎮座させました。

関東郡代
伊那備前守忠次は新田開発の成就祈願を当社にし、無事竣工すると慶長十五年(1610)上下新田村の境に遷座させ、玉村宿の鎮守としました。

本殿は永正四年(1507)の建立です(国重要文化財)、境内には文化二年(1805)建立の芭蕉句碑「やすやすと出でていざよう月の雲」があります。

玉村宿起点の
例幣使道玉村宿交差点先の右手に町田酒造店があります、 創業弘化二年(1845)銘酒太平人(たいへいじん)の蔵元です。
玉村八幡宮 町田酒造 道路元標

 店前には
玉村町道路元標があります。

 町田酒店の向いが玉村宿本陣跡です、木島家が勤め、例年四月十一日例幣使の宿所となりました。

本陣建物は
慶応の大火で灰燼に帰しました。

町田酒店の向いの横道に入り、一本目を右折すると右手に
例幣使綾小路有長歌碑「玉むらのやどりにひらく玉くしげふたたびきそのかへさやすらに」があります。

天保十四年(1843)
有長は帰路も東海道ではなく中山道を通行しました、これは二百二十一年間の慣行の中で二例しか有りません、、有長は後に明治天皇の侍従となりました。

宿並に戻ってわずかに進むと右手に
日光例幣使道解説があります、ここが高札場跡です。
玉村宿本陣跡 高札場跡

 下新田交差点から南の筋は新町道です、烏川を越え、中山道新町宿に至ります。

宿並を先に進むと左手に
六角型石燈籠(玉村町文化財)、馬頭観音題目供養塔、寛政六年(1794)建立の庚申塔等があります。

上飯島交差点辺りが
下木戸跡です、ここが玉村宿の東口です。

先に進み右手の萩原モータースの向かいを斜め左に入ると、墓地の中に
文安銘五輪塔があります。

二基の
五輪塔は室町時代に建立された夫婦墓石で夫は文安五年(1448)、妻は同六年(1449)の銘が刻まれています、、妻の塔には逆修とあるので妻の生前、亡き夫の塔と一緒に立てたものといいます(玉村町重要文化財)。
石仏石塔群 文安五輪塔

 街道に戻り、先に進むと東部工業団地になります、様々な工場や倉庫が建ち並んでいます。

左手の吉野屋産業を過ぎると、右手に
川井厄除薬師があります。

矢川矢川橋にて渡ります、矢川は利根川から取水し、流末は烏川に落合います。

左手に
石碑が三基並んでいます、日露戦役紀念碑日清戦役紀念碑、そして明治天皇が陸軍の演習を視察した聖蹟記念碑です。

この
の前を斜め左(白色矢印)に入ります。
戦役紀念碑 明治天皇碑 飯倉分岐点

 AM9:32 五料宿着 柴宿まで1.5km

 旧道を道なりに進むと五料交差点に出ます、五料宿(白色矢印)に到着です!

五料の地名はこの地に朝廷の御料があったとか、僧が渡船の転覆で御霊となった等に由来しています。

宿内には
関所が設置され旅人と利根川の舟運を取り締まりました。

天保十四年(1843)の
日光例幣使道宿村大概帳によると家数は百六十一軒、うち本陣、脇本陣共になし、旅籠二、問屋は六軒あり五日交代で勤め、宿内人数は五百四十一人で、宿長は一町五十四間(約207m)でした。
五料宿西口 常楽寺 道標

 黄色矢印方向に
常楽寺があります、参道口に大正二年(1913)建立の道標「利根川渡船 玉村町小泉道 烏川渡船 神保原本庄町道 至常楽寺」があります。

 宿並に入り芝根郵便局先を左折すると五料関所跡があります、五料関所解説があり、関所門の礎石井戸を残しています。

五料関所は慶長六年(1601)
厩橋(前橋)が設け、元和二年(1616)幕府公認の関所となり、特に女人の通行改めは厳重に行われました。

五料宿は天明三年(1783)の
浅間山噴火による泥流により壊滅的な被害を受け、文政十年(1827)には大火に見舞われました。

例幣使一行は四月十二日
玉村宿本陣を出立し、六つ半(午前七時)頃五料関所を通過しました。
五料関所跡 関所門礎石 関所井戸

 関所の正面が利根川の渡し場跡です、川舟三艘による舟渡しで、舟賃は平水時一人銭五文、出水時は二十文でした。

突当りの土手道を左折(白色矢印)します、右折し、二本目を右に踏み込むと石垣で囲まれた敷地があります、
舟問屋高清こと高橋清兵衛の屋敷跡です、寛永年間(1624〜44)前橋藩の廻米を扱い親舟小舟が合計百艘ありました。

土手道を進み、
利根川五料橋にて渡ります、利根川は大水上山に源を発し、流末は太平洋に注ぎます、坂東太郎と呼ばれる暴れ川でした。佐波郡から伊勢崎市に入ります。
利根川の渡し跡 五料橋

 五料橋上からは上毛三山と呼ばれる
妙義山榛名山赤城山が遠望できます。

 AM9:53 柴宿着 境宿まで8.7km

 五料橋の渡詰めを右折し、土手道を進み一本目を左折(白色矢印)します、右(黄色矢印)は柴側の利根川の渡し場跡です。

柴宿に到着です!

柴宿は
浅間山大噴火の泥流により壊滅的な被害を受け、享保十四年(1729)宿並を北の現在地に移し、中町、堀口村を加宿とし、問屋業務は十日交替で勤めました。

天保十四年(1843)の
日光例幣使道宿村大概帳によると家数は二百十九軒、うち本陣一、問屋三、旅籠十七軒、人数は八百五人で、宿長は四町半(約491m)でした。
柴宿西口 柴宿本陣跡

 先に進み、柴町交差点から県道142号線の宿並を進むと右手に
柴宿本陣跡があります、関根甚左衛門が勤め、門構え老松を残しています(伊勢崎市史跡)、例幣使は利根川を渡河すると関根本陣で休息するのが慣例でした。

門脇には大正時代建立の
手差し道標「北今井 伊勢崎道」「名和村役場 小学校道」があります。

 信号交差点の一本先を右折し、突当りを左折します、この突当りに雷電神社が鎮座しています、弘法大師雨乞いを行った所に大雷命(おおいかづちのみこと)を祀って雷電神社が創建されました。

雷電神社は加宿
中町の総鎮守です、本殿には龍の鏝絵(こてえ)があり、境内には天明三年(1783)の浅間山大噴火による溶岩塚があります。

先に進み
堀口橋を渡ると、左手に満善寺があります、日光山を開山した勝道上人による創建で、観音堂には弘法大師所縁の聖観音像が安置され、境内には大板碑があります。
柴宿内分岐 雷電神社 満善寺

 堀口町交差点を右に進むと突当りの観音堂の境内に夜泣き地蔵があります、浅間山大噴火の泥流により利根川岸に漂着した七百名の遺体を村人が埋葬しました。

すると夜毎墓からすすり泣く声が聞こえたため、霊を慰めるため
地蔵尊を祀ると泣き止みました、以来、赤子の夜泣きに御利益があるといわれています。

堀口町交差点に戻り、そのまま直進すると左手の名和小学校の校庭脇に
那波城址碑があります。

鎌倉時代から戦国時代にかけて活躍した
那波(なわ)の居城でしたが、永禄三年(1560)上杉謙信の攻めにより落城し、那波氏は滅亡しました。

天正十八年(1590)
家康が関東に移封すると松平家乗が一万石で那波城に入城した。
夜泣き地蔵 那波城址

 慶長六年(1601)関ケ原の戦いで功を挙げると、美濃岩村藩二万石に加増移封となり、那波城は廃城となりました。

 更に直進すると左手に飯玉(いいだま)神社が鎮座しています、応仁年間(1467〜9)以来、領内の田畑が荒れ、百姓が困窮するのを憂い、領主那波氏が保食神を祭神とする飯玉神社を創建しました。

那波郡の
総鎮守で総社として九十九社の飯玉飯福神社を分祀しました。

街道に戻って先に進むと左手に
昌雲寺があります、参道口に庚申塔道標「従是一丁上り北伊勢崎道」「従是南本庄道」があります。

信号交差点を越し、
韮川道満(どうまん)にて渡ると左手に東京福祉大学があります。
飯玉神社 昌雲寺 東京福祉大学

 除ケ町(よげちょう)交差点、次いで除ケ大正寺交差点を過ぎると左手に豊武神社が鎮座しています。

かつては大正寺村の
八幡社でしたが、近郊の富塚村、除ケ村、大正寺村、下道寺村の各神社を合祀した際に、四ケ村の頭文字をとって豊武(とよたけ)と改称されました。

境内には例幣使道沿いにあった安永八年(1779)造立の
如意輪観音坐像が陽刻された二十二夜供養塔道標「右ちゝぶ 左日光」があります。

次いで左手の
大正寺公民館の敷地内に元は例幣使道沿いにあった道標「東 日光道 西 五料 南 本庄道」や二十二夜供養塔庚申塔等があります。
豊武神社 観音像道標 石造物群

 十字路を越すと左手に宏洞(こうどう)松本翁頌徳碑があります、文政十年(1827)この地で生まれ、江戸で中澤雪城に書を学び、渡辺崋山系の福田半香に画を習い、大橋訥庵(とつあん)から漢詩の教えを受けました。

郷里の文教に尽力するかたわら、詩書画等の名作を多数遺し、明治四十四年(1911)逝去しました、享年八十五歳でした。

先に進むと
逆Y字路があります、楡木方面からは右に進みます、この分岐点には道標が二基あります。

右の
猿田彦大神道標は万延元年(1860)の建立で「右玉村 左やった(八斗島)」と刻まれています。

左の
道標は大正四年(1915)の建立で「東 馬見塚 下蓮沼境町ヲ経テ太田約五里 北 堀口本町 西 下道寺 八斗島 船橋ヲ経テ本庄町約一里」と刻まれています。
松本翁頌徳碑 道標

 先に進むと右手の豊受歯科クリニックの並びに伊勢崎織物大絣発祥の地碑があります、上州は古くから養蚕が盛んで、伊勢崎桐生と並ぶ二大絹織物生産地でした、伊勢崎大絣(かすり)は伊勢崎銘仙(めいせん)と呼ばれ全国に名声を博しました。

わずかに進むと左手に
遺跡三ツ橋標石と庚申塔を納めたがあります。

建仁二年(1202)世良田長楽寺を開山した
栄朝禅師が牛に乗って通りかかると、三ツ橋のほとりで貧しい身なりの夫婦が麻疹で苦しむ二人の幼い子供を抱えて途方に暮れていました、通り掛かった禅師が経文を唱えると子供は無事快癒しました。
大絣発祥の地碑 遺跡三ツ橋

 以来、
橋下(はしか)をくぐると麻疹が治るとの俗信が生まれました。

 次いで右手に牛打ちの松跡があります、栄朝禅師が牛打ちの鞭代わりに使用したの小枝が根付いたといいます、残念ながらこの松は枯れ死したため伐採され、二代目が植栽されています。

傍らに文政八年(1825)建立の
芭蕉句碑「涼しさやすぐに野松の枝の形(なり)」があります。

馬見塚町交差点を越すと左手に
飯玉神社が鎮座しています、馬見塚の鎮守です。

この地を領した那波城主
那波氏が応仁年間(1467〜9)に創建した堀口の飯玉神社を総社とし、分祀した飯玉飯福神社九十九社の内の一社です。
牛打ちの松跡 芭蕉句碑 飯玉神社

 飯玉神社の並びに延命寺があります、例幣使の休息所を勤めました、例幣使通行の際には駕籠や荷物を担ぐ助郷人夫や、連絡役の遠見人足が派遣されました。

当寺には
(いぼ)なしの鐘がありました、百八のと呼ばれる疣が無い梵鐘で、美しい音色が評判でしたが戦時中に供出されました。

境内の公園脇に
如意輪観音像庚申塔巳待(みまち)供養塔等が並んでいます、巳待講とは蚕を飼っている人が秋の巳の日の晩に集り、黄金山(こがねやま)大神を拝み、神事後に参拝御神酒を頂きました。
延命寺 石仏石塔群

 先に進むと右手の豊受公民館敷地内に豊受小学校跡碑があります、傍らには二宮金次郎像があります。

先の十字路を越すと右手に
甲子塔庚申塔笠付青面金剛像庚申塔等が四基並んでいます。

次いで左手に伊勢崎豊受郵便局、並びに
子供のもり公園伊勢崎があります、園内に伊勢崎銘仙にちなむ、(まゆ)の形をイメージしたまゆドームがあります。

公園に沿う横道口に石仏石塔群があります、
道祖神如意輪観音像、寛政元年(1789)と安政五年(1858)建立の庚申塔が並んでいます。
石仏石塔群 石仏石塔群

 先に進むと左手に忠治茶屋があります、上州名物焼まんじゅうの名店です。

焼まんじゅうは小麦粉の
酒まんじゅうを甘辛い醤油味噌タレで焼き上げた香ばしい饅頭です。

忠治茶屋の先を右折し、
V字路を左に進みます、この分岐点には木製案内標識「旧日光例幣使道右赤城150m→」があります。

先に進むと右手に
右赤城解説があります、日光例幣使道を楡木方面に進むと赤城山は常に左に見えますが、ここは街道が西に屈折しているため、唯一右に赤城山を望む名所となりました。
忠治茶屋 焼まんじゅう 右赤城北口

 スグ先の植込みの手前を左折します、楡木方面からは突当りのT字路を右折します。

先に進み突当りの
県道295号線を左折します、楡木方面からは右折になります。

この分岐点には
道標「右 五りょう 東 日光道 左 ほん志やう(本庄)」があります。

下蓮町交差点を越し、セイコーレジンを過ぎると
Y字路が現れます。
右赤城内分岐 右赤城南口 道標 菅原神社

 この右手に
菅原神社が鎮座しています、鎌倉時代新田氏に属した小此木彦次郎盛光がこの地を領し、天満宮を祀ったのが始まりです。

 Y字路に戻り左(白色矢印)に進みます。

旧道は
広瀬川の土手に突き当たります、ここが竹石の渡し跡です。

竹石(たけし)の渡しの
渡船役は下武士村の名主が勤め、渡船や川止めなどを差配し、舟賃は一人銭三文と定められ、渡しは村が所有する舟一艘で行いました。

例幣使通行の際は隣村から二艘の舟を借り受け渡しを行い、人足二百人が荷駄の積み降ろしを行いました。
武士橋西分岐 竹石の渡し 広瀬川

 
広瀬川武士橋にて渡ります、広瀬川は渋川で利根川から分流し、流末は再び利根川に落合います、灌漑用水路として整備され、舟運がありました。

 渡詰め先の信号交差点を左折(白色矢印)し、一本目を右折(白色矢印)して下武士旧道に復帰します。

楡木方面からは突当りの
T字路を左折し、スグの信号交差点を右折します。

微妙にうねる旧道を進むと、左手の岩崎商店の向いに
乳母の懐解説があります。

輿に揺られて居眠りをしていた
例幣使が武士村との境まで迎えに出ていた境宿の町役人に起こされると「乳母の懐に抱かれていたようじゃのう」といったといいます。

実際の場所は境宿手前の
境萩原辺りです。
武士橋西詰分岐 旧道復帰 乳母の懐

 先に進むと左手に八海山があります、築山の上には御嶽山が祀られています、一里塚であったともいいます。

脇には
稲荷社が鎮座しています、築山に松があるところから一本松稲荷と呼ばれました、ここには下武士村の高札場がありました。

左手の
石仏石塔群がある墓地を過ぎると旧道は県道142号線に合流(白色矢印)します、この分岐点には旧例幣使街道標柱があります。
八海山 下武士東分岐 境萩原西分岐

 社会体育館入口交差点先の左手に
右旧例幣使道標柱があります、斜め右(白色矢印)の境萩原旧道に入ります。

 PM12:04 境宿着 木崎宿まで 5.7km

 旧道を進むと境萩原交差点に出ます、ここが境宿の上木戸跡で、上丁切(かみちょうぎり)と呼ばれました、境宿に到着です!

地名は
那波(なわ)新田郡の境に由来しています、間の宿でしたが、文久三年(1863)宿駅となりました、従って天保十四年(1843)の日光例幣使道宿村大概帳には記載されていません。

二と七の付く日に糸市の
六斎市が開かれ、さかいさげと賞された生糸の取引が盛大に行われ、江戸の学者寺門静軒(せいけん)は「外貨は地にあふれて限りない水のようだ」といい、江戸道世良田道の要衝と利根川舟運の平塚河岸を控え大いに賑わいました。

境萩原交差点を左に進むと左手に
諏訪神社が鎮座しています、境内に元は上木戸にあった上丁切道標が移設されています。
境宿上木戸跡 上丁切道標

 道標は文久元年(1861)の建立で、正面に「日光木崎太田道」、左面に「五料高さき道」、右面に「いせさき 満やむし(前橋)道」と刻まれています。


 境萩原交差点に接する境整骨接骨院の敷地内に例幣使道境宿木製標識があります。

次いで左手の月極駐車場に
境宿問屋場跡木製標識があります。

向かいのフレッセイ駐車場脇に
織間本陣跡碑があります、織間家が勤めました。

上段の間から見える中庭に見事な松があるところから織間本陣は
蒼松軒(そうしょうけん)とも呼ばれました。

寛政三年(1791)
小林一茶が本陣主で俳人の専車(せんしゃ)を訪れたが不在で、「時鳥(ほととぎす)我が身ばかりに降る雨か」の一句を残しました。
問屋場跡 織間本陣跡 飯島本陣跡

 次いで左手のぐんまみらい信用組合に
飯島本陣跡標柱があります、飯島家が文政十二年(1829)まで勤め、その後織間家が本陣職を引き継ぎました。

 スグの境町駅入口交差点に境町道路元標があります。

この交差点を右に入ると
瑳珂比(さかい)神社が鎮座しています、一帯は戦国時代、那波氏に仕えた小柴盛光境城跡です、子の長光が生国能登の石動(いするぎ)明神を勧請し、境町の総鎮守としました。

境内に
六斎市の守護神天王宮が遷座されています。

瑳珂比神社の参道口を左に進み、一本目を右折した先の左手に
愛染院無量寺があります、 境内に安永九年(1780)建立の二十二夜塔道標「右 本庄秩父道 左 中瀬江戸道」があります、利根川の平塚河岸を経て中山道熊谷宿へ通じています。
境町道路元標 瑳珂比神社天王宮 二十二夜塔道標

 伊勢崎藩主の参勤路であり、生糸の搬送路でした。

 宿並に戻る途中の長光寺には天保十二年(1841)建立芭蕉句碑「春も漸(やや)けしき調(ととの)ふ月とむめ(梅)」があります、江戸の俳匠小蓑庵碓嶺 (こみのあんたいれい)の揮毫(きごう)です。

宿並に戻ってわずかに進むと左手の群馬銀行の駐車場脇に
境宿高札場跡木製標識があります、ここに六斎市の守護神天王宮が鎮座していました。

向かいには材木商であった重厚な黒漆喰塗りの
見世蔵が残されています。

見世蔵の並びに
俳人長谷川零余子(れいよし)生長の家跡標柱があります。
芭蕉句碑 高札場跡 宿並の見世蔵

 明治十九年(1886)の生まれ、
高浜虚子に師事しホトトギスの編纂に従事し、枯野を創刊しました。

先に進むと右手に
落語家第五代古今亭今輔生家標柱があります、銘仙織元藤本屋の三男として生まれ、お婆さん落語が評判で、お婆さんの今輔と呼ばれました。

 サア飯にしましょう、境町駅入口交差点を越し、境交差点の手前にそば処阿原があります、決定です!

何はなくとも
生ビールです、ウエルダンに焼けた体にジューッと音を立てて沁み込んでゆきます!!

しかし必要以上に内臓を冷やさない為に、そばは暖かい
山菜そばとしました、ウマイこのお店お奨めです!!!

このそば処阿原は呑屋
下町桐屋金次郎跡に立地しています。 
そば処阿原 生ビール カツ丼&山菜そばセット

 国定忠治の子分
三ツ木文蔵は桐屋で無銭飲食をし、揚句に狼藉を働いた、そこに通りかかった境宿の縄張りを狙う島村伊三郎に打ちのめされました。

これに激怒した
忠治伊三郎を滅多切りにしたうえ、簀巻きにして利根川に放り込みました、これが為「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を斬る」といわれました。

この事件により
大戸の関所を破って逃亡し、凶状持ちとなりました。

 境交差点先の右手に標柱「→ここより例幣使道境宿」があります、下丁切と呼ばれた下木戸跡です、ここが境宿の東口です。

先に進むと菓庵水戸屋前に
日光例幣使街道 かりやど宿標石があります、境宿が成立する以前の境の街並みはかりやど(借宿)と呼ばれる間の宿でした。

標石の前には
男女双体道祖神が祀られています。

スグ先の左手に
福島家文書標柱があります、新田郡境村の名であった福島家に残されている江戸時代初期から幕末までの古文書は境町重要文化財です。

境東交差点を越し、そばめし處
ながしまの先を右折(白色矢印)し、スグの枡形をコの字状に進みます。
かりやど宿 東町枡形口

 枡形内に天明七年(1787)建立東町の道しるべがあります、西国四国秩父坂東供養塔を兼ねています。

道標の東面「此方世良田 たてはやし道」、西面「右江戸なかせ 左日光きさき道」、北面「右こくりやう いせさき」、南面「奉納 西國四國 秩父坂東 供養塔」と刻まれています。

ここは
日光例幣使道世良田道(館林方面)、江戸道(深谷方面)の要衝でした。

世良田(せらだ)は徳川家康先祖発祥の地といわれます、新田氏の祖新田義重の四男義季(よしすえ)は世良田と得川郷を領地としたところから得川義季と称しました。

家康はこの得川義季の末裔であるとし、
松平から徳川に改称し、新田義重の祖父は源義家であるところから由緒正しき源氏の名籍であるとしました。
東町道標 東町の道しるべ

 枡形を辿ると稲荷神社前交差点に出ます、左折(白色矢印)します、楡木方面からは右折になります。

正面の
境稲荷神社の境内には寛政年間(1792〜1800)この地の俳人十六人が建立した芭蕉句碑「時鳥(ほととぎす)招くや麦のむら尾花」があります。

稲荷神社の右手に
旧道がありましたが消滅しました。

それでは迂回路を進みましょう、神社前を左折し、一本目を右折(白色矢印)します、この分岐点には
旧例幣使道木崎宿方面標柱があります。

先に進み
クスリのアオキ駐車場を右折します。
境稲荷神社 芭蕉句碑 迂回口

 境風の公園を回り込み、右折して川魚料理の武川前で県道312号線に合流します。

一本目右手の女塚会館に
女塚(おなづか)薬師道しるべがあります。

天明八年(1788)建立の
庚申塔道標「右薬師湯泉道 左太田 日光」です、源頼朝那須野の狩りの帰途に入湯したといいます。

女塚橋を渡ると左手の
法楽寺供養塔、享保五年(1720)造立の地蔵尊、安政五年(1858)建立の如意輪観音像二十二夜搭があります。

先に
女塚稲荷大明神を祀る稲荷神社があります。
女塚薬師道標 法楽寺石仏 女塚稲荷

 街道に戻り、東武伊勢崎線を伊第461号踏切道にて横断します。

突当りの
T字路を右折(白色矢印)します、この分岐点には312号線標識があります、楡木方面からは左折になります。

上州めん処
玉ふじの一本先を左折します、この分岐点には312号線標識があります、楡木方面からは右折になります。

「10km太田→」標識先の
三ツ木橋西交差点の十字路を右折します、楡木方面からは左折になります。 
東武伊勢崎線 @境新栄分岐 A境新栄分岐

 一本目の左手に天明八年(1788)と安政七年(1860)建立の庚申塔があります。

次の一本目を左折すると、突当りの三ツ木墓地に
三ツ木文蔵の墓があります。

文蔵は
伊三郎殺しの四年後に捕えられ江戸伝馬町牢屋敷に投獄され、天保十一年(1840)小塚原で処刑されました、享年三十二歳でした。

街道に戻るとスグの左手覆屋内に
子育地蔵尊と享保十年(1725)建立の庚申塔があります。

早川三ツ木橋にて渡ります。
庚申塔 三ツ木文蔵墓 子育地蔵尊

 早川は
奥沢付近に源を発し、流末は利根川に落合います。

 三ツ木橋東交差点を越し、上武道路高架をくぐると伊勢崎市から太田市に入ります、先の小角田(こずみだ)交差点を左折(白色矢印)します。

右折(黄色矢印)は
古銅(こあかがね)街道です、足尾銅山で産出した御用銅を利根川の平塚河岸から舟運で江戸に廻送しました。

一本目の右折(白色矢印)が
旧道ですが、先で通行不可になっています、迂回路として直進(黄色矢印)します。

突当りの小角田北交差点を右折し、
石田川小石田橋にて渡ります、石田川は矢太神湧水池に源を発し、流末は利根川に落合います。

小石田橋の渡詰めを左折して
歩道を道なりに進み旧道に復帰します、楡木方面からは突当りの通り抜けできません標識から歩道に入ります。
小角田分岐 小角田旧道

 新田中江田町交差点を直進します、左折の筋は古銅街道です、足尾銅山で産出した御用銅の江戸搬送路として整備されました。

先に進むと左手に
矢抜神社が鎮座しています、社殿は二ツ塚古墳上に鎮座しています、二本のヤマツバキは椿の原種で推定樹齢三〜四百年です。

次いで左手に
来迎寺があります、明治元年(1868)火災の際に住職が持ち出した本尊の阿弥陀如像の仏頭は鎌倉時代後期の造立で太田市文化財です。

先に進むと右手に正徳五年(1715)造立の
三本辻地蔵尊を安置する地蔵堂があります。
矢抜神社 来迎寺 三本辻地蔵堂

 地蔵尊の台座には「坂東 妙儀(義)四は(柴)道」「西国 為六親菩薩」「秩父 秩父中瀬道」と刻まれ、道標を兼ねています。

堂脇には
馬頭観世音、寛政十二年(1800)建立の庚申塔、天保十四年(1843)建立の二十二夜塔があります。

同じく
標石「旧日光例幣使道」「三本辻地蔵尊」があります。

三本辻地蔵尊は
中瀬道追分に位置しています、中瀬道は利根川の平塚河岸から対岸の中瀬河岸を経て中山道の熊谷宿へと通じています、上州と江戸を結ぶ重要路で伊勢崎藩主の参勤や生糸の搬送路でした。
堂脇の石塔群 堂脇の道標

 PM2:02 木崎宿着 太田宿まで7.3km 

 先に進むと左手に医王寺があります、本尊は薬師如来です、木崎宿が盛んな頃は眼病に霊験あらたかな薬師様として知られ、近郷から参詣者が大勢訪れ、縁日には出店が並びました。

境内の
大イチョウは樹齢約二〜三百年で樹高20mです。医王寺辺りが木崎宿の西口です、木崎宿に到着です!

木崎宿は明和三年(1766)宿駅に制定されました。小宿でしたが飯盛が盛んで「木崎木の中、山の中、八木と梁田を向こうにまわし音に聞こえし女郎屋宿」と唄われました。

天保十四年(1843)の
日光例幣使道宿村大概帳によると家数は百四十七軒、うち本陣一、問屋二、旅籠三十四軒、人数は九百十七人で、宿長は七町半(約818m)でした。宿並のほとんどは度重なる火災で失われました。
医王寺 山崎酒造

 宿並を進むと左手に
山崎酒造があります、創業明治八年(1875)銘酒日本誉の蔵元です。

 新田木崎町交差点の十字路に新設道標南面「日光例幣使道木崎宿 東 太田宿 日光 西 柴宿 京都」東面「北 大通寺 銅山道 南 前島 利根川」があります。

左は
(あかがね)街道です、足尾銅山で産出し、製錬された御用銅を江戸へ搬送するために新たに開削された新道です。

右は
前島河岸道です、御用銅の津出しは平塚河岸から前島河岸に変更されました。

先に進むと右手のさいとう接骨院が
下の問屋場跡です、斎藤家が勤め、松の大樹があったところから松の木斎藤と呼ばれました。

さいとう接骨院手前の空地が
木崎宿本陣跡です茂木家が勤め、建坪六十四坪でした、跡地には本陣の庭木を残しています。
道標 本陣・問屋場跡

 先の信号交差点十字路の右手に反町(そりまち)館跡案内標識「県指定史跡反町館跡2.4km」があります、反町館は平城で新田義貞の本拠地新田荘の中心に位置していました。

この十字路を右折すると左手に
貴先神社が鎮座しています、木崎宿の総鎮守です。大国主命の(きさき)である須勢理毘売(すせりひめ)を祀っているところから貴先(きさき)となり、それが木崎(きざき)の地名由来となりました。

境内には樹齢二〜三百年のヒヨクヒバがあります。

宿並に戻ると左手に
長命寺があります。
貴先神社 長命寺

 
貴先神社の別当寺でした、山門前には馬頭観世音庚申塔二十二夜塔等があります。

 長命寺の参道に木崎宿色地蔵があります。

茅葺き屋根の
地蔵堂に寛延三年(1750)造立の子育地蔵尊が安置されています、飯盛女達に篤く崇敬されました。

飯盛の多くは越後から来た女達で、故郷の唄が木崎音頭として広まりました。

色地蔵は木崎音頭に「木崎下町の三方の辻に、お立ちなされし石地蔵様は、男通ればニコニコ笑い、女通れば石持て投げる、これがヤー本当の、色地蔵様だがヤー」と唄われています。

長命寺の参道口辺りが木崎宿の
東口です、それでは次宿の太田を目指して歩みを進めましょう。
色地蔵堂 色地蔵

 先を左(白色矢印)に入ります、この分岐点には木崎宿碑「日光例幣使道 上州木崎宿 太田宿江一里三拾町」があります、楡木方面からは右折になります。

右手の
電波塔を過ぎ、用水路を東橋で渡ると長閑な田園風景の中の旧道になります。

二本目の
用水路を越すとT字路に突き当たります、右折しスグの県道312号線を左折します、この分岐点にはコンビニがあります。

高寺川先の左手に石碑が二基あります、一本先をを左に入ると常楽寺があります、本尊は十一面観世音菩薩です。
木崎宿東の分岐 木崎宿碑 常楽寺

 元は新田木崎町にありましたが明治二十五年(1892)
蓮蔵寺円通寺と合併し現在地に移転しました。

東国花の寺百ケ寺札所で、境内は
彼岸花が満開です。

 常楽寺参道口の先を斜め右の旧道に入ります(白線矢印)。

道なりに進み
県道312号線を横断(白色矢印)し、向いの細道に入ります、この分岐点には理容クリバラ案内標識があります。

先に進み突き当たりの
T字路を右折します、楡木方面からは左折になります、この分岐点にはカーブミラー岸川宅があります。

一番公園先の
十字路を右折(白色矢印)します、この分岐点には宝泉(ほうせん)中学校があります。

突当りの
県道312号線を左折します。
上田島旧道口 県道横断 西野谷分岐

 
楡木方面からは右折になります、この分岐点にはNPO法人コスモスがあります。

 宝町(たからまち)交差点を左折します、楡木方面からは右折になります。

県道312号線突当りの右手に
島岡酒造があります、創業文久三年(1863)銘酒群馬泉の蔵元です、日本酒古来の山廃造りによる醸造を行っています。

先に進むと左手に
威光寺があります、元徳二年(1330)新田義貞の次男義興(よしおき)の開基で、境内に義興の宝篋印塔があります、新田家累代の祈願寺として栄え、不動堂に安置されている不動明王像は新田義貞が寄進したものです。
島岡酒造 威光寺 庚申塔

 街道に戻って進むと右手に
庚申塔があります。

ここからは街道をモクモクと歩きます、
聖川聖橋にて渡り、藤阿久(ふじあぐ)交差点を越え、蛇川椿森橋にて渡り、東武桐生線太田中央通り線架道橋をくぐれば間もなく太田宿です。

 PM4:21 太田宿着 八木宿まで7.6km

 八瀬川永盛橋にて渡ると右手に旧例幣使道碑があります、ここに太田宿の西木戸がありました、太田宿に到着です!

太田の地名は推古天皇の御代に開拓されたこの地の
新田が大きかったところに由来しています。太田宿大光院新田寺の門前町として栄え、正保二年(1645)宿駅となりましたが、飯盛は禁止でした。

天保十四年(1843)の
日光例幣使道宿村大概帳によると家数は四百六軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠十軒、人数は千四百九十六人で宿長は九町十間(約1000m)でした。

宿並の遺構は道路の拡幅工事によりほとんどが失われました。

宿並に入ると左手に
長念寺があります、本陣を勤めた橋本家の墓があります。
旧日光例幣使道碑 長念寺

 先の本町交差点を左に入ると神社仏閣が目白押しです。

右手に
東光寺があります、新田氏の祈願寺でした。多摩川の矢口の渡しで謀殺された新田義貞の次男義興の墓があります。

先に
春日神社が鎮座しています、新田義重が勧請し、新田家の崇敬社でした、太田の総鎮守です。

先の右手に
高山神社が鎮座しています、祭神は寛政の三奇人(林子平、蒲生君平)の一人高山彦九郎です、この地の出身です。

1km先には
大光院新田寺があります、家康が祖とする新田義重追善のために創建され、江戸芝増上寺で修行した呑龍上人を招聘して開山されました。例幣使は例年四月十一日参拝を常としました。
新田義興墓 春日神社

 
呑龍(どんりゅう)上人は、この地では多くの赤子が間引かれていることを嘆き悲しみ、寺領三百石を費やし、これらの子を引き取り七歳まで弟子として育てたところから、人々から子育て呑龍と慕われました。

 宿並を進むと左手の太田市太田行政センターの敷地内に太田宿本陣跡地碑があります、橋本家が勤め、代々金左衛門を襲名しました、建坪は千三百五十六坪でした。

先に進み左手の足利銀行太田支店の向いの小路が
古戸道(ふると)です、利根川の古戸の渡しに通じ、松茸献上道中桐生織物の搬送路でした。

松茸献上道中は寛永六年(1629)館林藩主
榊原忠次(ただつぐ)が徳川三代将軍家光松茸を献上したのが始まりです。

松茸献上道中は
御茶壺道中に匹敵する権威があり、通行の際は沿道の村々に道普請が命じられ、田畑の耕作が禁じられました、たとえ大名であっても出会えば駕籠を降り、道端に控えました。
太田宿本陣跡地 旅籠こく屋跡

 わずかに進むと左手の旧ホテル古久三(こくさぶ)は
旅籠こく屋跡です、旅籠屋こくや三郎次は文化十年(1813)の創業でした。

太田駅入口交差点先の左手に
SUBARU(旧富士重工業)があります、前身の中島飛行機は戦時中、隼、鍾馗、疾風、呑龍等の名機を輩出しました。

 先に進むと左手に追分地蔵堂があります、日光例幣使道と館林道との新島追分に安置された子育地蔵尊です。

堂内には享和三年(1803)建立の
廻国供養塔道標「右 たてはやし(館林)こか(古河)道、左 日光道 やき(八木)さの(佐野)駅」があります。

ここから斜め左に進む
日光例幣使道は消滅しました。

今は直進し、東武伊勢崎線を
太田中央通り線架道橋ガードでくぐり、新島交差点を左折します、この交差点が現在の新島追分です。

鶴巻川長岡橋にて渡り、先の変則十字路を左に入ると南盛寺があります、薬師堂には薬師瑠璃光如来像、日光月光菩薩像、十二神将像が安置されています。
追分地蔵・道標 東武伊勢崎線高架

 街道に戻り道なりに進み、用水を越すと左手に日光例幣使道馬洗い場跡標石があります。

次いで板橋接骨院先の左手に
地蔵堂があります、首をすくめた好々爺のような姿の地蔵尊が安置されています。

境内の手前には
地蔵立像六地蔵、石塔等があります。

奥の墓地前には多数の
石仏石塔が集められています。

用水路を越すと
国道122号線に突き当たります。
馬洗い場跡 地蔵堂 六地蔵

 国道122号線を信号交差点にて横断し、正面のV字路を左に進みます、次いで変則十字路を横断すると左手に鳥居のない賀茂神社が鎮座しています。

例幣使が境内で休息していると、が激しく吠えかかりました。友侍が犬を切り捨てると、胴を離れた首が、鳥居の上の大蛇に噛みつきました、以来犬の供養を行い、元凶となった鳥居を取り払いました。

境内には平成十八年(2006)建立の
救命犬坐像や覆屋内には庚申塔石祠が安置されています。
鳥居のない賀茂神社 救命犬之像 石塔石祠

 この地では
機織機(はたおりき)の外枠が鳥居の形をしているとこから鳥居と呼び、正月中は機を織らないといいます。

 陽が大分傾いてきました、先を急ぎましょう、おざわ接骨院を過ぎると変則十字路になります、横断して斜め右に進みます。

この分岐点には
道標「東 福居佐野道 南 龍舞小泉道 西 太田道 北 丸山桐生道」と標石「日光例幣使道 台之郷(だいのごう)の辻」があります。

先に進むと
県道128号線に突き当たります、信号交差点を左折します、この分岐点にはうなぎのうな平があります、楡木方面からは右折になります。

スグのセブンイレブンの手前を左に入ると突当りに
江徳寺(こうとくじ)があります、元和二年(1616)の創建です、当寺では寺子屋が開かれ、明治の世になると韮川小学校の前身擇善学校が創立されました。
台之郷の辻道標 江徳寺観音堂

 街道に戻って進み、右手の開倫塾脇に入ると正願寺があります、境内に正願寺奇石があります、「古代より霊験ありて、濫(みだ)りに触れると村内に異変が起こる」との伝承があります。

韮川用水路欄干橋にて渡り、矢場交差点を左折し、一本目の十字路を右折します、この分岐点にはプリントフジがあります。

この十字路を左に入ると
住吉大明神社があります、戦国時代、矢場国隆が築いた本矢場城址に鎮座しています。

境内から西側住宅地辺りまでが
城跡といわれ、土塁の一部が残されています。

旧道を進み、スグの
Y字路を右に進みます、何やら寂しい道になります。
正願寺奇石 住吉大明神社

 変則十字路を横断します、この十字路の手前の左手に標石「この先桜山跡」があります、を植えた山があり、日光例幣使道を旅する人々の憩いの場でした。

横断すると右手に
旧日光例幣使街道標石があります。

右側の矢場工場団地を過ぎると水門が設置された
用水路があります、この辺りが群馬県栃木県の境です。

矢場川郵便局先の左手に
八坂神社が鎮座しています、嘉永元年(1848)牛頭天王を勧請し、新宿村の鎮守としました。

鳥居前の
村社八坂神社社標の台石には「東 佐野福居道 西 太田伊勢崎道 北 足利道」と刻まれ道標を兼ねています。
桜山跡 街道標石 八坂神社

 福居は
八木宿、佐野は天明宿を示しています。

 先に進み新宿交差点を左折します、直線は館林道です、ここは新宿(あらじゅく)の辻と呼ばれました。

先に進むと左手に
勢至菩薩像を安置する新宿勢至堂があります、勢至菩薩は阿弥陀如来の脇立(わきだち)で、知恵の光で現世を照らします。

堂脇には
新宿の辻にあった正保三年(1646)造立の辻地蔵道標「右へたてばやし道 左へさの道」と寛政五年(1793)建立の如意輪観音念佛供養塔道標「右たてばやし 左さの道」があります。
勢至堂・辻地蔵尊 新宿橋 國境

 
矢場川新宿橋にて渡ります、矢場川は八幡林に源を発し、流末は渡良瀬川に落合います、矢場川は渡良瀬川の本流でした。

往時は
矢場川土橋が架橋され、橋の中央が上野國下野國の境でした。

新宿橋渡詰めの左手に
國境標識 「東 下野国 日光まで二十里六丁」「西 上野国 倉賀野まで十一里十八丁」があります。

 新宿橋を渡ると堀込(ほりごめ)に入ります、地名は渡良瀬川の旧流路を堀込め(埋立て)たところに由来しています。

堀込町南交差点手前の左手に
宝性(ほうしょう)があります、文永九年(1272)の創建で、本尊の十一面観世音菩薩は厄除けの堀込薬師として知られ、古くより参詣者で賑わいました。

参道口に
八木節元祖堀込源太翁之碑と参道に堀込源太の墓があります、遊郭の娼婦が唄う木崎節が大正時代の初め、堀込の馬方源太が節回しを工夫して、今日の八木節を完成させ、飼い葉桶を叩きながら唄って聞かせました。
宝性寺 堀込源太翁之碑

 帰宅のラッシュアワーで渋滞する
県道128号線佐野太田線を横目で見ながら、モクモクと歩きます。

 PM6:08 八木宿着

 龍善寺浄墓地の辺りに八木宿の西木戸がありました、八木宿に到着です!

八木の地名は宿の周囲に八本の松があったところに由来しています。

八木宿は
飯盛が盛んで、明治後は八木梁田の遊女屋が北の栄町に集められ、遊郭を形成し昭和の初めまで賑わいました。天保十四年(1843)の日光例幣使道宿村大概帳によると家数は九十六軒、うち本陣一、問屋三、旅籠十九軒、人数は五百四十二人で、宿長は六町(約655m)でした。

左手の福居郵便局の並びに
龍善寺があります、鎌倉時代初期造立の本尊阿弥陀三尊像は足利市重要文化財です。

八木宿交差点を越すと左手の寺山商店脇に「旧例幣使街道八木宿本陣跡」
標識があります、寺山家が勤め、屋号を千代本と称しました、本陣前には高札場がありました。
八木宿本陣跡

 右手の八木節会館前の旧日光例幣使街道八木宿碑を過ぎると左手に母衣輪(ほろわ)神社が鎮座しています、八木宿の鎮守です。

日本武尊が東征の折、母衣を奉納し武運長久を祈願しました。

境内には足利市天然記念物の推定樹齢三百年の
イチョウがありますが、暗くてもはや撮影不能です。

母衣輪神社辺りが
八木宿の東口でした。

突当りの東武伊勢崎線の
伊第341号踏切が本日の街道ウォークの終点です!

線路に沿って左に進めば目の前が
福居駅です、ここから歩きの人か車中の人になります。
母衣輪神社 イチョウ




次 八木 〜 楡木