道中日記  10-151 日光例幣使道 ( 八木 - 楡木追分 ) 50.1km

 前回の続き、
日光例幣使道ウォークです、日光例幣使道は楡木追分で日光壬生通りに合流し完結します。


上野駅の乗換え時間は2分です、慣れれば問題ありません、しかし久喜駅の乗換えの待ち時間は20分です、何だか勿体無いですね。

今回のウェアリングは短パンにヘリーネックTシャツです、久喜駅のホームに立っていますと、肌寒いくらいです、思わず
待合室に入ってしまいました。

心地良い、
街道ウォーク日和になりました、最高です!

 平成19年10月06日 AM7:05 八木宿出立 梁田宿まで3.4km

 東武伊勢崎線の伊第341号踏切が本日の出発点です、梁田宿迄は県道128号佐野太田線の一本道です、それでは出立しましょう。

右手の
増田医院の二本先を右に入ると赤城神社が鎮座しています、建仁年中(1201~4)新田義重の創建です、文政十年(1827)八木宿大火の際、飛び火により全焼し、嘉永四年(1851)に再建されました。

一間社流造りの
本殿には見事な彫刻が施されています(足利市重要文化財)。

右手のそば処靜庵先の左手に享保三年(1718)造立の
石造地蔵立像があります、かつては地蔵堂がありました。
伊勢崎線踏切 赤城神社 地蔵供養塔

 先に進むと左手奥にそば処よしみやがあり、右手のY字路口に道標が二基あります。

寛政八年(1796)建立の
庚申塔道標「農道館林 ひだりさの」と大正十三年(1924)建立の折れた道標「東南久野ヲヘテ館林方面ニ至ル 東梁田ヲヘテ佐野方面ニ至ル 西福居ヲヘテ太田方面ニ至ル」です。

清冽な流れの
姥川普門寺橋にて渡り、スグ先の梁田町交差点を左に入ると、右手に梁田公民館があり、敷地内に弾痕の松があります。

梁田宿の
中山楼にあったマツで、幹の中央に梁田戦争による被弾痕を残しています(足利市史跡)。
道標 姥川 弾痕の松

 梁田戦争とは慶応四年(1868)幕府軍九百余名が梁田宿に宿営し、飯盛を相手に宴を張りました。

翌早朝、
官軍が三方から急襲し、梁田宿一帯は市街戦となり、幕府軍六十四名が戦死し、梁田宿の七割が焼失しました。

梁田町交差点に戻り、先に進み一本目を右に入ると
自性寺があります。

門前に
梁田戦争で戦死した幕府軍の兵士を弔った梁田戦役幕軍之墓があります。

街道に戻って進むと、稲刈りを待つ
田園が広がり、空には秋を代表するうろこ雲いわし雲と呼ばれる券積雲が浮かび上がっています。
弾痕 街道風景

 AM7:36 梁田宿着 天明宿まで10.9km

 先に進み左手のうなぎの金箱を左折(白色矢印)します、ここが梁田宿の東口です、梁田宿に到着です!

梁田宿は
渡良瀬川の渡しを控え賑わいました。八木宿と同じく飯盛が盛んで、明治になっても引き継がれましたが、東武鉄道敷設に反対し、終焉を迎えました。

天保十四年(1843)の
日光例幣使道宿村大概帳によると梁田宿の家数は百五軒、うち本陣二、問屋二、旅籠三十二軒、人数は四百三十一人で、宿長は五町五十五間(約645m)でした。

宿並を進むと左手の長福寺参道口に
旧日光例幣使街道梁田宿碑があります。
梁田宿東口 梁田宿碑 長福寺

 長福寺の境内に梁田戦争戦死塚があります、墓碑の裏面には「慶応四戊辰年三月九日 戦死六十四人此地埋 梁田宿」と刻まれています(足利市重要文化財)。

梁田戦争後、村民が
幕府軍戦死者六十四名を渡良瀬川の河原に合葬し、墓碑を建てましたが、その後渡良瀬川の流路が変遷したため、現在地に遺骨と共に移されました。

梁田戦争に幕府(東)軍として従軍した
内田万次郎が建立した明治戌辰梁田役東軍戦死者追弔碑があります、碑の裏面には「大正十三年当時従軍衝鉾(しょうほう)隊士従四位勲三等内田万次郎」と刻まれています(足利市重要文化財)。

宿並に戻って先に進むと右手に
梁田郵便局があります。
梁田戦争戦死塚 追弔碑

 宿並は渡良瀬川の土手に突き当たります、右折して土手道を進みます、楡木方面からは左折になります、この分岐点には梁田町街灯標識があります。

この突当りの延長線上が
梁田の渡し跡です、現在は河川敷の足利渡良瀬ゴルフ場になっています。

梁田の渡しは
舟渡しでした、渡しの舟着場をアイヌ語でヤンタといい、これが転訛しヤナダになったともいいます。

渡良瀬川川崎橋にて渡ります、渡良瀬川は皇海山(すかいさん)に源を発し、流末は利根川に落合います、川名は勝道上人が浅瀬を渡ったところに由来します。
梁田宿西口 梁田の渡し跡 渡良瀬川

 川崎橋の橋上からは富士山上毛三山(赤城山、榛名山、妙義山)が望めます。

川崎橋の渡詰を左折して
土手道を進みます。

先の
ヘアピンカーブを右折して土手を下ります、この分岐点の河川敷側が梁田の渡し跡です。

土手下に
川崎天満宮が鎮座しています、例幣使は参拝を常とし、野立を行いました。

社殿内には例幣使
綾小路有長が詠んだ「行かえり旅のねがひも天満るかみのめぐみをやなだにぞしる」の短冊等が残されています。
川崎橋南詰分岐 土手分岐 川崎天満宮

  天満宮参道口の右手に二体の天満宮辻の地蔵が覆屋内に安置されています。

宝暦年中(1751~64)造立の
石造地蔵菩薩像と文政三年(1820)造立の小陽刻地蔵像です。

街道に戻って先に進むと、右手の土手際に
十六夜様と呼ばれる大正十六年(1917)造立の如意輪観音像があります。

スグ先の
川崎橋ガードをくぐります。

渡良瀬川の土手下を進み、突当りを道なりに左折(白色矢印)します。
地蔵尊 十六夜様 川崎橋ガード 分岐点

 一本目の十字路を右折(白色矢印)します、楡木方面からは左折になります。

この分岐点には石仏が二体(白色□囲い)あります、頭部が欠けた
地蔵尊と文化八年(1811)造立の青面金剛像です。

向かいは
川崎下町公民館です、かつては念仏堂があり、敷地内には天明五年(1785)建立の大乗妙典日本廻国供養塔、同八年(1788)造立の如意輪観音像地蔵立像等があります。
十字路分岐 石仏二体 石仏石塔群

 先の変則十字路を道なりに進みます、この十字路には庚申塔南無と刻まれた石塔があります。

二本目を右折し、
民家を枡形状に回り込みます。

突当りの足利東部工業団地の保泉工業前の十字路を左折(白色矢印)し、一本目の
信号交差点を右折して県道128号佐野太田線に合流します、この分岐点には足利市中央消防署東分署があります。

あしかがフラワーパーク駅南交差点を越し、
尾名川樋詰橋にて渡ります。
庚申塔 工業団地分岐 樋詰橋 街道風景

 稲刈りが始まっています、新米良いですね!

 左手の白鷗(はくおう)大学足利高等学校案内標識を過ぎた先で出流川出流川橋にて渡ります。

出流川(いずるがわ)は
出流原弁天池の湧水に源を発し、流末は旗川に落合います、夏は川幅二十一間(約38m)で徒歩渡り、冬は川幅七間(約13m)となり仮橋が架橋されました。

右手の
県道128号線標識「佐野太田線 佐野市村上町」先を斜め左の旧舗装路に入ります(白色矢印)。

旧道は県道の内側を弧を描いて進んでいます。

弧を描いた旧道は先で
県道に接近します。
出流川 村上旧道西口 村上旧道東口

 そのまま県道に沿った
土道を進み、右手の横道脇に設置されている外灯の所から県道に合流します(白色矢印)。

 県道をしばらく歩き、右手の寺岡山厄除元三大師案内標識に従って右折(白色矢印)します。

左手段上の覆屋内には
一本松地蔵尊が安置されています。

坂を上ると右手が平成二年(1990)に発見された
岡崎山古墳群です、円墳三十二基と前方後円墳一基の群集墳です(足利市埋蔵文化財)。

墳上に
御野立所址碑があります、昭和九年(1934)昭和天皇はここで陸軍大演習を上覧指揮しました。

墳上からは東に
筑波山、南に富士山秩父連峰、西に浅間山、北に男体山を望む景勝地です。
寺岡旧道南口 一本松地蔵尊 御野立所址碑

 先に進むと旗川に突き当たります、 右手に明治三十六年(1903)建立の厄除元三大師道道標があります、旗川に沿って右に進むと寺岡山元三大師があります。

比叡山中興の祖
元三大師像(慈恵大師)」を安置しています、厄除け商売繁盛に御利益があります。

旗川に沿って左に進み、先のY字路を左に進み、突当りの県道67号線を右折します(白色矢印)、楡木方面からは左折になります。

この分岐点には
日光例幣使(街)道道標が二基あります、内一基は寛政三年(1791)建立の道祖神道標「日光道佐野道 江戸道館林道 善光寺道太田道足利道」です。
元三大師道標 寺岡旧道北口 道標二基

 もう一基は元文五年(1740)建立の
道標「佐野道 足利道 太田道」で共に足利市重要文化財です。

 県道67号桐生岩舟線を進むと左手に両社神社が鎮座しています、国造りの神伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の二神(二社)を祀っています。

西側の参道口には
道標「向佐野道 向足利道 向赤見道」があります。

右手の
美容室メローズの手前を左折します(白色矢印)旗川旧道の西口です。

突当りの
旗川に沿って進みます(白色矢印)、黄色矢印は戻り迂回路です。
両社神社 旗川旧道西口 戻り迂回路 旗川渡し地蔵尊

 スグ先の左手に寛政十年(1798)造立の
地蔵立像が覆屋内に安置されています、ここが旗川の徒歩渡り地点です、例幣使通行の際は川越し人足が派遣されました。

 迂回して対岸の旧道に向いましょう。

旗川に沿って戻り(黄色矢印)、
白旗橋にて旗川を渡ります、旗川は氷室山付近に源を発し、流末は渡良瀬川に落合います。

清冽な流れの旗川で
投網(とあみ)を行っています、釣りにはさして興味はありませんが、投網は一度やってみたいですね。

白旗橋を渡ると足利市から佐野市に入ります。

渡詰めの
白旗橋交差点を左折(黄色矢印)します。
戻り迂回路 旗川 白旗橋分岐 旧道復帰

 一本目を右折(黄色矢印)し、
旧道に復帰します、この分岐点には洋服直し田島看板があります。

 旧道の趣を残す免鳥村を抜けると金網フェンスの駐車場脇にY字路があります、左(白色矢印)に進みます。

スグのJR両毛線を
第二足利街道踏切にて横断し、斜め右に進みます、踏切の渡詰めには大正八年(1919)建立の馬頭観世音があります。

楡木方面からは踏切を横断し、斜め右に進みます。

花岡村に入ると左手の花岡町公民館の敷地内に芦畦(あしぐろ)の獅子舞収蔵庫があります。

七百年前から伝わる厄除神事
芦畦獅子舞(佐野市無形文化財)の獅子頭を収蔵しています。
Y字路 馬頭観音 獅子舞収蔵庫

 同じく花岡町公民館の敷地内には台石が亀の薬師尊常夜燈があります、かつてはここに薬師堂があり、高札場がありました。

次いで左手の児童公園に安政六年(1859)建立の
聖天宮(せいてんきゅう)常夜燈があります、台石には並木村中と刻まれています。

次いで左手にソーラーパネル発電所があり、並びの用水脇に
日光例幣使街道標石があります。

先に進み、一旦民家が途切れると清冽な流れの
才川才川橋にて渡ります、往時は高欄付の石橋でした、辺りは田園風景になります。
薬師尊常夜燈 聖天宮常夜燈 例幣使街道 才川

 JR両毛線を第一足利街道踏切にて横断し、左折します、楡木方面からは踏切を横断し、左折します。

佐野市立西中学校を過ぎると左手に
佐野ラーメン店があります、青竹手打ち佐野らーめん看板を掲げています、天明宿(佐野)は間近です!

先で
菊沢川菊沢橋にて渡ります、往時は石橋で長さ七間半(約13.6m)、幅七尺(約2.1m)でした。

県道を
佐野市向川原歩道橋にて跨ぎます。

次いで県道を
佐野市大橋町歩道橋にて跨ぎます。
JR両毛線踏切 佐野ラーメン 県道67号線横断

 AM9:56 天明宿着 犬伏宿まで2.9km

 街道は秋山川に突き当たります(白色矢印)、往時はここに猿橋が架橋され、天明宿の西口でした、天明宿に到着です!

慶長十二年(1607)初代佐野藩主
佐野信吉によって佐野城の城下町が形成され、日光例幣使道の宿場町として発展しました。

鋳物産業が盛んで、鉄燈籠を朝廷に献上したところ、天をも明るくしたとして天明の名が下賜されました。

天保十四年(1843)の
日光例幣使道宿村大概帳によると家数は千九十五軒、うち本陣一、問屋二、旅籠八軒、人数は四千百四十九人で宿長は六町四十八間(約742m)でした。

この分岐点には
庚申碑(白色□囲い)があります。
天明宿西口

 大正十一年(1922)建立の庚申碑には諏訪大明神帝釈天王水神宮が刻まれ、三猿が陽刻されています。

それでは迂回しましょう、右折して進み、一本目を左折(黄色矢印)して
中橋にて秋山川を渡ります、秋山川は氷室山に源を発し、流末は渡良瀬川に落合います。

先の信号交差点を左折します、右折すると
佐野東照宮が鎮座しています、家康の遺骸を久能山から日光に遷葬する際、霊柩が惣宗寺に一泊した由緒により創建されました。

並びに
惣宗寺(そうしゅうじ)があります、佐野厄除け大師関東三大師(青柳大師、川越大師)の一つです。
庚申碑 佐野東照宮 佐野厄除大師

 扁額
鎮護國界が掲げられた山門佐野城門を移築したものです。

 信号分岐点に戻って進むと左手に神明宮が鎮座しています、文治三年(1187)唐沢山城主佐野基綱の創建です。

先に進むと信号交差点があります、右折すると
天明の宿並です。

直進すると左手に
熊野神社が鎮座しています、境内の奥に勤王の志士出流天狗殉難碑があります、慶応三年(1867)倒幕に奔走した若者四十一名が天明河原で斬首されました。

それでは宿並に戻りましょう、左手に
妙音寺があります、この辺りは室町時代田町と呼ばれました。
神明宮 出流天狗殉難碑 妙音寺

 
鋳物師(いもじ)の集団居住地でしたが、 慶長七年(1602)金屋町に移転しました。

 宿並を進むと左手に新井屋があります、名物味噌まんじゅうの老舗です、見世蔵は明治十年(1877)の建築です。

新井屋の脇に
星宮神社参道社標(白色□囲い)があります、左折して進むと正面の段上に星宮神社が鎮座しています。

本殿は天和三年(1683)の建立で、天明の総鎮守です、天明宿の鋳物師が寄進した銅製鳥居は享保二十年(1735)の鋳造です。

宿並に戻ると本町交差点が
千人同心街道追分です、右の筋が千人同心街道です。
新井屋 星宮神社 大坂屋

 日光東照宮を警護する
八王子千人同心が通行しました。

スグ先の右手に佐野御菓子司
大坂屋があります、創業弘化元年(1844)銘菓天明最中の老舗です。

 次いで左手に創業明治元年(1868)の小沼呉服店があります、庵看板を掲げています。

先に進むと左手に群馬銀行があります、ここが
天明宿本陣跡です、松村与左衛門が勤め、例年四月十二日例幣使の宿所となりました。

佐野駅入口交差点には
佐野町道路元標があります。

佐野駅北の城山公園は
佐野城跡です、藤原秀郷は平将門を破り下野守となりました。秀郷は佐野の北に唐沢山城を築き、子孫は佐野氏と称しました。徳川の世になると慶長七年(1602)山城禁止令により唐沢山城は廃城となりました。
小沼呉服店 天明宿本陣跡 佐野城址

 慶長十二年(1607)
佐野信吉が春日岡に佐野城を築き、佐野藩の初代藩主となりました。

しかし同十九年(1614)
改易となり廃城となりました。信吉の秀吉より拝領したもので、これが遠因になっています。

 それでは宿並に戻りましょう、先に進むと右手に荒澤不動尊があります、藤原秀郷の創祀で日除けの不動様と呼ばれています。

次いで佐野東高校入口交差点を右に入ると
徳雲寺があります、赤門と呼ばれています。

相生町の十字路を左折(白色矢印)します、この分岐点には
斎藤眼科があります、楡木方面からは右折になります。

右手に
浄泉寺があります、天正二年(1574)佐野宗綱の創建です、水琴窟の青龍の韶韻や寛政十年(1798)鋳造の天明鋳物鋳銅半鐘があります。
相生町分岐 浄泉寺 西宮神社

 向かいには
西宮神社が鎮座しています。毎年11月19日・20日に開催される恵比寿講は商売繁盛、開運、家内安全を祈願する老若男女で賑わいます。

 右手の引地山に日向寺観音堂があります、本尊は聖観世音菩薩で三十三年に一度御開帳されます、安産子育にご利益があります、

並びに
日枝神社が鎮座しています。

街道に戻り
両毛線を例幣使街道踏切にて横断し、先の東武佐野線ガードをくぐります。

佐野堀米郵便局を過ぎると、
内堀米交差点に突き当たります、正面には日蓮宗本山妙顕寺があります、永仁二年(1294)天目(てんもく)上人の創建です、佐野城の鬼門除けで、佐野氏の祈願寺でした。
日向寺観音堂 JR両毛線 東武佐野線 妙顕寺

 日光例幣使道は
内堀米交差点を右折(白色矢印)します、ご当地名物佐野ラーメンは今回も時間が合わず、断念です、残念です・・・・!

 内堀米交差点を左折(黄色矢印)し、一本目の十字路を右に入ると左手に一向寺があります。

山門手前右の覆屋内に
日限地蔵尊が安置されています、加宿堀米宿の飯盛から篤く信仰されました。

向かいの
真光寺には真新しい遊女の哀悼之碑があります、加宿堀米宿は飯盛が盛んでした。

日光例幣使道に戻ると妙見寺の右脇に
八幡神社一ノ鳥居があります、参道口の石燈籠は天保五年(1834)の建立です。
日限地蔵尊 真光寺 八幡宮

 AM10:35 犬伏宿着 富田宿まで10.9km

 県道141号唐沢山線を進むと、堀込町交差点辺りが犬伏宿の西木戸跡です、ここには高札場がありました、犬伏宿に到着です!

犬伏宿は「佐野の内、町長く大きな農家もあり、道幅広くきれいな街並」といわれました。

天保十四年(1843)の
日光例幣使道宿村大概帳によると家数は七百二十八軒、うち本陣二、問屋二、旅籠四十四軒、人数は二千七百五十七人で宿長は加宿堀米宿を含めて二十一町二十三間(約2333m)でした。

宿並に入ると右手に
台元寺があります。
犬伏宿西木戸跡 台元寺

 慶長六年(1601)の創建で、本尊は
木造地蔵菩薩半跏像(延命地蔵尊)です。

観音堂には元文元年(1736)天明鋳物師による坂東三十三観音、西国三十三観音、秩父三十四観音、合わせて百観音(栃木県文化財)が安置されています。

 先に進み左手の二連木酒店脇に入ると、先にポツネンと台輪鳥居があり、奥の杜の中に鷲宮神社が鎮座しています、境内には元禄十六年(1703)建立の狛犬等があります。

昔、この地に若い娘を生贄にする風習があり、ある
山伏が棺の中に娘の代わりにを入れると、翌朝大ヒヒが死んでいた、里人は犬を鷲宮神社に手厚く埋葬しました、以来この地は犬伏(いぬぶし)と呼ばれるようになりました。

宿並に戻って先に進むと、右手の鈴木食堂の先に
旧旅籠があります、二階建土蔵造りで犬伏宿町屋の特徴を今に残しています。
鷲宮神社 元禄の狛犬 旧旅籠屋

 右手の犬伏小学校が犬伏本陣跡です、岩間家が勤めました。

向かいに
大庵寺があります、唐沢山城主佐野昌綱の創建です、慶長五年(1600)徳川秀忠が石田三成挙兵の報を聞き、小山評定に向かう際に一泊し、後に寺領四十石が付与されました。

犬伏町交差点を越すと、先の右手に
薬師堂があります、石田三成が挙兵すると真田親子は堂内で密議し、家名存続のため父昌幸と弟幸村は西軍に、兄信幸は東軍にと袂を分け、真田父子別れの地と呼ばれています。

薬師堂の裏山は
米山古墳です。
犬伏宿本陣跡 大庵寺 薬師堂

 以前は
前方後円墳といわれましたが、今は帆立貝形等の古墳群(栃木県史跡)といわれています。

薬師堂前には犬伏宿の
東木戸がありました、犬伏宿の東口です。

 薬師堂前から左に弧を描いて進むと東北自動車道高架手前のブロック塀の間に青面金剛像庚申塔があります。

東北自動車道を
韮川高架橋にてくぐり、即左折し一本目を右折します、東北自動車道高架の敷設で分断された旧道はここから復活します。

唐沢川をコンクリート小橋にて渡ります、往時は板橋が架橋されていました。

両側が民家の通りになると、左手に
永代常夜燈が現れます、天保二年(1831)の建立で関川氏子中と刻まれています、ここが蔵王神社への参道口です、分間延絵図には蔵王権現之宮と記載されています。
庚申塔 東北自動車道 常夜燈

 関川町公民館の前に馬頭観世音、首の欠けた地蔵立像、水手鉢等があります、 ここにあった不動堂は関川町公民館に併設されています。

スグ先で県道に合流(白色矢印)します、
楡木方面からは斜め右に入ります、この分岐点には横断歩道路面標識があります。

正面は
三毳(みかも)山(標高229m)です、山容の美しさから万葉集にも詠まれています、北麓には下野国分寺の瓦を焼いた瓦窯跡遺跡があります。

先の
Y字路を右に進み、三杉川関川橋にて渡ります、三杉川の流末は渡良瀬川に落合います。
石仏石塔 関川分岐 三杉川

 JR両毛線を第二佐野街道踏切にて横断し、先の信号交差点を左折し、県道67号桐生岩舟線に合流します、楡木方面からは信号交差点を斜め右に入ります、この分岐点には両毛石材センターがあります。

町谷町交差点を過ぎ、次の信号交差点に
かたくりの里案内標識があります、ここを右に入ると万葉自然公園かたくりの里があります。

園内には
カタクリの群落(佐野市天然記念物)や万葉歌碑「下毛野みかもの山の小楢(こなら)のすまぐわし児ろは誰が筍(け)か持たむ」(下野の三毳山に生えているコナラの木のように、可愛い娘はいったい誰の妻になるのだろう)があります。
かたくりの里 追分地蔵 道標

 街道に戻って進むと、右に大きくカーブした先の左手に瀟洒な
地蔵堂があります、追分地蔵道標「右日光道 左いわ舟道 日光似ぬける道」を安置しています、この地蔵尊は子育にご利益があり、毎年八月二十四日地蔵盆が行われます。

堂脇には
道標「右日光是より十五里 左いわふねみち二十丁」があります。

 追分地蔵のスグ先で佐野市から栃木市に入ります。 

右手に
慈覺大師誕生霊蹟地道道標があります、この横道(黄色矢印)に入ると右手に誕生寺があります。

境内に
産湯の井があります、円仁は延暦十三年(794)壬生氏の子として生まれ、九歳で仏門に入り当代一の学僧といわれました、貞観八年(866)朝廷から日本初の大師号を賜り慈覚大師と称しました。

街道に戻ると先の信号交差点の筋が
岩船地蔵道です、岩舟地蔵で知られる高勝寺に至ります。

下津原交差点を過ぎると新設の
馬頭観世音があります。
道標 誕生寺 馬頭観音

 先に進むと右手に猿田彦大神碑があります。

この横道に入る(黄色矢印)と
三鴨神社が鎮座しています。

享保三年(1718)の創建で、祭神は
事代主神(ことしろぬしのかみ)です、商売繁盛、厄除開運にご利益があります。

下津原駐在所を過ぎると右手に
道標「右佐野町道 左栃木町道」があります。

スグ先の右手に
馬頭観世音があります。
猿田彦大神碑 三鴨神社 道標 馬頭観音

 あまがい内科医院先の右手のブロック塀内に猿田彦大神碑が祀られています。

この先に
三ケ所旧道を残しています、それでは取り架かりましょう。

蓮花川琵琶橋にて渡り、斜め左に入ります(白色矢印)、この分岐点にはセブンイレブンがあります。

旧道に入り、三本目を左に入ると右手に
星宮神社が鎮座しています、境内には文政七年(1824)建立の常夜燈があります。
猿田彦大神碑 ①静旧道西口 星宮神社 ①静旧道東口

 静旧道は岩舟総合支所前交差点にて一旦県道に合流します、楡木方面からは斜め右に入ります、交差点の左は岩船地蔵道です、岩舟地蔵で知られる高勝寺に至ります。

左手の
いわふねようちえん案内標識を左に入ると恵生院(えしょういん)があります、日光山を開山した勝道上人の創建で高勝寺に匹敵する寺院でした。明治二十年(1887)に焼失し、その後再建されました。

県道に戻って先に進むとJR岩舟駅入口交差点に
岩舟道標「右岩舟停車場鷲巣(わしのす) 犬伏佐野方面 栃木小山方面」があります 、昭和二年(1927)の御大典記念に青年団駒場支部が建立したものです。
恵生院 岩舟道標 ②静旧道西口

 右手のフジマート先を斜め左に入ります、二つ目の静旧道です、楡木方面からは県道に合流します、この分岐点にはフジマート岩舟店前バス停があります。

旧道は右に緩く弧を描いて再び
県道に合流します、楡木方面からは斜め右に入ります、この分岐点には寺内歯科医院があります。

右手の山の頂には
浅間神社が鎮座しています。

左手の中華料理
好蘭前を斜め左に入ります、和泉旧道です、先で県道に合流します、楡木方面からは斜め右に入ります、この分岐点にはみかもの月蛸屋があります。
②静旧道東口 ③和泉旧道西口 ③和泉旧道東口

 橋本腎内科クリニック先を右に入ると正面に稲荷神社が鎮座しています、茂呂宿村の鎮守です。

茂呂宿村は
間の宿で安政二年(1855)には家数四十二軒の内八軒が旅籠でした。

和泉交差点手前の右手に
宝泉寺(ほうせんじ)があります、廃仏毀釈により廃寺となりました、境内には薬師堂石仏石塔を残しています、和泉の地名はこの宝泉寺に由来しています。

和泉交差点を越し、先を左折(白色矢印)します、この分岐点には
ふじや並びに岩舟静和(しずわ)郵便局があります、楡木方面からは右折になります。
稲荷神社 宝泉寺跡 和泉分岐

 旧道を進むと和泉天満宮に突き当たります、参道口に庚申塔が三基あります、うち一基は寛政十二年(1800)の建立です。

天満宮前の
変則T字路を左折(白色矢印)します、楡木方面からは斜め右に進みます。

先に進み
朝田屋食堂前の信号交差点にて県道11号線を横断し、斜め右の旧道に入ります、この分岐点にはパチンコJOYがあります。

旧道を進むと再び
県道11号線に突き当たります、しかしここの信号交差点で県道を横断せず先(白色矢印)に進みます。
和泉天満宮 ①県道横断 県道横断口

 先のローソン前の信号交差点にて県道11号線を横断し、ローソンの右脇に入ります。

一本目の
Y字路をやり過ごし、下町第2公園手前のY字路を左(白色矢印)に進みます。

公園沿いの第五自治会公民館に
馬力神(白色四角囲い)が祀られています。

公民館前を右折(黄色矢印)すると右手の覆屋内に嘉永二年(1849)建立の
十九夜塔が安置されています、スグ先の左手には石祠の住吉神社が鎮座しています。
②県道横断 富田分岐 馬力神 十九夜塔

 街道に戻って先に進むと一本目の右角に昭和七年(1932)建立の馬頭観世音と奥に石祠の屋敷神があります。

次いで右手に
白山神社が鎮座しています、境内には万延元年(1860)建立の庚申塔があります。

白山神社前で左からの筋に合流します、
楡木方面からは白山神社前のY字路を左に進みます。

街道を先に進むと信号交差点手前の左手後援会事務所裏の井戸用電動ポンプ奥に
馬頭観世音があります。
馬頭観音 白山神社 馬頭観音

 PM12:58 富田宿着 栃木宿まで5.4km

 信号交差点辺りに富田(とみた)宿の南木戸がありました、富田宿に到着です!

富田宿は正保三年(1646)宿駅となり、
富田(とんだ)女郎衆で知られ賑わいました。

天保十四年(1843)の
日光例幣使道宿村大概帳によると家数は二百四十八軒、うち本陣一、問屋二、旅籠二十八軒、人数は八百四十八人で宿長は十二町十二間(約1331m)でした。

宿並に踏み込むと左手のブロック塀の間に
勝善神が祀られています、勝善神は神道系の馬頭観音です、明治の神仏分離により取って代わりました。
勝善神 馬頭観音 玉正寺

 次いで左手に
馬頭観世音があります。

先に進むと左手に
玉正寺(ぎょくしょうじ)があります、この地を支配した富田重晴の創建で、本尊は仏師定朝作の地蔵尊です。

境内には享保三年(1718)建立の
青面金剛像庚申塔、天明六年(1786)建立の宝篋印塔、享和二年(1802)建立の十九夜塔等があります。

 宿並に戻って先に進むと左手の小関歯科医院の並びに軍馬観音があります。

富田交差点手前の左手の和久井家は
富田宿問屋場跡です、屋号を松の屋と称し和久井家が勤めました。

富田交差点を越すと左手に
日光例幣使街道富田宿本陣跡標石があります、和久井家が勤め、建坪は百二坪でした。

先に進むと左手に
八坂神社があります、富田城内に鬼門の守護神として鎮座していましたが、寛永十七年(1640)ここに遷座しました。
軍馬観音 富田宿本陣跡 八坂神社 富田城址

 先の信号交差点を左に入ると大平西小学校校門脇に
富田城跡標石があります。

嘉吉元年(1441)
富田成忠の築城に始まり、富田氏代々の居城でしたが、弘治三年(1557)信吉の時に皆川俊宗の攻めにより落城し、皆川氏の所領となりました。

慶長十八年(1613)
北条氏重が一万石で入封し富田藩を立藩し、陣屋が置かれましたが、転封となり廃藩廃城となりました。

 宿並に戻って進むと左手に旧五月女医院があります、明治三十四年(1901)の建築です。

旧五月女医院並びの廃屋が富田宿の二つ目の
問屋場跡です、福島家が勤めました。

左手の洋館木造建築の
大平下病院を過ぎると、左手に土蔵造りの松本家住宅があります、旧旅籠で屋号をトマリヤと称しました。庭木に推定樹齢三百年のモチノキがあります。

JR両毛線
大平下駅への入口を過ぎると右手に町屋建築の様式を残す松本家住宅があります、屋号を松本屋と称した旧旅籠です。
旧五月女医院 旧旅籠トマリヤ 旧旅籠松本屋

 宿並を先に進むと右手に朱塗りの宗光寺(そうこうじ)地蔵堂があります、境内には天明三年(1783)建立の笠付馬頭観音像や覆屋内に馬頭観世音、享保十二年(1727)と明和五年(1768)建立の如意輪観音像十九夜塔が安置されています。

この地蔵堂前が
枡形で痕跡(白色矢印)を残しています、ここに富田宿の南木戸がありました。

富田宿を後にすると左手に
樋下正一位稲荷神社が鎮座しています。

先に進むと
ぶどう団地入口交差点に突き当たります。
地蔵堂前枡形 稲荷神社 下皆川旧道南口

 交差点の斜め右の
細道(白色矢印)に入ります、この分岐点には大平山/大中寺・清水寺案内標柱があります。

 旧道に踏み込むと左手に上部が欠落した常夜燈があります、文政二年(1819)の建立で、竿石には「大平山、日光山、郷神社」と刻まれています。

常夜燈前には
狛犬があり、並びの覆屋内には大日如来碑が安置されています。

旧道は
駐車場に突当ります、この先の旧道は失われていますが、なるべく旧道に沿うように進みます。

突当りの駐車場前を右折し、突当りを左折して、駐車場の外周を進みます。
大平山常夜燈 下皆川旧道南口 旧道内分岐 旧道内分岐

 突当りを左折(白色矢印)し、一本目を右折して
グリーンハイツEIMI脇を進みます。

 県道11号線側に中華の看板が見えます、刻限はPM1:20です、頃合いには食事処がありませんでした。

龍華園に突入です、メニューにランチセットがあります、中華丼 半ラーメンセットに即決定です!

ビールを飲みながら店内を見回すと
ニララーメンのビラが壁に貼ってあります、ニラはご当地大平下の名産です、このニラを麺に練り込んでいるとあります、聞いてみれば餃子にも入っているとの事です!!
龍華園 Beer 中華丼 & 半ラーメンランチセット

 手遅れです、馬鹿ですね、街道ウォーカーの皆さん、私は食してはいませんがお奨めです!!!

龍華園は廃業しました、悪しからず。

 サア、午後の部に取り掛かりましょう、グリーンハイツから再開です。

旧道は
昭和第3公園脇を進み、突当りを左折(白色矢印)します。

突当りの
県道11号線を右折(白色矢印)します、この分岐点には御食事処たむら食堂があります。

県道に沿って進み、一本目を右折(白色矢印)します、この分岐点には
信号交差点中央町案内標識があります、旧道に入り一本目を左折(白色矢印)します。
昭和第3公園分岐 県道分岐 県道分岐 最終分岐

 サンハイツ富田A前のY字路を左に進み、突当りの県道11号線を横断し、リコー脇に入り、右に進みます。

永野川永久橋にて渡ります、永野川は尾出山(おでやま)に源を発し、流末は巴波川(うずまがわ)に落合います、常は徒歩渡り、冬は仮橋が架橋されました。

先に進み一本目を右折します。

次いで一本目の
十字路を左折(白色矢印)します、川連旧道に復帰します。
県道横断 永久橋 川連旧道分岐 川連旧道復帰

 旧道は永野川の土手道に合流します、下皆川旧道そして川連旧道の踏破はこれにて完結です、この分岐点にはカーブミラーがあります。

先に進み、そば処ふじみ前の
Y字路を右に進むと右手に川連(かわづれ)天満宮が鎮座しています。

川連城(かわつれじょう)の裏鬼門に鎮座していました。寛政七年(1795)建立の庚申塔道標「右こが 向さの 左日光」があります。

川連天満宮の並びに
川連城跡碑があります、応仁年間(1467~69)川連仲利の築城にはじまり、永禄六年(1563)皆川氏に奪取されました。
川連旧道北口 川連天満宮 川連城跡

 
秀吉の小田原攻めに際し、皆川氏は北条方に組したため秀吉の攻めにより川連城は落城し、廃城となりました。

 川連交差点を横断し、県道11号線を直進します。

左手のタキザワ・デリカ工場を過ぎた先の
栃木翔南高校入口交差点を左折します。

先に進み、右手の栃木牛乳を過ぎると街道は
東武日光線に沿って進み、左手の松金化学工業を過ぎるとJR両毛線を栃木藤岡線架道橋にてくぐります。

道なりに進み、突当りの
T字路を左折し、スグの信号交差点を右折します。

一本目を左折(白色矢印)します、この分岐点には
蔵の菓看板があります、先に進むと境町交差点からの筋に合流します(白色矢印)。
JR両毛線高架 蔵の菓看板 境町分岐

 スグ先を右折します、この分岐点には木製道標があります。

この先にこの
木製道標が3ケ所設置されています。

最後の
木製道標先の十字路を横断して進むと県道31号線に突き当たります、左折(白色矢印)します、この分岐点には自転車店のザ・ちゃりんこやがあります。

スグ先の
信号交差点を左折(白色矢印)します、向かいにベーカリーFUJIがあります。
木製道標分岐 木製道標 県道31号線合流 川井町分岐

 PM2:41 栃木宿着 合戦場宿まで4.5km 

 県道153号線を進むと左手に熊野神社が鎮座しています、安政年間(1854~60)の創建で、焼失した社殿は慶応三年(1867)の再建です。境内には青面金剛像庚申塔地蔵尊等があります。

巴波川開明橋にて渡ります、巴波川は白地沼に源を発し、流末は渡良瀬川に落合います、暴れ川で川名は「渦を巻く」に由来しています、渡詰めに南木戸がありました、栃木宿に到着です!

天正十九年(1591)
皆川広照栃木城を築き城下町を形成しましたが、慶長十四年(1609)皆川氏が没落すると廃城となり、以降は巴波川の舟運による市場町として発展し、大いに繁栄しました。
熊野神社 開明橋

 天保十四年(1843)の
日光例幣使道宿村大概帳によると家数は千三十軒、うち本陣一、問屋一、旅籠七軒、人数は三千九百九十九人で、宿長は八町五十四間(約971m)でした。

 宿並を進むと室町交差点が逆Y字路になっています、楡木方面からは左に進みます。

一本目を右に入ると正面に
定願寺があります、皆川広照が川連の阿弥陀堂を移し定願寺としました。御成門不動堂、平等庵のは栃木市文化財です、不動堂の扉には富田宿の磯部儀兵衛の手による透かし彫りが施されています。

宿並み戻り、文化会館交差点を過ぎると右手に三棟の
見世蔵があります、国登録有形文化財です。
定願寺(じょうがんじ) 見世蔵三棟

 スグの倭町交差点の右が高札場跡です、今は栃木町道路元標(白色□囲い)があります。

この倭町交差点を左に入ると、右手に
雅秀(がしゅう)店舗があります、明治時代後期築の見世蔵(国登録有形文化財)で、外壁は黒漆喰塗、二階窓には観音扉を備え、高い棟積、大柄な影盛など豪壮な構えです。

スグ先が巴波川の
栃木河岸跡です、幸来橋(こうらいばし)には西木戸がありました。

左手の東岸には弘化年間(1844~7)創業の材木問屋であった豪商
塚田家があります。
高札場跡 雅秀店舗 栃木河岸跡

 建物は国登録有形文化財で
塚田歴史伝説館として公開されています。

 栃木河岸跡から戻る際、雅秀店舗のスグ先を左に入ると栃木宿本陣を勤めた長谷川家住宅があります、宿並から巴波川べりまでが敷地でした。

例幣使は例年四月十三日、長谷川本陣にて昼餉を摂るのが常でした。

宿並に戻り先に進むと右手の見世蔵の先に
縣社神明宮社標があります、この参道口の向いには蔵の街観光館があります、荒物麻苧(あさお)問屋を営んだ田村家の見世蔵でした。

神明宮は応永十年(1403)の創建で栃木の総鎮守です、天照大神を祀りお伊勢様と呼ばれています。
栃木宿本陣跡 蔵の街観光館 神明宮

 本殿屋根の二本の
千木(ちぎ)と八本の鰹木(かつおぎ)を合わせると、十本になるところから十千木(とちぎ)といわれ、これが栃木の地名由来になっています。

 宿並に戻ると左手のとちぎ山車会館の並びに三棟のおたすけ蔵があります、米穀商や質商を営んだ豪商善野家が窮民救済のために建築した土蔵です、現在はとちぎ蔵の街美術館になっています。

宿並に戻ると右手に
かな半旅館があります、安永年間(1772~81)創業の商人宿でした、現業です。

並びに
山本有三ふるさと記念館があります、栃木市出身で小説路傍の石で知られる文豪です。
おたすけ蔵 かな半旅館 山本有三記念館

 先の信号交差点を右に入ると近龍寺(きんりゅうじ)があります、応永二十八年(1421)の創建です。

墓地には
山本有三墓碑「動くもの砕けるものの中に動かないもの砕けないものが大きくからだに伝わってくる」があります。

元治元年(1864)、尊皇攘夷を旗印に
水戸天狗勢筑波山で挙兵しました。

一行は
日光を占拠し、諸藩の尊王攘夷の志士に決起を促すため筑波山を下山し、途中定願寺を本営とし、近龍寺を宿所としました、 この中に農民や博徒を従えた田中愿蔵(げんぞう)がいました。

愿蔵は若く粗暴な振る舞いが目に余り、幹部から疎んじられていました。
近龍寺 山本有三墓碑

 愿蔵は多額な
軍資金を上納すれば存在が顕示できると盲信し、目に付けたのが栃木宿でした。

栃木宿は巴波川の舟運で栄えた商都です、愿蔵は宿並みにを積み上げ、を注ぎ、軍資金三万両の供与を商人達に強要しましたが、返答の引き伸ばしに業を煮やし、ついに火を放し、二百三十七戸を焼失させました。

後に
愿蔵は捕縛され斬首されました。

 宿並に戻って進むと右手に下野新聞社栃木支店があります、豪商栃木の毛惣といわれた肥料商毛塚惣八の見世蔵です(国登録有形文化財)。

先の
万町交番前交差点を左折します、この辺りに栃木宿の北木戸がありました。

一本目右手の
V字路を左の嘉右衛門町通りに入ります、この分岐点の右手には日光例幣使街道標石があります。

左手には昭和七年(1932)築の
舘野家住宅(国登録有形文化財)があります。
毛惣見世蔵 北木戸跡 泉町分岐 街道標石

 先をS字状に進むと右手に代官屋敷岡田家記念館があります、岡田家は代々嘉右衛門を襲名し、嘉右衛門新田を開発し、名主を勤めました。

並びに
畠山陣屋跡があります、岡田家が知行五千石の旗本畠山氏の代官職を勤め知行地十一ケ村を治めました。

水戸天狗勢の
田中愿蔵はこの畠山陣屋を通して商人達に軍用金の徴用を強要しました。

次いで右手に
神明神社があります、岡田家が嘉右衛門新田に勧請し鎮座させました。
代官屋敷岡田家 畠山陣屋跡 神明神社

 わずかに進むと左手に妙唱寺の参道口があります、蟇股(かえるまた)の大黒天で親しまれる日蓮宗の古寺です、毎年十月の御会式(おえしき)は多くの人で賑わいます、本堂の曼荼羅一橋公の寄進といわれます。

スグ先の変則Y字路に寛政十二年(1800)建立の
庚申塔道標「左三ケ月道 右おざく道日光道」があります、右に進みます。

次いで左手に
油屋傳兵衛があります、創業天明年間(1781~89)の元油商です、建物は明治十年代の築(国登録有形文化財)です。

幕末に
味噌醸造を始めました。
庚申塔 油屋傳兵衛 田楽あぶでん

 今は名物
田楽あぶでんを商っています、写真は田楽あぶでんのコンニャク里芋豆腐の盛り合わせ(500円)です!

 例幣使通り交差点を渡り、直進します、左手には八幡宮が鎮座しています。

先に進むと右手に
大島肥料店店舗があります、明治十五年(1882)築の見世蔵(国登録有形文化財)です。

先の十字路を右に入ると
大杉神社が鎮座しています、慶長年間(1596~615)天海僧正が常陸國阿波の今宮大杉大神の分霊を勧請しました。

街道に戻って進むと左手の大町郵便局前に
Y字路があります、右に進みます。
大島肥料店店舗 大町Y字路 追分道標

 この分岐点には新設の
例幣使街道道標「←足尾道 日光道→ 」があります。

 県道309号栃木環状線を横断すると、スグの左手に一乗院があります、天保七年(1836)の開山で、本堂に勝軍厄除清正公像を安置しています、境内には枝垂れ桜があります。

先の
平柳町1丁目交差点にて県道3号宇都宮亀和田栃木線に合流します、楡木方面からは斜め右に進みます。

先で左右いずれかの
側道に入り(白色矢印)、東武日光線跨線橋にて横断します(白色矢印)。

先で再び
県道3号線に合流すると、左手のひるた仏具店の駐車場内に軍馬霊碑があります。
一乗院 側道分岐 東武日光線跨線橋

 
楡木方面からはひるた仏具店先の左右いずれかの側道に入ります。

街道右側の二ケ所に
馬力神が祀られています。

 PM3:15 合戦場宿着 金崎宿まで7.2km

 合戦場交差点が合戦場宿の起点です、到着です!

合戦場の地名は大永三年(1523)宇都宮忠綱軍と栃木城主皆川宗成軍がこの地で激突し、皆川方が勝利を収めた河原田合戦に由来しています。

合戦場宿は天保十四年(1843)の日光例幣使道宿村大概帳によると家数は百五軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠二十五軒、人数は四百四十四人で宿長は六町二十三間(約696m)でした。

左手の合戦場郵便局前には
日光例幣使街道合戦場宿碑があります。

郵便局の斜向いに
小平浪平生家があります、日立製作所の創業者です。

その斜向いが
合戦場宿脇本陣跡です、若林家が勤めました。
小平浪平生家 脇本陣跡

 脇本陣の脇に入ると火の見ヤグラの脇に傍示杭「従是南関宿領」が保存されています、明和三年(1766)合戦場宿は関宿領となり傍示杭が宿の南北に設置されました、その内の一基です。

スグ先の左手旧合戦場公民館に
合戦場不動尊が併設されています、敷地内には弘化四年(1847)建立の十九夜供養塔等があります。

宿並に戻ると脇本陣の向いが
本陣跡です、秋田家が勤め、建坪は八十四坪でした、ここには高札場がありました。
傍示杭 合戦場不動尊 本陣跡 庚申塔

 先に進むと合戦場小学校の向いに
庚申塔と先祖供養の大先祖中島霊神碑があります。

 合戦場小西交差点を越して先に進むと左手に地蔵堂があります、六基(一石六地蔵)子育延命地蔵尊石祠二十三夜塔が安置されています。

わずかに進むと、右手の植栽の中に
馬頭観世音があります、その斜向いのブロック塀脇にも馬頭観世音があります。

先に進むと右手に
升塚(町指定史跡第1号)案内標識があります、この小路に踏み込むと右手に升塚があります、川原田合戦後、皆川成勝が戦死者を弔う方形三段の塚を築きました。

塚脇には
薬師堂、普門院地蔵堂があります。
地蔵堂 馬頭観音 升塚

 
普門院は明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。

 街道に戻って進むと右側に大谷石の蔵が四ケ所続けてあります。

升塚交差点を越すと右手に
下新田標識があります、ここを斜め右の下新田旧道に入ります。

下新田旧道北口手前の右手に朱塗りの
地蔵堂があります、延命地蔵尊を安置しています、境内には女人講中が建立した十九夜搭石仏石塔群があります。

十九夜信仰は旧暦十九日の夜に女達が集まり、飲食を共にし経を唱えて月を拝み、悪霊を追い払う宗教行事であり、娯楽でもありました。
下新田旧道南口 地蔵堂 石仏石塔

 下新田旧道はスグ先で
県道3号線に合流します、楡木方面からは斜め左に入ります、この分岐点には下新田標識があります。

 コメリを過ぎ、先に進むと左手のそば各種定食船正向かいの墓地隅の覆屋内に陽刻の地蔵立像が安置されています。

家中交差点を過ぎ、次いで家中駅入口交差点を越すと、左手の墓地隅に
庚申塔、女人講中が建立した十九夜供養塔百万遍供養塔等があります。

橋本南交差点を越し、先の橋本北交差点の手前に
桑原用水が流れています。

家中村は用水の便が悪く畑作のみでした、安政二年(1855)壬生藩士桑原雄介が陣頭指揮をとり、文久二年(1862)思川から取水する用水掘を開削しました。
石塔群 桑原用水

 北関東自動車道高架をくぐり、先に進むと左手のコスモ石油の手前に猿田彦神社参道口の神明鳥居があります、社殿は天明六年(1786)の再建です。

猿田彦大神は天孫降臨の際、高天原の神々を地上へ案内したところから道開きの神道中安全の神として篤く信仰されています、境内には良仙院跡の元文四年(1739)建立の宝筺印塔があります。

上新田交差点を越し、上新田交差点バス停を過ぎると左手に
地蔵堂、女人講中による嘉永二年(1849)、明治二十四年(1891)、昭和九年(1934)建立の十九夜搭等があります。

コンビニ先の信号交差点を右に入ると
水神社が鎮座しています。
猿田彦神社 石仏石塔群

 境内には
桑原用水梗概(こうがい)があります、桑原用水開削の賦役は農民にとっては苦役でした、竣工の翌年に村方騒動が起きました。

 陽が沈みます、黒澤明監督が映画撮影中、沈む夕陽に向って「待て!」といったそうですが、正にそんな心境です。 

都賀町(つがまち)から西方町(にしかたまち)に入ると右手に豊年神社が鎮座しています、この地は思川の水害に悩まされ、文化十年(1813)安全と豊作を祈願し、豊年神社が創建されました。

栃木消防署西方分署先の左手に
重要文化財鉄造薬師如来坐像入口寺標があります、薬師堂は東武日光線を越えた先にあります。

薬師堂内に建治三年(1277)鋳造の
天明鋳物薬師如来坐像が安置されています、境内には石造薬師如来坐像十九夜塔、元文五年(1740)造立の青面金剛像庚申塔等があります。
沈む夕陽 豊年神社 薬師堂寺標

 金井北バス停の並びに琴平神社が鎮座しています。

文化十二年(1815)に
讃岐金毘羅大権現を勧請し、和久井村の鎮守としました。

境内には天保十年(1839)建立の
常夜燈、文化十四年(1817)建立の白雲山碑、昭和十二年(1937)建立の勝善神庚申塔があります。

街道をモクモクと歩き信号交差点を越し、木の宮東公民館入口バス停を過ぎると目の前が金崎宿です。
金刀比羅神社 境内石塔

 PM5:20 金崎宿着 楡木宿まで4.9km

 東武日光線東武金崎駅入口の信号交差点が金崎宿の起点です、金崎宿に到着です!

金崎宿は「此宿両側家並にて、其余は田畑、山林等、此宿市立なし」といわれ、平凡な宿と評されています。

天保十四年(1843)の
日光例幣使道宿村大概帳によると宿内戸数は八十六軒、うち本陣一、問屋一、旅籠十二軒(大五、中二、小五)、人数は三百八十人で、宿長は五町三十間(約600m)でした。

金崎交差点を左に入ると
千手院があります、慶長年間(1596~1615)の創建で、愛宕神社の別当寺でした、境内には観音像十九夜塔庚申塔六地蔵等があります。
金崎宿本陣跡

 宿並に戻って先に進むと左手に
金崎宿本陣跡があります、古澤家が勤め、本陣門を残しています。

 金崎宿の北外れの藤田商店前を斜め右(白色矢印)に進みます、現在分岐点の宮崎商店は廃業し更地になっています、楡木方面からは左折になります。

旧道は
小倉橋の西詰めに出ます、突当りの国道293号線を右折し、思川小倉橋にて渡ります、楡木方面からは斜め左に入ります。

思川は
足尾山地地蔵岳に源を発し、流末は姿川に落合います、流れは栃木市鹿沼市の境です。

五~八月は
徒歩渡り、九~翌年四月迄は仮土橋が架橋されました。
金崎宿北分岐 小倉橋渡詰め分岐 土手道

 小倉橋渡詰めの
小倉橋東交差点を横断(白色矢印)し、わずかに戻り、車止めのある土手の土道に入ります(白色矢印)、楡木方面からは小倉橋東交差点を横断し、右折して小倉橋を渡ります。

旧道には外灯は無く、不気味な暗さを増してきました、先を急ぎましょう!

旧道は再び車止めの所から
国道293号線に合流します、楡木方面からは斜め右に入ります、この分岐点にはかぬま観光案内図があります。

 街道を進むと右手に稲荷鳥居の磐裂根裂(いわさくねさく)神社が鎮座しています、磐(岩)を裂き、根を裂く開墾農耕の守護神を祀っています、亀和田村の鎮守です、例幣使は参拝を常とし、幣帛を奉納しました。

街道沿いには多数の
十九夜塔、宝暦二年(1752)造立の青面金剛像庚申塔、同十年(1760)建立の念仏供養塔等があります。

街道は
真っ暗です、大部肌寒くなってきました、モクモクと歩くと、左手の電波塔先の右手に磯山神社社標があります遥拝のみです、詳細は日光壬生通り編に譲りましょう。

磯山交差点右手の祠内に
安産地蔵尊が安置さています、祠前には寛政十年(1798)建立の二十三夜塔があります。
磐裂根裂神社 十九夜塔

 東北自動車道ガードをくぐった先右手の民家前に
馬力神が祀られています。

次いで右手の大塚建築の敷地際に
馬頭観世音があります。

 PM6:17 楡木追分着

 右手のコマツ営業所を過ぎると二ツ目の日光壬生通りとの合流標識が浮き上がってきます、カウントダウンの開始です。

そして
楡木追分に到着です!感動です!!これが街道ウォークの醍醐味です!!! 

追分交差点が
日光例幣使道の終点です、そして日光壬生通りとの追分です。

この
楡木追分には貞享五年(1688)建立の追分道標「右中山道 左江戸道」(日光壬生通り編参照)があります。
楡木追分近し 楡木追分

 楡木交差点スグ先の左手でんきのキムラの角が東武日光線楡木駅への入口です。

駅に直行です、
無人駅です、売店なんて無い、近所に酒屋も無い、諦めましょう。

栗橋駅
でようやく調達、これも街道ウォークの醍醐味です、そしてついてます湘南新宿ラインに乗車できました。

乾杯、
日光例幣使道!良い街道です!!次は姫街道ー!!!
楡木駅入口 祝杯



前 倉賀野 ~ 八木