道中日記  12-153 姫街道 ( 気賀 - 御油追分 ) 34.7km

 天竜浜名湖鉄道線三ケ日駅発、気賀駅行きの始発はAM6:28です、それまでに腹ごしらえです。

三ケ日駅近くのセブンイレブンで
カップてんぷら蕎麦納豆巻きを仕入れ、駅待合室で食しました。

結構美味いし、体が温まります、ウーッまだ時間がある、又、セブンイレブンに戻りドリップ式の
コーヒーを仕込みました、これまたおいしい。


車中ではペットボトルのお茶を飲みながら、朝の
猪鼻湖そして奥浜名湖の景を堪能しました。

本日は名うての二ケ所が控える難所(楽しい)ウォークです、それでは出立です。

 AM6:55 気賀宿出立 三ケ日宿まで11.3km

 気賀宿は南の浜名湖、東の井伊谷川都田川に挟まれた要害の地で、宿の東端に気賀関所が置かれました。

天保十四年(1843)の
本坂通宿村大概帳によると気賀宿の宿内家数は百十一軒、うち本陣一、旅籠八軒で宿内人口は四百六十六人でした。

出発点の気賀四ツ角交差点に
史蹟氣賀關趾標石と並びに気賀関屋解説があります。

一軒先の右手小路口に
気賀関所跡案内標識があります、この小路に踏み込むと本番所の一部(下ノ間、勝手)を残しています(堀江町指定文化財)、関所には冠木門本番所向番所がありました。
気賀関所跡 気賀関所案内 気賀関所跡

 
気賀関所は慶長六年(1601)に設置され、「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。

 気賀四ツ角交差点の左(西)に要害堀があります、関所防備の堀です、関所の周囲には矢来が廻らされ、西には要害堀が設けられました。

更に進むと要害堀沿いに
赤池様公園があります、明応七年(1498)の明応大地震による津波で、新居の角避比古(つのさくひこ)神社が流され、御神体赤池の里に流れ着きました。

この御神体は
細江神社に移され牛頭天王として祀られ、祇園祭には神輿に乗った御神体がこの赤池に巡幸し、神事が行われます。

宿並に戻ると右手奥に
気賀小学校があります。
要害堀 赤池様公園 江戸椎

 付近一帯は三千五百石余りの旗本
気賀近藤家陣屋跡で庭木の江戸椎(しい)を残しています(細江町指定天然記念物)、気賀近藤家は気賀の領主及び気賀関所の管理を勤めました。

 宿並に戻って先に進むと右手に細江神社が鎮座しています、宿並には浄水井之跡標石があります。

細江神社は赤池の里に流れ着いた角避比古神社の
御神体を永正八年(1511)牛頭天王として祀り、明治元年(1868)細江神社と改称しました。

境内社の
藺草神社は藺草(いぐさ)の栽培を奨励した近藤縫殿助用随(もちゆき)を祭っています、境内のクスノキ七本は細江町指定天然記念物です。

細江神社の裏手に
犬くぐり道があります、里人であっても気賀関所を通行するには通行手形が必要で、大変不便でした。
細江神社 浄水井之跡 犬くぐり道

 そこで
犬くぐりと呼ばれる抜け道が作られ、犬が通る道として黙認され、人は立ったまま通ることが許されず、(むしろ)の下をくぐり抜けました。

この犬くぐり道の
東口は井伊谷川上流にあります、清水橋先の左手に嘉永二年(1849)造立の馬頭観音像があり、犬くぐり道解説「この辺りに出入口があったと言う」があります。

 細江神社の並びに東林寺があります、堀川城の戦いで焼失し、天正五年(1577)再興されました。

本陣の
御退場寺(本陣の控え)で、嘉永七年(1854)奥山方広寺より移築した山門(勅門)は細江町指定文化財です、墓地には気賀林の墓があります。

気賀駅北交差点を越すと右手のNTTが
気賀宿本陣跡です、代々中村与太夫が勤め、気賀町及び上町の庄屋を兼ねました、建坪九十坪で池を残しています。

スグ先左手の本陣前公園には正明寺裏手の犬くぐり道にあった寛政十二年(1800)造立の
馬頭観音像が移設されています。
東林寺 気賀宿本陣跡 馬頭観音

 本陣公園向いの奥に永禄三年(1560)創建の正明(しょうみょう)があります、本陣を勤めた中村家の菩提寺で御退場寺でした、御退場寺とは本陣が火事等の不測の事態になった時の待避所のことです。

山門は廃寺となった新屋の服部小平太の供養寺宗安寺より移築したものです。

宿並に戻り先に進むと左手に
西枡形があります、気賀宿の西口です。

石組みの上に
土塁を築き、矢来を組み、が設けられ、内側が枡形になっていました、この石組みの中に瓢箪(ひょうたん)形の石が組み込まれています。
正明寺 西枡形 瓢箪石

 現在は石組の上に安政四年(1857)建立の
秋葉常夜燈が設置されています。

 スグ先右手の呉石(くれいし)バス停脇の小路が犬くぐり道の西口です。

信号交差点の左手に
堀川城将士最期之地碑があります、永禄三年(1560)桶狭間の合戦で今川義元が討たれると、気賀の人々は徳川家康の侵攻に備え、今川氏の領内に堀川城を築きました。

永禄十二年(1569)二千人の男女が立て籠もる
堀川城家康軍に攻められ、あえなく落城、その際男女共なで斬りにあい、捕らえられた約七百名の人々も斬首され、その首をこの小川に沿った土手に晒したところから獄門畷と呼ばれました。

永遠に平和な
浄土を願い求める意の厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)を旗印にする家康にしては苛酷過ぎる仕置きです、これは多分に信長の意向なのでしょう。
犬くぐり道西口 獄門畷

 それにしても
服部小平太、これじゃ堪りませんね、この地の恨みを一身に浴びてしまいました。

もしかすると家康の計らいでしょうか、信長亡き後、今川義元を討った小平太を召抱え、当地に赴任させ、これを討たせることによって家康に対する敵対感情を鎮めたのかも知れません、なにせ狸爺ですから!

 先のY字路は右(白色矢印)に進みます、この分岐点には案内標識「長楽寺1.2km→」があります。

先に進むと右手に
活民院殿参道と刻まれた石柱があります、ここから上り坂(黄色矢印)を道なりに進むと覆屋内に姫地蔵が安置されています。

近藤家の
がこの地蔵に願掛けをし、皮膚のできものを治したところから姫地蔵と呼ばれるようになりました。

坂道を更に上ると
気賀近藤家墓所があります、この墓所は御所平と呼ばれ、気賀近藤家代々の領主が分骨されています、仁政を施した気賀近藤家六代目用随の墓石には法名の活民院殿が刻まれています。
暮石分岐 活民院殿参道 姫地蔵

 街道に戻って進むと右手の奥に全得寺があります、墓所には堀川城主新田喜斉(にったよしあき)の墓があります。

喜斉は落城の際に、城を抜け出し、金地院にしばらく身を潜め、後に御所平に居住しましたが、慶長十一年(1606)気賀代官石川半三郎に斬殺されました。

全得寺の並びに天文二十一年(1552)創建の
諏訪神社が鎮座しています、気賀の鎮守です、参道口には秋葉鞘堂と文政四年(1821)建立の巡礼碑「奉巡礼西国四国秩父坂東」があります。

先に進むと右手の坂上に
薬師堂があります。
全得寺 諏訪神社 薬師堂

 
石造薬師如来像を安置し、文化八年(1811)と弘化四年(1847)の棟木を残しています。

 街道は下り坂になり、長楽寺入口バス停先の右手に呉石田園公園があります、街道に面し気賀用随座像呉石學校の跡碑があり、奥に「奥浜名湖地域の藺草栽培」解説があります。

宝永四年(1707)の
津波により海水が浜名湖に入ると稲作が不可能になりました、そこで近藤家六代目用随は復興策として塩害に強い畳表の原料である藺草(いぐさ)の栽培を奨励し、遠州表と呼ばれ評判になりました。

長楽寺川に沿って右に約600m進むと
弘法大師の創建による真言宗の古刹長楽寺があります。

長楽寺川小深田橋にて渡ります。
呉石田園公園 金地院分岐 金地院道標

 アマノの先の
Y字路は右(白色矢印)に進みます、この分岐点には大正十二年(1923)建立の金地院(こんちいん)道標「是ヨリ金地院道五丁 左三ケ日往還」があります。

 先の右手に金地院口があります、この分岐点には自然石の道祖神南無妙法蓮華経題目碑があります。 

金地院には建武ニ年(1335)足利尊氏に対抗して挙兵した後醍醐天皇の皇子宗良(むねよし)親王の妃駿河姫の墓があります。

駿河姫井伊道政(彦根藩井伊家の祖)の娘で、延元三年(1338)親王が井伊谷より出陣すると、姫も親王を見送るためこの地まで来ましたが俄に病を患い急逝しました、近くの金地院で火葬に伏されました。

先の左手下に
二宮神社が鎮座しています、駿河姫が亡くなると宗良親王の御座所があった所に社殿を建立し、姫が持っていた鏡を祀って二宮神社としました、境内社の若宮神社は一子尹良(ゆきよし)親王を祭っています。
金地院口 二宮神社

 境内の
ホルトノキナギの大樹は細江町指定天然記念物です。

 小森川を渡ります、往時は長さ三間二尺(約6m)、幅二間半(約4.5m)の土橋が架橋されていました。

変則十字路を進み、二本目の左に
案内標識「←150m吾跡川楊(あとがわやなぎ)」があります。

ここから左(黄色矢印)に入り、突当りの国道362号線を左折し、小森橋手前から小森川に沿って進むと
吾跡川楊跡吾跡川楊万葉歌碑「霰(あられ)降り遠江の吾跡川楊刈りつともまた生ふとふ吾跡川楊」があります。

遠江国吾跡川のほとりに立つ柳が刈られても刈られてもまた新しい芽を出す。
小森川 吾跡川楊口 吾跡川楊歌碑

 同じように諦めよう諦めようとしても想いは募るばかりという意です。

この
(柳)の大木は伐採され京の三十三間堂棟木になったといいます。

 街道に戻り突当りのT字路を右折(白色矢印)します、御油方面からは左折になります、この分岐点には姫街道案内標識があります。

スグ先を斜め左の上り坂に入ります、
山田旧道東口です、この分岐点にも姫街道案内標識があります。

ミカン畑の中を進むと右手に
山村修理之墓があります。

堀川城将
山村修理は落城の際に舟で逃れ、ここで燃え落ちる堀川城を見ながら切腹したといいます。

その後、里人が霊を弔う為に松を植え、
修理殿松と呼びましたが、枯れてしまいました。
跡川分岐 山田旧道東口 山村修理之墓

 並びに堀川城戦死之碑石祠があります。

堀川城落合川(都田川)の河口に築かれ、満潮になると道が塞がれる干潟の中にありましたが、都田川の流路が変更になり正確な位置は不明です。

旧道が下りになると右手に
一里塚姫街道碑があります、山田の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて六十九里、安間より五里目です。

旧道は
下道に吸収(白色矢印)されます、御油方面からは斜め左の上り坂に入ります。

この分岐点には
姫街道案内標識があります。
堀川城戦死之碑 山田の一里塚跡 山田旧道西口

 スグ先の右手にダイダラボッチの足跡があります、琵琶湖を掘った土を運んで富士山を造ったという、伝説の巨人ダイダラボッチの足跡と伝えられる池です。

尉ケ峰(じょうがみね)に腰掛けて弁当を食べたとき、ご飯の中に入っていた小石を浜名湖に捨てたら、礫島(つぶてじま)が出来き、そして腰掛けた尉ケ峰は、少し低くなってしまったといいます。

次いで右手に
道祖神馬頭観音像があります。

この先から上り坂になります、グングン上ると左手に
小祠があります、中には石祠が二社祀られ、傍らに馬頭観音像があります。
ダイダラボッチの足跡 道祖神・馬頭観音 石祠

 坂道を更に上ると右手に清水みのる詩碑「尋ねようもない幾歳月の流れの中で姫街道は今も静かに息づいている」があります。

清水みのるは浜名郡伊佐見村生まれの昭和歌謡の作詞家です。

詩碑がある十字路の右(黄色矢印)は
尉ケ峰(標高443m)へ3.1kmの登山口です、左(黄色矢印)は天竜浜名湖線西気賀駅へ0.8kmの下り坂です。

坂を上り詰めると
浜名湖が一望になります、ここは小引佐(こいなさ)と呼ばれる景勝地です。
清水みのる詩碑 小引佐

 眼下には
引佐細江(浜名湖の入り江)が望めます。

 ここから斜め左(白色矢印)の下り坂に入ります、小引佐旧道東口です、この分岐点には姫街道案内標識があります。

旧道に入ると右手の覆屋内に
塞神が祀られています、賽の神は村境に祀られ、悪霊疫病が村内に入り込むのを見張っています。

塞神の並びに下地から移された
地蔵が安置されています、この地蔵は江戸時代末期、この付近で処刑されたきよぞうの霊を弔ったものといい伝わっています。

旧道には
石畳を残しています。
小引佐旧道東口 塞神 石畳

 みかん畑や竹林の中を抜け、道なりにグングン下ると下道に合流(白色矢印)します、御油方面からは斜め左の上り坂に入ります、この分岐点には姫街道案内標識があります。

先に進むと右手に天保六年(1835)に再建された
薬師堂があります、薬師如来坐像を安置しています、ここは引佐峠の麓にあたり、旅人の休憩所として利用されました。

薬師堂の並びには文化二年(1805)建立の
秋葉山常夜燈があります。

岩根川をコンクリート橋にて渡ります。
小引佐旧道西口 薬師堂・常夜燈 岩根川分岐

 往時は長さ三間(約5.45m)、幅一丈(約3.03m)の
土橋でした。

突当りを左折(白色矢印)します、
御油方面からは右折になります、この分岐点には姫街道案内標識があります。

 弧を描く上り坂を進み、突当りのT字路を右折(白色矢印)します、御油方面からは左折になります、この分岐点には姫街道案内標識があります。

上り坂を進み突当り左の
石畳道に入ります(白色矢印)、ここが引佐峠東口です。

御油方面からは右折になります、この分岐点には姫街道案内標識があります。

鬱蒼とした林の中の
石畳道をしばらく上ると左手の岩上に岩根地蔵が安置されています、峠越えの旅人の道中の安全を見守っています、この地蔵前には古い石畳を残しています。
岩根分岐 引佐峠東口 岩根地蔵

 引佐峠は文化庁
歴史の道百選に選定されています。

 岩根地蔵を過ぎると明るく開け、右手に八畳程の姫岩(平岩)があります、この岩に座ると良いことが起こるといわれています。

ここは
平石御休憩所と呼ばれ、参勤大名等の通行の際は気賀近藤家の家臣がここまで出向き、湯茶の接待を行いました。

(かまど)は道路拡張の際に取り壊されました。

姫岩の並びに東屋があります、往時はここから
浜名湖が一望の景勝地でしたが、今は樹木が繁茂し、わずかに見えるだけです。
姫岩(平岩) 東屋 姫岩からの景

 姫岩のスグ先で石畳道は細い舗装路のT字路に突き当たります、ここを左折(白色矢印)します、御油方面からは右折になります、この分岐点には姫街道案内標識があります。

この細い
舗装路はこの先、3ケ所のY字路分岐を通過します、いずれもに進みます。

各分岐点には
姫街道案内標識(白色□囲み)がありますので安心です、逆にいえば標識の無い分岐に進入してはいけません、要注意です!
姫岩分岐 ①Y字路分岐 ②Y字路分岐

 3ケ所の分岐を過ぎると眼下に浜名湖の景が広がります。

いつしか峠道は鬱蒼とした樹林の中の
古い石畳道になります。

この
古い石畳は昭和二十年代に地下ケーブルを埋設した際、一度掘り起こされた為です。

勾配が増してきた石畳道を進むと急に頭上が開け
石段が現れます、当然往時は直登でした。

胸突きな
石段を上ります。
③Y字路分岐 石畳 石段

 石段を上り詰め、7号支線農道を横断すると右手に東屋の休憩所があります。

再び鬱蒼とした石畳道を進むと
Y字路分岐があります、左(白色矢印)に進みます、右(黄色矢印)はオレンジロードを横断し、尉ケ峰登山口です。

スグ先が
引佐(いなさ)です、標柱「引佐峠姫街道」があります、引佐峠は標高200mで本坂峠に次ぐ難所でした。

本坂通宿村大概帳には「眺望絶妙之風景、本坂越之景地なり」と記されていますが、今は雑木が繁り、眺望は望めません。
7号支線農道横断 Y字路分岐 引佐峠

 サア、ここからは土道の下り坂です、要所々に姫街道案内標識が配置されていますので安心です。

少し急坂を下ると
象鳴き坂があります、享保十四年(1729)清国商人が広南国(ベトナム)の牝象を朝廷に献上し、京で中御門天皇が天覧後、徳川八代将軍吉宗にお目見えのため、江戸へと下りました。

船による
今切の渡しを避けて、姫街道を通行した象は引佐峠の急坂に悲鳴をあげたところから、村人はここを象鳴き坂と名付けました。

気賀村の
庄屋が引佐峠で象を出迎え、気賀本陣の西に設けた像小屋に泊め、翌日浜松に送り届けました。
姫街道道標 象鳴き坂 象鳴き坂解説

  このは海を渡り長崎に上陸し、江戸までの三百五十四里を七十四日で踏破しました。

 峠道が土道から石畳風舗装路に変わると左手に石投げ岩があります、旅人がこの岩に石を投げ、乗ると無事に峠越えが出来るといわれました。

木立の中の旧道はやがて
三ケ日ミカンが実る畑に出ます。

次いで
逆Y字路があります、御油方面からは左に進みます、 ここにも姫街道案内標識がありますが、草木に埋もれています、ご注意下さい!

先に進むと
旧姫街道一里塚址碑があります。
石投げ岩 逆Y字路分岐 大谷の一里塚跡

 
大谷(おおや)の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて七十里、安間より六里目です。

  先に進むと右手の民家の植栽の中に大谷(おおや)の茶屋跡解説があります、参勤大名を接待し、一般の旅人も休息しました。

峠道を下り、突当りの白い
三ケ日建築作業所前の逆Y字路を左折します、御油方面からはY字路右の上り坂を進みます、案内表識はありません。。

峠道を下り切ると左手の
黒坂橋手前に六部様(修行僧円心の墓)があります。

明和四年(1767)十二月二十九日、大谷村と都筑村の境で行き倒れになった六部の
忠道円心を祀っています。
逆Y字路分岐 大谷の茶屋跡 六部様

 背負っていた厨子と中の仏像は大谷の
高栖寺(こうせいじ)に子授観音として祀られています。

 黒坂橋を左に見て引佐川沿いに進みます。

突当りの
県道308号鳳来三ケ日線を左折(白色矢印)します、御油方面からは右折になります、この分岐点には姫街道案内標識があります。

都筑大谷川(つづきおおやがわ)を大谷橋にて渡ります、都筑大谷川は三ケ日町大谷字地領に源を発し、流末は猪鼻湖に注ぎます。 

大谷橋渡詰めの右手に
大谷代官屋敷跡があります、寛永六年(1629)大野頼忠は江戸詰の領主大谷近藤家に代わって領内を支配しました。

古井戸、門前の山本川に架けた橋の礎石が残されています。
T字路分岐 大谷代官屋敷跡

 代官屋敷跡左の横道に入ると左手のミカン畑に旗本近藤家陣屋跡解説があります。

寛永元年(1624)
気賀近藤家から分家し、大谷、三ケ日北部、内野に三千石の知行地を持った旗本大谷近藤家の陣屋跡です、天保十三年(1842)陣屋は内野に移転しました。

街道に戻って進むと右手の段上に
安形伊賀屋敷跡解説があります、戦国時代、佐久城主浜名氏の重臣安形(あんがた)伊賀守馬正道が居住し、永禄十二年(1569)佐久城徳川家康の攻めにより落城すると、主君と共に安形氏も滅亡しました。
大谷近藤陣屋跡 安形伊賀屋敷跡 駒場分岐

 突当りのY字路を右(白色矢印)に進みます、この分岐点には
姫街道案内標識があります。

 先に進むと右手に慈眼寺庚申堂があります、堂内には青面金剛像が安置され、十三年に一度庚申(申年)の大祭が行われます。

堂内の
格天井には弘化四年(1847)に描かれた内陣三十六枚、外陣六十枚の美しい花鳥画があります。

それにしてもこの
御堂は印象的です、まるで黒澤明監督の時代劇映画椿三十郎の冒頭シーンに出てくる御堂みたいです。

御堂の中で
青年武士(加山雄三)城代家老の不正を暴く謀議をしていると、寝ていた椿三十郎(三船敏郎)が「お前たちのやることは見ちゃいられねえ」という、例のシーンです。

境内には文化二年(1805)建立の
秋葉山常夜燈があります。
慈眼寺庚申堂 庚申堂天井絵

 今でも町内の方が毎夕
燈明をあげています。

 先に進むと街道は東名高速道路に突当ります(白色矢印)、この先の旧道は東名高速道路の敷設で消滅しました、ここからは迂回路(黄色矢印)になります、この分岐点には姫街道案内標識があります。

東名高速道路沿いを進み、突当りを左折(黄色矢印)して、
三ケ日2隧道にて東名高速道路をくぐります、この分岐点にも姫街道案内標識があります。

右手の
野時川に沿って進み、馬渡橋にて渡ります、橋手前の左手にY字路があります、右が御殿道です。

徳川家康は攻め落とした佐久城に替えて野地城を築きました、徳川三代将軍家光は寛永三年(1626)御茶屋御殿(野地城御殿)を造営し、寛永十一年(1654)上洛の際、往路復路共に休息所としました。
東名高速分断 三ケ日2隧道

 Y字路の左は東名高速の敷設で分断された
旧道です、ここから街道が復活します。

 姫街道案内標識がある十字路を横断すると街道はミカン畑の中の細道になります。

先に進むと
Y字路が現れます、左が旧道です、東名高速道路を斜めに横切り、大里峠旧道に通じていましたが通行不能です。

Y字路右の迂回路を進み、東名高速道路を
三ケ日06隧道にてくぐり、左に円を描いて回り込み、東名高速道路に沿って進みます。

先に進むと右手に
大里(おおり)解説があります、脇に旧道痕跡を残しています、東名高速道を斜めに横切った旧道はここに繋がり、先でUターンして再び東名高速道路を横切っていました。

往時、
大里峠は小さな難所といわれていました。
ミカン畑 大里峠

 雨が降ると峠道は川のようになり、難渋したところから
わる坂と呼ばれました。

 先で東名高速道路を大里橋にて跨ぎます。

突当りを斜め右に進みます、この辺りに
大里峠を経由した旧道が繫がっていました。

ミカン畑の中を道なりに進み、
宇志川抱松橋にて渡り、姫街道案内標識がある十字路を越すと宇志(うし)に入ります。

先の変則十字路の左手に宇志の
茶屋跡解説があります、参勤大名通行の際には接待を行い、一般の旅人も休息しました。

この十字路を右に入ると
片山竹茂の墓があります。
大里橋 抱松橋 旧宇志村茶屋跡

 文化十年(1813)三十三人の弟子によって建立された墓碑には
辞世句「迚(とて)もゆくこころせはしや雪の山」が刻まれています、竹茂(ちくも)は宇志八幡宮の宮司で俳諧の師匠でした。

 スグ先の左手に高札場跡解説があります、宇志村の中で一番賑やかな所でした。

先で下り坂になり下道に合流(白色矢印)します、
御油方面からは斜め左の上り坂に入ります、この分岐点には姫街道案内標識があります。

下道をしばらく進むと
分岐標識「↑三ケ日市街/→三ケ日スカイライン奥山方面」があります。

先の浜松市消防団三ケ日第一分団
火の見ヤグラ前のY字路を左(白色矢印)に進みます。
下道合流 三ケ日分岐

 AM10:00 三ケ日宿着 嵩山宿まで7.8km

 火の見ヤグラの足元に一里塚跡碑があります、三ケ日の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて七十一里、安間より七里目です。 

この辺りが三ケ日宿の東口です、到着です! 

三ケ日宿は難所本坂峠を控え「いやになります三ケ日泊り一夜明くれば本坂峠」と詠われ賑わいました。

天保十四年(1843)の
本坂通宿村大概帳によれば三ケ日宿の宿内家数は九十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠四軒で、宿内人口は四百六十七人でした。

昨夜お世話になった
萬屋旅館を越します。
三ケ日の一里塚跡 三ケ日宿伝馬問屋跡

 十字路手前の右手
石川接骨院前に三ケ日宿伝馬問屋場跡解説があります、石川家が勤め、幕末の画家石川晶斎(しょうさい)は同家の生まれです。

 昨晩お世話になった左手の日野屋酒店を過ぎ、三ケ日四辻と呼ばれる信号交差点を越すと右手に嘉永三年(1850)創業の旧清水屋呉服店があります。

この旧呉服店の右隣りが
三ケ日宿脇本陣跡です、石川家が勤めました。

旧呉服店向いの
岡田医院前に三ケ日宿本陣跡解説があります。

小池家が代々八左衛門を襲名し、幕末明治維新まで本陣職を勤めました、建坪はおよそ九十五坪、門構、玄関付でした。
旧清水屋呉服店 三ケ日宿本陣跡

 享保三年(1718)徳川八代将軍吉宗の生母
浄円院が泊まり、文化ニ年(1805)伊能忠敬が測量旅の際に宿泊し、浜名湖測量日誌に「家作よし酒造をなす」と書き残しています。

 先の信号交差点の手前を右に入ると、右手の擁壁上に殿畑(とのばた)遺跡解説があります、縄文後期から弥生前期の遺跡です、昭和三十五年(1960)の耕地整理事業で土器、石器(石鏃、石斧、石剣)等が出土しました。

釣橋川釣橋川橋にて渡り、スグの宇利山川宇利山川橋にて渡ります、宇利山川は橋先で釣橋川に吸収され、流末は猪鼻湖に注ぎます。

参勤通行の際には
仮橋が架橋され、大谷代官大野氏が送迎を行いました。

旧三ケ日高校沿いに
Y字路分岐があります。
殿畑遺跡 釣橋川 旧三ケ日高前分岐

 左(白色矢印)に進みます、この分岐点には
姫街道案内標識があります。

 右手の火の見ヤグラを過ぎると右手の段上に秋葉鞘堂があります、 鞘堂は明治十四年(1881)の建立で、納められている秋葉山常夜燈は大正五年(1916)の建立です。

先で突当りの
国道362号線を右折します、御油方面からは斜め左に入ります、この分岐点には姫街道案内標識があります。

二ケ所目の横断歩道路面標識の手前を右に入り、上り坂を進むと右手の墓地内に
山論犠牲者供養塔があります、、寛永十九年(1642)日比沢村本坂村の二ケ村は三ケ日村が入会地に不法侵入したとして江戸奉行所に直訴しました。
秋葉鞘堂 国道合流 山論犠牲者供養塔

 全面勝訴となりましたが両村の
庄屋と家族の男子計七名が打首になりました。

 街道に戻って先に進むと右手の日比沢集落センター敷地の街道沿いに秋葉鞘堂があります、木製の秋葉山常夜燈が納められています。

日比沢集落センターには火の見ヤグラがあります。

日比沢集落センターの一本先右手の
カーブミラーがある細い横道を上ると左手のブロック造りの祠内に阿弥陀如来座像が安置されています、イボ取りにご利益があるといいます。

街道に戻り先に進むと左手に日比沢村の庄屋
鈴木家長屋門があります、山論により庄屋の鈴木作之治は処刑されました。
秋葉鞘堂 阿弥陀如来像 鈴木家長屋門

 日比沢村から華蔵寺村に入ると右手に華蔵寺があります。

鎌倉時代初期造立の
釈迦如来像や室町時代造立の大日如来像阿弥陀如来像を安置する古刹です、境内には仏を浮き彫りにした本坂道道標が保存されています。

慶長年間(1596~615)時の住職が
大日如来から啓示を受け、調合した産前産後の血の道の妙薬が評判でした。

先に進むと左手に
板築(ほうづき)駅跡解説があります。

この地に古代の
板築駅がありました、天長十年(833)の大地震で東海道の猪鼻駅が崩壊し、承知十年(843)東海道が普及する間の十一年間この地に官道駅が仮設されました。
華蔵寺 板築駅跡

 承知九年(842)橘逸勢(はやなり)は嵯峨天皇崩御に際し、皇太子恒貞親王を奉じて乱を起す謀反を計画したが露見し、皇太子は廃され(承知の変)、逸勢は伊豆流罪となり、護送中この板築駅で病没しました、逸勢は最澄空海と入唐した秀才で、日本三筆の一人(空海、嵯峨天皇)です。

板築駅跡解説のスグ先右手に
古道(ふるみち)と呼ばれる旧道が残されています、板築駅が急拠造られたため、街道の付け替えが行われました。

3枚に分かれた
事故多しスピード落とせ!標識先を斜め右に入ります、左にカーブする坂道を上り、ガードレールの切れ目から左手の砂利道に入ります、この分岐点には電柱とカーブミラーがあります。

先のY字路を左手
木立の土道に入り、坂を下り国道に合流します、御油方面からは浜名プラスチック工場先の左手ガードレール坂道に入ります。
板築古道

 東山川森川橋にて渡ります。

スグ先斜め右の細い上り坂に入ります、この分岐点には
姫街道案内標識があります。

突当りに
一里塚碑があります、本坂の一里塚北塚が現存し、南塚が復元されています。

江戸日本橋より数えて七十二里、安間より八里目です。

北塚脇の祠には六体の
馬頭観音像が安置されています、中央の大きな馬頭観音像は文久三年(1863)の造立です。
一里塚旧道口 本坂の一里塚 馬頭観音

 一里塚跡碑の前を左折し、細い坂を下り国道に合流します、
御油方面からは右手の相互段ボールの左手ガードレール坂道を上ります。

 国道を進み右手の気抜き屋根を備えた黒板の旧家先を斜め左に下ります、この分岐点には姫街道案内標識「←本坂一里塚/本坂関所跡→」があります。

旧本坂村旧道を進むと右手に
本坂関所跡解説があります、戦国時代、関所が設置され地頭の後藤氏が関守を勤め、慶長五年(1600)江戸幕府は新居関所と共に、本坂関所を整備し、元和五年(1619)関守は気賀近藤家が引き継ぎました。

寛永元年(1624)
気賀関所の設置に伴い本坂関所は廃止されました。

先を右折し国道を横断すると
橘逸勢神社があります。
本坂村東口 本坂関所跡 橘逸勢神社

 
橘逸勢を祭っています、 逸勢を護送する役人に咎められながらも、付き添って来た逸勢のは死去した父をここに葬り、墓の近くに草庵を結び、となって父の菩提を弔い続けました、後に父の罪は許され従四位下の官位が贈位され、娘は父の遺骨を京に持ち帰りました。

境内には娘の孝行を讃えた
旌孝碑(せいこうひ)や筆塚があります。

 本坂村は三ケ日宿と嵩山宿の中間に位置する間の宿で姫街道の難所本坂峠を控え大いに賑わいました。

旧道に戻って進むと右手に文化四年(1807)建立の
秋葉鞘堂があります、右隣の石積は高札場の土台跡です。

向かいを左に進むと
茶屋本陣陣跡があります、梅藤清左衛門が勤め、庄屋を兼ねました、堂々とした長屋門があるところから門屋と呼ばれ参勤大名等が休息しました。

村外れの
Y字路を右(白色矢印)に進みます。
秋葉鞘堂・高札場跡 茶屋本陣跡 本坂村西口

 この分岐点には
姫街道案内標識があります。

 国道を横断し斜め右に入ります、踏み込むと右手に姫街道案内標識があります。

御油方面からは国道を横断し、斜め右の下り坂に入ります。

半円を描くように進むと右手に
大師堂があります、二体の弘法大師像が安置されています、本坂峠越えの安全を見守っています。

先に進み一旦
国道に合流します、御油方面からは斜め左に入ります。

この分岐点には車止めが設置されています 
大師堂旧道東口 大師堂 大師堂旧道西口

 スグの擁壁上の上り坂に入ります、ここが難所本坂峠の東口です、この分岐点には姫街道案内標識があります。

峠道は
石畳になります、この石畳は埋設した電話ケーブルを押さえる為に近年敷設されたものです。

先で
旧国道を斜め左に横断し、向いの峠道に入ります、姫街道道標があります。

左手に
鏡岩が現れます、石英の断層で高さ4m、幅10mの平岩です、旅の女性がこれを鏡にして身づくろいをしました。
本坂峠東口 石畳道 旧国道の横断 鏡岩

 上り詰めると旧国道に突き当たります、一旦合流し左に進みます、この分岐点には姫街道道標「↑本坂峠15分/↓鏡岩10分」があります。

旧国道をわずかに進むと右手に
姫街道道標椿の原生林案内標識があります、ここから再び峠道に入ります。

踏み込むと
ヤブツバキの原生林があります、樹齢二百年以上のものもあり、一~三月にかけてをつけます。

峠道を上り、
舗装路を横断します。
旧国道合流 椿の峠口 椿の原生林 舗装路の横断

 向いの石段を上り、勾配のきつい土道を上り切ると本坂峠頂上に到着です。

標高328m、
遠江(静岡)と三河(愛知)の國(県)境です。

「本坂越は道狭く坂けわしくて箱根より難く、一度往く者は二度越えんことを思わず」といわれました。

参勤通行の際は
領主茶屋が設置され、嘉永六年(1853)には天璋院篤姫がこの峠を越えています。

現在は
富士見岩中山峠を結ぶ豊橋自然歩道の交差点になっています。
石段 本坂峠 本坂峠頂上

 それでは本坂峠西坂を下りましょう、歩幅を狭め、カカトで着地し、ブレーキを掛けながら下ります。

峠道の要所々には
旧姫街道道標が配置されていますので、迷うことはありません。

スグの左手に
弘法大師が咽喉を潤したという弘法水があります、現在は飲用不可です。

峠道は曲がりくねった
嵩山七曲りになると、水場跡があります。
本坂峠西坂 弘法水 水場跡 排水溝

 石畳道には
排水溝が備わっています。

 七曲りの峠道を下ると人ひとりが座れる平岩の坐禅岩があります、傍らに坐禅岩標石があります。

次いで椅子状の
腰掛岩があります、ここにも傍らに腰掛岩標石があります。

スグ先に
浅間神社への参道口道標があります。

丸太橋を渡り、七曲りの峠道をグングン下ると、丸太の
茶旧川橋があります、茶旧川には石組が施されています。
坐禅岩 腰掛岩 丸太橋 茶旧川橋

 渡詰めには
茶旧川橋標石があります。

 峠道を下ると姫街道碑があります。

石段を下ると
旧国道に突き当たります、ここには旧姫街道案内標識、姫街道(本坂通)標識があります、標識には「歴史の道100選」と記されています。

旧国道を横断し、向いのガードレールの切れ目から再び旧道に入ります。

この旧道口には
旧姫街道案内標識と丸太のベンチがあります。

旧道口からは
石段を下ります。
姫街道碑 旧国道横断 旧道口 石段

 石段から土道を進むと嵩山(すせ)の一里塚があります、両塚を残しています。

江戸日本橋より数えて七十三里、安間より九里目です。

西塚は直径約10m、高さ約2m、東塚は直径約10m、高さ2mです。

嵩山の一里塚は天保十四年(1843)の本坂通宿村大概帳に「壱ケ所、木立無之、但、左右之塚共嵩山地内」と記載され、姫街道に完全な形で唯一遺されている貴重な一里塚です(豊橋市指定史跡)。
嵩山の一里塚 標柱 西塚 東塚

 峠道は土道から時より石畳道に変わります。

苔むした白色ガードレールの先に
嵩山不動滝への分岐があります、御油方面からはY字路を右に進みます。

この分岐点には
道標「左ふどうさま」と嵩山不動滝方面案内標識があります。

木立の峠道を抜けると、
嵩山宿は目の前です。

次第に
人家が現れます。
石畳道 不動滝分岐 不動滝道標 本坂峠西口

 更に下ると右手の藤上公会堂の向いに、ひと際大きな姫街道碑が現れます、正面には「姫街道 西嵩山宿/東本坂峠」、側面には香川景樹の歌「ましらなく杉のむらだち下にみて幾重のぼりぬすせの大ざか」が刻まれています、ここが本坂峠の西口で、嵩山宿の東口です。

香川景樹は天保期の歌人で文政元年(1818)東下りの際に詠んだ歌で、随行した高弟の菅沼斐雄(あやお)の随行紀行袖くらべに「嵩山七曲がり辺りで詠んだ歌」と著されています。 

この碑の先で
からの筋を吸収します、御油方面からは重要な分岐ポイントです、旧姫街道案内標識に従いY字路を(白色矢印)左に進みます。
姫街道碑 嵩山宿東口分岐

 PM12:33 嵩山宿着 御油まで15.6km

 嵩山(すせ)宿は小宿で大通行の際は人馬継立に難渋し、幕府に何度も本坂通(姫街道)通行の差し止めを願い出ています。

天保十四年(1843)の
本坂通宿村大概帳によると嵩山宿の宿内家数は百三十軒、うち本陣一、問屋場は無く大通行の際には農家を問屋場としました、宿内人口は五百八十人でした。

狭石川(さぼうしかわ)を重王橋にて渡ると、右手の藤下公会堂先の右手に嵩山宿脇本陣跡があります、門と石垣を残しています、幕末に通行量が増大すると脇本陣が新設され、夏目家が勤めました。

落着いた佇まいの宿並を進むと右手に
嵩山宿案内図があります、ここが嵩山宿本陣跡です、夏目家が勤め幕末には問屋を兼ね、黒板漆喰塀の一部と多くの古文書を残しています。
嵩山宿脇本陣跡 嵩山宿本陣跡

 宿並をしばらく進むと大日橋手前の右手に旧旅籠よろず屋があります、幕末、姫街道の通行量が増えると旅籠屋が十一軒と増え、中でも旅籠中島屋木の芽和えは嵩山宿の名物となりました。

およそ川大日橋にて渡ると右手に文政十年(1827)建立の秋葉山常夜燈があります、基壇には村中安全と刻まれています、常夜燈の奥には秋葉神社の小社が祀られています。

この辺りが
嵩山宿の西口です。

嵩山交差点にて国道362号線に合流します、御油方面からは斜め左に入ります。
旧旅籠よろず屋 秋葉山常夜燈 嵩山分岐

 嵩山交差点を右(黄色矢印)に進むと、約700m先に正宗寺(しょうじゅうじ)があります。

鎌倉時代の永仁年間(1293~99)に宋から渡来した
日顔禅師はこの地が達磨大師ゆかりの嵩山(すうざん)の地形に似ているところから嵩山(すせ)と名付け、山上に正宗寺を創建しました。

この正宗寺は
徳川家康の側室で秀忠の母西郷局(於愛の方)の実家(西郷氏)の菩提寺で唐門には葵の紋が掲げられています。

西郷氏は市場城主でしたが永禄五年(1562)今川氏の攻めにより落城しました。
正宗寺口 嵩山枡形東口 枡形内分岐

 嵩山交差点から先に進み、
嵩山市場バス停の手前を左折(白色矢印)します、ここが嵩山枡形の東口です、御油方面からは右折になります。

枡形を進み突当りを右折(白色矢印)します。

天神川市場橋にて渡ります、御油方面からは市場橋先を左折します。

旧道の左手は長らく続いた
ミカン畑から一変し、一面の柿畑になっています。

 旧道は先で国道362号線に合流します、御油方面からは斜め右に進みます、この分岐点には二軒屋バス停越後屋酒店があります。

先に進み右手の中採長楽鉱山入口の向いを左に入ると
長楽(ながら)のヒノキがあります、幹囲は約5.2m、樹高は約10m、枝張りは約13mで、樹齢は約三百年と推定されています。

樹幹の下部は落雷のため焼けて空洞になり、尖端は枯死していますが、稀に見る古木、巨樹で豊橋市指定天然記念物です。

ヒノキの根方には
地蔵祠があります。
嵩山枡形西口 長楽のヒノキ 地蔵尊

 長楽のヒノキは古来より
地蔵檜と呼ばれ親しまれています。

傍らに
歌碑「いにしへの鎌倉道の跡所とはにつたへよひのきと地蔵」があります、かつてはヒノキの下に鎌倉古道がありました。

 街道に戻り左にファミリーマートを横目に見て進みます、長楽村は饅頭が名物でした。

信号交差点を越すと一本目を斜め左に入ります、
長楽旧道です、この分岐点には人形の松島看板があります。

半円状に進み再び国道に合流します、
御油方面からは斜め右に入ります、この分岐点には玉川駐在所があります。

この分岐点を左に進むと
長楽(ちょうらく)があります、延文二年(1357)の創建です。
長楽旧道東口 長楽旧道西口 長楽寺

 境内の石仏群の中に道標を兼ねた地蔵尊が移設されています、光背に「右ごゆ道左よし田道」と刻まれています。

街道に戻り
長楽川を渡り、先に進むと左手に御油宿方面と吉田宿方面への追分に建立された自然石道標「右豊川 左豊橋」があります。

後方には文政三年(1820)建立の
秋葉山常夜燈があります。

先に進むと左手の竹林前に
長楽の一里塚跡碑があります、碑面には「 右京より五十三里/姫街道長楽一里塚/左江戸より七十四里」と刻まれています、安間からは十里目です。

本坂通宿村大概帳には「木立無之 但、左右之塚共長楽村地内」と記されています。
道標・秋葉山常夜燈 長楽の一里塚跡

お食事処吉野 トンカツ定食 次郎柿

 腹が減ったゾー、何せ名だたる峠を二つも越えてきました。

和田辻交差点を過ぎると、右手にお食事処
吉野がありました(PM1:30)。

中に入ると閑散としています、「すいませーん!」と声を掛けるも応答なしです、取り合えず手を洗い、もう一度声を掛けましたが反応なしです、「こりゃ駄目だ」と外に出ました。

歩き出すと「ごめん、洗濯物入れてたから、寄ってく、ランチ580円だよ!」と
女将が声を掛けてくれました「お願いします」、案外早く出てきました、デジカメを向けると「チョット待って、お新香持ってくるから」「このお新香美味しいヨ、買ったお新香は不味いくせに結構単価が高いんだ」と仰る。

赤出しの味噌汁が組み合わされ美味い、街道飯は美味いナー。

食事が終わり「すいませーん、お茶のお替りください」「ハイヨ、ところで柿食べた」「いいえ」女将が剥いてくれました。
甘みに品があります、そうですこの
です、嵩山に入ると辺りは一気に柿畑になりました。

柿は丸くなく、四角っぽく四つに割れた感じです、名産の
次郎柿だったのです、「どうして嵩山はミカンでは無く柿なんですか」「三ケ日は遠州灘の潮風が山の斜面に当るからミカン栽培に適しているのさ、ところが柿はこの風が大嫌いなんだヨ」納得です。

ご馳走さま、本当にご馳走さまでした、それにしても昨夜のご婦人達といい、この女将さんといい皆さん元気で気心がやさしい、今はこの人達が
お姫様かもしれません・・・・・・!

 街道を進むと左に大きくカーブし、次いで右に大きくカーブした先の左手大塚モータース向かいの擁壁上に弁慶首塚二本松碑があります。

ここに
弁慶の首塚が有り、直径七尺(約2.1m)の二本松がありましたが、明治に相次いで倒れてしまい、それを惜しんで地元の有志が明治三十四年(1901)に建碑したものです。

並びに大正十二年(1923)建立の馬頭が陽刻された
水難除馬頭観世音があります、近隣の牛馬運送業者が当古の渡しの安全を祈願したものです。

牟呂用水小倉橋にて渡り、縄手道を進みます。
弁慶首塚二本松碑 馬頭観音 茶ノ木分岐

 中協運輸前の
Y字路を右(白色矢印)に進みます。

 旧道を直進し、土手を乗り越えた先が当古の渡し跡です、舟渡しで賃料は四文でした、当古の渡しは昭和九年(1934)旧当古橋が架橋されると三百数十年の歴史に幕を閉じました。

土手道に戻り、
豊川当古橋にて渡ります、豊川は段戸山に源を発し、流末は三河湾に注ぎます、往時は吉田川と呼ばれ、川幅は概ね百間(約100m)でした。

当古橋を渡ると
豊橋市から豊川市に入ります。

当古橋を渡り土手道を左折し、土手下に下ると右手に
当古橋公園があります。
当古の渡し跡 豊川 中山家と当古の渡し碑

 園内に
中山家と当古の渡し碑があります、公園は中山家の屋敷跡です。

徳川家康が吉田川の出水で立往生していると、中山家が荷物運搬用の舟で無事に渡し、この功により当家に渡船権が与えられました。

中山家は渡し権を独占し、
当古(とうご)の住民であっても舟賃が徴収されました。

 土手道に戻り、当古橋北詰を越すと右手が当古の渡し跡で、左手が旧当古村です。

当古村は当古の渡しが川止めになると
船宿は賑わいました、安政六年(1859)当古村は中山家から渡船権を譲り受け、豊川舟運の湊を控え大いに賑わいました。

村内を進み県道380号線を横断すると右手に
秋葉神社が鎮座しています、境内の秋葉山常夜燈は文政二年(1819)の建立です。
当古村南口 秋葉神社 当古村北口

 村内を道なりに進むと
国道に突当ります、右折(白色矢印)します、御油方面からは左折になります、この分岐点には金物マルイチ産業があります。

この分岐点から馬場町交差点間の南側に
旧道がありましたが国道362号線に取って代わり消滅しました。

 国道を進み古川古川橋にて渡った先の右手に交通安全地蔵尊が安置されています。

信号交差点手前の右手に
三谷原神社が鎮座しています、往時は雨谷天神といい三谷原(みやはら)の鎮守でした、慶長六年(1601)伊奈備前守忠次より黒印三石が寄進されました。

次いで左手に
金剛寺があります、東三河四郡弘法大師霊場二十二番札所、大ソテツがあります。

三谷原交差点から約100m先左手住宅の裏手にエノキがあります、
三ツ橋の一里塚です、国道の敷設により取り残されました。
三谷原神社 金剛寺 三ツ橋の一里塚

 安間より十一里、江戸日本橋より数えて七十五里目です。

 松原用水千教橋にて渡り、馬場町交差点を地下道でくぐると右手に熊野神社が鎮座しています、馬場村の鎮守です。 

吉田城主
久世氏の崇敬が篤く、宝永元年(1704)社殿が寄進されました。

街道に戻り一本目の押しボタン式信号交差点のスグ先を右に入ると
三明寺があります、大宝二年(702)の創建です。

本尊は三河国司の大江定基が寵愛した力寿姫の死を悼んで造立した弁財天像です、この本尊を安置する宮殿(厨子)は国重文です。
熊野神社 三明寺 三重塔

 境内の
三重塔は享禄四年(1531)の建立で一層二層は和様、三層は禅宗様(唐様)で国重要文化財です。

 JR飯田線次いで名鉄豊川線姫街道踏切にて越え、中央通り1丁目交差点を右に入ると日本三大稲荷(伏見稲荷大社、祐徳稲荷神社)の一つ豊川稲荷が鎮座しています。

この豊川稲荷は
妙厳(みょうごん)の鎮守社で、秘仏豊川吒枳尼真天(だきにしんてん)の稲穂を担いだ姿から「商売繁盛」「家内安全」「福徳開運」の神として古くから庶民の信仰を篤く集めています。

境内には千体以上の
の石像が安置され、霊狐塚(れいこづか)があります。

表参道沿いにはいわずと知れた名物
豊川いなり寿司を商う店が軒を連ねています、ご賞味下さい!
豊川稲荷総門 狛狐 豊川稲荷

 街道に戻り先に進むと右手に素盞雄(すさのお)神社社標があります、永治元年(1141)領主田辺隼人の創建です、祭礼では手筒花火が奉納されます。

街道に戻り中央通3丁目から4丁目と歩き、
佐奈川金屋橋にて渡ります、佐奈川は杣坂(そまさか)に源を発し、流末は三河湾に注ぎます。

隣接する中央通公園には
佐奈川鯉保護碑枝垂桜碑があります、佐奈川の堤にはソメイヨシノ約七百八十本の桜並木があります。

縄手道をしばらく歩き、
諏訪川諏訪橋にて渡ると先の右手に諏訪神社が鎮座しています。
素戔嗚神社 諏訪神社

 
信州諏訪大社より分霊を勧請して創建され、文化五年(1808)の棟札には「奉謹遷宮諏訪大明神」とあります。

市田城主
牧野氏は武運の守護神として篤く崇敬しました。

訂正のお願い ちゃんと歩ける東海道五十三次 東編姫街道 佐奈川の鮎保護碑→佐奈川保護碑に訂正して下さい。

 街道に戻るとスグ先の右手に本宮山遥拝所碑があります、北北東約10kmの霊峰本宮山(標高789m)の山頂に三河國一宮砥鹿(とが)神社奥宮が鎮座しています。

かつては遥拝所に天保十三年(1842)地元の崇敬者が寄進した
鳥居手水舎石燈籠がありました。

スグ先の左手に新設された
姫街道一里塚跡地標石があります、諏訪の一里塚跡です、安間より十二里、江戸日本橋より数えて七十六里目です、標石の両側面には「諏訪の大鳥居建立地前」「豊川大空襲爆弾投下地」と刻まれています。

白川白川橋にて渡ると、右手のファミリーマートの敷地角に郡明神(ぐんみょうじん)道標があります。
本宮山遥拝所碑 諏訪の一里塚跡 郡明神道標

 道標には「國内神名帳郡明神是ヨリ十五町」と刻まれています、
伊知多神社内に延喜式神名帳に記載された古社郡明神が鎮座しています。

 街道の正面に宮路山が望めます、頭を少し右に傾けた、愛嬌のある山容です。

八幡町横道に入り
亀ケ坪交差点を斜め右に入ると、約450m先の左手に三河国分寺跡があります。

天平十三年(741)
聖武天皇の詔を受け、全国に創建された官立の寺で国家鎮護の祈願が行われました。

国分寺の境内地は180m四方に及び、周囲は
築地塀で囲まれていました。

現在の
国分寺は永正三年(1506)の再興で、本堂はかつての国分寺金堂跡に建立されています。
三河国分寺跡 梵鐘

 鐘楼の
梵鐘は旧国分寺のものと伝わる古鐘で国重要文化財です。

 街道に戻り西古瀬川筋違橋にて渡り、筋違橋交差点一本先の右手に懸社八幡宮社標があります


ここを右に入り
西古瀬川宮前橋にて渡ると文化八年(1811)建立の秋葉山常夜燈があります、並びに
駒嶽社秋葉社の石祠が祀られています。

この常夜燈の右に進むと正面に
国府八幡宮が鎮座しています、天武天皇の白鳳年間(650~54)に国分寺鎮護のために豊州宇佐八幡宮を勧請し創建されました。

本殿は文明九年(1477)建立の三間社流造檜皮葺で国重要文化財です。
八幡宮社標 秋葉山常夜燈 国府八幡宮

※ 三河国分寺跡標石前から直接国府八幡宮に通じている
細道があります。

 街道に戻り、佃交差点を越すと右手に南無櫻地蔵大菩薩標石があり、祠内に陽刻櫻地蔵尊が安置されています。

境内に
案内標柱「↑1.2km 三河国分尼寺跡史跡公園 950m 三河国分寺跡/←400m 三河国府跡(総社) 1.0km 名鉄国府駅」があります。

佃交差点先の一本目を斜め左に入ります、
白鳥旧道です、道なりに進み上宿会館前で再び県道5号線に合流します。

この合流点手前の上宿会館に沿う細道を進み、突当りを右折すると右手奥に
曹源寺があります。
櫻地蔵尊 白鳥旧道東口 白鳥旧道西口

 参道口には東三新四國第六拾五番札所標石があります、曹源寺の南側一帯は古代三河國の国府跡です。

曹源寺は
国庁跡で、境内が正殿跡、本堂が後殿跡です、三河国府の確認調査により土器、陶製印、羊形硯など国府跡ならではの遺物が数多く出土しています。

並びに
三河総社が鎮座しています、国府に赴任した国司は毎月朔日(ついたち)に国内の神社を巡拝するのが慣わしでした。

この労を省くため、各神社の祭神を一ケ所に合祀したのが
総社です、これを代拝し任務を果たしました。

本殿は三間社流造で築地塀で囲まれています。
曹源寺(国庁跡) 三河総社

 街道に戻って先に進むと上宿(うえじゅく)交差点手前の右手に船山古墳があります。

船山一号古墳は五世紀後半の築造で、三河最大の前方後円墳(全長約94m)です。直刀、鉾、鉄鏃、埴輪等が出土し、墳丘上には上宿神社が鎮座しています。

上宿交差点からは県道5号線右側の
側道を進みます。

一本目右の上り坂に入ります、この分岐点には
西明寺寺標宝篋印塔、そして寛保三年(1743)芭蕉五十回忌に建立された東三河最古の芭蕉句碑「かげろふの我が肩に立紙子哉」があります、句碑の側面には「従是凡六丁余西名所二見別」と刻まれています。
船山古墳 芭蕉句碑

 
西明寺は三河国守大江定基が愛妾力寿姫を失い、世の無常を悟り仏門に入り、ここに草庵を結び六光寺と称したのが始まりです。

永禄七年(1564)
徳川家康は今川方との八幡砦(やわたとりで)の戦いの折、空腹であった家康は当寺で受けた饗応に感じ入り、慶長八年(1603)寺領二十石の朱印地を付与し、西明寺と改称しました。

 側道に戻って進み、自転車置場の先で県道5号線高架下をくぐり、反対側に進路を変えます

正面の
跨線橋にて名鉄名古屋本線を跨ぎ、喫茶ブリッジ脇の直線路(白線矢印)を進みます。

スグ先で旧道は
国道1号線に突き当たります、中央分離帯にフェンスがあり、全く横断不可(白色矢印)です。

右(黄色矢印)に迂回します、
追分交差点にて国道1号線を横断し、ヤマナカ御油ショッピングセンター前から旧道に復帰します。

先に進み
行力(ぎょうりき)交差点を横断します、御油方面からは行力交差点スグ先のY字路を右に進みます。
跨線橋横断 国道1号線

 PM4:20 御油追分着

御油追分 追分常夜燈 祝杯泡盛
 行力(ぎょうりき)交差点スグ先の十字路が東海道(黄色矢印)との御油追分です。

御油追分
(二見別)に無事到着です!

追分には安永三年(1774)建立の
秋葉山常夜燈、明治十六年(1883)建立の秋葉山三尺坊大権現道道標、明治十三年(1880)建立の國幣小社砥鹿神社道「是ヨリ凡二里丗町」道標、そして見付宿の姫街道入口にあったのと同じ木製案内標識「御油→三州 これより姫街道」があります。

それでは撤収です、御油駅より
国府(こう)の方が近いです、ヤマナカ御油ショッピングセンターでささやかな祝酒を購入しました。

沖縄シークワーサーです、良く見れば泡盛です、これでミミガーでもあれば気分は慶良間列島座間味島ですね!

豊橋(吉田)で東海道本線に乗換え帰宅です。

次はいずれの
街道に繰り出すか思案中です!!



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