天竜浜名湖鉄道線三ケ日駅発、気賀駅行きの始発はAM6:28です、それまでに腹ごしらえです。 三ケ日駅近くのセブンイレブンでカップてんぷら蕎麦と納豆巻きを仕入れ、駅待合室で食しました。 結構美味いし、体が温まります、ウーッまだ時間がある、又、セブンイレブンに戻りドリップ式のコーヒーを仕込みました、これまたおいしい。 車中ではペットボトルのお茶を飲みながら、朝の猪鼻湖そして奥浜名湖の景を堪能しました。 本日は名うての峠二ケ所が控える難所(楽しい)ウォークです、それでは出立です。
気賀関所は慶長六年(1601)に設置され、「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。
付近一帯は三千五百石余りの旗本気賀近藤家陣屋跡で庭木の江戸椎(しい)を残しています(細江町指定天然記念物)、気賀近藤家は気賀の領主及び気賀関所の管理を勤めました。
そこで犬くぐりと呼ばれる抜け道が作られ、犬が通る道として黙認され、人は立ったまま通ることが許されず、蓆(むしろ)の下をくぐり抜けました。 この犬くぐり道の東口は井伊谷川上流にあります、清水橋先の左手に嘉永二年(1849)造立の馬頭観音像があり、犬くぐり道解説「この辺りに出入口があったと言う」があります。
現在は石組の上に安政四年(1857)建立の秋葉常夜燈が設置されています。
それにしても服部小平太、これじゃ堪りませんね、この地の恨みを一身に浴びてしまいました。 もしかすると家康の計らいでしょうか、信長亡き後、今川義元を討った小平太を召抱え、当地に赴任させ、これを討たせることによって家康に対する敵対感情を鎮めたのかも知れません、なにせ狸爺ですから!
石造薬師如来像を安置し、文化八年(1811)と弘化四年(1847)の棟木を残しています。
アマノの先のY字路は右(白色矢印)に進みます、この分岐点には大正十二年(1923)建立の金地院(こんちいん)道標「是ヨリ金地院道五丁 左三ケ日往還」があります。
境内のホルトノキとナギの大樹は細江町指定天然記念物です。
同じように諦めよう諦めようとしても想いは募るばかりという意です。 この楊(柳)の大木は伐採され京の三十三間堂の棟木になったといいます。
眼下には引佐細江(浜名湖の入り江)が望めます。
往時は長さ三間(約5.45m)、幅一丈(約3.03m)の土橋でした。 突当りを左折(白色矢印)します、御油方面からは右折になります、この分岐点には姫街道案内標識があります。
引佐峠は文化庁歴史の道百選に選定されています。
この象は海を渡り長崎に上陸し、江戸までの三百五十四里を七十四日で踏破しました。
大谷(おおや)の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて七十里、安間より六里目です。
背負っていた厨子と中の仏像は大谷の高栖寺(こうせいじ)に子授観音として祀られています。
突当りのY字路を右(白色矢印)に進みます、この分岐点には姫街道案内標識があります。
今でも町内の方が毎夕燈明をあげています。
Y字路の左は東名高速の敷設で分断された旧道です、ここから街道が復活します。
雨が降ると峠道は川のようになり、難渋したところからわる坂と呼ばれました。
文化十年(1813)三十三人の弟子によって建立された墓碑には辞世句「迚(とて)もゆくこころせはしや雪の山」が刻まれています、竹茂(ちくも)は宇志八幡宮の宮司で俳諧の師匠でした。
十字路手前の右手石川接骨院前に三ケ日宿伝馬問屋場跡解説があります、石川家が勤め、幕末の画家石川晶斎(しょうさい)は同家の生まれです。
享保三年(1718)徳川八代将軍吉宗の生母浄円院が泊まり、文化ニ年(1805)伊能忠敬が測量旅の際に宿泊し、浜名湖測量日誌に「家作よし酒造をなす」と書き残しています。
左(白色矢印)に進みます、この分岐点には姫街道案内標識があります。
全面勝訴となりましたが両村の庄屋と家族の男子計七名が打首になりました。
一里塚跡碑の前を左折し、細い坂を下り国道に合流します、御油方面からは右手の相互段ボールの左手ガードレール坂道を上ります。
橘逸勢を祭っています、 逸勢を護送する役人に咎められながらも、付き添って来た逸勢の娘は死去した父をここに葬り、墓の近くに草庵を結び、尼となって父の菩提を弔い続けました、後に父の罪は許され従四位下の官位が贈位され、娘は父の遺骨を京に持ち帰りました。 境内には娘の孝行を讃えた旌孝碑(せいこうひ)や筆塚があります。
この分岐点には姫街道案内標識があります。
石畳道には排水溝が備わっています。
渡詰めには茶旧川橋標石があります。
嵩山交差点から先に進み、嵩山市場バス停の手前を左折(白色矢印)します、ここが嵩山枡形の東口です、御油方面からは右折になります。 枡形を進み突当りを右折(白色矢印)します。 天神川を市場橋にて渡ります、御油方面からは市場橋先を左折します。 旧道の左手は長らく続いたミカン畑から一変し、一面の柿畑になっています。
長楽のヒノキは古来より地蔵檜と呼ばれ親しまれています。 傍らに歌碑「いにしへの鎌倉道の跡所とはにつたへよひのきと地蔵」があります、かつてはヒノキの下に鎌倉古道がありました。
腹が減ったゾー、何せ名だたる峠を二つも越えてきました。 和田辻交差点を過ぎると、右手にお食事処吉野がありました(PM1:30)。 中に入ると閑散としています、「すいませーん!」と声を掛けるも応答なしです、取り合えず手を洗い、もう一度声を掛けましたが反応なしです、「こりゃ駄目だ」と外に出ました。 歩き出すと「ごめん、洗濯物入れてたから、寄ってく、ランチ580円だよ!」と女将が声を掛けてくれました「お願いします」、案外早く出てきました、デジカメを向けると「チョット待って、お新香持ってくるから」「このお新香美味しいヨ、買ったお新香は不味いくせに結構単価が高いんだ」と仰る。 赤出しの味噌汁が組み合わされ美味い、街道飯は美味いナー。 食事が終わり「すいませーん、お茶のお替りください」「ハイヨ、ところで柿食べた」「いいえ」女将が剥いてくれました。 甘みに品があります、そうですこの柿です、嵩山に入ると辺りは一気に柿畑になりました。 柿は丸くなく、四角っぽく四つに割れた感じです、名産の次郎柿だったのです、「どうして嵩山はミカンでは無く柿なんですか」「三ケ日は遠州灘の潮風が山の斜面に当るからミカン栽培に適しているのさ、ところが柿はこの風が大嫌いなんだヨ」納得です。 ご馳走さま、本当にご馳走さまでした、それにしても昨夜のご婦人達といい、この女将さんといい皆さん元気で気心がやさしい、今はこの人達がお姫様かもしれません・・・・・・!
中協運輸前のY字路を右(白色矢印)に進みます。
園内に中山家と当古の渡し碑があります、公園は中山家の屋敷跡です。 徳川家康が吉田川の出水で立往生していると、中山家が荷物運搬用の舟で無事に渡し、この功により当家に渡船権が与えられました。 中山家は渡し権を独占し、当古(とうご)村の住民であっても舟賃が徴収されました。
村内を道なりに進むと国道に突当ります、右折(白色矢印)します、御油方面からは左折になります、この分岐点には金物マルイチ産業があります。 この分岐点から馬場町交差点間の南側に旧道がありましたが国道362号線に取って代わり消滅しました。
安間より十一里、江戸日本橋より数えて七十五里目です。
境内の三重塔は享禄四年(1531)の建立で一層二層は和様、三層は禅宗様(唐様)で国重要文化財です。
信州諏訪大社より分霊を勧請して創建され、文化五年(1808)の棟札には「奉謹遷宮諏訪大明神」とあります。 市田城主牧野氏は武運の守護神として篤く崇敬しました。 ※ 訂正のお願い ちゃんと歩ける東海道五十三次 東編姫街道 佐奈川の鮎保護碑→佐奈川鯉保護碑に訂正して下さい。
道標には「國内神名帳郡明神是ヨリ十五町」と刻まれています、伊知多神社内に延喜式神名帳に記載された古社郡明神が鎮座しています。
鐘楼の梵鐘は旧国分寺のものと伝わる古鐘で国重要文化財です。
※ 三河国分寺跡標石前から直接国府八幡宮に通じている細道があります。
西明寺は三河国守大江定基が愛妾力寿姫を失い、世の無常を悟り仏門に入り、ここに草庵を結び六光寺と称したのが始まりです。 永禄七年(1564)徳川家康は今川方との八幡砦(やわたとりで)の戦いの折、空腹であった家康は当寺で受けた饗応に感じ入り、慶長八年(1603)寺領二十石の朱印地を付与し、西明寺と改称しました。
御油追分(二見別)に無事到着です! 追分には安永三年(1774)建立の秋葉山常夜燈、明治十六年(1883)建立の秋葉山三尺坊大権現道道標、明治十三年(1880)建立の國幣小社砥鹿神社道「是ヨリ凡二里丗町」道標、そして見付宿の姫街道入口にあったのと同じ木製案内標識「御油→三州 これより姫街道」があります。 それでは撤収です、御油駅より国府(こう)駅の方が近いです、ヤマナカ御油ショッピングセンターでささやかな祝酒を購入しました。 沖縄シークワーサーです、良く見れば泡盛です、これでミミガーでもあれば気分は慶良間列島座間味島ですね! 豊橋(吉田)で東海道本線に乗換え帰宅です。 次はいずれの街道に繰り出すか思案中です!!
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