道中日記  1-154 伊勢参宮道 (日永の追分 - 高茶屋) 36.6km

 この度、山と渓谷社から「● ちゃんと歩ける伊勢参宮道・善光寺街道 五街道ウォーク 八木牧夫著」が出版されました。

本書には
伊勢参宮道(東海道日永の追分~内宮宇治橋)、伊勢別街道(東海道関宿東追分~津江戸橋追分)が収録されています。

本マップには写真の掲載はありません、そこで
本マップと一体化させる為に本HPでは写真を豊富にアップしました。

是非、出立なさる前に本マップと当HPを照らし合わせ、
伊勢街道ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。

 平成20年(2008)年頭の街道ウォークは伊勢街道です。

「伊勢に行きたい伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも」と
伊勢音頭に唄われ、江戸時代伊勢参りは庶民の夢だったといいます。

お正月の
お伊勢参り、夢の旅に出立しましょう。

行程は東海道
日永の追分から伊勢参宮道を進み内宮宇治橋まで。

内宮宇治橋到着後、一旦津に戻り、
江戸橋追分から伊勢別街道を辿り東海道関宿東追分に至る、合計二十一里十七町(実測92.7km)二泊三日の伊勢街道ウォークです。

 過去、名古屋を起点とした東海道ウォークや伊勢街道ウォークではJRムーンライトながらを利用してきました。
 
この電車は前日の夜11:36に横浜駅を出発し、翌日の朝6:07に名古屋駅に到着する、街道ウォーカーにとってはスグレモノでした。
 
しかしこの電車、利用客も多く決して快適ではありません、そこで新たに登場したのが
高速夜行バスです。

1月2日夜11:50
横浜駅西口天理ビル前を出発し、翌朝7:10に名古屋駅太閤口周辺に到着予定の高速バスです、そして驚きなのは乗車料金が2,900円なのです、即決定!

 車中は空いており、狭いながらも横になれました、絶好調です!!

バスは予定より30分も早く
名古屋駅に到着です、近鉄名古屋線の始発に乗車し四日市駅で乗換えです。

乗り換えの待ち時間を利用して、駅構内の食堂で腹ごしらえです、
うどんお握り2個のセットです、美味い!!!

ここからは
近鉄内部線に乗換え追分駅で下車します、駅から出立点の日永の追分はスグです。

 平成20年(2008)1月3日 AM8:10 日永の追分出立 神戸宿まで6.6km

 伊勢参宮道の起点日永の追分は追分交差点内の三角州に位置しています(三重県史跡)。

日永の追分の
神宮遥拝鳥居は安永三年(1774)江戸店(だな)をもつ渡辺六兵衛が東海道と伊勢参宮道との日永の追分に伊勢神宮鳥居が無いのは何とも遺憾であり、はなはだ不都合と痛感していました。

そこで江戸店の支配人
伊勢屋七右衛門を願主として江戸の伊勢商人の浄財を得て敷地を購入し、鳥居を建立しました、以来この鳥居は伊勢神宮式年遷宮ごとに建替えられてきました。

桑名の
七里の渡しの鳥居は一の鳥居です。
追分道標 水屋 日永の追分

 日永の追分の鳥居は
二の鳥居と呼ばれました。

追分には寛永二年(1849)建立の
追分道標「左いせ参宮道 右京大坂道 すぐ江戸道」があります。

当初、ここにあった明暦二年(1656)建立の
追分道標「京 山田 南無阿弥陀仏 専心」は天照大御神を祀る日永神社に移設し保存されています、この追分道標は東海道最古の道標です。

 日永の追分は間の宿で旅籠屋や茶屋が軒を連ね、追分まんじゅうが名物でした。

【弥次喜多道中】
ご両人は茶屋で
金比羅参りの男と追分饅頭の食べ比べをし、負けて賭金三百文を取られました。

実はこの男、評判の
手品使いで、食べたふりをして饅頭を袖の中に入れていました。

気を取り直し、ご両人は「神かぜや伊勢と都のわかれ道」から
伊勢路へと足を踏み入れました。

追分に
追分の清水があります、それではお清めをして出立です!
弥次喜多道中 追分まんじゅう

 県道103号四日市鈴鹿線を進み、国道25号線ガードをくぐった先の左手に密蔵院への道標四基と地蔵尊があります。

密蔵院は天長二年(825)
弘法大師の創建で、山号は蟹築山(かにちくざん)といいます、本尊の薬師如来像は蟹が海中より運んで来たところから蟹薬師と呼ばれます。

この地の人々は親しみを込めて
大治田(おばた)の薬師さんと呼び、カニを食しませんでした。

天正三年(1575)
長島一揆の折、織田信長の軍勢に焼き討ちされ、堂宇ことごとくが灰燼に帰しましたが、幸いにも本尊弁財天は難を免れ、今日に守り継がれています。
国道ガード 蟹薬師道標 蟹薬師

 イトウ創業先のY字路を右(白色矢印)に入ります、この分岐点には焼肉瑞穂があります。

旧道を進むと左手に
表忠碑平和之礎があります。

表忠碑は元帥公爵大山巌の書です、碑の裏面には明治十年(1877)西南の役、同二十七・八年(1894~5)日清戦争、同三十七・八(1904~5)日露戦争、昭和十二年(1937)支那事変に従軍し、戦死した河原田出身者の名が刻まれています。

同じく
平和之礎には太平洋戦争の戦死者を加えた百十三名の名が刻まれています。
大治田分岐 表忠碑 平和之礎

 旧道は内部(うつべ)の土手に突当たります、往時はこの先に内部川橋が架橋され、渡り賃は二文(約240円)でした、現在は丁度この位置に水道橋が架橋されていますが通行不可です。

左折し
河原田橋にて内部川を渡ります、内部川は鈴鹿山系の鎌ケ岳、入道ケ岳に源を発し、流末は鈴鹿川に落合います、三重川、境川とも呼ばれました。

渡詰めから内部川の土手道を
水道橋の袂まで進みます、ここが旧道復帰点です、ここには常夜燈跡標識があります。
内部川土手分岐 水道橋 内部川土手道 常夜燈跡

 水道橋向かいの石段を下り、又兵衛橋を渡り、旧道に復帰します、橋名は石橋の改修に尽力した石崎又兵衛に由来します。

先に進むと左手に
明治の距離標があります、「名古屋市 十五里十一町 守山町 十七里十五町」、「宇治山田市 十七里四町 久居町 八里三十二町」、「津市 六里三十二町 海蔵村 二里八町」「豊橋市 三十三里十六町 四日市 二里三十二町」と刻まれています。

距離標の手前を右に踏み込むと内部川橋の南詰にあった天保十四年(1843)建立の
内部川常夜燈があります。
又兵衛橋 明治の距離標 内部川常夜燈 山神

 並びには
役の行者像山神庚申塔があります。

 河原田小学校先の右手に河原田神社が鎮座しています、明治四十二年(1909)近隣四ケ村の六社を合祀し、河原田神社と命名されました、河原田神社が鎮座する三神山忘帰處碑があります。

三神山の頂は
知多半島から木曽御嶽山までが望める景勝地で、ここからの景色に見とれて帰るのを忘れるところから忘帰處(ぼうきしょ)と呼ばれました。

旧道を進むと左手の黒板塀が
常超院です、応安元年(1368)の創建で、本尊の乾漆阿弥陀如来像法然上人が奉安したものといいます。

左手のコンビニ先で
県道103号線を斜めに横断します。
河原田神社 常超寺 県道横断

 先でJR関西本線河原田踏切にて横断します。

先程横断した
県道103号線ガードをくぐると右手に高岡神社社標があります、高岡神社は延喜式神名帳に記載された古社で高岡町の氏神です。

高岡神社は
高岡城址に鎮座しています、高岡城主は神戸友盛の家臣山路弾正でした。

永禄十一年(1568)山路弾正は
信長の猛攻に耐え和睦に持ち込みました。

元亀二年(1571)
信長友盛に隠居を命じると、義憤を覚えた弾正は謀反を企てましたが、信長の知るところとなり、不意を襲われ自害に追い込まれました。
河原田踏切 高岡神社

 高岡城は
本能寺の変後廃城となりました。

 高岡神社社標先の右手に高岡橋北常夜燈があります、寛政十一年(1799)建立の永代常夜燈で、元は高岡橋の北詰めにありました。

突当りの
鈴鹿川の土手道に合流(白色矢印)します。

先に進むと右手に
陸軍歩兵伍長稲田稔之碑があります、神宮方面からは先を左に下ります。

鈴鹿川は
鈴鹿山系に源を発し、流末は伊勢湾に注ぎます。
高岡橋北常夜燈 土手道合流 陸軍伍長碑 鈴鹿川

 川名は
大海人皇子(おおあまのおうじ 天武天皇)が洪水で渡河に難渋していると、をつけた鹿が現れ、皇子を背に乗せて川を渡ったという古事に由来しています。

高岡橋にて鈴鹿川を渡ります。

橋銭は一人二文で、十辺舎一九は東海道中膝栗毛の中で「抜けまいりならばぶさをもうつべ川 わたしの銭もかりばしにして」と詠んでいます。

 高岡橋の渡詰めからは鈴鹿川の土手道を進み、高岡橋南常夜燈の手前を左に下ります。

この常夜燈は文化四年(1807)建立の
大神宮常夜燈で「五穀成就 國土安穏」と刻まれています、元は高岡橋の南詰めに設置されていました。

高岡町の外れを左に回り込むと
縄手道になります。

条里制の面影が残る畔道跡で一直線になっています。
土手道分岐 高岡橋南常夜燈 高岡町外れ 縄手道

 条里制とは古代から中世後期にかけて行われた
土地区画制度で、耕地を六町(約655m)間隔で縦、横に区切り、この一区画をといいました。

街道の両側には
田園風景が広がり、北西方向には鈴鹿山系の竜ケ岳(りゅうがたけ)が望めます。

 AM9:40 神戸宿着 白子宿まで6.8km

 人家が現れると右手に十宮(とみや)常夜燈があります、文化十四年(1817)の建立で大正九年(1920)の再建です、十宮村には古墳が十ケ所ありました。

常盤橋を渡ると
神戸見付跡があります、街道の両側に石垣土塁を残しています、神戸宿の北口で番所がありました(三重県指定史跡)、神戸宿に到着です!

神戸(かんべ)宿は神戸藩本多家一万五千石の城下町として発展し、宿並は町屋千軒といわれ、十日市町には本陣、問屋そして旅籠は十九軒、常盤町には十四軒の旅籠が軒を連ね賑わいました。

見付石垣の脇に
阿自賀(あじか)神社社標があります。
十宮常夜燈 神戸見付跡 阿自賀神社社標

 延喜式神名帳に記載された古社です、徳川家康の家臣
一柳直盛が神戸五万石の城主となり、大坂出陣の際に刀矢を奉納したところから弓矢八幡宮と呼ばれ、代々の藩主から篤く崇敬されました。

 宿並に入ると右手に旅籠屋紙亭があります、現加美亭旅館は創業二百七十年で、主屋は明治十三年(1880)の建築です。

紙亭辺りは
遊郭で神戸宿の北口にして大層賑わったところから「神戸の町は口ばっかり」といわれました。

近鉄鈴鹿線を
踏切道鈴鹿市第2号にて横断します。

わずかに進み
六郷川大橋にて渡ります、川名は流域六ケ村を潤したところに由来しています。

六郷川は
神戸城の大外堀で神戸藩士の水練場であり、の名所でもありました。
旅籠屋紙亭 近鉄鈴鹿線 大橋

 突当りのY字路を左(白色矢印)に進みます、分岐点のあぶい旅館は築百五十年で現業です。

ここには
高札場があり札の辻と呼ばれました、今は大正三年(1914)建立の距離標、同年建立の神戸町道路元標があります。

あぶい旅館を右(黄色矢印)に進むと
観音寺(かんおんじ)があります、神戸藩主本多家の菩提寺です、境内には札の辻にあった元禄二年(1689)建立の道標「左参宮かいどう 右ニ京ミち有」があります。

宿並に戻り、一本目を左に入ると、六郷川の手前の左手に宝珠山
地蔵院があります。
あぶい旅館 道標 地蔵院

 十辺舎一九は
東海道中膝栗毛の中で「安穏に火除け地蔵の守るらん夏の暑さも冬の神戸も」と詠んでいます。

 街道に戻って先に進むと左手に神戸別院があります、山門脇に明治天皇神戸行在所があります。

向かいには
願行寺があります、仏画の絹本着色光明本尊は鈴鹿市文化財です。

突当りの
魚次商店を左折(白色矢印)します、右折(黄色矢印)すると、神戸高校の並びに神戸城址があります。

神戸城は天文十九年(1550)四代目神戸具盛(とももり)の築城にはじまります。

神戸氏は伊勢平氏の子孫
関氏の一族です。
神戸別院 願行寺 T字路分岐

 永禄十六年(1568)七代目神戸友盛織田信長の侵攻を受け、信長の三男信孝(のぶたか)を養子に迎え和睦しました。

元亀二年(1571)
信長の命により友盛は隠居させられ神戸信孝が城主となり、
楽市伝馬制を定め城下町を繁栄させ、天正八年(1580)金箔の瓦を用いた五重の天守閣を築きました。

天正十年(1582)
本能寺の変により信長が没すると、信孝秀吉と共に明智光秀を討伐したが、翌年、天下人を狙う秀吉と対立し自刃に追い込まれました。

信孝は切腹の際、腹をかき切って臓物をつかみ出すと、床の間に掛かっていた梅の掛け軸に投げつけたといいます。

文禄四年(1595)
天守閣桑名城に移され、以降、天守閣は造られませんでした。
神戸城址

 徳川の世になると
一柳直盛が五万石で入城し、神戸藩が成立し、享保十七年(1732)本多忠統(ただむね)が入封し、本多氏の治世は百四十年間七代忠貫(ただつら)まで続き、明治八年(1875)神戸城は解体されました。

 宿並に戻って先に進むと右手に浄土宗終南山善導寺があります。

次いで
浄願寺があります、子宝に恵まれなかった文徳(もんとく)天皇(827−859)が当寺を訪れて祈願したところ、めでたく世継清和天皇に恵まれたところから子授け寺として篤く崇敬されています。

地子町(じしまち)公園南交差点を右に入ると、児童公園内に元禄二年(1689)建立の
道標「右いなふ道 左志ろこ道」と嘉永二年(1849)建立の常夜燈笠石があります。

共に
幸橋袂にあったもので、明治十八年(1885)六郷川の洪水で常夜燈の笠石以下は流失しました。
浄願寺 道標 常夜燈笠石

 六郷川幸橋で渡ります、ここが神戸宿の南見付木戸がありました。

渡詰めに
神戸常夜燈があります、流失した常夜燈を偲んで、地子町(じしまち)の人々が昭和五年(1930)に再建したものです。

矢橋一丁目交差点を越すと左手に
矢椅(やぎ)神社が鎮座しています、延喜式神明名帳に記載された古社です、寛文二年(1662)の棟札に八王子とあり八王子社と呼ばれました。

明治二年(1869)
明治天皇神宮参拝の際、奉幣代拝の扱いを受けました。
神戸常夜燈 矢椅神社 大日如来道

 先の右手小路口に嘉永四年(1851)建立の
道標「大日如来道 鎌倉権五郎景政古跡塚」と大正十四年(1925)建立の道標「鎌倉権五郎景政舊跡塚是ヨリ一丁奥にアリ」があります。

 この小路を進み、県道54号線を越すと 露座の大日如来像と寛治元年(1087)建立の円柱碑「鎌倉権五郎之塚」があります。

ここにあった池には
片目の鯉がいて、その池水は眼病に霊験あらたかでしたが、残念ながら池は涸れました。

鎌倉権五郎景政は鎌倉武士の鑑といわれた名将です、景政は十六歳で源義家に従い後三年の役に出陣し、敵の鳥海弥三郎に右目を射られながらも弥三郎を討ち、勝利を収め、自陣に戻ると家臣の三浦平太郎為次が景政の顔を踏んで矢を抜こうとすると、その非礼を怒り跪いて抜かせたという豪の者で、歌舞伎十八番(しばらく)の主人公となりました。

十辺舎一九は
東海道中膝栗毛の中で「権五郎ならねど馬士(ばし)のいつさんにおつかけてゆくかけとりの海」と詠んでいます。
権五郎碑・大日如来 山神

 街道に戻ると、スグ先で
伊勢鉄道線のガードをくぐり、鈴鹿駅入口交差点を横断します。

旧道は
宇気比神社前交差点から復活します、斜め右の旧道に入ると左手に燈籠鳥居があり山神が祀られています。

 この山神が肥田村の北口です、肥田村は団子が名物で、参宮者は土産に持ち帰り、神宮の神符と共に親戚に配り、腹痛の妙薬と吹聴しました。

【弥次喜多道中】
喜多さんは神戸宿の外れから馬に乗ったが、馬子が出くわした借金取りからかたに馬を取る取らぬと押問答となり、喜多さんは馬から降りたり乗ったりと右往左往します。

肥田村を進むと左手に豪壮な黒板塀の
服部庄右衛門家があります、天保十四年(1843)より津藩大庄屋を勤め河曲(かわわ)郡六ケ村、三重郡十五ケ村を差配し、明治になると戸長に任ぜられました。
弥次喜多道中 神戸宿外れ 服部家

 当家は
抜け参りを無料で宿泊させ、翌朝には小遣い銭をもたせて出立させました。

 先に進むと左手に道標「是より柳大師若松道」があります。

向かいに
山神が祀られています、ここが肥田村の北口です。

伊勢路には
山神(やまのかみ)が多数祀られています、山神は春になると山から下りてきて田ノ神となり里に実りをもたらし、秋になると山に戻るといいます。

金沢川肥田橋にて渡ります。

肥田町交差点を
地下道にて横断します。
道標 山神 肥田町交差点 天白神社

 新川島橋にて渡ると、右手に天白神社が鎮座しています、伊勢神宮を祀っています、境内には燈籠山神表忠碑があります。

 街道は玉垣村に入ります、村名は神宮領の年貢を収納する玉垣御厨(みくりや)が村内にあったところに由来しています。

村内を進み左手の洋菓子店を左に進むと、玉垣小学校北交差点先の右手に
蓮花寺(れんげじ)があります、鐘楼は神戸城二の丸の太鼓櫓を移築したものです、軒丸瓦には神戸藩主本多家の家紋立葵が刻まれています(鈴鹿市指定文化財建造物)。

村内に戻り、突当りの
正信寺前の十字路を右折(白色矢印)します、正信寺(しょうしんじ)にはクスの巨樹があります。
蓮花寺 玉垣分岐 道標

 この分岐点には文化四年(1807)建立の
自然石道標「右さんぐう道」があります、先を枡形状に進みます。

 突当りの西玉垣町交差点手前を左折(白色矢印)します、この分岐点には元治二年(1865)建立の手差し道標「左さんくう道」があります。

西玉垣町交差点を横断して先に進むと左手に
地蔵大マツがあります、樹高約20m、枝張り約32m、幹の太さ約7mの巨木で三重県指定天然記念物です。

仏教が渡来すると崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の争いになり、蘇我氏が勝利を納めました。

蘇我氏が渡来の
仏教以外の信仰を禁じると、古来より地蔵菩薩を深く信仰してきたこの地の人々は地蔵菩薩像を堀に沈め、目印にこのを植えました。
西玉垣分岐 道標 地蔵大マツ

 享保十七年(1732)この地に
大干ばつが起こった際、この松の側を掘り返したところ地蔵菩薩像が出土し、その下から水が沸き出し地域の田畑を潤したといいます。

享和二年(1802)大松のそばに
地蔵堂を建立しこの地蔵菩薩像を安置しました。

 街道に戻って先に進むと彌都加伎(みずがき)神社に突き当たります、天平十三年(741)の創祀で延喜式神明名帳に記載された古社です。

当社は
内宮(こうじ)を奉献するところから酒、味噌醤油醸造業者に篤く崇敬されています。

彌都加伎神社前を右折(白色矢印)します、神宮方面からは左折になります。

枡形を越すと左手に明治二年(1869)建立の
式内彌都加伎神社社標があります、裏面には勅使御代拝之節建之と刻まれています、明治天皇の神宮参拝に際し、勅使が派遣された記念に建立されました。
彌都加伎神社 彌都加伎神社社標 山神

 先の右手に
山神が祀られています、ここが玉垣村の南口です。

 スグの東玉垣交差点は逆Y字路になっています、左(白色矢印)に進みます、神宮方面からは右に進みます。

左手の岸岡団地児童公園を過ぎると左手の通信ケーブルや電線を製造するフジクラ鈴鹿工場に沿って進みます。

左手奥に
菅原社が鎮座しています、菅原道真を祭り、打越村の産土神です、打越村は亀山藩領の南端でした。

先に進むと右手に
老農水原政次翁彰功碑があります、弘化四年(1847)この地の木田町で生まれました。

上京して
農学社に学び、県下初の農事試験場長となり、農業従事者に新しい米作技法を啓発指導しました
東玉垣分岐 菅原社 水原政次彰功碑

晩年に失明しましたが「昼間だにくらきましひも嬉しきは物にまよはぬ心なりけり」と農事にかけた心意気を歌っています。


 AM11:25 白子宿着 上野宿まで7.3km

 水原政次彰功碑の先に逆Y字路があります、神宮方面からは右に進みます、この分岐点にはヘアーサロンマジマがあります。

近鉄名古屋線を
白子7号踏切にて横断すると左手に北の端地蔵堂があります、鎌倉時代造立の六體地蔵菩薩像が安置されています、この地蔵尊には六地蔵が刻まれています。

ここが白子宿の北口です、
白子宿に到着です!

白子(しろこ)宿は伊勢木綿や紀州藩廻米を積出す白子湊を控え、廻船問屋が軒を連ね伊勢商人の流通拠点として大いに繁盛しました。
北江島分岐 近鉄名古屋線踏切 北の端地蔵堂

 地蔵堂の向いに役行者神変(えんのぎょうじゃしんぺん)大菩薩があります、山伏は役行者を修験道の開祖としました。

宿並に入ると左手の江島郵便局向かいの宿並が
鋸歯状になっています、防衛上の工夫です。

枡形を抜け、江島本町交差点を左に入ると左手に
江島若宮八幡神社が鎮座しています、海上安全の守護神です。

白子廻船業者が航海の安全、商売繁盛を祈願して奉納した七十一面の
絵馬は三重県指定有形民俗文化財です。
役行者 江島本町枡形 若宮八幡神社

 江島若宮八幡神社の向いに文政三年(1820)建立の常夜燈があります。

江戸に進出した
伊勢商人が白子湊と江戸の間を往来した廻船問屋の船の航海安全を祈願して寄進したものです、スグ先は白子湊の入江で小浜と呼ばれ、この常夜燈は灯台代わりでした。

常夜燈の前は
御成道と呼ばれました、本能寺の変に遭遇した徳川家康は泉州堺から伊賀を越え、白子の小川孫三の手引きにより白子湊から船で三河へと脱出しました。

この功により白子湊の廻船は
紀州藩御用の鑑札と旗指物、御用提灯が許され、浦賀の海関を優先的に通過できました。

小川孫三には東海道藤枝宿の白子町が与えられ、諸役が免除されました。

宿並に戻ると左手に大正十五年(1926)建立の
江島神社社標があります。
常夜燈

 宿並を進むと左手の清水屋脇に江島陣屋跡解説があります、享保年間(1716~35)江島は小笠原肥前守の知行地となり宿並に面して小笠原氏の陣屋がありました。

江島領紀州藩領の境には五本のエノキがありました。

裏手の
雲心院は江島領主小笠原氏の菩提寺で、小笠原氏六代の位牌が安置されています。

先に進むと左手に
伊達家油屋忠兵衛跡があります、建物は虫籠窓(むしこまど)の切妻平入り造りで築百年です。

仙台伊達家を祖とする忠兵衛が廻船問屋油商を営み、伊勢湾に迷い込んだ鯨を捕え、耳石(じせき)やを江島若宮八幡神社に奉納しました。
江島陣屋跡 伊達家油屋忠兵衛

 向かいの旧家二階の袖壁には鏝絵(こてえ)が施されています。

わずかに進むと左手に
河合家があります、文政四年(1821)紀州御仕入荷物扱を勤め、敷地は海まで続いていました。

当家には
御廻米御用提灯を納める箱が保存されています。

突当りの白子本町郵便局の前が
枡形になっています、この枡形に高札場跡解説があります。
鏝絵 河合家旧家 白子本町枡形 高札場跡

 
紀州藩白子代官所の高札場で、この辺りには大きな廻船問屋が集まり、湊の出入港を取り仕切る五十人同心がいました。

 枡形を抜けると左手の白子東町公園に旧河藝(かわげい)郡役所跡標石があります、明治二十六年(1893)に開所し、大正十二年(1923)廃止されました。

スグ先右手の松葉屋旅館先を右に踏み込むと右手に
龍源寺があります、紀州徳川家歴代の位牌があり、白子代官は毎朝の参詣を常としました。

更に進むと突当り手前の左手に
伊勢型紙資料館があります、寺尾斎兵衛は白子屈指の型紙問屋で行商範囲は東北地方から関東一円にも及びました。

江戸時代末期築の
寺尾家建物は鈴鹿市指定史跡として公開され、伊勢型紙型紙の資料を展示しています。
郡役所跡 龍源寺 伊勢型紙資料館

 宿並に戻って先に進むと左手に大徳屋長久があります、創業享保元年(1716)銘菓小原木(おはらぎ)の老舗です、代々久兵衛を襲名し、紀州藩御用達の菓子司を勤めました。

わずかに進み県道6号線の十字路を左に進むと、白子海岸公園に
大黒屋光太夫出帆記念碑があります、 廻船頭の大黒屋光太夫は天明二年(1782)江戸に向けて白子を出港しましたが遠州灘で時化に遭い舵を破損し航行不能となり、八ケ月間漂流し、ロシア領アムチトカ島に漂着しました。

光太夫はシベリアを横断し、帝都ペテルブルクで
女帝エカテリーナ二世に拝謁し、寛政四年(1792)帰国、徳川十一代将軍家斉に拝謁し、苗字帯刀を許され、小石川の薬草園に居宅を拝領し生涯を暮しました。

光太夫は享和二年(1082)一度帰国が許され二十年ぶりに帰郷しました。
大徳屋長久 大黒屋光太夫碑

 白子湊は江戸店持ちの木綿問屋達が白子廻船を利用したことで
木綿の集散地となり、九十九里浜からは干鰯(ほしか)が陸揚げされて伊勢、近江大和の綿作地帯に送られ、湊には廻船問屋のほかに干鰯問屋が軒を連ねていました。

 十字路に戻り、そのまま直進すると左手に 白子小学校があります、紀州藩白子代官所跡です、江戸時代初期に徳川頼宣紀州藩主に任じられると、伊勢に約十八万石の領地が与えられ、寛永十一年(1634)郡奉行所が設けられ、後に代官所と改められこの地五万石を支配しました。

宿並に戻り、
白川和田橋にて渡ります、渡詰めを右折(白色矢印)し、一本目を左折(白色矢印)します。

右手に
久留間(くるま)神社が鎮座しています、延喜式神名帳に記載された古社です、元は白子小学校の東に鎮座していましたが寛永十一年(1634)現在地に遷座しました。
紀州藩代官所跡 和田橋枡形 久留真神社

 今は社名の
くるまに由来し、鈴鹿サーキット関係者に篤く信仰されています。

 スグ先、唯信寺前を右折(白色矢印)し、突当りのT字路を左折します、この分岐点には手差し道標「さんぐう道 /神戸四日市道」があります。

枡形内左手の黒塀の
和田栄寿堂は老舗墨屋(廃業)です、著名な日本画家に愛用される鈴鹿墨の伝統を今に伝える一軒です、白子は奈良墨とともに墨の二大産地の一つです。

手差し道標は当家が建立したものです。

先に進むと左手に
同心屋敷跡解説があります、同心は庶民の犯罪者を摘発する役人で、配下には十手、捕縄を持った目明しがいました。
唯信寺枡形 枡形手差し道標 目付役所跡

 次いで右手に目付役所跡解説があります、目付役人は政事や家臣の非違糾察、秩序維持を目的とする監察を行いました、役所は敷地五反、建物は五十余坪で北向に建てられていました。

釜屋川釜屋橋で渡り、二本目を右折(白色矢印)します、この分岐点には寺家三丁目表示の電柱があります、神宮方面からは左折になります。

先に進むと右手に真宗高田派
西方寺(さいほうじ)があります、境内に芭蕉句碑「橙や伊勢の白子の店ざらし」雁塚と呼ばれる七七調の「雁ゆくかたや白子若松」、当寺で胸の病の静養をした山口誓子の句碑「海に出て木枯帰るところなし」があります。
寺家分岐 西方寺 芭蕉句碑

 正面に子安観音寺があります、天平勝宝年間(749~56)聖武天皇の勅願による建立です。

本尊の
白衣観音は海中より鼓に乗って示現し、子安観音として人々に篤く信仰されています。

山門(仁王門)は元禄十六年(1703)の建立です、鎌倉様式の金剛力士像が二体安置されています(三重県指定文化財)。

境内の
不断桜は天平宝字年間(757~65)の落雷で焼失した伽藍の灰の中から芽生えた御霊木(国指定天然記念物)で、白子名産の伊勢型紙はこの不断桜の虫喰の葉から思いついたものといわれています。
子安観音寺 不断桜 銅燈籠

 境内の
銅燈籠は寛文六年(1666)の鋳造です、津釜屋町の鋳物師辻越後守玄種(もろたね)の手によるものです(三重県有形文化財)。

 子安観音寺の並びに比佐豆知(ひさずち)神社が鎮座しています、不断桜は両境内の境にあります、延喜式神名帳に記載された古社で、子安観音寺の地主神として篤く崇敬されています。

子安観音寺
仁王門前を左折(白色矢印)します、神宮方面からは右折になります。

先に進むと「ここは寺家三丁目中住町」
標識があります、標識前の細道を直進します。

突当りの
T字路を右折します、神宮方面からは左折になります、この分岐点には弘化四年(1847)建立の道「左くわんおん道/右さんくう道」があります。
比佐豆知神社 中住町細道 分岐道標

 先を左折(白色矢印)します、神宮方面からは右折になります、この分岐点には小さな道標「左いセみち/右くわんおん道」があります。

道標の頂上部分と北面の擦り減った窪みは伊勢型紙彫りに使用する砥石をならした跡といわれます、寺家には多数の伊勢型紙彫りの職人がいました。

道なりに進み、突当りの
T字路を右折(白色矢印)します、神宮方面からは左折になります、この分岐点にはカーブミラーがあります。

ここを左折すると右手に
楳荘翁碑があります。
分岐点 分岐道標 T字路分岐 楳荘翁碑

 儒者の
別府梅荘(ばいそう)は文政十年(1827)、河芸郡上野村に生まれ、ここ寺家の住人で若い頃から絵をよくし、生け花や煎茶にも優れ、明治二十八年(1895)京都で病没しました、享年六十九歳でした。

 突当りの蓬莱橋手前の左手に鼓ケ浦(つづみがうら)があります、海中からの音が聞こえるので漁師が網を入れると、白衣観音が鼓に乗って上がってきたといいます。

十辺舎一九は
東海道中膝栗毛の中で「風を孕む沖の白帆は観音の加護にやすやす海わたるらん」と詠んでいます。

碑の並びに
道標「右いせみち」があります、右折(白色矢印)します、神宮方面からは左折になります、堀切川に沿って進むと右手に鼓ケ浦保育園があります。
鼓ケ浦碑 蓬莱橋分岐 近鉄踏切 寺家地下道

 先で近鉄名古屋線を
踏切道磯山第7号にて横断します。

次いで右側の
寺家地下道にて国道23号線を横断します。

 堀切川堀切橋にて渡ります。

堀切橋の渡詰めを斜め右に入ります、この分岐点には
交通安全地蔵を安置する祠があります。

【弥次喜多道中】
磯山の立場で
吹き矢の矢場に入ったご両人は足元に寝ていたを踏みつけ、噛みつかれた拍子に転び、傍らに落ちていた煙草入れを拾おうとすると、するすると動く、よく見ると子供達が糸をつけて引っ張るという悪戯にひっかかってしまった。矢場を出ると煙管が落ちている、「もうその手は食わぬと」拾わずにいると、後からきた親父がひょいと拾い懐に入れて何食わぬ顔で行ってしまった。
弥次喜多道中 磯山立場 八幡神社

 街並を進むと右手に
八幡神社が鎮座しています、磯山の総鎮守です。

境内には
狛犬が有りません、創祀者の枕元に狛犬の獅子が現れ「別保(べっぽ)へ連れて行け」と懇願するので、別保村の神社に移したといいます。

 次いで右手に専照寺があります、鎌倉時代から昭和にかけて代々の住職が撰述、書写、収集した経典類は鈴鹿市有形文化財指定です。

突当りの
磯山2号地下道にて国道23号線を横断します(白色矢印)。

中ノ川中ノ川橋で渡ると鈴鹿市から津市に入ります(白色矢印)。

東千里交差点を左折し、近鉄名古屋線を踏切道千里第1号にて横断します。
専照寺 地下道 市境 近鉄踏切

 直進して瓶冠(かめかむり)を渡ります。

正面のY字路分岐は
巡礼道追分です、伊勢参宮道は右(白色矢印)です、左(黄色矢印)が巡礼道です。

巡礼道は
下街道浜街道とも呼ばれ、古伊勢参宮道といわれています。

右に進むと
甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂があります、元は光明院といい、伊勢参宮者の道中安全を祈願し、を接待しました。

地蔵堂の屋根の上には
露盤(ろばん)の代わりに瓦製の(かま)を置き、宝珠(ほうじゅ)の代わりに水甕(かめ)が伏せてあります。

本尊は
石地蔵で三代目です、初代、二代目の地蔵は脇に安置されています。
巡礼道追分 甕釜冠地蔵堂

 先に進むと左手に本福寺(ほんぷくじ)があります、親鸞の直弟子西念坊の創建です、西念房は六歳の時に父が戦死し、生きる意義を求め親鸞を訪ね弟子になりました。

次いで
尾前(おざき)神社が鎮座しています、平安時代末、伊勢國に悪疫が流行った時、朝廷より獅子頭が奉納され、獅子舞祈願を行うと悪疫が平癒しました。

以来四年に一度、家内安全、五穀豊穣の
獅子舞神楽が奉納されます。

わずかに進むと左手に真宗高田派潮音山
正法寺があります。
本福寺 尾前神社 正法寺 丹羽君碑

 先の左手に
丹羽君碑があります、丹羽家は紀州藩白子の大庄屋廻船問屋を営み、五十人同心として白子湊を差配しました。

 突当りの変則十字路を右折(白色矢印)します、神宮方面からは左折になります。

名鉄名古屋線を
踏切道千里第1号にて横断し、千里(ちさと)駅前交差点にて国道23号線を横断します。

刻限はPM1:00を過ぎました、国道沿いには
食事処が揃っています。

烈タンタン麺一番亭に決定!
変則十字路 担々麺 セットカレーライス

 隣がカレー屋さんでしたので頭の中にカレーの残像が残り、上記のランチセットになりました、満腹です!!


 PM1:50 上野宿着 津宿まで 9.4km

 千里駅前交差点に戻り、リスタートです!
突当りの
Y字路を左(白色矢印)に進みます、神宮方面からは右折になります、この分岐点には理容チサトがあります。

右手の
田中地蔵堂を越し、田中川大蔵橋にて渡ります。

大蔵橋の南詰が
上野宿の北口です、ここには常夜燈があり、茶屋がありました、上野宿に到着です!

上野宿は延享二年(1745)の記録によると宿内家数は三百十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十三、茶屋二十九、酒屋五軒で御七里役所があり、宿内人口は千百五十七人でした。
Y字路分岐 田中地蔵堂 上野神社

 津市上野公民館を過ぎると右手に
上野神社社標があります。

 参道を上り、県道を横断すると上野神社が鎮座しています、明応二年(1493)伊勢国司北畠顕能(あきよし)の祈願社として創建されました。

永禄年間(1558~70)
織田信長は太刀鎧等を奉納し、慶長六年(1601)初代上野藩主分部光嘉(みつよし)は社領五石の黒印を寄進し、上野城の守護神とし、初代紀州藩主徳川頼宣が社殿を二度にわたって造営しました。

宿並に戻る際に県道を右に進むと左手に
円光寺があります、上野藩主分部氏の菩提寺で墓所には一族の墓があります。
上野神社 円光寺・分部家墓所 最勝寺

 宿並に戻ると右手に
最勝寺があります、明応二年(1493)の創建で河芸町北黒田にある七堂伽藍の大寺であった浄光寺の末寺です。

境内には上野城内にあった地蔵を
延命地蔵として安置し、鋳物師五代目辻越後守種茂の手による梵鐘があります。

 宿並を進むと左手に虫籠窓(むしこまど)連子格子の旧家があります、屋号を江戸屋と称しました。

次いで左手に
弘法井戸があります、この辺りの地下水は鉄分が多く飲料に適さず里人は難渋していました。

ここを通りかかった
弘法大師が地面に錫杖を差すと清水が湧き出ました、井戸には弘法大師を祀り、民家十三軒が共同で維持管理しました。

スグの
枡形内に道路改修記念碑があります。
虫籠窓連子格子 弘法井戸 枡形 道路改修碑

 枡形の辺りが上野宿の中心で西側に
丸屋本陣、東側に脇本陣問屋場高札場がありました。

 わずかに進むと右手に上野城跡登り口標柱があります、元亀元年(1570)織田信長の弟信包(のぶかね)が築城し、居城としました。

天正八年(1580)信包は
津城に移り、分部光嘉が城主となり、徳川の世になると初代上野藩主となり、その後二代目上野藩主分部光信が近江國大溝藩へ移封すると廃城となりました。

宿並に戻ると左手に復元
道路元標「白子町へ壹里参拾壹町九間」「距津市元標貳里拾六町四拾参間」があります、ここにあった大正二年(1913)建立の木製道路元標は中央公民館に保存されています。
上野城址 道路元標跡 光勝寺

 先に進むと右手に
光勝寺があり、参道口に馬頭観世音があります。

慶長六年(1601)上野城主
分部光嘉が早世した嫡子光勝の菩提を弔う為に創建し祈願寺としました。

観音堂の
馬頭観世音菩薩初午(はつうま)観音と呼ばれ、篤く崇敬されました。

【弥次喜多道中】 
上野宿に着くと南瓜(かぼちゃ)の胡麻汁(ごまじる)が弥次さんの道々の狂歌を褒めると、いい気になった弥次さんは十辺舎一九と名乗り、雲出まで同行することになりました。

上野宿を後にすると胡麻汁が「ここは
小川(こがわ)と申すところで饅頭が名物、一つ上がりませんか」とすすめられると弥次さんは「イヤ饅頭には懲り果てた、真直ぐ参りましょう」といい「から尻のうまい名代を旅人にくいつかせんと売れるまんぢう」とひねりました。

道なりに進むと右手に
三重県安芸(あげ)郡河芸町役場跡標石があります、向いの河芸交番前交差点を横断し、中瀬旧道に入ります。
弥次喜多 上野宿 河芸町役場跡 高山地蔵尊

 旧道を進むと右手民家前に
中瀬地蔵尊があります。

先の右手に
高山地蔵尊があります、ここは刑場跡で、地蔵は刑死者の霊を慰め菩提を弔っています。

 中瀬旧道は中瀬交差点にて国道23号線に吸収されます。

中瀬交差点の左手には
痔神社が鎮座しています、痔神大明神を祀っています、御神体は海を渡ってきた白蛇といわれ、元は地の神として祀られていましたが、今は痔の神になっています、毎年四月三日は祭礼で賑わいます。

中瀬交差点を横断し、西側の歩道を歩きます。

白塚団地入口交差点の先を斜め右に入ります、
栗真旧道の北口です、この分岐点には上小川バス停ヤマト白蟻研究所があります。

旧道に入ると右手に
水準点があります。
痔神社 栗真旧道北口 水準点

 旧道を進むと右手に地蔵堂があります。

小川集会所の先を右に入ると
善行寺があります、境内に道標「是より尓しい志んでん道(是より西一身田道)」があります、古刹真宗高田派本山専修寺への道しるべです、道標の並びには男女双体道祖神があります。

旧道に戻る途中を右に進むと
観音寺があります、本尊は十一面観音です。

観音寺の向いに
火袋石が失われた文化三年(1806)建立の太神宮常夜があります、金比羅大権現と刻まれています。
地蔵堂 道標 観音寺 常夜燈

 旧道に戻って進み、近鉄名古屋線を踏切道高田本山第7号にて横断します。

スグの左手に
逆川(さかがわ)神社が鎮座しています、延喜式神名帳に記載された古社です、境内の川が伊勢湾とは逆の方向に流れているところに由来しています、境内にある弁天池の水は手足のひびしもやけに霊験あらたかといいます。

右手の中山会館脇に入ると
寒紅梅酒造があります、創業安政元年(1854)銘酒寒紅梅の蔵元です。

伊勢路の旧家の特徴の一つに
幕板(まくいた)があります、軒下の(ひさし)の下に更にを追加した建築様式で、板暖簾大垂(おおだれ)とも呼ばれ雨除け、日除けの役目を果たしています。
近鉄踏切 逆川神社 幕板

 左図の通りに信号交差点を左折し、一本目を斜め右に入ります、王将からファミマ間に国道の横断歩道がありません、栗真中山町交差点にて迂回します。

旧道を進むと
巡礼道追分があります、甕釜冠地蔵堂前からの巡礼道はここで伊勢参宮道に合流します。

追分には天保十年(1839)建立の
両宮常夜燈追分道標「右白塚豊津道 左上野白子神戸四日市道」、名残りの松があります。
栗真旧道南口 巡礼道追分

 先に進むと左手に町屋常夜燈があります、嘉永四年(1851)建立の両宮常夜燈には「五穀成就、孟夏(もうか)津領」と刻まれています。

町屋町は往時
根上村と呼ばれました、路傍に老松があり、その根が六尺も立ち上がり人がくぐれたといいます。

三重大学前交差点にて国道23号線に合流し、先の江戸橋北詰交差点を斜め右に進みます。

志登茂川江戸橋にて渡ります、志登茂川は椋本に源を発し、流末は伊勢湾に注ぎます。

江戸橋は往時土橋でした、津藩主参勤の見送りもここまでであったところから
江戸橋と命名されました、渡詰めが津宿の北口です、津宿に到着です!
町屋常夜燈 江戸橋

 PM3:35 津宿着 高茶屋まで6.5km

 津宿は藤堂高虎が海岸沿いの伊勢参宮道を城下に引き入れ、三十二万石の城下町として発展させました。

宿並には工商が軒を連ね
繁花富饒(ふにょう)の地で「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ」と詠われ大いに賑わいました。

江戸橋南詰先の
十字路江戸橋追分です、右方向が伊勢別街道、左方向が伊勢参宮道です、この分岐点には安永六年(1777)建立の江戸橋常夜燈と明治二十二年(1889)建立の道標「左高田本山道東京占とをりぬけ」があります。

【弥次喜多道中】
ご両人一行が
江戸橋追分に到着すると上方筋(伊勢別街道)からの参宮の人々で往来は大層な賑わいです。
江戸橋常夜燈 弥次喜多道中 江戸橋追分

 胡麻汁は上方からの者は立派な恰好はしているが銭使いはまっるきり
シワイという、煙草の火を借りる振りをして煙管の煙草を吸い上げてしまう京の人をシワンボウといった、そのくせ胡麻汁も人の煙草ばかり吸っている。

 宿並の右手に深正寺(じんしょうじ)があります、寺宝の絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図は三重県有形文化財指定です。

二十五菩薩来迎図とはあの世に行くときに二十五菩薩阿弥陀如来が極楽浄土へ導くという浄土宗の教えを表現した仏画です。

並びに
阿部喜兵衛商店があります、寛永年間(1624~44)創業の造り酒屋で、津藩の御用を勤めました、明治からは味噌醤油醸造業に変わりました、建物は江戸時代後期の建築で津市有形文化財です。

旅館八百善に立ち寄りましたが満室でした。
深正寺 阿部喜兵衛商店 小丹神社拝殿

 次いで右手に
小丹(おに)神社拝殿があります、延喜式神名帳に記載された古社で、社殿は上浜西の山上に鎮座しています。

 先に進むと右手の上浜南公園内に鶴之宮遺跡碑があります、二代目津藩主藤堂高次がこの辺りの原野でを射止めると瑞兆であるとして鶴之宮を創建し、明治維新まで津藩が管理しました。

明治四十年(1907)
小丹神社に合祀されました、境内には鶴宮と刻まれた宝永五年(1708)建立の常夜燈があります。

ホテルエコノ津駅前にチェックインです、しかし刻限はマダ午後4:10です、ここで歩みを止める訳には行きません、前進です。

津駅前郵便局先を右に入ると
蓮光院初馬寺があります。
鶴之宮遺跡碑 ホテルエコノ 蓮光院初馬寺

 本尊は
聖徳太子が四十二歳の厄年の時、四天王寺の建立を発願し伊勢の地へ来ましたが病に罹り、病平癒祈願に自ら刻んだと伝わる馬頭観世音菩薩像です、三月初午の日は厄除け祈願の参拝者で大いに賑わいます。

本堂に安置する
大日如来坐像阿弥陀如来坐像は国の重要文化財です、当寺は津藩主藤堂家の祈願寺でした。

 宿並に戻ると左手に真宗高田派の心覚寺があります。

信号交差点先の右手奥に
四天王寺があります、推古天皇の勅願により、聖徳太子の創建と伝えられています。

山門は寛永十八年(1646)二代目津藩主藤堂高次が建立したものです(津市有形文化財)。

墓所に信長の母
土田(どた・つちだ)御前の墓があります、本能寺で信長が没すると、津城主の信長の弟信包(のぶかね)をたよって津に移り、この地で亡くなりました。
心覚寺 四天王寺 土田御前墓

 同じく墓所には
藤堂高虎の正室久芳(きゅうほう)夫人の墓があります。

境内に元文二年(1737)津の俳人
菊池二日坊が建立した芭蕉翁文塚があります。

絹本着色の
聖徳太子像と承保四年(1077)仏師定朝作の薬師如来像は国重要文化財です。

 突当りの安濃川(あのうがわ)を左折(白色矢印)します、安濃川は錫杖ケ岳に源を発し、流末は伊勢湾に注ぎます、塔世川とも呼ばれ、津城の天然の外堀でした。

古に
安濃津(あのうつ)と呼ばれる湊がありましたが、地震によって壊滅し、のみが地名として残りました。

塔世橋の渡詰め右手に明治十一年(1878)架橋の
高欄が保存されています、この高欄には太平洋戦争時の空襲による被弾の痕跡を残しています。

この先には城下町特有の
八曲りがあります、津市北丸之内歩道橋のスグ先を左折(白色矢印)します、この分岐点にはメンズサロンがあります。
安濃川 塔世橋 ①津城下八曲り

 次いで一本目を右折(白色矢印)します、②津城下八曲りです、この分岐点にはさつき美容院があります。

先に進み十字路を左折します、③
津城下八曲りです、この分岐点には旧町名立町標石があります。

先の十字路を右折(白色矢印)します、④
津城下八曲りです、この分岐点には明治二十五年(1892)建立の道標「右さんぐうみち 左こうのあみだ」があります。

この十字路を左折(黄色矢印)すると正面に
観音寺があります、津観音の名で知られ、日本三観音(江戸浅草観音、尾張大須観音)の一つです。
②津城下八曲り ④津城下八曲り 観音寺

 
徳川将軍家代々から寺領百石、津藩主藤堂家からは祈願寺として六十石の朱印を拝領しました。

昭和二十年(1845)七月二十四日太平洋戦争の
津大空襲により、四十一棟あった堂宇は全て焼失し、現在の堂宇はその後の建立です。

 宿並に戻って進むと左手の百五銀行辺りが津宿本陣跡、先左手のニューマツザカヤ辺りが津宿脇本陣跡です。

スグの大通りの十字路を横断します、この大通りを右に進むと
津城があります。

津城は戦国時代に長野氏一族の細野藤光安濃川(塔世川)、岩田川を天然の外堀として小規模な安濃津城を構えたことに始まります。

永禄十二年(1569)
織田信長の弟信包が入城し、徳川の世になると関ケ原の合戦に功があった藤堂高虎が入城し、更に大坂の役で功を挙げ二十二万石から三十二万三千石に加増され大大名となり、明治維新まで存続しました。
津宿本陣跡 津宿脇本陣跡 津城

 高虎は
城郭を大改修し、輪郭式の城郭に変貌させました、高虎は築城技術に長け、石垣を高く、勾配を直線的に積み上げるところに特徴があります、これに対し加藤清正武者返しと呼ばれる石垣の反りを重視し、「清正の反り、高虎の高さ」といわれました。

 宿並に戻って先に進み十字路を右折(白色矢印)します、⑤津城下八曲りです、正面にNTTアンテナが望めます、この分岐点にはブティックステップがあります。

先の
十字路を左折します、⑥津城下八曲りです、この分岐点には旧町名分部町標識、清観堂和菓子店があります。

突当りの
岩田川を右折(白色矢印)します、⑦津城下八曲りです、ここが岩田口見付跡で津宿の南口です。

ここを左に進むと
寒松院(かんしょういん)があります、歴代津藩主藤堂家の墓があります、藤堂高虎は寛永七年(1630)江戸藩邸で死去しました、享年七十五歳でした。
⑤津城下八曲り ⑥津城下八曲り ⑦津城下八曲り

 上野寛永寺山内に葬られ、二代目津藩主
高次は津城下の昌泉院に祀り、寺号を高虎の戒名(法名)高山院寒松道賢からとって寒松院 と改称しました、境内には大きな五輪塔があります。

岩田川は片田薬王寺町に源を発し、流末は伊勢湾に注ぎます、津城の天然の外堀でした。

 岩田橋を渡ります、⑧津城下八曲りの最後です、50mほど下流に二代目津藩主藤堂高次が架橋した木橋がありました。

右手に
円通寺があります、参宮者に茶を接待し、不浄を消す清めのお茶といわれ、津藩主も神宮参拝の折には、ここで茶を喫することになっていました。

先に進むと左手に浄土宗の
浄安寺があります、街道に面して鐘楼門があります。
岩田橋 円通寺 浄安寺 大市神社

 次いで右手に
大市神社が鎮座しています、延喜式神名帳に記載された古社で、当時は川松明神と呼ばれました、岩田の産土神です。

 岩田交差点を越し、即斜め左に入ります、この分岐点には若葉病院看板があります。

旧道に入ると左手に
旧町名立合町標石があります、町内に米相場の立合所がありました。

縄手道を進み、うなぎ川治前の
県道114号線を横断します。

真教寺閻魔堂の並びに
阿漕山真教寺地蔵堂があります、子育延命地蔵が安置されています。
岩田分岐 立合町 うなぎ川治 子育延命地蔵尊

 真教寺閻魔堂は二代目津藩主藤堂高次が角町の守護として創建しました。

本尊の
閻魔大王坐像は天和二年(1682)の造立、十一面観音立像は寛文十一年(1671)法隆寺での修行直後の円空作です。

閻魔堂周辺は街道の名所の一つで、
立場があり茶屋や蕎麦屋が軒を連ね賑わいました。

閻魔堂の並びに
市杵島姫(いちきしまひめ)神社が鎮座しています、伊勢国司北畠氏の守護神でした、市杵島姫神は仏教の弁財天と習合したところから弁財さんと呼ばれ親しまれています。

御神木の
大イチョウは樹齢四~五百年で太平洋戦争の津空襲の際に湯気を発して社殿を包み込み類焼を防いだといいます。
真教寺閻魔堂 市杵島姫神社

 閻魔堂の先に真宗高田派の教円寺があります。

幕板の旧家の並びに
阿漕(あこぎ)町神明神社が鎮座しています、この地に悪疫が流行った時、伊勢神宮の神霊を祀ると悪疫が平癒しました、以来阿漕町の守護神として篤く崇敬されています。

阿漕ケ浦は伊勢神宮に供える魚を獲るため禁漁区でした、漁夫の阿漕の平次は繰り返し密漁を行い、高値で魚を売りさばき、これが阿漕な商売の語源となりました。

街道の右手に創業明治二十年(1887)鈴鹿山系の伏流水による酢醸造の老舗
山二造酢があります。
教円寺 阿漕町神明神社 山二造酢

 わずかに進むと左手に薬師如来庵跡があります、伊勢国司北畠氏の祈願仏であった薬師如来像を厨子に入れて安置し薬師如来庵と称しましたが平成十八年(2006)火災により焼失しました。

先に進むと左手に
八幡神社社標があります、足利尊氏男山八幡宮の分霊を垂水の千歳山に鎮座させ、二代目津藩主藤堂高次が寛永九年(1632)結城の森に遷座させ、父高虎の神霊を合祀して藤堂家の鎮守社としました。

並びに
結城神社が鎮座しています、文政七年(1824)十代目津藩主藤堂高兌(たかさわ)の創建です、後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府を倒し、津で病没した結城宗広を祭っています。

太平洋戦争の津大空襲によって
社殿は灰燼に帰しましたが、昭和三十年代に復興し、境内には枝垂れ梅が三百本余りがあります。
薬師如来庵跡 八幡神社

 わずかに進むと左手に地蔵堂があります、弘法大師作地蔵尊が安置されています、この地蔵に願を掛け、富士詣でに出た者が山中で道に迷うと旅姿の地蔵が現れ、救われたといいます。

次いで右手に
史蹟明治天皇津八幡町御小休所碑があります、明治十三年(1880)巡幸の際、ここで休息しました。

先の枡形に
八幡神社社標があります。

突当りを斜め右に向きを変えると
思案橋があります、手前の黄色矢印が香良洲道です。
地蔵堂 明治天皇碑 八幡神社 香良洲道追分

 香良洲(からす)神社は天照大御神の妹神稚日女尊(わかひるめのみこと)を祀っているところから「お伊勢詣(まい)らば香良洲に詣れ、香良洲詣らな片参宮」といわれました。

思案橋を渡ります、参宮者はここで香良洲に詣でるか否か思案しました、この辺りは遊郭で文政六年(1823)架橋の思案橋欄干には妓楼の屋号山半が陽刻されています。

 国道23号線を垂水南交差点にて横断します、次いでJR紀勢本線を藤枝踏切にて横断します。

先の
変則T字路を左折します、神宮方面からは斜め右に進みます、この分岐点には交互通行式信号機が設置されています。

先の右手に
成就寺があります、本尊は行基所縁の大日如来坐像です、境内には西行法師所縁のさる稚児桜があります、法師が成就寺に立ち寄ると一人の子供がスルスルと桜の木に登りました、法師が「さるちごとみるより早く木にのぼり」と上の句を口ずさむと木の上の子は「犬のようなる法師きたれば」と見事な下の句を返したといいます。
藤枝踏切 垂水分岐 成就寺

 参道口に安永二年(1773)建立の道標「大日如来出現所香水道従是四丁」があります、行基が大日如来像を掘り出すと、痛みがある病に霊験あらたかな香水が湧き出ました。

病に悩む
白河上皇にこの香水を献上したところ、病が平癒し、ここに七堂伽藍の成就寺を造営しました。織田信長の伊勢侵攻の兵火でこの七堂伽藍は焼失しました。

次いで右手に
金剛寺があります、旧成就寺七堂伽藍の塔頭(たっちゅう)でした、境内には台石念仏塚があります。

並びの
南昌寺も旧成就寺七堂伽藍の塔頭でした。

先の右手に
須賀神社が鎮座しています、水に不自由した垂水村産土神で水源地に祀られています、境内には首なし地蔵があります、織田信長北畠家を攻略する際に切られました。
南昌寺 須賀神社

 二つ目の十字路の右手に式内加良比之(からひの)神社社標と明和元年(1764)鋳造の銅製常夜燈があります。

加良比乃神社は延喜式神名帳に記載された古社です、遷座地を求めて遍歴中の倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を当社の神殿に鎮座させました、この地は水利が不便なため樋で水を引いていたところから片樋宮(かたひのみや)とも称されました。

街道に藤方バス停があります、
藤潟とも書かれ、この地では中世から近世にかけて製塩が行われていました。

相川相川橋で渡ります、相川は風早池に源を発し、天神川、月見川、川関川を吸収し、流末は伊勢湾に注ぎます、安濃郡一志郡の境を流れているところから間の川と呼ばれました。
銅製常夜燈 相川

 PM6:07 高茶屋到着

 先に進み天神川天神橋で渡ります、天神川は野田池に源を発し、流末は相川に落合います。

渡詰めの右手に
称念寺があります、参道口に六阿弥陀堂があり、脇に石標「円光大師 津 二十五霊場十五番」があります、円光大師は浄土宗開祖の法然のことです、境内には常夜燈があります。

次いで右手に
高茶屋神社があります、伊勢参宮勅使の休泊所でした、鳥居前に文久三年(1863)建立の「十三社」と刻まれた春日型常夜燈があります。

高茶屋村は
間の宿桜茶屋と呼ばれる立場茶屋があり、富士が望め、ねり酒と貝焼きが名物でした。
称念寺 称念寺常夜燈 高茶屋神社

 PM6:07
葛井酒店(廃業)に到着です、ここが高茶屋の起点です、無事到着しました!

酒店はお正月休みです、お酒の自販機もお正月休みです、残念!!

この酒店を左に下ればJR紀勢本線
高茶屋駅です!!!

津駅行きはPM6:52です、40分待ちです、無人駅の待合室での一字です。

津駅に着くと津の町に人気(ひとけ)はありません、居酒屋も正月休みです、昼の飯がまだボディーブローの様に効いています。

今宵は缶チューハイとつまみだけで十分です。

ホテルの風呂に入り、ストレッチそして缶チューハイのプルトップを開け、一口飲みプァーッと一息。

テレビのスイッチを入れ、明日の天気の確認、これが良いんだナー。




翌 日