日永の追分の鳥居は二の鳥居と呼ばれました。 追分には寛永二年(1849)建立の追分道標「左いせ参宮道 右京大坂道 すぐ江戸道」があります。 当初、ここにあった明暦二年(1656)建立の追分道標「京 山田 南無阿弥陀仏 専心」は天照大御神を祀る日永神社に移設し保存されています、この追分道標は東海道最古の道標です。
並びには役の行者像、山神、庚申塔があります。
高岡城は本能寺の変後廃城となりました。
川名は大海人皇子(おおあまのおうじ 天武天皇)が洪水で渡河に難渋していると、鈴をつけた鹿が現れ、皇子を背に乗せて川を渡ったという古事に由来しています。 高岡橋にて鈴鹿川を渡ります。 橋銭は一人二文で、十辺舎一九は東海道中膝栗毛の中で「抜けまいりならばぶさをもうつべ川 わたしの銭もかりばしにして」と詠んでいます。
条里制とは古代から中世後期にかけて行われた土地区画制度で、耕地を六町(約655m)間隔で縦、横に区切り、この一区画を里といいました。 街道の両側には田園風景が広がり、北西方向には鈴鹿山系の竜ケ岳(りゅうがたけ)が望めます。
延喜式神名帳に記載された古社です、徳川家康の家臣一柳直盛が神戸五万石の城主となり、大坂出陣の際に刀矢を奉納したところから弓矢八幡宮と呼ばれ、代々の藩主から篤く崇敬されました。
十辺舎一九は東海道中膝栗毛の中で「安穏に火除け地蔵の守るらん夏の暑さも冬の神戸も」と詠んでいます。
徳川の世になると一柳直盛が五万石で入城し、神戸藩が成立し、享保十七年(1732)本多忠統(ただむね)が入封し、本多氏の治世は百四十年間七代忠貫(ただつら)まで続き、明治八年(1875)神戸城は解体されました。
先の右手小路口に嘉永四年(1851)建立の道標「大日如来道 鎌倉権五郎景政古跡塚」と大正十四年(1925)建立の道標「鎌倉権五郎景政舊跡塚是ヨリ一丁奥にアリ」があります。
街道に戻ると、スグ先で伊勢鉄道線のガードをくぐり、鈴鹿駅入口交差点を横断します。 旧道は宇気比神社前交差点から復活します、斜め右の旧道に入ると左手に燈籠と鳥居があり山神が祀られています。
当家は抜け参りを無料で宿泊させ、翌朝には小遣い銭をもたせて出立させました。
新川を島橋にて渡ると、右手に天白神社が鎮座しています、伊勢神宮を祀っています、境内には燈籠、山神、表忠碑があります。
この分岐点には文化四年(1807)建立の自然石道標「右さんぐう道」があります、先を枡形状に進みます。
享保十七年(1732)この地に大干ばつが起こった際、この松の側を掘り返したところ地蔵菩薩像が出土し、その下から水が沸き出し地域の田畑を潤したといいます。 享和二年(1802)大松のそばに地蔵堂を建立しこの地蔵菩薩像を安置しました。
先の右手に山神が祀られています、ここが玉垣村の南口です。
晩年に失明しましたが「昼間だにくらきましひも嬉しきは物にまよはぬ心なりけり」と農事にかけた心意気を歌っています。
紀州藩白子代官所の高札場で、この辺りには大きな廻船問屋が集まり、湊の出入港を取り仕切る五十人同心がいました。
白子湊は江戸店持ちの木綿問屋達が白子廻船を利用したことで木綿の集散地となり、九十九里浜からは干鰯(ほしか)が陸揚げされて伊勢、近江大和の綿作地帯に送られ、湊には廻船問屋のほかに干鰯問屋が軒を連ねていました。
今は社名のくるまに由来し、鈴鹿サーキット関係者に篤く信仰されています。
境内の銅燈籠は寛文六年(1666)の鋳造です、津釜屋町の鋳物師辻越後守玄種(もろたね)の手によるものです(三重県有形文化財)。
儒者の別府梅荘(ばいそう)は文政十年(1827)、河芸郡上野村に生まれ、ここ寺家の住人で若い頃から絵をよくし、生け花や煎茶にも優れ、明治二十八年(1895)京都で病没しました、享年六十九歳でした。
先で近鉄名古屋線を踏切道磯山第7号にて横断します。 次いで右側の寺家地下道にて国道23号線を横断します。
街並を進むと右手に八幡神社が鎮座しています、磯山の総鎮守です。 境内には狛犬が有りません、創祀者の枕元に狛犬の獅子が現れ「別保(べっぽ)へ連れて行け」と懇願するので、別保村の神社に移したといいます。
先の左手に丹羽君碑があります、丹羽家は紀州藩白子の大庄屋で廻船問屋を営み、五十人同心として白子湊を差配しました。
隣がカレー屋さんでしたので頭の中にカレーの残像が残り、上記のランチセットになりました、満腹です!!
津市上野公民館を過ぎると右手に上野神社社標があります。
宿並に戻ると右手に最勝寺があります、明応二年(1493)の創建で河芸町北黒田にある七堂伽藍の大寺であった浄光寺の末寺です。 境内には上野城内にあった地蔵を延命地蔵として安置し、鋳物師五代目辻越後守種茂の手による梵鐘があります。
枡形の辺りが上野宿の中心で西側に丸屋本陣、東側に脇本陣、問屋場、高札場がありました。
先に進むと右手に光勝寺があり、参道口に馬頭観世音があります。 慶長六年(1601)上野城主分部光嘉が早世した嫡子光勝の菩提を弔う為に創建し祈願寺としました。 観音堂の馬頭観世音菩薩は初午(はつうま)観音と呼ばれ、篤く崇敬されました。
旧道を進むと右手民家前に中瀬地蔵尊があります。 先の右手に高山地蔵尊があります、ここは刑場跡で、地蔵は刑死者の霊を慰め菩提を弔っています。
胡麻汁は上方からの者は立派な恰好はしているが銭使いはまっるきりシワイという、煙草の火を借りる振りをして煙管の煙草を吸い上げてしまう京の人をシワンボウといった、そのくせ胡麻汁も人の煙草ばかり吸っている。
次いで右手に小丹(おに)神社拝殿があります、延喜式神名帳に記載された古社で、社殿は上浜西の山上に鎮座しています。
本尊は聖徳太子が四十二歳の厄年の時、四天王寺の建立を発願し伊勢の地へ来ましたが病に罹り、病平癒祈願に自ら刻んだと伝わる馬頭観世音菩薩像です、三月初午の日は厄除け祈願の参拝者で大いに賑わいます。 本堂に安置する大日如来坐像と阿弥陀如来坐像は国の重要文化財です、当寺は津藩主藤堂家の祈願寺でした。
同じく墓所には藤堂高虎の正室久芳(きゅうほう)夫人の墓があります。 境内に元文二年(1737)津の俳人菊池二日坊が建立した芭蕉翁文塚があります。 絹本着色の聖徳太子像と承保四年(1077)仏師定朝作の薬師如来像は国重要文化財です。
徳川将軍家代々から寺領百石、津藩主藤堂家からは祈願寺として六十石の朱印を拝領しました。 昭和二十年(1845)七月二十四日太平洋戦争の津大空襲により、四十一棟あった堂宇は全て焼失し、現在の堂宇はその後の建立です。
高虎は城郭を大改修し、輪郭式の城郭に変貌させました、高虎は築城技術に長け、石垣を高く、勾配を直線的に積み上げるところに特徴があります、これに対し加藤清正は武者返しと呼ばれる石垣の反りを重視し、「清正の反り、高虎の高さ」といわれました。
上野寛永寺山内に葬られ、二代目津藩主高次は津城下の昌泉院に祀り、寺号を高虎の戒名(法名)高山院寒松道賢からとって寒松院 と改称しました、境内には大きな五輪塔があります。 岩田川は片田薬王寺町に源を発し、流末は伊勢湾に注ぎます、津城の天然の外堀でした。
次いで右手に大市神社が鎮座しています、延喜式神名帳に記載された古社で、当時は川松明神と呼ばれました、岩田の産土神です。
香良洲(からす)神社は天照大御神の妹神稚日女尊(わかひるめのみこと)を祀っているところから「お伊勢詣(まい)らば香良洲に詣れ、香良洲詣らな片参宮」といわれました。 思案橋を渡ります、参宮者はここで香良洲に詣でるか否か思案しました、この辺りは遊郭で文政六年(1823)架橋の思案橋欄干には妓楼の屋号山半が陽刻されています。
PM6:07葛井酒店(廃業)に到着です、ここが高茶屋の起点です、無事到着しました! 酒店はお正月休みです、お酒の自販機もお正月休みです、残念!! この酒店を左に下ればJR紀勢本線高茶屋駅です!!!
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