道中日記  2-155 伊勢参宮道 (高茶屋- 内宮宇治橋) 37.5km

 この季節、日の出はAM7:00少し前です、テレビで天気を確認します、上々です。

身支度を整え1階フロアーで
朝食です、軽いものしかありませんが十分です、ギッチリ食し、そして水分を十分に摂りチェックアウトです。

目の前のJR紀勢本線に飛び乗ります、前日に時刻表をチェックしてありますからピッタリです。

 平成20年01月04日 AM7:40 高茶屋出立 雲出宿まで2km

 JR紀勢本線津駅より2駅で高茶屋駅に到着です。

空気が冷えピーンと張り詰めています。

伊勢参宮道に直行し、昨日の終了地点
葛井酒店(廃業)前をイザ出立です。

先に進むと
逆Y字路があります、神宮方面からは左に進みます。

次いで
国道165号線ガードをくぐります。

スグ先のJR紀勢本線の
高茶屋踏切をクランク状に横断します。
高茶屋駅 国道ガード 高茶屋踏切

 先に進むと右手に玉造院があります、境内に新四国八十八ケ所の石柱石仏があります。

わずかに進み、用水路の手前を右に踏み込むと右手に
山神が四基祀られています。

池田村の南北口に祀られていたものです。

津市雲出市民館を過ぎると左手に
津市殿木地区圃場整備事業記念碑があります。
玉造院 山神

 AM8:06 雲出宿着 松阪宿まで9.6km

 先の信号交差点を越すと雲出宿に到着です!

雲出(くもず)は
雲津とも書かれました、雲出は雲出藩蒔田広定一万石の所領でしたが、慶長十年(1605)備中國浅尾藩に移封すると、雲出藩は廃藩となり、藤堂高虎の津藩領となりました。

雲出宿は
雲出川の渡しを控え賑わいました。

宿並の左手に
史蹟明治天皇島貫御小休所阯碑があります、柏屋本陣跡です、明治二年(1869)、同十三年(1880)同家が休息所となりました。

碑脇の小路に踏み込むと
マキの大樹があり、根方に山ノ神が祀られています。

本陣跡先の左手に
道標「神明道」があります、雲出長常村の神明社への道しるべです。
雲出本陣跡 道標

【弥次喜多道中】
弥次さんは
十返舎一九に、喜多さんはその弟子になりすまし、雲出宿に到着です。

道連れになった南瓜の胡麻汁の家に案内されると、運ばれた膳の中に石があった、二人は不思議でならなかったが見栄をはって喰ったと澄ましていう、ところがこれは
コンニャクを叩く焼石でした。

さらに江戸から本物の
十返舎一九がやって来て、化けの皮が剥がれ、夜中嘲笑を背に追い出されました。

ご両人は旅籠も見つからぬまま夜道を歩いていると、軒下の犬がいっせいに吠えかかってきた、弥次さんは盛んに宙に
の字を描いて追い払おうとしました。
弥次喜多道中 雲出宿 弥次喜多道中 雲出宿外れ

 ところがいっこうに逃げない「こいつらみんな無学な犬らしい」と大騒ぎです。


 宿並は雲出川の土手に突き当たります、右折しY字路を左(白色矢印)に進み、土手道に合流します。

このY字路を右に進むと
毘沙門堂跡があります、跡地には「開運毘沙門天霊場 三十三所観世音分身安置 北畠大納言の守護尊」標石があります。

並びに
島貫の松碑があります、根回り2.6mの大マツでしたが昭和三十四年(1959)伊勢湾台風で被害を受け、後に枯れました。

雲出橋の北詰めに天保五年(1834)建立の
常夜燈があります、元は雲出川北岸の渡し場に設置されていました。
雲出川土手口 毘沙門堂跡 雲出橋北常夜燈

 雲出川を雲出橋で渡ります、雲出川は伊勢國(三重県)と大和國(奈良県)境の三峰山(みうねやま)に源を発し、流末は伊勢湾に注ぎます。

流れは
北勢(ほくせい)と南勢(なんせい)の境をなしています、今は津市松阪市の境です。

雲出橋南詰の左手には寛政十二年(1800)建立の
常夜燈があります、元は雲出川南岸の渡し場に設置されていました。

スグ先の右手に
小野古江渡(をののふるえのわたし)碑があります、常は板橋でしたが、水嵩が増すと舟渡しとなりました。
雲出川 雲出橋南常夜燈 小野古江渡跡碑

 土手道を進み旧道に復帰(白色矢印)します、小野江には渡海屋、柿屋、樽屋等の旅籠があり、雲出川が川留めになると賑わいました、街並みの家屋には旧屋号札が掲げられています。

小野江の街並の左手に
松浦武四郎生家三雲村指定史跡松浦武四郎誕生地碑があります。

文政元年(1818)紀州藩士
松浦時春の四男として三雲町小野江に生まれ、弘化二年(1845)二十七歳の時、ロシアの南下を憂い蝦夷地から択捉(えとろふ)樺太までを探査しました。

安政二年(1855)幕府の
蝦夷御用御雇に任命され、明治二年(1869)年には新政府の開拓御用掛となり、蝦夷地を北海道と命名しました。明治二十一年(1888)脳溢血で死去、享年七十一歳でした。
小野江旧道口 松浦武四郎生家 誕生地碑

 小野江駐在所先の右手に常夜燈があります、文政七年(1824)の建立で、台石には江戸乾物問屋中と刻まれています。

先に進み
笠松井(かさまつゆ)を平五郎橋にて渡ります。

大きく蛇行して進むと左手に文政四年(1821)建立の
香良洲道道標「旅神社 小舟江村是より三丁 右からすみち」があります、香良洲道への枝道です。

先に進むと十字路の左手に明治三年(1870)建立の
両宮常夜燈があります。
常夜燈 平五郎橋 香良洲道道標 両宮常夜燈

 右手には天保十三年(1842)建立の奈良街道追分道標「月本おひわけ、右いがご江なら道、右さんぐうみち、左やまと七在所順道(じゅんどう)」があります、高さが3.1mあり伊勢参宮道中最大の道標です。

並びに明治十六年(1883)再建の
変形宮立形燈籠道標「右大和七在所道ならはせかうや道いがごゑ本道」があります。

奈良街道追分は近くに
月讀社があるところから月本追分とも呼ばれ、立場茶屋煮売屋があり賑わいました。

信号交差点を越すと左手に
香良洲道道標「からす道 一志驛跡」があります。

道標横から用水を越えて横道に踏み込むと
勅使塚があります。
奈良道追分道標 香良洲道道標 勅使塚

 養和元年(1181)源氏追討祈願のため
神宮に赴く勅使大中臣定隆一志駅で急逝し、埋葬されたところといいます。

 街道を進むとY字路になります、左に進みます、この分岐点には道標「左さんぐう道 右津みち」、山燈籠そして山神が祀られています。

次いで
十字路を右折します、神宮方面からは左折になります、この分岐点には道標「右さんぐうみち」、金毘羅大権現、そして山ノ神が祀られています。

スグの左小路口に
香良洲道道標「左からす道」があります。

先の左手に
的屋跡標識があります。
参宮道道標 中道十字路分岐 香良洲道道標 的屋跡

 
中道には機関(からくり)の的屋、射的場、文楽芝居小屋等がありました。

 中勢バイパス高架をくぐると左手に昭和五十四年(1979)建立の小津一里塚跡標石「一里塚竜宮橋より南凡そ95メートル」があります、意味不明です。

先に進むと左手に大正三年(1914)建立の
道標「右松阪及山田道」「左津及香良洲道」と明治四十五年(1912)建立の常夜燈があります。

明治になり
参宮線が開通しても白装束姿の参宮者は六軒駅で降り、ここから徒歩で神宮に向かいました。

三渡川三渡橋にて渡ります。
中勢バイパス 小津一里塚跡 常夜燈・道標 三渡川

 三渡川は
鉢ケ峰に源を発し、流末は伊勢湾に注ぎます、川名は潮の干満による渡し場が三ケ所あったところに由来しています。

 三渡橋渡詰の右手に六軒追分道標「い加ごへ追分六けん茶や 右いせみち六軒茶屋 やまとめぐり加うや道 大和七在所順道」があります、奈良、大阪に至る初瀬街道の追分です。

左手には文政元年(1818)建立の
常夜燈があります、大阪の商人が二反の田を付けて寄贈したものです。

六軒茶屋は雲出、松阪の中間に位置し、間の宿でした。

伊勢音頭に「明日はお立ちか、お名残おしゅうや、六軒茶屋まで送りましょう・・・・」と唄われ賑わいました。

街並の各戸には
旧屋号札が掲げられ、旧家を多数残し往時を偲ばせています。
六軒追分道標 常夜燈 旧屋号札

 伊勢路の建物は切妻屋根妻入り造りと庇の下の幕板が特徴です、家屋の出入口が妻側にある建て方です、東海道関宿の建物は平入りが特徴で、正に対照的です。

これは
伊勢神宮の社殿が平入りのため、一般の民家が神宮と同じでは恐れ多いと遠慮したためともいわれます。

街並を進むと変則十字路の左手に
忘井道道標があります、踏み込むと、先の左手に井戸歌碑があります、斎王群行に随行した官女甲斐が都を思い涙ながらに「別れゆく都の方の恋しきにいざ結びみむ忘れ井の水」と詠みました。
切妻屋根妻入り造り 忘井道道標 忘れ井

先の
米之庄神社では三渡で水揚げされた魚の市が立ちました。

 市場庄公会堂は大正七年(1918)神楽寺の境内に建てられた米ノ庄村役場跡です。

先に進み近鉄山田線ガードをくぐると、左手に真新しい
解説板「格子戸の街並み案内」があります、六軒市場庄久米間の街並み図の旧商家に旧屋号が記されています。

並びに久米村の北口に安置された
陽刻地蔵立像があります。

先の
T字路を左折します、この分岐点には庚申堂行者堂山ノ神二基、道標「左さんぐう道」、道標「いおちかんのん」があります。
市場庄公会堂 地蔵尊 T字路分岐

 嘉永五年(1852)建立の
常夜燈は江戸日本橋室町の商人が建立したものです。

 先の左手に舟木家長屋門があります、南北朝時代から続く名家で津藩の城代家老や御典医を勤めました。

並びに
柳福寺があります、本尊は阿弥陀如来像、境内の観音堂本尊は十一面観世音菩薩です、松阪の豪商三井家小津家の帰依を受けました。

スグの用水を越すと
Y字路に突き当たります、左に進みます、神宮方面からは右に進みます。

この分岐点には
庚申堂があります。
舟木家長屋門 柳福寺 庚申堂 山神

 向かいには
山神が二基祀られています。

 県道ガード手前の左手に万延二年(1861)建立の古川水神常夜燈があります、境内には古川水神遥拝所碑山神が二基祀られています。

県道756号線ガードをくぐり、突当りのT字路を右折(白色矢印)します、神宮方面からは左折になります。

塚本船江の境を流れる百々川(どどがわ)手前の右手の奥に富士大権現碑(白色□囲い)が祀られています、この辺りでは村単位で富士講が盛んに行われました。
古川水神常夜燈 県道ガード T字路分岐 富士大権現碑

 百々川塚本橋にて渡ると左手に嘉永五年(1852)建立の両宮常夜燈があります、台石には江戸日本橋室町紅林氏と刻まれています。

先でJR紀勢本線・名松線を
船江踏切にて横断します。

右手の
延命院薬師寺行基の開基といいます、本堂は承応二年(1653)の建立、本尊の薬師如来坐像は三重県指定有形文化財、唐様式に和様式を取り入れた仁王門は松阪市指定有形文化財です。

織田信長大河内城を攻めあぐね、次男の信雄(のぶかつ)を北畠家の養子に入れ和睦、その際信雄は当寺にて義父になる北畠具房(ともふさ)と対面しました。
両宮常夜燈 船江踏切 薬師寺

 鬼の様な攻めをする
信長が先の神戸といい、伊勢では平和路線を貫いています、伊勢の地を血で汚すのを避けたのでしょうか、興味深いですね。

境内に
芭蕉句碑「梅が香にのっと日の出る山路かな」があります、元禄七年(1694)芭蕉晩年の五十一歳の句です。

 街道に戻って進むと、宇佐美豆腐店前にY字路があります、右(白色矢印)に進みます、神宮方面からは左に進みます。

船江町東交差点を横断し、先を枡形状に進みます。

突当りの
Y字路を左折(白色矢印)します、神宮方面からは右折になります、この分岐点には旧型ポストがあります。

船江町から川井町に入ります、川井町口には黒門があり松阪宿の北口手前にあって「酒楼妓院軒を並べて弦歌湧くが如く、遊客群集す」といわれ多くの茶屋娼家が軒を並べ賑わいました。

街並には
虫籠窓をあしらった町屋建築を残しています。
Y字路分岐 Y字路分岐 川井町

【弥次喜多道中】
雲出を追い出されたご両人は夜道で松阪に帰る臆病な大男と一緒になり、草鞋を焼く白煙を幽霊と見間違えたりしながら、松阪へは夜更けに到着しました。

松阪大橋手前の
木賃宿に泊まり、明け方には早くも宿を出立、松阪をろくに見もせず通り過ぎました。

大橋手前の左手に須川金物店があります、卯建を上げ、虫籠窓をあしらった町屋建築を残しています。
弥次喜多道中 雲津の宿はずれ 広重 須川屋金物店

 AM10:39 松阪宿着 小俣宿まで17.2km

 赤い欄干の大橋にて阪内川を渡ります、阪内川は白猪山(しらいさん)に源を発し、流末は伊勢湾に注ぎます、河口には松阪湊がありました。

大橋の南詰は松阪宿の北口で
高札場がありました、松阪宿に到着です!

天正十二年(1584)秀吉の命により
蒲生氏郷松坂城主となり、海寄りの街道を城下に引き入れ、故地である近江の日野から商人を移住させ城下町を発展させました。徳川の世になると松阪は紀州藩領となり松坂城の二の丸に陣屋が置かれました。

宿並に入ると左手に
松阪商人の館があります。
大橋 阪内川 松阪商人の館

 
松阪の御三家(三井家、小津家、長谷川家)の一つ、紙問屋小津清左衛門家の邸宅が松阪商人の館として公開されています、当家は江戸日本橋の大伝馬町に江戸店(えどだな)を構えました。

 次いで三井家発祥之地由来碑があります、松阪御三家の一つで、江戸日本橋で越後屋を開業し、三井財閥の礎を築いた三井高利の生家です。

スグ先の本町交差点を右折すると右手に松阪もめん手織りセンターがあります、
三井高利が最初に構えた越後屋跡です。

松阪もめんとは天然藍の先染め糸を使い、松坂嶋(じま)と呼ばれる縞模様が特徴の綿織物です。

一本目を右に入ると左手に
旧長谷川治郎兵衛邸があります、松阪御三家の一つ松阪木綿商の長谷川家住宅です。
三井家発祥之地 越後屋跡 旧長谷川邸

 延宝三年(1675)屋号を
丹波屋次郎兵衛と称し、日本橋大伝馬町に江戸店を構えました。

伊勢木綿は江戸での人気が高く、日本橋大伝馬町には伊勢の木綿問屋が集まり「一丁目(大伝馬町)は伊勢店ばかり」といわれました。

 旧長谷川邸のスグ先の右手に本居宣長宅跡があります、宣長が過ごした旧宅は祖父が隠居所として元禄四年(1691)に建てたものです。

宣長は十二歳から七十二歳で没するまでの六十年間をこの家で暮らしました。

二階には天明二年(1782)に宣長が物置を改造して造った
書斎があり、ここに三十六個のを赤い紐で結び柱に掛け、時より紐を引いて鈴の音を楽しんだところから鈴屋(すずのや)と呼ばれました。

旧宅は松坂城二の丸跡に移築されています。
本居宣長宅跡 本居宣長旧宅(鈴屋)

 一旦通りに戻り、更に直進すると正面に松坂城跡があります、秀吉の家臣蒲生氏郷の築城です。

天正八年(1580)
北畠(織田)信雄は海沿いに五層天守の松ケ島城を築いたが、織田信長が本能寺で倒れると信雄は清州城に去りました。

天正十二年(1584)秀吉の家臣
蒲生氏郷が入城し、天正十六年(1588)松ケ島城を廃し、新たに三層天守総石垣造りの松坂城を築城しました。

元和五年(1619)松阪が徳川御三家紀州藩領となると、松坂城には伊勢領十八万石を統轄する
城代が置かれ、寛政六年(1794)二の丸に紀州藩陣屋が設置されました。
松坂城跡 大神宮常夜燈

 松坂城搦手口跡に安永九年(1780)建立の
太神宮常夜燈が二基あります、江戸干鰯(ほしか)問屋が寄進したもので、元は櫛田川の渡し場にありました。

 本町交差点に戻り、宿並を進むと左手に和田金があります、創業明治十一年(1878)松阪牛寿き焼の名店です。

並びに
柳屋奉善があります、創業天正三年(1575)銘菓老伴(おいのとも)の老舗です、蒲生氏郷が旧領地の近江日野から招いた菓子商です。

中町交差点先の右手に
本陣跡標石があります、元和八年(1622)以来、美濃屋庄右衛門が勤めました。
和田金 柳屋奉善 松阪宿本陣跡 鯛屋旅館

 スグ先の左手に
鯛屋旅館があります、創業文化文政年間(1804〜30)で建物は築百年です。

 鯛屋旅館の向いに馬問屋跡標石があります、松阪宿問屋場跡です。

わずかに進むと右手のカリヨン駐車場出入口に
史跡新上屋(しんじょうや)碑があり、道路沿いには新上屋跡標石があります。

宝暦十三年(1763)五月二十五日、
賀茂真淵(六十七歳)は伊勢参宮の途次、松阪の旅籠新上屋に宿をとりました、その夜本居宣長(三十四歳)は訪ね、古事記に関する教えを乞うたといいます、松阪の一夜と呼ばれています。

その冬、本居宣長は賀茂真淵に
入門し、以降一度も会うこと無く、手紙で教えを乞いました。
馬問屋跡 新上屋跡碑 新上屋跡

 本居宣長は
荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵平田篤胤(あつたね)とともに国学の四大人(しうし)と呼ばれました。

 スグ先の日野町交差点を越えた右手に日野追分道標「右わかやま道 左さんぐう道」があります、松阪は紀州藩領であったため和歌山街道は藩道として整備され、藩士の往来が盛んでした。

この日野町交差点を右に入ると左手に
樹敬寺(じゅきょうじ)があり、墓地に本居宣長の墓があります。

本居宣長は松阪の豪商
小津家の出身です、二十二歳で京に上り、漢学医学を学び、二十八歳で帰郷して魚町で小児科医を開業し、医院を営む傍ら日本の古典を研究し、古事記伝源氏物語玉の小櫛(たまのおぐし)などを著しました。

宿並に戻って進むと右手のファミマの並びに
歴史地名湊町標柱があります、氏郷は伊勢大湊より商人を誘致し、街並を構成しました。
日野追分道標 本居宣長墓 湊町

 先に進み愛宕町西交差点を直進します、左折すると左手に愛宕山龍泉寺があります、境内にある愛宕神社の別当寺でした。

薬医門は
松ケ島城裏門を移築したものといいます、市内最古の木造建築物です(三重県指定文化財)。

愛宕町西交差点先の右手に
小津安二郎青春館があります、大正から昭和初期の映画館をモデルに再現した資料館です、映画監督の小津安二郎は豪商小津家の末裔で、青春時代の十年間を松阪で過ごしました(令和2年12月28日閉館しました)。
龍泉寺 小津安二郎青春館 変則T字路分岐

 先に進み
変則T字路を右折(白色矢印)します、神宮方面からは左折になります、この分岐点には三角公園があります。

松阪宿の南口に位置する
垣鼻町は北の川井町と共に紅灯を競う歓楽街でした。

 横断歩道橋先の理容セビリア前のY字路を右に進みます。

里中橋にて流末は伊勢湾に注ぐ名古須川を渡ると左手に荒神山稲荷が鎮座しています。

先の右手に天台宗真盛宗の名刹
信楽寺があります、門前に天明五年(1785)広瀬永正寺の名僧天阿上人が建立した仏足石(ぶっそくせき)があります、仏足石とは釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたものです、山門脇には閻魔堂があります。
荒神山稲荷 信楽寺 仏足石 閻魔堂

 次いで左手に神戸(かんべ)神社が鎮座しています、垣鼻村の鎮守です、祭神が香具土命(かぐつちのみこと)であるところから当初香具土神社と称しましたが、明治四十一年(1908)神戸神社と改称されました。

境内社に
御乳母稲荷神社があります。

十字路を越すと
徳和坂の上り坂になり左手の段上に庚申堂があります、青面金剛像を安置しています。

金剛川金剛橋にて渡ると徳和畷になります。

縄手道には名物の
白酒を商う茶屋が数軒ありました、白酒とは白く濁った甘味の強い酒です。
神戸神社  庚申堂 金剛橋

 蒸した
もち米米麹(こめこうじ)を混ぜ合わせ、焼酎あるいは日本酒を加えて熟成させ、石臼で挽いた酒です。

 九手川上徳和橋にて渡ると右手に文政十二年(1829)建立の永代常夜燈があります、江戸干鰯問屋が寄進したもので嘉永二年(1849)に修理されました。

干鰯(ほしか)とはイワシを乾した魚肥で、綿花栽培の肥料に適し需要が高かったといいます。

JR紀勢本線を
徳和踏切にて横断すると左手に天保二年(1831)建立の万人講常夜燈があります、万人講とは講を組み(講中)神社仏閣に参詣し、堂塔の建立修理等の寄進を行ないました。

向かいに
大日寺寺標片岡山大日如来是より三丁」があります、大日寺はJR紀勢本線を越えた先にあります。
永代常夜燈 万人講常夜燈 大日寺寺標

 わずかに進むと小さな流れの真盛川手前の左手に明治十三年(1880)建立の女人供養塔があります(現在失われています)。

上川西交差点先の右手に
禁酒の神 沖玉夫婦石標石があります、ここにある石に酒をかけ、酒を預かって頂くよう願を掛けると禁酒が出来るといいます。

わずかに進むと右手に
八柱神社が鎮座しています、参道口に明和五年(1768)建立の常夜燈青面金剛像を安置した庚申堂があります。
女人供養塔 沖玉の夫婦石 八柱神社 外宮四里

 連子格子の旧家を過ぎると左手に弘化三年(1846)建立の
道標「従是外宮四里」があります、江州玉造講が建立したものです。

 右手の浄林寺の参道口には石造太鼓橋があります。

右手の白壁虫籠窓の旧家は
へんば餅が名物であったおもん茶屋跡です、豊原村は松阪と小俣の中間に位置する間の宿櫛田宿と呼ばれ旅籠や茶屋が軒を連ね賑わいました。

先に進むと左手に
櫛田橋の親柱があります。

櫛田交差点を越して
櫛田旧道に入ります。
浄林寺 おもん茶屋跡 櫛田橋親柱 櫛田旧道口

 弧を描く旧道を回り込むと豊養稲荷神社が鎮座しています、赤鳥居が並ぶ豊養稲荷大明神の前に式内大櫛神社碑、櫛田大市碑があります、延喜式神名帳に記載された大櫛神社の旧地で、かつてはここでが立ちました。

わずかに進むと左手に
虫籠窓の旧家があります。

突当りの櫛田川の土手前を左折します、この分岐点には文政二年(1819)建立の
道標「左さんくうみち 右い賀みち」があります。
櫛田旧道 豊養稲荷神社 道標

 理容若林先のT字路を右折します。

先に進むと
櫛田川に突き当たります、ここには大正三年(1914)建立の距離標「距宇治山田元標参里二十町四十一間」「距松坂元標一里二十九町三十四間」「距津元標六里十二町八間」があります。

距離標脇の
土手石段を上ります、 この辺りに櫛田川の渡し場がありました、冬は仮橋、夏は舟渡しで共に渡し賃が徴収されました。

土手道を右(白色矢印)に進みます。
T字路分岐 櫛田川土手 距離標 櫛田橋

 櫛田川櫛田橋にて渡ります、櫛田川の流末は伊勢湾に注いでいます、倭姫命(やまとひめのみこと)あるいは斎王が櫛を落としたところに由来しています。

櫛田橋南詰交差点を左折し、スグのY字路を右に進み、
松阪市漕代(こいしろ)水防倉庫前を通過します。

一本目を右に入ると
早馬瀬(はやませ)神社があります、境内に櫛田川の渡しにあった文化十三年(1816)建立の道標「右けのう・・ 左さんくう・」があります。

街道を進むと左手の旧家の向いに盛土の
敷地跡があります、壺屋池部清兵衛邸跡です、創業天明年間(1781〜89)壺屋の煙草入れを製造販売していました。
櫛田川 櫛田橋南詰分岐 Y字路分岐

 壺屋の煙草入れは
伊勢参宮土産として広く知られ評判でした。

壺屋紙は和紙を固めて油を引き、型押しした擬革紙(ぎかくし)で、太田南畝は「夕立や伊勢の稲木の煙草入れ古(降る)なり(鳴り)光る強い紙なり(雷)」と詠んでいます。

 大稲木交差点を過ぎると左手に文化十四年(1817)建立の梵字名号碑があります、参宮旅の道中で亡くなった人々を供養しています。

近鉄山田線
漕代(こいしろ)先の祓川(はらいがわ)を祓川橋にて渡ります。

祓川は
櫛田川の分流で流末は伊勢湾に注いでいます。斎王群行の際、ここでお祓いをして斎宮に入りました。冬は仮板橋、夏は舟渡しで、渡し賃が徴収されました、松阪市多気(たき)の境です。

先の左手に
外宮道標があります。
梵字名号碑 祓川橋 祓川 外宮三里

 この
道標は弘化四年(1847)の建立で「従是外宮三里 宮川へ二里半」と刻まれています。

 先の竹川村には立場茶屋があり、駕籠屋の溜まり場や馬の取次ぎ場がありました、明治になると人力車、馬車の溜まり場となりました。この武川村の北に斎宮(さいぐう)があります、分岐点には斎宮歴史博物館案内標識があります。

斎宮斎王の宮殿です、天皇が即位すると、天皇の名代として未婚の皇女が斎王となり、伊勢神宮に派遣され巫女(みこ)として奉仕しました。平安時代から六百六十年間執り行われ、その間に六十名余りの斎王がいました、この慣例は後醍醐天皇以降途絶えました。

百五銀行先の右手に
観音寺跡標柱があります、天正四年(1576)斎宮の乾源休が菩提寺として創建しましたが、明治元年(1868廃仏毀釈により廃寺となりました。

先の左手に
斎宮城跡標柱があります、弘治元年(1555)斎宮の住人野呂三郎がここに城砦(じょうさい)を築き、徳政一揆を起こして立て籠もりました。
観音寺跡 斎宮城跡

 伊勢国司
北畠材親(きちか)に討伐されました。

 並びに竹神社が鎮座しています、延喜式神名帳に記載された古社で多気(たき)の地名由来になっています。

元は斎宮内に祀られた
十七社の内の一社でした、竹神社は毎年六月初旬に行われる斎王祭りの斎王行列の出立地になっています。

先に進むと用水路脇に
道標「天満宮の道 四丁」があります、往時ここに絵馬堂があり、掲げられていた絵馬の毛色で豊作を占いました、この絵馬は竹神社に社宝として収蔵されています。

次いで左手に
笛川地蔵院跡があります、明治の世になると斎宮の地は神領となり神仏分離令により廃寺となりました。
竹神社 天満宮道標 六地蔵石幢

 現在は中町公民館の敷地になっています、旧境内には
庚申堂山神、永正十年(1513)建立の六地蔵石幢(せきどう)(三重県指定文化財)等があります。

 先の左手に道標が二基あります、手前の道標「斎宮旧蹟蛭澤之花園」は天然記念物どんど花(野生菖蒲)群生地への道標です。

後方の
道標「斎王隆子女王御墓従是拾五丁」天延二年(974)斎宮で亡くなりました。

勝見交差点手前の左手に
山神が三基あります。

笹笛川新笹笛川橋にて渡ると右手に斎王参向古道入口標識があります、斎王が斎宮より伊勢神宮に赴くための官道で、幅員は五間(約9.1m)で、両側には排水用の側溝が敷設されていました。
道標二基 山神三基 斎王参向古道 安養寺

 先に進むと左手に
安養寺があります、境内に明星井(あけぼののい)があります、湧き出る明星水日本三霊水の一つで、参宮者に浄めの茶を接待したところから明星茶屋と呼ばれ賑わいました。

【弥次喜多道中】
ご両人は明星茶屋で休憩し、派手な大縞(おおじま)を羽織った上方者に誘われて喜多さんは馬に相乗りし、馬上で互いの習慣や風俗をけなし合いながら小俣にむかいました。


 大堀川を渡ると右手にそうめん坂標柱があります、坂にはそうめん、草履、笠を商う茶屋がありました。

先の右手に
転輪寺があります、文明十三年(1481)の創建です、庫裏は元本堂で明暦年間(1655〜58)の建立、梵鐘は延宝八年(1680)の鋳造、本堂は天保九年(1838)の建立、表門は北畠氏の田丸城から、南門松坂城から移設したものといいます。

明星村は立場で「茶屋多し、宿駅ならねども客舎有」といわれました。

新茶屋(西)バス停先の右手に
三忠があります、貞享元年(1684)堀木忠次郎は油紙を改良して擬革紙を開発しました。

参宮者が増えると茶屋が足りず
新茶屋村が開村されました。
そうめん坂 転輪寺 外宮二里

 次いで左手に嘉永六年(1853)建立の
道標「従是外宮二里 宮川江一り」があります。

 先に進むと左手に弘法堂があります、二体の弘法大師坐像が安置されています、参宮者の信仰が篤かったといいます。

スグ先に
伊勢市標識があります、多気郡明和町から伊勢市に入ります。

明野庚申前交差点を越すと右手に天保七年(1836)建立の
南無阿弥陀佛三界萬霊塔があります、徳浄上人千日祈願の塔と呼ばれています。

ここの庚申堂を霊場として修行していた
徳浄上人天保の大飢饉に見舞われた村民の窮状救済のため、伊勢両宮に千日間素足で日参しました、後に上人の徳を讃え塔が建立されました。

境内には寛政年間(1789〜1801)建立の
庚申堂や寛保元年(1741)建立の廻国供養塔があります。
弘法堂 徳浄上人塔

 道なりに進み突当りの信号交差点を右折します、神宮方面からは左折になります。

この分岐点には
シイの大木があったところからしいの辻と呼ばれました。このシイの木に触ると祟りがあるといわれました。

先に進むと左手に
へんばやがあります、名物へんば餅の老舗です、へんば餅はこしあんの大福餅をつぶして焼いたものです。

当初は
宮川の渡し場にあり、参宮者はここで馬を返したところから返馬茶屋と呼ばれました、安永四年(1775)ここに移転しました。
T字路分岐 へんばや へんば餅

 店内には
三宝荒神(三人乗り用の馬具)が展示されています。

店内で名物
へんば餅を賞味させて頂きました、舌触りの良いお餅の中にこし餡が入っています、ウマイ、お茶をお替り、こうなりゃ茶腹も一時です!

 相合川(そうごがわ)を相合橋にて渡ります、相合川の流末は外城田川に落合います、相合橋は土橋でした。

新出(しんで)交差点を斜め右(白線矢印)に入り、スグのJA伊勢小俣支店前のY字路を左(白色矢印)に進みます。

旧道に入ると左手に
庚申堂があります、安永年間(1772〜81)新出村の南口に創建されました。

新出村には
旧家を残しています。
相合橋 新出分岐 Y字路分岐 庚申堂

 PM2:36 小俣宿着 山田宿まで4.1km

 外城田川(ときたがわ)を惣之橋にて渡ります、外城田川は国束(くづか)に源を発し、流末は伊勢湾に注ぎます、平時の水量は乏しいが、一旦雨が降ると増水したところから貧乏川と呼ばれました。

惣之橋は小俣宿の江戸口に位置するところから
江戸橋と呼ばれました、小俣宿に到着です!

小俣宿は
鳥羽藩紀州藩の相給地(あいきゅうち)でした。桜の渡しを控え、宿内には旅籠が軒を連ねて賑わい、菅草履(すがぞうり)やうぐいす笛が宿名物でした。

宿並を進むと左手の小俣小学校の塀沿いに
小俣町道路元標があります。
外城田川 小俣町道路元標 @小俣宿内分岐

 先の
逆T字路を左折(白色矢印)します。

 この分岐点には紀州藩高札場跡標石があります、札の辻と呼ばれました。

直進(黄色矢印)すると
官舎神社が鎮座しています、離宮院跡です、延暦十六年(797)斎王が神宮へ赴く際の宿泊施設として離宮が造営されましたが、承和六年(839)焼失しました、土塁を残しています。

札の辻を左折すると左手に
丸屋があります、煙草入れや薬種等を商っていました。

突当りの
T字路を右折(白色矢印)します、神宮方面からは左折になります。
高札場跡 官舎神社 丸屋 A小俣宿内分岐

 左折(黄色矢印)すると浄土寺があります、寺宝に熊野比丘尼(びくに)が地獄、極楽などの六道を絵解きするために持ち歩いていた紙本著色熊野観心十界曼荼羅(三重県有形民俗文化財)があります。

突当りの
消防団施設前を左折(白色矢印)します、この分岐点には離宮前バス停があります。

先の左手に
鳥羽藩本陣跡標石があります。

枡形の右手には
坂田の橋跡標石があります、側面に「名木 板田の薄紅葉跡」と刻まれています。
浄土寺 B小俣宿内分岐 本陣跡 坂田の橋跡

 枡形の南口に鳥羽藩高札場跡標石があります、鳥羽藩は志摩國登志郡に存在した藩で、藩庁は鳥羽城に置かれました。毛利水軍を破った織田水軍の将九鬼嘉隆が藩祖です。

宮古橋の北詰に
参宮人見附石柱があります、ここが小俣宿の南口です。

汁谷川宮古橋にて渡ります。

突当りの
信号交差点を横断し、宮川親水公園土手階段を上り、土手を横断して宮川の河原に下ります。
高札場跡 参宮人見附石柱 宮川土手 宮川河原

 桜の渡し場が見事に復現され、周辺は宮川親水公園になっています。

宮川舟渡しでした。

宮川の渡しは川沿いに約千本のがあったところから桜の渡しと呼ばれました。

満水であっても昼夜を分かたず無賃で参宮者を渡しました。

二代目
歌川広重は安政六年(1859)諸国名所百景の中で伊勢宮川の渡し場を描いています。
桜の渡し場跡 桜の渡し

 河原敷きの遊歩道を進み、JR参宮線高架をくぐった先で土手上に出て、宮川宮川橋で渡ります。

宮川は伊勢大和境の大台ケ原山に源を発し、流末は伊勢湾に注ぐ、伊勢最大の河川です。

宮川は
伊勢神宮の神領と境をなす神聖な川とされ、渡河するとお祓いを受けました。

宮川橋を渡ると山田側の
桜の渡し口があります、両側が石垣になっています。
遊歩道 宮川橋 宮川 桜の渡し口(山田側)

 桜の渡しの山田側は御師の送迎の場で、出迎えの看板が林立し、参宮を終えて帰宅する伊勢講を見送る道中歌が響いていました。

庶民は
伊勢講を組み旅の資金を積み立て、御師の手配により伊勢参りをする本参りが主流でした。

中には親や主また村役人に無断で抜け出し、勝手に伊勢神宮に詣でることを
抜け参りといいました。

柄杓を持つ抜け参り往来手形なしでも黙認され、道中数々の施しを受けることができました。
伊勢参宮宮川渡しの図 画 歌川広重

 当時、庶民の移動、特に農民の移動は厳しかったが、商家では
商売繁盛、農家では五穀豊穣の守り神のお伊勢参りは特に許され、参宮の証のお守りお札を持ち帰れば咎めはありませんでした。

 県道60号伊勢松阪線高架をくぐった先の左手に文政五年(1822)建立の道標「すぐ外宮江十三丁半 内宮江壱里三十三丁半」「左二見浦(ふたみがうら)二里十五丁」「右宮川渉場六丁三十九間」があります。

道なりに進み
小見山酒店前のY字路を右(白色矢印)に進みます。

次いで突当りの県道37号線を左折(白色矢印)します、この分岐点には
伊勢神宮(外宮)1.4km標識があります。

先の
浦口交差点を右折(白色矢印)します。
道標 Y字路分岐 T字路分岐 浦口分岐

 海野内科循環器科脇の逆T字路を左折(白色矢印)し、一本目を右折します、神宮方面からは右折になります。

筋向橋交差点に出ます、横断し左V字路を右(白色矢印)に進みます、神宮方面からは交差点を横断し、向いの細道に入り、突当りを左折します。

黄色矢印は熊野三山に至る
熊野街道です、筋向橋(すじかいばし)は熊野街道の追分にあたり、日本諸国からの参宮道はこの橋で合流し、参宮者の流れはここから一筋になりました。
逆T字路分岐 筋向橋交差点 熊野街道追分

 PM3:24 山田宿着 内宮宇治橋まで4.6km

 筋向橋交差点に筋違橋跡があります、嘉永二年(1849))銘の擬宝珠を残しています、ここを流れていた清川は暗渠になりました。

筋向橋を渡ると
山田宿に到着です!

山田宿には
御師の館が六百軒あり、宿並には御師の名を書き付けた用立所の看板が立ち並び、参宮者を出迎えました。御師太夫ともいい、全国の伊勢神宮信徒とつながりをもち、はるばる訪れた参宮者を接待し、参宮の面倒をみました。

宿並を進むと右手の常照寺の先に
御師福島みさき太夫邸跡があります。
筋違橋 御師邸跡 小西萬金丹薬舗

 徳川将軍家の祈祷師を勤めた格式の高い御師でした。

向かいに
小西萬金丹薬舗があります、伊勢独得の切妻造りの建築様式を今に残しています。

創業延宝四年(1676)伊勢の霊薬
萬金丹の老舗です、の万能薬で伊勢土産の代表でした。

 NTT先の信号交差点を右折し、突当りを左折すると外宮口があります。

内宮が鎮座してから約五百年後、
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の大御饌(おおみけ、食事)を司る神として丹波國から迎えた豊受大御神(とようけのおおみかみ)を豊受大神宮に祀っています。

雄略天皇の夢枕に天照大御神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波國の女神豊受大御神を近くに呼び寄せるように」との神託がありました。

女神豊受大御神は米作りを始め、衣食住の全てに関わる産業の
守護神です。
外宮分岐 外宮口 岡本分岐

 先に進み岡本一丁目交差点手前の
マリアこども園角を左折(白色矢印)します、神宮方面方からは右折になります。

 スグの変則十字路の信号交差点を越すと右手に祖霊社があります、街道沿いに両宮永代常夜燈があり、境内には何木塚(なんのきづか)と呼ばれる芭蕉句碑「何の木の花とはしらすにほひかな」があります、芭蕉が貞享五年(1688)に外宮を訪れた際の句です。

先で近鉄鳥羽線高架をくぐり、次いで
熱田川小田橋にて渡ります、熱田川は鼓ケ岳に源を発し、流末は五十鈴川に落合います、伊勢神宮に献上するを獲っていたところから御贄川(おんべがわ)とも呼ばれました。

小田橋の横に
仮屋橋が架橋され、不浄の者はこの橋を渡りました、ここが山田宿の東口です。川沿いの道は二見道夫婦岩の二見ケ浦に至ります。
祖霊社 近鉄鳥羽線高架 小田橋

 尾上町(おのえちょう)バス停を過ぎると上りの尾部(おべ)になります、両宮の間にあるところから間の山とも呼ばれました。

右手に
間の山お玉お杉標石があります、女芸人の二人は三味線を弾きながら唄い、投銭をかわす芸が評判でした。

【弥次喜多道中】
ご両人はお玉お杉の小屋に入り、喜多さんが
の代わりに小石を投げると、バチではね返され、弥次さんの顔に当たると「とんだめにあいの山とやうちつけし石かへ(意趣返し)したる事ぞおかしき」と洒落のめしました。

テニスコート前バス停先の右手に
備前屋跡標石があります、古市は日本三大遊廓(江戸吉原、京島原)の一つです。
お杉お玉 間の山 備前屋跡

 妓楼七十軒、遊女千数百人を数え、中でも
備前屋杉本屋油屋は古市三大妓楼といわれました。

古市は
精進落としと称し、参宮人で溢れ、川柳に「伊勢参り大神宮にもちょっと寄り」と詠まれています。

【弥次喜多道中】
ご両人は道連れの上方者が馴染みだという古市の
千束屋(ちづかや)に登楼しました。

酒が回ると上方者と敵娼(あいかた)を取り合う騒動を起し、翌朝は「ふんどしを忘れて帰る朝熊嶽(あさまやま)万金たまをふる市の町」と卑猥に洒落ています。

ご両人は一旦旅籠の
藤屋に戻り、内宮へと向いました。

伊勢古市郵便局手前の右手自販機脇に
古市芝居跡標石があります、 古市には古市三座と呼ばれる芝居小屋があり「古市で評判をとらないと、京阪の舞台は踏めない」といわれ、役者の登龍門でした。
弥次喜多道中 古市 古市芝居跡

伊勢古市郵便局先の右手に懸造りであった油屋跡標石があります、寛政八年(1796)町医者孫福斎(まごふくいつき)は馴染みの遊女お紺の客に嫉妬し、三人を斬殺し六人を負傷させ、二日後に自害して果てました、この事件は油屋騒動と呼ばれ、歌舞伎伊勢音頭恋の寝刃(ねたば)となりました。

手前の
大林寺に孫福斎とお紺の菩提を弔う比翼塚があります、事件後お紺を一目見ようとする客で油屋は繁盛したといいます、お紺は四十九才で病没しました。

近鉄鳥羽線跨線橋を渡ると左手に
長峯神社が鎮座しています、この地の産土神です、社名は外宮と内宮を結ぶ長い峰に由来しています。
油屋跡 比翼塚 長峯神社

 祭神の
天鈿女命(うずめのみこと)は天照大御神が天の岩屋に籠ったとき天岩戸の前で舞った女神です、古市の芸妓の守護神として篤く信仰されました。

 次いで左手の小路奥に麻吉旅館があります、創業嘉永四年(1851)五層六階の寄棟懸崖造り(国登録有形文化財)です、往時は花月楼麻吉(あさきち)と称し、多くの芸妓を抱えたお茶屋でした。

並びに延宝五年(1677)創建の
寂照寺があります、徳川家康の孫娘(秀忠の娘)で豊臣秀頼に嫁いだ千姫の位牌、遺物を安置し菩提を弔っています。

信号交差点手前の左手に
伊勢市古市参宮街道資料館があります、伊勢歌舞伎古市妓楼等の資料を展示しています。
麻吉旅館 寂照寺 古市資料館 月よみ宮道標

 三条前バス停のスグ先の左手に明治二十七年(1894)建立の
道標「月よみ宮さんけい道」があります、皇大神宮別宮月讀宮への道標です、天照大御神の弟神を祀っています。

 次いで右手の小路口に桜木地蔵案内標石があります、踏み込むと桜木地蔵尊があります、大岡越前守忠相が山田奉行の時にこの地蔵をお参りすると、徳川八代将軍吉宗に見出されて江戸南町奉行となったところから出世地蔵と呼ばれています、今日では三重ノ海武蔵丸が参拝して横綱になっています。

街道に戻り古市の
妓楼千束屋(ちづかや)の女将が文化二年(1805)私財千両余りを投じて改修工事を行った牛谷坂を下ります。

右手に
両宮常夜燈が二基あります。
桜木地蔵 両宮常夜燈 猿田彦境内地 宇治惣門跡

 先の右手に伊藤小坡(しょうは)美術館があります、小坡は猿田彦神社宮司の長女として生まれ、画家磯部百鱗に師事し、歴史上の人物を好んで描きました。

スグ先の左手斜面上に
磯部百鱗顕彰碑があります、百鱗(ひゃくりん)は天保七年(1836)御師の家に生まれ、京の四条派の画風を学び、多くの門人を育てました。

滝倉川手前の右手に
宇治惣門跡標石があります、宇治口に設けられ、俗に黒門と呼ばれ番屋がありました。

 滝倉川黒門橋で渡ると牛谷坂から宇治に入ります。

スグの
宇治浦田西交差点を左折(白色矢印)します、神宮方面からは右折になります。

左手に
猿田彦神社が鎮座しています、天孫降臨の際、道案内を勤めた猿田彦大神とその子孫を祀っています。

猿田彦大神の末裔である
大田命(おおたのみこと)は皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を先導し、五十鈴川の川上一帯の霊地を献上し皇大神宮(内宮)の創建に尽くしたところからみちひらきの神として篤く信仰されています。

境内社に
佐瑠女(さるめ)神社があります。
黒門橋 宇治浦田西分岐 猿田彦神社

 祭神の
天宇受売命(あめのうずめのみこと)は天照大神天岩戸に隠れたとき、岩戸の前で舞ったところから技芸の神として篤く信仰されています。

 宇治浦田町交差点を横断し、一本目を右折(白色矢印)します。

おはらい町通りを進むと右手に
旧慶光院があります、朝廷、幕府、御三家の崇敬を受けましたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、神宮祭主職舎となりました、客殿、勝手口、表門は国重要文化財です。

おはらい町は伊勢の伝統的な切妻入母屋造の街並みが復元されています、往時は御師の館が軒を連ね、参宮者をもてなしました。
宇治浦田町分岐 おはらい町通り 旧慶光院 おはらい町

 左手の赤福本舗は創業宝永四年(1707)の銘菓赤福の老舗です、赤福は赤心慶福(せきしんけいふく)に由来し、形は五十鈴川の流れで白い餅は川底の白石といいます。

向かいが
おかげ横丁です、平成五年(1993)に開業しました。

次いで左手の
白鷹(はくたか)は創業文久二年(1862)伊勢神宮唯一の御料酒白鷹の蔵元です。

先の右手に
岩戸屋があります。
赤福 おかげ横丁 白鷹 岩戸屋

 創業明治四十三年(1910)銘菓
岩戸餅生姜糖の老舗です、天鈿女命(あまのうずめのみこと)はお多福とも呼ばれ、これを登録商標お多福印とし、岩戸を屋号にしています。

 PM4:46 内宮宇治橋到着

 おはらい町通りを抜けると大鳥居が聳えています、伊勢参宮道の終点内宮宇治橋に到着です!

内宮は
天照大御神皇大神宮に祀っています、両宮は二十年毎に式年遷宮が行われ、その歴史は千三百年に及ぶ悠久の時を刻み続けています。

【弥次喜多道中】
内宮に入ったご両人は「自然と感涙、肝に銘じて、有難さに、真面目となりて、洒落もなく、無駄もいわねば、しばらくのうちに順拝おはりて」と殊勝にお参りし、その後、京へと向いました。

宇治橋外の
鳥居は式年遷宮後、外宮の旧正殿の棟持柱で建て替えられ、撤去された鳥居は七里の渡しに移設されます。

神域側の
鳥居内宮の旧正殿の棟持柱で建て替えられ、撤去された鳥居は東海道関宿追分に移設されます。

街道ウォーカーにとってはこの繋がりが堪りません、そうだ明日は関の鳥居を見に行こう!

 その前に飯だ! ホテルで朝食を摂り、その後へんば餅しか口にしていません、しかしご心配ご無用です、伊勢名物が待っています。

おはらい町通りの
関野屋に飛び込みます、伊勢名物は伊勢うどん手こね寿司です、ここでは両方のセット(1,000円)があります。

伊勢うどんは何とも腰のないブヨブヨした極太うどんにダシの効いた溜り醤油のぶっかけです、これが変にウマイ!ハマリます。

次々と押し寄せる
参宮者に素早く提供できるように絶えず茹でていました、長旅で疲労が溜っている参宮人には「胃にやさしく、腹持ちが良い」と評判で「生きているうちに食わなければ、死んで閻魔に叱られる」といわれました。

手こね寿司はカツオのズケです、酢飯と絶品の相性です、ウマイ!!

志摩の漁師が漁の合間に手早く食したのが始まりといいます。

失敗した!!!各々単品でオーダーすれば良かった。


 三重バス伊勢市駅に直行(420円)です。

山田には沢山の宿泊施設がありますが、明日は津の追分から関宿を目指す
伊勢別街道の旅です、ここに留まる理由はありません、に大返しです。

JR参宮線に乗車し、
多気駅にてJR紀勢本線に乗換えです、偶然にも昨夕の高茶屋駅乗車と同じ時刻です。

駅前で酒肴を調達し、住み慣れた
ホテルエコノ津駅前に再投宿です。

例によってプァーッです!!!!



津江戸橋追分〜関宿東追分