ところがいっこうに逃げない「こいつらみんな無学な犬らしい」と大騒ぎです。
養和元年(1181)源氏追討祈願のため神宮に赴く勅使大中臣定隆が一志駅で急逝し、埋葬されたところといいます。
中道には機関(からくり)の的屋、射的場、文楽芝居小屋等がありました。
三渡川は鉢ケ峰に源を発し、流末は伊勢湾に注ぎます、川名は潮の干満による渡し場が三ケ所あったところに由来しています。
先の米之庄神社では三渡で水揚げされた魚の市が立ちました。
嘉永五年(1852)建立の常夜燈は江戸日本橋室町の商人が建立したものです。
向かいには山神が二基祀られています。
鬼の様な攻めをする信長が先の神戸といい、伊勢では平和路線を貫いています、伊勢の地を血で汚すのを避けたのでしょうか、興味深いですね。 境内に芭蕉句碑「梅が香にのっと日の出る山路かな」があります、元禄七年(1694)芭蕉晩年の五十一歳の句です。
松阪の御三家(三井家、小津家、長谷川家)の一つ、紙問屋小津清左衛門家の邸宅が松阪商人の館として公開されています、当家は江戸日本橋の大伝馬町に江戸店(えどだな)を構えました。
延宝三年(1675)屋号を丹波屋次郎兵衛と称し、日本橋大伝馬町に江戸店を構えました。 伊勢木綿は江戸での人気が高く、日本橋大伝馬町には伊勢の木綿問屋が集まり「一丁目(大伝馬町)は伊勢店ばかり」といわれました。
松坂城搦手口跡に安永九年(1780)建立の太神宮常夜燈が二基あります、江戸干鰯(ほしか)問屋が寄進したもので、元は櫛田川の渡し場にありました。
スグ先の左手に鯛屋旅館があります、創業文化文政年間(1804〜30)で建物は築百年です。
本居宣長は荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵、平田篤胤(あつたね)とともに国学の四大人(しうし)と呼ばれました。
先に進み変則T字路を右折(白色矢印)します、神宮方面からは左折になります、この分岐点には三角公園があります。 松阪宿の南口に位置する垣鼻町は北の川井町と共に紅灯を競う歓楽街でした。
蒸したもち米と米麹(こめこうじ)を混ぜ合わせ、焼酎あるいは日本酒を加えて熟成させ、石臼で挽いた酒です。
連子格子の旧家を過ぎると左手に弘化三年(1846)建立の道標「従是外宮四里」があります、江州玉造講が建立したものです。
壺屋の煙草入れは伊勢参宮土産として広く知られ評判でした。 壺屋紙は和紙を固めて油を引き、型押しした擬革紙(ぎかくし)で、太田南畝は「夕立や伊勢の稲木の煙草入れ古(降る)なり(鳴り)光る強い紙なり(雷)」と詠んでいます。
この道標は弘化四年(1847)の建立で「従是外宮三里 宮川へ二里半」と刻まれています。
伊勢国司北畠材親(きちか)に討伐されました。
現在は中町公民館の敷地になっています、旧境内には庚申堂、山神、永正十年(1513)建立の六地蔵石幢(せきどう)(三重県指定文化財)等があります。
先に進むと左手に安養寺があります、境内に明星井(あけぼののい)があります、湧き出る明星水は日本三霊水の一つで、参宮者に浄めの茶を接待したところから明星茶屋と呼ばれ賑わいました。 【弥次喜多道中】 ご両人は明星茶屋で休憩し、派手な大縞(おおじま)を羽織った上方者に誘われて喜多さんは馬に相乗りし、馬上で互いの習慣や風俗をけなし合いながら小俣にむかいました。
次いで左手に嘉永六年(1853)建立の道標「従是外宮二里 宮川江一り」があります。
店内には三宝荒神(三人乗り用の馬具)が展示されています。 店内で名物へんば餅を賞味させて頂きました、舌触りの良いお餅の中にこし餡が入っています、ウマイ、お茶をお替り、こうなりゃ茶腹も一時です!
先の逆T字路を左折(白色矢印)します。
当時、庶民の移動、特に農民の移動は厳しかったが、商家では商売繁盛、農家では五穀豊穣の守り神のお伊勢参りは特に許され、参宮の証のお守りやお札を持ち帰れば咎めはありませんでした。
徳川将軍家の祈祷師を勤めた格式の高い御師でした。 向かいに小西萬金丹薬舗があります、伊勢独得の切妻造りの建築様式を今に残しています。 創業延宝四年(1676)伊勢の霊薬萬金丹の老舗です、腹の万能薬で伊勢土産の代表でした。
先に進み岡本一丁目交差点手前のマリアこども園角を左折(白色矢印)します、神宮方面方からは右折になります。
妓楼七十軒、遊女千数百人を数え、中でも備前屋、杉本屋、油屋は古市三大妓楼といわれました。 古市は精進落としと称し、参宮人で溢れ、川柳に「伊勢参り大神宮にもちょっと寄り」と詠まれています。
祭神の天鈿女命(うずめのみこと)は天照大御神が天の岩屋に籠ったとき天岩戸の前で舞った女神です、古市の芸妓の守護神として篤く信仰されました。
三条前バス停のスグ先の左手に明治二十七年(1894)建立の道標「月よみ宮さんけい道」があります、皇大神宮別宮月讀宮への道標です、天照大御神の弟神を祀っています。
先の右手に伊藤小坡(しょうは)美術館があります、小坡は猿田彦神社宮司の長女として生まれ、画家磯部百鱗に師事し、歴史上の人物を好んで描きました。 スグ先の左手斜面上に磯部百鱗顕彰碑があります、百鱗(ひゃくりん)は天保七年(1836)御師の家に生まれ、京の四条派の画風を学び、多くの門人を育てました。 滝倉川手前の右手に宇治惣門跡標石があります、宇治口に設けられ、俗に黒門と呼ばれ番屋がありました。
祭神の天宇受売命(あめのうずめのみこと)は天照大神が天岩戸に隠れたとき、岩戸の前で舞ったところから技芸の神として篤く信仰されています。
創業明治四十三年(1910)銘菓岩戸餅、生姜糖の老舗です、天鈿女命(あまのうずめのみこと)はお多福とも呼ばれ、これを登録商標お多福印とし、岩戸を屋号にしています。
内宮は天照大御神を皇大神宮に祀っています、両宮は二十年毎に式年遷宮が行われ、その歴史は千三百年に及ぶ悠久の時を刻み続けています。 【弥次喜多道中】 内宮に入ったご両人は「自然と感涙、肝に銘じて、有難さに、真面目となりて、洒落もなく、無駄もいわねば、しばらくのうちに順拝おはりて」と殊勝にお参りし、その後、京へと向いました。 宇治橋外の鳥居は式年遷宮後、外宮の旧正殿の棟持柱で建て替えられ、撤去された鳥居は七里の渡しに移設されます。 神域側の鳥居は内宮の旧正殿の棟持柱で建て替えられ、撤去された鳥居は東海道関宿の追分に移設されます。 街道ウォーカーにとってはこの繋がりが堪りません、そうだ明日は関の鳥居を見に行こう! おはらい町通りの関野屋に飛び込みます、伊勢名物は伊勢うどんに手こね寿司です、ここでは両方のセット(1,000円)があります。 伊勢うどんは何とも腰のないブヨブヨした極太うどんにダシの効いた溜り醤油のぶっかけです、これが変にウマイ!ハマリます。 次々と押し寄せる参宮者に素早く提供できるように絶えず茹でていました、長旅で疲労が溜っている参宮人には「胃にやさしく、腹持ちが良い」と評判で「生きているうちに食わなければ、死んで閻魔に叱られる」といわれました。 手こね寿司はカツオのズケです、酢飯と絶品の相性です、ウマイ!! 志摩の漁師が漁の合間に手早く食したのが始まりといいます。 失敗した!!!各々単品でオーダーすれば良かった。
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