左は三面六臂馬頭観音像、中央は安政二年(1855)建立の馬頭観世音、右は文化十二年(1815)造立の馬頭観音像です。
この分岐点には中北道標「←立峠3.9km/青柳4.3km聖湖15.9km→」があります。
峠道が右に大きく曲がるところの左手に明治時代建立の馬頭観世音があります。
洗馬方面からは上り詰を右にUターンします。
スグの左手旧家の軒下には安政五年(1858)建立の頌徳碑があります。
ここから右手の石畳道に入ります(白色矢印)。洗馬方面からは突当りの舗装路を左折します。
峠道の右手には苔むした馬頭観音像が人馬を見守っています。
洗馬方面からは道標「左善光寺近道 弘法大師霊場」先を斜め左に入ります、岩井堂観音への南参道口です。
本堂、庫裏、鐘楼堂、宝物殿、土蔵、衆寮の六棟が国登録有形文化財です。
男女双体道祖神と二基の道祖神が祀られています、会田宿北口の守護神です。
会田宿は天保年間(1830〜43)〜安政年間(1855〜60)に七度の大火に見舞われ、防火建築の漆喰塗り込め造りの建物が軒を連ねるようになりました。
この分岐点には中北道標「←刈谷原峠4.8km 美鈴湖13.9km/四賀村役場1.1km↓」があります。
この横断点には筆塚、中北道標「←刈谷原峠2.2km/四賀村役場3.7km→」、公園前バス停があります。
現在の街道を進むとT字路に突き当たります、右折(白色矢印)します、洗馬方面からは左折になります。 この分岐点には左から刈谷原峠解説、中北道標「↓四賀村役場4.4km/刈谷原峠1.5km→」、昭和七年(1932)建立の馬頭観世音があります。
害獣侵入防止用の金網ゲートです、手動で開閉できます。 眼下には旧道筋に設置された砂防ダムが一望です。
傍らに慶応二年(1866)建立の馬頭観世音が祀られています。
二代目松本藩主石川康長は松本城太鼓門の石垣石をここから切り出しました。 巨石を運ぶ人足が苦情を訴えると康長は自らその者の首を刎ねたといいます。
塚木はエノキとマツでした、洗馬より六里目です。
この枡形には岡田口留番所がありました、享保十一年(1726)岡田宿は幕府領と松本藩領の境となり、口留番所が設置されました。
当家には看板「御本陣問屋七左衛門上田道荷物御廻処」を残しています。
岡田村は昭和二十九年(1954)昭和の大合併で松本市に編入されました。
浅間温泉は「尋常(よのつね)と異なり、臭気なく清潔にして飯を炊き、茶を煮るに風味美しく」といわれ、慶長の頃(1596〜615)松本城主の別邸が建てられ、松本の奥座敷と呼ばれました。
この逆Y字路の左に信州大学教育学部附属幼稚園があります、次いで右手の公園の向いに信州大学教育学部附属松本小学校、そして信州大学教育学部附属松本中学校と連なっています。
この十字路を直進すると宝栄寺があります、松本城鬼門の鎮護寺でした。
松本大手郵便局の先にヒカリヤがあります、明治二十年(1887)築で国登録有形文化財です。
洗馬方面からは左折になります。 中町通りからは電柱が撤去され、すっきりした街並になまこ壁商家造りの旧家が軒を連ねています。
初代松本藩主となった数正は文禄二年(1593)名護屋在陣中病没しました、享年六十一歳でした。 子の康長は父の意志を継ぎ城普請を更に進めましたが、徳川の世になると数正に煮え湯を飲まされた家康は康長を改易し豊後佐伯に配流しました、寛永十九年(1642)康長は配所で失意のうちに死去しました、享年八十九歳でした。
この塩を運んだ牛をつないだ石です、これが「敵に塩を送る」の語源になりました。
わずかに進むと左手の松本ツーリストホテル脇に緑橋があります、古くは袖留橋と呼ばれました。 元和元年(1615)松本城主小笠原秀政が大坂夏の陣に伴う次男忠政(十八歳)の袖に乳母がすがり付いて離さなかったといいます。 ここには松本藩の高札場がありました。
ここが出川刑場跡です、貞享(じょうきょう)騒動の首謀者等がここで処刑されました。 貞享三年(1686)は不作の年でしたが松本藩は年貢の引き上げを行いました。 すると中萱(なかがや)村の元庄屋多田加助等一万人の百姓等が松本城下に押し寄せ、年貢減免等を求める五か条の訴状を提出し、藩主水野忠直は参勤のため不在でしたが、事態を重く見た城代家老は年貢減免を約しました。 参勤から戻った藩主は年貢減免を反故にし、騒動の首謀者等を捕縛し加助等八名を磔、二十名を斬首に処しました。
参道口には六地蔵が祀られ、 境内には徳本南無阿弥陀佛名号碑、三界萬霊塔、元禄十五年(1702)建立の大悲観世音菩薩碑、明和六年(1769)建立の観音講供養塔等があります。
富山湾で獲れたブリは一旦塩漬けにされ飛騨の高山に運び、更に塩漬けにされ、歩荷(ぽっか)に背負われて野麦峠を越え、松本方面に出回りました。
国道19号線に合流します、洗馬方面からは下石田交差点を斜め左に入ります。
勾配の緩やかな切妻屋根の上に雀返し(雀踊り)と呼ばれる棟飾りを掲げた建築様式です。 堅石(かたいし)上町バス停のスグ先を右に踏み込むと堅石三社が鎮座しています、社標に神饌幣帛(しんせんへいはく)供進神社と刻まれています、明治から終戦に至るまで勅令に基づき県知事から歳費等が供された神社です。 境内には阿吽の狛犬、道祖神、石祠、天保十五年(1844)造立の男女双体帯代(おびしろ)道祖神があります。
宿並を進むと右手に火の見ヤグラがあり、足元に善光寺街道郷原宿標柱があります、ここが郷原宿の南口です。
モクモクと歩くと伊勢町バス停先の右手に石仏石塔があります、馬頭観音像、文化八年(1811)建立の南無阿弥陀佛名号碑、明和三年(1766)建立の道標を兼ねた観音供養塔「右善光寺」があります。
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