道中日記 6−159 東海道 ( 小田原 - 沼津 ) 37.1km

 今回の行程は小田原宿から箱根峠を越えて沼津宿までです。

ちょうど、
生麦事件を引き起こした薩摩藩島津久光一行と同じ行程です。
本来であれば
三島宿泊まりですが、欧米軍の海からの攻撃を避ける為に沼津宿まで足をのばしています。

しかしこれには二つの疑問があります。
その一つは沼津宿には
沼津湊があり、三島宿よりはるかに海に近いです。

その二はいかに
蒸気船とは云え、横浜村から三浦半島の城ヶ島を回り、相模湾を横断し、伊豆半島下田の石廊崎を回航、駿河湾の奥の沼津に進出するのは物理的に無理です。

薩摩藩一行としては、一旦江戸に戻れと云う、
幕命を振り切る必要があったのでしょうね。

そんな事も考えながらボチボチ行きましょうか。

 平成20年04月22日 AM7:04 小田原宿出立 箱根宿まで16.5km

 小田原宿の起点である本町交差点を出立します、一本目すずまつのかまぼこ店手前を左に入ると曹洞宗徳常院があります。

お堂の中には銅製の
地蔵尊が安置されています、江戸駒込八百屋お七と恋仲になった、吉祥寺の寺小姓吉三郎お七の菩提を弔う為に造ったところから吉三地蔵(きちざじぞう)と呼ばれています。

宿並に戻りわずかに進み、創業四百年余料理茶屋小伊勢屋脇に入ると
明治天皇聖蹟碑があります、明治天皇本町行在所跡です、ここが片岡本陣跡です。

本町は宮前町とともに小田原宿の中心でした、幕末には本陣ニ、脇本陣二、旅籠二十六軒がありました。
吉三地蔵 明治天皇聖蹟碑 小西薬局

 次いで
中宿町に入ると寛永十年(1633)創業の老舗小西薬局があります、御用商人を勤めていました、町内には上の問屋場がありました。

 欄干橋町に入ると右手に城郭の様な八ツ棟造りの外郎(ういろう)があります、 一子相伝の透頂香(とうちんこう)を往時から商っています、この妙薬は口が曲がるほど苦いため、口直しに甘い菓子のういろうが開発されたと云います。

箱根口交差点を右に入ると
小田原城があります、戦国大名小田原北条氏の居城でした。

天正十八年(1590)
秀吉の前に開城となり、徳川の世になると家臣の大久保氏稲葉氏が城主となりました。

城内には
報徳二宮神社があります、二宮金次郎を祀っています。
ういろう 小田原城 報徳二宮神社

 二宮金次郎
(尊徳)は小田原藩領の相州足柄上郡栢山(かやま)村に生まれ、小田原藩主大久保忠真の抜擢により身を起こし、藩政に多大の功績を残しました。

 宿並に戻り筋違橋町に入ると右手に古風な造りの柳屋ベーカリーさんがあります、名物のあんぱん店です。

小振りな
あんぱんですが、もっちりした薄皮の中に餡がたっぷり入っています、餡(あん)は金時、栗白等10種類もあります、ご賞味下さい。

諸白小路交差点を越すと右に
天満宮があります、山角天神社です、社殿は段上に鎮座しています。

境内には
芭蕉句碑「有米家可耳(うめがかに)乃都登日能伝る(のつとひのでる)山路閑難(やまじかな)」があります、文政三年(1820)の建碑です。
柳屋ベーカリー 芭蕉句碑 南分署

 南町歩道橋の左階段口に小
田原駅標石があります、熱海に通じていた人車鉄道軽便鉄道の小田原駅がここにありました。

小田原市消防本部南分署の出動標識灯は
小田原ちょうちんを模しています。

 次いで山角町に入ります、小田原北条氏の家臣山角定吉の屋敷がありました。

東海道本線、箱根登山鉄道の
小田原架道橋ガードをくぐると、左手(北)に大久寺があります、ここには小田原城主大久保家一族の墓所があります。

天正十八年(1590)小田原合戦の際、徳川家康に従って参戦した遠州二俣城主
大久保忠世は戦功により小田原城四万五千石を拝領しました。

大久寺は忠世か開基し、大久保氏の菩提寺と定めました。
大久保一族の墓 居神神社 居神神社の古碑群

 向いの
居神神社の創建伝説は壮絶です、三浦の新井城主であった三浦荒次郎義意(よしおき)は伊勢新九郎守時(北条早雲)に攻められ自刃、は当地の松に晒されたところ、三年間通行人を睨み続けました。

高僧が引導をわたすとやっと成仏し、白骨となって地に落ちたと云います、この時「われ今より当地の守り神にならん」と一言残したところから、ここにを建て義意を祀りました。

境内には鎌倉時代末期の
古碑群があります、念仏供養に建碑されたものです。

 隣には浄土真宗本願寺派(お西)寂静山光円寺があります、三代将軍家光の乳母であった春日局の開基と云われています、境内には大イチョウが聳えています。

板橋見附交差点のところが小田原宿の
上方見附跡です。

板橋見附交差点を国道1号線から分かれ斜め右に入り、東海道新幹線の第一板橋ガードをくぐります、旧道に入ると車の通行が少なく、快適なウォーキングフィールドとなります。
光円寺 板橋見附跡 牛頭天王

 御菓子処盛月の先を左に入ると
牛頭天王が祀られています、疫病除けの神として広く信仰されています。

 街道左の下田豆腐店は創業百年です。

割烹旅館山月看板の手前を右に入り、上り坂を進むと
古希庵(こきあん)があります。

明治の元勲
山縣有朋が明治四十年(1907)、七十歳(古希)の時に構えた別荘です。

相模湾箱根山を借景した庭園は近代日本庭園の傑作と云われています。

街道に戻り先に進むと右手に
松永記念館入口標識があります、これに従って右に入ると小田原市郷土文化館松永記念館があります。
下田豆腐店 古希庵 松永記念館

 電力王と呼ばれた
松永安左衛門が収集した古美術品を展示しています。

 松永記念館より更に進むと曹洞宗南谷山香林寺があります、本尊は薬師如来です。

文明十六年(1484)の創建で、
本堂は文化元年(1804)の再建、山門は元禄十一年(1689)の再建です。

街道先の上板橋の
地蔵堂は当寺の主管です。

ここから元の道を戻ります、松永記念館を過ぎて一本目を右に入ると
秋葉山量覚院があります、慶長元年(1596)小田原城主大久保忠世が遠州秋葉山大観音を勧請したものです。
香林寺山門 香林寺本堂 秋葉山量覚院

 街道に戻り、先に進むと右手に宗福院地蔵堂があります、板橋のお地蔵さまと呼ばれ親しまれています。

永禄十二年(1569)
香林寺の和尚が身丈一丈(約3.3m)の大座像を造り安置したものです。

毎年1月と8月の23〜24日の両日が
縁日で、境内及び参道に市が立ち賑わいます。

本堂の右脇には大きくユーモラスな
鎮守福興大黒尊天の一木造像が祀られています。

境内には
山崎の戦いで戦死した官軍方の慰霊碑があります。
地蔵堂 福興大黒尊天 慰霊碑

 地蔵堂を過ぎると箱根登山鉄道の御塔陸橋(ガード)が現れます、右手の植栽の中に三界萬霊等(塔)があります。

この石塔は世に生を受けたもの全ての霊を
供養するものです、土砂崩れ等の自然災害の慰霊にも建立されます。

旧道は
陸橋をくぐり、上板橋交差点で国道1号線に合流します、京方面からは斜め左に入ります。

この合流ポイントには
宝篋印塔等の石造物があります。

交差点を横断して
早川沿いに移ります。
上板橋分岐 三界萬霊等(塔) 石造物群

 早川側に小田原用水早川上水取入口があります、の傍らには水神が祀られています。

ここで
早川の水を取入れ、小田原城下飲料水として供給されていました。

この
古水道は小田原北条氏時代に施設され、我が国の水道施設の中では初期のものです。

江戸時代になっても利用され、
城下十七町の飲料水として供給されました。

早川に沿う国道1号線の歩道を歩きます、行楽シーズンともなるとこの1号線は渋滞してしまいます。
早川上水 国道1号線 君田島踏切

 小田原厚木道路の高架下が
分岐ポイントです、君田島踏切で箱根登山鉄道を横断します。

 踏切を渡ると右に南無妙法蓮華経題目碑馬頭観世音そしてふた親さん象の鼻(日蓮思親の地)碑があります。

文永十一年(1274)日蓮聖人が鎌倉から身延山に赴く途中、当所の巨石象ヶ鼻(石の形が象の鼻に似ている)の上に登り、故郷の房総を望み、
両親を偲び回向して冥福を祈ったと云います。

以来、この地はを
お塔のふた親さんと呼ばれ里人の信仰をあつめました。

後に日蓮の弟子が象鼻山
妙福寺を創建したが、大正二年(1913)廃寺となりました。

踏切先の
Y字路は左に進みます。
日蓮聖人霊跡 八幡神社

 旧道を進むと右手に
八幡神社があります、文永十六年(1274)の創建で風祭村の鎮守です。

 街道の右手に村境の道祖神があります。

国立箱根病院を過ぎ、秋万酒店の角を右に入ると
風祭の一里塚跡があります。

江戸日本橋より数えて二十一里目です、塚木は共に
でした。

今ここには小田原市指定重要文化財の
道祖神が鎮座しています。

次いで右手に臨済宗大徳寺派永禄山
宝泉寺があります、永禄元年(1558)北条時長によって創建された古刹です。
道祖神 風祭の一里塚跡 宝泉寺

 旧道をグングン進むと右手に長興山紹太寺があります、江戸初期寛永九年(1632)〜貞享二年(1685)小田原藩主となった稲葉家一族の菩提寺です。

寺域は十町(1,092m)に及ぶ広大な地に
七堂伽藍の大寺院でしたが、幕末と明治初年の火災で廃塵に帰してしまった。

寺域の奥に
稲葉一族の墓があります、正勝正則正通の三代が小田原藩主を勤めました。

徳川三代将軍
家光の乳母を勤めた春日の局は正勝の実母です。
稲葉一族の墓 長興山の枝垂桜

 長興山の
枝垂桜は樹高13m、胸高周囲3.8m、樹齢約三百三十年以上(推定)です、県下最大のシダレザクラで小田原市の天然記念物指定です。

 紹太寺を後にすると小川を渡ります、ここに道祖神が祀られています。

旧道右手の段上に
山神神社(さんじんじんじゃ)が鎮座しています、祭神は大山祇命 (おおやまつみのみこと)です。

箱根登山鉄道を
入生田踏切で越すと右手に駒ノ爪橋跡解説があります。

往時、ここを流れる清水に
石橋が架けられていました、源頼朝が富士の巻き狩りから帰る折、石橋の上で馬が暴れ、橋の上に馬のひずめの跡が残ってしまったと云います。
道祖神 山神神社 入生田踏切 駒ノ爪橋跡

 往時旅人達は「石に蹄跡を付けた馬の頑健な脚にあやかりたい」と道中、足が痛まぬよう祈願したと云います。


 次いで日本初の有料道路解説があります、明治八年(1875)小田原の板橋から湯本まで幅員平均5mの我が国初の有料道路が開通しました。

道銭(通行料)は人力車一銭、大八車七厘、小車三厘でした。

土産店の
いりふねの所で国道1号線に合流します。

スグに、国道1号線沿いの
擁壁階段を登ります、登り口には達磨大師が彫られた交通安全之碑があります。
有料道路 達磨大師 石段道 下耕地トレース

 コンクリート階段を下り、交通安全箱根町のプレートが貼られた
モニュメント右の旧道に入ります(下耕地旧道トレース)。

 国道1号線と箱根登山鉄道の間の旧道をしばらく進み、国道1号線に出る手前の擁壁道に入ります(山崎旧道トレース)。

国道1号線に沿うのどかな
擁壁道を歩きます。

湯本歩道橋
を過ぎたら階段を下り、国道1号線の歩道に合流します(湯本旧道トレース)。

国道1号線の歩道のフェンスには
大名行列のレリーフが飾られています。

旧道は左折して
早川に架かる三枚橋を渡ります、直線は箱根温泉道箱根駅伝のコースになっています。
山崎旧道トレース 湯本旧道トレース 三枚橋

 三枚橋からは
県道732号線になります、くねった山道で歩道はありません、大型観光バスも通行しますので十分お気を付け下さい。

 三枚橋を渡ると箱根路東坂になります、右手に道祖神が祀られています。

湯本小学校を過ぎると街道左手に
白山神社があります、湯本村湯本茶屋村の鎮守です。

参道口に流量の多い
手水舎(てみずや)があります、必ずお世話になっています。

向いが北条早雲所縁の
早雲寺です。
道祖神 白山神社 早雲寺惣門 北条家五代墓

 早雲寺
は大永元年(1521)北条早雲の遺命により子の氏綱が建立したものです。

天正十八年(1590)小田原攻めの
豊臣秀吉軍は早雲寺を本陣とし、一夜城が完成すると火を放ち、伽藍、塔頭寺院は灰燼に帰してしまいました。

墓所には早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の
小田原北条家歴代当主五代の墓があります。

 街道左の弥坂湯は入浴料650円、アルカリ性単純泉で神経痛、筋肉痛、関節痛によろしいようです。

おん宿章八先の右手ブロック塀の中に
道祖神が祀られています。

向いのあうら橋の奥に
厄除石垣神社があります、秀吉が一夜城を築き、その鬼門除けに創建したものです。

スグ先の左に臨済宗大徳寺派大本山
正眼寺があります、慶応四年(1868)山崎の戦いで一部焼失しました。
弥坂湯 厄除石垣神社 正眼寺 曽我堂

 裏山には
曽我兄弟仇討ちで知られる、兄弟の地蔵尊が安置されている曽我堂があります。

 街道の右手曽我堂上バス停の所に道祖神が祀られています。

街道が右にカーブすると右手段上に
男女双体道祖神があります、湯本茶屋村境の道祖神です。

男女双体道祖神は夫婦仲が良ければ悪霊が入り込む余地がないことを意味しています。

湯さか荘駐車場先の右手に
一里塚跡碑があります、旧箱根街道一里塚跡の碑と刻まれています。

湯本茶屋の一里塚跡で、江戸日本橋より数えて二十二里目です。
道祖神 男女双体道祖神 一里塚跡

 曲がりくねった街道を進み、近江屋旅館の所から斜め右の下り坂に入ります。

旧道に入ると右手に
馬の飲み水桶があります、この辺りは馬立場といって馬子が一休みした所です。

この桶には山から引いた水が満々とたたえられ街道を往来する馬の
飲み水になっていました。

ここから箱根路東坂の
石畳道が始まります、江戸幕府は延宝八年(1680)に箱根旧街道に石を敷き、舗装をしました、この先約255mに、その面影を残しています。
箱根旧街道東口 馬の飲み水桶 東坂最初の石畳口

 石畳道を下り猿橋を渡ると上り坂になります。

右手に曹洞宗大慈悲山箱根観音
福寿院があります、病気を癒し、身魂を洗い清める観音霊泉があり、箱根唯一の名湯長寿美人の湯と呼ばれていました。

ここに
観音堂を建立し、開運出世慈母観音像を安置しました。

福寿院の先で旧道は再び
県道に吸収されます、京方面からは福寿院案内から左の旧道に入ります。

街道を進み
記念沢記念橋で、駒沢駒沢橋で、観音沢観音橋で渡ります。
福寿院 石畳道西口 観音坂碑

 滝通り温泉郷案内の所に
観音坂碑があります、登り二町許(ばかり)と刻まれています、福寿院の観音堂に由来しています。

 葛原沢葛原橋で渡ると登り一町許(ばかり)の葛原坂です。
坂は
須雲川村境にあり、この辺りは今もクズの葉が生い茂っています。

堀木沢堀木橋で渡ると極彩色の天聖院です、門前には歩道が完備しています。

ホテルはつはなを過ぎ、二之塔沢二の戸橋で渡った先右手に初花ノ瀑碑があります、目をこらすと向いの斜面に極く小さな滝が見えます(印)、中腹より上です。

碑には「夫勝五郎ノ仇討本懐祈願ノ為メ初花ガ垢離ヲ取ツタ滝トシテ傳ヘラル」と刻まれています。
葛原坂 初花ノ瀑碑 初花の滝

 駒形神社の銅葺き鳥居を過ぎると鎖雲寺です、霊泉の瀧脇の階段を登ると境内に入れます。

このお寺には歌舞伎「箱根霊験記躄の仇討」で知られる
勝五郎初花のお墓(比翼塚)があります。

父の仇敵を追って箱根山中に差しかかった
勝五郎は足を患い養生しながら機会を待つことになりました。

妻の
初花は夜毎に、向山の滝(初花の滝)に打たれ箱根権現へ夫の病気平癒と仇討成就を一心に祈願しました。 
駒形神社 鎖雲禅寺初花堂 比翼塚

 初花の一念は天に通じ箱根権現の霊験によって勝五郎の足は治り、慶長四年(1599)八月、遂に仇敵にめぐり合い、見事に
本懐を遂げたと云います。 

※ ところが
(いざり)が差別用語だとして、昨今演目にかからなくなったと云います、残念ですね。

 鎖雲禅寺の先に須雲川自然探勝歩道入口があります、少し入ると女轉シ坂(女転し坂)碑があります。

しかしながらこの歩道は
旧東海道の道筋ではありません、通過します、碑の位置も不適切です。

目の前の
須雲川須雲川橋で渡ります。

渡詰めの右手に
弘法のイボ取り水があります、大きな石の上に弘法大師と刻まれた石碑が立っています。
須雲川探勝歩道 女轉シ坂 須雲川 弘法のイボ取り水

 石碑の前の
窪みに溜まっているイボにつけると取れると伝わっています。

 正面左手の急斜面が女転(ころ)し坂です、しかしこの坂は関東大震災で崩落してしまったと云います。

右手の
箱根大天狗神社を横目で見ながら左に大きくカーブすると先に女転し坂の解説があります、この位置が坂の登り詰でした。
馬に乗った
婦人がこの坂で落馬して死んでしまったところを由来としています。

次に
発電所前バス停があり、その先右(北)側に割石坂の入口があります。

入口には
須雲川自然探勝歩道(一部旧東海道)標識と割石坂碑があります。
女転し坂 割石坂東口 割石坂の石畳

 
曽我五郎が富士の裾野へ仇討ちに行く際、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真二つに切り割った所と云います。

旧道には角が丸くなった
江戸時代の石畳を残しています。

 割石坂には接待茶屋がありました、江戸時代後期、箱根権現の別当如実は江戸呉服町の加勢屋与兵衛等の協力を得て文政七年(1824)に接待茶屋を設置しました。

接待茶屋では箱根八里を往還する旅人湯茶飼葉を施しました。


旧道は木製を模した橋の先で県道に吸収されます、ここにも須雲川自然探勝歩道(一部旧東海道)標識があります。

県道を横断し左(南)側の
歩道を進みます。

およそ190m進み、左側ガードレールの切れ目に
石畳の下り坂入口があります、ここには国指定史跡箱根旧街道標識があります。
割石坂西口 大澤坂東口

 急な石畳の坂を下り切り、小さな木橋を二本渡ると急な登り坂になります、登り三町餘(余り)の大澤坂です。

大澤坂には江戸時代初期、石畳施設当時の構造を今に残しています。

箱根路東坂の険は実質上この大澤坂から始まります。

石畳は
むしています、雨上がりは一層滑りやすくなっています、ひと石づつ着実に足裏全体で掴む感じで、ユックリ登りましょう、呼吸はヒーヒーフーフーです。
小さな木橋 大澤坂碑 大澤坂 大澤坂西口

 
大澤坂は再び県道に合流します、この分岐ポイントには国指定史跡箱根旧街道標識があります。

 合流先の左手に畑宿村境の道祖神が台上に祀られています。

畑宿間の宿として栄え、茶屋が軒を連ね、そば、鮎の塩焼、箱根細工が名物でした。

特に伝統工芸の
箱根細工の歴史は古く、小田原北条氏時代までさかのぼります。

右手には
茶屋本陣を勤めた名主茗荷屋畑右衛門の庭を残しています、山間から流れる水を利用して滝を落とし、池には鯉を泳がせていました。

旅人達の評判でした。
道祖神 茶屋本陣跡 明治天皇碑

 幕末、
ハリスヒュースケンなど外交の使者達もこの庭を見て驚嘆したと云います。

敷地の外れに
明治天皇御駐蹕之址碑があります、三度休息しています。

 先の右手箱根町消防団横の参道階段を上ると駒形神社があります、駒形大神を勧請して、駒形大明神と崇められています。

境内に末社
照心明神があります、明和三年(1766)この地に疱瘡(ほうそう)が蔓延しました。

この時、村の子に「我照心明神を信ぜば障難なかるべし」と
神託があり、村人が信崇したところ罹病していた七十人あまりの子供達は全快したと云います。

先に進み右手
あんの茶屋手前の階段を上ると庚申塔があります、万治元年(1658)の建立です。
駒形神社 照心明神 庚申塔

 畑の茶屋の前には箱根七福人大黒天の幟がはためいています、石段をを上ると守源寺があります、寛文元年(1661)の創建です。

この
石段畑の茶屋の間から西海子(さいかち)旧道に入ると石畳が始まります。

石畳は文久二年(1862)皇女和宮の降嫁に際し、大幅な改修工事が行われました。

皇女和宮自身は日程の立て易い
中山道を通行し江戸に入っています。
西海子坂東口 守源寺 畑宿の一里塚

 但し、
輿入れの荷の運搬には東海道が利用されました。

旧道に入るとスグに
畑宿の一里塚があります、両塚とも復元されています。

江戸日本橋より数えて二十三里目です、いずれにしても
一里塚石畳道はベストマッチです。

 石畳敷設以前の峠道は雨や雪の後、大変な悪路になり、旅人は膝まで没する泥道を歩かなければならない為、箱根竹を敷いていました。

しかし敷設に要する
助郷の負担は計り知れない為、江戸幕府は延宝八年(1680)箱根路を石畳に改修しました。

県道が下を通る
空中石畳道を過ぎると、険しい登りになります、この急坂が千尋(せんじん)の谷に落ちると云われた西海子坂(さいかちさか)です。

最後は石段を上り、県道に合流します。

この合流ポイントには
国指定史跡箱根旧街道標識があります。
空中東海道 西海子坂 西海子坂西口

 ここから七曲りになります、マズ一本目の左カーブを進み、先の階段を上り二本目のカーブをショートカットします。

この先七曲りをトレースし、
箱根新道高架を2ケ所くぐります、一本目のガードには歩道がありませんからご注意下さい。

橿の木坂バス停の先の石段が登り五町許(ばかり)の名物橿木坂(かしのきざか)です、道中一番の難所で、どんぐりほどの涙がこぼれると云われました。
七曲り階段 箱根新道高架 橿木坂 橿木坂碑

 かつての橿木坂は崩壊した為、今は階段になっています、それこそ胸突き五町の階段です。

階段は足裏全体のベタ足で登ります、つま先で登るとスグに息が上がってしまいます。

階段を上り詰めると
Y字路に突き当たります、左(白矢印)が旧道です、右(黄矢印)の階段を登ると見晴し茶屋があります。
分岐ポイント 見晴し茶屋 しそ 樫の木平

 
しそ及びのジュースが名物です!

ここが
樫の木平です、眼下に小田原城下相模灘が望める絶景の地です!

 Y字路に戻り、左「甘酒茶屋1.3km 元箱根3km」方向に向かいます、京方面からは右「畑宿1.5km」方面に下ります。

見晴橋山根橋甘酒橋を渡り継ぎます、街道は比較的緩やかな登りの石畳道となります。

やがて急な
石段が現れます、ここから先が登り一町餘(余り)の猿滑(さるすべり)です、「殊に危険、猿といえども、たやすく登り得ず」と云われました。
山根橋 石畳道 猿滑坂碑 猿滑坂

 石段を登りきり、県道を横断し、向いの擁壁階段を登ります。

この
横断歩道の所に、以前は畑宿歩道橋がありましたが撤去されています、マップを修正して下さい

擁壁道の石段を下り、
県道に合流し歩道を歩きます。

木製の階段が現れたら、
追込坂(おいこみざか)の入口です、甘酒茶屋までのゆるい坂でふっこみ坂とも云いました。
擁壁の猿滑坂 擁壁階段西口 追込坂 追込坂碑

 追込坂口に笈の平親鸞上人石碑があります、親鸞上人が東国での布教を終えて上洛する際、ここに笈を降ろして弟子と別れを惜しんだと云います。

追込坂土道になっています、先に、箱根路は二十数度往復していますが相変わらず臭気が漂うトイレがあります、何とかならないのでしょうか。

街道の左に創業三百五十年の
甘酒茶屋があります、盛業中です。

忠臣蔵
甘酒茶屋のくだりで、神崎与五郎が馬喰の丑五郎に言いがかりをつけられ、大事を控えじっとこらえ詫び証文を書いた茶屋です。
笈の平親鸞上人碑 追込坂 甘酒茶屋

 しかし残っている
侘び証文から神埼与五郎ではなく同じ浪士の大高源吾で、その場所は三島宿だったと云います。

 杉の根が露出した峠道を進み、鉄塔脇を越すと登り二町半餘の於玉坂です。

関所破りの刑で処刑された於玉にちなむ坂です。

スグ先で
県道を横断します、再び旧道に入ると左手に史跡箱根旧道碑があります、傍らに小さな石塔が三基並んでいます。

登り十二間餘の
白水坂になります、秀吉の小田原攻めの際、北条方二子山中腹から石を落とし撃退、秀吉勢が城を見ずに引き返したところから城見ず坂になったと云います。
於玉坂碑 分断された石畳道 石塔群 白水坂碑

  息も絶え々になってきます、短い呼吸では気道内で空気が上下するだけです、ゆっくり2回空気を吐き、2回吸気します、ヒーヒーフーフーです。

次いで登り七間餘の
天ヶ石坂です、箱根路東坂最後の坂です。

碑の横に坂名の由来となった
天蓋石と呼ばれる八尺(2.4m)四方の巨石があります、アマガエルに似ているところからアマガ石と呼ばれました。

最後のひと踏ん張りをすると東坂の
頂上です。
白水坂 天ケ石坂碑 天ケ石 箱根馬子唄の碑

 芦ノ湖
はカルデラ湖ですから外輪山を形成しています、従ってここから芦ノ湖までは下りになります。

少し下ると
広場があり箱根馬子唄碑「箱根八里は馬でも越すがこすに越される大井川」があります。

 旧道は公園先で舗装路を横断(白矢印)します、この舗装路を右(黄矢印)に進むとお玉観音があります。

元禄十五年(1702)十代の
お玉が江戸の奉公先から伊豆の実家に逃げ帰る際、手形がないため山に設置されている柵を抜けたが、関所の番人に捕まり二ケ月後に処刑されました。

那津奈可池(なずながいけ、お玉ヶ池の旧名)でお玉の首を洗ったと云います。
舗装路の横断 お玉観音 下二子山 上二子山

 境内からは
二子山が望めます、箱根の火山活動で一番最後に出来た山です。

 舗装路を越すと下りの石畳道になります、箱根権現にちなむ権現坂です。

小田原から箱根路を上った旅人がいくつかの
急所難所を喘ぎながらたどり着き、一息ついたのがこの坂です。

坂の正面には
芦ノ湖が望めます。

広重はこの
権現坂を誇張気味に描いています。
権現坂 権現坂碑 東海道五拾三次之内 【箱根】 湖水圖

 権現坂の石畳を下り切ると土道になります、ここには史跡箱根旧街道碑があります。

木調フェンスに沿って進み、
杉並木歩道橋を渡ります、正面には見事な杉並木が連なっています。

土道を進むと
ケンペル・バーニー碑があります、ドイツの博物学者エンゲルベルト・ケンペルはオランダ通商使節団の一員として元禄四年(1691)と翌五年に箱根を越え、箱根の美しさを世界に紹介しました。
杉並木との出会 杉並木歩道橋 杉並木 顕彰碑

 C・M・バーニー
はこの地に別荘を持っていた英国の貿易商です。

 碑の前から車道(白矢印)に移ります、直進(黄矢印)すると芦ノ湖畔に出てしまいます。

杉並木の舗装路を下り切ると、赤い大きな
箱根神社の鳥居脇に出ます。

二代目
歌川広重は安政六年(1859)に諸国名所百景の中で豆州箱根権現を描いています。

大鳥居の芦ノ湖側に
賽の河原があります。
分岐ポイント 箱根神社鳥居 豆州箱根権現 賽の河原

 この地は地蔵信仰の霊地として、多数の石仏石塔が湖畔に並んでいます。

成川美術館を過ぎる左手に身代わり地蔵が鎮座しています。

宇治川の先陣争いで名高い梶原景季(かげすえ)は、ある年箱根を通りかかった時、何者かに襲われました、当時弁舌巧みで、たびたび人をおとしいれた平景時と間違えられたらしいのです。

幸いにも、傍らにあった地蔵が身替わりになってようやく命が助かりました、それ以来この地蔵を景季の身替わり地蔵と呼んだとのことです。


右手に
芦ノ湖のパノラマが広がります、目をこらすと箱根神社の鳥居が望めます。

箱根神社は
箱根権現と呼ばれ、箱根山信仰の中心地です、曽我五郎はこの神社の稚児をしていたと云い、兄弟の遺品を所蔵しています。 
身代わり地蔵 芦ノ湖

 歩道橋の手前左手に葭原久保(よしわらくぼ)一里塚跡碑があります、塚木は(まゆみ)でした、江戸日本橋より二十四里目です。

元箱根歩道橋の根元から杉並木に入ります、旧東海道箱根杉並木碑があります、杉並木は国指定史跡です。

一気にタイムスリップした景色になります、正面から大名行列が向ってきそうです。 
一里塚跡 杉並木東口 杉並木 杉並木西口

 やがて杉並木は
国道1号線の歩道に吸収されます。

 恩賜箱根公園有料駐車場入口手前の横断歩道を渡り、駐車場を回り込み1本目を左折すると正面が箱根関所です

右手の
恩賜箱根公園は明治天皇の箱根離宮跡です。

以前、関所口は
冠木門でしたが、今は江戸口御門に変わっています、ここが箱根宿の起点です。

長い間工事中でしたが、
箱根関所が完成しています。
箱根関所へのアプローチ 江戸口御門 大番所

 関所は慶応元年(1865)当時の規模に復元されています。

関所は
江戸口御門京口御門で仕切られ、芦ノ湖側には関所役人が控える大番所上番休憩所があり、山側には足軽番所がありました、これらが見事に復元されています、必見です。

両御門の外には
千人溜と呼ばれる、関所に入る人々が控える溜り場があり、両所には井戸が設置されていました。

入り鉄砲に出女」を取り調べ、特に江戸方面からの出女は厳しく取り調べられました。
足軽番所 京口御門 関所先分岐ポイント

 関所から先で突当りの
国道一号線を右折します、箱根宿到着です。

 PM11:25 箱根宿着 三島宿まで14.7km

 天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると箱根宿の宿内家数は百九十七軒、うち本陣六、脇本陣一、旅籠三十六軒で宿内人口は八百四十四人(男四百三十八人 女四百六人)でした。
箱根宿は
三島宿小田原宿からそれぞれ五十戸を移住させ新設された宿場でした。

宿並は
三島町小田原町で構成され、それぞれに本陣問屋場があり問屋業務は一ケ月交代で勤めました、宿場名物は山椒魚、寄木細工、甘酒でした。
箱根宿(ベアト撮影) 本陣はふやの楓

 スグ先の
箱根ホテル箱根宿本陣はふや跡です、往時の(かえで)を残しています、樹齢は四百年を越えています。

 箱根関所南交差点を右折すると箱根駅伝の往路のゴールであり、復路のスタートラインが設置される所です。

芦川入口バス停先の信号交差点左手の段上に馬頭観音地蔵を安置した祠があり、その前には山の神が祀られています。

旧道は
信号交差点を右折します、旧道を進むと左手に駒形神社があります。

境内には
犬塚明神があります。
馬頭観音&地蔵 山の神 芦川入口 駒形神社

 元和四年(1618)
箱根宿創設の際、の被害に悩まされ、唐犬二匹を投入し、狼退治をさせました。

宿は完成しましたが、二匹とも傷つき死んでしまいました、そこで宿の人々は二匹の唐犬をここに埋め
犬塚明神と崇め祀りました。

 駒形神社の先を左に入ります、この分岐ポイントには道標「外輪山 山伏峠 箱根旧街道」があります、、京方面からは「箱根関所 資料館」方面に進みます。

旧道に入ると右手に
芦川の石仏群があります、駒形神社境内にあったものを移したと云われています、ここには箱根で最も古い万治元年(1658)建立の庚申塔があります。

石仏群の先から箱根峠迄の
外輪山踏破が始まります。
芦川旧道口 芦川の石仏群 外輪山口 史跡箱根旧街道

 この道筋は
国史跡に指定されています。

 外輪山の登りは向坂から始まります、石畳道の両側には自然のままの杉並木が続いています、野趣に富む、風情ある街道です。

国道1号線を背の低いガードでくぐると、赤石坂釜石坂風越坂と続きます。

やがて
丸太の急階段が現れます、挟石坂の急坂です、胸付です。

目の前に壁のように階段が立ちはだかります、足裏全体のベタ足でシッカリ登ります。
向坂碑 国道1号線ガード 挟石坂 挟石坂碑

 この急坂、登りはきついで済みますが、下りは危険です、
丸太は滑りやすいですから十分以上にお気をつけ下さい。

 丸太の挟石坂を登り切ると箱根新道に出ます、ここには国指定史跡箱根旧街道標識があります。

目の前の
箱根新道を横切り国道1号線に入ります、ここには信号も横断歩道もありません、ご注意下さい。

国道1号線に
歩道はありません、くれぐれもご注意ください。

赤い橋桁の
箱根新道高架をくぐり、突き当りを強引に横断して右に進みます、ここも信号も横断歩道もありません。
挟石坂西口 国道1号線

 箱根くらかけゴルフ場看板左の登り坂に入ります、箱根峠最後の登り坂です。

先のY字路は右に進みます、最高点が
箱根峠の頂上です、ここが相模と伊豆の国境です、今は神奈川県と静岡県の境です。

往時、国境には
伊豆相模両国境と表示された標示杭があり、小田原藩領と三島代官の支配する幕府領の境を示していました。
この辺りの地名は
境木と呼ばれていました。
箱根峠口 箱根峠旧道トレース

 ここから先は三島宿まで下りの
箱根路西坂になります。

 峠を下ると箱根峠交差点に出ます、街道は国道1号線に合流します、この交差点を左に進み箱根峠バス停後ろの丸太の階段を登れば箱根の親不知(脚気地蔵)があります。

昔、大坂の呉服問屋の
ひとり息子が道楽に身を崩し出奔、年老いた父親は財産を息子に何とか譲りたいと捜索の旅に出ました。

この峠にさしかかると持病の
脚気が起き、道端に伏してしまったところ、おりから通りかかった駕籠屋が介抱をよそおい短刀で突き殺し、懐の財布を奪ってしまいました。

フト財布を見ると見覚えがあり、あらためて顔を見ると
父親であった、さすがの悪党も顔面蒼白となり、己の咽喉に短刀を突き立てが死に切れず、苦しみ続け彷徨い山中の宿で相果てたと云います。
箱根峠バス停 脚気地蔵

 時計の針は12:10指しています頃合です、箱根峠交差点先の箱根路食堂に入り、箱根路うどんを食しました、中華のあんかけ風で、七味よりラー油が合います。

食堂向の
箱根旧街道と書かれた冠木門をくぐり、トラック駐車場の外周をトレースします。

以前この場所はドライブインの廃墟でした。

冠木門をくぐると右手に
峠の地蔵があります、近世のものです。
箱根路食堂 箱根路うどん 旧街道冠木門 峠の地蔵

  トイレを回り込み箱根旧街道入口道標に従い舗装路道に入ります。

かつては国道1号線を進み、
カントリー入口バス停を右折してこの道筋に入りました。

やがて街道の右手は
芦ノ湖CCの斜面になります、OBのボールが飛んできそうです。

間もなく左手
甲(兜)石坂東口が現れます、道標「是より江戸二十五里 是より京都百里」や「三島宿11km 箱根関所跡3km」があります。

この辺りは
い茨(いばら)が生い茂っていたので茨ケ平(ばらがだいら)と呼ばれていました。
箱根路西坂東口 甲石坂東口 八ツ手観音

 
甲石坂(かぶといし)に踏み込むと右手に天保八年(1837)建立の八ツ手観音と呼ばれる馬頭観音があります、憤怒の形相で災いを追い払い旅人を守護しています。

 左手の東屋を過ぎると箱根竹のトンネルになります、いつ来ても幻想的です。

しかしながら
ある時積雪の重みでこの竹が両側から中央に沈み、腹ばいで通行したことがあります、正に雪中行軍でした。

石畳が施行される以前はこの箱根竹を峠道に敷いていました、又、この
箱根竹煙管さおに重用されました。

石畳には
兜石跡の碑があります。
箱根竹トンネンル 兜石跡 甲石坂の石畳 甲(兜)石坂西口

 昭和の初め国道1号線の拡幅工事の時、
兜石はこの先に移設されました、甲(兜)石坂はこの石に由来しています。

甲石坂の石畳を下り切ると石段になり国道1号線に突き当たります、右に進みます。

この分岐ポイントには
道標「←山中城跡・三島宿 →箱根峠」があります。

 国道1号線の歩道を下り、接待茶屋バス停の先を右折して石原坂に入ります。

この分岐ポイントには
道標「←山中城跡・三島宿 →箱根峠」があります。

ここには
接待茶屋がありました、江戸時代中期に箱根山金剛院別当が箱根山を往来する者の苦難を救う為に人や馬に粥や飼葉、焚火を無料で施しました。

文政七年(1824)江戸の豪商
加勢屋与兵衛が再興したが明治維新とともに中断しました。

その後も有志が引き継ぎましたが、昭和四十五年(1879)に
終焉をむかえました。
石原坂東口 山中接待茶屋

 つい最近まで
茶屋の残骸が放置されていました。

この辺りに
接待茶屋の一里塚が有りました、江戸日本橋より二十六里目です。

 石荒坂とも呼ばれる土道の石原坂を下ると左手に徳川友徳公遺蹟碑があります、有徳公は徳川八代将軍吉宗です。

吉宗はここの茶屋で休息した際、
永楽銭で支払ったところから、茶屋は以降永楽屋と呼ばれました。

碑の向いには
兜石(かぶといし)があります、元は甲石坂に有りましたが、ここに移設されました。

小田原征伐に向う
秀吉をこの石の上に置いて休息したところからかぶと石と呼ばれるようになったと云います。

先に進むと
Y字路が現れます、道標があります。
友徳公遺蹟碑 兜石 施行平分岐

 旧道は左「山中城跡・三島宿」方面に進みます、Y字路右は
施行平です。

施行平は
三島市眺望地点富士山愛宕連山駿河湾が一望です。

 土道の旧道を進むと、街道から左にすこし入った所に明治天皇御小休趾碑があります、往時はこの辺りから駿河湾が望めたと云います。

石原坂にも石畳を残しています。

西坂は明るい尾根道になっています、これは敵の発見を容易にする為です、そして東坂谷道に導き入れ、山上より挟み撃ちにする戦略とも云います。

右手に大きな岩が現れます、土地の人は
念仏石と呼びます、念仏石の前に「南無阿弥陀仏・宗閑寺」と刻んだ碑があります、旅の行き倒れ宗閑寺で供養し、名号碑を建てたものです。
明治天皇碑 石原坂の石畳 念仏石

 石原坂は開けた草地に出ます、フェンスに沿って進み大枯木坂に入ります。

先のY字路は
道標に従って左に進みます。

大枯木坂を下ると農場の庭先に出て、突き当たります、左折します。

ここには
道標「←山中城跡 →箱根峠」があります。

スグ先で突当りの
国道1号線の横断歩道を横断して右折します。
石原坂西口 大枯木坂西口 国道1号線 小枯木坂東口

 ここには道標「→山中城跡・三島宿」があります。

農場前バス停を過ぎると三島市に入ります。

突当りを左折します、ここには
道標「←山中城跡・三島宿 →箱根峠」があります。

 急な階段を下ると小枯木坂の石畳(願合寺地区石畳)になります、三島市によって、発掘調査が行われ、修復整備されています。

発見された
一本杉石橋は保存状態が良く、そのまま保存されています。

小枯木坂が国道1号線に合流する手前の右手に
雲助徳利の墓があります、墓には徳利が陽刻されています。

元は武士であった
松谷久四郎は酒がもとで逐電し、雲助の仲間になり、いつしか親分として慕われるようになりました。
小枯木坂東口 小枯木坂の石畳 雲助徳利の墓

 小枯木坂は螺旋階段の歩道橋の所で国道1号線に吸収されます、京方面からはこの歩道橋は重要な分岐ポイントです。

小枯木坂口には
史跡箱根旧街道碑があり、傍らには名号碑「南無阿弥陀佛」と三界萬霊塔があります。

スグ先左に
竹屋があります、今はうなぎ蒲焼店ですが、以前は名物雲助だんごを商う茶屋でした、何度か賞味しました。

かつてこの辺りには四十軒余りの
旅籠茶店が軒を連ねていました。
小枯木坂西口 石塔 竹屋

 駒形諏訪神社山中城の本丸に守護神として勧請されたものです。

境内には
大カシ(アカガシ)があります、樹齢は五〜六百年と推定されています(県指定天然記念物)。

山中城本丸曲輪口に聳えていました、山中城合戦の生き証人です。

山中城は小田原北条氏が永禄年間(1558〜70)に築城した山城で、西方防備の要でしたが、天正十八年(1590)豊臣秀吉軍の前に一日で落城となりました。
駒形諏訪神社 大カシ 山中城跡

 街道を進むと右手に宗閑寺があります、参道口に史跡山中城趾記念之碑があります。

境内に
武将の墓があります、山中城合戦で戦死した両軍の武将の墓があります。

宗閑寺の先を国道1号線から別れ、
石畳を模した舗装路に入ります。

旧道に入ると右手段上に
芝切地蔵が安置されています、巡礼が死の間際に「私を地蔵尊として祭って下さい、そして芝塚を積んで、私の故郷の常陸が見えるようにして下さい。そうすれば村人の健康を守ってあげます」と云い残しました。
宗閑寺と武将の墓 山中旧道 芝切地蔵

 そこで村人が
地蔵尊を祀り、縁日の日に小麦まんじゅうを振る舞ったところ味が評判となり、大勢の参拝者が集まり、さい銭小麦まんじゅうの利益で山中部落の費用が賄えたと云います。

 山中城跡交差点で国道1号線を横断し、石畳道に入ります。

右手(緑矢印)に
山中城跡案内所売店があります、ここのところてんは絶品です、お好きなだけどうぞとタレを付けてくれます、しょっぱ過ぎず良い塩梅です、は疲労物質の乳酸を除去します、ツルツルの後グビィといっときましょう。

左(黄矢印)の階段を登ると
山中城岱崎(だいざき)出丸跡があります。

岱崎出丸は豊臣秀吉の小田原征伐に備え急遽造られたもので、出丸内はいくつかの曲輪で構成されていました。
山中城跡交差点先 ところてん 山中城岱崎出丸跡

 腰巻地区の石畳(白矢印)を進みます、杉林に囲まれた快適な街道です。

右手に作家
司馬遼太郎箱根八里記念碑「幾億の跫音が坂に積もり 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ」と刻まれています。

傍らには
馬頭観音が祀られています。

石畳道は先で
国道1号線に吸収されます、横断歩道を渡り国道を進みます。
腰巻地区の石畳 箱根八里記念碑 馬頭観音 腰巻地区石畳西口

 歩道からは眼下に駿河湾が望めます、およそ100m進み、道標「三島宿・富士見平」に従い富士見平旧道に入ります。

石畳道を下り切ると国道1号線に突当りますここが
富士見平です。

この突当り手前の左手に大きな
芭蕉句碑「「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」があります、少しヤケになっているところが可愛いですね、やはり富士山は見えませんでした。

この先
ガードレールがあって直進できません、上図の通り、迂回路の指示があります。
富士見平東口 芭蕉句碑 富士見平の迂回路

 私見ですが指示された
横断歩道の方が車道の見通しが悪く危険に思えます、むしろ直進の位置の方が左右の見通しが良好です、ここは本来の道筋横断歩道を設置すべきでしょう。

 道標「上長坂・三島宿」に従い急な上長坂の下り階段に入ります。

上長坂かみなり坂とも呼ばれます、比較的フラットな石畳道を下ると国道1号線に吸収されます。

この分岐ポイントには
道標「←笹原一里塚 →上長坂・山中城跡」、夢舞台・東海道道標「笹原新田 上長坂」があります。

国道1号線の歩道を歩き、スグ先で左の
石畳道に入ります。

この分岐ポイントには
夢舞台・東海道道標「笹原新田 笹原地区石畳」があります。
上長坂東口 上長坂西口 笹原地区石畳東口

 石畳に入ると右手にがあり馬頭観音が安置されています、旅人の道中安全を見守っています。

先に進むと左斜面に
史跡箱根旧街道碑があり、その先に登り坂があります、踏み込むと笹原の一里塚が現存しています、江戸日本橋より数えて二十七里目です。

塚には詩人
大岡信箱根八里記念碑「森の谺(こだま)を背に 此の径をゆく 次なる道に出会うために」があります。
馬頭観音 史跡箱根旧街道碑 笹原の一里塚 箱根八里記念碑

 左手三島市消防団第十四分団の先で桝形状に国道1号線を横断します。

手前には
道標「笹原新田 笹原一里塚」があり、横断すると道標「←こわめし坂・三島宿 →笹原一里塚・箱根峠」があります。

下り始めると右手の祠内に
馬頭観音が二基安置されています。

こわめし坂(下長坂)は西坂最大の難所です、あまりの急勾配で背負った米が熱気で蒸され強飯(こわめし)になったと云う急坂です。

街道は往復で
ワンセットです、是非ご賞味下さい。
国道1号線横断 馬頭観音 こわめし坂

 この難所
こわめし坂には念仏石と呼ばれる大石がありましたが、大雨で斜面が崩れ埋没してしまいました。

平成八年二月に
発掘を試みましたが発見出来ませんでした。

 こわめし坂の西口が近づくと左手段上に天神社が鎮座しています、明和三年(1766)の創建で山神社を合祀しています。

こわめし坂は県道に吸収されます、この分岐ポイントには道標「三ツ谷新田 こわめし坂」があります。

街道は
三ツ谷新田に入ります、ここには三軒の茶屋があり三ツ屋と呼ばれていました、元和四年(1618)道中奉行が箱根西坂に五ケ所の新田をつくり、この地は三ツ谷新田と命名されました。

ゆるい坂を下ると右手に日蓮宗
松雲寺が現れます、このお寺さんは茶屋本陣ならぬ寺本陣でした。
天神社 こわめし坂西口 松雲寺

 参勤の諸大名が休息しました、 生麦事件を起した島津久光もここで休息をしています。

幕末には徳川十四代将軍
家茂や最後の将軍慶喜もここで休息しています。

境内には
明治天皇御腰掛石があります、明治天皇はこの石に腰掛けて霊峰富士を仰ぎ見ました。

三ツ谷バス停を越し、国道1号線が左にカーブし先に
モダンな小学校が見えたら、三島市立坂公民館前の下り坂に入ります、ここが題目坂東口です、この分岐ポイントには道標「←三島宿 →箱根峠」があります。
明治天皇腰掛石 題目坂東口 法善寺旧址碑

 三島市消防団第十三分団を過ぎると右手に
法善寺旧址碑があります。

元禄十七年(1704)の開山で、坂小学校校庭と坂公民館が
寺域でした。

 坂幼稚園手前のY字路を斜の右の下り坂に入ります、題目坂です。

この分岐ポイントには 征夷大将軍足利尊氏公建立
七面堂旧址碑道標「←箱根峠 →題目坂・三島宿」があります。

七面堂日蓮宗の守護神である七面大明神を祀っています。

題目坂は途中から石段になります。

題目坂は玉沢妙法華寺への道程を示す題目石に由来し、この題目石は現在法善寺に移設されています。
題目坂下り口 七面堂旧址 題目坂登り口

 急な
題目坂の石段を下ると下道に吸収されます、この分岐ポイントには道標「→題目坂・箱根峠」があります。

 市の山新田交差点で先程分岐した県道に合流します。

市の山新田交差点を渡ると右手に出征馬記念碑があります、戦時中、軍馬として徴用された農家の馬は外地に出征し、終戦を迎えても帰ることはありませんでした、碑はこれらの馬を供養するものです。

スグ先の右手に
山神社があります、五穀豊穣の神を祀っています、鳥居を覆う大木は御神木です。

隣の
法善寺はもと題目坂の上に有ったものです、境内には題目坂の坂名由来になった題目碑や七面堂の石灯籠があります。
出征馬 山神社 法善寺

 市の山バス停を過ぎると、右手垣根の中に六地蔵が安置され、傍らに三界萬霊塔があります。

市の山区公民館の先を斜め右に入ります、西坂最後の石畳を残す臼転坂です。

分岐ポイントには
道標「←箱根峠 →臼転坂・三島宿」があります。

臼転坂は牛が転がったとか、臼が転ぶほどの急坂を意味していますが左程ではありません。
六地蔵 臼転坂東口 臼転坂 馬頭観世音

 坂の途中には文政三年(1820)建立の
馬頭観世音が祀られています。

 スグ先で臼転坂は県道に吸収されます、この分岐ポイントには道標「←臼転坂・箱根峠 →三島宿」や道標「塚原新田 臼転坂」があります。

少し下ると街道の左手に
普門庵があります、本尊は聖観音菩薩像です。

鉄牛なる上人がこの像を運んで来ましたがここで急に動かなくなり、やむなくここに安置したと云います、堂脇には石仏石塔が集められています。
臼転坂西口 普門庵 永代鎮座 宗福寺

 次いで右手に
永代鎮座と刻まれた石塔があります。

塚原バス停を過ぎると右手に
宗福寺があります、境内には六地蔵や西國三十三所供養塔があり、辨財天女尊を祀っています、弁財天は琵琶を奏でる女神で学問や音楽、芸術の才を授け、商売や蓄財を助けてくれます、それでは一礼!

 公民館前バス停を過ぎた先で街道は車止めフェンスで遮断されていますが、進入します。

左に大きくカーブし
国道1号線に突き当たります、右折します、ここにも車止めフェンスが設置されています。

以前は
信号塚原新田でしたが、今は無名信号になりました。

この重要な分岐ポイントには寛政三年(1791)建立の
萬霊等道標「←箱根峠 →三島宿」、そして大きな箱根路碑があります。
萬霊等 箱根路碑 旧塚原新田交差点

 三島塚原I.C交差点を横断し、富士見ケ丘バス停を過ぎると正面に初音ケ原松並木が現れます。

初音ヶ原の地名は
源頼朝箱根権現に詣でた際、にここで鶯の初音を聞いたことに由来しています。

松並木の右側には
石畳が敷設されています、しかしこれは初音ケ原石畳遊歩道であって、本来の旧道は国道1号線です。

安全な石畳道を進むと
錦田の一里塚が対で現存しています、江戸日本橋より数えて二十八里目です。
初音ケ原松並木 錦田一里塚(北) 錦田一里塚(南)

 初音ケ原歩道橋を渡りモクモクと石畳を歩くと国道1号線の五本松交差点に出ます。

この分岐ポイントには
道標「←三島宿 →箱根峠 錦田一里塚」があります。

次いで
馬子唄碑「箱根八里の馬子唄消へて 今は大根を造る唄」があります。

明治維新後、
鉄道道路が整備され、馬子は職を失い、箱根大根の栽培に活路を見出しました。

五本松交差点を横断して右折し、一本目を左折して愛宕坂の石畳下り坂に入ります。
五本松交差点 馬子唄碑 愛宕坂東口

 三島東海病院に沿う愛宕坂を下ります、幅二間(3.6m)、長さ一丁十八間(109m)にわたる石畳道でした、京方面からは箱根路西坂最初の急坂でした。

坂名は三島東海病院側にあった愛宕社に由来しています

次いで
今井坂を下ると西坂は終了です、ここには道標「川原ケ谷 箱根旧街道入口」があります。

東海道本線旧東海道踏切で横断します。
愛宕坂 箱根旧道入口 旧東海道踏切 分岐ポイント

 先に進むと重要な
分岐があります、京方面からはY字路を左に進みます、この分岐ポイントには道標「←錦田一里塚・箱根峠 →三島宿があります。

 山田川愛宕橋で渡り、県道22号線に合流します、京方面からはあかし薬局先を斜め左に分岐します。

この分岐の左手に
林光庵庚申堂があります。ここにはかつては林光寺がありました。

大場川手前の左手に臨済宗建長寺派地福山
宝鏡寺があります、境内に初代将軍足利尊氏の嫡男で室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)の墓があります。
県道22号合流 庚申堂 足利義詮の塚 笠置き石

 境内には
源頼朝が参拝の際に笠を置いたと云う笠置き石があります。

 PM3:54 三島宿着 沼津宿まで5.9km

 神川(かんがわ、現大場川)を新町橋で渡ると、石塁式(せきるい)の土手に囲まれた枡型見附がありました、三島宿到着です!

見附の左手に
小浜山刑場(現JR三島駅構内)で処刑された罪人の首が晒されていました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると三島宿の宿内家数は千二十五軒、うち本陣二、脇本陣三、旅籠七十四軒で宿内人口は四千四十八人(男千九百二十九人 女二千百十九人)で、宿長は東の新町橋から西の境川橋迄の十八町二十間(約2km)でした。

三島は
三島大社の門前町として発展し、宿駅となってからは東海道最大の難所箱根峠そして下田街道の追分を控え大いに賑わいました。

箱根峠を無事越えた旅人は三島宿にて、
山祝いとして祝杯をあげました。
大場川(神川)

 日の出町バス停を過ぎると右手に守綱(もりつな)八幡神社があります、守綱大神を祀っています、境内の秋葉山常夜燈は弘化二年(1845)の建立です。

向いに題目碑が二基あります、奥に日蓮宗
妙行寺があります、山門は小松宮の別邸であった楽寿園の表門を移築したものです。

日の出町交差点の手前を右に入ると時宗
光安寺があります、牛の鼻を引いて代掻(しろか)きを助けたと云う鼻取り地蔵があります。
守綱八幡神社 妙行寺題目碑 光安寺 薬師院

 日の出町交差点を右に入ると高野山真言宗
薬師院があります、弘法大師旧跡です。

 大社町に入ると源頼朝ゆかりの三島大社に到着です、大鳥居三島宿の起点です。

広重は朝霧が立ちこめ、霞む三島大社の鳥居と三島の宿並を背景に、これから箱根路に向かう山駕篭と馬に乗る旅人を描いています。

三島大社関東総鎮守として多くの武将の崇敬を受けました。

境内には
源頼朝旗挙げの碑があります、治承四年(1180)八月十七日蛭ケ小島に流罪となっていた、頼朝は当社に戦勝祈願し、平氏追討の旗挙げを行いました。
三島大社鳥居 東海道五拾三次之内 【三島】 朝霧 広重画

 大社町西交差点を越すと中央町に入ります、右手の三島中央町郵便局脇に問屋場址碑があります。

三島宿には
問屋場が一ケ所しかなく大変、繁多でした。

本町の交差点手前右手に 、子供の人形が井戸水を汲み上げる可愛い施設があります、往時
箱根峠を無事越えた旅人は山祝いとして祝杯をあげたと云います、それではこの水で祝杯です。

この交差点を右折し、先を右手に入ると
円明寺があります。
問屋場跡 富士の伏流水 円明寺 孝行犬

 山門は
樋口本陣の表門を移築したものです。

境内には
孝行犬之墓孝行犬像があります、病に倒れた母犬子犬達が懸命に看病したが、相次いで死んでしまったと云います。

 更に三島駅方面に進むと左手に長円寺があります、山門は世古本陣の門を移築したものです。

墓所には世古本陣最後の当主
世古六大夫真道の墓があります。

戊辰戦争の時、三島の地に
官軍幕府軍が対峙しました、そこで六大夫三島大社の神官とともに、両者の調停に当たり、三島を戦火から救った立役者でした。

交差点に戻り宿並を進むと右に
世古本陣址碑があります。
長円寺 世古本陣跡碑 樋口本陣跡 樋口本陣址碑

 安政四年(1857)当本陣に宿泊した米国人
ハリスは日本庭園の素晴らしさを日記に書き留めています。

向いの茶処山田園の所が
樋口本陣跡です、三島郷土資料館には本陣文書関札が保管され、三島大社には茶室不二亭が移築されています。

 宿並を横切る源兵衛川源兵衛白旗橋で渡ります、源流は楽寿園小浜池です。

橋を渡り川沿いに左折すると
時の鐘があります、宿内に明け六つ(午前六時)、暮れ六つ(午後六時)の時を知らせました。

更に先に進むと
三石神社があります、元御殿川の川辺に三ツ石と称する巨岩があり、その上に社殿を建て稲荷の神を祀ったものです。
源兵衛川 時の鐘 三石神社 うなぎ桜家

 宿並に戻ると安政三年(1856)創業の老舗
うなぎ桜i家があります、古来、三島の鰻は三島大社の御遣いと云われ食する人はいませんでした、ところが幕末、官軍の薩長兵は好んで三島の鰻を食し、これが評判になり以降三島名物となりました。

 向いに浄土宗蓮馨寺(れんけいじ)があります、境内に芭蕉老翁墓と刻まれた芭蕉句碑「いざともに 穂麦くらわん 草枕」があります。

この寺の
住職が芭蕉の弟子だったという縁で墓が建てられました。

伊豆箱根鉄道を
広小路踏切で越し、直進します。

加屋町に入ると右手に浄土宗
林光寺があります、開山は故信(こしん)上人です、上人は武田信玄の子信景(のぶかげ)で、勝頼の異母弟でした、母親の願いで仏門に入り故信と称しました。

天正二年(1574)
故信上人三島に小庵を結び念仏説法に努めていました、翌三年勝頼が滅ぶと、武田の旧臣達が再興を願い出ましたが、上人に諭され、家臣達はここに留まり、林光寺の本堂を建立しました。
芭蕉句碑 林光寺

 宿並を進むと左手に秋葉神社があります、境内の大ムクは樹齢二百五十年です。

この秋葉神社辺りが
西見附(上方)跡で、三島宿の西口です。

スグ前、細い流れの
境川境川橋で渡ります、この細い川は伊豆駿河との國境です。

橋上から右(北)に目を転じると
境川の上を直角に横切っている、コンクリート製の樋があります、これが千貫樋(せんがんどい)です。

天文二十四年(1555)
今川武田北条三家の和睦が成立し、この証に北条氏康から今川氏真にを築き水を送りました、この費用が銭千貫を要したと云うものです。
秋葉神社 境川&千貫樋

 しかしこの木製の樋は
関東大震災で崩落し、鉄筋コンクリートに改められました。

 千貫樋交差点を過ぎると新宿に入り、右手に弘化三年(1846)建立の常夜燈があります、笠石には秋葉大権現富士浅間宮と刻まれています。

伏見町に入ると左手に
宝池寺の一里塚、向いには対を為す玉井寺の一里塚があります。

両塚を総称して
伏見の一里塚と呼びます、江戸日本橋より数えて二十九里目です。
常夜燈 宝池寺の一里塚 玉井寺の一里塚 玉井寺

 玉井寺山門
の山号金龍山は臨済宗中興の祖と云われた高僧白隠の遺墨です、この先何度となく白隠さんとはお会いすることになります。

 八幡交差点で国道1号線を横断し、県道145号沼津三島線を進むと右手に八幡神社(長沢八幡宮)があります。

社殿は長い参道の奥です、境内には頼朝義経兄弟対面石があります。

治承四年(1180)兄
頼朝の挙兵を知った、義経は奥州平泉より「すわ鎌倉」と馳せ参じ、この社で対面しました、この時、両名が着座したのが対面石です。

時に
義経二十二歳でした、この劇的な対面後、頼朝は義経が供の者数騎で馳せ参じたことを知りました。
八幡神社 対面石 長沢の松並木

 大軍を期待していた
頼朝は激怒したと云います、このボタンの掛け違いは終生、元に戻ることはありませんでした。

長沢には
松並木を残しています。

 黄瀬川手前の右手に智方神社があります、足利方に敗れた後醍醐天皇の王子護良親王は建武二年(1335)鎌倉の土牢に幽閉され斬首されました。

側に仕えていた
南の方は密かに首級を奪い、京に持ち帰る途中、黄瀬川の洪水に遭い、やむなくこの地に葬りました、境内のクスノキはその際に、目印として植えたものです。

後に南朝方の
北条時行が埋葬跡に石祠を建てたのが智方神社の始まりです。

同様な伝説は戸塚宿手前柏尾の
王子神社にもありました。
智方神社 クスノキ 黄瀬川

 黄瀬川
黄瀬川橋で渡ると沼津市に入ります、木瀬川とも呼ばれました、御殿場に源を発し、狩野川に落合い、流末は駿河灘に注いでいます。

 左手森岡医院を過ぎると右手に臨済宗妙心寺派潮音禅寺があります、境内には亀鶴之石碑があります。

駿河の三美人と云われた
亀鶴の守り本尊の亀鶴観世音菩薩を本尊にしています。

黄瀬川村の長者
小野善司左衛門の一人娘亀鶴姫は長じて白拍子となり、工藤左衛門祐経と契りを結びました、しかし佑経曽我兄弟に仇として討たれてしまった、その後、頼朝が富士の牧狩の宴に姫を招いたが、この世を憂き事と想い、、黄瀬川の上流、百沢の瀧に身を投げてしまった。

街道に戻ると右手に藩領の境界を示す安永七年(1778)建立の
従是西沼津領傍示石があります、沼津藩は水野出羽守の所領で五万石を誇りました。
亀鶴之石碑 傍示石

 街道は東下石田交差点で県道380号富士清水線に吸収されます、京方面からは斜め右に入ります。

街道を進むと
跨道橋があります、手前の左手に東海道碑「駿府へ十五里」があります、この辺りは松並木富士隠れ坂と呼ばれました、掘割の急な上り坂であったため、富士が見えなくなりました。

スグ先を斜め左に入ります、この分岐には
道祖神が祀られています。
東下石田分岐 跨道橋 大岡分岐 道祖神

 狩野川に架かる黒瀬橋をくぐると平作地蔵尊があります。

日本三大仇討ち(曽我兄弟・赤穂義士)のひとつ
荒木又右衛門の鍵の辻に由来する浄瑠璃「伊賀越道中双六沼津の段」に登場する平作ゆかりの地蔵尊です。

寛永十一年(1634)
伊賀上野鍵屋の辻荒木又右衛門は妻の弟渡辺数馬を助け、数馬の弟の仇の河合又五郎を討ち本懐を遂げました。

浄瑠璃では地蔵尊のあるところに平作なる者が営む茶屋があり、平作は娘(渡辺数馬の妻)の仇でもある河合又五郎の居場所を一命にかえて旅人から聞き出したと云います。
里人は平作爺さんの義侠心に心打たれ、茶屋のあったところに碑を立て
地蔵尊を建立しました。
黒瀬橋 平作地蔵尊

 先に進むと右手の一里塚公園に沼津の一里塚があります、江戸日本橋より数えて三十里目です。

先の
伏見の一里塚からは距離が短くなっています、これは宿場内に塚を築いたのでは何かと不都合であった為です。

公園内には
玉砥石が二基あります、古代玉を磨くのに用いた砥石です、静岡県の指定考古資料になっています。

公園には
水場があります、最後の給水です。
沼津の一里塚 玉砥石 平町分岐

 公園の先で再び
県道380号富士清水線に合流します、京方面からは沼津市平町一丁目歩道橋が分岐ポイントになります。

 PM5:24 沼津宿着

 三枚橋東交差点を過ぎると三園橋歩道橋に突き当たります、ここが沼津宿の起点です、本日はここまでです。

歩道橋を渡り、JR沼津駅に直行です、東海道本線車中の人になります。

缶チュウーハイそして水割りで
山祝いです、三島駅を過ぎると先ほど通った旧東海道踏切を見ようと身を乗り出していました。
終点三園橋歩道橋 チューハイ 水割り



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