今回の行程は小田原宿から箱根峠を越えて沼津宿までです。 ちょうど、生麦事件を引き起こした薩摩藩島津久光一行と同じ行程です。 本来であれば三島宿泊まりですが、欧米軍の海からの攻撃を避ける為に沼津宿まで足をのばしています。 しかしこれには二つの疑問があります。 その一つは沼津宿には沼津湊があり、三島宿よりはるかに海に近いです。 その二はいかに蒸気船とは云え、横浜村から三浦半島の城ヶ島を回り、相模湾を横断し、伊豆半島下田の石廊崎を回航、駿河湾の奥の沼津に進出するのは物理的に無理です。 薩摩藩一行としては、一旦江戸に戻れと云う、幕命を振り切る必要があったのでしょうね。 そんな事も考えながらボチボチ行きましょうか。
次いで中宿町に入ると寛永十年(1633)創業の老舗小西薬局があります、御用商人を勤めていました、町内には上の問屋場がありました。
二宮金次郎(尊徳)は小田原藩領の相州足柄上郡栢山(かやま)村に生まれ、小田原藩主大久保忠真の抜擢により身を起こし、藩政に多大の功績を残しました。
南町歩道橋の左階段口に小田原駅標石があります、熱海に通じていた人車鉄道、軽便鉄道の小田原駅がここにありました。 小田原市消防本部南分署の出動標識灯は小田原ちょうちんを模しています。
向いの居神神社の創建伝説は壮絶です、三浦の新井城主であった三浦荒次郎義意(よしおき)は伊勢新九郎守時(北条早雲)に攻められ自刃、首は当地の松に晒されたところ、三年間通行人を睨み続けました。 高僧が引導をわたすとやっと成仏し、白骨となって地に落ちたと云います、この時「われ今より当地の守り神にならん」と一言残したところから、ここに社を建て義意を祀りました。 境内には鎌倉時代末期の古碑群があります、念仏供養に建碑されたものです。
御菓子処盛月の先を左に入ると牛頭天王が祀られています、疫病除けの神として広く信仰されています。
電力王と呼ばれた松永安左衛門が収集した古美術品を展示しています。
小田原厚木道路の高架下が分岐ポイントです、君田島踏切で箱根登山鉄道を横断します。
旧道を進むと右手に八幡神社があります、文永十六年(1274)の創建で風祭村の鎮守です。
長興山の枝垂桜は樹高13m、胸高周囲3.8m、樹齢約三百三十年以上(推定)です、県下最大のシダレザクラで小田原市の天然記念物指定です。
往時旅人達は「石に蹄跡を付けた馬の頑健な脚にあやかりたい」と道中、足が痛まぬよう祈願したと云います。
コンクリート階段を下り、交通安全箱根町のプレートが貼られたモニュメント右の旧道に入ります(下耕地旧道トレース)。
三枚橋からは県道732号線になります、くねった山道で歩道はありません、大型観光バスも通行しますので十分お気を付け下さい。
早雲寺は大永元年(1521)北条早雲の遺命により子の氏綱が建立したものです。 天正十八年(1590)小田原攻めの豊臣秀吉軍は早雲寺を本陣とし、一夜城が完成すると火を放ち、伽藍、塔頭寺院は灰燼に帰してしまいました。 墓所には早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の小田原北条家歴代当主五代の墓があります。
裏山には曽我兄弟仇討ちで知られる、兄弟の地蔵尊が安置されている曽我堂があります。
滝通り温泉郷案内の所に観音坂碑があります、登り二町許(ばかり)と刻まれています、福寿院の観音堂に由来しています。
初花の一念は天に通じ箱根権現の霊験によって勝五郎の足は治り、慶長四年(1599)八月、遂に仇敵にめぐり合い、見事に本懐を遂げたと云います。 ※ ところが躄(いざり)が差別用語だとして、昨今演目にかからなくなったと云います、残念ですね。
石碑の前の窪みに溜まっている水をイボにつけると取れると伝わっています。
曽我五郎が富士の裾野へ仇討ちに行く際、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真二つに切り割った所と云います。 旧道には角が丸くなった江戸時代の石畳を残しています。
大澤坂は再び県道に合流します、この分岐ポイントには国指定史跡箱根旧街道標識があります。
幕末、ハリスやヒュースケンなど外交の使者達もこの庭を見て驚嘆したと云います。 敷地の外れに明治天皇御駐蹕之址碑があります、三度休息しています。
但し、輿入れの荷の運搬には東海道が利用されました。 旧道に入るとスグに畑宿の一里塚があります、両塚とも復元されています。 江戸日本橋より数えて二十三里目です、いずれにしても一里塚と石畳道はベストマッチです。
しそ及び梅のジュースが名物です! ここが樫の木平です、眼下に小田原城下と相模灘が望める絶景の地です!
しかし残っている侘び証文から神埼与五郎ではなく同じ浪士の大高源吾で、その場所は三島宿だったと云います。
芦ノ湖はカルデラ湖ですから外輪山を形成しています、従ってここから芦ノ湖までは下りになります。 少し下ると広場があり箱根馬子唄碑「箱根八里は馬でも越すがこすに越される大井川」があります。
境内からは二子山が望めます、箱根の火山活動で一番最後に出来た山です。
C・M・バーニーはこの地に別荘を持っていた英国の貿易商です。
この地は地蔵信仰の霊地として、多数の石仏石塔が湖畔に並んでいます。
やがて杉並木は国道1号線の歩道に吸収されます。
関所から先で突当りの国道一号線を右折します、箱根宿到着です。
スグ先の箱根ホテルは箱根宿本陣はふや跡です、往時の楓(かえで)を残しています、樹齢は四百年を越えています。
元和四年(1618)箱根宿創設の際、狼の被害に悩まされ、唐犬二匹を投入し、狼退治をさせました。 宿は完成しましたが、二匹とも傷つき死んでしまいました、そこで宿の人々は二匹の唐犬をここに埋め犬塚明神と崇め祀りました。
この道筋は国史跡に指定されています。
この急坂、登りはきついで済みますが、下りは危険です、丸太は滑りやすいですから十分以上にお気をつけ下さい。
ここから先は三島宿まで下りの箱根路西坂になります。
甲石坂(かぶといし)に踏み込むと右手に天保八年(1837)建立の八ツ手観音と呼ばれる馬頭観音があります、憤怒の形相で災いを追い払い旅人を守護しています。
昭和の初め国道1号線の拡幅工事の時、兜石はこの先に移設されました、甲(兜)石坂はこの石に由来しています。 甲石坂の石畳を下り切ると石段になり国道1号線に突き当たります、右に進みます。 この分岐ポイントには道標「←山中城跡・三島宿 →箱根峠」があります。
つい最近まで茶屋の残骸が放置されていました。 この辺りに接待茶屋の一里塚が有りました、江戸日本橋より二十六里目です。
旧道は左「山中城跡・三島宿」方面に進みます、Y字路右は施行平です。 施行平は三島市眺望地点で富士山、愛宕連山、駿河湾が一望です。
ここには道標「→山中城跡・三島宿」があります。 農場前バス停を過ぎると三島市に入ります。 突当りを左折します、ここには道標「←山中城跡・三島宿 →箱根峠」があります。
そこで村人が地蔵尊を祀り、縁日の日に小麦まんじゅうを振る舞ったところ味が評判となり、大勢の参拝者が集まり、さい銭と小麦まんじゅうの利益で山中部落の費用が賄えたと云います。
私見ですが指示された横断歩道の方が車道の見通しが悪く危険に思えます、むしろ直進の位置の方が左右の見通しが良好です、ここは本来の道筋に横断歩道を設置すべきでしょう。
この難所こわめし坂には念仏石と呼ばれる大石がありましたが、大雨で斜面が崩れ埋没してしまいました。 平成八年二月に発掘を試みましたが発見出来ませんでした。
三島市消防団第十三分団を過ぎると右手に法善寺旧址碑があります。 元禄十七年(1704)の開山で、坂小学校校庭と坂公民館が寺域でした。
急な題目坂の石段を下ると下道に吸収されます、この分岐ポイントには道標「→題目坂・箱根峠」があります。
坂の途中には文政三年(1820)建立の馬頭観世音が祀られています。
次いで右手に永代鎮座と刻まれた石塔があります。 塚原バス停を過ぎると右手に宗福寺があります、境内には六地蔵や西國三十三所供養塔があり、辨財天女尊を祀っています、弁財天は琵琶を奏でる女神で学問や音楽、芸術の才を授け、商売や蓄財を助けてくれます、それでは一礼!
先に進むと重要な分岐があります、京方面からはY字路を左に進みます、この分岐ポイントには道標「←錦田一里塚・箱根峠 →三島宿があります。
境内には源頼朝が参拝の際に笠を置いたと云う笠置き石があります。
日の出町交差点を右に入ると高野山真言宗薬師院があります、弘法大師旧跡です。
山門は樋口本陣の表門を移築したものです。 境内には孝行犬之墓と孝行犬像があります、病に倒れた母犬を子犬達が懸命に看病したが、相次いで死んでしまったと云います。
安政四年(1857)当本陣に宿泊した米国人ハリスは日本庭園の素晴らしさを日記に書き留めています。 向いの茶処山田園の所が樋口本陣跡です、三島郷土資料館には本陣文書と関札が保管され、三島大社には茶室不二亭が移築されています。
宿並に戻ると安政三年(1856)創業の老舗うなぎ桜i家があります、古来、三島の鰻は三島大社の御遣いと云われ食する人はいませんでした、ところが幕末、官軍の薩長兵は好んで三島の鰻を食し、これが評判になり以降三島名物となりました。
しかしこの木製の樋は関東大震災で崩落し、鉄筋コンクリートに改められました。
玉井寺山門の山号金龍山は臨済宗中興の祖と云われた高僧白隠の遺墨です、この先何度となく白隠さんとはお会いすることになります。
大軍を期待していた頼朝は激怒したと云います、このボタンの掛け違いは終生、元に戻ることはありませんでした。 長沢には松並木を残しています。
黄瀬川を黄瀬川橋で渡ると沼津市に入ります、木瀬川とも呼ばれました、御殿場に源を発し、狩野川に落合い、流末は駿河灘に注いでいます。
公園の先で再び県道380号富士清水線に合流します、京方面からは沼津市平町一丁目歩道橋が分岐ポイントになります。
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