街道ウォークに出る場合、よく駅前の松屋さんでカレーライスを食します。 これは何よりも早く出てくるからです、朝はスピードが一番です。 このカレー、案外いつまでたってもげっぷにカレーの香りが出てきます。 消化が悪い証拠です、しかしこれを裏返せば腹持ちが良いとも云えます。 そのような訳で本日も早朝カレーライスです。 紫外線タップリな初夏ウォーク、ステンレスメッシュッホップハットを被ってイザ出立です。
川廓通りは左静岡中央銀行の所で県道159号線に突き当たります、ここを左折します。 左手沼津東急ホテルの施設内には三枚橋城外堀石垣が復元されています、先の歩道右手に発掘調査で出土した三枚橋城外堀の石垣石が展示されています。
次いで中村脇本陣跡碑があります、跡地は歯科医院になっています。
浅間町交差点を越えた左に乗運寺があります、境内には酒と旅をこよなく愛した漂白の詩人若山牧水の墓があります。
平維盛(これもり、幼名五代)の遺児六代が鎌倉へ護送される途中、ここで処刑されそうになったが、頼朝は文覚上人(もんがく)の助命嘆願を聞き入れ、六代を剃髪し仏門に入れました。 頼朝亡き後文覚上人は謀反の嫌疑で流罪に、連座した六代は斬首、首級はここに葬られました、ここにあった巨大な六代松は枯れてしまいました。
左手片浜小学校の向いに八幡宮があり、隣には日蓮宗妙秀山栄昌寺があります、境内には日蓮宗の守護神七面大明神を祀る七面堂があります。
街道の左手に日蓮宗光法山蓮窓寺があります、松長陣屋門が移築されています、この地は相模国愛甲郡の荻野山中藩大久保出雲守の飛地領で松長陣屋が置かれていました。
右手に享保十四年(1729)創建の神明宮があります、鳥居脇には道祖神が二体並んでいます。 原宿東木戸(見附)前で悪霊の侵入を見張っています。
二人はここに堂を建て地蔵菩薩を安置し、山号を得萬山とし、清信、梵貞から二字をとり、寺名を清梵としました。 次いで臨済宗海上山長興寺があります、境内の金毘羅堂には金毘羅山大権現が祀られています、こんぴら大祭には奉納泣き相撲大会が行われます。
宿並に戻り、原交番東交差点手前の左手に白隠禅師誕生地碑があります、貞享元年(1685)ここに生まれ、十五歳の時自ら望んで出家し仏門に入りました、修行を重ね臨済宗中興の祖と云われました。 敷地の奥には産湯井が残されています。
ここでは富士山の霊水が賞味できます、何度頂いたでしょうか、ところが富士山の霊水の標識は健在ですが、蛇口や流しが撤去されています、残念です。
街道を進み左手小池薬局横から左に入り、東海道本線を越え、突当りの県道380号富士清水線を右に進むと左手に要石神社があります。 石祠の裏に要石があります、高潮もこの石を越えることはなかったと云います、現在は天災封じ石とも呼ばれています。
元和元年(1615)鈴木助兵衛父子がこの一帯を開拓し、助兵衛新田と呼ばれました、明治四十一年(1908)助兵衛では余りにも聞こえが悪いとし桃里と改称されました。
街道を進むと左手に八幡神社があります、植田新田の鎮守です。 街道は沼津市から富士市に入ります。
生贄になったおあじは鈴川の阿字神社に祀られています。
望嶽碑の並びにゲ号慰霊碑と碇(いかり)があります、昭和五十四年(1979)十月十九日台風20号で遭難したインドネシア船籍のゲラテック号が柏原海岸に打ち上げられ、船員二名が亡くなりました。
現在の昭和放水路はこのスイホシを踏襲したものです。 スグ先の左手に一里塚跡碑が新設されました、沼田新田の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて三十三里目です。
大野新田の高橋勇吉は天保七年(1836)から十四年の歳月と私財を費やし、大野新田、檜新田、田中新田の八十ヘクタールに及ぶ水田を水害から守る排水用の掘割を完成させました。 勇吉が天文学に優れていたところから、完成させた掘割は天文堀と呼ばれました。
旧道は信金先を直進(黄矢印)しますが東海道本線の敷設で通行不可になりました。
次いで先のY字路を右に入り、富士由比バイパス高架をくぐります、右手に弘容電機があれば正解です。 先の左富士神社の辺りに一里塚があったと云いますが標識等はありません、依田橋の一里塚跡です、江戸日本橋から三十四里目にあたります。
広重の道中日記には「原、吉原は富士山容を観る第一の所なり、左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ、一町ばかりの間の松の並木を透して見るまことに絶妙の風景なり、ここの写生あり」と記されています。
この地で悪性の眼病が流行った時、地蔵に願をかけると眼病が治り、地蔵の目にいっぱいの目やにがついていた所から、身代わり地蔵と呼ぶようになったと云います。
右手メガネのヤナセ手前が扇屋鈴木伊兵衛脇本陣跡です。 メガネのヤナセは問屋場跡です。 右手パチンコ富士見会館が神尾六左衛門上本陣跡です、向いの左手御菓子司南岳堂が銭屋矢部清兵衛脇本陣跡です。
延宝八年(1680)の大津波は中吉原宿をはじめ近郷に甚大な被害を与えました。 こような最中、幕府は過酷な検地を実行、時の名主川口市郎兵衛はこれに断固反対したところ、幕吏に捕らえられ磔となりました、里人は密かに名主を八幡宮に合祀しました。
スグ先の左手に髯題目碑があります、日蓮宗蓮心寺の参道口です。 慶長七年(1602)の創建で宗祖木像は、熱心な日蓮宗信者であった、徳川家康の愛妾お万の方の持仏と伝わっています。
往時ここから雪の富士を眺めると、中腹に一羽の鶴が舞っている景色が奇観であったと云います。
次の十字路の角に道祖神があります。
旧松永邸は富士市指定文化財として富士市博物館のふるさと村に一部が移築保存されています。
この分岐ポイントには慶応元年(1865)建立の秋葉山常夜燈と道標「左東海道」があります。
雁堤に鎮座する護所神社はこの僧を祀ったものです、境内には雁堤人柱之碑があります。
水神社境内には富士川渡船場跡碑や文政元年(1818)建立の常夜燈があります、これは岩本村船方講中によって寄進されたものです。 水神は富士登山道の起点であり、富士山道の道標が境内に移設されています。
これは江戸城が一朝有事の際、服部半蔵の手引きで城を脱出し、八王子の千人同心に守られ、甲府に入り、富士川の舟運で東海道に出て、駿河に至る、大生命線でした。
この道標は追分にあったものです。
小休本陣の外れに常夜燈があります。
槙(まき)の古木が連なる参道を進むと、延宝七年(1679)建立の朱塗り薬医門があります。
擁壁が切れると右手に安政三年(1853)建立の秋葉山常夜燈があります。
旧道は右(白色矢印)ですが、左(黄色矢印)に約200m進むと古蹟源義経硯水があります。 三河の矢矧で契りを結んだ浄瑠璃姫にここの清水で文をしたためたところ、姫はここまで来て力尽きたと云います。
富士川の水難守護神として、信州上諏訪大明神を勧請したものです。
承応二年(1653)高松藩の槍の名人大久保甚太夫が蒲原宿西木戸辺りの茄子屋の辻で薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで乱闘となりました。 甚太夫は七十人近くを倒したが、ついに殺されてしまい、竜雲寺住職が墓地に葬りました、甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。
スグ先の右手になまこ壁と塗り家造りの家があります、当家は元佐野屋という商家でした、塗り家造りは防火効果が大きく、贅沢普請と云われました。
その際に東海道五十三次の五十五図をスケッチし、これが後に保永堂東海道五十三次として出版され、評判となりました。
突当りが西桝形です、左折しますが、右に入ると浄土真宗本願寺派法流山長栄寺があります、慶安三年(1650)の創建です。
T字路右(白色矢印)が街道です、それでは蒲原宿を後にしましょう。
次いで左手にJR東海道本線蒲原駅があります、何故か蒲原宿側の駅名は新蒲原と云う変則になっています。 これは岩淵に富士川駅が出来、蒲原宿では余りにも近いとの事で、隣村の堰沢村に蒲原駅が出来ました、その後、人口の多い蒲原宿に駅がないのは不都合とのことから新蒲原駅が出来ました。 堰沢川を堰根橋で渡り、八木沢川を八木沢橋で渡り、東名高速道路高架をくぐります。
由比の一里塚跡です、江戸日本橋より三十九里目になります。 寛文年間(1661~71)、山側の塚木の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立しましたが、、明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。
おもしろ宿場館の向いが脇本陣羽根ノ屋跡です、由比宿には脇本陣を勤めた家が三軒あり、江戸時代後期に徳田屋に代わって羽根ノ屋が勤めました。 羽根ノ屋は江尻宿脇本陣の分家で、寛政五年(1793)幕府に脇本陣を願い出ています。
港内の浜のかきあげやでは名産の桜エビのかき揚げ料理がリーズナブルな料金で賞味できます。 桜えびの漁期は春と秋で刺身良し、釜揚げ良し、そしてかき揚げ良しです。
県道396号線に突当ります、ここを左折します、ここには富士急静岡平バス停(黄色丸囲み)があります、京方面からはこのバス停が重要な分岐ポイントになります。 この道筋は吉原宿や蒲原宿を壊滅させた大津波の影響を当然由比も受けた結果、高道を設けたと思われます。
この鞍去が倉沢の地名由来になっています。 次いで右手段上に曹洞宗宝積寺があります、境内には六地蔵があります。
一里塚跡の所からY字路右の上り坂が薩捶峠東上り口(白色矢印)です、黄色矢印は薩捶峠が開削される以前の海岸道口(薩捶下道)です。 薩捶峠下の波打ち際を通行する、大変危険な道で、打ち寄せる波が引いた瞬間に駆け抜けました、その際、親も子もなく我先に渡ったことから親知らず子知らずと呼ばれました。
薩捶山では二度、大合戦が行われました。 観応二年(1351)足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破しました。 永禄十一年(1568)武田信玄の駿河侵攻の際、今川氏眞がこの山で迎え撃ったが敗退し、翌年今川救援のため出兵した小田原北条軍と武田軍がこの山で対峙したが、武田方が軍を引いています。
再び土道になり、往時の原型を残す切通しになります、大名の駕籠や馬、そして幕末の官軍の大砲が通ったかと思うと感動してしまいます。 切通しを抜けるとお墓の間に出ます、過去ここから先を前後6回通行していますが、いつも造成中で道筋が一定していませんでした。 久し振りに来て見ますと、新旧街道がやっと安定してました、それではトレースに取り掛かりましょう。
街道右手にカーブミラーがあり、案内標識「薩捶峠1.5km JR興津駅2.7km」が取り付けてあります、ここを左折します。
※天保の頃そば一杯が十六文でした。 水深が四尺五寸(1.5m)を越すと川止めになりました。 川越し人足は興津側で三十六人が常備されていました。 但し、冬期(十月下旬から三月五日まで)は仮橋が架かり無賃でした。
創建は平安中期で海の神沖津島姫を祀っています、境内の樹木は船乗りの目印になり、祭神が女神であるところから女体の森と呼ばれました。
興津の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて四十一里目です。
JR興津駅に直行です、あれー駅売店が閉まっています、最近このケースが多いです。 後3分すれば電車が来ます、ダメです、そうはゆきません、ケジメがつきません。 街道のセブンイレブンに逆戻りです。 反省、これからは終点に近づいたら早めに手当てしましょう、ハイ。 薩捶峠を下り、墓から先の道筋が明確になりました、咽喉のつかえが取れたような気がします。 ポップハットをたたみ、一杯です、咽喉のつかえがもう一つ取れました。
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