道中日記 7-160 東海道 ( 沼津 − 興津 ) 44.6km


 街道ウォークに出る場合、よく駅前の松屋さんでカレーライスを食します。

これは何よりも早く出てくるからです、朝はスピードが一番です。

このカレー、案外いつまでたってもげっぷにカレーの香りが出てきます。

消化が悪い証拠です、しかしこれを裏返せば腹持ちが良いとも云えます。

そのような訳で本日も早朝カレーライスです。


 紫外線タップリな初夏ウォーク、ステンレスメッシュッホップハットを被ってイザ出立です。

 平成20年05月24日 AM6:48 沼津宿出立 原宿まで7.8km

 天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると沼津宿の宿内家数は千二百三十四軒、うち本陣三、脇本陣一、問屋場一、旅籠五十五軒で、宿内人口は五千三百四十六人(男二千六百六十三人 女二千六百八十三人)、宿並は本町、上土町、三枚橋町、城内で構成されていました。

沼津宿の起点
三園橋歩道橋を出立し、小さな三枚橋を渡り、沼津大手町歩道橋を越し、鈴木製あん所看板の所を斜め左の川廓通り(かわぐるわ)に入ります。

川廓町沼津城外廓狩野川に挟まれた狭い町でした、川廓川曲輪とも云われ、狩野川に面した城廓に由来しています。
川廓通り西口 川廓通り 水神社

 通りを進むと左手に水神社があります、狩野川には舟運があり、沼津湊がありました。

広重は月を画面中央に、そして沼津宿の江戸よりの狩野川を描いています。

宿手前の橋は先程渡った
三枚橋です。

天狗の面を背負った白装束は金毘羅参りです。

沼津は駿河灘に注ぐ狩野川河口に開けた湊町で、沼地にできた(津)を意味しています。
狩野川 東海道五十三次之内 【沼津】 黄昏圖 広重画

 川廓通りの上を横切るまゆみ橋下を右に入ると中央公園があります、沼津城本丸跡です。

武田勝頼が小田原の北条方に備えて三枚橋城を築いたが慶長十九年(1614)廃城となりました。

安永六年(1777)
水野忠友が三枚橋城跡に沼津城を再建し、明治維新まで続きました、以降沼津宿は城下町としても発展しました。
中央公園口 川廓通り東口 三枚橋城外堀石垣 外堀石垣石

 川廓通り
は左静岡中央銀行の所で県道159号線に突き当たります、ここを左折します。

左手沼
津東急ホテルの施設内には三枚橋城外堀石垣が復元されています、先の歩道右手に発掘調査で出土した三枚橋城外堀石垣石が展示されています。

 スグ先の通横町交差点を右折します、上土町から通横町に入ります。

通横町には
問屋場が置かれ、人馬継立てで賑わいました。

スグ先の
信号交差点を左折すると、宿中心の本町に入ります。

この分岐ポイントには夢舞台東海道
道標「←本町 沼津宿 横町→」があります。

本町に入ると
高田本陣跡碑があります、跡地は広い駐車場になっています。
通横町交差点 本町角 高田本陣跡 中村脇本陣跡

 次いで
中村脇本陣跡碑があります、跡地は歯科医院になっています。

 将棋倶楽部の辺りが清水本陣跡です。

突当りの信号交差点を右折します、分岐ポイントは
静岡銀行です。

一本目の浅間町交差点手前の右手に
浅間神社があります、坂上田村麿が東征の際に、鎮座させ、源義家が社殿を造営しました。

古来より
縁結び安産の神として信仰を集めていました、丸子神社を合祀しています。
清水本陣跡 右折ポイント 浅間神社 若山牧水墓

 浅間町交差点を越えた左に
乗運寺があります、境内には酒と旅をこよなく愛した漂白の詩人若山牧水の墓があります。

 乗運寺前を海側に進むと千本松原があります、当初あった松原は戦国時代三枚橋城をめぐる武田北条の合戦の際、邪魔になると伐採されてしまった。

その後、地元民は
潮風の害を受け苦しんでいました、これを見かねた乗運寺の開祖増誉上人(ぞうよ)が松苗を手植えしたのが千本松原です。

上人は松苗を一本植えるごとに
阿弥陀経を唱えたと云います、大正時代に松原の一部を伐採する計画がありましたが、牧水が先頭に立ち反対しました。

街道に戻り県道163号東柏原沼津線を進むと左手に
六代松標石があります、左に入ると六代松碑があります。
千本松原 六代松道標 六代松碑

 平維盛
(これもり、幼名五代)の遺児六代が鎌倉へ護送される途中、ここで処刑されそうになったが、頼朝は文覚上人(もんがく)の助命嘆願を聞き入れ、六代を剃髪し仏門に入れました。

頼朝亡き後
文覚上人は謀反の嫌疑で流罪に、連座した六代は斬首、首級はここに葬られました、ここにあった巨大な六代松は枯れてしまいました。

 東間門歩道橋を過ぎると左手に法華宗光栄山妙伝寺があります、慶長九年(1604)の創建です。

三枚橋城主
大久保治右衛門忠佐(ただすけ)は篤く法華宗に帰依し、自ら当寺を大久保家菩提寺と定めました、寺内に忠佐墓碑があります。

新中川間門橋で渡ります、間門(まかど)由来には二説あります。

一説目は、この地の浜で閻魔大王像の首が漁師の網に掛かり、首の後ろに
天竺魔伽陀(まかだ)と彫られていました。

二説目は、アイヌ語で
マカとは開く、は湖水を意味し、この地の古来の地形をあらわしているとするものです。
妙伝寺 間門橋

 沼津市西間門歩道橋西間門交差点を横断します、横断した県道380号線は千本街道です、 この先、歩道が有りませんのでご注意下さい。

右手
八幡宮の石垣上に従是東と刻まれた沼津藩領を示す傍示杭があります、半分から下の沼津領は失われています。

安永七年(1778)
沼津城を築城した水野出羽守忠友が沼津藩領の西境に建立したものです。

八幡宮は慶長九年(1604)の創建で祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)です、金山彦神社神明神社が合祀されています、境内には石仏石塔が四基あります。
西間門交差点 傍示杭 八幡宮

 西間門から小諏訪に入ると左手沼津片浜郵便局の向いに諏訪神社があります、天正三年(1575)武田氏家臣の市川和泉守がこの地に遁居し創建したものです。

街道の左手には臨済宗妙心寺派
正覚寺があり、境内に白衣観音(びゃくえ)があります。

天保八年(1837)
片濱村に悪い病が流行った際、ある行者が白衣観音を祀れば霊験あらたかなりと告げました、早速白衣参籠(おこもり)祈祷をすると治まったと云います。

大諏訪に入ると左手に高野山真言宗
清玄寺があります。
諏訪神社 白衣観音 栄昌寺

 左手片浜小学校の向いに
八幡宮があり、隣には日蓮宗妙秀山栄昌寺があります、境内には日蓮宗の守護神七面大明神を祀る七面堂があります。

 スグ先の右手に吉祥院願満具足天満宮があります、あいにく吉祥院は改築中でした。

菅原道真の祖父
菅原清公(きよきみ)が遣唐使の役目を終え、帰国する際、嵐に遭遇したところ吉祥天女の霊験により難を逃れました、以来、菅原家では吉祥天が守護仏となりました。

願満具足とは願い事の全てが叶うことを意味しています。

吉祥院を後にすると大諏訪から
松永に入り、右手のブロック塀に挟まれて松永一里塚跡碑があります、江戸日本橋より三十一里目です。
天満宮 松長一里塚跡碑 蓮窓寺

 街道の左手に日蓮宗光法山
蓮窓寺があります、松長陣屋門が移築されています、この地は相模国愛甲郡の荻野山中藩大久保出雲守の飛地領で松長陣屋が置かれていました。

 右手、JR東海道本線片浜駅を越すと今沢に入ります。

右手に臨済宗妙心寺派蓬莱山
祥雲寺があります、慈覚大師作の今沢薬師如来が本尊で、東司(とうす、便所)の神を祀っています。

隣り、
三島神社の御神木緑マキは樹齢四百五十年です。

JR東海道本線を
原踏切で横断します。
祥雲寺 三島神社 原踏切 道祖神

 右手に享保十四年(1729)創建の
神明宮があります、鳥居脇には道祖神が二体並んでいます。

原宿
東木戸(見附)前で悪霊の侵入を見張っています。

 AM8:52 原宿着 吉原宿まで 8.6km

 神明宮脇の筋を越えると東木戸(見附)標石があります、原宿に到着です。

地名は北の
浮島沼(富士沼)と駿河湾の間のであったところを由来としています、この先の吉原蒲原を総称して三原(さんげん)と呼ばれました。

元は海沿いの旧国道付近にありましたが、慶長年間(1596~1615)高潮の被害を受け、現在地に移転しました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると原宿の宿内家数は六百五十三軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋場一、旅籠二十五軒で、宿内人口は千九百三十九人、宿長は二十四町四十二間(約2.7km)でした。

飯盛は無く、小宿でしたが霊峰富士を真近に望む宿として人気がありました。
東木戸跡

 宿並右手に秋葉神社高木神社と続き、左手には臨済宗妙心寺派得萬山清梵寺があります。

ここには
原のお地蔵さんと呼ばれる、木造地蔵菩薩坐像が安置されています。

平安初期、安房の
得萬長者が原宿で亡くなり、従者が大塚を築き葬りました。

長者の妻は出家し
梵貞尼と名を改めました、尼はこの地に来て、網元の家で休んでいると、夫が信心していた地蔵尊が漁師の網に掛かりました、網元は尼の孝貞に心打たれて出家し清信禅居士と名を改めました。
高木神社 清梵寺 長興寺金毘羅堂

 二人はここに
を建て地蔵菩薩を安置し、山号を得萬山とし、清信梵貞から二字をとり、寺名を清梵としました。

次いで臨済宗海上山
長興寺があります、境内の金毘羅堂には金毘羅山大権現が祀られています、こんぴら大祭には奉納泣き相撲大会が行われます。

 宿並左手の山田米店横を入ると松蔭寺があります、墓所には白隠禅師の墓があります。

白隠は五百年に一人の名僧と云われ、「駿河には過ぎたるものが二つあり富士のお山と原の白隠」と詠われました。

山門脇には
摺鉢松があります、岡山藩主池田継政から贈られた貴重な備前焼の摺鉢を白隠が台風で折れた松に冠せたものです。
※ 摺鉢松は枯れ死し、伐採されました。
白隠墓 摺鉢松 白隠誕生地碑 白隠産湯井

 宿並に戻り、原交番東交差点手前の左手に
白隠禅師誕生地碑があります、貞享元年(1685)ここに生まれ、十五歳の時自ら望んで出家し仏門に入りました、修行を重ね臨済宗中興の祖と云われました。

敷地の奥には
産湯井が残されています。

 原交番東交差点を越すと右手に浅間神社があります、武田勝頼没後、旧臣が慶長十四年(1609)に創建したものです。

浅間神社の前が
高札場跡です、規模は高さ一丈、幅一間、長さ二間五尺でした。

原の七面さんと呼ばれる
昌原寺参道を越すとキムラ手芸店の所に問屋場跡標石があります。

宿並の左手西家歯科医院の手前が
渡邉本陣跡(標石)です、 渡邊家阿野全成(ぜんじょう、源頼朝の弟義経の兄)の子孫で、問屋、年寄、名主を兼ねました。
浅間神社 問屋場跡 渡邉本陣跡

 宿並左手の旭医院先を左に入ると子安さんと呼ばれる臨済宗妙心寺派徳源寺があります。

境内に
頼朝手植富士見の松(三代目)があります、富士の巻狩りの際、ここに陣屋が置かれました。

宿並に戻り、次の一本目を左折すると
明徳稲荷があります、天正十一年(1583)の創建で原宿の鎮守です。

原駅入口交差点を過ぎると左に
高嶋酒造があります、文化元年(1804)の創業、明治十七年(1884)に山岡鉄舟が命名した銘酒白隠正宗の蔵元です。
徳源寺 明徳稲荷 高嶋酒造

 ここでは
富士山の霊水が賞味できます、何度頂いたでしょうか、ところが富士山の霊水の標識は健在ですが、蛇口流しが撤去されています、残念です。

 原中学校入口バス停を過ぎると道路幅員が広がります、ここが原宿の西木戸(見附)です、ここから先は松並木であった名残です。

沼川第二放水路新田大橋で渡ります、沼川本流は東海道とほぼ平行に流れ、流末は田子の浦駿河湾に注いでいます。

原新田バス停先の右手デイリーマートタカダの手前左手に
一里塚跡標石があります、原一本松の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて三十二里目です。
西木戸跡 沼川第二放水路 一里塚跡 要石

 街道を進み左手
小池薬局横から左に入り、東海道本線を越え、突当りの県道380号富士清水線を右に進むと左手に要石神社があります。

石祠の裏に要石があります、高潮もこの石を越えることはなかったと云います、現在は天災封じ石とも呼ばれています。

 原から一本松に入り、しばらく進むと右手に村社三社宮があります、慶安三年(1650)の創建、浅間神社三社宮とも呼ばれました。

一本松の外れに曹洞宗海岸山
大通寺があります、幕末、徳川藩士が寺子屋を開き、現在の原小学校の基になりました。

桃里に入ると右手に
浅間愛鷹神社があります、延享二年(1745)の創建です、境内には鈴木助兵衛顕彰碑があります。
三社宮 大通寺 羅漢さん 浅間愛鷹神社 鈴木助兵衛碑

  元和元年(1615)
鈴木助兵衛父子がこの一帯を開拓し、助兵衛新田と呼ばれました、明治四十一年(1908)助兵衛では余りにも聞こえが悪いとし桃里と改称されました。

 桃里西バス停を越すと桃里から植田に入ります。 

JR東海道本線を
植田踏切で横断します。

街道は踏切を横断し突当りを右に進みますが、突当りを左折すると
植田三十郎と植田新田碑があります。

遠州浪人
植田三十郎は新田開発を試みたが不成功に終わり、今井村の六郎左衛門が完成させました。
そして先人に敬意をはらい
植田新田と命名されました。
植田踏切 植田新田碑 八幡神社

 街道を進むと左手に八幡神社があります、植田新田の鎮守です。

街道は
沼津市から富士市に入ります。

 街道の右手には富士の景が望め、愛鷹山の稜線が横切っています。

広重はこの両山を背景にし、手前に
浮島ケ原と二羽の鶴を描いています。

浮島ケ原湿地帯は太古の時代は入江でしたが、駿河湾の潮流によって押し上げられた土砂で堰き止められて出来上がった大沼です。

この地の
新田開発はこの沼地との戦いの歴史です、排水路による灌漑が要でした。
富士山 東海道五拾三次之内 【原】 朝之富士 広重画

 県道163号東柏原沼津線は東柏原交差点で県道380号富士清水線に吸収されます、京方面からは斜め左に入ります。

中柏原交差点を過ぎると右手に
六王子神社があります、ここには三股の伝説があります。

昔沼川、和田川、潤井川が合流し深い渕になっている所を
三股と云い、ここにが棲んでいました、この龍に毎年少女が生贄として捧げられてきました。

ある年京に向う七人の
巫女がクジを引き 一番若いおあじが犠牲になってしまいました、残された六人は京から戻ると悲しみのあまり浮島沼に身を投げてしまいました。

この六人を祀ったのが
六王子神社です。
東柏原交差点 六王子神社

  生贄になった
おあじは鈴川の阿字神社に祀られています。

 右手、JR東海道本線東田子の浦駅を過ぎると、左手に間宿柏原本陣跡標識があります、茶屋本陣跡です。

ここには九軒の茶屋が軒を連ねていました、浮島沼の
ウナギの蒲焼そして富士が名物でした。

先の右手に寛文三年(1663)創建の
立圓寺(りゅうえんじ)があります、境内に望嶽碑があります。

尾張藩侍医の
柴田景浩がこの寺から見る富士が絶景であるところから文化五年(1808)に建碑したものです。
茶屋本陣跡 立圓寺 望嶽碑 ゲ号慰霊碑

 望嶽碑の並びにゲ号慰霊碑(いかり)があります、昭和五十四年(1979)十月十九日台風20号で遭難したインドネシア船籍の
ゲラテック号が柏原海岸に打ち上げられ、船員二名が亡くなりました。

 柏原二丁目交差点を右に入ると男女像道祖神があります。

次いで左手に
秋葉山常夜燈があります。

昭和放水路広沼橋で渡ると左手に増田平四郎像があります。

原宿の平四郎は
浮島沼の干拓に生涯を捧げた人です、スイホシ(水干)と呼ばれる排水路の大土木工事を行いました。
男女像道祖神 秋葉山常夜燈 昭和放水路 増田平四郎像

 現在の
昭和放水路はこのスイホシを踏襲したものです。

スグ先の左手に一里塚跡碑が新設されました、沼田新田の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて三十三里目です。

 沼田新田から田中新田に入ると右手に手差し道標があります、須津村役場一里、吉永村役場三十一町と刻まれています。

右手に
米之宮神社があります、田中新田の鎮守です、参道口には淡嶋神社が祀られています。

田中新田は武蔵国鳴子の田中権左衛門という武士が、この地の開墾を行ないました。

檜新田に入ると右手に
愛鷹神社があります、檜新田の鎮守です。

江戸初期に
船津新田を開発した三井氏の一族十人程が移住し、村を形成しました。
手差し道標 米之宮神社 愛鷹神社

 (ひのき)交差点から左の県道170号田子浦大野線に入ります。

大野新田に入ると右手に
庚申堂があります、境内には庚申塔青面金剛像等があります。

右手の
やぶ食堂が健在です、ここのラーメンのスープは限りなく濃い茶色をしています、しかし味はサッパリしています、お奨めです。

次いで右手に
高橋勇吉顕彰碑があります。
檜交差点 庚申堂 やぶ食堂 高橋勇吉顕彰碑

 大野新田の
高橋勇吉は天保七年(1836)から十四年の歳月と私財を費やし、大野新田、檜新田、田中新田の八十ヘクタールに及ぶ水田を水害から守る排水用の掘割を完成させました。

勇吉が
天文学に優れていたところから、完成させた掘割は天文堀と呼ばれました。

 大野新田から今井に入ります、元吉原です、寛永十六年(1639)の津波で壊滅的な被害を受け、中吉原に宿場ごと移転しました。

左手段上に
毘沙門天妙法寺があります、田子の浦に流れ着いた木造の毘沙門天を本尊としています、妙法寺は津波の時の避難所でした。

富士信金先を右折(白矢印)し、鈴川踏切でJR東海道本線を横断し、突当りを左折します。
毘沙門天妙法寺 旧道方向 鈴川踏切 旧道復帰

 旧道は
信金先を直進(黄矢印)しますが東海道本線の敷設で通行不可になりました。

 吉原駅北口交差点がマップ上の吉原宿の起点です。

沼川手前の左手に天保三年(1832)建立の
馬頭観音があります。

沼川河合橋で渡ります、沼川は三股伝説に登場する川です、謡曲生贄に「河合橋 此河下を三保といふ 生贄の謡に作りし所なり」 と謡われています。

Y字路を左に進みます、右に名残松があれば正解です。

吉原駅入口交差点で一旦、県道139号線に吸収されます。
馬頭観音 沼川 左富士神社

 次いで先のY字路を右に入り、富士由比バイパス高架をくぐります、右手に弘容電機があれば正解です。

先の
左富士神社の辺りに一里塚があったと云いますが標識等はありません、依田橋の一里塚跡です、江戸日本橋から三十四里目にあたります

 左富士神社先が名勝左富士です、現在でも十字路手前から街道の左に富士が眺望できます。

この十字路の左(西)の道筋辺りが
中吉原宿跡です、元吉原からこの地に移転したものの、延宝八年(1680)再び大津波にやられ壊滅的な被害を受け、更に、現在の新吉原に移転しました。

これにより東海道筋は内陸へと北に折れる道筋になり
名勝左富士が生まれたのです。

広重は街道の右に
愛鷹山そして左に富士山を描いています。
左富士 東海道五拾三次之内 【吉原】 左富士 広重画

 広重道中日記には「原、吉原は富士山容を観る第一の所なり、左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ、一町ばかりの間の松の並木を透して見るまことに絶妙の風景なり、ここの写生あり」と記されています。

 富士依田橋郵便局前の歩道と車道の間に馬頭観音髯題目碑があります。

先のY字路を左に進み
和田川平家越之橋で渡ります。

Y字路中央には
平家越碑があります、治承四年(1180)源平富士川の合戦の際、 ここに平家が陣を張ったが水鳥の羽音に源氏の襲来と間違い西へ潰走してしまった。

この潰走は踏みとどまる事無く平家軍は
まで一気に逃げ戻ってしまったと云います、正に平家滅亡の序曲です。
馬頭観音 和田川 平家越碑

 AM11:03 吉原宿着 蒲原宿まで14.6km

 ジヤトコ1地区前バス停先の十字路を越すと右手に東木戸跡標柱があります、吉原宿到着です!

元吉原次いで中吉原と大津波の被害を受け、天和二年(1682)この地に三度目の移転を余儀なくされました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
吉原宿の宿内家数は六百五十三軒、うち本陣二、脇本陣二、問屋場二、旅籠六十軒、宿内人口は二千八百三十二人で宿長は十一町(約1.2km)でした。

水に恵まれた吉原は
駿河半紙の生産地であり、今日も製紙工場の煙突が林立しています。

岳南鉄道線
本町踏切手前を左に入ると身代わり地蔵があります。
東木戸跡 身代わり地蔵

 この地で悪性の眼病が流行った時、地蔵に願をかけると眼病が治り、地蔵の目にいっぱいの目やにがついていた所から、身代わり地蔵と呼ぶようになったと云います。

 踏切を越すと吉原本町通りになります、この通りに宿場機能が集中していました。

左手の野口カメラ店が野口祖右衛門
脇本陣跡です。

スグ先に
明治天皇御小休所碑があります、高砂館跡です。

右手の近藤薬局が長谷川八郎兵衛
下本陣跡です。

左手のおもちゃのキムラが四ツ目屋杉山平左衛門
脇本陣跡です。
吉原宿トレース 明治天皇碑

 右手メガネのヤナセ手前が扇屋鈴木伊兵衛脇本陣跡です。

メガネのヤナセは
問屋場跡です。

右手パチンコ富士見会館が神尾六左衛門
上本陣跡です、向いの左手御菓子司南岳堂が銭屋矢部清兵衛脇本陣跡です。

 次いで左手に鯛屋旅館があります、前身は旅籠屋鯛屋與三郎です。

創業は天和二年(1682)ですから、宿開設と同時の老舗です、幕末
山岡鉄舟清水次郎長の定宿でした。

江戸方面からは鯛屋旅館先の
信号交差点を左折します、この分岐ポイントには木製道標「東海道吉原宿←蒲原宿三里(12km)京都九十里(354km)→原宿三里(12km)」があります。

二本目の
十字路を右折します、ここには妙祥寺鬚題目碑があります。
鯛屋旅館 木製道標 鬚題目碑

 県道22号三島富士線を道なりに進むと桝屋酒店の所に西木戸跡標柱があります、吉原宿の京口(西口)です。

小潤井川を四軒橋で渡り、突当りの
錦町南交差点を左折します、この交差点から先は消滅しています。

錦町交差点を右折し、一本目を左折します、ここから旧道が復活します。

錦町交差点右手には
旧東海道跡碑があります。

旧道を進むと左手に
青嶋八幡宮神社が街道に背を向けています、別名磔八幡宮と呼ばれています。
西木戸跡 旧東海道跡碑 青嶋八幡宮神社

 延宝八年(1680)
の大津波中吉原宿をはじめ近郷に甚大な被害を与えました。

こような最中、幕府は過酷な検地を実行、時の名主
川口市郎兵衛はこれに断固反対したところ、幕吏に捕らえられとなりました、里人は密かに名主八幡宮に合祀しました。

 八幡宮参道口の右手に道祖神があります。

旧道は
高島交差点の五差路に突当ります、右折して小林木工所の向いを進みます。

餃子の王将の手前を右に入ります、この分岐には標識「旧東海道順路→」があります。

スグ先の
十字路を左折します、この分岐にも標識「←旧東海道順路→」があります。

潤井川富安橋で渡ります、往時は江戸と京阪を月に三度往復した三度飛脚が架橋したところから三度橋と呼ばれました。
道祖神 潤井川 鬚題目碑

 スグ先の左手に
髯題目碑があります、日蓮宗蓮心寺の参道口です。

慶長七年(1602)の創建で
宗祖木像は、熱心な日蓮宗信者であった、徳川家康の愛妾お万の方の持仏と伝わっています。

 次いで右手のブロック塀の中に(たもと)の賽神(さえのかみ)と呼ばれる単体道祖神があります、モアイの様な顔つきをしています。

塔の木交差点、次いで総合庁舎北交差点を越すと左手富士市フィランセ東館の所に
旧東海道間宿本市場碑があります。

本市場村は吉原宿と蒲原宿の
間宿で、白酒葱雑炊肥後ずいきが名物でした。

先の左手に
鶴芝の碑があります、文政三年(1820)間宿本市場の鶴の茶屋に建碑されたものです。
袂の賽神 間宿本市場 鶴芝の碑

 往時ここから雪の富士を眺めると、中腹に一羽の鶴が舞っている景色が奇観であったと云います。

 下堀川を渡った先で街道が中央分離帯植栽で遮断されています。

分離帯には
旧東海道跡地標石と迂回して下さい標識があります。

旧東海道は貴重な歴史的遺産です、これを平気で遮断する行政のセンスを疑いたくなります、街道ウォーカーさん迂回して下さい、私ですか無論・・・・です。

街道の右手に浄土宗
法源寺があります、天正年間(1573~91)当地に移住した武田勝頼の家臣高田長門守二代目が檀家になっています、境内には見事な枯山水の庭園があります。
街道遮断 旧東海道跡地 法源寺

 県道396号富士由比線を横断します、横断すると右手に見よう歩こう標柱富士市の東海道間宿本市場があります、柚ノ木方向を示しています。

旧道が右に曲がる辺りに
望月整形外科バス停があり、花壇の隅に旧東海道一里塚跡碑があります。

本市場の一里塚跡です、江戸日本橋より三十五里目です。

右手の富士第一小学校を過ぎると、
富士本町通りを横断します、左はJR東海道本線富士駅です。
県道横断 一里塚跡碑 道祖神

 次の十字路の角に道祖神があります。

 この道祖神の角にふじいち平垣店があります、時計はちょうどPM1:00を指しています、頃合です。

生ビールが美味い時期になりました、そしてランチセットです。


ラーメン、ライス、白身魚フライ、冷奴、昆布の佃煮そして香の物、これで600円です、うまい、街道食事は美味い。

これで気力、体力は充実、午後の部に取り掛かりましょう。
ふじいち平垣店 ランチ 生ビール ランチセット

 次の富士大通り十字路手前の右手に日蓮宗妙雲山栄立寺があります、開山の日賢上人はここを拠点にして日蓮宗の普及に努めました。

十字路向いの曹洞宗不二山
金正寺は宝暦十三年(1763)の創建で駿河の大地主松永家の菩提寺です。

金正寺の隣には
フジホワイトホテルがあります、ここが旧松永邸跡です。

松永家は旗本
日向氏知行地(平垣他郡下六ケ村)の管理を請負、屋敷内に陣屋を置き、明治元年(1868)には明治天皇行幸の際、休息御座所になっています。
栄立寺 金正寺 旧松永邸跡

 旧松永邸は富士市指定文化財として富士市博物館のふるさと村に一部が移築保存されています。

 スグ先の平垣町公会堂の角が札の辻です、平垣村の高札場跡で、猿田彦大神が祀られています。

曲がりくねった街道を進むと左手に
稲荷神社があります、境内には男女双体道祖神が祀られています。

次いで右手に寛政六年(1794)建立の
秋葉山常夜燈があります。

平垣から柚木に入り、県道396号富士由比線に合流します、この分岐ポイントには見よう歩こう富士市の東海道標識があります。
札の辻 稲荷神社 秋葉山常夜燈 柚木分岐点

 合流ポイントの向い側には天白神社があります、天から長さ一寸八分の米三粒が降り、柚木の村民が神社に祀り、天白と名付けました。

境内には
男女双体道祖神馬頭観音があります。

身延線
柚木駅ガードをくぐり、橋本交差点を越すと柚木から松岡に入ります。

一本目の
橋本バス停の所から斜め右の旧道に入ります。
天白神社 石仏石塔 松岡分岐 常夜燈&道標

 この分岐ポイントには慶応元年(1865)建立の秋葉山常夜燈道標「左東海道」があります。

 先に変則五差路があります、迷い所です、お気を付け下さい、旧道は左(白色矢印)です、ここを右(黄色矢印)に進むと(かりがね)があります。

雁堤は時の代官古郡氏親子三代が富士川に沿って築き、その形が雁の群れがくの字になって飛ぶ姿に似ているところからかりがねと呼ばれました。

築堤中は何度も決壊し難渋を極めました、そこで富士川を渡る
千人目の旅人を人柱とすることにしました、千人目の旅僧はこれを快諾し、人柱となりました。
変則五差路 護所神社 雁堤人柱之碑

 雁堤に鎮座する
護所神社はこの僧を祀ったものです、境内には雁堤人柱之碑があります。

 旧道に戻り、先に進むと富士市四丁河原歩道橋の所で県道396号富士由比線に再び合流します。

街道正面に富士川橋が現れると左手に
明治天皇御小休所趾碑があります、明治十一年(1878)東海北陸巡幸の際、ここで休息しました。

富士川の手前右手に
水神社があります、富士川の渡船場はここにあり、この辺りは船場(ふなば)と呼ばれていました。
四丁河原歩道橋 明治天皇御小休趾 水神社 渡船場跡&富士山道

 
水神社境内には富士川渡船場跡碑や文政元年(1818)建立の常夜燈があります、これは岩本村船方講中によって寄進されたものです。

水神は富士登山道の起点であり、
富士山道の道標が境内に移設されています。

 富士川富士川橋で渡ります、富士川は天下に聞こえた急流であり、水量が多い為、往時は船渡しでした。

渡船は
岩本村と対岸の岩渕村間で行われ、通常の定渡船には人を三十人、牛馬四疋を乗せ、船頭が五人付きました。

橋を渡り、川沿いに右折して、約300m進むと
角倉了以紀功碑があります、京都の豪商、角倉了以は家康の命により、甲府へ通じる富士川の舟運を開削しました。

この舟運は
江戸城の生命線でもありました。
富士川橋 富士川 角倉了以翁紀功碑

 これは
江戸城が一朝有事の際、服部半蔵の手引きで城を脱出し、八王子の千人同心に守られ、甲府に入り、富士川の舟運で東海道に出て、駿河に至る、大生命線でした。

 富士川橋を渡って、一本目芦川洋品店の所を左折(白色矢印)して上り坂に入ります、黄色矢印は角倉了以翁紀功碑方向です。

上り坂を左に進み、次いで右(白色矢印)に曲がります、ここをヘアピン状に右(黄色矢印)に曲がる筋が
身延山道でここが追分です。

この分岐ポイントには
富士川コース道標があります。

身延山道に入り、約100m進むと左手に日蓮宗
光栄寺の参道階段があり、参道口の鬚題目碑の裏に享保十六年(1731)建立の身延山道道標があります、身延江三里と刻まれています。
岩渕旧道口 身延山道追分 身延山道道標

 この
道標追分にあったものです。

 坂道を上り詰めるとT字路に突当ります、ここを左折します、この分岐ポイントには東海自然歩道バイパスコース案内標識があります。

旧道をわずかに進むと右手に嘉永六年(1853)建立の
秋葉山常夜燈があります。

清源院の参道階段を右手に見て進み、桝形を越えると右手に小休本陣常盤家があります、岩渕村間の宿として栄え、諸大名の渡船準備に備え、休憩所として小休本陣脇本陣がありました。
岩淵分岐 秋葉山常夜燈 小休本陣常盤家 常夜燈

 小休本陣の外れに
常夜燈があります。

 街道が左に向きを変える所に常夜燈があり、右奥に八坂神社の鳥居があります、社殿は東名高速高架をくぐった先です。

慶長七年(1602)
病気封じとして京の八坂神社が勧請されました。

次いで右手に鎌倉時代の正治元年(1199)創建の
新豊寺があります。

参道口には享和三年(1803)建立の
秋葉山常夜燈があります。
常夜燈 八坂神社 秋葉山常夜燈 新豊寺薬医門

 
(まき)の古木が連なる参道を進むと、延宝七年(1679)建立の朱塗り薬医門があります。

 街道は枡形に突き当たります、左右に岩渕の一里塚を残しています、江戸日本橋より数えて三十七里目です。

西(右)塚の
は往時のもです、東(左)塚のは二代目です。

この一里塚の付近には岩渕名物
栗ノ粉餅を商う茶屋が軒を連ねていました。

一里塚を境に街道は
岩渕村から中之郷村に入ります。

富士川第一小学校の所で左折します、NTT先の十字路の右手に
川坂観世音道標があります、南無大悲観世音菩薩と刻まれています。
岩渕の一里塚(西) 東塚 川坂観世音道標

 街道の左手に文政六年(1823)建立の秋葉山常夜燈が現れたら、お気を付け下さい、先に重要な右折ポイントがあります。

約90m先の
十字路を右折します、この右折ポイントには、赤い新町区消防ホース格納箱や電柱には渡辺治療院の看板があり、矢印がついています。

この十字路を直進するとJR東海道本線
富士川駅前入口に出ます。

右折し、道なりに進み左手に
中部電力富士川サービスステーションが現れたら正解です。

新町本町区防災倉庫の脇にも
常夜燈があります。
秋葉山常夜燈 分岐点 常夜燈

 道なりに進むと中之郷道標があり、先の東名高速のガードをくぐります。

ガードをくぐったら
左折します、この左折ポイントの正面には三田講が建てた野田山不動明王碑薬師如来碑があります。

一旦東名高速に沿って進みますが、すぐに右に曲がります、ここが東名高速で分断された
旧道復活ポイントでしょう。

小池橋を渡り、しばらく進むと右手に擁壁が続きます。
東名高速ガード ガード先分岐 野田山不動明 秋葉山常夜燈

 擁壁が切れると右手に安政三年(1853)建立の
秋葉山常夜燈があります。

 常夜燈先を右に入ると右手に春埜堂黒里観音堂があり、その先に宇多利神社があります。

街道に戻り先に進むとY字路が現れます、 右側の標識
行き止まりの道筋が旧道です、左の道は新幹線下を車が通れるように掘り下げた新道です。

新幹線ガードをくぐります、正にここが旧道筋です。

二本目を右に入ると段上に
春日大明神が祀られています。
宇多利神社 旧道分岐ポイント 新幹線ガード 春日大明神

 スグ先で、先程分岐した新道と合流します。

この合流ポイントには嘉永四年(1851)建立の
秋葉山常夜燈があります、京方面からは重要な分岐ポイントになります。

下り坂を進むと右手の民家の前に
明治天皇御駐輦(ちゅうれん)之趾碑があります。

道なりに進むと東名高速道路に沿う道筋になり、先の
新坂橋東名を跨ぎます。
新道合流ポイント 秋葉山常夜燈 明治天皇碑 新坂橋

 街道は天保十四年(1843)に開削された新坂を下ります、それ以前は東南の崖上を辿る七難坂でした。

新坂の正面には
駿河湾が望めます。

左手に
光蓮寺の白壁が現れると右手の階段上に寛政五年(1793)建立の馬頭観音三面六臂馬頭観音が祀られています。

街道は
T字路に突き当たります。
馬頭観音群 光蓮寺 T字路分岐 古蹟源義経硯水

 
旧道は右(白色矢印)ですが、左(黄色矢印)に約200m進むと古蹟源義経硯水があります。

三河の矢矧で契りを結んだ
浄瑠璃姫にここの清水で文をしたためたところ、姫はここまで来て力尽きたと云います。

 旧道に戻って先に進むと左手稲荷社の前に一里塚標石があります、蒲原の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて三十八里目です。

スグ先の右手に
北条新三郎の墓標石があります、案内に従って整備された山道を登ると北条新三郎があります。

蒲原城主であった新三郎武田信玄の攻撃に遭い落城し自刃して果てました、これによって信玄は駿河に進出し、上洛の足場を固めたと云います。

次いで右手段上に
諏訪神社が鎮座しています。
蒲原の一里塚跡 北条新三郎の墓 諏訪神社

 富士川の水難守護神として、信州上諏訪大明神を勧請したものです。

 PM3:15 蒲原宿着 由比宿まで 6.3km

 諏訪神社のスグ先が桝形になっています、ここが蒲原宿の東木戸跡です。

東木戸には文政十三年(1831)建立の
常夜燈があり、笠石には宿内安全と刻まれています。

当初、
蒲原宿は現在のJR東海道本線の南側にありましたが、元禄十二年1699八月十五日に宿場を襲った大津波大型台風により、大きな被害を受け、翌年に山側現在地に移転しました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
蒲原宿の宿内家数は五百九軒、うち本陣一、脇本陣三、問屋場一、旅籠四十二軒で、宿内人口は二千四百八十人(男千二百五十一人 女千二百二十九人)でした。

蒲原宿は富士川の舟運を控えた宿場町として繁栄し、富士川の川留めの時には、渡しを待つ旅人で賑わいました。
蒲原宿東木戸跡 常夜燈

 宿並に入るとマズ出迎えてくれるのが巨大な四本の送水管です、日本軽金属の電力を水力発電で賄っています、諏訪橋で送水管を跨ぎます。

篠原接骨院を過ぎると左手に
木屋の土蔵(渡邉家土蔵[三階文庫])があります、渡邉家は代々問屋職を勤め、木材を商ったところから木屋という屋号で呼ばれました。

天保九年(1838)上棟の三階建ての
土蔵は、四隅の柱が上にいくにつれて少しずつ狭まる四方具(しほうよろび)という耐震性に優れた技法で建築されています。

次いで右手山側に臨済宗
龍雲寺があります。
送水管 木屋の土蔵 龍雲寺

 承応二年(1653)高松藩の槍の名人大久保甚太夫が蒲原宿西木戸辺りの茄子屋の辻薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで乱闘となりました。

甚太夫は七十人近くを倒したが、ついに殺されてしまい、竜雲寺住職が墓地に葬りました、甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。

 次いで酒店先を右に入ると正八幡神社があります、徳川家康が築いた蒲原御殿(御殿山)の南麓に鎮座しています。

宿並左手の望月米殻精米工場の角に
馬頭観音が祀られています、ここには昭和の初め頃まで馬小屋がありました。

右手には
髯題目碑があり、山側に東漸寺があります、安政五年(1858)の土石流で全壊し、今ある建物は全てその後のものです。
正八幡神社 馬頭観音 東漸寺 なまこ壁と塗り家造

 スグ先の右手に
なまこ壁塗り家造りの家があります、当家は元佐野屋という商家でした、塗り家造りは防火効果が大きく、贅沢普請と云われました。

 元佐野屋の隣を右山側に入ると八坂神社があります、宿民の疫病からの守護を祈願して、宿中央に建立されました。

宿並に戻ると左手に先程と同様の
塗り家造りの旧家があります、当家は昭和まで続いた僊菓堂(せんかどう)という屋号の和菓子屋でした。

宿並を横切る小川の手前右手が
問屋場跡です。

問屋場幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交代の馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、宿のほぼ中央にあたるこの場所に設置されていました。
八坂神社 塗り家造り 問屋場跡

 小川を渡り、左に入ると小公園があり、夜之雪蒲原宿碑広重蒲原夜之雪レリーフがあります。

広重はこの辺りから最高傑作の
蒲原夜之雪を描いたとも云います

しかし温暖な
蒲原には滅多には降りません、これは広重一流の洒落であり誇張なのです。

広重は幕府から内命を受け、毎年、幕府から朝廷へ
御料馬(ごりょうば)二頭を献上する八朔御馬献上(はっさくおうまけんじょう)の式典を描くために同行しました。
夜之雪蒲原宿碑 東海道五拾三次之内 【蒲原】 夜之雪 広重画

 その際に東海道五十三次の五十五図をスケッチし、これが後に
保永堂東海道五十三次として出版され、評判となりました。

 宿並に戻り進むと右手に天保年間(1830~44)建築の旅籠和泉屋があります、上旅籠でした。

向いが
西本陣跡です、平岡家が勤め、庭内には大名の駕籠を置いた御駕籠石を残しています。

東本陣多芸家は宝暦年間(1751~63)に絶えています。

信号交差点を越すと左手に
手づくりガラスと総欅の家があります、明治四十二年の建築です。

二階の
窓ガラスは往時の手つくりガラスです、微妙な歪みが何とも云えません。
旅籠和泉屋跡 西本陣跡 手作りガラスの家

 蒲原郵便局先右手の柵区会館の前が高札場跡です。

徳川家康が武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために御殿山辺りに蒲原御殿を建てました。

後に将軍専用の宿泊施設として拡充しましたが、寛永十一年(1634)
家光の上洛を最後に廃止されました。

次いで右手に
旧五十嵐歯科医院があります、町屋洋風に増改築した擬洋風建築と呼ばれる、大正時代の洋館です。

外観は
洋風ですが、内部は和風です。
高札場跡 御殿場跡 旧五十嵐歯科医院

 次いで左手に蔀戸のある家志田家住宅母屋があります、安政元年(1854)の大地震直後の再建で、ヤマロクと云う味噌醤油の醸造を営む商家でした。

蔀戸(しとみど)とは雨戸のことで、片持ちの吊り下げになっています。

先の右手に
美しい格子戸の家増田家があります、伝統的な日本建築工法の一つです。
蔀戸のある家 美しい格子戸の家 西枡形 長栄寺

 突当りが西桝形です、左折しますが、右に入ると浄土真宗本願寺派法流山
長栄寺があります、慶安三年(1650)の創建です。

 宿並は県道396号富士由比線に突当ります、ここが蒲原宿西木戸跡です。

左手は
西木戸跡小公園になっています、蒲原宿解説水場があります。

前述の高松藩の大久保甚太夫と薩摩藩の乱闘は、この西木戸にあった
青木の茶屋(茄子屋)辺りで行われました。

突当りのT字路を
(黄色矢印)に少し進むと右の筋の入口に古屋敷の標石があります、この筋が元禄十二年(1699)の大津波で壊滅した旧蒲原宿の宿並です。
西枡形 西木戸小公園 古屋敷筋 古屋敷標石

  T字路(白色矢印)が街道です、それでは
蒲原宿を後にしましょう。

 スグ右手に和歌宮神社があります、御神体は奈良時代初期の万葉歌人三十六歌仙の一人で「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ不尽(富士)の高嶺に雪は降りける」の作者山部赤人と云う洒落た神社です。

向田川向田川橋で渡ります。

街道を進むと左手に
北向不動尊一乗院があります、諸願ご祈祷運命鑑定を受け付けています。
和歌宮神社 一乗院 蒲原駅 東名高速高架

  次いで左手にJR東海道本線蒲原駅があります、何故か蒲原宿側の駅名は
新蒲原と云う変則になっています。

これは岩淵に
富士川駅が出来、蒲原宿では余りにも近いとの事で、隣村の堰沢村蒲原駅が出来ました、その後、人口の多い蒲原宿に駅がないのは不都合とのことから新蒲原駅が出来ました。

堰沢川堰根橋で渡り、八木沢川八木沢橋で渡り、東名高速道路高架をくぐります。

 東名高速道路高架先の神沢交差点のY字路を左に入ります。

神沢川を渡ると右手に神沢川酒造があります、銘酒正雪の蔵元です。

大正元年(1912)の創業で、
仕込水は神沢川の伏流水です、ご賞味あれ!

先に進むと左手に二体の
地蔵を安置した祠があります。

祠の脇に
一里塚跡標石があります。
神沢交差点 神沢川酒造 地蔵祠 一里塚跡

 
由比の一里塚跡です、江戸日本橋より三十九里目になります。

寛文年間(1661~71)、山側の塚木の松が枯れたので、
良用軒清心という僧がここに十王堂を建立しましたが、、明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。

 PM4:44 由比宿着 興津宿まで 7.3km

 一里塚跡の先に枡形を残しています、ここが由比宿の東木戸跡です、由比宿に到着です!

由比の地名は湯井、油井、由井、湯居とも書かれました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
由比宿の宿内家数は百六十軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠三十二軒(大一、中十、小二十一)で、宿内人口は七百七人(男三百五十六人 女三百五十一人)でした。

宿並は東町、本町、西町の三町で構成され、宿長は五町半(約600m)と小宿でした。

由比宿は
幕府領でしたが、石高は三百四十石と低く、常備人馬の負担が重く、しばしば幕府に負担軽減を願い出ています。

維新後は
製塩みかん栽培に活路を見出し、今は桜えびの一大産地になっています。
由比宿東桝形跡

 宿並に入ると右手住宅の塀に御七里役所之趾標石が埋め込まれています。

御七里役所とは紀州家が幕府の動向をいち早く知るために、七里毎の宿場に連絡所を設け、健脚で腕と弁舌に長けた御七里衆を置き、その任にあたらせました。

宿並を進むと右手に
由比本陣の門があります、今川義元の家臣であった由比家の子孫が代々勤めました。

門脇には
明治天皇由比御小休所碑があります。

敷地は
本陣公園として整備され、本陣井戸物見櫓、明治天皇が休息した御幸亭、そして東海道広重美術館等があります。
御七里役所跡 標識 由比本陣

 由比本陣門の向いに正雪紺屋があります、江戸時代初期創業の紺屋(染物屋)です。

徳川幕府転覆を図った
慶安事件で知られる由比正雪の生家と云われます。

正雪紺屋の並びが
脇本陣温飩屋(うんどんや)です、建坪九十坪、門構え、玄関付でした。

脇本陣の向いが、本陣の外れになり、
馬の水呑場があります、元は深さ二尺(約60cm)はありました。

大名行列の馬に水を呑ませたり、馬体を洗いました。
正雪紺屋 脇本陣温飩屋 馬の水呑場

 脇本陣温飩屋の隣り、黒板塀の洋館は明治の郵便局舎跡です、明治の世になると飛脚屋由比郵便取扱所となり、由比郵便局となりました。

向いの日蓮宗
正法寺参道の左手は加宿問屋場跡です、加宿十一カ村が共同で問屋場を設営したところで、本宿問屋場と一ケ月交代で業務を勤めました。

スグ先の左手に弥次喜多の等身大人形が出迎える
由比宿おもしろ宿場館があります。
明治の郵便局舎 加宿問屋場跡 おもしろ宿場館 脇本陣羽根ノ屋跡

 おもしろ宿場館の向いが
脇本陣羽根ノ屋跡です、由比宿には脇本陣を勤めた家が三軒あり、江戸時代後期に徳田屋に代わって羽根ノ屋が勤めました。

羽根ノ屋は
江尻宿脇本陣の分家で、寛政五年(1793)幕府に脇本陣を願い出ています。

 宿並右手の徳田屋は脇本陣徳田屋跡です、由比宿にあった三軒の脇本陣の一つです。

向いの
清水銀行由比支店は国登録有形文化財です。

スグ先のY字路を左に入ります、ここが
旧道です。

旧道は
由比川に突き当たり左折(白矢印)します、この枡形に由比宿の西木戸がありました、この先で由比川の河原に出ました。
脇本陣徳田屋跡 清水銀行由比支店 旧道口 由比宿西木戸跡

 左に進むと突当りに入上(いりあげ)地蔵堂があります、この由比川はひとたび大雨になるときちがい川とも云われ、溺れて水死する者もあり、この水難者を祀った川守地蔵です。

由比川は
仮板橋でしたが、水量が増すと、仮板橋は外され、徒歩渡しとなりました。

今は右(黄色矢印)に進み、由比川橋で由比川を渡ります、橋上からは、これから超える
薩捶峠が遠望できます。

由比川を渡った先にも、
渡し場からの旧道を残しています、踏み込んでみましょう。
入上地蔵堂 由比川橋 対岸の旧道

 和瀬川共進橋で渡ると右手に豊積神社があります、坂上田村麻呂の奥州征伐の凱旋祝いに奏上した神楽お太鼓祭りが正月に奉納されます。

街道の右手に
いちうろこがあります、創業文政元年(1818)、かまぼこの老舗です。

スグ先の左
由比港漁協信用部の所から左に入ると、JR東海道本線、国道1号線富士由比バイパスをくぐり由比漁港に出られます。
豊積神社 いちうろこ 由比漁港 かきあげそば

 港内の
浜のかきあげやでは名産の桜エビのかき揚げ料理がリーズナブルな料金で賞味できます。

桜えびの漁期は春と秋で
刺身良し、釜揚げ良し、そしてかき揚げ良しです。

 街道に戻ると由比今宿の旧道を桝形状にトレースします。

ヤマキチ桑原商店そして今宿区ホース格納庫No7の先を右折します。

右折しますと正面(黄色矢印)に
天満大自在天神の鳥居が見えます、一本目を左折して細道を進みます。

突当りの
今宿区ホース格納庫の所で右折します。
由比今宿の旧道口 左折ポイント 旧道痕跡 県道合流ポイント

 
県道396号線に突当ります、ここを左折します、ここには富士急静岡平バス停(黄色丸囲み)があります、京方面からはこのバス停が重要な分岐ポイントになります。

この道筋は吉原宿や蒲原宿を壊滅させた大津波の影響を当然由比も受けた結果、高道を設けたと思われます。

 街道を進むと右手の擁壁上に六地蔵があります、地蔵堂が新築になっています。

先の由比駅上バス停の所に
があります、馬頭観音が安置されています。

更に進むと緑色塗装の
清水区由比寺尾歩道橋が現れます、斜め右の寺尾旧道の上り坂に入ります。

元は海沿いに街道がありましたが、中吉原を壊滅させた
大津波で被害を受け、天和二年(1682)に新道が開削されました。
六地蔵 馬頭観音 寺尾旧道口 寺尾の街並み

 寺尾澤を寺尾澤橋で渡ると右手の段上に宗像神社があります、航海の守護神を祀っています。

中の沢二号橋を渡ると右手に寛文九年(1669)創建の
讃徳寺があります、境内には谷口法悦が建立した題目碑があります。

ゆるい上り坂をモクモクと進むと右手に
なまこ壁小池邸があります。

小池家は代々
小池文右衛門を襲名して寺尾村の名主を勤めました。

以前お邪魔させて頂いた時、
水琴窟の音を聞かせて頂きました。
宗像神社 讃徳寺 小池邸

 小池邸先の左手にあかりの博物館があります、個人で収集した提灯行灯等を展示しています。

大澤川大澤橋で渡り、上り坂をグイグイ上ります、左には駿河湾の景が広がります、街道の右手擁壁上に防災ネットが現れると、法界万霊供養と刻まれた題目碑が建っています、ここで土砂崩れがあったのでしょう。

街道の左手に
磯料理くらさわやがあります、駿河湾を望みながら本格的な桜えびのコース料理が賞味できます。

街道の右手段上に
八阪神社が鎮座しています。
あかりの博物館 題目碑 八阪神社

 スグ先で権現橋を渡ります、橋の欄干に藤八権現のモニュメントが組み込まれています。

寛政年間(1789~1801)
藤八と云う村人が他界し、後に天狗となって倉沢の火防守護をすると云われ、藤八権現として中峰神社に祀られました。

次いで右手段上に
鞍佐里(くらさり)神社が鎮座しています、日本武尊が東征途中、賊の焼き打ちの野火に遭い、鞍の下で神に祈ると その鞍が身代りに焼け落ちたと云います。

神社拝殿の
蟇股(かえるまた)には武尊が野火を払う姿が見事に彫刻されています。
権現橋 鞍佐里神社 宝積寺

 この
鞍去倉沢の地名由来になっています。

次いで右手段上に曹洞宗
宝積寺があります、境内には六地蔵があります。

 西倉沢薩捶峠(さったとうげ)を控え、大変賑わった間の宿でした、十軒の茶屋がありアワビサザエが名物でした、 この辺りは田子の浦と呼ばれ駿河湾の眺めが評判でした、茶屋は海側に軒を連ねていました。

さった偏にと書きますがフォントにありません、便宜的に薩峠を用いています。

左手に
間の宿本陣跡があります、川島家は代々川島勘兵衛を襲名し、茶屋本陣を勤め、間の宿の貫目改所の中心をなし、名主を兼ねていました。

次いで左手に間の宿
脇本陣柏屋があります、明治元年(1868)と同十一年、明治天皇東幸の際、ここで休息しました。
間の宿本陣跡 間の宿脇本陣柏屋跡

 間の宿の外れに間の宿藤屋があります、薩捶峠の東上り口にある所から坂口屋と呼ばれましたが、富士の眺望が良いところから望嶽亭と称しました。

望嶽亭には
山岡鉄舟の残した拳銃があります、幕末勝海舟の密命を受けた山岡鉄舟は官軍の西郷に会うべくここまで来ましたが、薩摩兵に追われ望嶽亭に逃げ込みました。

山岡は
百姓姿に着替え、拳銃をここに残し、藤屋の主清水次郎長の手引きにより、海側に逃れました。

望嶽亭の向いに
西倉沢の一里塚跡標石があります、塚木はでした、江戸日本橋より数えて四十里目です。
望嶽亭 一里塚跡 薩捶峠の上り口

 一里塚跡の所からY字路右の上り坂が
薩捶峠東上り口(白色矢印)です、黄色矢印は薩捶峠が開削される以前の海岸道口(薩捶下道)です。

薩捶峠下の波打ち際を通行する、大変危険な道で、打ち寄せる波が引いた瞬間に駆け抜けました、その際、親も子もなく我先に渡ったことから
親知らず子知らずと呼ばれました。

 急坂の峠道からは駿河湾の眺望が開け、左右はミカン畑になっています。

姫街道の
三ケ日ミカン同様、ミカンは潮風が大好きなのです。

峠道は
舗装路です、途中の分岐は全て海側を進みます。

グングン峠道を登ると左手に
薩捶地蔵道標が二基あります、大きい道標にはさったぢぞう、小さい道標は延享元年建立(1744)でさったぢぞうミち これより四丁と刻まれています。

薩捶地蔵道標の向いに
薩捶山合戦解説があります。
ミカン畑 薩捶地蔵道道標 薩捶山合戦解説

 薩捶山では二度、大合戦が行われました。

観応二年(1351)
足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破しました。

永禄十一年(1568)
武田信玄の駿河侵攻の際、今川氏眞がこの山で迎え撃ったが敗退し、翌年今川救援のため出兵した小田原北条軍武田軍がこの山で対峙したが、武田方が軍を引いています。

 解説先のY字路は海側である左に進みます、突当りに薩捶峠駐車場があり、トイレ水場があります。

駐車場の隅には
薩捶峠山之神遺跡碑があります、この辺りの山畑開墾の際に祀られた山之神が、昭和七年(1932)鞍佐里神社へ遷座し、その遺跡地に記念碑が建てられたものです。

駐車場からは正面に
駿河灘、左手には霊峰富士愛鷹山そして伊豆の岬、右手には美保の松原の景が広がります。

駐車場の
文学碑脇から下り坂に入ります、ここからは快適な土道の峠道になります。
薩捶峠駐車場 山之神遺跡碑 薩捶峠旧道口

 景色を楽しみながら土道を進むと、木組みの展望台があります、ここが広重の薩捶嶺の写生地と云われます。

ここから振り返ると
広重と同様の景が望めます、見事の一言です!

峠下には
JR東海道本線国道1号線東名高速が集中しています、ここが親知らず子知らずの難所でした。

明暦元年(1655)に来朝する
朝鮮通信使を通すにはこの道は危険過ぎるとして、薩捶山の中腹を開削して新道を通しました。
現代薩捶嶺 東海道五拾三次之内 【由比】 薩捶嶺 広重画

 山ノ神碑を過ぎると東屋があり、その先が牛房坂です。 

土道を上り切ると
薩捶峠碑があります、昔、この海で漁師の網に地蔵薩捶の仏像がかかり、これを山の山頂に祀ったところから薩捶山と呼ばれるようになりました。

薩捶峠碑の先からは舗装路の下り坂になります、途中、二ケ所のY字路がありますが全て左(海)側を進みます。
東屋 薩捶峠碑 薩捶峠下り道 お墓道

 再び土道になり、往時の原型を残す
切通しになります、大名の駕籠や馬、そして幕末の官軍の大砲が通ったかと思うと感動してしまいます。

切通しを抜けると
お墓の間に出ます、過去ここから先を前後6回通行していますが、いつも造成中で道筋が一定していませんでした。

久し振りに来て見ますと、
新旧街道がやっと安定してました、それではトレースに取り掛かりましょう。

 お墓を抜けると舗装路の往還坂を下ります、下り切ると十字路になります。

この十字路を左に進むのが
薩捶中道です、白髭神社海岸神社を経由して国道1号線に合流します。

十字路を右に進むのが
薩捶上道です、この道が江戸後期の東海道本道です。

それでは右折して本道を進みましょう、この分岐には
道標「薩捶峠1.2km JR興津駅3.0km」があります、ちなみに薩捶中道方向は「JR興津駅2.7km」です。

街道を進むと
長山平になり、左手に文政元年(1818)建立の秋葉山常夜燈があります。
往還坂分岐 秋葉山常夜燈 左折ポイント

 街道右手に
カーブミラーがあり、案内標識「薩捶峠1.5km JR興津駅2.7km」が取り付けてあります、ここを左折します。

 突当りを右折し、道なりにモクモクと進みます。

やがて
人家の連なるT字路に突き当たります、ここを左折します。

この左折ポイントには
道標「薩捶峠1.7km JR興津駅2.5km」があります。

スグ先の
変則十字路を左折します、この左折ポイントには瑞泉寺寺標、段上に常夜燈道標「薩捶峠1.8km JR興津駅2.4km」があります。

日蓮宗龍光山
瑞泉寺の境内に南無妙法蓮華経髯文字題目碑があります、この碑の左右面には、天下の嶮薩捶峠での殉難供養、道中安全祈願が刻まれています。
左折ポイント 瑞泉寺寺標 題目碑

旧道は興津川沿いのおきつ川通りに突き当たります、ここを左折します。

この左折ポイントには
道標「薩捶峠2.1km JR興津駅2.1km」そして郵便ポストがあります。

おきつ川通りを進むと山側の擁壁の中に
牛頭観世音菩薩が祀られています、馬頭観音と同種のモノですが、家畜の牛を供養したものです。

街道正面にJR東海道本線ガードが現れます、この手前の右手が興津川の
川越遺跡です。

旅人は両岸にあった
川会所越し札を買い求め、蓮台または人足の肩ぐるまで川を越しました。
左折ポイント 牛頭観音 東海道本線ガード

 ガードをくぐり突当りを右折します、この右折ポイントには道標「薩捶峠2.6km JR興津駅1.6km」があります、これにて薩捶上道トレースは終了です。

興津川浦安橋で渡ります、広重は興津川の川越風景を描いています、越し札(渡し賃)は水深によって設定されていました。

太股川(42cm) 十二文
はさみ川(70cm) 十五文
横帯川(106cm) 二十四文
若骨川(120m) 三十二文
脇水川(150cm) 四十二文
興津川 東海道五拾三次之内 【奥津】 興津川 広重画

 ※天保の頃そば一杯が十六文でした。

水深が四尺五寸(1.5m)を越すと
川止めになりました。

川越し人足は興津側で三十六人が常備されていました。

但し、
冬期(十月下旬から三月五日まで)は仮橋が架かり無賃でした。

 橋を渡ったらスグ右の小階段を下り道に入ります、これは川越跡からのトレースになります。

道なりに回り込むと
供養塔があります、いつも真新しい花が供えられています。

旧道は国道1号線に突き当たります、右折します、京方面からは
東洋ブラザー工業駐車場が分岐ポイントになります。

興津中町交差点を過ぎると右に
宗像神社があります。
旧道口 供養塔 旧道口 宗像神社

 創建は平安中期で海の神
沖津島姫を祀っています、境内の樹木は船乗りの目印になり、祭神が女神であるところから女体の森と呼ばれました。

 興津中町西交差点から右(北)に延びる筋は身延道です。

駿河甲斐を結ぶ重要な交易路で、駿河侵攻を目論む武田信玄の軍用道路として整備拡張されました。

交差点を渡ると右手に承応三年(1654)建立の
南無妙法蓮華経と髯文字で刻まれた題目碑や元禄六年(1693)建立の身延山道道標(身延三里)等があります。

江戸時代になると日蓮宗の総本山身延山
久遠寺への参詣道となり賑わいました。

しずおか信金の先で、小川無線の向かいに
一里塚跡碑があります。
石塔群 身延道入口 一里塚跡

 興津の一里塚
跡です、江戸日本橋より数えて四十一里目です。

 PM6:42 興津宿着

 興津宿の起点信号興津駅前に到着です、予定通りです、本日はここ迄です。

JR興津駅に直行です、あれー
駅売店が閉まっています、最近このケースが多いです。

後3分すれば電車が来ます、ダメです、そうはゆきません、ケジメがつきません。

街道のセブンイレブンに逆戻りです。

反省、これからは終点に近づいたら早めに手当てしましょう、ハイ。

薩捶峠を下り、墓から先の道筋が明確になりました、咽喉のつかえが取れたような気がします。

ポップハットをたたみ、一杯です、咽喉のつかえがもう一つ取れました。




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