道中日記 8−161 東海道 ( 興津 - 藤枝 ) 39.7km

 
 季節は梅雨に入り、晴れ間がなかなか出ません。
街道ウォークはむしろ曇り日の方が歩き易く、陽に焼けず、涼しく歩けます。
しかしHPの作製を意識するとピーカンの写真がほしい、発色が違います。

毎日PCの天気予報をチェックです。
やっと興津から藤枝間に晴れマークの予報が出ました、決行です。

例の早朝カレーを食し、乗車です。

天気予報によると気温30度以上の真夏日になる可能性があります。
熱中症対策として車中で1リットルの水を飲み干しておきます。



 平成20年07月12日 AM7:27 興津宿出立 江尻宿まで5.0km

 興津駅前交差点が興津宿の起点です、オーッすでに暑い、出立しましょう。

スグ右手に曹洞宗
龍興寺があります、境内には端正ながあります。

次いで右手に日蓮宗
理源寺があります、境内には目の神様意眼さんのお墓があります、若狭の国宮津」城主の子で盲人でした。

二十九歳の時、身延山に参詣した際、この地で亡くなりました。
短い一生でしたが、目の不自由な人々の為に尽くしたと云います。
興津駅前交差点 龍興寺 意眼さんの墓

 日朝さん
意眼さんとして尊敬されました、墓には元禄十年三月七日と刻まれています。

 土石流危険渓流の沢端川(さわばた)を澤端川橋で渡ると右側に興津宿公園があります、興津宿の由来や解説があります。

興津の地名は宗像(むなかた)神社の興津宮に由来し、奥津息津沖津とも呼ばれました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると江戸より十七番目の宿場である
興津宿の宿内家数は三百十六軒、うち本陣二、脇本陣二、旅籠三十四軒で宿内人口は千六百六十八人、宿並は本宿、中宿町で構成され、宿長は十町五十五間(約1.2Km)でした。

興津からは身延、甲府へと通じる
甲州往還(身延道)の要衝と奥津川の渡しを控え大いに賑わい、江戸中期からは興津川流域で生産される和紙の集積地として栄えました。
興津宿公園 東屋

 興津交番横から右山側に入り、JR東海道本線耀海寺踏切を越すと日蓮宗教敬山耀海寺(ようかいじ)があります。

境内には病を治す
夏心様を祀る夏心堂があります、多羅尾小左衛門はお茶壺道中警護の役人でした、小左衛門は瘡毒(そうどく)患い苦悩し、その上同僚からイジメを受けていました。

元禄七年(1694)
小左衛門は清見寺門前で度重なるイジメにとうとう堪えきれず、正式な果し合いの上、一撃で相手を倒し、耀海寺で出家しました、小左衛門は夏心了道上人となり、夏心堂に祀られました、病気一般イジメに多大なご利益があります。

宿並に戻ると清水銀行興津支店先の右手に
興津宿東本陣址標石があります、市川新左衛門が勤めました。
耀海寺夏心堂 東本陣跡

 左手に宮様まんぢう店があります、ある宮様が賞味したところを由来としています、米糀の甘酒を用いた酒まんじゅうです。

次いで左手に鈴与研修センターがあり、敷地内に
興津宿脇本陣水口屋跡標石と一碧楼水口屋跡標石があります。

武田信玄の家臣であった
望月氏脇本陣を勤め、明治以降は別荘旅館一碧楼水口屋として繁盛しました、第二次大戦後、一時占領軍に接収されて、海外に紹介され、多くの外国人観光客が訪れました。

右手山梨自転車商会の手前に
興津宿本陣址標石があります、手塚十右衛門が勤めました。
宮様まんぢう 脇本陣水口屋跡 西本陣址

 興津宿を後にすると右手段上に臨済宗妙心寺派の古刹清見寺があります。

弘文年間(672~686)天武天皇の頃、この地に蝦夷に備えて
清見ケ関が設置されました、この関所の鎮護の関寺として清見寺が建立されました。

境内には
徳川家康手植え臥龍梅があります、徳川家康が今川氏の人質として駿府にいた幼少(竹千代)の頃、清見寺住職のもとを度々訪れています。

山門脇に
田中清左衛門尉長吉の逆修菩提塔があります、関ケ原合戦後に伊吹山中に潜伏していた石田三成を捕えた功労者です。
清見寺 臥龍梅 逆修菩提塔

 大方丈の裏手には五百羅漢があります、江戸時代後期の作です、島崎藤村桜の実の熟する時にも登場します。

境内には明治二十年(1887)清水次郎長が建立した
咸臨丸乗組員殉難碑があります、明治元年(1868)榎本武彰に率いられて函館に向け品川を出港した咸臨丸は銚子沖で時化に遭い船体に損傷を受けてしまった。

急遽修理のため
清水湊に向ったが三保の松原沖で官軍の攻撃を受け完敗、旧幕臣の遺体は海に遺棄されてしまった。

浜に流れ着いた遺体は官軍の手前誰も手を出しませんでしたが、
清水次郎長は「仏様に官軍も賊軍もあるものか」と手厚く葬ったと云います。

これが縁で旧幕臣の
山岡鉄舟との親交が深まったと云います。
五百羅漢 咸臨丸殉難碑

 清見寺を後にすると右手に高山樗牛(ちょぎゅう)假寓之處標石があります。
明治三十年(1897)頃、文学者の樗牛は
労咳(肺結核)を患いここで静養しました、清見寺境内には高山樗牛清見寺鐘声文碑「文鐘の音はわがおもひを追うて幾度かひびきぬ」があります。

次いで街道左手に
坐漁荘があります、西園寺公望公晩年の別荘跡です、ここには歴代の総理や重臣の往来が激しく「西園寺詣で」「興津詣で」と云われました。

やがて街道は
波多打川に沿って進みます、川名は足利尊氏が薩捶山合戦の際、川辺に旗を打ち立てたところに由来しています。
高山樗牛假寓 坐漁荘 波多打川

 静清バイパス高架下を左折して
波多打川橋を渡り横砂東町に入ります、次いで突当りの小長井宅の前を右折します、京方面からはこの家が重要な分岐ポイントになります。

 JR東海道本線を横砂踏切で渡ると、旧道は延命地蔵尊の所で国道1号線に再び合流します、地蔵堂前には常夜燈があります。

堂内には大宝珠を両手に持つ
石造延命地蔵尊坐像が安置されています。

横砂自治館前交差点を越すと横砂本町に入り、右手に臨済宗妙心寺派医王山
東光寺があります。

本尊の
薬師如来(秘仏)は行基(668~749)作と伝わっています、格子戸の山門は勅使下向の際、興津川の渡しが川留となり、勅使がこの寺に宿泊することになり、急遽造られた門です。
横砂踏切 延命地蔵尊 東光寺の格子門

 庵原川手前の右(北)奥には中華料理の龍宮亭があります、白湯(パイタン)スープで冬瓜の入った夏野菜ラーメンは絶品です。

庵原川(いはら)を庵原川橋で渡ると、横砂横町に入ります。

清水次郎長(本名山本長五郎)は甲州紬の文吉と駿州和田島の太左衛門との喧嘩を庵原川にて仲裁、その侠名を一気に高めました。

袖師(そでし)交番を過ぎると左手に
名残の松があり、袖師町に入ると右手に延命地蔵を納めた祠があります。
庵原川 名残り松 馬頭観音

 
袖師交差点を越すと右手に
馬頭観音があります、台座には交通安全と刻まれています。

 愛染橋、次いで片側橋を渡り、西久保原交差点を越えると右手に津嶋神社があり、奥に松原観音堂があります。

スグ先の
辻町交差点を斜め右の旧道に入ります、この分岐ポイントに細井の松があります、往時はほそいの松原でした。

元禄十六年(1703)駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数百十戸、松原の全長は百九十九間二尺(約360m)、松の本数二百六本とあり、松原には
松原せんべいを商う茶屋がありました。

松原は戦時中、
松根油採取ため、伐採されました。
津嶋神社 松原観音堂 辻町分岐

 この分岐ポイントには無縁さんの碑があります、松並木伐採の際、多数の人骨が出土し、霊を慰める為に建碑されたものです。

ここからの道筋は落着いた
辻町商店街になっています。

信号交差点を越すと右に入る筋があります、
秋葉道入口です、秋葉山(寺)に通じる秋葉道です。

この入口には戦後まで
秋葉山五丁入と刻まれた石の道標がありました。

若杉金物店先の右路地の所が
辻の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて四十二里目です。
無縁さんの碑 秋葉道入口 高札場跡

 右手(西)の一里塚前に
高札場がありました。

 AM8:23 江尻宿着 府中宿まで11.8km

 信号交差点を渡ると、右角の居酒屋碓水の所に江尻宿東木戸跡標識があります、この付近の道筋は「く」の字に曲がり、外から宿内を見通すことが出来ないように工夫されています、江尻宿到着です!

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
江尻宿の宿内家数は千三百四十軒、うち本陣二、脇本陣三、旅籠五十軒で宿内人口は六千四百九十八人、宿並は十三町余りでした。

江尻の地名は入江の端(尻)に由来しています、江尻宿は巴川の河運、そして天然の良港清水湊は徳川幕府の湊として発展しました。
江尻宿東木戸跡 東海道五拾三次之内 【江尻】 三保遠望

 江尻東交差点を横断します、この交差点が江尻宿の起点です、左がJR東海道本線清水駅です。

この交差点を右に進み大手町交差点を左折すると
小柴八幡宮があります、永禄十二年(1569)武田信玄江尻城(小柴城)を築き、城内に鎮守として祀られました、慶長六年(1601)廃城となり、現在地に移転し江尻宿の産土神となりました。

宿並に戻ると
鍛冶町になります、江尻宿には二十七戸の鍛冶職があり、その大部分がここに集中していました。

宿並を進み清水江尻郵便局の手前右手に
江浄寺があります、境内には徳川家康の長男岡崎三郎信康の遺髪を納めた宝塔があります、今川一族の築山御前との間に信康は生まれました。
小柴八幡宮 岡崎信康宝塔

 しかし
信長より武田に通じているとの嫌疑を受け、家康はやむなく二人に死を命じ、築山御前は死罪、信康は遠州二俣城にて切腹して果てました、享年二十一歳でした。

 同じく境内に恋塚があります、寛永元年(1624)九州平戸松浦藩主松浦肥前守隆信の弟成清(しげきよ)はこの江浄寺の一室で切腹して果てました、享年二十五歳でした。

成清の許嫁
春姫は平戸にいました、兄の藩主が江戸を立った後、兄が春姫を側室にするとの噂を聞き、成清は禁を犯して江戸を出奔し、江尻宿で追いつきました、しかし幕府の手前、藩命で切腹となりました。

死後は「我が墓はこの寺に建てよ、それに願をかける者があれば、その想いをとげさせてやろう」と遺言しました、以降成清の墓は
縁結びの恋塚と呼ばれました。

清水江尻郵便局先の
十字路を右折すると江尻宿の中心街になります、本陣脇本陣旅籠が軒を連ねていました。
恋塚 右折ポイント

 魚町交差点を左折(白色矢印)します、ここを直進(黄色矢印)すると魚町稲荷神社があります、神社裏の清水江尻小学校が江尻城跡です、天正六年(1578)武田二十四将の城将穴山梅雪は城を大改築し、稲荷神社を祀りました、境内には明治天皇御東行御遺跡碑があります。

宿並を進み
巴川稚児橋で渡ります、橋四隅の親柱には河童の子のモニュメントが飾られています。

慶長十二年(1607)
家康の命により、巴川に橋が架けられ江尻橋と命名されました、渡り初めの日、かねて選ばれていた老夫婦がまさに橋に足をかけようとした瞬間、河童の子が現れ、さっさと渡ってしまったところから稚児橋と改名されました。
魚町交差点 魚町稲荷神社 稚児橋

 橋を渡ると左手に河童のこしかけ石があります、平成三年秋の台風により石垣が崩れ、修復工事を行った際、五つの石が掘り出され、河童伝説にちなみ河童のこしかけ石と呼ばれるようになりました。

これらの石は
駿府城築城の際、伊豆から運ばれたで、巴川に落してしまったものです。

右手が
船高札場跡です、正徳元年(1711)に設置されました。

突当りのY字路を右(白色矢印)に進みます、左(黄色矢印)は
久能道です、家康が当初埋葬された久能山への道筋です。
河童のこしかけ石 船高札場跡 Y字路分岐

 左手の浄土宗法岩寺には朝顔日記深雪之墓があります。

日向国(宮崎県)財部藩主
秋月長門守種長の娘で、四代目清水船手奉行となった旗本の夫人となり、寛永十八年(1642)に没し葬られたが、その数奇な運命が浄瑠璃朝顔日記深雪のモデルになりました。

秋月家の娘
深雪が恋人の宮城阿曽次郎を慕って家出し、盲目の門付芸人朝顔となり、恋人の残した歌をうたいながら流浪する哀話です。

右手の臨済宗
東明院山門は武田信玄が築城した江尻城(小柴城)の裏門でした、慶長六年(1601)廃城となり、東明院に下賜されました。

しかし現在の
山門はその後災禍に遭い焼失し、天保二年(1831)に復元されたものです、門扉の金具は往時のものです。
朝顔日記深雪墓 東明院山門

 次いで右手に臨済宗妙心寺派樹林山慈雲禅寺があります、境内にはいも和尚と呼ばれた長泉智牛和尚の墓があります。

宝永四年(1707)の
震災でことごとく焼失し、宝暦年間(1751~63)長泉智牛和尚によって再興されました。

長泉智牛和尚は豊後国(大分県)に生まれ、白隠禅師に師事した高僧です、当時やせ地に悩む三保の農民を救う為、遠く九州からサツマイモの苗を取り寄せ栽培を奨励したところ、たちまち三保全土に広がりました。

宿並に戻ると右手に
江尻宿木戸跡標石があります、江尻宿の京口(西口)です。
長泉智牛和尚之墓 江尻宿西木戸跡 木戸跡標石

 信号交差点を二ケ所越すと左手に道標を兼ねた題目碑があります、谷口法悦が全国に建立した題目碑の一つです。

是より志三づ道と刻まれています、清水湊への追分道標です。

道標脇には元禄八年(1695)創業の老舗
追分羊羹があります、竹の皮包 みのむし羊羹(ようかん)です。

先に進むと右手に
延寿院不動堂があります、南無不動明王を安置しています、室町時代末期の優美な建築様式を保つ方三間堂です。
道標&追分羊羹 延寿院不動堂 都田一家供養塔

 街道に戻ると左手に
都田一家諸精霊供養塔があります、文久元年(1861)正月十五日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討ちました。

吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立したものです。

 大澤川金谷橋で渡ります、往時金谷橋は土橋でした、重い荷を運ぶ牛馬は橋横の土手を下り渡川して、土手を上がり街道に再び合流しました、これを牛道と云いました。

スグ先の信号交差点を右折した先の右に
姥ケ池があります、小さな鳥居そして弁財天があります。

延暦年間(782~805)
金谷長者男児が生まれたが、咳の病にかかり、が身代わりとなって池に入水すると、男児は回復したと云います。

街道に戻り、JR東海道本線を
追分踏切で横断します、追分から平川地に入ります。
大澤川 姥ケ池 追分踏切

 先に変則Y字路があります、左が久能寺観音道です、この分岐点には安永七年(1778)建立の久能寺観音道道標があります。

久能寺は維新を迎えると廃寺になりましたが、明治十六年(1883)山岡鉄舟が再興し、鉄舟寺と改称しました。

上原堤を回り込むと左手に
上原子安地蔵堂があります、 上原延命子安地蔵尊が安置されています、天正十年(1582)二月徳川家康はこの地蔵堂で武田の宿将江尻城主穴山梅雪と会見、結果梅雪は家康の軍門に下り、武田家滅亡のきっかけとなりました、戦わずして勝つ、調略の妙ですね。
久能寺観音道 上原延命子安地蔵 千手寺

 スグ先の左手に
千手寺があります、この南辺りに上原鎮守十七夜宮がありました。

古来、
上原産土神として、土地を守り、上原に住む人々のあらゆる難を取り除き、家庭の幸福を守る神として村人の信仰を集めてきました。

 旧道は岩上歯科の所で、県道407号静岡草薙清水線に合流します、京方面からは重要な分岐ポイイトです。

右手の清水銀行草薙支店の前に
草薙一里塚碑があります、江戸日本橋より数えて四十三里目です、塚の脇には高札場がありました。

草薙川を柳橋で渡ると左手に
草薙神社大鳥居があります。
傍らに元禄十二年(1699)建立の道標があります
従是草薙大明神江有道と刻まれています。
有戸分岐点 草薙の一里塚跡 草薙神社道標 草薙神社大鳥居

 草薙神社の祭神は
日本武尊です、武尊がこの地で賊に襲われ、野火を放たれました、武尊は剣でいで逃れました、今でも社の辺りの土は黒いと云います。

 草薙神社大鳥居先の草薙駅前交差点を左折します。

一本目を右折します、
消火栓が分岐ポイントです。

中之郷旧道に入ると瀧歯科医院向いの民家の軒下に
龍勢煙火(りゅうせいえんか)が収納されています、草薙神社例大祭(九月二十日)に打ち上げられるロケット式の龍勢花火です。

静岡市消防団清水第13分団中之郷先の左手に
常夜燈があります。
草薙駅前交差点 中之郷旧道東口 龍勢煙火 中之郷常夜燈

 常夜燈の脇にここは
古道東海道の標識があります、中之郷村から谷田村に入ります。

 信号交差点を越すと左手に曹洞宗東光寺があります、参道口には葦葉達磨(あしはだるま)があたりを睥睨しています。

東橋を渡ると国吉田に入り、次いで東名高速道路をくぐります。

旧道はT字路に突当ります、ここを右折します、この右折ポイントは正面の
パークフロントマンションです。

県道407号南幹線を横断し、
静鉄清水線踏切手前を左折します、左手に静岡栗原郵便局が現れたら正解です。
東光寺達磨 東名高速高架 パークフロント 栗原分岐点

 旧道は変則T字路に突き当たります、ここには旧東海道記念碑があります。

この先は鉄道敷設で旧道は消滅しています、碑の前を右折して
迂回路に入ります。

北村地下道で鉄道下をくぐります、車も通行しますのでお気を付け下さい。

地下道を抜けたら
階段を上り地上に出ます。
京方面からは
静鉄清水線高架をくぐったら右の地下道への階段を下ります。
旧道消滅点 旧東海道碑 栗原迂回路 迂回路出口

 静鉄清水線高架をくぐった先を、斜め右に進みます、ここが鉄道敷設で消滅してしまった旧道の復活ポイントです。

後久川後久橋で渡り、先の古庄交差点で旧道は国道1号線に合流します。

古庄交差点の左手に
兎餅(うさぎもち)跡地標識があります、追分羊羹安倍川餅と並び駿河三大名物の一つで、太田南畝も「耳長ふ 聞き伝へきし 兎餅 月もよいから あがれ名物」と詠んでいます。

長沼交差点から斜め右に入る筋が旧道です、しかし十字路を右に進むと左手に
菩提樹院があります。
旧道復帰点 兎餅跡地 由比正雪首塚

 境内には由比正雪首塚があります、徳川幕府の悪政を改革せんと
幕府転覆を図るも、露見し縛吏に包囲され自刃して果てました。

首は安倍川河畔に晒されましたが、縁者の女人が密かに盗み去り、ここに葬ったといいます。


 旧道に戻ると右手に曹洞宗久應院があります、山門の脇には地蔵や寛政十二年(1800)建立の庚申塔が安置されています。

左の長沼公民館手前に
長沼一里塚趾標石があります、長沼の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて四十四里目です。

やがて静鉄清水鉄道に沿って進み、護国神社第2踏切を越すと明治三十二年(1899)創建の
静岡縣護国神社があります。
久應院 長沼の一里塚跡 一里塚趾石 静岡縣護国神社

 明治維新以来
国事に倒れた静岡県出身者を祀っています。

 護国神社入口交差点で国道1号線に合流し、右に進みます。

以前は交差点の延長線上に
旧道を残していましたが、マークイズ静岡の建設で消滅しました。

葵区柚木歩道橋の左に進み東海道新幹線、東海道本線下をくぐり、左の階段を上って右に進みます。

宝蔵寺寺標に従って参道を入ると右に
軍神社があります、砲弾が奉納されています。
護国神社入口 曲金迂回路出口 軍神社 千日地蔵尊

 突当りの法蔵寺の境内に
千日地蔵尊があります、延宝四年(1676)この地一帯に悪病が流行り、多くの人々を苦しめました。

信仰篤き村の者が自ら
生き仏となると、蔓延した疫病が平癒しました、村人達は菩提を弔うため、地蔵を安置し、千日参詣の願をかけました。

 先にY字路が二ケ所現れます、いずれのY字路もに進みます。

二つ目のY字路手前に
曲金観音があります、この辺りは鎌倉幕府を追われた梶原景時一族と地元武士団との古戦場跡です、梶原勢は乱戦の末戦運あらず全員討死してしまいました。

これらの戦死者供養の為に、
十一面観世音菩薩を勧請したものです。

山本サイクルの先で街道は
横田架道橋に入ります、本日三度目のJR線くぐりです、春日一丁目交差点を歩道橋で横断し伝馬町通りに入ります。
曲金観音 横田架道橋 春日一丁目交差点

 AM11:27 府中宿着 丸子宿まで4.2km

 伝馬町通りを進むと右手横田町三区公民館のところに延命地蔵尊が安置されています。

延命地蔵尊の前に
下横田町標石があります、ここが府中宿江戸口(東口)です、元禄五年(1692)道を挟んで両側に枡形の石垣が築かれました。

府中宿到着です!

いにしえ駿河国の
国府が置かれ政治の中心地であったところから駿府あるいは府中と呼ばれ、江戸時代以降は宿場の呼称として府中宿となりました。

天正十年(1582)家康はこの地を領し、
駿府城を築き、慶長十年(1605)将軍職を秀忠に譲り、この城に入り大御所政治を展開しました、これにより府中宿は城下町として駿遠最大の宿場になりました。
延命地蔵尊 下横田町

 天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
府中宿の宿内家数は三千六百七十三軒、うち本陣二、脇本陣二、旅籠四十三軒で宿内人口は一万四千七十一人、宿場機能は伝馬町に集中していました。

 横田町東交差点を越すと右側グリーン&デリカそねの前に猿屋町標識があります、猿廻しが住む町でした。 

馬の守護神で、を回り馬の病災除けの舞を披露しました。

次いで右手に
西宮神社があります、商売繁盛の恵比寿を祀っています。

つつじ通りを横断すると右手に
鋳物師町(いもじちょう)標石があります、江戸時代の初めに鋳物師が住んでいたことに由来します。
猿屋町標石 西宮神社 鋳物師町標石 久能山東照宮道

 つつじ通りを越えて左側一本目の角に
久能山東照宮道碑があります、神君家康を祀る久能山東照宮への追分です、参勤の諸大名はこぞって参詣しました。

 右側一本目を右に入ると浄土宗華陽院があります、元来智源院と呼ばれ、松平竹千代(家康の幼名)が今川氏の人質時代に勉学に通った寺として知られています。

この竹千代の養育にあたった外祖母
源応尼(家康の生母お大の方の母)の法名に因み華陽院と改めました。

境内には
源応尼の墓があります、墓石の後ろのミカンの木は家康の御手植えと云います。

並びに家康の五女
市姫の墓があります。

宿並に戻り先に進むと
花陽院門前町(けよういんもんぜんまち)から伝馬町に入ります。
源応尼の墓 市姫の墓 下伝馬本陣跡

 宿並の左手SELECT SHOP3の前に
下伝馬本陣脇本陣跡碑があります、下本陣は小倉家、脇本陣は平尾家が勤めました。

 伝馬町には本陣、脇本陣、問屋場、荷物貫目改め所そして旅籠が軒を連ねていました。

宿並の右手眼鏡市場の前に
上伝馬本陣脇本陣跡碑があります、上本陣は望月家、脇本陣は松崎家が勤めました。

次いで右手ペガサート前に
西郷山岡会見之史跡碑があります、慶応四年(1868)三月九日望嶽亭を脱出した山岡鉄舟は清水次郎長の手引きで、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で東征軍参謀西郷隆盛と会見しました。

この会見において将軍
徳川慶喜の処遇、江戸城の明け渡し等の根回しが行われました。
五日後の江戸三田の
薩摩藩邸で行われた勝海舟西郷の会談で最終的に決定され、江戸城無血開城が実現しました。
上伝馬本陣跡 西郷山岡会見碑

 宿並は江川町交差点の五差路に突き当たります、この交差点は江川町地下道で左折し江川町通りに出ます。

呉服町交差点を右折し呉服町通りを進みます、一本目の玄南通りを右折して直進すると駿府城に出ます。

武田氏が滅ぶと、三河の徳川家康がこの地を領し、駿府城を築城し、天正十四年(1589)浜松城からここに居城を移しました。

秀吉の世になると関八州に移封となり、江戸城に移りました、関ケ原の合戦に勝利し、ついに天下を掌握し征夷代将軍となりました。

その後、将軍職を
秀忠に譲り、駿府城は天下普請として拡張修築され、慶長十二年(1607)家康は隠居城とし、大御所政治を展開しました。
江川町地下道 駿府城

 買い物客で賑わう呉服町通りに戻ります、時より店舗から漏れてくるエアコンの冷気が心地良いです。

伊勢丹前を左折し
七間町通りに入ります。

右手の伊勢丹前に
札之辻址標石があります、ここに高札場があり、札之辻町と呼ばれました、当時から商家が軒を連ね、賑わっていました。

七間町交差点を越え、二本目のサッカーショップ
GOALの所を右折し、人宿町に入ります。

この筋は
縦七間通りとも呼ばれ、木賃宿が多数あった旅籠町です。
七間町通り 札之辻址 人宿町分岐

 人宿町から梅屋町に入ります、討幕を企む由比正雪はここにあった梅屋に立て籠もり自刃して果てました。

七間町郵便局を過ぎ、
疋野商店の角を左折して新通に入ります。

信号交差点を越すと右手に創業宝暦三年(1753)
元祖わさび漬の老舗田尻屋総本舗があります。

二つ目の信号交差点手前左手のシャッターガレージの上に
秋葉神社が鎮座しています。
新通り分岐 元祖わさび漬 秋葉神社 府中の一里塚跡

 ここの十字路を右折して
本通りに出て左、お仏壇のやまきの並びに府中の一里塚跡標石があります。

当初、この
本通りが東海道筋で一里塚が築かれましたが、慶長十四年(1609)新通りに付け替えられましたが一里塚は築かれませんでした。

 宿並に戻り、静岡新通郵便局を過ぎると、左手に駿河伏見稲荷神社があります。

先に進みセレモニー会館石萬の角を左折し、二本目を右折すると左に
稲荷神社があります。

境内に
双街の碑があります、二丁の町という意味です。

駿府城築城の際、多くの者が集まり、それらの者達の労をねぎらう為に七町に遊郭が形成されました。

元和元年(1615)五町を江戸
吉原に移したところから、二丁町遊郭と呼ばれ、この二町の遊郭は昭和まで続きました。
駿河伏見稲荷神社 稲荷神社 双街の碑

 稲荷神社前から静岡県地震防災センターを左に回り込むと安倍川公園内にこの附近駿府キリシタン聖堂跡碑があります。

慶長十六年(1611)ここに
イエズス会聖堂が建てられました、その後家康はキリスト教の禁圧を決定し、翌年破壊されました。

街道に戻ると弥勒交番があります、ここが
安倍川の川会所跡です。

川役人が常駐し、川越し業務全般を監視していました。

交番裏の三角地が
弥勒緑地として公園になっています。
聖堂跡 川会所跡 安倍川架橋の碑

 園内には
安倍川架橋の碑があります、明治の世になると宮崎総五が私財を投うって安倍川に安水橋を架橋した顕彰碑です。

宮崎家は代々川
越総取締を勤め、川越人足の失業対策でもあったと云います。

 次いで由比正雪公之墓址碑があります、慶安四年(1651)幕府転覆を企てた正雪は宿内梅屋町の旅籠梅屋で捕吏に囲まれ自刃しました。

更に
明治天皇御小休所跡碑があります。

緑地の先に創業文化元年(1804)
安部川もちせきべやがあります。

家康に
きな粉をまぶした餅を「金な粉餅」と称して出したところ、縁起が良いと喜び安部川餅と名付けました。
正雪之墓址碑 明治天皇碑 せきべや 安部川義夫之碑

 石部屋さんの隣に
安部川義夫之碑があります、勝手に渡河した旅人が落とした金百五十両の入った財布を川越人足が拾い、宇津ノ谷峠まで追いかけ手渡しました。

旅人は礼金を差し出したが人足は受け取らず、町奉行所は礼金の代わりに
褒美を取らしたと云います。

 今は安倍川安倍川橋で渡ります、安倍川は甲斐と駿河の境にある大谷嶺、八紘嶺、安倍峠に源を発し、流末は駿河灘に注いでいます。

広重は
賤機山(しずはたやま)を背景に安倍川の川越風景を描いています。

川越え賃は脇下から乳通りまでは六十四文、へそ上は五十五文、へそまでは四十八文、へそ下は四十六文、股までは二十八文、股下は十八文、膝下は十六文でした。

※一文は現在で10円相当です。
安倍川橋 東海道五拾三次之内 【府中】 安倍川 広重画

 維新後、
府中不忠に通じると、賎機山(しずはたやま)に因み静岡と改名されました。

 安倍川橋を渡ると旧手越村に入ります、左手に臨済宗妙心寺派の高林寺があります、駿河御城代や町奉行所の武運長久の祈願寺でした地元ではごりょうさんと呼ばれ親しまれています。

山門前に
元祖手越名灸所と刻まれた石柱が立っています、承応二年(1653)頃より灸は病気治療として広く知られていました。

駿河区手越歩道橋下をくぐり、手越原交差点で左からの国道1号線に合流します、京方面からは斜め左に入ります。

市立長田西中学校を過ぎ、駿河区佐渡歩道橋下をくぐり、佐渡交差点から斜め左に入ります、京方面からは国道1号線に合流します。

右手に
地蔵堂があります、子授地蔵尊が安置されています。
高林寺 地蔵堂

 子に恵まれない夫婦は
お地蔵さんを借りて帰り、信仰すれば子供が授かると云います。

めでたく子供が授かった者は新しい
お地蔵さんを造って返します。

 PM 12:50 丸子宿着 岡部宿まで10.0km

 地蔵堂向いの佐渡公民館の敷地にさわたりの手児万葉歌碑があります。

万葉集の東歌の中に地名のさわたりがあり、、これを記念して建碑されたものです。

街道筋には数本の
が残されています、佐渡から丸子宿の間には松並木がありました。

江戸方面からはY字路が現れます、左に進みます、この分岐ポイントには
ようこそ丸子路へ標識があります。

スグ先の右側の歩道に
一りづかあと標石があります、丸子の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて四十六里目。
万葉歌碑 名残り松 一里塚跡

 街道が左にゆるくカーブしている所が枡形跡です、この枡形が丸子宿江戸方見付跡です、丸子宿の東口に到着です。

丸子宿は文治五年(1189)奥州平定に功があった
手越平太郎家継源頼朝より丸子一帯が与えられ宿駅を設けたのが始まりです。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
丸子宿の宿内家数は二百十一軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠二十四軒で、宿内人口は七百九十五人(男三百六十六人、女四百二十九人)でした。

丸子宿は小宿でしたが、安倍川の川越しの権利が与えられ、
川留になると大いに賑わったと云います。

宿内に入ると左手の段上に
水神社が祀られています、丸子川が迫っています。
東見付跡 水神社

 次いで左手の段上に祠があります、中に馬頭観音像が三体安置されています。

先の左手に
酒林を吊り下げたしらい酒店があります、純米吟醸酒鞠子の宿の蔵元です。

宿並を進むと左手に
明治天皇御小休所趾碑があります、脇本陣跡です。

向いが
問屋場跡です、百人の人足と百疋の馬を常備していました。
馬頭観音 銘酒「鞠子の宿」 脇本陣跡 問屋場跡

 並びに史跡丸子宿本陣跡碑があります、横田本陣跡で建坪二百八十坪でした。

次いで右手に
明治天皇御小休所趾碑があります、藤波脇本陣跡です。

入山輝茶店先の右手に
お七里役所碑があります。
紀州
徳川頼宣が江戸屋敷と領国との間、百四十六里に七里間隔の宿場二十三ケ所に中継ぎの紀州お七里役所を設け、五人一組の飛脚を配置した。

徳川頼宣は
家康の第十子であったが、家康が亡くなると疎まれ駿府を追われ紀州に国替えとなりました、その為幕府の動向をいち早く知る通信網の確保が必要でした。
本陣跡 脇本陣跡 お七里役所跡

 宿並がゆるく右にカーブすると名物とろろ汁丁子屋があります、創業慶長元年(1596)の老舗です。

広重も
名物茶屋として丁子屋を描いています。

絵の中では
弥次さん喜多さんがとろろ汁をすすっています。

現在も絵と同じ茅葺きの建物があります、良いですね!

それでは寄ってみましょう。
東海道五拾三次之内 【丸子】 名物茶屋 丁子屋

 店内は座敷になっています、食卓が等間隔に並べてあります。

定番の
とろろ汁定食をオーダーしました、とろろ汁、麦飯、味噌汁、香物、薬味のセットです。
やはり噂に違わずうまい!するする喉を通過して行きます!!お奨めです!!!

敷地内には様々な碑や史跡があります。

芭蕉句碑
「梅わかな 鞠子の宿の とろろ汁」

十辺舎一九碑「けんかする 夫婦は口を とがらせて 鳶とろろに すべりこそすれ」
とろろ汁定食 芭蕉句碑 十辺舎一九碑

 東海道中膝栗毛の中で弥次さん、喜多さんも立ち寄りましたが、茶屋の夫婦喧嘩に遭遇し食べ損なっています。

辰石と呼ばれる駿河城普請の石垣石があります、運搬中に丸子川に落したものです。

岡本太郎の母親
岡本かな子碑があります、著書東海道五十三次の中の「とろろ汁を賞味する」一節が刻まれています。

 丸子橋の袂に細川幽斎歌碑「人数には たれをするかの 丸子川 けわたす波は 音ばかりして」があります。

天正十八年(1596)細川幽斎が
豊臣秀吉の小田原征伐の先陣として、丸子川を勇躍渡る様を詠ったものです。

江戸方面からは丸子川を丸子橋で渡ります、京方面からは丸子橋を渡り、突当りを右折します。

丸子橋の渡り詰めが丸子宿の
京口見付跡です。

そしてここが
高札場跡です。
細川幽斎歌碑 丸子橋 見付高札場跡

 丸子橋を渡ると元宿になります、中世の宿駅が置かれた地です。

丸子川沿いの街道脇には
先達碑が祀られています。

左に分け入る舗装路の分岐点には
元宿山大日如来登口標識と五輪塔風の小さな石塔があります。

大日如来は元宿山の中腹に祀られています。

正面に国道1号線が迫ってくると、右手の
二軒屋公民館の隣りに観音堂があります、境内には庚申塔が祀られています。
先達碑 大日如来登口 観音堂

 江戸方面からは
二軒屋交差点から国道1号線の歩道を進みます、京方面からは二軒屋交差点から斜め右の旧道に入ります。

江戸方面からは
赤目ケ谷交差点を越え、スグ先左のスロープを下り、下道に合流します、スロープ口には起樹天満宮標識があります、京方面からは起樹天満宮標識横のスロープを上り、国道1号線の歩道に合流します。

 旧道に復帰すると国道1号線の喧騒から解き放たれます。

街道脇には「
日本の紅茶発祥の地丸子紅茶」標識があります。

左手に臨済宗長源寺があり、奥に
起樹天満宮があります。

菅原道真に因み神域に紅梅が多く、これが地名の赤目ケ谷の由来になっています。

境内に
多田元吉翁碑があります、幕臣であった元吉は明治九年(1876)政府からインドに派遣され、紅茶の製造技術を持ち帰り、紅茶の普及に貢献しました。

従って、当地は
日本の紅茶発祥の地なのです。
丸子紅茶 多田元吉翁碑

 コンビニの裏を通過すると、名残りの松が聳えています。

先の
赤目ケ谷おはやし歩道橋赤目ケ谷中交差点(国道1号線)を横断し、そのまま丸元工業の観音像下の旧道に入ります。

京方面からは
横断歩道を渡り、左折します。

丸子川沿いに進み、近藤鋼材前を過ぎると国道1号線の歩道に合流します。

京方面からは
丸子川沿いの斜め左の旧道に入ります。
名残り松 赤目ケ谷中旧道 赤目ケ谷西旧道

 江戸方面からは国道1号線の
歩道をしばらく歩きます。

歩道橋を越えて
赤目ケ谷西交差点から斜め右の旧道に入ります、京方面からは国道1号線の歩道に合流します。

 江戸方面からはJOMOの裏を通り、城北運輸先で再び国道1号線の歩道に合流します。

これで旧道二ケ所のトレース終了です、これらの旧道は国道1号線の敷設で取り残された
旧道痕跡です。

国道1号線の
歩道を進むと4階建の介護老人保健施設かりんがあります、京方面からのチェックポイントです、先を斜め左に入ります。

逆川交差点の横を過ぎると宇津ノ谷峠道の駅が現れます、休憩しましょう。

国道1号線は正面の宇津ノ谷トンネルに入りますが、旧道は
宇津ノ谷歩道橋脇の所で道なりに右折します、宇津ノ谷峠口です。
赤目ケ谷西旧道口 宇津ノ谷峠入 口

 突当りのY字路は左に進みます、この分岐ポイントにはようこそ宇津ノ谷案内板があります。

村中橋を渡ると家々に旧屋号を掲げた
宇津ノ谷集落に入ります。

お羽織屋の手前を右に入ると、曹洞宗宇津山
慶龍寺があります、十団子で知られ、境内には芭蕉の弟子である許六の句碑「十団子も小粒になりぬ秋の風」があります。

人を喰う鬼を
地蔵菩薩が旅僧に化け、一つのに封じ込め、これを十に砕いて飲み込んでしまった、以来十団子は道中守護の魔除けとなった。
宇津ノ谷峠分岐 宇津ノ谷集落 慶龍寺

 集落に戻るとお羽織屋(石川家)があります、敷地内には明治天皇御小休所碑があります。

天正十八年(1590)小田原征伐に向う
秀吉が当家に寄り、馬の沓(わらじ)を所望すると、主は三足を渡した、秀吉が後の一足は如何したかと問うと、主はお帰りの際に渡すと答えました。

これは凱旋を意味すると秀吉は大いに喜び帰路に
羽織を与えたと云います。

後に
家康も当家に立ち寄り羽織を拝見し、茶碗を与えています。

こうなると堪りません、参勤の
諸大名は当家に立ち寄り、両品を拝謁し、種々の品々を置いて行きました、これらが所狭しと展示されています。
明治天皇碑 お羽織屋

 お羽織屋さんの先から石段スロープ道の登り坂になります。

T字路に突当たります、ここを左折し逆S字状に進みます。

再度
T字路に突き当たります、標識に従い右折します。

少し進むと
旧東海道のぼり口国指定史跡東海道宇津の谷峠越え標識があります。

土道に入ります、サア
峠越えです。
石段スロープ道 宇津ノ谷峠アプロ-チ 宇津ノ谷峠登り口

 宇津ノ谷峠の街道は天正十七年(1589)秀吉の小田原征伐の際に、大軍を通す為に開削された新道です、それ以前は蔦の細道でした。

峠道は昼なお暗く、
歌舞伎蔦紅葉宇都谷峠文弥殺しの場面に登場します。

盲目の
文弥は姉が吉原へ身売して、作った百両を懐に入れ、座頭の官位を得るため京に向う、丸子で同宿となった十兵衛に誘い出され、宇津ノ谷峠で殺され、金を奪われてしまった。

峠道に入ると嘉永五年(1852)と大正五年(1916)建立の
馬頭観音像が祀られています。
東海道五拾三次之内 【岡部】 宇津之山 馬頭観音

 お弘法さんが祀られています、花が供えられ大事にされています。

展望台からは宇津ノ谷集落が一望です、
間の宿でした。

雁山の墓があります、俳人雁山(がんざん)は甲斐の山口素道の弟子でした、ある時旅に出たが音信不通になった為、ここに墓碑が建てられたが、八十二歳まで存命でした。

峠道を更に登ると、
地蔵堂建立の為に、造成された石垣があります。
お弘法さん 宇津ノ谷集落 雁山墓 地蔵堂跡の石垣

 峠の地蔵堂跡があります、礎石や供養塔法界碑を残しています。

峠を往来する旅人の道中安全を見守っていました、この地蔵尊は
慶龍寺に保存されています。

蔦紅葉の
文弥はこの地蔵堂の前で殺される設定になっています。

峠頂上に到着です、さしたる峠ではありませんが、雰囲気は満点です。

峠道を下ると石段になります。
地蔵堂跡 宇津ノ谷峠頂上 合流ポイント 分岐ポイント

 石段は
舗装路に合流し、更に下ります、京方面からは左の石段に入ります。

先で
旧東海道標識に従い、左の土道に入ります、京方面からは突当りの舗装路を右折します。

 峠道の髭題目碑があります、天保六年(1835)建立で南無妙法蓮華経と刻まれています。

次いで
蘿経記碑跡標石があります、蔦の細道を記録したがここにありましたが、坂下地蔵境内にに移設されています。

陰鬱であった峠道は次第に明るく快適な峠道になってきました。

やがて
舗装路に合流します、ここが宇津ノ谷峠京口です。
髭題目碑 蘿経記碑跡 峠道 宇津ノ谷峠京口

 京方面からは斜め左の土道に入ります。

尚、直進する道筋は
つたの細道です、宇津ノ谷峠道開削前の東海道です。

 わずかに進むと延命地蔵尊を祀る坂下地蔵堂があります、宇津ノ谷峠を往来する旅人の道中安全を見守っています。

別名
鼻取地蔵とも呼ばれています、微動だにしないを子供に化身した地蔵が牛の鼻を取って動かしたと云います。

境内には
蘿経記(らけいき)があります、峠道にありましたが、ここに移設されています。

蘿経とは蔦の細道のことです、文政十三年(1830)駿府代官羽倉外記蔦の細道を長く記憶に留める為に建碑したものです。
坂下地蔵堂 蘿経記碑 廻沢口分岐ポイント

 坂下地蔵堂先からは国道1号線の
側道を進みます、つたの細道標石があります。

次いで国道1号線の
歩道に合流します、しばらく歩き廻沢口跨道橋廻沢口交差点(国道1号線)を横断し、向いの旧道に入ります、旧道口には大旅籠柏屋歴史資料館案内標柱があります。

落着いた佇まいの横添の旧道を進みます。

先で
県道208号線に合流します、この合流ポイントにはCOSMOがありましたが廃業しています、今は大旅籠柏屋歴史資料館案内標柱があります、京方面からの重要な分岐ポイントです。

少し進むと段丘上に
十石(じゅっこく)坂観音堂があります、観音堂の中にはニ基の厨子が安置されています。

境内に
河野孫園碑文があります、駿府町奉行服部久工門貞勝駿府地誌の編纂を行った際に、 岡部の属する益頭郡を担当した顕彰碑です。
岡部台の合流ポイント 十石坂観音堂 河野孫園碑文

 PM 3:50 岡部宿着 藤枝宿まで8.7km

 先の横断歩道標識の所に小さな枡形跡標石があります。

ここには
木戸番小屋があり、木戸番が木戸門を明六ツに開け、暮六ツに閉じました、岡部宿の江戸口(東口)です、岡部宿到着です!

岡部宿は小宿でしたが、難所
宇津ノ谷峠を控えると共に、西に大井川、東に安倍川があり、一旦川留になると、旅人で賑わったと云います。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると岡部宿の宿内家数は四百八十七軒、うち本陣二、脇本陣二、旅籠二十七軒で宿内人口は二千三百二十二人(男千百五十七人、女千百六十五人)でした。

枡形跡の先に注連縄が掛かる
小祠が祀られています、傍らには山燈籠風の御神燈があります。
枡形跡 小 祠

 廃業となったGSシェル先のY字路を斜め右に下り旧道に入ります、この分岐ポイントには旧東海道標識があります。

旧道に入ると右手の小山の中腹に
西住墓、頂に笠懸松があります。

西行の弟子であった西住は暴力を振い破門となっが、西行を慕ってここまで来た西住はの所で病に倒れ、に辞世をしたため、笠を松に懸けて亡くなりました。

東国からの帰途、岡部に着いた
西行は、この笠を見て、深く嘆き悲しんだと云う。
岡部旧道東口 西住法師墓 笠懸松

 突当りを左折し、岡部川岡部橋で渡ると右手に浄土宗専称寺があります、鎌倉前期作の不動尊立像と享保十一年(1726)造立の西行座像を安置しています。

又、当寺は旅人に据える
岡部一ト火(ひとひ)でも知られています。

先で旧道は県道208号線に再び合流します、ここにも旧東海道標識があります、京方面からの分岐ポイントです。

スグ先の左に
大旅籠柏屋があります、天保七年(1836)の再建で、歴史資料館になっています。
専称寺 岡部旧道西口 大旅籠柏屋

 
柏屋(かしばや)山内家は問屋、年寄、宿役人を勤め、質屋を兼業しました。

柏屋の向いが
仁藤本陣跡ですが、標識等はありません。

 大旅籠柏屋の隣りで岡部北交差点の所が内野本陣跡です、 十四代将軍家茂明治天皇も休息しました。

岡部宿公園となり小さな岡部宿本陣址碑がありましたが、今は表御門が復元されています。

先の左に
問屋場跡石標があります、本町内谷の二ケ所にありました。

宿並には
初亀醸造があります、創業寛永十二年(1636)、銘酒初亀の蔵元です。
内野本陣跡 問屋場跡 初亀醸造

初亀醸造先を斜め左に入ります、分岐ポイントには火の見ヤグラ岡部宿道標があります。

スグ先に小さな流れに可愛い
姿見の橋が架かっています、傍らに小野小町の姿見の橋標石があります。

絶世の美人であった小野小町は晩年旅の途中、この川に姿を映し、老いの身を嘆き悲しんだと云います、ある意味は残酷ですね。

先を左の路地に入ると突当りの段上に
佐護神社が鎮座しています、おしゃもっつぁんと呼ばれる農耕の神、安産の神です。
内谷旧道東口 姿見の橋 佐護神社

 先右の非常番の札を吊るすお宅の脇に
高札場跡標石があります。

先左の路地を入ると突当りに日蓮宗
正應院があります。

開基は大正七年(1918)と近世の創建ですが、山門、境内、本堂、多宝塔等何れも重厚なものです。

宿並は県道208号線に接近しますが、道なりに進みます。

宿並には趣を残す
旧家を残しています。
高札場跡 正應院 ゴン中山の生家

 左手にはプロのサッカー選手であった
ゴン中山選手の生家があります。

 左手奥に曹洞宗光泰寺があります、木喰上人(木喰五行菩薩)作の正徳太子像准胝(じゅんてい)観世音菩薩像を安置しています。

寛政十二年(1800)
上人は岡部に滞在し、二体の像を彫り上げました。

小林製畳店の向いに
問屋場跡標石があります、加宿内谷の問屋場跡です。

旧道は長嶋酒店の
山燈籠の所でT字路に突き当たります。

岡部支所前交差点をクランク状に進みます。
光泰寺 問屋場跡 内谷旧道西口

 枡形内の「文具の寒玉堂」前に枡形跡標石があります。

枡形を後にすると右手に冠木門の
五智如来公園があります、公園は廃寺となった誓願寺跡です。

園内の奥には
五智如来が安置されています。

田中城主の姫君は口が不自由であった、誓願寺の
阿弥陀に願を掛け、一心に祈ると満願の日に治癒したと云います、今も篤く信仰されています。

県道81号焼津森線を進むと、
岡部の松並木が現れます。
枡形跡標石 五智如来 岡部の松並木

 国道1号線藤枝バイパス高架の手前にこれより東海道岡部宿碑と山燈籠があります、岡部宿の京口です。

加宿内谷を含めた宿並の岡部宿もここでお別れです。

バイパスの
横内高架橋をくぐり、斜め右に分岐し、横内村に入ります。

うなぎやの向いに「従是岩村領横内」と書かれた
岩村藩領傍示杭が復元されています。

享和二十年(1735)より美濃國
岩村藩松平能登守三万石の領地となりました、横内村は駿河國に数カ所あった飛地の内のひとつでした。
岡部宿京口 内谷新田分岐 復元傍示杭

 村内を進むと慈眼寺の白壁に沿う横道に油街途(あぶらがいと)標柱があります、小字(小路)名です。

更に
旧横内公会堂跡標柱もあります。

曹洞宗
慈眼寺の境内には宝暦十一年(1761)造立の代官地蔵尊があります、岩村藩横内陣屋三代目名代官田中清太夫の徳を慕って祀られたものです。

とつか酒店脇に
高札場跡標柱と西村小路標柱があります、代官屋敷に通じる小路でした。

舟艦札の木札を掲げる住宅の脇に岩村藩横内陣屋入口標柱があります、駿河領十五ケ村を支配する陣屋でした。
代官地蔵尊 高札場跡 陣屋口

 享保二十年(1735)美濃國岩村藩二代藩主
松平乗賢(のりかた)が幕府の老中になると、駿河に五千石の領地を
拝領しました。

以来、百三十五年間、十四人の代官が支配しましたが、
年貢率を他藩より低く押さえた仁政を行いました。

 横内縄手と呼ばれる真っ直ぐな街道を進むと横内橋の袂に辿り着きます。

右手の広場に
横内あげんだいがあります、高さ5m程の松明の様なものです。

毎年八月十六日朝比奈川の河原で行われる
精霊送り送り火の行事です、松明を投げて入れて火付けの速さを競うものです。

朝比奈川横内橋で渡ります。

横内橋は長さ三十二間、幅三間の板橋で幕府が掛け替えを行う
公儀橋でした。
横内あげんだい 横内川 朝比奈川

 横内橋を渡ると橋向に入ります、土手の右には橋向地蔵尊が祠の中に安置されています、川除地蔵子授地蔵です。

土手の左にも
地蔵尊が祠内に安置されています、水難者を供養したもでしょう。

県道81号焼津森線を進むと歩道橋手前の左に
傍示杭「従是東巌村領横内」が復元されています。

仮宿交差点ふれあい横断歩道橋で横断します、正面のY字路を左に進みます、名残りの松が目印です。
橋向地蔵尊 岩村領傍示杭 名残りの松 田中領傍示石

 京方面からは
歩道橋を渡り、Y字路を左に進みます、やはり名残りの松が目印です。

名残りの松の脇に
傍示石「従是西田中領」があります、岩村藩領との境です。

 旧道はシルエット自動車販売前にある197kmポストの所で一旦国道1号線に合流し、スグ先広幡交番の所から斜め左の旧道に再び入ります。

旧道には
名残り松があり、左の共同住宅前に史跡鬼島一里塚跡標柱があります、江戸日本橋より数えて四十九里目です。

旧道が右に大きくカーブすると、左手の葉梨川の土手上に
地蔵尊が祠内に安置されています、川除地蔵でしょう。

葉梨川八幡橋で渡ります。
分岐点 一里塚跡 地蔵尊 八幡橋分岐

 街道は八幡橋の渡詰を右折します(白矢印)、正面の道筋(黄色矢印)は田中城に向かう
御成道です。

元和二年(1616)一月
家康は鷹狩の帰路に田中城に立ち寄り、ここで興津鯛のテンプラを食べ過ぎて体調を崩し四月、駿府城で亡くなりました、享年七十五歳でした。

※ 駿河湾で獲れる甘鯛は
興津鯛と呼ばれる、桜エビを餌にしている為、魚体は桜色に染まり、味は濃厚と云います。

八幡橋を渡って右折すると地蔵祠があります、街道に背を向けています。

クリーニングの美洗館を過ぎると右手に小さな
秋葉神社跡標石があります。

街道を進むと左手に
火の見ヤグラ木造燈籠が復元されています、鬼島の建場(立場)跡です、石碑には十辺舎一九東海道中膝栗毛鬼島の一節が刻まれています。

右手
青山八幡宮の常夜燈と鳥居を過ぎると、須賀神社のクスがあります。

須賀神社の
大クスは樹齢五百年でご神木です。
秋葉社跡 鬼島立場跡 須賀神社のクス

 街道突当りの手前を右折すると段上に蛇柳如意輪観世音菩薩を安置する鐙堂(観音堂)があります。

鐙堂の下は
元葉梨川の渕で、その形が馬具の(あぶみ)に似ていたので鐙ケ渕と呼ばれていました。

昔、渕に
人取り柳の大木があり、これに触れた者は渕に身を投げたと云います、後に聖僧が柳を切り倒し、一体の観音像を造り、これが鐙堂の本尊となりました。

徳川家康は戦勝祈願の為、愛用の
を渕に沈めたと云います。

史跡鐙ケ渕と観音堂解説は観音堂の階段下にあります。

ここで
街道に戻りましょう!
鐙堂

街道消滅(①) 街道消滅迂回路 松並木(②) 車道横断(写真③) 国道1号線横断(④)

 須賀神社先で旧道は本来右にカーブします(写真①)、しかし旧道上に家が新築工事中です、エッー旧道が民間に払い下げされたのでしょうか、信じられません。

やむなく上図の通りに
新道を直進し、突き当りを右折し、一本目を右折して。旧道に復帰します、松並木を残しています(写真②)。

歴史的遺産である
旧東海道をこんな形で消滅させていいのでしょうか、良識を疑いたくなります。

旧道は新道で分断されています(写真③)、ここには信号も無ければ横断歩道もありません。

コスモ石油の先で国道1号線を横断します、以前は
信号水守がありましたが今日ありません、そればかりか中央分離帯が新設されています。

腹が立つのを越えて呆れてしまいます、街道ウォーカーさん良識をもって通行してください。

※ 以上をアップデートして下さい。

 藤枝宿着

 国道1号線を横断してモスバーガーMAZDAの間に入り、一本目を左折します、これで旧道に復帰です。

名残りの松を過ぎると、天理教益津大教会の前に
領主番所跡標柱があります、藤枝宿東木戸跡です、藤枝宿到着です!

藤枝宿は
田中城四万石の城下町でもありました、この宿には瀬戸川の渡し権が与えられ、本能寺の変に功があった白子町は伝馬役が免除されるなど幕府との関わりが深かった。

天保十四年(1843)の
東海道宿村大概帳によると藤枝宿の宿内家数は千六十一軒、うち本陣二、旅籠三十七軒で宿内人口は四千四百二十五人(男二千二百八人、女二千二百十七人)でした、 宿並は東木戸の左車町から、西木戸の川原町まで半里と長かった。
旧道口 東木戸跡

 茶の山本園駐車場前に濱小路標柱があります、「是より焼津湊まで一里余」と記されています。

向いが成田山
新護寺です、後嵯峨上皇の子宗尊親王が六代将軍となる為、京から鎌倉へ下る途中、ここで御所車左車輪が折れてしまった。

車輪を修理する間当寺で休息したところから寺名を
左車山休息寺と改めた。

裏の
左車神社は破損した車輪や車軸を埋めた跡に建立されたもの。
濱小路 成田山新護寺 左車神社 町境標石

 
宿並を進むと島田信用金庫の敷地隅に町境標石「従是西下傳馬 従是東左車」があります。

 藤枝名物サッカー最中の府中屋先の信号交差点が田中城の大手口大手木戸がありました。

田中城は代々の城主が善政に勤め、幕府の要職に就いた為、出世城と呼ばれました。

本町交番の隣り下伝馬会館の敷地内には「町内安全」と刻まれた大きな
常夜燈大黒天があります。

向いが
問屋場跡です、小路の奥には大永三年(1523)創建の浄土宗養命寺があります、境内に地蔵堂があります。

秋山医院には
藤枝静男生誕の地碑があります。
町内安全常夜燈 藤枝静男生誕地 白子由来記碑

 
藤枝静男は眼科医で小説家でした。

宿並を進むと左手の
小川眼科医院の植込みの中に白子由来記碑があります。

本能寺の変の折、家康は泉州堺に居ました、明智光秀勢の攻撃を避ける為に家康一行は伊賀を越えて伊勢に出て、白子の住人小川孫三の手引きにより、船で伊勢湾を横断し常滑に渡り、無事三河に帰り付ました。

家康はその恩に報い、小川孫三に藤枝の
白子町を安堵し、諸役免除の朱印を与えました。

信号交差点を越すと本町に入ります、宿並の左右には神社仏閣が多数あります。

最初の小路を右に入ると
茶木稲荷神社があります、幟には茶ノ木と染め抜かれています。

宿並に戻り左の小路に入ると
慶全寺があります、元は田中城内にありました。

田中城主であった武田の将
三枝土佐守虎吉は長篠の戦いで三人の息子を失い、菩提を弔う為に失意の内に建立したものです。

隣りが臨済宗
長楽寺です。
茶木稲荷神社 慶全寺 長楽寺

 青島池に棲む龍の餌食になった娘を供養する為に建立されました。

 宿並に戻ると長楽寺秋葉山常夜燈があります、長楽寺は旧町名です。

脇の参道を入ると熊谷山
蓮生寺があります、山門は田中城主本多正意が寄進したものです。

蓮生法師(熊谷直実)が泊り、念仏十遍を唱えると池に清蓮花が咲いたと云います。

宿並には
藤枝だるま店があります、創業百七十年の老舗です。

明治の文豪
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が愛玩したところから八雲だるまとも呼ばれます。
秋葉山常夜燈 蓮生寺 藤枝だるま

 長楽寺商店街からちとせ通りに入ると、右手に若一王子神社常夜燈があります。

若一王子神社に
八幡太朗義家が奥州平定の武運長久を祈った時、境内の古松のに咲くを見て和歌を詠み、これが藤枝の地名由来になりました。

松に咲く 藤枝の一王子 宮居ゆたかに幾千代をへん

千歳交差点を越すと左手に日蓮宗圓妙山
大慶寺があります、田中城主の祈願寺でした、墓所には藩士の墓が多数あります。
若一王子常夜燈 若一王子神社 大慶寺 久遠の松

 境内の
久遠(くおん)の松日蓮上人お手植えの黒松で樹齢七百余年です。

 旧上伝馬町に入ると右手に神明神社があります、駿河記に「昔蓮華池畔岩田山の宮社をこ々に奉遷す」あります。

境内奥には
正一位今拝稲荷大明神が祀られています、傍らには明治天皇藤枝行在所址碑があります。

上伝馬町には宿機能が集中していました、柴田医院駐車場が
下本陣跡です。

次いで藤枝タクシーとニコニコ洋品店の所が
上本陣跡です、各々タイルレリーフが歩道に埋め込まれています。
神明神社 明治天皇碑 下本陣跡 上本陣跡

 藤枝警察署上伝馬交番の辺りが問屋場跡です、広重は問屋場を描いています。

上伝馬町の問屋場は京から江戸への下り荷を、下伝馬町の問屋場は江戸から京への上り荷を扱いました。

問屋場が常備する百人、百頭の
人馬は人足十一人ずつと馬五十頭ずつは両伝馬町が負担し、残り七十八人の人足は六ケ町の平町が負担していました。

問屋場には問屋、年寄、帳付、馬指、人足指などの役人が伝馬業務に当たりました。
問屋場跡 東海道五十三次之内 【藤枝】 人馬継立

 宿並を進むと右手に浄土宗正定寺があります、境内には本願の松があります。

享保十五年(1730)田中藩主
土岐丹後守頼稔(よりとし)が大坂城代に出世した記念に寄進されたものです。

瀬戸川に架かる勝草橋が正面に現れます、この辺りに西木戸があり、番所川会所がありましたが標識等はありません、長かった藤枝宿もここまでです。

瀬戸川は高根山に源を発し、流末は駿河湾に注いでいます、勝草橋勝軍(かちいくさ)に由来しています。

勝草橋を渡ると右手に
勝草公園があります。
正定寺 本願の松 瀬戸川 志太一里塚蹟碑

 園内には
東海道一里塚蹟標石秋葉神社及び常夜燈があります、志太の一里塚跡です、 江戸日本橋より数えて五十里目です。

 右手本陣八百屋店先に為善館跡標石があります、明治六年(1873)に創設された学舎です、明治二十三年(1890)に青島尋常小学校が創立され閉館となりました。

街道には
松並木の名残りがあります。

稲川橋を渡ると右手に岡野繁蔵出生地標石があります、戦前、裸一貫でインドネシアで商売を始め、 南洋のデパート王と呼ばれました。

青木橋を渡ると先が青木交差点です。
為善館跡 名残りの松 岡野繁蔵 藤枝宿起点

 交通の便を考え
マップでは青木交差点藤枝宿の起点にしています、無事到着です!

 PM 6:18 藤枝宿起点着

 
JR藤枝駅までは約900m、これもビューッと行ってしまいましょう。

何がこうも急かせるのでしょうか、答えは簡単です、例の
缶チューハイです。

追記
翌朝の新聞には
猛暑到来浜松37.3度、熱中症で搬送相次ぐとありました、道理で昨夕の缶チューハイ、今まで飲んだ中で一番でした。



前 沼津 ~ 興津 次 藤枝 ~ 袋井