街道ウォークはむしろ曇り日の方が歩き易く、陽に焼けず、涼しく歩けます。 しかしHPの作製を意識するとピーカンの写真がほしい、発色が違います。 毎日PCの天気予報をチェックです。 やっと興津から藤枝間に晴れマークの予報が出ました、決行です。 例の早朝カレーを食し、乗車です。 天気予報によると気温30度以上の真夏日になる可能性があります。 熱中症対策として車中で1リットルの水を飲み干しておきます。
日朝さん、意眼さんとして尊敬されました、墓には元禄十年三月七日と刻まれています。
静清バイパス高架下を左折して波多打川橋を渡り横砂東町に入ります、次いで突当りの小長井宅の前を右折します、京方面からはこの家が重要な分岐ポイントになります。
袖師交差点を越すと右手に馬頭観音があります、台座には交通安全と刻まれています。
右手(西)の一里塚前に高札場がありました。
しかし信長より武田に通じているとの嫌疑を受け、家康はやむなく二人に死を命じ、築山御前は死罪、信康は遠州二俣城にて切腹して果てました、享年二十一歳でした。
街道に戻ると左手に都田一家諸精霊供養塔があります、文久元年(1861)正月十五日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討ちました。 吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立したものです。
スグ先の左手に千手寺があります、この南辺りに上原鎮守十七夜宮がありました。 古来、上原産土神として、土地を守り、上原に住む人々のあらゆる難を取り除き、家庭の幸福を守る神として村人の信仰を集めてきました。
草薙神社の祭神は日本武尊です、武尊がこの地で賊に襲われ、野火を放たれました、武尊は剣で草を薙いで逃れました、今でも社の辺りの土は黒いと云います。
常夜燈の脇にここは古道東海道の標識があります、中之郷村から谷田村に入ります。
境内には由比正雪首塚があります、徳川幕府の悪政を改革せんと幕府転覆を図るも、露見し縛吏に包囲され自刃して果てました。 首は安倍川河畔に晒されましたが、縁者の女人が密かに盗み去り、ここに葬ったといいます。
明治維新以来国事に倒れた静岡県出身者を祀っています。
突当りの法蔵寺の境内に千日地蔵尊があります、延宝四年(1676)この地一帯に悪病が流行り、多くの人々を苦しめました。 信仰篤き村の者が自ら生き仏となると、蔓延した疫病が平癒しました、村人達は菩提を弔うため、地蔵を安置し、千日参詣の願をかけました。
天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると府中宿の宿内家数は三千六百七十三軒、うち本陣二、脇本陣二、旅籠四十三軒で宿内人口は一万四千七十一人、宿場機能は伝馬町に集中していました。
つつじ通りを越えて左側一本目の角に久能山東照宮道碑があります、神君家康を祀る久能山東照宮への追分です、参勤の諸大名はこぞって参詣しました。
宿並の左手SELECT SHOP3の前に下伝馬本陣脇本陣跡碑があります、下本陣は小倉家、脇本陣は平尾家が勤めました。
ここの十字路を右折して本通りに出て左、お仏壇のやまきの並びに府中の一里塚跡標石があります。 当初、この本通りが東海道筋で一里塚が築かれましたが、慶長十四年(1609)新通りに付け替えられましたが一里塚は築かれませんでした。
園内には安倍川架橋の碑があります、明治の世になると宮崎総五が私財を投うって安倍川に安水橋を架橋した顕彰碑です。 宮崎家は代々川越総取締を勤め、川越人足の失業対策でもあったと云います。
石部屋さんの隣に安部川義夫之碑があります、勝手に渡河した旅人が落とした金百五十両の入った財布を川越人足が拾い、宇津ノ谷峠まで追いかけ手渡しました。 旅人は礼金を差し出したが人足は受け取らず、町奉行所は礼金の代わりに褒美を取らしたと云います。
維新後、府中は不忠に通じると、賎機山(しずはたやま)に因み静岡と改名されました。
子に恵まれない夫婦はお地蔵さんを借りて帰り、信仰すれば子供が授かると云います。 めでたく子供が授かった者は新しいお地蔵さんを造って返します。
東海道中膝栗毛の中で弥次さん、喜多さんも立ち寄りましたが、茶屋の夫婦喧嘩に遭遇し食べ損なっています。 辰石と呼ばれる駿河城普請の石垣石があります、運搬中に丸子川に落したものです。 岡本太郎の母親岡本かな子碑があります、著書東海道五十三次の中の「とろろ汁を賞味する」一節が刻まれています。
江戸方面からは二軒屋交差点から国道1号線の歩道を進みます、京方面からは二軒屋交差点から斜め右の旧道に入ります。 江戸方面からは赤目ケ谷交差点を越え、スグ先左のスロープを下り、下道に合流します、スロープ口には起樹天満宮標識があります、京方面からは起樹天満宮標識横のスロープを上り、国道1号線の歩道に合流します。
江戸方面からは国道1号線の歩道をしばらく歩きます。 歩道橋を越えて赤目ケ谷西交差点から斜め右の旧道に入ります、京方面からは国道1号線の歩道に合流します。
石段は舗装路に合流し、更に下ります、京方面からは左の石段に入ります。 先で旧東海道標識に従い、左の土道に入ります、京方面からは突当りの舗装路を右折します。
京方面からは斜め左の土道に入ります。 尚、直進する道筋はつたの細道です、宇津ノ谷峠道開削前の東海道です。
坂下地蔵堂先からは国道1号線の側道を進みます、つたの細道標石があります。 次いで国道1号線の歩道に合流します、しばらく歩き廻沢口跨道橋で廻沢口交差点(国道1号線)を横断し、向いの旧道に入ります、旧道口には大旅籠柏屋歴史資料館案内標柱があります。
柏屋(かしばや)山内家は問屋、年寄、宿役人を勤め、質屋を兼業しました。 柏屋の向いが仁藤本陣跡ですが、標識等はありません。
左手にはプロのサッカー選手であったゴン中山選手の生家があります。
享保二十年(1735)美濃國岩村藩二代藩主松平乗賢(のりかた)が幕府の老中になると、駿河に五千石の領地を 拝領しました。 以来、百三十五年間、十四人の代官が支配しましたが、年貢率を他藩より低く押さえた仁政を行いました。
京方面からは歩道橋を渡り、Y字路を左に進みます、やはり名残りの松が目印です。 名残りの松の脇に傍示石「従是西田中領」があります、岩村藩領との境です。
街道は八幡橋の渡詰を右折します(白矢印)、正面の道筋(黄色矢印)は田中城に向かう御成道です。 元和二年(1616)一月家康は鷹狩の帰路に田中城に立ち寄り、ここで興津鯛のテンプラを食べ過ぎて体調を崩し四月、駿府城で亡くなりました、享年七十五歳でした。 ※ 駿河湾で獲れる甘鯛は興津鯛と呼ばれる、桜エビを餌にしている為、魚体は桜色に染まり、味は濃厚と云います。
須賀神社先で旧道は本来右にカーブします(写真①)、しかし旧道上に家が新築工事中です、エッー旧道が民間に払い下げされたのでしょうか、信じられません。 やむなく上図の通りに新道を直進し、突き当りを右折し、一本目を右折して。旧道に復帰します、松並木を残しています(写真②)。 歴史的遺産である旧東海道をこんな形で消滅させていいのでしょうか、良識を疑いたくなります。 旧道は新道で分断されています(写真③)、ここには信号も無ければ横断歩道もありません。 コスモ石油の先で国道1号線を横断します、以前は信号水守がありましたが今日ありません、そればかりか中央分離帯が新設されています。 腹が立つのを越えて呆れてしまいます、街道ウォーカーさん良識をもって通行してください。 ※ 以上をアップデートして下さい。
宿並を進むと島田信用金庫の敷地隅に町境標石「従是西下傳馬 従是東左車」があります。
藤枝静男は眼科医で小説家でした。 宿並を進むと左手の小川眼科医院の植込みの中に白子由来記碑があります。 本能寺の変の折、家康は泉州堺に居ました、明智光秀勢の攻撃を避ける為に家康一行は伊賀を越えて伊勢に出て、白子の住人小川孫三の手引きにより、船で伊勢湾を横断し常滑に渡り、無事三河に帰り付ました。 家康はその恩に報い、小川孫三に藤枝の白子町を安堵し、諸役免除の朱印を与えました。
青島池に棲む龍の餌食になった娘を供養する為に建立されました。
境内の久遠(くおん)の松は日蓮上人お手植えの黒松で樹齢七百余年です。
園内には東海道一里塚蹟標石と秋葉神社及び常夜燈があります、志太の一里塚跡です、 江戸日本橋より数えて五十里目です。
交通の便を考えマップでは青木交差点を藤枝宿の起点にしています、無事到着です!
JR藤枝駅までは約900m、これもビューッと行ってしまいましょう。 何がこうも急かせるのでしょうか、答えは簡単です、例の缶チューハイです。 追記 翌朝の新聞には猛暑到来浜松37.3度、熱中症で搬送相次ぐとありました、道理で昨夕の缶チューハイ、今まで飲んだ中で一番でした。
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