道中日記 9-162 東海道 ( 藤枝 - 袋井 ) 37.9km

 本日の東海道ウォークは藤枝宿から袋井宿迄です、この袋井宿は東海道のどまん中に位置します。

過去30km行程で進みこの宿に二度宿泊しています、40km行程で進んでもやはり起点になり、三度目の宿泊をしています。

そして圧巻は京からの60km行程でやはり袋井宿は起点になりました。

平成10年9月12日最終電車で袋井駅に到着し、袋井宿場公園で仮眠を取り、早朝出立の計画でした。

ところが宿場公園では日本国中から集まったとしか思えないほどのの攻撃を受けあえなく撤退、即ミッドナイトウォークとなりました。

 次は松並木間に張られたクモの巣攻撃です、顔にまとわり付く不快感は堪りません、最後には枝を拾い、それを回しながら歩きました。

 掛川宿では暴走族の集会の真っ只中を突っ切り、日坂宿に到着。

小夜の中山に取り掛かりましたが、それこそ真っ暗です、とても薄気味悪くて進めません、撤退してドライブインで夜明けを待ちました。

そんな事を思い出しながらのお盆の猛暑日ウォークです。


 平成20年08月13日 AM 8:14 藤枝宿出立 島田宿まで 7.7km

 青木交差点が藤枝宿の起点です、江戸方面からは正面三叉路の中央が旧道です、京方面からは正面Y字路の左が旧道です、サア猛暑日ウォークの開始です。

左手の
津島神社を過ぎて、県道356号善左エ門藤枝線を横断した先に 松並木の名残りがあります、東海道に松並木は欠かせませんネ。

左手に
田中藩領傍示石蹟標石があります、掛川藩領との境を示しています。

本来の傍示石には「従是(これより)東田中領」と刻まれていました、田中城主本多正意(まさおき)が家臣の
藪坂彦八郎に書かせたもので、その筆跡は見事であったと云います。
青木交差点 松並木の名残り 傍示石蹟

瀬戸新屋に入ると左手に六地蔵を安置する鏡池堂があります、神龍が棲む鏡ケ池から示現したところから鏡池堂六地蔵尊と称しました。

子に恵まれぬ者が六地蔵に祈願すると見事に子が授かり、礼に
地蔵堂を寄進したと云います。

六地蔵は三十糎(cm)の
木像金色に彩色され、三十三年に一度、開帳されます。

敷地内には
石仏石塔が祀られています。

京方面からは鏡池堂の手前が
Y字路になっています、左に進みます。
鏡池堂 石仏石塔群 古東海道蹟

  右側の小路口に古東海道蹟標石があります。瀬戸の山越えと呼ばれた
古東海道です。

旧東海道が整備された後も、大井川が氾濫するとこの古道が利用されました。

 上青島に入ると左手に古東海道の筋があります、 入口には東海道追分標石があります。

瀬戸新屋は池や湿地が多く、古東海道はここから東に回り込んで
南新屋(青木五差路)へ通じていました。

開拓が進み六地蔵堂前の
東海道が開削されるとここは古東海道との追分と呼ばれました。

藤枝下青島簡易郵便局先の街道には
松並木を残しています。
東海道追分 追分標石 松並木 延命地蔵尊

 右手の菱形擁壁の所が
無縁寺跡です、寛永四年(1627)大井川氾濫の犠牲者供養に創建されましたが廃寺となりました。

旧境内には
延命地蔵堂庚申塔瀬戸古墳群供養塔そして歴代和尚の墓である卵形無縫塔があります。

 スグ先の右手SUZUKIの所に染飯茶屋跡標石があります、強飯(こわめし)をクチナシで染め、薄く小判型にした名物染飯を商った茶屋跡です、クチナシは疲労回復に効くと評判だったと云います。

向いの路地口に
市指定文化財瀬戸の染飯版木標柱があります、染飯を売る時の包み紙に押した版木が石野家に残されています。

路地に入ると左手に
千貫堤標石があります、寛永十二年(1635)田中藩主水野監物忠善(ただよし)は領内を大井川の洪水から守るために銭千貫を費やして大堤を築きました。

路地を更に進むと
千貫堤瀬戸染飯伝承館があります。
染飯茶屋 染飯版木 千貫堤 伝承館

 この伝承館は
千貫堤の上に建てられています、残念ながらここでは染飯の賞味は出来ません、藤枝駅近くの御惣菜屋喜久屋で入手出来ます!

 理容モリシタ先の右手に育生舎跡標石があります、明治の学制発布後最初の公立小学校跡です、その後 尋常小学校、青島学校と続きました。

信号交差点、次いで名残りの松を過ぎると左手に
田中藩領傍示石蹟標石があります、ここには「従是西田中領」と刻まれた傍示石がありました。

松並木の名残りをやり過ごすと酒林を吊り下げた
青島酒造があります、創業明治元年(1868)銘酒喜久醉(きくよい)の蔵元です。

洗米仕込みには清流大井川の伏流水を深い所から汲み上げると云う拘りです、堪りません!
育生舎跡 田中藩領 青島酒造 八幡宮

 瀬戸橋の手前を右に入ると
八幡宮があります、真新しくなっています。

 東光寺谷川瀬戸橋で渡ると天保四年(1833)建立の秋葉山常夜燈を納めたがあり、傍らには明治天皇の御小休所阯碑があります。

名残りの松並木の中に
上青島の一里塚趾碑があります、江戸日本橋より数えて五十一里目です。

左にひと際大きな名残り松と右に洋服の青山がある
一里山交差点国道1号線に合流します。

京方面からは
斜め右に入ります。
祠&明治天皇碑 一里塚跡碑 一里山交差点 六合旧道東口

 
藤枝市から島田市に入り、六合交番東交差点を過ぎ、セブンイレブンから左に入るとJR東海道本線六合駅です、ここから斜め右に入ります、六合旧道東口です。

 六合旧道は約600m進むと、道悦島西交差点で再び国道1号線に合流します。

栃山橋東交差点を過ぎると左に
昭和天皇御巡察之處碑があります。

大津田川栃山橋で渡ります、往時は島田川と呼ばれ、土橋が架橋され、道悦島村島田宿の境でした。

続いて島田市御仮屋歩道橋があり、その下を
監物川が流れています。

監物川監物橋の説明板があります。
六合旧道西口 昭和天皇碑 大津田川 監物川

 寛永十二年(1635)島田宿は
田中藩の預所となりました、藩主水野監物忠善(ただよし)は水不足に悩む栃山川以東の村々の為に大井川から取水した水路を開削しました。

これに感謝した農民は水路を
監物川、街道に架けられた幅三間、長さ二間の土橋を監物橋と呼びました。

 AM 10:06 島田宿着 金谷宿まで 5.7km

 スグ先の御仮屋交差点のY字路を国道1号線から分岐して斜め左の本通りに入ります。 

本通りの左側には
用水路が走っています、静岡県立島田商業高等学校入口を過ぎると右手民家内に升形跡(宿東入口)標識があります、島田宿の江戸方口(東口)です、広さ五間四方の枡形がありました、島田宿到着です!

島田宿は東海道随一の難所
大井川を控え、川越宿場として大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると、
島田宿の宿内家数は千四百六十一軒、うち本陣三、旅籠四十八軒で宿内人口は六千七百二十七人(男三千四百人、女三千三百二十七人)でした。
御仮屋分岐 島田宿東口

 本通り7丁目交差点を越え、島田信用金庫七丁目支店角から左約800m先に大井川に架かる蓬莱橋があります、全長897.422mで世界一長い木造歩道橋ギネスにも登録されています。

明治の世になり職を失った
川越し人足達が活路として、対岸の牧之原台地の茶畑開墾に従事、その通用橋でした。

宿並を進むと左ペットハウスドリームの前に
江戸時代の島田宿解説があります。

みなと薬局の向いに
東海道島田宿一里塚趾標石があります、島田の一里塚跡です、北側のみの片塚で塚木はでした、江戸日本橋より五十二里目です。
蓬莱橋 島田一里塚跡 甘露の井戸水

 左手島田タクシー脇に
甘露の井戸水があります、「ご自由にお飲みください」と書かれています、ミネラルカルシウムを豊富に含んだ水質だそうです、それでは頂きます、甘露、甘露!

 島田五丁目バス停の所に刀匠島田顕彰碑があり、傍らに島田刀鍛冶の由来碑があります。

島田の
刀鍛冶は約四百年の歴史をもち、繁栄期には島田には多くの刀工鍛冶屋が軒を連ね鍛冶集団を形成し、業物は多くの武将に珍重されました。

並びに
問屋場跡碑があります、人足百三十六人、伝馬百疋を常備し、 飛脚(御継飛脚)十人が常駐し、昼夜交代で御状箱を継ぎ送っていました。

信号交差点の角地に
まちかど物語碑があります、昭和七年(1932)私設天文台が設置され、アマチュア天文家による周期彗星検出第一号の世界的快挙でした。
刀匠島田碑 問屋場跡 まちかど物語碑

 宿並の右側にシフトします、ホテルルートイン第2を過ぎると帯踊りの奴が踊り出すからくり時計台があります、足元に下本陣跡標石があります。

置塩藤四郎が下本陣を勤め、建坪二百七十一坪でした。

からくり時計台から後ろは
おび通りとして遊歩道になっています、それでは踏み込んでみましょう。

左側に
御陣屋跡標石があります、幕府領(天領)を支配した代官所跡です。
からくり時計台 下本陣跡 御陣屋跡 御陣屋稲荷神社

 突当りの
御陣屋稲荷は御陣屋の屋敷神でした、年一回の祭礼には宿民に解放され賑わったと云います。

 小路を挟んで御陣屋稲荷の向いに曹洞宗嶋田山快林寺があります、明和七年(1770)から天明八年(1778)まで、陣屋代官を勤めた岩松直右衛門、主税親子の墓があります。

宿並に戻ると天野屋呉服店前に
中本陣跡標石があります、大久保新右衛門が勤め、建坪二四四坪でした。

スグ先のホテル三布袋前に
上本陣跡標石があります、村松九郎冶が勤め、建坪二六二坪でした。

宿並の向いに
芭蕉句碑があります。
快林寺 中本陣跡 上本陣跡 芭蕉句碑

 静岡銀行島田支店前に
俳聖芭蕉翁遺跡塚本如舟(じょしゅう)邸趾碑があります、芭蕉は島田を度々訪れ川庄屋を勤める塚本如舟邸に滞在しました。

碑には元禄七年(1694)
大井川の増水で四日間、川留となり、腹いせに詠んだ句「さみだれの 雲吹きおとせ 大井川」が刻まれています。

 本通り2丁目交差点の右手島田信用金庫前に芭蕉句碑「するがぢや はなたち花も ちゃのにほひ」があります。

元禄七年(1694)五月
芭蕉翁西帰の途次、当宿の塚本如舟邸を訪れた際、書残された翁の筆跡を拡大したものが刻まれています。

島田駅前に
茶葉を捧げた栄西禅師像があります、平安時代末に留学したからお茶の実を持ち帰り、臨済宗の開祖となりました。

お茶の効用を説いた
喫茶養生記を著し、お茶を飲む習慣を広めたところから後世茶祖と呼ばれました。

次の信号交差点の手前左手に
本町通り道標があります。
芭蕉句碑 栄西禅師 本町通り道標

 「東 六合村境迄十八町十六間 青島町に至る」 「西 大井川渡船場迄二十四町六間 川根に通ず」 「南 島田駅迄一町 第壱街青年会」 と刻まれた近世の道標です。

 先に進むと右手に大井神社があります、大井川の水神を祀っています、そして島田宿の鎮守です。

参道口の
燈籠は安政三年(1856)江戸~京~大阪間の飛脚達が道中及び大井川川越の無事を祈って奉納したものです。

参道両側の
土手石垣は川越し人足が仕事を終えて帰る際、毎日河原から一個づつ持ち帰ったものです。

三年に一度行われる
帯祭りは日本三大奇祭の一つです。

昔、この地に嫁いだ
花嫁は晴着を着て、大井神社に参詣し氏子になり、参詣後は宿内に着飾った花嫁を披露して回る習慣がありました、しかし見世物扱いでは可哀想と、だけを披露すようになったと云います。
大井神社 帯祭大奴像

 大井神社の向いに西升形跡標識があります、土塁で囲った枡形の見付がありました、島田宿の京方口(西口)です。

大善寺前交差点手前の右手に
大善寺があります、梵鐘は時の鐘でした。

明け六ツ(日の出)の鐘で大井川の
川越しが始まり、暮れ六ツ(日の入り)の鐘で終了となりました。

残念ながらこの
梵鐘は太平洋戦争時に供出されてしまいました。

島田市博物館大井川川越遺跡標識に従って、Y字路を左に入り、特殊東海製紙の塀に沿って進みます。
西升形跡 大善寺の梵鐘 向島分岐

 街道右手に塚本家があります、九州肥前の大村藩二万七千九百石余の専用休息所で上段の間が残されています。

島田市博物館分館向いに
秋葉神社があります、川越の火伏です。

この辺りから所々に川越遺構が復元されています。

川越人足は
番宿に控え、立合宿は人足頭が会合し、札場は人足が受け取った川札を換金する所でした。
塚本家 島田市博物館分館 秋葉神社 川越人足

 右手の関川庵に八百屋お七の恋人吉三郎の墓があります。

お七が鈴ケ森で処刑されると、寺小姓であった吉三郎は出家し、諸国行脚の旅に出て島田宿で没し、ここに葬られました。

次いで安政三年(1856)築の
川会所があります、川越しの料金を決めたり、川札を発行しました。

敷地内には
芭蕉句碑「馬方は 知らじ時雨の 大井川」があります。
吉三郎の墓 川会所 芭蕉句碑 島田大堤

 川会所に隣接して
島田大堤があります、慶長の大洪水では川除堤が決壊し、島田宿の全てが押し流されてしまった。

島田代官
長谷川藤兵衛長勝は大堤を築き、治水灌漑用水路を完成させました、これにより島田宿の米高は二十倍になったと云います。

 次いで右手に八重枠稲荷神社があります、宝暦十年(1760)川越しの安全水難除けを祈願して創建されました。

創建当時はここに
出し堤防があり、増水すると蛇籠に石を詰めて、幾重にも並べたて堤防を守ったところから八重枠の社名となりました。

川越遺構の外れの両側には石垣が築かれ、中央縦に溝が刻まれた
せぎ跡があります、増水の際に厚板を挟み込んでとするものです。

せぎ跡から先はいよいよ
川越場です、左手には朝顔の松(二代目)があります。
八重枠稲荷神社 せぎ跡 朝顔の松

 恋人を慕って流浪中に
瞽女(ごぜ)となった朝顔は川留の大井川に飛び込もうとしたが助けられ、その際奇跡的に目が治り、初めて目に映ったのが川岸の松であったと云います。

あさがほ堂には枯れてしまった松で作った木碑が安置されています。

 大井川は「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と詠われ東海道随一の難所でした。

徒歩渡り架橋の話が持ち上がる度に「神君家康公の意志」であると反対され架橋される事はありませんでした。

島田宿が当初、抱えていた
川越人足は三百五十人、幕末には六百五十人でした。

水深が四尺五寸(約136cm)を越えると川留となり、川留が長引くと旅人で溢れ、藤枝宿岡部宿まで賑わったと云います。
東海道五拾三次之内 【嶋田】 大井川駿岸 大井川橋

 今は川越遺跡から先は大井川の土手道を右に進み、大井川を大井川橋で渡ります、
土手道には歩道がありませんからお気を付け下さい。

京方面からは
博物館川越遺跡標識を左折し、下り坂を進みます。

 AM11:32 金谷宿着 日坂宿まで 6.4km

 大井川は駿河國、信濃國、甲斐國の國境にある間ノ岳に源を発し、赤石山脈と白根山脈の間を南下し、流末は駿河灘に注いでいます。

広重は東海道随一の難所であった大井川の川越風景を島田側と金谷側の二図に渡って描いています。

金谷宿は東に難所の
大井川、西にやはり難所の小夜の中山を控え、大いに賑わったと云います。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
金谷宿の宿内家数は千四軒、
大井川 東海道五拾三次之内 【金谷】 大井川遠岸

 うち本陣三、脇本陣一、旅籠五十一軒で宿内人数は四千二百七十一人(男二千七十四人、女二千百九十七人)でした。


 大井川橋の渡り詰を左折して、土手道を進みます。

旧東海道(金谷駅方面)案内標識に従って右折し坂を下ります、ここが金谷口の旧道復帰点です。

京方面からは突当りの
土手道を左折します。

八軒屋橋手前の左に
金谷宿川越し場跡解説があります、ここが金谷側の川越場でした。

裏の小公園に
義人仲田源蔵像があります、天保十二年(1841)八軒屋で生まれた源蔵は醤油屋三代目として家督を継ぎました。

明治三年(1870)
大井川川越制度が廃止されると川越人足は失業し困窮を極めました、見かねた源蔵は大井川金谷方川越人足の総代を引き受けました。
金谷口分岐 義人仲田源蔵像

 国に直訴して
牧之原大茶園開墾の許可を獲得し、私財を投げ打って大井川木橋の架橋を成し遂げました。

 新堀川に架かる八軒屋橋を渡ると川越遺跡です、西端の秋葉神社との間には十軒の番宿川会所札場等が軒を連ねていました、残念ながら遺構は残されていません。

秋葉神社手前左の小路に入ると
宅円庵の境内に日本左衛門首塚があります、墓石には辞世の句「月の出る あたりを弥陀の 浄土かな」が刻まれています。

義賊で「盗みはするが非道はしない」と云われたが、京で捕縛され、江戸鈴が森で処刑され、首は遠州鈴ヶ森に晒されたが、金谷宿の愛人おまんが首を密かに持ち帰り、この沢円庵に葬ったと云います。

街道の
秋葉神社は川越の火伏(火防)です。
八軒屋橋 日本左衛門首塚 秋葉神社

 大井川鉄道線旧国道踏切で横断します、左の新金谷駅はSLの運行で知られています。

大代川に架かる大代橋の横に新設された歩行者用の往還橋を渡ります。

金谷扇町南交差点を横断して、
清水川清水橋で渡ります、橋手前右手には水神が祀られています。

静岡銀行手前の左手に
秋葉神社が祀られています、金谷宿の火伏です。

補聴器のオオツカが
山田屋本陣跡です、山田三右衛門が勤め建坪は九十七坪でした。
水神 秋葉神社 山田屋本陣跡

 宿並右手の佐塚文化堂が佐塚屋本陣跡です、佐塚佐次衛門が勤め建坪二百六十三坪でした。

先のJA大井川金谷が
柏屋本陣跡です、河村八郎左衛門が勤め庄屋を兼ね、建坪二百六十四坪でした。

カナヤタクシーの隣りの民家が
角屋脇本陣跡です、金原三郎右衛門が勤め年寄、川庄屋を兼ね、建坪百五坪でした。

御菓子司河崎屋本店が
お七里役所跡です、七里継ぎ御状箱御飛脚小屋とも呼ばれました。

日本左衛門の父親は尾張藩の下級武士で七里役を勤め、この役所に赴任していました。
佐塚屋本陣跡 柏屋本陣跡 お七里役所跡

 スグ先の左手協和水道が定飛脚問屋(三度屋)です、浅倉屋黒田屋の二軒がありました。

定飛脚は
三都定飛脚と云い、江戸と京、大坂間の民間飛脚で、月三度往復したところから三度飛脚、問屋を三度屋、被った笠は三度笠と呼ばれました。

緩い坂を登ると
一里塚跡立札があります、金谷の一里塚跡です、塚木はでした、江戸日本橋より五十三里目です。

ここで 東海道本線ガード
金谷架道橋をくぐり、突当りを右折して、線路沿いの道筋を進みます。

突当りの石段は日蓮宗本遠山
長光寺です。
定飛脚問屋跡 一里塚跡&分岐 芭蕉句碑

 境内に
芭蕉句碑「道のべの 木槿(むくげ)は馬に 食われけり」があります、野ざらし紀行の一句で大井川辺りで詠んだ句と云われています。

 金谷駅を過ぎ不動橋を渡ります、西入口土橋金谷大橋と呼ばれ、金谷宿の京方口(西口)でした。

この橋は
御普請所で、約三年目毎に代官所の負担で修理や架け替えが行われました。

スグ先に右(黄色矢印)に入る筋があります、
中山新道の金谷側入口です。

わが国最初の
有料道路と云われます、城山を登り日坂に通じていました。

明治二十二年(1889)
鉄道の開通により使命を果たしました。
不動橋 中山新道 道祖神

 左手の段上に
道祖神が祀られています、宿口にあって悪霊の侵入を見張っています。

 道祖神先で旧道は擁壁に突当り、通行不能です。

右に迂回し国道473号線に出て左折し、スグ先
旧東海道石畳入口標識に従って、右舗装路に入ります。

この標識には
すべらず地蔵尊入口標識が取り付けられています。

上り坂を進むと正面に
石畳が現れます、丸太の標柱に石畳上り坂東海道金谷坂と記されています。

僅に30mの石畳を残すのみでしたが、平成四年(1992)に町民六百人の参加を得て行われた
平成の道普請で430mの石畳が復元されました。
迂回路 石畳入口 石畳上り口

 石畳に入ると右手に石畳茶屋があります。

この先掛川宿まで
食事処はありません、石畳茶屋でエネルギー補給をしておきましょう。

ビールが音を立てて咽喉を下って行きます、茶ソバが後を追い、焼きおにが締めます。

すいませーん、
そば湯くださーい!

申し訳ありませーん、茶ソバのゆで汁は黒くてお出し出来ませーん!!

了解、ご馳走さま、ウーン、アンダーパワー!!!
石畳茶屋 冷えたBEER 茶ソバ&焼きお握り

 石畳茶屋に隣接する高台に石仏石塔が祀られています。

仁誉地蔵尊が安置された祠や庚申堂があります、旅人が道中の無難息災、家内安全を祈願しました。

日本左衛門はこの堂の裏で着替え、泥棒稼業に向ったと云います。

三猿が陽刻された庚申塔が傍らにあります。

鶏頭塚には六々庵巴静の句「曙も 夕暮ぐれもなし 鶏頭華」が刻まれています。
仁誉地蔵尊 庚申堂 庚申塔 鶏頭塚

 石畳は十数年前から見ると苔むしており、貫禄が出てきました、この石畳は地元の通勤通学路でもあります。

右手に
六角堂がありすべらず地蔵尊が安置されています、石畳復元の際に滑らない事を祈願したものです、今は受験生守護仏になっています。

石畳を上り詰めると
舗装路に合流します、ここには東海道金谷坂石畳下り口標柱があります、京方面からは石畳の下り坂に入ります。

右(白矢印)が街道筋です、左(黄色矢印)に進むと、
明治天皇碑芭蕉句碑があります。
石畳 すべらず地蔵尊 金谷坂石畳下り口

 右手に明治天皇御駐輦趾碑があります、二度牧野原野立所で休息し、金谷原茶園開墾地を上覧しました。

スグ先に
芭蕉句碑「馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟」があります、野ざらし紀行の中の一句です。

それではここから街道に戻りましょう、街道の左手には
茶畑が広がっています。

右手に
諏訪原城跡があります、天正元年(1573)武田勝頼の家臣馬場美濃守氏勝が築いた山城です。

武田氏の守護神である
諏訪明神を城内の一角に祀ったことから、諏訪原城と呼ばれました。
御駐輦趾碑 芭蕉句碑 諏訪原城址

 諏訪原園茶舗の先で県道234号線を横断して菊川坂石畳に入ります、ここには東海道菊川坂下り口標柱があります。

この
菊川坂石畳は平成十二年の発掘調査により江戸時代後期のものと確認され、161mを残しています。

きれいに整備された石畳を下り、
舗装路一ケ所を横断します。

更に下ると下道に合流します。

石畳口には
東海道菊川坂上り口丸太標柱があります、京方面からは重要な分岐ポイントです。
菊川坂石畳下り口 舗装路の横断 菊川坂上り口

 舗装路を下ると右手に法音寺があります、入ってみましょう。

参道手前に
中納言宗行卿の塚案内標識があります、右に進み国道1号線高架をくぐるとがあり、中納言宗行卿之塚入口標柱があります、右に入ります。

更に進むと
宗行卿之塚があります、承久三年(1221)承久の変で後鳥羽上皇は鎌倉幕府追討に立ち上がったが失敗、組した中納言藤原宗行は幕府に捕らわれの身となりました。

鎌倉に護送される途中、菊川に宿泊し、ここで斬首となりました。
法音寺前 祠&標柱 中納言宗行卿之塚

 舗装路を下ると欠けた道標があります、遠江三十三観音第二十五番松島山岩松寺への道標です。

京方面からはこの道標の所が
Y字路になっています、左に進みます。

菊川高麗橋で渡ると間の宿菊川に入ります、難所小夜の中山を控え、茶屋本陣や脇本陣がありました、おもだかや宇兵衛茶屋の菜飯田楽が名物でした。

宿内には
秋葉山常夜燈を納めた鞘堂があります。

菊川の里会館の敷地内に
中納言宗行卿詩碑日野俊基歌碑があります。
道標 鞘堂 歌碑

 
中納言宗行卿詩碑「昔南陽縣菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命」
「昔は南陽県(中国)の菊水を呑むと寿命が延びる云われたが、今は東海道の菊水で命を失う」の意です。

日野俊基歌碑「いにしへも かゝるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん」
承久の変から約百年後、
後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕の正中の変に組し捕えられ、鎌倉へ護送の途次菊川の宿で、宗行を追懐して詠んだものです。

一旦は赦免となりましたが、再び後醍醐天皇による倒幕の
元弘の変に組し、結局死罪となりました。

 歌碑の傍らに菊石があります、菊花紋の石で菊川の地名由来になったものです。

歌碑のスグ先左に鍛冶場風景が描かれた家屋があります、
(やじり)鍛冶屋敷跡です。

中山峠に出没した
怪鳥を射止めたことで知られ、徳川家康の大阪城攻略の際に献上され、その後、参勤の諸大名は演技の良い鏃として、こぞって買い求めたと云います。

菊川宿の外れに
四郡(よごうり)があります、榛原郡、山名郡、城東郡、佐野郡の境です。

渡り詰めの
四郡(よごうり)の辻を左折します。
菊石 鏃鍛冶屋敷跡 四郡の辻

【小夜の中山由来】

その昔、中山峠に頭は鳥、体は蛇と云う怪鳥がいて、里人を悩ました。

帝の命により
三位良政(さんみよしまさ)が派遣され、良政は菊川で鏃(やじり)を求め、見事射止めました。

良政は
月小夜姫を娶り、これが小夜の中山の地名由来となりました。

 スグ先の車道を横断して、丸石の石段を上ります。

石段を上り詰めると車道に突き当たります、Y字路右の上り坂に進みます、左の道筋は
火剣山への道です、お気を付け下さい。

上り坂は
青木坂箭置(やおき)と呼ばれ、頂上までを西坂とも長坂とも呼ばれます。

やがて街道の左右には
茶畑が広がります、小夜の中山はそれこそ「なめると怪我をする」程の急坂です、良く見ると正面左に電波塔が望めます、あそこが頂上です、それでは気合を入れて上りましょう。

坂の途中で
島田市から掛川市に入ります。
小夜の中山上り口 電波塔 市境

 市境先の右手に鎌倉に向かう阿佛尼十六夜日記で詠んだ歌碑「雲かかる 小夜の中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月」があります。

「雲のかかる佐夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ、有明の月よ」の意です。

電波塔がいよいよ近くなると真言宗佐夜中山
久延寺があります本尊は聖観音です、境内には夜泣石があります。

昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の仇を討つことが出来たところから本尊は
子育て観音と呼ばれています。
阿佛尼歌碑 久延寺 夜泣石

 境内に茶亭跡標石があります、慶長五年(1600)掛川城主山内一豊は境内に茶亭を設けて、大坂から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。

そして
徳川家康公御手植五葉松と標石があります、茶亭でもてなされた家康は礼に五葉松を自ら手植えしたと云います。

現在の松は二代目です。

山門前の駐車場に
接待茶屋跡標石があります、鎌倉時代の永仁年間(1300)頃から旅人の求めに応じて茶等を接待し、旅人の憩いの場となっていました、芭蕉の「馬にねて残夢月遠し茶のけむり」の句もこの辺りで詠まれたものであろうと云われます。
茶亭跡 家康公御手植松 接待茶屋跡

 スグ先の左手命なりけり学舎の前に風雅和歌集橘為仲朝臣歌碑「旅寝する さやの中山 さよやかに 鹿も鳴くなり 妻や恋しき」があります。

「心細い旅寝のさやの中山で、ま夜中に牡鹿の鳴き声が聞こえてくる、谷向こうの雌鹿が恋しいのであろうか」の意です。

左の坂を下ると
御上井戸があります、久延寺の茶亭家康をもてなした水はこの井戸から汲み上げたものです。

右手の
扇屋は宝永年間(1704~11)創業の老舗です、久延寺の和尚が子供を育てる時になめさせたという子育飴を商っています。
橘為仲歌碑 御上井戸 子育飴

 左手に西行歌碑「年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山」があります、晩年の六十九歳で二度目の小夜の中山越えの厳しさをストレートに詠んだものです。

東大寺再建の砂金勧進の為、奥州
藤原秀衡を訪ねる旅でした。

街道は緩やかな下りになります、 右手の山上には
の一文字が浮かび上がっています。

左手に
史跡一里塚跡標石と市指定史跡佐夜鹿一里塚標石があります、江戸日本橋より数えて五十六里目です。
西行歌碑 「茶」文字 一里塚跡 蒲生法師歌碑

 次いで左手
佐夜鹿神明神社鳥居手前に蒲生法師歌碑「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山」があります、熊谷次郎直実は一ノ谷の戦いに功があったが、世の無常を感じ、法然の元に出家して蓮生(れんしょう)と号しました。

 正面のY字路は左沓掛日坂方面に進みます。

このY字路の左の丘上に
鎧塚があります、建武二年(1335)北条時行の一族名越太郎邦時が足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをしました。

頼国名越邦時の武勇を讃えここに塚を築き、葬ったと云います。

人家の手前に古今和歌集
紀友則歌碑「東路の さやの中山 なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ」があります。

Y字路を右に進むと新古今和歌集
藤原家隆朝臣歌碑「ふるさとに 聞きしあらしの 声もにず 忘れね人を さやの中山」があります。
鎧塚 紀友則歌碑 藤原家隆歌碑

 茶畑に囲まれた街道をグングン下ります、左に林が現れると野さらし紀行芭蕉句碑「道のべの 木槿(むくげ)は馬に くはれけり」があります。

先の右手に小さな祠の
白山神社があります、境内には小さな夜泣石のレプリカが奉納されています。

人家を過ぎると左手に新古今和歌集
壬生忠岑(ただみね)歌碑「東路の さやの中山 さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん」があります、「東国への道中の佐夜の中山よ、はるか遠くここまで来たが、はっきりとも見えない遠い旅の空の下で生涯を終えることであろうか」の意です。

先の
Y字路は左に進みます。
芭蕉句碑 白山神社 壬生忠岑歌碑

 鉄塔脇を抜けてグングン下ると左手に馬頭観世音があります、怪鳥蛇身鳥退治に下向して来た三位良政が乗ってきた愛馬を葬った所と云われます。

更に下ると左手に
涼み松広場があり、園内には芭蕉句碑「命なり わずかの笠の 下涼み」があります。

夜泣石の北に大きな
があり、芭蕉は木陰で涼みました。

広場の向いには
妊婦の墓があります、墓碑には往古懐妊女夜泣松三界万霊等旧跡と刻まれています。
馬頭観音 涼み松広場 芭蕉句碑 妊婦の墓

 怪鳥を退治した三位良政と月小夜姫の間に生まれた
小石姫は長じて、身ごもったが悲恋に終わり、悲嘆に暮れて自害して果てました。

 街道を下ると左手に野さらし紀行芭蕉句碑「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」があります。

更に下ると左手に
夜泣石跡標石があります、山賊に殺された妊婦
とか、自害した
小石姫の霊魂が移り、夜になると泣いたと云う。

ここを通りかかった
弘法大師が石に南無阿弥陀仏の名号を刻むと泣き止んだと云います。

広重は日坂としてこの夜泣石を描いています。
芭蕉句碑 夜泣石跡 東海道五拾三次之内 【日坂】 佐夜ノ中山

 この石は明治元年(1868)まで街道の中央にありました、その後明治天皇東幸の際、道端に寄せられ、東京での博覧会に出展され、現在の位置に移されました。

現在の位置とは旧国道1号線小夜の中山トンネル東側にある、子育飴を商う
小泉屋の所です、それでは久延寺の夜泣石は何なのでしょう、ミステリーですね!

 スグ先の右手には広重画佐夜ノ中山のモニュメントがあります。

左手の段上に
沓掛稲荷神社が祀られています、強烈な下りの沓掛坂が始まります。

沓掛とは急坂になると草鞋や馬のを山の神に掛け、旅の安全を祈願する習わしに因んでいます。

二の曲りは更なる急坂になります、京方面からは地獄の上り坂です。

古今和歌集
読人歌碑があります。
沓掛稲荷神社 読人歌碑 日乃坂神社 日坂バイパス

 「甲斐
がねを さやにも見しが けけれなく 横ほりふせる さやの中山」

日乃坂神社を過ぎると視界が開け、国道1号線日坂バイパス高架が眼下に望めます。

 PM1:41 日坂宿着 掛川宿まで 7.9km

 急坂を転がるように下ると左手に広重画狂歌入東海道日阪があります、保永堂版に続いて出版されたもので狂歌「あたらしく けさにこにこと わらび餅 をかしな春の 立場なるらん」が描き込まれています、わらび餅は日坂宿の名物でした。

国道1号線
日坂バイパス高架をくぐり、県道を横断して向いに入ると日坂宿到着です!

日坂は入坂、新坂、西坂とも書かれました、東に難所小夜の中山を控え、小宿でしたが賑わったと云います。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
日坂宿の宿内家数は百六十八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十三軒、宿内人口は七百五十人(男三五十三人、三百九十七人)で宿長はおよそ六町半(約700m)でした。
狂歌入東海道日阪 日坂宿東口

 それでは宿内を進んでみましょう、右手の秋葉山常夜燈が出迎えてくれます。

安政三年(1856)建立と刻まれていますが、老朽化の為平成十年(1998)に
復元されたものです。

日坂宿は度々
火災にあっている為に火伏せ(火防)の秋葉信仰が盛んであったと云います。

次いで
扇屋本陣跡があります、片岡家が勤め、敷地はおよそ三百五十坪、建坪二百二十坪でした。

旧屋号蛭子屋を過ぎると右手に
問屋場跡があります、日坂宿は小宿であったので人馬継立用の人数が揃わなかったと云います。
秋葉山常夜燈 扇屋本陣跡 問屋場跡

 次いで右手に旧旅籠池田屋があります、現在は割烹旅館末広亭です。

一軒挟んで
脇本陣黒田屋跡があります、幕末に最後の脇本陣を大澤富三郎家が勤めました。

明治天皇巡行の際、二度休息所となりました。

清酒東海道日坂の看板を過ぎると右手に
藤文があります、日坂宿最後の問屋役を勤めた伊藤文七の邸跡です。

幕末
官軍の進発費二百両を寄付し、明治四年(1871)日坂宿他二十七ケ村の副戸長郵便取扱役(局長)に任じられています。
池田屋 脇本陣跡 藤文

 この
文七さんはしたたかで、幕府長州征伐にもシッカリ献金しています、商人の鑑ですね!

 右奥に寛永三年(1626)創建の真宗大谷派法讃寺があります、旅籠が満員の場合は宿泊施設となりました。

境内には書家
成瀬大域の碑がある、先祖は成瀬藤蔵正義という家康の家臣で三方ケ原の役で戦死、その子孫が日坂に定住しました。

宿並に戻ると右手に安政年間(1854~59)築の
萬屋があります、庶民用の旅籠で食事を供しない木賃宿でした。

先の左手に
川坂屋があります、上段の間があり、身分の高い武士用の旅籠で、山岡鉄舟の襖の書等を残しています。
法讃寺 萬屋 川坂屋

 次いで右手の相伝寺の参道口に天保十年(1839)建立の秋葉常夜燈があります。

先の右手に
東海道宿村大概帳の記録に基づいた天保年間(1830~44)の高札を掲げる高札場が復元されています。

逆川に架かる古宮橋(旧瞽女橋)の手前に下木戸跡標識があります、日坂宿の京方口(西口)です。

小宿であった為、
逆川が木戸の役割を果していました、イザという時は橋を外しました。
秋葉常夜燈 高札場 下木戸跡 古宮橋

 日坂宿を後にすると左手に賜硯堂成瀬大域出生之地碑があります、書家の成瀬大域は明治天皇に書を献じ、楠正成愛用と伝わる硯を賜り賜硯堂と号しました。

先の横道を右に入ると若宮神社鳥居脇に弘化二年(1845)建立の
秋葉山常夜燈があります、駅中安全と刻まれています、宿内の火伏を見守っています。

右手に大正四年(1915)建立の
村界石があります、日阪村、東台村の境です。

旧道は
県道415号線に合流します、京方面からは斜め左に入ります。
成瀬大域 秋葉山常夜燈 村界石 事任八幡宮

 合流の左に
事任(ことのまま)八幡宮があります、坂上田村麻呂ゆかりの古社で、願い事がことのままに叶うと今も昔も人気を博しています。

境内には
クスノキの大樹が聳えています。

 山と渓谷社出版「ちゃんと歩ける東海道五十三次 東」をお持ちの方、P138の修正をお願いすると同時に謹んでお詫び申し上げます。

①国道1号線及び②国道1号線の表示が欠落していました、これでは「ちゃんと歩く」ことは不可能です、重ねてお詫び申し上げます。

①②を左図の位置に付け加えて下さい。

江戸方面からは
塩井川原歩道橋をくぐって、斜め左の旧道に入ります。

JA掛川の所で一旦国道に合流し、さかがわ幼稚園の所から再び斜め左の旧道に入ります、そして掛川市本所歩道橋の所で国道に合流します、京方面からは逆になります。

 八坂IC交差点を横断し、掛川バイパス高架をくぐります。

歩道橋手前左に
塩井神社鳥居があります、社殿は逆川を越えた先にあります。

汐井河原歩道橋をくぐりY字路左の県道250号菊川停車場伊達方線に入ります。

工設計の所に
俳人伊藤嵐牛翁出生地碑があり、隣に嵐牛蔵美術館があります。

嵐牛(らんぎゅう)は芭蕉の流れを汲む幕末の俳人で、浜松から静岡まで三百余人の門人を養成しました。 
塩井神社 汐井河原歩道橋 嵐牛跡 嵐牛蔵美術館

 左手伊達方萩田食品店前バス停の所に寛保二年(1742)建立の道標「福天権現本(道)」があります、ここから南約2kmの龍雲寺福天権現への道標です。

スグ先のT字路に
伊達方一里塚碑があります、江戸日本橋より数えて五十七里目です。

左に
大頭龍(だいとうりゅう)神社があります、境内に道標「西方村堀ノ内駅」があります。

先の右手に
秋葉山常夜燈と歌人石川依平翁出生碑があります、依平は寛政三年(1791)伊達方の庄屋の家に生まれ、和歌に秀でた才能を発揮しました。
道標 伊達方一里塚跡 大頭龍神社 石川依平出生地碑

 小路を挟んで寺標「慶雲寺道 従是五丁」があります、北約900mにある名刹慶雲寺への道標です。

この寺標の先で旧道は
県道415号線に合流します、京方面からは左手のJA掛川市東山口が分岐ポイントです。

左手の
224kmポスト、右手のさかがわ幼稚園が分岐ポイントです、江戸方面からは先を斜め左に入ります。

この分岐ポイントの左に
諏訪神社があります、祭礼には様々な屋台が繰り出します。
寺標 合流ポイント 分岐ポイント 諏訪神社

 スズキ自動車の先の右奥に六地蔵が祠の中に安置されています。

旧道は掛川市本町歩道橋の所で再び
県道415号線に合流します。

合流先に
掛川市本庄道標があります、京方面からの分岐ポイントです。

岩橋を越え、掛川市山鼻歩道橋を過ぎると右手に新しい秋葉山常夜燈があります。

次いで左手に堂々たる
旧家門があり、千羽交差点の左手には平喜発祥の地本醸造「喜平」の蔵元平喜酒造があります。
六地蔵 合流ポイント 旧家門

 
中橋を渡り、園ケ谷(そのがや)交差点を過ぎると鄙びた感じの御食事処榛葉食堂があります、金谷坂の石畳茶屋から初めての食事処です、ベースは中華です。

 溝橋、次いで本村橋を渡り、本村橋交差点を斜め左に入ります。

右手に新しくなった祠の中に
馬頭観音が安置されています、この祠は元は左手にあったものです。

祠の前には
成滝道標があります。

伊達医院手前の右手に上部が掛けた
標石「記念 西山口村」があります。

左JA西山口支所の所に
大頭龍大権現福天大権現への道標があります、約10m東の川崎街道の起点にあったものです。
本村橋交差点 馬頭観音 標石 道標

 左手福井肥料店の所に秋葉山常夜燈があります、昭和五十一年(1976)の建立です。

大きな信号交差点を横断し、
逆川馬喰橋で渡ります、親柱が馬面のモニュメントになっています、ユニークですネ。

長さ二十三間(約41.4m)の
土橋でした。

渡り詰めに
葛原の一里塚跡があります、江戸日本橋より数えて五十八里目です。

スグ先の右手に菓子処
もちやがあります、文久三年(1863)創業、掛川名物振袖餅の老舗です、いつも午前中で売り切れてしまいます。
秋葉常夜燈 馬喰橋 一里塚跡 菓子処もちや

 PM3:40 掛川宿着 袋井宿まで10.2km

 掛川宿の江戸口の新町の七曲りが始まります、それでは正確にトレースしてみましょう。

新町東伝寺入口バス停先の
新三叉路を左折します、ここにあった兼子酒店は無くなっています、京方面からは突当りを右折します。

進学予備校TAPの手前を右折します、京方面からは突当りを左折します。

突当りの
秋葉常夜燈を左折します、京方面からは右折します。
七曲り三叉路 予備校手前右折 常夜燈左折 かねも右折

 突当りの
茶のかねもを右折します、京方面からは突当りを左折します。

 突当りの仕出し料理魚林を右折します、京方面からは突当りを左折します。

マンションの前に
塩の道道標があります、塩の道は相良町を起点に掛川から信州に向かう塩の交易路でした。

突当りに
枡形があります、ここに木戸があり番所がありました、掛川宿に到着です!

塩沢機械店のある十字路を左折します、京方面からは右折です。
魚林右折 塩の道道標 東番所跡 塩沢機械店左折

 先に進みヤマザキショップ角を右折し、シミズ写真館の筋に入ります、京方面からは左折します。

うなぎ割烹大和田の角を左折します、これにて新町七曲りトレースは完了です、京方面からは右折します。

仁藤町交差点の呉服
桝忠は寛政二年(1790)創業です。

仁藤交差点を右折した先の左手に
天然寺があります。
ヤマザキ右折 割烹大和田左折 桝忠 ヘンミィの墓

 オランダ江戸使節団の一員で寛政十年(1798)掛川宿で亡くなった
ケイスベルトヘンミィの墓があります。

  連雀橋を渡り、掛川信金の角を右折すると威風堂々とした掛川城大手門があります、内側には番所があります、城内に入る者の監視警備を行いました。

並びに
三光稲荷があります、山内一豊は秀吉の命により伏見桃山城の普請に加わった縁により、掛川城の大手郭と大手厩の鎮守に伏見稲荷を勧請したものです。

掛川城は今川氏の築城に始り、天正十八年(1590)家康の命により山内一豊が入城し、城を整備し天守閣を造りました。
しかし天守閣は嘉永七年の
安政大地震で倒壊してしまい、明治二年(1994)廃城となりました。
掛川城大手門 三光稲荷 掛川城天守閣

 現在の
天守閣は平成六年(1994)に復元されたものです。

 掛川宿は掛川藩五万五千石の城下町として発展し、秋葉詣での参詣客で賑わいました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると、
掛川宿の宿内家数は九百六十軒、うち本陣二、旅籠三十軒で宿内人口は三千四百四十三人(男千六百三十四人、女千八百九人)でした。

掛川市役所出張所向いの掛川本陣通り屋台村が
沢野本陣跡です、沢野三左衛門が勤め、敷地は四百五十七坪余で表間口は十六間三尺三寸(約31m)でした。

中町交差点角の清水銀行の壁面には馬に跨った
山内一豊と轡(くつわ)を持つ妻千代のレリーフがあります。

夫の出世を願う妻はへそくりで名馬を買い求めた
内助の功像です。
本陣跡 山内一豊と千代

 宿並を進むと円満寺の山門があります、この門は掛川城の内堀にあった(ふき)の門を廃城後に移築したものです。

移築の際に下部を二尺五寸切り詰めたと云います、
軒瓦には最後の藩主太田氏の桔梗紋があしらわれています。

スグ先で小さな川に架かる
十王橋を渡ります、この辺りに西木戸があり西番所があったと云います。

渡り詰め左に入り、一本目を右折すると左に
菩薩院十王堂があります、慶安元年(1648)掛川藩主北条氏重の創建です、本尊の地蔵菩薩の左右に十王が列しています、堂は大正十年の再建です。
掛川城蕗の門 菩薩院十王堂 東光寺

 押ボタン式信号を過ぎると街道は大きく右にカーブすると右手に
秋葉常夜燈東光寺の山門があります。

将門等の首級をこの地に葬ったところから
将門寺と称したが、曹洞宗に改宗し東光寺となりました。

 標識に従って進むと十九首公民館の裏に十九首塚があります。

藤原秀郷は将門ノ乱を平定し、将門以下十九名の首級を持って上洛、当地で勅使による首実検を行った後手厚く葬ったと云います。

街道は
大タカ時計店の所で左からの道に合流します、京方面からは重要な分岐ポイントです。

逆川逆川橋で渡り、二瀬川交差点を左折します、京方面からは右折します。
十九首塚 大タカ時計店 逆川橋 大池橋

 先で
倉真川大池橋で渡り、渡り詰めの大池交差点を左折します、京方面からは右折になります。

 広重は掛川としてこの大池橋秋葉山を遠景に描いています。

大池橋は長さ二十九間(約52m)、幅三間一尺(約5.7m)の
土橋でした。

大池橋を渡ると正面に青銅製の
鳥居とその両側には常夜燈が建てられ、火伏の神で知られる秋葉山へ通じる秋葉街道の入口でした、秋葉山へはここから九里(約35km)余の道のりでした。

鳥居常夜燈は嘉永七年(1854)の大地震により倒壊してしまいました。
東海道五拾三次之内 【掛川】 秋葉山遠望 秋葉神社

 今は秋葉神社が祀られ、社標
正一位秋葉神社道があります。

 鳥居町交差点を横断し、天竜浜名湖線ガードをくぐります、左手が西掛川駅です。

街道が大きく右に曲がると、先の右手奥に村社
白山神社があります、式内社です。

次いで大光山
宗心寺があります、真言宗でしたが日蓮宗に改宗しました。

信号交差点角の一乗山
蓮祐寺門前に大池一里塚跡道標があります、江戸日本橋より数えて五十九里目です。

並びには
題目一里塚万霊供養碑があります。
天竜浜名湖線 白山神社 宗心寺 大池一里塚跡

 街道には松並木の名残り松を数本残しています。

左手に逆川の土手が近づくと旧
細田村に入ります、村内には四個の丸餅を串に刺したはりつけ餅が名物の茶屋がありました。

街道は右に大きくカーブし、次いで左に大きくカーブした所の右手に曽我鶴酒造があります、創業慶応三年(1867)銘酒
萩の蔵の蔵元です。

掛川バイパス手前の右手に
高松神社があり、境内には稲荷社があります。
曽我鶴酒造 高松神社 掛川バイパス迂回路

 
高松神社の先で旧道は掛川バイパスの敷設で消滅しています、上図の通りに掛川バイパス高架下を迂回します。

旧道復帰のチェックポイントであった
新日軽は廃業していました、新たなチェックポイントはキリスト教会です。

 県道253号掛川袋井線を進み、東名高速高架をくぐります。

名残り松を過ぎ、
垂木川善光寺歩道橋で渡ると右手石段上に善光寺があります。

延暦九年(790)奥州征伐に向かう
坂上田村麻呂の守護仏阿弥陀如来を安置したのが善光寺の始まりと云います。

右奥には
仲道寺があります、享保十八年(1733)の創建で、京と江戸の中間にあたるため仲道が寺名になったと云います。

街道には快適な
松並木が残されています。
善光寺 仲道寺 原川の松並木

 松並木が終わると右手に自然石の道標「従是北和田岡村」があります。

スグ先の左に南泉山
金西寺があります、本尊は泥中より示現した薬師瑠璃光如来です。

金西寺辺りは間の宿
原川でした、薬師に供える薬師餅を商う茶店や酒屋が軒を連ねていました。

先の十字路角に自然石
道標「是従和田岡村原谷村経森町通 大正四年」があります、森町は清水次郎長の子分森の石松の出身地です。

街道は
原野谷川の土手に突き当たります、ここからは下図の通りに同心橋をトレースします。
道標 金西寺 道標

 同心橋は参勤の同心達が河原で昼食を摂ったところに由来しています。

同心橋の渡り詰の
花茣蓙公園内には秋葉山常夜燈鞘堂や道標「従是西御本躰可垂三尺坊大権現」があります。

この辺りは
名栗の立場跡で、花茣蓙(ござ)が名物でした。

名栗バス停辺りから
松並木が始まります、東海道宿村大概帳には「掛川宿より袋井宿迄之間往還通並木」と記されています、今も名栗から久津部間に快適な松並木が残されています。
同心橋の旧道トレース 名栗の立場跡 松並木

  松並木道をグングン進むと右手に富士浅間宮赤鳥居が聳えています、社殿は北800mに鎮座しています。

大同年間(806~10)坂上田村麻呂の創建で、本殿は天正十八年(1590)の建立です。

信号交差点を過ぎると左手奥に日蓮宗貫名山
妙日寺があります、正慶元年(1332)日蓮聖人の父祖代々の邸宅跡に創建された古刹です。

境内には正保三年(1646)
柳生但馬守宗則が寄進した日蓮の両親を供養する五輪塔があります。

日蓮の父は
貫名(ぬきな)重忠(戒名妙日尊儀)と云い、源平争乱で平家方に組し、平家滅亡後所領を追われ安房國に移り、日蓮が生まれました。
富士浅間宮赤鳥居 日蓮両親供養塔

 東海道五十三次どまん中東小学校の道路沿いに久津部の一里塚が復元されています、江戸日本橋より数えて六十里目です。

スグ先の右横道に
油山寺道標があります、自然石に「従是菅ケ谷ヲ経て油山ニ通ズ」と刻まれています。

次いで右手に昭和二十八年(1953)建立の
秋葉山常夜燈があります、村中安全と刻まれています。

スグ先の右横道の手前に
村松宇刈道標があります。
久津部の一里塚 油山寺道標 秋葉山常夜燈 村松宇刈道標

 自然石に「従是村松ヲ経テ宇刈村ニ通ズ」と刻まれています

 向い側に八幡社入口道標があります。

次の左小路に
法多山道標があります、自然石に「下貫名ヲ経て法多山ニ通ズ」と刻まれています。

遠州三古刹のひとつ厄除観音の法多山
尊永寺への道標です。

JA遠州中央袋井東先の右小路に
油山寺道標があります、自然石に「あぶら山ミち二十七丁」と刻まれています。

遠州三古刹のひとつ、目の病に霊験あらたかな医王山薬王院
油山寺への道標です。
八幡社入口道標 法多山道標 油山寺道標

 食事処サガミの隣りに七ツ森神社があります、小夜の中山の怪鳥伝説に由来しています。

怪鳥退治に朝廷から派遣された
七人の武士が返り討ちに遭い、この地に葬られた塚が七つあり、これが森になったと云います。

松並木を進むと右手の小路口右に
道標「従是油山道」、左に道標「是より可睡三尺坊道」があります。

可睡三尺坊大権現とは遠州三古刹のひとつ、秋葉総本殿萬松山可睡斎で、云わずと知れた火伏の守護神です。

可睡斎とは幼い家康を助けた仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚のことで、後年、家康が感謝のために招いた席で居眠りをしたところからこう呼ばれるようになりました。
七ツ森神社 油山道道標 三尺坊道

 街道を進むと右の県道413号線が近づくと、左のイズモ葬祭イズモホール袋井があり、街道沿いに東新屋道標があります。

ここから新屋の旧道迂回トレースが始まります、左図の通りにお進みください。

イズモホール袋井を左に回り込み、一本目を右折して
車止めのある細道に入ります。

車道を横断して
白畑ふとん店西新屋道標の間の車止めのある細道に入ります。

旧道を進むと新屋の
秋葉山常夜灯(燈)があります、木造屋形の常夜燈です。
東新屋道標 新屋旧道迂回トレース 秋葉山常夜灯

 PM6:08 袋井宿着

 旧道を進むと表通りの市役所前道標の所に出ます、この先は袋井市総合センター等で旧道は消滅しています、左図の通りに迂回して下さい。

袋井市役所前南交差点を横断して右折します、これより袋井宿標石があります、袋井宿江戸口(東口)です、袋井宿到着です!

袋井は「此地四方丘にて、中に田ありて袋の如し、その中に大いなる井泉あり、田畑の科とす、故に名とす」を地名由来としています。

袋井宿は
遠州三古刹を控え、これらの参詣客で大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると、
袋井宿の宿内家数は百九十五軒、うち本陣三、旅籠五十軒で宿内人口は八百四十三人(男三百七十九人、女四百六十四人)、宿長は西端の中川まで五町十五間(約572m)でした。
天橋旧道迂回トレース 袋井宿江戸口

 土橋であった天橋を渡ると右手にどまん中茶屋があります、袋井宿江戸日本橋から数えても、京三条大橋から数えても二十七番目のどまん中であることに由来しています。

どまん中茶屋は地元自治会や有志グループ
袋井宿宿場振興会などがボランティアで運営しているありがたい茶屋です。

茶屋の前のY字路は右に進みます、 懐かしい
たたみや旅館を過ぎると右手奥に白髭神社があります、猿田彦を祀っています。

宿並に戻ると右手に
東本陣跡があります、代々田代八郎左衛門が勤め問屋を兼ねました。
どまん中茶屋 白髭神社 東本陣跡

 袋井宿場公園その隣の静橋北交差点が袋井宿の起点です、予定通りの到着です。

花茣蓙公園で拭ったヘリーネックのTシャツもすっかり乾いています、懐かしい宿場公園で顔を洗い最後の給水をします。

それにしても暑かった、太陽が真上に来ると日影は一切ありません、但し
松並木の伸びた枝の下は別格です、やはり昔の方が歩き易かったのかも知れません。

茹だった体にはこれしかない、オーッ
STRONG、アルコール度数8%、こりゃー最強ダ、沁みるー。
袋井宿場公園 祝い酒



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