本日の東海道ウォークは藤枝宿から袋井宿迄です、この袋井宿は東海道のどまん中に位置します。 過去30km行程で進みこの宿に二度宿泊しています、40km行程で進んでもやはり起点になり、三度目の宿泊をしています。 そして圧巻は京からの60km行程でやはり袋井宿は起点になりました。 平成10年9月12日最終電車で袋井駅に到着し、袋井宿場公園で仮眠を取り、早朝出立の計画でした。 ところが宿場公園では日本国中から集まったとしか思えないほどの蚊の攻撃を受けあえなく撤退、即ミッドナイトウォークとなりました。 次は松並木間に張られたクモの巣攻撃です、顔にまとわり付く不快感は堪りません、最後には枝を拾い、それを回しながら歩きました。 掛川宿では暴走族の集会の真っ只中を突っ切り、日坂宿に到着。 小夜の中山に取り掛かりましたが、それこそ真っ暗です、とても薄気味悪くて進めません、撤退してドライブインで夜明けを待ちました。 そんな事を思い出しながらのお盆の猛暑日ウォークです。
右側の小路口に古東海道蹟標石があります。瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道です。 旧東海道が整備された後も、大井川が氾濫するとこの古道が利用されました。
右手の菱形擁壁の所が無縁寺跡です、寛永四年(1627)大井川氾濫の犠牲者供養に創建されましたが廃寺となりました。 旧境内には延命地蔵堂、庚申塔、瀬戸古墳群供養塔そして歴代和尚の墓である卵形無縫塔があります。
この伝承館は千貫堤の上に建てられています、残念ながらここでは染飯の賞味は出来ません、藤枝駅近くの御惣菜屋喜久屋で入手出来ます!
瀬戸橋の手前を右に入ると八幡宮があります、真新しくなっています。
藤枝市から島田市に入り、六合交番東交差点を過ぎ、セブンイレブンから左に入るとJR東海道本線六合駅です、ここから斜め右に入ります、六合旧道東口です。
寛永十二年(1635)島田宿は田中藩の預所となりました、藩主水野監物忠善(ただよし)は水不足に悩む栃山川以東の村々の為に大井川から取水した水路を開削しました。 これに感謝した農民は水路を監物川、街道に架けられた幅三間、長さ二間の土橋を監物橋と呼びました。
左手島田タクシー脇に甘露の井戸水があります、「ご自由にお飲みください」と書かれています、ミネラル、カルシウムを豊富に含んだ水質だそうです、それでは頂きます、甘露、甘露!
突当りの御陣屋稲荷は御陣屋の屋敷神でした、年一回の祭礼には宿民に解放され賑わったと云います。
静岡銀行島田支店前に俳聖芭蕉翁遺跡塚本如舟(じょしゅう)邸趾碑があります、芭蕉は島田を度々訪れ川庄屋を勤める塚本如舟邸に滞在しました。 碑には元禄七年(1694)大井川の増水で四日間、川留となり、腹いせに詠んだ句「さみだれの 雲吹きおとせ 大井川」が刻まれています。
「東 六合村境迄十八町十六間 青島町に至る」 「西 大井川渡船場迄二十四町六間 川根に通ず」 「南 島田駅迄一町 第壱街青年会」 と刻まれた近世の道標です。
川会所に隣接して島田大堤があります、慶長の大洪水では川除堤が決壊し、島田宿の全てが押し流されてしまった。 島田代官長谷川藤兵衛長勝は大堤を築き、治水と灌漑用水路を完成させました、これにより島田宿の米高は二十倍になったと云います。
恋人を慕って流浪中に瞽女(ごぜ)となった朝顔は川留の大井川に飛び込もうとしたが助けられ、その際奇跡的に目が治り、初めて目に映ったのが川岸の松であったと云います。 あさがほ堂には枯れてしまった松で作った木碑が安置されています。
今は川越遺跡から先は大井川の土手道を右に進み、大井川を大井川橋で渡ります、土手道には歩道がありませんからお気を付け下さい。 京方面からは博物館、川越遺跡標識を左折し、下り坂を進みます。
うち本陣三、脇本陣一、旅籠五十一軒で宿内人数は四千二百七十一人(男二千七十四人、女二千百九十七人)でした。
国に直訴して牧之原大茶園開墾の許可を獲得し、私財を投げ打って大井川木橋の架橋を成し遂げました。
境内に芭蕉句碑「道のべの 木槿(むくげ)は馬に 食われけり」があります、野ざらし紀行の一句で大井川辺りで詠んだ句と云われています。
左手の段上に道祖神が祀られています、宿口にあって悪霊の侵入を見張っています。
中納言宗行卿詩碑「昔南陽縣菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命」 「昔は南陽県(中国)の菊水を呑むと寿命が延びる云われたが、今は東海道の菊水で命を失う」の意です。 日野俊基歌碑「いにしへも かゝるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん」 承久の変から約百年後、後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕の正中の変に組し捕えられ、鎌倉へ護送の途次菊川の宿で、宗行を追懐して詠んだものです。 一旦は赦免となりましたが、再び後醍醐天皇による倒幕の元弘の変に組し、結局死罪となりました。
【小夜の中山由来】 その昔、中山峠に頭は鳥、体は蛇と云う怪鳥がいて、里人を悩ました。 帝の命により三位良政(さんみよしまさ)が派遣され、良政は菊川で鏃(やじり)を求め、見事射止めました。 良政は月小夜姫を娶り、これが小夜の中山の地名由来となりました。
次いで左手佐夜鹿神明神社鳥居手前に蒲生法師歌碑「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山」があります、熊谷次郎直実は一ノ谷の戦いに功があったが、世の無常を感じ、法然の元に出家して蓮生(れんしょう)と号しました。
怪鳥を退治した三位良政と月小夜姫の間に生まれた小石姫は長じて、身ごもったが悲恋に終わり、悲嘆に暮れて自害して果てました。
この石は明治元年(1868)まで街道の中央にありました、その後明治天皇東幸の際、道端に寄せられ、東京での博覧会に出展され、現在の位置に移されました。 現在の位置とは旧国道1号線小夜の中山トンネル東側にある、子育飴を商う小泉屋の所です、それでは久延寺の夜泣石は何なのでしょう、ミステリーですね!
「甲斐がねを さやにも見しが けけれなく 横ほりふせる さやの中山」 日乃坂神社を過ぎると視界が開け、国道1号線日坂バイパス高架が眼下に望めます。
この文七さんはしたたかで、幕府の長州征伐にもシッカリ献金しています、商人の鑑ですね!
合流の左に事任(ことのまま)八幡宮があります、坂上田村麻呂ゆかりの古社で、願い事がことのままに叶うと今も昔も人気を博しています。 境内にはクスノキや杉の大樹が聳えています。
中橋を渡り、園ケ谷(そのがや)交差点を過ぎると鄙びた感じの御食事処榛葉食堂があります、金谷坂の石畳茶屋から初めての食事処です、ベースは中華です。
突当りの茶のかねもを右折します、京方面からは突当りを左折します。
オランダ江戸使節団の一員で寛政十年(1798)掛川宿で亡くなったケイスベルト・ヘンミィの墓があります。
現在の天守閣は平成六年(1994)に復元されたものです。
押ボタン式信号を過ぎると街道は大きく右にカーブすると右手に秋葉常夜燈と東光寺の山門があります。 将門等の首級をこの地に葬ったところから将門寺と称したが、曹洞宗に改宗し東光寺となりました。
先で倉真川を大池橋で渡り、渡り詰めの大池交差点を左折します、京方面からは右折になります。
今は秋葉神社が祀られ、社標正一位秋葉神社道があります。
高松神社の先で旧道は掛川バイパスの敷設で消滅しています、上図の通りに掛川バイパス高架下を迂回します。 旧道復帰のチェックポイントであった新日軽は廃業していました、新たなチェックポイントはキリスト教会です。
自然石に「従是村松ヲ経テ宇刈村ニ通ズ」と刻まれています
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