刊行しています手作り街道マップの原稿は切り貼り方式で作成しています。 マップ情報をワードで打ち込み、それを剥離用紙にプリントし、それをカッターで切り出し、ピンセットで一枚一枚貼って行きます、いわゆるコテコテのアナログ方式です。 その様なシンプルな方式ですから、修正はいとも簡単に行うことができます、ただ貼り変えるだけなのです。 街道ウォークから戻りますと街道の変更ポイントや新たな情報の全てを打ち出し、マップをアップデートしています。 次にHPの道中日記の作成に取り掛かります、道中日記は街道マップのアップデートとルート情報に重点を置いて作成しています。 旧マップの宿間距離はマップメーターを用いて計測しました、これはマップ上を小さな車輪の付いたメーターを直接転がして測定します、これまたアナログの極みです、どうしても微小な誤差は避けられません。 今はPCマップをPCの画面上で距離を直接測定します、精度が飛躍的に向上しています、アップ済の道中日記の宿間距離はこの数値です。 この新たな宿間距離をインプットしたプロトタイプのマップを作成して、好日を待ちます。 これが一連のサイクルになっています。 サア東海道の後半戦に突入です、ここまでロスタイムは有りません。 題して残暑日ウォークの開始です。
案内図脇に袋井宿西本陣跡標柱があります、大田家が勤め建坪百六十六坪半で門構玄関付でした。
先の左手には木原の一里塚が復元されています。
境内のクスノキは樹高15mで御神木です。
境内にある徳川家康公腰掛石は関ケ原の戦いに向かう際、戦勝祈願に立寄り腰掛けた石です。
甲斐の武田信玄が遠江に進出し、木原に布陣すると、迎え撃つ徳川家康の家臣本多平八郎がここの大松に登り、武田勢の動向を物見しました、確かに太田川から遠く袋井まで一望できます。
江戸の急坂を登り切った旅人にとっては恰好の休憩処であったでしょう。 街道には松並木が残っています、見付の名木松並木標柱があります。
遠州鈴ケ森刑場で処刑される罪人が身内の者と涙の別れをした橋です。
往時は見付天神社に通じる表参道で天神道と呼ばれた元門(もとかど)の跡です。
像の横には見付天神裸祭碑があります、妖怪が退治された喜びの踊りが起源と云います。 JA遠州中央見付支店の所には菅原道真に由来する天神の木東之梅塚があります。
秀英予備校の手前を左に入り、一本目を右折すると安間平治弥邸跡があります、徳川家康から代官に任命され、証文が残されているところから御証文屋敷と呼ばれ、家康の休息所でした。
奥に淡海國玉(おうみくにたま)神社があります、延喜式の古社で遠江國総社です、本殿は明暦年間(1655~57)の再建です。 神話因幡(いなば)の白兎に因み狛犬は兎(うさぎ)になっています。
参詣者に授与される「子育てぞうり(藁ぞうり)」を子供に履かせると疫病にかからず、元気に育つと云われています。
只石旧道は磐田郵便局の所で再び県道に合流します、京方面からは斜め右に入ります。
街道はあんざいクリニック先で県道261号磐田細江線に合流します、中泉西分岐ポイントです、京方面からは重要なY字路になります、左生蕎麦まつだや、右磐田化学工業が分岐ポイントです、斜め右に進みます。
境内には西之島学校跡碑があります、明治五年(1872)学制施行にともない西之島小学校が創立されました、洋館三階建て校舎は見附学校、坊中学校とともに遠州三大学校と称されました。 先の左手に明治天皇御座所跡碑があります、天竜川の渡河を控え、ここで休息しました。
突当りの土手階段を上り、土手道を右に進みます、京方面からは逆になります。
広重はこの二筋の舟渡し風景を描いています。
そしてこの小路(黄色矢印)から再び姫街道に入ります、往時はこの追分に道標「従是鳳来寺」がありました、姫街道は鳳来寺への道でもありました。
左手に根元から横に曲がった異形の松があります、ここに立場跡解説板があります、ここは見付宿と浜松宿の中間にあたり間の宿と呼ばれ立場がありました、藤棚が名所であったと云います。
天竜川入口交差点には橋羽村の鎮守六所神社があります、境内には木造屋形の秋葉山常夜燈があります。 神社前にはお宮の松と呼ばれる、推定樹齢二百六十年、樹高17mの黒松がありましたが、昭和54年(1979)の台風20号により被害を受け、伐採されました。
塩味が十分に効いた体で街道筋の越川屋さんに入店です(PM1:20)。 即ビールをオーダーし、まずは咽喉を潤します。 メニューに目を通すと初耳のコッチャン飯に目がとまりました、女将さんにどのようなものですかと問うと、寡黙な女将は「おいしいですよ」と仰る、間髪入れずに「お願いします」。 御飯の上に炒めた野菜が掛けられ、その上に焼肉が乗せられ、レタスが添えられています、うまい!バランスが良い!!韓国風です!!!
江戸時代は向島村であったので向島の一里塚とも呼ばれます、江戸日本橋より数えて六十五里目です。 柳川を東鎧橋で渡り、相生町交差点を越えた先の両側に標柱があります、左は旧掛塚街道入口標柱です、天竜川上流から材木や木炭を浜松宿内に運び込む重要路でした。 右手は旧笠井街道入口標柱です、笠井には月に二度市が立ち、商人で賑わう流通路でした。
広重は浜松として画面右奥に浜松城、さらにその右手前に颯々(ざざんざ)の松を描いています。 颯々の松は三十本の松が群生したものです、室町六代将軍足利義教が風にざわめく松の音を「はま松の音はざざんざ」と謡い、これが浜松の地名由来になりました。
徳川二代将軍秀忠の産湯井戸です、ここより西方約50mの所にあった下屋敷で生まれました、生母は家康の側室西郷の局です。
家康にとっては辛酸を舐めた浜松城でしたが、徳川の世になると譜代大名が城主となり、二十五代の城主のうち五人が老中になったところから出世城と呼ばれました。
宿並の右に移ると浜松信用金庫の所に杉浦本陣跡標石と解説板があります、建坪は二百七十二坪(約900㎡)でした。
平安末期に戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺(かもえじ)を攻めた時、鴨江寺側の軍兵は、この辺一帯の水田に水を張り、鎧を着てこの橋の守りを固めて戦ったので、鎧橋と称したと云います。 双方の戦死者はおよそ千人に及び、鎧橋の北側に葬り、塚は千塚とも血塚とも呼ばれました。
山門脇に高塚学校標柱があります、明治の学制導入で高塚学校が設立されました。
すると安政の大地震による津波に襲われたが、この地の人々はこの山に避難して被害を免れました、以来この地は高塚と呼ばれるようになったと云います。
立場には立場本陣(茶屋本陣)があり、明治元年(1868)明治天皇東幸の際には休息所となりました。
篠原小学校前には横に伸びた名残りの松があります。 小学校の外れで長里橋を渡ると、先の右手に木造屋形の秋葉山常夜燈があります。
先のヘアーサロンみやざき先の右手にも木造屋形の秋葉山常夜燈があります。
馬郡観音堂跡で定朝作の聖観音菩薩像を安置していましたが、廃堂となり、観音像は如意寺に移されています。
応永二年(1395)春日大明神を勧請、慶安元年(1648)徳川三代将軍家光より朱印六石が下賜されました。 狛犬は雄雌一対の鹿になっています。
新町交差点手前に小公園があり、園内に浪小僧像があります、地引網にかかった浪小僧が命乞いし、助けてくれれば恩返しに「海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓を叩いてお知らせします」と云うので、海に戻してやりました。 以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと云います。
弁天橋を渡ると弁天島に入ります、先に進むと左手に弁天神社があります、宝永六年(1709)今切の渡しの安全を祈願して創建されました、境内には正岡子規句碑「天の川濵名の橋の十文字」等があります。 弁天神社の前で国道1号線に合流します、京方面からは重要な分岐ポイントです、斜め右に進みます。 JR東海道本線新居町駅迄は国道1号線の歩道を歩きます。
幕末、皇女和宮降嫁通行に際しては、今切の名を忌み嫌い東海道から中山道になったとも云います。
ユニークな料金体系ですね、グループ街道ウォークには最適ですね。 しかも朝軽食無料サービスと表記されています、但し、休日前や年末年始・GW・夏休みは割高になります。 コンビニで例のモノを仕入れてJR東海道本線新居町駅に到着です、ここが新居宿の起点です、本日も又予定通りです。 タップリ塩味の効いた体のまま乗車です、無論普通列車で戻ります、今宵は到着までに何本消費するのでしょうか。
|