道中日記 10-163 東海道 ( 袋井 - 新居 ) 38.9km

 刊行しています
手作り街道マップの原稿は切り貼り方式で作成しています。

マップ情報をワードで打ち込み、それを剥離用紙にプリントし、それをカッターで切り出し、ピンセットで一枚一枚貼って行きます、いわゆるコテコテの
アナログ方式です。

その様なシンプルな方式ですから、
修正はいとも簡単に行うことができます、ただ貼り変えるだけなのです。

街道ウォークから戻りますと街道の
変更ポイント新たな情報の全てを打ち出し、マップをアップデートしています。

次にHPの
道中日記の作成に取り掛かります、道中日記は街道マップのアップデートとルート情報に重点を置いて作成しています。

旧マップの
宿間距離マップメーターを用いて計測しました、これはマップ上を小さな車輪の付いたメーターを直接転がして測定します、これまたアナログの極みです、どうしても微小な誤差は避けられません。

今は
PCマップをPCの画面上で距離を直接測定します、精度が飛躍的に向上しています、アップ済の道中日記の宿間距離はこの数値です。

この新たな宿間距離をインプットした
プロトタイプのマップを作成して、好日を待ちます。
これが一連のサイクルになっています。

サア東海道の
後半戦に突入です、ここまでロスタイムは有りません。


題して
残暑日ウォークの開始です。

 平成20年09月10日 AM 8:58 袋井宿出立 見付宿まで 8.8km

 袋井宿の起点は信号静(しずか)橋北です、それでは出立しましょう。

スグ先の左手に
問屋場(人馬会所)跡標柱があります、文化年間(1806~17)までは中本陣の西にありました。

向いの魚源の所に
袋井宿中本陣跡標柱があります、大田家が勤め建坪二百十九坪で門構玄関付でした。

先の右手に
名所旧跡案内図があります、東の同心橋から西の太田川間の名所旧跡が描かれています。
問屋場跡 問屋場跡 中本陣跡 名所旧跡案内図 西本陣跡

 案内図脇に
袋井宿西本陣跡標柱があります、大田家が勤め建坪百六十六坪半で門構玄関付でした。

 先の右手にどまん中丸凧ギャラリーがあります、名物袋井丸凧看板が掲げられています。

広重の諸国名所百景
遠州秋葉遠景袋井凧に描かれている丸凧が再現されています、丸凧には唐獅子牡丹が描かれています。

スグ先の御幸橋の手前が袋井宿の
京方口(西口)です。

高札場従是袋井宿傍示杭、寛政年代建立の常夜燈、石垣と竹矢来の土塁等が復元されています。
袋井丸凧 遠州秋葉遠景袋井凧 高札場 西見付跡

 広重は袋井として袋井宿の京方口(西口)の出茶屋風景を描いています。

榎の幹に隠れて
傍示杭があります、「従是袋井宿」と書かれていたのでしょう。

画面の右には止宿予定の大名を知らせる
関札が描かれています、後方の家並みは袋井宿です。

宿場の外れには旅人や駕籠舁き(かごかき)が休憩する
茶屋がありました。

常設の茶屋が無い所には
出茶屋がありました、木の杭で囲んだ土盛の上に蓆(むしろ)を敷き、葦簀張(よしずばり)の屋根を掛けた簡易な造りでした。
東海道五拾三次之内 【袋井】 出茶屋ノ図

 宇刈川御幸橋(中川橋)で渡ります。

川原町バス停を過ぎると左手袋井中学校正門口に
御料傍示杭跡標柱があります、杭には「従是東天領袋井宿」と刻まれていました。

袋井中学校正門内に
万葉歌碑があります、日本最古の歌集万葉集の防人(さきもり)の歌が二首記されています。

スグ先の右手に法多山
尊永寺川井別院があります、大正四年(1915)建立で川井のお弘法さまと親しまれています。
※現在は
新築になっています。
御幸橋 傍示杭跡 万葉歌碑 法多山別院

 袋井中学校北交差点を左に入ると十二所(じゅうにしょ)神社があります、川井村の鎮守です。

創建は紀州
熊野権現より天神七代、地神五代の合わせて十二代を勧請し、十二所と称しました。

境内には寛政十年(1798)建立の
秋葉山碑や光明山常夜灯があります、天竜市の光明山を祀る常夜灯です。

更に進むと右手に
円通寺があります、山門は川井代官所の門を移築したものです。

川井代官所は円通寺の南にあり袋井陣屋とも呼ばれました、この地の八万八百二十石余を支配していました、その後中泉に移転しました。
十二所神社 光明山常夜燈 円通寺山門

 街道に戻ると左手に東海道どまん中西小学校(袋井市立袋井西小学校)があります、小路を挟んで隣りに白い木造二階建ての洋館があります。

袋井市指定文化財
旧澤野医院です、澤野家は享保十二年(1727)に作成された山名郡川井村差出明細帳内科医と記載されている名家です。

シャッターに
股旅四人衆が描いてある森乃茶のマルサ屋先の右手に明治元年(1868)築の寺澤家長屋門があります。

並びに
津島神社が祀られています、かつてはこの付近にあった松並木にお札が降った為、この地に津島神社を祀ったと云います。
旧澤野医院 寺澤家長屋門 津島神社

 旧道は川井交差点で斜め右からの県道413号磐田袋井線に合流します。

この合流ポイントには
川井道標があります、京方面からは重要な分岐ポイントです、斜め右に入ります。

川井西交差点を越え、
松橋を渡り木原松橋道標の所から斜め右の旧道に入ります、京方面からは県道に合流します。

十字路を越すと右手に
木原一里塚跡標柱があります、ここが本来の木原の一里塚跡です、両塚共木原村地内で塚木は松でした、江戸日本橋より数えて六十一里目です。
川井道標 木原旧道東口 一里塚跡 復元木原一里塚

 先の左手には
木原の一里塚が復元されています。

 復元一里塚前の十字路を右(北)に400m入った所が木原縄手古戦場跡でらん塔のお地蔵さんが祀られています、笹田源吾の墓です。

徳川家康武田勝頼長篠の合戦の前哨戦の場となり、武田方は徳川方の情勢を探る為、笹田源吾を偵察に出しました、しかし徳川方に味方する木原村の住人に討たれてしまいました。

しかし村に祟りが起こった為、村人は悪霊を鎮める為に、
地蔵を祀りました。

街道に戻ると
許禰(こね)神社があります、洪水の難を除く為、熊野の神の使いであるカラスの神託によりこの地に木原権現を祀ったと云います。
笹田源吾の墓 許禰神社 クスノキ

 境内の
クスノキは樹高15mで御神木です。

 許禰神社境内には木原畷古戦場碑があります、 元亀三年(1572)上洛を決意した武田信玄は東海道に進出し、これを迎え撃つ徳川家康との緒戦の火蓋が切って落とされた所です。

この後
三方ケ原で両雄は激突し、家康は惨敗、浜松城に逃げ帰りました、城に逃げ帰った家康は恐怖の余り脱糞をしていたと云います。

家康は恐怖に歪む姿
(しかみ)姿を絵師に描かせ、戒めとしました。

快進撃を続ける
信玄も翌年三河の地で病没享年五十三歳でした、家康は大いに安堵したことでしょう、天正三年(1575)家康は長篠の戦い武田勝頼を破っています。
木原畷古戦場碑 顰(しかみ)像 家康公腰掛石

境内にある
徳川家康公腰掛石は関ケ原の戦いに向かう際、戦勝祈願に立寄り腰掛けた石です。

 許禰神社に隣接する長命寺の境内に笹田源吾之供養塔があります、武田勝頼の密偵笹田源吾は木原村で討ち取られてしまいました。

その後、村には疫病が流行り、源吾の霊の祟りではないかと云われ、村人は源吾の
を建て、その前で行った供養祭が木原大念仏の始まりと云います。

街道沿いの小屋には
木原大念仏(市指定無形民俗文化財)の模様写真が掲示されています。

毎年8月13、14日の二日間、
新盆の家を回り、念仏踊りで先祖の霊を慰めます。

木原道標先で県道413号線に合流します。
笹田源吾供養塔 木原大念仏解説 木原旧道西口

 蟹田川を木原橋橋側歩道橋で渡ると袋井市から磐田市に入ります。

京方面からは
歩道橋先を斜め左に入ります。

西島交差点先の左に
須賀神社があります、境内の大楠は樹高15mで推定樹齢五百年です(市指定天然記念物)。

次いで右手に曹洞宗廣福山
全海寺があります、地蔵堂には三つ葉葵紋の幔幕が掛かっています。

全海寺門前にて徳川三代将軍
家光が落馬し、その際に命を救ったと云われる身代り下馬地蔵尊が祠に安置されています。
木原橋歩道橋 須賀神社大楠 全海寺

 太田川三ケ野橋で渡ります、太田川は静岡県周知郡森町北部に源を発し、流末は遠州灘に注いでいます。

三ケ野橋の渡詰めを左折して
土手道に入ります、ここが三ケ野旧道口です。

スグ先の
石段を下り、突当りの舗装路を左折し、スグ先を右折して、名残り松の旧道に入ります、京方面からは突当りの土手石段を上ります。

食事処
なぐらがある十字路を横断すると松並木が始まります、街道脇には三ケ野道標旧東海道松並木解説があります、現在の松並木は後世に捕植されたものです。
三ケ野橋渡詰め 三ケ野旧道口 三ケ野松並木

 小さな流れを越すとY字路になります、左の明治の道を進みます、右は大正の道です。

街道は上り坂になり、右に大きくカーブすると、左に急な上り坂が現れます、
江戸の古道碑があります、ここを左折します、京方面からは突当りを右折します。

急坂を上り詰めると
T字路に突き当たります、右折します、江戸の古道碑があります。

左折しますと
鎌倉の古道碑があり、大日堂碑があります。

ここには
本多平八郎物見の松がありました。
三ケ野の旧道トレース 大日堂碑 物見松跡

 甲斐の
武田信玄が遠江に進出し、木原に布陣すると、迎え撃つ徳川家康の家臣本多平八郎がここの大松に登り、武田勢の動向を物見しました、確かに太田川から遠く袋井まで一望できます。

 江戸の古道(白矢印)に戻って進むと十字路に出ます、右からは先程分岐した明治の道(黄色矢印)がここで合流します。

この分岐ポイントにあるのが
三ケ野公会堂老人憩いの家です、敷地内に蒲田山醫王寺への従是蒲田山薬師道道標車井戸之跡碑があります。

井戸は弘化四年(1847)
醫王寺によって掘られ、滑車で汲み上げたところから車井戸と呼ばれました。

先の右手に
三ケ野立場木製標識があります、風化が進み判読不明です。
老人憩いの家 道標&井戸跡碑 松並木 名木標柱

 江戸の急坂を登り切った旅人にとっては恰好の休憩処であったでしょう。

街道には
松並木が残っています、見付の名木松並木標柱があります。

 松並木の上り坂を上り詰めると県道413号線に合流します、正面の磐田市富士見(東大久保)歩道橋を渡ります。

右手の高台に
遠州鈴ケ森刑場跡があります、胸が付くような急な石段を上ると日本左衛門供養塔と云われる妙法無縁之萬霊供養塔があります。

江戸鈴ケ森で処刑された日本左衛門の首はここに晒されました、思い込みでしょうか空気間が違います、長いは無用です。

わかば
台団地入口バス停そして藤の花寿司の所から斜め右の旧道に入ります。

旧道に入り大きな十字路を越すと左の小川に
三本松橋が架かっています、なみだ橋と呼ばれました。
富士見歩道橋 遠州鈴ケ森 萬霊供養塔

 
遠州鈴ケ森刑場で処刑される罪人が身内の者と涙の別れをした橋です。

 旧道を進むと十字路の左手に大正四年(1915)建立の富士見町秋葉山常夜燈があります、遠州の地は秋葉信仰が盛んで毎年十二月に例祭・秋葉神社祭りが行われます。

十字路を左に下ると江東山
徳翁院観音堂があります、天和年間(1615~23)の創建で本尊は十一面観音菩薩立像です。

十字路を右に入ると
天満地蔵尊があります、一寸八分(約5.5km)の胎内仏です。

街道に戻ると急な下り坂が始まりますが、右手に
見付天神社元門之跡碑があります。
秋葉山常夜燈 徳翁院観音堂 天満地蔵尊 元門之跡

 往時は
見付天神社に通じる表参道で天神道と呼ばれた元門(もとかど)の跡です。

 急坂を下ると右手のアパートのジュネスⅡの裏に阿多古山の一里塚北塚を残しています、江戸日本橋より数えて六十二里目です。

左手が
愛宕山です、一旦坂を下り愛宕神社の参道階段を上ると社殿の裏に阿多古山の一里塚南塚を残しています。

愛宕神社は愛宕山に鎮座し、見付宿の火伏を担っています。

愛宕神社境内からは
見付宿が一望です。
阿多古山一里塚 南塚 愛宕神社 見付宿遠望

 AM 11:07 見付宿着 浜松宿まで12.6km

 愛宕山脇の急坂を下ると下道に突き当たります、ここが見付宿の江戸方口(東口)です、ここには東海道五十三次之内遠州見付宿木戸跡標識があります、見付宿到着です!

左(黄矢印は)は
愛宕神社の参道石段口です、宿並は右折(白矢印)です。

西からの旅人が初めて
富士見つけたところが見付の地名由来と云います、古には遠江国府が置かれ、遠江國の中心地でした。

見付宿は
天竜川の川越宿として栄え、姫街道(本坂越え)の追分を控え大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
見付宿の宿内家数は千二十九軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠五十六軒で、宿内人口は三千九百三十五人(男千八百九十八人、女二千三十七人)でした。
見付宿東口 木戸跡

 宿並に入ると愛宕橋のモニュメントを渡ります。

スグ先の押しボタン交差点を右に入ると
矢奈比売神社があります、正暦四年(993)菅原道真を合祀した所から見付天神と呼ばれるようになりました。

慶長八年(1603)
徳川家康より神領五十石を寄進されています。

参道には
悉平(しっぺい)太郎の銅像があります、若い娘を生贄にする妖怪を退治した霊犬です。
愛宕橋 見付天神 裸祭と悉平太郎 天神の木

像の横には
見付天神裸祭碑があります、妖怪が退治された喜びの踊りが起源と云います。

JA遠州中央見付支店の所には菅原道真に由来する
天神の木東之梅塚があります。

 かっとさろんコニシの所を右に入ると曹洞宗宣光寺があります、梵鐘は徳川家康が寄進したものです。

天正十五年(1587)
戦死者供養を祈って寄進したもの、貴重な古鐘であるところから戦時中の供出を免れたと云います。

今之浦川中川橋で渡ると右手に東海道見付宿碑があります。

ここを入ると右手に風格のある
金燈籠があります、更に進むと大見寺です、今川氏によって築かれた見付端(みつけは)城跡で土塁の一部を残しています。

家康は見付端城を廃城にして
大見寺に寄進し、境内に茶屋御殿を建てました。
家康寄進の梵鐘 金燈籠 大見寺

 墓所に鳥人幸吉の墓があります、日本で初めてグライダーのような翼で空を飛びました。

宿並に戻ると磐田見付郵便局の所に
鳥人浮田幸吉住居跡燈籠型標識があります。

幸吉は宝暦七年(1757)備前國(岡山県)で生まれ、天明五年(1785)二十八歳の時、竹や木の骨に紙を張ったで飛んだところ、天狗や化物扱いをされて所払いとなりました。

晩年は
見付で余生を送り、弘化四年(1847)死去しました、享年九十一歳でした。

向いの静岡銀行が
問屋場跡です。
鳥人幸吉墓 鳥人幸吉住居跡 問屋場跡 安間平治弥邸跡

 秀英予備校の手前を左に入り、一本目を右折すると
安間平治弥邸跡があります、徳川家康から代官に任命され、証文が残されているところから御証文屋敷と呼ばれ、家康の休息所でした。

 秀英予備校の所が脇本陣跡です。

宿並右手の旧家が
御朱印屋敷冷酒清兵衛邸です、村上清兵衛は見付を訪れた徳川家康に冷酒を献上したところ、大層気に入り冷酒清兵衛と呼ぶようになったと云います。

信号交差点を横断すると右手に
本陣跡標識があります、北本陣跡です。

宿並を挟んだ向いが
南本陣跡ですが標識はありません。

右手が
高札場跡です、標識は無しです。
脇本陣跡 御朱印屋敷 本陣跡 淡海國玉神社

奥に
淡海國玉(おうみくにたま)神社があります、延喜式の古社で遠江國総社です、本殿は明暦年間(1655~57)の再建です。

神話
因幡(いなば)の白兎に因み狛犬は(うさぎ)になっています。

 淡海國玉神社の参道脇に史跡旧見付学校があります、学制発布後まもない明治八年(1875)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎です。

宿並を進むと右手に
脇本陣大三河屋門があります、薬医門で市指定文化財です。

大三河屋は当初
旅籠屋でしたが、文化二年(1805)に脇本陣となりました。

次いで右手奥に日蓮宗本山
玄妙寺があります、元中二年(1385)の創建です。

鬼子母神の大祭が例年行われます。
旧見付学校 脇本陣大三河屋門 玄妙寺

 参詣者に授与される「
子育てぞうり(藁ぞうり)」を子供に履かせると疫病にかからず、元気に育つと云われています。

 次の小路を右に入ると臨済宗妙心寺派大梅山慈恩寺があります、山門は薬医門で門前には半僧坊碑があります、堂には僧侶に食事を知らせる為に打ち鳴らした雲板(うんばん)市指定文化財があります。

右手に
西坂の梅塚があります、霊犬悉平太郎が退治した妖怪が若い娘の生贄を要求した最後の町屋跡です。

信号交差点を左折(白矢印)します、直進(黄矢印)は
姫街道追分です、これより姫街道三州御油宿までがあります。

出女を厳しく取り締まった
新居の関を避ける姫君が浜名湖を迂回する本坂越えを利用したところから姫街道と呼ばれました。
慈恩寺 西坂の梅塚 姫街道追分

 宿並を進むと右手にぽつねんと西光寺山門があります、これは中泉村にあった中泉御殿(後の中泉代官所)の表門を移築したものです、総ケヤキ造りの薬医門で市指定文化財です。

加茂川手前に
木戸風モニュメントがあります、見付宿の京方口(西口)です。

加茂川加茂川橋で渡り、加茂川交差点を横断します。

スグ先の
加茂川バス停の所から斜め左に入ります、鉄製のゴミ小屋脇に只石碑があります。
西光寺表門 西木戸跡 只石旧道北口 只石碑

 只石旧道は
磐田郵便局の所で再び県道に合流します、京方面からは斜め右に入ります。

 右手に特別史跡遠江国分寺跡があります、天平十三年(741)聖武天皇の詔で全国に建立された国分寺跡です。

遠江国分寺の規模は東西180m、南北250mで、七重塔の跡や金堂跡の礎石を残しています。

向いの左手には
府八幡宮があります、楼門は県指定文化財で嘉永十二年(1635)建立の随身門です。

天平通りを進み右手セブンイレブンの所を右に入ると真宗大谷派
西願寺があります、山門は中泉御殿裏門を移築したものです。
遠江国分寺跡 府八幡宮 西願寺

 街道に戻り右手の市営駐車場を過ぎ歩車分離式交差点を右折(白矢印)します、中泉東分岐ポイントです、京方面からは左折します。

分岐ポイントの
JTBは女性専用エステティックサロンRinRinに代わっています。

直進(黄矢印)するとJR東海道本線
磐田駅です、駅前には善導寺の大樟(くす)が聳えています。

かつてはこの地にあった
善導寺の境内にあったものです、推定樹齢七百年、高さ18.3mの大樹で静岡県指定天然記念物です。

街道を進むと中泉公民館に
中泉道標があります。
中泉東分岐 善導寺の大樟 中泉西分岐

 街道はあんざいクリニック先で
県道261号磐田細江線に合流します、中泉西分岐ポイントです、京方面からは重要なY字路になります、左生蕎麦まつだや、右磐田化学工業が分岐ポイントです、斜め右に進みます。

 分岐ポイントの左手にはくろん坊様があります、物盗りに殺されたインド人の旅僧(黒坊大権現)を祀っています、咳や熱病に御利益があります。

中泉の坂は
大乗院坂と呼ばれました、坂の途中に山伏の寺大乗院があったところに由来しています。

万能橋交差点を越えると
名残り松が数本あります。

右手の浜松日産隣りの塚上に
一里塚の跡碑があります、宮之一色の一里塚跡です。

現在の
は昭和四十六年(1971)に復元されたものです、江戸日本橋より数えて六十三里目です。
くろん坊様 名残りの松 宮之一色塚

 街道の左手に文政十一年(1828)建立の宮之一色秋葉山常夜燈があります、竜の彫り物があるところから竜頭とも呼ばれます、燈籠の上部は明かりが漏れるように格子になっています。

豊田町森下歩道橋を過ぎた先のY字路は左に進みます。

森下南交差点を越えると右手に
若宮八幡宮があります、二十九ケ村の村社を合祀した郷社です。
宮之一色秋葉山 森下分岐ポイント 若宮八幡宮 御座所跡碑

 境内には
西之島学校跡碑があります、明治五年(1872)学制施行にともない西之島小学校が創立されました、洋館三階建て校舎は見附学校、坊中学校とともに遠州三大学校と称されました。

先の左手に
明治天皇御座所跡碑があります、天竜川の渡河を控え、ここで休息しました。

 豊田西之島バス停を過ぎると右手に長森立場道標があります、間の宿で掛茶屋立場茶屋などの茶屋が軒を連ねていました。

立場名物は
長森かうやくでした、万治年間(1658~60)から山田与左衛門家でつくられた家伝薬であかぎれ切り傷に抜群の効能があるとして評判でした。

製法は
山田与左衛門の夢枕にたった神のお告げと云われ、一子相伝でした。

道標先の
信号交差点を右折します、次いで左山口建設、右スロットゴールドモンキー先の十字路を左折します。
長森立場 長森分岐 豊田西之島分岐 土手階段

 突当りの
土手階段を上り、土手道を右に進みます、京方面からは逆になります。

 土手道には歩道がありません、十分お気を付け下さい。

天竜川橋袂を横断します、
天竜川橋には歩道がありません。

先に進み
新天竜川橋の歩道に入ります。

天竜川は信州諏訪湖に源を発し、流末は遠州灘に注いでいます、暴れ天竜と呼ばれる暴れ川でした。

往時天竜川は
大天龍小天龍二筋の流れがあり、両者とも舟渡しでした、渡し料は武士は賃銭なし、民百姓は銭六文でした。
天竜川 東海道五拾三次之内 【見附】 天龍川図

 広重はこの二筋の舟渡し風景を描いています。

 新天竜川橋の渡り詰を左折して階段を下り、正面の天竜川西交差点を横断して土手道を進みます。

土手道には
歩道がありません、お気を付け下さい。

右手に
明治天皇玉座迹の碑があります、明治十一年(1878)北陸東海巡幸の際、渡河後ここで休息しました。

スグ先に
舟橋跡標柱と天竜川木橋跡標柱があります、明治元年(1868)明治天皇東幸の際に舟橋が架けられ、同九年(1876)木橋が架橋され、昭和八年(1934)鉄橋が出来るまで使用されました。

東海道マップではこの木橋ルートを採用しています、上流の池田の渡しトレースは姫街道マップに譲っています。
新天竜川橋西詰 玉座迹碑 舟橋&木橋跡

 舟橋・木橋跡標柱脇の石段を下り突当りの舗装路を右折します。

スグ先を左折します、この分岐ポイントには
旧東海道標柱中ノ町道路元標があります。

中野町は東海道のちょうど
どまん中であるところを由来としています。

十辺舎一九東海道中膝栗毛に「舟よりあがりて建場(立場)の町にいたる。此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」と著されています。
中野町南分岐 中野町北分岐 旧東海道 中ノ町元標

 旧道の復帰ポイントには六所神社があります、建治二年(1276)尾張中野郷より勧請され、御朱印五石七斗を拝領しました。

旧道を進むと右手の民家脇に
中野町銀行跡解説板があります、中野町銀行は西遠銀行と合併して遠州銀行となり、最後は静岡銀行に吸収されました。

次いで右手に
天竜川橋紀功碑があります、浅野茂平が舟橋を二度架橋した顕彰碑です。

うなぎ中川屋先の十字路に
東橋(ひがしばし)標柱と解説板があります、かつてはここを流れる小川に土橋が架橋されていました、中野町村の一番東に位置していました、中野町は天竜川の舟運による木材の集積地として栄えました。
六所神社 天竜川橋紀功碑 東橋

 旧道を進むと右手に軽便鉄道軌道跡標柱と解説板があります、軽便鉄道は明治四十二年(1909)より、浜松~中野町間の十一駅を走っていました。

けいべんと親しまれたこの列車は、ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニ蒸気機関車で客車一輌を引いて、家並みの軒先すれすれに走っていました。

次いで右手に
松林寺があります、遠江四十九薬師霊場第八番札所です、街道沿いの奥山大権現常夜燈には當町安全と刻まれています、境内には延命地蔵尊、子育地蔵尊、庚申堂、十王堂等があります。

向いには
かやんば高札場跡標柱があります、中野町村に隣接する萱場(かやんば)村の高札場跡です。
軽便鉄道跡 松林寺 高札場跡

 先に進むと右手に金原明善(きんばらめいぜん)翁生家があります、天竜川の大洪水を経験し、明治の世になると明善は私財を投じて天竜川の治水事業に尽力しました。

この功績により
玉座迹の碑の所で、明治天皇に拝謁しています。

生家跡の向いに
金原明善記念館があります、前庭に歌碑「木を植えて 天龍の川治めんと 心も固く 若き日の明善」があります。

先に進むと右手の小路口に
本坂通(姫街道)安間起点案内板があります、見付宿から姫街道に入り、池田の渡しを経由し、一旦東海道に合流します。
金原明善翁生家 明善歌碑 姫街道安間起点

 そしてこの小路(黄色矢印)から再び
姫街道に入ります、往時はこの追分に道標「従是鳳来寺」がありました、姫街道は鳳来寺への道でもありました。

 スグ先の右手に安間一里塚標柱があります、この一里塚は姫街道の一里塚も兼ねていました。

東海道宿村大概帳には「安間新田地内で両塚共木立榎」と記されています、江戸日本橋より数えて六十四里目です。

安間新田安間了源なる者がこの地を開拓したところに由来しています。

スグ先で
県道312号中野子安線に合流します、分岐ポイントには旧東海道標柱があります、京方面からは重要な分岐です、斜め右に入ります。

街道は
安間川安間橋で渡ると薬新町に入り、浜松バイパスをくぐると松並木が始まります。
一里塚 安間分岐 異形の松

 左手に根元から横に曲がった
異形の松があります、ここに立場跡解説板があります、ここは見付宿と浜松宿の中間にあたり間の宿と呼ばれ立場がありました、藤棚が名所であったと云います。

 浜松橋場郵便局手前の左手に南無妙法蓮華経題目碑があります、左に進むと日蓮宗の古刹妙恩寺があります。

境内に
家康公御手植之苗楊木碑があります、三方ケ原の戦いで武田信玄に敗れた家康はからくも当山に逃げ込み、本堂の天井裏に隠れたと云います。

寺紋の
丸と二引は飯椀に箸をのせて給仕したという由来により家康から拝領したものと云います。

境内には
金原明善供養塔があります、当山は金原家の菩提寺です。
妙恩寺題目碑 家康手植楊 明善供養塔 六所神社

 天竜川入口交差点には橋羽村の鎮守
六所神社があります、境内には木造屋形の秋葉山常夜燈があります。

神社前には
お宮の松と呼ばれる、推定樹齢二百六十年、樹高17mの黒松がありましたが、昭和54年(1979)の台風20号により被害を受け、伐採されました。

 浜松アリーナを右に見てグングン歩きます、子安交差点を斜め左に入ると子安神社があります。

源頼朝の弟
範頼が娘の安産を祈願して創建したものと伝わっています。

秋祭りには
母乳に似せた甘酒が振る舞われ、これを飲むと乳の出が良くなると云われます。

陽差しは強烈ですが、湿度が低いせいかまとわり付く暑さはありません、吹き出た汗はスグに乾き、腕も足も塩で真っ白です。
子安神社 越川屋 香の物 コッチャン飯

塩味が十分に効いた体で街道筋の
越川屋さんに入店です(PM1:20)。

即ビールをオーダーし、まずは咽喉を潤します。

メニューに目を通すと初耳の
コッチャン飯に目がとまりました、女将さんにどのようなものですかと問うと、寡黙な女将は「おいしいですよ」と仰る、間髪入れずに「お願いします」。

御飯の上に炒めた野菜が掛けられ、その上に焼肉が乗せられ、レタスが添えられています、うまい!バランスが良い!!韓国風です!!!

 吉川琵琶橋で渡り、先に進むと信号交差点の右手に蒲神明宮の鳥居があります、大同元年(806)の創建です。

神主の蒲(かば)氏は源頼朝の弟
範頼(義朝の六男、母は遠州池田の遊女)の末裔と云います。

付いで右手に
龍梅寺があります、境内に梅加蔭幻香禅童女墓碑があります、享保十五年(1730)東海道を通行中に急病で亡くなった松平伊豆守信祝の娘の墓です。

天神町交差点を越え、浜松東警察署先の右手に
馬込一里塚跡解説板があります。
蒲神明宮 龍梅寺 馬込一里塚跡 掛塚街道入口

 江戸時代は向島村であったので
向島の一里塚とも呼ばれます、江戸日本橋より数えて六十五里目です。

柳川東鎧橋で渡り、相生町交差点を越えた先の両側に標柱があります、左は旧掛塚街道入口標柱です、天竜川上流から材木や木炭を浜松宿内に運び込む重要路でした。

右手は
旧笠井街道入口標柱です、笠井には月に二度市が立ち、商人で賑わう流通路でした。

 PM 2:17 浜松宿着 舞阪宿まで11.5km

 スグ先の馬込川に架かる馬込橋の手前に外木戸跡(馬込橋東)標柱があります、橋を渡ると番所がありました、浜松宿到着です!

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
浜松宿の宿内家数は千六百二十二軒、うち本陣六、旅籠九十四軒、宿内人口は五千九百六十四人(男二千九百三十二人、女三千三十二人)で、宿間は二十三町十五軒(約2,530m)でした。

家康は
浜松城に十七年間在城しました、しかしこの期間は辛酸を舐めた時期でもありました、三方ケ原の合戦に大敗し、織田信長から正室の築山御前と嫡子信康武田信玄に内通していると疑われ、処刑を命じられ、死に追いやっています。
外木戸跡 東海道五拾三次之内 【濱松】 冬枯ノ図

 
広重は浜松として画面右奥に浜松城、さらにその右手前に颯々(ざざんざ)の松を描いています。

颯々の松は三十本の松が群生したものです、室町六代将軍足利義教が風にざわめく松の音を「はま松の音はざざんざ」と謡い、これが浜松の地名由来になりました。

 それでは浜松宿内を進んでみましょう、静岡銀行の所の信号交差点の手前右手に夢告地蔵尊が祠の中に安置されています。

安政五年(1858)に流行った
コレラの犠牲者を供養したものです、その後明治の廃仏毀釈により土中に埋められてしまったが、町民の夢枕に現れ、掘り出されてここに安置されました。

マップでは
板屋町交差点が浜松宿の起点です、板屋町歩道橋は撤去されています。

正面の
遠州鉄道線の高架をくぐったら右折して、高架の側道を進んでみましょう、遠州病院駅を越すと右手に徳川秀忠公誕生の井戸があります。
夢告地蔵尊 秀忠公誕生井戸 誕生井戸

 徳川二代将軍秀忠の
産湯井戸です、ここより西方約50mの所にあった下屋敷で生まれました、生母は家康の側室西郷の局です。

 宿並に戻って進みます、田町交差点を越え連尺交差点を左折します、ここを右折すると浜松城大手門跡標石と解説板があります。

大手門は間口八間(約14.6km)奥行四間(約7.3m)の瓦葺門でした。

更に進んでみましょう、市役所前交差点を左折して進むと右手に
鎧掛松があります。

三方ケ原の合戦に大敗し、逃げ帰った家康は松に鎧を掛けて休息したと云います。

ここからは
浜松城天守閣が望めます。
大手門跡 大手門跡標石 鎧掛松 浜松城天守閣

 家康にとっては辛酸を舐めた浜松城でしたが、徳川の世になると
譜代大名が城主となり、二十五代の城主のうち五人が老中になったところから出世城と呼ばれました。

 連尺交差点に戻り、宿並を進みましょう。

右手の
谷島屋書店の所に高札場跡標石と解説板があります、柵で囲い柱を立てて高札を掲げた高札場がここにありました。

スグ先の浜松連尺郵便局の所を右に入ると突当りに
五社・諏訪神社があります、五社神社は浜松城内で誕生した秀忠の産土神です、諏訪神社は家康が社殿を造営し、家光が現在地に転座させました。

宿並の左にシフトすると緑屋の前に
佐藤本陣跡解説板があります、建坪はおよそ二百二十五坪(約745㎡)でした。
高札場跡 五社・諏訪神社 佐藤本陣跡 杉浦本陣跡

 宿並の右に移ると浜松信用金庫の所に
杉浦本陣跡標石と解説板があります、建坪は二百七十二坪(約900㎡)でした。

 先に進むと伝馬町交差点手前の右手三菱東京UFJ銀行の所に川口本陣跡解説板があります、建坪は百六十三坪(約540㎡)でした。

伝馬町交差点を渡った左手トイザラスの所に
梅屋本陣跡標柱と解説板があります、建坪は百八十坪(約600㎡)でした、国学者加茂真渕(本名庄助)は梅屋家の婿養子でした。

先の松尾小路を右に入ると
松尾神社があります、和銅年間(708~14)の創建で、歴代浜松城主の祈願所であり、浜松の産土神です。

成子交差点辺りが浜松宿の
西木戸跡です。
川口本陣跡 梅屋本陣跡 松尾神社

 成子交差点を右折し雄踏(ゆと)街道を進み、成子坂バス停先の菅原町交差点を斜め左に進みます。

この交差点には
子育て地蔵尊が祠内に安置されています、 長年子供に恵まれなかった町民がをかけたところ子供を授かったと云われるお地蔵様です。

正面に現れる
東海道本線高架下の直線道は消滅しています、道なりに迂回します、西浅田北交差点を斜め左に進みます、この交差点が復帰ポイントです、京方面からは右折し、一本目を左折します。

東海道新幹線高架をくぐり、森田町交差点を越すと、セブンイレブン手前の
堀留川(よろい)で渡ります、渡り詰めに鎧橋標柱があります。
子育て地蔵尊 東海道本線高架 鎧橋

 平安末期に戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺(かもえじ)を攻めた時、鴨江寺側の軍兵は、この辺一帯の水田に水を張り、鎧を着てこの橋の守りを固めて戦ったので、
鎧橋と称したと云います。

双方の戦死者はおよそ千人に及び、鎧橋の北側に葬り、塚は
千塚とも血塚とも呼ばれました。

 スグ先の右手和食めん処サガミの所に八丁縄手標柱があります、八丁は長さを示す単位ではなく長さの比喩です、縄をピーンと張った様な長い直線道を意味しています。

右手イケダヤ酒店の向いに
一里塚跡標石があります、若林の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて六十六里目です。

街道は
東若林交差点から大きく右に曲がります、この交差点を越えると街道の両側に御堂が対であり、二ツ御堂と呼ばれています。

平泉の
藤原秀衡(ひでひら)が京で病に倒れたとの知らせを聞いた愛妾が京に向かい、ここで死去の知らせ(誤報)を聞き、菩提を弔うために北側に阿弥陀堂を建立し、自身もここで亡くなったと云います。
八丁縄手 一里塚跡 二ツ御堂北堂

 境内には高札場跡標柱があります、この辺りに高札場がありました。

お堂脇には
馬頭観音祠があります、三面八臂(さんめんはっぴ)馬頭観世音菩薩が安置されています。

馬頭観音裏には
秀衡松があります、秀衡の愛妾を埋葬した所に秀衡が植えた松と云います。

御堂脇を右手に進むと突当りに
八幡神社があります、若林村の鎮守です。

京の
石清水八幡宮を勧請したものです。
高札場跡 馬頭観音 秀衡松 八幡神社

 北堂の向いに二ツ御堂南堂があります、後に病気が平癒した秀衡が帰国の途中、ここで北堂の話を聞き、南堂を建立し薬師如来を祀り、菩提を弔ったと云います。

境内には
明治天皇御野立所記念碑があります。

街道は一本道です、グイグイ歩きます、所々に
松並木を残しています。

可美小学校東交差点先の右手に
諏訪神社があります、大永四年(1524)信州上諏訪社を勧請したものです、境内には秋葉神社が祀られています。

慶安元年(1648)徳川幕府より
三石下賜され、朱印状の写し九枚が残されています。
二ツ御堂南堂 明治天皇碑 諏訪神社

 増楽郵便局先の右手に切妻木造屋形秋葉山常夜燈があります、この先木造屋形形式の秋葉山常夜燈が多数見受けられます。

浜松市増楽寺歩道橋の右手に
熊野神社があります、大正十五年(1926)火災に遭い、由緒は不明となりました。

境内には
高札場跡標柱と解説板があります、増楽村の高札場です。

スグ先の右手GUの敷地角に
従是東濱松領傍示石があります、浜松藩と旗本大沢家の堀江領との境界石です。
秋葉山常夜燈 熊野神社 高札場跡 傍示石

 先の日本生命の所の信号交差点右に堀江領境界石標柱があります、傍示石「従是西堀江領」跡です。

宝永二年(1705)
高塚村が旗本大沢家の堀江領となり、浜松領の増楽村との境に設置された境界石です。

次の時差式信号交差点を右折すると護法山
地蔵院があります、明徳元年(1390)の創建です。

本堂の位牌堂には
築山御前腹篭(はらごもり)地蔵尊を安置しています、徳川家康公夫人築山御前は天正七年(1579)富塚村小藪で織田信長の命により殺害されました。

腹篭地蔵尊は夫人が守り本尊として肌身離さず持っていた
秘仏だと云われています。
境界石跡 地蔵院 高塚学校跡

 山門脇に
高塚学校標柱があります、明治の学制導入で高塚学校が設立されました。

 街道に戻ると次の右小路手前の共同住宅の敷地内に高札場跡と秋葉燈篭跡標柱があります、高塚村の高札場跡です。

次の感応式信号交差点の右手に
麦飯長者跡標柱があります、小野田五郎兵衛久繁は旅人に麦飯を振る舞ったところから麦飯長者と呼ばれました。

宝暦八年(1758)五郎兵衛は
築山御前腹篭地蔵尊を堀江城主大沢右京大夫よりもらい受け地蔵院に安置しました。

浜松市高塚町歩道橋から右に入ると突当りに
熊野神社があります、紀州熊野本宮の神主が諸国行脚の途中、この地に足を留め祭祀したのが始まりと伝わっています。

この
神主が夢のお告げにより神社の裏山に土を盛り上げました。
高札場跡 麦飯長者跡 熊野神社

 すると安政の大地震による
津波に襲われたが、この地の人々はこの山に避難して被害を免れました、以来この地は高塚と呼ばれるようになったと云います。

 街道に戻ると熊野神社の赤鳥居向いに源十道路標柱があります、この地に居住した高橋源十の名を冠した小路名と云います。

スグ先の右手に臨済宗方広寺派
高蔵寺があります、境内には六地蔵福徳稲荷大明神が祀られています。

高塚駅入口交差点を越えて進みます、左手にはわずかの
を残しています、右手エンシュー先の変則Y字路は右側直線路県道316号舞阪竜洋線を進みます、この分岐ポイントには篠原道標があります。

先の左手に
立場跡説明板があります。
高蔵寺 篠原分岐 立場跡

 立場には
立場本陣(茶屋本陣)があり、明治元年(1868)明治天皇東幸の際には休息所となりました。

 立場跡の向いの小路を入ると曹洞宗天照山萬松院があります、浜名湖岸新四国第五十六番です。

参道口の右手に木造屋形形式の
秋葉山常夜燈があります。

街道に戻って進むと篠原東バス停の所の右手に
東神明宮があります、建暦二年(1212)浜名湖の小島神明島に鎮座し、永徳年間(1381~84)現在地に遷座しました、徳川幕府より御朱印五石を拝領しています。

参道脇には
秋葉山常夜燈があります。
萬松院 秋葉山常夜燈 東神明宮 秋葉山常夜燈

 先に進むと右手民家の低いレンガ塀の中に一里塚跡解説板があります、東海道宿村大概帳には「木立左松右榎、左右の塚共篠原村地内」と記されています、篠原の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて六十七里目です。

篠原郵便局先の右手に
高札場跡解説板があります、篠原村の高札場跡です。

静岡銀行先の右手鈴木米穀店脇に木造屋形の
秋葉山常夜燈があります。
篠原の一里塚跡 高札場跡 秋葉山常夜燈 秋葉山常夜燈

 
篠原小学校前には横に伸びた名残りの松があります。

小学校の外れで
長里橋を渡ると、先の右手に木造屋形の秋葉山常夜燈があります。

 篠原町から坪井町に入ると、右手に篠原交番があり並びに愛宕神社があります、参道口には木造屋形の秋葉山常夜燈があります。

神社の隣りには臨済宗妙心寺派愛宕山
光雲寺があります。

坪井町北交差点を越した先の右手に木造屋形の
秋葉山常夜燈があり、小路を挟んで稲荷神社があります、永亨十二年(1440)伏見稲荷より勧請し、幕府より朱印五石を拝領しました。
愛宕神社 秋葉山常夜燈 稲荷神社 秋葉山常夜燈

 先のヘアーサロンみやざき先の右手にも木造屋形の
秋葉山常夜燈があります。

 次の小路を右に入ると臨済宗妙心寺派東光寺があります、慶長六年(1601)の開山で、本尊は三願一徳の御利益がある東方薬師瑠璃光如来です。

境内には
南海霊亀碑があります、文化七年(1810)時化の後遠州灘の海辺に亀が打ち上げられていました、村人は手厚く葬り、亀形の台座に経巻六角柱を乗せた供養塔を建てました。

坪井西バス停先の右手に木造屋形の
秋葉山常夜燈があります。

奥に
大悲院観音堂聖跡碑があります。
東光寺 南海霊亀碑 秋葉山常夜燈 観音堂聖跡

 
馬郡観音堂跡で定朝作の聖観音菩薩像を安置していましたが、廃堂となり、観音像は如意寺に移されています。

 右手馬郡東バス停の所に木造屋形の秋葉山常夜燈があります。

先の右手に日蓮宗
東本徳寺があります、参道口に南無妙法蓮華経題目碑、境内には蘇鉄(そてつ)の大樹があります。

次いで右手馬郡中バス停の所に日蓮宗
西本徳寺があります、参道口に南無妙法蓮華経題目碑海中出現釋迦牟尼佛安置碑があります。

馬郡跨線橋南交差点を越えると右手に
春日神社があります。
秋葉山常夜燈 東本徳寺 西本徳寺 春日神社

 応永二年(1395)
春日大明神を勧請、慶安元年(1648)徳川三代将軍家光より朱印六石が下賜されました。

狛犬は雄雌一対の鹿になっています。

 舞阪駅南入口交差点を横断します、当初の駅名は馬郡駅でした。

はままち西モールを過ぎると
旧東海道松並木が始まります、正徳二年(1712)に千四百二十本の松が植樹され、今は三百四十本の松が約700m残されています。

松並木の裏には
歩道があり快適に歩けます、歩道側には東海道五十三次の宿場レリーフや十二支のモニュメントが飾られています。

舞坂宿碑の先に舞坂橋跡解説があります、北に西長池と云う大きな池があり、松並木を横切って川が流れ、長七尺、横三間の土橋が架橋されていました、この橋は御普請所で代官所が架け替えを行いました。
旧東海道松並木 舞坂橋跡 浪小僧

 新町交差点手前に小公園があり、園内に
浪小僧像があります、地引網にかかった浪小僧が命乞いし、助けてくれれば恩返しに「海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓を叩いてお知らせします」と云うので、海に戻してやりました。

以来、天気の変わる時、
波の音がするようになったと云います。

 PM 4:50 舞坂宿着 新居宿まで6.0km

 新町交差点で国道1号線を斜めに横断します。

旧道に入ると
見付石垣があります、舞坂宿の江戸方口(東口)です、舞坂宿到着です!

舞坂宿は
今切の渡しを控え大いに賑わいました、しかし今切渡船の権利は新居宿に与えられていました。

天保年間(1830~43)に
海苔の養殖に成功し、舞坂宿の名物となり、今日も宿内に扱う商店があります。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
舞坂宿の宿内家数は五百四十一軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠二十八軒、宿内人口は二千四百七十五人(男千二百五十四人、女千二百二十一人)、宿場機能は西町に集中していました。
新町の旧道トレース 見付石垣

 宿並に入ると左手に新町の秋葉山常夜燈があります、文化十二年(1815)の建立です。

舞坂宿は文化六年(1809)に宿並の大半を焼失する
大火に遭っています。

常夜燈の裏に
一里塚趾標石、そして宿並を挟んだ向かいに東海道舞坂宿一里塚標柱があります。

舞坂の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて六十八里目です。

先の宝珠院の参道口に仲町の
秋葉山常夜燈があります、文化七年(1813)の建立です。
新町常夜燈 一里塚趾 一里塚跡 仲町常夜燈

 仲町常夜燈奥の宝珠院には森田屋彦之丞の墓があります、彦之丞は大森三次郎とともに、舞坂の海苔養殖を興した立役者です。

次いで左に
岐佐神社があります、延喜式神明帳に記載された古社で、大漁満足、海上安全の守護神です
、徳川三代将軍家光より神領五石を拝領しています。

本殿脇に
赤石があります、古事記の中でたくらみにより、真っ赤に焼けた大石で大火傷を負った大国主命は落命しまたが、妙薬により蘇生しまた、赤石はこの大石です。

この神話に因んで、
火傷病気に霊験あらたかと信仰を集めています。
森田屋彦之丞墓 岐佐神社 赤石

 宿並に戻って進むと右手に本陣跡標石があります、宮崎伝左衛門本陣跡です、碑の後方には間口が狭く奥行きが深い敷地跡を残しています。

次いで左手に
茗荷屋脇本陣があります、堀江清兵衛が勤めました。

天保九年(1838)の遺構を残し、旧東海道宿駅中では唯一の
脇本陣として貴重な建物です、見学可能です。

向いが
相本陣跡です、源馬徳右衛門が勤めました、しかし標石等はありません。

突当りの左手に
西町常夜燈があります、文化十年(1813)の建立です、舞坂宿の京方口(西口)です。
本陣跡 茗荷屋脇本陣 西町常夜燈

 宿並の突当り(黄矢印)が本雁木跡です、大燈籠が聳えています、一般の旅人の渡船場でした。

東西十五間、南北二十間の
石畳が海面まで坂になって敷かれ、午前四時に渡船が開始し、最終便は午後四時でした。

雁木とは階段状になっている船着場です、がんぎと書きますが舞坂ではがんげと云います。

突当りを左(南、黄矢印)に進むと
渡荷場(とうかば)があります、南渡船場跡です。

荷物の輸送を主に扱いましたが、一般人も乗船させました。
西町分岐 本雁木跡 渡荷場跡

 突当りに戻り右(北、白矢印)に進むと左手に北雁木跡があります、ここにも大燈籠(灯台)があります。

北雁木は主に大名や幕府公用役人が使用した渡船場です、石畳が敷き詰められていました。

北雁木の向いには
那須田又七顕彰碑があります、又七は天明四年(1784)に生まれ、産業振興に努め、海苔養殖の基盤をつくりました。

飢饉の際には私費を投じて救済事業を行い、その人望と功績により苗字帯刀を許され、親しみを込めて
袱刀爺爺(ふくさがたなのやや)と呼ばれました。

今は渡船がありませんから、
陸路を進みます。
北雁木跡 那須田顕彰碑 弁天神社

 
弁天橋を渡ると弁天島に入ります、先に進むと左手に弁天神社があります、宝永六年(1709)今切の渡しの安全を祈願して創建されました、境内には正岡子規句碑「天の川濵名の橋の十文字」等があります。

弁天神社の前で
国道1号線に合流します、京方面からは重要な分岐ポイントです、斜め右に進みます。

JR東海道本線
新居町駅迄は国道1号線の歩道を歩きます。

 かつては舞坂から対岸の新居迄は砂洲が続いていて、その上を東海道が通っていました。

明応七年(1498)
大地震により砂洲が切れ、遠州灘浜名湖が結びつき、永正七年(1511)の津波で更に広がり今切と呼ばれました。

これにより舟の
今切の渡しとなりました。

幕府は舞坂寄りの半里には
波除杭を打ちました、広重も画面左下にこの杭を描いています、これにより潮流が変化し、砂が堆積し弁天島が出来上がったと云います。
浜名湖 東海道五拾三次之内 【舞坂】 今切真景

 幕末、
皇女和宮降嫁通行に際しては、今切の名を忌み嫌い東海道から中山道になったとも云います。

 PM 6:20 新居宿着

 JR東海道本線の弁天島駅の前を通過し、中浜名橋東交差点を横断して右(北)側に進路をシフトして中浜名橋の歩行者専用橋を渡ります。

渡り詰の
新弁天交差点を新居町新居地下道でくぐります。

ここからJR
新居町駅までは一本道です、暑かった太陽が浜名湖の西岸に沈んで行きます。

向島バス停の所に真新しい
ファミリーロッジ旅籠屋(053-594-8828)がありました。

料金は平日
1名宿泊5,200円 2名宿泊8,400円 4名宿泊10,500円 です。
ファミリーロッジ旅籠屋 終点新居町駅 例のモノ

 ユニークな料金体系ですね、
グループ街道ウォークには最適ですね。

しかも朝軽食無料サービスと表記されています、但し、休日前や年末年始・GW・夏休みは割高になります。

コンビニで例のモノを仕入れてJR東海道本線
新居町駅に到着です、ここが新居宿の起点です、本日も又予定通りです。

タップリ塩味の効いた体のまま乗車です、無論普通列車で戻ります、今宵は到着までに何本消費するのでしょうか。




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