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道中日記 11-164 東海道 ( 新居 - 藤川 ) 47.1km

 
新居宿から宮宿までの総距離は89.3kmです、きりが良いですね、一泊二日ウォークにはもってこいです。

初日の中間地点、
藤川宿までは47.1kmです、時速6km/hで計算しますと約8時間を要します、これに撮影や食事時間を加えなければなりません、10時間はオーバーするでしょう。

これまで乗り継いできた
東海道本線始発フォーメーションですと新居町駅到着はAM9:25です、これでは陽も大部短くなってきていますので40km台の踏破は無理です。

東海道新幹線
を利用しても新居町駅到着はAM8:11です、左程変わりません。
ちなみにこの先京三条大橋からの帰路まで
東海道新幹線は一切利用しません。

バーデンバーデン とん汁朝食セット
こうなったらフォ−メーションSの投入しかありません、この手はよく使います。

大仰な言い方をしましたが
サウナ仮眠作戦です、ホテルに泊まる程ではありません。

前夜の内に東海道本線で浜松に行きます、サウナは浜松健康センター
バーデンバーデン(053-455-1126)です。

このサウナは旧東海道筋の菅原町交差点にある
子育て地蔵尊の裏にあります、浜松駅からおよそ1.3kmです。

入浴料が1,700円、深夜料金が800円、しめて2,500円です。

翌朝はAM6:06の東海道本線岐阜行の始発に乗れば14分で
新居町駅です、バッチリです。


 平成20年11月22日 AM 6:25 新居宿出立 白須賀宿まで7.7km

 琵琶湖を近淡水(ちかつおうみ、近江)と云うのに対して、浜名湖を遠淡海(とおつおうみ、遠江)と云いました。

広重は舞坂宿から新居宿への
今切の渡しの舟と右手上方に新居関所を描いています。

地名は遠州灘からの
波浪が荒かったことに由来し、荒江、荒井、荒堰とも書かれました。

新居宿は新居関所、今切渡船場、今切湊を控えた特異な宿場として発展したが、度々地震や津波の被害を受けて移転を繰り返し、現在地に落ち着いたのは宝永五年(1708)のことでした。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
新居宿の宿内家数は七百九十七軒、うち本陣三、旅籠二十六軒で、
東海道五拾三次之内 【荒井】 渡舟ノ図

 宿内人口は三千四百七十四人(男千七百七十六人、女千六百九十八人)でした。


 新居町駅を出ると小公園に大正昭和初期の俳人山頭火句碑「水のまんなかの道がまっすぐ」があります、遠州路の旅で浜名街道を詠んだ句です。

栄町交差点で国道1号線は大きく左に反れて行きます、旧道は直進です。

浜名川を浜名橋で渡った先の右手に
新居関所跡があります、安政二年(1855)築の面番所が現存しています。

舞坂を出航した渡船は直接、関所内の雁木(渡船場)に着岸します、これじゃあ逃げようがありませんね。
山頭火句碑 栄町分岐 新居関所雁木 新居関所

 新居関所は正式には
今切関所と云い、慶長五年(1600)に設置され、当初幕府が掌握しましたが、元禄十五年(1702)三河吉田藩の管轄となりました、関所は「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。

 関所大御門の向いに無人島漂流者碑があります、享保三年(1718)今切湊を出帆した五兵衛船は時化に遭い、遭難し無人島の鳥島に漂着しました。

乗組員十二人の内九人が死亡、三人が都合二十一年間生き抜いて、元文四年(1739)に救出されました。

三名は江戸城に召し出されて、徳川八代将軍
吉宗に謁見しました、無人島生活日本最長記録です。

小路を挟んで関所大御門の並びに新居名物
あと引せんべい店があります、飯田武兵衛本陣の分家で往時は旅籠江戸屋でした。

宿並を進むと左手に
旅籠紀伊国屋があります。
無人島漂流者碑 あと引せんべい 旅籠紀伊国屋

 
紀州藩の御用宿を勤め、お七里役所を兼ねていました、今は資料館になっています。

 宿並は泉町交差点のT字路に突き当たります、ここを左折します。

交差点の正面が
飯田武兵衛本陣跡です、建坪百九十六坪で、門構え玄関付でした。

当本陣には小浜、桑名、岸和田藩など約七十家が利用し、明治の世になると、度々
明治天皇の行在所となりました。

飯田武兵衛本陣の左隣が
疋田八郎兵衛本陣跡です、庄屋年寄役を兼ねました、建坪百九十三坪で門構え玄関付でした。
飯田本陣跡 本陣跡標石 疋田本陣跡 本陣跡標石

 当本陣は吉田藩や徳川御三家など約百二十家が利用しました。

交差点手前の右手の旧疋田医院は
疋田弥五郎本陣跡(標識なし)です、年寄、問屋役を兼ねました、建坪百八十八坪で、門構え玄関付でした。

当本陣は対馬、宇和島、今治藩など七十家余りが利用しました。


 次いで右タカスペットの所が馬寄場跡です、問屋場の指図により、近在の助郷村から寄せ集められた人馬の溜り場でした。

スーパー
かきこやの所を右折すると諏訪神社があります、当初は新居宿の総氏神猪鼻湖神社と称し、浜辺に鎮座していました。

数度の天災に遭い、宝永五年(1708)現在地に
遷座しました。

天正年間(1590頃)
諏訪大明神の分霊を合祀したところから、いつしか諏訪神社と称するようになったと云います。
馬寄場跡 馬寄場跡標石 諏訪神社 御神木ケヤキ

 毎年七月二十七日の祭礼の神事
手筒花火で広く知られています。

参道の
ケヤキは御神木で樹齢四百五十年、樹高16mの巨樹です。

 諏訪神社の隣りに臨済宗妙心寺派東湖山龍谷寺があります、貞和元年(1345)の創建で、本尊は聖観世音菩薩です。

先の右手に
秋葉山常夜燈があります。 

スグ先の左に
池田神社があります、家康の家臣永井直勝は天正十二年(1584)小牧長久手の戦い池田恒興を討取り、ここに首塚を築きました、享保二十年(1735)池田神社となりました。

先の十字路を左に入ると曹洞宗天西山
鷲栖院(じゅせいいん)があります、境内に関守番頭佐橋甚兵衛墓所があります。
龍谷寺 秋葉山常夜燈 池田神社 鷲栖院

 
甚兵衛新居関所が幕府直轄時代の正保四年(1647)から明暦三年(1657)まで関所奉行を勤め、同年七十四歳で没しました。

 宿並に戻って進むと、わずかに旧家を残しています。

杉本酒店先の右手に
若宮八幡宮があります、社殿は丘上に鎮座しています。

正徳四年(1714)の再建で、境内には
猿田彦神社が祀られています、猿田彦神社から諏訪神社に奉納される猿田彦煙火は天下の奇祭として知られています。

次いで左手には
一里塚標石解説板があります、新居の一里塚跡です、東の塚木は榎、西の塚木は松でした、江戸日本橋より六十九里目です。
若宮八幡宮 新居の一里塚跡 一里塚標石 Y字路分岐

 宿並正面の
Y字路は右に進みます、京方面からもY字路です、左に進みます。

 林動物病院先の右手に棒鼻跡の標石と説明板があります、新居宿の京方口で枡形状に土塁が築かれていました。

棒鼻とは大名行列が宿場へ入る時、この場所で先頭(棒先)を整えたことに由来しています。

道なりに進み
橋本交差点を右折します、京方面からは左折です。

橋本交差点の十字路を直進すると
諏訪上下(かみしも)神社があります、慶安元年(1648)徳川三代将軍家光より朱印三石の寄進を受けています。
棒鼻跡 棒鼻跡標石 橋本分岐 諏訪上下神社

 国道1号線を進むと左手に風炉の井(ふろのい)が残されています、 建久元年(1190)源頼朝が上洛の折、橋本宿に宿泊した時に、この井戸水を茶の湯に用いたと云います。

今切が出来る以前は舞坂から砂洲の陸路がここに通じていて、橋本駅舎(うまや)がありました。

風炉の井の向いに時宗
教恩寺があります、正安二年(1300)の創建で、山門の楼門は江戸後期の建築です、山門の北にあった樹齢三百五十年の見返り松は枯死してしまいました。

橋本西交差点を斜め右に入ります、京方面からは国道1号線に合流します。
風炉の井 教恩寺 橋本西分岐

 街道は浜名旧街道です、旧松並木は松喰虫の被害で全滅し、現在の松並木は昭和62年(1987)に植え直されたものです、大部貫禄が付いてきました。

街道の右手に
紅葉寺跡があります、石段を上ると石仏石塔が残されています、寺宝は先程の教恩寺に保管されていると云います。

橋本宿に宿泊した
頼朝の寵愛を受けた長者の娘が、頼朝没後に出家し、創建した寺です、その後室町幕府六代将軍足利義教が永享四年(1432)に富士遊覧の際に立寄り、紅葉を観賞したところから紅葉寺と呼ばれるようになったと云います。

浜名学園への分岐に
検校ケ谷碑があります。
浜名旧街道松並木 紅葉寺跡 検校ケ谷

 
検校(けんぎょう)とは盲人社会の最高位を指し、座頭が検校になることは困難なことでした。

その昔、ある座頭が検校の位を得る為、東国より京に上る途中、この辺りで道に迷い倒れ、その望みを絶たれてしまったと云います、その後、誰云うとなくこの谷を
検校ケ谷と呼ぶようになったと云います。

 先の左手に藤原為家阿仏尼歌碑があります、為家の側室となり、為家没後に出家した阿仏尼が、鎌倉への下向の際に、詠んだ十六夜日記にある歌が刻まれています。

【前大納言為家】
風わたる 濱名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣り舟
【阿佛尼】
わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで 

しばらく歩くと左手に
立場跡の標石と解説板があります、間の宿で代々加藤家が勤めました。

立場では旅人にしつこく
湯茶をすすめたので、ある殿様が「立場立場と水飲め飲めと鮒や金魚じゃあるまいに」と戯歌を詠んでいます。
歌碑 立場跡 東新寺

 
スグ先の右手に臨済宗大広寺派松林山東新寺があります、本尊は聖観音菩薩で浜名湖岸新四国八十八ケ所霊場第六十六番札所です。

 先の右手段上に金毘羅神社が祀られています、右隣にあった木造屋形の秋葉山常夜燈は無くなっています。

次いで左手に
明治天皇御野立所趾碑があります、明治元年(1868)岩倉具視等を従えた明治天皇東幸の際、ここで休憩し野立を行いました。

街道は新居町から白須賀に入ると、右手に村社
火鎮神社が高台に鎮座しています。

火鎮(ほずめ)神社は元白須賀宿の鎮守でした、現在の元町辺りにあった白須賀宿は宝永四年(1707)の津波により壊滅的な被害を受け、翌年潮見坂上の現在位置に移転しました。
金毘羅神社 明治天皇御野立所 火鎮神社

 浜名湖カントリークラブの大きな風力発電の風車を過ぎると人家の前に一里山旧址碑高札建場跡碑があります。

この辺りでは一里塚を
一里山と呼び標石には一里山址と刻まれています、白須賀(元町)の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて七十里目です。

十字路を越すと右手に白壁に囲まれた内宮神明神社があります、社殿は段上に鎮座しています。

幕府より朱印領四石余りの寄進を受け、
徳川吉宗以降の朱印状写があります。
一里塚跡 高札場跡 内宮神明神社 内藤家長屋門

 
内宮神明神社の隣には堂々とした内藤家の長屋門があります。

 案内標識に従って右に入ると高台に曹洞宗蔵法寺があります、慶長三年(1598)の創建で、家康より二十三石の寄進を拝領しました。

境内の
潮見観音は遠州灘で漁網に掛かった観音像です、安永四年(1707)参勤の為、元白須賀宿の本陣に宿泊した岡山藩主池田綱政の夢枕に潮見観音が立ち「この地に大危難あり、早々に立ち去れ」と告げた、一行は直ちに出立し、大津波の難から免れました。

街道の正面に国道42号線高架が現れると、右手の
潮見坂に入ります。
蔵法寺 潮見観音 潮見坂下分岐 道標

 この潮見坂下分岐ポイントには小さな
道標「右旧道 左新道」、そして大きな道標「白須賀宿 潮見坂下」があります。

 潮見坂は街道一の景勝地として知られ、西からの旅人は初めて太平洋の大海原や富士山を目にしました。

浜名旧街道は海岸沿いの平坦地でしたが、潮見坂は急な上り坂です。

グングン登ると樹木が繁茂し、薄暗くなると 右から舗装路が合流してきます、この道に入ると先の右手に
うないの松跡があります。

文明八年(1476)四月六日今川義元の祖父駿河守護職
今川義忠を葬った上に植えた松がうないの松です。

うないの松の
切株と、この松を詠んだ久内和光の歌碑があります。
潮見坂 うないの松へ うないの松

 
うないとはうなじのことで、松があった所が潮見坂の首にあたるところからを由来としています。

旧道は白須賀中学校に突当たります、本来旧道はこの延長線上ですが、現在は白須賀小中学校の敷地になっています、学校に沿う道を進みます。

 グングン登ると左手に新設されたおんやど白須賀があります、潮見坂白須賀宿の資料を展示しています。

潮見坂の上り詰めに
潮見坂公園があります、織田信長武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る時、徳川家康が茶亭を設けて、信長をもてなした所です。

園内には明治元年(1868)
東幸の際に潮見坂上で休憩した明治天皇御遺蹟地記念碑や白須賀出身の国学者夏目甕麿(みかまろ)と息子の加納諸平(もろひら)、正直者の藤屋五平、義僕平八郎等の顕彰碑や忠魂碑が建てられいます。
潮見坂公園 東海道五拾三次之内 【白須賀】 汐見阪図

 この公園跡から望む
遠州灘の景は、広重の構図にピッタリです。

 AM 8:16 白須賀宿着 二川宿まで7.5km

 白須賀小学校を過ぎると右手に秋葉神社が祀られています、京方面からは秋葉神社先の三叉路を左に進みます。

枡形手前の右手小路に
鷲津停車場往還道標があります、明治二十一年(1888)開業の東海道線鷲津駅への道です。

白須賀宿の
東枡形があります、この地では曲尺手(かねんて)と呼ばれています、大工道具の曲尺(かねじゃく)を由来としています、ここが白須賀宿の江戸方口(東口)です、到着です!

白須賀の
須賀砂浜を意味しています、元は元町の浜辺に宿場がありましたが、宝暦四年(1707)の大地震による津波で流失してしまい、翌年潮見坂上の現在地に移りました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
白須賀宿
秋葉神社 道標 曲尺手

 の宿内家数は六百十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十七軒で、宿内人口は二千七百四人(男千三百八十一人、女千三百二十三人)でした。


 宿並右手の白須賀美容院が本陣跡です、大村庄左衛門が勤め、建坪百八十三坪、畳数二百三十一畳、板敷五十一畳でした。

お隣の谷中たばこ店が
脇本陣跡です、屋号桐屋三浦惣次郎が勤めました。

白須賀駐在所交差点を越えた右手に
夏目甕磨邸址加納諸平生誕地碑があります、  夏目甕麿は酒造を業とし傍ら内山真龍から国学を学び、本居宣長の門に名を連ね、国学の普及に努めました。
本陣跡 脇本陣跡 夏目甕磨邸址 生誕地碑

 
諸平は甕麿の長男で、紀州和歌山の加納家の養子となり、紀州候に召されて国学を講じ国学所総裁となりました。

 先の伊藤歯科医院の所を右に入ると神明宮があります、伊勢皇大神宮を勧請し、内外二社を奉祀しています。

次いで左手の庭内に
火防樹の槙があります、白須賀宿は冬の西風による火災に悩まされ、火に強い常緑樹のを(まき)植え、延焼をくい止めました。

宿並をグングン進むと右手に
庚申堂があります、天保十二年(1841)の再建で、遠江三河最大のものです、狛犬は三猿になっています。

先に
火除け地跡標石があります。
神明宮 火防樹の槙 庚申堂 火除け地跡

 
火除け地の広さは間口二間(約3.6m)奥行四間半(約8.2m)で、火防樹の槙が十数本植えてありました。

火事に悩まされた白須賀宿内に三地点、六場所に
火除け地がありました。

 白須賀宿の加宿境宿に入ると右手小路の右には谷川道標石があり、左には高札場跡標石があります、境宿村の高札場跡です。

境宿村が
猿ケ馬場と呼ばれた地で、広重は二川として猿ケ馬場の名物かしわ餅を商う茶屋を描いています。

秀吉は小田原攻めの際、この茶店で
あん入り餅を食しています。

その時、茶店の婆の顔が猿に似ていたので
猿が婆の勝和餅と命名し、いつしか猿ケ馬場の柏餅になったと云います。
標石二ケ所 東海道五拾三次之内 【二川】 猿ケ馬場

 高札場跡標石の向いに法華宗久松山成林寺があります、境内には境宿村開祖内藤又右衛門内藤久兵衛之碑があります。

街道は
笠子神社社標前で県道173号線に一旦合流します。

スグ先で斜め右の
旧道に入り、先で再び県道に合流します、京方面からは釣エサと大書きされた大野商店が分岐ポイントです。

信号交差点を越すと、
境川境橋で渡ります、この川は遠江(遠州)と三河(三州)の國境です。
境宿開村碑 笠子神社 境宿の旧道東口 境 川

 現在では
静岡(湖西市)と愛知(豊橋市)の県境です、これで伊豆、駿河、遠江と長く続いた静岡県ともお別れです。

 境川から先は緩やかな上り坂になります、坂を上り詰、正面に信号一里山東が見えたら、手前の右舗装路に入ります、一里山東の旧道です。

一里山交差点を過ぎると右手に
があります、地蔵祠秋葉神社津島神社が祀られています、細谷の一里塚です、江戸日本橋より数えて七十一里目です。

サア、ここから二川宿までの一里は
江戸道中記に「夜道可慎(つつしむべし)」と著された物騒な街道です。

現在もキャベツ畑が広がる殺風景な道です。
一里山東の旧道痕跡 細谷の一里塚 荒れた街道

 AM 9:56 二川宿着 吉田宿まで7.6km

 豊橋市三弥町歩道橋先から、街道は東海道新幹線高架に接近してきます。

二川ガード南交差点を右折して
東海道新幹線ガード(四畝町BV)をくぐります。

梅田川筋違橋で渡った先で、東海道本線を第二東海道踏切で横断して左折し、線路敷きに沿って進みます。

東海道標識があれば正解です。

川口屋の角に
一里塚標石があります、二川の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて七十二里目です。
新幹線ガード 東海道本線踏切 一里塚跡 一里塚標石

 
川口屋は二川宿の東端でした、二川宿に到着です!

二川宿は現在の二川駅辺りにあった二川村と源吾坂辺りにあった大岩村を一ケ所に寄せ、正保元年(1644)二川宿が成立しました、宿並は東西十二町十六間(約1.3km)と小宿でした。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると、
二川宿の宿内家数は三百二十八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十八軒で、宿内人口は千四百六十八人でした。

 宿並を進むと右手に御食事処とりつきやがあり、南無妙法蓮華経題目碑があります、ここから日蓮宗妙泉寺への参道が延びています。

参道の途中から右に入ると
十王院があります、境内には寛永九年(1632)建立の二川新町開山碑があります。

後藤源右衛門は二川宿開設に尽力し、当初本陣問屋を勤めました。

妙泉寺は黒印地二石を拝領し、大通行の際は休泊所となりました、ほうろく灸加持は毎年土用丑の日に行われます。

境内には十王院から移設された寛政十年(1798)建立の
芭蕉句碑「あちさゐや 藪を小庭の 別坐敷」があります。
二川新町碑 妙泉寺 芭蕉句碑

 二川八幡神社は永仁三年(1195)鎌倉鶴ケ岡八幡宮を勧請し、黒印地二石を拝領し、二川の氏神でした。

新橋川新橋で渡ると東町から新橋町に入ります。

右手の
東駒屋は味噌醤油醸造業を営んでいました。

隣接する
駒屋の田村家は商家を営む傍ら問屋役名主を勤めました。

駒屋先が
南枡形跡です、痕跡を残しています。

右手の二川宿まちなか公園の小路を挟んで
東問屋場跡標柱があります、大岩町の西問屋場と半月毎に問屋業務を勤めました。
二川八幡神社 東駒屋&駒屋 東問屋場

 旧旅籠和泉屋先の右手に脇本陣跡があります、解説板を掲げてあります、松坂家が勤め、間口七間(約13m)、奥行十九間(約35m)、畳数は九十三畳でした。

本陣の東に隣接して文化十四年(1817)築の
旅籠清明屋が復元され、公開されています。

本陣は復元され公開されています、東海道で本陣の遺構が残されているのは二川宿草津宿だけです、大変貴重なものです。

本陣は当初、二川宿の開設に尽力した
後藤家が勤めましたが、再々の火災に見舞われ没落し、寛政五年(1793)紅林家が引継ぎました。
脇本陣跡 旅籠清明屋 本陣跡

 しかし紅林家も火災に見舞われ没落し、文化四年(1807)以降明治迄は
馬場家が本陣職を勤めました。

 本陣の向いに丸にタの屋号に味噌溜西駒屋と描かれた看板を掲げた西駒屋があります、本家の駒屋は質屋業で財を成し、醤油味噌醸造を営む東駒屋西駒屋は分家になります。

先左手の御菓子司中原屋前に
高札場跡標石秋葉山常夜燈二川町道路元標があります、宿並には西枡形の痕跡を残しています。

枡形を越して右に入ると曹洞宗
大岩寺があります、元は岩屋山麓にあって岩屋観音を奉仕した六坊中の一坊でした。

当寺には備前岡山藩主
池田綱政岩屋観音堂に寄進した観音経や黄金燈籠などの品が伝わっています。
西駒屋 高札場跡 大岩寺

 宿並に戻って進むと、豊橋商工信用組合先の右手に西問屋場跡標石があります。 

二川町の
東問屋場と月の内半月交代で問屋業務を勤めました。

宿並をしばらく進むと右手奥に
大岩神明宮があります、文武天皇二年(698)岩屋山の南山麓に創建され、正徳二年(1712)現在地に遷座しました。

古来より武門武将の崇敬が篤く、
織田信長は陣太鼓を寄進して戦勝を祈願し、徳川家康は御朱印社領三石五斗を寄進しています。
西問屋場跡 標石 大岩神明宮 御神木

 参道を戻ると十字路に交番があり、宿並に大岩町郷倉跡標石があります、飢饉に備えて穀物を備蓄した蔵跡です。

村田接骨院先の左化粧品店おざきの所に
立場茶屋跡標石があります、加宿大岩は中町茶屋町から成り、茶屋町西端に茶屋がありました。

立場茶屋跡のスグ先から道幅が広くなります、ここが二川宿の
京方口(西口)です。

二川病院を過ぎると左手がJR東海道本線
二川駅です、マップ上の二川宿起点です。

駅前の植栽の中に
岩屋道標があります、「是より岩屋江八丁」と刻まれています。
郷倉跡 立場茶屋跡 岩屋道標

 先の左手に明治三十三年(1900)建立の渥美奥郡(おくごおり)道道標があります、渥美半島に鎮座する阿志神社伊良胡神社への道標です、分岐口は東海道線敷設で消滅しています。

道なりに進むと十字路の
火打坂交差点に出ます、正面の白矢印が東海道です、黄色矢印は裏東海道です、先で東海道に合流します。

黄色矢印に入ると
岩屋観音があります、天平二年(730)行基が諸国修行の際に千手観音像を彫って岩穴に安置して開山されました。
渥美道標 火打坂分岐 岩屋観音堂 聖観音像

 岩屋山上に立つ
聖観音像は吉田大橋の架け替えの際、岩屋観音に架橋成就を祈願し、後に無事竣工し、その礼に建立したものです。

 東海道に戻り火打坂を上ります、火打坂は岩屋山から産出する火打石に由来しています。

蕎麦処信州庵を過ぎると、園芸のガーデンガーデンがあります、敷地内に
旧道痕跡を残していますが通行不可です。

ガーデンガーデン角の
信号交差点を左折します、分岐ポイントは理容チャームです、京方面からは突当りを右折します。

岩屋緑地を過ぎると街道沿いに
若松が植栽されています、最後の若松の先に旧東海道のクロマツ碑があり、切株が残されています。

昭和四十年(1965)年代には百本を越す松並木が残っていましたが
松くい虫道路拡幅などにより減少し、ここにあった松は最後の一本でしたが、松くい虫の被害により平成十九年(2007)伐採されました。
大岩町北分岐 クロマツ跡

 ※ 現在、クロマツの
切株は抜根されています。

 先で街道は県道に合流します、京方面からは重要な分岐点です、右の豊橋岩屋郵便局、左の東海道標識が分岐ポイントです。

しばらく歩き
、柳生川殿田橋で渡ると国道一号線に合流します。 

合流手前左の電柱の所に
飯村(いむら)一里塚跡標柱があります、江戸日本橋より数えて七十三里目です。

京方面からは
ビデオインアメリカマクドナルドが分岐ポイントです。

山中川山中橋で渡ると左手に七冨士稲荷神社が祀られています。
飯村の合流点 一里塚跡 七冨士稲荷

 街道はイチョウ並木になっています、三ノ輪町伝馬町を過ぎると瓦町交差点の右手に龍宮城をおもわせる山門の鶴松山寿泉寺があります。

山門前には
子育安産延命地蔵尊碑や境内には端正な三重ノ塔があります。

豊橋市瓦町通一丁目歩道橋右手に高野山真言宗
瓦町不動院があります、本尊は不動明王です。

不動院は小笠原侯をはじめ
歴代吉田藩主の尊崇が篤く、藩の重要な祈祷を担当する祈願寺でした。

先の右手に真宗高田派
願成寺があります、西新町交差点を越すと吉田宿は目の前です。
寿泉寺 三重ノ塔 不動院

 AM 11:37 吉田宿着 御油宿まで11.4km

 街道は変則五差路の東八丁交差点に出ます、東八丁歩道橋に上りますと、右手に文化二年(1805)建立の秋葉山常夜燈があります、吉田宿の東惣門前に祀られた大燈籠です。

歩道橋を左に下ると
東惣門跡があります、門の傍らには十二畳の上番所、八畳の下番所勝手があり門外の西側に駒寄せ場十一間がありました。

惣門は朝六ツ(午前六時)から夜四ツ(午後十時)まで開門され、これ以外の刻限の通行は禁止されていました、
吉田宿到着です!

吉田宿は吉田城の
城下町湊町として発展し、「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖が」とあり、「此宿大いに繁花にして娼家多し」と云われました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると、
吉田宿の宿内家数は
秋葉山常夜燈 東惣門跡

 千二百九十三軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠六十五軒で、宿内人口は五千二百七十七人(男二千五百五人、女二千七百七十二人)でした。


 サア、この先は城下町特有の曲がりになります、それでは正確にトレースしてみましょう、江戸方面からの説明です、京方面からは逆になります。

一本目を右折します、
消火栓標識が分岐ポイントです。

一本目を左折します、分岐ポイントは
東京海上日動看板です。

突当りを右折します、
1階シャッターガレージの3階建て住宅が分岐ポイントです、京方面からは鍛冶町交差点手前を左折します。
@右折 A左折 B右折 造立稲荷

 一本目を右折すると左手に
造立稲荷神社があります、正一位造立稲荷大明神を祀っています。

 次の小路を左に入ると談合神社があります、談合町に鎮座しています。

大通りを越します、この大通りの中央分離帯の植栽の中に史跡曲尺手(かねんて)門跡碑があります、吉田城の城門です、ここを右折すると吉田城址の豊橋公園です。

一本目を左折します、
うどん嶋田屋ヘアーサロンムラタが分岐ポイントです。

突当りを右折します、曲げ物細工の
森すいのや東海道標識が分岐ポイントです、曲尺手町から呉服町に入ります。
談合神社 曲尺手門跡碑 C左折 D右折

 ENEOSを右に入ると吉田城大手門跡標柱があります、大手門は明治初年に取り壊されました。

今橋城今川義元の築城に始り、桶狭間の戦後は徳川家康の所領となり、池田輝正が城主となりました。

輝政は
今橋の名は忌まわしいに通じると縁起を担ぎ、吉田と改名しました。

維新後、明治政府は
吉田から豊橋と改名しました。
大手門跡 吉田城 東海道五拾三次之内 【吉田】 豊川橋

 イチョウ並木の宿並を進むと、NTT西日本豊橋前の歩道に吉田宿問屋場跡標柱があります、吉田宿の問屋場は札木町のこの地に置かれました。

信号交差点を越すと右手の
うなぎ丸よ吉田宿本陣跡碑、歩道には吉田宿本陣跡標柱があります。

清須屋与右衛門本陣跡です、建坪三百二十七坪(約1,080u)でした。

東隣りには
江戸屋新右衛門本陣がありました、建坪百九十六半坪(約648u)でした。

宿並向いの小間歯科医院の所には
吉田宿脇本陣跡碑があります。
問屋場跡 うなぎ丸よ 本陣跡 脇本陣跡

 スグ先左手の旧商家造りを模した栗きんとんの若松屋のショーウィンドウ内に手筒花火が飾られています。

元は吉田城内に祀られていた
吉田神社の祭礼の花火です、打ち上げ花火ではなく、人が身体の脇に構える吹き出し花火です。

札木町から上伝馬町に入ると左手に文化年間(1804〜18)創業の
菜飯田楽の老舗きく宗があります、こんがりと焼いた自家製豆腐に秘伝の味噌を塗った田楽と細かく刻んだ大根の葉を混ぜ合わせた菜飯の組み合わせです。

良いですね!絶妙ですね!!残念ながら刻限が合わず賞味したことがありません、街道は何往復もしますから、そのうちにお目にかかれるでしょう。
手筒花火 きく宗 E右折

 先の大きな信号交差点を右折します、
共栄火災松葉公園が右折ポイントです、京方面からも同じです。

 左右に中央分離帯のある信号交差点を越すと右手に西惣門跡があります、吉田宿京方口(西口)です。

往時は惣門の左手には
番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、四坪の勝手があり、駒寄せの空地十七坪がありました。

二本目の信号交差点を左折します、分岐ポイントは
東海道標識鈴瀧です。

大正冷蔵先の右手に
湊町公園があます、園内には湊築嶋弁天社があります、寛政七年(1795)の創建です。
西惣門跡 F左折 築嶋弁天社 芭蕉句碑

 境内には
芭蕉句碑「寒けれど 二人旅寝ぞ たのもしき」があります、貞享四年(1687)吉田宿の旅籠での句です。

次いで湊神明社が鎮座しています、白鳳年間(661〜85)の創建で湊町船町の鎮守です。

街道を進み
船町交差点を右折します、これにて吉田城下町の曲がりは終了です。

街道は
とよばし南詰交差点に出ます、豊橋手前の土手道を左に入ってみましょう(黄色矢印)。

先の三角地の公園内に明治十二年(1879)架橋の
豊橋親柱があります、往時の吉田大橋はこの位置に架橋されていました、長さ百二十間(約216m)でした。
湊神明社 G右折 とよばし南詰 旧豊橋跡

 吉田大橋は矢作橋、瀬田唐橋と共に
東海道三大大橋と呼ばれました。

 吉田大橋の東袂には吉田湊がありました、熱田湊と並ぶ廻米の伊勢湾舟運の中心で、伊勢詣での船便もあり、大いに賑わいました。

豊川は三河北設楽郡設楽町の段戸山(だんどさん)に源を発し、流末は三河湾に注いでいます、三河には(乙)豊川矢作(矢矧)の三川があり、これが三河の地名由来になっています。

豊川豊橋で渡り、渡り詰めのとよばし北交差点を左折すると、下地町(旧下地村)に入ります。

ういろう餅昌先の右手に「右 御油道」と刻まれた細身の道標を兼ねた
燈籠があり、奥には商売繁盛の神豊川稲荷の遥拝所碑があります。
豊川 とよばし北 道標&遥拝碑

 右手の豊橋下地郵便局裏に真宗高田派朝晃山真光寺があります、木造阿弥陀如来立像は昭和二十年(1945)の空襲火の粉を浴びたが、焼けなかったところから災厄除(さいやくよけ)の阿弥陀として多くの人々の信仰を集めています。

スグ先の右手に
聖眼寺があります、山門前には親鸞聖人御舊跡碑があります。

境内には宝暦四年(1754)建碑の
松葉塚と呼ばれる芭蕉句碑「こ(松葉)を焼(たい)て 手拭あぶる 寒さ哉」があります。

次いで左手段上に
下地堤防改修記念碑があります、霞堤(かすみてい)の解説があります。
災厄除阿弥陀 松葉塚 下地堤防

 
霞堤とは不連続堤防のことで、洪水の際に川の水が不連続部から一時的に堤内地に逆流することにより、本川の水位を下げ、堤防の破壊などを防いでいるものです。

 記念碑先を右手に入ると豊麻神社があります、天明四年(1784)の勧請です。

下地交差点の手前右手に
下地一里塚跡標石があります、江戸日本橋より七十四里目です。

下地交差点先の右手の旧家は
ヤマサンです、元禄十六年(1703)創業で大豆、菜種の搾油業から始まり、今は米、大豆、油、飼料等を扱う卸売業です。

左に入ると
水神社があります。
豊麻神社 下地一里塚跡 ヤマサン  水神社

 御奈良天皇天文十三年(1544)の創建です。

 刻(よき)は正午過ぎ、名残りの松がポツンとある横須賀町交差点脇にある、うどんなかむら屋さんに上がりこみます、二度目の入店です。

オーダーは
うどん定食です、鰹節をタップリまぶしたうどん、薬味、コロッケにサラダ、御飯に豆の煮物に香の物、これで680円です、街道飯(めし)はウマイナ!

向いで食事をする、スーツ姿の4人組の会話が耳に入ってきます、
タバコの話題でした、「最近、肩身が狭いよなー、この間も飲み屋でさー、マスターにタバコ吸っても良いですかって聞いたら」「吸っても良いですよ、でも吐かないで下さいね、だって」思はず聞き耳を立てていて、これには吹いてしまいました。

平成21年(2009)の元旦を迎えると
禁煙をして丸3年になります、表向きの禁煙理由は健康を考えての事です。
なかむらや うどん定食

 裏理由としては、モノには適正価格があるのに、重税と云う不当な
年貢を課す悪代官的所業に憤慨したからです。

 横須賀町交差点先を右折すると瓜郷(うりごう)遺跡があります、弥生時代から古墳時代前期にかけての集落跡で、竪穴式住居が復元されています。

街道に戻り
江川鹿菅(しかすが)で渡ります、古には川幅が広く志香須賀の渡しがありました、中州に島々が浮かぶ景勝地で、歌枕として知られていました。

豊橋魚市場を過ぎると
豊橋市から豊川市に入り、豊川放水路高橋で渡ります。

豊川放水路は
豊川の水害対策の為に昭和四十年(1965)に開通した人工河川です。

高橋には
歩道がありません、お気を付け下さい。
瓜郷遺跡 江川&鹿菅橋 豊川放水路&高橋

 高橋を渡ると右手のニチレイの前に子だか橋碑があります、ここを流れる小川に橋が架かっていました。

その昔、菟足(うたり)神社には大祭の初日に最初にこの街道を通る女性を
人身御供(ひとみごくう)として生贄にする習慣がありました。

ある年、橋の上まで来た女性を見ると、故郷に帰って来た
わが子でした、苦しみ悩みましたが子だが止むを得んとして神に奉ったと云います。 

才ノ木交差点を越すと右手に
菟足(うたり)神社があります、白鳳十五年(686)創立の古社です、今も神事として十二羽を生贄としています。

秦の始皇帝は日本に不老不死の霊薬があると信じ徐福を派遣しました、一行は熊野に渡来し、この地に定住しました、子孫は秦氏を名乗り神社を創建したと云う言い伝えがあり、生贄神事もそこから来ています。
子だか橋碑 菟足神社

 東田子ノ浦の
六王子神社にも少女の生贄の習慣がありました、これも悲しい歴史的文化の一端でしょう。

 JR飯田線を小坂井踏切で越すと、正面に小さな秋葉神社があります、境内には文化五年(1808)建立の秋葉山常夜燈があります。

宿町交差点を越すと左手に浄土宗諏訪山
明光寺があります、境内に下部だけの五輪塔があります。

小坂井町大字宿と豊川市蔵子とが、川筋のことで争いがあり、
地境にある五輪塔を奪い合ったと云います、上の部分は豊川市蔵子にあると云います。

フードオアシスあつみ先の左手に
伊奈村立場茶屋跡があり、句碑が二基並んでいます。

間の宿で加藤家が
茶屋本陣を勤めました。
秋葉神社 地境の五輪塔 伊奈村立場茶屋跡

  加藤家が商った腹薬
良香散は広く知られていました。

俳人
鳥巣は加藤家の生まれで、芭蕉と親交がありました。

芭蕉句碑「かくさぬぞ 宿は菜汁(なじる)に 唐(とう)が羅(ら)し」、烏巣方へ一泊した時の作です。
鳥巣句碑「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」

東京遷都の際、
明治天皇は加藤家で休息しました。

 立場跡先の左に迦具土(かぐつち)神社があります、延宝八年(1680)の創建で、伊奈村茶屋町の氏神でした、境内には文化六年(1809)建立の常夜燈があります。

先に慶応四年(1868)創業の
山本太鼓店前に伊奈一里塚跡標石があります、江戸日本橋より数えて七十五里目です。

次いで右手に
速須佐之男(はやすさのお)神社があります、旧伊奈村新町の氏神で、天王社と呼ばれていました。

佐奈川佐奈橋の歩道橋で渡った先の右手に冷泉為村卿の歌碑があります。
迦具土神社 伊奈一里塚跡 速須佐之男神社 冷泉為村卿歌碑

 
冷泉為村歌碑「散り残る 花もやあると 桜村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ」

冷泉為村(れいぜいためむら)は冷泉家の中興の祖と云われています、為村は徳川九代将軍家重の祝賀の一行に加わり、下向の際にこの地の桜村で詠んだ歌です。

歌碑の傍らには
若宮白鳥神社遥拝所標石があります。

 白川五六橋の歩道橋で渡り、次いで西古瀬川西古瀬橋で渡ります。

街道は
小田渕縄手と呼ばれる直線道になります、かつては松並木でした。

街道は工場が並ぶ工業団地を突っ切ります、
山桜交差点の先で旧道は県道31号線高架敷地によって遮断されています、迂回しましょう。

左折し、名鉄名古屋本線手前で高架下を迂回し、
米津東部から旧道に復帰します。

街道は中国料理豊龍園の先の
白鳥5丁目西交差点国道1号線に突き当たります。
西古瀬橋 遮断路 信号白鳥5丁目西

 白鳥5丁目西交差点から国府町藪下交差点間に旧道があります。

一部は消滅していますが、なるべく旧道に沿ってトレースしてみましょう。

これも
街道ウォークのこだわりですネ。

それでは
白鳥5丁目西交差点を横断しましょう。
白鳥の旧道トレース

 国道1号線に沿う砂利道に入ります、京方面からは国道1号線に突き当たります。

砂利道は舗装路に変わり
県道に突き当たります、右折します。

名鉄豊川線踏切を横断します、京方面からは踏切を横断し、先を斜め左に入ります。

踏切を横断したら、スグ先の一本目を左折します、京方面からは突当りを右折して踏切を横断します。
砂利道 分岐 踏切 分岐

 一本目のカーブミラーがある十字路を左折します、京方面からは右折します。

突き当りの
名鉄豊川線を右折し、線路敷きに沿って進みます。

突当りを左折して
名鉄名古屋本線踏切を渡ります、京方面からは踏切を渡り、右折し線路敷きに沿って進み、先の十字路を左折します。

久保田向田交差点白鳥地下道に入ります、京方面からは白鳥地下道に入ります。
分岐 分岐 踏切 白鳥地下道

 地下道を出たら国道1号線を進み、国府町薮下交差点を斜め左に入ります、国府交番があれば正解です、これにて白鳥の旧道トレースは終了です。

国府(こう)は古に三河國の国府が置かれ、国分寺が建立されました。

岡崎信用金庫先の右手に
半僧坊大権現があります、石柱の上に祠が祀られています、半僧坊は奥山半僧坊のことで、引佐方広寺の守護神で火伏に御利益があります。

次いで右手に寛政十二年(1800)建立の
秋葉山常夜燈があります、国府立場の江戸口(東口)に鎮座し、立場の火伏を担っていました。
国府町薮下分岐 半僧坊 秋葉山常夜燈

 信号交差点を過ぎると右手に三河国府中二子寺があります、行基作の薬師瑠璃光如来像を安置しています。

この地に住む
二女が母を亡くすと悲嘆し双親菩提のための仏像を欲していました、すると行基聖人が当家に止宿し、自ら薬師如来を刻み二女に与えました。

フラワーショップ秋桜の先を左に入ると浄土宗府中山
極楽寺があります、明治六年(1873)国府小学校の前身である国府学校本堂で開校しました。

新栄2丁目交差点を左に進むと右手に
國府観音寺があります、本尊は土中より出現した一寸八分の観音像です。

境内に天保十四年(1843)建立の
芭蕉句碑があります。
二子寺 極楽寺 芭蕉句碑

 「紅梅や 見ぬ恋つくる 玉すだれ」


 新栄2丁目交差点に戻って、街道を進むと連子格子の旧家を残しています。

正面に白壁に囲まれた
大社神社が現れます、天元永観年間(978〜985)三河国司として赴任した大江定基が三河國の安泰を祈念して出雲大社を勧請したものです。

江戸後期の安永天明の頃、国府村内に
田沼意次陣屋がありましが、失脚すると廃止となりました、大社神社の白壁はこの陣屋から移築したものです。

幕末の慶応元年(1865)徳川十四代将軍
家茂長州征伐に際して、戦勝を祈願し、短刀を奉納しました。

かましんの植栽の中に
御油一里塚跡標石があります。
大社神社 大社神社社殿 一里塚跡

 江戸日本橋より数えて七十六里目です。


 先の十字路が姫街道追分です、黄色矢印が姫街道(本坂越)です。

追分には安永三年(1774)建立の
秋葉山常夜燈、明治十六年(1883)建立の秋葉山三尺坊大権現道標、明治十三年(1880)建立の國幣小社砥鹿神社道是ヨリ凡二里卅町道標があります、街道は直進(白色矢印)です。

音羽川御油橋で渡ると御油宿に到着です!

袂に
若宮八幡社が鎮座しています。
姫街道追分 追分道標 御油橋 若宮八幡社

 御油宿の
江戸方口(東口)を守護しています。

 PM 2:21 御油宿着 赤坂宿まで2.0km

 御油の地名は古にこの地はを産出し、御所や国府に献納したことに由来しています。

御油宿は城下町である吉田宿の堅苦しさを避けた旅人や姫街道(本坂越)の追分を控え、大いに賑わいました。

参勤に随行する武士は「御油に赤坂、吉田がなくば、何のよしみで江戸通い」と詠い、前後の吉田宿、赤坂宿と並んで
遊女が多く、とりわけ次宿赤坂とは距離が短い為、客引きは強引でした、広重は正にこの様を描いています。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
御油宿の宿内家数は三百十六軒、うち本陣三、旅籠六十二軒、宿内人口は千二百九十八人(男五百六十人、女七百三十八人)で、宿長は九町三十二間(約1.3km)でした。
東海道五拾三次之内 【御油】 旅人留女

 宿並を進むと変則十字路に突き当たります、この十字路手前の右手にベルツ花夫人ゆかりの地解説板があります。

は明治新政府がドイツから招いた日本近代医学の祖と云われるベルツ博士と結婚し、博士が亡くなると実家の旅籠で余生を送りました。

十字路奥の左手に
高札場跡解説板があります、宿並は十字路を右折します。

右手の空地に
広重御油旅人留女画があり、問屋場跡解説板があります。

先の
十字路を左折(白色矢印)します。
十字路分岐 十字路分岐 松並木資料館

 十字路を右折(黄色矢印)し、音羽川手前を左に入ると
御油の松並木資料館があります、屋外に慶長九年(1604)に植栽された黒松の切株が展示されています。

 宿並を進むと左手の味噌醤油醸造業のイチビキ工場手前に本陣跡標柱があります、鈴木半左衛門が勤めました。

イチビキの前身は
旅籠大津屋でした、ある時旅籠のお抱え飯盛女五人が入水して果てました、主は稼業に嫌気がさし、安政元年(1772)旅籠を廃業し、味噌醤油醸造業に転業しました。

先を左に入ると浄土宗
東林寺があります、永享年間(1429〜41)の創建で、本尊の阿弥陀如来は源義経と契りを結んだ三河矢作の浄瑠璃姫の念持仏と云います。

この寺には
徳川家康が二度も立ち寄っています。

墓地の中央、土塀寄りに自殺した旅籠大津屋の
飯盛女五人の墓があります、主が菩提を弔う為に建てたものです。
本陣跡 東林寺

 宿並に松並木が現れると左手に十王堂があります、明治の中頃に火災に遭い、再建されたものです。

江戸時代の絵図にも描かれています、堂内には
閻魔大王十王三十三観音が安置されています。

この十王堂辺りが御油宿の
京方口(西口)です。

十王堂の向いには
天然記念物御油ノ松並木碑があります、慶長九年(1604)大久保長安が植樹した六百本の三河黒松のうち、三百五十本が約600mに渡って残されています。

三河黒松は樹皮が亀甲状に割れているのが特徴です、松並木は一ノ橋の手前で終了します。
十王堂 御油の松並木 一ノ橋

 十辺舎一九の東海道中膝栗毛の
弥次郎兵衛は先行する喜多八にこの松並木で追い着きました、しかし狐が喜多八に化けていると思い込み、突き倒して縛り上げると云う、騒動を起こしています。

 PM 2:49 赤坂宿着 藤川宿まで10.9km

 天王川一ノ橋で渡り、一本目の右小路の所に見附跡解説があります、あっと云う間に赤坂宿到着です!

寛政八年(1796)代官辻甚太郎のとき、
東見附は関川神社の前に移設され、明治七年(1874)取り壊されました。

赤坂宿
は御油宿から十六町(約1.7km)と、東海道の中では最も宿間の短い宿場でした。

御油宿と同様に
遊興の宿場と知られ、「宿ごとに遊女あり、立ち並びて旅人をとどむ」と云われ、近郷近在の歓楽郷でもあったらしく「御油や赤坂、吉田がなけりゃ親に勘当うけやせぬ」と詠われています。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
赤坂宿の宿内家数は三百四十九軒、うち本陣三、脇本陣一、旅籠六十二軒で、宿内人口は千三百四人(男五百七十八人、女七百二十六人)でした。
赤坂宿東見附跡

 宿並を進むと左手に関川神社があります、境内のクスノキは推定樹齢八百年です、根元のえぐれている部分は慶長十四年(1609)の火事で焼けた跡です。

鳥居脇には
芭蕉句碑「夏の月 御油より出でて 赤坂や」があります、御油、赤坂間の短さを詠んだものです。

音羽郵便局先を左に入ると
長福寺があります、赤坂長者が娘力寿の菩提を弔う為に創建し、本尊の聖観世音菩薩立像大江定基力寿の菩提を弔う為に寄進したものです。
関川神社 芭蕉句碑 長福寺 観音立像

 三河国司の
大江定基(おおえのさだもと)は妻を捨て、赤坂の遊女力寿を迎えるが、ほどなくして力寿は病に倒れ亡くなりました。

定基はそれでも抱き続けるが、次第に腐敗してゆく力寿の様を見て、世の無常を悟り出家し、
寂照(じゃくしょう)と号しました、

 宿並に戻ると右手に赤坂宿問屋場(伝馬所)跡解説があります、間口六間、奥行三十間で、人足三十人、馬十疋が控えていました。

スグ先の左手に
本陣跡解説があります、間口十七間半、奥行二十八間で松平彦十郎が勤め、問屋を兼ねました。

赤坂紅里交差点手前の右手に
高札場が復元されています。

交差点先の右手に明治元年(1868)創業の
尾崎屋があります。
問屋場跡 本陣跡 高札場 尾崎屋

 「曲物 民芸品製造卸問屋」「東海道五三次 赤坂宿」と書かれた
軒行燈が掲げられています。

 尾崎屋の向いに赤坂薬師百観音浄泉寺があります、境内の蘇鉄(そてつ)は推定樹齢二百七十年で旅籠大橋屋の中庭にあったものです。

先の左手に大旅籠であった旧旅籠
大橋屋があります、創業慶安二年(1649)で旧屋号伊右エ門鯉屋でした、現在の建物は正徳六年(1716)の建築です、残念ながら廃業となりました。
浄泉寺の蘇鉄 旅籠大橋屋 東海道五拾三次之内 【赤阪】 旅舎招婦ノ図

 
広重は赤坂として大橋屋の旅籠模様と中庭の蘇鉄(そてつ)を描いています。

 先の左手に真宗大谷派太子山正法寺があります、参道口に見真大師聖徳太子御舊跡碑があります。

正徳太子が三河を訪れた際に、太子堂を建てたことに始まります。

スグ先の白壁の側溝の所に
高札場跡標柱があります。

次いで左に
御休処よらまいかんがあります、東海道赤坂宿碑が立っています。

右手の駐車場前に
赤坂陣屋跡(三河県役所跡)解説板があります。
正法寺 高札場跡 御休処よらまいかん 赤坂陣屋跡

 三河の
天領(幕府領)を支配し、幕末には三河県役所になりました。

 先の右手に杉森八幡社の鳥居があり、傍らに赤坂の舞台標柱があります。

杉森八幡社は大宝二年(702)創建の
古社で、境内の夫婦楠は推定樹齢千年の大樹です。

境内の
赤坂の舞台は明治五年(1872)に舞台開きされた回り舞台を備えた芝居小屋で、今でも歌舞伎が公演されています。

宿並に戻ると鳥居先の右手に
見附跡標柱があります、赤坂宿の京方口(西口)です。

次いで左手に
十王堂跡標柱があります、向いには小さな地蔵尊が祠に安置されています。
赤坂舞台 杉森八幡社 見附跡 十王堂跡

 スグ先の左手に常夜燈があります、皇紀二千六百年と刻まれています、昭和十五年(1940)の建立です。

音羽中学校を過ぎると右手に
招福除病開運毘沙門天王尊碑があります。

左手の裾野に田畑が広がる、長閑な一本道を進むと、大永山
栄善寺寺標があります、文永九年(1272)の創建で、本尊は弘法大師作の大日如来です。

街道を進むと左手に
八王子神社社標があります、踏み込むと参道は途中からかなり急で苔むした石段になります。
常夜燈 毘沙門天 栄善寺 八王子神社

 応永十一年(1403)造営の棟札を残しています。


 八王子神社の参道脇に洞泉寺があります、近江の三井寺の僧が信濃善光寺三尊如来に帰依し、身丈一尺五寸五分の分身四十八躰を造立し、これを本尊としています。

街道の左手に
一里山庚申道道標があります。

スグ先で
音羽川八王子橋で渡り、次いで県道73号オレンジロード線高架をくぐります。

左手の橋の手前に
一里塚跡標柱があります、長沢の一里塚跡です。
洞泉寺 道標 オレンジロード 一里塚跡

 江戸日本橋より数えて七十七里目です。


 長沢小学校の擁壁に長沢城跡解説があります、長沢は東西三河の境目にあたり、中世において戦略上重要な地でした。

寛永十一年(1634)徳川三代将軍
家光の上洛の際、小学校敷地内に休憩所として御殿が建てられました。

小学校を回り込み、豊川警察署長沢駐在所横の石段を上ると
千住観音堂があり、境内に長沢の三尊種子板碑があります。

板碑は正安二年(1300)の建立で
梵字三文字が刻まれています、金剛界大日、釈迦、胎蔵界大日の種子を表しています、県下最古の在銘板碑で、美しい梵字の石材工芸品と云われています。
長沢城跡 三尊種子板碑 稚児神社

 街道を進むと右手に
村社稚児神社社標があります、社殿は東名高速道路を越えた先です。

 次いで右手に浄土宗古谷山誓林寺があります、親鸞の弟子誓海坊が草庵を結んだことに始まります

現在の本堂は文政七年(1824)の建立です。

先の右手に村社
(いただき)神社社標と寛永十年(1798)建立の秋葉山常夜燈があります、社殿は東名高速道路を越えた先です。

連子格子の旧家の向い右手に
観音堂跡があり、磯丸「みほとけ」歌碑があります。

碑の正面には「おふげ人 衆生さいどに たちたまう このみほとけの かかるみかげを 八十二翁 磯丸」、裏面には一百萬遍供養塔と刻まれています。
誓林寺 巓神社&常夜燈 観音堂跡

 観音堂庵主
妙香尼が弘化三年(1846)、落馬して亡くなった旅人の供養の為に建立したものです。

 スグ先の右手に安政六年(1859)建立の常夜燈と小路を挟んで石仏を安置するが対であります、立信寺参道口です、本堂は名鉄本線を越えた先です。

千束川大榎橋(旧唯心橋)で渡り、大榎橋バス停先で、再び千束川千両橋で渡ります。

正面が国道1号線の
関屋交差点です、千両橋の渡り詰めを左折し、千束川と国道1号線の間の細道を進みます、関屋の旧道トレースです。
祠&常夜燈 関屋旧道東口 村社赤石神社 関屋旧道西口

 左手に
村社赤石神社社標が現れれば正解です。

関屋旧道は
吉川塗装の先で国道1号線に合流します、ここが関屋旧道トレース西口です、京方面からは重要な分岐ポイントです。

 国道1号線をモクモクと歩きます、この辺りは狭隘(きょうあい)の地です、赤い車両の名鉄名古屋本線、そして東名高速道路が平行に走っています。

本宿町深田交差点の所から豊川市から岡崎市に入ります。

交差点を越すと左手に
自然と歴史を育むまち本宿碑があります、本宿村法蔵寺の門前町として発展し、間の宿でした。

村内には二ケ所の立場があり、法蔵寺前の
立場は炙った団子を溜り醤油で味付けした法蔵寺団子が名物でした。

本宿碑の先に
冠木門と対の常夜燈があります、本宿村の江戸方口(東口)です、ここには二ケ所の内のひとつ四谷の立場がありました。

冠木門先は下道の歩道に入ります、京方面からは冠木門をくぐります。
本宿碑 冠木門&常夜燈

 新箱根交差点先に本宿の歴史と文化をたずねて解説、常夜燈、そして道標「右国道一号 左東海道」があります、この手前から斜め左に入ります、本宿の分岐です。

京方面からは突当りを右折して、国道1号線側道の歩道を進みます。

わずかに進むと左手に浄土宗
法蔵寺があります、大宝元年(701)僧行基の開創です。

徳川家康の祖、松平氏初代親氏をはじめ、代々の
松平氏の帰依が深く、諸堂宇が寄進されました。

近世は
家康お手習いの寺として、江戸期を通じて門前下馬
でした。
道標&常夜燈 本宿分岐 法蔵寺

 参道口に御草紙掛松(四代目)があります、家康は幼少の頃、当寺にて学問に励み、手習いの草紙をこの松に掛けたと云います。

周囲の
石柵は文化十二年(1815)旗本木造(きずくり)清左衛門俊往の寄進です。

山門をくぐると正面の石段左側に
賀勝水があります、日本武尊が東征の折、勝利を祈願し鉾(ほこ)で岩を突くと冷泉が湧き出したという伝説の湧水です。

本堂裏に新選組局長
近藤勇首塚があります、台石には土方歳三をはじめ十一名の隊士名が刻まれています、傍らに近藤勇胸像があり、誠の旗指物がはためいています。
御草紙掛松 賀勝水 近藤勇胸像

 新選組局長の
近藤勇は下総流山で官軍に捕らわれ、中山道板橋の刑場で斬首となり、、首級は塩漬けにされ京の三条河原に晒されました、三日目の晩に同士がこれを奪取して、ここ法蔵寺に運び密かに埋葬したと云います。

 街道に戻り鉢地川法蔵寺橋で渡ります。

右手の本宿町中集会所に
不動院の表札が掲げられています、敷地内に地蔵尊西國三十三所順礼供養塔があります。

先左手の冨田病院が
本宿陣屋跡代官屋敷があります。

元禄十一年(1689)旗本
柴田出雲守勝門(柴田勝家の子孫)が知行地支配の為、陣屋を設け、陣屋代官職冨田家が代々世襲しました。

次いで右手火の見櫓の足元に
本宿村道路元標があります、旧道路法の定めによる、各市町村の起点です。
不動院 本宿陣屋跡 道路元標

 火の見ヤグラの傍らには寛政十三年(1801)建立の秋葉山常夜燈があります。

先の左の坂を上ると
欣浄寺があります、ヒノキ寄木造の元十王堂の本尊木造地蔵菩薩坐像は岡崎市指定文化財です。

街道沿いの欣浄寺参道口右手の本宿町集会所の所に
十王堂跡解説板があります。

ここに
十王堂(焔魔堂)があり、村人や旅人から尊崇されていました、本尊の木像地蔵菩薩坐像欣浄寺に安置されています。

先を右に入ると名鉄名古屋本線
本宿駅です。
秋葉山常夜燈 欣浄寺 十王堂跡

 街道を進むと右手の三階建マンションの所に東海道一里塚跡標石があります、本宿の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて七十八里目です。

豊川信用金庫を過ぎると左手に薬王院
揚珠院があります、街道沿いの祠の中には地蔵菩薩立像が安置されています、傍らに薬師如来石柱が立っています。

先に進むと左手に
長屋門があります、宇都野龍碩(りゅうせき)邸跡です。

本宿村医家
宇都野家は宝暦年間(1751〜63)三代目立碩(りっせき)がこの地で開業し、七代目龍碩はシーボルト門人青木周弼に学んだ蘭方医で安政年間(1854〜60)に種痘を施行しました。
一里塚跡 揚珠院 長屋門

 長屋門先に松並木の一部が残されています。

街道は
本宿町沢渡交差点に突き当たり、国道1号線に合流します。

この分岐点には
道標「右東海道 左国道一号」があります、京方面からは松の右の旧道に入ります。

交差点を横断して、国道1号線の
右側を進みます。

東海中学校入口交差点を過ぎたら、右手の歩道標識に従います。
本宿町沢渡分岐 道標 歩道標識 舞木旧道東口

 名鉄名古屋本線に沿って進みます、再び国道1号線に合流した先で、右手のスロープを下り
舞木旧道に入ります。

右手の
名鉄名古屋本線ガードやスグ先右手に東海道標識が現れれば正解です。

 名電山中駅を過ぎると右手に山中稲荷神社があります、街道沿いには赤字に白く相馬稲荷大明神と染め抜かれた幟がはためいています。

次いで右手に大雄山
興円寺寺標があります、額田郡新四國三十七番札所です、傍らの祠には地蔵立像が安置されています。

名残りの松が正面に現れると左手に
舞木町由来解説があります。

山中八幡神宮記に「文武天皇(697〜707)の頃 雲の中より神樹の一片が 神霊をのせて舞い降りる」と著されています、これが舞木の地名由来になっています。
山中稲荷神社 興円寺 舞木町解説

 次いで右手に専称山永證寺寺標があります、額田郡新四國三十八番札所です。

山綱川舞木橋で渡ります。

街道の左側に三河黒松の
松並木の名残りがあります、この中に東海道標石があります。

街道は
舞木町西交差点に突き当たります、旧道は国道1号線に合流します、ここが舞木旧道西口の分岐点です。

京方面からは舞木町西交差点から斜め左の
舞木旧道に入ります。
永證寺 松並木の名残り 東海道標石 舞木旧道西口

 それでは山中八幡宮に立寄ってみましょう、舞木町西交差点から南に進みます。

突当りのT字路に天保四年(1833)建立の
山中御宮常夜燈があります、ここを右折すると正面が山中八幡宮です。

山中八幡宮は文武天皇(697〜707)時代
山中光重の創建で、天文年間(1552〜5)に焼失しました、その後、家康の父松平広忠が再建しました。

社殿下に
鳩ケ窟があります、家康の家臣菅沼定顕(さだあき)が、上宮寺から糧米を強制徴収したことに端を発した三河一向一揆で、門徒に追われた家康がこの洞窟に身を隠しました。
山中御宮常夜燈 山中八幡宮 鳩ケ窟

 追手が洞窟を探そうとすると、中から二羽の
が飛び立ちました、「人のいる所に鳩がいるはずはない」と追手は立ち去ったと云います、以来「徳川家康公御開運の鳩ケ窟」と呼ばれています。

 舞木町西交差点に戻ると、文政四年(1821)建立の御開運御身隠山碑があります、山中八幡宮は身隠山に鎮座しています。

Hotel ANtoinette(アントワネット)先の左手に
御開運御身隠山碑があり、灯籠そして鳥居があり、石段が続いています、山中八幡宮の裏参道口です。

市場町交差点先を斜め左に入り、更に 先のY字路を左に入ります、藤川宿分岐です、京方面からは国道1号線に合流します。
身隠山碑 山中八幡宮裏参道 市場分岐 藤川宿分岐

 PM 5:17 藤川宿着

 Y字路に入ると東棒鼻跡があります、江戸方口(東口)です、藤川宿到着です!

広重は藤川として
東棒鼻を描いています、棒鼻跡は広重の絵の通りに再現されています。

左右に
石垣見附を築き、竹矢来が組まれています。

傍示杭には「従是西藤川宿」と書かれています、この棒杭が宿場の(はな)にあるところから棒鼻と呼ばれました、傍らには当宿に止宿の予定の大名の名が書かれた関札があります。

以前あった冠木門は取り払われています。
藤川宿東棒鼻跡 東海道五拾三次之内 【藤川】 棒鼻ノ図

 広重の絵にはありませんから撤去したのでしょう、積極的ですね。

藤川宿は中世から宿駅でした、慶安元年(1648)一村での宿経営が困難な為、舞木村市場から六十八戸を移住させ加宿市場村を加えました、これにより宿並は九町二十間(約1km)に及ぶ長い宿場となりました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
藤川宿の宿内家数は三百二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十六軒で宿内人口は千二百十三人(男五百四十人、女六百七十三人)でした。

 東棒鼻の先は枡形になっています、加宿市場村に入ります、それではトレースしてみましょう。

突当りを右折します、この分岐ポイントには
市場改耕碑があります、京方面からは左折します。

次いで突当りを左折します、このポイントには寛政七年(1795)建立の
秋葉山常夜燈があります、京方面からは右折します。

宿並を進むと右手に
津島神社社標と対の常夜燈があります、社殿は名電名古屋線を越えた先に鎮座しています。
市場改耕碑 秋葉山常夜燈 津島神社 明星院

 宿並左手の藤川宿駐車場には
むらさき麦の穂を刻んだ石柱があり、その先の左手に真言宗醍醐派弘法山明星院があります、本尊は片目不動尊と呼ばれる不動明王です。

永禄五年(1562)
扇子山の戦で家康は危ういところを見知らぬ武士に助けられました。ところがその武士は敵の矢で目を射られ、姿を消してしまった。後にここを通った家康は堂内の不動尊の片目が潰れているのを見て、助けてくれた武士は不動の化身と知り、家康は深く感謝したと云います。

 小さな橋を渡ります、市場村藤川村の境です。

城造りの粟生(あおう)人形店の向いに
高札場跡解説板があります。

左に永禄十一年(1568)創建の
称名寺があります、宝暦十三年(1763)藤川宿で没した武田信玄の異母弟武田成信の墓があります。

先の右手に
問屋場跡標石があります、御伝馬所と呼ばれました。

右手に
藤川駐在所があります。
高札場跡 称名寺 問屋場跡 銭屋

 駐在所の向いに
商家銭屋があります、火災の際、類焼防止用の軒卯建をあげています。

 銭屋手前の米屋は天保年間(1830〜43)築です、現在は布小物や木工細工を商うむらさき小町になっています。

駐在所の隣り藤川宿第二資料館が
藤川宿本陣跡です、森川久左衛門が勤め、建坪凡百九十四坪で、門構玄関付でした。
※現在は
藤川宿本陣公園になっています。

次いで
藤川宿脇本陣跡があります、江戸時代後期には大西喜太夫が勤め、屋号橘屋でした。

藤川宿は度重なる大火に見舞われ、現在残っている
脇本陣門は貴重なものです。遺構は藤川宿資料館になっています。
米屋 本陣跡 脇本陣跡

 脇本陣脇を下ると、本陣裏手に石垣を残しています。

ここには
むらさき麦栽培地があります、むらさき麦は大麦の栽培品種で、食用というよりは染料として使われ、紺屋麦とも呼ばれました。

むらさき麦は収穫の悪さから一時途絶えましたが、今日復活されています。

宿並を進むと右手に
関山神社の参道口があります、対の常夜燈と傍らには東海道標石があります。
本陣石垣 むらさき麦栽培地 むらさき麦 関川神社

 百田川宿場橋で渡ると左手に浄土真宗大谷派松音山伝誓寺があります、元は天台宗でしたが蓮如上人の教えに帰依し改宗したと云います、欄間の彫りの竜馬は左甚五郎作と伝わっています。

藤川小学校に沿って進むと右手に松並木が現れます、ここが
藤川宿西棒鼻跡です、東棒鼻と同様に傍示杭見附石垣が再現されています。

広重の門人である
歌川豊広の歌碑「藤川の しゅくの棒はな みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」があります。

「藤川宿の
棒鼻を見渡すと杉の木で造った傍示杭が立っており、付近の店には西浦吉良等から持ってきたゆでたこを売っており、蛸の足がぶら下がっている」の意です。
伝誓寺 藤川宿西棒鼻跡 歌川豊広歌碑

 棒鼻の向いにも
むらさき麦が栽培されています、藤川宿の起点はここです、無事到着です!

 ここ藤川に宿泊施設はありません、藤川小学校を回り込み、藤川駅から名電名古屋本線に乗車し東岡崎駅に移動です。

東岡崎駅には3駅で到着します、以前泊まった
ビジネスホテルいとやさんに電話したところ9月で廃業したとのことです。
急遽、
岡崎セントラルホテル(0564−51−2830)に電話を入れます、無論素泊まりです、OKです!

サア、一杯です、さすが
名古屋コーチン圏なのでしょう、駅周辺は焼き鳥屋さんが目白押しです、とりとり亭に白羽の矢を立てました、ジョッキに入ったレモンハイネギ鳥砂肝は塩、つくねはタレ味です、ウマイ・・・・。
とりとり亭 レモンハイ 鶏すき鍋

 壁に貼られた「鍋始めました!!
鶏すき鍋 1人前1,280円 期間限定」が目に入りました、すいません鍋1人前でもオーダーできます?結構です、お願いします、それとレモンハイをもう一杯。

一人鍋です、鶏肉も野菜も盛り沢山です、お肉はとき卵で頂きます、親子ですから相性抜群です。

ご馳走さま、店長さん、さすがに
名古屋コーチンはうまいですネ、いえ家(うち)は岡山の地鶏を使用してます、失礼しました。

岡崎セントラルホテルのシングル宿泊料金は6,405円です、かなり部屋は狭いです、救いは2階に浴場とサウナがあることです、サウナに入り、風呂に首までつかり、フーッなんて云ってしまいます。



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