+
新居宿から宮宿までの総距離は89.3kmです、きりが良いですね、一泊二日ウォークにはもってこいです。 初日の中間地点、藤川宿までは47.1kmです、時速6km/hで計算しますと約8時間を要します、これに撮影や食事時間を加えなければなりません、10時間はオーバーするでしょう。 これまで乗り継いできた東海道本線始発フォーメーションですと新居町駅到着はAM9:25です、これでは陽も大部短くなってきていますので40km台の踏破は無理です。 東海道新幹線を利用しても新居町駅到着はAM8:11です、左程変わりません。 ちなみにこの先京三条大橋からの帰路まで東海道新幹線は一切利用しません。
大仰な言い方をしましたがサウナ仮眠作戦です、ホテルに泊まる程ではありません。 前夜の内に東海道本線で浜松に行きます、サウナは浜松健康センターバーデンバーデン(053-455-1126)です。 このサウナは旧東海道筋の菅原町交差点にある子育て地蔵尊の裏にあります、浜松駅からおよそ1.3kmです。 入浴料が1,700円、深夜料金が800円、しめて2,500円です。 翌朝はAM6:06の東海道本線岐阜行の始発に乗れば14分で新居町駅です、バッチリです。
宿内人口は三千四百七十四人(男千七百七十六人、女千六百九十八人)でした。
新居関所は正式には今切関所と云い、慶長五年(1600)に設置され、当初幕府が掌握しましたが、元禄十五年(1702)三河吉田藩の管轄となりました、関所は「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。
紀州藩の御用宿を勤め、お七里役所を兼ねていました、今は資料館になっています。
当本陣は吉田藩や徳川御三家など約百二十家が利用しました。 交差点手前の右手の旧疋田医院は疋田弥五郎本陣跡(標識なし)です、年寄、問屋役を兼ねました、建坪百八十八坪で、門構え玄関付でした。 当本陣は対馬、宇和島、今治藩など七十家余りが利用しました。
毎年七月二十七日の祭礼の神事手筒花火で広く知られています。 参道のケヤキは御神木で樹齢四百五十年、樹高16mの巨樹です。
甚兵衛は新居関所が幕府直轄時代の正保四年(1647)から明暦三年(1657)まで関所奉行を勤め、同年七十四歳で没しました。
宿並正面のY字路は右に進みます、京方面からもY字路です、左に進みます。
検校(けんぎょう)とは盲人社会の最高位を指し、座頭が検校になることは困難なことでした。 その昔、ある座頭が検校の位を得る為、東国より京に上る途中、この辺りで道に迷い倒れ、その望みを絶たれてしまったと云います、その後、誰云うとなくこの谷を検校ケ谷と呼ぶようになったと云います。
スグ先の右手に臨済宗大広寺派松林山東新寺があります、本尊は聖観音菩薩で浜名湖岸新四国八十八ケ所霊場第六十六番札所です。
内宮神明神社の隣には堂々とした内藤家の長屋門があります。
この潮見坂下分岐ポイントには小さな道標「右旧道 左新道」、そして大きな道標「白須賀宿 潮見坂下」があります。
うないとはうなじのことで、松があった所が潮見坂の首にあたるところからを由来としています。 旧道は白須賀中学校に突当たります、本来旧道はこの延長線上ですが、現在は白須賀小中学校の敷地になっています、学校に沿う道を進みます。
この公園跡から望む遠州灘の景は、広重の構図にピッタリです。
の宿内家数は六百十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十七軒で、宿内人口は二千七百四人(男千三百八十一人、女千三百二十三人)でした。
諸平は甕麿の長男で、紀州和歌山の加納家の養子となり、紀州候に召されて国学を講じ国学所総裁となりました。
火除け地の広さは間口二間(約3.6m)奥行四間半(約8.2m)で、火防樹の槙が十数本植えてありました。 火事に悩まされた白須賀宿内に三地点、六場所に火除け地がありました。
現在では静岡(湖西市)と愛知(豊橋市)の県境です、これで伊豆、駿河、遠江と長く続いた静岡県ともお別れです。
川口屋は二川宿の東端でした、二川宿に到着です! 二川宿は現在の二川駅辺りにあった二川村と源吾坂辺りにあった大岩村を一ケ所に寄せ、正保元年(1644)二川宿が成立しました、宿並は東西十二町十六間(約1.3km)と小宿でした。 天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると、二川宿の宿内家数は三百二十八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十八軒で、宿内人口は千四百六十八人でした。
しかし紅林家も火災に見舞われ没落し、文化四年(1807)以降明治迄は馬場家が本陣職を勤めました。
岩屋山上に立つ聖観音像は吉田大橋の架け替えの際、岩屋観音に架橋成就を祈願し、後に無事竣工し、その礼に建立したものです。
※ 現在、クロマツの切株は抜根されています。
千二百九十三軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠六十五軒で、宿内人口は五千二百七十七人(男二千五百五人、女二千七百七十二人)でした。
一本目を右折すると左手に造立稲荷神社があります、正一位造立稲荷大明神を祀っています。
先の大きな信号交差点を右折します、共栄火災や松葉公園が右折ポイントです、京方面からも同じです。
境内には芭蕉句碑「寒けれど 二人旅寝ぞ たのもしき」があります、貞享四年(1687)吉田宿の旅籠での句です。
吉田大橋は矢作橋、瀬田唐橋と共に東海道三大大橋と呼ばれました。
霞堤とは不連続堤防のことで、洪水の際に川の水が不連続部から一時的に堤内地に逆流することにより、本川の水位を下げ、堤防の破壊などを防いでいるものです。
御奈良天皇天文十三年(1544)の創建です。
裏理由としては、モノには適正価格があるのに、重税と云う不当な年貢を課す悪代官的所業に憤慨したからです。
東田子ノ浦の六王子神社にも少女の生贄の習慣がありました、これも悲しい歴史的文化の一端でしょう。
加藤家が商った腹薬良香散は広く知られていました。 俳人鳥巣は加藤家の生まれで、芭蕉と親交がありました。 芭蕉句碑「かくさぬぞ 宿は菜汁(なじる)に 唐(とう)が羅(ら)し」、烏巣方へ一泊した時の作です。 鳥巣句碑「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」 東京遷都の際、明治天皇は加藤家で休息しました。
冷泉為村歌碑「散り残る 花もやあると 桜村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ」 冷泉為村(れいぜいためむら)は冷泉家の中興の祖と云われています、為村は徳川九代将軍家重の祝賀の一行に加わり、下向の際にこの地の桜村で詠んだ歌です。 歌碑の傍らには若宮白鳥神社遥拝所標石があります。
「紅梅や 見ぬ恋つくる 玉すだれ」
江戸日本橋より数えて七十六里目です。
御油宿の江戸方口(東口)を守護しています。
十字路を右折(黄色矢印)し、音羽川手前を左に入ると御油の松並木資料館があります、屋外に慶長九年(1604)に植栽された黒松の切株が展示されています。
十辺舎一九の東海道中膝栗毛の弥次郎兵衛は先行する喜多八にこの松並木で追い着きました、しかし狐が喜多八に化けていると思い込み、突き倒して縛り上げると云う、騒動を起こしています。
三河国司の大江定基(おおえのさだもと)は妻を捨て、赤坂の遊女力寿を迎えるが、ほどなくして力寿は病に倒れ亡くなりました。 定基はそれでも抱き続けるが、次第に腐敗してゆく力寿の様を見て、世の無常を悟り出家し、寂照(じゃくしょう)と号しました、
「曲物 民芸品製造卸問屋」「東海道五三次 赤坂宿」と書かれた軒行燈が掲げられています。
広重は赤坂として大橋屋の旅籠模様と中庭の蘇鉄(そてつ)を描いています。
三河の天領(幕府領)を支配し、幕末には三河県役所になりました。
応永十一年(1403)造営の棟札を残しています。
江戸日本橋より数えて七十七里目です。
街道を進むと右手に村社稚児神社社標があります、社殿は東名高速道路を越えた先です。
観音堂庵主妙香尼が弘化三年(1846)、落馬して亡くなった旅人の供養の為に建立したものです。
左手に村社赤石神社社標が現れれば正解です。 関屋旧道は吉川塗装の先で国道1号線に合流します、ここが関屋旧道トレース西口です、京方面からは重要な分岐ポイントです。
新選組局長の近藤勇は下総流山で官軍に捕らわれ、中山道板橋の刑場で斬首となり、、首級は塩漬けにされ京の三条河原に晒されました、三日目の晩に同士がこれを奪取して、ここ法蔵寺に運び密かに埋葬したと云います。
名鉄名古屋本線に沿って進みます、再び国道1号線に合流した先で、右手のスロープを下り舞木旧道に入ります。 右手の名鉄名古屋本線ガードやスグ先右手に東海道標識が現れれば正解です。
追手が洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ちました、「人のいる所に鳩がいるはずはない」と追手は立ち去ったと云います、以来「徳川家康公御開運の鳩ケ窟」と呼ばれています。
広重の絵にはありませんから撤去したのでしょう、積極的ですね。 藤川宿は中世から宿駅でした、慶安元年(1648)一村での宿経営が困難な為、舞木村市場から六十八戸を移住させ加宿市場村を加えました、これにより宿並は九町二十間(約1km)に及ぶ長い宿場となりました。 天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると藤川宿の宿内家数は三百二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十六軒で宿内人口は千二百十三人(男五百四十人、女六百七十三人)でした。
宿並左手の藤川宿駐車場にはむらさき麦の穂を刻んだ石柱があり、その先の左手に真言宗醍醐派弘法山明星院があります、本尊は片目不動尊と呼ばれる不動明王です。 永禄五年(1562)扇子山の戦で家康は危ういところを見知らぬ武士に助けられました。ところがその武士は敵の矢で目を射られ、姿を消してしまった。後にここを通った家康は堂内の不動尊の片目が潰れているのを見て、助けてくれた武士は不動の化身と知り、家康は深く感謝したと云います。
駐在所の向いに商家銭屋があります、火災の際、類焼防止用の軒卯建をあげています。
棒鼻の向いにもむらさき麦が栽培されています、藤川宿の起点はここです、無事到着です!
壁に貼られた「鍋始めました!!鶏すき鍋 1人前1,280円 期間限定」が目に入りました、すいません鍋1人前でもオーダーできます?結構です、お願いします、それとレモンハイをもう一杯。 一人鍋です、鶏肉も野菜も盛り沢山です、お肉はとき卵で頂きます、親子ですから相性抜群です。 ご馳走さま、店長さん、さすがに名古屋コーチンはうまいですネ、いえ家(うち)は岡山の地鶏を使用してます、失礼しました。 岡崎セントラルホテルのシングル宿泊料金は6,405円です、かなり部屋は狭いです、救いは2階に浴場とサウナがあることです、サウナに入り、風呂に首までつかり、フーッなんて云ってしまいます。
|