カップそばにお握り2個です、お握りにはこだわってみました、ズバリ名古屋コーチンそぼろ&天むすです、朝からご当地名物を堪能です! 今朝の日の出は6:40です、6:15発 普通伊奈行きに乗車すべく、余裕をもってホームに上がりました。 ホームは吹き晒しで寒いので、ホーム中央の待合室に避難、間もなくすると目の前を伊奈行きが走り去って行きました。 電車は2両編成で短いため、ホームの後ろ端に停車していたのです。 次の普通伊奈行きは6:30発です、15分のロスタイムです、電車は所要時間7分で藤川駅に滑り込みました。 本日はマラソンと同じ距離です、それではハリキッテ参りましょう。
山門脇の祠内には特異な三面馬頭観音像があります、この辺りが神馬崎立場跡です、茶屋が軒を連ねていました。
大岡忠相は寛延元年(1748)三河國西大平一万石が加増され譜代大名となり、ここに陣屋を設置しました、江戸時代を通じて町奉行から大名になったのは大岡忠相だけです。
祠内には南無延命地蔵尊と三面六臂馬頭観音像が安置されています。
細道を進みます、この先東名高速道路3ケ所を岡崎14ガード、岡崎12ガード、岡崎13ガードでくぐります。
天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると岡崎宿の宿内家数は千五百六十五軒、うち本陣三、脇本陣三、旅籠百十二軒で、宿内人口は六千四百九十四人(男三千八十一人、女三千四百十三人)でした。
旧投町の宿並の右手に根石原観音堂があります、本尊の聖観世音菩薩は和銅年間(708〜15)悪病退散祈願のために行基が造立したものです。 徳川家康の嫡男岡崎三郎信康が初陣の際に、この観音像に祈願し、見事に軍功を挙げたと云います。
C突当り左手に伝馬町角標柱「これより次の伝馬通一丁目角まで」「これより次の両町角まで」があります、左折します。 京方面からは右折です。
この分岐点には六地蔵下り口標柱「これより次の籠田惣門碑まで」「これより次の伝馬通一丁目角まで」及び明治二年(1869)建立の道標「東 京みち 西 京いせ道 きらみち」があります。 吉良道は吉良の塩を信州に運ぶ塩の道として重要な脇往還でした。
籠田惣門は岡崎城総曲輪の江戸方口(東口)でした。
I突当りを左折します、ここには標柱「これより次の材木町角まで」「これより次の岡崎城対面所前角まで」と標石「材木町口木戸前」があります、京方面からは右折します。
京方面からはファミリーマート手前を右折します。 材木町は木まち通りになります、田中吉政の城下整備の際、この地に材木が集積されました、これが町名の由来になっています。
O突当りを右折して三清橋を渡ります、この分岐点には標石「下肴町より田町角」があります、京方面からは三清橋の渡り詰めを左折します。
この分岐点には標石「田町角」があります、京方面からは標石を見落とさないで下さい、ここを左折します。
永禄九年(1566)家康が厄除開運祈願の為、上州新田より白山神社を勧請したもので、歴代岡崎城主の産土神として崇敬されました。
解放された家康は岡崎城をいち早く奪取しました。 以来、岡崎城は神君出生の城として神聖視され、歴代譜代大名が城主となりました、石高は五万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることが誇りであったと云います。
岡崎城から八町の距離にあるところを由来としています。
右手に迂回して矢作橋に出ます、京方面からは矢作橋を渡り、土手道の次の右手小路に入ります。
しかしながら、史実としてはこの頃には矢作橋はまだ架橋されていませんでした、像の傍らには明治天皇御駐蹕之所碑があります。
境内(現保育園内)に浄瑠璃姫の墓と云われる、宝篋印塔と隣りには父兼高長者の墓(五輪塔)があります。
暮戸村の鎮守です、暮戸村はこの地にあった水門の呉渡(くれど)に由来しています。
宇頭町交差点を越え、愛知日野の所からY字路の右に入ります、松並木が現れたら正解です。
大浜茶屋村には立場があり蕎麦切りが名物でした、隣村の宇頭茶屋村の立場と近い為、度々紛争を起こしています。 これは両立場とも岡崎藩と仮谷藩の境にあり、互いに接近してしまった為に生じたものです。
この辺り一帯は、用水が出来る以前は安城ケ原と呼ばれる不毛の地でした、現在、明治用水は暗渠になっています。
並びに清見潟又市碑があります、江戸末期から明治初期にかけて活躍した地元相撲力士五代目清見潟又市の像です。
芭蕉は三河として藤川のむらさき麦とここの杜若(杜若)を詠み込んでいます。
弘法大師自刻の弘法像を安置している弘法山遍照院(知立市弘法町)への道標です。 この弘法像がやや右を向いているところから見返弘法と呼ばれています。
宿並を進み、名鉄三河線を横断して進むと、右手に二階蔵造りの旧商家を残しています。
築屋美廣があります、旅籠柳屋跡です、向いの本町公園が脇本陣跡です。
宿並は本町から西町に入ります。
知立は馬市と並び木綿市でも賑わいました、名産の知立木綿は池付白(いけつけしろ)と呼ばれ広く知られました。
中津藩士の墓の隣りにめったいくやしいの墓があります、僧侶に一目惚れした村娘が、片思いで憤死してしまった、洞隣寺の和尚が亡骸を引き取り葬ったが、墓石から夜な夜なめったいくやしいの声が聞こえたと云います。
境内のシイは樹齢八百五十年で刈谷市天然記念物指定です、幹の根元の空洞に、昔タヌキが棲んでいたと云います。
突如、豪雨の中を襲来した、織田軍に今川軍は逃げ惑いました、それでも近臣の者は円陣をつくり、必死に大将を守護しました、しかしこれがかえって義元の居場所の目印になったと云います。 討ち取られた義元は毛利新助の指を食いちぎり、くわえていたと云います。
祠の先のY字路を左に進み、毛越川を松野根橋で渡ると間の宿有松です。
明治六年(1873)の製作で、神功皇后のからくり人形を乗せた山車です。
江戸日本橋より数えて八十七里目です。
宿内人口は三千六百四十三人(男千七百九十二人、女千八百五十一人)でした。
扇川を中島橋で渡ると相原町に入ります、右手に禅(曹洞宗)大本山総持寺直末龍蟠山瑞泉寺があります、応永三年(1396)鳴海根古屋(ねこや)城主安原宗範(むねのり)の創建です。
次いで観音堂があります、聖観世音菩薩を安置しています。
三皿交差点を右折すると、左手に曹洞宗長翁寺があります、薬師堂の薬師如来像は織田信長の守護仏と伝わっています、末弟の織田有楽斉が当寺に祀ったものと云います。
街道を進むと右手に鉾(ほこ)ノ木貝塚があります、縄文時代早期から前期にかけての貝塚跡です。
道なりに進み天白川を天白橋で渡ります、天白川は三ケ峰上池に源を発し、流末は伊勢湾に注いでいます、往時は米野木川と呼ばれ、長さ十五間(約27m)の板橋が架橋されていました。 京方面からは天白橋を渡った先の山下西交差点のY字路を右に進みます。
巌流島の決闘から十年後の寛永七年(1630)、宮本武蔵は尾張徳川家の兵法指南役への仕官を求め、当寺に滞在しました。
そこで織田信長は一計を案じました、祐筆に政直の筆跡を真似させて、信長に内通する旨の書簡を偽造し、これを露見させました。 これを信じた今川義元は政直を三河國吉田で処刑しました、これによって戸部城は廃城となりました。
桜神明社は五世紀末頃の古墳上に鎮座しています、御神木のクロガネモチは樹齢五百八十年です。
桜田へ 鶴(たづ)鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る ちなみに年魚市(あゆち)は愛知の語源になったと云います。
東海道標石の反対側には「山崎城趾・安泰寺」と刻まれています、名鉄名古屋線を越えた所の安泰寺が山崎城址です。
名古屋高速3号大高線高架橋が覆い被さる松田橋交差点を穂波歩道橋で横断します。
明治四十三年(1910)精進川の川筋の付け替えにより新堀川となり、旧精進川跡は埋め立てられました。
命により人質としてこの屋敷に、二年間幽閉されました。 天文十八年(1549)八歳になった竹千代は一旦、岡崎に戻りましたが、今度は今川氏の人質として駿府に向いました。
寛政二年(1790)の建立で、北「さやつしま(佐屋津島) なこやきそ道(名古屋木曽) 是より北あつた(熱田)御本社貮丁(にちょう)」、南「京いせ(伊勢)七里の渡し」、東「江戸かいとう(街道)」と三方向が刻まれています。
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