道中日記 12-165 東海道 ( 藤川 - 宮 ) 42.2km

 東岡崎駅周辺にファーストフード店は有りません、そこでコンビニで食料調達をします。

カップそばお握り2個です、お握りにはこだわってみました、ズバリ名古屋コーチンそぼろ天むすです、朝からご当地名物を堪能です!

今朝の
日の出は6:40です、6:15発 普通伊奈行きに乗車すべく、余裕をもってホームに上がりました。

ホームは吹き晒しで寒いので、ホーム中央の
待合室に避難、間もなくすると目の前を伊奈行きが走り去って行きました。

電車は2両編成で短いため、ホームの後ろ端に停車していたのです。

次の普通伊奈行きは6:30発です、15分のロスタイムです、電車は所要時間7分で
藤川駅に滑り込みました。

本日は
マラソンと同じ距離です、それではハリキッテ参りましょう。

 AM 6:42 藤川宿出立 岡崎宿まで10.0km

 藤川宿西棒鼻跡を出立です!

左手に宝永七年(1710)創建の
十王堂があります、冥土で死者の罪を裁く十人の王(判官)を祀っています。

境内に寛政五年(1793)西三河の俳人達が建立した
芭蕉句碑「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつはた」があります。

この句にちなんで
むらさき麦の栽培が復活しました。

先の住宅の石垣の中に
一里塚跡標識があります、藤川の一里塚跡です、南塚は天保年間(1830〜44)に消滅し、北塚の塚木は榎でした、江戸日本橋より数えて七十九里目です。

街道を進むと
松並木の名残りが現れます。
十王堂 芭蕉句碑 一里塚跡

 街道はY字路に突き当たります、吉良道追分です、分岐点には文化十一年(1814)建立の吉良道道標があります、東海道は右に進みます。

吉良道は吉良の塩を信州に運ぶ塩の道として重要な脇往還でした。

茶壷道中の行列がここを通ると雨が降るという、茶壷の涙雨の話も今に伝わっています。

左手には大小二体の
追分地蔵が祠の中に安置されています。

東海道はスグ先で
名電名古屋本線を踏切で横断します、正面は松並木です。
吉良道追分 吉良道道標 追分地蔵 名電踏切

 松並木には約九十本の黒松が残されています(岡崎市指定文化財 天然記念物)。

街道は
藤川町西交差点で国道1号線に合流します。

京方面からは重要な分岐になります、斜め右に進みます、この分岐ポイントには
藤川宿大標識があります。

みなとクリニック看板先の左手民家の庭内に
道標「左八坂道 右清水坂」があります、しかし趣旨は不明です。

先の左手に異香山
阿弥陀寺があります。
藤川松並木 藤川町西分岐 八坂道道標 阿弥陀寺

 山門脇の祠内には特異な三面
馬頭観音像があります、この辺りが神馬崎立場跡です、茶屋が軒を連ねていました。

 阿弥陀寺前の岡町神馬崎交差点から国道1号線の歩道上の車道に進路をシフトします、この道筋が旧道です。

国土交通省を過ぎたら、黒柳建設の所から斜め左に入ります、愛知産業大学留学生会館美合寮があれば正解です。

京方面からは国道1号線に突き当たりますが、
黒柳建設に沿う車道を進みます。

竜泉寺川坂下橋で渡ります、中華料理三国志を過ぎると松並木の名残りが現れます。

美合新町、南屋敷、北屋敷と歩を進めて往きます。
岡町神馬崎分岐 黒柳建設分岐 名残り松

 サンワ印刷及び川口商店の所で十字路を横断します、いずれの方向からも街道は正面です。

この十字路を右折し、国道1号線を左折すると右手に
天然記念物岡崎源氏蛍発生地碑があります。

源氏蛍(ほたる)は
竜泉寺川(生田川)と山綱川流域に多く発生していたので生田蛍とも呼ばれました。

碑の傍らには
芭蕉句碑「草の葉を 落ちるより飛ぶ ほたるかな」があります。

街道に戻り
山綱川高橋で渡ります。

田園風景の中を進むと
乙川に突き当たります。
源氏蛍発生地碑 高橋 乙川

 乙川は三河の巴山に源を発し、男川を吸収し、流末は矢作川に落合います。

往時はここに
大平橋が架かっていました、当初は土橋でしたが、元禄九年(1693)には長さ四十九間(約89m)の板橋が架橋されました、現在は上流側に移動しています。

乙川を渡るには二通りの方法があります、マズ渇水期であれば大平堰上が通行可能です。

不可の場合は上流側の
大平橋で迂回します、渡詰めの美川中学校前バス停及びオグショー手前を左折し、突当りの大平町下町掲示板手前を右折(白色矢印)します、旧道復帰です。
乙川迂回路 旧道復帰点

 この突当りを左折(黄色矢印)しますと水神社(大平川神社)があります、ここが旧大平橋筋です。

この
水神社蛇籠堰堤の守護神として往時は大平川の中洲に安置されていました、今は大平川の守護神です。

旧道を進み
大平町東交差点にて国道1号線を横断します。

渡ると右手に
東海道標石があります、擁壁上には浄土宗西山深草派東光山薬師寺があります、 境内にはおびただしい数の地蔵尊が並んでいます。
水神社 大平町東交差点 東海道標石 薬師寺

 街道を進むと右手の火の見ヤグラの所に弘化四年(1847)建立の秋葉山常夜燈があります。

男川小学校西交差点の消火栓の所に
道標「つくて道 東海道」があります、南設楽郡作手村への追分です。

スグ先の岡崎大平郵便局の所に
西大平藩陣屋跡案内があります、ここを右折(黄色矢印)すると、右手に西大平藩陣屋跡があります。

江戸南町奉行を勤め、
大岡裁きで知られた大岡越前守忠相の陣屋跡です。
秋葉山常夜燈 つくて道道標 陣屋跡案内 西大平陣屋跡

 
大岡忠相は寛延元年(1748)三河國西大平一万石が加増され譜代大名となり、ここに陣屋を設置しました、江戸時代を通じて町奉行から大名になったのは大岡忠相だけです。

 街道に戻ると右手に真宗大谷派上野山専光寺があります。

先に進むと左手に
大平一里塚(国指定文化財)があります、江戸日本橋より数えて八十里目です。

この
一里塚は幕命により、領主本多重次の子成重が築いたものです。

昭和三年(1928)道路改修の際に
北塚は取り壊されされました、南塚の榎は昭和二十年(1945)の台風で倒木した為、再植されたものです。

向いには昭和八年(1933)建立の
秋葉山常夜燈があり、傍らにはがあります。
専光寺 大平の一里塚 常夜燈&祠

 祠内には
南無延命地蔵尊三面六臂馬頭観音像が安置されています。

 街道は国道1号線に突き当たります、右折します(白色矢印)。

京方面からは
タカハシ興産先を斜め左に入ります。

この分岐点の手前右手(黄矢印)に
大平八幡宮があります、参道口には村社八幡宮社標と対の常夜燈があります。

国道1号線の歩道を進み、
100円ショップの所から右(白矢印)に入ります。

スグ先のホテル伍萬石前の
Y字路を左(白色矢印)に下ります。
国道1号線分岐 国道1号線分岐 伍萬石分岐 岡崎14

 細道を進みます、この先
東名高速道路3ケ所を岡崎14ガード、岡崎12ガード、岡崎13ガードでくぐります。

 上道に突当り、左折(白矢印)します、京方面からは岡崎13ガードが確認できる下り坂に分岐します。

スグ先で
国道1号線に合流します、京方面からは東名高速19岡崎入口手前を斜め左に入ります。

ここからは国道1号線の歩道を歩きます、右側は
松並木です。

岡崎インター西交差点を横断し、正面の
松並木に入ります。

すぐに
松並木は終了します。
岡崎13分岐 国道1号線分岐 松並木東口 松並木西口

 松並木を抜けた先は更沙川に沿う旧道を進みます、片側だけに松並木が続いています。

旧道は
山本農機具センターの所で一旦国道1号線に接近します。

更紗川に架かる筋違橋を渡り、国道1号線右の上り坂を進みます。

右手に真宗大谷派一澤山
法光寺が現れたら正解です、山門は趣のある鐘楼門です。

次いで右手に文政十三年(1830)建立の
秋葉山常夜燈があります、岡崎城下江戸口手前にあって火伏を担っています、常夜燈前には水準点があります。
筋違橋 法光寺 秋葉山常夜燈

 AM 9:24 岡崎宿着 知立宿まで12.2km

 坂を上り詰めると、左手の三角地の小公園に冠木門があります、ここが岡崎城下の江戸方口(東口)です、岡崎宿到着です!

園内には
岡崎城下二十七曲り碑があります、二十七曲りは秀吉の家臣田中吉政が城下へ東海道を導き入れたことに始まり、のち本田康重が伝馬町を創設して以後、道筋が決定したと云います。

曲りは城下の
防衛を担いましたが、その分宿並が長くなり商家の軒が長く連ね、繁栄に結びつきました。

岡崎藩五万石の小藩でしたが「五万石でも岡崎様はお城下まで船がつく」と唄われ、矢作川の舟運が盛んで「その賑わいは駿府に次ぐべし」と云われました。
冠木門 岡崎城下二十七曲り碑

 天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
岡崎宿の宿内家数は千五百六十五軒、うち本陣三、脇本陣三、旅籠百十二軒で、宿内人口は六千四百九十四人(男三千八十一人、女三千四百十三人)でした。

 それでは岡崎城下二十七曲りを正確にトレースしてみましょう。

@
冠木門前を右折します、京方面からは冠木門に向って左折します。

A
若宮町2丁目交差点を左折します、京方面からは突当りを右折します。

この分岐点には
若宮町標柱「これより次の両町角まで」があります、標柱の上には金の草鞋が乗っています。

宿並は旧
投町で往時は茶屋が軒を連ね、あんかけ豆腐のあわ雪が名物でした。
@冠木門分岐 A若宮町分岐 若宮町角 根石原観音堂

 旧投町の宿並の右手に
根石原観音堂があります、本尊の聖観世音菩薩は和銅年間(708〜15)悪病退散祈願のために行基が造立したものです。

徳川家康の嫡男
岡崎三郎信康が初陣の際に、この観音像に祈願し、見事に軍功を挙げたと云います。

 次いで右手に真宗大谷派法圓寺があります。

両町3丁目交差点手前に
標柱「これより両町角まで」「これより若宮町角まで」があります、ここは直線です。

B両町二丁目交差点を越すと先に
両町角標柱「これより次の伝馬町角まで」「これより次の若宮町角まで」があります、ここを右折します。

両町公民館前に寛政二年(1790)建立の
秋葉山常夜燈が保管されています、両町角にあったものです。
法圓寺 B両町角分岐 常夜燈 C伝馬町角分岐

 C突当り左手に
伝馬町角標柱「これより次の伝馬通一丁目角まで」「これより次の両町角まで」があります、左折します。

京方面からは右折です。


 伝馬町通4丁目交差点を越すと左手に常夜燈があります。

伝馬交差点手前右手の花一生花店は
東本陣跡です、服部小八郎が勤め、建坪二百九坪で、二百畳以上でした。

交差点を越えた左手に天明二年(1782)創業の銘菓
あわ雪の老舗備前屋があります、投町の名物あんかけ豆腐のあわ雪を三代目籐右衛門があわ雪を豆乳菓子として再現したものです。

店前には
道標「左信州道 左京みち 右江戸道」があります、足助街道への道標です。
常夜燈 東本陣跡 備前屋 信州道道標

 先左手の永田屋は天保十四年(1812)の創業と云います。

伝馬通1丁目交差点手前右手のミニストップの所に
西本陣跡標石があります、中根甚太郎が勤めました。

D
伝馬通1丁目交差点を左折します、伝馬通一丁目角標柱「これより次の六地蔵下り口まで」「これより次の伝馬町角まで」と西本陣前角標石があります。

E一本目の
十字路を右折し、総門通りに入ります、六地蔵下り口分岐です、京方面からは左折になります。
永田屋 西本陣跡 D伝馬通角分岐 E六地蔵分岐

 この分岐点には
六地蔵下り口標柱「これより次の籠田惣門碑まで」「これより次の伝馬通一丁目角まで」及び明治二年(1869)建立の道標「東 京みち 西 京いせ道 きらみち」があります。

吉良道は吉良の塩を信州に運ぶ塩の道として重要な脇往還でした。

 右手の洋館は大正六年(1917)築の岡崎銀行本店でしたが、今は岡崎信金資料館(国登録有形文化財)になっています。

資料館の南辺りに
御馳走屋敷がありました、公用の役人などをもてなしました。

特に
お茶壺道中朝鮮通信使等の高位高官の場合は家老が出向いて丁重に挨拶したと云います。

F宿並はスグに大きな十字路に突き当たります、右折します、京方面からは
岡崎康生郵便局手前を左折します。

中央分離帯の植栽の中に
籠田惣門跡モニュメントがあります、寛文十年(1670)に惣門が設置されました。
岡崎信金資料館 F惣門分岐 籠田惣門跡

 籠田惣門は
岡崎城総曲輪の江戸方口(東口)でした。

 籠田公園前の中央分離帯に田中吉政像があります、豊臣秀吉の家臣吉政は天正十八年(1590)岡崎城の城主となりました。

吉政は当時
菅生川の南にあった東海道を城下へ引き入れて岡崎二十七曲りの基礎を造りました。

この先の宿並は
籠田公園にて消滅しています、公園奥の左手を狙って公園内を横断します。

公園内手前の右手に
籠田惣門角常夜燈が移設されています。

寛政十年(1798)に建立され、
籠田惣門角に設置されていました。
田中吉政像 籠田公園 籠田惣門角常夜燈

 G籠田公園を突き抜け籠田公園北西交差点を左折します、この分岐点には標石「篭田町より連尺町角」があります。

連尺町三丁目から一丁目と歩き、本町一丁目交差点を横断します。

H先のシビコ脇を右折します、この分岐点には
標石「岡崎城対面所前角」と標柱「これより次の材木町口角まで」があります、京方面からは突当りを左折します。

シビコ側には
岡崎城対面所がありました、外来使節応対や領民の公事、評定を行いました。
G連尺町角分岐 連尺町角標石 H対面所前角 I材木町口木戸跡

 I突当りを左折します、ここには
標柱「これより次の材木町角まで」「これより次の岡崎城対面所前角まで」と標石「材木町口木戸前」があります、京方面からは右折します。

J一本先を右折します、ここには標識等はありません、京方面からは突当りのシャンボール康生を左折します。

K次いで左手
萬陳軒材木店先の突当りを左折します、京方面からは名古屋銀行手前を右折します。

L一本目の十字路を右折します、京方面からは
一休先を左折します。

M先の十字路を左折します、ここには
標石「材木町角」と標柱「これより次の柿田橋角まで」「これより次の材木町角まで」があります。
J分岐 K分岐 L分岐 M材木町角分岐

 京方面からはファミリーマート手前を右折します。

材木町は
木まち通りになります、田中吉政の城下整備の際、この地に材木が集積されました、これが町名の由来になっています。

 N柿田橋手前を左折します、分岐には標柱「これより次の三清橋角まで」「これより次の材木町角まで」と標石「材木町より下肴町角」があります。

左手に
白山神社があります、松平広忠(家康の父)の兜の中の守護神を祀っています、境内には郷土の名木大むくがあります。

伊賀川に沿って進みます、この辺りは旧肴町(現魚町)でした、岡崎藩より魚鳥類の専売権が認められ、魚商が軒を連ねていました。
N柿田橋角分岐 白山神社 大むく O三清橋角分岐

 O突当りを右折して
三清橋を渡ります、この分岐点には標石「下肴町より田町角」があります、京方面からは三清橋の渡り詰めを左折します。

 三清橋を渡ったら、即左にシフトし、県道に沿う下り坂に入ります、ここには標柱「これより次の田町北角まで」「これより次の三清橋角まで」があります。

一本目の小路手前に
標石「田町北角」があります、本来ここが二十七曲りの一つでしたが、先が通行不可の為、一本先を左折します。

P二本目の
タイル張り住宅(近藤宅)の角を左折します、京方面からは突当りを右折します。

Qしばらく進み、
突当りを右折します。
三清橋西口 田町北角標石 P田町北角分岐 Q田町角分岐

 この分岐点には
標石「田町角」があります、京方面からは標石を見落とさないで下さい、ここを左折します。

 先を左折して板屋町に入りますが、国道1号線で遮断され通行不可です、先の八帖交差点歩道橋にて迂回します。

R一本目を右折します、ここが旧道復帰ポイントです、この分岐点には
標石「板屋町入り口」があります。

板屋町は埋立地に板屋を建てたことに由来しています、文化年間(1804〜18)頃から茶屋女を置いた茶屋が軒を連ねる繁華街となりました、今でも宿並に卯建をあげた旧家を残しています。

左手に
新田白山神社があります。
消滅分岐 迂回路 R板屋町入口分岐 新田白山神社

 永禄九年(1566)家康が
厄除開運祈願の為、上州新田より白山神社を勧請したもので、歴代岡崎城主の産土神として崇敬されました。

 白山神社の一本先を左に入ると岡崎城址です。

家康の祖父
松平清康岡崎城に入城し、天文十一年(1512)十二月二十六日、家康はここ岡崎城内で誕生しました。

城内には
東照公産湯井(産湯の井戸)や家康のえな(胞衣)を埋めたえな塚があります。

家康の父
松平広忠は従属していた守護大名の今川義元家康(幼名竹千代)を人質として差し出した。

広忠は家臣の謀反により殺害されると、岡崎城は今川家の支城となりました、しかし永禄三年(1560)今川義元桶狭間の戦いで敗死となった。
岡崎城 東照公産湯井 えな塚

 解放された
家康は岡崎城をいち早く奪取しました。

以来、岡崎城は
神君出生の城として神聖視され、歴代譜代大名が城主となりました、石高は五万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることが誇りであったと云います。

 宿並に戻りましょう、Sカットハウスキトウ(理容店)の所を右折します、この分岐点には標石「板屋町角」があります。

先で
中岡崎町交差点を横断します、渡り詰めの左手に標柱「これより八帖町突当り角まで」「これより板屋町角まで」と松葉総門跡標石があります。

松葉惣門は承応三年(1654)の設置で、岡崎城の京方口(西口)でした、往時は門前に松葉川が流れ松葉橋が架けられていました。
これにて
岡崎城下二十七曲りの終了です、現在は二十曲りになっています。

先で愛知環状鉄道線ガードをくぐります、橋脚の根元に
八帖村標石があります。
S板屋町角分岐 松葉惣門跡 ガード

 岡崎城から
八町の距離にあるところを由来としています。

 八帖町に入ると右手に八丁味噌の老舗カクキュー(早川家)、左手にまるや(大田家)があります、岡崎を代表する名産品です。

八丁味噌は大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌です、「生でよし、煮てよし、焼いてよし」と云われ、矢作川の舟運により全国に広がりました。

街道は
T字路に突き当たります、右折します、八帖町角分岐です、ここには道標「右西京・左江戸」があります、京方面からは左折です。

街道は
矢作橋東袂に突き当たります。
八丁味噌 八帖町角分岐 道標 矢作橋東袂

 右手に迂回して
矢作橋に出ます、京方面からは矢作橋を渡り、土手道の次の右手小路に入ります。

 矢作橋は寛永十一年(1634)の架橋で長さ二百八間(約374m)と、東海道中一の長さを誇りました。

矢作川は大川入山に源を発し、信濃、美濃、三河を流れ、流末は三河湾に注ぐ大河です。

川の名は
日本武尊が東征の際、川の中洲に生えた竹で矢を作り、勝利したことに由来しています。

矢作橋の西袂の右手には
出合之像があります、やはぎはしと刻まれた親柱を背景に日吉丸(木下藤吉郎の幼名で、後の豊臣秀吉)と蜂須賀小六の出会像です。
東海道五拾三次之内 【岡崎】 矢矧之橋 出合之像

 しかしながら、史実としてはこの頃には
矢作橋はまだ架橋されていませんでした、像の傍らには明治天皇御駐蹕之所碑があります。

 出合之像の下側の道を左折して矢矧村(矢作町)に入ります、古に村にはを作る者がいて、この矢に羽根を付けることを(はぐ)と云いました、これが矢矧(やはぎ)の地名由来になっています。

村に入ると右手に真宗大谷派
勝蓮寺があります、信長の命により、二十一歳の若さで自刃した家康の嫡男信康唯一の肖像画を所蔵しています。

勝蓮寺辺りに
矢矧の一里塚があったと云うが位置は不明です、江戸日本橋より数えて八十二里目です。

街道を進むと右手に矢作川の氾濫による溺死者を供養する、
溺死菩提と刻まれた、大きな南無妙法蓮華経題目碑があります。
矢作町分岐 勝蓮寺 題目碑

 題目碑の奥に弥五騰(やごと)神社があります、旧東矢矧村の鎮守です。

正平元年(1346)
堀田弥五郎の建立に始り、願主の名から弥五郎殿と通称され、明治になって地内の八王子社と諏訪社を合祀し、現社名に改められました。

次いで右手に
誓願寺十王堂があります、浄瑠璃姫の菩提を弔い、名笛薄墨と姫のを安置しています。

奥州に向かう
源義経兼高長者の屋敷に宿をとり、娘の浄瑠璃姫と契りを結びました、義経は名笛薄墨を姫に託して旅立ちました。

姫は恋慕のあまり悲嘆にくれ、
乙川に入水しました。
弥五騰神社 誓願寺十王堂 浄瑠璃姫墓

 境内(現保育園内)に
浄瑠璃姫の墓と云われる、宝篋印塔と隣りには父兼高長者の墓(五輪塔)があります。

 右手の呉服商高岡を過ぎると地蔵祠があり、竊樹(ひそこ)神社があります、旧西矢矧村の鎮守です。

スグ先の左手には真宗大谷派護水山
福萬寺があります、境内には正徳太子像を祀った太子堂があります。

聖徳太子は仏教を篤く庇護したため、仏教興隆の祖として宗派を問わず信仰されています。

旧道は
国道1号線に合流します、車道は左に反れて安城街道入口交差点に出ますが、街道ウォーカーは直進し矢作町猫田交差点に突き抜けます。

東大友町並木側交差点を過ぎると、左手に
暮戸神社があります、寛政年間(1789〜1801)の創建です。
竊樹神社 福萬寺 暮戸神社

 暮戸村の鎮守です、
暮戸村はこの地にあった水門の呉渡(くれど)に由来しています。

 鹿乗川(かのりがわ)を鹿乗橋で渡ります、足利尊氏が増水で立ち往生をしていると、鹿が現れ、背に乗せて渡河させたと云う伝承があります。

右手に和志王山
薬王寺があります、行基の開祖で本尊は薬師瑠璃光如来です。

門前には
三河國薬王寺刀匠鍛刀造趾碑があります、薬王寺派刀工と称し、(なかご)に個銘を刻まず、単に薬王寺派とのみ刻んだ刀を輩出しました。

国道1号線を挟んだ向かいに西本願寺
聖善寺があります、慶長二年(1597)造立の聖徳太子十六歳時の木像孝養太子立像(岡崎市指定文化財)を安置しています、境内には樹齢三百年の枝垂れ桜があります。
薬王寺 聖善寺 松並木

 宇頭町交差点を越え、
愛知日野の所からY字路の右に入ります、松並木が現れたら正解です。

 旧道を進むと右手に尾崎村の鎮守熊野神社があります、参道口は見所のオンパレードです。

鎌倉街道跡: 熊野神社は鎌倉街道の分岐点にあたり、神社の森は「踏分の森」と呼ばれました。

予科練之碑:
 神社裏一帯は元第一岡崎海軍航空隊基地でした、予科練習生は猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員を目指しました。

秋葉山常夜燈: 台石には國家安全と刻まれています。

一里塚跡碑: 
尾崎の一里塚跡で、江戸日本橋より数えて八十三里目です。
熊野神社 一里塚跡

 宇頭茶屋交差点を越えた左に地蔵祠があります、この辺りに宇頭茶屋村の立場がありました。

先の左手に法華宗法喜山
妙教寺
あります、法華経の行者が霊夢により
眼病が平癒、礼に堂宇を建立しました、街道沿いにあった夫婦松は伐採されてしまいました。

向いの
内外神明社伊勢内外宮の神を祀っています。

先に
明治天皇御駐蹕之所碑があります、この辺りが大浜茶屋村です。
地蔵堂 妙教寺 内外神明社 明治天皇碑

 大浜茶屋村には
立場があり蕎麦切りが名物でした、隣村の宇頭茶屋村の立場と近い為、度々紛争を起こしています。

これは両立場とも
岡崎藩仮谷藩の境にあり、互いに接近してしまった為に生じたものです。

 先の右手に禅宗永安寺があります、大浜茶屋村の庄屋柴田助太夫の霊を祀っています。

延宝五年(1677)
刈谷藩はこの地を再検地し、過酷な年貢を課した、助太夫は反対を申し立て、助郷の免除を願い出たが、捕らわれ処刑されてしまった、しかし後に助郷は免除となりました。

村民はその
遺徳を称え、助太夫の屋敷跡に草庵を結びました、境内の雲竜松は樹齢三百年です。

明治川神社交差点を越えた右手に
明治用水碑があります、天明十四年(1784)から明治十四年(1881)にかけて完成した明治用水の記念碑です、用水は西三河一帯に供給されました。
永安寺 雲竜松 明治用水碑

 この辺り一帯は、用水が出来る以前は
安城ケ原と呼ばれる不毛の地でした、現在、明治用水は暗渠になっています。

 明治用水記念碑の向いに明治十八年(1885)建立の明治川神社があります、明治用水建設の功労者を祀っています。

街道には断続的に
松並木があります、岡崎市天然記念物です。

右手の
日吉神社旧浜屋村の鎮守です。

石橋団地入口の信号名が里町4丁目に変わっています。

右手に
地蔵尊祠が現れます。
明治川神社 松並木 日吉神社 清見潟又市碑

 並びに
清見潟又市碑があります、江戸末期から明治初期にかけて活躍した地元相撲力士五代目清見潟又市の像です。

 東栄町の信号名が里町4丁目西に変わっています。

次いで
今本町北の信号名は今本町8丁目に変わっています、旧今村は知立宿の定助郷村でした。

今本町四丁目交差点を過ぎ、
石田橋を渡ると右手に小社があります、常夜燈は大正三年(1914)の建立です。

猿渡川(さわたりがわ)を猿渡川橋で渡ると、安城市から知立市に入ります、左手の来迎寺公園には玉乃井碑や陸海軍大演習を記念する錦旗千載駐餘光碑があります。

スグ先右手の
御鍬神社は近村八ケ村が伊勢より御鍬神(おくわがみ)を勧請したものです、各村輪番にて御鍬祭を奉祀し、豊作を祈願しました。
小社 来迎寺公園 御鍬神社

 来迎寺町交差点に元禄の道標があります、元禄九年(1696)建立の道標「従是四丁半北 八橋 業平作観音有」です。

それでは交差点を右に入ってみましょう、臨済宗妙心寺派八橋山
無量寿寺は慶雲年間(704〜8)に創建され、弘仁三年(821)八橋のこの地に移され無量寿寺となりました、本尊は在原業平作の聖観音像です。

文政年間(1818〜29)庫裏前に回遊式の
杜若(かきつばた)が造園されました。

安永六年(1777)建立の
芭蕉句碑「かきつばた 我に発句の おもひあり」があります。
無量寿寺道標 元禄の道標 無量寿寺 芭蕉句碑

 芭蕉は
三河として藤川のむらさき麦とここの杜若(杜若)を詠み込んでいます。

 街道に戻ると来迎寺町今崎老人クラブ憩の家の所に来迎寺の一里塚の両塚を残しています、塚木は共に黒松で、江戸日本橋より数えて八十四里目です。

ここを右に入ると臨済宗妙心寺派紫雲山
来迎寺(らいこうじ)があります、承平元年(931)の創建です。

境内に
今崎城址碑があります、永禄三年(1560)織田方の今崎城は上洛を目指す今川方に攻められ落城となりました、来迎寺の地名に由来の古城足軽を残しています。
来迎寺の南塚 来迎寺の北塚 来迎寺 今崎城址碑

 来迎寺小前交差点を過ぎると来迎寺村から牛田村に入ります、氏神として牛頭(ごず)を祀ったところを村名の由来としています。

信号交差点を左に入ると
吉田忠左衛門夫妻の墓があります、忠左衛門は赤穂四十七士の一人で、吉良邸討ち入りの際、北門の大将補佐役を勤めました、妻のりくは夫亡き後は刈谷の娘婿宅に住いし、亡くなると夫の生歯と共に合葬されました。

先の左手に真宗大谷派
西教寺があります、境内には享和三年(1803)造の旧本堂鬼瓦があります。

街道を進むと左手消火栓の所に
見返弘法大師道道標「見返弘法大師 従是十丁」があります。
赤穂浪士墓 西教寺 見返弘法道道標

 弘法大師自刻の
弘法像を安置している弘法山遍照院(知立市弘法町)への道標です。

この
弘法像がやや右を向いているところから見返弘法と呼ばれています。

 正面の高架橋手前の右手に元禄十二年(1699)建立の無量寿寺道標「従是五丁北業平作観音在」「八橋山無量寺」があります。

有料道路の衣浦豊田道路高架下を東海道並木歩道橋でくぐると、
知立の松並木になります、並木八丁と呼ばれました。

松並木の左側には歩道が設けられています、現代の
池鯉鮒碑男女双体道祖神があります。

次いで
小林一茶句碑「はつ雪や ちりふの市の 銭叺(ぜにかます)」があります。
道路高架橋 無量寿寺道標 知立の松並木 小林一茶句碑

 先の左手に万葉歌碑「引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」と馬市之趾碑があります。

ここで
馬市が毎年首夏(しゅか、陰暦四月の異称)二十五日から五月五日の間に開催され、甲斐、信濃から四百から五百頭の馬が集まり、取引されました。

広重はこの馬市を描いています、中央に
談合松が描かれています、馬喰馬飼がこの下に集まり値交渉を行いました。
万葉歌碑&馬市之趾碑 東海道五拾三次之内 【池鯉鮒】 首夏馬市

 PM 12:24 知立宿着 鳴海宿まで12.3km

 松並木の先で街道は御林交差点に突き当たります、この交差点は御林地下道で横断します。

地下道を出ると
東海道池鯉鮒宿標石があります、知立宿到着です!

知立宿は馬市や木綿市が立つ市場町として大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
知立宿の宿内家数は二百九十二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒で、宿内人口は千六百二十人(男八百七十六人、女七百四十四人)でした。

標石先のY字路は左に進みます。
知立宿江戸方口 名鉄三河線踏切 蔵造りの旧家

 宿並を進み、
名鉄三河線を横断して進むと、右手に二階蔵造りの旧商家を残しています。

 杉浦歯科の向いに明治四十一年(1908)建立の常夜燈があります。

先の
中町交差点の六差路を斜めに横断します、江戸方面からは知立メリヤスの左に入ります、京方面からは松島屋薬局の左に入ります。

中町は「本町の旦那、中町に衆」といわれ、商家が軒を連ねていました。

食品館美松の前に
池鯉鮒宿問屋場之跡碑があります、敷地百三十五坪でした。

信号交差点を越すと左に池鯉鮒銘菓
常夜燈 中町交差点 問屋場跡 都築屋美廣

築屋美廣があります、旅籠柳屋跡です、向いの本町公園が脇本陣跡です。

 都築屋美廣隣の知立本町郵便局辺りが池鯉鮒宿本陣跡です、標石明治天皇行在所聖蹟碑等は裏手の国道419号線側にあります。

本陣職は当初、杉屋本陣(峯家)が勤めましたが、没落した為、寛文二年(1662)
永田本陣(永田家)が引き継ぎました、敷地三千坪、建坪三百坪と広大でした。

宿並を進むと左手の
本町山車蔵の先で、正面サンハイツAに突き当たります、このT字路を右折します。

この分岐点には
標石「鳴海→(右) 東海道 池鯉鮒宿」があります、京方面からは重要な分岐ポイントです。

左の石垣上に青銅製の
明治天皇駐蹕碑があります。
池鯉鮒宿本陣跡 本町分岐 明治天皇碑

 碑の後ろは児童公園になっています、園内に知立古城址碑が立っています、時の城主が今川義元に組みした為、織田信長の攻めにより落城となりました。

園内に
御殿址碑があります、徳川の世になると将軍上洛用の御殿が知立城跡に建てられたが、元禄十二年(1699)の大地震により倒壊しました。

了運寺はタイ国渡来の
釈迦如来像を安置しています、元は天台宗でしたが明応二年(1493)浄土宗に改宗しました。

宿並は
了運寺の鐘楼門手前を左折します。
知立古城祉 御殿址碑 了運寺 タイ国渡来

 宿並は
本町から西町に入ります。

 スグ先に元祖あんまきの老舗小松屋本家があります、(あん)をどら焼きの皮で巻いた和菓子です、甘党さんご賞味下さい。

知立1号地下横断歩道の手前を右に入ると樹齢二百余年の
総持寺跡大イチョウがあります、明治五年(1872)廃寺となりました。

豊田南バイパスを
地下道でくぐります、思えば知立宿は地下道に始まり、地下道で終わります。

先に
知立神社参道があります。
小松屋本家 知立1号地下歩道 大イチョウ 知立神社参道

 参道には安永七年(1778)建立の池鯉鮒大明神常夜燈があります。

知立神社は三河國ニ之宮で三島大社、熱田神宮と並び、東海道三大社の一つと云われました。

境内の
御手洗(みたらし)が池鯉鮒の由来になっています。

多宝塔は国指定重要文化財です。

境内には寛政五年(1793)建立の
芭蕉句碑「不断立つ 池鯉鮒の宿の 木綿市」があります。
知立神社社殿 御手洗池 多宝塔 芭蕉句碑

 知立は馬市と並び木綿市でも賑わいました、名産の知立木綿池付白(いけつけしろ)と呼ばれ広く知られました。

 街道に戻ると左手に天台寺門宗総持寺があります、廃寺後の大正十三年(1924)に再興されました。

山門前に
徳川秀康(家康の次男)之生母 於萬之方誕生地碑があります、知立は家康の側室お万の方の生誕地です。

稲荷社の先で
逢妻川(あいづまがわ)を逢妻橋で渡ります、京方面からは逢妻橋の渡り詰めを左折します。

逢妻とは在原業平を慕って京から追ってきた杜若(かきつばた)が川を隔てて出逢ったことに由来しています。
総持寺 於萬誕生地碑 逢妻橋 逢妻川

 逢妻橋を渡ると左手に台湾料理楽楽鮮があります、刻は12:40、頃合です、入店決定。

ランチメニューに
ラーメンセットがあります。

ラーメン
は醤油、台湾、豚骨の3種の中から一つを選びます。

御飯物
は炒飯、中華飯、麻婆飯、天津飯、回鍋飯の5種の中から各一つを選び、組み合わせて680円です。

台湾ラーメン
天津飯の組み合わせにしました。

台湾ラーメンはひき肉がのり、ほのかに八角の香りがします、天津飯の卵はフワフワです、うまいナー。
楽楽鮮 生ビール ランチセット

 サア、歩みを続けましょう、街道は逢妻町交差点で国道1号線に合流します、京方面からは斜め右に入ります。

知立市から刈谷市に入った先の一里山歩道橋の左(南)側に一里塚標石があります、一里山の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて八十五里目です。

一里山町新屋敷交差点の先に旧道を残しています、石原商店を過ぎ、
TONNEXの手前を斜め右に入ります。

旧道は
アド株式会社の所で国道1号線に吸収されます。
逢妻町交差点 一里塚跡 一里山旧道東口 旧道西口

 スグ先の刈谷市今岡町歩道橋で国道1号線を横断し、旧道延長線上の斜め左に入ります。

旧道に入ると右手の家屋に
十王堂が組み込まれています、堂内には三面六臂馬頭観音像も安置されています。

先の左手に曹洞宗
洞隣寺があります、天正八年(1580)の開山で、開基は刈谷城主水野忠重です。

街道沿いに寛政八年(1796)建立の
常夜燈があります。

墓所には
中津藩士の墓があります、寛保二年(1742)豊前中津藩士の二人は知立宿の遊女のことで斬り合いとなり、二人共亡くなってしまった、二人の墓石は互いを避けるように傾き、何度直して傾いてしまうと云います。
十王堂 洞隣寺 中津藩士の墓

 中津藩士の墓の隣りに
めったいくやしいの墓があります、僧侶に一目惚れした村娘が、片思いで憤死してしまった、洞隣寺の和尚が亡骸を引き取り葬ったが、墓石から夜な夜なめったいくやしいの声が聞こえたと云います。

 スグ先の右手に石祠常夜燈があり、手前に標柱「旧芋川の地 いもかわうどん発祥地」があります、今川村の立場名物でした。

尾張の
きしめん、東のひもかわうどんのルーツと云われています。

次いで左手の真宗木辺派
乗願寺は天正十五年(1587)の創建で、はじめは地蔵寺と云いました。

街道には所々に
旧家を残しています、右手には浄土真宗大谷派今川山乗蓮寺があります。
いもかわうどん 乗願寺 乗蓮寺 シイ

 境内の
シイは樹齢八百五十年で刈谷市天然記念物指定です、幹の根元の空洞に、昔タヌキが棲んでいたと云います。

 先を左に入ると名鉄名古屋本線富士松駅です、駅前にはお富士松があります。

桶狭間の合戦後、
今川勢が、西へ急ぐ旅人を信長の回し者として切り殺してしまった、村人は旅人を丁寧に葬り、一本の松を植えました。

富士松駅入口を過ぎると旧道は
282号線の堀下道で遮断されています、今川歩道橋で渡ります。

地蔵尊先で
国道1号線地下道で横断します(左図参照)。
お富士松 今川歩道橋 地蔵尊 今川町交差点

 地下道を出たら国道1号線右の旧道を進みます。

農業用水の
用悪水路二股橋で渡り、次いで境橋境川を渡ります、境川は三河尾張の國境です、今は刈谷市豊明市の境です。

境川は
長田池に源を発し、流末は衣浦湾に注いでいます。

境橋は中程より東(三河側)は土橋、西(尾張側)は板橋という継ぎ橋でした、これは正に三河の質素、尾張の派手好みと云う気風の表れでした。

渡り詰めの右袂に
烏丸(からすま)光廣の狂歌碑「うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん」があります、接着剤の(にかわ)と三河をかけています。
境橋 境川 光廣歌碑

 旧道は伊勢湾岸道高架橋下で国道1号線に合流します。

名鉄名古屋線豊明駅を過ぎると右手に真宗大谷派怡雲山
西蓮寺があります、本尊は阿弥陀如来です。

正戸川正戸橋で渡り、先のY字路を左に進み、県道57号線高架橋をくぐると国指定史跡阿野一里塚があります、両塚の遺構を残しています、江戸日本橋より数えて八十六里目です。

南塚には
森市雪句碑「春風や 坂をのぼりに 馬の鈴」があります。
西蓮寺 阿野分岐 阿野一里塚(北) 阿野一里塚(南)

 旧道を進むと左手豊明小学校の所に松並木最後の一本があります。
※残念ながら枯れ死してしまいました。

豊明郵便局を過ぎると左手に医家であった
三田家屋敷があります、庭内に明治天皇東阿野御小休所碑があります。

次いで右手に
坂部善光寺があります、三田家が明治五年(1872)に勧請したものです。

前後駅前交差点手前の右手に
西雲寺があります、境内に文政十一年(1828)建立の手水鉢があります。
名残り松 明治天皇碑 坂部善光寺 西雲寺

 前後村の村名由来には二説あります、桶狭間合戦に敗れた、今川方が前後を争って潰走した、もう一つは勝利した織田方の雑兵が敵方の首を前後に振り分けて担いだ等に由来しています。

クボタ農業機械先の五軒屋バス停の所を右折し、国道1号線を横断した先に
戦人塚があります、桶狭間合戦の戦死者を埋葬供養した塚です、戦人塚碑は元文四年(1739)百八十回忌の供養祭に建碑されたものです。

今川義元は天下人を目論み、兵二万五千を率いて京に向け出陣しました。

永禄三年(1560)、これを阻止せんと
織田信長は手勢二千を率いて出陣し、桶狭間で休息する今川軍を丘陵上から急襲、突如現れた織田軍に今川軍は恐れ慄き総崩れとなり、今川義元は討ち取られました。

時に雷鳴轟く、豪雨の中の出来事でした。
戦人塚口 戦人塚

 街道に戻ると左手に野村平吉君殉職之碑があります、経緯は不明です。

次いで右手に
常夜燈神明社社標があります、国道1号線を越えた先に鎮座しています、元和二年(1616)の創建です。

先の右手落合公会堂の所に
寂応庵跡碑があります、ここを通行する旅人にの接待を行いました。

旧道は
稲熊接骨院の先で国道1号線に吸収されます、京方面からは競馬場入口交差点先を斜め右に入ります。
殉職之碑 前後神明社 寂応庵跡 栄町分岐

 名鉄名古屋本線ガード手前の左手に小さな地蔵尊を納めた祠があります。

ガードをくぐった先で、大きな
高徳院愛昇殿の標識に従って左折すると、左側に桶狭間古戦場跡があります、一帯は公園になっています。

園内には
今川治部大輔義元の墓があります、以前は塚が築かれていました。

七石表(一号碑)があります、明和八年(1771)の建碑で今川上総介義元戦死所と刻まれています、ここが織田方の毛利新助に討ち取られた所です。
地蔵祠 桶狭間古戦場跡 今川義元墓 七石表

 突如、豪雨の中を襲来した、
織田軍今川軍は逃げ惑いました、それでも近臣の者は円陣をつくり、必死に大将を守護しました、しかしこれがかえって義元の居場所の目印になったと云います。

討ち取られた
義元毛利新助の指を食いちぎり、くわえていたと云います。

 古戦場跡向いの高徳院の斜面に移りましょう、マズお化け地蔵があります、嘉永六年(1853)の造立です、この辺りに桶狭間の亡霊が現れ、地蔵を祀ると現れなくなったと云います。

阿闍梨諦念墓の隣りに今川義元仏式の墓碑があります、万延元年(1860)義元三百回忌に建立された供養塔です。

次いで
徳本の名号碑があります、徳本行者が戦死者の霊を弔う為に建立した丸文字南無阿弥陀仏碑です。

高徳院には
今川本陣跡碑があります。
お化け地蔵 今川義元仏式墓碑 徳本名号碑 今川本陣跡碑

 それでは街道に戻りましょう、高徳院大標識先を斜め左の境松旧道に入ります、街道は豊明市から名古屋市に入ります。

旧道はスグに
国道1号線に合流します、京方面からは登記看板の所を斜め右に入ります。

大将ケ根交差点を斜め右に入ります、織田軍は大将ケ根の丘陵に一旦集結し、ここで体制を整え、一気に桶狭間を急襲しました。

世界地蔵を安置する祠があります。
境松旧道東口 境松旧道西口 大将ヶ根交差点 松野根橋

 祠の先の
Y字路を左に進み、毛越川松野根橋で渡ると間の宿有松です。

 広重は鳴海として間の宿有松の街並みを描いています。

知立宿から鳴海宿までは二里十二町(約9.3km)と長い為、
尾張藩は桶狭間村の有松集落を分村し、知多郡阿久比村から十一戸を移住させ、有松を間の宿としました。

名産の
有松絞りは阿久比村の竹田庄九郎が名古屋城築城に際し、豊後高田の人の手拭いにヒントを得て、考案したものです。

今の街並みは天明四年(1784)の
大火以降のものです、街並みは景観を維持する為に町並み保存地区に指定されています。
東海道五拾三次之内 【鳴海】 名物有松絞 井桁屋

 有松の街並の左手に有松・鳴海絞会館があります、絞りの歴史資料や技術が実物を使い、わかりやすく展示されています。

絞会館駐車場奥に
有松絞開祖竹田庄九郎之碑があります、庄九郎が作った絞の馬の手綱が寛永十八年(1641)尾張二代藩主徳川光友に献上され、更に徳川将軍綱吉にも献上されました。

旅人が土産にと、競って絞りの
手拭浴衣など を買い求め、これが街道一の名産品となりました。
有松・鳴海絞会館 有松絞 絞会館駐車場 竹田庄九郎碑

 それでは有松の街並みを見てみましょう、右手に寿限無茶屋があります、手打めん処になっています。

次いで右手に
井桁屋(服部家住宅)があります、有松における(しぼり)問屋の代表的な建物です。

信号交差点を渡った先の右手に
唐子車(からこしゃ)山車庫があります、三体のからくり人形が唐子になっています、有松祭に曳き出されます。

先の左手に屋号
笹加(竹田家住宅)があります、絞問屋でした。
寿限無茶屋 井桁屋 唐子車山車庫 笹加

 旧郵便ポストの先左手に岡家住宅があります、有松における代表的な美しい外観を備えた塗篭造の建物です。

次いで左手に
山形屋(小野塚住宅)があります、塗篭(ぬりごめ)では有松で最も古いものです、絞問屋でした。

先を右に入ると
文章嶺天満宮があります、八棟造の壮麗な社殿は、絞り業最盛期の文化七年(1810)の建立です、秋祭りには三台の山車が引き出されます。

戻ると
神功皇后車山車庫があります。
岡家住宅 山形屋 文章嶺天満宮 神功皇后車山車

 明治六年(1873)の製作で、
神功皇后のからくり人形を乗せた山車です。

 天満宮参道口左の有松金龍町年行司の所に東海道五十三次二代目松があります、この場所にあった樹齢三百年の大松から採種し、育てた松です。

次いで右手に曹洞宗
祇園寺があります、文禄年間(1592〜95)の創建で、当初は鳴海にあり円道寺と称しました。

街道には名古屋第二環状自動車高架橋が覆い被さっています、この手前に
有松の一里塚が現代風に復元されています。
二代目松 祇園寺 有松一里塚(南) 有松一里塚(北)

 江戸日本橋より数えて八十七里目です。


 名古屋第二環状自動車道高架をくぐり、名鉄名古屋線踏切を渡ります。

次いで再び
手越川鎌砥橋で渡ると、四本木に入ります。

四本木交差点を左に入ると名鉄名古屋線
左京山駅です。

街道には
松並木の名残りがあります。

右手段上には
神明社が鎮座しています、境内に保存樹クロマツがあります。

鳴海宿は目の前です。
名鉄踏切 鎌砥橋 名残り松 神明社

 PM 3:34 鳴海宿着 宮宿まで7.7km

 平部北交差点を越すと左手に東の常夜燈があります、ここが鳴海宿の江戸方口(東口)です、鳴海宿到着です!

文化三年(1806)建立の
常夜燈には秋葉大権現、宿中為安全、永代常夜燈と刻まれています、しかし五年後に本町の旅籠扇屋から出火し、宿中心の大半を焼失する大火に見舞われています。

鳴海は「遠くなり 近くなるみの 浜千鳥 なく音に汐の みちひをぞ知る」と詠まれたように海が近く、潮騒が聞こえたところが地名由来となりましたが、浜辺は土砂の堆積により今は遠のいています。

尾張藩は絞の生産を鳴海有松の両地のみに許可しました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
鳴海宿の宿内家数は八百四十七軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠六十八軒で、
平部北交差点 東の常夜燈

 宿内人口は三千六百四十三人(男千七百九十二人、女千八百五十一人)でした。


 宿並に入ると右手に曹洞宗紫雲山金剛寺があります、宝暦十年(1760)の開山で、本尊は木造行者菩薩像であるところから、当初は行者堂と称しました。

旧平部町から旧中島町に入ると左手に
手代を連れた婦人の旅姿が刻まれた石碑があります。

中島橋の手前を左に回り込むと
中島城址碑があります、永禄二年(1559)織田信長が今川義元に寝返った鳴海城包囲の為に築いた付城です、桶狭間合戦後は役目を終えました。
金剛寺 婦人旅姿 中島城址 瑞泉寺

 
扇川中島橋で渡ると相原町に入ります、右手に禅(曹洞宗)大本山総持寺直末龍蟠山瑞泉寺があります、応永三年(1396)鳴海根古屋(ねこや)城主安原宗範(むねのり)の創建です。

 宿並は枡形に突き当たります、その手前を右に入ると真宗高田派万福寺があります、永享年間(1429〜41)の創建です、幕末の尾張藩主徳川慶勝直筆による扁額鳴海寺が残されています。

枡形を越すと、本町に入ります、左手の名古屋市緑生学習センターは
問屋場跡です。

本町交差点手前右手の歩道面に
高札場跡タイルが埋め込まれています、交差点を右に入ると三菱東京UFJの前に高札場が復元されています。
枡形 万福寺 問屋場跡 高札場

 更に進むと右に成海神社旧祠天神社があります、鳴海城の鎮守でした。

境内に
鳴海城趾碑があります、根古屋城とも云いました、桶狭間合戦の際は、今川方の猛将岡部元信がこの城に配され、義元が討たれた後も最後まで立て籠もって奮戦しました。

道の向い側に移り宿並に向かうと
圓道寺があります、天正年間(1573〜92)猿堂寺として開設され、安永三年(1774)庚申堂と変遷しました、本堂の屋根には三猿像(見ざる、聞かざる、言わざる)が置かれています。
天神社 鳴海城趾碑 圓道寺 観音堂

 次いで
観音堂があります、聖観世音菩薩を安置しています。

 続いて西山浄土宗来迎山誓願寺があります、鳴海宿の本陣を勤めた千代倉家の菩提寺です。

山門は
千代倉家から移築された一間高麗門です、墓所には千代倉家歴代の墓があります。

境内奥には
芭蕉堂があり、脇には芭蕉翁と刻まれた供養塔があります、芭蕉は元禄七年(1694)に没し、翌年に建立されたものです。

千代倉本陣の当主が
蕉門に入ると、鳴海の俳人は皆、入門しました。
誓願寺 千代倉家墓 芭蕉堂 芭蕉供養塔

 宿並を進むと左手ばんの家電手前の山車庫の所に鳴海宿本陣跡解説があります、敷地六百七十八坪、建坪二百三十五坪で総畳数百五十九畳でした。

次いで右手に康平二年(1059)創建の
如意寺があります、本尊の地蔵尊は蛤地蔵と呼ばれています。

飢饉の時、夢告げにより地蔵の足元を掘ると
(はまぐり)が現れ、村人は救済されたと云います。

宿並は
作町交差点T字路に突き当たります、ここを右折します。
本陣跡 如意寺 作町分岐 長翁寺

 三皿交差点を右折すると、左手に曹洞宗
長翁寺があります、薬師堂の薬師如来像織田信長の守護仏と伝わっています、末弟の織田有楽斉が当寺に祀ったものと云います。

 左右にうねる宿並を進むと押ボタン式信号の右手に寛政四年(1792)建立の西の常夜燈(秋葉大権現)があります、ここが鳴海宿の京方口(西口)です。

右に入ると
光明寺があります、山門は風雷神門で、本尊の子安地蔵菩薩像は弘法大師作と云います。

街道に戻り、スグ先右手のグリーンハイツ丹下脇の段上に
丹下砦跡があります、永禄二年(1559)今川氏の上洛に備え、織田方が築いた防衛拠点の一つです。
西の常夜燈 光明寺 丹下砦跡 鉾ノ木貝塚

 街道を進むと右手に
(ほこ)ノ木貝塚があります、縄文時代早期から前期にかけての貝塚跡です。

 丸昌建設脇に正一位緒畑稲荷神社社標及び千鳥塚100m標識があります、ここの細道を上ると山王山頂上に千鳥塚があります。

一帯は千句塚公園として整備され、一角に
千鳥塚があります、千鳥塚の文字は芭蕉の直筆で、芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚です。

千鳥はこの地で芭蕉が詠んだ「星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥」に因んだものです。

山王山交差点を横断します。
千鳥塚口 千鳥塚 山王山交差点 天白橋

 道なりに進み
天白川天白橋で渡ります、天白川は三ケ峰上池に源を発し、流末は伊勢湾に注いでいます、往時は米野木川と呼ばれ、長さ十五間(約27m)の板橋が架橋されていました。

京方面からは天白橋を渡った先の
山下西交差点Y字路を右に進みます。

 赤坪町交差点先の左手に知多郡道道標があります、「この先五十米南へ」と刻まれています、笠寺から知多半島への道です。

街道が斜め右にカーブした先に
笠寺の一里塚の東塚が現存しています、西塚は大正の頃に取り壊されました。

一里塚の
造成基準は五間(約9m)四方で、高さ一丈(約3m)との定めがありましたが、この塚はこの規格にピッタリ符合しています、塚木は榎で、江戸日本橋より数えて八十八里目です。

先に進みカーブミラーのある十字路を左に入ると
笠寺天満宮東光院があります、剣聖宮本武蔵が当寺に滞在し、自筆の書、自作木刀、肖像画を残しています。
知多郡道道標 笠寺の一里塚 笠寺天満宮東光院

 
巌流島の決闘から十年後の寛永七年(1630)、宮本武蔵は尾張徳川家の兵法指南役への仕官を求め、当寺に滞在しました。

 街道に戻ると右手に尾張四観音之一天林山笠覆寺(りゅうふくじ)があります、本尊の十一面観音像笠寺観音の名で知られています。

寺が荒廃し、
観音像が雨露に晒されていました、これを見た土地の娘が自分のを被せてお参りしました。この話を聞いた公卿の藤原兼平は娘を妻として迎え、玉照姫となりました。藤原兼平は寺を再興し、それまでの小松寺から笠覆寺と改めました。

山門の
仁王門は文政三年(1820)の建立、本堂は宝暦十三年(1763)から文政十一年(1828)の再建、玉姫堂は平成十四年(2002)の再建で、玉照姫と藤原兼平を祀っています、玉照姫兼平公御夫妻と染め抜かれた幟がはためいています。
笠覆寺仁王門 本堂 玉姫堂

 本堂の右(東)方向に宮本武蔵之碑があります、「新免宮本武蔵守玄信碑」と刻まれています、延享元年(1744)武蔵の弟子の子孫等が百回忌を記念して建立したものです。

傍らには
芭蕉千鳥塚「星崎の 闇を見よとや 啼千鳥」があります。

正保年間(1644〜47)建立の
多宝塔の前に徳川家康御幼少之砌(みぎり)人質交換之地碑があります、天文十八年(1549)織田家の人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と、今川家に捕えられた織田信広(織田信長異母兄)の人質交換が、ここ笠覆寺で行われました。

多宝塔の裏には安永二年(1773)建立の
芭蕉春雨塚「笠寺や もらぬ岩屋も 春の雨」があります。
武蔵之碑 徳川家康幼少碑 芭蕉春雨塚

 天林山泉増院があります、玉照姫の像が安置されています、代々徳川家の姫君や奥女中の信仰が篤かったと云います。

西方院前の
Y字路は右です。

真言宗智山派天林山
西方院の明王堂に安置されている烏瑟沙魔(うすさま)明王は木曽義仲の母小枝御前の持仏で、婦人の病に霊験あらたかと云います。

スグの
笠寺観音西門前を左折し、笠寺西門交差点を横断します。
泉増院 西方院前のY字路 西方院 笠寺西門交差点

 笠寺商店街を進みます、この辺りから笠寺一里塚間は門前町を形成し、立場がありました。

スグ先の
はんや商店がある十字路(呼続分岐)を右折(白色矢印)します。

ここを直進(黄色矢印)し、一本目を左折すると
戸部城趾があり、城主戸部新左衛門政直の墓があります。

戸部城は
今川義元の妹婿の戸部政直の居城でした、今川方にとって尾張の重要な拠点でした、織田方は攻めあぐねていました。
名鉄名古屋線踏切 呼続分岐 戸部城趾 城主の墓

 そこで
織田信長は一計を案じました、祐筆に政直の筆跡を真似させて、信長に内通する旨の書簡を偽造し、これを露見させました。

これを信じた
今川義元は政直を三河國吉田で処刑しました、これによって戸部城は廃城となりました。

 十字路の呼続分岐に戻ると東海道筋に東海道標石「是より北よびつき」があります、呼続とは古、この辺りは浜でした、波が引くと互いに名を呼び継ぎながら渡ったところを由来としています。

次いで
東海道標石「富部神社 塩付街道」があります、東海道を横切る筋が塩付街道です。

呼続浜で造られた
は塩付街道を通じて小牧信州に送られました。

塩付街道を右に入り、一本目を左折すると、村社
桜神明社があります。
呼続標石 塩付街道標石 桜神明社 クロガネモチ

 
桜神明社は五世紀末頃の古墳上に鎮座しています、御神木のクロガネモチは樹齢五百八十年です。

 塩付街道を今度は左に入ると富部神社があります、慶長十一年(1606)清洲城主松平忠吉(家康の四男)の創建で、桃山様式の本殿は国重要文化財指定です。

街道に戻ると左手に
清水稲荷の鳥居があります、清水稲荷は長楽寺を守護する鎮守社で清水叱尼真天 を祀っています。

稲荷社に隣接するのが曹洞宗稲荷山
長楽寺です、弘仁十二年(821)空海による開基で本尊は十一面観音菩薩です。

巡礼中の
空海がこの地での夢告げにより七堂伽藍を創建したことが始まりです。
富部神社本殿 清水稲荷鳥居 清水稲荷社 長楽寺

 呼続小学校前交差点を越した先の左手に西山浄土宗正覚山誓願寺があります、本尊は阿弥陀如来です、参道口には地蔵尊が安置されています。

手打めん処寿司辰先の右手に
東海道標石「鎌倉街道」、左手にも同様に東海道標石「鎌倉街道」があります、鎌倉街道東海道を横切っています。

鎌倉街道は
白毫寺を経て、あゆち潟の海を渡り熱田神宮へと通じていました、東海道が開削されるまでは東国と西国を結ぶ主要路でした。

鎌倉街道を右に入ると
地蔵堂があります、鉄製地蔵尊座像を安置しています、願掛けの際に、湯を浴びせたところから湯浴地蔵と呼ばれました。
誓願寺 鎌倉街道 湯浴地蔵

 街道を進み先の信号交差点を左に入ると元亀元年(1571)創建の曹洞宗白毫寺(びゃくごうじ)があります、山門前には名古屋市の保存樹クスノキが聳えています。

本堂の左側に
年魚市潟勝景碑があります、年魚市潟
(あゆちがた)は鳴海から熱田にかけての遠浅の海辺を指し、ここは高台に位置し、眼下に
年魚市潟を望む景勝地でした。

碑の傍らには万葉歌碑があります、
年魚市潟を歌枕にしたが二首刻まれています。

年魚市潟 潮干(しほひ)にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ
白毫寺 年魚市潟勝景碑 万葉歌碑

 桜田へ 鶴(たづ)鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る

ちなみに
年魚市(あゆち)は愛知の語源になったと云います。

 街道に戻って進むと右手に熊野三社があります、織田信長の家臣である山崎城主の佐久間信盛が永禄三年(1560)城の守護神として勧請したのが始まりです。

山崎城が廃城になると、寛永四年(1627)この地に遷座し、山崎村の
鎮守となりました。

境内には明和三年(1766)に建立された、
松巨嶋(まつこじま)と刻まれた手水鉢(ちょうずばち)があります、かつてこの辺りは川と海に囲まれ、大きな松が生い茂っていたところから島に見え、松巨嶋と呼ばれました。

街道の左手には
東海道標石「山崎の長坂」があります、ここには立場茶屋があり、七里の渡しを控え、賑わったと云います。
熊野三社 松巨嶋 山崎の長坂

 
東海道標石の反対側には「山崎城趾・安泰寺」と刻まれています、名鉄名古屋線を越えた所の安泰寺が山崎城址です。

 先の右手に曹洞宗龍雲山法泉寺があります、本尊の薬師如来、日光菩薩、月光菩薩は弘法大師の作と伝わっています。

山崎川山崎橋で渡ります、往時は板橋でした、山崎川は猫ケ洞池に源を発し、流末は伊勢湾に注いでいます。

渡詰めのT字路を左折します、左手には
秋葉神社が祀られています。

左国土交通省電波塔、右ブラザー瑞穂工場の間を抜けます。
法泉寺 山崎川 秋葉神社 松田橋交差点

 名古屋高速3号大高線高架橋が覆い被さる
松田橋交差点穂波歩道橋で横断します。

 内浜交差点を過ぎると、道中央は高架になります、街道ウォーカー左の歩道を進みます。

京方面からは内浜交差点の
Y字路を直進します。

東海道本線を東海道踏切で横断します、踏切の脇には地蔵祠燈籠があります。

正面の三叉路は
奥田モーターズしんげつの間を進みます。

新堀川熱田橋で渡ります。
東海道踏切 地蔵尊 三差路 新堀川

 明治四十三年(1910)
精進川の川筋の付け替えにより新堀川となり、旧精進川跡は埋め立てられました。

 次いで名鉄常滑線ガードをくぐります。

くぐると右手に
伝馬南街園があります、園内に大樹が聳えています、伝馬町の一里塚跡です、往時はここには桝形があり、一里塚はその北側にあったと云います、江戸日本橋より八十九里目です。

次いで左手に
姥堂(うば)があります、延文三年(1358)の創建で本尊の姥像は熱田神宮にあったものです。

昭和二十年(1945)戦災により
姥像は焼失してしまったが、堂宇は再建され、その後平成五年(1993)に写真を元に姥像が再現され、本尊として祀られました、古くから地元ではおんばこさんと親しみを込めて呼び、安産や子育てにご利益があると篤く信仰されています。
名鉄常滑線 伝馬町の一里塚 姥堂

 PM 5:07 宮宿着

 姥堂には裁断橋跡碑があります、かつては姥堂の東に精進川が流れ、裁断橋が架橋されていました、ここが宮宿の江戸方口(東口)でした、宮宿に到着です!

の地名は熱田宮を由来としています、宮宿は熱田神宮の門前町として開け、七里の渡し名古屋城下を控え大いに賑わい「此宿大に繁花なり、家並みも美々しく、遊女も街道一にして、すこしく大江戸の風をまねぶ」と云われました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると、
宮宿の宿内家数は二千九百二十四軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠二百四十八軒で、宿内人口は一万三百四十二人(男五千百三十三人、女五千二百九人)でした。

裁断橋は天正十八年(1590)小田原征伐で死去した子の菩提を弔う為、母親が三十三回忌に息子を最後に見送った橋の架け替えを行い、思いを込めた擬宝珠を据えました。

橋名は子への想いが断ち難いところを意としています。
裁断橋址碑

 姥堂には都々逸発祥之地碑があります、都々逸(どどいつ)は寛政十二年(1800)、鳥飯屋の女中お仲等が唄い始め、広まったと云います。

都々逸は七七七五調で男女の情愛を唄ったものです。
 恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす
 三千世界の 鴉(からす)を殺し ぬしと朝寝が してみたい

スグ先の左手に
鈴之御前社(れいのみまえしゃ)があります、熱田宮の参詣者は、この社でのお祓いを受け、精進川で身を清めてから参拝しました。

先の珈琲屋鹿鳴館を左折し、二本目さとう内科を左折すると右手に
熱田羽城加藤図書屋敷跡碑があります、天文十六年(1547)六歳の竹千代(家康)は織田信秀(信長の父)の
都々逸碑 鈴之御前社 加藤図書屋敷跡

 命により
人質としてこの屋敷に、二年間幽閉されました。

天文十八年(1549)八歳になった竹千代は一旦、
岡崎に戻りましたが、今度は今川氏の人質として駿府に向いました。

 宿並を進むと旧東海道伝馬町アーケードがあり、先の県道225号線の中央分離帯で遮断され通行不可です、右の伝馬町交差点にて迂回します。

宿並は
T字路に突き当たります、宿並は左折(白色矢印)です。

この突当りには
ほうろく地蔵があります、捨てられた地蔵を村人が移動しようとしたが動かない、そこで下を掘ってみると台石が埋もれていました、不思議に思い、共にここに安置しました。

この分岐には
追分道標があります。
通行不可 伝馬町分岐 ほうろく地蔵 追分道標

 寛政二年(1790)の建立で、
「さやつしま(佐屋津島) なこやきそ道(名古屋木曽) 是より北あつた(熱田)御本社貮丁(にちょう)」、「京いせ(伊勢)七里の渡し」、「江戸かいとう(街道)」と三方向が刻まれています。

 伝馬町分岐を右(黄色矢印)に進むと熱田神宮があります。

熱田神宮の御神体は三種の神器の一つ
草薙の剣です。

織田信長は清州城を出陣し、熱田神宮に立寄り戦勝祈願し、見事桶狭間の合戦に勝利しました、この礼に信長は土塀を奉納しています。

広重は熱田神宮の祭礼に行われる馬の塔という神事のうち、荒薦(こも)を巻いた裸馬を走らせ、綱に人々がつかまって走り、競い合う俄馬(にわかうま)を描いています。
熱田神宮 東海道五拾三次之内 【宮】 熱田神事

 宿並に戻ります、伝馬町分岐を左(白色矢印)に進みます、スグ先で宿並は国道247号線で遮断されています。

宮の渡し歩道橋で国道を横断します、歩道橋上から見通し線上を確認すれば、宿並の方向は解ります。

宿並に復帰したら、
あつた蓬莱軒の手前を右手に入ると、駐車場口に宮の宿赤本陣跡解説板があります、宮宿には赤本陣白本陣の二軒がありました。

赤本陣は
南部新五左衛門が代々世襲して勤め、苗字帯刀が許されていました、規模は間口約十六間、奥行き二十一間で、建坪は二百三十六坪でした。

あつた蓬莱軒本店蓬莱陣屋は明治六年(1873)創業の鰻蒲焼をご飯と交互に重ねたひつまぶしを考案した名店です、ちなみにひつまぶしは蓬莱軒の登録商標です。
宮の渡し歩道橋 赤本陣跡

 宿並に入ると右手に西山浄土宗蓬寿山宝勝院があります、阿弥陀如来立像の胎内から発見された、仏や菩薩などを木版刷りした摺仏(すりぼとけ)や写経などは国重要文化財指定です。

熱田湊の
常夜燈は承応三年(1654)から明治二十四年(1891)まで当寺が管理しました。

次の横道を右に入ると名古屋市白鳥消防団詰所の所に
西浜御殿跡解説板があります。

西浜御殿は承応三年(1654)尾張藩二代藩主徳川光友が造営したもので、東西三十六間(約65m)、南北三十三間(約59m)に及ぶ豪壮なもので、幕府高官や公家、大名の客館として使用されました。

それまでは初代藩主
義直が造営した東浜御殿がありました。
宝勝院 西浜御殿跡

  向いには内田町神社があります、傍らに神戸(ごうど)小学校跡標石があります、明治六年(1873)内田なる者が、この地の払い下げを受けて開発し、町名となりました。

突当りの
T字路を右折します、京方面からは山田屋酒店が左折ポイントになります。

右手に
丹羽家住宅があります、幕末の頃の旧旅籠伊勢久で、脇本陣格の破風付玄関を有する造りになっています(名古屋市有形文化財)。

先の
熱田荘は明治二十九年(1896)築の料亭魚半跡です、近世の町屋の形式を今に伝えています(名古屋市有形文化財)。
内田町神社 丹羽家住宅 熱田荘

 PM 5:25 宮宿七里の渡し跡着

 サア、左手海側が七里の渡し跡です、今は宮の渡し公園として整備されています。

園内に
熱田湊常夜燈があります、寛永二年(1625)尾張藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)の建立に始まり、航行する舟の貴重な目標でした。

常夜燈の管理は神戸(ごうど)町の宝勝寺に委ねられていました、現在の常夜燈は昭和三十年(1955)に復元されたものです。

園内に
時の鐘(復元)があります、延宝四年(1676)尾張藩二代藩主徳川光友の命により蔵福寺(熱田神宮の南)に設置されました、昭和二十年(1945)の空襲で鐘楼は焼失したが、鐘は今も残っています。
七里の渡し跡 熱田湊常夜燈 時の鐘

 宮と桑名の間には木曽川長良川揖斐川の大河が横たわり、河口は川幅が広く、架橋は不可能でした。

そこで海上
七里の船渡しとなりました、但し、潮が引くと十里の渡しとなりました。

渡船の管轄権は
尾張藩が掌握し、渡舟四十八艘、船頭二十五人、水夫(かこ)百三十人が従事しました。

渡しは
明け七つ(午前四時)から暮れ七つ(午後四時)、蔵福寺の時の鐘を合図に行われました、舟代は乗合いで一人五十四文でした。

海路を嫌う者は
佐屋まで陸路を六里進み、木曽川を川舟で三里半下って桑名に出ました。

今は桑名までは
電車渡しとしましょう。
船着き場跡

 無事到着です、本日はここまでです!

サア、JR東海道本線
熱田駅に大返しです。

本来であれば駅周辺の鄙びたお店にて
熱燗で一杯やりたいところですが、この後武蔵國神奈川宿まで普通列車の長旅が控えています。

例の
モノを購入して、さっさと車中の人になりました。



前 新居 〜 藤川 次 桑名 〜 関