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道中日記 1-166 東海道 ( 桑名 - 関 ) 45.9km

サア、七里の渡しを越えて、いよいよ勢州桑名入りです。

東海道ビギナーの方はこの
七里の渡しにこだわってしまうのです、私も当初はそうでしたから、良く解かります。

江戸日本橋から歩き続け、この
七里の渡しで歩みが途切れてしまう不安を感じてしまうのです。

そこでこだわってしまうのが
佐屋街道です、しかしながらこの街道をトレースしても佐屋宿からは三里の渡しが控えているだけです。

七里の渡しは
電車渡しでサクッと桑名に渡ってしまいましょう、これが王道です。

サウナ 近鉄名古屋線始発
 桑名宿から京三条大橋までの総距離は123.6kmです、二泊三日で一日十里(40km)行程です、きりが良いですね。

前回、藤川宿~宮宿間の
道中記を1月12日にアップしてから三日連続の晴れ日を待ち望んでいました、やっと好日到来、決行です。

残念ながら直前の為に夜行バスは満席です、そこで前回同様にフォーメーションSの投入です。

前日の夜に東海道本線の普通列車で
名古屋駅に転進します、今宵はサウナニューグランド仮泊です。

招待券
をHPからプリントアウトして持参すれば500円割引になります。

翌朝は吉野屋の牛丼で腹を満たし、
近鉄名古屋線の始発5:30鳥羽行に乗車すれば5:55桑名駅に到着です。

桑名駅を出たら左(北)に進み、桑名グリーンホテルの角を右折して
八間通を進みます。

薩摩義士の墓所がある
海蔵寺を過ぎ、寺町通りの先、柿安を左折すれば七里の渡し跡です。

 十辺舎一九の東海道中膝栗毛の中で、弥次さんが船の上から小便をするのが怖いと、宮の旅籠の主に竹筒を用意してもらい、これを持って乗船しました。

早速、弥次さんは船中で、竹筒に小便をしたところ、船内は
小便だらけになってしまい、大騒動になってしまった。

実は竹筒の底には穴が開いていたのです、この竹筒は先を船べりから外に出して使用するものでした。

広重は桑名宿の
渡し口と桑名城の播龍櫓(ばんりゅう、物見櫓)を描いています。
東海道五拾三次之内 【桑名】 七里渡口 桑名城播龍櫓

 平成21年3月17日 AM6:16 桑名宿出立 四日市宿まで15.6km

 七里の渡し場は伊勢國の東口にあたるため、天明年間(1781~89)に伊勢神宮の一の鳥居が建てられ、遷宮ごとに建て替えられています。

天保三年(1833)建立の
常夜燈鍛冶町にあったものです。

渡し場を睥睨している、復元された播龍櫓は水門統合管理所です、七里の渡し跡は昭和三十四年(1959)伊勢湾台風によって甚大な被害を受けた為、渡し前には堤防が築かれました。

桑名の地名は
揖斐川を鍬(くわ)に例え、その水勢が岸辺を削り取る様が由来になっています。

桑名宿は伊勢参りの
参宮道を控え、旅籠の数は宮宿に次ぐ規模でした。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
桑名宿の宿内家数は
七里の渡し跡 渡し跡堤防

二千五百四十四軒、うち本陣二、脇本陣四、旅籠百二十軒で、宿内人口は八千八百四十八人(男四千三百九十人、女四千四百五十八人)でした。


 渡し場跡の並びにある、明治から続く料理旅館船津屋大塚本陣跡です。

泉鏡花の小説歌行燈湊屋として登場します、塀際に久保田万太郎歌行燈句碑「かはをそに 火をぬすまれて あけやすき」があります、かわうそが入り込んで廊下の燈を消す、悪戯をしたと云う意味です。

隣りの料理旅館
山月脇本陣駿河屋跡です、四軒あった脇本陣の内、最も格式が高かったと云います。

俗謡歌碑「勢州桑名に 過ぎたるものは 銅の鳥居に 二朱の女郎」があります。
大塚本陣跡 歌行燈句碑 脇本陣駿河屋跡 俗謡歌碑

 桑名宿の宿並は七里の渡し場から南に延びています、宿並の処々に遺構を解説した標石があります。

渡し場先の左手に
舟会所跡問屋場跡標石があります、舟会所は佐屋への渡船を手配していました、問屋場は人馬継問屋場とも人馬会所とも呼ばれました。

歌行燈手前の左手に
通り井跡標石があります、桑名の地は地下水に海水が混じる為、寛永三年(1626)町屋川から水を引き、町内の主要道路に筒を埋め、道路中央に正方形の枡を開け、利用しました。

右手の
歌行燈は小説歌行燈にうどん屋として登場した明治十年(1877)創業の志満やです、今は桑名名物の焼きはまぐりが賞味できます。
舟会所跡 通り井跡 歌行燈

 柿安料亭本店の所で八間通りを横断します。

右手に春日神社の
青銅鳥居があります、「勢州に過ぎたるもの」と云われた青銅の鳥居です、 慶長七年(1602)初代桑名藩主本多忠勝によって寄進された木造鳥居が大風で倒壊した為、寛文七年(1667)桑名藩七代藩主松平定重辻内善右衛門(鋳物師)に命じ、建立した青銅鳥居です。

鳥居脇に
しるべいしがあります、子が迷子になると左側面のたづぬるかたに特徴を記し、心当たりのある人は右側面のおしえるかたに情報を記しました。

春日神社桑名神社中臣神社を合わせて祀っています、正式には桑名宗社と称します。
春日神社青銅鳥居 しるべいし 社殿

 宿並の左手三之丸堀桑名城の城壁を残しています。

関ケ原の合戦後、家康は徳川四天王の一人
本多忠勝を桑名十万石に封じました、忠勝は四層六重の天守をはじめ、 五十一基のと四十六基の多聞が立ち並んだ桑名城を築城しました。

桑名城は三方を海に囲まれ、を広げた形状に似ているところから扇城とも呼ばれました。

堀端は
歴史を語る公園になっています。

突当りの
T字路を右折します、京方面からは南大手橋の手前を左折します。
桑名城石垣 歴史を語る公園 南大手橋分岐

 右手の石取会館は大正十四年(1925)の建築で国登録有形文化財です、館内には太鼓と鉦で囃したて日本一やかましい祭りと云われる石取祭に繰り出される山車の模型が展示されています。

京町交差点左の桑名市博物館前に
道標「右京いせ道 左江戸道」があります。

京町交差点を横断して進むと、右手に
京町毘沙門天堂があります、ここが京町見附です、直進(黄色矢印)すると右手に京町見附跡標石があります。

呉服すぎやを左折(白色矢印)します。
石取会館 道標 京町毘沙門天堂 京町見附跡分岐

 京方面からは突当りの京
町毘沙門天堂前を右折します。

 京町から吉津屋町(よつや)に入ると、吉津屋町商店街の一本道になります。

吉津屋町には天明六年(1786)から寛政九年(1797)まで桑名藩の米札会所がありました、米と金銭を換算した藩札の発行を行いました。

県道504号桑名港線を横断すると、右手に
吉津屋見附跡があります、ここには吉津屋門番所がありました。

ここからクランク状に
枡形をトレースします、①マズ見附跡を右折します、②一本目を左折します、東海道矢印道標があります。
①吉津屋見附跡 吉津屋枡形 枡形道標 ③吉津屋枡形

 ③一本先を左折します、ここにも
東海道矢印道標があります。

 先に枡形跡があります、ここにあった鍛冶町常夜燈は七里の渡し跡に移設されました。

鍛冶町から
新町に入り、いもや本店の所を右折します、ここにも東海道矢印道標があります。

右手の
教宗寺(きょうそうじ)は浄土真宗本願寺派です。

次いで右手にこの地の鎮守の
泡洲崎八幡社があります、この地は町屋川流末の洲で泡洲崎と呼ばれました、境内には移設された追分道標があります。
新町分岐 教宗寺 泡洲崎八幡社 追分道標

 天保十三年(1842)に建立された
追分道標「右 きゃういせみち 左 ふなばみち」で、元は新町の北端にあったものです。

新町は慶長年間(1596~1615)の城下町割りにより新しく開発された町でした。

 隣りの西山浄土宗瑠璃山医王院光明寺は春日神社の神宮寺でしたが、慶長の町割りで現在地に移りました。

参道口に
沼波弄山墓所沼波家墓所碑があります、沼波弄山(ぬなみろうざん)は桑名船場町の陶芸家で、萬古焼(ばんこやき)を創始しました。

伝馬町に入ると、右手に浄土宗
十念寺があります、山門前に桑名義士森陳明(もりつらあき)翁墓所碑があります。

幕末、
桑名藩は戊辰戦争で幕府方として戦い、官軍に降伏しました。
光明寺 沼波弄山墓所碑 十念寺 森陳明墓

 
新政府より桑名藩に、戦争の責任者の差し出しが命ぜられ、森陳明は藩の全責任を一身に背負い、明治二年(1869)十一月十三日、江戸深川の桑名藩邸で切腹して果てました。

 日蓮宗妙延山壽量寺には狩野光信(かのうみつのぶ)の墓があります、慶長十三年(1608)江戸城の障壁画を描き終えた光信は京へ戻る途中、桑名で没し、当寺に葬られました。

県道401号桑名四日市線を横断すると右手に 浄土真宗本願寺派大悲山
長圓寺があります、十一代住職魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)は一枚の紙から連続して多数の鶴を折る桑名の千羽鶴を考案しました。

宿並は浄土真宗謝徳山
報恩寺先で県道613号線に突き当たります。
壽量寺 長圓寺 報恩寺 七曲り見附跡

 ここが
七曲り見附跡です、ここは桑名城下南端の見附で、番所がありました、七里の渡しから七度曲がったところから門は七曲御門と呼ばれました。

 伝馬町から鍋屋町に入ります、日進小学校南交差点を右折します。

右手の豪壮な住宅前に
広瀬鋳物工場跡標石があります、藩主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏を招いて、ここに工場を与えたのが始まりで、鋳物製品は桑名の特産品となりました。

隣接して
天武天皇社があります。

壬申の乱の際、桑名郡家に宿泊した天武天皇を祀る唯一の神社です。

先の左手に
空地があります。
日進小南交差点 広瀬鋳物工場跡 天武天皇社 本願寺跡

 街道に面して寛政十二年(1800)建立の
善光寺一躰分身如来があります、ここは古刹本願寺跡です、往時、この辺りは本願寺村と称しました。

 本願寺跡内には芭蕉の門人である各務支考(かがみしこう)の分骨供養塔である梅花仏鏡塔(ばいかぶつかがみとう)があります、支考は蕉門十哲の一人で美濃派の創始者でした。

周囲には
芭蕉句碑「今日(けふ)斗(ばか)り 人も年より 初時雨」をはじめ、十基の句碑が並んでいます。

次いで右手の
一目連(いちもくれん)神社鋳物師の守護神でした。

浄土真宗大谷派瑞璋山
明圓寺先の右手には中川梵鐘店があります。
梅花仏鏡塔 一目連神社 明圓寺 善西寺

 
矢田町交差点を越すと右手に浄土真宗本願寺派走井山善西寺があります、戦国時代、走井山に矢田城がありました、城主の矢田俊元織田信長に敗れ廃城となった、孫の利勝が出家して善西寺を創建しました、寺号は祖父の法号でした。

 次いで右手に立坂神社の鳥居があります、立坂神社は桑名藩初代藩主本多忠勝により創建された矢田八幡宮がはじまりです。

突当りの右手に
火の見櫓が復元されています、ここが矢田立場跡です、この立場は「食物自由にして、河海の魚鱗、山野の蔬菜四時無きなし」と云われました。

ここが
桑名宿京方口(西口)でした、桑名藩の役人はここで西国からの参勤大名を出迎えました。

矢田立場跡前の
突当りを左折します。
立坂神社鳥居 矢田立場跡 矢田分岐 神戸岡神社

 御菓子司ゑびすや先の右手に
神戸岡神社(ごうどおかじんじゃ)があります、明治二十九年(1896)の神社統合令により立坂神社に合祀されたが、里人の要望により再度この地に遷座されました。

 御菓子処つたや先の左手に浄土真宗本願寺派了順寺があります、山門桑名城の城門を移築したものです(修理中)。

中山歯科医院の向いに
江場(えば)松原跡標石があります、七里の渡しからここまでは家屋が続いていたが、この先から安永までは松並木でした。

西には
鈴鹿山系、東には伊勢の海が遠望できる景勝地でした、しかし松並木は伊勢湾台風により甚大な被害を受け、全滅となりました。

安永内科ペインクリニック先の右手に
城南神社があります、伊勢神宮が鎮座する前に、この地に仮座した縁から式年遷宮後、一の鳥居が当社に下賜されます。
了順寺 江場松原跡 城南神社

 伊勢神宮の
一の鳥居は式年遷宮後、七里の渡しの鳥居となり、七里の鳥居は当社の鳥居となります。

 次いで右手に浄土真宗大谷派清浄山晴雲寺があります、西からの参勤大名は当寺で衣服隊列を整えて桑名城下に入ったと云います。

国道258号線高架橋を
歩行者用地下道で横断します。

十字路を越えた右手に文政元年(1818)建立の
伊勢両宮常夜燈があります、傍らには明治二十六年(1893)
建立の
里程標があります。

直進すると
町屋川に突き当たります、ここが町屋橋跡です。
晴雲寺 国道258号高架 伊勢両宮常夜燈 町屋橋跡

 寛永十二年(1635)以降は板橋が架橋されました、ここには町屋川舟運の舟着場もあり、名物の安永餅を商う安永の立場があり、大いに賑わいました。

昭和八年(1933)国道1号線側に
町屋橋が架けられ、旧東海道の町屋橋は廃止されました。

伊勢両宮常夜燈の所に戻り、国道1号線の
町屋橋北詰交差点に出て、町屋橋を渡ります。

員弁川(いなべ)は鈴鹿山系の御池岳北麓に源を発し、この辺りでは町屋川と呼ばれ、流末は伊勢の海に注いでいます、伊勢市から朝日町に入ります。

渡り詰めの
町屋橋南詰交差点を右折します。
町屋川 町屋橋渡り詰め 旧道復帰点

 一本目を左折します、ここが
旧道の復帰ポイントです、電柱にみえ歴史街道東海道があれば正解です。

 橋本橋を渡ると右手に浄土真宗本願寺派桔梗山真光寺があります、明暦三年(1657)桑名藩主松平定良が有馬温泉の帰りに病死町屋川川留に遭い、当寺に三日間遺体が安置されました。

境内に
梅鉢紋を刻んだ手水鉢があります、藩主となった子の松平定重が礼に寄進したものです。

左たばこ店脇に
山口誓子句碑「露けさよ 祷りの指を 唇(くち)に触れ」があります。

次いで左手に
一里塚跡標石があります、縄生(なお)の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて九十七里目です。

近鉄名古屋線伊勢朝日駅前の
踏切を横断します。
真光寺 一里塚跡 近鉄名古屋線

 踏切を越すと左手に推定樹齢三百年のエノキがあります、松並木に混じっていた一本です。

縄生(なお)村から小向(おぶけ)村間には
松並木がありましたが、戦時中の松根油採取の為に伐採され、残された松も松くい虫の被害等で失われてしまいました。

先の十字路に
御厨(みくりや)小向神社社標があります、小向神社にははだか祭りが伝わっています、境内で裸になったもの同士が、火の付いた藁束で叩き合い、取り付いている悪霊疫病を追い払うと云う神事です。

みやた美容室の手前に
橘守部誕生地遺跡解説があります、十七歳で江戸に出て、独学で国学を学び、天保の国学四大家の一人となり、六十九歳で没しました。
エノキ 小向神社社標 橘守部誕生地

 右手の浄土真宗本願寺派小向山浄泉坊は徳川家に所縁のある桑名藩主奥方の菩提寺であったので、山門や瓦に三つ葉葵があった為、参勤の大名は門前で駕籠から降りて、一礼したと云います。

朝日跨線橋東交差点を越すと小向村から
柿村に入り、右手に浄土真宗大谷派朝明山西光寺があります、明応五年(1496)の開基で、本尊は絵像です。

みえ歴史街道東海道標識と柳屋があるY字路は左に進みます。
浄泉坊 西光寺 柿分岐 伊勢湾岸自動車道

 田園風景が広がる長閑な
桜並木の街道を進むと、正面に伊勢湾岸自動車道の高架橋が迫ってきます。

 柿村は室町期に神宮領があり、その根がに転訛したものです。

伊勢湾岸自動車道手前の
柿交差点の右手には弘化三年(1846)建立の多賀大社常夜燈があります、元は朝明川の土手にありました。 

伊勢湾岸自動車道高架橋をくぐり、
朝明川(あさけがわ)を朝明橋で渡ります。

朝明川は鈴鹿山系の釈迦ケ岳に源を発し、流末は伊勢の海に注いでいます、川名は日本武尊がこの地で朝明けを迎え、この川水で口をすすいだところに由来しています。

橋を渡ると
三重郡から四日市に入ります。
多賀大社常夜燈 朝明川 松寺分岐

 突当りの
Y字路を左に進みます。

 右手の御厨(みくりや)神明社の祭神は豊受姫命(とようけひめのみこと)、大山祇命(おおやまつみのみこと)です。

左手の
タカハシ酒造は文久二年(1862)の創業、伊勢神宮に奉納する御神酒三重の新嘗(にいなえ)の蔵元です。

この辺りに大きな
エノキがあり、松寺村の立場がありました、松寺の地名は松が繁り、地勢が平な所を意味しています。

右手の浄土真宗本願寺派松栄山
蓮證寺の本尊は阿弥陀如来です、山号の松栄は地名の松寺に由来しています。
御厨神明社 タカハシ酒造 蓮證寺

 街道は旧松寺村から旧蒔田村に入ります、村名は中世この地は蒔田氏の領地であったところに由来しています。

右手に
御厨神明神社と蒔田観音龍王山宝性寺が対であります。

参道正面の
宝性寺は天平十二年(740)聖武天皇の勅願による創建です、織田信長の長島一向一揆の兵火で焼失し、現在の本堂は文化十一年(1814)の建立です。 

右手の
御厨神明神社は蒔田村の氏神です。

続いて右手に浄土真宗朝明殿
長明寺があります、寺域にはが廻らされ、山門前には文化三年(1806)建立の石橋が架かっています。

寺域は蒔田相模守
宗勝蒔田城跡です。
宝性寺 長明寺

 永禄年間(1558~70)城主
伊勢春日部家春の時、織田信長の家臣滝川一益の攻めにより落城となりました。

 蒔田交差点を越すと左手に聖武天皇遺跡鏡ケ池碑があります、笠取り池とも呼ばれます。

奈良時代の天平十二年(740)
聖武天皇が伊勢行幸の際、笠が風で飛ばされ池に落ちたところ、洗濯をしていた娘が笠を拾い上げた縁で、この地に宿泊しました。

翌朝、出立する馬上の
天皇と、見送るの姿が鏡のような水面に映ったと云います。

三岐鉄道高架橋下のJR関西本線西
富田踏切を越すと、旧蒔田村から旧富田村に入ります。

右手に浄土真宗本願寺派木下山
三光寺があります、蒔田相模守宗勝の墓碑があります。
鏡ケ池 西冨田踏切 三光寺

 
宗勝は平安時代末期、後鳥羽院守護職として、この地富田郷木下を治めました。

 三光寺先きのT字路を左折します、京方面からは東海道→標識があります。

三幸毛糸紡績富田工場先で
三岐鉄道高架橋次いで近鉄名古屋線高架橋をくぐり、一里塚橋を渡ると、右手に史跡冨田の一里塚阯碑があります、江戸日本橋より九十八里目です。

左手の八幡神社は富田西町の
産土神です、境内には重量100kgの力石があります、村一番の力持ちを競いました。

右手の西町公会所前に
行啓(ぎょうけい)記念道路碑があります。
鉄道高架橋 富田の一里塚跡 八幡神社力石 行啓記念道路碑

 明治四十三年(1910)軍事演習見学の為、西下した皇太子時代の
大正天皇が、ここを通行した記念碑です。

 司クリーニング店の所を右折します、電柱に右東海道→標識があります、京方面からは突当りのT字路を左折します。

右手三重銀行手前の寺本酒店の所に
里程標「津市元標へ拾里」「四日市市大字四日市へ壱里八町」があります。

先の四日市市富田地区市民センターに大正六年(1917)建立の
道標「右 富田一色 東洋紡績 川越村 道」が移設されています。

富田小学校正門脇には
明治天皇御駐輦跡碑史跡明治天皇富田御小休所阯碑があります、四たび広瀬五郎兵衛宅で休息しました。
富田分岐 里程標 道標 明治天皇碑

 この辺りが
富田の立場跡です、立場名物は焼き蛤(はまぐり)でした、桑名は本来、佃煮の時雨蛤(しぐれはまぐり)が名物でしたが、桑名の名物と信じる旅人がここで焼き蛤を薦められるとその手は桑名の焼き蛤となりました。

 十四川の手前を左に入ると浄土宗高田派成徳山(じょうとくざん)善教寺があります、本尊の阿弥陀如来像は国指定重要文化財です。

十四川十四橋で渡ります、桜の名所です、大正十二年(1923)堤の両岸1.2kmにわたってソメイヨシノ約八百本が植栽されました。
4
先の右手に天保十年(1839)建立の
常夜燈があります。

次いで右手に
薬師寺があります、本尊は弘法大師作の薬師如来です。
善教寺 十四川 常夜燈 薬師寺

 この地に疫病が蔓延した時、
弘法大師薬師如来を彫り、開眼供養すると、たちまち難病は平癒しました。

 旧富田村から旧茂福(もちぶく)に入ると右手に浄土真宗本願寺派光明山常照寺があります、天文七年(1538)の開山で、境内に千手観音堂があります。

突当りのT字路
豊和堂を左折します、京方面からは右折になります。

この茂福分岐には
新設用水道碑力石があります、重さ三十二貫目です。

先を道なり、クランク状に進むと右手に浄土真宗本願寺派林光山
證圓寺があります。
常照寺 茂福分岐 力石 證圓寺

 茂福城主
茂福盈豊(もちぶくみつとよ)は織田信長に謀殺され、茂福城は落城となりました、盈豊の遺児は家臣に匿われて逃れ、その子孫が證圓寺の住職となりました。

 小川に架かる前川橋を渡ると右手に茂福神社があります、茂福城主茂福盈豊が祭祀をつとめました、茂福の産土神です。

県道64号線高架橋下の八田三丁目西交差点を越すと旧
八田(はった)に入ります。

右手の
大神宮常夜燈先で米洗川(よないがわ)を米洗橋で渡ります。

壬申の乱の時、大海人皇子が神に供える御神酒を造る為、この川で麹の米を洗ったと云います。
茂福神社 県道64号線高架 大神宮常夜燈 米洗川

 右手の八田第一自治会集会所の所に真誉法願上座碑があり、八幡地蔵尊堂があります。

敷地奥に
伊勢國八幡神社舊跡碑があります、かつてはここに八幡神社が鎮座していましたが、明治四十一年(1908)志氐(しで)神社に合祀されました。

先に進むと左手に松並木の
名残り松があります、地名の川原津からかわらづの松と呼ばれています。

堀切橋を渡ると旧
羽津村です。
八幡地蔵尊 八幡神社舊跡 かわらずの松 志氐神社

 森医院先の右手に
志氐(しで)神社があります、天武天皇が伊勢神宮を遥拝した際に、しで(幣帛)を奉納したことが社名の由来になっています、天正年間(1573~92)豊臣秀吉が当社に戦勝祈願を行っています。

 次いで右手の浄土真宗本願寺派初野山摂護殿光明寺弘法大師が小堂を建てたのが始まりです。

天正年間(1528~31)
真宗高田派から本願寺派に改宗しました。

突当りの
MORI看板の所を左折(白色矢印)します、ここを右折(黄色矢印)すると羽津城山公園があります。

羽津(はづ)城山公園は
羽津城址(四日市市指定記念物「史跡」)です。

藤原秀郷(俵藤太)の子孫
藤原盛宗の築城にはじまり、元亀三年(1572)六代目近宗織田信長に滅ぼされ、落城となりました。
光明寺 羽津分岐 羽津城址

 旧道は右に大きくカーブした先で国道1号線に合流します、京方面からは右手レッドバロン、左手やきとり扇屋の所から斜め左に入ります。

金場町交差点の手前右手のENEOSの所に大正十四年(1925)建立の
大矢知道追分道標「右桑名 左四日市 道」「右四日市 左大矢知 道」があります。

大矢知(おおやち)は伊勢そうめん三重の糸と呼ばれる素麺の特産地です。

三ツ谷町交差点先の
西松屋向いを斜め左の旧道に入ります。
城山分岐 大矢知道追分 三ツ谷分岐 國寶元三大師道

 この分岐点には道標
國寶元三大師(がんざんだいし)があります。

天台宗の古刹垂坂山
観音寺への道です、本尊は木造元三慈恵大師座像です、元三大師は天台宗中興の祖良源のことで、地元では元三さんと呼ばれ、親しまれています。

 旧道に入ると左手に多度(たど)神社があります、明治十八年の勧請です。

突当りの海蔵川緑地公園に
三ツ谷一里塚跡碑があります、江戸日本橋より九十九里目です。

この先に橋がありませんので、右手に迂回して
海蔵川海蔵橋で渡ります、海蔵川は鈴鹿山系に源を発し、流末は伊勢の海に注いでいます。

渡り詰を左折して
旧道に復帰します。

旧道は
浜一色町から京町に入ります。
多度神社 三ツ谷の一里塚跡 海蔵橋 法泉寺

 右手に浄土真宗本願寺派
法泉寺があります、明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いに敗れた桑名藩は恭順し、幼い藩主万之助(松平定教)は四日市の新政府軍陣営に出頭し、法泉寺に幽閉されました。

 AM10:07 四日市宿着 石薬師宿まで11.0km

 三滝川三滝橋で渡ります、三滝川は鈴鹿山系に源を発し、流末は伊勢ノ海に注いでいます、三重川とも呼ばれました。

広重は
三重川の景を描いています、三滝橋を渡ると四日市宿に到着です!

四日市は四の付く日に市が立ったところに由来しています、四日市宿は四日市湊からへの十里の渡し伊勢参宮道の追分を控え大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
四日市宿の宿内家数は千八百十一軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠九十八軒、
三滝川 東海道五拾三次之内 【四日市】 三重川

 宿内人口は七千百十四人(男三千五百二十二人、女三千五百九十二人)でした。


 宿並を進むと左手に天文十九年(1550)創業、銘菓なが餅の老舗笹井屋があります、なが餅は餡入りの餅を細長くのばした餅菓子です。

津藩三十六万石藤堂家の始祖、
高虎が足軽時代から「吾れ武運の長き餅を喰うは幸先よし」と好んで食べたと云います。

右手の近藤建材店は
帯や脇本陣跡です。

左手の中部西小学校は
四日市陣屋跡です。
笹井屋 なが餅 帯や脇本陣跡 四日市陣屋跡

 慶長八年(1603)代官の
水谷九左衛門光勝が建設し、天領である四日市を支配しました。

 宿並を進むと右手の黒川農業商会は黒川本陣跡です、文化八年(1811)二番本陣の太田家が没落した為、脇本陣であった黒川彦兵衛家が二番本陣に格上げされました。

正面の国道164号線を横断した先は左図の通りにお進み下さい。

十字路に文化七年(1810)建立の
道標「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」があります、四日市湊に通じる浜往還との追分です、すぐまっすぐを意味しています。

ここから先の
旧道は消滅しています、直進し、一本目を右折して国道1号線に出ます。
黒川本陣跡 中部迂回路 道標

 国道1号線を横断して、赤い八宝ビルスポーツショップサンキャビンの間に入ります、ここが旧道の復帰ポイントです。

次いで
表参道スワマエアーケードに入ります(白色矢印)、手前右(黄色矢印)は諏訪神社です。

諏訪神社は建仁二年(1202)信州諏訪大社の分霊を勧請して創建されました、四日市の産土神です。

アーケード内を進み、
表参道スワ栄ゲートから出ます。
諏訪前分岐 表参道スワマエ 諏訪神社 表参道スワ栄

 近鉄四日市駅前の中央通りを横断します、この辺りが四日市宿の
京方口(西口)と思われます。

 街道は旧浜田村を進みます、左手の四日市浜田郵便局の所に佛法山崇顕精舎寺標があり、側面に丹羽文雄生誕之地と刻まれています。

丹羽文雄は明治三十七年(1904)崇顕精舎住職の長男として生まれました、四日市を代表する作家です。

川村眼科先を右に入り、近鉄名古屋線高架橋をくぐると正面に
鵜森神社があります、浜田城主の先祖といわれている藤原秀郷や初代城主田原忠秀を祀っています。

鵜森神社が鎮座する
鵜の森公園浜田城跡です、文明二年(1470)田原秀忠が築城し、天正三年(1575)三代目城主田原元綱の時、織田信長の家臣滝川一益に攻められ落城となりました。
丹羽文雄生誕地 鵜森神社 浜田城址

 街道に戻ると御菓子司東京堂先の右手に真宗高田派東漸寺があります、建仁元年(1201)の創建です。

街道沿いには
連子格子の旧家を所々に残しています、近鉄名古屋線高架橋をくぐって、しばらく進むと旧赤堀村に入ります。

右手に
鈴木薬局があります、寛延三年(1750)創業の鈴木製薬所跡です、現在の建物は嘉永五年(1852)の建築です。

代々
勘三郎を襲名し、赤万能即治膏萬金丹などの膏薬を三百年以上も製造してきた製薬所です。

鹿化(かばけ)を渡ると旧日永村に入ります。
東漸寺 鈴木薬局 大宮神明社

 右手の
大宮神明社は永禄五年(1562)の遷座です、例年六月三十日に輪くぐりの神事が行われます、茅の輪をくぐると夏負けしないと伝わっています。

二つ目の信号交差点先の一本目、四日市名物団扇最中の大平屋手前を右に入ると、右手に
水沢道標「猿丸太夫名歌古跡すい澤へ是ヨリ三里」があります。

更に進むと
大聖院があります、本尊の不動明王源頼義の念持仏で、前九年の役(1051)に際して、仏師定朝に彫らせたものです(国重要文化財)。

 先を右に入ると天台宗萬松山圓楽寺があります、比叡山延暦寺の末寺で、本尊は不動明王です、今は年に二回人形供養が行われます。

次いで右手に浄土真宗高田派日永山
興正寺があります、貞観六年(864)の創建です、信長秀吉家康の庇護が篤かったと云います。

天白川を天白橋で渡ると右手に浄土宗林光山
両聖寺があります、天白川の堤を固めたつんつく(堤築)踊り(四日市市無形文化財)が今に伝わっています。
圓楽寺 興正寺 両聖寺 日永神社

 信号交差点を越すと右手に
日永神社があります、元は南神明社と云い、神戸(かんべ)藩主本多家の崇敬が篤かったと云います。

 日永神社に隣接して長命山薬師堂があります、鎌倉時代中期作の薬師如来像を安置しています、この像は伊勢安国寺にありましたが、焼け出されてここに移されました。

駐車場手前の
日永四丁目3標識がある左手の小路に入ると浄土宗善光山証明院実蓮寺があります、信長の家臣滝川一益がこの地の領主になると、当寺を菩提寺とし、母堂の位牌と墓碑を安置しました。

次いで右手に浄土真宗高田派雲祥山
西唱寺があります、永禄二年(1559)の創建なるも、戦災に遭い寺宝、古文書等がことごとく灰燼に帰してしまった。

右手日永五丁目3標識先に
史蹟日永一里塚阯三重縣碑があります、江戸日本橋より数えて百里目です。
薬師堂 西唱寺 日永一里塚跡

 旧道を進むと左手に一本松があります、往時はこの辺りから泊の集落まで松並木でした、その間には、家は一軒もなく、縄手と呼ばれていました。

泊町北交差点を越すと
旧日永村から旧泊村に入ります、村名はいにしえに花山天皇が当地の光明寺に泊まったことに由来しています。

左手の
東海道日永郷土資料館を越すと旧道は国道1号線に吸収され、旧追分村に入ります。

京方面からは重要な分岐になります、
三重銀行の所から斜め左の旧道に入ります。

スグ先
追分交差点のY字路が日永の追分です。
名残り松 泊町分岐 日永の追分

 Y字路の左が伊勢神宮への
伊勢参宮道です、右が東海道です。

 追分の三角地には多数の追分遺構を残しています。

伊勢神宮
二の鳥居は二十年の遷宮毎に建て替えられます、しかし当初はここに鳥居はありませんでした。

渡辺六兵衛なる商人が、追分に鳥居が無いのは不自然と、江戸にて伊勢出身者の浄財を募り、安永三年(1774)に建立したのが始まりです。

敷地内に
水屋があります、湧き出る追分鳥居の水は鈴鹿山系の伏流水です。

道標は嘉永二年(1849)の建立で、左面「左 いせ参宮道」、正面「右 京大坂道」、右面「すぐ 江戸道」、そして常夜燈には「ひたり さんくう道」と刻まれています。
二の鳥居 追分鳥居の水 道標&常夜燈

 追分は
間の宿で鳥居を中心に旅籠と茶屋が軒を連ね、追分まんじゅうが名物でした。

 それでは東海道を進みましょう、四日市あすなろう鉄道内部線泊第7号踏切で横断します。

左手の
追分駅伊勢参宮道ウォークの最寄駅になります。

スグ先の
Y字路を左に進みます、旧追分村から旧小古曽(おごそ)に入ります。

道なりに進むと右手に真宗高田派
大蓮寺があります、寛正元年(1406)の開基で、本尊は快慶作の阿弥陀如来立像です。
内部線踏切 追分分岐 大蓮寺 観音寺

 続いて慈源寺
観音寺があります、織田信長の寺院破壊の際に類焼しましたが、本尊の千手観音像は村人達によって守られ、文化三年(1806)に再建された本堂に安置されています。

山門の四脚門は寛政十二年(1800)の建立で、屋根の両端に異国風の魔伽藍(まから、鯱状の棟瓦)を上げています。

 観音寺脇の小路奥に小許曽(おごそ)神社があります、延喜五年(905)の延喜式神名帳に記載されている古社です、古来より粥試し神事が毎年一月に行われます。

小豆粥の入った大鍋の中に入れておいた五本の細い女竹の束のそれぞれに入っている米粒小豆の多寡で、その年の作物の出来栄えを占う神事です。

先の
十字路を右折します、電柱には東海道→標識、足元には大正期の道標「右 大冶田」「左 追分」があります。

正面奥に浄土真宗米田山
願誓寺があります、本尊の阿弥陀仏は聖徳太子の作と伝わっています、本堂庫裏は寛政四年(1793)の再建です。
小許曽神社 小古曽分岐 願誓寺

 願誓寺の参道口手前を左折します、京方面からは右折になります。


 県道407号線を小古曽三丁目交差点にて横断します、横断すると右手四日市小古曽郵便局の向いに東海道標石があります。

旧道は
内部川の土手に突き当たります、往時はここに采女橋が架橋されていました、内部川はかつて二筋の流れでしたので二ケ所に石橋が架橋されていました。

今は左に迂回します、
土手上を進み内部橋の右(北)側歩道に入るもよし、土手下を進み、国道1号線をくぐってから内部橋の左(南)側歩道に出ても何ら問題はありません。

内部川は鈴鹿山系の名峰
鎌ケ岳入道ケ岳に源を発し、流末は鈴鹿川に落合います、古くは三重川境川杖衝(つえつき)采女(うねめ)とも呼ばれていました。
県道横断 旧采女橋袂 内部川

 内部橋の右(南)側を渡った街道ウォーカーさんは、渡り詰めを階段で下り、国道1号線をくぐり、階段を上り、緑色の橋を渡り、国道1号線下を進みます。

マックスバリューを回り込むように、斜め左の旧道に復帰します、京方面からは国道1号線に合流します。

旧采女村を進みます、采女とは天皇に仕える女官のこと、地名はこの地出身の采女に由来しています。

采女村には立場があり、難所
杖衝坂を控え、賑わったと云います。

突当りの
T字路を右折します、向いの家屋に東海道標識があります、京方面からは左折になります。
旧道復帰 ①采女分岐 ②采女分岐

 次いで
十字路を左折します、電柱に杖衝坂標識があります、京方面からは右折になります、同様に電柱に杖衝坂標識があります。

 正面の金刀比羅宮の手前から杖衝坂(つえつきざか)は始まります。

金刀比羅宮の手前を左に回り込み、次いで左手うつべ町かど博物館の所から右に曲がります。

うつべ町かど博物館は内部地区の歴史と文化をテーマにした手作り博物館です、お立ち寄りをお奨めします。

杖衝坂は
杖突坂とも云います、伊吹山で荒ぶる神の祟りを受けて深手を負った日本武尊は剣を杖にしてようやく越えたと云う伝説の坂です。
金刀比羅宮 内部町かど博物館 杖衝坂 史跡杖衝坂碑

坂の途中の石垣の上には
史跡杖衝坂碑があります。

 石垣上の永代常夜燈は文化八年(1811)の建立です。

傍らには宝歴六年(1756)建立の
芭蕉句碑「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」があります。

芭蕉が貞享四年(1687)に江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したと云う、その時に詠んだ季語のない有名な句です。

ここには二ケ所の
井戸があります、 坂の上手が弘法の井戸です。
石垣上の史跡 常夜燈 芭蕉句碑 二つ井戸

弘法大師が掘り当てた井戸です、下手が大日の井戸です、坂の中腹左手にあった大日堂に供える閼伽水(あかみず)を汲み上げた井戸です。

 杖衝坂を上り切ると左手に承応年間(1652~54)創建の血塚社があります、日本武尊が足の出血を封じた所です。

坂を上り切った
日本武尊は「吾が足は三重(みえ)の鈎(まがり)の如くして甚疲れたり」と云い、これが三重の語源になったと云います。

旧道は下りになり伸栄設備工業先、一号線ゴルフ練習の所で国道1号線に合流します、京方面からは重要な分岐になります、采女食堂先を斜め右の旧道に入ります。
血塚社 采女分岐③ 一里塚跡 采女一里塚跡碑

 采女食堂の向い、国道1号線を挟んだGS IDEMITSUの所に
史蹟采女一里塚跡碑があります、江戸日本橋より数えて百一里目です。

刻限は12:05、采女食堂に突入です、典型的なドライブインです。

陽気が上がり、冬物のアウターはとうに脱ぎ、モンベル製ライトウエイトアンダーウェアー1枚でも汗ばむ程です。

熱燗の出番は無く、例の
生ビールです、テレビはWBCで盛り上がっています。

カツ丼(650円)には味噌汁が付いています、玉ねぎが香ばしく上等です。

それに
ラーメン(380円)です、われながらよく喰います、ウマーイ完食です。
采女食堂 生ビール カツ丼 ラーメン

 采女食堂を後にすると左手に豊富稲荷神社があります、万延二年(1861)京の伏見稲荷の勧請です。

国分町交差点から斜め左の旧道に入ります、四日市市からいよいよ鈴鹿市に入ります。

旧道の右手には
延命地蔵尊を安置する地蔵堂や単直庵、そして境内には南無阿弥陀仏名号碑があります。

旧道は国道1号線
木田町大谷交差点に突き当たります。
豊富稲荷神社 国分町分岐 地蔵堂 横断地下道

 この交差点は
地下道で横断します、地下道を出たら国道1号線右側の歩道を進みます。

 PM1:20 石薬師宿着 庄野宿まで4.1km

 自由ケ丘交差点先のY字路を右に入ります、この分岐点には東海道標識があります。

旧道に入ると左手に
東海道石薬師宿碑があります、江戸方口(東口)です、石薬師宿に到着です!

石薬師は石薬師寺の門前町として開け、元和二年(1616)宿場が設けられました。

江戸方からの伊勢詣の旅人は日永の追分から参宮道に入り、からの参詣者は関宿から別街道に入った。
石薬師分岐 江戸方口 東海道五拾三次之内 【石薬師】 石薬師寺

 この為、旅人の数は少なく
宿場経営は厳しかったと云います。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
石薬師宿の宿内家数は二百四十一軒、うち本陣三、旅籠十五軒で宿内人口は九百九十一人(男四百七十二人、女五百十九人)でした。

 宿口には延命地蔵尊を安置する地蔵堂があります、江戸方口にあって旅人の道中安全を見守っています。

宿内を進むと右手に
式内大木神社があります、延喜式神名帳に記載された古社で石薬師の鎮守です。

石薬師警察駐在所を過ぎると右手に
小澤本陣跡があります、本陣の周囲には高い松があったので松本陣とも呼ばれました、宿帳には浅野内匠頭大岡越前守の名が残されています。

隣家は
天野記念館になっています。
北町地蔵堂 式内大木神社 小澤本陣跡 天野記念館

 
天野修一はタイムレコーダーで名高いアマノ(株))の創業者です。

 石薬師小学校を過ぎると右手に佐佐木信綱生家があります、信綱は幼年期をこの家で過しました、信綱は唱歌夏は来ぬの作詞で知られる歌人で国文学者です、宿内の処々には歌を記した信綱かるたが掲示されています。

生家の並びには佐佐木信綱
資料館記念館が併設されています。

石薬師小学校南交差点を左折すると真宗高田派
浄福寺があります、創建は室町時代の永正年間(1504~20)です。

当寺は
佐々木家累代の菩提寺で、山門脇には信綱の父佐々木弘綱翁紀念碑があります。

宿並を進み、眼下の
国道1号線瑠璃光橋で跨ぎます。
佐佐木信綱生家 佐々木弘綱碑 瑠璃光橋

 瑠璃光橋を渡ると右手に高富山瑠璃光院石薬師寺があります、本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと云う線刻の薬師如来です。

石薬師寺は
大伽藍でしたが、戦国時代に焼失してしまい、今の本堂は寛永六年(1629)神戸城主一柳監物直盛によって再建されたものです。

山門前を左に入ると
源頼朝の弟(がまの)冠者源範頼を祀った御曹司社があります、範頼は武芸学問に優れ、昔は弓矢を奉納し、文武の向上を祈願する習わしがありました。

鳥居前を右に入ると
(かば)ザクラがあります、俗に逆桜とも呼ばれています。
石薬師寺 御曹司社 蒲ザクラ

 寿永年間(1182~84)
蒲冠者源範頼が平家追討の為、西に向かう途中、石薬師寺に戦勝祈願し、鞭にしていたの枝を地面に差したのが芽吹いたと云います。

 宿並に戻って進むと正面にY字路が現れます、右の上り坂に入ります。

蒲川(がまかわ)を蒲川橋で渡ります、左手に見える榎は一里塚跡です。

渡り詰めを左折します、
←庄野宿↓石薬師宿案内板があります。

この分岐点には
東海道石薬師宿碑があります、石薬師宿の京方口(西口)です。

二代目エノキの傍らには
史蹟石薬師の一里塚阯碑があります、江戸日本橋より数えて百二里目です。
上野町分岐 蒲川橋 石薬師一里塚 関西本線

 関西本線の
檜山橋りょうガードをくぐり、右折します、庄野宿→↓石薬師宿案内板があります。

 関西本線の土手下を進み、次いで国道1号線の土手下を進み、←石薬師宿 庄野宿↓案内標識に従って右折し国道1号線ガードをくぐり、突当りを左折し、スグ先の突当り椎山川を右折します。

旧道はT字路に突き当たります、右は
関西本線の山野原踏切です、左折して椎山川(しいやまがわ)に架かる白色パイプフェンスの橋を渡ります。

田畑が広がる旧道を進み、
県道27号線高架橋をくぐります。

旧道は先で
国道1号線に吸収されます。
国道1号線ガード T字路左折 県道高架橋 国道1号線合流

 この合流ポイントの左手には
←石薬師宿 庄野宿→案内標識、右にはSANKEI工業があります。

京方面からは右手の
GS Shellが分岐ポイントです、国道1号線から斜め左の旧道に入ります。

 国道1号線の歩道をモクモクと歩きます。

加佐登町交差点を過ぎると国道1号線は
鈴鹿川沿いになります。

風に煽られた
竹藪の景を見ていると、何やら広重の傑作と云われている、庄野白雨の写生地はここではないかと思えてきます。

中日本コンクリート先の
庄野町北交差点を右折します。
鈴鹿川沿い 東海道五拾三次之内 【庄野】 白雨 庄野町北分岐

 この分岐点には
→庄野宿資料館標識があります。

 PM2:14 庄野宿着 亀山宿まで 9.3km

 庄野町西交差点の十字路になります、右に進むとJR関西本線加佐登駅です、 十字路を左折すると右手に東海道庄野宿碑があります、ここが江戸方口(西口)です庄野宿に到着です!

庄野宿の設置は東海道中で最も遅い寛永元年(1624)でした、鈴鹿川東の古庄野から住民を移住させて開設されました、宿長は八町(約870m)で、宿並は東から加茂町、中町、上町で構成され、幕府直轄領(天領)でした。

当宿も石薬師宿と同様に、伊勢参詣の旅人の通行は無く、はなはだ振るわない宿でした、その為、
人足伝馬は半減されていました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
庄野宿の宿内家数は二百十一軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十五軒で宿内人口は八百五十五人(男四百十三人、女四百四十二人)でした。
庄野町西分岐 庄野宿碑

 宿並に入ると連子格子の旧家を多数残しています、左手の旧家には清酒庄野の看板が掲げられています、造り酒屋だったのでしょう。

次いで左手の
善照寺は真宗高田派で庄野大念仏踊りが伝わっています。

宿並中程の左手に嘉永七年(1682)築で
油問屋であった旧小林家が庄野宿資料館になっています、館内には宿場資料が多数展示されています。

右手に
問屋場跡解説を掲げた住宅があります、御伝馬所とも云いました。
清酒庄野 善照寺 庄野宿資料館 問屋場跡

 右手の庄野集会所に庄野宿本陣跡標石があります、沢田兵左衛門が代々勤め、間口十四間一尺、奥行二十一間一尺、坪数二百二十九坪七合、畳数百九十七畳半、板数四十四畳半でした。

小路脇に
高札場跡解説板があります、天和二年(1682)の高札が完全な形で庄野宿資料館に展示されています。

続いて住宅の外装に
脇本陣跡解説板が掲げられています、代々楠与兵衛が勤めました。

理容伊藤は
郷会所跡(説明板)です。
本陣跡 高札場跡 脇本陣跡 郷会所跡

 郷会所は助郷の割当てを受けている各村の代表者(庄屋または肝煎)が集会する場所でした、庄野宿資料館には助郷人馬減免の陳情書の控え等が保管されています。

 宿並を進むと右手に川俣神社があります、延喜式神名帳に記載された古社です。

境内の
スダジイはブナ科の常緑樹で推定樹齢五~六百年で庄野宿の設立以前から自生していた大樹です、三重県天然記念物指定です。

先に進むと右手に
東海道庄野宿碑があります、ここが庄野宿の京方口(西口)です。

この先にかなりトリッキーな
迂回路が控えています、鈴鹿市観光まちづくり委員会の迂回路標識がありますが、かなり大袈裟でオ-バーロードなのでお薦め出来ません。
川俣神社 スダジイ 庄野宿京方口 庄野宿碑

 それでは迂回路に取り掛かってみましょう、旧道はマズ新道に合流し、次いで国道1号線に合流します。

この先
汲川原町交差点を斜めに横断するのが旧道(黄色矢印)ですが、国道の敷設で消滅しています、突当りの国道1号線を右折(白色矢印)します。

汲川原町交差点にて
県道637号線高架橋をくぐり、次いで渡り詰めを左折します。

突当りのフェンス越しに
旧道(黄色矢印)が残されています。
迂回路 県道637号線高架 旧道口 迂回路

 剛な者はこのフェンスを乗り越えて
旧道(黄色矢印)に復帰すのも可能です。

自信がが無ければ
国道1号線に沿って進み、一本目を左折(白色矢印)します。

 先でV字路になり、左からの旧道(黄色矢印)に合流します、チェックポイントはBRIDGESTONE(有)今村ゴムりーヴ鈴鹿です、ちょうどV字路の中心に位置しています、これにて汲川原町旧道迂回路トレースの終了です。

街道を進むと左手に浄土真宗本願寺派富田山
真福寺があります、本堂前のソテツが印象的です。

スグ先の右手に
山神があります、山ノ神です、春になると里に降りてきて実りをもたらす有難い神です、そして領界石「従是東神戸(かんべ)領」があります。
旧道復帰 真福寺 山神 領界石

 街道を挟んだ向かい側にも領界石「従是東神戸領」があります。

並びに
女人堤防碑があります、昭和三十三年(1958)の建碑です。

鈴鹿川安楽川の合流する汲川原(くみがわら)はしばしば水害に見舞われ、多くの人命が失われ、村人達は堤防の築築を神戸藩に願い出ました。

しかし
堤防を造ると対岸の城下町が水害に見舞われるようになるとして許可されませんでした、「禁を破った者は打ち首」という達しが出ました、しかし女人であれば罪科(つみとが)が軽く済むと信じ、村の女二百余名が立ち上がり、六年の歳月をかけて堤防を完成さてしまった。

このことが
藩主の耳に入ると一同の処刑が命じられた、女達は処刑場に護送されたが、家老が身をもって諌めた為、咎めなしとなり、赦免の早馬が走り、逆に金一封を送り功績を讃えました、村人はこの堤防を女人堤防と云い伝えました。
領界石 女人堤防碑

 街道をモクモクと歩くと左手に二つ目の川俣神社があります、延喜式神名帳に記載された古社です。

川俣神社は
川の俣(合流点)の守護神です、本殿鈴鹿川安楽川の川俣に向いて建立されています。

参道口の街道沿いに
史蹟中富田一里塚跡碑があります、塚木はエノキでした、江戸日本橋より数えて百三里目です、碑の台石は旧和泉橋親柱が流用されています。

並に
領界石「従是西亀山領」があります、神戸領との境です。

中富田村は亀山領の東端にあたり、村内には東百里屋(ともりや)と呼ばれる亀山藩の御馳走場がありました、往来する大名行列などの一行を接待しました。
川俣神社 一里塚跡 領界石

 中富田バス停を過ぎると右手に天台真盛宗富光山常念寺があります、本尊は阿弥陀如来です。

元は同村の別の場所にありましたが、安政元年(1818)の
大地震で倒壊、元々ここにあって倒壊を免れた平建寺を買収し移転しました、地蔵堂には中富村の氏仏として信仰された平建寺の本尊延命地蔵尊が安置されています。

西冨田東バス停を過ぎると右手に真宗高田派金光山
福萬寺があります。

先の右手に
ひろせ道道標があります。
常念寺 福萬寺 ひろせ道追分 ひろせ道道標

 広瀬の地には
伊勢国府が置かれていました。

 街道は安楽川の土手に突当ります、左手に三つ目の川俣神社があります、延喜式神名帳に記載された古社です、いかにこの地は水害に悩まされたか窺い知れます。

境内の
無常冷水井跡は神戸城主織田信孝が愛飲した井戸跡です。

神戸氏は織田信長の侵攻を受け、信長の三男
信孝を養子に迎い入れる事で和睦し、信孝は元亀二年(1571)神戸城主となったが、本能寺で信長が討たれると、信孝は自刃に追い込まれてしまった。

並には
旧和泉橋親柱が保存されています。
川俣神社 冷水井跡碑 旧和泉橋親柱 旧和泉橋跡

 川俣神社前の土手辺りが旧和泉橋跡です、往時は長さ七十間(約126m)の仮土橋が架けられ、増水時には徒歩渡しとなりました、渡しの管轄権は対岸の和泉村にありました。

今は150m程下流の
和泉橋安楽川を渡ります、安楽川は鈴鹿山系の安楽峠に源を発し、流末は鈴鹿川に落合います、和泉川とも呼ばれました。

和泉橋の渡り詰めを右折し、土手道を進み、先の
Y字路を左に下ります、左手の二本のサクラの古木が分岐ポイントです、この辺りが旧和泉橋跡です。
安楽川 旧道復帰点 旧和泉橋親柱 地蔵尊

 旧道復帰点にある和泉公民館の敷地内には
旧和泉橋親柱が保存され、地蔵尊が祠に安置されています。

 右の小路口左に道標「右のゝぼり」、右手には大正三年(1914)建立の道標で、同じく「右のゝぼり」と刻まれています、野登(ののぼり)道追分です。

野登道は
野登寺(やとうじ)への道です、野登寺は醍醐天皇勅願所で、歴代亀山藩主の崇敬が篤く、庶民はののぼりさんと呼び親しみました。

スグ先左手の和泉西バス停の所に
地蔵堂があります。

次いで右手小田坂の下バス停の所の右手段上が
観音堂跡です。
野登道道標 地蔵堂 明治天皇碑 旧和泉橋親柱

 旧境内には
明治天皇御小休所碑旧和泉橋親柱が保存されています、これで旧和泉橋の親柱全てが確認できました。

 並びに極楽山地福寺があります、その昔は七堂伽藍を備え、多くの道心(仏門に入った人)の修行寺でした。

信長の兵火で焼失後、延宝五年(1677)観音堂に
阿弥陀如来が安置され、歴代亀山藩主が篤く崇敬しました。

地福寺前の
Y字路を斜め左に下ると、県道641号線に突き当たります。

マップでは
右折(赤実線)して、JR関西本線を海善寺踏切で横断し、道なりに進みます。

しかし
県道641号線を横断した先の延長線上に細道(赤破線)を残しています、旧道痕跡と思われます、この細道は井田川踏切でJR関西本線を横断できます、検証してみて下さい。
地福寺 小田旧道トレース

 街道は鈴鹿市から亀山市に入ります。

右手に
観音像祠があります、ここから参道に入ると海善寺があります、本堂の向拝部分は亀山藩の家老を勤めた加藤家の玄関を移築したものです。

井田川駅脇に真新しい
日本武尊像があります、武尊は日本書紀古事記に登場する伝説上の人物で、この地で没しました。

右手の時計塔の所には
旧井田川小学校跡碑二宮金次郎像があります。
観音像祠 海善寺 日本武尊像 旧井田川小学校跡

 国道1号線の川合町北交差点を川合町歩道橋で横断します。

一本目を左折します、この分岐点には亀山宿方面を示す
法悦題目塔、庄野宿方面を示す井田川駅の標識があります、京方面からは右折します。

右手に真宗高田派廻向山
西信寺が現れれば正解です。

椋川(むくがわ)を川合椋川橋で渡ります、往時は椋川が度々氾濫し橋が流された為、亀山藩士の生田理左衛門が私財を投げうって、流を南に変え、橋を架け替えたところから理左衛門橋と呼ばれました。
川合
の地名はこの椋川鈴鹿川が落合うところを由来としています。
川合分岐 西信寺 椋川

 亀山バイパス高架橋をくぐった先の右手に南無妙法蓮華経と髯文字で刻まれた谷口法悦題目塔があります、古くからやけ地蔵さんと呼ばれ親しまれていました。

谷口法悦は江戸中期の日蓮宗の篤信者で、刑死者の供養を発願し、川合刑場跡に題目塔を建立しました。

信号交差点を過ぎると左手に
和田道標があります、元禄三年(1690)の建立で県内東海道道標中最古のもので、亀山市文化財指定です。

道標には「従是 神戸白子若松 道」と刻まれ、亀山藩若松湊への重要路でした。

先の田中病院看板がある
Y字路は右に進みます。
法悦題目塔 和田道標 和田トレース

 Y字路を右に進むと左手にシャングリさんと呼ばれる小さな祠があります、東海道を往来する人々がもたらす悪疫から子供を守っています。

東海道分間延絵図には叉具神と記載されています。

突当りを右折します、京方面からは
Y字路を左に入ります、分岐点には東海道標識があります。

和田町公民館先の左小路口に
道標「井尻道」があります、井尻村への道です、明治中期に亀山で製糸業を始めた田中音吉の寄付により建立され道標です。

右手には天台真盛宗多宝山
福善寺があります、伊勢國鈴鹿郡八十八箇所巡拝第三十七番札所です。
シャングリさん 井尻道道標 福善寺

 街道が上り坂になると右手段上に石上寺があります、延暦十五年(796)新熊野三社が勧請され、その鎮護の神宮寺として創建されました。

源頼朝より寄進された社殿織田信長の伊勢侵攻による兵火で焼失し、明和三年(1766)再建されました、鎌倉から室町時代の古文書二十一点が残され、和泉式部が参詣したと伝わっています。

この辺りから更に急な上り坂になります、右手に
和田の一里塚が復元されています、江戸日本橋より数えて百四里目です。

栄町交差点を越え、亀山ローソク工場を過ぎると右手に
能褒野(のぼの)神社二の鳥居があります。
石上寺 和田一里塚 能褒野神社

 景行天皇の皇子日本武尊は天皇の命により、大和朝廷に従わぬ豪族を九州から東北にかけて征伐し、東国からの帰路、伊吹山の荒ぶる神を倒すため山に入るが、その怒りにふれ病となり下山し、故郷の大和へ向かう途中、能褒野で亡くなり、埋葬した墓から武尊の魂が白鳥となって大和へ飛び去ったと云います。

約3kmの所にある
能褒野王塚古墳は日本武尊の墓とされ、能褒野神社が祀られています。

 PM4:29 亀山宿着 関宿まで5.9km

 能褒野神社二の鳥居脇に従是西亀山宿札があります、亀山宿到着です!

亀山宿は石薬師宿、庄野宿と同様に伊勢参詣の旅人の通行は無く、亀山藩の城下町であり、更に亀山宿は幕府直轄領であった為、その堅苦しさから止宿する参勤大名も無く、はなはだ振るわない宿場でした。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると
亀山宿の宿内家数は五百六十七軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒で、宿内人口は千五百四十九人(男七百九十人、女七百五十九人)でした。

鳥居のスグ先の右手に
露心庵跡解説板があります、天正十二年(1584)神戸正武亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斎はわずか十三騎でこれを撃退した、この合戦の戦死者をここに葬り、関氏一門の露心(ろしん)が仏庵を建立し、戦死者の菩提を弔いました、この仏庵は露心庵と呼ばれました、しかし明治の世になると廃寺となりました。
亀山宿江戸方口 露心庵跡

 宿並に入ると所々の家屋に旧町名旧屋号が書かれた札が掲げられています、有難いですね、宿並は茶屋町から始まります。

信号交差点から右(黄色矢印)に延びる筋が
巡見道です、巡見道はここから北に向かい、菰野(こもの)を経て、濃州道と合流した後、 美濃に入り中山道と繋がる道で、寛永十年(1633)に始まった巡見使が通行した道です。

幕府の
巡見使は諸国の政情、民情などの査察や災害などの実情調査を行いました。

宿並は
鍋町東新町を過ぎるとT字路に突き当たります、ここが江戸口門跡です、延宝元年(1673)城主板倉重常が土塁と土塀で囲まれた曲輪を築き、番所が置かれました。
旧屋号 巡見道 江戸口門跡

 江戸方面からは右折します、京方面からは
第三銀行を佐折します。

 宿並を進み東町交差点を左に下ると、亀山市文化会館の敷地内に「亀山に過ぎたるものが二つある、伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われた伊勢屋のソテツが保存されています、推定樹齢五百年以上です。

宿並に戻ると右奥に真宗高田派松風山
福泉寺があります、山門は正面軒唐破風付入母屋造りの楼門で寛政七年(1795)の築造です。

隣りの真宗大谷派
法因寺の墓所に樹齢三百年以上の左巻きカヤの木があります。

このカヤの樹下に
黒田孝富の墓があります、幕末勤皇派であった孝富は郡代奉行に抜擢され藩政の改革を行ったが、明治元年(1868)反対派に斬殺されました。
旅籠伊勢屋の蘇鉄 福泉寺の山門 黒田孝富の墓

 宿並左手の衣料品店しぼりやの所に椿屋脇本陣跡標識があります、椿屋弥次郎が勤めました。

先に
樋口本陣跡標識があります、樋口太郎兵衛が勤め、東町の問屋場を兼ねていました

脇本陣と本陣の間にソテツで知られた
旅籠伊勢屋がありました。

宿並は
江ケ室交番前交差点を左折します、ここが亀山城大手門跡です、大手門櫓大手門脇櫓で構成された枡形門でした。
椿屋脇本陣跡 樋口本陣跡 江ケ室交番前 亀山城大手門

 江ケ室(えがむろ)交番前交差点を左折すると右手に高札場跡解説板があります、往時はここに大手門前の広場がありました。

宿並は
横町に入り、枡形を越すと、万町になり左手に天台真盛宗延寿山地蔵院遍照寺があります。

山門は鐘楼門で、本堂は亀山城二之丸御殿の式台、書院を移築したもので、本尊は木造阿弥陀如来立像(三重県指定文化財)です。

宿並は
下り坂になります。
高札場跡 枡形 遍照寺 石坂門口

 宿並は
十字路に出ます、宿並は正面(白色矢印)です、左手はJR関西本線亀山駅です、右手(黄色矢印)は亀山城址です。

 それでは亀山城に向ってみましょう、亀山城外堀の池の側(かわ)に沿って進むと池端に亀山城石坂門跡標柱があります、西之丸から二之丸へ通じる枡形門でした。

階段下に
石井兄弟龜山敵討遺跡碑があります、元禄十四年(1701)石井源蔵(三十三歳)半蔵(三十歳)兄弟が、二十八年目に父石井宇右衛門の敵、赤堀水之助(源五右衛門)を討ち取った所です。

正面が
亀山城址多聞櫓が復元されています。

亀山城は徳川の世になると、寛永十三年(1636)
本多俊次が城主となり、城郭の大改修が行われた、三層の天守閣は優美な蝶が舞うように見えたところから粉蝶城(こちょうじょう)とも呼ばれました。
亀山城石坂門跡 石井兄弟敵討跡 亀山城多聞櫓

 池の側の反対の歩道に移って宿並に戻ると、田中病院の所に真新しい伊勢亀山備中松山藩主交替之碑があります、延享元年(1744)伊勢亀山藩主板倉勝澄(かつずみ)は備中松山へ移封となり、石川総慶(ふさよし)が備中松山から亀山に移りました。

田中病院の所を右に入ると
加藤家長屋門があります、松山から亀山藩主に転封となった石川総慶に従ってきた家老の加藤家の屋敷跡です。

十字路に戻り、坂を上り詰めと左手が
西町問屋場跡です、若林家が勤め、東町の樋口本陣と月の内交互に問屋業務を担いました。

元治二年(1865)からは
日野屋に替わっています。
藩主交替之碑 加藤家長屋門 西町問屋場跡

 西町の宿並を進むと右に道標「右郡役所 左東海道」があります、右(黄色矢印)に入ると、突当りに青木門跡標柱があります。

元和元年(1615)
徳川家康が大阪出陣の際、亀山城に宿泊しました、翌日三之丸を出立すると、この辺りに繁茂した青木を見て「おお青木」と称賛したので、青木門と称したと云います。

宿並に戻ると旧かどや跡の所に
飯沼慾斎(よくさい)生家跡標柱があります、慾斎(1783~1865)は西町西村家に生まれ、十二歳で美濃大垣の飯沼家の養子となり、植物学の基礎を拓いた自然科学者です。
青木門口 郡役所道標 青木門跡 飯沼慾斎生家跡

 ①突当りを右折します、分岐ポイントは旧屋号さわやです。

②突当りのT字路を左折します、分岐ポイントは
亀山城西之丸外堀標柱です、ここには亀山城西之丸外堀遺構の一部が保存されています。

西之丸は亀山城の西南部分にあたり、文政六年(1823)には藩校
明倫舎が置かれました、この外堀の外周に東海道が配されました。

堀の基底部分は打ち込んだ
丸太割竹を編みこんだ構造でした。
①西町分岐 ②西町分岐 西之丸外堀 外堀基礎構造

 西新町を下ると右手に柳谷十一面千手千眼観世音菩薩碑があります、ここが亀山城京口門跡です。

坂の下から見上げると
番所が聳え、その姿が壮麗であったところから、「亀山に過ぎたるものが二つあり、伊勢屋蘇鉄(そてつ)に京口御門」と謡われました。

広重は雪景色の亀山城の
京口門を描いています、麓の家並みは野村の集落です。
亀山城京口門跡 京口門古写真 東海道五拾三次之内 【亀山】 雪晴

 滝川京口坂橋で渡ると、右の道下に日蓮宗妙亀山照光寺があります、亀山藩主板倉重冬の養母照光院が元禄二年(1689)に創建しものです。

墓所には亀山城石坂門で
石井兄弟に討たれた赤堀水之助の墓があります、水之助は亀山藩主の家臣の許に身を寄せ、その推挙により禄百五十石を賜り、馬廻り役を勤めていました。

左手の
森家住宅は明治後期の建築で、国有形文化財指定です。

右手の
光妙寺の山門は鐘楼門です。
照光寺 赤堀水之助墓 森家住宅 光明寺

 先の十字路左手に浄土宗亀鶴山無量院慈恩寺があります、本尊の阿弥陀如来立像は国指定重要文化財です。

墓所には幕末亀山藩家老を勤めた
近藤幸殖(さきたね)の墓があります、斬殺された黒田孝富と共に藩政改革に尽力しました。

焼肉長次郎手前の左小路口に
天照皇大神御鎮座跡忍山(おしやま)神社社標があります、日本武尊は東征に際して、忍山神社に立寄り、神主忍山宿禰(おしやますくね)の長女弟橘媛(おとたちばなひめ)をに迎えました。

右手に
野村の一里塚が現存しています、塚木の(むく)は樹齢四百年で、椋の一里塚は全国でもここだけです、江戸日本橋より百五里目で国史跡です。
慈恩寺 忍山神社標 野村の一里塚

 街道の左手に史跡大庄屋打田権四郎昌克(うちだごんしろうまさかつ)宅跡(九々五集編)標柱があります、昌克は亀山藩領八十六ケ村の見聞記九々五集編を編纂しました。

亀山鑿泉(さくせん)工業所先を右折します、京方面からは突当りのT字路を左折になります、この分岐点には東海道案内標識がありますからご注意下さい。

左手に布気皇舘太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)があります、延喜式神名帳に小布気神社と記載された古社で、この地神戸七卿(七ケ村)の総社です。

神社の向いには
能古(のんこ)茶屋がありました、芭蕉は旅の途中、この茶屋に逗留し「枯枝に 烏(からす)のとまりたるや 秋の暮」の句を残しています。
大庄屋宅跡 ①布気分岐 布気皇舘太神社

 街道が下り坂になると左手に観音寺があります、本尊の石山観音西国三十三観音霊場の会合に昼寝をしていて欠席し、選に漏れた所から昼寝観音と呼ばれています。

街道を下ると左からの筋を吸収します、京方面からは
Y字路になります、左に進みます、この分岐点には東海道案内標識常夜燈があります。

この先旧道は
JR関西本線の敷設で通行不可です、黒板塀に白壁の旧家の所を左折し、跨線橋JR関西本線を横断します。
観音寺 ②布気分岐 関西本線迂回路 常夜燈

 跨線橋の坂を上ると右手に安政六年(1859)建立の
常夜燈があります。

 旧道に復帰すると大岡寺畷になります、東海道随一の直線路です、往時は松並木で、里謡に「わしが思いは太岡寺 ほかにき(気)はない 松(待つ)ばかり」と謡われました、今は桜並木になっています。

神辺(かんなべ)小学校を過ぎ、名阪国道東名阪道高架橋をくぐり、大岡寺畷橋を渡り、鈴鹿川に沿って進みます。

冬は冷たい
鈴鹿おろしが旅人を悩ませました、芭蕉はここで和歌にて「から風の 太岡寺畷 ふき通し 連もちからも みな坐頭なり」と詠んでいます。   
大岡寺畷 高架橋群 鈴鹿川 関西本線踏切

 鈴鹿川と別れると
JR関西本線小野踏切で横断します。

 突当りの国道1号線小野川橋東詰交差点にて左折します、但し、横断歩道がここにも、この先にもありませんので後方の亀山市小野町歩道橋で国道1号線を横断します。

小野川小野川橋で渡り、小野川橋西詰交差点先を斜め右に入ります、ここには関宿看板があります。

旧道に入ると左手に
関の小萬のもたれ松があります、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は夫の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、小萬(こまん)を産んだ後病没しました。
小野川橋東詰 関町小野分岐 関宿看板 小萬のもたれ松

 
小萬は母の遺言により、成長すると三年程亀山城下で武術を修行し、天明三年(1783)見事、仇敵軍太夫を討ち本懐を遂げました、鈴鹿馬子唄に「関の小萬の亀山通い、月に雪駄(せった)が二十五足」と唄われ、修行通いの時、村の若者達の戯れを避ける為に、姿を隠して、この松にもたれたと云います。

 PM6:00 関宿着

 緩やかな上り坂の旧道を進むと左手に伊勢神宮一の鳥居が現れます、京方面からの伊勢参りはここから伊勢別街道に入ります(黄色矢印)、ここが東追分で、関宿到着です!

この追分の段上には元文五年(1682)建立の
常夜燈一里塚跡標石があります、関の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて百六里目です。

関にはかつて
鈴鹿の関が置かれ、その門前町が始まりです、関宿は伊勢別街道の東追分、大和街道の西追分、そして難所鈴鹿峠を控え、交通の要衝として大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると、
関宿の宿内家数は六百三十二軒、うち本陣二、脇本陣二、旅籠四十三軒で、宿内人口は千九百四十二人
東追分 常夜燈 一里塚跡

 (男千八人、女九百三十四人)でした。


 宿並は昭和五十九年(1984)国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、宿並から電柱が撤去され、古い町屋約二百軒が修復整備されています。

関宿の宿並は狭く、元禄年間(1688~1703)から伝わる祭り
関の曳山山車が両側の軒先にギリギリであったところが関の山の語源になったと云います、それではそのような宿並に繰り出してみましょう。

鳥居の向いに
岩間家があります、屋号を白木屋と云い、主に東追分で稼ぐ人足や車夫の常宿でした。

町屋の多くの庇の下に
幕板が取り付けられています、これは店先を守る雨除け、霜除けの役割を果しています、伊勢地方特有の建築様式です。
関の宿並 岩間家 幕板のある町屋

 宿並左手の浅野家は旧屋号を江戸屋と云い、米屋、材木屋を営んでいました、店先にはばったりと呼ばれる起倒式の棚があります、椅子にもなりました。

関神社の参道口に
御馳走場跡標石があります、参勤大名宿役人が送迎したところです。

関神社は中世にこの地を支配した伊勢平氏の流れをくむ関氏が紀伊國熊野神社の分霊を勧請し、江戸時代には熊野三所権現と呼ばれました。

百五銀行先の左に
山石があります。
浅原家 御馳走場跡 関神社 食事処山石

 
食事処山石は幕末の建築で料亭でした、ここの二段重箱弁当は品数豊富で、何と780円です!

ここを左折して坂を下ると、JR関西本線
関駅です。

 山石向いの十字路を入ると浄土真宗西本願寺派延命寺があります、山門は明治五年(1872)に川北本陣門を移築したものです。

次の右手小路を入ると曹洞宗河上山
瑞光寺があります、応永四年(1371)の創建で、関氏の菩提寺です。

境内に
権現柿があります、本能寺の変の時、泉州(大阪)に居た徳川家康明智光秀の追手から逃れ、伊賀越えをした際、ここでを振る舞われ、この種が根付いたものと云われます。

宿並に戻ると右手に
桶重(服部家)があります、明治十五年(1882)創業の桶屋です、幕末の建築で、典型的な町屋の構えに復元されています。
延命寺山門 瑞光寺権現柿 桶重 服部家

 左手に関まちなみ資料館があります、文政八年(1863)築の町屋で連子格子は当初のものと云います、資料館として一般公開されています。

次いで右手に
鶴屋脇本陣があります、西尾吉兵衛が代々勤めました。

並びに
問屋場跡標石があります、新所と木崎の二ケ所に人足会所がありました。

問屋場跡には
山車庫があります、関の山の語源になった山車(やま)が格納されています、最盛期には十六基ありましたが、現在は四基が残されています。
関まちなみ館 鶴屋脇本陣 問屋場跡 山車庫

 関の曳山は例年七月下旬の土日曜日に開催されます、ここの中町三番町山車(やま)は白木造りで、天場高欄下に龍の彫刻が施されていますが、全体は質素な造りになっています。

向いの
岩木屋は明治十七年(1884)築、明治から大正にかけて銘酒岩泉の蔵元で、合わせて醤油味噌醸造業を営んでいました。

次いで右手に
川北本陣跡があります、慶長(1596~1615)の頃から明治三年(1870)に廃止されるまで代々川北政辰本陣を勤め、問屋を兼ねました。
中町三番町山車 岩木屋 川北本陣跡 標石

 広重は川北本陣を早立ちする参勤大名の準備の景を描いています。

本陣前には宿泊した大名の名を記した
関札が立てられ、式台には大名駕籠が用意され、その前には足軽が控え、本陣の主がてきぱきと出発準備の指示をしています。

先の左手に
伊藤本陣跡があります、伊藤本陣は間口十一間余で、建坪は二六九坪でした、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺きで、現在残っている街道に面した部分は家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物でした。
東海道五拾三次之内 【関】 本陣早立 伊藤本陣跡 標石

 ジャスト6:00関宿の起点伊藤本陣跡に無事到着です!

宿並にはもう人が居ません、まるで時代劇の撮影が終了した後のセットの様です。

楽しみにしていた山石さんがお休みです、ウーム残念です。

酒屋さんでお酒を調達して、一路
関ロッジに向います、いつも思うのですが、この道筋が本日一番の難所です。

関ロッジはこれで4回目の宿泊になります。

さっそく、風呂に入りそして一杯です、昼の食事の余韻が残っています、今宵はこれで十分です。


国民宿舎関ロッジは平成27年3月31日を以って廃業となりました。



前 藤川 ~ 宮 次 関 ~ 石部