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サア、七里の渡しを越えて、いよいよ勢州桑名入りです。 東海道ビギナーの方はこの七里の渡しにこだわってしまうのです、私も当初はそうでしたから、良く解かります。 江戸日本橋から歩き続け、この七里の渡しで歩みが途切れてしまう不安を感じてしまうのです。 そこでこだわってしまうのが佐屋街道です、しかしながらこの街道をトレースしても佐屋宿からは三里の渡しが控えているだけです。 七里の渡しは電車渡しでサクッと桑名に渡ってしまいましょう、これが王道です。
前回、藤川宿~宮宿間の道中記を1月12日にアップしてから三日連続の晴れ日を待ち望んでいました、やっと好日到来、決行です。 残念ながら直前の為に夜行バスは満席です、そこで前回同様にフォーメーションSの投入です。 前日の夜に東海道本線の普通列車で名古屋駅に転進します、今宵はサウナニューグランド仮泊です。 招待券をHPからプリントアウトして持参すれば500円割引になります。 翌朝は吉野屋の牛丼で腹を満たし、近鉄名古屋線の始発5:30鳥羽行に乗車すれば5:55桑名駅に到着です。 桑名駅を出たら左(北)に進み、桑名グリーンホテルの角を右折して八間通を進みます。 薩摩義士の墓所がある海蔵寺を過ぎ、寺町通りの先、柿安を左折すれば七里の渡し跡です。
二千五百四十四軒、うち本陣二、脇本陣四、旅籠百二十軒で、宿内人口は八千八百四十八人(男四千三百九十人、女四千四百五十八人)でした。
京方面からは突当りの京町毘沙門天堂前を右折します。
③一本先を左折します、ここにも東海道矢印道標があります。
天保十三年(1842)に建立された追分道標「右 きゃういせみち 左 ふなばみち」で、元は新町の北端にあったものです。 新町は慶長年間(1596~1615)の城下町割りにより新しく開発された町でした。
新政府より桑名藩に、戦争の責任者の差し出しが命ぜられ、森陳明は藩の全責任を一身に背負い、明治二年(1869)十一月十三日、江戸深川の桑名藩邸で切腹して果てました。
ここが七曲り見附跡です、ここは桑名城下南端の見附で、門と番所がありました、七里の渡しから七度曲がったところから門は七曲御門と呼ばれました。
街道に面して寛政十二年(1800)建立の善光寺一躰分身如来があります、ここは古刹本願寺跡です、往時、この辺りは本願寺村と称しました。
矢田町交差点を越すと右手に浄土真宗本願寺派走井山善西寺があります、戦国時代、走井山に矢田城がありました、城主の矢田俊元は織田信長に敗れ廃城となった、孫の利勝が出家して善西寺を創建しました、寺号は祖父の法号でした。
御菓子司ゑびすや先の右手に神戸岡神社(ごうどおかじんじゃ)があります、明治二十九年(1896)の神社統合令により立坂神社に合祀されたが、里人の要望により再度この地に遷座されました。
伊勢神宮の一の鳥居は式年遷宮後、七里の渡しの鳥居となり、七里の鳥居は当社の鳥居となります。
一本目を左折します、ここが旧道の復帰ポイントです、電柱にみえ歴史街道東海道があれば正解です。
田園風景が広がる長閑な桜並木の街道を進むと、正面に伊勢湾岸自動車道の高架橋が迫ってきます。
突当りのY字路を左に進みます。
永禄年間(1558~70)城主伊勢春日部家春の時、織田信長の家臣滝川一益の攻めにより落城となりました。
宗勝は平安時代末期、後鳥羽院守護職として、この地富田郷木下を治めました。
明治四十三年(1910)軍事演習見学の為、西下した皇太子時代の大正天皇が、ここを通行した記念碑です。
この辺りが富田の立場跡です、立場名物は焼き蛤(はまぐり)でした、桑名は本来、佃煮の時雨蛤(しぐれはまぐり)が名物でしたが、桑名の名物と信じる旅人がここで焼き蛤を薦められると「その手は桑名の焼き蛤」となりました。
この地に疫病が蔓延した時、弘法大師が薬師如来を彫り、開眼供養すると、たちまち難病は平癒しました。
茂福城主茂福盈豊(もちぶくみつとよ)は織田信長に謀殺され、茂福城は落城となりました、盈豊の遺児は家臣に匿われて逃れ、その子孫が證圓寺の住職となりました。
森医院先の右手に志氐(しで)神社があります、天武天皇が伊勢神宮を遥拝した際に、しで(幣帛)を奉納したことが社名の由来になっています、天正年間(1573~92)豊臣秀吉が当社に戦勝祈願を行っています。
この分岐点には道標國寶元三大師(がんざんだいし)道があります。 天台宗の古刹垂坂山観音寺への道です、本尊は木造元三慈恵大師座像です、元三大師は天台宗中興の祖良源のことで、地元では元三さんと呼ばれ、親しまれています。
右手に浄土真宗本願寺派法泉寺があります、明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いに敗れた桑名藩は恭順し、幼い藩主万之助(松平定教)は四日市の新政府軍陣営に出頭し、法泉寺に幽閉されました。
宿内人口は七千百十四人(男三千五百二十二人、女三千五百九十二人)でした。
慶長八年(1603)代官の水谷九左衛門光勝が建設し、天領である四日市を支配しました。
近鉄四日市駅前の中央通りを横断します、この辺りが四日市宿の京方口(西口)と思われます。
右手の大宮神明社は永禄五年(1562)の遷座です、例年六月三十日に輪くぐりの神事が行われます、茅の輪をくぐると夏負けしないと伝わっています。 二つ目の信号交差点先の一本目、四日市名物団扇最中の大平屋手前を右に入ると、右手に水沢道標「猿丸太夫名歌古跡すい澤へ是ヨリ三里」があります。 更に進むと大聖院があります、本尊の不動明王は源頼義の念持仏で、前九年の役(1051)に際して、仏師定朝に彫らせたものです(国重要文化財)。
信号交差点を越すと右手に日永神社があります、元は南神明社と云い、神戸(かんべ)藩主本多家の崇敬が篤かったと云います。
Y字路の左が伊勢神宮への伊勢参宮道です、右が東海道です。
追分は間の宿で鳥居を中心に旅籠と茶屋が軒を連ね、追分まんじゅうが名物でした。
続いて慈源寺観音寺があります、織田信長の寺院破壊の際に類焼しましたが、本尊の千手観音像は村人達によって守られ、文化三年(1806)に再建された本堂に安置されています。 山門の四脚門は寛政十二年(1800)の建立で、屋根の両端に異国風の魔伽藍(まから、鯱状の棟瓦)を上げています。
願誓寺の参道口手前を左折します、京方面からは右折になります。
次いで十字路を左折します、電柱に杖衝坂標識があります、京方面からは右折になります、同様に電柱に杖衝坂標識があります。
坂の途中の石垣の上には史跡杖衝坂碑があります。
弘法大師が掘り当てた井戸です、下手が大日の井戸です、坂の中腹左手にあった大日堂に供える閼伽水(あかみず)を汲み上げた井戸です。
采女食堂の向い、国道1号線を挟んだGS IDEMITSUの所に史蹟采女一里塚跡碑があります、江戸日本橋より数えて百一里目です。
この交差点は地下道で横断します、地下道を出たら国道1号線右側の歩道を進みます。
この為、旅人の数は少なく宿場経営は厳しかったと云います。 天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると石薬師宿の宿内家数は二百四十一軒、うち本陣三、旅籠十五軒で宿内人口は九百九十一人(男四百七十二人、女五百十九人)でした。
天野修一はタイムレコーダーで名高いアマノ(株))の創業者です。
寿永年間(1182~84)蒲冠者源範頼が平家追討の為、西に向かう途中、石薬師寺に戦勝祈願し、鞭にしていた桜の枝を地面に差したのが芽吹いたと云います。
関西本線の檜山橋りょうガードをくぐり、右折します、庄野宿→↓石薬師宿案内板があります。
この合流ポイントの左手には←石薬師宿 庄野宿→案内標識、右にはSANKEI工業があります。 京方面からは右手のGS Shellが分岐ポイントです、国道1号線から斜め左の旧道に入ります。
この分岐点には→庄野宿資料館標識があります。
郷会所は助郷の割当てを受けている各村の代表者(庄屋または肝煎)が集会する場所でした、庄野宿資料館には助郷人馬減免の陳情書の控え等が保管されています。
剛な者はこのフェンスを乗り越えて旧道(黄色矢印)に復帰すのも可能です。 自信がが無ければ国道1号線に沿って進み、一本目を左折(白色矢印)します。
広瀬の地には伊勢国府が置かれていました。
旧道復帰点にある和泉公民館の敷地内には旧和泉橋親柱が保存され、地蔵尊が祠に安置されています。
旧境内には明治天皇御小休所碑や旧和泉橋親柱が保存されています、これで旧和泉橋の親柱全てが確認できました。
景行天皇の皇子日本武尊は天皇の命により、大和朝廷に従わぬ豪族を九州から東北にかけて征伐し、東国からの帰路、伊吹山の荒ぶる神を倒すため山に入るが、その怒りにふれ病となり下山し、故郷の大和へ向かう途中、能褒野で亡くなり、埋葬した墓から武尊の魂が白鳥となって大和へ飛び去ったと云います。 約3kmの所にある能褒野王塚古墳は日本武尊の墓とされ、能褒野神社が祀られています。
江戸方面からは右折します、京方面からは第三銀行を佐折します。
宿並は十字路に出ます、宿並は正面(白色矢印)です、左手はJR関西本線亀山駅です、右手(黄色矢印)は亀山城址です。
跨線橋の坂を上ると右手に安政六年(1859)建立の常夜燈があります。
鈴鹿川と別れるとJR関西本線を小野踏切で横断します。
小萬は母の遺言により、成長すると三年程亀山城下で武術を修行し、天明三年(1783)見事、仇敵軍太夫を討ち本懐を遂げました、鈴鹿馬子唄に「関の小萬の亀山通い、月に雪駄(せった)が二十五足」と唄われ、修行通いの時、村の若者達の戯れを避ける為に、姿を隠して、この松にもたれたと云います。
(男千八人、女九百三十四人)でした。
食事処山石は幕末の建築で料亭でした、ここの二段重箱弁当は品数豊富で、何と780円です! ここを左折して坂を下ると、JR関西本線関駅です。
宿並にはもう人が居ません、まるで時代劇の撮影が終了した後のセットの様です。 楽しみにしていた山石さんがお休みです、ウーム残念です。 酒屋さんでお酒を調達して、一路関ロッジに向います、いつも思うのですが、この道筋が本日一番の難所です。 関ロッジはこれで4回目の宿泊になります。 さっそく、風呂に入りそして一杯です、昼の食事の余韻が残っています、今宵はこれで十分です。 ※ 国民宿舎関ロッジは平成27年3月31日を以って廃業となりました。
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