道中日記 10-175 中山道 ( 本庄 - 松井田 ) 42.1km

 私の生れは上州は
群馬です、父方の実家は玉村に近く、母方の実家は新町寄りでした。

子供の頃、里帰りすると利根川を渡り、玉村の
八幡さまで遊んだり、烏川を渡って新町駅に到着する蒸気機関車を見に行ったことを覚えています。

街道ウォークに興味を持つと、新町は中山道の宿場、玉村は日光例幣使街道の宿場であったことを知りました。

そして育った所は
東海道の宿場であった川崎、そして現在の住まいは神奈川宿の近くです。

この様な
街道繋がりがDNAの中にあるのかもしれません。


 
 サア、今回は私の生れ故郷の上州に入ります、平坦な街道はここまでです。

陽も大部短くなっています、
アップテンポで行きましょう。

そのような訳で、今朝も
カレーです、今回はすき家にしてみました。


 平成21年11月15日 AM6:45 本庄宿出立 新町宿まで8.9km

 本庄駅入口交差点が本日の出立点です、 二と七の日に六斎市が立ち賑わった宿ですがまだ眠りの中です。

右手の埼玉りそな銀行辺りが
田村本陣跡です、田村作兵衛が勤め、北本陣とも呼ばれました、、建坪二百坪、門構え玄関付で間口五間の専用通路をもち奥に門があり、入口前には高札場がありました。

次いで右手商店のシャッターに盲目の国学者
塙保己一(はなわほきいち)の肖像画が描かれています、脇には本庄の偉人「世のため 後のため」と書き添えられています。

七歳で失明、志を立て、
賀茂真淵の門を叩き、国学を学び群書類従(ぐんしょるいじゅう)を著しました、塙保己一は三重苦のヘレンケラーの手本であったといいます。
本庄駅入口 田村本陣跡 塙保己一画像

 ある夜、保己一が講義をしていると風が吹きローソクの火が消え、弟子達が慌てふためいていると、保己一が「目あきとは不自由なものじゃ」といったといいます。

は甲州道中の東京都新宿区若葉二丁目の愛染院にあります。

 右手に戸谷八があります、戸谷八郎左衛門が永禄三年(1560)に創業した老舗です、関東一の豪商でした。

向いには創業元禄二年(1689)の
廻船問屋岸屋があります。

左手の東和銀行と足利銀行の辺りが
内田本陣跡です、内田七兵衛が勤め、南本陣とも呼ばれました、建坪二百五坪、門構え玄関付きで、敷地三反三畝十歩でした。

足利銀行先右手に入ると
仲町愛宕神社があります、天正十九年(1591)本庄
戸谷八 岸屋 内田本陣跡 仲町愛宕神社

城主
小笠原信嶺(のぶみね)が勧請したものです、参道脇には御神木のケヤキが聳え、根方には万延元年(1860~61)建立の庚申塔等があります。

 愛宕神社から戻る際、飯塚医院の所から右奥に進むと臨済宗妙心寺派畳秀山開善寺(かいぜんじ)があります。

天正十九年(1591)本庄城主
小笠原信嶺が開基し、 球山宗温(きゅうざんそうおん)和尚の開山です。

和尚は城主信嶺の夫人久旺院尼(くおういんに)の兄で、武田信玄の弟武田逍遥軒の子で、仏門に入り甲斐国永岳寺にあったが、 信嶺に招かれ当寺を開山しました。

南側の古墳上に
小笠原信嶺夫妻の墓があります、天正十八年(1590)家康より本庄城を賜り、本庄領一万石を領しました、慶長三年(1598)五十二歳で亡くなりました。

当寺は
本陣田村家の菩提寺で、歴代の墓があります。
開善寺 小笠原信嶺夫妻墓 本陣田村家墓所

 宿並を進み中央3丁目交差点を右に入り、信号交差点を右折すると左手に田村本陣門が移設されています本庄市指定文化財です。

皇女和宮は十一月十一日この門をくぐり、田村本陣にて二十日目の夜を過ごしました。

奥に明治十六年(1883)築の
旧本庄警察署があります、埼玉県指定有形文化財です、今は歴史民俗資料館になっています、入館無料です。

信号交差点に戻り、更に進むと右手に文明七年(1475)創建の曹洞宗若泉山無量寺
安養院があります。

武蔵七党の一つ児玉党の頭
本庄信明の弟藤太郎
田村本陣門 旧本庄警察署 安養寺

仏門に帰依し、
水不足に悩むこの地に開基しました、すると付近の水不足は無くなり若泉の庄と呼ばれるようになりました、慶安二年(1649)には徳川幕府より二十五石の朱印地を拝領しました。

 安養院の裏手に木曽御嶽講の祖普寛(ふかん)上人の墓があります、木の実を常食としたところから木喰(もくじき)普寛上人とも呼ばれました。

享和元年(1801)本庄宿泉町
米屋弥兵衛宅で亡くなり、安養院に葬られました。

宿並に戻ると左手に深谷の
レンガを使用した明治二十九年(1896)築の旧本庄商業銀行煉瓦倉庫(国登録有形文化財)があります、本庄町は幕末から(まゆ)の集散地として栄え、融資の担保となった大量の繭を保管しました。

煉瓦倉庫の裏手に曹洞宗
泉林寺(せんりんじ)があります、武州本庄七福神の福禄寿を祀っています、長寿と健康を授ける神で寿老人(じゅろうじん)とも書かれます。
普寛上人墓 旧本庄商業銀行跡 泉林寺

 宿並の右手に金鑚(かなさな)神社があります、宿の京(西)口に位置し、本庄の総鎮守です。

欽明天皇二年(541)創建の古刹で武蔵七党の一つである
児玉党の氏神で、本庄城主歴代の崇敬が篤かったといいます。

本殿は享保九年(1724)、拝殿は安永七年(1778)、幣殿は嘉永三年(1850)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施されています。

黒門は本庄市指定文化財です。

御神木の
クスノキは埼玉県指定の天然記念物です、これは本庄城主小笠原信綱の孫にあたる
金鑚神社 黒門 クスノキ

(ただたか)が嘉永十六年(1639)社殿改修時に献木したものです。

 金鑚神社先の千代田3丁目交差点左は下仁田街道です、富岡、下仁田を経て信州岩村田宿に至る脇往還です、千曲川に架かる中山道塩名田橋が流失すると、この街道が迂回路となりました。

又、
女改めが厳しい横川関所を避けて信州善光寺に詣でる女性達が通行したところから上州姫街道とも呼ばれました。

中山道は
交差点を右折し、国道462号線に入ります、交差点のスグ先に旧道痕跡を残しています。

先の
本庄高尾歩道橋手前を左折します、
千代田旧道 旧道南口 旧道北口 佛母寺

歩道橋の右手には高野真言宗準別格本山龍蓋山
佛母寺(ぶつもじ)があります、金鑚神社の別当寺でした。

 右手の松崎接骨院先で県道392号線(白色矢印)に合流します、京方面からはY字路を左に進みます。

小島4丁目交差点を右に入って、少し進むと右手に真言宗唐鈴山薬師院
長松寺(ちょうしょうじ)があります、本尊は十一面観世音菩薩です。

寺域の一部は武蔵武士の一つ
丹党(たんとう)の一族小島氏の居館跡で土塁や空堀を残しています。

更に進むと
唐鈴(とうれい)神社があります、遣唐使として唐に渡った大伴宿根古麿(おおとものすくねこまろ)が帰国の折、唐の玄宗皇帝より渡海安全のため金鈴(きんれい)を授かりました、その後、古麿はこの地に館を構え、社を創建しこの金鈴を祀り、唐鈴(とうれい)と称しました。
小島分岐 長松寺 唐鈴神社

 街道に戻って進むと、押ボタン信号交差点を渡った右手に平成七年(1995)建立の馬頭観世音文字塔があります、交通安全と刻まれています。

一本先を右に入ると
諏訪神社があります、諏訪大明神古墳の頂に鎮座しています、鳥居脇には安永元年(1772)建立の廿二夜塔等があります。

コンビニセーブオンがある信号交差点を左に入ると左手に
二柱神社があります。

天正元年(1573)
武田信玄没後、正室の三条陽雲院はこの地に移り住み、堂宇を建て信玄の聖天(しょうてん)を安置し四門堂聖天宮と呼ばれました、明治に入ると神仏判然令により二柱神社と改称されました。
馬頭観音 諏訪神社 二柱神社

 万年寺に万年寺の一里塚があったといいますが、遺構は無く位置は不明です、江戸日本橋より数えて二十二里目です。

信号交差点先の右手の民家の庭内に
明冨士霊神碑があります、富士山信仰のものでしょう。

街道は
本庄市万年寺から児玉郡上里町神保原に入ります、明治になると石神村、忍保村、八丁河原村が合併し、三文字をとって神保原となりました。

先に進むと左手に
浅間山古墳があります、直径約38m、高さ約6mの円墳で、古墳時代末期の築造です、塚上には角閃石案山岩を使用した胴張両袖型横穴式石室があり、入口脇に浅間神社石祠が祀られています。
明冨士霊神 浅間山古墳 浅間神社&石室

 浅間山古墳の向いに御影石の中仙道碑があります。

先の右手に
泪橋跡があります、諸大名の参勤通行のたびに助郷の苦役を強いられた農民が嘆きのあまりこの橋のところで泪を流したといいます、ここには泪橋の由来碑庚申塔があります。

御陣場川楠森橋(くすもりはし)で渡ります、流末は元小山川に落合います、ここには立場がありました。

押ボタン信号交差点を越すと右手に
庚申塔があります。
中仙道碑 泪橋跡 御陣場川 庚申塔

 向いにも庚申塔が祀られています、この辺りは旧石神村で赤城山を望む立場でした。

突当りの
神保原1丁目交差点を右折します。

次いで
神保原(北)交差点にて国道17号線を横断します。

左手に
開運薬師如来を安置する祠があり、寛政十二年(1800)建立の庚申塔等の石仏石塔が多数あります。

向いの関東フローズン脇には自然石
庚申塔 神保原(北) 薬師如来 庚申塔

庚申塔があります。

 金下公会堂を越すと右手に金久保(金窪、かなくぼ)神社があります。

大永五年(1525)金窪城主
斉藤盛光が鎌倉の鶴ケ岡八幡宮を城内に勧請したことに始まり、神流川合戦で焼失、その後元和年間(1615~24)村民がこの地に八幡宮を遷座し、金窪村の鎮守としました。

拝殿の
天井絵は文久三年(1863)狩野派の絵師祥雲斎俊信によるもので、中央の雲龍の回りに六十六枚の花鳥画が描かれています。

鳥居脇には
高札場がありました。

スグ先の左手に標識
金窪城趾→があります、それで
金久保神社 天井絵 金窪城趾案内

は右(黄色矢印)に入ってみましょう、以前は曲がり角に
史蹟金窪城址入口標石がありましたが無くなっています。

 踏み込むと左手に天台宗金窪山法西寺があります、上州上陽村飯塚光琳寺の末寺です、境内には多数の石仏石塔があります。

萠美(もえみ)保育園の二本先を左折すると
金窪城址があります、神流川烏川が落合う位置の金久保金窪と呼ばれ、上野武蔵の國境にあり要害の地でした。

平安末期に
加治家季(いえすえ)が築城し、新田義貞が修築、その後斉藤実盛の子孫が居城したが、神流川の合戦で落城しました、家康の世になると武田信玄の甥である川窪信俊が入城するも、丹波転封により廃城となりました。

街道に戻って進むと右手に
三国道入口標石があります、新町宿への直路が出来るまではここから北に進み角渕(つの
法西寺 金窪城址 三国道入口

ぶち)を経て
倉賀野宿へ向かっていました、伊香保道とも呼ばれました。

 次いで左手に曹洞宗崇栄山陽雲寺があります、元久二年(1205)の創建です、当初満願寺と称し、金窪城主斎藤定盛が帰依し、講堂を修復し崇栄寺と改称しました。

天正十年(1583)
武田勝頼の自刃によって武田家は滅亡しましたが、信玄に一目も二目も置く家康は信玄の甥川窪信俊を取り立て、この地の所領八千石を与えました。

信俊は養母である武田信玄の正室三條の方を伴って入封し、信玄夫人は境内に居住し、元和四年(1618)に没しました、信俊は菩提を弔うため、法号である陽雲院をとって寺号を崇栄山陽雲寺と改称しました、元和五年(1619)には徳川幕府から御朱印五石が寄進されました。

参道脇に
新田義貞の家臣で金窪城主であった畑時能(とき
陽雲寺 陽雲院墓 畑時能供養祠

よし)と、その従臣児玉五郎左衛門光信供養祠が祀られています、この二つの石祠は両者の姓を取り畑児塚(はたごづか)と呼ばれました。

街道に戻ると右手に
贈正四位畑時能公首塚舊蹟碑があります、畑時能新田義貞の家臣で四天王随一といわれ、新田義貞の戦死後も南朝方と戦い、暦応二年(1339)越後國で足利方に討たれました、従臣の児玉五郎左衛門光信は、主君の首級を携え敵陣を突破し、ここに葬りました。

左手の賀美(かみ)公民館前には
中山道解説があります。

右手の
慰霊之碑、次いで賀美小学校を過ぎると
畑時能首塚 慰霊之碑 石仏石塔

右手に寛政十二年(1800)建立の
庚申塔、文久二年(1862)建立の如意輪観音像等が並んでいます。

 次いで右手に御堂があり、傍らに一里塚跡碑があります、勝場の一里塚跡です、江戸日本橋より二十三里目です。

勝場の地名は神流川の合戦で勝利した後北条軍が勝鬨(かちどき)を挙げたところに由来しています。

旧道は
勅使河原(てしがわら)(北)交差点にて国道17号線に吸収されます、京方面からは斜め左に入ります。

先を左に入り、JR高崎線をくぐると臨済宗円覚寺派勅使山
大光寺があります、境内に本庄側に建立された見透燈籠が移設
勝場の一里塚跡 一里塚跡碑 勅使河原(北) 見透燈籠

されています、
神流川(かんながわ)は暴れ川で出水の度に川筋を変え、伝馬や旅人は難渋しました、そこで文化十二年(1815)本庄宿の豪商戸谷八の戸谷半兵衛神流川の渡しの見透し線上に燈籠を設置しました。

 神流川(かんながわ)を神流川橋で渡ります、親柱には見透燈籠のレプリカが飾られています。

神流川は三国山の北麓に源を発し、流末は烏川に落合います、平水時の川幅は十三間でした、この川は武蔵(埼玉県)と上野(群馬県)の國境で、橋上からは右(北)に名月赤城山の山容が望めます。

英泉は
本庄宿として神流川の渡し場風景を描いています、右手に本庄側の見通燈籠、中州までは仮橋、中州から新町側は舟渡し、そして遠景に上毛三山の妙義山、榛名山、赤城山を描いています。
神流川 支蘇路ノ驛 本庄宿 神流川渡場 英泉画

 神流川橋を渡り、押ボタン信号交差点で向かいに側にシフト、ここから本庄方面に伸びている土道(黄色矢印)が旧道痕跡です。

旧道痕跡を進むと左手に
奉庚申供養と刻まれた庚申塔があります、 ここから先は川原で神流川の渡し場跡です。

反転し、再び交差点を渡ると
神流川古戦場跡碑があります。

天正十年(1582)
織田信長が本能寺に倒れると、家臣の厩橋(前橋)城主瀧川一益は信長の仇を討たんと、一万六千
神流川橋親柱 旧道痕跡 庚申塔 神流川古戦場跡碑

の兵を率いて出陣、これに対し好機至れりと
北条氏政は五万の大軍を進め、両軍は神流川原で激突し、瀧川軍は戦死者三千七百六十名を出し敗退しました、盛夏の中の戦いでした。

神流川古戦場跡碑の傍らには明和年間(1764~71)造立の
馬頭観音像が祀られています。

 AM8:54 新町宿着 倉賀野宿まで7.1km

 国道17号線を進み、陸上自衛隊新町駐屯地先のY字路を斜め右(白色矢印)の県道131号線に入ります。

この分岐点には
中山道丸太道標「→新町宿」と見透燈籠があります、文化十二年(1815)新町宿の浄財で建立され、金毘羅大権現と刻まれた見通燈籠を復元したものです、実物は群馬県高崎市大八木町の諏訪神社に移設されています。

この辺りが新町宿の江戸(東)口です、
新町宿に到着です!

新町宿は上野七宿の東口にあたり、神流川の渡しを控え、宿場がないと何かと不便とのことで、承応二年(1653)落合村笛木村を合わせて新町宿が成立しました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、新町宿の宿
新町宿東口分岐 新町宿標柱 復元見透燈籠

内家数は四百七軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠四十三軒で、宿内人口は千四百三十七人(男七百十三人、女七百二十四)、小宿ながら飯盛ははなはだ盛んでした。

 宿並に入ると右手に八坂神社があります、往時鳥居脇にはの大樹があり柳の茶屋がありました、鳥居脇に宿の俳人達が天保十年(1839)に建立した、柳にちなむ芭蕉句碑「傘(からかさ)に おしわけ見たる 柳かな」があります。

次いで
諏訪神社があります、笛木村の鎮守であったものを宝永五年(1708)この地に移したものです。

境内に
小林穣洲寿蔵(じょうしゅうじゅぞう)之碑があります、文政九年(1826)新町生まれの書家で、浄泉
八坂神社 芭蕉句碑 諏訪神社 小林穣洲寿蔵之碑

に小学校の前身となる懇信社を開設し、子弟教育に情熱を注ぎました、隷書、草書の名品を残しています。

 並びに明治天皇御製「とこしえに 國まもります 天地(あめつち)の 神のまつりを おろそかにすな」があります。

神楽殿の裏には二基の
石鳥居が保存されています、一基は元禄十五年(1702)銘で新町最古の鳥居です、もう一基は二十四年後の建立です、共に明神鳥居の特色である笠木(かさぎ)の曲線が優美なものです。

並びに真言宗智山派笛木山
専福寺があります、万治三年(1660)の創建で本尊は不動明王です、墓地には江戸和算の権威で関流八傳の一人と称された田口文五郎
明治天皇歌碑 保存鳥居 墓所標石 専福寺

信武の墓があります。

 並びの浄土宗浄泉寺は天正二年(1574)の創建で、本尊は阿弥陀如来です。

境内の
大イチョウは高さ約25m、周囲約5.2m、推定樹齢四百年で高崎市指定文化財天然記念物です。

宿並を進むと右手の笠原宅門扉内に標柱
新町宿の高札場跡があります、宿東口からここまでが笛木新町、ここから宿西口までが落合新町、この両町の境に設置されていました。

先の十字路を右に入ると左手に木造瓦葺き平屋の
明治天皇新町行在所建物があります、高崎市指定文化財です。

明治天皇は明治十一年(1878)北陸東海巡幸の際、ここに宿泊しました。
浄泉寺大イチョウ 高札場跡 明治天皇行在所

 更に進むと左手に日蓮宗妙見寺があります、参道口に髯文字の南無妙法蓮華経題目碑があります。

右手に
於菊稲荷神社があります、神流川の合戦に際し、北条氏政は守護神の稲荷大明神に戦勝祈願をすると、白狐が現れ勝利を収めました、氏政は小祠を立派な社殿に再建して篤く信仰したといいます。

宝暦年間(1751~63)旅籠大黒屋の飯盛
於菊は美貌で気立てが良く、評判でしたが不治の病に罹り、境内に小屋を建て、三年間一心に信心すると稲荷神が現れ、病が完治、於菊は感謝し巫女となりました、以来於菊稲荷と呼ばれるようになりました。

拝殿には奉納された絵馬
武者絵遊女参詣が掲げ
妙見寺 於菊稲荷神社 水屋

られています。

水屋は文政六年(1823)新町の人々の浄財により建立され、手水鉢石冰香(ひょうこう)は寛政の四大詩人大窪詩仏(おおくぼしぶつ)の筆跡で高崎市指定文化財です。

 新町宿の起点である新町駅入口交差点を越すと左手に史跡旅篭高瀬屋跡碑があります。

文化七年(1810)
小林一茶がここに投宿したところ、見透燈籠建立の浄財を強要され、なけなしの十二文を取られています、一茶はこの時の様子を「手枕や 小言いうても 来る蛍」とひねっています。

次いで左手に真言宗豊山派落合山
宝勝寺があります、天文十一年(1542)の創建です、本陣を勤めた小林家の菩提寺で墓地には歴代の墓があります。

奥に
新町八幡宮があります、祭礼には元禄四年(1691)再建の際に造られた獅子頭による天神の獅子舞が奉納されます。
旅籠高瀬屋跡 宝勝寺 新町八幡宮

拝殿には宿内の
飯盛が奉納した絵馬が掲げられています。

 宿並に戻ると左手に小林本陣跡標柱があります、建坪は百三十五坪でした。

向いには
久保本陣がありましたが遺構は残されていません、天保十三年(1842)の大火で全焼し、後に再建され、皇女和宮の休息所となりました。

先に進むと左手に
ケヤキの巨樹があり、天明三年(1783)建立の弁財天が祀られています、往時は温井川(ぬくいがわ)の中の島に祀られていました、中の島には清冽な清水が湧き出て、旅人の喉を潤しました。

境内には安政二年(1855)建立の
芭蕉句碑
小林本陣跡 弁財天のケヤキ 弁財天 芭蕉句碑

「むすぶより はや歯にひびく しみずかな」や安政五年(1858)建立の
道祖神庚申塔があります。

 温井川弁天橋で渡ると立石新田に入ります。

広重は温井川上流からこの
弁天橋を描いています、街道上の家並みは立石新田村です、左側の遠景に描かれた山は木曽名所図会に「左の方に赤城山見ゆ 富士峯に似たり」と著されている赤城山です。

新町宿は
養蚕が盛んな宿場でした、養蚕の作業は主に婦人が従事し、機織り(はたおり)も同様でした、家計の主導権はシッカリ女房が握っていました、これが為、男は余り働かず「上州名物はカカア天下空風(からっかぜ)」と揶揄されました。

又、上州男は「皐月の鯉の吹流し 口ばかりにて腸(はらわた)は無し」ともいわれました。
木曽街道六拾九次之内 新町 広重画

 温井川弁天橋で渡ると新町から立石新田に入ります、立石新田には桑畑が広がり、養蚕が盛んでした。

弁天橋先の
Y字路を斜め右に入ります、この分岐には旧中山道標識があります。

先の右手に
伊勢島神社があります、 参道口の常夜燈は天保五年(1834)の建立です、境内には道祖神庚申塔等があります。

次いで右手に豪壮な
川端家住宅があります、屋敷は国有形文化財です、江戸時代の豪農であり、明治の世になると生糸
弁天橋分岐 伊勢島神社 川端家住宅 信迎庵

の貿易で財を成しました。

先の右手に
信迎庵があります、境内には宝暦十三年(1763)建立の橋建立供養塔や大正十五年(1926)建立の大洪水溺死請聖霊供養塔があります、烏川(からすがわ)の氾濫で亡くなった人々を供養したものです。

 関越道高架を本庄46隧道でくぐり、先のY字路(白色矢印)を左に進みます。

立石新田旧道の舗装路の中央には
用水が走っています。

旧道を進み、先程の弁天橋分岐ポイントで分かれた
県道178号中島新町線に合流する手前の電柱の所から土手を上りサイクリングロード(高崎伊勢崎自転車道)に合流します。

後方の河川敷には
お伊勢の森があります、ここには伊勢嶋村があり、伊勢大神宮を勧請して村の鎮守としましたが、烏川
関越道 立石新田旧道東 立石新田旧道西 お伊勢の森

氾濫に見舞われ廃村となりました。


 土手上のサイクリングロードからは上毛三山(赤城山、榛名山、妙義山)の各山容がパノラマ状に広がっり絶景です。

しばらく進み、土手道の標識
自転車及び歩行者専用の手前から土手を下ります。

下りきった所を①左折して
中島の集落に入ります。

突当りの②
生垣を右折します、京方面からは有坂宅前のT字路を左折し、突当りの土手道に上がります。
土手道 中島旧道東口 ①中島旧道 ②中島旧道

 旧中島村柳瀬の舟渡しを控えた立場でした、又村内には中島の一里塚がありましたが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて二十四里目です。

道なりに進むと
カーブミラーのある③T字路に突き当たります、ここを右折します、京方面からは中島宅が左折ポイントです。

やがて旧道は
烏川の土手に突当ります、ここには旧中山道標識があります。

土手を越えた延長線上が
柳瀬の舟渡し場跡です、 渡しの権利は新町宿の小林伊左衛門が掌握し、馬舟五艘、平田舟二艘が従事し、
旧中島村 ③中島旧道 旧中山道標識 中島旧道西口

渡賃は一人につき十文、荷駄一駄十四文、武士は無賃でした、
烏川柳瀬川とも呼ばれました。

突当りの土手下を左折(黄色矢印)し、再び
土手道を進みます。

 土手道のサイクリングロードをモクモクと進み、今は柳瀬橋の歩道橋で烏川を渡ります。

烏川は群馬県高崎市倉渕町(旧倉渕村)の鼻曲山(はなまがりやま)に源を発し、碓氷川鏑川(かぶらがわ)、神流川を吸収し、流末は利根川に落合います。

橋上からは斜め右手に
赤城山の山容が一望です、関所破りの罪で赤城山に立て籠もった国定忠次(くにさだちゅうじ)は縛吏が迫ると、例の「赤城の山も今夜限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て、国(故郷)を捨て、可愛い子分のてめえ達とも 別れ別れになるかどでだ・・・・・」の名セリフを残し山を下りました。

柳瀬橋の渡詰めを右折して
土手道を進みます。
柳瀬橋南詰 烏川&赤城山 柳瀬橋北詰

 丁度右手の水位調整施設の岩鼻樋管(ひかん)の所が柳瀬の舟渡し場からの延長辺りです、ここから土手を石段で下り、下道を左折します。

ここから
旧道に復帰します、ここには旧中山道標識があります、京方面からの重要な分岐ポイントです、石段を上って土手上に出ます。

旧道は緩やかな上り坂になります、柳瀬の舟渡し場に
岩鼻陣屋刑場があったところからこの坂は不浄坂と呼ばれました。

左手に
北向子育観世音があります、御堂には見事な獅子の彫刻が施されています、堂中には頬杖(ほほづえ)をした如意輪観音像が安置されています。
旧道復帰点 旧中山道標識 北向子育観世音

 岩鼻町交差点を越し、一本目を右に入ると真言宗福聚山千手院観音寺があります。

境内に柳瀬の舟渡し場の
刑場にあった、刑死者を供養する南無妙法蓮華経題目碑が移設されています。

墓地には岩鼻代官
吉川栄左衛門貞寛(さだひろ)の墓があります、岩鼻陣屋初代官で文化七年(1810)六十九歳で病死するまで十九年間勤め善政を行ったといいます。

更に
小林伊左衛門の墓があります、新町宿の本陣小林甚左衛門の弟で、柳瀬川(烏川)の渡舟権を取得して新町宿の繁栄に貢献
観音寺 題目碑 岩鼻代官墓 小林伊左衛門墓

しました。


 観音寺の裏手が岩鼻陣屋跡です、寛政五年(1793)に上野、下野、武蔵の幕府直轄領五十万石を支配する為に岩鼻陣屋(代官所)がここに設置されました。

陣屋内には
天神山古墳があり、頂に天満宮が祀られています。

それでは街道に戻りましょう、岩鼻歩道橋先の
八栄鮨の所から斜め左の岩鼻旧道に入ります。

左手のあすなろ寮を過ぎると、再び
街道に合流します。
岩鼻陣屋跡 天神山古墳 岩鼻旧道東口 岩鼻旧道西口

京方面からは右手の
税理士法人真下経営が分岐ポイントです。

 新柳瀬橋北交差点にて国道17号線を横断すると、街道は県道121号和田多中倉賀野線になります。

先で
JR高崎線跨線橋で跨ぎます、橋上には中山道丸太道標「 ←倉賀野宿1.0km →新町宿4.2km」があります、この丸太道標はこの後随所に設置されています。

雑然とした
大道南工業団地を抜け、関東ロックウールの所を斜め左(白色矢印)に入ります、倉賀野旧道です、スグに旧道はY字路になります、ここは右(白色矢印)に進みます。

先に進むと右手に大きな
石碑山燈籠そして
中山道道標 倉賀野旧道東口 旧道内分岐 馬頭観音

頭尊があります。

 理容タカハシの先で旧道は再び県道に合流します、京方面からは重要な分岐ポイントです。

右手に
閻魔堂があります、九品寺が管理しています、元は阿弥陀堂でした、御堂は平成二十七年に再建されました。

境内前に
道標「従是 右江戸道 左日光道」があります、楡木を経由して日光道中の今市へ至ります。

道標の後方に文化十一年(1814)建立の
常夜燈があります、日光道と刻まれています、例幣使道五料宿の高橋光賢が若い頃の放蕩を悔い私財を投出し、不足分は寄進(雷電や団十郎他三百十二人)によって建立されたものです。
倉賀野旧道西口 閻魔堂 追分道標&常夜燈

 AM10:35 倉賀野宿着 高崎宿まで4.8km

 道標前の下町交差点は日光例幣使道の追分です、黄色矢印が日光へ至る日光例幣使道です、白色矢印は中山道です。

徳川家康の命日四月十八日に執り行われる日光東照宮例祭に朝廷から派遣される勅使を例幣使といいます、、これは毎年(例)幣帛(へいはく)を捧げたところを意味しています、日光例幣使の派遣は正保四年(1647)に始り、慶応三年(1867)までの二百二十一年間、一回の中止もなく継続されました。

しかしこの慣例は
徳川幕府の威光を示すものにほかならず、朝廷にとってははなはだ屈辱的であった為、例幣使の一行は横暴な振舞が多く、特に中山道から日光例幣使道に入ると、一層顕著になったといいます。

日光例幣使道追分は倉賀野宿の江戸(東)口です、
倉賀野宿に到着です!

倉賀野宿日光例幣使道の追分や烏川と利根川の舟運最上流の倉賀野河岸を控え大いに繁
日光例幣使道追分

盛しました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば倉賀野宿宿内家数は二百九十七軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠三十二軒、宿内人口は二千三十二人(男千四十七人、女九百八十五人)で、宿並は下町中町上町で構成され、宿場機能は中町に集中していました。

 宿並に入ると左手に旧家があります、造り酒屋叶屋跡です。

次いで左手に黒塀に門構えの旧家があります、2001年たかさき都市景観賞受賞の建物です。

数軒先の左手に
卯建をあげた旧家があります。

倉賀野仲町バス停先の、中町交差点手前を左に入ってみましょう。

十字路に宝暦六年(1756)建立の
青面金剛像庚申塔男女双体道祖神
元造り酒屋 黒塀の旧家 卯建の旧家 庚申塔&道祖神

祀られています。


 突当りの右手に倉賀野河岸跡碑があります、河岸は信州、上州の廻米産物を江戸に送り、行徳の塩干鰯(ほしか)を持ち帰り「烏川が逆さまに流れない限り、お天道様と米の飯はついてまわる」といわれ大いに繁盛しました。

英泉は
倉賀野宿として烏川沿いの茶屋風景をユーモラスに描いています。

遠景のとげとげした山並みは
妙義山系です、手前の烏川にはと大量な荷を積んだ川船を描いています、江戸との舟運そのものです、右側の烏川沿いには倉賀野河岸の舟問屋が軒を連ねています。
倉賀野河岸跡 木曽街道 倉賀野宿 烏川之圖 英泉画

 宿並に戻り中町交差点を過ぎると、左手の倉賀野町交番の所に男女双体道祖神が祀られています。

隣りのベイシアマートに
本陣跡碑があります、勅使河原本陣跡です、皇女和宮は昼食を摂りました。

ベイシアマート向いを右に入ると浄土宗一行山光明院
九品寺(くほんじ)があります、延徳三年(1491)領主倉賀野五郎行信の創建です。

寺宝の
善光寺三尊像は南北朝時代後期作で、高崎市重要文化財です。
男女双体道祖神 勅使河原本陣跡 本陣跡碑 九品寺

 本堂脇に飯盛女の墓石があります、下町と中町の境に小川が流れ、増水の度に板橋は流失しました、これを見かねた宿場の飯盛達が二百両を寄進して、享和三年(1802)石製の太鼓橋を架橋しました。

ベイシアマートを左に入ると、先の右手に
井戸八幡宮があります、正保三年(1646)倉賀野城三の廓跡の古井戸から冷水とともに八幡大神が現れ、里人は井戸八幡と呼び親しみ、後に高崎城主が社殿を建立しました。

宿並に戻ると倉賀野駅入口交差点左手の倉賀野仲町山車庫前に
中町御傳馬人馬継立場跡碑があります。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると、倉賀野宿には三軒の問屋場がありました。
飯盛の墓 井戸八幡宮 人馬継立場跡

 次いで右手に須賀喜太郎脇本陣跡があります、往時のを残しています、建物は明治三十六年(1903)の再建です、建物前には脇本陣跡碑があります。

向いの群馬銀行先に
脇本陣跡碑があります、須賀庄兵衛脇本陣跡です。

次いで右手が
高札場跡です、高札場モニュメントと高札場跡碑があります、この辺りに須賀長太郎が勤めた問屋場がありました。

高札場跡後方の進学会前の植栽に
樅ノ木の由来があります、安政二年(1855)の大火で倉賀野宿は焼野原と化したが、一軒のみ助
須賀脇本陣跡 脇本陣跡碑 脇本陣跡碑 高札場跡

かりました、この家は
古峯神社を信奉していたところから、天狗が庭の樅ノ木に乗り移って防火につとめたといいます。

 上町交差点を左に入り、突当りの烏川右の雁公園に倉賀野城趾碑があります。

治承年間(1177~80)武蔵児玉党の支流である
秩父高俊が烏川を要害とする河岸段丘上に館を構え、倉賀野氏と称したことに始まります、戦国時代になると武田、上杉、北条の争奪戦に遭い、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、陥落し廃城となりました。

宿並に戻り、村山酒店先を左に入ると右手に
倉賀野神社があります、倉賀野宿と近郊七ケ郷の総鎮守です。

境内には飯盛達の信仰が篤かった
冠稲荷が祀られています、十返舎一九は狂歌「乗りこころ よさそふにこそ 見ゆるなれ 馬のくらがの しゅくのめしもり」で捻っています。 
倉賀野城趾 倉賀野神社 冠稲荷

 境内の御神燈は文久三年(1863)の建立で、旅籠三国屋の飯盛つねが寄進したものです。

倉賀野宿の繁栄を影で支えていたのは飯盛女達であったことを物語っています。

倉賀野神社先の左手に
鳥啄池跡(とりばみのいけあと)があります、鳥啄池の岩屋には大蛇が棲み、年に一人の生贄が捧げられました。

都からやって来た勅使が生贄の娘と岩屋に入り、一心に
観世音菩薩を唱えると、大蛇は黄色の涙を流し、悔い改め飯玉大明神となり、神仏習合の物語となりました。

宿並を進むと右手に天台宗
安楽寺があります、本堂の裏
御神燈 鳥啄池跡 安楽寺

手に七世紀末頃に築造されたと推定される、径20m、高さ4mの
円墳があります。

 本堂と繫がる石室の壁面に刻まれた七仏薬師如来像は天平九年(737)行基が二十八歳の時に、一夜で彫り上げたと伝えられ秘仏で、安楽寺の本尊です。

境内には
異形板碑があります、板仏、平仏、板石塔婆とも呼ばれる卒塔婆の一種で、安楽寺の二基の板碑は、将棋の駒型で普通の板碑より厚みがあります、梵字で阿弥陀三尊が刻まれています。

安楽寺辺りが倉賀野宿の京(西)口です、それでは倉賀野宿を後にしましょう、 上町西交差点辺りに
倉賀野の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より数えて二十五里目です。

街道には松が植栽され
松並木になっています、左手の
安楽寺古墳 異形板碑 浅間山古墳

マルエドラッグの手前を斜め左に入ると
浅間山古墳があります、 四世紀末~五世紀初頭築造の全長171mの前方後円墳で群馬県内二番目の規模を誇っています、地方豪族の墳墓といわれます。

 正六交差点を過ぎると右手に交通安全地蔵倉賀野町交通事故犠牲者供養塔があります。

街道ウォークの大敵は一にもニにも
交通事故です、お互い十分に気を付けましょう!

しばらく進むと、右手に
町田肉店があります、この肉店の手前から右に回り込む砂利道が柏澤の旧道です。

しかしこの
旧道はスグ先で行止りになっています、通行不可です。

県道を進み、
倉賀野町西交差点を右折し、一本目を左折します、先程の旧道はここに繫がっていました、ここには木製標識「中山道←」があります。
交通安全地蔵 柏澤旧道痕跡 柏澤旧道東口

 旧道を進むとY字路になります、左に進みます。

旧道は
県道に合流し、柏澤川柏澤橋で渡ります、京方面からは柏澤橋の渡詰めを斜め左に入ります、右手には高崎柏沢橋郵便局があります。

サア、ここから
高崎宿までは県道をモクモクと歩きます、往時は杉並木でしたが、今は並木通りの名を残すのみです。

新後閑町交差点手前が
佐野への佐野道です。

上越新幹線高架をくぐった先辺りに
高崎の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より数えて二十六里目です。
柏澤旧道 柏澤旧道 柏澤旧道西口

 AM11:39 高崎宿着 板鼻宿まで8.3km

 上信電鉄の踏切を跨いだ辺りが高崎宿の江戸(東)口です、高崎宿に到着です!

高崎宿は
三国街道信州街道の分岐にあたり大いに賑わい「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」とうたわれました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると、高崎宿宿内家数は八百三十七軒、うち旅籠十五軒で本陣、脇本陣はありませんでした、これは城下町の堅苦しさから諸大名の宿泊が敬遠された為です。

宿人口は三千二百三十五人(男千七百三十五人、女千五百人)でした。

宿並を進み、和田町交差点を過ぎ、南町交差点を左折すると
愛宕神社があります、和田城(後の高崎城)の鎮護神として創建され、火防の神として篤く崇敬されました、境内には厳島弁財天が祀られています。
愛宕神社 厳島弁財天

 新田町(しんでんまち)交差点を左に入り、一本目を右折すると曹洞宗興禅寺があります、治承元年(1177)新田義重により創建され、和田城主和田右兵衛大丈信輝が再興し菩提寺としました、高崎一の古刹です。

並びに曹洞宗東洋山
向雲寺(こううんじ)があります、慶長五年(1600)高崎城初代城主井伊直政は近江佐和山に移封となり、代わって酒井家次が入城し向雲寺を創建しました。

宿並を進むと左手の高崎信用金庫の向いを右に入ると真言宗吠瑠璃山
興禅寺 向雲寺 延養寺 諏訪神社

養寺があります、上野國真言宗三名刹(滝の慈眼寺、玉村町五料の常楽寺)一つで、武田信玄から朱印を拝領しました。

あら町交差点を左に入ると、右手に
諏訪神社があります、慶長四年(1599)の勧請です、本殿は総漆喰の塗籠(ぬりごめ)造の防火様式で、享保十四年(1729)、文化四年(1807)の火災に遭っており、その痕跡が確認されています。

 平安末期、豪族和田義信和田城を築城、天正十八年(1590)秀吉の小田原攻めで落城し廃城となりました。

慶長二年(1597)
家康の命により箕輪城主井伊直政高崎城を築城し、初代城主となり、幕末最後の藩主十一代松平輝照は幕命により碓氷峠を守備するも、徳川慶喜が上野寛永寺に恭順したことを知ると、官軍と戦わずに開城しました。

広重は遠景に
榛名山、手前に烏川、左から落合う碓氷川を描いています。

そして右側は
高崎城の斜面です、高崎城は
高崎城址 木曽海道六拾九次之内 高崎 広重画

烏川に沿って築城された
輪郭梯郭(りんかくていかく)複合式の平城です、城の周りは土塁で囲み、石塁はほとんどありませんでした。

画面の中では二人連れの旅人にたかる、
胡麻の蝿(護摩の灰)を描写しています。

 連雀交差点を越し、大政雑穀店を右に入ると浄土宗大信寺があります、墓地に徳川二代将軍秀忠の三男忠長の墓があります。

秀忠の寵愛を受けるも、兄家光に疎まれ、秀忠が亡くなると乱交を理由に、高崎城内に幽閉され、寛永十年(1633)自刃となりました、享年二十八歳でした。

田町交差点の一本先を右に入ると浄土宗法道山
善念寺があります、天文九年(1540)和田信輝の創建、本尊の木造阿弥陀如来立像は群馬県指定重要文化財です。

宿並に戻って、そのまま左に入ると真言宗豊
徳川忠長の墓 善念寺 阿弥陀如来 玉田寺

山派真珠山
玉田寺(ぎょくでんじ)があります、永正元年(1504)和田城主和田信輝が和田城の鬼門除けの寺として薬師如来を安置して創建したものです。

 田町北交差点手前の左手に田町絹市場跡があります、ここでは五と十の付く日に六斎市が立ち、周辺の農家で生産された白絹(しろぎぬ)の取引が盛んに行われました。

田町北交差点を右に入ると、弓町交差点手前の左手に天台宗羅漢山正覚院
法輪寺があります、堂内に安置されている五百羅漢像は高崎市指定重要文化財です。

九蔵町交差点を右に入り、一本目を左折し、次いで右折すると左手に曹洞宗
大雲寺があります、所蔵の武居梅坡(たけいばいは)作の水墨雲竜の図は高崎市指定重要文化財です、墓地には武田信玄の軍師山本勘助の子孫の墓があります。
田町絹市場跡 法輪寺 大雲寺

 宿並は本町三丁目交差点を左折します。

左折すると左手に
蔵造りの商家があります、明治十五年(1882)の建築で、重厚な造りは関東地方の店蔵造りの特徴をよく残しています。

本町二丁目交差点を右に入ると
成田山光徳寺があります、境内の内陣は元高崎城内にあった、藩主大河内家の祈願所で、累代の位牌が安置されています。

本町1丁目交差点辺りが
高崎宿の京(西)口でした。

この交差点を左に入ると右手に
高崎神社があります、慶長三年(1598)井伊直政が高崎城改築の際に建立したもので、歴代藩主の崇敬が篤く、高崎の総鎮守でした。
蔵造りの商家 光徳寺 高崎神社

 本町1丁目交差点から右の筋は三国(みくに)街道です、北陸街道の寺泊へ通じています、上杉謙信の関東遠征への軍用道路でもありました。

本町1丁目交差点からは
赤坂通りになり、旧道痕跡を想わせる道幅とうねりになります。

左手に曹洞宗
恵徳寺があります、天正年間(1573~92)に井伊長政(高崎城初代城主)が伯母恵徳院の菩提を弔う為に創建しました、開山した大光普照(ふしょう)禅師長政が「和田の名称を松崎と変えたいが」と問うと「松は枯れるが、高さには限りがない、その意をとって高崎はいかが」と進言し高崎の地名が生まれました、観音堂の十一面観世音像は行基作といいます。

次いで右手に曹洞宗赤坂山
長松寺(ちょうしょうじ)があります、本堂は火災で焼失し、寛政元年(1789)に再建されました、当寺は加賀藩茶屋本陣を勤めました。
恵徳寺 長松寺

 徳川三代将軍家光の弟忠長が高崎城内で自刃した書院が庫裏(客間)として移築されています。

秀忠は病弱であった兄竹千代(家光)よりも容姿端麗、才気活発な弟国千代(忠長)を寵愛しましたが、竹千代の乳母春日局が家康に直訴し、後継者となりました、この確執が後の自刃の遠因ともいえます。

本堂の大間天井には雄大で大胆、筆勢は力強く躍動感あふれる
が描かれています、そして向拝の天井にはふくよかな肢体、しなやかな衣裳であるが筆勢は力強い天女(てんにょ)が描かれています。

共に
狩野探雲の作です、探雲は狩野派の主流である探林に学び、絵師の最高位である法眼を与えられました。
忠長自刃の書院 天女

探雲はご当地の出身です。

 常盤町に入ると左手に 赤レンガの煙突が聳える岡醤油醸造がります、天明七年(1787)創業の老舗です。

次いで右手に
山田文庫があります、実業家で学者でもあった山田勝次郎が私邸に私設の図書館を創設して、一般開放しました。

街道は
常盤町交差点を右折します。

歌川町を越して並榎町(なみえまち)に入ると
並木の一里塚があったともいいますが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて二十七里目です。

左手に
紋平稲荷神社があります、安永九年(1780)に正一位稲荷大明神を勧請しました。
岡醤油醸造 山田文庫 紋平稲荷神社

 右手の並榎町坂下公民館の向いを左に回り込み、横断歩道を渡り、標識「歩行者自転車 豊岡町方面」のレーンに入ります、ここが歩行者の君が代橋東詰になります。

烏川は
徒歩渡しでしたが、十月から四月までは高崎藩主の入用で仮土橋が架橋されました。

明和七年(1770)
木橋が架橋され、通行料五文が徴収されました。

明治十一年(1878)
明治天皇行幸の際、この橋を渡ったことを記念し君が代橋と命名されました。

往時烏川河畔には
(いかだ)があり、信州で切り出した材木を流し、ここで筏に組み、江戸に廻送しました。
君が代橋東詰 烏川 君が代橋西詰

橋を渡り切り、歩道左の
歩行者専用階段を下ります。下った先から君が代橋下地下道をくぐります。

 地下道を出ると室町時代末期作のみかえり阿弥陀像を安置している萬日堂の前に出ます。

昔、
永観律師が不断念仏を思い立ち、本尊をめぐって行道念仏中つい眠くなって立ち止まると、本尊が「永観遅いぞ」と振り向いて声をかけたといいます。

顔が左横向きで下方を見ているところから、江戸時代には釈迦が寝ている姿の
涅槃像として信仰されました。

この
本尊は過去に二度盗まれたが、盗人はいずれも不幸な死を遂げたといいます。

御堂の傍らに
鳥酔句碑「おもしろひ ゆめみるかほや 涅槃像」があります。
地下道 萬日堂 みかえり像

 萬日堂脇を進み、突当りのT字路を左折すると君が代橋西交差点に出ます、Y字路右の国道406号線を進みます。

京方面からは突当りの君が代橋交差点を左に進み、
加辺建設手前を左に入り、一本目を右折します。

先に進むと右手に
石神社があります、由緒は解かりません。

下豊岡町西交差点手前を左に入ると
千日堂があります、萬日堂に対しての千日堂です、境内には享保四年(1719)造立の地蔵尊があります。
君が代橋西 石神社 千日堂 榛名草津道追分

 国道406号線に戻って進むと
Y字路になります、左が中山道です、右は榛名草津道です。

 この分岐点には自然石の信州分去れ道標「右はるなみち、くさつみち」と中山道丸太道標「←板鼻宿4.5km →高崎宿1.6km」があります。

一軒挟んで石祠の
八坂神社と安山岩製尖塔角柱の道標「榛名山草津温泉 かわなか かわらゆ温泉 はとのゆ」があります。

それでは落ち着いた
豊岡の街道を進みましょう。

豊岡小学校を過ぎると左手に
若宮八幡宮があります、鳥居をくぐると朱塗りの随神門があります。

永承六年(1051)
源頼義義家父子が奥州安倍氏反乱を鎮圧する途次、戦勝を祈願して建立しました。
信州分去れ道標 八坂神社&道標 若宮八幡宮

寛文二年(1662)幕府代官が社殿の大改修を行いました、武士の崇敬が篤く、明治に入ると
乃木大将が参拝しています。

 一本先を右に入ると曹洞宗常安寺があります、元亀元年(1570)武田信玄の家臣豊岡領主松嶋軒常安の創建です、武田家が滅亡すると真田氏に従属しました。

次いで右手に
神明宮があります。

先の飯野石材店先の左手に
庚申塔があります、寛政元年(1789)の建立です。

街道筋に
だるま工房があります、豊岡はダルマの里と呼ばれ、だるま作りの家が多数あります、これは達磨寺(だるまじ)の和尚が農民にだるま作りを指導し奨励したためです。
常安寺 神明宮 庚申塔 だるま工房

 次いで左手に飯野茶屋本陣があります、上豊野は高崎宿と板鼻宿の中間に位置し間の宿でした。

上段の間を残しています、参勤の大名、日光例幣使の公卿、幕末には皇女和宮も休息しました。

次いで右手の上豊岡町バス停の所に
地蔵尊二十三夜塔、文政十年(1827)造立の如意輪観音像等があります。

左手に
金ケ崎不動尊があります、不動明王像を安置しています。
飯野茶屋本陣跡 石仏石塔群 石塔 養蚕農家

境内には
道祖神庚申塔が祀られています。

次いで右手に
上州櫓(やぐら)造りの旧家があります、養蚕用の小屋根を備えています。

街道は高崎環状線に突き当たります。

ここを横断すると左手の植栽の中に
馬頭観世音文字塔があります。

旧道はカーブして進み、小野整形外科の前を通り、鈴木宅の所を左折して
国道18号線に出ます、これが上豊岡の旧道です。

藤塚の一里塚を見学する場合はここから国道18号線を戻り、上豊岡交差点にて国道18号線を横断します。

先に群馬県下唯一現存する
藤塚の一里塚(南塚)があります、群馬県指定史跡です。
上豊岡旧道トレースと迂回路 馬頭観音 藤塚の一里塚

塚木は
エノキで、江戸日本橋より数えて二十八里目です。 

 再び国道18号線の右側に戻って進むと、藤塚町に入り藤塚の一里塚の向いに浅間神社があります、藤塚の一里塚の北塚跡です。

しばらく進むと右手の道下に
天照皇大神宮が祀られています。

少林山入口交差点を斜め左に入り、鼻高橋で碓氷川を渡り、左に進むと右手に
少林山達磨寺があります、水戸黄門が帰依した中国の帰化僧越禅師が十七世紀に開山した古刹です、毎年一月六~七日のだるま市は北関東最大の規模を誇ります。
浅間神社 天照皇大神宮 達磨寺総門 霊符堂(本堂)

総門をくぐると急な石段の上りが始まります、霊符堂(本堂)には大小多数のだるまが奉納されています。

 本堂右手の茅葺屋根の観音堂は達磨寺では最古の建物です。

本堂の左手には
洗心亭があります、ドイツの世界的建築家ブルーノ・タウトはナチスの台頭を避け来日し、ここで日本文化を研究しました。

街道に戻り八幡大門交差点を右に入ると
八幡宮大鳥居があります、鳥居の扁額の八幡宮の揮毫は弁慶の筆によるものと伝わっています。

参道には
杉並木を偲ぶ碑御神燈があります。
観音堂 洗心亭 八幡宮鳥居 八幡宮

 JR信越本線を越すと
上野國一社八幡宮が高台に鎮座しています、八幡太朗義家が奥州下向の際にここで一宿し、甲冑を奉納したといいます、源頼朝武田信玄に篤く崇敬されました。

 街道に戻り板鼻東交差点を越え、ミツウロコを過ぎると右手に寒念仏橋供養塔があります。

板鼻宿本陣の当主
木嶋七郎左衛門が寒念仏供養によって得た報謝銭を貯め、享保二年(1717)念仏供養二万日を達成した記念供養に、それまであった石橋を改修しました。

英泉は板鼻宿として宿場東の
板鼻堰用水路に架かる寒熱橋(かねつはし)を雪景色にして描いています。

板鼻堰用水は
碓氷川から引き入れた用水です、 寒念仏橋(かんねんぶつはし)はその後、訛って寒熱橋と呼ばれるようになりました。
橋供養塔 木曽海道六拾九次之内 板鼻 英泉画

 大田南畝壬戌紀行の中で「驛舎をでて麦畑の中をゆけば石橋あり、新建石橋、木嶋七郎左衛門供養塔といへる石たてり、べに累々たる石仏をつくらんよりは、橋をたてし功徳はまさりぬべし」と褒め讃えています。

 ネッツトヨタの先に変則Y字路があります、初めてここを通過した時、訳が解からず迷ったことを思い出します。

このY字路左は
国道18号線、右は県道26号高崎安中渋川線です、いずれにも進まず、正面の横断歩道を直進します。

渡って初めて、右に進みます、
板鼻下町入口バス停先に再び変則Y字路が現れます。

右は
県道26号高崎安中渋川線です、左の県道137号箕郷板鼻線に進みます、この分岐点には金井方平翁頌徳碑板鼻土地改良碑があります。
①板鼻下町分岐 ②板鼻下町分岐 頌徳碑 丸太道標

 そして
中山道丸太道標「板鼻宿←0.5km 高崎宿→5.6km」があります。

 板鼻川板鼻川橋で渡ります。

先に進むと用水脇に
男女双体祝言道祖神天満宮石塔等があります。

次いで右手の入沢製作所脇に
地蔵尊庚申塔、享保十六年(1731)建立の奉供養寒念仏塔が祀られています。

JR信越本線を
第九中仙道踏切で渡ります。

板鼻二丁目交差点右手に文政十年(1827)建立の
榛名道道標があります。
石塔 地蔵尊&石塔 板鼻二丁目 榛名道道標

道標の正面には「やはたみち」右面「はるな くさつ 河原湯 かねこ 沢たり 志ぶ川みち」と刻まれています。

 PM2:15 板鼻宿着 安中宿まで3.3km

 板鼻二丁目交差点を渡ると右手に中山道丸太道標「←板鼻宿」があります、この辺りが板鼻宿の江戸(東)口です、板鼻宿に到着です!

板鼻宿は
碓氷川の渡しを控え、そして堅苦しい城下町の高崎宿を避けた旅人で大いに賑わい、上州七宿では最大規模の宿場でした、幕末には幕府直轄地の天領となり陣屋が置かれました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、板鼻宿宿内家数は三百十二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠五十四軒、宿内人口は千四百二十二人(男六百四十九人、女七百七十三人)で、宿並は東西十町三十間(約1150m)でした。

宿並に入ると左手に曹洞宗
長傳寺(ちょうでんじ)があります、代用本陣を勤めました、山門は朱塗りの薬医門で、本堂の所々に見事な彫刻が施されています、境内には多数の石仏石塔があります。
丸太道標 長傳寺

 宿並に戻ると右手に名物タルタルソースカツ丼の名店板鼻館があります、暖簾には創業以来百有余年と染め抜かれています。

当店は旅籠
角菱屋として創業し、明治の世になると板鼻館と改名し、四代続くかつ丼の老舗です。

それでは遅い
昼食としましょう、楽しみにしていました。

谷中生姜を肴に生ビールで喉を潤していると、ざっくりと刻まれたゆで卵のタルタルソースが出てきます。
板鼻館 谷中生姜 タルタルソース ソースカツ丼

これを混ぜ合わせていると、
ソースかつ丼の登場です、赤だしの味噌汁が添えられています、カツの上にタルタルソースをたっぷり乗せて頂きます、普通のソースカツ丼はご飯の上に千切りキャベツが敷いてありますが、当店は香ばしく炒めた玉ネギが敷いてあります、絶品です!お奨めします!!

 板鼻館脇を右に入ると突当りに天台宗称名寺(しょうみょうじ)があります、梵鐘は宝永五年(1708)郷土鋳物師金井兵部重久の代表作です、美術的価値を有しているところから、戦時中の供出を免れました(安中市指定重要文化財)。

称名寺の裏(脇)門は
板鼻陣屋門を移築したものです。

宿並に戻り板鼻宿交差点を越すと、右手の板鼻公民館前に
板鼻宿本陣跡標柱があります、木嶋本陣跡です、並びに海音寺潮五郎書の中仙道板鼻宿碑があります。
称名寺梵鐘 板鼻陣屋門 本陣跡 板鼻宿碑

 板鼻公民館の敷地奥に皇女和宮宿泊の書院と建物脇に月の宮を残しています。

十一月十日(十九日目)
皇女和宮木嶋本陣に宿泊しました、和宮は投宿後にわかに変調をきたすと、初潮と判明しました、その際の不浄物を埋めた所に塚を築き石祠を祀ったところ、いつしか月の宮と呼ばれるようになりました。

豊岡の一里塚から倉賀野岩鼻境までは
高崎藩が警備の任に当たり、沿道七ケ所に藩士十七名と同心足軽四十三名を配備しました。

安中市消防団第六分団第一部の隣りに
旧てうちん(提灯)屋跡(現花屋)があります、幕末建築の土蔵造りの旧商家です、火災の際は味噌で密封する構造になっています。
皇女和宮泊の書院 月の宮 旧てうちん屋

 旧てうちん屋を右に入ると突当りに時宗龍澤山聞名寺(もんみょうじ)があります、弘安三年(1280)一遍上人が念仏勧進でこの地に宿泊した折に開基しました、その際に上人が背負っていた 時宗独特の(おい)が残されています。

宿並みに戻ると左手のいたはな公園向いの広場に
猿田彦大神青面金剛文字庚申塔、寛政九年(1797)建立の男女双体祝言道祖神が並んでいます。

並びの理容ヤジマの向いの駐車場辺りが
牛宿跡です、岡船と呼ばれる荷役の牛方が宿泊しました。

先を右に入ると突当りの段上に曹洞宗
南窓寺(なんそうじ)があります。
聞名寺 石塔 小野良佐栄重墓

墓地には和算家
小野良佐栄重(りょうすけえいじゅう)の墓があります、伊能忠敬に天文学を学び、海岸線の測量に参加しました。

 宿並を進むと右手に板鼻堰用水路が滔々と流れています、慶長年間中期~後期(1604~14)に開削され、鷹巣山麓の堰口から碓氷九十九両川の水を取り入れて烏川に注ぐ延長15キロの用水路です。

割烹旅館
古久屋先の右手に鷹之巣神社の参道口があります、聖徳太子碑御神燈そして太鼓橋があります、社殿は鷹之巣山上に鎮座しています。

宿並は鷹之巣橋東交差点に突き当たります、右手に
中山道丸太道標「板鼻宿→」があります、この辺りが板鼻宿の京(西)口です。

交差点越すと左手に
碓氷の渡し場跡があります、ここには鷹之巣茶屋がありました。
板鼻堰用水路 鷹之巣神社 碓氷の渡し場跡

夏は
徒歩渡し、冬は仮橋でしたが、延亨四年(1747)幕府の防衛政策緩和により土橋が架橋されました。

 今は碓氷川鷹之巣橋で渡ります、碓氷川は碓氷峠に源を発し、流末は烏川に落合います。

橋上から振り返ると
鷹之巣山が聳えています、小型の鷹チョウゲンボウが巣を作るところから鷹之巣山と呼ばれました。

永禄年間(1558~70)
武田信玄が上州攻略の際、山上に鷹之巣城を築城しました、徳川の世になると里見義高陣屋を設置しました。

中山道は
中宿交差点を右折します。
碓氷川 鷹之巣山 諏訪神社 明治天皇腰掛石

交点を左に入ると右手に
諏訪神社があります、中宿の鎮守です、境内に明治天皇腰掛石があります、明治十一年(1878)北陸東海巡幸の際に、この石に腰掛けて休息しました。

 諏訪神社の先に天台宗清水山蓮華寺(れんげじ)があります、寛喜三年(1231)栄朝禅師の開山です。

境内の開山堂には
栄朝禅師木像が安置されています(群馬県指定重要文化財)、臨済宗の開祖栄西の高弟栄朝がここに野宿したところ、凍った池から突如蓮の花がせり上がったといいます。

それでは中宿交差点に戻って、先に進みましょう、突当りの
T字路を左折(白色矢印)します、右折(黄色矢印)した筋は碓氷の土橋跡方向です、突当りの左手には中山道丸太道標があります。
蓮華寺 中宿旧道分岐 渡し場方向 渡し場跡

この先が
土橋跡です。

 旧道には碓氷川の対岸にあるクレー射撃場の銃声が轟いています。

中宿公民館の蔵脇にあった
中宿の一里塚跡標識が無くなっています、江戸日本橋より数えて二十九里目です。

次いで左手に享和二年(1802)建立の
庚申塔道標「従是一宮大日街道」があります、徳川三代将軍家光が社殿(国重文)を再建した一之宮富岡貫前神社(ぬきさき)への道標です。

ここを左に入ると
中宿糸操(あやつり)燈籠人形展示館があります。
一里塚跡 庚申塔 人形展示館 Y字路

中宿に伝わる
農民芸能で人形の胴に明かりを入れ糸で操ります(国無形民俗文化財)。

先の
Y字路は右に進みます。

 旧道は丸石を積み上げた擁壁に突き当たります、ここが二ツ橋跡です。

碓氷川の中洲二ケ所に仮橋が架橋されていました。

左手に
道祖神と養蚕の守護神蠶養神が祀られています。

右手には
中山道丸太道標「←安中宿1.2km →板鼻宿1.2km」があります。

道なりに左に回り込むと右手に寛政十年(1798)建立の
三面六臂馬頭観音像があります。
二ツ橋跡 石塔 丸太道標 馬頭観音

 先の十字路を右折(白色矢印)します、京方面からはカットハウスWanが左折ポイントです。

直進(黄色矢印)するとJR信越本線の
安中駅です。

迂回路は
国道18号線に合流して久芳橋(ひさよしばし)に出ます、京方面からは渡詰めを左に入ります。

久芳橋で再び碓氷川を渡ります。

スグ先の
下野尻歩道橋で国道18号線を横断します。
安中駅前分岐 久芳橋 下野尻分岐 正龍寺

斜め左の
県道125号一本木平小井戸安中線に入ります。

信号交差点手前を右に入ると
正龍寺(しょうりゅうじ)があります、本尊は千手観世音菩薩で上野三十四箇所観音霊場(第二十五番札所)です、境内には大きな馬頭観世音文字塔があります。

 PM3:00 安中宿着 松井田宿まで9.7km

 信号交差点を越すと右手の理容清水の前に安中宿下ノ木戸跡標識があります、安中宿の江戸(東)口です、安中宿に到着です!

戦国時代この地は
碓氷川九十九川(つくもがわ)に挟まれた要害の地であった為、武田北条の争奪の地でした、永禄二年(1559)越後の安中忠政安中城を築き、元和元年(1615)井伊直政の子直勝が城主となり町並みを整備し安中宿が出来上がりました。

安中宿は
安中藩三万石の城下町でしたが宿場経営が困窮し、飯盛の設置を再三願い出るも幕末まで許可されませんでした。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、安中宿宿内家数は六十四軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠十七軒で宿内人口は三百四十八人(男百六十二人 女百八十六人)でした。
安中宿下木戸跡 熊野神社

 宿並に入り一本目を右折すると
熊野神社があります、永禄二年(1559)安中忠正が安中城を築き、鬼門の守護神として熊野神社を祀り、安中藩の総鎮守として歴代藩主に篤く崇敬されました。

 熊野神社境内の大ケヤキは推定樹齢千年で安中市天然記念物です、このケヤキに祈願するとイボが取れるといいます。

熊野神社手前の左手に真宗大谷派東臨山
西廣寺(さいこうじ)があります、墓地に太山融斎(おおやま)の墓があります、江戸の町儒学者でしたが、天保九年(1838)安中藩主板倉勝明に召し出されて、安中藩の文教政策の中心となりました。

境内の
ツバキは推定樹齢三百年で群馬県指定天然記念物です。

宿並に戻って進みます。
大ケヤキ 太山融斎墓 ツバキ 本陣跡

左手の
安中郵便局の敷地内に本陣跡碑があります、須藤家が勤め建坪は百九十二坪で問屋を兼ねました。

 本陣跡の向いを右に入ると正面に浄土宗無邉山唐梅院大泉寺があります、文安年間(1444~49)の創建です。

境内には
井伊直政の正室で安中藩初代藩主井伊直勝の母親(唐梅院)の墓碑(五輪塔)と隣には直勝の妻の墓碑(五輪塔)があります。

一旦宿並に戻り、信号交差点手前を右に入ると
三柱神社があります、境内に石川忠房生祠があります。

安中宿は
助郷の窮乏を時の道中奉行石川忠房に訴えたところ、二十四ケ村の増助郷が許可されました、これに感謝して忠房を生神として祀りました。

伝馬町交差点を右に進むと突当り手前の右手に
町口門番所
大泉寺 石川忠房生祠 番所跡

標識があります。

 突当りの正面に旧碓氷郡役所跡があります、明治十一年(1878)群馬県内に十七の郡が設置されました、当初の郡役所は本陣に設置されました。

左手が
安中教会です、明治十一年(1878)新島襄等によって設立された群馬県下初のキリスト教会です。

大正八年(1919)新島襄召天三十周年記念に建立された
新島襄記念会堂は登録有形文化財(文化庁)です。

そのまま進むと安中小学校の正門脇に
安中城址碑があります、安中忠政が永禄二年(1559)に安中城を築城
しましたが
武田信玄の攻めで落城となりました。

その後、慶長十九年(1614)
井伊直政の嫡男直勝
旧碓氷郡役所跡 安中教会 安中城址

再建しました、この地は中山道の関東口に当る為、以降は徳川譜代の
大名が入城しました。

 更に進むと右手に大名小路(こうじ)標識があります。

先の左手に
旧安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家)があります、安中市指定重要文化財です。

幕末から明治初年にかけて、
猪狩幾右衛門懐忠(やすただ)が安中藩の郡奉行を勤めました、郡奉行とは、藩の民政をつかさどる役職で、年貢の割り当てから徴収、お触れの通達、領内の治安、裁判などを担いました。

並びに
旧安中藩武家長屋があります、安中市指定重要文化財です。

四軒長屋が復元されています、上級藩士以外の藩士は長屋住まいでした。
大名小路 郡奉行役宅 武家長屋

 宿並に戻ると左手に天台宗常香山教學院安楽寺があります、境内には石塔に陽刻された六地蔵が並んでいます。

向いを右に入ると時宗碓氷山
長徳寺があります、朱塗りの山門脇には青面金剛塔があります。

宿並の
谷津坂を上ると右手に豪壮な蔵造りのサカウエ薬局を今に残しています。

先を右に入ると右手に日蓮宗法昌山
蓮久寺があります。
安楽寺 長徳寺 サカウエ薬局 蓮久寺

明応年間(1492~1501)の創建です、開基は
安中忠親の母法昌院です、当寺は子宝安産の鬼子母尊神を祀っています。

 宿並に戻り安中市役所谷津庁舎を右に入ると浄土真宗本願寺派一心山清照寺(せいしょうじ)があります。

宿並右手の
有田屋は創業天保三年(1832)の味噌醤油醸造の老舗です。

三代目の
湯浅治郎は安中で最初に洗礼を受けた三十人の一人で、新島襄がもっとも信頼した後援者でした。

有田屋向いに
便覧舎(びんらんしゃ)址標石があります、明治五年(1872)湯浅治郎は私財を投じて日本初の私設図書館を創設しました。
清照寺 有田屋 便覧舎跡 便覧舎址標石

 先を左に入ると曹洞宗洞谷山角峯院龍昌寺(りゅうしょうじ)があります、元和二年(1616)の創建です、福井の永平寺、神奈川の総持寺を両本山とする曹洞宗(禅宗)の古刹で、本尊は釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)です。

新島襄の帰国第一声の講演の寺として知られています。

山門から本堂への参道両側には百八の
梵鐘(和合の鐘)が並び、これを開運小槌で撞くと御利益があります。

墓地には幕末の志士
山田三川(さんせん)の墓があります、北海道の名付け親である松浦武四郎と知遇があり、安中藩の儒学教授を勤めました。

宿並を進むと左手の安中上野尻郵便局の敷地内に
史蹟安中
龍昌寺 山田三川の墓 大木戸跡

大木戸趾碑があります、安中宿の京(西)口です。


 安中宿を後にすると右手に上組一同と刻まれた愛宕神社の献燈があり、奥の古墳の上に愛宕神社が鎮座しています。

元禄年間(1688~1704)の創建で、いわずと知れた
火防の守護神です。

街道を進むと左手に
新島襄先生旧住宅入口碑があります、傍らには弘化四年(1847)建立の道祖神が祀られています。

新島襄は天保十四年(1843)江戸安中藩上屋敷で生まれ、生来才気活発な性格でした、十八歳で幕府海軍操練所に入り海外に思いを馳せるようになり、元冶元年(1864)国禁を破り米国に密航し、ボストンの神学校で学びました。

明治維新を迎えると初代駐米公使となった
森有礼(ありのり)
愛宕神社献燈 愛宕神社 新島襄旧宅入口

によって正式な留学生として認可され、明治五年(1872)米国訪問中の岩倉使節団の通訳を勤めました。

明治八年(1875)に帰国した
新島襄は両親が住む、この家で三週間過ごしました。

その後、教育とキリスト教の布教に勤め、明治九年(1876)
山本覚馬の妹八重を妻に迎えました。

京都に
同志社英学校(同志社大学)を設立し、明治二十三年(1890)静養先の東海道大磯の旅籠百足屋(むかでや)で死去しました、享年四十六歳でした。

敷地内に
漆園(しつえん)之記碑があります、藩主板倉勝明が殖産興業策として漆の木百万本を植えさせました。
新島襄旧宅 妻八重 漆園之記碑

 街道に戻って進むと左手の植栽の中に天然紀念物安中原市杉並木碑があります、かつては日光の杉並木と並び称される程でしたが、今は十数本を残すのみです。

次いで左手の小松自動車整備工場手前に
殉難之碑があります、いきさつは不明です。

先で安中綜合学園高校交差点を横断し、右手に入ると左手の墓地内に
庚申塔があります。

県道48号下仁田安中倉渕線を進むと、右手の石挽きそばうどんいちよしの先に
安中原市杉並木の名残りがあります、天保十五年(1844)には七百三十二本ありました。
杉並木碑 殉難之碑 庚申塔 名残りの杉並木

一里山辺りに
一里山の一里塚があったともいいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十里目です。

 杉並木の左手に道祖神南無阿弥陀佛名号碑が三基並んでいます。

向いの並木排水池の
貯水タンク安政遠足が描かれています、安中藩十五代藩主板倉勝明(かつあきら)が藩士の足腰鍛錬の為に安政二年(1855)に安中城から碓氷峠熊野神社までの遠足(とうあし長距離走)を行いました、現在これにちなみ毎年五月の第二日曜日に遠足が行われています。

右手の並木苑の前に
安中原市の杉並木解説があります、解説の並びにの輪切りが掲示されています。
石塔 安政遠足画 杉並木解説 稲荷神社

向いには正一位稲荷大神を祀る
稲荷神社があります。

 街道の所々に杉の切株が残されています、天保十五年(1844)には七百三十二本あった杉並木は平成二十五年(2013)には十四本に減少しています。

杉並木が終了すると左手に
天然紀念物安中原市杉並木碑があります、ここが杉並木の西端です。

田中歯科医院を過ぎると右手の大きな住宅の駐車場内に
男女双体祝言道祖神が祀られています。

次いで右手の旧家の門脇に
原市村戸長役場跡標識が掲げられています。
杉の切株 杉並木碑 道祖神 戸長役所跡

明治四年(1871)四月、太政官布告によりそれまでの町村役人を廃して
戸長と改称しました。

 街道の所々には中山道丸太道標があります、松井田宿、安中宿への距離が刻まれています。

先の左手に
原市高札場跡標識明治天皇原市御小休跡碑があります、ここが五十貝茶屋本陣跡です、明治天王は明治十一年(1878)北陸東海巡幸の際、ここで休息しました。

次いで左手に対の
御神燈石祠があります、屋敷神かもしれません。

右手の真言宗豊山派
真光寺梵鐘は安中藩十二代藩主板倉勝暁(かつ
原市高札場跡 五十貝茶屋本陣跡 石祠 真光寺

とし)が
時の鐘とした名鐘です、これが為戦時中の供出を免れました(安中市指定重要文化財)。

 真光寺先の十字路手前の左手に原市町道路元標があります。

右手の安中原市郵便局の所に
山本有所旧宅跡標識があります、山本有所(ゆうしょ)は天保八年(1837)原市に生まれ、磯部温泉を紹介したガイドブック磯部鉱泉繁盛記を著しました。

明治三十四年(1901)六十五歳で亡くなり、真光寺の墓地に眠っています。

先の右手に
晩香堂があります、山本有所著磯部鉱泉繁盛記の出版社です。

並びに和洋菓子
おのやがあります。
原市町元標 山本有所宅 晩香堂 小野屋

創業天保五年(1835)の老舗です、銘菓
とおあし最中とおあしラスクを商っています。

  第二中学校を過ぎると、左手に八本木旧立場茶屋標識を掲げた出桁造りの旧家があります、志がらき御茶漬が名物の御休所山田屋卯兵衛跡です。

右手の段上に
八本木地蔵堂があります、大永五年(1525)松井田小屋城主安中忠清が原市に榎下城を築いた際に、城の守護神として勧請したものです、百年に一度開帳される秘仏で、参勤の諸大名は下乗下馬したといいます。

境内に天保六年(1835)建立の
聖徳太子孝養像」があります、聖徳太子十六歳像です、太子は仏教の保護者でした。
立場茶屋跡 八本木地蔵堂 聖徳太子像 庚申石祠

 太子像の背後に寛政二年(1625)建立の
庚申石祠があります、安中最古のものです。

 次いで左手吉川屋酒店の向いに道祖神があります。

右手の原市保育所前バス停脇には
中山道丸太道標があります。

先の右手には明和九年(1772)建立の
道祖神石祠が祀られています。

一本先を右に入ると左手に
石仏石塔があります。

番匠屋敷バス停先の右手民家内に
釣瓶井戸(つるべ)があります、味わい深いですね!
道祖神 道祖神&石祠 石仏石塔 釣瓶井戸

 次いで右手に文化九年(1812)建立の馬頭観世音文字塔があります。

先の右手に
日枝神社があります、創建年代不詳で、かつては山王大権現と称し、大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀っています、郷原村の鎮守です。

隣接して真言宗豊山派
自性寺(じしょうじ)があります、保延元年(1135)の創建です、新島襄先祖菩提寺です、墓地には地元の磯貝雲峰の墓があります。

境内には応永三年(1396)と嘉吉三年(1443)建立の
宝篋印塔があります。
馬頭観音 日枝神社 自性寺 宝篋印塔

 広重は安中宿として松井田宿に近い、郷原村辺りの景色を描いています。

上り坂脇の
藁葺き屋根の民家裏には竹藪が茂っています、両側の斜面には梅の木が点々と植わっています、そして右側がになっています。

街道には参勤交代の
大名行列の前半部分が描いています。

先頭は杖をついた
先払いです、それに続くのが徒歩衆です、次いで両掛荷物を担いだ中間、そして槍持ちが続いています。

街道の先には大名行列が近づいているのに、まだ気づいていない
旅人が描き込まれています。
木曽海道六拾九次之内 安中 広重画

 パチンコダイナムを過ぎると右手に安永三年(1774)建立の道祖神百番供養塔、そして中山道丸太道標「松井田宿←2.9km 安中宿→6.2km」があります。

次いで右手に
磯貝雲峰旧宅跡標識があります、磯貝雲峰(うんぽう)は慶応元年(1865)の生まれ、同志社英学校で学び、その後渡米し英詩の翻訳をするも労咳を患い三十二歳で没しました。

スグ先左手の植込みの中に
高札場の跡標識があります、郷原村の高札場跡です。
石塔 磯貝雲峰旧宅跡 高札場跡 郷原分校

 次いで右手に原市小学校郷原分校があります、この辺りに
郷原の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より三十一里目です。

 原市第七区公会堂先の左手に石祠道祖神が祀られています。

先の左に
道祖神が祀られています。

街道は
国道18号線に突き当たります、手前右手(白色矢印)の郷原西旧道に入ります。

直進(黄色矢印)し交差点を横断すると
妙義講中が文化五年(1808)に建立した妙義道常夜燈があります、台石には是より妙義道と刻まれています。

元はここから東へ50mの中山道から
石祠道祖神 道祖神 郷原西旧道西口 妙義道常夜燈

分岐する
妙義道入口にありましたが、昭和六十年三月に現在地に移転されました。

 それでは郷原西旧道に入りましょう、この道筋は碓氷川の琵琶窪を避ける為の高巻道です。

下り坂はガードレールの
T字路に突き当たります、左折します、京方面からは一本目を右折して上り坂に入ります。

右手の貯水池を過ぎると左手に
石段(黄色矢印)が現れます、大事な旧跡がありますので石段を上ってみましょう。

国道18号線を右に進むと道路案内標識の先、白パイプフェンスの切れ目の右手に
歌川広重の中山道六十九次 
郷原西旧道内分岐 旧跡確認 旧跡確認 広重モデル地

松井田のモデルの地標識があります。

 広重は松井田宿として宿の東口を描いています、是従松井田宿と書かれた傍示杭関札が描き込まれています。

遠景に
碓氷峠、左の谷は碓氷川の琵琶ノ久保、街道は逢坂です。

関札の先にある
には道祖神が祀られています、宿内に入り込む悪霊を見張っています、そして松の根方には庚申塔があります、二筋のが奉納されています。

街道上には
米俵物資を輸送するを描いています。

松井田は物資の
中継地でした、碓氷峠以西の信州諸藩年貢米はここに集積され、半分はここで売買されました。

残りの米は
倉賀野に運び、そこから舟運で江戸に廻送されました。
木曽海道六拾九次之内 松井田 広重画

 松井田モデル標識の奥には明治二十一年(1878)建立の西南の役碑地蔵尊等があります。

段上には
逢坂の神明と呼ばれる神明社が祀られています、江戸からここまでは平坦でしたが、逢坂は中山道最初の急坂といわれました。

それでは旧道に戻りましょう、国道18号線を
大坂地下道でくぐり、突当りを右折します。

この先二ケ所の
変則Y字路は右に進みます。
石仏石塔 逢坂の神明 大坂地下道 石仏石塔群

 旧道の右手には夥しい数の
石仏石塔が並んでいます。

 旧道の左手には信仰の山で、奇岩怪石からなる名峰妙義山が遥かに望めます。

旧道は国道18号線から分岐した
県道33号渋川松井田線に合流します。

京方面からは右手のレストランサミーの所から斜め右の
郷原西旧道に入ります。

右手の松井田電化の所に
中山道丸太道標があります。

右手のコメリを過ぎると
庚申塔馬頭
妙義山 郷原西旧道西口 レストランサミー 石仏石塔

観音像が祀られています。

 PM5:09 松井田宿着

松井田宿東口 松井田宿起点
 下町交差点に中山道丸太道標「松井田宿→」があります、ここが松井田宿下木戸跡です、松井田宿に到着です!

しかし暗くなりこれ以上は写真撮影不可です、これ以降は次回としましょう、
仲町交差点に到着です、ここが松井田宿の起点です、本日の街道ウォークはここ迄です。

サア、撤収です、仲町交差点を左に下れば松井田駅があると・・・・・・思っていました。

坂を下り切るとT字路に突き当たります、真っ暗です、駅があれば何となく雰囲気で方向がわかるものです・・・・・・・全くその気がありません、無論駅を示す標識や案内はありません。

夕方の
5時過ぎであれば、仕事帰りの会社員や学生が通行しているはずです・・・・・・・全く人影がありません、車も通りません。

何か
異次元にワープしてしまった気味悪ささえ感じます、こんなの初めてです。

街道マップは詳細に調べますが、帰路は手抜きです。

意を決しT字路を右折し、を越し、左手の階段を上りました・・・・・・駅がありました。

例の
モノは高崎駅で合法的に入手しました。



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