私の生れは上州は群馬です、父方の実家は玉村に近く、母方の実家は新町寄りでした。 子供の頃、里帰りすると利根川を渡り、玉村の八幡さまで遊んだり、烏川を渡って新町駅に到着する蒸気機関車を見に行ったことを覚えています。 街道ウォークに興味を持つと、新町は中山道の宿場、玉村は日光例幣使街道の宿場であったことを知りました。 そして育った所は東海道の宿場であった川崎、そして現在の住まいは神奈川宿の近くです。 この様な街道繋がりがDNAの中にあるのかもしれません。 陽も大部短くなっています、アップテンポで行きましょう。 そのような訳で、今朝もカレーです、今回はすき家にしてみました。
ある夜、保己一が講義をしていると風が吹きローソクの火が消え、弟子達が慌てふためいていると、保己一が「目あきとは不自由なものじゃ」といったといいます。 墓は甲州道中の東京都新宿区若葉二丁目の愛染院にあります。
城主小笠原信嶺(のぶみね)が勧請したものです、参道脇には御神木のケヤキが聳え、根方には万延元年(1860~61)建立の庚申塔等があります。
仏門に帰依し、水不足に悩むこの地に開基しました、すると付近の水不足は無くなり若泉の庄と呼ばれるようになりました、慶安二年(1649)には徳川幕府より二十五石の朱印地を拝領しました。
貴(ただたか)が嘉永十六年(1639)社殿改修時に献木したものです。
歩道橋の右手には高野真言宗準別格本山龍蓋山佛母寺(ぶつもじ)があります、金鑚神社の別当寺でした。
の庚申塔があります。
は右(黄色矢印)に入ってみましょう、以前は曲がり角に史蹟金窪城址入口標石がありましたが無くなっています。
ぶち)を経て倉賀野宿へ向かっていました、伊香保道とも呼ばれました。
右手に寛政十二年(1800)建立の庚申塔、文久二年(1862)建立の如意輪観音像等が並んでいます。
されています、神流川(かんながわ)は暴れ川で出水の度に川筋を変え、伝馬や旅人は難渋しました、そこで文化十二年(1815)本庄宿の豪商戸谷八の戸谷半兵衛が神流川の渡しの見透し線上に燈籠を設置しました。
の兵を率いて出陣、これに対し好機至れりと北条氏政は五万の大軍を進め、両軍は神流川原で激突し、瀧川軍は戦死者三千七百六十名を出し敗退しました、盛夏の中の戦いでした。 神流川古戦場跡碑の傍らには明和年間(1764~71)造立の馬頭観音像が祀られています。
内家数は四百七軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠四十三軒で、宿内人口は千四百三十七人(男七百十三人、女七百二十四)、小宿ながら飯盛ははなはだ盛んでした。
寺に小学校の前身となる懇信社を開設し、子弟教育に情熱を注ぎました、隷書、草書の名品を残しています。
信武の墓があります。
られています。 水屋は文政六年(1823)新町の人々の浄財により建立され、手水鉢石の冰香(ひょうこう)は寛政の四大詩人大窪詩仏(おおくぼしぶつ)の筆跡で高崎市指定文化財です。
拝殿には宿内の飯盛が奉納した絵馬が掲げられています。
「むすぶより はや歯にひびく しみずかな」や安政五年(1858)建立の道祖神や庚申塔があります。
の貿易で財を成しました。 先の右手に信迎庵があります、境内には宝暦十三年(1763)建立の橋建立供養塔や大正十五年(1926)建立の大洪水溺死請聖霊供養塔があります、烏川(からすがわ)の氾濫で亡くなった人々を供養したものです。
氾濫に見舞われ廃村となりました。
渡賃は一人につき十文、荷駄一駄十四文、武士は無賃でした、烏川は柳瀬川とも呼ばれました。 突当りの土手下を左折(黄色矢印)し、再び土手道を進みます。
しました。
京方面からは右手の税理士法人真下経営が分岐ポイントです。
頭尊があります。
盛しました。 天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によれば倉賀野宿の宿内家数は二百九十七軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠三十二軒、宿内人口は二千三十二人(男千四十七人、女九百八十五人)で、宿並は下町、中町、上町で構成され、宿場機能は中町に集中していました。
祀られています。
かりました、この家は古峯神社を信奉していたところから、天狗が庭の樅ノ木に乗り移って防火につとめたといいます。
手に七世紀末頃に築造されたと推定される、径20m、高さ4mの円墳があります。
マルエドラッグの手前を斜め左に入ると浅間山古墳があります、 四世紀末~五世紀初頭築造の全長171mの前方後円墳で群馬県内二番目の規模を誇っています、地方豪族の墳墓といわれます。
養寺があります、上野國真言宗三名刹(滝の慈眼寺、玉村町五料の常楽寺)一つで、武田信玄から朱印を拝領しました。 あら町交差点を左に入ると、右手に諏訪神社があります、慶長四年(1599)の勧請です、本殿は総漆喰の塗籠(ぬりごめ)造の防火様式で、享保十四年(1729)、文化四年(1807)の火災に遭っており、その痕跡が確認されています。
烏川に沿って築城された輪郭梯郭(りんかくていかく)複合式の平城です、城の周りは土塁で囲み、石塁はほとんどありませんでした。 画面の中では二人連れの旅人にたかる、胡麻の蝿(護摩の灰)を描写しています。
山派真珠山玉田寺(ぎょくでんじ)があります、永正元年(1504)和田城主和田信輝が和田城の鬼門除けの寺として薬師如来を安置して創建したものです。
探雲はご当地の出身です。
橋を渡り切り、歩道左の歩行者専用階段を下ります。下った先から君が代橋下地下道をくぐります。
国道406号線に戻って進むとY字路になります、左が中山道です、右は榛名草津道です。
寛文二年(1662)幕府代官が社殿の大改修を行いました、武士の崇敬が篤く、明治に入ると乃木大将が参拝しています。
境内には道祖神、庚申塔が祀られています。 次いで右手に上州櫓(やぐら)造りの旧家があります、養蚕用の小屋根を備えています。
塚木はエノキで、江戸日本橋より数えて二十八里目です。
総門をくぐると急な石段の上りが始まります、霊符堂(本堂)には大小多数のだるまが奉納されています。
JR信越本線を越すと上野國一社八幡宮が高台に鎮座しています、八幡太朗義家が奥州下向の際にここで一宿し、甲冑を奉納したといいます、源頼朝、武田信玄に篤く崇敬されました。
大田南畝は壬戌紀行の中で「驛舎をでて麦畑の中をゆけば石橋あり、新建石橋、木嶋七郎左衛門供養塔といへる石たてり、べに累々たる石仏をつくらんよりは、橋をたてし功徳はまさりぬべし」と褒め讃えています。
そして中山道丸太道標「板鼻宿←0.5km 高崎宿→5.6km」があります。
道標の正面には「やはたみち」右面「はるな くさつ 河原湯 かねこ 沢たり 志ぶ川みち」と刻まれています。
これを混ぜ合わせていると、ソースかつ丼の登場です、赤だしの味噌汁が添えられています、カツの上にタルタルソースをたっぷり乗せて頂きます、普通のソースカツ丼はご飯の上に千切りキャベツが敷いてありますが、当店は香ばしく炒めた玉ネギが敷いてあります、絶品です!お奨めします!!
墓地には和算家小野良佐栄重(りょうすけえいじゅう)の墓があります、伊能忠敬に天文学を学び、海岸線の測量に参加しました。
夏は徒歩渡し、冬は仮橋でしたが、延亨四年(1747)幕府の防衛政策緩和により土橋が架橋されました。
交点を左に入ると右手に諏訪神社があります、中宿の鎮守です、境内に明治天皇腰掛石があります、明治十一年(1878)北陸東海巡幸の際に、この石に腰掛けて休息しました。
この先が土橋跡です。
中宿に伝わる農民芸能で人形の胴に明かりを入れ糸で操ります(国無形民俗文化財)。 先のY字路は右に進みます。
斜め左の県道125号一本木平小井戸安中線に入ります。 信号交差点手前を右に入ると正龍寺(しょうりゅうじ)があります、本尊は千手観世音菩薩で上野三十四箇所観音霊場(第二十五番札所)です、境内には大きな馬頭観世音文字塔があります。
宿並に入り一本目を右折すると熊野神社があります、永禄二年(1559)安中忠正が安中城を築き、鬼門の守護神として熊野神社を祀り、安中藩の総鎮守として歴代藩主に篤く崇敬されました。
左手の安中郵便局の敷地内に本陣跡碑があります、須藤家が勤め建坪は百九十二坪で問屋を兼ねました。
跡標識があります。
再建しました、この地は中山道の関東口に当る為、以降は徳川譜代の大名が入城しました。
明応年間(1492~1501)の創建です、開基は安中忠親の母法昌院です、当寺は子宝安産の鬼子母尊神を祀っています。
大木戸趾碑があります、安中宿の京(西)口です。
一里山辺りに一里山の一里塚があったともいいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十里目です。
向いには正一位稲荷大神を祀る稲荷神社があります。
明治四年(1871)四月、太政官布告によりそれまでの町村役人を廃して戸長と改称しました。
とし)が時の鐘とした名鐘です、これが為戦時中の供出を免れました(安中市指定重要文化財)。
創業天保五年(1835)の老舗です、銘菓とおあし最中、とおあしラスクを商っています。
太子像の背後に寛政二年(1625)建立の庚申石祠があります、安中最古のものです。
次いで右手に原市小学校郷原分校があります、この辺りに郷原の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より三十一里目です。
分岐する妙義道入口にありましたが、昭和六十年三月に現在地に移転されました。
松井田のモデルの地標識があります。
旧道の右手には夥しい数の石仏石塔が並んでいます。
観音像が祀られています。
しかし暗くなりこれ以上は写真撮影不可です、これ以降は次回としましょう、仲町交差点に到着です、ここが松井田宿の起点です、本日の街道ウォークはここ迄です。 サア、撤収です、仲町交差点を左に下れば松井田駅があると・・・・・・思っていました。 坂を下り切るとT字路に突き当たります、真っ暗です、駅があれば何となく雰囲気で方向がわかるものです・・・・・・・全くその気がありません、無論駅を示す標識や案内はありません。 夕方の5時過ぎであれば、仕事帰りの会社員や学生が通行しているはずです・・・・・・・全く人影がありません、車も通りません。 何か異次元にワープしてしまった気味悪ささえ感じます、こんなの初めてです。 街道マップは詳細に調べますが、帰路は手抜きです。 意を決しT字路を右折し、川を越し、左手の階段を上りました・・・・・・駅がありました。 例のモノは高崎駅で合法的に入手しました。
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