旅の手始めは目的地迄の電車の乗り継ぎ時間の確認です、以前はぶ厚い時刻表とにらめっこでしたが、今はネットで簡単に調べられます。 検索はまず乗車駅そして次に下車駅を入力します、次に出発日を入力します、これは平日と休日の列車運行時間の違いをチェックする為に必要です。 最後に希望出発時間を打ち込みます、私はいつもAM3:30と入力します、始発列車ないし朝一番速く目的地に到着する列車を知る為です。 今回も出発駅上野、下車駅松井田、出発日2009年12月06日、出発時間3時30分と打ち込みました。 回答は高崎線上野駅5:43発、7:27分高崎駅着、3分で乗換え信越本線7:30分発、7:53分松井田駅着と出ました。 チョット待てよ、これまで上野駅始発5:13の高崎線で通してきました、何とかこの始発体制を維持できないか、個別にチェックしてみました。 すると高崎線の始発は6:55に高崎駅に到着します、次に高崎駅発の信越本線の時刻表をネットでチェックすると、始発6:57がありました。 何と乗換え時間が2分です、ネットは2分ですと乗換え不可と判断したのでしょうか、2分あればダッシュで乗換えが可能かも知れません、ここからはアナログ作戦です。 高崎駅に電話です、高崎線の到着ホーム及び信越本線の出発ホーム、両ホーム間の距離、そして高崎線の何号車に乗るのが有利なのか等々を聞く為です。 回答は明快でした、高崎線は4番線に到着し、信越本線横川行き始発は同じホーム向いの2番線に待機とのことでした。 何だ案ずるよりも生むが易しです、同じホームの向であればノープロブレムです、安心して電話を切りました。 ウーッ、チョット待てよ4番線の向であれば3番線か5番線でしょう、2番線とは不可解です、この様な疑問を持ちながらの出発になりました。 JR高崎線は定刻通り高崎駅に到着です、車窓から目を凝らすと理解できました、変則3番線があったのです、納得です。 横川行きの信越本線は向いの2番線ホームに待機していました、楽勝です、手でドアーを開け乗車です。 ネットではこの組み合わせは認知されていません、万能ではありませんね。 松井田駅から松井田宿まで前回苦労した道筋をトレースします。 本日は中山道最大の難所碓氷峠を控えています、それではハリキッテ行きましょう!
碓氷峠を越えこの地まで来ると、法然の死を知らされ落胆のあまり吐血し、「大師上人ましまさぬ都へは行くまじ」と心を替え、常盤國の方へ向かったといいます。
西松井田駅前交差点のスグ手前を右に入ると、右手の赤松の所に夥しい数の石仏石塔があります。
左手にJR信越本線の製糸踏切が現れます、本来の旧道は踏切先(白色矢印)にありましたが、消滅し通行不可です、右に迂回(黄色矢印)し、線路沿いに進みます。
迂回路はT字路に突き当たります、左からの筋が旧道(白色矢印)です、ここを右折して旧道に復帰します、京方面からはカーブミラーのある十字路を左折します。
お西は本家、お東は分家で共に名主を兼ねました、両家屋とも文化三年(1806)の大火で焼失し、同年に再建されました(共に公開されています)。
五所平踏切辺りが信越本線の敷設による旧道の分断ケ所です、本来であればこの御所平踏切でJR信越本線を横断(白色矢印)して、JA碓氷安中臼井支所の所から旧道に復帰します。 しかしこの五所平踏切は上り線のみの踏切で線路敷地内の農地への専用踏切です、迂回(黄色矢印)しましょう。
JR信越本線を跨ぎ、国道18号線を横断して直進すると臼井小学校前のT字路に突き当たります、左からの筋(白色矢印)はJA碓氷安中臼井支所の所から復活した旧道です、それでは旧道に復帰しましょう。
星穴岳(ほしあなだけ)の左の穴が矢の射ぬき穴です、右の穴はむすび穴です、これは百合若大臣の家来が負けじと、腰にぶら下げていたむすびを投げつけた穴跡です、こりゃどうみても家来の方が凄いですね!
右手に中山道丸太道標「←坂本宿3.0km 松井田宿5.3km→」があります。 初期の中仙道は横川より北側にあり、ここに横川の一里塚がありましたが、その後街道の付け替えが行われた為、その後に刊行された中山道分間延絵図には記載がありません、江戸日本橋より数えて三十四里目です。
大名は関所通過の為に服装を正したり、通過した大名は通常の旅支度に着替えました、武井家は代々横川の名主を勤め、幕末には坂本宿の助郷総代を兼ねました。
坂本宿の嫁取りは信濃方面の娘が殆どでした、これは碓氷関所の出女の取り締まりの厳しさを物語っています。
橋桁の低い土橋であった為、度々流失しました、このため碓氷関所には大綱一筋、麻綱一筋が常備され、御用綱として公用の書状箱を対岸に渡しました。
旧原村内に流れる用水路の起点に、清浄と安全と豊富を願って水神を祀ったものです。 原交差点先の右手に文化九年(1812)建立の巡礼供養塔「奉納 西国四国秩父坂東 天下泰平」があります。
宿並を進むと左手に坂本町道路元標があります。
文久元年(1861)十一月九日、碓氷峠を越え七ツ時(午後四時)に到着し、十八日目の夜を過ごしました、翌朝五ツ時(午前八時)に出立しました、ここで皇女和宮は「都出て 幾日来にけん 東路や 思えば長き 旅の行くすゑ」と詠みました。
坂本交差点手前の右手が永井脇本陣跡です、豪壮な門を残しています。
ひとたび一茶がたかさごやに草鞋を脱いだと聞くと近郷近在の同好者が駆けつけたといいます。
寛政二年(1790)の建碑で、元は碓氷峠の刎石坂にあったものを明治に入り、ここに移設されました、芭蕉が汗をかきかき峠を越えた姿が目に浮かぶようです。
それでは取り掛かりましょう、国道18号線は右に大きく曲がりますが、旧道はここを直進します、@「これより碓氷峠曲折多し 運転注意」標識の先、ガードレールの切れ目から入ります。
十返舎一九は険阻な刎石坂を「たび人の 身をこにはたく なんじょみち 石のうすいの とうげなりとて」と詠っています。
諸国行脚中の弘法大師が水不足に悩む刎石茶屋の為に掘り当てた霊水です。
明治天皇御巡幸道の痕跡です、明治十一年(1878)明治天皇北陸東海巡幸に際して開削された道です。
山中坂をヒーヒーフーフーと上ると左手に一つ家跡解説があります、ここには老婆がいて旅人を苦しめたといいます。 一つ家辺りに一つ家の一里塚がありましたが、浅間山の天明大噴火で消滅したといいます、江戸日本橋より数えて三十六里目です。
倒木をくぐりながら進むと右手に化粧水跡解説があります、峠町へ登る旅人が、この水で姿、形を直した水場です。 ※山ヒル対策:山ヒル情報や問合せを沢山頂いています、碓氷峠には山ヒルが生息しています、山ヒルは足元から這い上がり皮膚食い破って吸血するドラキュラです、山ヒルは湿潤で日影な所に生息しています、従って草むら等に立ち入ったり、一ケ所に留まらなければ全く問題ありません、普通に街道を歩いていれば遭遇しませんからご安心下さい。
七味唐辛子をタップリ掛けて賞味、美味い!!もう一杯、うーん止めておきましょう、親父の小言と冷酒(ひやざけ)は後から効くといいますから。 月見そばで仕上げです、やっと人心地がつきました、サアー腰を上げましょう。
そして明治天皇峠御小休所跡碑があります。
B先のガードレールの切れ目から再び左(白色矢印)の土道に入ります、ここにはメーターボックスが取り付けられた電柱があります、この電柱にはかもん坂軽井沢標識が取り付けられています。
グングン下ると右手に中北道標「←峰の茶屋12.7km 碓氷峠3.3km→」があります。
野ざらし紀行の中の一句「馬をさへ ながむる雪の あした哉」が刻まれています、天保十四年(1843)当地の俳人小林玉蓬が芭蕉翁百五十回忌に建碑したものです。
境内の枝垂れ桜は樹齢四百年で文人達も愛でたといいます。
本陣跡から宿並に戻った辺りに軽井沢の一里塚があったといいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十七里目です。
右手に寛政十年(1798)建立の草津道道標があります、道標正面には不動明王像が陽刻され、側面には右くさつへと刻まれています、ここから草津温泉へ十里の道のりです。
境内には脇本陣油屋が奉納した文化十三年(1816)建立の常夜燈があります。
入口の門は土田本陣の裏門を移築したものです、堀辰雄は「風立ちぬ」「美しい村」等軽井沢を舞台にした作品を残しています、晩年は労咳(結核)を患い、ここを安住の地と定めました。
明治の世になると旅館になり岩倉具視、大隈重信、山岡鉄舟等が宿泊しました。
頬を押さえているところから歯痛地蔵とも呼ばれました。
先の左手には中北道標「←追分 塩名田→」があります、右手は多目的ホールサエーラ軽井沢です。
「←小田井3.4km塩名田宿13.5km 追分1.8km→」
で塚木は枝垂れ桜です、但し、この桜木は明治の頃戦勝祝いに植樹されたものです。 東塚は径十三m、周囲四十m、高さ五mで塚木はありません。
予定通りの到着です、駅に向かい途中の酒屋さんで順当に例のモノを確保しました。 御代田駅で駅員さんに「すいません、ここで長野新幹線の切符買えますか」というと、間髪入れずに「これ持って行って下さい」、後から「急いで下さい」と掛け声がかかる。 背中を押され、ダッシュで階段を上り、駆け下りると同時に軽井沢行き列車が滑り込んできました。 乗車して渡されたモノを見ると、黄色いチケットで、御代田駅から乗車したことを証明するものでした。 ありがたいな、何かうれしいな、思はず缶のプルトップを開けてしまいました。
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