道中日記 11−176 中山道 ( 松井田 - 御代田 ) 33.1km

 旅の手始めは目的地迄の
電車の乗り継ぎ時間の確認です、以前はぶ厚い時刻表とにらめっこでしたが、今はネットで簡単に調べられます。

検索はまず
乗車駅そして次に下車駅を入力します、次に出発日を入力します、これは平日休日の列車運行時間の違いをチェックする為に必要です。

最後に
希望出発時間を打ち込みます、私はいつもAM3:30と入力します、始発列車ないし朝一番速く目的地に到着する列車を知る為です。

今回も出発駅
上野、下車駅松井田、出発日2009年12月06日、出発時間3時30分と打ち込みました。

回答は
高崎線上野駅5:43発、7:27分高崎駅着、3分で乗換え信越本線7:30分発、7:53分松井田駅着と出ました。

チョット待てよ、これまで上野駅始発5:13の
高崎線で通してきました、何とかこの始発体制を維持できないか、個別にチェックしてみました。

すると
高崎線の始発は6:55に高崎駅に到着します、次に高崎駅発の信越本線の時刻表をネットでチェックすると、始発6:57がありました。

何と乗換え時間が
2分です、ネットは2分ですと乗換え不可と判断したのでしょうか、2分あればダッシュで乗換えが可能かも知れません、ここからはアナログ作戦です。

高崎駅に
電話です、高崎線の到着ホーム及び信越本線の出発ホーム、両ホーム間の距離、そして高崎線の何号車に乗るのが有利なのか等々を聞く為です。

回答は明快でした、高崎線は
4番線に到着し、信越本線横川行き始発は同じホーム向いの2番線に待機とのことでした。

何だ案ずるよりも生むが易しです、同じホームの向であればノープロブレムです、安心して電話を切りました。

ウーッ、チョット待てよ
4番線の向であれば3番線5番線でしょう、2番線とは不可解です、この様な疑問を持ちながらの出発になりました。


JR高崎線は定刻通り高崎駅に到着です、車窓から目を凝らすと理解できました、
変則3番線があったのです、納得です。

横川行きの信越本線は向いの
2番線ホームに待機していました、楽勝です、手でドアーを開け乗車です。
ネットではこの組み合わせは認知されていません、万能ではありませんね。


松井田駅から松井田宿まで前回苦労した道筋をトレースします。

本日は中山道最大の難所
碓氷峠を控えています、それではハリキッテ行きましょう!

 平成21年12月06日 AM7:35 松井田宿出立 坂本宿まで 9.1km

 下町交差点に中山道丸太道標「松井田宿→」があります、ここが松井田宿の下木戸跡です、松井田宿の江戸(東)口です。

松井田宿には信州諸藩の
年貢米が集積され、江戸廻米の中継地になっていました、廻米の約半分は松井田宿の宿米(米商人)に払い米(換金)され、残りの米は倉賀野河岸に運送され、ここから舟運で江戸に廻送されました、これら諸藩の廻米の取扱い高は多額であり、松井田宿は米宿とも呼ばれ大いに繁盛しました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、松井田宿宿内家数は二百五十二軒、うち本陣二、脇本陣二、旅籠十四軒、宿内人口は一千九人(男五百四十七人、女四百六十二人)で、宿並は六町六間(約666m)でした。

旅籠は十四軒と少数でした、これは先に碓氷の関所、そして難所碓氷峠が控えている為、「雨が降りゃこそ松井田泊り、降らにゃ越します坂本へ」と唄われ、通過の旅人が多かった為といいます。
松井田宿東口 道標

 宿並を進むと左手にかんべやがあります、妙義登山口と記された古看板を掲げています、ここが妙義道追分でした。

右手が
徳右衛門脇本陣跡です、松井田宿明細帳には「凡建坪七十三坪 玄関門構無御座候」と記述されています。

次いで左手に臨済宗妙心寺派貞松山
崇徳寺(そうとくじ)があります、室町幕府初代将軍足利尊氏の開基で、墓地には外郎(ういろう)の陳氏歴代の墓があります。
かんべや 脇本陣跡 崇徳寺 陳氏歴代墓

 先右手の山城屋酒店がういらう屋跡です、小田原ういらう(外郎)の分家外郎陳道斎の店跡です。

次いで左手の群馬県信用組合が
金井本陣跡です、下の本陣と呼ばれ、問屋を兼ね、上の本陣と一ケ月交代で勤めました、建坪は百七十一坪でした。

仲町交差点を越した右手に
松井田町道路元標があります。

クリーニング店のオオツキ辺りが
松本本陣跡です、上の本陣と呼ばれ問屋を兼ねました、建坪は百七十四坪でした。
ういらう屋跡 金井本陣跡 道路元標 松本本陣跡

 松本本陣跡先を右に入ると真言宗豊山派龍本山不動寺があります、寛元元年(1243)開山の古刹で、武田信玄より寺領を寄進され祈願所として栄えました。

桃山時代の作風を残す
仁王門と仁王門前の三基の異形板碑(石塔婆)は群馬県指定重要文化財です。

宿並に戻ると左手の理容小坂橋の所が
安兵衛脇本陣跡です、松井田宿明細帳には「凡建坪八十二坪 玄関門構無御座候」と記述されています。

松井田歩道橋手前の砂利道を右に入ると真宗大谷派
本照寺があります、親鸞聖人御心替血之辻御舊蹟です。

親鸞四十二歳の建保二年(1214)越後から京へ向い、
不動寺仁王門 異形板碑 本照寺

碓氷峠を越えこの地まで来ると、
法然の死を知らされ落胆のあまり吐血し、「大師上人ましまさぬ都へは行くまじ」と心を替え、常盤國の方へ向かったといいます。

 宿並に戻ると右手アメリカンベーカリーの所に高札場跡解説があります、当初は仲町交差点辺りに設置され、慶安五年(1650)外郎店(ういろうたな)屋敷の前に移動され、その後領主普請でここに移設されました。

松井田歩道橋下に
中山道丸太道標「松井田宿→」があります、ここが松井田宿の上木戸跡です、松井田宿の京(西)口です、それでは松井田宿を後にしましょう。

松井田歩道橋先を右に入ると
松井田八幡宮があります、建久八年(1197)源頼朝が参詣し、後の慶安元年(1648)徳川三代将軍家光より朱印地十三石六斗を賜りました。

寛永年間(1624〜45)に建立された
本殿は三間社流造銅板葺で群馬県重要文化財です。
高札場跡 上木戸跡 松井田八幡宮本殿

 街道の左手に森崎町住民センター標柱があります、ここを左に入ると厄除北面千手観世音があります、境内には石仏石塔があります。

松井田郵便局の向いに安中市松井田商工会があります、昭和十四年(1939)築の
旧松井田警察署です。

街道の正面には冠雪した
浅間山が望めます。

新堀交差点を過ぎると右手のヤンマー農業機械の敷地内に
庚申塔が二基祀られています。
北面観音 松井田商工会 庚申塔 石仏石塔群

 西松井田駅前交差点のスグ手前を右に入ると、右手の赤松の所に夥しい数の
石仏石塔があります。

 右手に曹洞宗補陀寺(ふだじ)があります、応永年間(1394〜428)の創建です、安中氏,武田氏が帰依したのち天正十年(1582)松井田城主となった北条氏政の家臣大導寺政繁の菩提寺となりました。

補陀寺の寺域を含む北側一帯は
松井田城跡です、松井田の地は関東防衛の要衝でした、天文二十年(1551)小田原北条氏の配下安中越前守忠政松井田城を築いたのが始りです、、永禄六年(1563)武田信玄に攻められ忠政は自刃し落城となりました。

天正十年(1582)再び小田原北条氏の領有になり、配下の
大道寺駿河守政繁が城主となりました、天正十八年(1590)豊臣方の前田利家上杉景勝率いる三万余りの軍勢に攻められ落城となり、廃城となりました。

墓地には自刃した松井田城主
大導寺政繁の墓があります、以来、加賀前田家が参勤で門前を通ると墓は悔し汗をかいたといいます。
補陀寺 大導寺政繁墓

 補陀寺先のY字路を左に下ります、京方面からは突当りの県道217号線を右折します。

街道の正面には
妙義山の山容が広がります、右手の丸石擁壁上に天保十二年(1841)建立の道祖神石塔が祀られています。

次いで左手に
一里塚跡解説があります、先を左に回り込むと民家の庭内に新堀の一里塚の痕跡があります、江戸日本橋より数えて三十三里目です。

正面の
妙義山に向って進みます。
新堀分岐 道祖神 新堀の一里塚 新堀迂回路

 左手にJR信越本線の
製糸踏切が現れます、本来の旧道は踏切先(白色矢印)にありましたが、消滅し通行不可です、右に迂回(黄色矢印)し、線路沿いに進みます。

 JR信越本線を第十中仙道踏切で横断すると新堀から五料に入ります。

左手に
妙義山の全容が望めます、妙義山は日本三大奇景の一つで、白雲山、金洞山、金鶏山、相馬岳、御岳、丁須ノ頭、谷急山等を合わせた総称です。

妙義神社白雲山を御神体としています。

先の
T字路を左折します、左手に佐藤産業建設があれば正解です、京方面からは突当りを右折します。
第十中仙道踏切 妙義山 五料分岐 旧道復帰点

 迂回路は
T字路に突き当たります、左からの筋が旧道(白色矢印)です、ここを右折して旧道に復帰します、京方面からはカーブミラーのある十字路を左折します。

 緩やかな鳥居坂を上ると 旧道を証明するかの様に大岩の上に地蔵立像が安置されています。

スグ先で
国道18号線に突き当たります、この鳥居坂旧道口には文政十年(1827)建立の二十三夜塔、明治十三年(1880)建立の山燈籠があります。

そして
中山道丸太道標「←坂本宿6.0km 松井田宿2.3km→」があります。

国道18号線は
フェンスで遮断され横断不可(白色矢印)です、歩道(黄色矢印)を進み上信越車道高架下の五料交差点を右折します。
地蔵尊 山燈籠 丸太道標 五料口

 旧道に復帰して進むと、右手の理容院脇に庚申塔二十三夜塔があります。

次いで右手に
安中藩板倉伊豫(いよ)守領分五料村高札場跡標識があります、五料村は碓氷関所付要害村で、よそ者の潜入を監視する役目を担っていました。

ここを右(黄色矢印)に入り、JR信越本線を
お東踏切で渡ると茶屋本陣お東お西があります。

共に
中島家が勤めました。
石塔 五料高札場跡 茶屋本陣 お東 茶屋本陣 お西

 
お西は本家、お東は分家で共に名主を兼ねました、両家屋とも文化三年(1806)の大火で焼失し、同年に再建されました(共に公開されています)。

 先の左手に正徳四年(1714)建立の男女双体道祖神が祀られています、夫婦仲が良ければ悪霊の入り込む余地がないことを現しています。

ここを左に入ると国道18号線沿いに
JA碓氷安中朝市会農産物直売所があります。

次いで右手に
中山道丸太道標「←坂本宿5.5km 松井田宿2.8km→」があります。

JR信越本線を
榎踏切で横断し、丸山坂を上ります。

左手に
道祖神が祀られています。
男女双体道祖神 丸太道標 榎踏切 道祖神

 次いで右手に石仏石塔があります、元文五年(1740)建立の青面金剛庚申塔馬頭観音等があります。

先の左手に地蔵尊が二体あります、右手の大きな地蔵尊が
夜泣き地蔵です、ある馬方が左右の荷の平衡を取るために地蔵の頭を利用し、深谷で用が済むと捨ててしまった、すると夜毎「五料恋しや」と泣くため、哀れんだ深谷の人が五料に届けたといいます。

地蔵の前には
茶釜石があります、小石で叩くと茶釜のような金属音が響きます、この茶釜石を叩いてみた太田南畝は「五料(五両)では あんまり高い(位置が高い)茶釜石 音打(値打)をきいて通る旅人」とひねっています。
石仏石塔群 夜泣き地蔵 茶釜石

 車の通行はほとんど無い、長閑な上り坂を進み、低い切通しを越すと左手に中山道丸太道標「←坂本宿5.0km 松井田宿3.3km→」があります。

下り坂を進むと右手のコンクリート擁壁上に真新しい
馬頭観音像が蓮華上に安置されています。

次いで上り坂になると右手に文政十年(1827)建立の
馬頭観音像があります。

上り坂をグングン進むと右手に幅員の広い横道があります、ここを右に少し入ると右手の丘上に
二十三夜塔燈籠があります。
丸太道標 馬頭観音 馬頭観音 二十三夜塔&燈籠

 下り坂になるとY字路が現れます、左に進みます、すると左手の段上に馬頭観世音文字塔が祀られています。

グングン下ると視界が開けてくると右手に
中山道丸太道標「←坂本宿4.5km 松井田宿3.8km→」があります。

次いで右手に
馬頭観世音文字塔があります。

旧道を下り切るとJR信越本線に沿って進みます、右手の擁壁上にも
馬頭観音があります、これらの馬頭観音は信州からの年貢米の輸送を物語っています。
馬頭観音 丸太道標 馬頭観音 馬頭観音群 五所平踏切

 
五所平踏切辺りが信越本線の敷設による旧道の分断ケ所です、本来であればこの御所平踏切でJR信越本線を横断(白色矢印)して、JA碓氷安中臼井支所の所から旧道に復帰します。

しかしこの
五所平踏切は上り線のみの踏切で線路敷地内の農地への専用踏切です、迂回(黄色矢印)しましょう。

 JR信越本線に沿った迂回路を進むと右手に碓氷神社の鳥居があります、鳥居脇には二十三夜塔庚申塔があります。

碓氷神社社殿は高台に鎮座しています、碓氷峠熊野神社の分霊を祀っています、碓氷郷の鎮守産土神です。

建久年間(1190〜99)
源頼朝が信州浅間の牧狩りの際、境内に御所が置かれたところからこの地を御所平と呼ぶようになりました。

先の
高墓踏切を左折します。
碓氷神社 碓氷神社社殿 高墓踏切分岐 臼井分岐

 
JR信越本線を跨ぎ、国道18号線を横断して直進すると臼井小学校前T字路に突き当たります、左からの筋(白色矢印)はJA碓氷安中臼井支所の所から復活した旧道です、それでは旧道に復帰しましょう。

 臼井旧道を進むと右手に道祖神馬頭観音像庚申塔男女双体道祖神があります。

旧道は
国道18号線に合流します、ここが臼井旧道西口です。

国号を挟んで向かいに
石祠が四社並んでいます。

小山沢小山沢側道橋で渡ります、京方面からは小山側道橋先を斜め右に進みます。

渡詰めに
道祖神石祠があります。
石仏石塔 臼井旧道西口 石祠群 道祖神&石祠

 スグ先の小山沢交差点のY字路を左(白色矢印)に進みます、ここが小山沢旧道東口です。

旧道を進むと右手に
地蔵坐像を納めた石祠があり、前に百合若大臣の足痕石があります。

百合若大臣(ゆりわかだいじん)なる大男が強弓(ごうきゅう)を射る際、踏み潰した足痕跡です、この時に使った弓と矢が妙義神社に奉納されています。

目を向いの妙義山に転じると、
星穴岳に二つの穴が開いています。
小山沢旧道東口 地蔵尊 百合若大臣足痕 星穴岳

 
星穴岳(ほしあなだけ)の左の穴が矢の射ぬき穴です、右の穴はむすび穴です、これは百合若大臣の家来が負けじと、腰にぶら下げていたむすびを投げつけた穴跡です、こりゃどうみても家来の方が凄いですね!

 小山旧道はスグに国道18号線に吸収されます、ここが小山旧道の西口です。

この分岐点には
中山道丸太道標「←坂本宿3.5km 松井田宿4.8km→」があります、この道標は京方面からの重要な分岐ポイントです。

国道18号線沿いの歩道を進みます、左手には相変わらず
妙義山の山容が連なっています。

下横川交差点を右折し、JR信越本線を第十五中仙道踏切で横断し、県道222号横川停車場線に入ります。

しばらくJR信越本線に沿って進みます。
小山沢旧道西口 丸太道標 下横川分岐 丸太道標

 右手に
中山道丸太道標「←坂本宿3.0km 松井田宿5.3km→」があります。

初期の
中仙道は横川より北側にあり、ここに横川の一里塚がありましたが、その後街道の付け替えが行われた為、その後に刊行された中山道分間延絵図には記載がありません、江戸日本橋より数えて三十四里目です。

 その後二本の中山道丸太道標をやり過ごすと左手に明治十八年(1885)創業の名物峠の釜めし荻野屋があります、奥にJR信越本線の横川駅があります、敷地内の側溝蓋は無用になったアプト式レールが利用されています。

明治二十六年(1893)
碓氷峠に官設鉄道中山道線が開通しました、開業当初は急勾配用に歯車を用いたアプト式が採用されましたが、昭和三十八年(1963)からはレールとの摩擦力を高めた電気機関車に変更となりました。

横川駅では機関車交換の為に約5分間停車するため、
荻野屋峠の釜めしが名物となりました。

平成九年(1997)九月
長野新幹線の開業に伴い、横川駅〜軽井沢駅間が廃線となりました。
峠の釜めし 横川駅 アプト式レール

 街道に戻ると右手の石垣上に御嶽山座王大権現碑が祀られています。

矢野澤手前の右手奥に庚申塔二十三夜塔馬頭観世音文字塔等があります。

矢野澤橋を渡り、矢野澤の上流約300mの所に子育地蔵が祀られています、明治四十三年(1910)の洪水で流失しましたが、頭部が欠損した状態で発見されました、霊験あらたかな地蔵として信仰をあつめています。

次いで右手が
武井茶屋本陣跡です。
御嶽山碑 石塔群 子育地蔵 武井茶屋本陣跡

 大名は関所通過の為に
服装を正したり、通過した大名は通常の旅支度に着替えました、武井家は代々横川の名主を勤め、幕末には坂本宿の助郷総代を兼ねました。

 右手の群馬県信用組合脇に諏訪神社社標があります、ここを入ると左手に一部レンガ造りの貯水槽があります、蒸気機関車用の給水タンクでした。

正面の高台に
諏訪神社が鎮座しています、横川村の鎮守でした。

街道を進むと右手に
碓氷関所跡があります、慶長十九年(1614)仮番所が置かれ、元和八年(1622)番所となり、翌年徳川三代将軍家光の上洛に際し、関所となりました。

安中藩が管轄し、東海道
箱根関所と同格で「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました、明治二年(1869)廃止となりました。
貯水槽 諏訪神社 碓氷関所跡

 坂本宿の
嫁取りは信濃方面の娘が殆どでした、これは碓氷関所の出女の取り締まりの厳しさを物語っています。

 関所内におじぎ石があります、旅人はこの石に手をついて手形を差し出し、通行の許可を待ちました。

次いで左手に
鎮魂碑招魂碑があります、難所の碓氷峠に信越線を敷設する際に犠牲となった者達の霊を弔うものです。

旧信越本線ガードをくぐると
車道は左にカーブしますが、歩道は直進します。

霧積(きりづみ)霧積橋で渡ります、往時はここよりやや上流に川久保橋が架けられていました、正式には碓氷御関所橋と呼ばれ中山道筋でした。
おじぎ石 鎮魂碑&招魂碑 信越線ガード 霧積川

 橋桁の低い
土橋であった為、度々流失しました、このため碓氷関所には大綱一筋、麻綱一筋が常備され、御用綱として公用の書状箱を対岸に渡しました。

 霧積橋のスグ先に川久保薬師坂碑があります、右折し上り坂に入ります。

踏み込むと左手に
川久保薬師堂があります、取締りが厳しい碓氷関所、そして難渋を極める碓氷峠の無事通過の願いと感謝を込めてこの坂に薬師如来を祀ったといいます。

先の左手に
薬師の清水があります、ここには清澄なこの湧水を用いた名物心太(ところてん)を商う茶店があり、薬師坂は別名心太坂とも呼ばれました。

案外急な心太坂を上ります。
薬師坂東口 薬師堂 薬師の清水 薬師坂西口

 上り詰めると旧道は再び国道18号線に合流します、この分岐点には中山道丸太道標「「←坂本宿0.9km 松井田宿7.4km→」があります、京方面からは重要な分岐ポイントです。

右手の碓氷上水道貯水池を過ぎると左手に
白鬚(しらしげ)神社があります、景行天皇四十年(110)創建の古刹です、日本武尊が碓氷峠の白鹿に化けた山の神の危難から救った白鬚の老人を祀っています。

左手の
中山道丸太道標を過ぎると、上信越自動車道高架手前の左手に原村の水神が祀られています。
丸太道標 白鬚神社 水神 巡礼供養塔

 旧原村内に流れる
用水路の起点に、清浄と安全と豊富を願って水神を祀ったものです。

原交差点先の右手に文化九年(1812)建立の
巡礼供養塔「奉納 西国四国秩父坂東 天下泰平」があります。

 AM9:45 坂本宿着 軽井沢宿まで11.5km

 左手に下木戸が復元されています、ここが坂本宿の江戸(東)口です、坂本宿に到着です!木戸の開門は明け六ツ(午前六時)から暮れ六ツ(午後六時)迄でした。

坂本碓氷峠の坂の麓に位置する所を地名の由来としています、坂本宿は上州路最後の宿場です、江戸から概ね五泊目にあたり、東に碓氷関所、西に難所碓氷峠を控え大いに賑わいました。

宿並の完成は寛政二年(1625)と後発であった為、
宿並は整然としています、坂本宿は飯盛も盛んで「碓氷峠で坂本見れば女郎が化粧して客を待つ」とうたわれました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、坂本宿宿内家数は百六十二軒、うち本陣二、脇本陣二、旅籠四十軒で、宿内人口は七百三十二人(男三百七十六人 女三百五十六人)でした。
坂本宿下木戸跡 坂本町道路元標

 宿並を進むと左手に
坂本町道路元標があります。

 英泉は坂本宿として背景に特徴的な刎石山(はねいしやま)と宿並を鳥瞰(ちょうかん)して描いています、実際には宿並の延長線上に刎石山が位置していますが、構成上の問題でしょうか、宿並の横に描いています。

宿並の中央には
用水が通され、これを渡るために、こまかく石橋が架けられています。

宿長は三百九十二間(約706m)あり、宿並の家数は北側に八十二軒、南側八十軒、合計百六十二軒でした。

宿並の家屋は間口
七間(約12.6m)と、三間半(約6.3m)の二種類があり、間口七間の家屋は一軒屋、三間半の家屋は半軒屋と呼ばれました、この間口の違いが宿場の人馬役負担割合の根拠になりました。
木曽海道六拾九次之内 坂本 英泉画

 坂本宿は整然とした宿並を今に残しています、これで電柱及び電線を地中化すれば最高です!

右手に
武井九夏生家跡があります、文化十二年(1815)ここのこんどうやで生まれました、土の俳人中村碓嶺(やいれい)に師事し、歌、俳諧、書画に優れ八十九歳で没するまで活躍しました。

次いで右手に
卯建をあげた旧家があります。

先の左手に
金井本陣跡があります、代々金井三郎左衛門が勤め下の本陣と呼ばれました、敷地三百六十坪、建坪百八十坪、間口十間半でした。

皇女和宮は金井本陣に宿泊しました。
武井九夏生家 卯建をあげた旧家 金井本陣跡

 文久元年(1861)十一月九日、
碓氷峠を越え七ツ時(午後四時)に到着し、十八日目の夜を過ごしました、翌朝五ツ時(午前八時)に出立しました、ここで皇女和宮は「都出て 幾日来にけん 東路や 思えば長き 旅の行くすゑ」と詠みました。

 向いが旅籠中村屋跡です、慶安九年(1780)俳人の中村碓嶺(たいれい)はここで生まれました。

次いで左手に
佐藤本陣跡があります、代々佐藤甚左衛門が勤め、金井本陣と共に問屋を兼ね、上の本陣と呼ばれた。

明治八年(1875)佐藤本陣跡を仮校舎とした
坂本小学校が開校されました。

佐藤本陣の隣りがみよがや
脇本陣跡です、門を残しています。
中村屋跡 佐藤本陣跡 みよがや脇本陣跡 永井脇本陣跡

 坂本交差点手前の右手が
永井脇本陣跡です、豪壮な門を残しています。

 坂本交差点を越えた右手の坂本公民館が酒屋脇本陣跡です。

次いで右手に
旅籠かぎや跡があります、先祖が高崎藩納戸役鍵番でした。

先の右手に
旅籠つたや跡があります、明治四十一年(1908)八月、漂泊の詩人若山牧水は寂れた坂本に一軒だけ残るこの旅籠に泊り「秋風や 碓氷のふもと 荒れ寂びし 坂本の宿の 糸繰りの唄」を詠みました。

次いで右手に
旅籠たかさごや跡があります、小林一茶の定宿でした、坂本宿界隈は俳句が盛んでした。
酒屋脇本陣跡 旅籠かぎや跡 旅籠つたや跡 たかさごや跡

 ひとたび一茶が
たかさごやに草鞋を脱いだと聞くと近郷近在の同好者が駆けつけたといいます。

 先の右手に上州中山道筋坂本宿旅籠丸仁屋標石があります、右面「東 江戸へ三十四里」左面「西 京へ百二里」と刻まれています。

宿外れの
旅籠いげたや跡を過ぎると上木戸跡です、木戸が復元されています、坂本宿の京(西)口です。

木戸の柵内に
常夜燈碑と文政五年(1822)建立の橋供養塔があります、これは用水に架かっていた橋を供養したものです。

木戸を出ると右手に
芭蕉句碑「ひとつ脱て うしろに負ひぬ 衣かへ」があります。
旅籠丸仁屋跡 坂本宿上木戸跡 石塔 芭蕉句碑

 寛政二年(1790)の建碑で、元は碓氷峠の
刎石坂にあったものを明治に入り、ここに移設されました、芭蕉が汗をかきかき峠を越えた姿が目に浮かぶようです。

 次いで右手に八幡宮があります、景行天皇四十年日本武尊の勧請という古社で碓氷郷の鎮守です、古来より篤く崇敬されました。

朱塗りの鳥居をくぐると何とも愛くるしい表情をした
狛犬が対であります、社殿は段上に鎮座しています。

左手に
青松寺(せいしょうじ)があります、境内には正徳元年(1711)造立の地蔵や享保八年(1723)建立の念佛供養塔等があります。

サア、まずは
碓氷峠の前哨戦です。
八幡宮の狛犬 八幡宮 青松寺 @浄水場旧道口

 それでは取り掛かりましょう、
国道18号線は右に大きく曲がりますが、旧道はここを直進します、@「これより碓氷峠曲折多し 運転注意」標識の先、ガードレールの切れ目から入ります。

 A林道赤松線を進み、円柱形貯水タンク先の右舗装路に入ります。

円柱形貯水タンクを右に見ながら進みます。

B排水溝の蓋(ふた)の上を進み、右手の青いネットフェンス下を進みます。

Cスグに旧道は国道18号線の
擁壁下に突き当たります、ここを道なりに左折します。

D
草道を進むと、右に丸太階段があります、ここを上ります。
A赤松線分岐 B排水溝蓋道 C突当り分岐 D丸太階段

 丸太道を上り詰めて土道を進み、ガードレールの切れ目から国道18号線を横断します。

正面に旧バス待合所の
碓氷小屋があれば正解です。

小屋脇には
日本の道百選旧中山道標柱があります。

碓氷峠は「木曽の桟(かけはし) 太田で渡し 碓氷峠がなくばよい」と唄われた中山道三大難所のひとつです、こんにち木曽の桟太田の渡しもありませんから、碓氷峠は唯一の一大難所です、それでは歩みを進めましょう。

標柱の奥、駐車している車の先が
碓氷峠の東登り口です、 落ち葉が積もる土道からは始まります、決して急がず、ペースを保って進みましょう。
E碓氷小屋 日本の道百選 碓氷峠東口

 すぐに丸太の急階段が待ち受けます、その先はV字形の堀切道になります。

右手の斜面に
石垣の痕跡を残しています、堂峰番所跡です、石垣の上に番所を構え、峠道を挟んで定附同心の住宅が二軒ありました。

関門は両方の谷がせまっている場所を更に掘り切って道幅だけとした場所に設置され、現在でも門の土台石やその地形が石垣と共に残されています。

先に進むと右手の奥に比較的大きな
念佛百萬遍供養塔があります。
丸太道 堀切道 堂峰番所跡 念佛百萬遍

グングン登ると柱状節理(ちゅうじょうせつり)があります、火成岩が冷却、団結するとき、き裂を生じ、自然に四角または六角の柱状に割れたものです。

碓氷峠で一番の難所
刎石坂(はねいしさか)に差し掛かると南無阿弥陀仏名号碑大日尊、文政八年(1825)建立の馬頭観世音文字塔があります、坂本宿の上木戸外にある芭蕉句碑は元はここにあったものです。

刎石坂を登りつめたところに、板碑のような
上り地蔵下り地蔵があり、旅人の安全を見つめているとともに、幼児のすこやかな成長を見守っています。
柱状節理 石塔群 刎石坂

 十返舎一九は険阻な刎石坂を「たび人の 身をこにはたく なんじょみち 石のうすいの とうげなりとて」と詠っています。

 鬱蒼とした峠道が明るく開けると(のぞき)があります、眼下に坂本宿が一望です、絶景です!

小林一茶はここで「坂本や 袂の下の 夕ひばり」と詠んでいます。

次いで左手に天保七年(1836)建立の
馬頭観世音文字塔があります。

先の左手に
風穴(ふうけつ)があります、刎石溶岩の裂け目から水蒸気で湿った風が吹き出しています。

次いで右手に
弘法井戸があります。
馬頭観音 風穴 弘法井戸

 諸国行脚中の
弘法大師が水不足に悩む刎石茶屋の為に掘り当てた霊水です。

 雨水で浸食された狭い土道を上ると右手に刎石茶屋跡があります、往時の石垣を残しています。

刎石山(標高810m)の頂上で小池小左衛門茶屋本陣大和屋等四軒の茶屋があり四軒茶屋とも呼ばれました、力餅、わらび餅が名物でした。

木立の中の峠道を進むと左手に
碓氷坂関所跡があります、平安時代前期の昌泰二年(899)に関所が設置されました。

今はここに
中部北陸自然歩道道標「←坂本宿2.5km 熊野神社6.4km→」があります。

段上には
峠の小屋(休憩所)があります。
刎石茶屋跡 木立の峠道 碓氷坂関所跡


 尾根道に堀切(ほりぎり)があります、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで、前田利家上杉景勝率いる三万余りの軍勢を松井田城主大道寺政繁が防戦した場所です、道の両側を掘り切り、道幅を狭めました。

しかしここを突破され、
政繁は松井田城に籠城するも、支えきれず開城降伏し、後に秀吉より切腹を命じられ自刃して果てました。

先に進むと右手の段上に寛政三年(1791)建立の
南向馬頭観音像が段上に安置されています、この辺りには山賊が出没したといいます。

次いで左手の岩上に文化十五年(1818)建立の
北向馬頭観音像が安置されています。
堀切 南向馬頭観音 北向馬頭観音

 先の左手に一里塚解説があります、左側の傾斜を登った辺りに慶長以前の古東山道があり、ここに刎石の一里塚がありました、江戸日本橋より数えて三十五里目です。

登ってみるとそれらしき盛り上がりがありますが、一里塚と断定は出来ません。

更に進むと急な坂道になり、岩や小石がゴロゴロしています、それから
赤土となり、湿っているので滑り易い所から座頭ころがし(釜場 かんば)と呼ばれました。

倒木をくぐり、尾根道を過ぎると開けた所に出ます、左手に
水源かん養保安林標柱があり、至軽井沢への案内が取り付けてあります、この後方に道筋がありますが立入禁止標識があります。
刎石の一里塚 座頭ころがし 保安林標柱

 
明治天皇御巡幸道の痕跡です、明治十一年(1878)明治天皇北陸東海巡幸に際して開削された道です。

 向いが栗が原です、ここは明治天皇御巡幸道中山道の分岐点でした、明治八年(1875)群馬県で最初の見回り方屯所が設置され、これが交番の発祥となりました。

尾根道や切通し道を進むと右手の段上に線刻の
入道くぼ馬頭観音があります。

ここから山中茶屋迄は
まごめ坂といって赤土のだらだらとした下り道となります。

まごめ坂の左には
石積があります。
栗が原 尾根道 入道くぼ馬頭観音 まごめ坂

 まごめ坂を下ると右手に山中茶屋跡があります、慶安年中(1648〜)に峠町の人々が川水をくみ上げるところに茶屋を開いたのに始り、寛文二年(1662)には十三軒の立場茶屋があり、丸屋六右衛門茶屋本陣がありました、力餅蕨餅が名物でした。

明治の世になると
小学校が出来、山中に町があるといわれました、明治十一年(1878)の明治天皇北陸巡行の際、教育の振興のために金二十五両が下賜されました、当時児童は二十五名であったといわれます。

山中茶屋から
子持山の山麓を経て陣馬が原に向かう上りの急坂が山中坂です、山中茶屋で飯を喰って勢いを付けて登ったところから飯喰い坂とも呼ばれました、山中茶屋の繁盛はこの坂にあったともいいます。
山中茶屋 山中坂 一つ家跡

 山中坂をヒーヒーフーフーと上ると左手に
一つ家跡解説があります、ここには老婆がいて旅人を苦しめたといいます。

一つ家辺りに
一つ家の一里塚がありましたが、浅間山の天明大噴火で消滅したといいます、江戸日本橋より数えて三十六里目です。

 上りが緩やかになると陣場が原Y字路に出ます、右(黄色矢印)は文久元年(1861)皇女和宮降嫁の際に開削された和宮道です、毎年5月の第2日曜日に開催される安政遠足のコースになっています、中山道は左(白色矢印)に進みます。

分岐点には
安政遠足標識と左手には陣場が原解説があります、太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代になると武田方と上杉方のうすい合戦がありました、笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場跡といわれています。

先の右手に
子持山解説があります、万葉集「兒持山 若かへるでの もみづまで 寝もと吾(あ)は思(も)う 汝(な)はあどか思(も)う」読人不知が記されています。
陣場が原 子持山 化粧水跡

 倒木をくぐりながら進むと右手に
化粧水跡解説があります、峠町へ登る旅人が、この水で姿、形を直した水場です。

山ヒル対策:山ヒル情報や問合せを沢山頂いています、碓氷峠には山ヒルが生息しています、山ヒルは足元から這い上がり皮膚食い破って吸血するドラキュラです、山ヒルは湿潤で日影な所に生息しています、従って草むら等に立ち入ったり、一ケ所に留まらなければ全く問題ありません、普通に街道を歩いていれば遭遇しませんからご安心下さい。

 次いで右手に人馬施行所跡があります、江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)が金千両を幕府に貸付け、運用益の利息百両を二分し和田峠とここに施行所を設け、十一月から三月迄の間、旅人には粥と焚き火、牛馬には桶一杯の煮麦を施しました。

笹沢徒歩渡りします、お気をつけ下さい。

沢を渡ると
熊笹の生い茂った狭い峠道になります、そしていよいよ碓氷峠最後の長坂道を上ります、中山道を偲ぶ古い道です。
人馬施行所跡 笹沢 熊笹の峠道 長坂道

 長坂道は土道のT字路に突き当たります、ここを右折(@白線矢印)します。

京方面からは土道の
T字路左折します、この分岐点には松井田坂本宿子持山方面を示す標識があります。

江戸方面からはスグ先で土道の
T字路に突き当たります、ここを左折(白色矢印)します。

この突当りの
土道(黄色矢印)は陣馬が原で分岐した和宮道です。

京方面からは
中部北陸自然歩道道標旧中山道方面に従って斜め右の土道に進みます。
長坂道分岐 長坂道分岐@ 長坂道分岐A

 この和宮道分岐点は仁王門跡です、多数の石祠が祀られています、元は神宮寺の入口にあり、元禄年間(1688〜1704)に再建されましたが、明治維新の時に廃棄されました、ここにあった仁王像熊野神社の神楽殿に保存されています。

並びに
思婦石(おもふいし)「ありし代に かえりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら」があります、群馬郡室田の国学者関橋守(せきのはしもり)の作で安政四年(1857)の建立です。

土道を進むと左手に
碓氷川水源地があります、明治天皇巡幸の際に御膳水となった名水です、水源地は左手を下るとありますが、ここは山ヒルの多発地です、長居は無用です!
仁王門跡 思婦石 碓氷川水源地

 土道が舗装路に変わると碓氷峠頂上に到着です。

刻限は12:30です、目の前には
お休所見晴亭があります、突入です。

まずはヒートアップした体に
冷酒です、良いなあ、この感じ、峠をのぼり切り、茶屋で茶碗酒、もう一品つまみに名物力餅をいっときましょう、力餅は甘味(あんこ)、くるみ、ごま、辛味(大根おろし)、うぐいす(きなこ)、納豆力餅、とろろ力餅と種類があります。

ここは
辛味餅でしょう!
碓氷峠頂上 冷酒 峠名物力餅 月見そば

 七味唐辛子
をタップリ掛けて賞味、美味い!!もう一杯、うーん止めておきましょう、親父の小言と冷酒(ひやざけ)は後から効くといいますから。

月見そばで仕上げです、やっと人心地がつきました、サアー腰を上げましょう。

 見晴亭向いの峠の力餅元祖しげの屋の駐車場奥にみくにふみの碑「四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十 四万万四 二三 四万六一十」があります、「よしやよし 何は置とも み国に書(ふみ) よくぞ読ままし 書(ふみ) 読まむ人」の意です、これは峠の社家に伝えられてきたものです。

隣接する碓氷山荘第一駐車場内に朱塗りの
石祠が祀られています、赤門屋敷跡です、ここには加賀藩前田家の御守殿門に倣って造られた朱塗り門赤門屋敷がありました、熊野神社代々の社家峠開発の祖曽根氏の屋敷でした。

参勤の
大名はここ迄来ると、赤門屋敷で休息し、無事碓氷峠到着を知らせる早飛脚国許また江戸屋敷へと走らせました。

皇女和宮もここで休息し、明治十一年(1878)明治天皇北陸東山道御巡幸の際に休憩所になりました、しかしこの通行を以って、旅人は碓氷新道、そして信越線へと移り、坂本より軽井沢までの峠越えの道は廃道となりました。
みくにふみの碑 赤門屋敷跡

 次いで左手のしげの屋の所に上信國境標柱があります、境の赤線が引かれています、上野(群馬県)と信濃(長野県)の國境(県境)です。

そしてここが
碓氷峠の頂上です、標高1180mで江戸より初の峠でした、頂上は中央分水嶺にあたり、雨水は日本海側太平洋側に分かれます。

峠の名は一旦霧がかかると日が差さない
薄日碓氷に転化したものです。

頂上の
峠町熊野皇大神社の門前町として開け、名物峠の力餅を商う茶屋が今も数軒残されています。

右手が
熊野皇大神社です、日本武尊が東国平定の帰途の際、碓氷峠にて濃霧にまかれた時、八咫烏(やたがらす)の道案内によって無事嶺に達することができたことにより熊野の大神を祀ったのがはじまりです、熊野皇大神社の新宮は上州側、本宮は國境上、那智宮は信州側に各々建っています。
上信國境標柱 熊野皇大神社

 参道階段口に狛犬が鎮座しています、室町時代中期の作と伝えられています、長野県内最古の石造物です。

石段を上り詰めると元禄元年(1688)建立の
石の風車一対があります。

軽井沢宿の問屋
佐藤市右衛門が佐藤家の家紋の源氏車を刻み奉納したものです、追分節「碓氷峠の あの風車 たれを待つやら くるくると」と唄われました。

境内奥に樹齢八百年余の
シナノキがあります、信濃にはこの木が多く、信濃の地名はシナノキに由来しています。
狛犬 石の風車 シナノキ 明治天皇碑

 そして
明治天皇峠御小休所跡碑があります。

 参勤の諸大名も旅人も熊野神社に道中の安全を祈願したといいます、それでは二礼二拍手一礼です。

峠町を下ると右手の碓氷山荘の敷地内に
渡辺重石丸(いかりまろ)の数字歌碑「四八八三十 一十八五二十百 万三三千二 五十四六一十八 三千百万四八四」 があります、「世(よ)は闇(やみ)と 人(ひと)は言(い)ふとも 正道(まさみち)に 勤(いそ)しむ人(ひと)は 道(みち)も迷(まよ)はじ」の意です。

渡辺重石丸は幕末の国学者渡辺重名(しげな)の孫で乃木希典の師でした。

それでは信州側の
峠道に取り掛かりましょう、関係各位のご尽力により旧道が復活整備されました。
数字歌碑 信州側の碓氷峠旧道トレース

 碓氷山荘先で街道は有料駐車場に突き当たります、ここに旧中山道碓氷峠道跡解説板があります。

解説には「苦しくも 峠を越せば 花の里 みんな揃って 身は軽井沢」の一首が記されています。

天候不順の場合は明治十一年(1878)に改修された右(黄色矢印)の
明治天皇御巡幸道(県道133号線)をお奨めします。

@それでは旧道トレースに取り掛かりましょう、有料駐車場左脇の
土道の下り坂に入ります。

A土道を下るとガードレールの
舗装路に突き当たります、ここを右折(白色矢印)して舗装路を右に進みます。
@信州側峠下り口 A舗装路 Bかもん坂口

B先のガードレールの切れ目から再び左(白色矢印)の
土道に入ります、ここにはメーターボックスが取り付けられた電柱があります、この電柱にはかもん坂軽井沢標識が取り付けられています。

 C倒木の下をくぐったり、跨いだりしながら土道を下ります。 

D しばらくすると右手に
砂防ダムが現れます。

Eこの前を通過すると整備された
砂利道に合流します。

感じの良い
並木道を過ぎると、旧軽井沢聖沢別荘地に入ります。

F先の
変則十字路は左(白色矢印)に進みます、京方面からは正面左の砂利道に入ります。
C峠道 D砂防ダム E砂利道 F変則十字路

 G苔むした石垣の先で舗装路は左にカーブする所を右(白色矢印)の土道に入ります、最後の峠道です、京方面からは突当りの舗装路を左に進みます。

小さな
を跨ぎ、正面の急傾斜を登ります、最後の登りです。

登り詰めると
明治天皇御巡幸道(県道133号線)に合流します、これにて信州側の碓氷峠旧道トレースの終了です。

京方面からは
苔むした石垣電柱、そしてガードレールカーブミラーの間から土道の下り坂に入ります。
G土道の復活点 H沢 I最後の登り J軽井沢側峠口

 ここからは明治天皇御巡幸道(県道133号線)をグングン下ります。

左手に
中北道標(中部北陸自然歩道)「←峰の茶屋13.1km 碓氷峠(県境)2.9km→」があります。

この
道標には若干不可解さを感じます、マズ峠の茶屋です、何処を示しているか解りません、そして碓氷峠(県境)の表示です、この筋はあくまでも碓氷峠遊覧歩道であって、中山道旧道ではありません、京方面からの街道ウォーカーさん、お気を付け下さい、右に入らず県道を直進します。
県道 中北道標 遊歩道口 中北道標

 グングン下ると右手に
中北道標「←峰の茶屋12.7km 碓氷峠3.3km→」があります。

 PM 2:02 軽井沢宿着 沓掛宿まで 3.9km

 矢ケ崎川に架かる二手橋(にてはし)を渡ります、橋名は朝立ちの旅人飯盛女に送られてきて、ここで東西二手に分かれたとか、矢ケ崎川川越川が二手に分かれている所に架かる橋からを由来としています。

矢ケ崎川(やがさきがわ)は旧軽井沢に源を発し、精進場川を吸収して、流末は泥川に落合います。

二手橋を渡ると軽井沢宿に入ります、
軽井沢宿に到着です!

軽井沢宿は難所碓氷峠を控え大いに賑わったが天明七年(1787)浅間山の大噴火による降灰は四尺余りに及び宿は壊滅的な被害を受けました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば軽井沢宿宿内家数は百十九軒、うち本陣一、脇本陣四、旅籠二十一軒で宿内人口は四百五十一人(男百八十九人 女二百六十二人)でした。
二手橋 矢ケ崎川

  二手橋を渡ると右手にショー牧師の胸像、礼拝堂、敷地の奥にはショーハウスがあります。 

ショー牧師は
軽井沢の恩人といわれています、 難所碓氷峠を控え賑わった軽井沢は明治十七年(1884)碓氷新道(国道18号線)が開削され、その九年後には信越線が開通し、それらの主要路から外れた軽井沢は一気に衰退してしまった。

しかしキリスト教布教の為に来日した英国聖公会宣教師
アレクサンダー・クロフト・ショーが明治二十一年(1888)この地にショーハウス(軽井沢別荘第一号)を構えたのを機に避暑地として脚光を浴び今日に至っています。

左手のブロック塀の外れに
芭蕉句碑があります。
ショー牧師 ショーハウス 芭蕉句碑

 野ざらし紀行の中の一句「馬をさへ ながむる雪の あした哉」が刻まれています、天保十四年(1843)当地の俳人小林玉蓬が芭蕉翁百五十回忌に建碑したものです。

 先の右手に御宿まるやがあります、往時は茶屋で強飯、ざるそば、煮しめを商っていました。

明治以降は
旅館となり島崎藤村、堀辰雄等の文人が多数宿泊しました。

行燈前には
中山道軽井沢宿標石が新設されています、往時はこの辺りに東の枡形がありました、ここが江戸(東)です。

次いで右手に真言宗智山派表白山
神宮寺があります、元は碓氷峠の熊野神社辺りにありましたが寛文二年(1662)現在地に移転しました。
御宿つるや 軽井沢宿碑 神宮寺 枝垂れ桜

 境内の
枝垂れ桜は樹齢四百年で文人達も愛でたといいます。

 宿並は旧軽銀座通りになり、観光客の人波になります。

右手の古色蒼然とした
軽井澤寫真館を過ぎると左手に軽井沢観光会館があります、ここが江戸屋脇本陣跡です。

次いで右手の旧軽銀座駐車場案内標識に従って右の聖パウロ教会通りに入ると、左手の
そば処大禅の脇に明治天皇軽井澤行在所碑があります、ここが佐藤織衛本陣跡です。

明治十一年(1878)北陸東海巡幸の際、
佐藤織衛本陣の敷地内に新築された御昼行在所で昼食を摂りました。

皇女和宮佐藤織衛本陣にて昼食を摂りました、追分宿から坂本宿間は沼田藩が警護の任にあたりました。
旧軽銀座通り 脇本陣跡 本陣跡

 本陣跡から宿並に戻った辺りに
軽井沢の一里塚があったといいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十七里目です。

 宿並は変則十字路になります、ここが西の枡形跡です、この辺りが軽井沢宿の京(西)口です。

中山道は直進(白色矢印)します、左(黄色矢印)は軽井沢駅方面です。

軽井沢宿を後にすると右手に
名残の松が一本あります。

次いで左手の石橋駐車場前に
馬頭観世音文字塔があります。

木立の中の街道をモクモクと進むと
六本辻に出ます。
西の枡形跡 名残り松 馬頭観音 六本辻

 現在六本辻はロータリー交差点(円形交差点)化されています、江戸方面からは中軽井沢方面に、京方面からは旧軽井沢方面に進みます。

精進場川(しょうじんばがわ)を野沢橋で渡ります、精進場川は浅間山の湧水を堰き止めた人工池の雲場川に源を発し、流末は矢ケ崎川に落合います。

左手の軽井沢町東部小学校を過ぎると
カラマツ並木が現れます。

左手の長野県軽井沢高校を過ぎると右手に軽井沢ホテルロンギングハウスの背後に標高1256mの
離山(はなれやま)があります、皇女和宮降嫁通行の際にはの文字を忌み嫌い子持山と呼びました。
精進場川 カラマツ並木 離山

 広重は左手の背景に離山、そして右手に軽井沢の宿並みを情感たっぷりに描いています、この辺りは軽井沢宿の西外れにあたり、街道は平坦になっています。

山間の日暮れは早く、
釣瓶(つるべ)落しといわれます、明かりは二か所の焚火だけです、風が無く、煙は真っ直ぐに立ち上っています。

旅人は焚火から
煙管の煙草に火を付けています、馬上の旅人馬子から煙草の火を借りています。

宿場はもう眼と鼻の先です、ここで
一服です、私は平成十七年(2005)の大晦日を持って禁煙しました、しかしこの一服の気持ち、良く解ります!
木曽海道六拾九次之内 軽井澤 広重画

 ロギングハウスを過ぎると右手に馬頭観音像庚申塔等が並んでいます。

離山バス停を過ぎると右手奥に
赤鳥居があります、山腹に稲荷神社が祀られています。

お食事処はなれ山向いの段上に
馬頭観世音文字塔が二基あります。

街道は
離山交差点にて国道18号線に合流します。

京方面からは
離山交差点を斜め左の旧軽井沢方面に入ります。
石仏石塔群 稲荷神社 馬頭観音 離山交差点

 南原(みなみはら)交差点を越すと右手に旧雨宮邸があります、雨宮敬二郎は明治時代一代で財を築いた人物で軽井沢の開発に尽力し、軽井沢の唐松林は雨宮が植林したものです。

敷地奥の右手に
旧雨宮邸新屋敷があります、明治末期に百二十坪の座敷を新築し、政財界の人達は、軽井沢に避暑に来るとこの屋敷に宿泊しました。

敷地奥の左手に
市村記念館があります、総理大臣を勤めた近衛文麿の別荘跡です。

大正初期建築の米国式洋館造りです、後に雨宮敬二郎の甥
市村今朝蔵(けさぞう)が譲り受け、学者村開発の拠点としました。
旧雨宮邸 旧雨宮邸新屋敷 市村記念館

 街道に戻ると軽井沢中学校前交差点を左折し、しなの鉄道中学校前踏切で横断します。

一本目
菓子処おらががある十字路を右折します、左手には鉄道敷設にて分断された地点までの旧道が残されています。

この消滅した区間は
旧雨宮邸門の辺りからここに通じていました。

旧道は車の往来が少ない長閑な道筋になります、左手のログハウス先右手のアパート奥の斜面に
馬頭観音像が祀られています。
軽井沢中学校前 前沢分岐 旧道復活地点 馬頭観音

 スグ先の右手丸石積の上に馬頭観音石祠が祀られています。

先に進み
湯川前沢橋で渡ります、湯川は浅間山に源を発し、白糸の滝千ケ竜を吸収して、流末は千曲川に落合います。

湯川の上流方向に
浅間山が遠望できます、二代目歌川広重は諸国名所百景の中で信州浅間山真景を描いています。

天明三年(1783)四月
浅間山は大噴火(天明噴火)し、七月まで噴火を繰り返し、浅間三宿(軽井沢宿、沓掛宿、追分宿)は火石玉で焼かれ、降灰で押し潰され、土石流で流されました。
馬頭観音&石祠 湯川&浅間山 信州浅間山真景

 副題の平塚原は沓掛宿東の前沢村を出た辺りです、画の左手の流れは沓掛宿手前の湯川です、従って右手上部の家並みは前沢村になります。

この辺りは
浅間山の南麓にあたり、浅間下し(あさまおろし)の寒風による叩きつけるような雨を描いています。

そして街道上にはこの悪天候に耐えながら進む
旅人中牛(ちゅうぎゅう)の姿を描いています、中牛は信州の農民が駄賃稼ぎに荷の輸送をしたもので、目的地まで直送したので、荷の痛みが少なく、格安な為、岡船と呼ばれ重宝されました。

信州から上州
松井田宿ないし倉賀野河岸まで廻米を運び、帰路は干鰯(ほしか)や日用雑貨を持ち帰りました。
木曽街道 沓掛ノ驛 平塚原雨中之景 英泉画

 以前は前沢橋を渡らずに直進し、しなの鉄道のガードをくぐる湯川越えの旧道がありましたが、湯川の河川改修で消滅しました。

前沢橋を渡った先を道なりに進むと
しなの鉄道湯川橋りょうに突き当たります。

手前を左(黄色矢印)に入ると、先の左手に
宮之前一里塚碑があります、江戸日本橋より数えて三十八里目です。

当初の
沓掛宿はこの先にありましたが、安永二年(1773)の大火で壊滅し、現在地に宿場ごと移転しました。

湯川橋りょうをくぐって進むと、
国道18号線に突き当たります、ここを直進(黄色矢印)すると長倉神社があります。
湯川橋りょう 宮之前一里塚跡 沓掛宿東口

 長倉神社は天長年間(824〜34)の創建、延喜式神明帳に記載されている古社で、長倉の鎮守です。

長倉神社の
社叢は七十余種が繁る貴重なものです。

境内には
長谷川伸の戯曲沓掛時次郎歌碑「千両万両枉(ま)げない意地も 人情搦(から)めば弱くなる 浅間三筋の煙の下で 男沓掛時次郎」があります。

渡世人の
時次郎は一宿一飯の恩義から三蔵を斬る、死の真際、女房のきぬと子の太郎吉を沓掛の親戚の家に送り届けてくれと懇願し息絶えた。三人の旅がはじまるが、途中で親子は忽然と姿を消してしまう。再び出会ったが、おきぬは胸を患い息絶えてしまう、時次郎は堅気になり、太朗吉を連れて沓掛へと旅立った。
長倉神社 長倉神社社叢 沓掛時次郎碑

 PM2:47 沓掛宿着 追分宿まで4.7km

 国道の左折(白色矢印)点に戻ると右手に中山道沓掛宿碑があります、ここが沓掛宿の江戸(東)口です、沓掛宿に到着です!

沓掛宿は安永二年(1773)の大火で壊滅的な被害を受け、現在地に移転しました、小宿でしたが草津温泉を控え、湯治客で賑わいました、昭和二十六年(1951)の大火で宿並は灰燼に帰してしまった。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、沓掛宿宿内家数は百六十六軒、うち本陣一、脇本陣三、旅籠十七軒、宿内人口は五百二人(男二百四十四人 女二百五十八人)で、宿長は五町六十八間(約668m)でした。

宿並を進むと左手に
旅館岳南荘枡屋本店があります、建物に脇御本陣満寿屋清兵衛の掛札を掲げています。
沓掛宿碑 脇本陣跡 満寿屋

 中軽井沢交差点の右手には鬼押出し横看板が掲げられています、天明噴火の溶岩跡です、火口でが暴れ、溶岩押出したところに由来しています。

左手の八十二銀行の駐車場奥に
脇御本陣蔦屋跡標石があります。

次いで右手に
本陣土屋の表札を掲げた住宅があります土屋本陣跡です、建坪二百五十九坪、門構え玄関付で問屋を兼ねました、皇女和宮は前宿の追分の名を嫌い、十七日目 沓掛宿土屋本陣に宿泊しました。

中軽井沢交差点を越すと右手が
草津道です。
脇本陣跡 本陣跡 土屋本陣 草津道道標

 右手に寛政十年(1798)建立の
草津道道標があります、道標正面には不動明王像が陽刻され、側面には右くさつへと刻まれています、ここから草津温泉へ十里の道のりです。

 草津道向いの上田信金の先を斜め左の緩い下り道に進みます、この辺りが沓掛宿の京(西)口です。

右手の国道18号線トンネルの所に
道祖神が二基あります、内一基は男女双体道祖神です。

しばらく進むと右手に享保十六年(1731)建立の
梵字碑があります。

次いで右手に一本の老木があります、手前の斜面上に
石塔が並んでいます、馬頭観音像馬頭観世音文字塔そして供養塔です。
沓掛宿西口 道祖神 梵字碑 石塔

 老木の下には馬頭観音像が三基あり、その前には廿三夜供養塔があります。

先の右手奥に
秋葉神社が祀られています、境内に阿夫梨大神碑があります。

この辺りは
旧古宿村中馬(ちゅうま)中牛(ちゅうぎゅう)の宿で賑わった立場でした。

隣接する二階建て家屋の左手に
奉納百八十八番供養塔があります、街道を挟んだ向いにも同様にあります。

先の右手に
馬頭観世音が三基あります。
廿三夜供養塔 秋葉神社 百八十八番 馬頭観音

 国道18号線の手前に庚申塔奉納百八十八番順礼供養塔馬頭観音像二基があります。

旧道は
国道18号線に合流します、京方面からは右手の川魚料理ゆうすげが重要な分岐ポイントです。

先のY字路は国道沿いの
歩道を進みます、左は軽井沢バイパスです。

軽井沢バイパス高架をくぐった先は斜め左に分岐します、
借宿分岐です、分岐点先の右手にログハウスがあれば正解です。
石塔群 古宿分岐 国道の歩道 借宿分岐東口

 旧道に入ると再び国道18号線の喧騒から解放されます。

左手に享和二年(1802)建立の
馬頭観世音文字塔があります、ここが女街道(上州姫街道)の分去れ(追分)です。

女街道は入り鉄砲に出女の取り締まりが厳しい碓氷関所を避けた女人が上州下仁田に通じるこの裏街道を利用しました。

先の右手に
遠近宮があります、社殿は享保年間(1716〜36)の建立で、浅間山を御神体としています、神社名の遠近(おちこち)は在原業平の「信濃なる浅間の嶽に立つ煙 遠近人の見やはとがめぬ」に因んでいます。
馬頭観音 女街道口 遠近(おちこちの)宮

 次いで右手に杉玉(酒林)を吊り下げた旧家があります、元造り酒屋でしょう。

旧借宿村間の宿でした、古宿と同様に物資輸送の中馬中牛で賑わいました。

先の右手の段上に
石灯籠や大小の馬頭観音が祀られています、大きな馬頭観世音文字塔には借宿村中と刻まれています。

民宿あさぎり荘を過ぎ、右手の赤松先の右手の民家内に
馬頭観音があります。

旧道は
国道18号線に合流します、京方面からは追分そば茶屋手前を斜め右に入ります。
元造り酒屋 馬頭観音 馬頭観音 借宿分岐西口

 借宿分岐西口の国道18号線を挟んだ向かいに道標「従是左上州道」があります。

軽井沢追分歩道橋をくぐります、ここを左折すると約1.2km先にしなの鉄道
信濃追分駅があります。

スグ先に
標高1003m標識があります、ここから御代田迄は下りになります。

GSシェルを過ぎると国道18号線の両側に
追分の一里塚(軽井沢町文化財史跡)の原型を残しています、但し、南塚は復元したものです、江戸日本橋より数えて三十九里目です。
上州道道標 標高標識 追分一里塚(北) 追分一里塚(南)

 追分の一里塚先を斜め右に入ります、分岐点には追分宿追分宿郷土館堀辰雄文学記念館案内標識があります。

右手に
追分宿郷土館があります、敷地内に追分宿の問屋が寛政六年(1794)に建立した馬頭観世音文字塔があります。

隣接して
浅間(あさま)神社があります、浅間大明神遥拝の里宮です、本殿は室町時代のもので、町内の木造建築としては最古のものです。

寛政五年(1793)建立の
芭蕉句碑「吹き飛ばす 石も浅間の 野分哉」があります。
追分宿分岐東口 郷土資料館 浅間神社 芭蕉句碑

 境内には
脇本陣油屋が奉納した文化十三年(1816)建立の常夜燈があります。

 PM3:54 追分宿着 御代田まで3.9km

 縁起の良い橋名の昇進橋を渡ると追分宿に入ります、到着です!

追分宿飯盛が盛んで、三十五軒の旅籠に二百五十人の飯盛がいました、追分節に「浅間山から飛んでくる烏(からす)金も無いのにかうかうと」「浅間山から追分見れば飯盛女郎がうようよと」と唄われ、これに対して飯盛りは「三味を横抱き浅間を眺め辛い勤めと眼に涙」と返しています。

宿の西には
北国街道の分去れ(追分)を控え大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、追分宿の宿内家数は百三軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠三十五軒、宿内人口は七百十二人(男二百六十三人 女四百四十九人)で、宿並は五町四十間(約617m)でした。

宿並を進むと左手に
堀辰雄文学記念館があります。
昇進橋 本陣門

 入口の門は
土田本陣裏門を移築したものです、堀辰雄は「風立ちぬ」「美しい村」等軽井沢を舞台にした作品を残しています、晩年は労咳(結核)を患い、ここを安住の地と定めました。

 左手に追分宿唯一の食事処純手打そばささくらがあります、向いに信濃追分文化磁場油やがあります、脇本陣油屋跡です。

元禄元年(1688)の創業です、元は向いにありましたが昭和十二年(1937)の火災で焼失し、現在地に移転しました、
堀辰雄はつげの間で風立ちぬを執筆しました。

先の右手が
土屋本陣跡です、門柱に中山道追分宿旧本陣の表札を掲げています、土屋市左衛門が代々勤め問屋を兼ねました、建坪は二百三十八坪で、中山道の本陣中塩尻宿、上尾宿に次いで三番目の規模を誇りました。

敷地内には
明治天皇追分行在所跡碑があります。
脇本陣跡 本陣跡 明治天皇碑

 明治の世になると旅館になり
岩倉具視大隈重信山岡鉄舟等が宿泊しました。

 土屋本陣の並びに寛永十年(1633)の古文書に基づいて復元された高札場があります、追分宿の高札場は問屋前の宿並中央にありました。

次いで右手に
諏訪神社があります、この地の鎮守産土神です。

参道口の
常夜燈は天保六年(1835)の建立で宿内の永楽屋が奉納したものです。

境内には平成六年(1944)建立の
小林一茶句碑「有明や 浅間の霧が 膳をはふ」があります。
高札場 諏訪神社 常夜燈 小林一茶句碑

 隣接して曹洞宗浅香山香華院泉洞寺(せんとうじ)があります、慶長三年(1598)の創建で、本尊は聖観世音菩薩です。

境内の
常夜燈脇本陣油屋が寄進したものです。

山門脇に
稲垣黄鶴(こうかく)の句碑「浅間嶺の 今日は晴れたり 蕎麦の花」と筆塚があります、黄鶴はこの地の出身で、追分宿三浦屋の子孫です、書家で大正天皇の貞明(ていめい)皇后に書を教えました。

墓地の入口に
掘辰雄の愛した半跏思惟像(はんかしいぞう)があります。
泉洞寺 常夜燈 句碑&筆塚 半跏思惟像

 頬を押さえているところから
歯痛地蔵とも呼ばれました。

 追分宿の外れに枡形茶屋つがるやがあります、二階の白壁に枡形つがるやの文字が浮き出ています、往時はここに枡形があり、茶屋はそのにありました。

ここが追分宿の
(西)です。

追分宿交差点にて国道18号線に合流します、京方面からは斜め左に入ります。

午後四時半には陽が落ちてしまいます、気温はグングン下がり、厚手の
手袋でも指先が冷えます。

ここで終了して
信濃追分駅に出る手も有りますが、結構距離があります、むしろ次回の継ぎ立てを考えれば先の御代田駅のほうがベターです、それでは進めましょう。
つがるや 屋号 追分宿西口

スグ先のY字路が北国街道分去れ(追分)です、中山道は直進(白色矢印)します、北国街道は右(黄色矢印)に入ります。

北国街道越後への道です、北前船の寄港地出雲崎からの産物はこの街道を通り江戸に運ばれました、善光寺までを善光寺街道と呼び、善光寺詣の善男善女で賑わいました。

旅人達が袂を分けて去ったところから
追分分去れ(わかされ)と呼びました。

この分去れには
道祖神、延宝七年(1679)建立の道標「従是北国海道」、森羅亭万象歌碑「世のなかは ありのままにぞ 霰(あられ)降る かしましとだに 心とめねば」、寛政元年(1789)建立の道標を兼ねた常夜燈には「是より左伊勢」と刻まれ、もう一つの道標「さらしなは右 みよしのハ左にて 月と花とを追分の宿」があります、これは月見の名所更科(千曲市、北国方面)と花見の名所吉野(奈良、京方面)方向を示すものです。
北国街道分去れ 歌碑&常夜燈

 天永年間(1110〜02)造立の勢至観音菩薩座像は分去れ内の石仏中最古のものです。

国道18号線を進み、スグ先の
旧中山道標識に従い、斜め左に入ります、旧道口には車止めが設置されています。

右手に
中山道69次資料館があります、ご挨拶したかったのですが休館でした。

この辺りが
笑坂です、京方面から急坂を上ってきた旅人が正面に追分宿の明かりを見て思はず安堵の笑みを浮かべたところを由来としています。
勢至観音菩薩 追分原分岐 69次資料館 中北道標

 先の左手には
中北道標「←追分 塩名田→」があります、右手は多目的ホールサエーラ軽井沢です。

 先の左手に千ケ滝湯川用水温水路があります、慶安三年(1650)柏木小右衛門が開削した農業用水路です、戦後に改修されました。

千ケ滝湯川は浅間山の雪解け水や湧水を水源としている為
、水温が低く
稲作には適しません、そこで水路幅を広げることによって水温を上昇させています。

温水路に架かる
つくろう橋を渡ると軽井沢町追分から御代田町御代田に入ります。

先の右手に
御代田観音が溶岩石上に安置されています、交通安全長寿繁栄に御利益があります。

スグ先の右手に
中北道標があります。
温水路 御代田観音 中北道標

 「←小田井3.4km塩名田宿13.5km 追分1.8km→」


 街道の右手には浅間山が遠望できます。

英泉は追分宿として
追分原から見た浅間山と不毛の地でも育つ、落葉松(からまつ)の並木を描いています。

貝原益軒は貞亨二年(1685)刊の岐蘇路之記の中でこの辺りを「寒甚だしく五穀生ぜずただ稗(ひえ)蕎麦のみを生ずる故畠少なし、又葉の樹なし 民家にも樹木なし 不毛の地といひつべし」と著しています。

描かれている
中馬(ちゅうま)は 上州からの帰り馬で、干鰯日用雑貨を持ち帰りました。
浅間山 木曽街道 追分宿 浅間山眺望 英泉画

 久保沢川大久保橋で渡ると、右手の段上に大山神社が祀られています、参道には注連縄が巻かれた馬頭観音道祖神聖徳皇太子碑等が並んでいます。

下り坂を進むと右手に
県指定史跡御代田の一里塚入口標柱があります、民家の間を抜けると畑の中に御代田(みよた)の一里塚の両塚を残しています、江戸日本橋より数えて四十一里目です。

寛永十二年(1635)街道の付け替えが行われ、これにより取り残されました。

西塚は径十三m、周囲四十m、高さ五m
大山神社 一里塚入口 御代田の一里塚 東塚

で塚木は
枝垂れ桜です、但し、この桜木は明治の頃戦勝祝いに植樹されたものです。

東塚は径十三m、周囲四十m、高さ五mで塚木はありません。


 PM4:47 御代田着

御代田地下道 フィニッシュ
 街道はしなの鉄道をくぐる地下道に突き当たります、ここが本日の終点です。

予定通りの到着です、駅に向かい途中の
酒屋さんで順当に例のモノを確保しました。

御代田駅で
駅員さんに「すいません、ここで長野新幹線の切符買えますか」というと、間髪入れずに「これ持って行って下さい」、後から「急いで下さい」と掛け声がかかる。

背中を押され、ダッシュで階段を上り、駆け下りると同時に
軽井沢行き列車が滑り込んできました。

乗車して渡されたモノを見ると、
黄色いチケットで、御代田駅から乗車したことを証明するものでした。

ありがたいな、何かうれしいな、思はず缶のプルトップを開けてしまいました。




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