道中日記 1-179 中山道 ( 御代田 - 和田落合橋 ) 31.7km

 私は
腰痛持ちです、それもかなり若い時からです!

この
腰痛はある日突然、ギクッとやって来ます、 今回の原因は下手ゴルフでした、これを機に長かったゴルフ人生とは決別です、道具類は全て処分しました!

以前は2〜3日で治ったものが、段々長くなり、今では半年もかかってしまいます。
かつて一度も
整形外科整体に通院したことはありません、ストレッチ体操シップ薬で対処してきました。

この間も日課の
早朝ウォークは決して欠かしません、家族や友人からは「馬鹿じゃないの」といわれます、良いんです「歩みを止めたら」このまま固まってしまいます。

だいぶ調子が良くなってきました、
中山道ウォークの再開です!


 娘が長野の友人の所に乗用車で行くとの事で、
便乗が決定しました、条件はガソリン代と食事代の負担です、お安い御用だ!!

夜中に出発し、御代田駅地下道にAM3:00到着です、ここで車中仮眠です、AM5:00目を覚ますと、薄くがかかり、小雨が降っています。

久し振りの街道ウォークで興奮します、雨くらい
屁の河童(かっぱ)です、キャップを被り、ツバにナイキウィンドブレーカーのフードをクリップで止めてイザ出立です。

「気を付けてね」と娘が背中に声を掛けてくれます!お前もな!!!

 平成23年06月03日 AM5:10 御代田出立 小田井宿まで1.8km

 御代田駅地下道が出立点です、手前を右(黄色矢印)に進むと、左手に御代田町交通記念館があります、D51蒸気機関車が展示されています、昭和二十九年から四十六年まで名古屋〜塩尻間で運行されました。

地下道をくぐって左に進むと右手に
龍神の杜公園があります、園内の龍神の館には龍神祭りに使われる大きなが展示されています、これは龍神伝説に因むものです。

美しい妻を娶った
甲賀三郎は二人の兄の嫉妬から蓼科山の深い穴に突き落とされてしまった、三郎は地底をさまよい真楽寺の池に辿り着いた時にはになっていました。

一方三郎の妻は狂ったように夫を探し求め、とうとう
諏訪湖に身を投げとなりました。
御代田駅地下道 D51 龍神

 これを知った
三郎は喜び勇んで諏訪湖に行き、と巡り合い湖の底で仲睦まじく暮らしたとさ。

 御代田駅地下道に戻って右に進むと栄町交差点に出ます、ここが旧道の復活点です、左折して進みます。

先に
Y字路があります、左に進みます、この分岐点には中北道標「←塩名田11.3km 追分4.0km→」があります、京方面からもY字路になっています、右に進みます。

先の右手電柱の足元に
馬頭観音が六体祀られています。

次いで左手の三階建て住宅の手前に
石祠が二社祀られています。
栄町Y字路 中北道標 馬頭観音群 石祠

 荒町バス停そして谷津石材店を過ぎると正面に荒町Y字路が現れます。

このY字路の手前左手の段上に
馬頭観音像が安置されています。

荒町Y字路は左に進みます、この分岐点には中北道標「←塩名田10.3km 追分5.0km→」があります。

追分宿からの下り坂は続いています。

街道は県道137号線の十字路に出ます、この十字路の手前右手に
御嶽山蔵王大権現碑等があります。
馬頭観音 荒町バス停 中北道標 石碑群

 AM5:59 小田井宿着 岩村田宿まで4.6km

 県道137号線を横断すると、小田井宿江戸です、小田井宿に到着です!

交差点の右手には
中山道小田井宿入口標柱筆塚中北道標があります。

小田井宿には
飯盛が無く、婦女子の宿泊が多い所から姫の宿とも呼ばれましたが、文化二年(1805)刊行の木曽路名所図会には「駅内弐町ばかり、多く農家にして、旅舎少なし、宿悪し」と著され、はなはだひなびた宿でした。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大慨帳によれば、小田井宿宿内家数は百七軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠五軒、宿内人口は三百十九人(男百五十九人 女百六十人)で、宿並は八町四十間(約945m)でした。

小田井宿東の崖上に、この地を治めた
尾台六郎福親が大永年間(1521〜28)に築城した小田井城がありました。
小田井宿江戸口 小田井宿入口標柱

 天文十三年(1544)時の城主
尾台又六郎武田信玄に攻撃され、奮戦空しく弟の二郎左衛門ほか全将兵が討ち死にして落城し、廃城となりました。

 宿並に入り小田井上宿バス停を過ぎると左手に安川はるを供養するおはる地蔵があります。

安川はるは明治三十六年(1903)小田井に生まれ、高価な肥料が買えない農民の為にゴミと人糞から燻炭肥料を作る安川式肥料燻炭炉を発明しました、生涯独身で通し、人々のために献身的な活動をして平成三年(1991)八十九才で永眠しました。

スグ先、道路幅員が不自然に広がっている所が
東枡形跡です、左手には中山道小田井宿解説があります。

右手に
東屋があります、ここを右に入ると長倉諏訪神社があります、天正十六年(1588)諏訪神社を勧請し、享和二年(1802)長倉神社と称するようになりました。
おはる地蔵 東の枡形跡 長倉諏訪神社

 境内のケヤキは御神木で推定樹齢二百年(御代田町天然記念物)です。

神馬舎の
藁馬(わらうま)は毎年二月八日の道祖神祭り(小田井町無形民族文化財)に使用されます、子供達が町内を引き回して、無病息災を祈ります。

宿並に戻り、そのまま横断して進むと左手の宝珠院の参道口に大きな
馬頭観世音文字塔があります。

真言宗智山派飯玉山
宝珠院(ほうじゅいん)は永正年間(1504〜20)の創建で、本尊は聖観世音菩薩です。
御神木 藁馬 馬頭観音 宝珠院

 境内にあるシダレザクラは推定樹齢三百年で、樹高7〜8m、南北枝張り11mです。

アカマツは樹高7.5m、東枝張り8m、幹周2.7mで共に御代田町指定天然記念物に指定されています。

本堂前の
寺用水の升石(ますいし)は用水取り入れ口に敷設された石で水量を常に一定にする為に一合升と同じ穴が開けられています。

山門は明和七年(1770)に再建されたもので、寄棟、鉄板葺で、六地蔵が安置されています。

鐘楼は安永八年(1779)に再建されたもので、入母屋、茅葺、同年に鋳造された梵鐘が吊り下げられています。
シダレザクラ アカマツ 寺用水の升石

 宿並に戻ると右手に安川本陣跡(御代田町指定史跡)があります、客室部は切妻造りで、式台、広間、三の間、二の間、上段の間、入側(いりがわ)などは原型をよく留めており、安川家文書には宝暦六年(1756)に大規模改築が行われたと記されています。

湯殿(かわや)は、幕末の文久元年(1861)の皇女和宮降嫁の際に修築されたもので、は、大用所、小用所ともに二畳の畳敷となっています。

皇女和宮は小田井宿安川本陣にて昼食を摂りました、その際、本陣は小さな御所人形を拝領しました、これにちなんで毎年八月十六日には授かった拝領人形を籠に乗せた古装束の一行が宿内を練り歩く小田井宿祭りが行われます。
安川本陣跡 拝領人形 道路元標

 問屋跡手前の中山道小田井宿跡解説の所に
御代田村道路元標があります。

 隣接して上の問屋跡(安川家住宅)があります、江戸後期の建築で天保二年(1831)道中奉行に差出した図面とほぼ変わりなく荷置場、帳場、客室部、廐、土間等が保存されています。

次いで左手に
脇本陣跡があります、すはま屋又左衛門が勤めました、文久元年(1861)当時の屋敷図を今に残しています。

小田井簡易郵便局隣りの旧旅籠屋の前には
中山道小田井宿標柱があります。

次いで左手に
下の問屋跡があります。
上の問屋跡 脇本陣跡 小田井宿標柱 下の問屋跡

 (尾台家住宅)明和九年(1772)の大火以降の建築です、切妻造り、屋根は元板葺石置、三室続きの客室を備えた建物です、荷置場と問屋場は門の左右の建物を使用しました、問屋業務は
上の問屋と半月交代で勤めました。

 小松屋商店の所が西枡形跡です、中山道小田井宿跡標柱があります、ここが小田井宿の京(西)口です。

それでは
小田井宿を後にしましょう、緩やかにうねる街道を進むと左手に火の見ヤグラがあります、先の右手に白山比盗_社(しらやまひめ)があります。

霊峰白山をご神体としています、鳥居には国威宣揚 武運長久の文字が刻まれています、境内には男女双体道祖神や石祠があります。

左手に
小林製菓があります、あめのこばやし看板を掲げています。
小田井宿西口 小田井宿跡 白山比盗_社 小林製菓

 信号交差点を越すと左手に馬頭観音像馬頭観世音文字塔等が五体並んでいます。

街道は
小田井南交差点に突き当たります、左折して県道9号佐久軽井沢線に合流します。

京方面からは
小田井南交差点を斜め右に進みます、この分岐点には中北道標「←岩村田を経て塩名田8.7km 追分6.6km→」があります。

県道を進み、右手のスズキ自動車を過ぎると
名残り松があります。
石仏石塔群 小田井南分岐 中北道標 名残り松

 この名残り松の奥に名勝で知られる皎月原(こうげつはら)があります。

伝説によれば
用明天皇の官女皎月(こうげつ)が咎めを受けて、佐久郡の平尾へ流されました。

いつも
白馬を愛でていた官女はある時、小田井の原へ馬を引き出して乗りまわしていました、ところが天の竜馬だった白馬は空へ駆け上がり、平尾山の頂上に立ちどまった。

そこで
皎月は「吾は唯人ではない、白山大権現だ」といいました、その後皎月は時々小田井の原へ来て馬の輪乗りをし、其跡には草が生えなかったところから皎月の輪と呼ぶようになりました。

奥に
皎月歌碑「むかしより かわらぬ影を うつしてや 月毛乃駒の 跡のみちしは」があります、小諸藩の馬術師範押兼国衛門長常の古歌です。
皎月原 皎月歌碑

 小田井宿から西に向けて出立すると、辺りは一面のすすき野でした、木曽名所図会岐蘇路安間絵図かないか原と紹介されています、皎月原(こうげつはら)のことです。

広重は小田井宿として遠景に
浅間山、手前に皎月原、そして巡礼勧進僧を描いています。

右手の僧侶は手に
本堂造立と染め抜かれた幟を杖代わりに持っています、本堂建立の浄財集めの為に諸国を巡っています、左手の三人は巡礼です、中央の老婆は右手に柄杓(ひしゃく)を持っています、他人から施しを受ける際、この柄杓を差出します。

三人が背負っているのが
(おい)です、中には経文衣類が入っています。
木曽海道六十九次之内 小田井 広重画

 皎月原バス停を越すと左手に風化の進んだ馬頭観世音文字塔があります。

千曲バスの横根入口バス停先の信号交差点を越すと左手に
中北道標「←小田井を経て追分7.4km 岩村田を経て塩名田7.9km→」があります、この道標に一里塚案内標識が取り付けてあります。

標識方向に進み土道を上ると左手に
鵜縄沢端(うなざわばた)の一里塚東塚が現存しています。

中山道開設当初に設置された
一里塚です、寛永十二年(1635)に中山道の大改修で街道の付け替えが行われ取り残されました、江戸日本橋より数えて四十二里目です、通り抜けは不可です、元の街道に戻りましょう。
馬頭観音 中北道標 鵜縄沢端の一里塚

 宇な沢バス停辺りから信州りんごの畑が現れます、りんごの直売店が街道沿いに目立ちます、信州は蜜入りりんごの発祥地といわれます。

上信越自動車道岩村田橋で跨ぎます、橋上からは遥かに甲州の八ケ岳が望めます。

佐久I.C東交差点を越し、大戸屋先の左手佐久インター東バス停の所に風化の進んだ
馬頭観音像があります。

次いで左手住吉神社前バス停の所に
千手観世音馬頭観世音文字塔馬頭観音像等の石塔石仏が多数祀ら れています。

左手の墓地を越すと街道は左に緩くカーブします。
岩村田橋 馬頭観音 石仏石塔

 左手の段上に住吉神社があります。

境内には堂々とした樹齢四百年の
ケヤキがあります、しかし裏側に回ると火災で焼け空洞になっています、これは悪戯によるものです。

境内の隅に善光寺道追分にあった享保二十年(1735)建立の
善光寺道道標「従是善光寺道」が移設されています。

境内には
男女双体道祖神十九夜塔魔利支天尊、享和元年(1801)建立の二十三夜塔等の石塔類が多数祀られています。
住吉神社 善光寺道道標 大ケヤキ 大ケヤキの裏側

 AM7:04 岩村田宿着 塩名田宿マデ5.5km

 住吉神社辺りが岩村田宿の江戸(東)口です、岩村田宿に到着です!

岩村田宿は岩村田藩一万五千石の城下町でした、ゆえに宿泊する諸大名はなく、本陣脇本陣はありませんでした。

旅籠八軒と小宿でしたが、
佐久甲州街道下仁田街道善光寺街道が交差する所から商人町として賑わいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、岩村田宿宿内家数は三百五十軒、うち旅籠八軒、宿内人口は千六百三十七人(男八百九人 女八百二十八人)で、宿並は九町三十間(約10391m)でした。

宿並を進むと右手の清水クリーニング店の所に
善光寺追分道標「従是善光寺道」があります、この道標はレプリカです、享和元年(1801)建立の善光寺追分道標住吉神社の境内に移設されています。
善光寺道追分 善光寺道道標

 善光寺道は先で追分の
分去れで分岐した北国街道に落合います。

 次いで宿並の左手に曹洞宗大田山龍雲寺があります、正和元年(1312)この地で覇を唱えた大井氏の創建です。

大井氏の滅亡後も
武田信玄の帰依が篤く、寺領を寄進し、越後雲洞院から崇敬する北高(ほっこう)禅師を招いて住職としました。

天正元年(1573)
武田信玄が信州駒場で病死した際、遺命で喪を秘し、北高禅師が遺骨を龍雲寺に持ち帰り、密かに埋葬したと伝わっています。
龍雲寺惣門 龍雲寺山門 信玄公遺骨出土地 信玄公霊廟

 境内の奥に
信玄公の遺骨出土の地に大きな五輪塔があります、昭和六年(1931)発掘調査が行われ武田信玄の遺骨が発見されました、信玄公霊廟には遺骨が安置されています。

岩村田宿には本陣、脇本陣が無い為、
龍雲寺が諸大名の休息所となりました。

 岩村田交差点を右に進み、佐久警察署入口交差点を右に入ると右手の佐久酒造会館に旅と酒をこよなく愛した若山牧水の歌碑「白珠の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしずかに 飲むべかりけり」があります。

岩村田交差点に戻り、そのまま進むと左手に
王城公園があります、ここが大井城跡(長野県史跡)です。

この地で覇を唱えた
大井氏の居城でした、文明十六年(1484)村上氏の攻撃により焼失し大井氏は滅亡しました、徳川の世になると廃城となりました。

奥に
王城のケヤキ(長野県天然記念物)があります、このケヤキは大井城の象徴でした、樹下には氏神道祖神石尊山不動尊金毘羅等が祀られています。
若山牧水歌碑 大井城跡 王城のケヤキ

 宿並に戻る際、岩村田交差点の手前の左手に佐久ホテルがあります、割本(わりもと)でした、大名や奉行等に宿泊や食事を提供しました。

佐久ホテルでは
名物佐久鯉が賞味出来ます。

文政八年(1825)岩村田藩主
内藤豊後守が大阪城勤番を終え帰国の際に、淀川の鯉を持ち帰りました。

岩村田藩は
貧乏藩でした、内藤家の家紋をもじって「金はないとうしまの守 袖からぼろが下がり藤」と揶揄されました。
割本 鯉こく 鯉旨煮 武田信玄自筆画

 藩財政の立て直しに尽力した
並木七左衛門が藩主より褒美にこの鯉を拝領したのが始りです、佐久鯉は身が締り、泥臭さがないと評判でした。

佐久ホテルは
武田信玄自筆といわれる人物画を所蔵しています。

 宿並に戻って進み、右手おいでなん処を右に入ると浄土宗一行山西念寺があります、弘治元年(1555)の創建で、本尊の木像阿弥陀如来像は長野県宝です。

小諸藩初代藩主
仙石秀久の菩提寺で、墓地には仙石秀久の墓があります、仙石氏の永楽銭紋が寺紋です。

その後岩村田藩
内藤家の菩提寺になりました。

宿並に戻ると左手に創業承応二年(1653)の
戸塚酒造があります。
西念寺 仙石秀久墓 銘酒寒竹 下仁田街道追分

 銘酒
寒竹の蔵元です、岩村田藩の御用達でした。

岩村田本町交差点左が
下仁田街道追分です、上州下仁田に至ります。

 中山道は相生町交差点を右折(白色矢印)します、この分岐点には中北道標「←小田井宿を経て追分9.9km 塩名田5.4km→」があります。

ここを直進(黄色矢印)し、長野県佐久児童相談所案内に従って左折し、しばらく進むと
藤城神社があります、境内に岩村田城址碑があります。

元禄十六年(1703)
内藤正友によって陣屋が築かれ、第六代藩主内藤正綱伏見奉行を勤め、その功績により城主格に昇進しました、岩村田城は平山城で藤ケ城とも呼ばれました。
相生町交差点 中北道標 藤城神社 岩村田城址

 相生町交差点に戻って右に入ります、ここに燈籠形道標「この先佐久甲州街道」があります。

右手に
西宮神社があります、福の神えびすを祀っています、文政十二年(1829)建立の御神燈の前には道祖神が祀られています。

一本目左の筋が
佐久甲州街道です、武田信玄はここから信州に入りました。

次の左手筋口に三基の
道祖神が祀られています、次いで左手に曲口(しゃぐち)神社碑があります。
佐久甲州街道 西宮神社 道祖神 曲口神社

 居合わせた年配のご婦人から
しゃぐちと読むと教えて頂きました、ここから塩の道があったといいます。

 八ケ岳高原線こうみ線仲仙道踏切で横断すると左手に郷社若宮八幡大神社標があります。

左折(黄色矢印)して道なりに進むと
若宮八幡神社があります、建仁二年(1202)この地を治めていた大井氏鎌倉鶴ケ岡八幡宮を勧請し、創建しました、岩村田、平塚の氏神です。

境内に
下仁田街道追分にあった寛政十一年(1799)建立の常夜燈が移設されています。

街道に戻ると
御嶽神社があります。
若宮八幡社標 若宮八幡神社 下仁田道常夜燈 御嶽神社

 境内に
甲子大黒天不動尊保食神社妙見尊庚申月神尊(二十三夜講)等の石塔があります。

 県道154号塩名田佐久線を進みます、右手の長野県岩村田高校を過ぎ、左手の浅間総合病院を左に回り込むと、正面の相生の松に突当ります。

男松女松の株が結びついためでたい松(三代目)です、ここで皇女和宮は野点を行いました。

傍らに
歌碑「其むかし 業平あそむの尋ねけん おとこ女の 松の千とせを」と中北道標「←追分11.0km 塩名田4.3km→」があります、江戸方面からは右折し、京方面からは左折します。

左手幸楽苑の手前に
相生町第八部集会所があります、敷地奥に招福稲荷大明神が祀られています、境内には十九夜道祖神、嘉永五年(1852)建立の廿三夜
相生の松 三代目相生松 稲荷神社

安政三年(1856)建立の
三面六臂馬頭観音等があります。

 国道141号線の浅間病院西交差点を横断した先の右手に砂田用水改修記念碑があります、奥に水神大神が祀られています。

微妙にうねる街道を進むと、集落外れの右手民家に天保九年(1838)の建立の
道祖神が祀られています、注連縄が巻かれています。

集落を抜けると
りんご畑になります、盆地の内陸性気候がりんご栽培に適していました。

先に進むと右手に
中北道標「←塩名田3.6km 追分11.7km→」があります、信号交差点を右(黄色矢印)に進むと北陸新幹線・八ケ岳高原線の佐久平駅です、中山道は直進です。
水神大神 道祖神 中北道標 至佐久平駅

 浅間山の湧水ですが酸化鉄で濁る濁川砂田橋で渡ると平塚に入ります、この辺りに平塚の一里塚があったといいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて四十三里目です。

有り難いことに英泉は
岩村田宿としてこの平塚の一里塚を画面左手に、そして右手に濁川を描いています。

サア、問題は画面構成です、
座頭同士の喧嘩を描いています。

諸説ありますがその一つは
木曽街道六十九次は当初、版元保永堂英泉によって始められました、ところが途中から広重が参加し、共作となりました。

そして
河渡宿を最後に英泉はこの企画から離脱しています、恐らくこれらの怒りを絵に著したものといわれています。
木曽道中 岩村田 英泉画

 砂田橋を渡った先の右手段上に荘山(かがりやま)稲荷神社が祀られています、拝殿には保食神の額が掲げられています。

参道階段脇に
芭蕉句碑「野を横に 馬引むけよ 郭公(ほととぎす)」があります、元禄二年(1689)奥の細道の旅中、那須の原での作句です、境内には道祖神が祀られています。

中部横断自動車道をくぐった先の右手に林稲荷神社がありますが屋敷神です。

街道正面に深い
木立が現れます。
荘山稲荷神社 芭蕉句碑 中部横断道 石仏石塔群

 左手の草地に
百万遍供養塔があり、段上に多数の石仏石塔があります、奥には石祠が祀られています。

 先のY字路を右(白色矢印)に進みます、この分岐点には中北道標「←追分13.1km 塩名田2.2km→」があります。

先の右手に
諏訪神社があります、参道階段脇に男女双体道祖神、境内にセクシーなポーズのアカマツ、社殿の奥には神虫養大神普寛霊碑摩利支天御嶽山蔵王大権現大日聖不動明王保食大神等の石塔があります。

次いで右手に
如意輪大士碑があります、月待講の信仰対象です。

先の十字路左手に
石碑石塔があります。
根々井塚原分岐 諏訪神社 如意輪大士碑 石碑石塔

 浅間山の溶岩の上に
青面金剛像庚申塔御嶽山碑があります、ここからは北に▲浅間山の裾野が広がり、南には▲八ケ岳連峰が眺望できます。

 左手のシルバーポート塚原(老人ホーム)の手前を左に入ると真言宗智山派名覚山妙楽寺があります。

貞観八年(866)の創建、
信濃五山の一寺で若い修行僧の学問寺でした、毎年一月八日、蘇民将来を祈願(無病息災)する供養を、千年以上今日まで執り行っています。

先の
Y字路を左(白色矢印)の下塚原旧道に入ります。

この分岐点には
旧中山道道標「←岩村田宿3.4km 塩名田宿1.0km→」があります。

旧道を進むと右手に
駒形神社があります、右(黄色矢印)に下り、先程分岐した県道を横断し、濁川用水を渡り、駒形神社の境内に入ります。
妙楽寺 下塚原旧道東口 駒形神社口

 駒形神社本殿は文明十八年(1486)の再建で国重要文化財です。

祭神は騎乗の
男女二神像で望月の牧の守護神といわれます。

源頼朝が騎乗のまま拝礼せずに当社前を素通りしたところ落馬したといいます、それにしても頼朝さんはあちこちで落馬しています。

下塚原旧道は
駒形神社のスグ先で県道合流します。

スグ先に
駒形坂旧道があります。
駒形神社 下塚原旧道西口 駒形坂旧道東口 駒形坂旧道西口

 右手下に
人家がある所から斜め右の下り坂に入ります、駒形坂旧道です、人家の前を通行し、砂利道を上がると再び県道に合流します。

京方面からは
スベリ止め用砂ポストの手前から斜め左の砂利道の駒形坂旧道に入ります。

 県道をモクモクと進むと右手に中北道標「←塩名田0.2km 追分15.1km→」があります。

京方面からは
Y字路になっています、中北道標の右に進みます。

県道は
塩名田交差点に出ます。

この交差点の右手前を右に入ると
塩名田神社があります。

寛文十三年(1673)塩名田宿鎮護として
山王権現社が創建されました、境内には御嶽山座王大権現碑等があります。
中北道標 塩名田東分岐 塩名田交差点 塩名田神社

 AM8:37 塩名田宿着 八幡宿マデ2.7km

 塩名田交差点は変則五差路になっています、京方面からは斜め右に入ります、ここが塩名田宿の東枡形跡で塩名田宿の江戸(東)口です、ここには中北道標「←笠取峠15.3km 追分15.3km→」、道祖神、そして中山道塩名田宿標柱があります、塩名田宿に到着です!

塩名田宿は
加宿御馬寄村千曲川往還を確保し、継立を支障なく行う為、慶長七年(1602)に新設された宿場です、川止めに備え本陣は二軒ありましたが、川止め以外はひなびた宿でした。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、塩名田宿宿内家数は百十六軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠七軒、宿内人口は五百七十四人(男二百九十三人、女二百八十一人)で、宿並下宿中宿川原宿の三宿と加宿御馬寄村で構成されました。

宿並の家屋には往時の
屋号札が掲げています。
塩名田宿東口 丸山善兵衛本陣跡

 左手の総合食品店
大井屋本陣丸山善兵衛の木札が掲げられています、延宝年間(1673〜81)から本陣を勤め、建坪百七十坪、門構え玄関付きでした。

 本陣向いの旧屋号丸山煙草屋の前に中津村道路元標があります。

次いで右手に
丸山新左衛門本陣跡があります、宝暦六年(1756)の再建です、本棟造切り妻で鬼瓦には丸山の文字があしらわれています、建坪百二十九坪で問屋を兼ねました。

並びに
高札場跡があります、往時は宿並の中央に用水が西から東に流れていて、高札場はこの用水路を跨いでいました。

先の左手に
坂越(さこし)佐藤家住宅があります、 宿内最古の町屋です。
道路元標 丸山新左衛門本陣 高札場跡 佐越

 坂越の隣りが旧屋号大和屋蔵元です、堂々とした卯建をあげています。

更にその隣りが
えび屋豆腐店です、江戸時代末期の建築です。

この辺りの
町屋は宿並に対して斜交して建てられています。

宿並の外れを斜め右(白色矢印)の
下り坂に入ります、ここが川原宿口です。

この分岐点には
中北道標「↓塩名田0.4km 笠取峠14.9km→」があります、京方面からは中宿に合流します。
大和川蔵元 えび屋豆腐店 川原宿口 中北道標

 坂を下ると左手に東屋があり、奥のケヤキの根元から清水が湧いています、旅人の喉を潤し滝の水と呼ばれました。

ここは
瀧大明神社の境内でした、天保十年(1839)建立の十九夜塔や明治四十年(1907)建立の道祖神があります。

並びに三階建ての
休茶屋であった角屋が遺構を残しています。

清水に因む
お滝通りを進むと千曲川に突き当ります。
ケヤキの清水 角屋 竹廼家 鮠の天丼

 右手の川魚料理
竹廼家(たけのや)では(はや)の天丼が賞味出来ます!

 千曲川は暴れ川で度々橋を押し流しました、架橋舟渡しが繰り返し行われました。

突当りから河原を見ると
舟つなぎ石があります、岩の頭部に穴が開いています、舟橋の舟を繋ぎ止めた石です。

明治になると九艘の舟を繋ぎ、その上に板を渡した
舟橋が架橋されました。

突当りに
中北道標「←階段を上り橋をわたる 塩名田0.5km↓」があります、左に進み、 赤い中津橋をくぐり、回り込んで階段を上り中津橋上に出ます。
舟つなぎ石 千曲川舟橋 中北道標 中津橋階段

 広重は塩名田宿として塩名田側の千曲川の舟渡し場風景を描いています。

千曲川には橋が掛けられていましたが、近郷無類の荒川と呼ばれる
千曲川は度々橋を押し流しました。

流失すると
舟渡しになりました、川岸には三艘の渡し舟が係留されています、対岸が御馬寄村です。

舟人足達は寒さを防ぐために綿入れの
ちゃんちゃんこ(むしろ)を纏っています、 藁葺屋根の小屋の中では控えの舟人足が一服しながら暖をとっています。

画面中央の
大ケヤキは川原宿の瀧明神のものです、この根元からは滝の水が湧き出ています。
木曽海道六拾九次之内 塩なた 広重画

 今は中津橋歩道橋千曲川を渡ります。

千曲川は甲武信ケ岳に源を発し佐久平、上田平を北流し、善光寺平の川中島で犀川を吸収し、越後に入って信濃川と名を変え、流末は日本海に注いでいます。

渡詰めの石碑に
塩名田節「塩名田名所は千曲川、次に名所は滝の水、駒形様の厄落とし、涼味豊かな中津橋」が刻まれています。

渡詰めの先で
上道に合流します。
中津橋歩道橋 千曲川 中津橋西詰 勝手神社のケヤキ

 ここを左に(黄色矢印)に入ると
勝手神社のケヤキがあります、樹齢六百年で浅科村指定天然記念物です。

 街道に戻り右手の御馬寄バス停を右に入ると浄土宗大圓寺があります、本尊は阿弥陀如来ですが、残念がら荒れるに任せています。

御馬寄村官牧望月牧の貢馬を寄せ集めたところを地名由来としています、塩名田宿の加宿で千曲川の渡しを勤めました。

村では毎月一と六の日に市が立ち、
小諸藩川西の穀物相場はこの市で決まりました、商家も多く賑わいました。

上り坂を進み右手の
日向酸素工業所看板の所から斜め右(白色矢印)の小道に入ります。

落ち着いた旧道を進むと右手の用水際に
名号碑南無阿弥陀仏があります。
大圓寺 御馬寄旧道西口 名号碑

 右手奥の段上に夥しい数の石仏石塔や元文元年(1736)建立の大日如来等があります。

突当りの
T字路を右折します、京方面からは正面の佐久市御馬寄歩道橋の手前を左折します、この分岐点には歩行者注意標識があります。

上り坂を進むと右手の石垣上に明和八年(1771)建立の極楽往生信仰の
大日如来像が安置されています。

傍らに
芭蕉句碑「涼しさや すぐに野松の 枝のなり」があります。
石仏石塔群 T字路 大日如来像 芭蕉句碑

 御馬寄旧道は県道に吸収(白色矢印)されます、京方面からは佐久川西自動車学校先を斜め左に入ります。

左手の佐久川西自動車学校の向いに
中山道一里塚跡標柱があります、御馬寄の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて四十四里目です。

先の左手浅科商工会館案内標識の下に井戸湧水の守護神である
御井(みい)大神馬頭観音像が二基祀られています。

次いで右手に
伊勢宮神社があります、御神燈は安政五年(1858)の建立です。
御馬寄旧道東口 一里塚跡 石仏石塔 伊勢宮神社

 浅科支所前交差点を過ぎると左手に文化五年(1808)建立の観世音菩薩文字塔があります、頭部に梵字が刻まれています。

街道は下りになります、左手に
生井(いくゐ)大神があります、井戸の守護神です、並びの馬頭観世音文字塔は文政十一年(1828)の建立です。

街道をグングン下ると右手奥に曹洞宗八幡山
常泉寺があります、明徳二年(1391)の創建です。

参道口には
一家三兵士碑があります。
観世音菩薩 生井大神 常泉寺 一家三兵士碑

 碑には
父母日露戦役に従軍した三兄弟の氏名が刻まれています。

 先で中沢川を渡ります。

広重は
八幡として画面手前に中沢川、遠景に浅間山、更にその後ろには碓氷峠を描いています。

板橋の袂の川岸には無数の
が打ち込まれています、土砂の流失を防ぐものです。

その先には竹で編んだ籠に石を詰めた
蛇籠(じゃかご)が描かれています。

街道脇には藁葺屋根の
出茶屋を描いています。
中沢川 木曽海道六拾九次之内 八幡 広重画

 AM9:35 八幡宿着 望月宿マデ3.7km

 八幡神社前バス停の脇に中山道八幡宿標柱があります、ここが八幡宿の江戸(東)口です、八幡(やわた)宿に到着です!

八幡宿は
八幡蓬田(よもぎだ)、桑山の三村を中山道沿いに移転して、新設れた新宿です。

八幡(やわた)の地名は宿内の八幡(はちまん)神社に由来します、千曲川対岸の塩名田宿からの宿間は二十七町と中山道の中で最も短いです、これは千曲川の川止めに備えたもので脇本陣は四軒ありました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、八幡宿宿内家数は百四十三軒、うち本陣一、脇本陣四、旅籠三軒、宿内人口は七百十九人(男三百七十二人 女三百四十七人)で、宿並は七町二十五間(約809m)でした。

八幡宿の江戸口には
八幡神社が鎮座しています。
八幡宿碑 八幡神社

 八幡神社は貞観八年(859)御牧の管理をしていた滋野(しげの)貞秀によって勧請された古社です、この地を支配した望月城の城主望月氏の鬼門除けとして崇敬され、武士の信仰が篤かったといいます。

天保十四年(1843)建立の
随神門(楼門)、そして瑞垣門(みずがきもん)をくぐると境内に入ります、右手の八幡神社本殿は天明三年(1783)の建立です。

正面の
旧本殿高良社(国重要文化財)は延徳三年(1491)望月城主滋野遠江守光重により建立されました。
随神門 瑞垣門 八幡神社本殿 高良社本殿

 
高良社(こうらしゃ)は朝鮮からの渡来人武内宿禰(たけしうちのすくね)を祀っています。

 宿並を進むと左手に養蚕用の小屋根がある旧家があります、ここが問屋場跡です、代々依田家が勤め名主を兼ねました。

次いで右手に
八幡宿本陣跡があります、文化元年(1804)建築の本陣門を残しています、代々小松家が勤めました、規模は建坪百二十坪、門構え玄関付でした、幕末皇女和宮が宿泊(十六日目)し、下賜された品や貴重な資料等が残されています。

向いが
脇本陣跡です、門構えを残しています、代々依田家が勤め問屋を兼ねました。

八幡中町交差点の手前左手辺りに
高札場があったといいますが遺構や標識等はありません。
問屋場跡 本陣跡 脇本陣跡

 八幡中町交差点を越すと左手に南御牧村道路元標があります。

宿並を進むと右手に
八幡邨(むら)標石があります。

八幡入口バス停先を斜め右の
下り坂に入ります、八幡旧道の東口です。

この分岐点には
中北道標「←笠取峠12.1km 塩名田3.2km→」があります。

旧道を進むと右手に
馬頭観世音文字塔が大小三基並んでいます、次いで右手に石祠が祀られています、屋敷神かもしれません。
道路元標 八幡邨 八幡旧道東口 馬頭観音

 右手に地蔵尊が安置されています、野の花が供えられています。

左手に本道が近づくと、左手に
中山道八幡宿碑があります、ここが八幡宿(西)です。

傍らに
中北道標「←塩名田3.4km 笠取峠11.9km→」があります。

スグ先で
本道に合流します、京方面からは斜め左に入ります。

先の
八幡西交差点にて国道142号線に合流します、京方面からは左に入ります。
地蔵尊 八幡宿碑 八幡旧道西口 八幡西分岐

 この分岐点には
旧中山道道標「←八幡宿0.8km 望月宿2.5km→」があります。

 国道を進み布施川百沢(ももざわ)で渡り、百沢東交差点を横断します。

正面に白色パイプフェンスで遮断された
百沢旧道(白色矢印)があります、左(黄色矢印)から迂回して百沢旧道に入ります。

旧道に復帰すると右手に
中北道標「←茂田井宿5.5km笠取峠11.2km 塩名田4.1km→」、この道標上に案内標識「←中山道」が取り付けられています。

百沢集落の外れにある火の見ヤグラの足元に
祝言道祖神が祀られています、安曇(あづみ)地方で発生した道祖神で宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像です、傍らに馬頭観音像があります。
百沢旧道東口 中北道標 祝言道祖神

 火の見ヤグラ先のY字路は左(白色矢印)の細道を進みます。

このY字路を右(黄色矢印)に進むと
石尊大権現と寛政二年(1790)建立の二十三夜塔があります。

旧道に戻りY字路を左に下ると
布施温泉入口交差点に突き当たります。

この百沢旧道西口には
中北道標「←塩名田4.5km 茂田井宿5.0km笠取峠10.8km→」があります、この中北道標には案内標識「←中山道」が取り付けられています。
百沢旧道西 二十三夜塔 百沢旧道西口 中北道標

 布施温泉入口交差点を横断(白色矢印)して、向いの県道150号百沢臼田線に入ります、京方面からは交差点を横断し、右手の百沢旧道に入ります。

県道の右側の歩道をしばらく進むと歩道が終わります、ここから右手の
土道(白色矢印)に入ります。

この分岐点には元禄十一年(1698)建立の
道標「右仲仙道」があります、傍らに中山道牧布施道標標柱があります。

牧布施旧道の上り坂を進みます。
布施温泉入口 牧布施道標分岐 元禄の道標 牧布施旧道

 土道を上り詰めると舗装路のT字路に突き当たります、右折(白色矢印)します、この分岐点には史跡案内「中山道 道はここから国道を横断し望月宿方面に向かう→」があります。

京方面からはガードレールの切れ目から左の
土道下り坂に入ります。

舗装路を進むと
国道142号線のT字路に突き当たります、左折(白色矢印)します、向いに望月宿燈籠モニュメントがありますが無視します。

京方面からは
望月融雪基地が右折ポイントです。

国道を進むと右手に
分岐があります。
牧布施旧道分岐 牧布施旧道西口 道祖神&馬頭観音

 この分岐点には大きな
祝言道祖神馬頭観世音文字塔が二基あります、そして望月宿燈籠モニュメント中山道標柱があります、ここからの中山道は近世のものです、ここも無視します、旧道はまだ先です。

 国道142号線をモクモクと歩くと右手に望月東急ゴルフクラブ看板交通標識があります、ここを右折(白色矢印)して土道に入ります。

京方面からは突当りの
国道142号線を左折します。

旧道沿いにある畑までは自動車の
があります、その先は踏み跡を辿って進みます。

突当りの
舗装路を左折(白色矢印)します、京方面からは161と表示された電柱が右折ポイントです。
ゴルフ場看板 金山坂東口 金山坂 金山坂西口

これにて
金山坂旧道トレースは終了です、この先は瓜生坂になります。

 広重は望月宿として満月に照らされる瓜生坂赤松並木そして浅間山を描いています。

ところが
岐蘇路安間絵図には「金山坂、瓜生坂両方木なし」と著されています。

無論今歩いても
松並木はありません。

描かれている
松並木は堂々たるものですから、この辺りでは笠取峠の松並木しか考えられません、多分これは広重一流の洒落で、笠取峠の松並木を借景したものではないかと思われます。

街道には信州の農民が駄賃稼ぎに荷の輸送を行った
中馬(ちゅうま)が描かれています。
木曽海道六拾九次之内 望月 広重画

 ここからは舗装された瓜生坂の上り坂を進みます。

左手に
中山道一里塚跡碑があります、瓜生坂の一里塚です。

一部削られていますが
両塚を残しています、江戸日本橋より数えて四十五里目です。

微妙に左右にうねる瓜生坂を上ると
中山道瓜生坂碑があります、ここが瓜生坂の頂上です。

並びに
石塔が二基並んでいます。
瓜生坂一里塚(南) 北塚 百萬遍供養塔 中山道瓜生坂碑

 奉供養念佛百万遍念仏塔は元文元年(1736)、石仏は享保二年(1717)の建立です。

 中山道瓜生坂碑の先に瓜生坂の下り口があります。

この下り口には
中北道標「←茂田井宿4.1km笠取峠9.9km 塩名田5.4km→」と中山道案内「道はここから土手を斜めにくだっていた」があります、京方面方は突当りの旧国道を右折します。

土道の下り坂を進むと右手の斜面に馬頭観音像が二体祀られています、今も昔も旅人の安全を見守っています。

心地よい旧道は
旧国道に突当ります、ここを左折(白色矢印)します、この分岐点には道標「中山道→」があります。

京方面からは分岐点に分岐ポイント
案内標識「中山道瓜生坂」があります。
瓜生坂下り口 馬頭観音 瓜生坂下り分岐

 旧国道が大きく右に曲がり、次いで左に曲がると右手に中北道標「←茂田井宿3.3km笠取峠9.1km 塩名田6.2km→」と中山道道標「←望月宿方面」があります。

ここを斜め右(白色矢印)に入ります、京方面からは突当りの
旧国道を左に進みます。

案外急な下り坂を進むと左手に
石尊大権現碑等があり、右手の段上には大聖不動普寛霊神御嶽山蔵王大権現碑等があり、擁壁下に道祖神馬頭観音等があります。
瓜生坂下り分岐 石塔 石塔群 石仏石塔群

 これらの
中山道長坂石仏群は長坂にあった修験道の大応院のものです、明治五年(1872)廃寺となりました。

 街道は鹿曲川に突き当たります。

当初の
望月宿鹿曲川(かくまがわ)の右岸にありましたが、寛保二年(1742))の大洪水で宿場全体が流された為、左岸の現在地に移転しました。

街道は
長坂橋(白色矢印)を渡りますが、そのまま直進(黄色矢印)すると左手に弁才天碑があります。

先の
望月橋の所に去来句碑「駒曳の 木曽や出るらん 三日の月」があります、ここを入ると(黄色矢印)弁天窟がありますが進入禁止になっています。
長坂分岐 弁財天碑 弁天窟口 去来三日月句碑

 望月橋から望むと鹿曲川に臨む絶壁を穿って弁財天が祀られています、これは室町時代末期の永正年間(1504〜20)近江の竹生島弁才天を勧請したものといいます。

洞窟の上の
蟠龍窟(ばんりゅうくつ)の篆字(てんじ)は江戸後期の書家望月宿本陣大森曲川(きょくせん)の書です。

それでは街道に戻りましょう、
鹿曲川(かくまがわ)を長坂橋で渡ります、鹿曲川は八ヶ岳連峰の北端に位置する蓼科山大河原峠に源を発し、流末は千曲川に落合います。
弁天窟 鹿曲川 馬頭観音 望月宿手前

 長坂橋を渡ると
上り坂になります、坂の右手には寛政四年(1792)建立の馬頭観音像が祀られています。

突当りを直角に右(白色矢印)に曲がります、ここが望月宿の
東の枡形です、左手に島田屋旅館があります。

 AM10:54 望月宿着 芦田宿マデ5.1km

 街道は十字路に突当ります、ここが望月宿の江戸(東)です、望月宿に到着です!

この十字路を右折して望月の宿並に入ります、この分岐点には
中北道標「←塩名田6.5km 笠取峠8.8km→」と中山道道標「←中山道」があります、京方面からは左折して下り坂に入ります。

奈良平安時代、
千曲川鹿曲川布瀬川で囲まれたこの地は御牧ケ原(望月牧)と呼ばれる朝廷の御牧(御料牧場)でした。

旧暦の八月十五日の満月の日に
駒ひきの儀が行われ、この地で産出する望月駒が朝廷に献上されました、望月駒は優秀で評判であったといいます。

望月の地名は満月の日を意味する望月に由来しています。

太田南畝壬戌紀行によると「今宵の宿の家は土もてぬれる壁なり。木曽路のごとき板家にあらず」と評判が良い宿でした。
望月宿江戸口

 天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば望月宿宿内家数は八十二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠九軒、宿内人口は三百六十人(男百八十九人 女百七十一人)で、宿並は六町余(約655m余)でした。

 宿並のマンホールの蓋は望月駒のレリーフになっています。

それでは宿並を進んでみましょう、宿並が左に曲がると左手に
井出野屋旅館があります、大正五年(1916)築の木造三階建です、映画「犬上家の一族」のロケに使われました。

向いが
御宿山城屋です、江戸時代末期創業の旅籠山城屋喜左衛門です、現在も営業を行っています。

次いで左手に
佐久市立望月歴史民俗資料館があります。
マンホール蓋 井出野屋旅館 御宿山城屋 歴史民俗資料館

 縄文時代から宿場時代の歴史物が多数展示されています、敷地内には
釣瓶沢(つるべさわ)の水割り場石木樋(きどい)が展示されています、蓼科山の水源から水を引いた用水の施設です、木樋はカラマツをくり貫いたものです。

 並びの大森小児科医院御本陣の木札が掲げられています。

慶長七年(1602)中山道の宿駅設置に功のあった
大森久左衛門が本陣を勤め、問屋名主を兼ねました、望月歴史民俗資料館は本陣跡です、建坪は百八十坪でした。

右手に
脇本陣跡があります、脇本陣鷹野の木札を掲げています、問屋を兼ねました、平入り切妻造で建坪九十九坪、木鼻には彫刻が施されています。

向いがレストラン
ラ・フェスタです。
本陣跡 脇本陣跡 ラ・フェスタ 駒月みそかつ丼

 現在の望月宿では
宿場興しの一環として、各食堂は新名物として駒月みそかつ丼を展開しています、雁喰味噌(がんくいみそ)を使った独特の味噌ダレが特徴です、各店は思い思いの工夫を凝らしています。

レストラン
ラ・フェスタ駒月みそかつ丼を食してみました、雁喰味噌は黒大豆の一種で地元の雁喰豆を使用した甘味噌系です、こくがあって美味いです、名古屋名物の味噌かつ丼とは似て非なるものです、お奨めします、ご賞味下さい!

 先の右手に大和屋跡があります、現真山家住宅で国登録重要文化財です、明和二年(1765)望月宿大火後の建築で宿最古の建物です、旅籠問屋を兼ね幕末には庄屋を勤めました。

向いが
香美屋跡です、往時は下駄屋でした、今も大きな下駄型の看板を軒下に吊るしています。

先の左手に
大伴神社があります、景行天皇四十年(110)の創建で延喜式神名帳に記載された古社です、この地を領した望月氏の庇護を受けました、この地の産土神です。
大和屋 香美屋跡 大伴神社 大伴神社社殿

 現在の本殿は春日造りで延宝五年(1677)の建立です。

境内には
道祖神、文政元年(1818)建立の庚申塔、弘化二年(1845)建立の甲子塔等があります。

毎年八月十五日、信州の奇祭として名高い勇壮な火祭り
(さかき)祭りが行われます、によって一切の不浄を払い浄め、五穀豊穣や無病息災を祈る大例祭です。

松明山篝火が焚かれ、数百人の若者が手に松明を持ち、望月橋までの約2kmを駆け下り、その火を鹿曲川へ投げ込みます。

やがて
お囃子が宿内を練り歩き、榊の神輿が繰り出すと祭りの熱も最高潮に達し、悪病を払い除けるかのように神輿を地面に叩きつけ、水を掛け合う奇祭です。
石塔群 榊祭り

 宿外れの信濃毎日今井新聞店先の斜め右(白色矢印)の細道が旧道西枡形です。

旧道に入ると右手に
馬頭観世音文字塔があります。

道なりに進むと
旧道は宿並からの県道に合流します、京方面からは右手のこまむら歯科先の左手消火栓の所から左の旧道に入ります。

御桐谷(おとや)交差点を越え、次いで
三井川を越え、そして御桐屋西交差点を越えた先の左の上り坂に入ります。
西枡形旧道東口 馬頭観音 西枡形旧道西口 御桐谷旧道東口

 ここが
御桐谷旧道東口です、この分岐点には案内標識「←中山道」があります、京方面からは突当りの県道を右に進みます。

 旧道に入ると左手の斜面に風化が進んだ馬頭観音像があります。

きれいなトイレがある
佐久良公園を越すとY字路になります、右に進みます、この分岐点には案内標識「←中山道→」(黄色丸囲)があります、京方面からは突当りのT字路を左に進みます。

上り坂の旧道は左に曲がり、次に右に曲がると右手に延亨二年(1745)建立の
寒念佛供養塔があります、この辺りが青木坂です。

旧道は国道の擁壁に沿って進み、突当りの
国道142号線ガードをくぐります。
馬頭観音 分岐点 寒念佛供養塔 国道ガード

 国道142号線ガードをくぐった先がY字路になっています、右(白色矢印)に進みます、この分岐点には案内標識「中山道→」(黄色丸囲)があります。

旧道はスグ先で
県道148号線に合流します、京方面からは左手お食事しいーらんぼ先のY字路を右に進みます、この分岐点には案内標識「中山道→」(黄色丸囲)があります。

上り坂の県道を進むと右手の横道に
道標「右御巡見道」があります、幕府が諸国の監視と情勢調査のために派遣した巡見使が通行した道筋です。
国道ガード分岐 御桐谷旧道西口 御巡見道道標 野仏

 右手の伯愛整骨院の向いに近世の
野仏があります。

 上り坂を上り詰めると右手に武重歯科医院があります、ここからは緩い下り坂になります。

観音寺入口バス停を過ぎると右手に
にごり池があります。

右手に
丸太道標「←茂田井間の宿 望月宿→」があります、先のY字路を斜め右(白色矢印)の下り坂に入ります、ここが茂田井の東口です。

茂田井は
間の宿でした、往時の佇まいを今に残す民家造り酒屋が軒を連ねています、、この地は良質な米と清冽な水に恵まれ信州の酒処といわれました。

下り坂を進むと右手に消防用ホース格納庫があります、この上の斜面に
馬頭観音像が祀られています。
にごり池 茂田井東口 馬頭観音

 先の右手丘上に神明社が鎮座しています、宝永六年(1709)茂田井村初代名主の大澤茂右衛門が願主となり建立しました、祭神は天照大神で雨乞いに霊験あらたかといいます。

次いで右手に酒林が下がる
叶屋(武重本家酒造)があります、 明治元年(1868)第十二代当主武重徳右衛門が酒造業を創業しました、江戸時代後期の住宅酒造施設等が国有形登録文化財に指定されています、銘酒御園武(みそのたけ)、銘酒牧水(ぼくすい)の蔵元です。

武重本家酒造の向いに、酒をこよなく愛した漂白の詩人
若山牧水歌碑があります、三首刻まれています。

●「よき酒と ひとのいふなる 御園竹(みそのたけ) われ
神明社 叶屋 若山牧水歌碑

  もけふ飲み つよしと思へり」
●「しらたまの 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり」
●「ひとの世に たのしみ多し 然れども 酒なしにして なにのたのしみ」

牧水さんは盛夏に死去したにもかかわらず、腐臭がせず「生きたまま、すでにアルコール漬けであった」といわれました。

 次いで右手に造り酒屋の蔦屋があります、元禄二年(1689)創業の大澤酒造で、銘酒大吉野(おおよしの)の蔵元です、茂田井村下組村の名主庄屋を勤めました、皇女和宮降嫁の行列費用として小諸藩に金十両を献金し銚子を拝領しました。

当家は元治元年(1864)
水戸浪士(天狗党)中山道通行の際、それを追ってきた小諸藩本陣になりました。

小諸藩は
水戸天狗勢の戦闘能力の高さに恐れをなし、さりとて幕府の追討令には逆らえず、一定の距離を置いて追尾したといいます。

大澤酒造の外れに
茂田井村下組高札場跡があります、高札場は名主宅前に設置されました。
蔦屋 高札場跡 馬頭観音

上り坂を進むと左手に
馬頭観世音文字塔があります。

 ここを左に入ると左手に諏訪神社があります、社殿は文化十五年(1818)の再建で、見事な彫刻が施されています。

境内には茂田井村各地にあった
道祖神が集められています。

上り坂の宿並を進むと左手に
茂田井村上組高札場跡があります、茂田井村は戸数が多い為、上組下組に二人の名主が居ました、高札場は上組名主宅前にありました。

先の急な
上り坂石割坂です。
諏訪神社 道祖神群 高札場跡 石割坂

 左手に
石割坂解説(黄色丸囲)があります、勾配がきつく大きな石があり交通に不便だったので石を割り中山道を開通させたところから石割坂と呼ばれました。

 石割坂を上り切った所に茂田井の一里塚があります、左手に南塚の痕跡があります。

北塚には
エノキ、南塚にはケヤキが植えられ、明治初期には豊川稲荷が祀られていました、江戸日本橋より数えて四十六里目です。

スグ先の右手斜面に
木神碑が祀られています。

茂田井旧道は
県道に突き当たります、右折します、この分岐点には中山道茂田井間の宿入口標柱中北道標「←笠取峠4.4km 塩名田10.9km→」があります。
茂田井一里塚跡 木神碑 茂田井西口 道標

 京方面からは斜め左の下り坂に入ります。


 PM0:45 芦田宿着 長久保宿マデ5.8km

 緩やかな下り坂を進み芦田川芦田橋で渡ります、立科町茂田井から立科町芦田に入ります。

先の
中居交差点手前の左手に中山道芦田宿燈籠道標「これより中山道芦田宿」があります、ここが芦田宿の江戸(東)口です、芦田宿に到着です!

芦田宿は慶長二年(1597)と早くに設置され、笠取峠を控え賑わったが、「芦田の駅わびしき所也、宿あしし、ふ用心也」と評判は良くありませんでした。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、芦田宿宿内家数は八十軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠六軒、宿内人口は三百二十六人(男百七十七人 女百四十九人)で宿並は六町二十二間(約694m)と小宿でした。
芦田川 中山道芦田宿燈籠 芦田宿道標

 中居交差点を渡った左手に近世の祝言道祖神が祀られています。

宿並を進むと右手の古町口バス停の所に
道祖神が祀られています。

宿並が下り坂になると右手に
道祖神が祀られています。

立科町役場入口交差点の手前右手に
中北道標「←笠取峠3.3km 塩名田12.0km→」があります。

宿並が左に曲がり、上り坂になると左手に
蛇石様(へびいしさま)があります。
祝言道祖神 道祖神 道祖神 蛇石様

 大きな石に
が這った様な跡があります、この蛇石様に米をおひねりにお参りすると、乳呑児の夜泣きが治るといわれました。

 宿並を進み右手のふるさと交流館芦田宿を過ぎると、右手に土屋本陣跡があります。

寛政十二年(1800)に再建された
御殿は長野県宝です、宿札等の遺構を多数残しています、土屋家は武田信玄二十四将の上席土屋右衛門の末裔で芦田宿の開設に尽力し名主問屋を兼ねました、門の左手には高札場がありました。

皇女和宮土屋本陣にて昼食を摂りました。

本陣の向いに
山浦脇本陣跡があります。
土屋本陣跡 本陣客殿 山浦脇本陣跡 脇本陣標柱

 山浦家の始祖は芦田宿を開設した一人
岩間忠助です、問屋を兼ねました。

 芦田中央交差点を越すと左手の藤屋商店の所に山浦脇本陣跡標柱があります。

山浦脇本陣は建坪百十六坪で門構え玄関付でした、
問屋を兼ねました。

次いで右手に
酢屋茂(すやも)があります、明治二十六年(1893)の創業です、元はの老舗でしたが、今は味噌醤油の醸造元です。

酢屋茂の向いの空地に
庄屋山浦家解説があります、代々山浦権助庄屋を勤めました。
山浦脇本陣跡 脇本陣標柱 酢屋茂 庄屋山浦家跡

 次いで左手に金丸土屋旅館があります、文化元年(1804)創業の旅籠です、出梁造りの建物には木鼻彫刻が施されています、庵看板の江戸方には土屋、京方には津ちやと表記されています。

現役の
旅館です、 2回目の中山道ウォークの際に宿泊しました、風呂に入るとしか出ません、ご主人がボイラーを直すと、今度は熱湯しか出ませんでした!
良いんです!何ら問題ありません、この建物があるだけで十分なのです!!

芦田交差点を越すと左手に真言宗智山派高龍山
正明寺があります、天和八年(1622)の開山で本尊は楠一本彫りの阿弥陀如来立像です、境内には古墳紫雲の松があります。
金丸土屋旅館 正明寺 男女双体道祖神

 芦田宿の京(西)口が近くなると右手の集合住宅の駐車場前にに
男女双体道祖神が祀られています、宿口にあって悪霊の侵入を見張っています。

 宿並は石打場公園に突き当たります、車道は左に曲がります、ここに中山道芦田宿入口標柱があります、ここが芦田宿の京(西)口です。

石打場公園を横断します、
石打(内)とは境界を意味し、ここが芦田村横鳥村の境でした。

園内には
中北道標「←笠取峠2.3km 塩名田13.0km→」があります。

芦田宿入口交差点を横断して、向いの上り坂に入ります。

この分岐点の右手には大きな
常夜燈があります、左手には
中北道標「←塩名田13.1km 松並木を経て笠取峠2.2km→」があります。
石打場公園 芦田宿入口交差点 常夜燈

 緩やかな上り坂に入ると左手の道路案内標識と消防用ホース格納庫の所に馬頭観音像があります。

向いの民家庭内には
馬頭観世音文字塔があります。

スグ先で
車道は右に反れて行きますが、車両の進入禁止標識がある、直進道に入ります。

この分岐点手前の左手には
案内標識「愛宕神社100m→」があります。

峠口の左手に
男女双体道祖神があります。
馬頭観音 馬頭観音 笠取峠口 男女双体道祖神

 先に進むと笠取峠のマツ並木碑があります。

わずかに進むと左手の野に
馬頭観音があり、次いで八幡大神社碑があります。

先の左手に地元の詩人
三石勝五郎歌碑「かりがね渡る笠取の 峠の茶屋はなけれども 残るふもとの松並木 芦田の芦の先に」があります。

旧道は喧騒から離れた
ウォーキングフィールドになります。
笠取峠のマツ並木 馬頭観音 八幡大神社 三石歌碑 松並木

 右手の用水に架かる石造の太鼓橋を渡ると保科五無斎歌碑「我死なば 佐久の山部へ送るべし 焼いてなりとも生でなりとも」があります、五無斎は地元の教育者でしたが奇人で知られました。

松の間には
馬頭観音が二体祀られています。

先の右手に旅と酒をこよなく愛した漂泊の詩人
若山牧水歌碑があります、碑には二首刻まれています。

「老松の 風にまぎれず 啼く鷹の 声かなしけれ 風白き峰に」
保科五無斎歌碑 馬頭観音 馬頭観音 若山牧水歌碑

「岨道(そばみち)の きわまりぬれば 赤ら松 峰越の風に うちなびきつつ」


 先の左手に東屋がある松並木公園があります。

園内には和宮東下の
行列レリーフがあります、皇女和宮降嫁の行列風景が銅板に刻まれています。

広重の木曽海道六拾九次之内、
望月芦田長久保のタイルが埋め込まれたレリーフ碑があります。

そして笠取峠の
茶屋小松屋にあった名水のひとつ金明水が復元されています。

笠取峠の松並木(長野県天然記念物)は慶長七年(1602)幕府が小諸藩赤松の苗七百十七本を下付し植栽させたものです、以降小諸藩は管理維持に勤めました、平成二十年現在七十三本の老松を残しています。
和宮レリーフ 広重レリーフ 金明水

 松並木に戻り、右手の用水に架かる石造の太鼓橋を渡ると吉村煙嶺句碑「 (古道の名残も捨て難けれども) 繕う多 道や春めく 人通り」があります。

松並木は
国道142号線に突き当たります、左手には道祖神常夜燈があります。

右手には
小諸藩領界石「従是東小諸領」があります、文化三年(1806)小諸藩が建てた領界石を復元したものです。

国道142号線を横断し、向いの
松並木道に入ります。
吉村煙嶺句碑 道祖神&常夜燈 小諸藩領界石 国道横断

 姿の美しい松が並ぶ松並木道は先で国道142号線に合流します、京方面からは斜め右に入ります。

この分岐点には
国道標識「笠取峠松並木」、中北道標「←笠取峠1.3km 塩名田14.0km→」そして笠取峠のマツ並木碑があります。

ここからは
笠取峠の頂上に向かって国道142号線の上り坂を進みます、芦田宿から笠取峠頂上迄を三十町の上りといいました。

右手には
馬頭観音像があります。
笠取峠松並木西口 馬頭観音 笠取峠の一里塚 道祖神

 しばらく進むと左手に一軒の民家があります、この向いに
笠取峠の一里塚があります、北塚を残しています、塚木は赤松でした、江戸日本橋より数えて四十七里目です、塚の傍らには一里塚碑祝言道祖神そして枝垂れ桜があります。

 峠道をグングン上ると左手に笠取峠竣工記念碑があります、笠取峠の道路改修を記念したものです、これにより笠取峠は掘り下げられ切通しになりました。

立科町から長和町に入ると左手に
丸太標柱「旧中山道笠取峠」があります、笠取峠頂上(標高887m)に到着です。

笠取峠頂上小諸藩領幕府領の境でした、今は北佐久郡立科町小県郡長和町の境です。

左に回り込むと
源道道標「←芦田宿 笠取峠→」があります、ここから草道に入ると、笠取峠標柱の傍らに馬頭観世音文字塔があります。
笠取峠竣工記念碑 笠取峠 源道道標 馬頭観音

 天保二年(1831)の建立です、ここが往時の
峠道であった痕跡です。

 笠取峠標柱から戻る際に、右奥に踏み込むと金明水標柱があり、堀跡があります、並びに銀明水標柱があり、同じく堀跡があります。

ここが立場茶屋
小松屋壽恵蔵です、ここからは浅間山が一望で、三国一の力餅が名物でした。

金明水銀明水は名水で知られました。

現在も峠には
峠の茶屋があります、有難いですね、それでは金明水銀明水にちなんで冷えたビールで軽く峠祝いとしましょう、無事笠取峠到着乾杯!
金明水 銀明水 峠の茶屋 峠祝い

 広重は芦田宿として笠取峠を描いています。

遠景に
浅間山、峠頂上に立場茶屋小松屋、そして峠麓にもう一軒の立場茶屋を描いています。

この峠は
小県(ちいさがた)佐久郡の境でした。

峠の名は当初
狩取峠苅取峠と呼ばれましたが、嘉永五年(1852)の長窪宿明細帳では笠取峠になっています。

笠取の名は「峠は風が強く、旅人の笠を吹き飛ばした」「ここから見える浅間山の見事な眺望に、旅人が皆笠を取って仰ぎ見た」「余りの急坂の暑さから笠を取った」等を由来しています。

峠を越えると
長久保宿まで下り坂です。
木曽海道六拾九次之内 あし田 広重画

 サア、笠取峠の下りに取り掛かりましょう、国道142号線を下ります。

左手に
学者村碑があります、大学の教授の保養地として開発されました。

右手には
中北道標「←和田宿9.6km東餅屋(和田峠)20.4km 笠取峠0.2km→」、笠取峠碑中山道燈籠モニュメントがあります。

スグ先右手の擁壁に大きな
笠取峠立場図版木レリーフが埋め込まれています、笠取峠にあった立場茶屋小松屋の様子が描かれています。
学者村碑 中山道燈籠 立場図版木 原道旧道西口

 更に下ると右手の愛犬ショップ
フルブルーム先に原道旧道西口があります。

 国道142号線の右に旧国道が分岐しています、この中央に土道の原道旧道があります。

旧道入口には
丸太道標「中山道原道」、中北道標「←和田宿9.3km東餅屋(和田峠) 笠取峠0.5km→」があります。

土道を下ると
旧国道に突当ります、左折(白色矢印)します、この分岐点には中山道原道標識があります。

右(黄色矢印)に進むと
枝垂桜があります、推定樹齢百五十年で長和町指定保存樹木です。
原道旧道 旧国道分岐 枝垂桜 旧国道分岐

 スグ先が
Y字路になっています、右(白色矢印)に進みます、京方面からは左折です、この分岐点には中北道標「←笠取峠1.0km 和田宿8.8km東餅屋(和田峠)19.6km→」があります。

 先で左に回り込むと左手の斜面に馬頭観世音文字塔地蔵尊が旅人の安全を見守っています。

スグ先の右手ガードレールの切れ目から右(白色矢印)の土道の旧道に入ります、この分岐点には
中山道原道標識があります。

旧道に入ると
源道道標「←笠取峠→」があります。

足に優しい土道の旧道を進むと、先で
旧国道に突き当たります、Uターン状に右(白色矢印)に進みます。
馬頭尊&地蔵尊 旧道口 旧道風情 旧国道分岐

 この分岐点には
丸太道標「中山道笠取峠原道」があります、京方面からは左の土道に入ります。

 明るく開けた旧国道を進むと、国道142号線T字路に突き当たります、右折(白色矢印」)します、この分岐点には中北道標「←笠取峠1.7km 和田宿8.1km→」があります。

国道142号線の
歩道を進み、先の右手(白色矢印)旧国道に入ります、この分岐点には中北道標「←笠取峠1.9km 和田宿7.9km→」があります。

旧国道を進み
S字カーブを過ぎた先左手のガードレールの切れ目から左手の草道の傾斜を下ります、この分岐点には源道道標「←笠取峠→」があります。
国道分岐 旧国道分岐 源道旧道口 舗装路分岐

 草道を下り、突当り
舗装路T字路を右折します、この分岐点には源道道標「←笠取峠→」があります。

 舗装路を進みます、左には田畑の景が広がりますます。

先で
旧国道に合流(白色矢印)します、この分岐点には消防用ホース格納庫があります、京方面からはY字路を右に進みます。

左にカーブした先の右手のガードレールの切れ目(白色矢印)から
石段を下ります。

一旦擁壁に沿って進み、踏み跡を辿ると
松尾神社の境内に出ます、これも旧道痕跡です。
旧国道分岐 松尾神社旧道口 境内内旧道 松尾神社

 松尾神社の祭神は大山昨命(おおやまくいのかみ)で酒造守護の神として酒造家の尊信を集めています。

本殿は万延元年(1860)諏訪の宮大工三代目立川和四朗富重の手による総ケヤキ三社高床造りで、欄間には龍が巻き起こす波に亀が泳ぎ、鶴が舞い遊ぶ姿、貫の木鼻には象の鼻等の彫刻が施されています。

境内の
(さわら)は推定樹齢二百年で長和町保存樹木です。

境内を出て
五十鈴川松尾橋で渡ります、燈籠が並ぶ参道を進み鳥居をくぐり旧国道に合流します、京方面からは斜め左に入り鳥居をくぐります、この分岐点が笠取峠旧道(原道、源道)の西口です。
松尾橋 松尾神社鳥居 笠取峠旧道西口

 PM2:36 長久保宿着 落合橋マデ2.5km

 街道を進むと一直線の堅町に入ります、長久保宿に到着です!

長久保宿は当初依田川沿いの下河原に設置されましたが、寛永八年(1631)の大洪水で壊滅し、段丘上の現在地に移転しました。

宿の東に
笠取峠、西に難所和田峠を控え、大門道大内道北国街道の要衝で、大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、長久保宿宿内家数は百八十七軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠四十三軒、宿内人口は七百二十一人(男三百四十一人 女三百八十人)で、竪町に宿機能が集中し、横町には旅籠が軒を連ねていました。
堅町 明治初期の堅町

 宿並に入ると右手に中山道長久保宿吾一庵があります、江戸末期から明治初期の農家建築造りを残しています、見学できます。

先の左手に
一福処濱屋があります、出桁造り総二階建、明治初期に旅籠として建てられたが、交通量が減少した為、開業に至りませんでした。

現在は
長久保歴史資料館になり、旅人の休み処として開放されています。

先に進むと右手に、長久保宿
旧本陣石合家住宅(長和町指定文化財)があります、真田家の家老を勤めた石合家が代々本陣を勤め問屋名主を兼ねました、現存する建物は寛永年間(1624〜43)の建築です。
吾一庵 一福処濱屋 石合本陣跡

 中山道で現存する
本陣の中では最古のものです。

 本陣脇には見事な高札場が復元されています。、本陣を勤めた石合家には正徳元年(1711)の高札が保存されています。

高札場先を右に入り
五十鈴川を越すと真言宗智山派松尾山観音寺があります、本尊の木像地蔵菩薩立像は室町時代の作です。

宿並に戻ると左手に
古久屋(羽毛田家)があります、天保年間(1830〜44)の建築と推定される旧旅籠です。

並びが
脇本陣跡です。
高札場 観音寺 古久屋 脇本陣跡

 次いで右手に釜鳴屋があります、 竹内家は寛永年間(1624〜44)から酒造業を営み銘酒白菊の蔵元で、宿場役人を勤めました。

本卯建をあげた建物は享保十六年(1731)以前の建築で長野県内最古の町屋(長和町指定文化財)です。

次いで左手が
問屋場跡です、小林家は代々九右衛門を襲名し、宿創設時より問屋を勤めました、宿並沿いには長屋門人足溜りがあり母屋は奥にありました、屋根には旧主真田家の六文銭鬼瓦を掲げています。

宿並は
T字路の旧旅籠米屋傳十郎に突き当たります、宿並は左折(白色矢印)します、この分岐点を右折(黄色矢印)する道筋は上田道です。
釜鳴屋 問屋場跡 長久保内分岐

 突当りの右手には道標「中山道長久保宿左ぜんこうじ」があります、北国脇街道往還(善光寺街道)で、上田の城下町を経て善光寺に通じるところから上田道と呼ばれました。

傍らには
長久保新町道路元標、そして中北道標「↑笠取峠3.3km 和田宿6.5km→」があります、尚この先にはJR長野新幹線上田駅に通じるJR関東バス長久保バス停があります。

突当りを左折すると
横町に入ります、この分岐点には現役の浜田屋旅館があります。

横町を進むと右手に油屋の木札を掲げる旧家があります、
旧旅籠井桁屋跡です、木鼻には彫刻が施されています。
道標&道路元標 旅館浜田屋 旧旅籠井桁屋

 先の左手に旧旅籠辰野屋があります、出桁造りで総二階建ての母屋は江戸時代末期の建築です、竹重家宿場役人を勤めました。

旧旅籠辰野屋の手前を左に入ると曹洞宗五雲山
長安寺があります、元和四年(1618)の創建で、墓地には開基した小諸城主(五万五千石)松平因幡守憲良(のりなが)の墓があります。

憲良は
於大の方(徳川家康の生母)の位牌を安置しました。

境内には
経蔵があります。
旧旅籠辰野屋 長安寺 松平憲良墓 経蔵&銀杏

 経蔵は明治四年(1871)の大火を免れた江戸末期の建立です、

堂内には
経文を収める回転式書庫、朱漆塗り八角の輪堂等があり、大般若経六百巻が収められています、堂内の格天井(ごうてんじょう)には狩野派絵師武重桃堂(とうどう)他多くの絵画が飾られています。

経堂前の
銀杏(いちょう)は樹齢推定三百年で長和町指定保存樹木です。

 横町バス停先に枡形があります、この辺りが長久保宿の京(西)口です。

長門町消防団第三分団
横町防災備蓄庫手前を右折(白色矢印)します。

道なりに進み、突き当りの
T字路を左折(白色矢印)します、京方面からの右折ポイントは先に見える消火栓ホース格納庫です。

先で宿並からの
道筋に合流します、この分岐点には中北道標「←笠取峠3.7km 和田宿6.1km東餅屋(和田峠)16.9km→」(黄色丸囲)があります。
@枡形東口 A枡形分岐 B枡形西口 長久保横町分岐

 京方面からは斜め左に入ります。

街道は突当りの
長久保横町交差点を右折して国道142号線に合流します、この分岐点には大きな丸太標柱「是より長久保宿」(黄色丸囲)があります、京方面からは斜め左に入ります。

 長久保横町交差点から山側の土道に入ると正面に南無妙法蓮華経題目碑があります。

国道を進むとスグ先の左手に
長久保宿せりざわ桜公園への横道があります。

この分岐点には
中北道標「←東餅屋(和田峠)16.6km 笠取峠4.0↓」があります、横道方向を示しています、しかしながら中山道は直進の国道142号線です。

多分、
中北道標は国道にはこの先歩道がありませんから、迂回路として設置したのでしょう。

傍らに青色の
中山道道標があります。
題目碑 中北道標 中山道道標 馬頭観音

 この
道標には「←長久保宿へ1.000m 和田宿へ7.000m→」と表記され、中山道として国道142号線方向を示しています、今後この中山道道標和田峠まで正確に導いてくれます。

 国道を左に大きくカーブすると、左手の用水越しに文化十一年(1813)建立の馬頭観世音文字塔があります。

長久保交差点を越すと右手にお食事処中仙道があります、猪鹿岩魚(いわな)の料理が味わえます。

それでは、まずは
岩魚の骨酒です、このお店では二合と豪勢に出ます、香ばしい味わいで絶品です(時価)!

次に
岩魚の塩焼定食です、ご飯は長和で一番うまい米といわれる米っ娘倶楽部です!!定食は950円です!!!
食事処中仙道 岩魚の骨酒 岩魚の塩焼き定食

 国道を進むと右手に標識「信州長和町四泊(よどまり)落合標高680m」があります、ここから斜め右(白色矢印)の砂利道に入ります、四泊旧道です。

旧道に入ると左手に
青色中山道道標と旧道に背を向けた中山道一里塚跡解説板があります、四泊の一里塚跡です。

昭和三十五年(1960)の道路改修までは、ここに
榎の大木があり、里人から榎のある所と親しまれていました、江戸日本橋より数えて四十八里目です。

砂利道の旧道を左に弓状に進みます。
四泊旧道東口 一里塚跡 四泊旧道 四泊旧道西口

 右手の
青色中山道道標を過ぎると旧道は国道142号線に吸収されます、京方面からはオギノモータースの先を斜め左に入ります。

 国道142号線を進むと右手に明和十一年(1774)建立の道祖神があります。

国道を進むと
大和橋交差点Y字路に出ます、右は国道142号線で岡谷方面に向います、左(白色矢印)の国道152号線大門街道諏訪白樺湖方面に進みます。

大門街道武田信玄が信州攻略の為に開削した軍用道路で、棒のように真っ直ぐであったところから棒道(ぼうみち)とも呼ばれました。

先に進むと
大門川に架かる落合橋があります、中山道はここを右折(白色矢印)して、落合橋を渡ります。

サア、ここで
最終決断をしなければなりません。
道祖神 大和橋分岐 落合橋分岐

 PM3:43 落合橋着

お泊まりセット
 ここから和田宿までは5.1kmで、丁度良い距離ですが和田宿の本亭旅館は残念ながら廃業になりました、しかし電話を入れると最寄りのペンションを紹介して頂けます、更に送迎付きです。

しかし朝から何度か電話をしましたがとうとう出ません、諦めましょうこれは想定内です。

この場合は大門街道沿いの
民宿みやに白羽の矢を立てます、この場合は旧道沿いのデイリーヤマザキお泊りセットの調達が予定でした、ところが廃業になっています、想定外です。

ここで辺りを見回すと、先程通過した
大和橋を渡った先にコンビニが確認できます、「捨てる神があれば拾う神」です、決定!

民宿みや(0268-68-03020 素泊り4,000円)は大門街道(黄色矢印)を約10分程進んだ所にあります。

今宵はウイスキーをチビチビです!




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