私は腰痛持ちです、それもかなり若い時からです! この腰痛はある日突然、ギクッとやって来ます、 今回の原因は下手ゴルフでした、これを機に長かったゴルフ人生とは決別です、道具類は全て処分しました! 以前は2〜3日で治ったものが、段々長くなり、今では半年もかかってしまいます。 かつて一度も整形外科や整体に通院したことはありません、ストレッチ体操とシップ薬で対処してきました。 この間も日課の早朝ウォークは決して欠かしません、家族や友人からは「馬鹿じゃないの」といわれます、良いんです「歩みを止めたら」このまま固まってしまいます。 だいぶ調子が良くなってきました、中山道ウォークの再開です! 娘が長野の友人の所に乗用車で行くとの事で、便乗が決定しました、条件はガソリン代と食事代の負担です、お安い御用だ!! 夜中に出発し、御代田駅地下道にAM3:00到着です、ここで車中仮眠です、AM5:00目を覚ますと、薄く霧がかかり、小雨が降っています。 久し振りの街道ウォークで興奮します、雨くらい屁の河童(かっぱ)です、キャップを被り、ツバにナイキウィンドブレーカーのフードをクリップで止めてイザ出立です。 「気を付けてね」と娘が背中に声を掛けてくれます!お前もな!!!
これを知った三郎は喜び勇んで諏訪湖に行き、妻と巡り合い湖の底で仲睦まじく暮らしたとさ。
天文十三年(1544)時の城主尾台又六郎は武田信玄に攻撃され、奮戦空しく弟の二郎左衛門ほか全将兵が討ち死にして落城し、廃城となりました。
問屋跡手前の中山道小田井宿跡解説の所に御代田村道路元標があります。
(尾台家住宅)明和九年(1772)の大火以降の建築です、切妻造り、屋根は元板葺石置、三室続きの客室を備えた建物です、荷置場と問屋場は門の左右の建物を使用しました、問屋業務は上の問屋と半月交代で勤めました。
善光寺道は先で追分の分去れで分岐した北国街道に落合います。
境内の奥に信玄公の遺骨出土の地に大きな五輪塔があります、昭和六年(1931)発掘調査が行われ武田信玄の遺骨が発見されました、信玄公霊廟には遺骨が安置されています。 岩村田宿には本陣、脇本陣が無い為、龍雲寺が諸大名の休息所となりました。
藩財政の立て直しに尽力した並木七左衛門が藩主より褒美にこの鯉を拝領したのが始りです、佐久鯉は身が締り、泥臭さがないと評判でした。 佐久ホテルは武田信玄自筆といわれる人物画を所蔵しています。
銘酒寒竹の蔵元です、岩村田藩の御用達でした。 岩村田本町交差点左が下仁田街道追分です、上州下仁田に至ります。
居合わせた年配のご婦人からしゃぐちと読むと教えて頂きました、ここから塩の道があったといいます。
境内に甲子大黒天、不動尊、保食神社、妙見尊、庚申、月神尊(二十三夜講)等の石塔があります。
安政三年(1856)建立の三面六臂馬頭観音等があります。
左手の草地に百万遍供養塔があり、段上に多数の石仏石塔があります、奥には石祠が祀られています。
浅間山の溶岩の上に青面金剛像庚申塔と御嶽山碑があります、ここからは北に▲浅間山の裾野が広がり、南には▲八ケ岳連峰が眺望できます。
右手下に人家がある所から斜め右の下り坂に入ります、駒形坂旧道です、人家の前を通行し、砂利道を上がると再び県道に合流します。 京方面からはスベリ止め用砂ポストの手前から斜め左の砂利道の駒形坂旧道に入ります。
左手の総合食品店大井屋に本陣丸山善兵衛の木札が掲げられています、延宝年間(1673〜81)から本陣を勤め、建坪百七十坪、門構え玄関付きでした。
右手の川魚料理竹廼家(たけのや)では鮠(はや)の天丼が賞味出来ます!
ここを左に(黄色矢印)に入ると勝手神社のケヤキがあります、樹齢六百年で浅科村指定天然記念物です。
碑には父母と日露戦役に従軍した三兄弟の氏名が刻まれています。
高良社(こうらしゃ)は朝鮮からの渡来人武内宿禰(たけしうちのすくね)を祀っています。
この分岐点には旧中山道道標「←八幡宿0.8km 望月宿2.5km→」があります。
この分岐点には大きな祝言道祖神と馬頭観世音文字塔が二基あります、そして望月宿燈籠モニュメントや中山道標柱があります、ここからの中山道は近世のものです、ここも無視します、旧道はまだ先です。
これにて金山坂旧道トレースは終了です、この先は瓜生坂になります。
奉供養念佛百万遍念仏塔は元文元年(1736)、石仏は享保二年(1717)の建立です。
これらの中山道長坂石仏群は長坂にあった修験道の大応院のものです、明治五年(1872)廃寺となりました。
長坂橋を渡ると上り坂になります、坂の右手には寛政四年(1792)建立の馬頭観音像が祀られています。 突当りを直角に右(白色矢印)に曲がります、ここが望月宿の東の枡形です、左手に島田屋旅館があります。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によれば望月宿の宿内家数は八十二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠九軒、宿内人口は三百六十人(男百八十九人 女百七十一人)で、宿並は六町余(約655m余)でした。
縄文時代から宿場時代の歴史物が多数展示されています、敷地内には釣瓶沢(つるべさわ)の水割り場石と木樋(きどい)が展示されています、蓼科山の水源から水を引いた用水の施設です、木樋はカラマツをくり貫いたものです。
現在の望月宿では宿場興しの一環として、各食堂は新名物として駒月みそかつ丼を展開しています、雁喰味噌(がんくいみそ)を使った独特の味噌ダレが特徴です、各店は思い思いの工夫を凝らしています。 レストランラ・フェスタの駒月みそかつ丼を食してみました、雁喰味噌は黒大豆の一種で地元の雁喰豆を使用した甘味噌系です、こくがあって美味いです、名古屋名物の味噌かつ丼とは似て非なるものです、お奨めします、ご賞味下さい!
ここが御桐谷旧道東口です、この分岐点には案内標識「←中山道」があります、京方面からは突当りの県道を右に進みます。
右手の伯愛整骨院の向いに近世の野仏があります。
もけふ飲み つよしと思へり」 ●「しらたまの 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり」 ●「ひとの世に たのしみ多し 然れども 酒なしにして なにのたのしみ」 牧水さんは盛夏に死去したにもかかわらず、腐臭がせず「生きたまま、すでにアルコール漬けであった」といわれました。
上り坂を進むと左手に馬頭観世音文字塔があります。
左手に石割坂解説(黄色丸囲)があります、勾配がきつく大きな石があり交通に不便だったので石を割り中山道を開通させたところから石割坂と呼ばれました。
京方面からは斜め左の下り坂に入ります。
大きな石に蛇が這った様な跡があります、この蛇石様に米をおひねりにお参りすると、乳呑児の夜泣きが治るといわれました。
山浦家の始祖は芦田宿を開設した一人岩間忠助です、問屋を兼ねました。
芦田宿の京(西)口が近くなると右手の集合住宅の駐車場前にに男女双体道祖神が祀られています、宿口にあって悪霊の侵入を見張っています。
「岨道(そばみち)の きわまりぬれば 赤ら松 峰越の風に うちなびきつつ」
しばらく進むと左手に一軒の民家があります、この向いに笠取峠の一里塚があります、北塚を残しています、塚木は赤松でした、江戸日本橋より数えて四十七里目です、塚の傍らには一里塚碑、祝言道祖神そして枝垂れ桜があります。
天保二年(1831)の建立です、ここが往時の峠道であった痕跡です。
更に下ると右手の愛犬ショップフルブルーム先に原道旧道西口があります。
スグ先がY字路になっています、右(白色矢印)に進みます、京方面からは左折です、この分岐点には中北道標「←笠取峠1.0km 和田宿8.8km東餅屋(和田峠)19.6km→」があります。
この分岐点には丸太道標「中山道笠取峠原道」があります、京方面からは左の土道に入ります。
草道を下り、突当り舗装路のT字路を右折します、この分岐点には源道道標「←笠取峠→」があります。
中山道で現存する本陣の中では最古のものです。
経蔵は明治四年(1871)の大火を免れた江戸末期の建立です、 堂内には経文を収める回転式書庫、朱漆塗り八角の輪堂等があり、大般若経六百巻が収められています、堂内の格天井(ごうてんじょう)には狩野派絵師武重桃堂(とうどう)他多くの絵画が飾られています。 経堂前の銀杏(いちょう)は樹齢推定三百年で長和町指定保存樹木です。
京方面からは斜め左に入ります。 街道は突当りの長久保横町交差点を右折して国道142号線に合流します、この分岐点には大きな丸太標柱「是より長久保宿」(黄色丸囲)があります、京方面からは斜め左に入ります。
この道標には「←長久保宿へ1.000m 和田宿へ7.000m→」と表記され、中山道として国道142号線方向を示しています、今後この中山道道標は和田峠まで正確に導いてくれます。
右手の青色中山道道標を過ぎると旧道は国道142号線に吸収されます、京方面からはオギノモータースの先を斜め左に入ります。
しかし朝から何度か電話をしましたがとうとう出ません、諦めましょうこれは想定内です。 この場合は大門街道沿いの民宿みやに白羽の矢を立てます、この場合は旧道沿いのデイリーヤマザキでお泊りセットの調達が予定でした、ところが廃業になっています、想定外です。 ここで辺りを見回すと、先程通過した大和橋を渡った先にコンビニが確認できます、「捨てる神があれば拾う神」です、決定! 民宿みや(0268-68-03020 素泊り4,000円)は大門街道(黄色矢印)を約10分程進んだ所にあります。 今宵はウイスキーをチビチビです!
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